山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2017年10月

浅海保『変節と愛国』(文春新書) 6点

 戦前はドイツ大使館に勤務し「枢軸派」として名を馳せ、一度は外務省を追われながら、ふたたび外務省に戻り、外務次官や駐米大使を務めるなど戦後外交の中心を担った牛場信彦の評伝。
 著者は元読売新聞の記者で、牛場の生涯をたどりながら、批判を受けながらも外交の最前線に立ち続けた牛場の生き様を描こうとしています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 墨水墨堤
第2章 「彼は選んだ」
第3章 敗者として
第4章 Yパージから公職復帰へ
第5章 外にも内にも強く
第6章 冷戦のただ中で
第7章 悲運の大使
第8章 余生ではない

 牛場は1909(明治42)年、現在の兵庫県神戸市垂水区に生まれています。祖父の卓蔵は慶應義塾出身、福沢諭吉にも評価された人物で山陽鉄道の総支配人などを務めています。兄の友彦は近衛文麿の秘書官も務めた人物で、その兄の後押しもあって、第一高等学校に進学し漕艇部に入部しました。
 著者は牛場の生き方は、この漕艇部での最後まで全力を出し尽くす精神から来ていると見ており、のちに最後まで枢軸派として振る舞った背景にも、一度決めたらとことんやり尽くすという漕艇部で培われた牛場の生き方をみています。

 1932年、東大を卒業した牛場は外務省に入省します。翌33年6月、ドイツへの異動を命じられベルリンへと向かいます。
 ドイツではこの半年前の33年1月にナチスが政権を奪取、3月には全権委任法が成立しており、牛場が赴任したドイツはヒトラーの独裁体制が成立したばかりのときでした。
 牛場はナチスの経済政策やベルリン・オリンピックを高く評価しており、また、東京オリンピックの招致に関してヒトラーを通じてムッソリーニのローマに立候補を取り下げてもらうという駐在武官・大島浩の工作を手伝ったこともあり、ヒトラーを「言ったことは、ちゃんと実現する人間だった」(43p)と評価していくことになります。

 このころになるとドイツ大使館では大使を差し置いて大島浩が日独防共協定の締結に動くなど、その独断専行が目立つようになりますが、牛場はその大島に対して、(大島の公邸を訪ねたとき)「叔父さんの家に来たように気が落ち着く」と述べています(52p)。牛場はこのあと大島を慕いその動きをフォローしていくことになります。

 1937年に牛場は帰国。このとき牛場は外務省「革新派」の一員として、当時の宇垣一成外相に対し、白鳥敏夫を外務次官にすることや対中和平工作の中止を訴える「建白書事件」を引き起こしています。
 その後、阿部信行内閣での貿易省設置問題では、設置阻止のために動きますが、その動きが目立ったせいもあり1939年にイギリス行きを命じられました。

 1941年に牛場は帰国を命じられますが、経由地のリスボンで駐独大使になった大島から「来ないか」と声が掛かると、牛場はドイツへと向かいます。
 ここで牛場は「枢軸派」として活躍するわけですが、この本では同時に日本はドイツの対ソ開戦を事前にきちんと伝えられず(大島は知っていたようですが)、ドイツは日本の対米開戦を事前に知らされないという三国同盟のちぐはぐさも指摘しています。
 1942年になるとドイツの勢いも鈍り、日本のスウェーデン大使館はドイツについて悲観的な見方を本国に伝えるようになりますが、牛場は大島の名代としてストックホルムに出向き、臨時代理行使の神田襄太郎に対して「あなたは国賊だ」と口にしたと言われています(85p)。
 著者は牛場は「敗色濃厚」を意識していた(80p)とし、そうした情勢判断の中でも一度決めた道を全力で進もうとし、「負けっぷりをよくする」ために力を尽くした(88p)と評価していますが、このあたりはやや贔屓の引き倒しを感じずに入られません。
 1943年末に牛場は帰国を命じられ、44年1月に日本に到着。そのまま終戦を日本で迎えることになります。

 1946年7月、牛場は首相兼外相だった吉田茂のいわゆる「Yパージ」によって外務省を追われます。
 その後、牛場は東京裁判で戦犯として起訴された大島浩の弁護人を引き受け2年余り弁護活動を手伝います。結局、大島は終身禁錮刑となりましたが(約7年で保釈)、あえて大島の弁護を引き受けた所に牛場の性格が出ているといえるでしょう。

 その後、仲間と貿易会社を興そうとするもうまく行かず浪人状態となりますが、1949年7月外国為替委員会の事務局長に引っ張られます。吉田政権下でよく牛場が公職に復帰できたものだと思いますが、著者は吉田の側近であり牛場のことも知っていた白洲次郎の引き立てがあったのではないかと推測しています(111p)。

