共著の『言語の本質』(中公新書)が話題になった著者による、現代の初等・中等教育の抱える問題に切り込んだ本。
「なぜ子どもたちは分数の問題が苦手なのか?」、「なぜ時間の単位がわからないのか?」といった問題に対し認知科学の視点から迫っていきます。『言語の本質』にも出てきた記号接地問題も登場し、後半ではAIについての考察も行われています。
また、「学力喪失」というセンセーショナルなタイトルになっていますが、現状を嘆くのではなく、「どうやったらできるようになるのか?」という問題にも取り組んでおり、危機を煽るだけの本とは一味違います。
教育関係者だけではなく、親が読んでも「なるほど」と思え、なおかつ子どもを学習の躓きから助けるヒントを得られるような内容です。
目次は以下の通り。
はじめに第Ⅰ部 算数ができない、読解ができないという現状から第1章 小学生と中学生は算数文章題をどう解いているか第2章 大人たちの誤った認識第3章 学びの躓きの原因を診断するためのテスト第Ⅱ部 学力困難の原因を解明する第4章 数につまずく第5章 読解につまずく第6章思考につまずく第Ⅲ部 学ぶ力と意欲の回復への道筋第7章学校で育てなければならない力――記号接地と学ぶ意欲第8章 記号接地を助けるプレイフル・ラーニング終章 生成AIの時代の子どもの学びと教育
小中学生が苦手な問題として算数の文章題があります。本書の3‐4pには、小中学生が間違えるいくつかの文章題が紹介されています。
例えば次のようなものです。
子どもが14人、1れつにならんでいます。ことねさんの前に7人います。ことねさんの後ろには、何人いますか。
この問題、3年生の正答率が28.1%、4年生が53.4%、5年生が72.3%です。
どう間違うかというと、「14−7=7、答えは7人」というもので、ことねさんの存在が忘れられています。文章に14人、7人という数字が出てきたので、それを使って計算するものだと思い込んでいるのです。
次の5年生用の問題も正答率は37.6%です。
250g入りのお菓子が、30%増量して売られているそうです。お菓子の量は、何gになりますか?
これは実際の生活でも使うような知識ですが、子どもは250×0.3をしたものの、増量となっているに量が減るのはおかしいから10倍にして750gと答えを出したり、やはり減るのはおかしいということで、250÷0.3を計算したりしています。30%が0.3だとはわかっても30%増量が×1.3だということはわからないのです。
この他、1時間は60分だとわかっているはずなのに、いざ計算するとなると1時間を100分で計算したりしています。
こうした問題ができないという現象は、ある程度は学年が進むにつれて解消されているのですが、中学生なっても「3割引」の意味や、単位の揃え方などがわからないままでいる生徒もかなりの割合でいます。
彼らは文章題で登場する数字を、その意味を考えずに、適当に当てはめて式をつくっているのです。
計算力が足りないならばドリルなどをやればいいのかもしれませんが、この「意味の不理解」という問題は、ドリルをいくら解いても解消できるものではありません。
学力については文科省が「全国学力テスト」をやっていますが、これは本当に「学力」というものを測っているのか? というのが著者の疑問です。
学力テストではさまざまな工夫もされていますが、結局は「正しい解き方」を教えればなんとかなるという結論になります。しかし、著者はそれ以前の部分で子どもたちは躓いており、そのそれ以前の部分、「学び手が創り上げていく」「生きた知識」をあるかどうかが重要だと考えます。
テストというと記憶力勝負のようなイメージがあるかもしれませんが、記憶力選手権で求められるのは、短期間に大量の情報を詰め込む力と、次の備えて速やかにそれを忘れる力だといいます。つまり、ここでは情報が知識になる前に消してしまうことがポイントになります。
一方、生きるうえで必要なのは、情報を覚えるだけではなく、それを他の場面でも生かせる知識にしていくことです。
一流のプロ棋士は盤面を見ただけですぐにその盤面を覚えて再現できるといいます。これは1つ1つの駒の位置を覚えているのではなく、その盤面の「意味」がわかっているからできると考えられます。
こうした学習者が暗黙のうちに持っている知識をスキーマといいます。私たちが少しイレギュラーであっても母国語の文章を簡単に理解できるのは、このスキーマがあるからです。
ただし、このスキーマはいつも正しいわけではなく、間違っていることもあります。また、日本語についてのスキーマが英語を学習するときの妨げになることも考えられます。
著者は算数の文章題ができない子どもは誤ったスキーマをもっており、それが修正できていないのではないかと考えています。分数や単位に関するスキーマが間違っている、あるいはあやふやなために、ちょっと訊き方を変えると間違ってしまうのです。
こうした学習の躓きを明らかにするために著者たちが開発したのが「たつじんテスト」というものです。
たつじんテストは知能テストともPISAテストとも違ったものとして設計されています。
知能テストは情報の短期の記憶やその操作能力などの認知能力を測るもので、「純粋な思考力」を取り出そうとしたものですが、既存の知識を活用して新しい知識を習得する学校の学習とは違います。
一方、PISAテストはかなり複雑で小学生低学年には困難ですし、さまざまな分野のスキーマを求められるためにどこで躓いているのかを割り出すことも難しいです。
