山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年07月

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書) 8点

 「なぜ文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか?」、これはこの本の帯に書かれている問いであり、昔からとり上げ続けられてきた問いです。
 ヴァイマル共和国という非常に民主的な体制からナチの独裁へ。この大きな変化の要因として、ヒトラーのカリスマ性、ナチの巧みなメディア戦略、ナチ政権の経済政策などがあげられてきましたが、そうした中で、ある意味でヒトラーやナチの「神格化」が行われてしまったというのも事実でしょう。
 去年、出版された高田博行『ヒトラー演説』(中公新書)では、主にヒトラーの演説のカリスマ性やナチのメディア戦略の「脱神話化」が行われていましたが、この本では、当時のドイツ社会を分析することによってヒトラーの「独裁体制」やナチ政権の政策の「脱神話化」を行っています。
 さらに、これに加えてこの本は「なぜ反ユダヤ主義がホロコーストまで行き着いたのか?」という問いに答えており、ヒトラーとナチ政権への疑問に対して包括的に答えようとした本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第一章 ヒトラーの登場
若きヒトラー/政治家への転機/ナチ党の発足まで/党権力の掌握/クーデターへ
第二章 ナチ党の台頭
カリスマ・ヒトラーの原型/「ヒトラー裁判」と『我が闘争』/ヒトラーはどのようにナチ党を再建したのか/ヒトラー、ドイツ政治の表舞台へ
第三章 ヒトラー政権の成立
ヒトラー政権の誕生/大統領内閣/議会制民主主義の崩壊
第四章 ナチ体制の確立
二つの演説/合法的に独裁権力を手に入れる/授権法の成立/民意の転換/体制の危機
第五章 ナチ体制下の内政と外交
ヒトラー政府とナチ党の変容/雇用の安定をめざす/国民を統合する/大国ドイツへの道
第六章 レイシズムとユダヤ人迫害
ホロコーストの根底にあったもの/ヒトラー政権下でユダヤ人政策はいかに行われていったか
第七章 ホロコーストと絶滅戦争
親衛隊とナチ優生社会/第二次世界大戦とホロコースト/絶滅収容所の建設/ヒトラーとホロコースト

 目次を見ればわかるように、ヒトラーの登場からホロコーストまで幅広く論じていますが、ここではいくつかのポイントに絞って紹介したいと思います。

 まず、ヒトラーといえばクーデターなどではなく、ある程度民主的なやり方で政権を獲得したのですが、第三章ではその「からくり」が解き明かされています。
 ナチ党は1932年の国会選挙で第一党になったものの、得票率は37.3%で、ヒトラーが首相に任命される前の33年の国会選挙では得票率を33.1%に落としています。つまり、ナチ党を支持した国民は1/3ほどなのです。
 しかし、ヒトラー以前の内閣も実は国民の支持を得た内閣ではありませんでした。ヒトラーに先立つブリューニング、パーペン、シュライヒャーといった内閣は、いずれもヒンデンブルク大統領が任命した、国会に基盤らしい基盤を持たない内閣で、大統領の緊急令に依拠しながら政権を運営していました。ヒトラー登場前に、、ドイツの民主主義はすでに崩れかけていたのです。
 ヒンデンブルクらの保守派は、もともと議会制民主主義に否定的で、その破壊をヒトラーに期待し、それが終われば再び自分たちが政権を握る気でいました。ところが、逆にヒトラーに利用されることになるのです。

 次にナチ政権の経済政策の「からくり」について。
 失業問題の解決はヒトラーの「功績」としてよくあげられるものですが、この本の第五章を読むとその「功績」を手放しで認められないことがわかると思います。
 景気対策はパーペン、シュライヒャー内閣の時から行われていましたし、失業者の現象にも「からくり」があります。ヒトラーは若者の勤労奉仕を導入し、さらに徴兵制を復活させます。これによって若い男性は労働市場から退出し、失業者ではなくなりました。また、女子就労者を家庭に戻すために、「結婚奨励貸付金制度」をもうけました。これは結婚を機に家庭に戻り、二度と就労しないという条件で上限1000マルクを貸し付ける制度で、出産すれば子どもの数に応じて返済が免除されました。これによって女性を労働市場から退出させ、失業者を減らしたのです(210ー214p)。