 それまで牛場は経済に明るかったわけではないですが、この後は自由貿易の推進のために働いていくことになります。
 1951年には通産省の通商局長となります。ここでも白洲の引き立てがあったと考えられますが、戦前の商工省時代からの人間にとって牛場は外から送り込まれた人間であり、牛場に対する反発もあったようですが、その仕事ぶりは評価されていたようです。

 1954年に外務省に復帰、官房審議室参事官からビルマ大使館参事官となりビルマとの賠償実施協定締結の交渉を行います。
 その後、官房審議官を経て1957年に経済局長となり「経済外交の専門家」としての道を歩みはじめ、「ガットの守り神」とまで言われるようになります。
 牛場がガットにこだわった理由を、本人はのちに次のように述べています。
日本は報復力というのは持たないんです、(中略)ですから国際的なルールを守ることが日本にとっていちばんいい防御でもあり攻撃でもあった。そういうことができるのは、結局ガットのルールがあって、これをみんなが受諾しているからですね(131p)

 その後牛場はカナダ大使を経て1964年には外務審議官になり、ケネディ・ラウンドや日韓交渉などを担当します。この日韓交渉はハードな交渉となり何度も怒鳴り合いとなったそうですが、なんとかこれをまとめ日韓基本条約の調印にこぎつけました。

 1967年、牛場は「できたら、私に次官をやらせていただきたい」と自ら手をあげ(165p)、ついに事務次官に就任します。
 牛場の考えは日本を「一流国」にすることであり、核拡散防止条約(NPT)の交渉については「日本としては核不拡散条約に加入する結果、永久に国際的な二流国として格付けされるのは絶対に堪え難い」(169ー170p)とのコメントを残しています。
 この牛場の考えは時に政治との摩擦も生み、非核三原則と沖縄返還をめぐって「本土並み(核抜き)の基地でなければならぬと決めてかかると、外交交渉は難しい」(173p)と述べ、問題となりました。
 
 とはいえ、牛場は佐藤政権からは信頼されていたようで、1970年には駐米大使としてワシントンに赴任します。
 牛場は日米間の懸案となっていた繊維問題に苦しめられますが、これを解決したのが通産大臣となった田中角栄でした。
 さらに1971年7月のニクソン訪中の発表、8月の金・ドルの交換停止という「2つのニクソン・ショック」が牛場を襲います。特にニクソン訪中に関しては牛場はまったく予想しておらず、国連の中国代表権問題でも台湾にこだわり日中国交正常化に対して硬直的な姿勢を示します。
 この本では牛場のその率直な姿勢がアメリカの関係者に好感を持たれたものの、キッシンジャーについてはユダヤ系の自分にドイツ料理を振る舞う牛場の「無神経さ」が気になっていたとの話も紹介されています(211ー212p)。

 また、佐藤後継に関しては、牛場は「福田派」とみなされており、田中角栄が後継に決まったあとも日中国交正常化について慎重な姿勢をとり続けました。
 結局、1973年の5月に牛場は駐米大使を解任されます。当時の外相は大平正芳でしたが、牛場の言動は田中−大平の外交ラインからは外れるものだったのです。

 ここからは余生となってもおかしくないのですが、その後も牛場が第一回サミット準備会合の日本代表、福田内閣の対外経済相などを努めます。その仕事ぶりはガンになってからも変わらず人工肛門をつけながら世界を飛び回りました。
 そんな中、この本では牛場が岡崎久彦にハミルトン・フィッシュ『日米・開戦の悲劇』の翻訳を依頼したエピソードが紹介されています。この本は「ハル・ノート」はアメリカを参戦させるための陰謀だったとする本で、岡崎久彦は「牛場さん、やっぱり本当は親米派じゃないんだ」と思い知った(261p)と述べています。

 1984年に牛場は亡くなりますが。その功績は大きなものでしたが、「枢軸派」の影は最後までつきまといました。
 この本は牛場の「変節」を比較的好意的に描いていますが、いろいろと考える材料も盛り込まれており、読んでどう考えるかは人それぞれといったところでしょう。
 やや話の流れを追いにくい部分もあるのですが、牛話を知るさまざまな人にも取材をしており、牛場信彦という人間の姿を浮かび上がらせることができているのではないでしょうか。

変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)
浅海 保
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山崎史郎『人口減少と社会保障』(中公新書) 8点

