光文社新書らしいインパクトのあるタイトルですが、企業の行う不正というのは、なにか組織に悪人が紛れ込んだとか、悪魔の囁きに魅せられたとかではなく、組織内の「正しい」判断から行われているのだということを主張している本です。
一人の個人ならともかくとして、組織が不正を行う場合はその不正を正当化する何かが必要になります。本書はこれを「正しさ」と名付け、そのメカニズムを探ろうとしたもんです。
近年におきた日本企業の不祥事を題材としており、読者からしても興味を持ちやすい内容になっていると思います。
個人的にはうまく説明できているケースと、あまりうまくいっていないケースがあるように思えましたが、著者の基本的な分析の枠組みはそれなりに説得力のあるものだと思います(もっとも「正しさ」という言葉の使い方についてはやや広すぎる気もしますが)。
目次は以下の通り。
はじめに第1章 組織不正の危うさと正しさ第2章 危うさの中の正しさ――燃費不正第3章 正しさの中の危うさ――不正会計第4章 正しさがせめぎ合うこと――品質不正第5章 正しさをつらぬくこと――軍事転用不正第6章 閉じられた組織の中の開かれた正しさあとがき
不正がなぜ起こるのか?という問題については、「不正のトライアングル」という考え方があります。
これは不正が起こる要因を「機会」「動機(プレッシャー)」「正当化」の3つで説明しています。
まず、不正を行うにはその「機会」が必要であり、その機会を持った人に「動機」あるいは、そうせざるを得ないようなプレッシャーがかかっていることが必要です。そして、この不正は何らかの理由で「正当化」されることが必要になります。
もちろん、この3つの要因が揃ったからといってすべての人が不正をするわけではありません。
ただし、3つの要因が揃うと、不正に無関心で不正をしようとは考えてもいない人が不正に走ることもあります。
不正をする人間というと、周囲から孤立しているエゴイストのような人物像が想定されがちですが、社会学者のドナルド・パルマーによるとそうではなく、むしろ周囲に溶け込んでおり、自分や組織の成長のために働こうとする人が不正を働くというのです。
2019年には大和ハウス工業で大規模な施工管理技士不正取得事件がありましたが、個人や組織の成長を目指すための目標が大規模な組織的不正を生み出しています(実務経験をごまかしていた)。
あとから見れば不合理だと思うような組織の行動でも、その裏には何らかの合理性があります。
例えば、不正が行われていたとしても、正しい状態へと戻すコストが大きければ不正を続けたほうが合理的だと判断されることもあるのです。
第2章以降は具体的な事例をもとに分析を行っていますが、まずは2016年に起きた三菱自動車とスズキの燃費不正です。個人的には、このケースが本書の枠組みでもっともうまく分析できていると思いました。
2015年にフォルクスワーゲンがディーゼルエンジンの排ガス規制を不正なソフトウェアを使ってクリアーしていたことが明らかになってから、日本でも各社で燃費や排ガス検査における不正が明らかになりました(53p表2−1参照)。
こうした中で発覚した三菱自とスズキの不正は、ともに国が定める測定方法を使用していなかった不正でした。
国交省は1991年に定めた惰行法と呼ばれる測定方法を定めていました。
惰行法とは自動車を一定の速度で走らせたあとにギアをニュートラルにした状態で惰行させるように走らせて車にかかる抵抗を測定するもので、この走行抵抗をもとに燃費が算出されます。
惰行法とは自動車を一定の速度で走らせたあとにギアをニュートラルにした状態で惰行させるように走らせて車にかかる抵抗を測定するもので、この走行抵抗をもとに燃費が算出されます。
ところが、三菱自は高速惰行法という基準よりもかなり速い速度から惰行を始めるという方法で測定したのです。
調査によって三菱自では、過去10年間に製造・販売していた自動車においても燃費試験の不正が行われていたことがわかりました。
調査によって三菱自では、過去10年間に製造・販売していた自動車においても燃費試験の不正が行われていたことがわかりました。
また、スズキは三菱自とは違い、「装置毎の積上げ」と呼ばれる方法で走行抵抗を測定していました。
これはタイヤ、ブレーキなどの部品ごとの抵抗値を求めて、それらを合計することで自動車全体の走行抵抗を求める方式です。
スズキで対象になったのはアルト、アルト ラパン、ワゴンRなどの26車種にも及びました。
なぜ両社は惰行法を使わずに「不正」を行ったのでしょうか?
