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2018年10月

神島裕子『正義とは何か』(中公新書) 7点

 ロールズとそれ以降の正義論を紹介した本。ロールズのリベラリズムからリバタリアニズム、コミュタリアニズムを紹介していくというのは、この手の本としては王道的な構成ですが、この本の特徴は、さらにそこからフェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムという3つの潮流を紹介しているところ。
 ロールズの理論と、それに対するリバタリアニズムとコミュタリアニズムという見慣れた構図だけでなく、ロールズに対するフェミニズムの批判、グローバル社会の中でのロールズの理論の位置づけなど、ロールズの理論を中心として近年の正義論の展開がわかるようになっています。
 また、序章が「哲学と民主主義」となっていますが、全体として正義を民主主義と関連付けながら論じようという姿勢があります。

 目次は以下の通り。
序章 哲学と民主主義―古代ギリシア世界から
第1章 「公正としての正義」―リベラリズム
第2章 小さな政府の思想―リバタリアニズム
第3章 共同体における善い生―コミュニタリアニズム
第4章 人間にとっての正義―フェミニズム
第5章 グローバルな問題は私たちの課題―コスモポリタニズム
第6章 国民国家と正義―ナショナリズム
終章 社会に生きる哲学者―これからの世界へ向けて

 第1章はロールズの『正義論』いついて。長らく停滞していた正義論は1971年に出版された本によって活気づき、この本によれば「アカデミズムにおける一大産業が成立した」(23p)とのことです。
 ロールズというと「無知のヴェール」と「マキシミン原理」(不確実な状況下では最悪の結果がもっともましになるような選択肢が選ばれるという考え)が有名で、自分の属性(保有資産や性別や人種など)がまったくわからない「無知のヴェール」をかぶった状態では、もっとも不遇な人の待遇を改善するような制度が選択される(「マキシミン原理」)だろうという考えを主張した人として知られています。
 そして、この考えは福祉国家を基礎づけるともされています。

 ただし、この本ではそういった説明よりも、ロールズが何よりも基本的諸自由の分配を重視しているということを強調しています。
 ロールズは第一原理で基本的諸自由の権利を説き、第二原理で格差の是正と機会均等を説いています。この2つの原理においては第一原理が優先されるべきものであり、「個人の基本的諸自由は最も不遇な人びとの便益のためであっても決して制限されないということを示して」(44p)いるのです。
 このロールズの説明に関してはややわかりにくいところもあるのですが、読んでいけば著者の重視するポイントも見えてくると思います。
 さらに、この章ではアマルティア・センやドゥオーキンの考えも簡単にとり上げています。また、アダム・スウィフトの「寝る前の読み聞かせは道徳的に許されるか」という普通の人が聞いたら「なんじゃこりゃ?」と思うような問いもとり上げています(読み聞かせが出来る家庭は限られており機械の均等に反するとのこと、ただしスウィフトは許されると考える(64ー65p))。

 第2章はリバタリアニズムについて。リバタリアニズムというとノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の紹介から入るのが王道ですが、この本ではロックのやアダム・スミスから説き起こしており、リバタリアニズムを古典的リベラリズムの流れを継ぐ思想として紹介しています。
 著者によれば、「ノージックの最小国家論やロスバートの無政府資本主義は、リバタリアニズムの代表事例というよりはむしろ「限界事例」として位置づけるほうが適切なのかもしれません」(87p)とのことです。

 ノージックに関しては、最小限度以上のサービスを提供するために課税をすることは、その人に命令して働かされているのと同じであり、その人が部分的に他人に所有されているのと同じだという有名な議論を紹介しながら、ノージックも「隣人に損害を与えてまで自分の所有権を獲得したりすること」(78-79p)を想定しない「ロック的但し書き」を踏襲していることや、後年のエッセイで遺産の贈与について制限を設ける可能性について触れていることにも言及しています。
 さらに、この本では事後的な再分配には否定的でも初期所有の平等を求める左派リバタリアニズム(この立場では遺産相続が否定される)や、最小福祉国家を認める森村進や橋本祐子の議論も紹介しています。
 他にもメイン州の森で27年間、一人で隠れて生活していて2013年に窃盗などの罪で逮捕されたクリストファー・ナイトのエピソードを、市民的不服従を主張したH・D・ソローの考えと重ねながら考えています。

 第3章はコミュタリアニズムについて。まずはサンデルのロールズ批判からです。サンデルはロールズが想定する個人は文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」であると批判しました。
 しかし、サンデルもリベラリズム的な政策を否定しているわけでなく、サンデルが提唱する政治は「国家を外延とする共同体の政治をみんなで守り育てていこうという、共和主義的な政治」(120p)です。
 つづいて、この本ではマッキンタイアの、その人にとっての人生の価値はその人の属する共同体の伝統の中にあるという考えを紹介し、こうした共同体を重視する考えが、例えば政治学者のロバート・パットナムなどにも受け継がれていることを指摘しています。

 ただし、コミュタリアニズムにとって問題となるのが、グローバル社会への対応です。
 ウォルツァーは、異なる財を比べる尺度は共同体内部の価値観の共有によって成立するとして共同体を重視していますが、同時にアメリカを「一のなかの多」と考え、アメリカが複数の共同体の集合とみています。著者は、ここにグローバル社会を構想する可能性があるかもしれないしています。

 第4章のフェミニズムも、簡単に女性の権利を求める動きに触れた後、ロールズの女性観とそれに対する批判がとり上げられています。
 ロールズの正義論において女性が登場するのは家族の中だけであり、家族は社会が介入すべきでない領域とされています。家族に関して、ロールズの見解はコミュタリアンのものに近いのです(155p)。

 この本ではこうしたロールズに対するオーキンやヌスバウムの批判をとり上げています。ヌスバウムは「家族は政治制度であって正義を免れる「私的領域」の一部ではない」(168p)として、センのケイパビリティ・アプローチの考えを用いて男女関係なく人間らしい生活を送るためのリストを考えようとしました(センはこのような固定的なリストをつくることには否定的。アマルティア・セン『正義のアイディア』を参照)。この本でのヌスバウムはアリストテレス研究から出発しており、その思想は「アリストテレス的な要素に満ちています」(171p)という指摘は興味深いですね。
 さらにこの章では、さまざまな性を個性として、「個人をさせる政治」を構築しようとするファビエンヌ・ブルジェールの考えなどを紹介しています。

