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2020年07月

蔭山宏『カール・シュミット』(中公新書) 7点

 帯に「稀代の思想家か/ナチのイデオローグか」とあるように未だに毀誉褒貶の激しいカール・シュミットの思想に迫った本です。中公新書では1月前に同じドイツの思想家であるマックス・ヴェーバーについての本(野口雅弘『マックス・ヴェーバー』)が出ていますが、そのスタイルは対称的で、『マックス・ヴェーバー』が彼の生きた時代や後世への影響といった「文脈」を重点的に描き、同時にヴェーバーの評伝としても読めるものだったのに対して、本書は評伝的な要素は薄く、また、いきなりテクストに入っていくようなスタイルになってます。
 そのため、予備知識のない人には少しわかりにくい面もあるかもしれませんが、シュミットの思想が批判的に検討されており、過去にシュミットの本を読んだことのある人にとっては、その疑問に答えるようになっていると思います。

 目次は以下の通り。
序章 シュミットの生涯
第1章 政治学の基礎概念としての「例外」と「政治的なもの」―『政治神学』『政治的なものの概念』
第2章 近代的市民の批判―『現代議会主義の精神史的地位』『政治的ロマン主義』
第3章 ワイマール共和国の崩壊とナチス体制の成立―『独裁』『憲法論』『合法性と正統性』
第4章 ナチス時代の栄光と失墜―『国家・運動・民族』から『陸と海と』へ
第5章 第二次大戦後における隠遁と復権
終章 シュミットの思想と学問

 序章ではシュミットの生涯を簡単に紹介しています。カトリックの下層中産階級の生まれだという点を強調し、シュミットのドイツの思想界での立ち位置やナチとの関係、前期と後期の思想の違いと行ったものを簡単にたどっていますが、あくまでもテクストを読むための簡単な補助線といった感じです。例えば、この章を読んでもシュミットがいつ誰と結婚したのかといったことはわかりません。

 そして、第1章ではいきなりシュミットの思想の核心の1つである「例外状況」についての話に移っていきます。
 シュミットは「常態はなにひとつ証明せず、例外がすべてを証明する」(18p)と述べています。これはキルケゴールの例外から普遍を考えるという方法を受け継ぐものですが、「「例外」それ自体の意義を強調しているところにシュミットの特徴」(21p)があります。
 シュミットによれば、この例外状況に関して決断を下す者が主権者です。ここでシュミットが想定しているのは法秩序が後退しているものの国家は存在しているような状況で、「法規の効力」よりも「国家の存立」が優越すると考えるシュミットは、秩序の存立という点において、法や規範よりも決定という契機を重視するのです。

 この「国家」は「政治的なもの」という概念を前提としているといいます。シュミットによれば「政治的なもの」が現れるのは、制度的なレベルではなく具体的な現実レベルにおいてであるといいます。政治というと普通は制度などと結びつきますが、シュミットが注目するのは制度化される以前のものです。
 シュミットは、「政治的なもの」は「道徳的なもの」「美的なもの」「経済的なもの」と違って具体的領域を持たないといいます。シュミットは「政治的なもの」は「人間の連合または分離の強度」(33p)を表すとしており、ここからいわゆる「友・敵理論」が出ています。例えば、道徳的なものには善/悪、美的なものには美/醜という固有の区別がありますが、「政治手なもの」のそれは友/敵です。
 人間社会では経済や道徳などの領域で具体的な対立が起きていますが、それがエスカレートして人間集団を友/敵に分けてしまうほどになると、そこに「政治的対立」が出現します。例えば、経済的な対立が危険なまでに高まると、そこに対立の新しい次元である「政治的対立」が出現するのです。

 ただし、経済も秩序が成り立っていなければうまくはたらかないわけで、その意味で「政治的なもの」はその他の分野の存立を保障する根本的なものです。
 「政治的なもの」が問題となる例外状況では、「政治的対立」を認定し、友/敵を判断することが必要になりますが、それは「道徳にも経済にも宗教にも支えられていない、いわば〈実存的〉な決定」(53p)となります。この「決定」「決断」にこそ政治の本質があります。レオ・シュトラウスはシュミットが安楽な幸福主義を否定し、それに真剣な「政治の世界」を対置したと主張しましたが(55p)、このあたりには同時代を生き、同じくナチへの関与を批判されたハイデガーに通じるものがあると感じました。

 このように第1章はいきなりシュミットの思想の核心にせまるような内容でしたが、第2章では当時のワイマール共和国の政治情勢とシュミットの思想を重ね合わせる形で叙述がなされているので、内容が頭に入りやすいかもしれません。
 ワイマール共和国は「共和主義者」のいない共和国と言われますが、著者は「自由主義者のいない自由民主主義体制」(61p)という言葉を使っています。ワイマール期の政党で20年代に勢力が強かったのは社会民主党とカトリックの中央党でいずれも自由主義政党とは言えません。そして、30年代になると右のナチ党と左の共産党が伸びてくるわけで、常に自由主義は批判にさらされていました。
 そして、その自由主義批判に影響を与えていたのがシュミットの『現代議会の精神史的地位』です。

 現代の議会政治を自由主義的要素と民主主義的要素が合わさったものとして捉える見方は、比較的オーソドックスなもので、シュミットもこうした見方をとっています。ただし、シュミットは自由主義は非政治的主張であるのに対し、民主主義は政治的主張であると捉え、その立脚点に違いを強調します。
 議会は基本的に自由主義に基づいており、そこでは討論によって真理が発見されることが期待されています。ところが、これはシュミットの考える「政治的なもの」にはなじまないわけです。
 一方、民主主義にとっては支配者は非支配者の同一性こそが重要であり、それさえ満たしていればファシズムやマルクス主義とも結びつくことができるというのです。
 
 こうした世界にあって政治的に無力であるのがロマン主義です。個人主義に立脚するロマン主義は政治的共同体への積極的志向性に欠け、固有の政治的主張を持たないロマン主義は保守主義にも社会主義にも結びつきます、そして、「根拠」を持たないロマン主義者は機会原因論的に行動せざるを得ません。また、自己の可能性にしがみつくあり方は決断を先送りさせます。 
 ただし、著者がレーヴィットを引いて指摘しているように、シュミットの例外状況における「決断」も「規範へのあらゆる拘束」を否定するものであり、機会原因論的であるとも言えます(97−98p)。

