ロールズとそれ以降の正義論を紹介した本。ロールズのリベラリズムからリバタリアニズム、コミュタリアニズムを紹介していくというのは、この手の本としては王道的な構成ですが、この本の特徴は、さらにそこからフェミニズム、コスモポリタニズム、ナショナリズムという3つの潮流を紹介しているところ。
ロールズの理論と、それに対するリバタリアニズムとコミュタリアニズムという見慣れた構図だけでなく、ロールズに対するフェミニズムの批判、グローバル社会の中でのロールズの理論の位置づけなど、ロールズの理論を中心として近年の正義論の展開がわかるようになっています。
また、序章が「哲学と民主主義」となっていますが、全体として正義を民主主義と関連付けながら論じようという姿勢があります。
目次は以下の通り。
第1章はロールズの『正義論』いついて。長らく停滞していた正義論は1971年に出版された本によって活気づき、この本によれば「アカデミズムにおける一大産業が成立した」(23p)とのことです。
ロールズというと「無知のヴェール」と「マキシミン原理」(不確実な状況下では最悪の結果がもっともましになるような選択肢が選ばれるという考え)が有名で、自分の属性(保有資産や性別や人種など)がまったくわからない「無知のヴェール」をかぶった状態では、もっとも不遇な人の待遇を改善するような制度が選択される(「マキシミン原理」)だろうという考えを主張した人として知られています。
そして、この考えは福祉国家を基礎づけるともされています。
ただし、この本ではそういった説明よりも、ロールズが何よりも基本的諸自由の分配を重視しているということを強調しています。
ロールズは第一原理で基本的諸自由の権利を説き、第二原理で格差の是正と機会均等を説いています。この2つの原理においては第一原理が優先されるべきものであり、「個人の基本的諸自由は最も不遇な人びとの便益のためであっても決して制限されないということを示して」(44p)いるのです。
このロールズの説明に関してはややわかりにくいところもあるのですが、読んでいけば著者の重視するポイントも見えてくると思います。
さらに、この章ではアマルティア・センやドゥオーキンの考えも簡単にとり上げています。また、アダム・スウィフトの「寝る前の読み聞かせは道徳的に許されるか」という普通の人が聞いたら「なんじゃこりゃ?」と思うような問いもとり上げています(読み聞かせが出来る家庭は限られており機械の均等に反するとのこと、ただしスウィフトは許されると考える(64ー65p))。
第2章はリバタリアニズムについて。リバタリアニズムというとノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の紹介から入るのが王道ですが、この本ではロックのやアダム・スミスから説き起こしており、リバタリアニズムを古典的リベラリズムの流れを継ぐ思想として紹介しています。
著者によれば、「ノージックの最小国家論やロスバートの無政府資本主義は、リバタリアニズムの代表事例というよりはむしろ「限界事例」として位置づけるほうが適切なのかもしれません」(87p)とのことです。
ノージックに関しては、最小限度以上のサービスを提供するために課税をすることは、その人に命令して働かされているのと同じであり、その人が部分的に他人に所有されているのと同じだという有名な議論を紹介しながら、ノージックも「隣人に損害を与えてまで自分の所有権を獲得したりすること」(78-79p)を想定しない「ロック的但し書き」を踏襲していることや、後年のエッセイで遺産の贈与について制限を設ける可能性について触れていることにも言及しています。
さらに、この本では事後的な再分配には否定的でも初期所有の平等を求める左派リバタリアニズム(この立場では遺産相続が否定される)や、最小福祉国家を認める森村進や橋本祐子の議論も紹介しています。
他にもメイン州の森で27年間、一人で隠れて生活していて2013年に窃盗などの罪で逮捕されたクリストファー・ナイトのエピソードを、市民的不服従を主張したH・D・ソローの考えと重ねながら考えています。
第3章はコミュタリアニズムについて。まずはサンデルのロールズ批判からです。サンデルはロールズが想定する個人は文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」であると批判しました。
