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2021年03月

佐藤千登勢『フランクリン・ローズヴェルト』(中公新書) 7点

 世界恐慌に際してアメリカの大統領となり、ニューディール政策を推し進め、第2次世界対戦を戦い、史上唯一4選を果たしたフランクリン・ローズヴェルトの評伝。
 比較的オーソドックスな感じで、ローズヴェルトの周囲の女性との不倫関係を指摘している所以外は、従来の評価にチャレンジしているような内容ではないのですが、手軽に読める評伝のたぐいがあまりなかっただけに価値ある本なのではないかと思います。
 ローズヴェルトの性格や政治スタイル、そして後世に大きな影響を与えたニューディール政策の内実や、民主党の支持基盤としてのニューディール連合の形成、さらに妻のエレノアの大きな役割など、重要なポイントがわかる内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 名門に生まれて
第2章 政治の世界へ
第3章 大恐慌に立ち向かう
第4章 ニューディールの新たな展開
第5章 第二次世界大戦の舞台へ
第6章 最高司令官として
終章 ローズヴェルトの遺産

 フランクリン・ローズヴェルトは1882年にニューヨーク州のハイド・パークに生まれています。ローズヴェルト家は名門で、フランクリンが生まれたハイド・パーク系とセオドア・ローズヴェルトが出たオイスターベイ系がありましたが、オイスターベイ系の方が裕福で、著名人も多く輩出していました。
 父のジェームズと母のサラは26歳差があり、フランクリンが非常に難産で、医師からもうこれ以上子どもを産まないように言われたため、一人息子となりました。父のジェーズムはフランクリンが9歳のときに心臓発作を起こして床に伏すことが多くなり、サラはすべてのエネルギーを一人息子に注ぎました。

 ローズヴェルトは14歳まで家庭教師のもとで勉強し、そこからグロートン校という全寮制の私立の男子校に進みます。
 ただし、ローズヴェルトは編入生だったこともあり、周囲にあまり溶け込めなかったようです。成績も平凡で、抜きん出たところはありませんでした。

 グロートン校を卒業すると、ローズヴェルトはハーヴァード大学に入学します。勉学にはそれほど熱を入れず、一番熱心に取り組んだのは大学の日刊新聞『クリムゾン』の編集者としての活動でした。最終学年には編集長も務めています。
 そして、ハーヴァード在学時に後に妻となるエレノアと出会っています。エレノアはセオドア・ローズヴェルトの姪にあたる人物でフランクリンの2歳年下でした。エレノアは社交界の女性としては背が高すぎ、ダンスも上手くありませんでしたが、知的で自分の考えをしっかりと持っており、ローズヴェルトはそこに惹かれました。母の反対もありましたが、2人の熱意に根負けし、1905年にセオドアが立会人を務め結婚式が開かれました。
 
 ハーヴァードを卒業後、ローズヴェルトは弁護士になります。弁護士になりたかったというわけではなく、ローズヴェルト家の財産の管理に弁護士資格があった方が良いというような消極的な理由からでした。
 弁護士の仕事にやりがいを感じていなかったローズヴェルトは、1910年のニューヨーク州議会選挙で民主党から上院議員の候補として誘われ、立候補します。
 とりたてて政策を持たなかったローズヴェルトでしたが、農民票を取るためにりんごの樽を標準樽に統一するという公約を打ち出し、共和党が強かったNY州の農村地帯で勝利しました。
 NY州上院議員の時にローズヴェルトはのちに腹心となるルイス・マックヘンリー・ハウと出会っています。新聞記者だったハウはローズヴェルトの素質を見抜き、NY州の政治やメディア対応などを教え込みました。
 
 1912年、ローズヴェルトは31歳の若さで海軍次官に抜擢されます。これは民主党の有力な支援者でローズヴェルトを高く買っていたジョセファス・ダニエルスが、ウィルソン大統領の誕生とともに海軍長官に任命されたことから行われた人事でした。
 この海軍次官時代に第一次世界大戦が起こります。ローズヴェルトは自分が必要だと判断したことは規則にとらわれずに実行し、またメディア対応にも熱心だったことから、世間的な評価は高まりました。一方、妻のエレノアに不倫がばれて、夫婦仲は冷えていきます
 ローズヴェルトは第一次世界大戦を挟んで7年間海軍次官を務め、1920年の大統領選では民主党候補のジェームズ・コックスの副大統領候補となり、ウィルソンの革新主義の継続を訴えましたが、共和党のハーディングに大差で敗れています。

 さらに1921年の夏にローズヴェルトはポリオに罹りました。ポリオは子どもが多くかかる病気で小児麻痺の原因ともなります。ローズヴェルトも1年におよぶ闘病生活の末、何とか回復したものの、足に筋肉はほとんど失われ、移動するときは松葉杖をつくか、車椅子に乗るか、誰かに抱きかかえてもらうしかありませんでした。
 この病気はローズヴェルトにとって大変なものでしたが、民主党が劣勢だった20年代に政界を離れてたことはのちにプラスにもはたらきました。

 1928年の大統領選にNY州知事のアルフレッド・E・スミスが民主党から立候補すると、後任としてローズヴェルトの名があがります。病気の治療などを理由に断りを入れたローズヴェルトでしたが、本人の同意がないまま知事候補に指名されてしまいます。指名が決まるとローズヴェルトは全力で選挙戦にのぞみ、僅差で勝利しました。
 そして、NY州知事として大恐慌をむかえます。ローズヴェルトは失業者の救済や社会福祉プログラムを整備するなど、積極的な対策をとりました。

 1932年の大統領選においてローズヴェルトは民主党からの立候補を決意します。ローズヴェルトに反発する人びともいましたが、ラジオ演説での「経済的なピラミッドの底辺にいる忘れられた人」(70p)という言葉は人びとの心を掴みました。
 党大会で指名を受けると、それまではあえてすぐには受諾しないという慣習がありましたが、ローズヴェルトは飛行機で乗り付けてすぐに受諾演説を行い、ここで「ニューディール」という言葉を使っています。
 大統領選挙の本選では、57%の得票率で共和党のフーヴァーを破りました。就任演説では「恐れなければならないのは、恐怖心そのものだけだというのが、私の固い信念です」(79p)との有名なフレーズを含んだ演説を行い、強いリーダーシップを示しています。

 ローズヴェルトはハル国務長官などの民主党保守派、ウォーレス農務長官やイッキーズ内務長官といった共和党革新派を入閣させ、財務長官には友人のモーゲンソー、労働長官にはNY州時代からの側近であったパーキンズを史上初の女性閣僚として入閣させています。
 また、学者や政治家によるブレーントラストと呼ばれるアドヴァイザー組織をつくり、そこでの議論を尽くさせてローズヴェルトが判断するというスタイルをとりました。執務室に朝から晩までいることはなく、自分のペースを貫いたといいます。
 また、ローズヴェルトはメディア利用に長けた政治家で、炉辺談話というラジオ番組を使って国民に直接語りかけ、記者会見も週2回定期的に行いました。

 大統領に就任したローズヴェルトは矢継ぎ早に政策を打ち出します。銀行の一時閉鎖を行って、人びとへの金融不安を鎮めると、銀行法と証券法を成立させて銀行業務と証券業務の兼業を禁止し、連邦預金保険会社を設立して一定額の預金を保護しました。
 一方、ローズヴェルトは均衡財政の支持者でもあり、省庁の統廃合や連邦職員や議員、大統領の給与の削減、恩給の削減も行っています。禁酒法の廃止も行いますが、これには酒税収入を期待した面もありました。

 ローズヴェルトは大恐慌の原因を過剰生産に見ており、それに対応するために農産物の過剰生産を止めるための農業調整法(AAA)、製品の価格と賃金の下落を防ぐための全国産業復興法(NIRA)が制定されます。
 また、失業対策としてテネシー川流域開発会社(TVA)法に基づいた公共事業を行い、森林管理や治水事業などを行う市民保全部隊(CCC)をつくりました。さらに連邦緊急救済法を制定し、連邦緊急救済局の主導のもとで失業者に職を与える仕組みがつくられました。1935年には雇用促進局(WPA)も設立されますが、こうした政策の背景には、仕事をすることが重要であり、直接的な現金給付は「麻薬のように、人間の精神を巧みに破壊する」(108p)との考えがありました。
 
 ローズヴェルトは南部民主党の反発を恐れて反リンチ法や公民権法の制定には消極的でしたが、WPAの黒人アーティストへの支援は黒人文化の発展に大きな影響を与えました。また、当初は女性は排除されていましたが、エレノアの尽力などもあり、女性にも仕事が割り当てられるようになりました。
 社会保障法による社会保障の整備も進みましたが、失業保険、老齢年金保険は実現しましたが、医療保険は実現しませんでした。ただし、農業労働者や家内労働者が除外されたために、これらの労働に従事することが多かった黒人の大半は制度の外に置かれることになります。
 ニューディールは次第に「左旋回」し、社会的な弱者の救済に力を入れるようになりましたが、これにはエレノアの影響があったと言われています。エレノアは夫に代わって全米を回り、さまざまな階級の人びとと親しく交わりました。

 1936年の大統領選の前に腹心のハウが亡くなるという不幸に見舞われましたが、本選では「彼ら」(=資本家)と「我々」という二分法を用いた戦略で圧勝します。
 ただし、2期目は最高裁の改革(事実上70歳定年制を導入する)で挫折し、さらに均衡財政を目指して財政支出を削減したこともあって37年半ば以降、景気は再び悪化します。ローズヴェルトは独占資本を批判しますが、経済運営では厳しい局面が続くことになります。

