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2023年06月

太田洋『敵対的買収とアクティビスト』(岩波新書) 8点

 「ホワイトナイト」、「ポイズン・ピル」、「ゴールデン・パラシュート」、買収にかかわるこのような用語を、ライブドア事件のときに、あるいはドラマの「ハゲタカ」などで耳にして覚えている人もいるかと思います。
 インパクトのある言葉ですし、そのときは解説を聞いて「なるほど」と思ったりしますが、実際のポイントや、何が認められていて、何が認められないのかというのは素人にはなかなかわからないことです。

 本書は買収防衛などの実務に関わっている弁護士が、素人にはわかりにくいポイントを含め、まとまった形で解説してくれてる本です。
 TOB(株式公開買い付け)のやり方や、認められている買収防衛策については、国によって違いもあり、本書を読んでも煩雑に感じる部分はありますが、本書を読むことで基本的なポイントはつかめると思います。
 また、他国との比較を通じで、意外と日本の法が株主中心の考えを持っていて、敵対的買収もやりやすい面があるといったことがわかってくるのも面白いです。

 目次は以下の通り。
プロローグ
第一章 敵対的買収とは
第二章 アクティビストとは
第三章 敵対的買収の歴史――アクティビストの登場から隆盛まで
第四章 買収防衛策とはどのようなものか
第五章 各国は敵対的買収をどのように規制しようとしているか――法的規制と判例の動向
第六章 敵対的買収と株主アクティビズムの将来
エピローグ

 「敵対的買収」とは対象となる会社を相手の同意なく買収することです。基本的には上場している株式会社で起こることです。
 株式会社では会社の所有者は株主で、最高意思決定機関は株主総会ですが、上場企業の日常的な意思決定は取締役会で行われています。つまり、先程の「相手の同意」というのは当該会社の取締役会の同意ということになります。
 このため、株式会社の所有者は株主であるが、買収が友好的か敵対的かを判断するのは取締役会であるという「ねじれ」が存在しており、これが敵対的買収をめぐる法的問題の根源となっています。

 当初は敵対的買収であっても、途中で取締役会が受け入れに転じることもあります。日本に比べて敵対的買収が多いとされるアメリカやイギリスでもこうしたケースが多く、最終的には「友好的」に終わる買収も多いのです。

 しかし、「敵対的」も「友好的」も、あくまでも取締役会の判断によるものです。例えば、現在の株価に100%のプレミアムを乗せて株を買うが、取締役は全員クビにするといった、株主によっては良いが、取締役にとっては悪いという提案も考えられます。
 取締役は株主の代理人(エージェント)なのですが、株主の利益に反する行動を取る可能性もあるのです。これを「エージェンシー問題」と言います。

 あまりよい印象がない敵対的買収ですが、これを正当化するのはどのような論理なのでしょうか?
 まず、最初に出てくるのが効率的市場仮説という考え方です。株価は市場の取引で決まっています。そこにプレミアムを上乗せして買う者が現れるということは、買収者は何らかの方法で株価を高める経営能力を有しているということになります。つまり、敵対的買収がさかんになれば、株価を上げられない無能な経営者は退場し、すべての会社は効率的に経営されるようになるというわけです。
 また、株主と経営陣の構造的な利益相反に注目する考えもあります。自己保身のインセンティブがある経営陣と株価の最大化を望む株主には利益相反があり、敵対的買収はそれを顕在化させます(この考えの場合、敵対的買収を肯定すると言うよりも、買収防衛策を否定するという考えになる)。

 一方、敵対的買収に対して取締役が「同意」をせずに「抵抗」することが許されるケースとして、
ライブドア対ニッポン放送事件で東京高裁が示した次の4つの類型が考えられます。
 1つ目は、会社経営に参加する意思がないにも関わらずに株価を吊り上げて関係者に高値で引き取らせることを狙ったものです。いわゆる「グリーン・メイラー」と呼ばれるものです。
 2つ目は、会社を支配してその会社の知的財産権やノウハウなどを移転させる、いわゆる「焦土化経営」を行おうとしているケースです。
 3つ目は、会社を支配しあとに当該会社の資産を債務の担保にしたり弁済原資として流用する予定で買収を行っているケースで、いわゆるLBO(レバレッジ・バイアウト)です。
 4つ目は、会社を支配し、当該会社の事業に当面関係していない不動産、有価証券等を売却させ、一時的な高配当をさせたり、それによって株価の値上がりを狙うようなケースです。「解体型買収」とも言われます。

 他にも、買収価格が会社の「本源的価値」に比べて低すぎるケース(アメリカでポイズン・ピルが使われるときにあげられる理由がだいたいこれ)、中長期的な会社の価値が毀損されるケースなどが紹介されています。

 敵対的買収の手法としてはTOBの他に、市場内買付、委任状争奪戦、ベア・ハグと呼ばれる買収提案をいったん対象会社の取締役会に送って拒否されてから、公開書簡の形で提案を一般に公開する手法です。ベア・ハグは取締役に善管注意義務があり、買収提案を真摯に検討し、合理的理由なしに拒否できないことを逆手に取ったやり方です。

 敵対的買収のイメージが掴めたとして、では、アクティビストとは一体何なのか?
 まず、本書では「その潜在的な資産価値に比較して株価が割安な対象会社の株式の数%〜数十%を取得して、対象会社に経営の効率化や株主還元の強化等の要求を行ってその株価を引き上げる等をした上で、数か月から数年後に保有株式を売却してリターンを上げる投資家」(50p)という説明が紹介されています。

 近年では機関投資家も経営に口出しをすることが多いですが、アクティビストは裁定取引などのさまざまな投資手法を駆使する点が機関投資家と違い、一方で同じように投資手法を駆使するヘッジファンドは経営に口出しをしない点がアクティビストと異なります。
 また、アクティビストには自己資金中心で活動しているものと、顧客から資金を集めて活動している投資ファンドによるものがあります。カール・アイカーンや村上ファンドなどは自己資金が中心であり、投資ファンドとは言えません。

 アクティビストは対象会社の株価を上げるために、経営陣にさまざまな形で圧力をかけます。
 日本では3万株か発行済株式総数の1%以上の株式を6ヶ月以上保有していれば株主提案をすることができるのでこれが多用されます。また、臨時株主総会の招集も日本では可能なためによく用いられます。
 さらに会計帳簿閲覧請求や業務検査役選任請求なども使われます。
 
 また、欧米のアクティビストがしばしば用いる作戦としてウルフ・パックと呼ばれるものがあります。これは複数のアクティビストが暗黙裡に協調行動をとることで会社側に圧力をかけるやり方です。
 先進諸国では日本でいう大量保有報告規制が存在しており、5%以上など一定以上の株を買った場合はそれを公表しなければなりません。ウルフ・パック作戦だとそれをかいくぐって株を買い集めることができるのです。なお、連絡を取り合って圧力をかける場合は「グループ」になるので、大量保有報告をしなければなりませんが、アクティビストはそうしたことが表に出ないように行動しています。

 第3章は「敵対的買収の歴史」として過去の事例が紹介されています。アメリカやヨーロッパの事例も紹介されていますが、ここでは日本の事例の部分だけを少し紹介したいと思います。

 日本では、2000年に村上ファンドが昭栄に敵対的TOBを仕掛けたのが敵対的買収のはじまりのように認識されていることもありますが、戦前から鉄道や電力などで敵対的買収が行われていました。
 特に東急グループの創設者として知られる五島慶太は、目黒蒲田電鉄とその親会社である田園都市株式会社の株主の資金を用いて、自らも役員の一員であった武蔵電鉄の株式の過半数を敵対的に買収し、東京横浜電鉄と改称させ、自らは同社の専務となっています。さらに、池上電鉄や多摩川電鉄についても敵対的買収を行い、東急電鉄の基礎を築きました。
 五島は戦後には横井英樹が買い占めた老舗百貨店・白木屋の株を引き取り、白木屋を買収しています。