 第5章はコスモポリタニズムについて。この手の本でコスモポリタニズムに1章を割いて扱うのは珍しい気もしますが、これも本書の特徴の1つでしょう。
 経済学者のブランコ・ミラノヴィッチはロールズがグローバルな格差に関心を寄せていないことを批判していますが(ミラノヴィッチ『不平等について』参照)、ロールズに学び、これを国境を超えて拡張しようとしたのがドイツ出身のトマス・ポッゲです。
 ポッゲは天然資源の偏在や知的所有権の問題など、グローバルな格差を要因を解消するためのアイディアを探りました。
 さらに功利主義者のピーター・シンガーは、苦しみを減らすのが良いことであるという立場から、「海外援助機関に寄付せずに豊かなライフ・スタイルで暮らすことは、エチオピアに渡って農民を何人か射殺することと倫理的に同じことになる」(196p)という過激な問題提起をしました。
 
 世界的な公正さを実現するための重要な根拠が人権ですが、アーレントが「諸権利をもつ権利」であるところの国家に所属権利がなければ人権は保障されないと(189p)と述べたように、現状において国家を超えた権利の保障というのは難しい状況です。
 しかし、国家を超えて公正さを実現するためのアイディアが皆無なわけではありません。この章では、寄付や世界税、ヘルスワーカーの移動規制、多国籍企業への期待と他国企業の義務といったトピックがとり上げられています。

 第6章はナショナリズムについて。コスモポリタニズムの後にナショナリズムが置かれていることに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、ここで再びロールズの「限界」がクローズアップされ、現代社会における「国家」という枠の強さを再認識させるような流れになっています。
 ロールズは1993年のアムネスティ連続講義をもとに『諸人民の法(邦訳タイトルは万民の法)』という著作を刊行していますが、ここでロールズは諸人民の人権や平等を保障するように求める一方で、内政不干渉の義務なども主張しています(216p)。
 ロールズの考えを著者は次のようにまとめています。
 「諸人民の法」の最終目標は、諸国家に「自由と平等」をもたらすこと、つまり言ってみれば<対等な人民としての暮らし>を保障することにあります。そしてこの<対等な人民としての暮らし>は、国家間にどのような経済格差があろうとも確立しうるものだと考えられています。ロールズの国際正義の構想において、『正義論』の第二原理がカバーするような社会的・経済的な一定程度の平等が目標とされていないのはそのためです。(224p)

 ロールズは現在の国際的な経済格差の要因を各国の選択の結果とみなす傾向があり、現在の国際的な経済格差を容認しているのです。

 この章では、さらに現代正義論においてネーションを主体として持ち出すイギリスの政治哲学者のデイヴィッド・ミラーの議論を紹介しています。
 ミラーはネーション(国家)をそれ自体が良いものとして捉えており、このネーションの存在によって再分配や福祉が可能になると考えます。そして、国際社会における基本的人権の重要さを指摘しつつも、「ナショナルな責任」という概念を持ち出して、ナショナリティをともにする人びとの集合責任を想定するのです。この考えのもとでは、ある国が貧困であるのはその国の国民の集団的な責任だということになります(ただし北朝鮮のように独裁者が完全に人民を支配している国ではこの考えは当てはまらないとミラーは考えている(240p))。
 著者はこうした議論を紹介しつつ、「コスモポリタン的な顧慮を伴う愛国心」(251p)の重要性を主張しています。

 以上のような内容を持つ本なのですが、実際に読んでいくと、各思想を手際よく紹介していくというよりは随所で著者の考え方や視点が打ち出されている本だということがわかります。フェミニズムやコスモポリタニズムに1章を割いていることももちろんですが、例えば、リバタリアニズムの説明も個性が出ていると思います。
 ですから、ロールズ、リバタリアニズム、コミュタリアニズムについて一通り知っているという読者にも楽しめる内容になっていると言えるでしょう(逆にまったくの初心者には少しわかりにくい部分があるかもしれませんが)。

 ただ、終章の一番最後に置かれている、サンデルの持ち出す暴走する路面電車の問題(トロッコ問題)に対して「何もしない」と答える日本人学生が多いのは教育のせい、という話には疑問符が付きました。
 学生が「僕は5人の命を救うために太った男を突き落とします」と積極的に発言するような状況が好ましいかというと、そうは言えないはずです(正義について考えるときにはトロッコ問題は適切か?という倫理的な問も当然あるはず)。

牧原出『崩れる政治を立て直す』(講談社現代新書) 6点

 1990年代の選挙制度の改革、地方分権改革、そして2001年の省庁再編、さらには公務員制度の改革など、日本の政治の場では立て続けに大きな改革が行われてきました。
 では、その改革はうまくいっているのでしょうか? いくら制度をつくってもうまく作動していないこともあります。例えば、この本でも指摘されているようにマイナンバー制度や裁判員制度は当初の想定どおりに作動しているとは言えないでしょう。
 この本では、そういった視点をもとに、01年の省庁再編以降の、長期政権となった小泉政権、短命に終わった第一次安倍政権、福田政権、麻生政権、「失敗」と断じられることが多い民主党政権、そして長期政権となっている第二次安倍政権の成功と失敗の要因を探ろうとしています。

 ただ、この本を読んで人によっては違和感を感じるかもしれません。それは、第二次安倍政権に対する評価が非常に厳しい点です。長期政権となったという点からすると、第二次安倍政権は小泉政権以来の成功事例にも思えますが、著者の評価は小泉政権に対して高く、第二次安倍政権に対して低くなっています(2016年に出た著者の『「安倍一強」の謎』(朝日新書)ではここまで評価は低くなかったはず)。
 タイトルの「崩れる政治」という言葉から、ある程度はそういった評価は想定していましたが、この評価に対して納得できるかどうかが、この本を読むときのひとつのポイントとなるでしょう。個人的には、やや納得できない部分も残りました。

 目次は以下の通り。
第1章 変わる改革、動く制度
第2章 行き詰まる第二次以降の安倍晋三政権
第3章 自民党長期政権と自らを動かす官僚制
第4章 小泉純一郎政権以後の自民党と官僚制
第5章 民主党政権の混乱から学ぶこと
第6章 政権交代後の官僚制を立て直すには?