 外交面ではローズヴェルトはラテンアメリカ諸国との間で善隣外交を進め、フィリピンの独立を承認し、1933年にソ連を承認しました。
 一方、国内では第一次世界大戦においてアメリカの実業家が莫大な利益を上げたことがナイ委員会によって明らかにされたこともあって、35年に中立法が制定されます。これはヨーロッパで広がるファシズムの動きに対抗したかったローズヴェルトにとって大きな足かせになりました。

 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発します。ローズヴェルトは中立法の改正に動き、「現金・自国船」方式であれば英仏への武器の供給を可能にさせました。
 英仏軍がダンケルクに追い詰められ、イタリアがフランスに宣戦すると、ローズヴェルトは陸軍長官にスティムソン、海軍長官にノックスを任命します。彼らは共和党の大物で、ニューディールを支持したこともありませんでしたが、ローズヴェルトは孤立主義を抑え込むことを優先したのです。

 1940年の大統領選に向けて、当初ローズヴェルトは3選に消極的でしたが、自らの考えを受け継ぐことができる候補者がいないとなると、出馬し勝利を収めます。
 ローズヴェルトは当選すると、「我々は偉大な民主主義の兵器廠にならなければなりません」(175p)と訴えて、武器貸与法を成立させ、イギリスへの支援を本格化させます。さらに武器貸与の対象を中国に、独ソ戦が始まるとソ連に拡大しファシズムへの対抗姿勢を示しました。
 41年8月には密かに大西洋を渡ったチャーチルと会談し、大西洋憲章を発表します。戦後秩序に関する内容が中心でしたが、アメリカの戦争への関与については触れられていませんでした。

 1940年に日独伊三国同盟が結ばれ、日本が枢軸側につくことが明確になります。ローズヴェルトは駐米大使の野村吉三郎と旧知の間柄であり、日本との交渉は可能だと考えていましたが、41年の南部仏印進駐が行われると、ローズヴェルトは在米日本資産の凍結で応じます。さらに、ローズヴェルトの意図ではなかったものの、これによって日本への石油輸出も禁止されることになります。
 41年10月に東条英機が首相になると、交渉の余地はほとんどないと判断し、ハル・ノートを日本側に示しますが、12月6日には昭和天皇に向けて親書を出して戦争の回避を訴えています。

 しかし、12月7日に真珠湾が攻撃され、アメリカは戦争へ突入していきます。
 ローズヴェルトはチャーチルとのアルカディア会談で「ヒトラー・ファースト」の方針を決め、英米ソ中の4カ国により連合国共同宣言が出されることになります。朝から晩まで酒を飲み、深夜に執務を行うチャーチルの仕事のスタイルはローズヴェルトは全く違ったものでしたが、大きな方針から決めていく2人のスタイルは共通していました。

 42年になると、太平洋ではミッドウェーで日本に打撃を与え、北アフリカでドイツに対する反抗が始まります。
 43年1月にはモロッコのカサブランカでチャーチルとの会談が開かれます。2人は独伊日が無条件降伏するまで戦争を継続させることで暫定的に一致しました。このようにチャーチルとは「合った」ローズヴェルトですが、ド・ゴールのことは植民地の回復を目指している男だとして嫌っていました。

 アメリカでは軍需生産が拡大し、景気は回復します。黒人や女性が新しい労働力として期待され、南部の黒人が北部の工業都市に移動し、農村ではメキシコから季節労働者を受け入れるプログラムがスタートします。
 こうした中でエレノアも積極的に動きます。日系人の収容に反対していたエレノアは、周囲の反対を押し切って日系人の強制収容所を訪れて日系人たちと交流し、ガダルカナルなどの戦地の慰問へも出かけました。
 
 43年11月にローズヴェルトはカイロでチャーチル、蒋介石と、テヘランでチャーチル、スターリンと会談します。特にテヘランでは戦後のヨーロッパの問題が話し合われました。
 44年の3月にローズヴェルトは体調を崩し、心臓の問題が明らかになりますが、戦争が継続中であったことから大統領選への出馬を決意します。
 44年9月のチャーチルとのケベック会談では、ドイツの非武装化と工業地帯を国際管理下に置くというモーゲンソーの提案が話し合われます。チャーチルはこれに反対しますが、ローズヴェルトは基本的に賛成していました。ただし、これがメディアに漏れると強い批判を受け、ドイツに関する協議は先送りされます。

 44年11月の大統領選に勝利し、ローズヴェルトは4戦を果たします。ただし、就任式直後に孫たちに遺品の形見分けをするなどローズヴェルトは自ら死期が近いことを悟っていました。
 2月にヤルタ会談では、チャーチル、スターリンと戦後のドイツやポーランドの処理、国際憲章の草案、ソ連の対日参戦が話し合いました。原爆はまだ未完成で、ローズヴェルトは日本を降伏させるためにソ連の参戦が欠かせないと見ていました。
 そして、45年4月12日、ローズヴェルトは脳内出血で63年の生涯を閉じています。

 終章に書いてあるように、共和党のレーガンや初の黒人大統領となったオバマがローズヴェルトをなぞるようなスタイルを取ったことから、アメリカ大統領のある種の理想と位置づけられることになりました。
 さらに本書を読むと、エレノアもまた、のちのファーストレディの理想を体現していると思います。足が不自由になった夫の代わりに広く社会をまわったエレノアがいたからこそ、長期政権になっても致命的なバランスを失うことがなかったのでしょう。
 何か鋭い批判的な視点を持った本ではないかもしれませんが、ローズヴェルトの業績とその「強み」がわかる内容になっています。


中西嘉宏『ロヒンギャ危機』(中公新書) 8点

 ミャンマーから隣国のバングラデシュに大量のムスリムが難民として流出しているロヒンギャ問題。この問題がノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーが率いるNLDの民政化で起きたことも世界に衝撃を与えました。「ジェノサイド」との訴えもあるロヒンギャへの弾圧とノーベル平和賞というのは、いかにも釣り合いがとれないものだからです。
 本書は、「そもそもロヒンギャとはどんな人びとなのか?」、「ミャンマーにおいて、なぜムスリムが敵視されるようになったのか?」、「長く続いた軍政はこの問題をどのように扱っていたのか?」、「なぜ民政に移管されてから軍事的な衝突が起きたのか?」、「アウンサンスーチーは、なぜ弾圧を止められなかったのか?」といったさまざまな疑問に答えてくれる本です。
 「あとがき」の日付に「2020年11月」と書いてあるので、本書は2021年2月1日に起きたミャンマーのクーデタについては一切触れていません。ただし、独立後のミャンマーの動きを描いた本書の記述はクーデタの背景を理解する上でも非常に有益なもので、ミャンマー情勢の理解にも役立ちます。
 

 目次は以下の通り。

序章 難民危機の発生
第1章 国民の他者―ラカインのムスリムはなぜ無国籍になったのか
第2章 国家による排除―軍事政権下の弾圧と難民流出
第3章 民主化の罠―自由がもたらした宗教対立
第4章 襲撃と掃討作戦―いったい何が起きたのか
第5章 ジェノサイド疑惑の国際政治―ミャンマー包囲網の形成とその限界
終章 危機の行方、日本の役割

 ロヒンギャとは、ミャンマー西部のバングラデシュと国境を接するラカイン州に住むチッタゴン訛り(チッタゴンは国境を越えたバングラデシュ側の地名)のベンガル語を母語とする人びとを指します。ただし、この言葉は1950年代から使われるようになった言葉であり、またミャンマー政府は彼らをベンガリーと呼んでいます。
 これは彼らがベンガル生まれ(つまり外国生まれ)で不法に入国してきたということを強調するためのもので、ミャンマー政府は彼らに国籍を与えていません。ミャンマーには他にもムスリムが住んでいますが、ロヒンギャは国籍がないという点で他のムスリムと区別されています。

 さらに複雑なのは、ラカイン州はミャンマーにおける少数民族であるラカイン人が人口の3/4を占める地域であり、ロヒンギャさらにその中でのマイノリティでもあるということです
 また、ラカイン州はミャンマーの中でも貧しい地域なのですが、その中で輪をかけて貧しいのがロヒンギャです。

 そのロヒンギャは2017年8月以降、難民として隣国のバングラデシュに流出しています。4ヶ月で68万人ほどが難民となり、以前からの難民やUNHCRが把握していない難民を含めると100万人ほどが難民になっていると見られています。

 ラカイン州の一帯は15世紀に成立したムラウー朝が18世紀の後半まで支配していました。ムラウー朝はムスリムも受け入れ、この時期にラカインにムスリムが入ってきたと考えられます。
 1784年、ムラウー朝はビルマ人の王朝であるコンバウン朝によって滅ぼされますが、コンバウン朝のラカイン支配はイギリスの侵攻によって終わりを告げます(第一次英緬戦争)。1826年、イギリスはコンバウン朝からラカインの割譲を受けました。
 1852年に第二次英緬戦争が起きると、イギリスはエーヤワディ川の下流域を領有するようになり、英領ビルマが成立します。イギリスはやがてビルマ全域を支配するようになりました。
 