「今後、人口減少が予想される中で日本の社会保障制度はどうあるべきなのか?」という問題を、元厚生労働省の官僚であり、介護保険の創設に尽力し「ミスター介護保険」と呼ばれた人物が探った本。
 web中公新書の著者インタビューのページで、著者は自らのキャリアを次のように語っています。
1978年に旧厚生省に入省し、38年間政府の仕事に携わった後、昨年6月に退官しました。
その間、主な仕事として、1990年代半ばから厚生省で介護保険制度の導入、内閣府や内閣官房でリーマンショック前後の経済雇用対策などを担当しました。そして、2011年に厚生労働省社会・援護局長として、生活困窮者支援の素案づくりに携わりました。その後、内閣府の少子化対策担当などを経て、2015年から内閣官房まち・ひと・しごと創生本部の地方創生総括官を務めました。

 このキャリアからわかるように、著者は年金・医療・介護だけにとどまらない幅広い分野で活躍してきており、この本も年金・医療・介護分野だけではなく、総合的な社会保障を考えていく内容になっています。
 文章はやや硬めで読みにくい部分もありますが、安倍政権が打ち出している「全世代型」の社会保障について、現在の厚生労働省がどんな方向性で臨もうとしているかがわかる本で、現状把握のために非常に有益だと思います。

 目次は以下の通り。
序章 社会が変われば社会保障も変わる
第1章 変容する日本社会
第2章 日本の社会保障の光と影
第3章 社会的孤立を防ぐ
第4章 「全世代型」へ転換する
第5章 人口減少に適応する
終章 国民的合意の形成を目指して

 この本の第1章では、1995年の戦後50年間の社会保障の歩みを総括する勧告(「社会保障体制の再構築[勧告]」)をとり上げて紹介しています。
 日本の社会保障は、先進諸国に比べ遜色のないものとなっているとした上で、「社会保障の大綱については国民の間に基本的な疑義はなく、むしろその適正な前進による福祉社会への安定的な展開こそ望まれている」と総括した。
 それまで社会保障が果たしてきた役割を三つあげ、第一として、国民生活の全面にわたって安定をもたらしたこと、第二として、貧富の格差を縮小し、低所得者層の生活水準を引き上げ安定させ、その結果、「今日、我が国は世界で最も所得格差の小さい国の一つとなっている」こと、第三として、社会保障は経済の安定的発展に寄与することが少なくなかったことを強調した。
 今読み返すと、隔世の感を覚えるのは筆者だけではないと思う。(12p)

 まさに「隔世の感」だと思います。
 このころにはすでに少子化は明らかでしたし、女子を中心に就活も年々厳しくなっていったので脳天気といえば脳天気な部分もあるのですが、それでも97年のアジア経済危機や消費税増税を引き金とした不況が始まる前は、世間も国も楽観的だったのだと改めて思います。
 ところが20年ちょっとたった今、このように楽観できる人はいないでしょう。社会構造の変化が一気に露わになったからです。

 政府の支出がそれほど伸びない中で日本型の福祉を支えたのは「家族」と「雇用」でしたが、この2つが90年代以降大きく変化していくことになります。
 まず、「家族」についてですが、日本の高齢の親と家族の同居率が高いことは「福祉における含み資産」(1978年版の厚生白書)とされてきましたが、親と子ども(既婚)の同居率は80年52.5%、90年41.9%、95年35.5%、2016年11.4%と急激に低下していきます(17p)。
 もちろん、これはある程度予想できたことで、先述の95年の勧告でも指摘されていましたし、この世帯の変化を背景に介護保険制度が創設されていくことになります。
 しかし、高齢単身者、生涯未婚者、ひとり親世帯など、いわゆる標準的ではないと考えられていた世帯は予想を超えて増加していくことになります。

 さらに90年代以降、日本型福祉を支えていた「雇用」が急速に悪化します。それまで日本の福祉の一定部分は企業が担っていましたが、その企業の福祉の恩恵に預かれない非正規雇用が急速に増加したのです。

 こうした「家族」と「雇用」の変化は、社会的孤立や格差の固定化をもたらし、「最も所得格差の小さい国」の様相を変えていきました。
 さらにこの時期に加速したのが少子化であり、その結果として出現したのが人口減社会です。
 この本を読むと、89年の「1.57ショック」がありつつも、2000年頃までは団塊ジュニア世代の子どもたちがたくさん生まれる「第3次ベビーブーム」があるだろうという予想があったことが窺えます(59ー61p)。
 しかし、長引く不況は第3次ベビーブームの失わせ、将来に加速度的に人口が減少していく未来が見えてきたのです。

