山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年06月

内田良『教育という病』(光文社新書) 7点

 ネット上で柔道事故や組体操のリスク、「2分の1成人式」の問題点などを指摘してきた著者の今までの問題発信や提言をまとめた本。間違いなくどこかの出版社が新書のオファーを出していると思っていましたが、若手の社会学者の起用では定評のある光文社でしたね。
 基本的にネットで読んでいたものも多かったですが、本の出版をきっかけにしてより多くの人に知ってほしい内容ですし、教育現場でリスクが無視されてしまうという根本的な問題についても、その原因を考察しようとしています。

 目次は以下のとおり。
【序 章】 リスクと向き合うために ―― エビデンス・ベースド・アプローチ
【第1章】 巨大化する組体操 ―― 感動や一体感が見えなくさせるもの
【第2章】 「2分の1成人式」と家族幻想 ―― 家庭に踏む込む学校教育
【第3章】 運動部活動における「体罰」と「事故」 ―― スポーツ指導のあり方を問う
【第4章】 部活動顧問の過重負担 ―― 教員のQOLを考える
【第5章】 柔道界が動いた ―― 死亡事故ゼロへの道のり
【終 章】 市民社会における教育リスク

 大阪教育大学附属池田小などをきっかけにして、「学校の安全」に注目が集まり、不審者対策などが積み重ねられてきました。
 しかし、実際に生徒が亡くなったり怪我をしたりするのは不審者に襲われるケースよりも圧倒的に授業中や部活動中のものが多いです。このあまり顕在化してこない「教育活動」の中でのリスクを調べ、データに基づいて警鐘を鳴らそうというのが著者の基本的なスタンスです。

 そのもっともわかりやすい例が、この本の第1章でとり上げられている組体操と、第5章でとり上げられている柔道事故です。
 組体操に関しては、自分も小中学校のときにやっており、その時は5段ピラミッドに3段タワーでした。運よく大きな怪我などはなかったと記憶していますが、その組体操は近年になってエスカレートし、小学校でも7段ピラミッドや5段タワーが、中学校では10段ピラミッドなども作られているとのことです。
 当然、崩れたときには怪我の危険性もあるわけで、骨折などだけではなく障害が残るような大きな怪我も起きており、裁判で賠償が認められるケースも出てきています。
 また、学校での柔道事故についてもここ30年ほどで118件の死亡事故が起きるなど(212p)、他の運動に比べても突出して高い死亡率となっていました。
 
 ところが、そのリスクというものはなかなか認知されません。
 柔道事故については、武道必修化に際して著者などがその危険性をアピールしたことなどもあって、その危険性が全日本柔道連盟や教育現場にも認知され、ここ3年死亡事件ゼロという大きな改善を示していますが、組体操に関してはリスクに背を向けた巨大化の動きが止まっていません。
 
 著者はその原因として、「感動」を求める教育現場や周囲の風潮をあげています。この「感動」こそが教育現場の眼を曇らせている大きな要因なのです。

 そして、この「感動」を得られるイベントの1つが「2分の1成人式」です。
 「2分の1成人式」とは児童が10歳になった節目を祝うもので、「自分の生い立ちを振り返る」「将来の夢を話す」「親への感謝の手紙を読み上げる」といったものから構成されています。このイベントには親も出席し、親子そろって「感動」します。ちょうど、結婚式の花嫁の両親への手紙みたいな雰囲気になるのでしょう。
 しかし、どの家庭も親子関係が円満なわけではありません。それこそ虐待を受けている子どもがいるかもしれません。また、片親の家庭や再婚した家庭の場合、「生い立ちの振り返り」が難しいケースもあるはずです。
 ところが、多くの場合そういった可能性は無視され、みなが「感動」するイベントとして「2分の1成人式」は行われています。著者は「集団感動ポルノ」(107p)という強い言葉を使っていますが、まさにその「感動」が傷つく可能性のある子どもの存在を覆い隠しているのです。