 イギリスはミャンマーをインドの一部として統治しましたが、この統治によってミャンマーの社会は大きく変化します。
 まず、エーヤワディ・デルタにラングーン(現ヤンゴン、以下ヤンゴン表記)をつくって支配の拠点とし開発を行ったことで、デルタ地帯に人口が集まるようになります。習慣や言語が違う人々が暮らすようになり、「複合社会」と呼ばれる社会が生まれました。
 さらにインド系や中国系の人々が入ってきて金融や流通の分野で存在感を示すようになります。1920年代のヤンゴンの人口の約半数がインドからの移民だったといいます。ラカインにもインド系の移民が入ってきますが、ヤンゴンの移民の中心がヒンドゥー教徒だったのに対して、ラカインに入ってきたのはムスリムが中心でした。彼らは都市ではなく農村に定着し、仏教徒と住み分けるような形で村を作りました。

 こうした植民地支配の中でミャンマー・ナショナリズムが勃興してくるのですが、複雑な民族構成をもつミャンマーでは結集の核はやや曖昧で、「アミョー・バーダー・ターダナー」(「民族・言語・仏教」)という言葉が用いられました。「民族」、「言語」に関しては、多数は民族のビルマ人、ビルマ語が想定されましたが、モン人やラカイン人などは「仏教」で包摂されました。
 具体的にどこまでミャンマー・ナショナリズムに包摂されるのかは難しい問題でしたが、含まれない存在は常にはっきりしており、それがインド系移民であり、特にムスリムでした。
 1930年と38年に大規模な反インド暴動が起きていますが、この背景にはインド移民が富と仏教徒の女性を奪っているとのミャンマーの人びとの認識がありました。

 太平洋戦争が始まると日本軍がミャンマーに侵攻します。日本の支援を受けたアウンサンのタキン党はビルマ独立軍(BIA)を結成して、この戦いに加わりますが、仏教徒を中心としたBIAの拡大がラカインでの仏教徒とムスリムの衝突につながります。さらに英軍が反撃に転じると、ラカインのムスリムはこれに協力しました。日本とイギリスの衝突の中で、仏教徒とムスリムの対立が深まったのです。

 日本の敗色が濃厚になると、アウンサンは抗日戦争を起こし、イギリスからの独立を目指しますが1947年7月19日に凶弾に倒れます。その後、48年の1月に独立をはたしますが、国土は戦争で荒廃し、治安維持さえもままならない状態でした。
 ラカインでも独立を求めるラカイン人の運動や、東パキスタンとの統合をめざすムスリムの武装闘争などが起き、混乱が続きますが、54年までに政府軍がこの地域を押さえます。このころにラカインに住むムスリム全体を表すものとして「ロヒンギャ」という言葉が生まれました。

 1962年の軍事クーデタによってミャンマーは軍事政権となります。ネーウィン将軍を中心とする軍事政権は社会主義に基づく独自の政治経済体制の建設を目指しました。
 社会主義を掲げながらもネーウィンはソ連や中国とも距離を取り、政党は禁止され、省庁の幹部には軍人が就きました。また、独立を志向する地方が離反しないように中央集権制が強化されました。
 
 1988年、ネーウィンは抗議活動の広がりを受けて引退を決断しますが、ソーマウン将軍率いるクーデタが起こり、軍事政権は続行します。この軍事政権は民主化を約束しながら、憲法も議会もないままに20年以上続きます。
 最高意思決定機関である国家法秩序回復評議会に立法権と執政権が集中し、この議長と国軍最高司令官を92年から兼務しつづけたタンシュエ将軍が権力を握りました。

 このネーウィンとタンシュエの時期、ロヒンギャに対しては排除と管理の強化が進みました。
 ネーウィンは「タインインダー」という言葉を使ってミャンマーの国家としてのまとまりを維持しようとしました。タインインダーは「もともとこの国に住んでいた人」といった意味で、土着民族を指します。
 ミャンマーがイギリスに支配される以前は土着民族がいたが、植民地支配によって富は奪われ、文化は奪われた。だから独立後は土着民族の団結が重要であるというロジックです。
 ここで排除されたのが中国系やインド系の移民であり、ロヒンギャでした。
 国籍法は改正され、「国民」以外に「準国民」、「帰化国民」といったカテゴリーが作られて権利が制限されました。ロヒンギャは本来土着民族のはずでしたが、当初あった「ラカイン・チッタゴン」という民族は土着民族から外され、帰化国民として国籍を申請せざるを得なくなります。

 1971年、東パキスタンがバングラデシュとして独立した際に、ラカイン州にも多くの難民が流入したと考えられています(一説には50万)。この後、どれほどの難民が帰還したのかはわかりませんが、ミャンマー政府やミャンマー人は多くのムスリムが不法に定着していると考えました。
 78年にはナガーミン作戦と呼ばれる不法入国者の取り締まりが行われ、軍事衝突も起きた結果、100万人を超える人々が逮捕され、約20万人がバングラデシュに逃れたとされています。
 91〜92年にかけてもミンアウン作戦と呼ばれる、ロヒンギャの反政府武装組織に対する軍事作戦が行われ、約25万人がバングラデシュに逃れました。その後の交渉で19万人が帰還したとされていますが、ロヒンギャの名を国際社会に知らしめた事件ともなりました。
 また、ラカイン人は、ビルマ人中心の中央政府に反発しつつ、同時にロヒンギャに対しても厳しい警戒感を持ちつづけることになります。

 ミャンマーでは2011年から民主化が進みます。2011年3月にテインセインが大統領に就任し、タンシュエが権力を失います。この変化の背景に関してはわかっていないことも多いですが、08年の憲法改正で軍が一定の影響力を維持する仕組みが整ったこと、テインセインの個性、アメリカの対ミャンマー政策の変化などが理由として考えられています。
 言論の自由化も進み、インターネットとスマートフォンも普及しました。国民の多くがFacebookを利用するようになり(2020年で人口の約40%が利用)、ロヒンギャの間ではワッツアップの利用が進みました。

 しかし、こうした中で2012年にコミュナル紛争が起こります。コミュナル紛争とは民族や宗教を異にする共同体同士の衝突ですが、12年5月にラカイン州で起きたラカイン人女性に対するロヒンギャ男性を集団暴行事件をきっかけに、仏教徒とロヒンギャの衝突が起きたのです。
 6月にはラカイン州に夜会外出禁止令も出されますが、8月に再燃し、192人が犠牲になり、8600の家屋が破壊されたと言います。さらに2013年になると、この対立はラカイン州以外にも拡大しました。各地でムスリムと仏教徒が衝突し、ムスリムの商店やモスクが破壊される事態が相次いだのです、
 ここまで衝突が拡大した背景には、民主化によって集会や動員が可能になった、ネットの普及(最初のラカイン州の集団暴行事件では殺された女性の遺体の写真がネットで出回った)、治安機関に対するロヒンギャ、ラカイン人双方の不信、といったものがあります。

 さらにこの対立をエスカレートさせたのが、仏教ナショナリズムの台頭です。
 ムスリム商店に対する不買運動が起こるとともに、政治僧とも呼ばれる一部の仏教僧の反イスラーム的な活動が目立つようになりました。ミャンマーでは一時的な出家も合わせると30万人近い僧侶がおり、強い影響力を持っています。仏教僧たちは「民族宗教保護教会」(通称マバタ)と呼ばれる組織をつくり、改宗や仏教徒の女性と非仏教徒の男性の婚姻を規制する法、一夫一婦制励行法などがつくられました。
 一方、2016年に発足したスーチー政権は、コフィー・アナンを委員長とするラカイン州諮問委員会を設置するなど、ラカイン州の問題に取り組む意思も見せていました。

 そうした中で起こったのが、2017年8月から始まった武力衝突です。
 ロヒンギャ側の武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が警察と国軍の施設を襲撃したことから始まっていますが、このARSAのリーダーはアタウッラー・アブ・ジュニヌというパキスタンのカラチ生まれの男で、父親がロヒンギャになります。彼は2012年のコミュナル紛争を機にラカイン州のロヒンギャ問題に関心を持ち、イスラーム系武装組織の訓練を受けたといいます。
 このARSAの実態については謎も多いですが、ARSAは2016年10月に国境警察の施設などを襲撃しています。ARSAはこれを「ジハード」だと称しました。

 そして2017年の8月25日にさらに大規模な襲撃が起き、それに対して国軍が軍事作戦を展開することになります。
 この一連の流れについては謎も多いのですが、本書ではUNHCRが設置した独立国際事実解明ミッション(IIFFM)とミャンマー政府が設置した独立調査委員会(ICOE)の報告書をもとに事件を再現しています。後者は信頼できないという見方もあるでしょうが、日本人外交官で国連事務次長も務めた大島賢三が参加しており、IIFFMができなかったミャンマー国内での調査も行っています。
 
 事件は、ARSAによる襲撃、国軍・警察によるスーチーが中止を命じるまでの9月4日までの掃討作戦、9月5日以降の軍事作戦の三段階に分かれます。
 まず、第1段階ではARSAは現地の村人なども動員して大規模な襲撃を行いました。この動員の背景には宗教指導者によるはたらきかけがあったようです。
 第二段階では、掃討作戦の中でロヒンギャの家屋などが国軍によって破壊されました。村人に対する無差別発砲などもあり、IIFFMの報告書によれば性的暴力もあったとのことです。そして多くのロヒンギャがバングラデシュへと逃れました。
 アウンサンスーチーは9月5日以降に掃討作戦は実施されていないとしましたが、5日以降もラカイン人によるロヒンギャの村への襲撃はつづいたようで、多くの難民が発生しました。
 一連の衝突の中で、IIFFMは少なく見積もっても1万人、ICOEの報告でも2000人ほどの死者が出たと見られています。

