山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2023年03月

斎藤淳子『シン・中国人』(ちくま新書) 7点

 副題は「激変する社会と悩める若者たち」。急激な経済成長の中で生まれる世代間のギャップを主に恋愛と結婚の面から見た本になります。
 改革開放が始まる以前の世代とそれ以降の世代では価値観やライフスタイルが違うというのは当然想像できるところですが、本書はつづく90年代や00年代に生まれた世代も見ていくことで、さらなる価値観やライフスタイルの変化を明らかにしています。
 中国では急速に少子化が進んでいますが、本書を読めばそれも納得という感じで、現代中国における恋愛・結婚・子育てが日本以上に険しい道だということがわかります、
 現代中国と、これからの中国を見ていく上で非常に面白い材料を提供してくれる本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 世界一のジェネレーションギャップ―生活、金銭感覚、結婚観
第2章 データで見る中国の恋愛、結婚、離婚と出産
第3章 北京で聞きました―20代、30代の恋愛観と結婚観
第4章 「図書館30秒」に見るZ世代の恋のカタチ
第5章 ファミリービジネス化する結婚―結納金は年収の10倍以上
第6章 中国の住宅事情―住宅私有化の波が呑みこむ少子社会
第7章 恋愛は「闇」でする悪いこと?―中国の恋愛観
第8章 細くなった一人っ子世代、「気まずさ」に悩む若者
第9章 美顔を整形で手に入れろ―不安と競争圧力の下で
第10章 画一化された競争人生にノーと言い始めた若者たち

 著者は1996年に北京に初めて降り立ち、その後、北京を中心に暮らしてきてきたそうですが、その変化はとてつもなく大きなものだったといいまし。電話を掛けるために屋台のような電話やさんにお金を払ってかけていた時代から、日本以上のスマホ社会になり、二束三文だった住宅は平均収入比では世界最高レベルになりました。先進国の住宅は年収の約10倍で買えるのに対して、中国は全国平均で20倍、北京市では40倍以上です(15p)。
 
 そんな変化の中で顕在化したのがジェネレーションギャップです。どの国でもジェネレーションギャップはあるものですが、中国には2つのものがあるといいます。
 1つは現在80歳前後の親と50歳前後の子どもの間にある金銭面を中心としたギャップです。80歳代は生まれた頃は日中戦争、さらには大躍進による飢えや文化大革命の混乱を経験しており、とにかく倹約癖が強いといいます。
 水を節約するために全自動洗濯機を一度止めて排水される水を汲み出して再利用としたり、無料のものは何でももらってきたりで、ある程度金銭的な余裕が出てきた子ども世代とは大きなギャプがあります。

 もう1つが60〜70代の親とその子どもの間に見られる恋愛・結婚観のギャップだといいます。
 50年代から60年代前半に生まれた世代は、子どもの頃に文化大革命を経験し、1600万人を超える青年が半強制的に辺境の農村に送られた世代で、教育の機会を奪われた人も多くいました。
 それでも若い頃に改革開放を経験したので、金銭面で子の世代と大きなギャプはありません。しかし、親世代としては金銭的にも不自由させずに学歴もつけてやったのに結婚しない、孫ができないということに戸惑いがあるようです。
 また、兄弟が多かった親世代に対して子の世代は一人っ子であり、親の期待はその一人っ子にすべてかかっているのです。

 恋愛・結婚観のギャップは日本にもあるかもしれませんが、現在の中国では夫の側が住居(マンション)を用意するのが当たり前になっており、しかもマンション価格は高騰しているので、親の援助がなければ用意できないという状況になっています。

 中国でも晩婚化は進んでいます。2010年に男性25.75歳、女性24.0歳だった平均初婚年齢は2020年に男性29.38歳、女性27.95歳にまで高くなっています。初婚人数も最も多かった2013年の2385.96万人から20年には1228.6万人とほぼ半減しており、結婚の件数そのものが激減しています(54p)。

 中国の離婚率(人口千対)は2019年で3.36で日本の2020年の1.57に比べて倍以上の高さになっています。
 中国は女性の就業率が2022年で62%と日本の53%(2019年)よりも高く、女性が経済的に自立していることが1つの背景にあると考えられます。
 また、不動産価格の高騰対策として夫婦が2軒目の住宅を購入できるのは1軒目を購入してから3年以上経過してからといった規制があるのですが、この規制をかいくぐるために離婚する夫婦もいるそうです(近年でこうした行為を禁止するための新たな規制もつくられている)。
 他にも、中国は夫婦別姓であり、離婚しても役所の書類を見ない限り気づかれないといったことも要因の1つです。
 この離婚率の高さに対して、2021年から離婚手続開始から30日間は撤回を受け付けるクーリングオフ期間を設ける民法典の改正がなされています。

 結婚数の激減とともに少子化も進行しており、合計特殊出生率も2000年以降は1.6程度で推移していましたが、2020年には1.30、ほぼ日本と同じ数字になっています。
 要因としては生活水準の上昇と都市化があり、これは万国共通の少子化要因ですが、中国の急激な少子化には、これ以外にも男女比のアンバランスや住宅費と教育費用の高騰などがあると言われます。
 長年、一人っ子政策を続けてきた政府は、2014年からこれを緩和し、2016年には二人目まで、21年には3人目まで認めるようになりましたが、一時的に反転があったものの少子化は止まっていません。
 国公営の組織の人事評価では昇進基準に子どもの多さが加味されるところまで出てきたといいます。

 こうした中で家庭の教育費の負担を抑えるために、政府は2021年7月に塾禁止令を出しています。
 ただし、中国の教育システムは多様な人材を「育てる」ことよりも、エリートを「選別する」ことを念頭にデザインされており、これが変わってこないと学歴獲得競争はなかなか収まらないと思われます。
 中国では教育が重視されながらも教師の待遇は悪く、優秀な教師が塾講師になってしまうことも多いため、そういった人材が戻ってくることを期待する声もありますが、その先行きは不透明です。

 第3章では北京の20〜30代の若者の生の声が紹介されています。
 ここでは、上海の若い女性の母親は婿を評価するための詳細な一覧表を持っていて、そこには学歴などの他にも戸籍の所在地や新居のマンションがどこにあるのか? なども評価対象で、こうしたことを詰めるために本人なしで両家の親同士の交渉が行われるという話が紹介されていたり、女性側の希望としても「マンションの頭金の180万元〜250万元(3600万〜5000万円)は男性側が支払ってくれるのは必須。その後の支払いは二人でローンを返すのもあり、だけど、全部男性側が買い取ってくれていればなおさら良い」(102−103p)といった話が紹介されており、結婚と不動産が密接に結びついていることがわかります。