 こうした議会への失望と決断の重視から出てくるのが第3章で出てくる独裁の肯定です。シュミットは、「独裁は議会主義とは対立するものの、民主主義とは対立しない」(108p)と考え、議会という媒介を通さない独裁のほうが、より民主主義を実現することもありうると考えます。
 シュミットは独裁を「主権独裁」と「委任独裁」に分けて考えます。主権独裁は憲法制定権力に根拠付けられており、この権力はあらゆる法を超越した権力を持ちます。一方、委任独裁は憲法によって指導者に付与されているもので、シュミットはワイマール憲法の第48条により大統領にこれが与えられていると考えます。
 ワイマール憲法下のドイツでは、なかなか安定した多数派が形成されず国政選挙のたびに連立が組み替えられました。そして、政治において大統領の決定や調停・斡旋が大きな役割を果たすことになったのです。

 1925年、第一次世界大戦の英雄だったヒンデンブルクが大統領になります。当時の選挙では社会民主党が一貫して第一党でしたが、ヒンデンブルクに対抗できる候補を擁立することができませんでした。
 そこで大統領権限に基づいた内閣が続いていくことになりますが、その中で首相も勤めたシュライヒャーとシュミットは関係が深く、彼の憲法助言者となります。シュミットは大統領が一時的に憲法を無視することで、政治的な危機を乗り越えるべきだと考えていました。シュミットはこの時点ではナチ党を危険視しており、ナチ政権成立を阻止するために大統領の独裁を望んだのです。
 しかし、1933年にナチ政権が成立すると、シュミットはあっさりとナチ政権よりの著述を発表するようになります。本書によるとシュミットは現実の政治に関わるようになってから、保守革命派に接近しており、「強い全体国家」を志向するようになっていきます。
 
 そして第4章ではナチ時代のシュミットが描かれています。シュミットはナチ政権が成立すると日記に「興奮し、喜び、満足する」(153p)と記し、33年の5月にはナチ党に入党しました。
 33年3月にヒトラーは授権法を成立させますが、シュミットはこれを直前の国政選挙で示された「民族の意思」を実行したものであり(選挙でナチ党は第一党になったが過半数には至らず)、「合法的」に可決されたと評価します(158p)。ナチ党によって国家と運動と民族が一体化されたとして、国民的分断が克服されたというのです。
 シュミットは「決断」を評価していきましたが、「ヒトラー政権の成立によって、決定的な政治的決断がなされた以上、もはや決断は不要となり、ナチス体制下で生まれつつある具体的な秩序に即して思考することが重要になった」(161−162p)というのです。

 しかし、34年のレーム事件でシュライヒャーが粛清されると、シュミットの立場も微妙になってきます。シュミットは「ヒトラーは「裁判官」として突撃隊の裏切りを「処罰」したまでのことだ」とこの事件を評しますが、ケルロイターのような、よりナチ寄りの法学者から、シュミットの前歴や主張が批判されるようになり、36年以降、シュミットの活動は大学の中へと縮小していきます。
 
 こうした中でシュミットはホッブズ研究などのよりアカデミックな論考を発表するようになり、後期シュミットへと移行していきます。
 後期シュミットでは「陸と海」「ヨーロッパ公法」「広域」といった新しい論点が出てきます。
 「広域」とは技術の進歩によって現れた国境を超えた形成されるようになったもので、この「広域」における秩序がシュミットの関心の1つになります。
 1942年に刊行された『陸と海』では、ヨーロッパ世界の拡大と、そこで生まれた「ヨーロッパ公法」について論じられています。この公法では、「文明化された」キリスト教諸民族が、「文明化されていない」民族を従えて植民地化することが正統化されましたが、その植民地獲得競争から阻害されていたのがドイツでした。
 一方で、「海」に注目し、勢力を広げていったのがイギリスです。シュミットはこうした歴史の中での「陸と海」のあり方について分析しています。そして、シュミットはイギリスが体現する「自然成長性」を重視するようになりますが、同時にドイツがイギリスに追いつき、新しい秩序の担い手になることを期待しています。

 戦後、シュミットは捕虜収容所に収監されます。結局不起訴になって釈放されましたが、故郷のプレッテンベルクで隠遁生活を送ることになりました。
 1950年シュミットは『獄中記』を公刊していますが、弁明色の強いもので、戦前には批判してたはずの個人主義に拠り所を求めてナチ時代の事故を正当化しています(いわゆる面従腹背というやつ)。
 さらに同じく1950年に刊行されたのが『大地のノモス』です。ここでは法の始源に暴力を見るという視点がとられており、陸地の取得から始まる国家と国際社会の成立を論じ、ヨーロッパ中心の国際秩序とヨーロッパ公法が、新しいユニバーサルな国際法に転換していく様子を描き出します。これは一見すると進歩のように思えますが、シュミットはそこに「「ラウム(領域)や土地のない普遍性という無」への転落」(218p)を見ます。
 シュミットによれば「ヨーロッパ公法は国家間の戦争を「枠づけ」、一定の約束事のもとで行われる戦争へと「保護・限定」するのに成功した」(222p)のですが、ヨーロッパというラウムが外れた世界では「正義」の名のもとに絶滅戦争が進行するというのです。
 さらにシュミットは1963年に『パルティザンの理論』を刊行しています。

 終章では著者によるシュミットの思想の要約が書かれていますが、ここで指摘されているシュミットが具体性を持たない普遍主義を批判しつつ、例外状況において何にも制約されない「決断」を称揚するのは矛盾があるのではないかという指摘はなるほどと思いました。
 
 このまとめでは随分と省略しましたが、本書でもシュミットの思想が幅広く検討されています。あまり文脈に触れないで論じているので、特に第1章などはついていくのが大変だと感じる人もいるかもしれませんが、読みすすめるうちにシュミットの思想がその文脈とともに立ち上がってくるはずです。
 また、個人的な印象ではありますが、シュミットの理論の鋭さを認めながらも、同時にその矛盾点をつくような内容になっており、冷静な距離感を持って論じられていると思います。シュミットに関しては20代の頃に何冊か読んで、何か違和感を感じていたのですが、その違和感がはっきりしたという点も良かったですね。