 2019年12月、アウンサンスーチーはこの問題で国際司法裁判所の法廷に立ちました。ガンビアが告発したジェノサイド条約への違反に対して反論するためですが、この法廷に実質的な国家元首が立つのはきわめて異例のことです。
 スーチーはジェノサイドについては否定しましたが、国軍の残虐行為については暗に認めました。しかし、ジェノサイドを否定したスーチーを海外メディアは辛辣に批判しました。

 スーチーは2015年の選挙で圧勝したものの、国軍との協力は難しく、国軍との対話や対立を避けるスタンスをとるようになりました。ミャンマー政府は一種の分断政府であり、国軍との関係を悪くすればスーチー政権自体が危ういのです(そしてその危惧は今年2月のクーデタで現実のものとなった)。
 国際社会はロヒンギャ問題でミャンマー政府への圧力を強めましたが、これに対してミャンマーではスーチー支持のナショナリズムと仏教ナショナリズムが高まりました。ロヒンギャ問題で欧米に同調しないスーチー政権は2020年11月の選挙で大勝しています。
 
 ロヒンギャ問題の根は深く、たとえ帰国が実現しても、今度は彼らの国籍問題が立ちはだかりますし、ラカイン人との和解も課題となります。
 終章で、著者はミャンマー政府を批判するだけでなく、日本がこの問題に関与していくことが重要だと指摘していますが、それもクーデタによって難しくなってしまいました。

 このように本書はロヒンギャ問題の難しさだけではなく、ミャンマーという国家の抱える難しさも教えてくれる内容となっています。クーデタによってロヒンギャ問題へのアプローチは暗礁に乗り上げてしまった感もありますが、それでも本書に読む価値があるのは、ミャンマー社会の複雑さと、その中で最も排除されているロヒンギャについて知ることで、他の国にも通じる統合と排除のメカニズムを学ぶことができるからです。


秋田茂・細川道久『駒形丸事件』(ちくま新書) 8点

 タイトルの「駒形丸事件」ですが、「第五福竜丸事件」や「対馬丸事件」は知っていても「駒形丸事件」と聞いてもピンとこない人がほとんどでしょう。それなりに日本史には詳しいと思っている自分も本書で初めて知った事件です。
 この駒形丸事件とは、日本の会社が所有する駒形丸という船が、1914年にインド人の移民を乗せてカナダのバンクーバーに向かったところ、上陸を拒否されて、結局インドに戻ることになり、さらにインドに戻った後に、乗客の多数が現地の警察と軍によって逮捕・監禁・殺害された事件です。
 著者の1人である秋田茂の『イギリス帝国の歴史』(中公新書)を読んだ人であれば、ここまででの情報で本書がイギリス帝国を通して描いたグローバルヒストリーではないかと想像するかもしれませんが、本書の内容はまさにそんな感じです。
 駒形丸事件というあまり知られていない事件を通じて、イギリスと植民地、そして植民地同士の関係、さらには「非公式帝国」の一部ともされる日本を含めた「インド太平洋世界」を描き出します。
 「あとがき」では、今度新しく始める高校の「歴史総合」の授業も意識していると書いていますが、まさに世界史と日本史の融合を試みた本と言えるかもしれません。

 目次は以下の通り。
第1章 一九‐二〇世紀転換期の世界とイギリス帝国の連鎖
第2章 インド・中国・日本―駒形丸の登場
第3章 バンクーバーでの屈辱―駒形丸事件
第4章 駒形丸事件の波紋
終章 インド太平洋世界の形成と移民

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリス帝国は世界の陸地の1/4を支配しました。さらにその影響力は中国、ラテンアメリカ、オスマン帝国にまで広がっており、これらの地域は直接支配されていたわけではありませんでしたが、経済的にはイギリスのルールに従わざるを得ない存在でした。本書ではそれらを「非公式帝国」と呼び、幕末から明治初期の日本もこうした存在だったといいます。
 公式帝国の代表的な植民地がインドであり、また同じくこの公式帝国の重要な構成要素がカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどの白人定住地域でした。これらの地域は19世紀半ば以降内政自治が認められるようになり、カナダも1848年に「責任政府」が認められ、1867年にはイギリス帝国内の自治領として「カナダ連邦」が発足しました。ただし、自治領の対外交渉権はイギリス政府が握っていました。

 19世紀後半、アジア間の貿易はインドから中国へのアヘンの輸出が中心でしたが、20世紀になると、インドの棉花の日本輸出などが増え、急速に伸びていきます。インドの棉花→日本の綿製品→中国といった流れもできて、イギリス・マンチェスターの綿糸は価格競争に敗れて脱落していきます。
 これを支えたのがイギリスの「自由貿易帝国主義」で、東南アジアの英植民地も巻き込みながら地域の結合が進みます。英領マラヤでは天然ゴムや錫がイギリスに輸出されますが、その労働力としてインドや中国から移民が流れ込み、彼らの生活を日本の雑貨が支えました。

 一方、19世紀半ばから20世紀前半は大量の移民がヨーロッパからアメリカ大陸やオーストラリアなどに向かった時代でもあり、イギリス帝国圏内だけでも1853〜1920年末までに970万人強が海外に移住したといいます(30p)。
 同じ時期、アジアからは統計上4660万人の移民があったといいます。その2/3の3000万人がインド人移民であり、中国人が1600万人を占めました(32p)。ビルマ、マラヤ、セイロンといった近い場所への移民が中心でしたが、西インド諸島、南米、東アフリカなどに向かう年季契約労働者もいました。奴隷貿易の廃止によって新たな労働力が求められていたのです。このアジア移民と貿易の増大はシンガポール、香港というイギリスのアジア拠点を大きく発展させました。

 インドからの移民は「苦力移民」とも呼ばれ、基本的に5年契約で、10年後に無料で帰国できる契約となっていたケースが多かったといいます。5年後にプランターは再契約を求める一方で、移民は小土地所有者、あるいは自由労働者になりたがったことから紛争が絶えませんでした。
 インド政庁は、現地の植民地政府に対して契約移民の保護や、契約満了後に苦力の定住を促す努力を求めていました。結果、インド移民は、モーリシャス、英領ギアナ、トリニダードなどで増加していきます。
 しかし、その1つであった南アフリカのナタール植民地では砂糖のプランテーションの労働力のためにインド人移民がいたものの、その権利は制限されていました。このために立ち上がったのが若き日のマハートマ・ガンディーです。
 ガンディーはイギリスの法廷弁護士の資格を持っており、インド人もイギリス帝国臣民であるとして、インド人に対する権利の制限が不当であると訴えます。帝国臣民が自由に移動、定住できるというおはイギリス帝国の大きな特徴であり、イギリス帝国内に住む人々の特権でもありました。
 
 1896年12月、一時帰国していたガンディーを載せた船がダーバン港に入港すると、検疫のためと称して乗客は23日間も上陸を許されず、翌年の1月にようやく上陸するものの白人暴徒に取り囲まれてからくも脱出するというダーバン港騒擾事件が起こります。
 ガンディーはこれに対しても「イギリス臣民の権利」を掲げて抗議し、その後もインド人を集めて南アフリカ戦争に協力するなど、イギリスに忠誠を示すことで「帝国臣民」としての認知を求めました。
 最終的に、南アフリカでのガンディーの活動やイギリス本国への訴えは実を結ばず、南アフリカにおけるインド人の権利は制限されていきます。そして、ガンディーは反英闘争の指導者になっていくのです。

 ここからいよいよ駒形丸事件の舞台となるカナダの話になりますが、インド移民の話をする前に、まずは中国人と日本人の移民について語る必要があります。
 カナダへの中国移民が増加するのは大陸横断鉄道であるカナダ太平洋鉄道の建設が本格化した1880年代です。彼らが多く住んだのはブリティッシュ・コロンビア州で、1891年には人口の9.1%の8910人にまで増えています。
 当時の白人からは中国移民は異質で非文明的と映ったようで、中国人街は賭博、アヘン、売春の「三悪」が巣食うところとされ、中国移民排斥の声があがります。ただし、州政府の移民規制の動きは連邦政府に阻止されました。この背景には大陸横断鉄道の完成を急ぎたい連邦政府の考えがあったといいます。
 しかし、大陸横断鉄道の完成に目処がつくと、中国人移民を制限する動きが始まります。1885年にカナダに到来する中国人に50ドルの人頭税を課す措置がなされ、1900年には100ドル、1903年には500ドルと税額が引き上げられます。1923年には中国移民排斥法が発効し、外交官、商人、留学生などを除く中国人の入国が禁止されました。

 1880年代後半からは日本人の移民も本格化します。排斥された中国人の代わりとして日本人労働者が求められたのですが、やがて日本人も排斥されます。ただし、日英同盟の関係もあり、あからさまに日本人を排斥する措置はとられませんでした。
 しかし、1907年9月7日、中国人街と日本人街が襲撃されるバンクーバー暴動が起こります。暴動後、カナダ政府は賠償金を支払いますが、同時に労働大臣を日本に送って、日本人移民を年間400人に制限するルミュー協定が結ばれます。