 2000年代になると、村上ファンドをはじめとするアクティビスト・ファンドが登場し、特に2005年のニッポン放送をめぐるライブドアの動きは、敵対的買収についてのあれこれについて多くの日本人が知るきっかけになりました。
 日本国内のアクティビストの動きは2008年ごろにいったん沈静化しますが、2014年のスチュワードシップ・コードと2015年のコーポレートガバナンス・コードの策定、いわゆる「ダブル・コード」の策定・改定は、企業に株式持ち合いの解消と株主の声の繁栄を求めるもので、アクティビストの活動は再び活性化しています。
 また、2019年以降は事業会社が敵対的TOBを成功させるケースも相次いでいます(19年の伊藤忠→デサント、20年のコロワイド→大戸屋、21年の日本製鉄→東京製綱など)。
 
 第4章では買収防衛策にはどのようなものがあるのかが解説されていますが、その前に「どんな会社が標的になりやすいか?」ということが書かれています。
 
 まず、標的になりやすいのがPBRが1倍を割り込んでいる会社です。PBRとは株式時価総額を純資産で割ったもので、これは1倍を割り込むということは理論上は対象会社の株をすべて取得した上で、その資産をすべて切り売りすれば利益が得られるということです。
 純資産の額を正確に見積もるのは難しいこともありますが、中には株式時価総額が手元現預金の額を下回っている会社もあり、こうなると格好の餌食です。

 借り入れ余力の大きい会社も狙われると言います。これはLBOの対象として適しているからです。
 2015年にサード・ポイントに株式を取得されて大規模な株主還元の要求を受けたファナックは、当時、実質無借金経営で利潤剰余金が1兆4000億円を超えていました。「優良経営」と言いたいところですが、アクティビストにとっては狙い目なわけです。

 次に資本関係の歪みがあるケースです。ニッポン放送とフジテレビの関係では、2003年当時、時価総額4600億円のフジテレビの株の約34%を保有するニッポン放送の時価総額は750億円ほどに過ぎませんでした。375億円でニッポン放送の株式の過半数を取得すれば、フジテレビの経営にも大きな影響を与えることができたのです。
 
 最後はコングロマリット・ディスカウントがあると考えられる会社です。成長力があまり高くないと考えられる会社が、傘下に非常に成長力の高い企業を抱えている場合、あるいは特定の事業をスピン・オフしたほうが株価が上がると考えられるケースです。
 例えば、前者ではカール・アイカーンがイーベイに対してペイパルのスピン・オフを要求したケースがあります。このケースではペイパルのスピン・オフ後に両者の時価総額の合計は以前のイーベイの時価総額を上回りました。
 後者については、2019年にサード・ポイントがソニーに半導体事業のスピン・オフを要求した事例などがあげられます。

 次に具体的な買収防衛策が紹介されています。広く取れば株価を上げるための方策は買収防衛策につながるのですが、本書でとり上げられているのは直接的な者が中心です。
 まずは「ポイズン・ピル」です。直訳すると「毒薬」で、買収者の持ち株割合が一定の割合に達すると、すべての株主に対して大幅にディスカウントされた価格で優先株を取得する権利が得られるというものです。
 この結果、買収者の持ち買う割合は大幅に希釈され、買収を断念せざるを得ない状況に追い込まれます。

 次に紹介されているのが、ホワイトナイトを対象にした第三者割当増資です。対象会社が親密な関係を持ち会社などに対して第三者割当増資を行います。
 ただし、日本では1989年の秀和対いなげや=忠実屋事件の判決において、この第三者割当増資が認められるかどうかは、具体的な資金需要があるかないかによるという「主要目的ルール」が確立しており、最近ではあまり用いられない手法だと言います。

 ホワイトナイトが第三者割当増資を受けるのではなく、対抗TOBを仕掛けるというやり方もあります。
 例えば、2006年にスティール・パートナーズに1株700円でTOBを仕掛けられた明星食品は、日清食品にホワイトナイト依頼し、日清食品が1株870円の対抗TOBを実施して明星食品を完全子会社化しました。この他にも村上ファンドからの攻勢を受けた阪神電鉄を阪急HDが完全子会社化した例などもあります。

 経営陣が自ら株式非公開家を目指したTOBを行うものをMBO、従業員が主導して行うものをEBO、経営陣と従業員が協力して行うものをMEBOと言います。
 防衛買いという手法もありますが、アメリカではこれを従業員持株制度たるESOPが行うケースもあります。
 他にもアクティビストから見て魅力的な会社の資産を売ったり、非常に高額な配当を行って豊富な現預金を吐き出すのが「焦土作戦」です。

 さらに基本定款や付属定款にアクティビストの活動を阻害する条項を入れておく「シャーク・リペラント(鮫よけ)」と呼ばれる手法や、1株で会社の重要事項について拒否権を持てる黄金株を発行したり、複数議決権種類株を発行するやり方も、アメリカではしばしば用いられています。
 グーグル(アルファベット)もフェイスブック(メタ)も複数議決権種類株を発行しており、アクティビストが会社の経営に影響を及ぼせない構造になっています。

 他にも「パックマン・ディフェンス」、「ゴールデン・パラシュート」などがあります。ただし、敵対的買収が成功した際には経営陣に割増の退職金を払うゴールデン・パラシュートは、経営陣が会社にしがみつくことを抑制する効果もあり、買収を促進するとの見方もあります。

 また、さまざまな法規制もあり、インフラ企業などを外資が買収することについては外為法の規制がありますし、テレビ局なども放送法のもとで外資規制と、その他の株主に関する規制があります。

 第5章は敵対的買収に対する各国の規制を紹介しています。
 ここについては詳しく紹介する力も紙幅も尽きた感じなので、「本書を読んでください」ということになりますが、この章を読んで感じるのは、日本とアメリカの間での取締役の裁量についてのイメージと実態のギャップです。

 なんとなく、日本では取締役が大きな力を持っていて株主が蔑ろにされている一方、アメリカでは株主主権が貫徹しているようなイメージがありますが、こと買収防衛策についてはまったく違うのです。
 アメリカではポイズン・ピルを含め、多くの買収防衛策が経営陣の一存で導入できますが、日本では株主の意志に基づいて導入、発動されるべきだと考えられています。
 
 日本はドイツ商法を母法としている歴史的経緯もあって、株主総会の権限も強く、少数株主の権利も強くなっています。これはアクティビストにとっては有利な条件です。
 本家のドイツでは、従業員2000人を超える会社の監査役会(取締役の選解任権」を有するなど大きな権限を持つ)の半数は、株主がその選解任に介入出来ない従業員代表となっています。ドイツではたとえアクティビストが過半数の株式を握ったとしても、自由に会社の資産を切り売りしたり、リストラをしたりはできないのです。

 他にも各国ごとの独自の規制や考え方がいろいろと紹介されており、この敵対的買収と買収防衛策について必ずしも「グローバル・スタンダード」のようなものがないこともわかると思います。

 ここでは基礎的なことを中心にまとめましたが、もっと突っ込んだ実務に関する部分なども書かれており、バランスよく理解できる本になっていると思います。個人的には断片的だった知識が整理されて非常に勉強になりました。
 また、実は日本はアクティビストが活動しやすい国だということを理解することは、今後、経済について考えていく上でも重要なことではないかと思いました。