 政治の世界では当初設計されていた制度がうまく作動しない、変質していくということがよくあります。例えば、大日本帝国憲法では予算が議会を通らなかったときに前年度予算の執行権が政府に与えられていました。しかし、軍備の増強を目指す政府にとって前年度予算の執行は意味がなく、この規定は使われないままに政府と政党の妥協がはかられていきます。
 また、制度を変更したとしても円滑に移行できるかが問題になります。例えば、民主党政権は政治主導を掲げて事務次官会議を廃止しましたが、官僚による調整から政治家による調整への移行はうまくいかなかったと言えます。

 この本ではこうした制度の作動に焦点を当てます。この観点で小泉政権以降の政権を見ていくと、制度の作動に成功したのが小泉政権、失敗したのが第一次安倍政権と民主党政権、部分的に成功したのが福田政権・麻生政権だといいます(50-53p)。

 その上で、第2章では第二次安倍政権の状況が診断されています。
 第二次安倍政権は、「官邸崩壊」と言われた第一次安倍政権の反省を生かして、発足直後は経済対策を優先し大改革には手を付けない、選挙での勝利による首相のリーダーシップの確立、有力ポストに安倍首相に近く有能な人材を起用、菅官房長官を中心とした危機管理への対応といったことによって(57p)、安定した政権運営を行なってきました。
 ところが、森友学園問題をめぐる公文書の改竄、加計学園問題をめぐる内部資料の流出、防衛省の日報問題、厚生労働省の裁量労働制法案でのデータの不正使用など、その足元が揺らいでいます。
 著者はこれらの事象を「行政崩壊」(58p)という強い言葉で表しています。

 著者は、第二次安倍政権も民主党政権から引き続き「脱官僚依存」の流れにあるといいます。
 しかし、民主党政権と第二次安倍政権の違いは各省庁で政治家にリーダーシップをとらせるのではなく、官邸に情報や権限を集約しようとしている点です。
 特に今井尚哉秘書官を中心とした秘書官の組織化と、警察庁出身の杉田和博官房副長官に警察からの情報を集約させ、財務省出身者に頼らない体制を構築したのがその特徴です(64p)。
 ただし、財務省と内閣官房を比べるとそのマンパワーには大きな違いがあり、いくら官邸の官僚集団といえども各省を指揮したり、調整することには限界があります。
 そこで、「首相案件」と称して各省の異論を制圧していこうとするのですが、ここに現在の「行政崩壊」のポイントがあるというのが著者の見立てです。

 また、第二次安倍政権は、人事の面で独立機関にも影響力を行使しようとしています。外務省出身の小松一郎を内閣法制局長官へ抜擢する人事をはじめ、日銀や法務省などの人事への介入を続けています。そして、こうしたことが森友学園問題において会計検査院が有効な指摘をしなかったことにもつながっているのではないかと考えられます。
 さらに各省庁の幹部人事に対する介入も強めています。2014年から内閣人事局による幹部人事が始まりましたが、これが省庁の一体性を弱め、官僚によるリークなどにつながっているというのです。
 このような中で、森友学園問題における公文書の改竄のような異様な事態も起こっています。官邸手動のトップダウンの政治がうまく作動しなくなっているのです。

 第3章では、この問題の来歴を探るために自民党と官僚機構の関係を振り返っています。
 省庁の数は国ごとに違いますし、日本では省庁再編もありましたが、基本的には内務、外務、財務、法務、軍務の「古典的五省」がその中心になるといいます(98p)。
 戦後の日本において内務省は解体され、陸軍省・海軍省もなくなりましたが、著者は戦後の省庁を次のように位置づけています。
 すなわち、総合的制度設計者としての大蔵省、官僚制内の自立的調整者としての旧内務省系省庁、自己抑制者としての法務省、外務省、防衛庁である。これに加えてアイディアの政治の牽引者としての通産省、与野党間の調停者としての内閣法制局が重要であったのが、戦後から現在に至る日本の中央省庁と関連諸機関である。(109p)

 この中で、省を超えた政策調整に大きな力を発揮したのが大蔵省でした。また、日常的な調整に関しては、事務次官会議の議長となる官房副長官に旧内務省系の人物があてられ、調整がはかられました。さらに著者は、内閣法制局を与野党の調整を果たした機関として位置づけています(121-123p)。
 このように官僚制が政治と対峙しつつ自己作動していたのが、自民党長期政権化の政治なのです。

 第4章では、第3章の考察を受けて小泉政権から麻生政権までの自民党政権が検討されています。
 まず、小泉政権ですが、最初にも書いたように著者の評価は非常に高いです。小泉政権は省庁再編という大改革を実際に初めて運用していく立場に置かれましたが、非常にスムーズに新しい制度を作動させました。
 これには古川貞二郎官房副長官らの周到な準備があったと同時に、経済財政諮問会議や特命担当大臣の活用がありました。政策決定においては情報公開や情報発信を重視して議論をリードするとともに、各省庁に任せるべきところは任せ、自民党とは対立しつつも官僚との対立は最小限に抑えました。

 ところが、小泉政権の後を継いだ第一次安倍政権はいきなりつまずきます。官房副長官に任命した元大蔵官僚の的場順三が各省を把握することができず、その他の人事も相まって官邸は機能不全に陥りました。
 さらに道州制改革、公務員制度改革、安保法制懇など、さまざまな大改革を立ち上げようとしたことでその混乱に拍車をかけたのです。