 こうした問題提起を受けて、第2章では日本の社会保障制度の特徴が説明されています。
 日本の社会保障制度の特徴は社会保険が中心であるということです。これは国民から保険料というかたちでお金を集め、必要になったときに給付を受け取るという制度です。
 社会保障の資金については税で集めるという方法もありますが、先述の95年の勧告では、社会保険方式について「社会保険は、その保険料の負担が全体として給付に結び付いていることからその負担について国民の同意を得やすく、また給付がその負担に基づく権利として確定されていることなど、多くの利点をもっている」(69p)と、その長所を指摘しています。
 この権利意識というのは一つのポイントで、税金で介護分野が賄われていた時代はなかなか介護分野にお金は流れませんでしたが、介護保険が導入され、介護を受けることが拠出に対応する「権利」として認識されるようになると、サービスは充実していきました(71-73p)。

 しかし、厚生年金と国民年金にみられる二元構造や、個々の問題に保険ごとに対処する方法(医療には健康保険、失業には雇用保険といった具合に)は、問題もはらんでいました。

 国民年金の加入者がすべて持ち家で子どもと同居している農家や自営業者であれば給付金が少なくても問題ありませんでしたが、現在の国民年金の給付のレベルでは賃貸に住む単身者の生活を支えるのは厳しいですし、子育てなど、保険がカバーしていない分野の福祉が立ち遅れる原因ともなりました。
 さらに現役世代の減少は社会保険の「支え合い」の構造を危うくしています。

 さらに、「家族」と「雇用」の変化が追い打ちを欠けています。
 著者は第3章で、「これまでは、それぞれのリスクは別々に発生し、個々のリスクさえカバーすれば、人には変える家庭があり、戻る職場があり、支える周囲の人々があり、そして、その「つながり」の中でふたたび力を取り戻し、社会や家庭の中で活動していくことができる、という暗黙の前提があったと言える」(106p)と述べていますが、その暗黙の前提が急速に失われたのです。

 こうした問題が顕在化した一つが、著者も関わったリーマン・ショック後の「年越し派遣村」でした。  
 通常の失業であればまずは雇用保険がカバーしますが、職を失った多くの派遣労働者は雇用保険に加入させられておらず、職の喪失がすぐに生活の危機へとつながりました。
 さらに職、住まい、当座の生活を包括的にカバーする制度はなく、どこの窓口にどのような申請を行えばいいのかもわからない状況でした。
 これに対応するためにワンストップ・サービスの仕組みが設けられましたが、これは生活困窮者自立支援法などに活かされていくことになります。

 この第3章では、著者が社会保険の加入漏れについてはやはり「雇用」を立て直すしかないとしている部分(109-113p)と、こども保険の元ネタともなっている権丈善一の「子育て支援連帯基金」を好意的に紹介している部分(141-144p)が興味深いです。小泉進次郎などが提唱するこども保険は、厚生労働省の中の人の考えとも近いのかなと思いました(第4章の178〜179pではこども保険と子育て支援連帯基金を違うものとして取り扱っていますが、中身は似ていると思う)。

 第4章は「全世代型」社会保障への転換について。
 まずは出生率回復の必要性があげられていることからもわかるように、「全世代型」と言った時に第一に想定されるのが子育て支援です。
 詳しくは本書を読んで欲しいのですが、各国の制度を参照しながら、仕事と子育ての両立支援と経済的支援の重要性が指摘されています。経済的支援については教育費の軽減・無償化と多子世帯への支援があげられており、安倍政権の今後の施策の方向性とも重なっています。

 第5章は人口減少にいかに備えるかという問題について。
 一口に人口減少と言っても、「高齢者は増加するが若年者は減少する」第一段階、「高齢者も微減に転じる」第二段階、「高齢者も含めてすべての世代が減少する」第三段階があります。現在、東京圏などの大都市は第一段階、多くの地方都市は第二段階、過疎地は第三段階にあると言えます。
 いずれ日本全体が第三段階に突入することを考えたとき、社会保障の効率化と多様化が必要だと著者は訴えています。

 効率化というと費用の節約が頭に浮かびますが、著者は人口減社会においては人材の効率化こそが最も求められるといいます。
 そこで考えられるのが「ICTの活用」、高齢者施設や障害者施設や保育施設などを一箇所に集める「サービス融合アプローチ」、「人材多様化アプローチ」です。
 「人材多様化アプローチ」は、複数の資格を持つ人がさまざまなニーズに対応するというもので、そのために現在それぞれ専門別に分かれている資格の養成課程を、共通+専門の二階建てにすることで資格を取得しやすくすることが提案されています(201ー204p)。