 第3章と第4章では部活動の問題がとり上げられています。
 正式な教育課程には位置づけられていない部活動ですが、近年、教育課程に関連するものとして重視されており、さかんに行われています。
 しかし、この部活動において大阪・桜宮高校での体罰事件などに見られるようにさまざまな問題が起きています。教員の暴力行為が「体罰」としてまかり通っていることに、学校の閉鎖性や特殊性を感じる人も多いと思います。

 ところが、こうした体罰をふるう教員を擁護する保護者やOBがいるのも事実であり、顧問の教員が裁判にかけられると多くの場合、その教員を支援する動きが出てきます。
 また、一方で教員の中からは部活動の顧問の負担が重すぎる、まったく指導できない競技の顧問を無理やりやらされているとの声があがっています。
 実際、日本の中学校教員の勤務時間は世界でも最長と言っていいほどですが、授業に当てている時間は平均以下です。つまり、日本の中学校教員は部活動によって長時間労働を強いられ、疲弊しているのです(181ー186p)。

 このように、この本は現在の学校現場におけるさまざまな問題点を鋭く抉り出しています。
 教育に関する本というと、「理念でっかち」的な本が多く、それが苦手という人もいると思うのですが、この本はできるだけデータを使って語ろうとしており、多くの人を説得する力があると思います。
 個人的には部活の話か「2分の1成人式」の話のどちらかを切り離して、より深く「教育という病」の考察に当てても良かったと思いますが(個人的に、組体操や「2分の1成人式」の流行の背景には、生徒の「関心・意欲・態度」を重視する今の学習指導要領があるのではないかと思う。「関心・意欲・態度」を重視すればするほど、教育は「イベント化」すると思うので)、今の教育現場の問題を幅広く知ってもらうという点からはこのほうがいいのかもしれません。


教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)
内田 良
4334038638

小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』(ちくま新書) 6点

 著者は、解放出版社に勤務し、1980年から、部落解放同盟中央本部マスコミ・文化対策部、糾弾闘争本部の一員として、メディアにおける差別表現事件にとりくんだ人物。
 そうしたプロフィールを持つ著者が、今までの「糾弾」の歴史を振り返り、その上で「部落解放同盟がなぜ弱体化したのか?」という問いに答えようとした本。
 
 「部落解放同盟がなぜ弱体化してしまったか?」という問いに対する踏み込みはややもの足りず、また、「糾弾」の歴史についても、きちんと時系列にそって書かれているわけではないため、「歴史」としてはややまとまりが見えにくいのですが、数多くの事例から見えてくる差別の構造やパターンといったものがあり、差別について考えさせる本になっています。

 「糾弾とは何か?」この本では次のように述べられています。
 糾弾とは、まず何よりも差別に対する直接的な怒りの表現であり、告発である。それは、差別された者の、耐え難い感情の人間的表現であり、自己の存在と尊厳をかけた自力救済の抗議行動である。
 さらに、差別を容認し、放置している社会に対する異議申立てであり、差別する者、差別を許している社会の変革をめざす闘いでもある。
 くわえて、糾弾を通じて、被差別者のおかれている社会的な立場を自覚的に認識し、自己変革をめざすものだ。(33p)

 この本では、差別表現に対する糾弾の事例が豊富に紹介されています。糾弾先は司馬遼太郎や筒井康隆などの作家、テレビ局や出版社、朝日新聞のような「リベラル」と思われているメディアまで幅広く、差別表現というものが、良識の欠如というよりは無知や無意識的な差別意識から行われていることがわかります。

 こうした中で、数多くとり上げられている差別表現が「特殊部落」と「士農工商○○」という表現。
 
 「特殊部落」は、もともと行政機関などが使い始めた言葉で、使われ始めた経緯はともかくとして徐々に被差別部落への蔑称として定着したものです。
 「特殊部落」という言葉は「中立的」なイメージのある言葉で、その経緯を知らないと、それこそ差別語を非差別語に言い換えるために登場した言葉にも思えます。ですから、多くの人がつい使ってしまうのでしょう。
 しかし、使われた事例を見ていくと、やはり被差別部落への差別視・特殊視があってこその使用といったものが多く、思わず差別的な意識が顔を見せてしまったというようなケースが多いです。