 次にインド移民ですが、インド移民は20世紀になってから徐々に増え始めたといいます。中国人移民に人頭税が課されるようになると、代わりにインド人(シク教徒が中心)が連れてこられたのです。しかし、ターバンを巻いたシク教徒のインド人はやはり異質な存在であり、インド人に対する排斥の動きが始まります。
 ただし、インド人が中国人や日本人と違ったのは同じイギリス帝国の臣民だったということです。先程述べたように帝国臣民には領域内の自由な移動が認められており、カナダ政府がインド人移民を拒むことは原則としてはできませんでした。

 そこでカナダ政府は1908年1月に「連続航路規定」という遠回しなやり方でインド人の入国を拒否しようとします。これはカナダに来る移民は出身国から連続航路を通り通し切符でやってこなければならないという規定です。当初はハワイからやって来る日本人移民を拒むための規定でしたが、インドからカナダへの直行便がないということから、これはインド人移民を拒否するためのものと理解されました。
 さらに08年5月にはアジア系出自の移民は200ドルの現金を所有していなければならないとの規定を設けてインド人移民を阻止しようとします。
 しかし、1913年のぱなま丸訴訟では、カナダ政府がこの規定でインド人移民の入国を阻止しようとしたものの、法の不備によって政府が敗訴します。

 こうした中で、インド人のシク教徒の実業家グルティット・シンは、日本の船・駒形丸をチャーターしてカナダへの移民を希望するインド人を募り、カナダへと向かう計画を立てました。
 駒形丸は1890年にグラスゴーで建造された船で、1914年の段階では日本の神栄汽船合資会社が所有し、船籍は関東州の大連にありました。大連は日露戦争後、日本が租借地として統治していた地域で、船に税がかからなかったため、多くの船の船籍が置かれていました(今でいうパナマ船籍みたいなもの)。
 傭船契約によれば契約期間は6ヶ月、運行する乗組員は船長の山本熊太郎(徳次郎とも)他全員が日本人でした。
 駒形丸はまず香港で移住者を募り、さらに上海と日本で乗船者を募り、376名のインド人(全員パンジャブ州出身)を乗せてバンクーバーへと向かいます。

 1914年の5月3日に横浜を出港した駒形丸は5月21日にバンクーバーに近づきます。検疫を終えた駒形丸はバンクーバーへ入港しますが、このときグルティット・シンは報道陣に「われわれはイギリス臣民である。帝国のどの場所にも行ける権利がある。これをテストケースとしたい。あなたがたの国に入るのを拒まれるのなら、それでは終わらない」(112p)と述べています。
 シンは明らかにカナダのインド人移民の規制にチャレンジするつもりだったのです。

 ところが、乗客の下船は許されませんでした。身体検査だけで1週間以上かかり、移民審査部による審問も非常に慎重に行われました。以前にカナダに住んでいたと申告した22人のうち20人こそ認められましたが、残りは船内に残されます。カナダの当局は引き伸ばしによってシンが駒形丸のチャーター代を払えなくなることを狙っていました。
 こうした中でぱなま丸訴訟の弁護人を務めたエドワード・バードなどがシンらの支援に動き、沿岸委員会が結成されます。カナダ在住のインド人からの支援金もあり、沿岸委員会は駒形丸のチャーター代を支払うと、法廷闘争で決着をつけることとしました。
 一方、移民局バンクーバー担当主任マルコム・リードは、バンクーバー選出の連邦下院議員でアジア移民排斥論者でもあるヘンリー・ハーバート・スティーブンスの後押しを受けて、駒形丸を強制的に退去させようと動きます。別の船で乗客を強制的に送り返すことも画策しますが、これはカナダの連邦政府に却下されました。

 カナダ政府は移民の問題を内政問題として捉え、連続航路規定や所持金の規定でもって駒形丸の乗客の上陸を拒否しようとしましたが、沿岸委員会はイギリス帝国臣民の権利を主張し、所持金規定は人種差別であるとしました。バードは、そもそもカナダ政府には上陸を拒否する権限はないと主張しています。
 しかし、裁判所はカナダ政府に移民に対する法的措置を講ずる権限があるとして移民局の対応を認めました。沿岸委員会は上告を検討しますが、長期的な費用を工面できないとしてこれを断念します。
 また、イギリス本国もこの決定に異議を唱えることはありませんでした。1918年にはすべての自治領に移民に関する政策決定を行う権限があることが認められます。第一次世界大戦の勃発とともにイギリス本国と自治領の関係は変質し、自治領の協力を得るために自治領の独自性を認めるようになっていったのです。

 この判決を背景に移民局は駒形丸の退去させようとします。ただし、駒形丸を出航させるかどうかを決める権限を持っているのは船長の山本でした。そこで、バンクーバーの日本領事堀義貴(よしあつ)が仲裁のために呼ばれます。
 そうした中で、カナダの首相ボーデンは軍艦と、バレル農相を現地に派遣して問題の解決を図ろうとします。イギリス本国もインド統治のために穏便な解決を望んだからです。結局、7月23日に駒形丸はインド人の乗客を乗せてバンクーバーを後にしました。

 こうして事件は終わったかに見えますが、そうではありませんでした。駒形丸は横浜と神戸に寄港してインドへと向かいます(ちなみに当時の日本の新聞がこの問題をとり上げていますが、シンに好意的でカナダの移民排斥の姿勢に批判的だった)。
 1914年9月29日、駒形丸はコルカタから少し離れたバッジ・バッジに到着します。インド政庁は、彼らを特別列車で故郷に送り返そうとしますが、応じたのはムスリムを中心にした62名のみで、大半のシク教徒は徒歩でコルカタに向かおうとします。そして、このバッジ・バッジからコルカタに至る道中で、シク教徒たちと警官隊が衝突し、20名の乗客が死亡し、213名が逮捕されることになるのです(シンは逃亡した)。
 
 このインド政庁の駒形丸乗客に対する強圧的な姿勢の背景には第一次世界大戦におけるインド軍の役割と兵士としてのシク教徒について考える必要があります。
 第一次世界大戦では1918年12月末までに戦闘要員として87万7068名、非戦闘要員として56万3369名のインド人が動員されました。中東地域の対オスマン帝国戦ではインド軍が主力となっています。そんな中で主力となったのがネパールのグルカ兵と「尚武の民」として知られるシク教徒でした。
 そのためインド政庁は駒形丸の乗客のシク教徒たちが反英運動を起こすことを恐れたわけですが、実際、アメリカのポートランドに拠点にガダル党とシク教徒を中心とした呼ばれる反英武装闘争を目指すグループもありましたし、1915年2月にはシンガポールで駐留インド兵が反乱を起こしています。この反乱は日本軍の軍艦音羽、対馬の陸戦隊の応援もあって素早く鎮圧されますが、インド人のイギリスに対する反発というのは存在し続けました。
 そして、これはインド政庁への批判を封じるための1919年2月のローラット法案の提出、4月に起きたパンジャーブ州でのアムリトサルの虐殺によって、インドの民族主義運動は大きく盛り上がっていくのです。
 
 本書の「おわりに」では、2016年5月にカナダのトルドー首相が「駒形丸事件」について謝罪表明を行ったことに触れています。
 かつての「ホワイト・カナダ」は多文化主義の国に生まれ変わりました。そして、その過程で再び「駒形丸事件」に光が当てられることになったのです。

 このように本書は19世紀末〜20世紀初頭のイギリス帝国の実態とその中でのダイナミックな人之動きをグローバルな視点で描き出した本になります。このまとめでは割愛しましたが、駒形丸事件をめぐる人物にも光を当てており、さまざまな人がさまざまな立場でこの事件に関わっていたこともわかります。グローバル・ヒストリーというと、抽象的な人やモノの動きを見ていくイメージがあるかもしれませんが、本書ではグローバル・ヒストリーのダイナミズムが具体的な事件や人物を通して描かれています。
 歴史好きなら面白く読める本だと思いますし、新教科の「歴史総合」に関わりそうな人には強くお薦めしたいですね。


波多野澄雄『「徴用工」問題とは何か』(中公新書) 7点

 さまざまな問題を抱えている日韓関係ですが、その中でも特に厄介なのが本書がとり上げている「徴用工」問題でしょう。従軍慰安婦や韓国人被爆者の問題は、日韓基本条約で解決できなかった「例外」として捉えることも可能ですが、日本にとって「徴用工」の問題は、まさに日韓基本条約で解決したはずの問題だからです。
 本書は、その「徴用工」問題に対して、日本の植民地支配の実情と「徴用工」の位置づけ、日韓基本条約締結交渉でのこの問題の取り扱い、2018年の韓国最高裁の判決のロジックという3点に注目しながら論じたものです。
 著者は『幕僚たちの真珠湾』、『国家と歴史』(中公新書)などの著作がある日本近現代史の研究者で、「韓国(朝鮮半島)のことについてどの程度わかっているのか?」という疑問を持つ人もいるかもしれませんが、「あとがき」によると韓国政治を専門とする木村幹に草稿を見てコメントをもらっているということで、韓国側のロジックもそれなりに踏まえた内容となっています。

 目次は以下の通り。
第1章 帝国日本の朝鮮統治
第2章 移住朝鮮人、労務動員の実態
第3章 日韓会談と請求権問題―国交正常化までの対立
第4章 日韓請求権協定への収斂―「一括処理方式」へ
第5章 韓国最高裁判決の立論と歴史認識
終章 「徴用工」問題の構図―歴史と法理