たつじんテストの問題として両端に0と100の数字が振ってある直線に指定された数の位置を書き込めというものがあります。例えば、「23」ならその位置を推定して書き込むというものです。
たつじんテストではこの位置を厳密に測って採点するようなことはせず、子どもたちの考え方を見ていきます。
すると、0から目盛りを23個書いて23を示そうとする子どももいますし(23個も目盛りを書くので右にずれる)、まずは半分あたりに50と書き込んで、さらにその半分といったように既存の知識をうまく使っていく子どももいます。
こうして見えてくるのが「数」というもののの抽象的な難しさです。
先ほどの問題で、23を示すのに定規で23ミリ測ったという子どももいたといいます。そうした子どもにとって、ある直線を0〜100とした場合の23というような抽象的なものはなかなか捉えがたいわけです。
特に子どもにとって難しいのが分数です。
例えば、1/2という数は一体どんな大きさなのか? 10mの1/2とは何なのか? といったことが理解できていない子どもは多いといいます。
例えば、2/5+2/5という計算はできても、2/5が0〜1の数直線のどのあたりに位置するのかわからないといった具合です。
そして、学力が低位の層では分数を数直線上で表す問題の正答率は低いです。
中学生になっても実は分数の意味を分かっていないという生徒は多いようで、1/2+1/3の答えとして「0」「1」「2」「5」のどれが近いか?という問題の正答率は47.2%しかなく、誤答では「5」が目立っています。おそらく「計算せよ」という問題であれば5/6という答えを出せる生徒はもっと多かったのではないかと思われますが、5/6がどんな数なのかということがわかってないのです。
「30個が2割であるとき、全体の個数はいくつでしょうか?」という問題の正答率も37.8%で、30×0.2を計算した「6」、30÷2をした「15」、30×2をした「60」を選んだ生徒もぞれぞれ10%以上います。ちなみにこの問題は学力高位層では正答率は58.7%でした。
数字の問題の次に本書がとり上げるのが読解力の問題です。本書では読解の複雑なプロセスについても解説されていますが、ここでは子どもたちの躓きの部分に絞って紹介します。
子どもたちが算数の文章題を間違う理由として、そもそも「言葉がわかっていない」という要因があります。
例えば、「ひとしい」という言葉の意味を、「同じ」、「大きい」、「近い」という3つから選ばせたところ、2年生、3年生では正答率は30%台で、同じくらいの割合の子どもが「近い」を選んでいます。4年生になると正答率は90%台まで上がってくるので、「少し難しい言葉だった」とも言えるのですが、分数の概念は2年生から導入されています。そこでの「ひとしく分ける」という説明は理解されていない可能性が高いのです。
時間についての言葉についての理解もかなりあやふやな面があり、例えば、「1時間はなん分ですか?」という問いに現在の時刻と思われる「8:40」といった答えを書いている子どももいます。
また、正答率が低いのが「今日は3月14日です。5日前は何月何日ですか? カレンダーに◯をつけてください」という問題です。2年生で正答率は66.9%、4年生で88.7%です。
これは「前」という言葉が1つの罠になっていると考えられます。空間的には「前」は進行方向を指しますが、時間では「前」は過ぎ去った過去になります。このあたりの言葉のややこしさが正答率を押し下げているのです。
また、「時間」という言葉も曲者で、大人はよく「今何時?時間を教えて」とか「時間を見て行動するように」などといいますが、本当はこうしたケースでは「時刻」が適当です。「1時間はなん分ですか?」という問いを間違えた子どもは時刻を訊かれたのかと思ったのかもしれません。
また地図を読み解く問題では、自分と同じ視点から見ている場合と逆の視点から見ている場合で正答率が大きく違います。著者は、この視点を柔軟に切り替えられるかどうかが「読解力」にも関わっていると考えています。
例えば、「割る」という言葉は、「あるラインを下回る」という意味でも使われますし、「割り算をする」といった意味でも使われます。文章を適切に理解するには、複数の言葉の意味を柔軟にスイッチさせることができる能力が必要なのです。
こういった基礎的な力を踏まえたうえで、著者は思考力として以下の3つの力を仮説として設定しています。
①知識を拡張し、創造するアブダクション推論能力②推論過程を制御するための認知・情報処理機能③思考を振り返り、知識の誤りを修正するためのメタ認知能力(146p)
本書では、まず②から論じられています。
例えば、「図形を回転させるとどうなるか?」といった問題では、頭の中でシミュレーションをする必要があります。こうした能力は生まれつきのもののようにも感じますが、学力高位層の回答を見ると、目印を付けて認知的負荷を軽減したりしています(152p図6−3参照)。
複数のものの重さを比較する問題でも学力の高位層と低位層で正答率にかなりの差があり、低位層は一定以上の認知的負荷がかかると厳しくなってしまう状況がうかがえます。
また、同じ関係を取り出す問題では、例えば「りんご→くだもの」と同じ関係を取り出す必要があるわけですが、「うさぎ→どうぶつ」だけでなく、「にんじん→うさぎ」も結びつけてしまうなど、日常的な連想に引っ張られて間違っているケースもあります。