 また、日本だと「孤育て」などと言われたりしますが、30代で2歳の子どもを持つEさんの話だと、両親+両親の両親の6人で子育てをしている状況で、今は仕事をしていないので手は足りているものの、4人の祖父母が一人の孫のために一週間交代で彼女の家に詰めている状況で、料理も洗濯も子どものものは別立てといった形になっているそうです。

 他に興味深いのは20代のバリスタというCさんの話で、60代の母親は本も読まずにスマホの動画ばかり見て認識が偏っていて困るという話(本人は村上春樹などを読んでいて母親に薦めたそう)。日本でも親がYou Tubeで陰謀論にハマったとかいう話がありますけど、中国でも同じようなことがあるんですね。
 他にも高校生までは恋愛はダメだと言いながら、大学を卒業するとすぐに「結婚はまだか」と言ってくる親への戸惑いなども語られています。

 第4章では「図書館の30秒」という2019年の末にバズった書き込みから現在の若者の恋愛事情が考察されています。
 このエピソードは「8年付き合った彼は、私が目をつぶって誕生日のろうそくに願い事をしていた30秒間に、停電中の図書館にいた他の女性とスマホで連絡を取っていた」という書き込みで、彼が寝ている間に彼をスマホを見たところ、上記のようなことがわかり、彼は彼女とその両親に謝ったが、傷ついた彼女は分かれることを選択したというものです。

 ここから見えてくるのはメルヘンチックな恋愛を求めている現代中国の若者の姿ですが、同時に恋人のスマホを見ることは当たり前であること(付き合い始めるときに相手のスマホのパスワードを要求するケースは多い)、相手の両親に謝りにいったことからもわかるように両親参加型の恋愛になっていることがうかがえます。

 しかし、恋愛では純粋なものが志向されながらも、結婚となるとまるで商談のようになるのが現代中国の難しさ。
 先に夫側が新婚の新居を用意するのが当たり前と述べましたが、農村では結納金の高騰が問題になっています。
 2人の息子を持ち甘粛省から北京に出稼ぎに来ている男性は、結納金は18万元になっていると効いて頭を抱えていたそうですが、これは農民の平均年収の12年分以上のあたる金額です。この男性が結婚した20年前の結納金は400元だったそうですから驚くべき高騰ぶりです。

 この結納金の高騰は2010年代から始まったとも言われていますが、注目すべきは辺鄙で貧しい地方ほど結納金が高騰している点です(139pの「全国結納金地図」参照)。
 貧困地域には女性に嫁には来たがらない、でも中国の伝統的な社会において男やもめは「失格」家族や「失格」息子の烙印を押されてしまう。そのため辺鄙な農村ほど結納金が高騰するわけです。
 さらに中国では一人っ子政策の中で男女比がアンバランスになったことも要因の1つです。今後、30歳前後で男女が結婚していくと考えると、男女比がアンバランスな人口グループの婚期は2026〜45年にピークを迎えることになり、まだまだ問題は続くと思われます。

 結納金については農村部での高騰が著しいのですが、都市部で問題になっているのが先述した住宅価格の高騰です。 
 北京では理想的な新居とされる第三環状線内で広さ100km2以上の3LDKの物件となると、1億円以下ということはまずなく、築20年以上のマンションでも3億円近い値がついているなど、若者には変えない価格になっています。

 これが70年代生まれと80年代生まれのギャップも生んでいます。70年代生まれの人間は、中国はどんどん個人主義的になり、血縁関係も弱まると考えていたのですが、その後の世代になると、親丸抱えの結婚が当たり前になり、強烈な逆戻りが起きていると感じているのです。
 
 かつて中国の都市部の住宅はすべて公有で、基本的には就職先が用意していましたが、1998年にこの福利住宅の制度がなくなり、そこから不動産ブームが始まりました。
 中国では賃貸住宅における借り手に対する保護がほとんどなく、大家が出ていけと言えば出ざるを得ないので、夫婦で賃貸に住んで住宅購入資金を貯めるという形も根付きませんでした。
 そこで、家族総出で若夫婦のために住宅を用意するという風習が生まれてきたのです。新婦の側も相手方が娘にふさわしいかを用意された新居で測るようになり、いまや「新婦の母は不動産価格高騰の元凶」(169p)とまで言われています。

 もともと中国では恋愛については厳しい面もあり、60年代の頃は共産党員は結婚も離婚も党の許可を得てするものでした。
 また、90年代までは中国では5つ星高級ホテルなどを除くと、男女で宿泊するときは結婚証明書の提示が求められるといった成文化されていないルールがあったそうです。

 第8章では「新語」から中国の若者の姿を探っていますが、「破防(心が折れる)」、「社恐(社交恐怖症)」、「社死(社交の場面で死ぬほど恥ずかしい思いをする)」など、繊細さを感じさせる用語が並んでいます。
 もう1つよく使われているのは「尬(ガア・気まずい)」という言葉です。90年代辺りまでは中国の若者といえば周囲のことを気にせずにやりたいことをやるタイプが多かったそうですが(男子学生は清潔感皆無だったという)、今の若者は周囲に非常に気を遣い、潔癖とも言えるほどになっています。
 そのため、下着は別洗が当たり前になって、わざわざ別洗用の小さな洗濯槽がついた洗濯機が登場しているそうです。

 精神面にも「潔癖」は現れており、本書では「恋愛をしたことのある男の人は受け入れられない。前の彼女と色々あったと思うだけで気持ちが悪くなる」(210p)と語る35歳独身女性のネットへの書き込みなどが紹介されています。 

 一方で、美容整形が流行するなど即物的な面もみられ、大学受験が終わってから大学入学前の夏休みに親に連れられて整形手術をしにくる新入生が多いため、夏休みは整形業界のかき入れ時となっているそうです。
 しかも、その理想とする顔は比較的同じようなものだといいます。著者は今まで美容の歴史がなかったところにいきなり美容が必要とされる時代となったので、美の画一化が起きていると分析しています。
 また、学歴と同じように「美」も成功のために獲得すべき1つのステイタスのようになっているといいます。