 「士農工商○○」は、「士農工商・編集者」、「士農工商・広告代理店」のように多くは書き手の「自虐」の文脈のなかで使われています。
 日本には「自虐」の文化があり、書き手はその文化に則っているだけで、明確な差別意識はないのでしょう。ただ、その「自虐」を表すために自らのポジションを被差別部落と重ねあわせてしまうとうところに無意識的な差別意識があるといえるのかもしれません。

 差別表現に対する「糾弾」というと、すぐに「言葉狩り」的なものを想像してしまいますし、そうした事例も皆無ではないでしょうが、この本の事例を見ていくと、やはり無意識的な差別意識が顔をのぞかせているケースも多く(もちろん、「無意識的」では済まされないようなひどいケースもある)、部落解放同盟がそうした意識に苛立ち、糾弾するというのも理解できます。

 ただ、糾弾の事例は豊富にとり上げっれているものの、その後の展開についてはきちんと説明されていない例もあり、そこには不満を感じます。
 特にウォルフレン『日本/権力構造の謎』における被差別部落や部落解放同盟に関する記述(糾弾には意味はなく法的手段にも訴えたりしないので、官僚もこの形式的な抗議行動を奨励している、など(144p))への糾弾については、経緯こそ詳しいものの、肝心のウォルフレンとの討論会の様子や結論は書かれておらず、不十分だと思いました。

 この本では、「部落解放同盟がなぜ弱体化してしまったか?」という問いに対して、メディアなどの糾弾しやすい相手には糾弾する一方で、国家権力に対する抗議を徹底し得なかったということがあげられています。
 確かに、野中広務への麻生太郎の出自をめぐる問題発言など、あからさまな差別発言でありながら部落解放同盟の追求が弱かった例もありますし、また、橋下市長の出自をめぐる週刊誌の記事についても、当初は方向が定まらないなど、近年の解放同盟中央本部が迷走しているというのはその通りかもしれません。

 ただ、この本を読んで個人的には糾弾の「終わらせ方」というものに問題があったのではないか?という印象も受けました。
 最初に紹介した「糾弾とは何か?」の部分で著者は次のようにその終わらせ方について述べています。  
 特に悪質な場合をのぞいて、表現に関する差別事件は、だいたい以上の手続きを経て、二回ほど面談して、最終的に回答書(反省文)を了として終りとなる。(34p)

 この「反省文を書かせる」というのは、学校教育の現場などの例からもわかるように、権力関係の中でこそ行われる行為ですよね。
 権力側が規範を暗示的に示し、服従する側がその暗示された規範に合わせた形であたかも主体的に自己についての振り返りをしてみせるものが、「反省文を書く」という行為です。 詳しくは、 門脇厚司・宮台真司編『「異界」を生きる少年少女』所収の論文・石戸教嗣「教育システムのメディアとしての子ども」を読んで欲しいのですが、「反省文を書かせる」という行為は、非常に陰湿な権力の作動となりかねないものだと思います。
 そうした「反省文を書かせる」ことを目的とした糾弾が、部落解放同盟を「ミニ権力」的な存在へと変質させてしまったのではないでしょうか。

 けれども、最近のヘイトスピーチ問題について言及した部分で、「ヤンキー・ゴー・ホーム」はヘイトスピーチであり「USアーミー・ゴー・ホーム」と言うべきだとする(195ー196p)、著者の差別表現に対するスタンスは一貫しており、評価できると思います。


部落解放同盟「糾弾」史: メディアと差別表現 (ちくま新書)
小林 健治
4480068376


「異界」を生きる少年少女
門脇 厚司
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清水克行『耳鼻削ぎの日本史』(歴史新書y) 7点

 高校で日本史を学んだ人は、次の史料を見た記憶があるかもしれません。
ヲレラカコノムキ(麦)マカヌモノナラハ、メコトモ(妻子ども)ヲヲイコ(追い込)メ、ミヽ(耳)ヲキ(切)リ、ハナ(鼻)ヲソキ(削ぎ)、カミ(髪)ヲキリテ、アマ(尼)ニナシテ、ナワ(縄)ホタシヲウチテ、サエナマントセメセンカウセラレ候…