境家史郎『戦後日本政治史』(中公新書) 8点

 『政治参加論』(蒲島郁夫との共著)などの著者による戦後日本政治の通史。データ分析に強いイメージのある著者ですが、本書は叙述を中心にしたオーソドックスなスタイルになっています。
 15年ごとに時代を区切って論じており、第1章は1945〜60年(3〜52p)、第2章は60〜75年(53〜102p)、第3章は75〜90年(103〜152p)、第4章は90〜2005年(153〜216p)、第5章は05〜20年(217〜280p)となっています。
 歴史を書こうとすると、何かポイントになる出来事を中心にメリハリをつけて書きたくなるところですが、きっちりと15年ごとに区切ってくるフラットな構成が本書の1つの特徴です。さらにページ数に注目してほしいのですが第1〜3章はきっちり50ページになっており、ボリューム的にも均質です。

 ただし、このような形式を満たしながら、中身についてはきちんとメリハリがあり、現在に至るまでの日本の政治の流れと、「今の日本の政治がなぜこの様になっているのか?」という重要な問いの答えが分かる内容になっています。
 とりあえず、現在の15年(2035年まで)の終りが近づいてくるまでは、代表的な新書の日本戦後政治史として読みつがれていくのではないでしょうか。
 
 ちなみにそのまままとめると戦後日本政治史をなぞることになってしまうので、できるだけ本書のポイントを中心に紹介したいと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 戦後憲法体制の形成
第2章 55年体制1―高度成長期の政治
第3章 55年体制2―安定成長期の政治
第4章 改革の時代
第5章 「再イデオロギー化」する日本政治
終章 「ネオ55年体制」の完成

 まず、本書は占領期の重要性をあげています。ここで行われた改革は、必ずしも外から強制されたものばかりではありませんでしたが、占領軍ほどの実行力をもって制度変革が行われることはめったになく、結果的にこの時期に戦後政治の基本的なルールがセットされることになります。

 例えば、第2次農地改革は地主に強制的に土地を手放すことを求める政策で、平時ならまず実行不可能でしたが、GHQの力を背景に行われました。結果として、土地所有が強制的に平等化されたことによって、農村の階級対立は緩和され、左翼政党が農村に浸透することを難しくし、農村を保守政党の地盤としました。
 もちろん、日本国憲法もそうしたもので、非常時につくられたこの憲法が一字一句修正されないまま現在も使われており、戦後政治の性格を大きく規定するものとなりました。

 戦後まもなくは革新勢力への支持も強く、1947年4月の衆議院選挙では社会党が第一党となります。社会党は民主党と連立し、片山哲内閣が誕生します。
 しかし、炭鉱国家管理問題などをめぐり社会党内の右派と左派が対立し、片山内閣は10ヶ月足らずの短命内閣に終わってしまいます。その後は民主党の芦田均が内閣を組織しますが、安定せず、48年の10月に吉田茂が首相の座に返り咲き、ここから長期政権を築きます。
 著者はこの動きを、党内対立によって瓦解し、その後に安倍晋三の長期政権がやってきた民主党政権と重ねています。

 1949年の総選挙では社会党と共産党が大敗しますが、社会党では左派の影響力が強まり、支援団体の総評の影響力も強まります。総評は官公労を中心に大きな集票力と資金力を持っており、社会党は強く労組の影響を受ける政党になっていきます。

 この後、日本は講和条約と日米安保条約を締結しますが、この動きの中で社会党は右派と左派に分裂します。
 また、再軍備については、吉田茂が憲法との齟齬について明示的な解決をしようとせずに解釈でこれを押し切りました。
 この宙吊り的な状況が、右派の改憲と左派の護憲を対立軸とする政治をもたらします。そして、左派陣営では改憲を阻止すること、すなわち議席の1/3を確保することである種の「勝利」を誇るるという「二重の基準線」を生みました。

 1954年についに吉田政権が終わり、首相の座は鳩山一郎→石橋湛山→岸信介と移ります。
 石橋内閣は短命に終わっていますが、鳩山も岸も吉田路線とは一線を画する政治家であり、非吉田系の保守党で重視されてきた、経済計画や社会保障に重点が置かれます。また、鳩山も岸も改憲を志向する政治家でした。
 55年には、社会党の統一と保守合同による自民党の誕生があり、いわゆる「55年体制」が始まることになります。

 このように保革の対立が軸になりましたが、これは必ずしも階級対立が激しかったからというわけではありません。
 社会党は高学歴層や新中間層からも票を集めており、これは自民の「逆コース」と言われる戦前会期の動きへの反発の現れと見られます。
 岸内閣の警職法改正の失敗も、60年安保の盛り上がりも、こうした背景から理解することができます。

 第2章は1960〜75年ですが、本書ではここに「55年体制Ⅰ」というタイトルが付けられています。著者に言わせると「この時期に55年体制の真に55年体制的な特徴がよく表れている」(53p)のです。

 岸に代わって首相になったのは池田勇人でしたが、池田は「寛容と忍耐」をモットーに、改憲などの野党との激しい対立が予想されるテーマを避けながら政治を進めました。そして、経済成長を背景にして選挙に勝利していきました。
 池田の次に首相になった佐藤栄作も好調な経済を背景にして長期政権を築きます。池田に比べれば野党との対立も辞さない姿勢でしたが、それでも改憲に前のめりにはなりませんでしたし、沖縄返還を前進させることで、「70年安保」を大きな盛り上がりにはさせませんでした。

 一方、この時期に野党は大きく変化します。1959年に社会党は再分裂し、60年には民社党が誕生しました。さらに60年代に公明党と共産党が勢力を伸ばすことで野党の多党化が進みます。
 公明党と共産党はともに都市部で支持者の組織化に成功し、社会党はその分、都市での支持を削られました。
 都市部での支持が弱まった社会党では、党内の路線対立が激化し、それが不人気に拍車をかけるという悪循環に陥ります。党内抗争では左派が有利に立ちますが、そこで採択された教条主義的路線は国民へのアピールを欠くものでした。
 
 社会党の内部では自民党と対決するために民社や公明と連携する「社公民」路線と共産党を含めた「全野党共闘」路線がありました(ただし、共産党を含めると公明・民社は離れるので、全野党共闘は共産との連携になる)。
 社会党と共産党で過半数を取ることは不可能でしたが、1/3ならば可能でした。そこで、改憲阻止の1/3を勝敗ラインとして共産との共闘を正当化するような主張もでてきます。

 ただし、この時期に都市部に革新首長が誕生するなど、自民党政治への不満がなかったわけではありません。
 そして、既存の左翼に不満を持つ若者らは新左翼を形成しますが、70年安保が不発に終わる中で、その運動が国民の中に広がることはありませんでした。

 自民党では佐藤→田中角栄と政権が移ります。田中は個人的な人気を背景に日中国交正常化を成し遂げますが、石油ショックとインフレは政権にとって大きなブレーキとなります。
 田中の導入した地方などへの分配政策は自民党の地方での地盤を強化しましたが、同時に非効率さも抱えており、後に改革の対象となっていきます。
 
 金権問題で田中が失脚すると非主流派だった三木武夫が首相になります。三木内閣について語られることは少ないですが、著者は三木内閣の1975年に起きた公務員の争議権回復を目指したスト権ストとその帰結が重要だったと言います。
 三木自身はスト権付与も考えたと言われますが、自民党内の反発もあって見送られます。何よりもスト権ストは国民に不評で、スト権ストは公労協の全面敗北に終わります。
 総評内でも路線対立が起こり、社会党を支えた基盤が崩れていくことになるのです。