 こうした中、行き過ぎた競争に疑問を持つ若者も出てきています。
 最近、現代中国人を形容するためによく使われる言葉として「焦慮」というものがあります。競争に乗り遅れたらどうしようという焦りや思慮を表す言葉ですが、庶民だけではなく、成功したと思われている人もこうした思いにとらわれているといいます。
 これに対し、若者の間では競争から降りようという「寝そべり族」も登場しています。これがどの程度広がるのかはわかりませんが、激しい競争社会から生まれた1つの反応と言えそうです。

 このような本書は中国の若者の恋愛・結婚事情を中心に現代中国社会とそこに生きる人々の様子を教えてくれます。
 後半の話題はややまとまりが弱くて雑多な印象も受けるのですが、前半の結婚やそれに付随する住宅の話などは読み応えがあり、また「大変だな…」と思わせます。
 思い起こせば、日本もバブルの頃は「もう庶民に住宅は買えない」みたいな状況になったわけですが、中国がこの状況からどのように着地するのかは注目でしょう。
 また、本書は一元的な競争が生み出すパワーとその影といったものも教えてくれており、その点も興味深いと思います。


東大作『ウクライナ戦争をどう終わらせるか』(岩波新書) 7点

 タイトルを聞くと「そう簡単には終わらないよ」と反射的に言いたくなる状況ですが、それでも多くの犠牲者が出ている中で常に和平は模索されるべきですし、困難だからといって最初からあきらめるべきものではありません。
 本書はそんな困難な課題に、NHKのディレクターから研究の世界に入り、同時に国連のアフガニスタン支援ミッションなどにも参加した著者が挑んだものになります。
 
 もちろん、戦争が終わらせる秘策が披露されているわけではありませんが、開戦1月後の2022年3月ごろにはトルコの仲介で停戦合意に近づいていたのも事実であり、このあたりから双方が妥協できそうなラインを探っています。
 後半では、ウクライナ難民支援の現場の状況や、ウクライナ戦争に限定されない日本の国際支援のあり方が論じられています。興味深い部分もありますが、後半がややテーマから離れてしまうのは、この戦争において日本が和平交渉に大きな役割を果たすことの難しさの裏返しでもあるでしょう。
 
 目次は以下の通り。
第1章  ウクライナ侵攻と、世界大戦の危機
第2章  これまでの戦争はどう終わってきたのか――第二次世界大戦後
第3章  和平調停・仲介の動き
第4章  経済制裁はどこまで効果があるのか
第5章  戦争終結の課題と、解決への模索
第6章  日本のウクライナ難民支援――隣国モルドバでの活動 
第7章  今、日本は国際社会で何をすべきか――深刻化するグローバルな脅威と日本
 
 本書は冒頭で開戦1週間後にトーマス・フリードマンが提示した3つの終結のシナリオと著者が2022年4月時点で付け加えた2つ、計5つのシナリオが紹介されています。
 ①破滅的なシナリオ(世界大戦に突入)、②汚い妥協、③プーチン体制の崩壊、④西側諸国対ロシア・中国圏で経済圏が次第に分離、⑤中国やトルコなどが働きかけ、ロシア軍が停戦・撤収の5つです。

 このうち、②の「汚い妥協」がわかりにくいですが、大まかな内容としては停戦とロシア軍の撤退と引き換えにウクライナがNATO加盟をあきらめ、親ロシア派が支配するドンパス地域のロシアへの編入を認め、西側はロシアへの経済制裁を解除するというものです。
 お互いの痛み分けになりますが、フリードマンはおそらくウクライナ支配を目指すロシアも領土の奪還を掲げるウクライナも受け入れないだろうと見ています。

 さらに開戦から7ヶ月経った9月に、ロシアが30万人の予備役に対して動員令を出し、ルハンスク州、ドネツク州、ザポリージャ州、ヘルソン州において「住民投票」を行い、ロシアへの編入を一方的に宣言したことで、戦争の終結はますます見通せなくなりました。
 著者が話を聞いたトルコのギュン・クット氏は、プーチン大統領がすでに戦争の目的を見失っているとし、「戦争の目的が決まっていないから、止めようがない。かといって、ウクライナから完全撤退することはプーチン政権の存続を危うくするので、それもできない」(16p)と述べています。

 それでも戦争が終結するのは「軍事的勝利」か「交渉による和平合意」のいずれかです。現時点で、ウクライナもロシアも相手を完全に屈服させることが難しい中では(もちろん、ロシアが核を使わない限りという条件は付きますが)、いずれは「交渉による和平合意」へと向かっていく可能性があるのです。

 大国が小国に侵攻した例としてはベトナム戦争やソ連のアフガニスタン侵攻があります。いずれも泥沼化しましたが、最終的には和平の合意が結ばれ撤退が行われました。
 著者はNHKのディレクターとしてベトナム戦争を扱ったNHKスペシャルもつくり、その中でインタビューをしたマクナマラ元国防長官は「1973年のパリ和平協定と同じ合意内容を、私自身が主導していた1967年の秘密和平交渉でも結べたはずだ」(27p)と述べたそうですが、相手を殴り続けながらの和平交渉というのはなかなかうまくいくものではなく、米軍はさらに5年におよぶ消耗戦を戦うことになります。

 アフガニスタンでは1988年にソ連が、そして2021年にはアメリカが撤退しています。いずれもどうしようもなくなった状況での撤退でしたが、それでも交渉→合意→撤退という順序を踏んでいます。

 では、和平交渉の仲介ができるとしたらどこなのか? まずは国連という存在が思い浮かびますが、著者は国連の仲介は期待しにくいと言います。
 シリア内戦に見られるように、関係国は表向き国連の仲介を歓迎するとし、戦争に反対する姿勢を見せつながらも、実際が軍事援助などを続けることが多いといいます。著者はこれを「国連の濫用」と呼んでいます。
 多くの場合、国連が力を発揮するのは和平が合意されたあとの平和構築過程においてなのです。
 
 これは国連には紛争当事国を動かす力、いわゆるレバレッジがないからです。 
 南スーダンでは対立していた勢力を支援していたウガンダとスーダンが説得を行ったことで和平合意にこぎつけましたが、このように紛争当事者に影響力を持つ国の働きかけが重要です。
 また、対話の促進者(ファシリテーター)の役割も重要で、アメリカとタリバンの交渉ではカタールがその役目を果たし、コロンビア政府とコロンビア革命軍の和平交渉では、キューバが場所を提供し、交渉当事者が集まるための支援をノルウェーが行いました。

 今回のウクライナ戦争において当事国に大きなレバレッジを持っているのはウクライナに対してはアメリカであり、ロシアに対しては中国です。また、和平の仲介ができるポジションに居るのは例えばトルコです。