 これは「阿弖河庄上村百姓申状」などと言われる史料で、鎌倉時代の地頭の無法ぶりを伝える史料として知られています。
 この史料においてなんといってもインパクトがあるのが、「(耳)ヲキ(切)リ、ハナ(鼻)ヲソキ(削ぎ)」という部分。言うことを聞かない百姓の妻を監禁し、「耳と鼻を削ぐ」というのは現代の感覚からするとあまりにも残虐非道なことで、『北斗の拳」におけるモヒカンたちの行動と何ら変わりがありません(ちなみに歴史学者の藤木久志氏は、この「阿弖河庄上村百姓申状」と山上憶良の「貧窮問答歌」、江戸時代の「慶安のお触書」の3つを「みじめな民衆3点セット」呼んだそうですが、現在の研究では、「慶安のお触書」は存在自体が嘘で、「貧窮問答歌」も中国の詩の「盗作」であるという疑いが強くなっている(22ー30p)。

 また、「耳と鼻を削ぐ」という行為を聞いて、豊臣秀吉による朝鮮出兵の時の、敵の首の代わりに耳や鼻を削いだという行為を思い出す人もいるでしょう。
 この本では、日本の歴史の中でとりわけ残酷さを伝えるエピソードである、「耳鼻削ぎ」に焦点を当て、その意味するところと、変遷をたどった本になります。著者は『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ)の清水克行。今回も今から見ると異常な行為から時代の変遷を浮かび上がらせています。

 まず、この本では中世における「耳鼻削ぎ」の事例を見てきます。
 この本ではフィクションを含めてさまざまな「耳鼻削ぎ」の事例がとり上げられているのですが、ここでとり上げられている事例のほとんどが女性を対象にした「耳鼻削ぎ」です。
 女性への「耳鼻削ぎ」というと、非常にサディスティックな感じがしますが、多くの場合は本来ならば死刑でおかしくないところ、女性だからということで「耳鼻削ぎ刑」に落としているというもので、そこには女性を殺すことへの「忌避」がはたらいていたのです。

 古代や中世において、人々は自らの名誉を非常に気にかけ、例えば、頭にかぶる「烏帽子」も一人前の大人の男のシンボルとして重要視されました。人前で烏帽子を脱ぐ、脱げるというのは本人にとって大きな恥辱でもありました。同じように髻(もとどり)にもたんなる髪の毛以上の意味が込められていました。
 しかし、女性や僧には烏帽子や髻に類するものがありません。ですから、彼らへの刑罰は耳や鼻へと向かうことになるのです。
 「阿弖河庄上村百姓申状」の地頭にしても、とりたてて猟奇的な人物だったわけではないのでしょう。「メコトモ(妻子ども)」への罰が耳や鼻へと向かうということは、当時の人々の意識からすると、ある意味で自然だったのです。

 ところが、いわば「半人前」の女性への刑罰であった「耳鼻削ぎ」は、戦国時代の戦場において違った意味を持つようになります。
 戦場が本拠地から遠い場合、合戦が行われたのが夏である場合など、敵の首級を持ち帰ることが難しいときに、鼻や耳が首級の代わりとして認められるようになります。
 また、一揆の鎮圧など、敵の身分が低い場合は、鼻や耳が戦功の証となっていたケースも多いようです。
 この戦場での「鼻削ぎ」は、敵兵を討ち取ったことを示すために、鼻だけでなく「髭付き」で切り取る必要があるなど、死を回避するためのものではなく、自らの手柄の証明でした。

 この日本の戦国時代における「耳鼻削ぎ」の風習が、外国へと持ち込まれたのが秀吉による朝鮮出兵でした。
 朝鮮半島から日本への距離を考えると、首級を日本へ送ることは難しく、当初から鼻がその代用品として利用されることが決められました。また、秀吉が方広寺での、鼻塚の築造と鼻供養のために鼻を求めたという側面や(130p)、朝鮮に出兵した大名が「人取り」(奴隷狩り)を認める代わりに「鼻」のノルマを兵士に課したこともあったようで(136p)、朝鮮半島では非戦闘員を含めた多くの人々が「鼻削ぎ」の被害に見舞われました。