 つづく福田政権は、与野党対立で何もできずに辞任したという印象が強いかもしれませんが、社会保障国民会議の立ち上げ、消費者庁の設置、 公文書管理問題への対応など、重要な問題に取り組んでいます。
 そして、これらの取り組みは麻生政権へ引き継がれ、新制度の作動へとつながりました(社会保障国民会議は民主党政権での税と社会保障の一体改革に引き継がれる)。

 第5章では民主党政権がとり上げられていますが、この章が「民主党政権は途方もない失敗であったという認識は広まっており」(164p)という出だしから始まることからもわかるように、著者の民主党政権に対する評価は厳しいです。
 民主党政権は「脱官僚依存」、「政治主導」という旗印を掲げて、政官関係を組み替えようとしましたが、制度の立ち上げに失敗したのです。

 著者も、行政刷新会議に見られるような情報公開と透明性の確保、外務省における公文書の公開などについては評価していますが、政官関係の構築に失敗した民主党の甘さに関しては次のように指摘しています。
 当初から民主党のマニフェストの100日プランは、やや無邪気に、政権が官僚に対する人事権を掌握して、官僚が与党に忠誠を誓えば、すぐに官僚が政治家に協力すると考えていたように見える。そこでは、官僚は抵抗しないが、能動的に動かないという最低限の協力しかしないことは想定外である。(185ー186p)

 福祉制度の見直し、子ども手当、地方分権など、民主党政権によって行われた政策が引き継がれたケースもあり、政権交代は政策の転換をもたらしたと言えますが、政策変更によってつくり上げた構造を保持する政策フィードバック効果は弱く、民主党政権の果実はあまり認識されないままに終わってしまったのです。
 そして、この政策フィードバック効果は弱さは第二次安倍政権でも継続していると著者は見ています。

 終章では、今後の改革の方向性として、政治的リーダーシップの確立、政治責任と行政への指揮命令系統の明確化、政策論争の透明化といったことがあげられています
 同時に官僚組織が改革にスムーズに対応できるような配慮が必要だといいます。

 この終章での方向性に対しては異論はないのですが、最後になってやや消化不良の感が残るのは、第二次安倍政権に対するまとまった検討がなされていない点です。現在の政権の問題点については第2章でとり上げていますが、やはりこれだけの長期政権なのですから、うまくいっている点とうまくいっていない点の分析が欲しいと感じました。

 「おわりに」で著者は、「不祥事の原因となった首相、首相秘書官、官房長官、官房長官、官房副長官、財務相のうち、相当数が情報公開に理解を示し、合理的な政策論争を行える資質のある政治家・官僚に交代することが必要になるであろう」(239p)とまで述べているので(2番目に首相秘書官があがっているところが興味深くもありますが)、安倍政権は退陣すべきだと考えているのでしょう。
 確かに森友学園問題における公文書の改竄はひどいもので、あれだけのことがあっても麻生財務相が辞めないというのは大きな問題だと思いますが、しかし、それでも政権は「作動」という点ではそれなりに機能していたのではないでしょうか?
 著者は行政の内情に通じていると思うので、一般の人よりも安倍政権における政官関係の歪みがよく見えているのかもしれませんが、もう少しその辺りを書いて欲しかったと思います。


梶谷懐『中国経済講義』(中公新書) 9点

 中国のマクロ経済が専門ながら、『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で経済を軸に思想や社会問題を含めた形で中国と日本を論じ、『日本と中国経済』(ちくま新書)で日中の経済交流と中国の現代経済史を分析した著者が、現在の中国経済が直面している重要な課題を論じたもの。

 経済学の概念を使ってかなり本格的に論じているために、前半の章を中心にやや難しく感じる部分もあるかもしれませんが、本格的に論じているからこそ、いまこの瞬間の問題点だけではなく、中長期的な問題というのも見えるようになっていて非常に読み応えがあります。中国経済に対して、ある程度の見通しをもっておきたいという人には必読の本といえるでしょう(ただ、序章〜第2章はテクニカルな部分も含むので、経済学の概念に慣れていない人は第3章から読んでもいいかも)。

 目次は以下の通り。
序章 中国の経済統計は信頼できるか
第1章 金融リスクを乗り越えられるか
第2章 不動産バブルを止められるのか
第3章 経済格差のゆくえ
第4章 農民工はどこへ行くのか―知られざる中国の労働問題
第5章 国有企業改革のゆくえ―「ゾンビ企業」は淘汰されるのか
第6章 共産党体制での成長は持続可能か―制度とイノベーション
終章 国際社会のなかの中国と日中経済関係

 序章では中国の経済統計の問題がとり上げられています。中国のGDPは水増しれているという主張をよく目にしますが、実際に中国の経済統計は政府の都合ででっち上げられた数字なのでしょうか?
 2001年にトーマス・ロースキーが、1998年の中国の公式統計が7.8%の成長を記録したにもかかわらずエネルギー消費量の統計が-6.4%だったことの矛盾を指摘しました。この中国のGDPを他の指標から類推しようとする試みは、発電量や貨物輸送量などに注目する「李克強指数」にも引き継がれています。
 ただし、これらの指数が常にGDP以上の正確な経済の実態を映し出しているとは限りません(例えば李克強指数は公共事業に過剰に反応しやすい(10p))。また、98年はGDPの推計方法が変更された年でもあり、独特の難しさが伴うのです。

 基本的に中国のGDPにおいて誤差が生まれるポイントは、サービス部門とGDPデフレーターの推計にあるといいます。サービス部門の推計の難しさについてはダイアン・コイル『GDP』でも指摘されていたことで、世界的に共通する問題でおあります。
 ただ、地方政府の発表するGDPに関しては人為的な水増しが行われていた可能性が高く、中央でも国家統計局の職員が統計データを不正に操作して利益を得た疑惑が報じられるなど、中国の統計には「人」の問題も絡んでいます(21p)。
 しかし、必要以上に中国の統計のデタラメさを指摘することはかえってデタラメな議論に落ち込むことになるのではないかというのが著者のスタンスです。