 他にも第五章では、ヒトラーの「独裁」についても、むしろ「多頭支配(ポリクラシー)」であると分析してます。
 ナチ党に一元的な意思決定機関は存在せず、ゲーリングやゲッペルス、ヒムラー、フリックといったサブリーダーがいくつもの組織を指導し、それぞれヒトラーに評価されることを競っていました。そしてヒトラーにも見通せないような「ジャングルのような権力関係」(202p)が出来上がっていくのです。

 第六章と第七章では、ヨーロッパに広く見られた「反ユダヤ主義」がなぜホロコーストにまで行き着いてしまったのか、ということが分析されています。
 ナチのユダヤ人政策の背景にあったものは、「極端なレイシズム」と「優生学」と(人種的な)「反ユダヤ主義」の3つで、これが絡まってその政策がエスカレートしていくことになります。
 当初、ナチはユダヤ人のドイツから「追放」を政策としていました。ユダヤ人は公職から追われ、その資産や家屋を没収されていくのですが、同時にドイツ人の中にはユダヤ人のついていたポストにありつき、ユダヤ人の住んでいた家を手に入れるものもいました。「追放」政策は、ドイツ人にも利益をもたらすものだったのです(291ー293p)。

 ところが、強制収容所での処刑となるとそういった利益だけでは説明できません。
 ユダヤ人の「追放」政策が行き詰まったのは、第2次世界大戦が始まり、ドイツが東ヨーロッパに占領地域を広げてからでした。新たな占領地域には、ドイツ本国以上のユダヤ人が暮らしており、「追放」しようにもその行き先はありませんでした。一方、ヒトラーはポーランドやバルト諸国などのドイツ人の帰還を進めようとしたため、そのための土地を確保する必要もあり、ますますユダヤ人の行き場はなくなっていったのです。
 結局、ドイツ本国で優生思想のもとに行われていた障害者や遺伝病患者などへの「安楽死政策」がユダヤ人に対しても採用されることになり、アウシュビッツをはじめとする「絶滅収容所」が建設されていくのです。

 ヒトラーの「妄想」とも言っていい反ユダヤ主義(ドイツの対米開戦についても「反ユダヤ主義」が背景にあることが指摘されている(323ー326p))と、官僚機構のつじつまを合わせるための愚かな決定の積み重ねが、ホロコーストにまで行き着いてしまったわけで、改めてその怖さを感じます。

 このようにこの本はかなり盛りだくさんの内容になっていて、ヒトラーやナチ政権を知る上で基本図書となるものだと思います。

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)
石田 勇治
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小熊英二『生きて帰ってきた男』(岩波新書) 8点

 社会学者の小熊英二が自分の父親・小熊謙二のライフヒストリーをまとめた本。
 小熊謙二は1925年に生まれ、終戦間際に徴兵されて満州に渡り、そのままシベリアに抑留され、帰ってきて職を転々とし、老後は社会運動にも関わったりしたという人物で、最後の社会運動の部分を除けば、特になにか特別なことをした人物ではありません。いわゆる、「庶民」と言ってもいい存在です。
 本を読む前は、「たんなる著名人の親語りの本だったら嫌だな」などと思っていたのですが、これは面白い本。シベリア抑留だけでなく、戦前・戦中の雰囲気、高度成長期の庶民の労働事情といったものが、小熊謙二の自己を客観的に見つめる語りと小熊英二の知識のもとで上手く整理され、見事に浮かび上がっています。
 読み物としても面白いですし、昭和という時代を考える材料としても面白いと思います。

 まず、前半の読みどころは都市の下層商業者の暮らしぶりやネットワークといったものが詳細に語られている点。
 謙二の父・小熊雄次は新潟県出身ながらその後北海道に渡り、書店や代書業を営み、地域の産業組合の有力者になった人物。雄次は北海道の佐呂間で、旅館を営む岡山生まれの片山伊七という人物の娘と再婚し、その間に生まれたのが謙二です。
 その後、片山伊七は何らかの失敗から東京に出て零細小売店を営むことになり、雄次の子どもたちも教育を受けるために北海道から東京へと送り出されることになります。