 こうして戦国時代にその姿を変えた「耳鼻削ぎ」は、江戸時代の初期には死刑+αの刑罰として、または見せしめとして行われることになります。
 池田光政や保科正之といった「名君」は、「耳鼻削ぎ」を行い、「耳鼻削ぎ」された犯罪者を人々の目に晒すことによって、犯罪を抑止できると考えていました。
 しかし、元禄時代になると、文治主義への転換を推し進めた綱吉のもと、「耳鼻削ぎ」のような刑罰は残虐だとみなされ、徐々に行われなくなっていきます。この後、「耳鼻削ぎ」は侠客・ヤクザなどアンダーグラウンドな世界、そして幕末の新選組などのみで行われました。

 このようにこの本では、「耳鼻削ぎ」というインパクトの強い行為から日本人の意識の変遷を描き出しています。
 また、最初と最後に書かれている全国各地に残る「耳塚・鼻塚」に対する考察も面白いですし、148pに載っている鼻削ぎがされたアイヌの写真というのもインパクトが有ります。実は「鼻削ぎ」をしたら死んでしまうんじゃないか?とずっと疑問に思っていたのですが、この本の記述とこの写真によって、その疑問は氷解しました。
 読んでいて背筋が寒くなる部分もありますが、面白い本だと思います。

耳鼻削ぎの日本史 (歴史新書y)
清水 克行
4800306701

阿古真理『小林カツ代と栗原はるみ』(新潮新書) 7点

 副題は「料理研究家とその時代」。タイトルになっている小林カツ代と栗原はるみだけではなく、戦後に活躍した「料理研究家」のプロフィールやレシピを見ていくことで女性の役割と料理研究家に求められたものの変遷を辿ろうとした本。
 時代や社会的変化についての分析はそれなりといった感じですが、とにかく料理研究家ひとりひとりのプロフィールの部分が興味深く、非常に面白い読み物になっていると思います。

 目次は以下の通り。
プロローグ――ドラマ『ごちそうさん』と料理研究家
第一章 憧れの外国料理 
(1)高度成長期の西洋料理――江上トミ、飯田深雪
(2)一九八〇年代のファンシーな料理――入江麻木、城戸崎愛
(3)平成のセレブ料理研究家――有元葉子
第二章 小林カツ代の革命
(1)女性作家の時短料理術
(2)小林カツ代と「女性の時代」
(3)カツ代レシピを解読する
(4)息子、ケンタロウの登場
第三章 カリスマの栗原はるみ
(1)平成共働き世代
(2)はるみレシピの魅力
(3)あえて名乗る「主婦」
(4)最後の主婦論争
第四章 和食指導の系譜
(1)昭和のおふくろの味――土井勝、土井善晴、村上昭子
(2)辰巳芳子の存在感――辰巳浜子・辰巳芳子
第五章 平成「男子」の料理研究家――ケンタロウ・栗原心平・コウケンテツ
エピローグ――プロが教える料理 高山なおみ

 まず、この本はNHKの朝の連続テレビ小説『ごちそうさん』の主人公・め以子のモデルとして辰巳浜子と小林カツ代という2人の料理研究家がいるのでは?という話から始まります。
 小林カツ代については後で触れるとして、辰巳浜子については第四章でその生い立ちが詳しく書かれています。
 1904年に東京の神田で生まれた辰巳浜子は、祖母に料理の基礎を教わり7歳年上の幼なじみ辰巳芳雄と結婚。しかし、この辰巳家は舅が妻に先立たれ再婚したために腹違いの姉がいて、浜子は複雑な家庭状況の中で苦労することになります。さらに戦争中満州に転勤になった夫は一事行方不明になり、その間浜子は予約制の料理店を開くなど、まさにめ以子のような人生を送るのです。
 
 さらに、この辰巳浜子の娘が料理だけでなく、食文化や環境問題、「生き方」についても発言を行う辰巳芳子。TVや雑誌などで見かけたことのある人でしたが、このようなバックボーンをもった人であるということはこの本を読んで初めて知りました。
 この本では他にも多くの料理研究家のプロフィールが載っているのですが、いずれも個性的で興味深いものです。
 江上トミや飯田深雪といった初期の料理番組で活躍した料理研究家は、いずれも夫の海外赴任にともなって海外へ渡り外国料理を身につけていますし、入江麻木にいたっては19歳のとき(1942年)にロシア貴族の末裔と結婚したセレブでした。
 初期の料理研究家は、このようにそれぞれの人生の中で外国料理を身につけ、それを日本風、あるいは家庭できる範囲にアレンジして紹介する人々だったのです。