 他にも「すまい」の問題や地域組織問題が検討課題としてあげられています。「すまい」に関しては、今までの持ち家政策から転換が模索されており、コンパクトシティや空き家の活用といったおなじみの政策だけでなく、住宅手当にも触れているのが注目です。ここでは住宅のマッチングサービスも含んだ形の統合的な住宅手当の可能性が探られています(226ー230p)。
 
 しかし、こうしたことを行うにはやはり財源が必要です。これは簡単に答えの出る問題ではありませんが、著者は介護保険制度が負担増を嫌って延期されそうになった時に、有識者や自治体や市民から広く「凍結反対運動」が起こったことをとり上げ、今後の議論に期待をかけています。

 このように現在の社会保障制度と今後の展望を非常に多岐にわたってフォローしており、今後の社会保障について考えたい人には必読といえるでしょう。
 もちろん、今までに思いもつかなかったような処方箋が提示されているわけではありませんし、すべてがうまくいくようにも思えませんが、とりあえず政治の大きな介入がなければこんな感じで社会保障は生き残りと変革をはかっていくのではないかという見取り図を与えてくれる本です。


人口減少と社会保障 - 孤立と縮小を乗り越える (中公新書)
山崎 史郎
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藤原辰史『トラクターの世界史』(中公新書) 7点

 『〇〇の世界史』というのは新書の一つの定番で、この本の巻末の中公新書の目録を見ても『ワインの世界史』、『茶の世界史』、『チョコレートの世界史』といったタイトルが並んでいますが、「トラクター」とはまた意外な所を突いてきた感じです。
 ガソリンによって動くトラクターが登場したのは19世紀末で、100年ちょっとの歴史しかありませんが、そこには農民や技術者の夢だけではなく、戦争と社会主義という20世紀に大きな影響を与えたものが絡んでいます。
 著者は農業史などを専門とする研究者ですが、トラクターが農業に与えた影響をきちんと押さえつつ、戦争との関わりや社会主義におけるトラクターの位置づけ、さらには小林旭の「赤いトラクター」まで、トラクターにまつわる歴史を縦横無尽に描いています。

 目次は以下の通り。
第1章 誕生―革新主義時代のなかで
第2章 トラクター王国アメリカ―量産体制の確立
第3章 革命と戦争の牽引―ソ独英での展開
第4章 冷戦時代の飛躍と限界―各国の諸相
第5章 日本のトラクター―後進国から先進国へ
終章 機械が変えた歴史の土壌

 農業において「土を耕す」という行為は非常に重要であると同時に大変な労力が必要な物でした。
 この本に「トラクターが革新的に見えたし、実際そうだったのは、小麦の生産のうち投入するすべての労力の60%を占める耕耘作業を、最後の最後で一気に機械化したからなのである」(28p)と書かれていますが、それほどまでに「土を耕す」という作業は労力のかかるものでした。
 
 この重労働はずっと人間や馬や牛が担っていましたが、蒸気機関が登場するとそれを機械化しようという試みがあらわれます。
 しかし、蒸気機関は常に石炭と水を補給する必要がり重量もあります。さらに、蒸気機関から出る火花が干し草や藁に燃え移る可能性もあり、実用化には難しい面がありました。
 そうした問題を解決したのは内燃機関の発明です。アメリカの発明家J・フローリッチが1892年に前後双方向に進めるトラクターの開発に成功すると、その技術を利用したウォータールー・ボーイが売れ、さまざまな企業がトラクターの開発に参入します。

 1917年、自動車王のヘンリー・フォードはトラクター製造会社をつくりトラクターの大量生産に乗り出します。このフォードによって生産されたのがフォードソンと呼ばれるトラクターです。
 フォードソンには転倒しやすいなどの欠点もありましたが、400ドルを切る価格はトラクターが大々的に普及するきっかけとなり、1923年にはフォードソンがアメリカ市場のシェアの77%を獲得するに至りました(32p)。

 そして、この普及のきっかけとなった要因の一つが第一次世界大戦です。
 イギリスやフランスでは徴兵による労働力不足、馬が軍馬として徴発されたことを補うものとしてトラクターの導入が進みましたし、戦争による食料価格の高騰はアメリカの農民にトラクターを購入する余裕を与えました。

 このように戦争の影響もあって順調に普及したトラクターでしたが、良いことばかりではありませんでした。
 馬の食べる牧草は自前で育てることができますが、ガソリンは買うしかありません。また、馬の糞尿は肥料としても利用できましたが、その馬がトラクターに置き換えられると、肥料は化学肥料が主役になります。
 さらに農業生産力の向上は農産物価格の低迷をもたらし農業恐慌をもたらしましたし、トラクターによる土壌の圧縮と化学肥料の普及はグレートプレーンズにおけるダストボウルと呼ばれる砂塵と土壌侵食を生みました(62ー63p)。
 