しかし、サンデルもリベラリズム的な政策を否定しているわけでなく、サンデルが提唱する政治は「国家を外延とする共同体の政治をみんなで守り育てていこうという、共和主義的な政治」(120p)です。
つづいて、この本ではマッキンタイアの、その人にとっての人生の価値はその人の属する共同体の伝統の中にあるという考えを紹介し、こうした共同体を重視する考えが、例えば政治学者のロバート・パットナムなどにも受け継がれていることを指摘しています。
ただし、コミュタリアニズムにとって問題となるのが、グローバル社会への対応です。
ウォルツァーは、異なる財を比べる尺度は共同体内部の価値観の共有によって成立するとして共同体を重視していますが、同時にアメリカを「一のなかの多」と考え、アメリカが複数の共同体の集合とみています。著者は、ここにグローバル社会を構想する可能性があるかもしれないしています。
第4章のフェミニズムも、簡単に女性の権利を求める動きに触れた後、ロールズの女性観とそれに対する批判がとり上げられています。
ロールズの正義論において女性が登場するのは家族の中だけであり、家族は社会が介入すべきでない領域とされています。家族に関して、ロールズの見解はコミュタリアンのものに近いのです(155p)。
この本ではこうしたロールズに対するオーキンやヌスバウムの批判をとり上げています。ヌスバウムは「家族は政治制度であって正義を免れる「私的領域」の一部ではない」(168p)として、センのケイパビリティ・アプローチの考えを用いて男女関係なく人間らしい生活を送るためのリストを考えようとしました(センはこのような固定的なリストをつくることには否定的。アマルティア・セン『正義のアイディア』を参照)。この本でのヌスバウムはアリストテレス研究から出発しており、その思想は「アリストテレス的な要素に満ちています」(171p)という指摘は興味深いですね。
さらにこの章では、さまざまな性を個性として、「個人をさせる政治」を構築しようとするファビエンヌ・ブルジェールの考えなどを紹介しています。
第5章はコスモポリタニズムについて。この手の本でコスモポリタニズムに1章を割いて扱うのは珍しい気もしますが、これも本書の特徴の1つでしょう。
経済学者のブランコ・ミラノヴィッチはロールズがグローバルな格差に関心を寄せていないことを批判していますが(ミラノヴィッチ『不平等について』参照)、ロールズに学び、これを国境を超えて拡張しようとしたのがドイツ出身のトマス・ポッゲです。
ポッゲは天然資源の偏在や知的所有権の問題など、グローバルな格差を要因を解消するためのアイディアを探りました。
さらに功利主義者のピーター・シンガーは、苦しみを減らすのが良いことであるという立場から、「海外援助機関に寄付せずに豊かなライフ・スタイルで暮らすことは、エチオピアに渡って農民を何人か射殺することと倫理的に同じことになる」(196p)という過激な問題提起をしました。
世界的な公正さを実現するための重要な根拠が人権ですが、アーレントが「諸権利をもつ権利」であるところの国家に所属権利がなければ人権は保障されないと(189p)と述べたように、現状において国家を超えた権利の保障というのは難しい状況です。
しかし、国家を超えて公正さを実現するためのアイディアが皆無なわけではありません。この章では、寄付や世界税、ヘルスワーカーの移動規制、多国籍企業への期待と他国企業の義務といったトピックがとり上げられています。
第6章はナショナリズムについて。コスモポリタニズムの後にナショナリズムが置かれていることに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、ここで再びロールズの「限界」がクローズアップされ、現代社会における「国家」という枠の強さを再認識させるような流れになっています。
ロールズは1993年のアムネスティ連続講義をもとに『諸人民の法(邦訳タイトルは万民の法)』という著作を刊行していますが、ここでロールズは諸人民の人権や平等を保障するように求める一方で、内政不干渉の義務なども主張しています(216p)。
ロールズの考えを著者は次のようにまとめています。
ロールズは現在の国際的な経済格差の要因を各国の選択の結果とみなす傾向があり、現在の国際的な経済格差を容認しているのです。