澤田晃宏『ルポ 技能実習生』(ちくま新書) 8点

 過去に技能実習生をとり上げた優れたルポというと、安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)が思い出されますが、同書が出たのが2010年。あれから10年経っているわけです。
 技能実習生制度に関しては多少改善がはかられているものの、失踪者が絶えないなど、相変わらずさまざまな問題が報じられています。それにもかかわらず技能実習生の数は増え続けています。その原因の最大のものは日本における労働力不足というプル要因ですが、本書はプッシュ要因にも注目しています。この10年で実習生の送り出し国のトップは中国からベトナムに変わりましたが、著者はそのベトナムで取材することによって日本を目指す若者が絶えない要因を明らかにしています。
 そして同時に、制度のはらむ問題や、実際にトラブルに見舞われた実習生、「ひどい」としか言いようのない管理団体の実態を明らかにしています。さらに鳴り物出入りで始まったにもかかわらず、特定技能が伸びない理由についても探っています。
 技能実習制度のみならず、今後の外国人労働者の問題を考える上でも非常に有益な内容になっている言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序章 ベトナム人技能実習生になりたい
第1章 なぜ、借金をしてまで日本を目指すのか
第2章 なぜ、派遣費用に一〇〇万円もかかるのか
第3章 なぜ、失踪せざるを得ない状況が生まれるのか
第4章 なぜ、特定技能外国人の受け入れが進まないのか
第5章 ルポ韓国・雇用許可制を歩く

 序章と第1章では、「成功した」ベトナム人実習生が紹介されています。
 ベトナムの送り出し機関の訓練センターでは軍隊式の訓練が行われています(これは安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』の中国のものと同じ))。実習生は日本に行く前に半年間ここで集中的に訓練を受けるわけですが、みな真面目に取り組んでいます。
 ネットなどの発達で、日本でトラブルに巻き込まれる実習生もいるという情報は広がっているのですが、それでもベトナム人の若者は多額の借金を背負い、厳しい訓練を受けて日本を目指します。
 
 日本を目指す最大の理由はやはりお金です。ベトナムの農村では月収1〜2万円ほどが多いですが、技能実習ではうまくいけば3年で300万円ほどが貯金できます。成功した実習生はそのお金で家族に仕送りをし、家を建てます。著者は日本で言えば「3年で1500万〜2500万の貯金のチャンス!」という求人情報があるようなものだといいます(50p)。
 技能実習に関する情報はかなり出回っているようで、実習生に人気なのは電子部品組み立てや食品加工など屋内の工場での仕事です。これらの職種は安定した収入が見込める上に、残業もあります。一方、建設業や農業は不人気です建設業は雨だと稼げない場合がありますし、農家は労務管理がいい加減で残業がつかないことが多いからです。

 では、本当に300万も貯められるのでしょうか? 技能実習生の賃金は、例えば、東京の最低賃金で計算すると手取りは14万5千円程度、そこから家賃3万が差し引かれて11万5千、実習生の月に使う生活費はだいたい2〜3万円で、月に8万5千円貯金できます。入国後最初の1ヶ月は講習なので、働けるのは35ヶ月で順調に貯金できれば297万5千円、さらに年金の脱退一時金が30万円ほど入ってきて300万円を超えるわけです(63p)。
 「順調にいけば」という但し書きはつきますが、300万円の貯金というのは非現実的な数字ではないのです。

 実習生の中心は高卒または中卒ですが、大卒で実習生になるケースもあります。本書でとり上げられているダットさんはベトナムの最難関校の1つである国立ハノイ工科大学の出身で、ヤマハ発動機のベトナム法人から内定を得ていましたが、ベトナム最高クラスの初任給でも月4万程度であり、それならばということで実習生になりました。
 日本での給与は住居費なども差し引かれて月9万ほど、これでもベトナム最高クラスの初任給の倍以上になるわけです。そして帰国後は、ベトナムの日系企業の生産技術課長となり、月13万ほどをもらっています。技能実習を通じてステップアップするケースも有るのです。

 技能実習の名目は技術移転であり、途上国の労働者が日本で技術を身に着けて帰国することが期待されています。しかし、技能実習で要求されている前職要件(実習先の職業と同じ職業を経験している)はでっち上げられていることがほとんどで、帰国後も活かされるのは技術よりは日本語です。
 実習生は、帰国後、日本語を生かして日系企業で働いたり、送り出し機関の日本語教師などになっています。やはりベトナムの一般企業の賃金水準は低く、日本で高い賃金をもらったあとではなかなか勤めにくいといいます。そこで、給与のいい送り出し機関で働く者が多いのです。

 しかし、送り出し機関といえども、肝心の日本からの求人がなければどうしようもありません。技能実習には「企業単独型」と「団体監理型」がありますが、前者は大手企業が行うもので、技能実習生に頼る中小零細企業は後者のスタイルで実習生を受け入れています。
 「団体監理型」では企業は監理団体に求人を出し、監理団体が契約している送り出し機関に連絡を取り、そこから企業と実習生が契約する流れになります。ですから、送り出し機関としては日本の監理団体とのつながりが重要になるわけです。
 そこで、ベトナムでは監理団体に対するさまざまな便宜が図られ、接待も行われています。本書ではベトナムでの女性がサービスする店のでの接待の様子が紹介されており、また、実習生の通訳のサポートや日本語の教育費、そして失踪防止のコミットメントなど、本来は監理団体が行うべき仕事を送り出し機関が担っている実態が明らかにされています(99−101p)。
 送り出し機関からのキックバックも常態化していて、元実習生の送り出し機関の幹部は、著者の取材に「日本人は真面目で誠実な人が多いと思っていて、実際そうだった。だけど、送り出し機関に関わるようになって、こんなクソみたいな日本人がいるのかとびっくりしました」(108p)との言葉を残しています。
 
 では、この接待費やキックバックの費用は最終的に誰が払うことになるのかというと、それは実習生本人になります。結果、100万円近い費用を払って日本に来る実習生も少なくありません。これはベトナム人の一般的な労働者の2年分にあたる額です。
 接待攻勢やキックバックの裏にはベトナムの送り出し機関同士の競争もあります。もぐりの機関もあり、求人があるように見せかけるためにベトナム在住に日本人にお金を払ってダミー面接を行っているような機関もあるとのことです。
 著者は送り出し機関の組織についても取材していますが、送り出し機関はだいたい総務部、教育部、営業部と分かれており、元実習生が多く働くのが実習生が出国するまで日本語などの教育を行う教育部です。一方、さらに上位の日本語能力を持つものが営業部に配置されます。ある社では営業部をもはやベトナムにはおいておらず全員が日本に駐在しています。彼らは日本の監理団体に籍を置きながら監理団体の営業に同行したり、新規顧客の開拓をしています。
 さらに営業部には対外部という部署があり、ここが接待などを担当しています。この接待やキックバックの仕組みは、中国から持ち込まれたもので、昔は中国で行われていたこうした行為が今はベトナムに姿を変えて行われているのです。

