飛脚の誕生から飛脚のその後までを辿った本になります。巻末の資料を入れると400ページ越えの厚さになり、興味深いことも色々と書いてあるのですが、1冊の新書としてはもっと刈り込むべきところは刈り込んだ方がよかったでしょう。
また、著者にとって飛脚について扱った本はこれが3冊目ということで(『江戸の飛脚』(教育評論社)、『上州の飛脚』(みやま文庫)がある)、なるべくこの2冊と内容が被らないようにしたとのことですが、今回が初の新書ということを考えれば、重複を恐れずにわかりやすいエピソードを使いまわしてもよかったのではないかと思います。
面白い部分もありますが、全体的にややもったいない本でした。
目次は以下の通り
第1章 馬琴の通信世界第2章 飛脚の誕生第3章 三都の飛脚問屋の誕生と発展――ビジネス化した飛脚業第4章 飛脚問屋と出店、取次所第5章 飛脚輸送と飛脚賃第6章 奉公人、宰領飛脚、走り飛脚第7章 金融と金飛脚第8章 さまざまな飛脚第9章 飛脚は何を、どうやって運んだか第10章 災害情報の発信第11章 飛脚の遭難第12章 飛躍する飛脚イメージ
第1章では『馬琴日記』の中に登場する飛脚の姿が紹介されています。
文政10(1827)年の日記を見ると、江戸の神田同朋町にすむ曲亭(滝沢)馬琴が大坂の版元との間で「すり本」(ゲラ)をやり取りしていた様子がわかりますが、この「すり本」を運んだのが飛脚です。
馬琴は飛脚問屋京屋弥兵衛、嶋屋佐右衛門を利用しながら、上方の出版社と原稿のやり取りをして「朝夷巡島記」を刊行しています。
馬琴の日記には、「六日限」「八日限」「十日限」「並便」などの、違いも記されており、急ぎかどうかによってさまざまな飛脚便があったことがわかります。飛脚便は現在の宅急便のような役割も果たしていたのです。
第2章では「飛脚」という言葉がいつ生まれたのかが紹介されています。
遠隔地との通信のために古代の日本では駅制の仕組みがつくられましたが、この仕組みは平安中期以降に機能しなくなってきます。
こうした中、源平が戦った治承・寿永の乱の頃から「飛脚」という言葉が登場するといいます。九条兼実の日記「玉葉」の治承4(1880)年9月9日には「飛脚到来云々」という記述があり、石橋山の合戦で源頼朝が敗れたことが「飛脚」によってもたらされたことがわかります。
「吾妻鏡」でも同じ治承4年に「飛脚」という言葉が登場しており、戦いの様子や結果を伝えるために「飛脚」が用いられるようになったことがうかがえます。
この時代に「飛脚」を務めたのは、「雑色」と呼ばれた武士の身の回りの雑務をこなす雑役夫でした。
室町時代になると、13代将軍足利義輝が「早道馬」を活用しています。義輝は徳川、織田、今川といった戦国大名に早道馬の献上を求めています。
義輝は幕府の権力が低迷する中で、各地の大名の紛争を調停しようとしたことでも知られています。そのための連絡手段として早道馬を所望したと考えられます。
本章では戦国大名の武田氏、今川氏、真田氏の文章に登場する飛脚についてまとめられています。細かい部分も多いので詳細な紹介は避けますが、さまざまな使いがある中で、情勢が大きく動いた時に「飛脚」が多く用いられたこと、寺院の僧侶が飛脚を務めることがあったこと(僧侶はアクシデントに巻き込まれる可能性が低かった)などがわかります
戦乱の中で生まれた飛脚でしたが、江戸時代の泰平の世となってもなくなることはありませんでした。有力な大名は国元と江戸の連絡のために大名美脚を維持しましたが、大きく発展したのが民間の飛脚です。
飛脚問屋は17世紀後半〜18世紀前半、将軍で言うと4代家綱から8代吉宗の頃にかけて発展しました。各地で特産品が生産され、遠隔地取引が盛んになると、通信や輸送の需要も増えてきます。
江戸時代、大坂には大坂城代が置かれ、江戸との輸送・通信のために人足が月に3度江戸と大坂を往復するようになりました。この武家の飛脚が町人荷物を請け負うようになり、飛脚問屋が誕生しました。
さらに、大坂や京都の八百屋、豆腐屋、茶碗屋などが副業として飛脚業を始めたり、人足派遣業者の口入屋が飛脚業を営むようにもなりました。
飛脚問屋はまず上方で発展し、元禄時代には京都順番飛脚仲間が結成され、京都町奉行書の御用を請け負いました。
大坂でも、時代は下りますが安永3(1774)年に大坂三度飛脚仲間が公認されています。この仲間の中には「江戸屋」を名乗るものが複数見られますが(85pの表参照)、これは行き先を屋号として名乗ったためです。
江戸ではさらに遅れて、天明2(1782)年に江戸定飛脚仲間が公認され、その中でも十七屋孫兵衛は各地に支店を設け、高い知名度を誇りました。