 第3章は1975〜90年。前半は三木→福田→大平→鈴木と目まぐるしく首相が変わる「自民党戦国史」ともいえる状況でした。
 また、この時期はロッキード事件で逮捕された田中角栄が「闇将軍」として君臨するようになり、国民からは自民党の対質に対する不満が高まった時期でもありましたが、1980年のハプニング解散からの大平首相の死は、自民党に選挙での勝利をもたらしました。

 大平の跡を継いだ鈴木善幸は社会党出身の政治家で自民党の中では左派よりと言われていましたが、彼が前政権から受け継いだのは財政再建と行政改革でした。この路線はさらに中曽根康弘に受け継がれていくことになります。
 中曽根はかつては「青年将校」と呼ばれた右派であり、靖国神社の「公式参拝」や防衛費のGNP比1%突破などを打ち出しましたが、憲法改正には踏み出しませんでしたし、イラン・イラク戦争の際にアメリカから求められた自衛隊の断りました。防衛費もGNP比1.004%になったに過ぎませんでしたし、現状維持的な政権運営が長期政権を可能にしたと言えます。

 中曽根政権は三公社の民営化も進めますが、特に国鉄の民営化については行政改革という観点だけではなく社会党=総評ブロックに打撃を与えるという意図も含まれていました。
 1986年の衆参同日選では自民党が圧勝し、社会党は惨敗に終わります。中曽根首相の「左にウイングを伸ばす」作戦が当たった形ですが、この新たな支持層は移り気な支持層でもありました。

 87年、中曽根政権は売上税の導入を目指しますが、公約違反だとして大きな反発を受け、撤回に追い込まれます。
 この大型間接税は続く竹下政権のときに導入されますが、消費税とリクルート事件の影響で内閣支持率は急降下し、つづく宇野政権のときの89年の参院選で自民は惨敗します。一方、土井たか子を委員著に据えていて社会党はその受け皿となって大勝しました。

 第4章は90〜05年まで。「改革の時代」というタイトルが付いています。
 リクルート事件からくる政治不信や湾岸戦争トラウマなどから、「決められない日本」を脱するための政治改革を求めるムードが高まり、それは国民や野党からだけではなく、自民党の内部からも起こってきます。
 こうした中でキーパーソンになったのが小沢一郎でした。竹下派内での権力闘争に敗れた小沢は宮沢内閣の不信任案決議の際に造反し、その後離党して新生党を結成します。
 そして93年の総選挙で自民党は過半数割れし、7党連立の細川政権が誕生するのです。

 イデオロギー的にはバラバラだった7党をつなぎとめたのは政治改革という課題でしたが、実際の制度を決める際には各党の利害が衝突します。
 小選挙区中心の選挙制度に社会党から造反が出て参議院で法案は否決されてしまいますが、細川首相は自民とのトップ会談で法案を通します。小選挙区の部分が拡大され社会党にとってはより不利な制度になりました。

 その後、国民福祉税構想や細川首相の金銭問題の発覚で細川政権は崩壊し、社会党の連立離脱もあってつづく羽田政権も短命に終わります。
 ここで自民党は社会党と組むという大胆な手に出て小沢一郎を出し抜きます。こうして村山政権が成立しますが、ここで社会党は自衛隊の合憲性を認め、日米安保条約を堅持するという政策転換を行います。「戦後50年の村山談話」などの社会党ならではの政策もありましたが、96年の総選挙では15議席の小政党へと転落していきます。

 村山政権につづく橋本政権では広範囲の改革が目指されました。特に中央省庁の再編と首相の指導力の強化はのちの日本政治にも大きく影響していきます。
 しかし、橋本政権は経済政策の失敗で支持を失い、小渕恵三が首相になります。小渕はまずは小沢一郎の自由党、ついで公明党との連立に成功し、安定した基盤を作り上げます。通信傍受法案、国旗国歌法案、新ガイドライン関連法案と、55年体制であればきわめて論争的だった法案を次々と成立させていきます。
 小渕の突然の死のあとに森喜朗が首相となりますが、失言などが重なり内閣支持率は低迷します。一方で野党第一党となっていた民主党は都市部で躍進します。

 この自民党にとって危機的な状況を救ったのが「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉純一郎でした。
 小泉は橋本行革で強化された首相の権限を十分に活かし、「抵抗勢力」と対決する姿勢を取って長期政権を築きます。2003年の衆院選や2004年の参院選では民主党が比例票で自民を上回りますが、この健闘も05年の郵政選挙ですべて吹き飛んだ感じでした。この自民の圧勝劇が「改革の時代」のピークとも言えます。

 第5章は05〜20年ですが、著者はこの時代を「再イデオロギー化」していく時代として捉えています。
 小泉首相の跡を受けた安倍晋三は、「戦後レジームからの脱却」を唱え、教育基本法の改正や憲法改正に動き出します。また、小泉政権の負の遺産として格差の問題が指摘されるようになり、野党がこうした問題を取り上げるようになります。
 07年の参院選で自民党が敗北すると、いわゆる「ねじれ国会」の中で政権は安定せず、福田康夫、麻生太郎と短命政権がつづき、09年の総選挙で民主党が圧勝し、ついに政権交代が行われます。

 民主党はマニフェストを掲げて選挙を戦ってきましたが、数値の入った政権公約を掲げたぶん、その不達成状況もわかりやすいものとなりました。
 普天間基地の移設問題などが理由で鳩山由紀夫が退陣すると、菅直人は2010年の参院選を前に消費税の増税を示唆して自滅し、「ねじれ国会」を招きました。
 つづく野田佳彦も消費税増税を推し進めて党を分裂させ、12年の総選挙で記録的な大敗を喫しました。
 民主党政権は「改革の時代」の1つの成果でしたが、国民にとってそれは苦いものと認識され、自民党以外の選択肢はないと認識されるようになっていきます。

 第2次安倍政権になると、政治は「再イデオロギー化」します。安倍政権の特定秘密保護法案、そして集団的自衛権の一部容認を含む新安保法制に対して、民主党は共産党や社民党と協力して徹底抗戦に出ます。
 また、民主党が維新の会の一部と合流して民進党になったものの、希望の党を巡る騒動から立憲民主党が伸びたことで、イデオロギー的な対立が先鋭化することになったのです。

 しかも、野党は「多弱」であり、この状況は55年体制を思わせるものでした。著者はこの体制を「ネオ55年体制」と呼んでいます。
 例えば、2019年の参院選では自民党が危なげなく勝ったわけですが、主要政党の中で敗北を認めた党首は一人もいなかったといいます。どの野党も(国民もメディアも)自民を過半数割れに追い込めるとは思っておらず、護憲派が1/3以上の議席を獲得したことが「戦果」とされたのです。
 これはまさに55年体制的な光景です。著者は「保守政党が政権担当能力イメージを独占し、野党が断片化しているという状態、すなわち55年体制的状況は容易に変わらないだろう」(291p)とみています。

 このように本書は戦後の日本政治史を描き出していますが、その特徴の1つは野党が失敗した理由を比較的丁寧に分析している点でしょう。戦後の日本政治の歴史の大半は自民党の歴史となるわけですが、その自民党に野党が「勝てなかった」理由がよくわかる内容になっています(これには戦略上の失敗もあるし、農地改革がラディカルに行われたことで農村に浸透できなかった、といった野党自身にはどうにもできなかった要因もある)。
 