 実際、2022年3月にトルコの仲介で行われた交渉では、ウクライナの安全保障、ウクライナのNATO非加盟、クリミアは15年かけて別途協議、ドネツク州とルハンスク州についても別途協議という線でかなり交渉が進みました。

 しかし、4月になってブチャでの虐殺が明るみに出たことで和平の機運はしぼみます。単なる撤退だけではなく、何らかの形でロシアに責任を取らせることが必要だというムードが高まっていきます。
 ただし、トルコの仲介の動きは完全になくなったわけではなく、国連とトルコの働きかけによって7月には穀物輸出に関する合意文書が調印されました。これはロシアとウクライナからの穀物輸出を保障するもので、食糧価格の高騰に苦しむ途上国にとっても大きな意味を持つものとなりました。

 ロシアに対して戦争をやめさせる手段として期待されているのが経済制裁です。今回のウクライナ戦争ではロシアに対して強力な経済制裁が課されました。

 経済制裁は国連によって行われることもありますが、国連の経済制裁は国連安保理の決議が必要であり(そのため対ロシア制裁は通らない)、基本は個人に対する「ターゲット制裁」です。 
 そこで、近年目立っているのがアメリカ主体の制裁です。ドルを使った決済から締め出すことで、相手に大きな経済的ダメージを与えようというのです。
 2015年のイランの核合意はアメリカの金融制裁を背景にして結ばれたものになります(ただし、トランプ大統領によりアメリカはこの合意から離脱してしまった)。

 ただし、トランプ政権はイランの体制転換を狙って経済制裁を復活させたわけですが、それはうまくいきませんでしたし、タリバン政権への金融制裁はアフガニスタンの国民を飢えさせているとの批判もあります。

 経済制裁は出口が明示されていることが重要ですが、とりあえずの出口はロシア軍の撤退ということになるでしょう。ところが、ここで厄介なのはロシア軍の撤退の範囲にクリミアやドネツク州やルハンスク州の一部は入るのか? という問題です。
 著者はウクライナが戦いをどこまで続けるかはウクライナ人が決める問題としつつも、経済制裁の出口は2022年2月24日以前のラインとすべきだろうと述べています。

 この2月24日ラインについてはキッシンジャーも2022年の5月にこのラインを越えての攻撃はロシアへの新たな戦争になると主張し、このラインでの停戦を訴え、そして大きな反発を呼びました。
 ウクライナ側も当初は2月24日ラインが1つの目標でしたが、予想以上の善戦と、ブチャの虐殺などのロシア軍の蛮行の発覚によって、領土の完全な回復を目指すように変わってきました。
 ウクライナ政府からは強硬な発言が目立ちますが、著者が話を聞いたウクライナ難民は早期の停戦を望んでおり、著者も早期の停戦が重要だと考えています。

 次に問題になるのが戦争犯罪の問題です。5月6日のチャタムハウスでの講演でゼレンスキー大統領は停戦の条件として、①2月24日ラインまでの撤収、②難民の帰還、③ウクライナのEU加盟、④戦争犯罪を犯したロシア軍指導者の基礎の4つを上げましたが(96−97p)、もっとも難航しそうなのが④です。
 
 2003年に国際刑事裁判所が設立されましたが、ロシアは加盟していませんし、今までに起訴されているのはアフリカの指導者ばかりです(ところが、この記事を書いているさなかICCがプーチンの逮捕状を出した!)。
 また、ICCについては、ICCの設立によって以前は海外へ逃亡していた指導者が最後まで戦う傾向が強くなったとの憂慮もあります。
 著者は、例えばベトナム戦争においてベトナムがアメリカ側の戦争犯罪の処罰を求めていたら和平はならなかっただろうといいます。

 もちろん、戦争犯罪は不問に付すべきものではないですが、現時点で処罰にこだわるのは得策ではなく、戦争を集結させたあとにロシアとウクライナの間に戦争犯罪に関する委員会を設置するのがいいだろうという考えです。
 東ティモールでは戦争犯罪の処罰は一定のレベルにとどまる一方、「受容・真実・和解に関する委員会」がつくられ、和解への取り組みがなされました。内戦と国家間戦争の違いはありますが、こういった形も模索できるかもしれません。
 また、プーチン大統領が政権を失った場合にはセルビアのミロシェビッチ大統領のように訴追の道が開けるかもしれません。

 戦争の終結のためにはウクライナの安全保障の枠組みも考えなければなりません。そうした枠組みがなければ停戦は、ロシアが再度侵攻するための時間稼ぎにもなりかねません。
 ウクライナがNATOに加盟することを阻止するということが戦争目的として掲げられていたわけで、NATOがウクライナの安全を保障する形ではロシアは納得しないでしょう。
 ロシアも含めた複数の国による安全保障の枠組みが1つの落とし所になるかとは思いますが、戦争が長期化するにつれてロシアを排除した形が志向されていきそうです。

 第6章、第7章では視点が日本からのものに移りますが、第6章のメインはモルドバにおけるウクライナ難民の支援です。
 モルドバは人口約380万人の小国で一人あたりのGDPも4523ドルと欧州で最も低くなっていますが、そこに一時期は60万人を超えるウクライナ難民が逃れてきたのです。

 モルドバには「ピースウィンズ・ジャパン」や「難民を助ける会」などの日本のNGOが難民支援のために入っており、この活動を日本大使館も支援しています。
 著者はこれらのNGOを訪問し実際の活動を見てきたそうですが、著者は大きな問題だと感じたことに難民の精神的なダメージの問題があります。爆撃や砲撃にさらされてPTSDのような症状を持っている人もいますし、ウクライナに夫がいるにもかかわらず自分が逃げてきことに罪悪感のようなものを感じている人もいます。
 本章には著者が実際に聞いた難民の人々の話も収録されています。

 第7章は日本が国際社会で果たすべき役割について検討していますが、やはりロシアとウクライナを直接仲介するような行動は難しく、欧米の関心がウクライナに集中している中でその他の地球的な課題に取り組むべきだという形になっています。

 日本は過去にカンボジア和平やフィリピンのミンダナオ紛争、南スーダンの和平調停に関わっています。ポジションとしてはあくまでも話し合いの支援といった形ですが、こうした「ファシリテーター」としての役割が日本の果たすべき役割だろうと著者は考えています。
 また、紛争の調停以外にも、地球温暖化対策や干ばつ対策など日本に求められている役割はたくさんあります。
 最後に、中村哲医師のアフガニスタンでの活動なども紹介し、日本が果たすべき役割の1つのモデルとして提示しています。
 また、今回の戦争をなるべく「民主主義」対「専制主義」と言う形にせずに、「最低限のルールを守る国」対「守らない国」という構図に持っていうことも大切だとしています。
 