 伊七は高円寺で菓子屋、中野で天ぷら屋などを営みますが、1930年代前半の杉並・中野といった場所は、都心に通う月給取りと地方から出てきた零細な小売業者が混在していた地域で、その生活の違いなどもうまく描かれています。
 こうした生活に戦争の影響が及びだしたのは、謙二の回想によると日中戦争の始まった1937年の暮れ頃からになります。街からタクシーが消え、伊七が営む天ぷら屋も燃料のガソリンが使えなくなり、大きな打撃を受けることになります。そして1940年の半ばには品物が入らなくなり天ぷら屋も廃業。まともに営業していたのはタワシや箒を売っていた荒物屋くらいだったそうです。

 早稲田実業に進んでいた謙二は戦争中の労働力確保のために1年3ヶ月繰り上げで1942年12月に卒業。軍需企業の富士通信機製造に就職します。
 そして、1944年11月、19歳になったばかりの謙二は徴兵され、満州に送られることになります。謙二の父の雄次が本籍地を新潟から移していなかったために、周囲の東京出身者が東京近辺の部隊に配置される中、謙二は新潟や東北出身の新兵とともに満州に送られることになったのです。

 しかし、南方に精鋭を引きぬかれた関東軍は「骨組み」だけのような存在で、航空通信隊に配属された謙二には満足な武器は与えられず、射撃訓練すらすることなく終戦を迎えています。この軍隊経験について謙二は次のように述べています。
 軍隊は「お役所」なんだ。上から部隊を編成しろ、ここに駐屯していろと命令されたら、書類上はその通りにはするが、命令されなかったら何もやらない。(73p)

 ほぼ何もせずに終戦を迎えた謙二でしたが、その後にはシベリア抑留という過酷な現実が待っていました。
 ただ、ここで一度体調を崩して原隊から離れたことが幸いしたと謙二は述べています。初年兵だった謙二は捕虜収容所でもこき使われる可能性が高く、体力も弱かった自分は死ぬ可能性が高かったというのです。
 謙二は落伍者や「根こそぎ動員」で集められた者たちとともにシベリアのチタの収容所へと送られることになります。

 収容所での生活が過酷であったことは多くの体験記などが語ることですが、この本では特に「物がなかった」ことが印象的に語られています。食料不足はもちろんですし、数少ない所持品の縫い針や飯盒は「宝物」と言っていいものでした。しかも、風呂に連れていかれている間に荷物がソ連兵に荒らされたこともあったようで(122p)、当時のソ連にも物がなったことがうかがえます。
 
 1946年になると、収容所の待遇はずいぶんと良くなってくるのですが、代わって捕虜たちを苦しめたのが共産主義思想にもとづく「民主運動」でした。
 この「民主運動」における「吊し上げ」の陰惨さなどは、栗原俊雄『シベリア抑留』(岩波新書)てもとり上げられていたもので知っている人も多いかとは思いますが、小熊英二が当時のソ連の状況や他の収容所の事例などを適宜紹介しながらまとめているので、謙二の冷静な観察眼と相まって、「民主運動」の実態を浮かび上がらせることに成功していると思います。

 1948年の夏に謙二はようやく新潟に戻っていた父の雄次のもとに帰ります。しかし、戦後のインフレで資産を失っていた雄次の生活は厳しいもので、謙二はその生活を支えるために職を転々とします。
 現場監督からハム会社の事務、東京まで貨物列車で豚を運ぶ仕事など様々な仕事をするのですがいずれも長続きはせず、しかも1951年、25歳の時に謙二は肺結核と診断されてしまいます。
 結局、謙二は1956年までの5年間を結核の療養所で過ごすことになり、彼の20代はシベリア抑留と結核療養所でほぼ消えることになります。また、謙二が入所したのは抗生物質が出まわる少し前で、そのため彼は肺を潰す手術を受け、体力が大きく低下することになりました。シベリア抑留よりもこの時期が「一番つらい時期」と謙二は述べています(223p)。