 第1章は、2015年夏から2016年初頭の上海の株価指数の急落と人民元の対ドル基準値の切り下げなどにみられる中国経済の変調を、人民元に国際化によって生じた「トリレンマ」によって説明しています。
 著者は中国経済の変調の背景は、企業などの過剰債務によって経済が目詰まりを起こす「デッド・デフレーション」があると見ています。これは日本のバブル崩壊後にも見られた現象で、デフレにおいては売上が減るにもかかわらず債務の負担は減らないため投資などが抑制され、さらなる不況やデフレを呼びこむ状況です。

 このデッド・デフレーションへの処方箋としては、高債務企業を倒産させてでも債務を整理する「精算主義」と、金融緩和によって企業の実質的な債務の削減をはか「リフレ政策」があります。
 FRBのバーナンキ議長や日銀の黒田総裁は後者のリフレ政策をとったわけですが、中国では人民元の価値を固定しているためにこの政策をとることが難しくなっています。
 金融緩和を行えば人民元は売られますが、これに対して中国では人民元のレートを守るために中国人民銀行が元買いの介入を行います。この介入は国内に流通する元を中央銀行が回収することを意味するので、金融緩和の効果は減殺されてしまうのです。

 ロバート・マンデルは、「独立した金融政策」「通貨価値の安定」「自由な対外資本取引」の3つの政策を同時に実現することはできないという「トリレンマ」が存在すると主張しました。
 中国は長年、「自由な対外資本取引」を規制することで残り2つの政策を実現してきましたが、近年では人民元の国際化に伴って中国においても資本取引が活発になってます。結果として、「通貨価値の安定」と「自由な対外資本取引」を実現する代わりに「独立した金融政策」が犠牲になるという状況が生まれつつあるというのが著者の見立てです。
 
 第2章は不動産バブルの問題。中国では投資が経済成長を牽引しています。投資はさらなる経済成長のために必要不可欠なものですが、中国では今世紀に入ってから経済成長に対する投資の寄与率が平均して50%を超えており、80%を超えた年もあります(63p図2-1参照)。
 中国は「資本の過剰蓄積」といえる状態になっており、その資本は都市開発などの固定資産に向かっています。こうなると心配されるのが不動産バブルです。中国の不動産価格は今世紀に入ってずっと上昇傾向にあり、特に2016年以降は金融緩和の影響もあって上昇が目立ちます(71p図2-2参照)。

 しかし、中国の不動産市場は特殊です。あくまでも土地は公有が建前であり、土地に関してはその使用権が取引されているのです。この土地の供給をコントロールするのが地方政府です。
 地方政府は地元の経済発展につながる工場用地は安く供給し、住宅に関しては高い値段で供給するというような価格差別を行なっています(73p図2-3参照)。中国の不動産市場を見るときには、このようなゆがみを頭に入れる必要があるのです。
 また、土地の供給と開発は地方政府の重要な収入源となっており、地方政府が「融資プラットフォーム」と呼ばれるダミー会社を使って開発資金を調達し、開発を行っています。ここには「影の銀行」と呼ばれるノンバンクから資金が流れ込んでおり、これらは不動産価格が下落すれば不良債権化する恐れもあります。
 地方政府の「土地財政」からの脱却は避けることんできない課題ですが、不動産税などの導入は不動産市場を一気に冷え込ませて巨額の不良債権を生む恐れもあり、中国政府は難しい舵取りを迫られる状況になっています。

 第3章は中国の経済格差について。中国のジニ係数は1985年に0.331だったものが2003年には0.479と急上昇したものの、その後は横ばいの傾向にあります(96p図3-1参照)。これは農民工の賃金の上昇やリーマンショック以降に内陸地域で大規模な公共事業が行われたことが農村の一人当たりの所得を上げたからだと考えられます(もっとも、都市住民には「隠れ収入」があり実際の格差はもっと大きいという指摘もある(97-99p)。
 一方、資産の集中は確実に進んでおり、上位10%の資産保有シェアはヨーロッパの主要国の水準を抜き、アメリカに近づいています(103p図3-2参照)。

 また、地域間格差も90年代以降大きく拡大しました。改革開放とともに沿海部と内陸部の格差が拡大したのです。
 この格差は西部大開発などによって2005年頃をピークに縮小しますが、財政における地方の独立性が強い中国では、これは手放しでは喜べない状況です。
 ユーロ圏では「単一の金融政策、各国独自の財政政策」という組み合わせのもとで、経済的に弱い南欧諸国が財政支出を拡大し、それがユーロ危機へとつながりましたが(竹森俊平『ユーロ破綻』(日経プレミア)参照)、中国の内陸部の省も沿海部の省に比べて財政支出を拡大させており、貴州省や青海省は「中国のギリシャ」(122p)となる可能性があるのです。

 この地域間の格差を解消するには、①各省が独自の金融政策を行う、②豊かな省から貧しい省へと財政支援を行う、③貧しい省の人が豊かな省へと移動する、という3つの解決方法が考えられます。
 このうち①は現実的ではなく、②は経済成長にブレーキを踏む恐れもあります。そこで現実的な解決策は③なのですが、この人の移動を扱ったのが第4章になります。

 中国の戸籍には都市戸籍と農村戸籍があり、農村の人びとが都市の住人になるにはさまざまなハードルがあります。そこで、農民たちは農民工として農村に戸籍を持ちつつ、都市へと出稼ぎに出たのです。
 この農村から出稼ぎに来る農民工こそが中国の息の長い経済成長を支えたと考えられます。経済成長が起きると賃金が上がり、輸出競争力が落ちるのが普通ですが、中国では低賃金では働く労働者がいくらでも農村から供給されたので輸出競争力が落ちることがなかったのです。
 ところが、近年、中国はこの農村の余剰労働力がなくなる「ルイスの転換点」を迎えたという主張があります。中国の農村からの労働力の供給は限界に達しつつあるというのです。

 しかし、一方で中国の農村にはまだ余剰労働力があるが、土地に縛られて都市に出てこれないのだという議論があります。先述したように中国では土地は公有が建前で、農民に認められているのも請負権です。これは自由に売って処分できるようなものではないために、この請負権を保持するために農村に残っている農民が数多くいると考えられるのです。
 これが事実であるならば、土地取引の制度をうまく整えることで農村から余剰労働力を引き出せるということになります。中国政府もこうした課題を認識しており、農民の財産権を強化するとともに、中小都市に農民を移住させる新型都市化計画を進めています。
 ただし、これで農民が農村戸籍を捨てて都市に移り住むかというと、社会保障制度や教育の問題などもあって、そう簡単には進まないだろうと予想されます。