 このアメリカで生まれたトラクターを国家主導で導入したのがソ連でした。
 
 社会主義の歴史の中では、農業の機械化・集団化を進めるべきだとするカール・カウツキーの理論と大規模経営よりも家族労働力を中心とする小規模経営のほうが農業にはふさわしいとするエードゥアルト・ダーフィットの理論がありましたが、レーニンはカウツキーの理論を擁護しました。
 
 レーニンは1919年3月の第8回答大会で次のように述べています。

 
 もし明日われわれが10万台の第一級のトラクターを供給し、トラクターに燃料と運転手を与えることができるならば、これは現段階ではまぎれもない空想であることはご承知の通りだが、中規模農家はこういうだろう。「わたしは共産主義に賛成する」と。(75p)

 
 つまり、レーニンにとってトラクターは社会主義を農村に浸透させるための欠かせない道具だったのです。
 

 この機械化と集団化の考えはスターリンにも受け継がれました。1927年の第15回党大会をきっかけに、農業集団化路線は復活し、暴力も伴いながら農民たちをコルホーズに加入させていきます。

 
 ソ連へのトラクターの本格的な導入は、ウクライナにおけるジョイント(アメリカユダヤ人合同分配委員会)によって始められました。これはロシアのユダヤ人の救援のために作られた組織で、クリミア半島に入植したユダヤ人を救うためにアメリカ製のトラクター・ウォータールー・ボーイが送られました(77-81p)。

 

 この動きはソ連、アメリカの双方から評価され、ソ連は大規模なトラクターの輸入(フォードソンが中心)に踏み切ります。
 
 さらにスターリンはトラクターなどの農業機械を共同利用するための組織「機械トラクターステーション」(MTS)を組織して、農業の集団化を進め、同時に農民を管理しようとしました。
 
 実際には故障するトラクターが続出し、3/4が故障していたともいいますが(85p)、農民が出資を求められた「トラクター購買予約金」は農民の党への忠誠心をはかる物差しにもなり(86p)、トラクターは農村における社会主義化や農業の集団化の一種のシンボルともなりました。

 

 この国家主導のトラクター導入はナチスドイツでも試みられ、ポルシェによってフォルクストラクターの生産も計画されましたが軌道には乗りませんでした。第二次世界大戦が始まると戦車の開発へとシフトしたからです。

 
 著者は「トラクターと戦車はいわば双生児」(111p)と述べています。キャタピラーなどの技術はそのまま戦車へと転用できるものでしたし、多くのトラクターメイカーが戦争中は戦車の製造に従事し、戦争を支えたのです。

 

 戦後も、アメリカのトラクター利用台数は増加しますが、それは1960年代に飽和状態に達します。132pに「アメリカにおけるトラクターの総馬力数と農場数の変遷」というグラフがありますが、馬力数が増加するとともに農場数は減っていっています。アメリカでは農場の大規模化がますます進み、トラクターの数はそれほど必要とされなくなったのです。
 
 

 一方、ソ連でもトラクターの台数は増えていったものの、西側諸国の普及水準にはおよびませんでした。
 
 ただし、その他の社会主義諸国ではトラクターは一種のシンボルとして戦後も機能しました。この本では、ポーランド、東ドイツ、ヴェトナム、中国などのトラクター事情に触れています。特に中国に関しては、トラクター技術を教えるために中国にやってきたアメリカ人技師ウィリアム・ヒントンの回想などを詳しくとり上げています。

 

 さらにガーナの事例も紹介されています。ガーナではトラクターを導入した大規模経営が試みられましたが、なかなか効果を上げることはできませんでした。国家主導の農園は非効率でしたし、ガーナのような半乾燥地域ではトラクターによる深耕が土壌侵食を引き起こすこともあったからです(166ー169p)。

 第5章では日本のトラクターの歴史が主要なトラクターメーカーの歴史とともに語られています。
 戦前に満州で農業の機械化を目指す動きがあり、小松製作所などがトラクターの製造に取り組みますが、これは失敗に終わっています。
 日本のトラクターの特徴の一つは歩行型が多いことで、その開発に情熱を傾けたのが岡山県出身の藤井康弘と島根県出身の米原清男でした。ともに農家出身で、またトラクターに必要なたたら製鉄の盛んな地域に生まれています。
 特に岡山県における野鍛冶とも呼ばれる人々がおり、農業機械を研究する者も多くいました。そうした人々のネットワークが藤井の研究を後押しし、藤井製作所、そしてヤンマー農機へとつながっていく様子は興味深いです。
 