 このように監理団体への接待やキックバックなどが日本への渡航費用を高騰させていますが、その結果生まれるのが実習生の失踪です。失踪率自体は横ばいなのですが、実習生の数が増えているため失踪者も年々増加しています。
 法務省の行った調査によると、失踪の理由のトップ(複数回答)は「低賃金」が約67%、「指導が厳しい」はたぶん12.5%くらい(母数が書いていないので書かれている人数から逆算した)、「暴力を受けた」がたぶん5%くらいです。失踪前の月給は「10万円以下」が過半数を超え、送り出し機関に払った金額は「100万円以上150万円未満」が1100人で最多です(38%)。また、労働時間に関しては最も多い労働時間は週40時間以下(40%)で、労働時間が短いほど失踪者が多くなっています(147−148p)。

 ここから失踪の問題の最大のポイントはお金だということがわかります。彼らは日本に来て、自分の給料から借金が一年以内に返済できなさそうだということを知って失踪するのです。
 彼らは親戚からお金を借りたり、あるいは無尽、頼母子のような地域の金融システムからお金を借りて日本にやってきています。親戚が銀行からお金を借りて融通しているケースも多く、借金を返せなければ、家族や親戚が路頭に迷う可能性があるのです。

 もちろん、金銭面以外の待遇がひどい職場もあります。2019年に作業着を着た男性が犬のようにリードを付けられて歩かされている動画が出回り、ベトナム人実習生がそのような仕打ちを受けているのかと思いきや、実は歩かされているのは日本人だったという事件がありました。動画を撮影していたのはベトナム人の実習生で、そんな日本人相手の労務管理(というか労務管理以前の問題)もできていないような企業でも実習生を受け入れることができるのです。
 本来ならば、監理団体や、あるいは2017年の法改正で新設された外国人技能実習機構が受け入れ企業を監督。指導すべきなのですが、外国人技能実習機構は相談をたらい回しするだけど、実習生にとって頼りになる存在ではないそうです。結果的にNPOや日新窟という寺院がベトナム人実習生にとって文字通りの駆け込み寺となっています。

 実習生は基本的に転職ができないので、実習先で稼げる見込みがない、環境が劣悪となると失踪するしかありません。本書ではFacebookなどで偽造の在留カードをつくって働くベトナム人の様子も取材されています。仕事は太陽光パネルの設置で日給1万、月に30万を稼ぎ27万貯金したそうです。
 ちなみに失踪が圧倒的に少ないのはフィリピン人なのですが(ベトナム人の失踪率が3.9%に対して、フィリピン人は0.4%(191p))、これはフィリピンが海外雇用庁を設置していて、公的な機関が勤務先の会社の審査や雇用契約の確認などを行っているからです。

 このように人手不足を背景に増加が続く技能実習生ですが、さらなる外国人労働力の活用を目指して始まった特定技能制度は、想定ほど活用が進んでいません。2019年10月29日現在で732人と(210p)と、初年度で最大4万7550人を受け入れるとしていたにもかかわらず、実績はその2%ほどにとどまっているのです。
 もともと自民党関係者が「参院制を睨み、人手不足に悩む業界に恩を売るため、日程ありきで決めた法案。新制度をつくったからと言って、諸外国が「はい分かりました」とすぐに受け入れてくれるわけではない」(213p)と述べるように、制度の導入があまりにも拙速でした。受入国として9カ国を想定しながら、受入国の法令と手続きが決まっているのは2019年11月時点で、カンボジア、インドネシア、ネパールの3カ国のみで、現在、技能実習生の最大の送り出し国であるベトナムはまだ対応していません。

 なぜベトナムの腰が重いかというと、儲からないからです。特定技能は送り出し機関を通さない形での受け入れが目指されていますが、そうなるとベトナムの送り出し機関は儲かりませんし、技能実習に必要な政府の推薦状もいらなくなるために、政府が便宜をはかる機会も減るのです。
 2020年3月になってベトナム政府は特定技能に関するガイドラインを発表しましたが、送り出し機関の幹部は、技能試験と日本語レベルN4が求められる特定技能は日本に渡るまでに時間がかかり、もっと簡単な技能実習の道があるのにわざわざ特定技能を選ぶ若者は少ないのではないかと述べています。

 では、留学生や技能実習生など、すでに日本に来ている外国人が特定技能に移行するルートはどうかというと、確かに彼らは日本語能力でアドバンテージがあるのですが、ネックとなるのが留学生の場合は住民税や国民年金の未納や「技術・人文・国際業務」という別の在留資格との比較で魅力が少ない点、技能実習生の場合は技能実習に必要な前職要件を偽造で済ませているケースが多く、履歴書の提出時に嘘がバレるケースが多いようです。また、監理団体が収入が減らないように特定技能への移行を妨害していることもあるといいます。
 また、特定技能は転職が可能であり、地方の企業にとっては職務が限定されていても3年間は働いていくれる技能実習のほうがありがたいという面もあるのです。

 最後の章では同じように外国人の受け入れがさかんになっている韓国の様子が取材されています。韓国は93年に日本の技能実習制度をモデルにした「産業研修生制度」をスタートさせたものの、やはり人権侵害や不法残留が問題になり、2004年に新しく「雇用許可制」が導入されました。この制度では国が外国人労働者を一括して管理することにより、ブローカーなどの中間搾取をなくすことに成功しています。
 その結果、日本の技能実習よりも安い費用でやって来ることができ、さらに最長4年10ヶ月を2回、通算で9年8ヶ月働くことができます。転職も可能で、まさに外国人労働者にとって日本よりも圧倒的に良い制度に思えます。

 ただし、やはり雇用主によって待遇は大きく左右されるようです。李明博政権のときに雇用主に有利な制度改正がなされたこともあって、賃金未払いなどもトラブルも発生しています。日本と同じように外国人を受け入れる企業によって当たり外れがあるというのが現状のようです。