この章では、さらに現代正義論においてネーションを主体として持ち出すイギリスの政治哲学者のデイヴィッド・ミラーの議論を紹介しています。
ミラーはネーション(国家)をそれ自体が良いものとして捉えており、このネーションの存在によって再分配や福祉が可能になると考えます。そして、国際社会における基本的人権の重要さを指摘しつつも、「ナショナルな責任」という概念を持ち出して、ナショナリティをともにする人びとの集合責任を想定するのです。この考えのもとでは、ある国が貧困であるのはその国の国民の集団的な責任だということになります(ただし北朝鮮のように独裁者が完全に人民を支配している国ではこの考えは当てはまらないとミラーは考えている(240p))。
著者はこうした議論を紹介しつつ、「コスモポリタン的な顧慮を伴う愛国心」(251p)の重要性を主張しています。
以上のような内容を持つ本なのですが、実際に読んでいくと、各思想を手際よく紹介していくというよりは随所で著者の考え方や視点が打ち出されている本だということがわかります。フェミニズムやコスモポリタニズムに1章を割いていることももちろんですが、例えば、リバタリアニズムの説明も個性が出ていると思います。
ですから、ロールズ、リバタリアニズム、コミュタリアニズムについて一通り知っているという読者にも楽しめる内容になっていると言えるでしょう(逆にまったくの初心者には少しわかりにくい部分があるかもしれませんが)。
ただ、終章の一番最後に置かれている、サンデルの持ち出す暴走する路面電車の問題(トロッコ問題)に対して「何もしない」と答える日本人学生が多いのは教育のせい、という話には疑問符が付きました。
学生が「僕は5人の命を救うために太った男を突き落とします」と積極的に発言するような状況が好ましいかというと、そうは言えないはずです(正義について考えるときにはトロッコ問題は適切か?という倫理的な問も当然あるはず)。

ロールズの理論と、それに対するリバタリアニズムとコミュタリアニズムという見慣れた構図だけでなく、ロールズに対するフェミニズムの批判、グローバル社会の中でのロールズの理論の位置づけなど、ロールズの理論を中心として近年の正義論の展開がわかるようになっています。
また、序章が「哲学と民主主義」となっていますが、全体として正義を民主主義と関連付けながら論じようという姿勢があります。
目次は以下の通り。
序章 哲学と民主主義―古代ギリシア世界から
第1章 「公正としての正義」―リベラリズム
第2章 小さな政府の思想―リバタリアニズム
第3章 共同体における善い生―コミュニタリアニズム
第4章 人間にとっての正義―フェミニズム
第5章 グローバルな問題は私たちの課題―コスモポリタニズム
第6章 国民国家と正義―ナショナリズム
終章 社会に生きる哲学者―これからの世界へ向けて
第1章はロールズの『正義論』いついて。長らく停滞していた正義論は1971年に出版された本によって活気づき、この本によれば「アカデミズムにおける一大産業が成立した」(23p)とのことです。
ロールズというと「無知のヴェール」と「マキシミン原理」(不確実な状況下では最悪の結果がもっともましになるような選択肢が選ばれるという考え)が有名で、自分の属性(保有資産や性別や人種など)がまったくわからない「無知のヴェール」をかぶった状態では、もっとも不遇な人の待遇を改善するような制度が選択される(「マキシミン原理」)だろうという考えを主張した人として知られています。
そして、この考えは福祉国家を基礎づけるともされています。
ただし、この本ではそういった説明よりも、ロールズが何よりも基本的諸自由の分配を重視しているということを強調しています。
ロールズは第一原理で基本的諸自由の権利を説き、第二原理で格差の是正と機会均等を説いています。この2つの原理においては第一原理が優先されるべきものであり、「個人の基本的諸自由は最も不遇な人びとの便益のためであっても決して制限されないということを示して」(44p)いるのです。
このロールズの説明に関してはややわかりにくいところもあるのですが、読んでいけば著者の重視するポイントも見えてくると思います。