不正を認める記者会館の中で、両社とも惰行法の難しさを語っています。三菱自によると、風や気温が変化しやすい日本では惰行法での測定が難しく、タイで測定を行っていたといいます。
スズキでも惰行法の難しさを指摘したうえで、燃費をよく見せるためではなくより正確な燃費を測定するために惰行法を使わなかったと述べています。
三菱自の採用していた高速惰行法は米国で使用されていたコーストダウン法という測定方法をもとに開発されたものであり、スズキが装置毎の積上げで測定していたのは欧州での認証を得るためにこのようなやり方で測定していたからでした。
つまり、両社とも国際的に見れば根拠のある方式で測定したことになります。
では、なぜ日本ではこのように測定が難しい方法が採用されていたのでしょうか?
当時、日本では「JC08モード」という燃費基準が採用されており、そこで惰行法が採用されていました。このJC08モードですが、同一車種の場合、米国の燃費基準よりも燃費値がかなり良くなると言われていました。
政府(国交省や経産省)は日本車の燃費をよく見せるためにこの方式を採用したと思われますが、この測定方法は実施が困難で、三菱自やスズキは「不正」に走ったわけです。
こう見ると、行政側には日本車の燃費をよく見せたいという「正しさ」があり、三菱自やスズキには実施困難な測定方法にこだわるよりも、海外でも採用されているやり方で燃費を示せばいいという「正しさ」があったことが見えてきます。
もちろん、三菱自やスズキの行ったことは「不正」だと言えますが、その背景には規制をかける側と守る側のコミュニケーション不足があったとも言えるのです。
第3章は東芝の不正会計問題です。経営陣が「チャレンジ」と称した過度な利益達成目標を押し付け、それに耐えかねた社員が利益の不正な水増しを行ったというものです。
2015年に発覚し、当時の田中久雄社長をはじめ歴代3社長が引責辞任しました。
不正会計の方法としては、工事の原価を過小に見積もる、映像事業での費用計上の先送り、半導体の在庫の評価損の先送り、パソコン事業で委託先に部品を高値で買わせるといったことが行われていました。
映像部門に対しては特に厳しいプレッシャーがかけられており、社長がたびたび映像部門に対して業績予測へのダメ出しをしていたことが調査報告書にも書いてあります。
この東芝の不正会計については澤邊紀生が「東芝では、会社としても個人としても、誰も大きな利益を得ることがないにも関わらず不正が行われた」(98p)と述べています。
会計操作によって嵩上げされた金額は7年間で1500億円で、それなりに大きな金額ですが、1年あたり約220億円で当時の利益の1割程度です。そのために東芝はそのブランドを大きく毀損させました。
著者はこの裏には利益主義だけではなく、社長や経営陣と映像事業部の時間感覚の差があったと分析しています。
映像事業部も現状がよい状況だと思っているわけではなく、立て直しの必要を感じているわけですが、それには「長い時間」が必要だと考えています。一方、経営陣は四半期ごとの「短い時間」での改善を求めプレッシャーを掛け続けたのです。
ここから著者は、経営陣だけが悪いのではなく、「時間感覚の差」という構造的な問題があったとするわけですが、個人的にはこの分析は疑問でした。
確かに株主が現場の実情を無視して短期的な利益を求めることにはついては株主なりの「正しさ」があると言えそうですが、経営陣については現場の実情を無視している限り、それは「正しくない」し、経営陣の方から時間感覚の差を埋める努力をすべきだと思うのです。
こうした不正がどこの会社でも起こり得るということには同意しますが、やはり責任を問われるべきは経営陣でしょう。
第4章ではジェネリック医薬品の品質不正がとり上げられています。
2021年2月の小林化工での抗真菌剤に誤って睡眠剤が混入する事件が明らかになると、その後他のメーカーでも次々と承認書とは異なる方法での医薬品の製造が行われていたことがわかりました。例えば、大手の日医工では規格に合格しなかった錠剤を粉砕して再び加工して製造・出荷していたことが明らかになっています。
この不正にどのような「正しさ」があったというのでしょうか?