 他にも農民工の労働環境をめぐるさまざまな問題があります。中国の建設現場では「包工制」と呼ばれる請負制が横行しており、労災の補償などが十分になされていません。このような「古い」制度が残る一方で、シェアリング・エコノミーが発展しており、ここでも労働法の保護を受けられない労働者(あるいは個人事業主というべきか?)が増えています。労働組合やNPOの動きも政府によって抑えられており、労働者の保護が追いついていない現状があります。

 第5章は国有企業改革について。中国では、採算性の悪い国有企業が「ゾンビ企業」として淘汰されずに生き残っているという指摘がある一方で、00年代以降、国有企業のプレゼンスが増している「国進民退」の動きがあるという指摘もあります。
 この「国進民退」に関しては実際に起きているのが議論が分かれるところでしたが、電力・石油化学・通信・航空などの重要部門に関しては公有企業の支配が維持されており、また、賃金も民間企業に比べて高くなっています。そして、この賃金格差、あるいは労働分配率の違いのかなりの部分は所有形態によって説明できるというのです(173ー177p)。
 
 今までの中国経済の成長を支えてきたのは生産性の高い民間企業ですが、生産性の低い国有企業に資本が集まり、高賃金につられて優秀な人材が集まるようでは中国の経済成長の伸びは鈍化していしまいます。
 また、ゾンビ企業による鉄鋼など過剰な供給はアメリカとの貿易摩擦の一因ともなっています。こうしたゾンビ企業をスムーズに退出させるか、あるいは資本などを増強して収益力の高い企業に生まれ変わらせることができるかが、今後の中国経済を占う一つの鍵となります。

 第6章は中国で起きているイノベーションと今後の持続可能性について。この本の目玉というべき部分かもしれません。
 アセモグルとロビンソンは『国家はなぜ衰退するか』の中で、中国の制度は「収奪的」であり、いずれ成長は限界に突き当たる主張しました。これは経済学では主流の考えで、知的財産権の確立を重視するダグラス・ノースの考えなどからも、パクリが横行する中国の経済成長は持続的ではないと考えることができます。
 
 ところが、その中国でイノベーションが起きています。「財産権の保護」「法の支配」といった市場を支える制度が不十分な中でも、新しい技術開発と投資が行われているのです。
 著者は、この中国のイノベーションを3つの層に分けて考えています。一つは「プレ・モダン層」で、知的財産権を無視する零細業者たちの集まりです。代表例は、基本設計をパクりながら様々な部品をかき集めてつくられる「山寨(さんさい)」携帯と呼ばれるものです(この事業者に関しては丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』が詳しい)。
 もう一つは「モダン層」で、ファーウェイ(華為技術)に代表されるように、自社で技術開発を行い国際特許の取得にも積極的です。一般的な日本企業に近い存在といえるでしょう。
 さらに「ポスト・モダン層」があります。これは独自技術を開発しつつ、その技術をオープンにしイノベーションを促進していこうとする新興企業です。OSのLinuxなどを思い浮かべるといいかもしれません。

 著者は中国経済、特に深センにおけるハイテク産業の強みは、この三層が互いに補完しあいながら存在している所にあるといいます。
 一般的にパクリとイノベーションの共存はありえないようにも思えます。しかし、例えば料理のレシピは知的財産として保護されていませんが、日々新しいメニューが開発されています。
 ちょうど近年の日本のラーメン店の発展を考えるといいかもしれません。ラーメンの進化や多様化をもたらしているのは、レシピの保護などではなく他の外食産業と比較した時の参入障壁の低さです。
 深センでは山寨携帯の製造などを機に、さまざまな部品を調達する仲介業者(デザインハウス)などが誕生し、それが新しいイノベーションを目指す企業の参入障壁を引き下げるという、一種のエコシステムが生まれているのです。

 このプレ・モダン層が存在する(モダン(近代)的制度が不十分である)がゆえに、ポスト・モダン層が成長するというのが中国経済の一つの特徴といえます。
 例えば、アリババの決済システム(アリペイ)は銀行システムが不十分だからこそ生まれ、人びとに受け入れられました。そして、このアリペイの情報をもとに個人を格付けするシステムなども誕生しています。
 また、政府はこうした動きをある程度黙認し、成功しそうになると認めるといったやり方を取っており、政府の裏をかこうとする民間主体と、一種の「馴れ合い」のような状態にあると著者は見ています。

 終章では、日中の貿易が基本的に相互補完の関係であることを確認し、その上でトランプ・リスクや「一帯一路」についても触れています。

 序章に「中国経済については、実態を調べていけば「リスク」として理解できる現象でも、それを確定するための知識や情報が錯綜しているので、「不確実性」として捉えてしまいがちだ」(23p)という文章がありますが、まさにそのための知識と情報を授けてくれる本となっています。
 あとは、著者のいう「馴れ合い」がどこまでつづくのかということが(スター経営者を共産党が危険視しないか? イノベーションを政府が横取りしないか?)、残った「不確実性」なのかもしれません。
 

森本あんり『異端の時代』(岩波新書) 7点

 『反知性主義』などで注目を集めた著者が、トランプという「異端」の大統領の登場を機に、改めて「正統」と「異端」について探った本。著者の専門は神学・宗教学であり、この本でもキリスト教のに歴史をたどりながら「正統」と「異端」の意味するところを問おうとしています。
 近年の日本では、「保守」という言葉が政治の世界などでインフレ気味に使われていますが、この本では「正統」という言葉をもとに、西部邁なども引用していたG・K・チェスタトンに通じるより深みのある「保守」の姿を取り出しているといえるかもしれません。
 また、日本の批評の伝統を受け継ぐような叙述スタイルで読んでいて面白いです。