 第1章と第2章では、日本の植民地支配と動員の実態が書かれています。
 まず、日本の植民地支配の特徴ですが、日本の植民地は朝鮮、台湾と日本に隣接した地域にありました。そのため、内地との一体化がはかられ、日本からの移住が推進されるとともに、植民地間の人口移動も大きく、さらに1つの経済圏として開発が行われました。戦間期において、日本、朝鮮、台湾は西欧十二カ国の倍以上の経済成長を遂げ、三地域とも同じような水準の成長だったといいます(5p)。

 日本は1905年の第2次日韓協約で韓国を保護国化すると、1910年に韓国併合を行います。朝鮮半島では大日本帝国憲法は施行されず、朝鮮人の政治的権利は大きく制限されましたが、日本と一体的な経済活動を行うための法は整備されました。官僚制に依拠する中央集権的な統治システムがとられ、朝鮮総督のもとで日本の中央官庁から派遣された官僚が統治を担いました。
 
 本書では日本による朝鮮統治を4つの時期に区分してみています。
 まず、第1期は1910〜19年の、いわゆる「武断政治」と呼ばれる時期で、寺内正毅朝鮮総督のもとで治安維持を重視した政治がなされ、土地調査事業も行われています。朝鮮人の土地が奪われ日本人に土地が渡ったという理解がされていますが、併合から1935年までに日本人の手に渡った土地は10%にも満たないということです(21p)。
 しかし、この武断政治は三・一独立運動を引き起こします。日本はこれを弾圧しますが、逃れた李承晩は大韓民国臨時政府を立ち上げます。
 第2期は1920〜30年まで。いわゆる「文化政治」が導入された時期で、朝鮮人の協力を得ながら統治を進めるという形に方向転換がなされます。ハングルの新聞の発行許可、地方自治制度の導入、朝鮮人官吏や「親日派」の育成が図られました。同時に、日本に対する米の供給基地としての開発が進められていきます。

 第3期は1931〜39年まで。満州事変後になると、再び朝鮮半島に対する陸軍の関与が強まり、大陸進出のための資源供給地として鉱工業が発展します。朝鮮南部には軽工業が、北部には重化学工業が発達し、朝鮮内部でも工業化、都市化が進展していきます。
 第4期は1940〜45年ですが、この時期になると朝鮮でも総動員体制が敷かれるようになります。日窒コンツェルンが独占的な地位を占めるようになり、朝鮮内での農村から工業地帯への動員が進みます。そして、戦争の拡大とともに日本での労働力不足が深刻になると、朝鮮は日本に対する労働力供給基地としての役割も期待されるようになるのです。

 「徴用工」の問題はこの第4期で問題になるわけですが、世界的に見ると、第1次世界大戦の総力戦から植民地の人員が本国の戦争に動員される仕組みができあがってきます。
 日本でも戦争の進展とともに植民地や占領地からの動員が行われましたが、朝鮮に関しては動員以前に、出稼ぎの形での自由移入がありました。
 併合時の朝鮮の人口は1300万人ほどと推定されていますが、終戦時には2500万人に増加しています。そして、内地に移住した朝鮮人は併合時には2500人ほどでしたが、1920年に4万人を超え、30年には42万人、38年には約80万人、終戦時には約200万人と急増しています(45p)。朝鮮の過剰な人口が内地に流れ込んだのです。
 1920年代末になると、朝鮮人の流入は社会問題化し、1934年には朝鮮人の渡航抑制に乗り出します。

 1938年に日本で国家総動員法が成立します。この法律は基本的に外地にも及ぶものとされましたが、朝鮮総督府は同法の直接適用を避け、総督権限に基づく規則や行政措置をもって臨みます。
 39〜41年にかけては8万人台の朝鮮人の内地への移入が計画されますが、34年の渡航抑制措置は生きており、その例外として集団募集が行われました。しかし、実際の移入は計画の46〜66%にとどまっています(50p2−2参照)。
 当初は事業者が独自に募集する方式が行われましたが、朝鮮総督府がかなり厳しい統制を行ったこともあって募集は簡単ではなかったようです。そして、この自由募集を上回る勢いで自由渡航が増加しました。
 
 42年になると、「朝鮮人労務者活用に関する方策」が閣議決定され、34年の渡航抑制規定が撤廃されます。優秀な朝鮮人青年を日本語の訓練などをした上で送り出し、内地の労働不足を補い、2年後に戻って朝鮮の産業発展に尽くすという動員計画でしたが(現在の技能実習制度の「理想」のよう)、当然ながらこのようにうまくはいきませんでした。
 大半の若い労働者はすでに朝鮮北部の工業地帯、内地、軍属や志願兵で動員されていましたし、総督府にも内地にも訓練を実施する余裕はありませんでした。
 労働力の再分配のために42年からは官斡旋方式が導入され、計画に近い数の移入が行われることになります。41年までは3割近い労務者が引き抜きなどによって作業場に定着しなかったために、「隊組織」をつくっての集団渡航が行われました。
 朝鮮人労務者は、土建業、炭鉱や金属鉱山、軍需工場などで働きましたは、特に炭鉱では朝鮮人労務者が求められ、北海道では43年末の段階で坑内労働者の65%、坑外労働者45%が朝鮮人だったといいます(60p)。

 44年9月になると、国民徴用令の朝鮮への適用が決まります。国民徴用令による動員は拒否すれば罰則があるものでしたが、徴用すれば衣食住や医療を保障する必要もあり、待遇としては今までの方式よりも恵まれていた面もあります。
 44〜45年の1年間で51万4000人の朝鮮人が徴用されますが、その6割は朝鮮半島内の就労で、残りが内地向けの動員となります。
 「徴用工」というと、この国民徴用令によって徴用された労務者ということになりますが、徴用令以前の動員に関しても「徴用」だと認識しているケースもあり、特に韓国では労務動員一般を「徴用」としていることが多いです。
 朝鮮人労務者の待遇は良いものではありませんでしたが、労働契約書に署名し、報酬を得ており、自ら望んで日本に渡った者もいます。一方、強引な人集めが行われたケースも有りましたし、また、当時の炭鉱の待遇は日本人にとっても過酷なものでした。

 第3章と第4章では日韓の国交正常化交渉が扱われています。
 戦後、大韓民国が成立すると、米韓協定によって朝鮮半島における日本の財産は韓国政府の管理下に移されます。また、李承晩政権は韓国併合以来の被害の補償を求めてサンフランシスコ講和会議への参加を要求します。日本政府も「在日朝鮮人が講和条約によって日本国内で連合国人の地位を取得しない」のであれば韓国政府の署名に意義はないと回答しますが、イギリスの反対もあって韓国の参加はなりませんでした(86p)。
 そこでアメリカは、対日請求権の処理は「特別取極」に委ねる一方で、米国の財産処理の効力を日本に認めさせます。

 その後、1952年2月から日韓会談が始まりますが、交渉は難航します。まずは日韓併合条約は有効か無効かという対立がありましたし、韓国の賠償請求や日本人の財産をめぐっても厳しく対立しました。
 日本政府は、私有財産に関しては正当な経済活動の成果であり、私有財産の保護を規定したハーグ陸戦条約などを根拠にその請求権を主張します。一方、韓国政府は「日本の統治はすべて不法という韓国人の国民感情を考慮して財産問題を処理しなければ合意点はない」(96p)と主張します。
 結局、53年10月の日本の植民地支配における韓国への投資を持ち出した久保田貫一郎首席代表の発言をきっかけに交渉は打ち切られ、4年以上に渡って中断します。

 その後、アメリカ側のサンフランシスコ講和条約に関する解釈が示され、日本の対韓請求権が主張できないということで、日韓が一致しますが、日本は相互放棄、または相殺を主張していくことになります。
 1960年になって池田内閣のもとで日韓交渉が始まると、日本は東南アジア諸国との間で結ばれた「経済協力」の方式で日韓交渉を妥結させようとする一方、韓国側は朝鮮人労働者の問題を持ち出します。韓国側は強制的な動員や虐待に対する補償を求めましたが、日本はそれならば人数や傷病の程度などの具体的な積み上げが必要だと応じます。

 1961年の五・一六軍事クーデターで朴正煕政権が成立すると、朴政権は日韓交渉の早期妥結を目指します。朴政権は、賠償の金額とその「名目」を重要視しながら交渉を進めました。
 この交渉にはアメリカも介入し、韓国側が要求する8億ドルと日本の3億ドルをスタートラインとみなし、5億ドルという数字を落とし所として日本側にも伝えています。
 また、韓国側は「被徴用者」として韓国人労務者66万7684名、軍人・軍属36万5000人という数字をあげてその補償を求めます。日本側は被徴用者の未収金の支払いについては前向きでしたが、被徴用者の被害に対する保証に関しては日本人にも補償をしてないことからこれを拒否します。
 結局、韓国側も1つ1つ積み上げていく方式には限界を感じて、政治的決断によって日本政府が一定の金額に払うやり方に傾いていきます。