 こうした中で登場したのが小林カツ代でした。
 美味しいものを食べながらも自らはまったく台所に立たず、「結婚したはじめての夜、乾燥わかめを大量に入れ、出汁もとらずにつくった味噌汁のまずさに仰天。以来、母や魚屋、八百屋などに聞きながら料理を覚えて」(98p)いったという小林カツ代は(このあたりが『ごちそうさん』のめ以子)、テレビ局への投稿がきっかけに料理研究家としてのキャリアを踏み出します。

 小林カツ代は「料理は化学であり科学である」との持論のもと、数々の時短料理を提案し、またテレビ番組『料理の鉄人』で鉄人・陳建一に勝利するなど、今までの料理の常識をくつがえすさまざまなレシピを考案しました。
 『料理の鉄人』に出演した時は、「主婦の代表」とのキャッチフレーズを断固として拒否するなど、時間がない女性たちに家庭料理を教える「プロ」としての役割にこだわったのが小林カツ代でした。

 一方、小林カツ代のような「プロ」でもなく、入江麻木のような「セレブ」でもなく、あくまでも手が届きそうな主婦の理想像を提供し続けているのが栗原はるみです。
 個人的に栗原はるみの人気というのはずっと謎で、自分の名前の入った雑誌まで出していることをした時は「うへー」となったものですが、この本を読んでその人気の理由が少しわかりました。
 栗原はるみの本は「生活という裏付けのあるノンフィクション」(141p)であり、その仕事ぶりや発言は「あたかもそれは皆に愛されるアイドルのようで、愛されるための努力を栗原は惜しまない」(153p)と著者は分析しています。
 栗原はるみは、あくまでも「主婦」という役割にこだわっていますが、「主婦」というものがフィクショナルなかたちで選び取られている現代において、この栗原はるみのあり方というのは一つのモデルなのでしょう。

 他にも第五章の男性の若手料理研究家についての分析もなかなか面白いですし、料理研究家のそれぞれの姿を描いた部分は読ませます。
 女性のあり方の変遷と料理研究家の関係については、もう少しメディアなどの分析があるといいのではないかとは思いましたが、素直に読んで楽しめる本だと思います。


小林カツ代と栗原はるみ 料理研究家とその時代 (新潮新書)
阿古 真理
4106106175

筒井淳也『仕事と家族』(中公新書) 8点

 サブタイトルは「日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか」。
 「少子化」、「働き方」、「福祉制度」、「家族」という4つの問題の相互作用を意識しながら日本の陥っている問題を明らかにしようとした意欲作。こうした問題、特に「少子化」、「働き方」、「家族」の3つに関しては印象論で語られることも多いのですが、この本ではきちんとしたデータ分析と国際比較を行い、それをもとにしてこれからの日本のあり方を考えようとしています。

 つい最近、この本の分析の枠組みを提供しているG・エスピン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』を読んだばかりだったので、その分インパクトは弱かった面もあるのですが(エスピン=アンデルセンの名前は第4章ではじめて出てきますが、分析の枠組みは最初からエスピン=アンデルセンですよね)、エスピン=アンデルセンの本は日本はメインとなる分析の対象からは外れていますし(「日本語版への序文」でかなり突っ込んだ分析がしてありますが)、濱口桂一郎の『新しい労働社会』(岩波新書)などの日本的雇用の知見なども活かして、かなりしっかりとした総合的な分析になっていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 日本は今どこにいるか?
第2章 なぜ出生率は低下したのか?
第3章 女性の社会進出と「日本的な働き方」
第4章 お手本になる国はあるのか?
第5章 家族と格差のやっかいな関係
終章 社会的分断を超えて