こうした中で、到着の早さを売りにする早飛脚も登場します。早飛脚は昼夜兼行で馬を乗り継いだり、「抜状」といって途中で荷物の中から急ぎの荷物だけを抜いて、走り飛脚を仕立てて先行して走らせることによって早い到着を可能にしました。
こうした早飛脚は仲間同士で共同運行されており、これが明治になってからの陸運元会社の創業につながっていきます。
第4章では第1章に出てきた馬琴がよく使っていた京屋弥兵衛と嶋屋佐右衛門の輸送ネットワークが紹介されています。
京屋と嶋屋は東日本を中心に各地に「出店」を設け、主要街道沿いに本陣・脇本陣・旅籠などと契約して「取次所」を置くなど、広域のネットワークを形成していました。
京屋は、生糸の産地である上野、甲府、紅花産地の山形、二本松などに出店を置いていました。各地の特産品の輸送や特産品に関する情報の受け渡しが大きな役割だったのです。
上野には、桐生店、高崎店、藤岡店と複数の出店が置かれていましたが、それだけ絹織物や生糸が大きな取引であったことを物語っています。
嶋屋も上野に前橋店、伊勢崎店、高崎店、桐生店、藤岡店を展開しています(他にも越後に進出しているのが嶋屋の特徴)。
なお、本書では各出店の説明もしていますが、ここは割愛してもよかったと思います。
第5章は飛脚便の種類とその料金についてです。
まず、馬琴が利用した嶋屋について紹介されていますが、馬琴は並便(定期便)で松坂に返却本などを梱包した紙包を2つ(重量1340匁、約5キロ)送っています。この時の料金は金3朱、現在の金額に換算すると約2万円だといいます。
並便は、馬に荷物をつける形で運ばせ、移動は昼のみで夜は飛脚宿(定宿)に泊まりました。江戸〜京都・大坂で15日での到着を目指しましたが、30日近くかかることもあったようです。
当時、大名行列などによって問屋場で馬が不足することがありました、これを「馬支(うまづかえ)」と言います。また、当時は大きな河川に橋をかけていないことが多かったために河川が増水すると渡れませんでした。これを「川支(かわづかえ)」といいます。
こうした障害によって、なかなか予定通りにはつかなかったといいます。
料金についてはやや高く感じる人もいるかもしれませんが、汽車や自動車がない時代であり、重いものを運ぶのは大変だったのです。御状一通だと賃銀二分=銭20文であり、かけそばが16文だったので、それほど高くは感じないかもしれません。
金銀などの輸送に関しては、紛失した場合には飛脚問屋が補償することになっていましたので、保険料込みといった形の料金設定になっていました。
急ぎの場合は早便があります。四日限、五日限、六日限、七日限、八日限、十日限といったものがあり、六日限、七日限、八日限、十日限の定期便と、四日限、五日限、六日限の仕立便がありました。
この場合、荷物を運ぶ宰領は昼夜兼行で荷物を運び、問屋場では馬士にチップを払って馬を確保しました。さらに、道中で早便の荷物だけを抜いて走り飛脚を先行させる「抜状」も行われました。
料金は江戸から京都・大坂までの「六日限」で書状一通が賃銀2匁、銭に換算すると200文で、大体3750円程度だといいます。並便の10倍の料金です。
走り飛脚は5里(約20キロ)を2時間半程度で走り、継所で交代しながらリレーしていきました。
仕立便だとさらに料金は上がり、御状一通を運ぶ四日限仕立が金4両2分、五日限仕立が金3両、中山道経由の六日限仕立が金6両です(この料金の高さについて著者は道路事情の悪さを指摘しているけど、川の少ない中山道は大変だが確実に着くというのもありそう)。
金1両=10万円とすると、四日限で45万円ほどとなり、まさに時間に高いお金を払う感じになります。
第6章では飛脚問屋で働く人々が紹介されています。
飛脚問屋の経営には、荷物の集配の拠点となる店舗とそこに働く奉公人、宰領飛脚、走り飛脚といった人々が必要でした。
宰領飛脚は馬荷物を監督しながら基本的に騎乗して街道を往来します。宰領には馬不足や河川の増水などのトラブルを解決する能力が求められました。
本書の163pに明治2(1869)年に今の埼玉県熊谷市でトラブルを起こした宰領の所持品一覧が載っていますが、かなりの金銭を所持しており、宿泊費や人馬継立の費用など、道中に相当なお金が必要だったことも分かります。
飛脚のイメージというと荷物を持って走る走り飛脚でしょうが、実態についてはよくわかっていないそうです。
走り飛脚の人材供給源は人足と呼ばれる肉体労働に従事する人々であり、中には背中や肩に刺青を持つ者もいたといいます。