 最後の日本の果たすべき役割については「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」という問いに答えていないのではないか? と感じる人もいるかもしれませんが、個人的には現状を考えると誠実な答えなのではないかと思います。
 そもそも、「日本からの働きかけ」という枠を取り外しても「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」という問題は難題であり、わかりやすい出口が示せるものでもないでしょう。
 それでも、「ウクライナ戦争をどう終わらせるか」という問いは常に考え続けなければならない問題であり、本書の議論は1つのステップとなるものです。

筒井淳也『数字のセンスを磨く』(光文社新書) 8点

 著者は『仕事と家族』(中公新書)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書)など、家族の問題などを研究している社会学者ですが、同時に『社会を知るためには』(ちくまプリマー新書)といった社会学の入門書も書いています。
 今作も副題は「データの読み方・活かし方」となっているので、データリテラシーを中心にした入門書的な本という印象を受けます。確かにこの印象は間違っていないのですが「リテラシー」という言葉でくくるには原理的な部分まで踏み込んだ本で、思ったよりもヘヴィーな内容になっています。

 データリテラシーを扱った本というと菅原琢『データ分析読解の技術』(中公新書ラクレ)がありますが、主にマスメディアやネットメディアなどで行われている分析をとり上げた『データ分析読解の技術』に対し、本書は学術研究における数字の扱いをとり上げている部分も多く、より原理的な部分に迫った本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第一章 数量化のセンス
第二章 比較のセンス
第三章 因果のセンス
第四章 確率のセンス
第五章 分析のセンス
第六章 数量化のセンス再訪
おわりに――数字に取り囲まれながら生きる

 まず、本書の言う「センス」とは、「ファッション・センス」のような趣味といった意味合いではなく、「良識・分別・判断力」といった意味です。英語で「make sense」というと「意味が通る」という意味になりますが、「数字を使って「意味が通る」思考をするためには何が必要か、考えてい」(7p)くのが本書の目的になります。

 数字は何かを数えることによって出来上がりますが、暗黙のうちに数えるものの同質性が想定されています。机の上のパソコンや鉛筆や鉛筆立てのトータルの数を数えても普通はあまり意味がないとされます。
 また、人口は人間の数を数えるものであり同質性の面では問題がないかもしれませんが、実際に一国の人口を正確に数えるのは大変であり、手間と費用がかかります(しかも人間が絶えず生まれて死んでいくことを考えると正確な数字を出すことは不可能)。

 他にも「あなたは週に何回食事の準備をしますか?」というアンケートを行ったとしても、「食事の準備」をどう受け取るかは人によって違うかもしれません。買い物から調理・配膳すべてを「食事の準備」と捉える人もいるでしょうし、皿を並べただけで「食事の準備」をしたと考える人もいるかもしれません。
 この問題は面接調査で調査する人がきちんと説明すれば解消可能ですが、手間と費用の面から難しいでしょう。

 こういった調査において完璧を期すことは難しく、「ベストエフォート」を求めることが現実的に折り合える点ということになるでしょう。

 数えるということはある程度似たものを数に直すことですが、これは分類することでもあります。
 例えば、職業分類でも実際には複数の仕事をしており、きれいに当てはまるわけではないという人もいるでしょう。
 他にも「非正規雇用」と一口に言っても、「有期雇用」「フルタイムではない」などの正規雇用と明確な違いがあるものもあれば、無期雇用でフルタイムなのに「非正規雇用」といったケースもあります。
 
 アメリカの社会調査では「人種」や「民族」が聞かれますが、人種や民族に広く共有された定義があるわけではありません。にもかかわらず、人種や民族は重要な要素になっています。
 そこでたいていの場合は回答者の自己認識に任せることになります。ですが、今度はその自己認識がどのように構成されているのか? という問題も出てきます。
 研究者は数えるだけではなく、人々の数え方(分類の仕方)を研究する必要があるのです。

 数字に置き換えることで容易になるのが比較です。仕事をする上で収入が1番重要だと思うのなら、受けようとしている企業や就こうとしている職業の年収を比較してみるべきでしょう。
 ただし、例えば企業の年収を比較するということにも難しさがあります。まず初任給はあくまで1年目の収入であり、それほど意味がないことが多いです。
 次にその企業の従業員の平均年収を調べればいいかというと、日本のような年功賃金のもとでは社員の平均年齢が高いから平均年収も高く出ている可能性もあります。
 生涯年収が求めているものに近そうですが、あくまでも未来は不透明であり、本当に事前に調べた生涯年収を得ることができるかは誰にもわかりません。

 何かを比較するためにはさまざまな条件を揃えていくことが必要なのですが、揃えようとすればするほど、今度は使えるデータがなくなっていきます。例えば、生涯年収も、誕生から5年しか経っていないスタートアップ企業であれば生涯年収もなにもないでしょう。
 本書では岸政彦の使ったベッドシーツの3つの隅を合わせても最後の1個が必ずずれてしまうという比喩が用いられていますが、ピッタリと揃っているデータなどそうそうないのです。

 また、条件を揃えているつもりでも、そうはならないケースもあるかもしれません。例えば、1950年代と2010年代で調査をするときに、条件を揃えるために「大卒」という対象に限定した場合、今度は1950年代と2010年代における「大卒」の違い(珍しさとか世間的な威信とか)が問題になってきます。
 著者はこうした問題を「比較のパラドックス」と呼んでいます。

 私たちは言葉によって示されるものについて解釈の幅があるということを理解しています。一方、数字は解釈の多様性がないように見えます。「10なら10」、「50%なら50%」でブレはないように思えるのです。
 ところが、例えば、コロナ禍において「人との接触機会を8割減らす」と言われたときに、この「8割」についてさまざまな誤解も生じました。提唱者の西浦博は一定の定義を示していましたが、単純に「外出する人を8割減らさなければ」ととった人も多いです。
 数字を扱うときも、常にその数字が何を表しているのか、比較に適切な数字なのかということを意識する必要があるのです。

 第3章は「因果のセンス」となっていますが、最近流行りの因果推論の手法を紹介するのでなく、「因果を数量的に捉えようとするときにどういう〈分別=センス〉が必要になるのか」(104p)を考えるのが主眼です。