 野党支持者の人にとっては、著者が最後に打ち出してくる「ネオ55年体制」というのはあまりに希望がない展望に思えるかもしれませんが、厳しい現状認識を受け入れてこそ開ける将来もあるのではないかと思います。


上杉勇司『紛争地の歩き方』(ちくま新書) 8点

 紛争解決の研究者が紛争の現場を訪ねながら紛争解決と和解のあり方を探った本。本書の特徴は現場を訪ねていることと、その現場が多彩であることです。
 とり上げられているのは、カンボジア、南アフリカ、インドネシア、アチェ、東ティモール、スリランカ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、キプロス、ミャンマー。
 例えば、カンボジアや東ティモールといった単独の場所をとり上げて和解を論じた本は結構あると思いますが、ここまで多くのケースをとり上げている本はなかなかないでしょう。
 そして、この多様な現場を歩いたことで、「和解」と一口でいってもさまざまなものがあり、「和解」という美しい言葉をあてはめることは難しいけど、それでもとりあえずは落ち着いているような現場もあることが見えてきます。
 コラムを中心に著者の今までの旅の経験も紹介されており、読み物としても面白く読めます。

 目次は以下の通り。
第一章 カンボジア――和解の旅の起点
第二章 南アフリカ――和解を考える旅
第三章 インドネシア――民主化という名の和解
第四章 アチェ――和解に優先する復興
第五章 東ティモール――和解の二局面
第六章 スリランカ――多数派勝利後の和解
第七章 ボスニア・ヘルツェゴビナ――民族という火種は消せるのか
第八章 キプロス――分断から和解は生まれるか
第九章 ミャンマー――軍事政権との和解
終 章 現場で考える和解への道

 まずはカンボジアです。著者は1998年にカンボジアで行われた選挙の監視団に28歳のときに参加しており、ここが自分にとっての出発点だったと言います。
 カンボジアでは1970年のロン・ノル首相によるクーデターから、ポルポト派による大虐殺、79年のベトナムによる軍事侵攻という具合に混乱が続き、91年のパリ和平協定でようやく内戦が終結しました。

 内戦終結後、国連は虐殺の首謀者の責任追及のための国際法定の設置を求めましたが、カンボジア政府は国民若いと平和維持を優先すべきとの立場で、責任を追求するのであれば国内法定にすべきだと主張していました。
 結局、カンボジアの国内裁判所で外国人検察官・裁判官が参加する特別法廷での設置が決まりましたが、その設置は遅れたためにポルポト派の勢力は削がれており、また被告人たちは高齢で服役期間は短いものとなりました。

 一方、著者は元ポルポト派の兵士にも話を聞いています。地雷によって両足を失った元兵士も登場しますが、彼は足を失ったことによって自尊心も失っており、こうした内戦に関わった元兵士たちの支援も重要だと感じたとのことです。

 一方、カンボジアからの留学生にポルポト時代の大虐殺を学校で学んだかどうかを聞いてみると、多くは学んでいないとのことで、カンボジアでは過去を忘却したいという思いがあることもうかがえます。
 著者が副理事長を務める沖縄平和協力センターでは、カンボジアのトゥールスレン虐殺博物館への支援を実施してきたとのことですが、第三者が過去の記憶の封印を解くような真似をすることについては迷いがないわけではないとのことです。

 第2章は南アフリカです。
 アパルトヘイト政策によって国際的に孤立していた南アに変化が訪れるのは1989年にデクラーク政権が誕生してからです。
 デクラークはマンデラを釈放し、マンデラの率いるANC(アフリカ民族会議)と話し合いを始めます。この話し合いは難航しますが、最終的にはANCが白人との権力分有を受け入れ、公務員の職や年金などを保障する譲歩を行うことで打開されました。
 多数派の黒人が白人の既得権益を剥奪せずに、一定程度それを認めたことが社会の安定につながりました(一方、ジンバブエではムガベ大統領が白人農園主から土地を奪ったことが経済混乱につながった)。

 アパルトヘイトの特徴は被害者は特定できる一方、加害者の名前をあげることが難しい点です。南アでは白人は特権を享受し、黒人を搾取する社会構造になっていましたが、基本的に個々の白人が何か不法行為をしたというわけではありません。
 そこで、南アでは非白人が白人の罪を許すための仕組みとして真実・和解委員会がつくられました。
 真実・和解委員会では「真実と引き換えに免責される」という原則が立てられました。この仕組みについて著者は「応報的正義を追求するように見せかけた恩赦の過程であったといえる」(74p)と述べています。

 著者はコロナ禍直前に南アを訪れたそうですが、そこで見たのは黒人と白人が分かれて暮らしている姿だったと言います。
 南アには「タウンシップ」と呼ばれる黒人居住地域があり、タウンシップをめぐる観光ツアーというのもあるそうです(普通に尋ねると危険なのでツアーに参加するといいと言われたとのこと)。
 著者が観察したところだと、この和解は「互いに干渉しない物理的・社会的。心理的距離を保つことで維持されるもの」(86p)だということです。
 また、人間を肌の色で区別することに意味があるのか? とは思っていても、一度アパルトヘイトのような社会を経験してしまえばそれを無視することができない難しさも語られています。

 第3章〜第5章はインドネシア、アチェ、東ティモールとインドネシア関連が続きます。
 第3章はスハルト政権崩壊後の抑圧した側とされた側の和解です。特にスハルト政権が成立してしばらくは共産党に対する大弾圧が行われ、多くの人が虐殺されたと言われています。

 1998年のアジア経済危機をきっかけにスハルト政権は崩壊しますが、軍をはじめとするエリート層は新体制においても一定の既得権益を維持し続けました。
 もちろん、独裁政権が倒れたことでタブーは少なくなり、息苦しさのようなものはなくなったと言いますが、軍部はしっかりと手綱を握ったままであり、その過去が法廷などで糾弾されることはなかったのです。

 つづくアチェの章でも、ある種の中途半端な和解が描かれています。
 アチェでは、1976年に自由アチェ運動が結成され、インドネシアに対する独立を求める武装闘争が行われました。アチェは石油や天然ガスの資源があり、それを手放したくないインドネシアと、自分たちのために使いたいアチェの人々という対立がありました。
 さらに自由アチェ運動がイスラム法(シャリア)の適用を求めていたのも特徴です。インドネシアもイスラム教徒が中心の国家ですが、インドネシアにとってはイスラム勢力の脱過激化が重要でした。

 こうした中で和平のきっかけとなったのが2004年のスマトラ沖大地震です。
 アチェは津波で大ダメージを受け、復興のために国際社会の目が向けられます。一方、アチェの資源は枯渇しかかっており、自由アチェ運動のリーダーのハッサン・ディ・ティロは高齢になっていました。
 こうした中で、フィンランドの実業家のユハ・クリステンセン、さらにフィンランド元大統領のアハティサーリが仲介することで和平合意にいたります。
 アハティサーリは独立を目指す自由アチェ運動の交渉団に圧力をかけ、「アチェ人による政府」という形でまとまりました。

 自由アチェ運動が独立の旗を降ろしたことで和平はまとまったのですが、その背景には9.11テロ以来、イスラム過激派に対する風向きが厳しくなったこと、リビアからの資金援助が難しくなったこと、そして、アチェにおいてインドネシアでは禁止されている地方政党の存在が認められたことなどがあるといいます。
 これによって自由アチェ運動の幹部たちは政治家へと転身し、復興マネーにありつくことができました。
 地方議会では自由アチェ運動を母体としたアチェ党が伸びたものの、それまでの既存の政党が過半数を占め、新旧のエリートが利権を分け合うような形になりました。これがアチェの社会に安定をもたらしました。
 一方で、末端の兵士たちなどは利権にありつけずに、内戦の傷を背負ったまま生活している者もいます。