 1962年7月に大平正芳が第2次池田内閣の外相に就任すると、大平は日韓交渉妥結のために請求権問題と経済協力をパッケージで解決する「一括処理方式」を取ることを決め、金額の交渉に入っていきます。
 62年11月に大平と金鍾泌中央情報部長が会談し、無償供与3億ドル、有償借款2億ドル、民間借款1億ドルという金額で合意します。
 この後、このお金の支払い名目をどうするかという問題が起こり、また、金鍾泌が失脚したことで交渉は停滞しますが、1965年、ついに日韓基本条約が締結されます。民間借款を3億ドルまで増額し、韓国側の日本への請求権は「完全かつ最終的に解決されたこととなる」(143p)とされました。
 韓国側は交渉では請求権にこだわりつつも、受領した資金は主に経済建設に投入されることになり、軍人・軍属、労務者に対する補償にあてられたのは91億9000万ウォンで、無償提供された3億ドルの9.7%ほどでした(176p第5章の注2)。

 しかし、この「完全かつ最終的に解決」したという日韓基本条約の取り決めを覆したのが2018年の韓国の最高裁にあたる大法院の判決です。この判決のロジックを分析したのが第5章です。
 実は2018年の判決の前には2012年の大法院による、元韓国人労務者が敗訴した訴訟の原審判決の破棄・差戻しがあります。
 被告の日本企業は、日韓基本条約で解決済み、訴訟の請求原因となった事実はすべて日本で発生しており韓国の裁判所に管轄権はない、日本の最高裁で決着済み、との3点を主張しましたが、韓国大法院は、日本の植民地支配は不法な支配であり、大韓民国憲法は三・一独立宣言によって成立した大韓民国臨時政府の理念や精神を「核心的価値」として継承しており、「日本判決をそのまま承認する結果は、それ自体として大韓民国の善良な風俗やその他の社会秩序に違反するものであることは明らか」(151p)だと判断したのです。
 そして、2018年の判決は、この2012年の判断を受け継いでいます。

 この2012年の判断と2018年の判決に対しては、「条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用してはならない」と定める「条約法に関するウィーン条約」の第26条に違反しているとの指摘がありますし(157p)、行政府と議会が所管する条約の解釈に司法が誤った介入をしたものだとの批判もあります。
 この判決では植民地支配の不法性がポイントになっていますが、そもそも日韓会談とそれが依拠した講和条約体制は植民地支配の精算を意図したものではなく、また、この判決は講和条約体制を揺さぶるものです。

 ただし、日本も請求権自体が完全に消滅したとの解釈をとっているわけではなく、最高裁は国家が自国民の請求権につき国家として有する「外交保護権」を放棄したものだと捉えています。実は、2018年の韓国大法院の判決でも、反対意見では請求権は消滅していないが、その講師は制限されるという意見が出ており、日本の最高裁に近い考えになっています。
 そして、著者は「そこに、対話の余地が残されている、ともいえる」(172p)と考えています。

 さらに終章でいくつかの補足を交えながらまとめ直されていますが、だいたい以上のような内容になります。
 今回の韓国大法院の判決に注目するだけではなく、日韓基本条約に至る交渉の過程をかなり詳細に論じることで、日韓基本条約の「妥協」の内容と、今回の判決のそこからの「逸脱」がわかるようになっています。この問題を理解する上で有用な本だと言えます。
 しかし、韓国人がこの本を読んで納得するかと言えば、そうではないでしょう。
 本書の日本の植民地支配についての記述は「そこまでひどくはなかった」というニュアンスで書かれており(誤解されそうなので書いておくと、本書は「日本の植民地支配は良いものだった」というニュアン師で書かれているわけではない)、多くの韓国人は反発するでしょう。
 もしも、対話の糸口をつかみたいのであれば、「事実」はともかく「アプローチ」としては、「植民地支配はそこまでひどくなかったし問題は解決したはずだ」よりも「植民地支配はひどかったが問題は解決したはずだ」の方が可能性があるのではないかと思います(個人的に、日本の植民地支配全体を評価するだけの知識はありませんが、朝鮮人労務者の扱いなどに関しては、外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書)などから本書が描くよりももう少し「ひどい」心象をもっています)。 
 そのあたりは政治の話になるのでしょうが、本書を読んでも解決の糸口はまだ見えてこないというのが正直な感想です。


田中拓道『リベラルとは何か』(中公新書) 6点

 政治の世界でよく使われる「リベラル」という言葉ですが、では一体何を指すのかと言うと、意外と難しいのものがあります。「リベラル」の辞書的な意味は「自由な」、「自由主義の」、あるいは「寛大な」といったものになりますが、日本ではいわゆる左派が「リベラル」を名乗ることも多い一方で、自由民主党の英語名は「Liberal Democratic Party」です。
 こうした「リベラル」という言葉をめぐる混乱を歴史的経緯を踏まえて整理しつつ、リベラルという思想の可能性や、あるべきリベラルの政策を探った本になります。
 本書の特徴は、百花繚乱という形の「リベラル」という言葉の使われ方を一定の範囲で限定しながら論じている点で、それが例えば吉田徹『アフター・リベラル』(講談社現代新書)に比べたときに、わかりやすさを生んでいます。
 ただし、個人的にはそのわかりやすい整理の中で切り落とされたものもあるのではないかと感じました。

 目次は以下の通り。
第1章 自由放任主義からリベラルへ
第2章 新自由主義vs.文化的リベラル
第3章 グローバル化とワークフェア競争国家
第4章 現代リベラルの可能性
第5章 排外主義ポピュリズムの挑戦
第6章 日本のリベラル―日本のリベラルをどうとらえるか
終章 リベラルのゆくえ

 まず、本書の特徴は冒頭で「現代のリベラルとは「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」(i p)と明確な定義を与えている点です。
 これによって古典的な自由主義の系譜や、バーリンの「消極的自由」を擁護する立場などを対象から外しています。
 また、ヨーロッパの「リベラル」は「小さな政府」を求め、アメリカの「リベラル」は「大きな政府」を求めるという対比がありますが、本書ではこの対比がここまで強く考えられているのは日本くらいなもので、他の国々では、古典的自由主義と現代リベラリズムの対比こそが中心であり、ヨーロッパの「リベラル」も現代においては現代リベラリズムだという見方が採用されています。

 第1章では古典的自由主義の流れが簡単に整理されていますが、本書ではロックの思想をその出発点に置き、その特徴を個人の自然権と法の支配による国家権力の制約にもとめています。
 産業革命の進展とともに自由主義はブルジョワジーの経済的利益を代弁する思想になっていき、19世紀には「自由主義の黄金時代」を迎えました。
 しかし、労働者階級の長時間労働や貧困が問題になるにつれ、都市部の専門職やジャーナリストなどの自由業を中心にこうした問題の解決を求める声が強まります。彼らは「社会主義と異なり市場経済を肯定する一方で、「自由」をたんなる私的利益の追求と結びつけるのではなく、個人の尊厳や道徳的発展と結びつけた」(15p)のです。
 本書では、こうした動きを示すものとしてイギリスの「ニュー・リベラリズム」、フランスの「連帯主義」、アメリカの「革新主義」などがあげられています。

 世界恐慌が起こると、古典的な自由主義は社会主義とファシズムに挟撃され力を失いますが、新しいリベラルな思想も生まれてくることになります。ケインズは経済的な自由主義を修正して国家が経済に介入する道を開き(ただし、ケインズには個人の人格的発展や分配論について関心は薄い(27p)、ベヴァリッジは「ナショナル・ミニマム」を保障する社会保障制度を提案しました。
 そして、第2次大戦後には、労働者は経営者の協力して生産性を向上させ、経営者は労働者の雇用を保障して生産性の伸びに合わせて賃金を引き上げ、さらに国家が経済成長の果実を公共投資と社会保障へと回し個人の「自由な生活」を保障するという合意、「リベラル・コンセンサス」が出来上がります。

 しかし、このリベラル・コンセンサスは1970年代に行き詰まります。第2章では、この行き詰まりと、その後に出てきた新自由主義と文化的リベラルがとり上げられています。
 1973、79年の2度の石油危機は先進諸国の経済成長のペースを大きく低下させます。さらにグローバル化の進展はケインズ的福祉国家の維持を難しくさせました。産業構造も第2次産業から第3次産業へのシフトが起こり、人びとの価値観も多様化しました。
 そんな中で登場したのが新自由主義です。新自由主義と言うと市場万能主義のようにも思われていますが、その思想的バックボーンとなったハイエクやフリードマンは福祉国家が個人の生き方に介入することを批判しました。新自由主義のリベラル批判の中核には「価値の多元性」があります。
 新自由主義の考えを反映した政策を行ったのが、イギリスのサッチャー政権でありアメリカのレーガン政権でした。ただし、新自由主義は当初期待されたようなトリクルダウンを生み出さず、格差の拡大に対しては新自由主義政権は保守的な道徳を押し出すようになります。

 一方、70年代には文化的リベラルとも言われる動きも起こってきます。イングルハートは1970年に20歳前後になった世代から、「物質主義的価値観」を持つ人よりも「脱物質的価値観」を持つ人が増えてきたと指摘し、これを「静かな革命」と呼びました。経済的安定や治安などリベラル・コンセンサスが約束した価値に代わって、政治や職場での決定への参加、環境、人権の尊重などをより抽象的な価値や自己決定を重視する人が増えたのです。
 こうした考えの転換を背景に、環境運動、反戦運動、人種的マイノリティの権利運動、フェミニズム運動などがさかんになります。
 また、新自由主義が価値の多元性を表明しつつも政策面では経済的な価値に集約されるような政策をとったのに対して、文化的リベラルはあくまでも価値の多元性を主張しました。