 因果推論を行う際にも比較のときと同じように条件を揃える必要があります。
 例えば、普段から運動をしている17歳の男性と運動不足の60歳の女性の100メートル走のタイムをから「運動していると足が早くなる」と言うことはできないでしょう。2人の条件が違いすぎるからです。

 そこで例えば、17歳の男性だけで比較するようにするわけですが、この「条件を揃える」というのは非常に難しいことでもあります。  
 数学の勉強時間と成績の因果関係を見ようとした場合、対象が同じような能力や行動パターンを持っていればいいのですが、現実には数学が得意だから長時間の勉強が苦にならないといった人がいるかもしれません。
 こうなると、数学の勉強時間が必ずしも成績のアップをもたらさなくても、調査では「数学の勉強時間が長いほど成績が良い」という結果が出るかもしれません。

 このため、「数学が得意なグループ」と「数学が苦手なグループ」に分けて分析したりすることが必要なのですが、他にも学習者の家庭環境が影響を与えているかもしれませんし、分析者が観察できない未知の要因があるかもしれません。

 ここで登場するのが無作為化比較実験(ランダム化比較実験)です。
 処置グループと統制グループ(対照グループ)をランダムに振り分けることで、未知の要因などを無効化しようというのです(ランダムに振り分けるので未知の要因をもった対象もバラけるはず)。

 ちなみに実験と調査は同じようなものにも見えますが、本書では「実験というのは、「調査」あるいは「調査観察」の対義語だと考えてください」(127p)と述べています 
 実験と調査の一番の違いは対象が処置されるかどうかを、分析者が決めるのか、対象者が自分で決めるのかという点です。
 例えば、学習時間と数学の成績を調査する場合、数学の学習時間をどの程度とるかは対象の「自己選択」に任されています(親に言われてやらされていても「自己選択」となる)。
 因果推論を行いたい人はこの自己選択を避けたいので、実験を志向するのです。

 ただし、タバコの長期的な害を調べるために処置グループに毎日10本吸ってもらうような実験はできませんし、少人数クラスの効果を図るために、少人数クラスとそうでないクラスをつくるのも日本では「不公平」との声があがって難しいかもしれません。
 そこで、代替策として「たまたま少人数クラスが生まれた」状況などを利用した自然実験という手法が用いられます。

 本書は、「どういった場合に因果効果を考えることが、そもそも意味を持つのか」(141p)ということを考えることが重要だと言います。
 因果効果を考えるには「原因を独立した処置として動かせるかどうか」がポイントになるわけですが、介入の規模が大きくなればなるほどそれは難しくなります。

 また、処置の「意味問題」というものも考える必要があります。「学歴」の因果効果を調べたい場合に、その「学歴」は「大学での教育経験」なのか「純粋な肩書」なのかといったことを考えう必要が出てきます。例えば、「大学での教育経験」としての「学歴」の効果を知りたい場合は、学歴を隠しておく必要があるでしょう。
 「薬の投与」といった処置ならともかく、「学歴」や「民主化」のような抽象的な処置を考えようとするとさまざまな困難が待ち構えているのです。

 第4章は「確率」を扱っています。
 確率には「自然発生的偶然」と「人為的偶然」があります。「自然発生的偶然」は社会生活の中で起こるさまざまな偶然で、「人為的偶然」はサイコロやコンピュータなどで意図的につくり出す偶然です。

 人為的偶然は何らかの意図のもとで利用されています。例えばサッカーでエンドを決めるコイントスなどは、試合に決定的な影響を与えるわけではないが、とりあえずは決めておかなければならないので人為的偶然によって決めるのです。
 
 自然発生的な偶然は何らかの偏りを持つことが多いです。例えば、競馬は当日の馬場状態やスタートのタイミング、隣の馬の挙動など、数々の偶然に左右されていますが、それでも出走馬全頭に同じようにチャンスがあるというわけではないでしょう。
 一方、サイコロの目を当てるゲームであれば、参加者全員に同じくらいの勝つチャンスがあると想定しても良さそうです。

 ところが人為的偶然が実は偏っているというケースもあります。コイン投げは裏と表が1/2の確率で出ると考えられていますが、アメリカの1セント硬貨を特定のやり方(スピン)で投げると約80%の確率で裏が出るそうです。
 スポーツのコイントスでは偏りのないものが使われていますが、それでも最初に面を向けてトスすると51%の確率で表が出たという研究もあります。
 ですから、本当は確率の教科書などでコイン投げの確率を計算させる問題(例えば、3回連続で表が出る確率は?)の答えは「やってみないとわからない」になるはずなのです。
 
 統計学では、事前に仮設(帰無仮説)を立てますが、しばしば「純粋な偶然だとしたらこうなるはずだ」という形で仮説が立てられます。
 例えば、S・D・レヴィットは大相撲で八百長が行われているかを、千秋楽ですでに勝ち越しや負け越しが決まっている力士と7勝7敗でむかえた歴史の勝率の差を見ることで確かめようとしました(『ヤバい経済学』参照)。調べてみると、7勝7敗の力士の勝率は偶然で説明できる範囲を超えていたのです(もちろん、これで八百長が証明されたわけではなく、意気込みの差とも考えられる)。
 
 社会調査などで無作為抽出が行われるのも、自然発生的偶然には偏りあるからです。例えば、政党支持率を調べようとして特定の場所の通行人に尋ねた場合、場所によって偏りが出そうなことは想像できます。
 ですから、無作為抽出という人為的偶然を入れることで、そういった偏りを減らしていく必要があるのです。

 無作為化比較実験における割付でも偏りを完全に消去することはできません。例えば、40人を処置グループ20人、対照グループ20人に分けて特定の学習方法の効果を見る場合、対照グループにたまたま勉強ができる子が集まってしまう可能性はあります。
 ただし、それでも学習効果が割付の偶然で起こりうる範囲かどうかということは検定できます。ここに人為的偶然を入れる意味があります。

 第5章では「分析のセンス」と題されていますが、まずは、データについてその構造とサイズという話から始まっています。
 構造化されたデータというのは、例えばエクセルのセルにおさまっているようなもので、構造化されていないデータというのはスマホに入っている写真などです。写真もデータですが、きちんと構造化(整理)されてはいません。
 構造化のされ方にはさまざまなものがあり、近年ではコンピュータやAIなどを用いて、非構造化データから一定の構造のでーたを取り出すことが可能になっています。
 