本書が指摘するのっは、国による医療費抑制のためのジェネリック医薬品の普及の推進です。国は2018〜23年度(「第三期」と区分される)に、ジェネリック医薬品の使用割合を80%以上にするという高い目標を掲げていました。実際、2009年に35.8%だったジェネリック医薬品の使用割合は2023年度には80.2%にまで上昇しています(125p図4-3参照)。
このように急拡大したジェネリック医薬品の製造ですが、医薬品の製造については「薬機法」とその下にある省令において具体的な製造や管理の基準が定められています。この省令の中でもっとも重要なのが「GMP省令」と呼ばれるものです。
GMP省令ではさまざまなことが定められていますが、小林化工や日医工での不正が明らかになった2021年初旬ごろまでGMP省令において生産量に対する人員補充の具体的な基準は定められていませんでした。
こうした中、小林化工や日医工での不正の原因としては現場での人員不足があげられています。
こうした点から著者はこの不正を製薬会社のせいだけにするのは酷ではないかと考えています。厚生労働省が適切な基準を設置していなかったことが(不正問題発覚後に人員の基準も追加されたことから本来ならば人員に関する基準があってしかるべきだったと考えられる)、この不正の背景にあるというのです。
このような規制が後手に回ったのは、「ジェネリック医薬品の使用割合を80%以上にする」という高い目標が政府レベルの「骨太方針2015」に現場との十分な対話なしに盛り込まれたからです。
医薬品業界では薬価が下がる傾向があり、各メーカーとしてはなんとかしてこのジェネリック医薬品市場の拡大に合わせる必要がありました。
この生産の拡大は政府の要請もあり、まさに「正しい」ものでしたが、あまりにも拡大のペースが急だったために現場は不正に走らざるを得なかったと考えられるのです。
第5章は大川原化工機事件がとり上げられています。これは企業が不正を犯したのではなく、不正の濡れ衣を着せられそうになった事件になります。
日本の技術が大量破壊兵器の開発を行っている国家やテロリストの手に渡ることは問題です。そのために外為法という法律があり、その下にある政令や省令でさまざまな規制がかけられています。
しかし、「何が軍事技術なのか?」というのは難しい問題で、2021年に精密機器メーカーの利根川精工の社長が書類送検された事件でも、結局は不起訴に終わっています。
大川原化工機は噴霧乾燥機を製造している企業です。噴霧乾燥機とは液体を乾燥させ粉にさせるための機械で、粉ミルクやインスタントコーヒーの製造などにも使われています。
生物・化学兵器については「AG(オーストラリア・グループ)」の規制リストがあり、その中に「装置を分解しないで減菌(sterlized)、または化学物質による消毒(disinfectsd)ができる装置」とあります。
日本ではこのdisinfectsdが「殺菌」と訳され、化学物質によらないで「殺菌」ができれば対象になるかのような解釈がなされてしまい、大川原化工機の噴霧乾燥機も「殺菌」機能を持つと解釈されてしまうことになります。
この結果、警視庁公安部は大川原化工機の噴霧乾燥機を軍事転用可能なものだと判断し、2020年3月に役員3名を逮捕します。
大川原化工機は2018年から捜査に協力し、一貫して噴霧乾燥機が軍事転用可能な製品ではないことを主張していましたが、公安部第五係は逮捕にまで踏み切ります。
この法解釈については経済産業省が難色を示していましたが、公安部からの度重なる働きかけにより経産省は強制捜査(ガサ入れ)については同意します。このとき、公安部第五係の警部補は外部の専門家の報告書を捏造して経済産業省をだましていたといいます。
さらに公安部は取り調べにおいても恣意的な供述調書の作成を行うなど不当な取り調べを続け、逮捕されてから11ヶ月間も勾留しました。逮捕された3人のうちの1人は胃に悪性腫瘍が見つかり、保釈されて入院したものの、そのまま亡くなってます。
最終的には検察が起訴を取り消すという異例の形で事件は終結しましたが、逮捕は担当検事の了承のもとで行われており、検察の責任も大きいといいます。
本書の分析の枠組みで言うと、ここで「正しさ」に固執して不正を働いたのは警視庁公安部ということになります。折からの安全保障や貿易管理を強化しようという流れの中で、こうした事件を摘発することが「正しい」と判断してしまったと言えます。
また、経産省や検察はそれぞれ「危うさ」を感じつつも、警察の間違った判断を止められずに悲劇を招いてしまったわけです。
ただし、この事件については本書の枠組みによる分析がいまいち機能していないようにも感じました。それは、本件の不正の大きな要因が公安部第五係の警部補(本書ではZと記載)個人にあるように思えるからです。
つまり、本書の最初で示された「不正に無関心で不正をしようとは考えてもいない人が不正に走る」というのではなく、功を焦った人間による不正という印象を受けます。
もちろん、周囲が止められなかったには公安としての「正しさ」があるのでしょうが、やはりうまくハマっているようにのは思えません。
終章で著者は今までの議論をまとめつつ、実際の判断の目安になる具体的な倫理規範の制定の重要性を指摘するとともに、経営学者のカプタインの倫理的になろうとすればするほど倫理を脅かす力も生まれていくるという議論を紹介しながら、常に「正しさ」を問い直していくような姿勢が必要だと述べています。
このように本書は組織不正のパラドキシカルなあり方を分析した本ですが、分析したケースについてはうまくいっているケースとあまりうまくいってないケースがあるように思えました。
本書では、ビッグモーターの不正は「正しさ」が単一的で固定的だったからだと述べられていますが(210p)、ビッグモーターの件などは「正しさ」などを持ち出さずにすむ単純な経営者による不正なのではないでしょうか?
そういった意味では、第2章の自動車の燃費不正や第4章のジェネリック医薬品の製造過程での不正のような、矛盾する要求に現場が板挟みになって起こった不正に絞って分析をしたほうが、より効果的だったと思います。