 他にもホンダ、クボタ、イセキ、ヤンマー、三菱農機といったトラクターメーカーを紹介し、ヤンマーのCMに使われた小林旭の「赤いトラクター」に関しては歌詞を全部引用して紹介しています。著者に「女性を排除した男性とトラクターのみの「二人」の関係性は、暑苦しいとしか言いようがない」(225p)と評されているこの歌の歌詞は改めて面白いですね。 

 ただ、日本の部分に関してはややトラクターメーカーに寄りすぎている部分もあって、個人的に日本の農業に与えた影響といったものをもっと知りたかったですね。

 このように世界各国のトラクターの歴史をたどった本書ですが、やはりトラクターが戦争と社会主義にガッチリと組み込まれているところがトラクターというものとこの本の面白さなのだと思います。思わぬ切り口の20世紀史と言えるのではないでしょうか。


トラクターの世界史 - 人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち (中公新書)
藤原 辰史
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川端基夫『消費大陸アジア』(ちくま新書) 6点

 外国に商品を売り込むときに、成功した本国と同じ商品・戦略で挑むのか、それとも進出する国ごとに合わせて商品や戦略を変えるのか、これは長年論じられてきた問題だと思います。経営学についてはほとんどフォローしていないので現在どんな議論がなされているのかはわかりませんが、以前読んだパンカジ・ゲマワット『コークの味は国ごとは違うべきか』がそうした本でした(ゲマワットは国ごとに戦略を変える派)。
 この本は、近年、消費市場として勃興しているアジアにおける日本企業の成功例と失敗例を分析しながら、国ごとに異なる商品に対する「意味づけ」「価値づけ」の重要性を指摘しています。
 理論的な部分はやや弱いですが、あげられている実例は非常に興味深く、勉強になると思います。

 目次は以下の通り。
序章 世界は意味と価値のモザイク
第1章 ポカリスエットはなぜインドネシアで人気なのか?
第2章 ドラッグストアに中国人観光客が集まる理由
第3章 意味づけを決める市場のコンテキスト
第4章 アジアの中間層市場―意味づけと市場拡大
終章 アジア市場の論理

 まず、国や地域ごとに異なる「意味づけ」という点ですが、これは第1章のタイトルにもなっているインドネシアのポカリスエットの例がわかりやすいでしょう。
 大塚製薬は1989年からインドネシアでポカリスエットの販売をはじめましたが、当初はなかなか売れませんでした。ポカリスエットは水分補給のための飲み物で、日本ではスポーツの後、風呂上がり、二日酔いの時、などが飲むシーンとして想定されていましたが、熱帯のインドネシアではスポーツで汗を流す人は少なく、湯に浸かる習慣もなく、国民の大部分がイスラム教徒のため二日酔いになることもなかったからです。
 このため、日本式のマーケティングはうまくいかず低迷が続きました。

 戦略を練り直した大塚製薬が注目したのはデング熱でした。高熱と下痢がつづき脱水症状になりやすいデング熱発症時の水分補給剤として医療機関や医師に売り込むこととしたのです。
 2000年から始まったこの戦略はすぐにはうまくいきませんでしたが、2004年のデング熱の大流行をきっかけにポカリスエットは広く認知されることになります。
 さらにこの「脱水症状に効く」ということが広まると、ラマダン時の脱水症状に効くものとしても売れ始めたのです。日中、断食をしなければならないラマダンですが、蒸し暑いインドネシアではとりわけこたえるもので、特に子どもや老人は深刻な脱水症状になりかねません。
 その脱水症状を治すものとしてポカリスエットは注目されるのです。一般的な飲料の1.5倍ほどの価格がするポカリスエットですが、こうした需要をつかむことによって広く売れるようになっていったのです。

 つまり、「スポーツドリンク」としてはインドネシアの人に価値を認めたもらえなかったポカリスエットですが、一種の「医薬品」的な意味付けを獲得することに成功したのです。

 他にも第1章では、吉野家が海外進出した際にカウンター席がアメリカでもアジアでも不評で、結局撤去に追い込まれた話や豚骨ラーメン人気の理由などが紹介されています。
 豚骨ラーメンについては、なぜか海外では「豚骨ラーメン=日本の味」の図式が成立していること、醤油スープは「透明で醤油を薄めただけの印象を受けるので価値が感じられない」などの声がある一方で豚骨には「価値を感じる」との声がある(64p)ことなどを紹介しています。
 さらに海外ではラーメンは麺料理というよりもスープ料理として受容される傾向があり、「スープが濃すぎるので薄めてほしい」との声も出るそうです(68p)。