 では、構造化データはどのように分析されるのでしょうか? 著者はよく見られる方針として「要約(記述)」、「予測」、「因果」の3つを取り出しています。
 「要約」とはデータに含まれる情報を簡潔に表現・記述することですが、ここで著者は「最も頻繁に使われてきた回帰分析も、どちらかといえば要約の手法のひとつです」(236p)と述べています。
 因果関係を見るには回帰分析は劣るとされていますが、ここでは回帰分析が違った形で位置づけられています。

 要約は「意味のある要約」である必要があり、結果を解釈できることが必要になります。
 ただし、AIのモデリングではこの「意味」というものをすっ飛ばして分析が行われます。機械学習は「何をしているのかはよくわからないけど予測の精度は高い」というものです。
 ただし、この「要約」と「予測」の間にきっりと線が引けるわけではありません。機械学習の分析もよくよく見ると意味がわかるものだったということもあり得るでしょう。

 「因果」についても意味が求められるとは限りません。厳密なメカニズムはわからないが効く薬を実験などによって見出すことは可能でしょう。
 ただし、「予測」がデータへの「適合性」を重視し、どの要因が効いているのかについて興味がないのに対して、「因果」ではある1つの原因が結果に影響をもたらすかどうかが重要です。
 著者は自分のやりたいことが「要約」、「予測」、「因果」のどれにあたるのかを考えて学習することが重要だと言います(著者は社会学者で「要約」が中心)。

 最後の第6章では、「情報の容れ物」としての個体をいう問題などをとり上げています。
 日本の住む人は、男性であったり、会社員であったり、高卒だったりするわけですが、そうしたデータは、例えば、「鈴木さん」という個体に関連付けられているわけです。
 この個体に関連付けられているデータの中には、出生年や出生地のように変化しないもの、性別などの変化しにくいものがありますが、アンケートに対して「とても幸せである」と答えたデータなどは1年後、あるいは翌日には変化しているかもしれません。

 調査において、個体の同質性が求められるケースと求められないケースがあります。学習効果などを調べようと思えば、できるだけ同質な個体を集めるべきでしょうが、内閣支持率などを聞くときは異質な個体を集めるべきでしょう。
 本章ではもう少し難しい議論もしていますが、わかりやすく説明することが難しい部分もあるので、詳しい部分は本書をお読みください。

 このように本書はリテラシーの本に見えながら、かなり学問的な原理問題にまで迫っています。
 実際に学術的な研究に触れていたり、データ分析に取り組んでいないとピンとこない面もあるかもしれませんが、逆に学術的な研究に触れていたり、データ分析に取り組んでいる人にとっては「なるほど!」と思う部分が数多くあるのではないかと思います。
 初心者には少しヘヴィーかもしれませんが、経験者にとっては気づきの多い、読み応えのある本だと思います。


鳥越皓之『村の社会学』(ちくま新書) 5点

 山下祐介『限界集落の真実』、荒木田岳『村の日本近代史』、細谷昂『日本の農村』など、「村」をテーマにした新書を意外によく出しているちくま新書から、今度は「村の社会学」というタイトルを持つ本が登場しました。
 村は閉鎖的で前近代的なものと否定されがちですが、本書では村の持つ意味やその人間関係について改めて光を当てて考察しています。
 
 ただし、全体的にその考察は浅く、面白い着眼点がいくつかあるものの。それがあまり深められないままに、村の存在が肯定されている印象を受けます。
 個人的には、もう少し村の持つ抑圧とかに正面から向き合った上で、「それでもなお村は意味があるのだ」というような議論をしてほしかったです。

 目次は以下の通り。
第1章 村の知恵とコミュニティ
第2章 村とローカル・ルール
第3章 村のしくみ
第4章 村のはたらき
第5章 村における人間関係
第6章 村の評価と村の思想

 「ムラ社会」というと否定的なニュアンスで用いられることが多いですが、「コミュニティ」と言えば肯定的に用いられることが多いでしょう。同じように、「なわばり」というと古臭くて排他的なイメージがありますが、「居場所」と言えば、現代社会に必要なものと感じられるかもしれません。
 一方、「田舎の人は素朴で親切」といった言われ方もします。「素朴」かどうかはさておいて、著者は「親切」ではあるだろうと述べています。なぜなら、村では都市よりも「他者への配慮」が求められるからです。

 「村」には、地方自治体としての村と、「村落」「集落」なとと呼ばれる地域的なまとまりという2つの意味があります。後者は「部落」とも呼ばれていましたが、現在では被差別部落の問題もあってこの言葉は使いにくくなっています。
 本書が扱うのは後者の「村」で、氏神と神社、寺、祭り、道普請などの共同作業があります。
 だいたい江戸時代から続いていることが多く(ただし、荒木田岳『村の日本近代史』によると江戸時代の村も自然村落とは言えないものが多く混じっている)、村単位で年貢を納め、自治的な運営が行われていました。

 こうした村ではメンバーがやらなければならないこともありますが、それを「強制」という言葉で表せるかというと微妙だといいます。
 例えば、東日本大震災のときに福島県の川内村のある区では、区長からの放送によって避難民への食糧援助が呼びかけられて炊き出しがなされましたが、必ずしも「強制」とは言い難く、著者は「つとめ」という言葉がしっくりくるだろうといいます。

 例えば、道普請に出てこない人には1000円を徴収することを決めていた集落があり、それだけ聞けば「強制」ですが、独り暮らしの老婦人に対しては集会所に顔出すだけでいいというような運用がなされていたそうです。
 ある種の「スジ」、あるいは「タテマエ」が満たされていれば、それでいいのです。

 このようなコミュニティは、町では町内会という形でつくられましたし、近年では小学校の学区単位でコミュニティをつくろうという動きもあります。

 一口に日本の村と言ってもさまざまなものがあります。例えば、本家と分家などの家格が重視される村もあれば、年齢階梯制村落と言って年齢を基準にして村人の格が決まるような村もあります。そうした村では同世代の年長者をアニ、アネ、親世代をトト、カカ、オジ、オバ、祖父母の世代をジイ、バアとつけて呼びます。「健次アニ」のような形です。
 この家格と年齢というのは程度問題という面もあって、家格が重視される村でも青年団では年齢が重視されますし、家格の影響が弱い村でも結婚となると家格が持ち出されたりします。
 また、村での共同作業などでは「経験」が重視されます。