 将来のあてもなく、結核療養所を退所して妹のいる東京へと出てきた謙二は、たまたま「立川ストア」という時代の波に乗った企業にスポーツ用品担当の営業職として雇われます。この本を読んでいると、謙二の関わる会社は本当によく潰れるのですが、戦後から高度成長期の前半くらいまでは、零細企業は生まれては潰れるを繰り返していたのでしょう。
 そんな中、立川ストアは経済成長の中でスポーツやレジャーが伸びていく中で成長し、ようやく謙二の生活も安定していくことになります。
 学校相手の営業、謙二の住む住宅の変化などここでも当時の時代の様子がいろいろとうかがえます。

 最終的に謙二は独立して「立川スポーツ」という会社を営むことになるのですが、その後、昭和の終わり頃になり仕事もセーブするようになると、謙二は社会運動に関わることになります。
 学生運動などの政治運動にはまったく関わってこなかった謙二でしたが、60代になると地域の運動や「不戦兵士の会」などの運動に参加するようになり、さらにシベリアに抑留された元日本軍兵士の朝鮮系の中国人が起こした訴訟の共同原告になり、法廷で意見の陳述まで行っています。
 この話に乗った謙二の考えからは、日本の戦後問題の処理の不十分さ「正義」の欠落といったものが見えてきますし、またこの訴訟を支援したのがアジア主義の流れをくむ保守主義者であったという点や、中国での活動が1992年の天皇訪中前後には中国政府によって抑圧されていたという話も興味深いです。

 このように一人の人間の人生を通じて戦前から戦後の社会の姿が見えてくるのがこの本の面白いところ。特にこの本の主人公の謙二は、ある意味で「時代の波に乗れなかった人間」なのですが、だからこそ見えてくる社会の姿というものがあります。また、人間の「運・不運」というものも考えさせられます。
 ただ、唯一書けていないと感じるのは息子の小熊英二との関係。後半生における社会運動への傾斜は息子の影響もあるのでは?と思うのですが、そこは書いていない、というかこの書き手では書けない部分になるのでしょうね。


生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)
小熊 英二
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波田野節子『李光洙』(中公新書) 7点

 副題は「韓国近代文学の祖と「親日」の烙印」。韓国の近代文学の祖とも言われる李光洙(イ・グァンス)の評伝になります。
 カバー見返しの本の紹介には「李光洙は韓国の夏目漱石である」とあり、「あとがき」には「韓国の大学の国文科で書かれた博士論文と修士論文のなかでは、李光洙に関するものがもっとも多い」(227p)とあります。
 それほどの存在でありながら、彼は戦時下における日本への協力から「親日」と批判され、その後の朝鮮戦争の際に北朝鮮に連れ去られ、その最期は確実にはわかっていません。
 そんな李光洙の人生を辿った評伝がこの本。コンパクトなつくりではありますが、その人生の波瀾万丈な展開と悲劇性は強い印象を残します。

 李光洙は1892年に以前は高位官職も排出した家柄に生まれました。しかし、李光洙の祖父の代から家は没落、しかも李光洙が10歳のときに父母がこれらで病死し、李光洙は親戚の家を転々とする生活を送ります。
 孤児となった李光洙は東学党の乱でその名が知られる東学に出会い、教育を受けるチャンスを得ます。東学党の乱のときは「排日」を掲げていた東学でしたが、その後、文明開化の必要性を訴えるようになり、日本に留学生を送り込む活動もしていたのです。この東学の留学生として李光洙は13歳のときに日本に渡ることになります。

 李光洙は東海義塾という語学学校を経て大成中学へと入学、その後1907年に明治学院に編入します。ここで木下尚江やトルストイ、バイロンといった文学に触れ、日本語と朝鮮語で創作活動を始めます。
 18歳で明治学院を卒業し帰国。朝鮮半島北部の平安道の私立学校の教師となり、自分よりも年上の生徒たちを教えることになります。しかし、田舎での教師生活は李光洙にとっては物足りないもので、結婚した妻にも情はわきませんでした(当時の朝鮮には早婚の風習があり、李光洙も中学校時代に結婚している)。
 さらに1910年の韓国併合によって祖国は消滅。学校での立場も悪くなった李光洙は大陸放浪の度へと出ます。様々な偶然もあって李光洙は上海、ウラジオストック、シベリアの各地などを転々とし、アメリカ留学などを試みますが、結局は再び日本へと留学し、早稲田大学に入学することになります。李光洙にとって二度目の日本留学ですが、この時点で韓国は日本に併合されており、外国への留学ではなく内地への留学でした。

