戦前はドイツ大使館に勤務し「枢軸派」として名を馳せ、一度は外務省を追われながら、ふたたび外務省に戻り、外務次官や駐米大使を務めるなど戦後外交の中心を担った牛場信彦の評伝。
著者は元読売新聞の記者で、牛場の生涯をたどりながら、批判を受けながらも外交の最前線に立ち続けた牛場の生き様を描こうとしています。
目次は以下の通り。
牛場は1909(明治42)年、現在の兵庫県神戸市垂水区に生まれています。祖父の卓蔵は慶應義塾出身、福沢諭吉にも評価された人物で山陽鉄道の総支配人などを務めています。兄の友彦は近衛文麿の秘書官も務めた人物で、その兄の後押しもあって、第一高等学校に進学し漕艇部に入部しました。
著者は牛場の生き方は、この漕艇部での最後まで全力を出し尽くす精神から来ていると見ており、のちに最後まで枢軸派として振る舞った背景にも、一度決めたらとことんやり尽くすという漕艇部で培われた牛場の生き方をみています。
1932年、東大を卒業した牛場は外務省に入省します。翌33年6月、ドイツへの異動を命じられベルリンへと向かいます。
ドイツではこの半年前の33年1月にナチスが政権を奪取、3月には全権委任法が成立しており、牛場が赴任したドイツはヒトラーの独裁体制が成立したばかりのときでした。
牛場はナチスの経済政策やベルリン・オリンピックを高く評価しており、また、東京オリンピックの招致に関してヒトラーを通じてムッソリーニのローマに立候補を取り下げてもらうという駐在武官・大島浩の工作を手伝ったこともあり、ヒトラーを「言ったことは、ちゃんと実現する人間だった」(43p)と評価していくことになります。
このころになるとドイツ大使館では大使を差し置いて大島浩が日独防共協定の締結に動くなど、その独断専行が目立つようになりますが、牛場はその大島に対して、(大島の公邸を訪ねたとき)「叔父さんの家に来たように気が落ち着く」と述べています(52p)。牛場はこのあと大島を慕いその動きをフォローしていくことになります。
1937年に牛場は帰国。このとき牛場は外務省「革新派」の一員として、当時の宇垣一成外相に対し、白鳥敏夫を外務次官にすることや対中和平工作の中止を訴える「建白書事件」を引き起こしています。
その後、阿部信行内閣での貿易省設置問題では、設置阻止のために動きますが、その動きが目立ったせいもあり1939年にイギリス行きを命じられました。
1941年に牛場は帰国を命じられますが、経由地のリスボンで駐独大使になった大島から「来ないか」と声が掛かると、牛場はドイツへと向かいます。
ここで牛場は「枢軸派」として活躍するわけですが、この本では同時に日本はドイツの対ソ開戦を事前にきちんと伝えられず(大島は知っていたようですが)、ドイツは日本の対米開戦を事前に知らされないという三国同盟のちぐはぐさも指摘しています。
1942年になるとドイツの勢いも鈍り、日本のスウェーデン大使館はドイツについて悲観的な見方を本国に伝えるようになりますが、牛場は大島の名代としてストックホルムに出向き、臨時代理行使の神田襄太郎に対して「あなたは国賊だ」と口にしたと言われています(85p)。
著者は牛場は「敗色濃厚」を意識していた(80p)とし、そうした情勢判断の中でも一度決めた道を全力で進もうとし、「負けっぷりをよくする」ために力を尽くした(88p)と評価していますが、このあたりはやや贔屓の引き倒しを感じずに入られません。
1943年末に牛場は帰国を命じられ、44年1月に日本に到着。そのまま終戦を日本で迎えることになります。
1946年7月、牛場は首相兼外相だった吉田茂のいわゆる「Yパージ」によって外務省を追われます。
その後、牛場は東京裁判で戦犯として起訴された大島浩の弁護人を引き受け2年余り弁護活動を手伝います。結局、大島は終身禁錮刑となりましたが(約7年で保釈)、あえて大島の弁護を引き受けた所に牛場の性格が出ているといえるでしょう。
その後、仲間と貿易会社を興そうとするもうまく行かず浪人状態となりますが、1949年7月外国為替委員会の事務局長に引っ張られます。吉田政権下でよく牛場が公職に復帰できたものだと思いますが、著者は吉田の側近であり牛場のことも知っていた白洲次郎の引き立てがあったのではないかと推測しています(111p)。