 目次は以下の通り。
序章 正統の腐蝕―現代世界に共通の問いかけ
第1章 「異端好み」の日本人―丸山眞男を読む
第2章 正典が正統を作るのか
第3章 教義が正統を定めるのか
第4章 聖職者たちが正統を担うのか
第5章 異端の分類学―発生のメカニズムを追う
第6章 異端の熱力学―中世神学を手がかりに
第7章 形なきものに形を与える―正統の輪郭
第8章 退屈な組織と煌めく個人―精神史の伏流
終章 今日の正統と異端のかたち

 まずこの本がとり上げるのがトランプ大統領の登場です。世界を驚かせたトランプ大統領の当選でしたが、アメリカの文脈からすると、彼のエスタブリッシュメントに対する反知性主義的な態度は、アンドリュー・ジャクソンや大リーガーから伝道師となったビリー・サンデーなどにも通じるものです。
 しかし著者は、トランプの登場はそれだけではなく、アメリカの政党政治の腐蝕を表しているといいます。民主党ではバーニー・サンダースが旋風を巻き起こしましたが、トランプもサンダースも共和党や民主党の「正統」とは言えない候補です。
 組織よりも即席的なネットワーク、あるいは有権者への直接的なコンタクトが重視されるようになり、「異端であることの代償が小さくなっている」(ナイム)時代になってきているのです(13p)。

 この「正統」に関して、まずは第1章で丸山眞男の考えが分析されています。
 丸山は「正統」について、「L正統」と「O正統」という言葉を使い区別しました。「「L正統」とは権力継承の正閏を問うlegitimacyの問いであり、「O正統」とは教義解釈の正邪を問うorthodoxyの問い」(19p)です。
 丸山は日本にはO正統を担うものが少ないと考えていました。北畠親房の『神皇正統記』のようにO正統に近い「正理」という概念を持ち出して歴史を論じるものもありましたが、日本では聖俗の二元的な価値が発展しなかったこともあり、O正統を問うような場が成立しにくかったのです。

 こうしたことを受けて、丸山は「正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な「正統」の条件を充たさないからこそ、「異端好み」の傾向が不断に再生産される」(30p)と述べています。
 丸山は、普遍的なしっかりとした教義を持つ集団を「正統」と考えましたが、著者はこれに対して神学史や宗教学の立ち上からすると、「正統」は丸山が考えるほど普遍的でも固定的でもないと言います。
 
 第2章から第8章までは基本的にキリスト教における「正統」と「異端」の話が中心となります。
 宗教学では、宗教の特徴を定義づけるものとして「正典」、「教義」、「職制」の3つの要素をあげます(これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「アブラハム系宗教」に寄り添ったものですが(40p))。
 聖書という正典があるキリスト教に対して、仏教には正典はありません。仏教では多くの経典がつくられ、どれを重視するかで宗派が分かれていきました。
 しかし、キリスト教成立時に聖書という正典があったわけではありません。聖書が成立したのはキリストが死んだ後であり、何らかの基準に従って正典に入れられるべき文書が決まっていったのです。ですから正典が正統をつくったわけではなく、その時点での正統が正典をつくったのです。

 実はキリスト教において最初に正典をつくろうとしたのは異端思想家といわれるマルキオンでした。
 マルキオンはキリスト教をユダヤ教から完全に脱皮させることを狙って、旧約聖書を削除し、福音書はルカのものだけに限定し、さらに彼自身の主張に合わない部分を削りました。
 これに対抗する形で、教会側で正典の編纂が進み、現在の聖書の構成が出来上がっていきます。当時、人びとが正典だと思うものを追認する形で、何を正典に入れるかが決められていったのです。
 そしてマルキオン派は消えていきました。著者は「異端は弾圧されたから姿を消したのではなく、姿を消したから異端なのである」(59p)と言います。「歴史の審判」が正統をつくっていくのです。

 第3章では、正典に加えて教義の問題もとり上げられています。正典があり、それを体系化した教義が生まれ、それが正統になる、というのが一つの理解ですが、先程見たように正典の前に正統は存在するわけで、教義から正統が生み出されるわけではありません。正統の中から正典と教義が形作られ、その中で正統が発展するという過程が繰り返されているのです(71-73p)。
 
 それでもキリスト教に絶対に欠かせない本質のようなものはあるのでしょうか? 19~20世紀にドイツで活躍した神学者のハルナックは、キリスト教はギリシア哲学によって歪曲されたというキリスト教の「ヘレニズム化」を指摘し、それを取り去れば、キリスト教の本質は「神の国の到来、父なる神、人間の魂の価値、義と愛の戒め」に尽きると考えました(78p)。三位一体論もキリスト論もキリスト教の本質にはかかわらないとしたのです。

 しかし、こうした始原に本質を求めるやり方には問題があると、著者はトレルチの議論を引用しながら主張します。始原としての正典があって教義が生まれるわけではなく、教義を生み出すのはその時々の正統だからです。
 例えば、マリアへの信仰は正式な教義ではありませんでした。しかし、長年人びとが進行し続けたことによってマリアへの信仰は正統となり、1854年になってマリアの「無原罪懐胎」が教義として認められました。

 第4章では職制の問題がとり上げられています。
 カトリックでは、まず教会を信じなさい、そして教会が解説してくれるままに聖書を信じなさい、という形になっており、聖書の権威は教会の権威に依存しています。
 これに反発したのがプロテスタントです(ただし、プロテスタントにも宗派ごとの聖書の解釈の仕方がある)。また、こうしたカトリック教会の権威主義的な感じは『ダ・ヴィンチ・コード』などで描かれる「陰謀論」的な教会のイメージに合致します。
 しかし、多くの場合、教会の解釈は時代を通じて大衆が信仰してきた正統のあり方に規定されています。カトリック教会の上層部が信仰を操っているわけではないのです。

 4~5世紀にかけて活躍した宗教家にペラギウスという人物がいます。彼はローマ社会の退廃と不道徳を攻撃し、人間には善をなす能力が備わっているのだから自らの力で善を目指すべきだとしました。
 このペラギウスが批判したのが、神の意志に従うために神の助力を求めたアウグスティヌスでした。「意識の高い」ペラギウスに対して、アウグスティヌスは自らを律することのできない大衆の側に立っています。そして、アウグスティヌスが正統となり、ペラギウスは異端となったのです。