 第2章では、まずタイトルにある「ドラッグストアに中国人観光客が集まる理由」を分析しています。
 中国には「日本に行ったら買わねばならない神薬」なるリストが出回っていて、そこには「サンテボーティエ」(目薬)や「アンメルツヨコヨコ」、「サカムケア」、「熱さまシート」などの大衆薬が書かれています。「神薬」と銘打っていますが、最先端の薬というわけではありません。
 
 著者はこれらの大衆薬が求められる背景に中国の医療制度があるといいます。
 中国では個人医院の開院が認められておらず、まもとな診察を治療を受けようとすると総合病院に行く必要があります。しかし、総合病院は大都市に偏在しており、大混雑しています。また、農村向けの医療保険では一旦は治療費の全額を払う必要がありますし、医師によって診察料が異なるなど(ベテランは高い)、庶民にとっては経済的にも大きな負担です。
 
 こうしたことから中国の庶民にとって病院に行くハードルは高く、できるだけ家庭薬によって治そうと考えます。
 そこで日本に行ったらドラッグストアで大衆薬を大量に買い込むのです(日本のドラッグストアが中国に進出すれば問題は解決する気もするが、中国では規制が厳しくなかなか展開できない(81p))。
 また、中国でキシリトールガムが大きく売れた背景にも、中国における歯科治療へのアクセスの難しさがあったといいます。

 さらに第2章の後半では、カルフールなどオンハイパーマーケットが日本では失敗したのにアジアで成功したのはなぜかという話が語られています。
 カルフールは、日本ではその低価格戦略と日本人の持つ「フランス」に対する高級イメージが噛み合わずにわずか4年で日本から撤退しましたが、東南アジアでは急成長しました。それもタイの東北部などかなり貧しい地域にも出店して成功しているのです。
 確かにカルフールの売りは「安さ」ですが、販売はケース単位などが多く、東南アジアの貧しい人々が買いやすいかというとそうではありません。
 では、なぜ成功したかというと、それはカルフールが零細商店の「現金問屋」の役割を果たしているからです。著者らが実際に着ている客にインタビューしたところ、95%は近隣の零細小売店や飲食店の経営者で、「卸売業」として機能していたのです(93ー98p)。

 第3章では、まず「東南アジアを中心になぜ屋台文化が広がっているのか?」という問題の考察から始まります。
 屋台というと衛生面で難があるような気がしますが、熱帯で食べ物が傷みやすい東南アジアでは調理の風景が見える屋台はある意味で衛生状態を保証するものになっています。
 こうした視認性は東南アジアをはじめとするアジアでは重視されており、ペッパーランチや香港のワタミは、客に火加減を任せるメニューで成功しました。

 こうした市場ごとの脈絡、ある意味は意味付けのしくみを、著者は「市場のコンテキスト」と呼んでいます。「context」は「コンテクスト」と表記することが多いですが、著者はあえて区別をするために「コンテキスト」と表記していますが、これはわかりにくいですし混乱を招くと思います。「市場のコンテクスト」ではダメなのでしょうか?

 第4章では急増するアジアの中間層に焦点が当てられています。
 著者は中間層をたんなる収入の範囲ではなく、「階級」として捉えることが鍵だと言います。中間層とはワンランク上の「上流階級」に憧れる存在であり、そこから生まれる「階級消費」を見ることが重要だと言うのです。

 著者はこの「階級消費」をピアノを例にとって説明しています。日本では、ピアノはもともと上流階級のものでしたが、だからこそ中間層にとってはアイコンとしての価値がありました。そして、ピアノの普及が一巡すると、ピアノの売上は落ちていきましたが、現在は中国で日本製の中古ピアノが売れています。まさに中国は「階級消費」の段階にいるのです。

 こうしたさまざまな事例を踏まえた上で、終章でこれを理論化しようとしているのですが、最初にも述べたようにこの部分は弱いです。
 「文化」という言葉を濫用するのは、その曖昧さや抜け落ちるファクターがあることからあまり良くない(194ー195p)という著者の考えはその通りだと思いますが、そのかわりに提示されているのがマイケル・ポランニー由来の「地域暗黙知」という概念だと、あんまり変わらないんじゃないかという気がします。

 ただ、理論面の弱さはあっても、とり上げられているj事例は興味深いものばかりなので、読み物としても面白いですし、何かビジネスでヒントを掴みたい人にとっても得るものがある本だと思います。あと、地理の教員のネタ本としてもいいでしょう。


消費大陸アジア: 巨大市場を読みとく (ちくま新書1277)
川端 基夫
4480069844
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