 本家と分家の関係は一見すると搾取・被搾取の関係にも見えますが、有賀喜左衛門はその本質を庇護・奉仕関係であると指摘しました。
 例えば、兄弟が3人いれば、田畑を平等に相続させることはせずに次男・三男には与えたとしても僅かな土地しか与えません。次男や三男の家は作付けなどの本家の労働を基本的には無償で手伝います。これだけだと一方的に搾取されている形ですが、その代わりに飢饉などのときには本家が分家の面倒をみる「保険」のようなはたらきがあるというのです。

 村には本家−分家といったタテの関係もありますが、講組関係とも呼ばれるヨコの関係もあります。福武直は東北には同族関係を基礎にした村落、西南日本には講組関係を基礎として村落が多いと指摘しました。

 村にはその下位組織として組やカイト(垣内)と呼ばれる地域組織が存在します。葬式や年中行事、水利の整備や清掃などを行いますが、こうした組織は家格など関係なしにフラットなものになっていることが多いです。
 
 他にも経済的な講として知られている頼母子講、おばあさんがよく集る観音講、若い主婦が集まる子安講、戸主が集まる日待講、特定の日に全員が集まる庚申講など、さまざまな講と呼ばれる集まりがあります。
 観音講という名前から見てもわかるように、表向きは信仰のために集まっているのですが、中心となるのはメンバー同士おしゃべりです。ただ、「講に行く」ということで、例えばお嫁さんなどでも堂々と出かけていくことができるわけです。

 また、水田というのは人工的な構築物であり、常に人が整備し、手をかけなければ維持できません。
 水源を維持するためには山林を整備することも必要であり、肥料に使う若枝、下草、落ち葉なども主に山から得ていました。そのために各村は山を持ち、山がないところでは平地に林を整備しました。
 
 こうした山や林は村の共同占有という形になります。そして、こうした場所を維持するためには共同労働が必要になります。個人の土地であれば個人が管理すればいいわけですが、共同占有という形なので共同労働という形をとるのです。
 この共同占有地は山や林や川以外にも、神社、共同墓地、集会所、灌漑池などがあります。共同占有地であっても特定の個人が集中的に利用しているようなケースでは、一種の利用権のようなものも発生します。

 共同占有地を維持するためにはメンバーが「自腹を切る」ことが必要です。そのためエゴイズムを抑える必要がありますが、農業経済学者の玉城哲によると、「個々の家いえが強いエゴイズムをもった「経済主体」になっているにもかかわらず、むらのような集団の中でそのエゴイズムを互いに主張しあうわけにはゆかない」ため、「むらは、エゴイズムを秘めながら、その表面化を抑圧する装置として働いていた」(108−109p)とのことです。

 村では弱者の救済も行われますが、それは単純な施しではなく、何らかの役目を担ってもらう形で行われることが多いと言います。柳田國男が紹介する「火炊き婆」という長者の家の台所で火の番をする老婆などはその例と言えるでしょう。
 一般的な家庭でも高齢者に対しては子守の役目が与えられ、生産活動に従事する現役世代をバクアップしています。

 貧民に対しては、何らかの特権を付与することでその生活を成り立たせようとさせるケースもあります。例えば、山での焼き畑を許したり、動物やキノコ、小魚などを取る権利をもたせるのです。

 このように弱者を包摂する機能を持っていた村ですが、不始末を犯した者には厳しく、特に火事は許されない失敗として罰せられました。ある村では、火事を出すとその家は村の境界の外側に住むことを強制されたと言います。

 著者は村における教育について「非凡教育」ではなく「平凡教育」だとしています。
 非凡教育とは抜きん出た才能を育てるためのもので、テストなどによって順序がつけられます。一方、平凡教育はその地域社会で生きていくための知識を身につけるためのものであり、知らないと困りますが、仲間内で優越する必要はありません。
 著者は『サザエさん』におけるカツオが平凡教育の重要性を主張しているとして注目しています。

 村ではメンバー同士のコミュニケーションが重視されますが、まずはあいさつから始まります。
 群馬県みなかみ町藤原では、「こないだは」→「お達者で」→「今日も良い天気で」といった天候の話を客と主人がお互いに言い合ったあとで、今日の要件を切り出すという形でコミュニケーションが行われていたそうです。
 コミュニケーションに「型」があるわけですが、この型がありからこそコミュニケーションが苦手な人でも話がしやすいという面もあります。

 村では流動性がなく、同じメンバーで暮らし続けていくことから不公平が嫌われます。
 例えば、毎年、村人に畑の土地を割り振っていく割地制度は、特定の家だけが良い土地を占有したりしないための知恵だと思われます。
 村では寄り合いによって意思決定がなされますが、そこでは全員一致が原則とされます。民主的な決定方法としては多数決が思い浮かびますが、多数決は多数が少数に我慢を強いることにもつながります。
 そのために寄り合いは長時間に及び、村の活動が停滞してしまうこともありますが、それよりも全員の賛成というものが優先されるのです。

 こうした村は個人の自由を束縛するものとしても捉えられてきました。島崎藤村にしろ太宰治にしろ、日本の近代文学では村や家の束縛からどうやって自立的な個を確立させるかということが課題になっていました。

 一方、近代化に伴って村は自然に消滅していくのだという議論もあります。現在のところ、企業主体の農業はそれほど広まっておらず、やはり村という共同体がなければ農業を続けていくことは難しいと思われますが、農業の衰退と過疎によって村が消えていくというシナリオはあり得るでしょう。

 それでも著者は日本の村に共和主義を重ねて、これを擁護しようとしています。日本には根付かなかった思想だと思われている共和主義ですが、個人よりも仲間集団を大切にする共和主義は日本の村の考えと似ているというのです。
 もちろん、共和主義には反君主制の意味合いもあり、そうすると天皇制はどうなるのだ? ということになりますが、著者はこの部分をカッコに入れて、個人が仲間のために自己犠牲を払うという部分を重視し、日本の村は共和主義的であると主張しています。

 ここまで本書で興味を持った点を中心にまとめてみましたが、面白い論点はいろいろとあるんですけど、全体的に掘り下げが弱い感じがします。例えば、最後の共和主義の話でも、その共和主義的な村が戦前・戦中は天皇制を支えるイデオロギー装置みたいに見られたのはなぜなのか? など、もっと掘り下げてみるべきではないかと思います。

 日本の村はそれこそ鎌倉時代後期とか室町時代から続いてきたもので、そのスタイルに一種の合理性があるのは確かだと思います。ただ、同時に「ムラ社会」という言葉が否定的に語られることが多いように、否定されるべき対象であったことも確かでしょう。その否定されるべきものを含んだ議論が読みたかったなという印象です。


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