 東ティモールでは和解の局面は2つあったと言います。1つはインドネシア政府と東ティモール政府の国家レベルの和解であり、もう1つは東ティモール国内での併合派(インドネシア残留派)と独立派の間の和解です。
 さらに後者に関しては、1999年の住民投票後の混乱の中でインドネシア当局とともに西ティモールに逃れた東ティモール人の帰還を認めるか、どう処遇するか、さらに抵抗運動に身を捧げた東部住民と、インドネシアに協力した西部住民という対立軸もありました。

 東ティモールでは1999年から2002年の独立回復までは国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)が国家運営を担いました。そこには重大犯罪に対する特別法廷が設置され、軽微な犯罪に対しては受容・真実・和解委員会を開廷することで、彼らに地域社会に復帰する道を開きました。
 しかし、東ティモールでの人権侵害の中心となっていたインドネシアの当局者はすでに東ティモールを去っており、裁かれたのは末端の民兵たちでした(インドネシア国内で裁判が行われたがいずれも無罪に終わった)。

 国家レベルの和解については、東ティモールは妥協の道を選びました。容疑者の身柄お引渡しや拘束を求めることはせずに、インドネシアの過去の行為についてはスハルトに押し付ける形で不問に付しました。
 これはインドネシアとの関係改善なくして東ティモールは立ち行かないという現実的な判断の結果でもあります。

 ただし、国内での和解、そして社会の安定については難しいものもありました。2006年には待遇に不満を持つ兵士たちが騒乱を起こしています。
 これには、国連統治時代は、健康状態や学歴に優れる西部出身者が兵士に取り立てられる一方、長年、ゲリラ活動に従事した東部出身者は栄養状態も悪く、学校にも行っていなかったために国軍から弾かれたものの、独立後には逆に東部出身者が軍を牛耳って西部出身者が冷遇されたという経緯も影響していました。

 こうした「嘆願兵」は2008年に大統領と首相を狙った同時テロ(未遂)に及びます。
 これに対し、政府は退職金を与えて彼らを軍から去らせました。東ティモールでは、金で買う形で社会の安定を図ったのです。

 また、東ティモールではポルトガルが支配していた時代にポルトガル人と血縁を結んだ東ティモール人の末裔のメスチースが勝ち組となっています。
 彼らの中にはインドネシアの侵攻後に海外に逃げた者も多いのですが、公用語がポルトガル語になったこともあって彼らがエリートとして国家の中枢に座りました。一方で次世代はインドネシア語で教育を受けた世代なのでなかなか権力の継承は進みません。
 ポルトガル語を話す者はそもそも少なく、ブラジルからポルトガル語の教員を派遣してもらったりもしているそうです。

 第6章はスリランカ。スリランカの内戦終結のプロセスについて知っている人は、スリランカに「和解」という言葉を使うことに違和感を感じるかもしれません。スリランカでは多数派のシンハラに対して武力闘争を行った「タミルの虎」を、2009年に中国の後押しを受けた政府軍が完全に粉砕したからです。

 スリランカもアチェと同様に2004年のスマトラ沖大地震で大きな被害を受けましたが、そのショックは和解にはつながりませんでした。タミルの虎はそれまで多くのテロ行為に手を染めており、アメリカ政府やインド政府からもテロ組織の指定を受けており、彼らを包摂することは難しかったのです。
 内戦終結後、欧米諸国からは人権侵害や戦争犯罪に対する正義の実現を求める声も上がりましたが、スリランカ政府やタミル系住民が求めたものは復興でした。
 著者が現地で行った調査から、タミル系住民には早く平穏な日常を取り戻したいという気持ちと、何をされるかわからないという不安な気持ちがうかがえます。また、タミルの虎の関係者は使節に収容されたり、軍などの監視下にあります。
 スリランカにおける和解は、双方の歩み寄りではなく、多数派の一方的な勝利によりものです。少数派に抵抗する力が残ってないために「平和」は訪れましたが、多くの問題をはらんでいることも事実でしょう。

 第7章はボスニア・ヘルツェゴビナです。ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ユーゴスラビア解体の過程で、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人がそれぞれの支配地域を拡大しようと、内戦になり、「民族浄化」とも言われる出来事が起こりました。
 1995年のデイトン合意によって、ボスニア人とクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人中心のスルプスカ共和国の2つの地域に分割され、それぞれの民族が拒否権を持つような形で権力の分有が図られました。
 また、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷も設置され、内戦時の戦争犯罪や非人道的行為が裁かれました。

 ボスニア・ヘルツェゴビナではデイトン合意の後、内戦は再燃していません。これは治安維持のための部隊が現在はEUから派遣され、国際社会から派遣された上級代表が政府の行動を監視しているからでもあります。
 また、同時にボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国という民族の棲み分けができたからでもあります。皮肉にも「民族浄化」が実現してしまった面もあります。

 第8章はキプロス。キプロスは地中海に浮かぶ島で、ギリシア系住民とトルコ系住民の対立から1964年に内戦が勃発、74年にはトルコが軍事侵攻し、83年はトルコが占領していた北部が「北キプロス・トルコ共和国」として独立を宣言しています(承認したのはトルコのみ)。
 結果的に島は2つに分断されており、この状態が解消する目処は立っていません。

 著者は2000年、2018、19年とキプロスを訪れているそうですが、現在は国連の平和維持部隊はいるものの、往来も基本的に自由になっており、物価の安い北部に南部の住民が買い出しに行くことも多いようです。
 北キプロスの政府関係者には、統一して少数派になるよりも今の状況を良しとする雰囲気が強く、南部では和平交渉に取り組もうとすると野党から批判を受けるという状況があり、結果として現状維持が選択されています。
 和解を目指すイベントなども開かれていますが、もはや無関心になっている住民も多く、統一や和解の機運はなかなか盛り上がらないようです。

 第9章はミャンマーですが、ミャンマーは和解の糸口さえつかめない状況です。
 そもそも、現在のミャンマーには大雑把に言っても、ビルマ族と少数民族の対立、仏教徒とロヒンギャと呼ばれるイスラム教徒の対立、クーデターを起こした軍と民主化を求めるグループの対立があり、現在も弾圧は続いています。
 
 こうなると人道支援なども難しくなります。人道支援には、人道主義、公平性、中立性といったことが求められ、支援を継続するには軍事政権がそれを認める人ようがあります。結果的に人権を侵害している軍事政権を批判できないという状況にも陥るのです。
 ロヒンギャの問題にしても、少数民族の問題にしても、まずは交渉の主体となる政府が安定し、国際社会から一定の正統性が認められいることが必要で、そのためにはまずは軍事政権と民主化勢力との間で何らかの手打ちが必要なのですが、現時点では難しく思えます。

 このように本書は多くの紛争地とその和解を紹介しています。とり上げられているケースが多いために紛争の原因などに関してはラフスケッチといった感じにとどまる部分もありますが、その分、著者が実際に会った人物や経験した出来事が本文やコラムに書かれており、和解の現場のリアルな状況を知ることができます。
 また、多くの和解をとり上げていることによって、和解の形がそれぞれであり、必ずしもセオリーや正解があるものではないということもわかると思います。
 何よりも実際に行ってみないとわからない紛争地の現場の雰囲気の一端を教えてくれる本ですね。