 このように、本書はルポにしては制度面へのアプローチが充実しているのが特徴だと思います。ルポというと「ひどい境遇に陥っている実習生の声を集める」というものが、まず思い浮かびます。確かにそういった取材は必要ですし価値のあるものですが、新聞やテレビでもそういった話はできるでしょう。わざわざ書籍という形にする中で求められるものは、背景に関するさらに深い取材だと思うのですが、本書はそれが十分にできています。
 最初にも述べましたが、安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)から10年経って、再びこの問題を考える上での出発点となる本が出てきた感じですね。


倉沢愛子『インドネシア大虐殺』(中公新書) 8点

 インドネシアで1965年に起きたクーデーター未遂事件である九・三〇事件と、1968年に起きたスカルノからスハルトへの大統領の交代劇三・一一政変、そしてその間に吹き荒れた虐殺の嵐。少なくとも50万人、一説によると200万人以上が命を落としたと言われています。
 しかし、その割にこの出来事の知名度は低いです。200万以上という数字が妥当であれば、カンボジアでのポル・ポトによる虐殺に匹敵する、あるいはそれを上回るスケールになりますが、多くの人はそれだけの虐殺があったことを知らないのではないかと思います。
 
 本書は、謎の多い九・三〇事件や、そこからスカルノが失脚しスハルトが権力を掌握するに至る過程を明らかにするとともに、虐殺の実態と「なぜ国際的な注目を浴びなかったのか?」ということを分析しています。それと同時に虐殺に巻き込まれた人、運命を変えられた人の姿を追うことで、この虐殺がもたらした「傷」に改めて光をあてようとしています。

 目次は以下の通り。
序章 事件前夜のインドネシア
第1章 九・三〇事件―謎に包まれたクーデター
第2章 大虐殺―共産主義者の一掃
第3章 三・一一政変―「新体制」の確立
第4章 敗者たちのその後―排除と離散の果てに
終章 スハルト体制の崩壊と和解への道

 第2次世界大戦後に独立を果たしたインドネシアは、冷戦の中、スカルノのもとで植民地主義や帝国主義に反対する独自の路線をとっていました。
 スカルノは、イギリスがマラヤ連邦と英領ボルネオを併合してマレーシア連邦をつくる構えをみせるとこれに反発し、共産主義諸国に接近します。60年代半ばにはソ連がインドネシアの最大の援助国となっており、中国からも経済援助や武器援助を受けていました。1961年には韓国と北朝鮮がインドネシアとの国交樹立を競う中で、北朝鮮との間に国交を樹立しています。
 昨年の大河ドラマ「いだてん」を見ていた人は、この時期のインドネシアがスポーツ大会でいろいろと厄介な問題を引き起こしていたことが記憶にあるかもしれませんが、この時期のインドネシアは反帝国主義と急進的なナショナリズムを掲げ、1965年には国連の脱退を宣言しています。

 こうした中で、日本はスカルノと独自のパイプを築いており、インドネシア大使の斎藤鎮男はスカルノと旧知の仲であり、自民党の副総裁の川島正次郎もスカルノとの個人的なパイプがありました。さらにスカルノがラトナ・サリ・デヴィ(根本七保子)と結婚したことも両国の関係をより密接なものとしました。

 当時のスカルノは「ナサコム」と呼ばれる「民族主義」「宗教」「共産主義」の3つの勢力のバランスの上に立った国家運営を目指し、中央政府から村落レベルまで、この3つの勢力の代表を出させていました。「民族主義」を代表するのがインドネシア国民党(PNI)、「宗教」を代表するのがナフダトゥル・ウラマ(NU)、「共産主義」を代表するのがインドネシア共産党(PKI)になります。
 スカルノはハリウッド映画を締め出すなど、欧米の文化を攻撃しましたが、一方で経済運営は苦境に立たされており、外貨が不足して主食の米の輸入も困難をきたしていました。

 こうした中で起きたのは九・三〇事件です。この事件はスカルノ親衛隊の軍人たちが7人のトップクラスの将軍を襲撃し、射殺、あるいは拉致された後に遺体で発見された事件で(国防大臣のナスティオン大将は難を逃れるが6歳の娘が犠牲になる)、翌10月1日にスハルト少将率いる陸軍の陸軍戦略予備軍司令部が決起部隊を粉砕し、2日には事件はインドネシア共産党(PKI)によって実行されたものだという見方を出しています。
 
 事件当時、スカルノは優柔不断な態度を取り、PKI寄りと見られていた空軍のハリム空軍基地に向かい、スハルトからそこを攻撃することを伝えられると基地を去っています。
 スハルトのハリム空軍基地奪取後も、九・三〇事件に呼応するような動きやPKIを支持する動きが起こりますが、徐々に反PKIの動きが目立つようになってきました。

 この九・三〇事件、インドネシア政府の公式見解はPKIによるクーデーターとのことですが、当のPKIは陸軍の内紛説を主張しており、また、この事件をきっかけにスハルトが権力握ることからスハルトの個人的な陰謀だったとの説もあります。また、スカルノが事件が起こることを知っていたのかどうかに関しても、スカルノが陸軍のクーデターを潰すために黙認した、あるいは関わったとの説があります。
 さらに、CIAの陰謀という説もありますし、毛沢東がPKIの指導者のアイディットを煽っていたという話もあります(アイディットが軍の将軍を排除するのには何百人も犠牲が出るかもしれない、と言ったのに対して、毛沢東が「私は2万人を殺した」と答えたという資料が紹介されている(64p))。

 このように謎の多い九・三〇事件ですが、事態が動くのはこの後です。陸軍は事件の黒幕はPKIだとしましたが、スカルノはPKIの関与を否定し、スカルノと陸軍の間に隙間風が吹くことになります。
 こうした中、スカルノは圧力に押されてスハルトを陸軍大臣兼陸軍司令官のポストに任命しますが、これがスカルノからスハルトへとパワーバランスが傾く大きなターニングポイントになりました。さらにスカルノがPKIの解散に抵抗したことも、陸軍がスカルノを見限っていく要因になります。
 こうして次第にスカルノの権力は陰りを見せ始めることになります。デヴィ夫人はナスティオン夫人と連絡を取ることでスカルノとナスティオンの関係を修復しようとしましたが、スカルノはPKIへの非難を拒否したことで、この工作もうまくいきませんでした。