それまで牛場は経済に明るかったわけではないですが、この後は自由貿易の推進のために働いていくことになります。
1951年には通産省の通商局長となります。ここでも白洲の引き立てがあったと考えられますが、戦前の商工省時代からの人間にとって牛場は外から送り込まれた人間であり、牛場に対する反発もあったようですが、その仕事ぶりは評価されていたようです。
1954年に外務省に復帰、官房審議室参事官からビルマ大使館参事官となりビルマとの賠償実施協定締結の交渉を行います。
その後、官房審議官を経て1957年に経済局長となり「経済外交の専門家」としての道を歩みはじめ、「ガットの守り神」とまで言われるようになります。
牛場がガットにこだわった理由を、本人はのちに次のように述べています。
その後牛場はカナダ大使を経て1964年には外務審議官になり、ケネディ・ラウンドや日韓交渉などを担当します。この日韓交渉はハードな交渉となり何度も怒鳴り合いとなったそうですが、なんとかこれをまとめ日韓基本条約の調印にこぎつけました。
1967年、牛場は「できたら、私に次官をやらせていただきたい」と自ら手をあげ(165p)、ついに事務次官に就任します。
牛場の考えは日本を「一流国」にすることであり、核拡散防止条約(NPT)の交渉については「日本としては核不拡散条約に加入する結果、永久に国際的な二流国として格付けされるのは絶対に堪え難い」(169ー170p)とのコメントを残しています。
この牛場の考えは時に政治との摩擦も生み、非核三原則と沖縄返還をめぐって「本土並み(核抜き)の基地でなければならぬと決めてかかると、外交交渉は難しい」(173p)と述べ、問題となりました。
とはいえ、牛場は佐藤政権からは信頼されていたようで、1970年には駐米大使としてワシントンに赴任します。
牛場は日米間の懸案となっていた繊維問題に苦しめられますが、これを解決したのが通産大臣となった田中角栄でした。
さらに1971年7月のニクソン訪中の発表、8月の金・ドルの交換停止という「2つのニクソン・ショック」が牛場を襲います。特にニクソン訪中に関しては牛場はまったく予想しておらず、国連の中国代表権問題でも台湾にこだわり日中国交正常化に対して硬直的な姿勢を示します。
この本では牛場のその率直な姿勢がアメリカの関係者に好感を持たれたものの、キッシンジャーについてはユダヤ系の自分にドイツ料理を振る舞う牛場の「無神経さ」が気になっていたとの話も紹介されています(211ー212p)。
また、佐藤後継に関しては、牛場は「福田派」とみなされており、田中角栄が後継に決まったあとも日中国交正常化について慎重な姿勢をとり続けました。
結局、1973年の5月に牛場は駐米大使を解任されます。当時の外相は大平正芳でしたが、牛場の言動は田中−大平の外交ラインからは外れるものだったのです。
ここからは余生となってもおかしくないのですが、その後も牛場が第一回サミット準備会合の日本代表、福田内閣の対外経済相などを努めます。その仕事ぶりはガンになってからも変わらず人工肛門をつけながら世界を飛び回りました。
そんな中、この本では牛場が岡崎久彦にハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』の翻訳を依頼したエピソードが紹介されています。この本は「ハル・ノート」はアメリカを参戦させるための陰謀だったとする本で、岡崎久彦は「牛場さん、やっぱり本当は親米派じゃないんだ」と思い知った(261p)と述べています。
1984年に牛場は亡くなりますが。その功績は大きなものでしたが、「枢軸派」の影は最後までつきまといました。
この本は牛場の「変節」を比較的好意的に描いていますが、いろいろと考える材料も盛り込まれており、読んでどう考えるかは人それぞれといったところでしょう。
やや話の流れを追いにくい部分もあるのですが、牛話を知るさまざまな人にも取材をしており、牛場信彦という人間の姿を浮かび上がらせることができているのではないでしょうか。
変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)
浅海 保

著者は元読売新聞の記者で、牛場の生涯をたどりながら、批判を受けながらも外交の最前線に立ち続けた牛場の生き様を描こうとしています。