源川真希『東京史』(ちくま新書) 7点

 巨大都市である東京の歴史を7つの視点から読み解いた本になります。
 東京の歴史を描こうとしたとき、「政治を中心とした通史」、「町並みの変化に注目した歴史」、「風俗や文化などを中心にした歴史」など、いくつかの方法が考えられますが、本書は以下の目次に見られるようにかなり欲張った形で、インフラ、政治、民衆、繁華街など、さまざまな視点から東京の変化を明らかにしようとしています。
 もちろん、欲張った分、抜け落ちている部分もありますが、それを承知で東京の総体的な変化を追ってみた本と言えるでしょう。
 人によってさまざまな発見がある本だと思います。

 目次は以下の通り。
プロローグ
第1章 破壊と復興が築いた都市
第2章 帝都・首都圏とインフラの拡大
第3章 近代都市を生きる民衆
第4章 自治と政治
第5章 工業化と脱工業化のなかで
第6章 繁華街・娯楽と都市社会
第7章 高いところ低いところ
エピローグ 東京を通してみた近現代

 第1章のテーマは「破壊と復興」です。
 東京のはじまりには戊辰戦争があり、江戸城こそ無血で引き渡されたものの、彰義隊との戦いで上野一帯は焼け落ちました。
 その後、新政府は東京を近代的な都市にすべくさまざまな都市計画を建てましたが、予算的な制約もあって人々の生活の改善は後回しにされがちでした。

 東京は多くの災害にも見舞われています。真っ先に思い浮かぶのは関東大震災ですが、本書では1910年の明治43年水害にも触れています。
 この水害では利根川、多摩川などでも被害が出ましたが、特に荒川では東京での開発が上流の埼玉県で氾濫を招き、この水害をきっかけにして荒川放水路の開削が始まりました。これが現在の荒川になります。

 そして、やはり関東大震災の影響は大きいです。後藤新平が指揮をとった復興計画によって完全道路や公園、橋梁などが整備され、東京の中心部は大きく生まれ変わりました。
 本書では公園の整備に関して、東京史公園課の井上清という人物の考えが紹介されています。井上は、公園を民衆の憩いの場であると同時に、保健事業、社会事業、教育事業の機能を果たすものと考え、児童に対しては遊び場を提供するだけでなく指導監督も必要だと考えていました。そのため、日比谷公園には児童指導員あ置かれていました。
 また、彼はルンペン(ホームレス)も公園の利用者として想定しており、そのために彼らが休養できる場と飲用水栓を設置したりもしました。
 また、多磨霊園などの公園墓地の整備にも井上は関わりました。

 1930年代になると緑地の整備も進みます。1939年には環状緑地帯計画が決定されますが、これは都市膨張の抑制や行楽地の提供ととともに防空を目的としたものでもありました。
 こうして砧、神代、小金井、舎人、水元、篠崎といった緑地が整備されていきます。これらの緑地は戦後に農地開放の対象になりましたが、その後に土地を買い戻す形で公園として整備されています。

 東京は戦争でも大きな被害を受けましたが、財政の逼迫と急激な人口増加の中で計画的な都市計画による復興は進みませんでした。
 駅前などには露店が立ち並び、それをいかに整理するかという問題に直面します。渋谷では飲食店は「のんべえ横丁」に移りましたが、物品販売店は代替地がなく横浜の野毛で出店地を獲得したと言います。その後、東急との交渉によって地下街で営業を行うことになり、1957年に渋谷地下街(しぶちか)が誕生しました。

 第2章のタイトルは「首都圏とインフラ」となっていますが、「首都」という言い方は戦後になって定着した言い方で、戦前は「帝都」でした。
 「首都圏」という言うように、東京はその圏域を次第に拡大させていくことになるのですが、それを可能にしたのが鉄道網の発達です。
 20世紀に入って、現在のJRの路線だけではなく私鉄が整備されていったことで東京の範囲は拡大していきました。渋谷と二子玉川を結ぶ多摩川電鉄や、笹塚と調布を結ぶ京王電気軌道は、当初は多摩川の砂利の運搬を担っていましたが、次第に人の輸送がメインになっていきます。

 一方、都心では馬車鉄道、ついで路面電車が整備されていきます。1911年に東京市が東京鉄道を買収して市営にし、路線を広げていきます。
 路面電車は人々の足として利用されましたが、日比谷焼き討ち事件などの都市騒擾ではたびたび襲撃の対象とされました。これは路面電車が近代化の象徴として人々の怨嗟の的になった面があると考えられます。

 1893年、西多摩、南多摩、北多摩の三多摩が東京府に移管されます。これは東京の水源を確保するためのものでしたが、水源とは関係のない南多摩も移管されていることから、神奈川の自由等を切り崩す狙いがあったとも言われています。
 この後、三多摩を東京から切り離すような動きも起こりますが、三多摩はそれに一貫して反対し、現在のような形で東京都に残りました。
 また、東京には島嶼部もあります。伊豆諸島は最初は静岡県でしたが、1878年に東京府に編集され、小笠原諸島は1880年に所管するとこになりました。

 1956年に首都圏整備法が制定され、東京を中心とした開発は周辺の県に及ぶようになります。東京への一極集中は周辺県での人口増加をもたらしました。
 東京23区の人口をみると、1988年以降は減少に転じますが、97年からが再び増加します。都心の再開発が進むことによって、東京から周辺部への人口の流出という流れは止まったのです。

 第3章では東京で生きた民衆の姿を明らかにしようとしています。
 明治以降、農村から都市への人の移動がより顕著になりますが、それは貧民の流入でもありました。
 こうした状況に対して、1881年の東京府会では「民力休養」の立場から貧民救済事業が槍玉に上がり、自由民権運動家の沼間守一が廃止を訴えました。また、田口卯吉は貧民の払う地方税で、地方税を払っていない「怠惰」な貧民を救うことはおかしいと述べ、彼らの救済は民間に任せるべきだと主張しました(ちょうどこの頃は渋沢栄一が養育院の院長を務めていた時代でもある)。
 
 明治初期には四谷鮫ヶ橋、下谷万年町、芝新網といった「スラム」が知られていましたが、次第に周囲にも広がっていきます。工場の中には女工や幼少工を雇うために「スラム」周辺に立地を求める場合もあったといいます。
 さらに関東大震災をきっかけに都市下層民の集中する地域は、荒川、向島、城東区域などに移っていきました。

 こうした都市下層民による都市民衆騒擾も起きますが、東京では大きなものとしては米騒動がその最後になります。
 第一次世界大戦後になると、世界的な潮流に従う形で東京でも都市政策が行われるようになり、公設市場、簡易食堂、職業紹介所などがつくられました。

 韓国併合以降、日本にやってくる朝鮮人も増えてきます。大阪市では1930年代半ばに総人口の5%程度を占めるほどでしたが、東京は1〜2%程度だったと言います。
 それでも芝区、深川区、荒川区、豊島区などに集住地域があり、多摩川での砂利採取に従事するために調布にも朝鮮人の集落が存在していました。
 こうした中で、関東大震災における朝鮮人に対する虐殺事件も起こっています。

 さらに本章では自分の生活を綴方(作文)で表現した小学生・豊田正子の残した文章を紐解きながら、当時の南葛飾の人々の生活を明らかにしようとしています。
 正子は小学校の訓導である大木顕一郎の指導を受けながら作文を書き、その大木がこれを出版したことで話題になり、演劇や映画もつくられました。

 正子の父はブリキ職人でしたが、1930年代になると大震災からの復興偉業が一段落し、なかなか仕事にありつけない状況でした。そんな中で仕事にあぶれたものが三井財閥の寄付による「お米のふだ」をもらっていたことなどが書いてあります、当時、血盟団事件や五・一五事件が起こっており、財閥への批判が高まっていた時期でした。