 この早稲田大学在学時に李光洙はさまざまな論説を発表して注目を浴び、1917年に代表作である『無情』の連載を始め名声を得ますが、このころ結核にかかり、裕福な家のうまれで東京に留学していた女学生・許英粛(ホ・ヨンスク)の献身的な介護によって何とか一命をとりとめます。
 李光洙はそれまでの妻と離婚し、許英粛と北京へと駆け落ち。しかし、第一次世界大戦が終わり民族運動が盛り上がると朝鮮へと帰国。日本を激しく批判する「二・八独立宣言」を起草すると上海へ亡命。しかし、その後、李光洙は朝鮮での合法的な活動を目指して帰国することになります。このとき、李光洙は28歳でした。

 ここまで見ても李光洙の人生の波瀾万丈ぶりはわかると思います。
 冒頭に「李光洙は韓国の夏目漱石である」との言葉を紹介しましたが、確かに李光洙と夏目漱石(あるいは森鴎外など)の間には、「外からの近代化」によって引き裂かれる自己という共通のテーマがあります。
 夏目漱石にしろ森鴎外にしろ、西洋の進んだ文明を受け入れなければ国が滅んでしまうという危機感の中で、その西洋文明にも違和感を持ち続けた作家でした。
 
 しかし、李光洙の場合、「国が滅んでしまう危機感」を超えて実際に国が滅んでしまいます。
 李光洙は最初の日本留学時に、木村鷹太郎『バイロン文学之大魔王』というバイロンの思想を弱肉強食的な帝国主義な考え方に重ねた本に熱中し、そこから朝鮮は無力であるがゆえ、欲望がなかったがゆえ植民地になってしまったという考えにたどり着きます。
 そして、無力であった親の世代を痛烈に批判し、1917年には「まず獣になり然る後に人となれ」という論考の中で、「生きよ! 生が動物の唯一の目的であるからには、この目的を達するためには道徳も是非もない」(94p)といった言葉を残しています。
 文学的には深みを感じさせない言葉かもしれませんが、力によって祖国が失われてしまった李光洙にとって、これこそがまさに「現実」だったのでしょう(ちなに本書ではこの部分をはじめ、何箇所かで魯迅との比較がなされていて興味深い)。 

 斎藤実朝鮮総督のもとで文化政治への転換が行われると、李光洙は朝鮮で旺盛な執筆活動を行い、また、民族改造のために修養同盟会(のちに修養同友会と改称)を結成し、その中心となります。
 李光洙の朝鮮民族を改造することによって、「朝鮮人は「健全な帝国主義者にもなれるし、民主主義者にもなれるし、労働主義者や資本主義者にもなれる」」(134p)と言いましたが、結局、日本の「力」によって、朝鮮人も李光洙も「皇国臣民」にさせられることになります。
 
 1937年に治安維持法違反によって同友会会員の逮捕がはじまり、李光洙も逮捕されることになりました。翌年、李光洙は「転向」の声明書を発表。「内鮮一体」を主張していくことになります。
 1940年には創氏改名を行い、香山光郎(かやまみつろう)と改名。日本語小説も盛んに発表していくようになります。
 李光洙は、「内鮮一体」という論理を逆手に取って、日本人と朝鮮人の間の差別をなくしていこうと考えたと、この本では書かれていますが、この本の中でも指摘されている通り、それは危うい論理でもありました。
 1943年、戦局が厳しくなり日本で学徒出陣が始まると、李光洙は朝鮮人学生に対して学徒兵へ志願するように呼びかけました。この時点では、朝鮮では徴兵制が行われておらず(徴兵制は翌44年から)、学生に対する徴兵猶予が停止されても、その効果は朝鮮人学生へは及ばなかったのです。

 李光洙は、朝鮮人が日本人と同じ立場に立つことを重視して力を尽くしましたが、その結果として戦後に李光洙に押されたのは「親日」の烙印でした。
 戦後、李光洙は「私は民族のために親日をしました」という言葉を残しましたが(214p)、その言葉が人々に受け入れられるかどうかは別にして、それは本人の嘘偽らざる気持ちだったのでしょう。
  