 このペラギウスは異端のひとつの典型です。「ペラギウス主義とは、善が勝利することへのほとんど宗教的な信頼のこと」(120p)であり、ある種の行き過ぎです。
 第5章ではこうした異端に対する見方をもとに、キリスト教やイスラム教、あるいは日本や民主主義における異端が分析されています。
 政治哲学者のトドロフは、「民主主義は、人民、自由、進歩という三つの構成要素をもつが、それらが互いの成約を逃れて唯一の原理として暴走すると、それぞれポピュリズム、新自由主義、政治的メシアニズムという怪物を生み出してしまう」(119p)と言います。
 また、江戸時代の儒学者佐藤直方は「異端は片足で行と云たものなり」(134p)との言葉を残しています。全体の統一を欠いているのが異端なのです。

 第6章では、キリスト教の秘跡論を巡る対立と、堀米庸三の『正統と異端』、それに対する丸山眞男の誤解が論じられています。
 かなり込み入った議論が行われている章なので、実際に読んで確かめてほしいのですが、問題の人物が施した秘跡(サクラメント)をどう捉えるかというところから、それを「非合法だが有効」と考えるカトリックの考えと(秘跡は神の行為だから)、潔癖さを求めるドナティスト(ディオクレティアヌスの迫害で教会を裏切った者の教会への復帰を認めなかったドナトゥスの考えに同調する者)の考えを対比しながら論じています。

 第7章は、チェスタトンの「絵の本質は額縁である」(162p)という言葉から始まっています。正統とは何がしかの中身ではなく、「それ自身では定義され得ず、その容れ物を示すことによってしか特定できない内容をもつ」(163-164p)ものだというのです。
 これは自由についても同じです。社会における自由は個人の自由の制約なしには成り立たず、制約なしの自由は共同体から追放された犯罪者の自由のようなものです。
 そして、社会における自由の創設に成功したと考えられるのが、アレントの高く評価したアメリカ独立革命です。アメリカでは自由を創設するために憲法がつくられました。
 ただし、それは独立とともに一から生み出されたものではありません。メイフラワー契約にはじまる植民地時代の数々の積み重ねが憲法を生み、その憲法に正統性を与えたのです。

 第7章の後半に、ギゾーの、キリスト教はたんに個人的信仰ではなく一つの制度であり、たんに宗教ではなく教会だという分析が紹介されていますが(186p)、第8章ではこれを引き継ぐ形で、組織ではなく個人としての信仰を求めた人びと、ウィリアム・ジェイムズ、エマソン、H・D・ソローらが紹介されています。

 ジェイムズはすべての宗教は「個人の内に生じた強烈な宗教的経験に始まる」(193p)とし、それが政治的な傾向や教義的な戒律によって堕落すると考えました。
 このジェイムズの思想に影響を与えていると考えられるのがエマソンとソローです(エマソンはジェイムズの名付け親でもある(208p))。
 エマソンは「仲介も覆いもなしに」神を愛せよと言い、自分の直観と感情だけを信じで神に向き合うことを主張しました(205p)。エマソンは教会や牧師といった人為的な制度を否定し、神との直接的な対話を求めました。
 ソローもまた、人為的な制度を否定した人物でしたが、著者はソローを「個人主義を神聖視し宗教化している」と見ています(210p)。

 ジェイムズ、エマソン、ソローに共通するのは、既存の制度を否定し、「自己の内心を真理の最終審級の座とすること」(213p)にあります。
 こうした態度は公共の権威の座としての正統を失墜させますが、その正統の失墜とともに異端も明確な輪郭を取ることが難しくなります。
 デュルケムは「宗教以外のあらゆる信念と行動とが、ますます宗教的性格を稀薄にしてゆくにつれて、個人こそがある種の宗教の対象となる」と述べましたが(220p)、この自らの直観や感情を神聖視するような状況こそが現代なのです。

 終章で再び著者はポピュリズムの問題を論じていますが、著者に言わせるとポピュリズムは「宗教なき時代に興隆する代替宗教の一様態」(229p)です。ポピュリズムは多くの場合、善悪二元論を取り、妥協や調整を嫌いますが、この善悪二元論は宗教に通じるものがあります。
 こうした中で、著者が期待するのが正真正銘の異端の出現です。それは、自らの気分を反エスタブリッシュメントに重ね合わせるような非正統ではなく、「みずから新たな正統を担おうとする覚悟のある異端」(239p)です。「もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとするこのような正真正銘の異端が現れることから始まる以外にない」(240p)のです。

 このようにトランプ現象からキリスト教の歴史をたどり、さらに現代の状況を問うというダイナミックな構成となっていますが、とにかく読ませる文章になっています。正統と異端という二項対立を軸に、言葉の通俗的な意味を塗り替えていく筆さばきは、日本の評論の伝統に根ざすもので、今後、大学入試の問題などでも使われていくのではないでしょうか?

 ただし、個人的には面白かったものの二つほど疑問が残りました。
 一つ目は正統の位置づけです。著者は正統は正典や教義などに先立ち、異端は弾圧されて消えてゆくのではなく歴史の中で消えていったからこそ異端なのだと述べていますが、やはり教義や制度に先立つ正統は「プレ正統」的なものであって、教義や制度と相まって「正統」となり、この「正統」は「異端」を名指すことができるのではないかと思いました。キリスト教の歴史の中ですべての「異端」が自然に消えていったかのような見方にはやや無理があるのではないかと思います。
 もう一つは最後の異端の出現への期待の部分です。この本では正統はバランスがとれているのに対して異端は特定部分への過剰な思い入れがあるとしていました。そうだとすると、宗教においてはともかくとして、政治、特に民主主義においては異端はやはり危険であり、凡庸な答えながらもバランスを取りつづけるしか道はないのではないでしょうか?
 最後に蛇足的に疑問点を書きましたが、刺激的で面白い本であることは間違いないです。

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