パッと思いついた連想をコントロールする能力も必要なわけです。
ここで出てくるのがカーネマンのシステム1とシステム2の考えです。
システム1は直観的な思考であり、システム2はものごとを吟味する思考ですが、人間は基本的にはシステム1で思考しており、システム2を使うには意識的になる必要があります。
たつじんテストの問題で命題Aから命題Bが言えるか? という問題があります。ここで誤答が多いのが「A:20歳まではビールを飲んではいけない」「B:20歳まではお酒を飲んではいけない」というものです。
ビールはお酒の一種であり、ビールの禁止がお酒全部を禁止することにはなりませんが、一般的な常識から「AからBも成り立つ」と判断してしまうのです。
学力高位層はこういったところでうまくシステム2が使えていると考えているから。
第7章ではアブダクション推論が紹介されていますが、最初にとり上げられているのが生成AIが実は算数の問題が苦手だというものです。
ChatGPTは「2分の1と3分の1のうち、どちらが大きいですか?」という問題を間違えています。答えの説明として「分母が小さいと分数の値は大きくなる」ということを出してくるにもかかわらず、肝心の答えは間違えています。
もっとも、これがChatGPT4になるときちんと通分して正解を導き出しています。
ただし、このChatGPT4でも「12/13-11/12の答えとして、A:0、B:-1、C:1、D:2から最も近いものを選べ」という問題を間違えています。きちんと通分して1/156という数字を出しているにもかかわらずBの-1を選んでいるのです(204-205p図7-6参照)。
これは分数という概念の意味がわかっていないからだと考えられます。
ChatGPTについては東大入試問題でも英語で8割をとりながら、数学では1点しか取れなかったといいます。生成AIは膨大な学習から次に来る文字列の予想では非常に優秀な成績を収めますが、数学的な概念の意味をわかっているわけではないのです。
一方、人間は五感を活かして知識を習得し、そこから比喩や類推を用いてさまざまな知識を生み出していきます。これがアブダクション推論です。
人間の子どもは「これはリンゴだよ」と教えられれば、「リンゴをとってきて」と言われてリンゴをとってきます。これは当たり前に思えますが、ここでも「赤くて丸い物体→リンゴ」という前提から、「リンゴ→赤くて丸い物体」という推論が行われています。
この推論は論理学的にはいつも正しいとは限らないのですが、人間はこうした不確実な推論を繰り返しながら知識を広げていくのです。
「リンゴ」、「ウサギ」といった概念は子どもの経験と地続きであり、いわゆる記号接地が容易です。一方、「果物」や「動物」になると難しくなりますし、さらに難しいのが数字の「イチ(1)」であったり、分数です。1個のリンゴや1羽のウサギを示すことはできますが、「イチ(1)」だけを取り出して示すことはできないからです。
それでも子どもは過剰な一般化など試行錯誤しながら、自分で手がかりを見つけ、洞察を得て、学習を加速させていきます。これを発達心理学ではブートストラッピングといいます。
こうした中で、子どもたちは次第にスキーマを獲得し、抽象的な思考ができるようになり、メタ認知能力も育てていきます。
子どもたちは間違いながら成長します。ただし、その間違いを大人が訂正すれば正しいスキーマを身につけるわけではありません。子どもが自分の力でスキーマを構築できるかどうかが重要なのです。
では、どうしたら「いきた知識」や正しいスキーマ、あるいは間違ったスキーマを修正する能力を獲得するのができるのでしょうか?
著者が提案するのが遊びの中でそういった能力を身につけようとするプレイフル・ラーニングです。
詳しくは本書の第8章を読んでほしいのですが、時間の単位の習得、分数を含めた数の大小などを遊びの中で実感できるようなゲームが紹介されています、こうやって子どもの現実と接地した知識を身につけようというのです。
終章では生成AIの問題についても論じています。
ここまでの議論からもわかるように著者は生成AIが人間と同じような思考力を身につけるようになることに対しては懐疑的です。
認知科学者のアリソン・ゴプニックは人間の乳幼児が行うことについて「世界を自分の身体で探索すること」(292p)だと述べています。人間の子どもは自らの身体を使って物事の仕組みを発見していきますが、身体のない生成AIにこれはできません。
しかし、知識の注入だけを目的とした教育では、「生きた知識」は身につきませんし、こうした分野では人間は生成AIには勝てません。その上で著者は次のように述べています。
AIを使いこなす人間と使えない人間の分断を心配する人は多い。しかし、筆者は、AIの時代に、自らを世界に接地させ、概念を抽象化して、記号設置できる人と、それをAIに任せてしまう人との間の分断のほうがもっと心配だ。(301p)
このように本書は子どもの「学力」について、その中身を探り、それを向上させる道を探り、さらには生成AIの問題までとり上げるという読み応え十分の構成になっています。
しかも、それでいて難解になりすぎることもなく、例えば、「我が子の勉強のできない理由が知りたい」といった保護者が読んでもいろいろと思い当たることが出てきそうな内容になっています。
大きな理論から小さなヒントまで教えてくれる本です。