 そして、虐殺が始まるのですが、まず行われたのが軍や官僚機構内部で行われたスクリーニングでした。事件の関係者を追放するために行われたスクリーニングは、実際にはスハルトVSスカルノの構図の中でスカルノ派を排除するために使われました。
 九・三〇事件に関与した者と計画を知っていた者を「直接の関与者」、運動に同調した者やPKIの関係者を「間接的な関与者」と規定し、前者を逮捕、後者を免職・停職などにしていきました。
 地方にも夜間外出禁止令が出され、すべての住民にカンポン(集住地区)の出入りに報告義務を課すなど、住民を互いに監視させるような通達も出されます。

 さらにPKI関係者の逮捕が進むとともに虐殺が始まります。事件後間もない10月から中ジャワで、11月には東ジャワ、12月にはバリへと広がっていき、やがてジャカルタ周辺の西ジャワを除く(西ジャワで発生しなかったのは未だに謎だそうです)全国で66年末まで虐殺が続くことになります。
 公的な説明では、PKIとその関連団体に対する住民の自然発生的な怒りが噴出したものだとされていますが、当然ながらその説明は怪しいものです。殺害者は集団単位で動員されており、例えばイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマ(NU)の青年組織アンソールなどが虐殺に頻繁に関わりましたし、また、反社会的勢力も虐殺に関わりました。
 
 殺害には蛮刀や鎌などが使われ、時間をかけて苦しめたり、首を切って人目のつくところに置いたり、女性の性器を槍などで突き刺すなど猟奇的な殺し方も行われましたし、豚の丸焼きのように火で炙ったりしたケースもあったそうです。
 それにもかかわらず、73年には検事総長が「「1965年にPKI関係者に対しておこなわれた殺害は、公的な利益のためのものであるから、殺害された者が共産主義者であったという証拠が提示できればそれで十分である」として殺害行為の責任を追求しないという方針」(97p)を出したことから、この殺害行為を武勇伝のように語る人もいるといいます。

 殺害はすでに逮捕されている人々を留置場から連れ出して殺害するパターンと、殺し屋たちが指定された村に行って「誰がPKIの関係者か?」と尋ね、名のあがった人物を連行して殺害するパターンがあったそうです。
 本書では実際に殺害にかかわった人物の証言も紹介されていますが、1人は民間の警防団に所属していた人物で、62人を殺害したといいます。行動するときには軍服が貸与され、軍人が同行したそうですが、軍人は直接殺害にはかかわらなかったとのことです。

 アムネスティの報告書では、被害者は最低50万人〜100万人という数字が出ていますが、65年末のインドネシア政府の調査では7万8000人という数字が報告されています。「大統領宮殿に居合わせた駐キューバ大使のハナーフィによれば、実際には100万人ほどの犠牲者が出ているが、そんな広島や長崎の犠牲者よりも大きな数字を発表したら、国際的にインドネシアは恥ずかしい目に遭うからとても言えない、と判断され」(108p)、この数字が出てきたとのことです。

 このような殺戮が起こった原因として、政治的なイデオロギーや、共産主義に対するジハードの理論で扇動された、ある種のヒステリックな興奮状態(「アモック」と呼ばれる)などがあげられますが、著者としてはそれだけでは納得し難いとして、その他にフェイクニュースの拡散と、諸外国の黙殺という2つの要因をあげています。
 九・三〇事件で殺された将軍たちが性的な虐待を受けていたというニュースや、PKIの幹部の家で電気椅子が見つかった、PKIの事務所にイスラーム指導者をはじめとする襲撃リストがあったなどの偽の情報が流れ、人々の憎しみを駆り立てました。
 また、日本をはじめとする諸外国は虐殺の事実を掴みながら、インドネシア政府に抗議をすることはしませんでした。西側は基本的には反共産主義の流れを歓迎しましたし、ソ連はPKIが毛沢東の口車に乗って時期尚早な蜂起に出たと見ており、当初から冷淡な対応をしました。中国も文化大革命前の不安定な時期だったこと、毛沢東がこれでインドネシア共産党が武装闘争にはいるしかなくなるとかえって歓迎したことなどから、強い対応は取りませんでした。しかも、このときインドネシアは先に述べたように国連を脱退していたのです。

 九・三〇事件から半年たった1966年3月11日、スカルノが治安回復の権限をスハルトに移譲したことがきっかけで力関係は完全に逆転し、約1年後の67年3月7日にスカルノは大統領の座を退くことになります。
 65年末から66年の年明けにかけてインドネシアの経済状況は悪化し、半スカルノのデモもさかんに行われるようになります。こうした中で2月にスカルノはナスティオン国防省の罷免に踏み切りますが、軍とスカルノの対立はエスカレートし修復不可能になりました。
 そんな中で上記の権限移譲が行われるわけですが、この命令書に関しては陸軍の将官がスカルノをピストルで脅して署名させたとも言われており、これをもってスハルトは全権が移譲されたと主張しました。

 スハルトはただちにPKIの解散を命じ、さらに容共的な大臣15人の逮捕を断行しました。反共の立場だったデヴィ夫人はまだスカルノと軍の間を取り持つことが可能だと考えていましたが、スハルトにスカルノの今後について、1・休養のために海外に行く、2・名目的大統領になる、3・残っている権力も捨てて辞任する、という3つの選択肢を示され、「夫と私は負けたのだ」と悟ったといいます(138−139p)。
 67年3月にスハルトが大統領代行に就任し、1年後に正式な大統領に就任します。一方、スカルノはその後幽閉状態に置かれ、1970年の6月に亡くなりました。

 スカルノと良好な関係を気づいていた日本政府は、当初スカルノの安否を気遣いますが、次第にスカルノに見切りをつけ、スハルト政権のもとで開発援助を行っていくことになります。
 スカルノに関しては日本へ亡命させる計画もあり、65年暮れには佐藤首相がスカルノの側近に「スカルノに亡命の意思があるか」と確認したそうですし(145p)、66年には妊娠したデヴィ夫人が来日しています。この亡命に関しては日本のメディアでもとり上げられましたが、最終的にスカルノはインドネシアにとどまる決断をしました。