さらに、この章ではアマルティア・センやドゥオーキンの考えも簡単にとり上げています。また、アダム・スウィフトの「寝る前の読み聞かせは道徳的に許されるか」という普通の人が聞いたら「なんじゃこりゃ?」と思うような問いもとり上げています(読み聞かせが出来る家庭は限られており機械の均等に反するとのこと、ただしスウィフトは許されると考える(64ー65p))。
第2章はリバタリアニズムについて。リバタリアニズムというとノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の紹介から入るのが王道ですが、この本ではロックのやアダム・スミスから説き起こしており、リバタリアニズムを古典的リベラリズムの流れを継ぐ思想として紹介しています。
著者によれば、「ノージックの最小国家論やロスバートの無政府資本主義は、リバタリアニズムの代表事例というよりはむしろ「限界事例」として位置づけるほうが適切なのかもしれません」(87p)とのことです。
ノージックに関しては、最小限度以上のサービスを提供するために課税をすることは、その人に命令して働かされているのと同じであり、その人が部分的に他人に所有されているのと同じだという有名な議論を紹介しながら、ノージックも「隣人に損害を与えてまで自分の所有権を獲得したりすること」(78-79p)を想定しない「ロック的但し書き」を踏襲していることや、後年のエッセイで遺産の贈与について制限を設ける可能性について触れていることにも言及しています。
さらに、この本では事後的な再分配には否定的でも初期所有の平等を求める左派リバタリアニズム(この立場では遺産相続が否定される)や、最小福祉国家を認める森村進や橋本祐子の議論も紹介しています。
他にもメイン州の森で27年間、一人で隠れて生活していて2013年に窃盗などの罪で逮捕されたクリストファー・ナイトのエピソードを、市民的不服従を主張したH・D・ソローの考えと重ねながら考えています。
第3章はコミュタリアニズムについて。まずはサンデルのロールズ批判からです。サンデルはロールズが想定する個人は文化や伝統などの文脈を持たない「負荷なき自我」であると批判しました。
しかし、サンデルもリベラリズム的な政策を否定しているわけでなく、サンデルが提唱する政治は「国家を外延とする共同体の政治をみんなで守り育てていこうという、共和主義的な政治」(120p)です。
つづいて、この本ではマッキンタイアの、その人にとっての人生の価値はその人の属する共同体の伝統の中にあるという考えを紹介し、こうした共同体を重視する考えが、例えば政治学者のロバート・パットナムなどにも受け継がれていることを指摘しています。
ただし、コミュタリアニズムにとって問題となるのが、グローバル社会への対応です。
ウォルツァーは、異なる財を比べる尺度は共同体内部の価値観の共有によって成立するとして共同体を重視していますが、同時にアメリカを「一のなかの多」と考え、アメリカが複数の共同体の集合とみています。著者は、ここにグローバル社会を構想する可能性があるかもしれないしています。
第4章のフェミニズムも、簡単に女性の権利を求める動きに触れた後、ロールズの女性観とそれに対する批判がとり上げられています。
ロールズの正義論において女性が登場するのは家族の中だけであり、家族は社会が介入すべきでない領域とされています。家族に関して、ロールズの見解はコミュタリアンのものに近いのです(155p)。
この本ではこうしたロールズに対するオーキンやヌスバウムの批判をとり上げています。ヌスバウムは「家族は政治制度であって正義を免れる「私的領域」の一部ではない」(168p)として、センのケイパビリティ・アプローチの考えを用いて男女関係なく人間らしい生活を送るためのリストを考えようとしました(センはこのような固定的なリストをつくることには否定的。アマルティア・セン『正義のアイディア』を参照)。この本でのヌスバウムはアリストテレス研究から出発しており、その思想は「アリストテレス的な要素に満ちています」(171p)という指摘は興味深いですね。
さらにこの章では、さまざまな性を個性として、「個人をさせる政治」を構築しようとするファビエンヌ・ブルジェールの考えなどを紹介しています。
第5章はコスモポリタニズムについて。この手の本でコスモポリタニズムに1章を割いて扱うのは珍しい気もしますが、これも本書の特徴の1つでしょう。