 四年生も終わることになると、正子はセルロイド工場で働くことになります。また、小学校卒業後には正子を芸妓にするという話も母親から出たようで、当時の子どもを取り巻く状況が厳しいものだったこともわかります。

 戦後は、増え続ける人口を収容するために団地がつくられることになりますが、貧しい人々が入居したのは「〇〇荘」という名前が多い木賃アパートと呼ばれる賃貸住宅でした。
 経済成長とともに地方からの若者の上京も増え、東京で高校への進学率が上昇すると、地方から中卒の若者などが集団就職で上京するようになります。
 東京オリンピックに向け突貫工事が行われる中で、山谷などの「ドヤ」も活況を呈しますが、次第に仕事は少なくなり、70年代後半には山谷の高齢化が問題になっています。
 
 第4章では政治が扱われています。
 明治における政治参加は地方から始まっていますが、東京市に関しては特例で府知事が市長を兼ねており(他にも大阪市、京都市がそうだった)、他の市のように市会が市長の選出に関わることはできませんでした。
 1898年10月1日に特例が廃止されて、市長を市会が専任するようになり、この10月1日が「都民の日」となっています。ちなみに「東京都」になるのは戦時下の1943年であり、内務省が東京への影響力を強めるために行った再編だと言います。東京都長官は国の官吏となりました。

 東京市会は汚職などが度々起こっており、星亨は腐敗の元凶とみなされて殺されています。
 1925年に男子普通選挙法が成立し、市会選挙も普通選挙になると、啓発活動が盛んに行われるようになりました。この啓発運動には内務省も絡んできますが、大政翼賛会の時代になると、過去に汚職によって糾弾された議員が推薦を受けずに当選し、反東条英機の立場を明確にしたケースもあります。三木武吉がその例でした。
 
 選挙の啓発を行った団体としては後藤新平が中心になって1922年に設立された東京市政調査会もあります。
 安田善次郎の寄付などもあって日比谷公園には市政会館がつくれました。ここは関東大震災時には復興事業の拠点ともなっていきます。

 戦後、東京都長官は官選から公選になり、それまでの長官であった安井誠一郎がいったん辞職し、立候補して当選しました。新憲法と地方自治法の施行とともに役職名は都知事になっています。
 安井は戦争からの復興に力を注ぎ、1959年に当選した東龍太郎は東京オリンピックの準備に力を尽くしました。

 しかし、都市問題の悪化とともに保守都政への不満も高まり、1967年の都知事選で革新系の美濃部亮吉が当選します。美濃部は社会福祉政策、公害対策、公営ギャンブルの廃止などを進めましたが、同時にマスコミを意識した政治スタイルを取りました。著者はこの点をのちの石原慎太郎との共通点だと考えています。
 一方、政策的には石原慎太郎を1つの画期とみています。行政の運営に経営の視点が定着し、東京への集中をむしろ肯定する都市再開発が展開されるようになりました。

 第5章は工業化と脱工業化について。現在は随分とその印象が薄れましたが、高度成長期までは東京はまぎれもなく工業都市でした。
 東京の工業化は、最初は東京砲兵工廠などの官営の工場から始まりますが、日清戦争後になると繊維工場が京橋区、本所区、日本橋区、深川区、芝区などに建てられていきます、また、八王子や村山(武蔵村山)では絹織物が生産されました。

 一方、周辺の郡部は農地でしたが、関東大震災前後から宅地化が進んでいきます。
 ここで問題となったのが屎尿処理の問題でした。屎尿は肥料として引き取られていましたが、周辺の農地が現象する中で、引き取り手が減ってしまったのです。業者も積極的に引き取りをしなくなり、市による屎尿処理が行われていくことになります。

 戦争で東京の工場は大きな被害を受けましたが、戦後になると復興します。業種としては、金属製品、出版・印刷、一般機械などが多く、城東地区に日用消費財の工場が、文京区を中心とした都心部には出版・印刷が、一般機械や電気機械、金属製品の工場が大田区などの城南地区に立地することになります。豊島区などの城北地区には化学工業が立地し、多摩地域は戦前の軍需産業を引き継ぐような形で機械工業地帯になっていきます。

 しかし、1958年に制定された工場等制限法の影響もあり、工場の地方移転が進んでいくことになります。
 工場等制限法は2002年に廃止されますが、だからといって工場が東京に戻ってくることはありませんでした。この工場等制限法の廃止には「国土の均衡ある発展」という理念がもはや重視されなくなったという象徴的な意味があったと著者はみています。

 第6章は「繁華街・娯楽と都市社会」というタイトルです。
 駅や百貨店などを中心とした繁華街の形成については比較的さらっとすませており、イヴェントと都市の発展や、ヤミ市などに紙幅が割かれています。

 明治になってから多くのイヴェントが開かれたのが上野公園です。第1〜第3回までの内国勧業博覧会が開かれ、憲法発布記念式典や日清戦争や日露戦争の祝捷大会もここで開かれました。
 内国勧業博覧会については、最初は産業振興のためのさまざまな技術や機械の展示が中心でしたが、次第に娯楽的な要素が強まっていくことになります。

 東京の郊外の行楽地も今から見ると意外な形で発展したものも多いです。
 1927年に大正天皇の陵墓が南多摩郡横山村に造営されますが、ここは新しい観光地になっていきます、1930年には明治天皇など皇族の狩猟場が多摩聖蹟記念館として整備されます。
 大正時代から昭和初期になると私鉄が開通し、その沿線に遊園地がつくられていきます。多摩川第二遊園(のちの二子玉川閣)、多摩川園、京王閣遊園、向ヶ丘遊園、豊島園などです。
 
 また、私鉄は郊外のハイキングコースの整備も行っており、京王電鉄は高尾山をはじめとしたハイキングコースを整備していきます。
 このような動きを前提に、厚生省や東京市、大阪市などは厚生運動を展開しています。ナチ・ドイツのKdF(歓喜力行団)やイタリアのドゥオーポ・ラボーロをモデルにしてつくられたもので、行楽と体位向上がセットにされていました。

 その他、本章では花街やヤミ市についてもとり上げられてます。また、最後に月島についてもとり上げられていますが、もんじゃ焼きが有名になったのは70年代末に石川島播磨重工業が転出したあとの80年代という話は意外でしたね。

 第7章は「高いところ低いところ」と題されていて、まずは山の手と下町のことから始まっています。ここから格差の話に入るのかと思いましたが、基本的には地形と建物の高さの話になります。
 浅草凌雲閣、丸ビル、東京タワー、霞が関ビル、新宿副都心、スカイツリーと、東京には時代に沿って高層建築が建てられていきました。
 また、本書が重要な開発だと指摘するのが六本木アークヒルズの開発です。この地域は低層密集地区でしたが、1967年から土地の取得が始まり、1986年に完成しています。事業主体は森ビルで、国や都の支援を受けたとはいえ、ビジネスとして民間企業が大規模な再開発を行ったことは1つの画期となりました。この再開発のスタイルはその後にも続いていき、東京への一極集中を進めていくことになります。

 このように本書は東京の歴史を多面的に描き出しています。それぞれん視点から過去→未来を繰り返す形の叙述については、繰り返し的な部分がないことはないですが、それによって見えてくる東京の変化というのもあると思います。
 さすがに新書サイズ1冊で東京の歴史の主だった部分のすべてがわかるというわけにはいきませんが、さまざまな研究が引用されており、この1冊からさらに東京史を深めていけるような内容になっています。


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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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