目次は以下の通り。
第1章 墨水墨堤
第2章 「彼は選んだ」
第3章 敗者として
第4章 Yパージから公職復帰へ
第5章 外にも内にも強く
第6章 冷戦のただ中で
第7章 悲運の大使
第8章 余生ではない
牛場は1909(明治42)年、現在の兵庫県神戸市垂水区に生まれています。祖父の卓蔵は慶應義塾出身、福沢諭吉にも評価された人物で山陽鉄道の総支配人などを務めています。兄の友彦は近衛文麿の秘書官も務めた人物で、その兄の後押しもあって、第一高等学校に進学し漕艇部に入部しました。
著者は牛場の生き方は、この漕艇部での最後まで全力を出し尽くす精神から来ていると見ており、のちに最後まで枢軸派として振る舞った背景にも、一度決めたらとことんやり尽くすという漕艇部で培われた牛場の生き方をみています。
1932年、東大を卒業した牛場は外務省に入省します。翌33年6月、ドイツへの異動を命じられベルリンへと向かいます。
ドイツではこの半年前の33年1月にナチスが政権を奪取、3月には全権委任法が成立しており、牛場が赴任したドイツはヒトラーの独裁体制が成立したばかりのときでした。
牛場はナチスの経済政策やベルリン・オリンピックを高く評価しており、また、東京オリンピックの招致に関してヒトラーを通じてムッソリーニのローマに立候補を取り下げてもらうという駐在武官・大島浩の工作を手伝ったこともあり、ヒトラーを「言ったことは、ちゃんと実現する人間だった」(43p)と評価していくことになります。
このころになるとドイツ大使館では大使を差し置いて大島浩が日独防共協定の締結に動くなど、その独断専行が目立つようになりますが、牛場はその大島に対して、(大島の公邸を訪ねたとき)「叔父さんの家に来たように気が落ち着く」と述べています(52p)。牛場はこのあと大島を慕いその動きをフォローしていくことになります。
1937年に牛場は帰国。このとき牛場は外務省「革新派」の一員として、当時の宇垣一成外相に対し、白鳥敏夫を外務次官にすることや対中和平工作の中止を訴える「建白書事件」を引き起こしています。
その後、阿部信行内閣での貿易省設置問題では、設置阻止のために動きますが、その動きが目立ったせいもあり1939年にイギリス行きを命じられました。
1941年に牛場は帰国を命じられますが、経由地のリスボンで駐独大使になった大島から「来ないか」と声が掛かると、牛場はドイツへと向かいます。
ここで牛場は「枢軸派」として活躍するわけですが、この本では同時に日本はドイツの対ソ開戦を事前にきちんと伝えられず(大島は知っていたようですが)、ドイツは日本の対米開戦を事前に知らされないという三国同盟のちぐはぐさも指摘しています。
1942年になるとドイツの勢いも鈍り、日本のスウェーデン大使館はドイツについて悲観的な見方を本国に伝えるようになりますが、牛場は大島の名代としてストックホルムに出向き、臨時代理行使の神田襄太郎に対して「あなたは国賊だ」と口にしたと言われています(85p)。
著者は牛場は「敗色濃厚」を意識していた(80p)とし、そうした情勢判断の中でも一度決めた道を全力で進もうとし、「負けっぷりをよくする」ために力を尽くした(88p)と評価していますが、このあたりはやや贔屓の引き倒しを感じずに入られません。
1943年末に牛場は帰国を命じられ、44年1月に日本に到着。そのまま終戦を日本で迎えることになります。
1946年7月、牛場は首相兼外相だった吉田茂のいわゆる「Yパージ」によって外務省を追われます。
その後、牛場は東京裁判で戦犯として起訴された大島浩の弁護人を引き受け2年余り弁護活動を手伝います。結局、大島は終身禁錮刑となりましたが(約7年で保釈)、あえて大島の弁護を引き受けた所に牛場の性格が出ているといえるでしょう。
その後、仲間と貿易会社を興そうとするもうまく行かず浪人状態となりますが、1949年7月外国為替委員会の事務局長に引っ張られます。吉田政権下でよく牛場が公職に復帰できたものだと思いますが、著者は吉田の側近であり牛場のことも知っていた白洲次郎の引き立てがあったのではないかと推測しています(111p)。
それまで牛場は経済に明るかったわけではないですが、この後は自由貿易の推進のために働いていくことになります。