経済学者のブランコ・ミラノヴィッチはロールズがグローバルな格差に関心を寄せていないことを批判していますが(ミラノヴィッチ『不平等について』参照)、ロールズに学び、これを国境を超えて拡張しようとしたのがドイツ出身のトマス・ポッゲです。
ポッゲは天然資源の偏在や知的所有権の問題など、グローバルな格差を要因を解消するためのアイディアを探りました。
さらに功利主義者のピーター・シンガーは、苦しみを減らすのが良いことであるという立場から、「海外援助機関に寄付せずに豊かなライフ・スタイルで暮らすことは、エチオピアに渡って農民を何人か射殺することと倫理的に同じことになる」(196p)という過激な問題提起をしました。
世界的な公正さを実現するための重要な根拠が人権ですが、アーレントが「諸権利をもつ権利」であるところの国家に所属権利がなければ人権は保障されないと(189p)と述べたように、現状において国家を超えた権利の保障というのは難しい状況です。
しかし、国家を超えて公正さを実現するためのアイディアが皆無なわけではありません。この章では、寄付や世界税、ヘルスワーカーの移動規制、多国籍企業への期待と他国企業の義務といったトピックがとり上げられています。
第6章はナショナリズムについて。コスモポリタニズムの後にナショナリズムが置かれていることに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、ここで再びロールズの「限界」がクローズアップされ、現代社会における「国家」という枠の強さを再認識させるような流れになっています。
ロールズは1993年のアムネスティ連続講義をもとに『諸人民の法(邦訳タイトルは万民の法)』という著作を刊行していますが、ここでロールズは諸人民の人権や平等を保障するように求める一方で、内政不干渉の義務なども主張しています(216p)。
ロールズの考えを著者は次のようにまとめています。
「諸人民の法」の最終目標は、諸国家に「自由と平等」をもたらすこと、つまり言ってみれば<対等な人民としての暮らし>を保障することにあります。そしてこの<対等な人民としての暮らし>は、国家間にどのような経済格差があろうとも確立しうるものだと考えられています。ロールズの国際正義の構想において、『正義論』の第二原理がカバーするような社会的・経済的な一定程度の平等が目標とされていないのはそのためです。(224p)
ロールズは現在の国際的な経済格差の要因を各国の選択の結果とみなす傾向があり、現在の国際的な経済格差を容認しているのです。
この章では、さらに現代正義論においてネーションを主体として持ち出すイギリスの政治哲学者のデイヴィッド・ミラーの議論を紹介しています。
ミラーはネーション(国家)をそれ自体が良いものとして捉えており、このネーションの存在によって再分配や福祉が可能になると考えます。そして、国際社会における基本的人権の重要さを指摘しつつも、「ナショナルな責任」という概念を持ち出して、ナショナリティをともにする人びとの集合責任を想定するのです。この考えのもとでは、ある国が貧困であるのはその国の国民の集団的な責任だということになります(ただし北朝鮮のように独裁者が完全に人民を支配している国ではこの考えは当てはまらないとミラーは考えている(240p))。
著者はこうした議論を紹介しつつ、「コスモポリタン的な顧慮を伴う愛国心」(251p)の重要性を主張しています。
以上のような内容を持つ本なのですが、実際に読んでいくと、各思想を手際よく紹介していくというよりは随所で著者の考え方や視点が打ち出されている本だということがわかります。フェミニズムやコスモポリタニズムに1章を割いていることももちろんですが、例えば、リバタリアニズムの説明も個性が出ていると思います。
ですから、ロールズ、リバタリアニズム、コミュタリアニズムについて一通り知っているという読者にも楽しめる内容になっていると言えるでしょう(逆にまったくの初心者には少しわかりにくい部分があるかもしれませんが)。
ただ、終章の一番最後に置かれている、サンデルの持ち出す暴走する路面電車の問題(トロッコ問題)に対して「何もしない」と答える日本人学生が多いのは教育のせい、という話には疑問符が付きました。
学生が「僕は5人の命を救うために太った男を突き落とします」と積極的に発言するような状況が好ましいかというと、そうは言えないはずです(正義について考えるときにはトロッコ問題は適切か?という倫理的な問も当然あるはず)。