飛脚のどのように走ったのかもよくわかりませんが、本書では明和8(1771)年刊行の『万民千里善走伝』の中に書かれてる走り方を紹介しています。当時は道路状況が悪いために、地面の状況に気をつけて走ることが重要だったようです。
第7章は飛脚が運んだ金や飛脚問屋が関わった金融についてです。
この章のはじめでは安政2(1855)年に現在の群馬県の桐生市の渡瀬川で起きた「松原の渡し難船一件」と呼ばれる水難事故が紹介されています。この事故では現金6000両(現在の価値で約6億円ほど)が流されたために大騒ぎになりました(その後の革財布などは見つかったが現金は入っていなかった)。
なぜ、このような大金が輸送され、しかも事故にあったかというと、難船事故の翌日は桐生の絹市の日であり、決済のために大金が必要であり、また、その日に間に合わせるために増水した川を無理に渡ったからです。
このように現金の輸送には危険も伴いました。そこで飛脚問屋が関与する形での為替手形も組まれました。さらに飛脚問屋が呉服屋や問屋場に融資をしていたことを示す資料も見つかっています。飛脚問屋は金融のはたらきも担っていたのです。
第8章は「さまざまな飛脚」と題されています、
まず、幕府は継飛脚の仕組みを持っていました。継飛脚は関所や川の渡しなども優先的に通ることができ、江戸〜京都を64〜66時間、急用であれば58〜60時間ほどで結んだといいます。
同じように大きな大名は自分の藩のための飛脚を持っていました。
町飛脚は近国を対象として荷物や手紙を輸送した飛脚業者で、担ぐ箱に鈴がついていたために「チリンチリンの町飛脚」とも呼ばれました。江戸では町飛脚が回るルートが決まっており、今の郵便配達に近いイメージです。
他にも大名行列に人足を派遣する人宿を上下飛脚と呼んでおり、飛脚業者の起源を考える上でも興味深い存在です。
さらに本章では馬琴と『北越雪譜』の著者である鈴木牧之の手紙のやり取りと、それを取り持った二見忠兵衛という人物についても紹介しています(馬琴のひどさもわかる)。
また、『馬琴日記』から近所への届け物などをした人物なども紹介しています。
第9章では、参勤交代で江戸で暮らすための資金を国元から運んだ飛脚問屋や生糸などの特産品を運んだ飛脚などが紹介されています。
また、新選組の飛脚利用のエピソードなども紹介されています。
第10章は「災害情報の発信」と題されていますが、ここでは新聞やテレビのない時代に飛脚がメディアの役割をしていたことが書かれています。
例えば、大阪堂島の米市場の価格情報や江戸での火事のニュースなどが飛脚問屋を通じて各地に伝わっています。
また、地震や洪水などの大災害、幕末の江戸薩摩藩邸の焼き討ち、鳥羽・伏見の戦いの一報なども飛脚によってもたらされています。
こうした役割については飛脚問屋も自覚的で、遠国で洪水や火事が起きたことを伝えてきた場合は、受け取った飛脚問屋は飛脚仲間の年行事や月行事に報告し、年行事が江戸の町年寄りに報告することになっていました。
災害によっては飛脚の輸送路に大きな影響を与える場合もあります。そのためにも仲間内で情報を共有することが求められたのです。
第11章は飛脚の遭難です。前述のように、飛脚の延着の原因は馬支と川支でしたが、それとともに飛脚を悩ませたのが火災で荷物を消失する「火難」、河川に落として荷物を濡らす「水難」、強盗などに荷物を奪われる「盗難」でした。これらを「二支三難」といいます。
史料を見ると、馬が「老馬・弱馬」だったために転倒したケース、船から陸に上がろうとした際に「船開キ」があって馬が水に落ちたケースなどが紹介されています。
また、飛脚を狙った盗賊もいました。史料を見ると道中で強奪されるよりも、旅籠などに宿泊中に狙われるケースが多かったようです。
こうした荷物の紛失や毀損などについては飛脚問屋が弁済することが基本でしたが、嘉永7(1854)年の東海道地震の際には飛脚問屋から「今回は稀成る天災のため金銀はもちろん荷物も賠償できない」(289p)との主張がなされています。それ以前の大災害では荷主が負担することもあったそうです。
第12章では、江戸時代の文学に登場する飛脚の姿が紹介されています。
近松門左衛門の『冥途の飛脚』のほか、歌舞伎や山東京伝の黄表紙などに飛脚が登場します。さらに本章では、飛脚についての俳諧や川柳、狂歌、さらには各地の狐飛脚の伝承などを紹介しています。
このように本書は飛脚についてさまざまなことを教えてくれます。ただし、内容としてはやや散漫になってしまっている部分もあり、もっとコンパクトにまとめるべきだったのではないかと思います。
第3、5〜7、10〜11章で書かれていることは面白いと思うので、手に取ったがなかなかページが進まないという人は、そのあたりに飛んで読んでみてもいいと思います。