 目次を見ればわかると思いますが、この本ではまず少子化の要因を分析し、そこから女性の働き方や家族の問題へと分析を進めていきます。
 
 少子化の要因についてはさまざまなことがあげられていますが、この本ではまず未婚化が少子化の最大の要因だとして、その未婚化の要因をさまざまなデータから探っていきます。
 単独で決定的な要因はないものの、著者の考える少子化をもたらす有力なルートは、「女性の高学歴化→経済的余裕→経済的な期待水準と現実とのギャップ→共働きできればよいが両立困難→未婚化」というもの。
 これ以外に、「経済停滞→男性の所得見込みの停滞」といったルートが絡まり合って、今の少子化をもたらしているのです。

 世界の長期的なデータを見ると女性の労働力参加率の上昇は出生率の低下をもたらしています。しかし、「共働き戦略」が社会の中でうまく機能したスウェーデンやアメリカは、この出生率の低下をうまく中和することが出来ました。一方、「男性稼ぎ手モデル」が中心であった日本やドイツ、イタリアなどでは、「共働き戦略」が両立困難なために少子化が進んだのです。

 では、日本において「共働き戦略」はなぜ困難なのか?
 その答えが、日本の男性社員が行っている無限定な働き方です。日本の会社員は、決まった職種に採用されるわけではなく、入社すればまさに無限定に様々な仕事をこなしていきます。そして、無限定の中には仕事の内容だけではなく、勤務地、勤務時間なども含まれます。
 1985年の男女雇用機会均等法以降、女性に対する就職時の差別は解消されてきたはずですが、実際は「専業主婦というサポート」がなければ維持できないような働き方を女性にも押し付けることで、一部の「スーパーウーマン」以外の女性を会社の正社員というメンバーから排除してきたとも言えます。

 結局、日本において増えたのは女性のパート労働でした。
 配偶者控除制度の「103万円の壁」と、第3号被保険者制度の「130万円の壁」の存在などもあって、女性パートの待遇は一般的に低く抑えられており、パート勤めでは「共働き戦略」というほどの展望性を持ちえません。しかし、正社員になれば無限定な働き方が要請される日本では、子どもを抱えた女性はパートを選ぶしかない場合が多いのです。

 では、この問題に答えはあるのか?
 第4章で、著者はエスピン=アンデルセンのモデルに依拠しながら、自由主義路線のアメリカ、社会民主主義路線のスウェーデン、保守主義路線のドイツを紹介しながら分析を進めていきます。
 少子化を抑えることに成功しているのはアメリカとスウェーデンですが、それぞれまったく違うタイプの国ですし、一長一短があります。けれども、男女双方の労働力参加率を上げようとしている面は共通しており(ドイツは定年年齢を早めるなど、失業率を下げるためにむしろ労働力参加率を下げる取り組みをしていた)、著者は日本においても労働力参加率を上げていくことが1つのポイントだと見ています。

 さらに第5章では家族そのものの機能やその行方について、社会学者らしい考察を行っています。
 いつまでたっても解消されない日本の男女の家事分担率について、家事への希望水準の問題などからうまく説明しています。

 このように現在の日本の直面している問題を非常に鮮やかに分析、説明している本です。今の日本では、「雇用」「福祉」「家族」といったものが密接に絡まりあって、「少子化」「格差」「ワークライフバランス」などの問題を生み出しているわけですが、それを解きほぐすための最初の1冊としてお薦めできる本です。

 また、「終章」に書かれた次の言葉もまさにその通りだと思います。

 筆者は、「働くこと」と「家族」についての人々の認識に違和感を覚えることがよくある。それは、人々がしばしば、「働いてお金を稼ぐこと」を利己的な行為として認識しているの対して、「家族のために奉仕すること」をどちらかといえば利他的な行為として理解することがある、ということだ。私の感覚では、これはむしろ逆だ。お金を稼ぐことは二重の意味で利他的である。一つには、経済取引は原則、双方がその取引をすることによって厚生を増す場合にのみ成立し、そうでない取引は法的に規制される、ということ。もう一つは、有償労働は税と社会保険料の負担を通じて世帯を超えた支え合いを実現する、ということだ。(204p)

仕事と家族 - 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか (中公新書)
筒井 淳也
4121023226
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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