 九・三〇事件事件をきっかけに急速に悪化したのが中国との関係です。事件で犠牲になった7人の将軍の葬儀に反旗を掲げなかったとして中国への反感が強まり、中国の外交使節や中国人学校がしばしば襲撃されるようになります。
 華僑に対する嫌がらせも頻発するようになり、「中国人は国に帰れ」をスローガンにした排斥運動が起こります。アチェなどを中心に華僑に対する攻撃は激化し、中国政府が華僑引き揚げのための船を出すことになります。
 67年になるとインドネシアでも中国でも外交官が襲撃される事態が起こり、10月9日にインドネシアは中国との国交凍結を決定します。ただ、断絶ではなく凍結としたのがインドネシアなりの外交センスで、その後、インドネシアは台湾から国交樹立を持ちかけられますが、インドネシアはこれに応じませんでした。

 スハルトマレーシアとの対立関係を終わらせ、67年には反共の組織としてASEANが結成されました。当時はベトナム戦争が本格化していた時期であり、PKIの壊滅はアメリカにとって追い風となりました。
 それでも北朝鮮や北ベトナムとの関係は維持し続け、スカルノの非同盟中立路線を維持したことはインドネシア外交の特筆すべき点です。

 この後、スハルトはゴルカルと呼ばれる職能団体の連合体をつくり自らの政治基盤として体制を固め、98年まで32年間大統領の座にとどまります。
 九・三〇事件からその後の政治的な変遷をたどるのであれば、ここまでの内容でも十分なのですが、本書の特徴は、弾圧された者たちのその後を追っている点です。

 政治犯(タポル)は釈放後も監視下に置かれ、本人だけでなくその子や孫も、聖職者、ジャーナリスト、教師、公務員、軍人、隣組や町内会の会長になることができませんでした。
 こうした中で何年も逃亡生活を送った者もいます。本書ではマフムッド・ユスという逃亡者の軌跡が紹介されていますが、妻と別れ、身分証明書を偽造し、別の女性と結婚し、40年以上経ってから最初の妻と子と再開したという人生が語られています。
 また、国外にいた留学生の運命も大きく変わることになり、日本から中国へ亡命した者もいます。ただし、当初は中国で歓迎された彼らの文化大革命が終わると、中国政府の態度は冷たくなっていきました。
  
 98年にスハルト政権が倒れ、ワヒドが大統領になると、亡命者の帰国が許され、大量虐殺に対する謝罪が行われましたが、01年にワヒド大統領が罷免されたのはPKI関係者を復権させようとしたからだという話もあり、和解が進んでいるとは言えない状況です。

 このように本書はインドネシアで起こった虐殺について、政治的な動きを追いながら、国際的な背景を解き明かし、さらに虐殺の当事者や逃亡者の証言までとり上げるという形で、立体的に語っています。なかなか一人の著者でできることではないと思いますが、長年の研究の成果を感じさせます。
 歴史の中で忘れされれてしまいそうな蛮行を多くの人にわかりやすい形で引き揚げた内容になっています。


軽部謙介『ドキュメント 強権の経済政策』(岩波新書) 6点

 副題は「官僚たちのアベノミクス2」。2018年に刊行された『官僚たちのアベノミクス』(岩波新書)の続編ということになります。
 『官僚たちのアベノミクス』に関しては、面白く読めた部分はあったものの、とり上げられている期間が2012年11月から2013年の7月までとかなり短く、その後が知りたいという気持ちが残りました。今回続編が出たことでその思いは叶えられた形です。
 内容はというと、プロローグに書かれている日銀の総裁・副総裁人事の話など読ませる部分も多いのですが、全体を通して読むと少し物足りない部分もあります。これは2018年春までの時期をとり上げながら、第2次安倍政権以降で次第に政策の中心となっていったと思われる今井尚哉内閣総理大臣補佐官など、官邸の中心人物への取材があまりないからではないかと思います。菅官房長官への言及も少ないですし、日銀・財務省への取材は充実している一方で、肝心のアベノミクスの中心地の様子は見えにくいという面があります。

 目次は以下の通り。
プロローグ
第1章 賃上げ介入
第2章 内閣人事局の船出
第3章 「政労使」発足めぐる攻防
第4章 消費税増税延期へ
第5章 「一強」政権下の日銀
第6章 「為替市場に介入せよ」
第7章 伝統か、非伝統か
エピローグ

 本書は2017年12月の麻生太郎と福井俊彦の会談から始まります。この会談は日銀OB会の会長でもある福井が2018年の春に任期が切れる黒田東彦日銀総裁と副総裁の人事について話すためにセッティングされたものでした。
 日銀OBの黒田日銀に対する評価は低く、現役幹部がOBから「日銀と言っても、誰が日銀なのかという問題がある。もちろん狭義の日銀は黒田総裁以下現役の諸君で構成される。しかし広義の日銀はわれわれOBも含んだ概念上の組織としての日銀だ」(4p)と言われたこともあるそうです。
 福井の意向はできれば中曽宏副総裁の総裁昇格、黒田総裁の留任でも中曽を副総裁として留任させてほしいというものでした。実は中曽副総裁は辞意をもらしており、政権内では黒田総裁の留任、雨宮正佳副総裁は既定路線となっていました。それでも日銀OBたちは口出しをせずにはいられなかったのです。

 さらにプロローグでは2019年の大蔵・財務の事務次官を経験した者が一同に集まる新年会の様子も伝えています。この席で86〜88年まで事務次官を務めた吉野良彦は主計局長の太田充に対して「太田君もいやいややらされているのだろうが、韓信の股くぐりにも限度があるぞ」(22p)と言ったそうです。
 これは消費税アップのために官邸に譲歩し続ける現財務省への苦言なのですが、さきほどの福井俊彦の総裁人事への口出しも、この吉野の発言も「時代が変わった」ことを印象づける一幕です。時の政権を動かした旧大蔵省の力というものは失われているのです。
 個人的にはこのプロローグの部分が一番面白く感じました。

 第1章と第3章では、安倍政権による賃上げ介入の経緯が描かれています。この賃上げ介入は、例えば、同じ「新自由主義」というレッテルが貼られることが多い小泉内閣などでは考えられない政策だと思います(だから「新自由主義」という言葉は取り扱い注意だと思う)。
 アベノミクスは2%の物価上昇を目標としていましたが、それを実現させるためにも、また、景気回復の実感を持たせるためにも賃金の上昇は必要でした。しかし、政府は直接民間の給与を引き上げるような手段を持ちません。そこで、政権がさまざまなチャンネルを使ってそれを働きかけることになります。
 