 こうした結果、キッチェルトによると、今までの「市場中心か国家中心か」という右と左の政治の対立軸は、それに社会秩序や文化に関して個人の自由と平等を最大限に尊重する「リベラル」と社会の秩序が階層と権威によって成り立つと考える「保守」という対立軸を加えたものになります。
 そして、現代の政治の対立軸は、経済的には国家中心で文化的には「リベラル」の「左派リベラル」と、経済的には市場中心で文化的には「保守」の「右派保守主義」が中心になります。
 ただし、文化的リベラルはキッチェルトが想定したほどには大きな政治勢力にはなりませんでした。この理由として、当初、支持層として想定されていたサービス業の従事者や中産階級が、グローバル化の中でその地位が不安定になり、文化的リベラルの運動が「一握りの恵まれた社会層による高踏的な理想論だというイメージ」(67p)を持たれてしまったことなどが考えられます。

 一般的に新自由主義の隆盛によって「小さな政府」がもたらされたと考えられがちですが、実態は違います。このあたりを論じているのが第3章です。
 確かにOECD諸国の平均法人税率は2000年の30.4%から2018年の22.3%へと下がりましたが、平均総税収(GDP比)は2000年の33.8%から2018年の34.3%へ微増しています(71‐72p)。公的社会支出(GDP比)に関しても1990年と2015年の比較で、日・米・英・仏・スウェーデンの中で減少しているのはスウェーデンだけです(72p図表3−1参照)。
 もちろん、高齢化という要因もあるのですが、格差の拡大や不安定な雇用の増大で、政府支出拡大の要求は高まっているのです。

 労働市場はギグ・エコノミーの登場などでますます流動化しつつありますが、そうした中で「インサイダーとアウトサイダーの二分化」が進行しています。安定した雇用で社会保険によって守られた正規労働者と、断片的で不安定な雇用で社会保険からも弾かれがちな非正規労働者に大きく分かれてしまっているのです。さらに、家族構成も変化し、共働き世帯、一人親世帯、単身世帯が増え、以前のような「男性稼ぎ主モデル」にあてはまらない家族が増えています。
 こうした中で、以前のような定型的なリスクに対応する社会保険だけでは人びとの生活を守りきれなくなっています。

 そこで、アメリカの民主党やイギリスの労働党などの中道左派政権は、新自由主義を修正し、「ワークフェア競争国家」とも言われるスタイルを模索します。
 これは、市場の活力を重視しつつ、同時に国家が教育や福祉を通じて人びとに働きかけ労働参加を促すスタイルになります。70年代以降、貧困層への手厚い福祉が問題視され、それが中産階級の左派離れを引き起こしていましたが、福祉(ウェルフェア)を就労(ワーク)へ方向づけることで、新しい福祉の形を目指したのです。
 こうした政策では表向きでは多元性が尊重されましたが、実際は経済的繁栄を価値の中心に置くもので、社会秩序の次元でも保守的であったと著者は診断しています。

 本書ではこのように、「ワークフェア競争国家」はリベラルが対抗すべきものと想定されているわけですが、では、リベラルの取るべき道を考えたのが第4章です。
 本章の前半ではロールズの『正義論』、センのケイパビリティ、エリザベス・アンダーソンの運の平等論に対する批判(ロールズは才能や境遇の違いは運・不運によるものであり、これらは是正されるべきだと考えたが、アンダーソンはそれに加えて個人の選択が引き起こす格差問題にも対処する必要があると考えた)が紹介されています。

 リベラルに担い手となるべき左派政党はジレンマに直面しています。正規労働に従事するインサイダーは雇用の保護や社会保障の維持を求めますが、不安定な職業に従事するアウトサイダーは就労支援や再分配の拡大を望みます。インサイダーの考えを重視すればアウトサイダーは棄権か極右か極左のポピュリズムに流れるかもしれませんし、アウトサイダーを重視すればインサイダーは右派政党に流れるでしょう。
 さらに経済的な対立よりも文化的な対立が良い先鋭化している問題もあります。グローバル化とともにコスモポリタン的な価値観を持つ人々と、安定した生活が失われたと感じ伝統的な共同体を守ろうとする人々に分裂しつつあるのです。
 
 EUが2000年に採択したリスボン戦略では、「人への投資」が打ち出され、これらは「社会的投資」として発展していきます。事後の再分配よりも教育などの事前の投資を重視する政策です。
 ただし、これには経済的価値のみを重視しているとの批判の他、こういった福祉は富める者をますます富ませ貧しい人をより貧しくする「マタイ効果」があるとの批判もあります。例えば、共働きの支援策によってパワーカップルの所得が高まりますし、高等教育の強化も基本的には高所得層に利益をもたらす政策です。
 こうした中では、インサイダーとアウトサイダーの双方の合意が得られるような改革が必要になります。オランダの労働市場改革のようにうまくいったケースもありますが、アウトサイダーがどのような選好を持っているのかを捉えきれていない(例えば、雇用の保護と流動化のどちらを求めているのか?)のが現状で、ここにポピュリズムが台頭する余地があります。

 第5章では、そのポピュリズムに関して、外国人の排斥を訴える排外主義ポピュリズムに焦点を合わせながら分析しています。
 本書では、「既成政党を腐敗したエリートの代弁者として批判し、これまで無視されてきた人民の意思を直接的に代表する自称する運動を指す」(130p)というカス・ミュデらのポピュリズムの定義を採用し、今日の特徴として排外主義と結びつくことを指摘しています。

 以前の右派ポピュリズム政党は、経済的には市場中心、文化的には保守と、新自由主義なとと同じポジションをとっていましたが、グローバル化の進展によって経済的に不安定な層が増えると、右派ポピュリズム政党はその立ち位置を経済的には国家中心(つまり「大きな政府」)にシフトさせていきます。自国の福祉を守るために排外主義を取るというスタンスです。
 一方、多文化主義に対しては福祉のために必要な連帯意識を薄めるものだという批判が出てきます(アメリカの福祉国家の規模がヨーロッパよりも小さいのは民族的多様性のせいだという説もある(140p))。
 ただし、こうした分断を生まれるのは福祉が制度が選別的だからであり、普遍的な制度(誰でも受給対象になる)であればそうはならないという考えもあります。

 第6章では日本の「リベラル」について分析しています。
 日本において、「リベラル」という用語は「護憲・平和主義」を表すものとして使われることがあり、欧米とは異なる意味で使われることがあります。
 もともと日本は自由主義の伝統が弱く、リベラル・コンセンサスに関しても本書では「なかった」(生産性の向上はあったが経営者主導であった)と見ています、福祉に関しても経済成長の原動力として位置づけられており、公的社会支出は他国に比べて一貫して低いままでした(162p図表6−2参照)。
 80年代になると、人びとの生活は安定してきますが、それは企業による手厚い保障がもたらしたもので、職種やジェンダー関係なしに保証がなされたわけではありません。
 そして、バブル崩壊後の長い景気低迷の中で、非正規雇用が増え、「男性稼ぎ主型」家族は少数派になりつつあります。一方で、福祉のほうはそうした変化に追いついていないのが現状です。

 日本の政治において「リベラル」という用語が多く用いられた時期は、1994〜96年頃と、2017年前後です。
 まず90年代半ばに増えたのは、政界再編の中で、社会党系の議員が「革新」に代わって「リベラル」という言葉を使ったこと、自民・新進の保守二大政党に対抗する第三極を目指す勢力が「リベラル」を自称したからです。そして後者の流れは民主党政権へとつながっていくことになるのですが、民主党の政策パッケージは体系性を欠いたものであり、また、確固たる支持基盤をつくれないままに終わります。
 2017年に立憲民主党が結成されると、再び「リベラル」という言葉が多く用いられるようになりますが、立憲民主党の主張する「リベラル」は「法による国家権力の制約」という古典的自由主義の考えに力点が置かれたものでした。
 その一方、第2次安倍政権において、首相自ら「私がやっていることは(国際標準では)かなりリベラルだ」(185p)と発言することもありましたが、雇用や福祉への公的支出水準の低さなどから、著者は第2次安倍政権はリベラルではなく、ワークフェア競争国家に近いものだとみています。

 このように切れ味鋭く現代のリベラルについて解説した本で、わかりやすい見取り図のリベラルの課題を教えてくてます。
 ただ、最後に2点ほど疑問に思ったことを指摘しておきます。まず、1つは社会民主主義の位置づけです。現代の「リベラル」を古典的自由主義からの変質として描いているわけですが、では、欧州において大きな力をもった社会民主主義はどう位置づけられるのかということが気になります。
 もう1つは次の図式です(191pより)。
IMG_1086


 



















 このまとめでも書きましたが著者はイギリスのブレア政権やアメリカのクリントン政権によって推進されたワークフェア競争国家を図の右下に位置づけます。ただ、この右下にはワークフェア競争国家だけではなく、いわゆる新自由主義も入るでしょう。そうなると「イギリスの保守・労働両党、アメリカの共和・民主両党の対立軸はどこにあるのか?」という問題が出てきます。同じ象限にいるのであればあれだけ激しく対立するのはなぜなのでしょうか?
 これを二大政党の政策は限りなく接近すると考えるホテリングの定理で説明することも可能でしょうが、個人的には何かを間違えているのではないかと感じます。 
 確かに本書はわかりやすいのですが、「リベラル」を理想化することで、かえって「リベラル」の範囲を狭めてしまっているところがあるようにも思えるのです(ブレア政権やクリントン政権が右下ならば、左上や右上には何が入れられるんだ?ということ)。


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