1951年には通産省の通商局長となります。ここでも白洲の引き立てがあったと考えられますが、戦前の商工省時代からの人間にとって牛場は外から送り込まれた人間であり、牛場に対する反発もあったようですが、その仕事ぶりは評価されていたようです。
1954年に外務省に復帰、官房審議室参事官からビルマ大使館参事官となりビルマとの賠償実施協定締結の交渉を行います。
その後、官房審議官を経て1957年に経済局長となり「経済外交の専門家」としての道を歩みはじめ、「ガットの守り神」とまで言われるようになります。
牛場がガットにこだわった理由を、本人はのちに次のように述べています。
日本は報復力というのは持たないんです、(中略)ですから国際的なルールを守ることが日本にとっていちばんいい防御でもあり攻撃でもあった。そういうことができるのは、結局ガットのルールがあって、これをみんなが受諾しているからですね(131p)
その後牛場はカナダ大使を経て1964年には外務審議官になり、ケネディ・ラウンドや日韓交渉などを担当します。この日韓交渉はハードな交渉となり何度も怒鳴り合いとなったそうですが、なんとかこれをまとめ日韓基本条約の調印にこぎつけました。
1967年、牛場は「できたら、私に次官をやらせていただきたい」と自ら手をあげ(165p)、ついに事務次官に就任します。
牛場の考えは日本を「一流国」にすることであり、核拡散防止条約(NPT)の交渉については「日本としては核不拡散条約に加入する結果、永久に国際的な二流国として格付けされるのは絶対に堪え難い」(169ー170p)とのコメントを残しています。
この牛場の考えは時に政治との摩擦も生み、非核三原則と沖縄返還をめぐって「本土並み(核抜き)の基地でなければならぬと決めてかかると、外交交渉は難しい」(173p)と述べ、問題となりました。
とはいえ、牛場は佐藤政権からは信頼されていたようで、1970年には駐米大使としてワシントンに赴任します。
牛場は日米間の懸案となっていた繊維問題に苦しめられますが、これを解決したのが通産大臣となった田中角栄でした。
さらに1971年7月のニクソン訪中の発表、8月の金・ドルの交換停止という「2つのニクソン・ショック」が牛場を襲います。特にニクソン訪中に関しては牛場はまったく予想しておらず、国連の中国代表権問題でも台湾にこだわり日中国交正常化に対して硬直的な姿勢を示します。
この本では牛場のその率直な姿勢がアメリカの関係者に好感を持たれたものの、キッシンジャーについてはユダヤ系の自分にドイツ料理を振る舞う牛場の「無神経さ」が気になっていたとの話も紹介されています(211ー212p)。
また、佐藤後継に関しては、牛場は「福田派」とみなされており、田中角栄が後継に決まったあとも日中国交正常化について慎重な姿勢をとり続けました。
結局、1973年の5月に牛場は駐米大使を解任されます。当時の外相は大平正芳でしたが、牛場の言動は田中−大平の外交ラインからは外れるものだったのです。
ここからは余生となってもおかしくないのですが、その後も牛場が第一回サミット準備会合の日本代表、福田内閣の対外経済相などを努めます。その仕事ぶりはガンになってからも変わらず人工肛門をつけながら世界を飛び回りました。
そんな中、この本では牛場が岡崎久彦にハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』の翻訳を依頼したエピソードが紹介されています。この本は「ハル・ノート」はアメリカを参戦させるための陰謀だったとする本で、岡崎久彦は「牛場さん、やっぱり本当は親米派じゃないんだ」と思い知った(261p)と述べています。
1984年に牛場は亡くなりますが。その功績は大きなものでしたが、「枢軸派」の影は最後までつきまといました。
この本は牛場の「変節」を比較的好意的に描いていますが、いろいろと考える材料も盛り込まれており、読んでどう考えるかは人それぞれといったところでしょう。
やや話の流れを追いにくい部分もあるのですが、牛話を知るさまざまな人にも取材をしており、牛場信彦という人間の姿を浮かび上がらせることができているのではないでしょうか。
変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)
浅海 保