 この賃上げへの介入は、経済財政諮問会議の委員で日本総研理事長の高橋進と、同じく日本総研のエコノミスト山田久が官邸に持ち込んだといいます。高橋が安倍首相に、山田が内閣府政策統括官の石井裕晶に話をし、そこからオランダの「ワッセナー合意」のような政労使の三者による賃上げのための合意ができないか、ということになったのです(ただし82年のワッセナー合意ではとん銀抑制と労働時間の短縮・雇用維持が合意された)。
 
 ここから経団連への働きかけが始まりますが、問題は金融緩和や靖国参拝を批判した経団連の米倉弘昌会長と安倍首相の仲が非常に悪いということでした。また、安倍首相の民主党の支持母体である連合に対する嫌悪感も障害となりましたが、これを官房副長官補だった財務省出身の古谷一之がまとめていくことになります。
 安倍首相にも連合にも警戒感はありましたが、古谷らが根回しをして政労使の会議が行われることが決まります。

 しかし、それでも企業に賃上げを飲ませるためには何かが必要です。そこで経済産業省の産業政策局長の菅原郁郎は古谷に法人税の実効税率の引き下げを持ちかけます。財務省にとって減税は飲み難い政策でしたが、ここで両者は復興特別法人税の一年前倒し廃止という案に落ち着きます。景気回復により法人税の税収は上振れが見込まれており、復興特別法人税の廃止を行っても財源に穴が開く恐れはなかったからです。
 主税局長の田中一穂はこれに強く反対しますが、部下は「カブキプレー」(99p)と見ていました。ここであっさりと譲れば法人税の本体の引き下げが持ちだされる恐れもあったからです。
 財務省全体としては、2014年の消費税8%引き上げを実現させるためには、何か大きなタマが必要であり、復興特別法人税の廃止を受け入れる雰囲気が広がっていきます。

 政労使の第一回会議は2013年の9月20日に開かれます。会議の雰囲気は決して良いものというわけではありませんでしたが、10月1日に消費税を引き上げる決断をした安倍首相の会見で、首相自らが復興特別法人税の廃止と賃上げをリンクさせる発言をしたことで枠がはめられていきます。
 第3章の最後には安倍首相が口にする「瑞穂の国の資本主義」という話が出てきますが、このあたりはアベノミクスと例えば竹中平蔵的な考えとの違いとも言えるでしょう。

 順番は戻りますが、第2章は内閣人事局について。稲田朋美行政改革担当大臣を中心に、内閣人事局の発足までが描かれています。
 ただ、本書によると稲田大臣が「公務員改革を断行する」(69p)と決めたということになってますけど、こんな大事なことを稲田大臣の一存で決めたのでしょうか? 菅官房長官か麻生内閣でこの問題を担当した甘利明あたりがレールを敷いていたと見るのが自然だと思うのですがどうなんでしょう?
 ただ、この章で出てくる「人事院はガンジーみたいな組織。信念でがんばれば通じるみたいな」(79p)という表現は面白い。

 第4章は消費税増税再延期の舞台裏。安倍政権の経済政策を考える上でここが1つの肝だと思うのですが、この章の内容はやや物足りない。
 まずは2014年の秋に打ち出された消費税増税の18ヶ月延期(2015年10月→17年4月へ)についてですが、ここでは病身を押してそれに対抗した財務事務次官の香川俊介のエピソードが中心で、肝心の延期の決断に至った動きは殆ど触れられていません。
 
 その後、野田毅自民党税調会長の事実上の更迭とも言える交代劇や、経済産業省出身の新原浩朗が最低賃金引き上げなど、アベノミクスの分配的な政策を進めていくところが描かれたりしていうるのですが、2016年に行われた2回目の消費税増税延期に関しても、財務省側の動きを少し追うだけで、官邸での意思決定に関しては触れられていません。16年5月26日の伊勢志摩サミットの場で安倍首相は「リーマン・ショック級のリスク」という話を持ち出し、それは財務省にとっても唐突なことだったらしいですが、そこにいたる意思決定の過程はブラックボックスです。
 安倍首相はこのとき、「財務省はずっと間違えてきた。彼らのストーリーに従う必要はない」と言ったそうですが、そうなるに至った安倍首相側の判断についても知りたかったところです。

 第5章は、日銀内部の話。中曽副総裁らがまとめた中期経営計画と出口をにらんだ引当金制度をめぐる財務省とのやり取りがとり上げられています。興味のある人にはあるでしょうが、個人的にはそれほど興味は引きませんでした。
 ただ、最後に引当金制度に関する官邸への根回しを財務省側が日銀にもやってほしいと頼んだという話は、財務省と官邸の距離を感じさせる話です。

 第6章は為替介入をめぐる話。2016年の4月に円高を嫌った官邸が為替介入の道を探ったが、アメリカのオバマ大統領から反対の意向が伝えられ、結局話しになったというものです。為替のプロである財務省・日銀と素人である官邸の対立の構図が描かれています。

 第7章では2016年の秋から始まった日銀の長期金利誘導がとり上げられています。今まで「長期金利の誘導はできない/すべきでない」というのが日銀内での常識でしたが、ついに日銀が「イールド・カーブ・コントロール(YCC)」という名前をつけてこれに乗り出します。
 この新しい政策の導入をめぐって、日銀は市場への丁寧な説明につとめ、市場はこれを冷静に受け止めます。一方、これによって長期金利のコントールは、かつて大きな影響力ももっていた財務省の手から完全に離れたとも言えます。

 本書は以上のような内容ですが、個人的にはプロローグ、第1章と第3章を面白く読みました。ただ、やはり本書はやや期待はずれな部分もあって、それはアベノミクスを実際に動かしている人々への食い込みがない点です。
 著者は財務省や日銀に対して人脈もあり、深い取材を行っています。ただ、官邸への取材は弱いので、アベノミクスへの視点の基本的に財務省や日銀を通してのものであり、そこで浮かび上がってくる構図は「政権浮揚のために無茶な政策をねじ込んでくる官邸 VS それに翻弄される財政や金融のプロたち」というものです。
 もちろん、こうした場面がないわけではないと思いますが、では、マクロ経済運営に財務省(大蔵省)が大きな力を奮っていた時代、日銀がその独立性を発揮して政治と対立した時代の経済運営はうまくいっていたのか? というと、そうではないでしょう。
 そうした部分も含めて、できれば財務省が官邸の信認を失った過程の話なども読みたかったです。

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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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