 これだけの波瀾万丈に満ちた人生をコンパクトにまとめた評伝ということもあって、李光洙の文学史上の意義や革新性といった分析はやや薄いかもしれませんが、日本と朝鮮半島の歴史を考える上で非常に読み応えのある評伝だと思います。また、李光洙をさせた二番目の妻・許英粛についても魅力的に描かれています。
 日本と韓国の歴史問題については、政府間レベルではどうしようもなくもつれてしまっており、もはや両者が納得する解決は難しい感じいなっていますが、日本に住む人間として「日本の植民地支配が、朝鮮近代文学の祖とも言うべき人物を素直に誇ることが出来ないようなねじれを生み出してしまった」といった事実については知っておくべきでしょう。そして、この本はそうしたことを教えてくれる本です。

李光洙(イ・グァンス)――韓国近代文学の祖と「親日」の烙印 (中公新書)
波田野 節子
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川田稔『昭和陸軍全史 3』(講談社現代新書) 8点

 去年の7月から刊行が始まった「昭和陸軍全史」シリーズが遂に完結。『昭和陸軍全史 1』で満州事変、『昭和陸軍全史 2』で日中戦争を扱い、この第3巻はいよいよ太平洋戦争ということになります。
 この手の本は刊行が遅れるケースが多いですが、1巻と2巻の帯には「2015年7月」と書いてあったので予定より1月早い刊行になりますね。しかも巻末には年表と総人名索引(1巻から3巻までの)がついてくる贅沢なつくりになっています。

 目次は以下のとおり。
第1章 ドイツの西方攻勢と南方武力進出の衝動
第2章 第二次近衛内閣と日独伊三国同盟の締結
第3章 田中新一参謀本部作戦部長の登場と日英米関係の展開
第4章 日ソ中立条約と日米諒解案
第5章 独ソ戦の衝撃
第6章 南部仏印進駐と対日全面禁輪
第7章 日米交渉と戦争決意
第8章 東条英機内閣の成立と国策再検討
第9章 日米開戦
終章 敗戦―昭和陸軍の消滅

 まず、第9章でようやく「日米開戦」となっているように、この本はあくまでも陸軍から見た日米開戦に至る経緯を詳述した本で、太平洋戦争での陸軍の作戦、行動についてはほとんど触れていません(インパール作戦には軽い言及がありますが)。また、終戦時の動きや、解体されたあとの陸軍などについての記述もありません。
 
 では、何が書いてあるのかというと、日米開戦時に陸軍の中枢にあって強い影響力を持った武藤章軍務局長と田中新一参謀本部作戦部長の二人の戦略と情勢判断、そしてその対立です。
 日中戦争を主導した武藤章は、太平洋戦争の直前になって「日米開戦絶対不可」の立場を取り、日米交渉にのめり込んでいくのですが、そうした武藤に反対して「主戦論」を唱えたのが田中新一になります。二人は同じ統制派で、永田鉄山の構想を受け継いでいるのですが、日米の対立が厳しくなり戦争の可能性が高まる中で二人は鋭く対立します。
 「この二人の対立の要因は何なのか?」、そして「日米開戦を避けられるポイントはあったのか?」ということがこの本では詳しく検討されています。

 太平洋戦争に関しては、泥沼化した日中戦争の延長線上として必然的に起こった戦争だと理解されることが多いですが、この本ではそのような理解をしてはいません。
 この本の最後のまとめの部分で著者は、アメリカにとって中国市場が死活的な利益ではなかったことを指摘しつつ、次のように述べています。
 さらに、日中戦争の解決が困難となり、陸軍はその状況を打開するために(英米援蒋ルートの遮断など)、南方進出を図り対英米戦へと進んでいったとの見解がある。だが、本書で示したように、対米開戦は必ずしも日中戦争の解決を主動因とするものではなく、また別の要因によるものだった。すなわち、日米両国の世界戦略におけるイギリス存続の問題が重要な要因をなしていたのである。(414p)

 もちろん、日中戦争がなければ太平洋戦争が起きる確率はかなり低かったと思うのですが、それでもこの本を読むと日中戦争から太平洋戦争の間までにいくつかのターニングポイントがあったことがわかります。

 その1つが日独伊三国同盟です。
 欧州で第2次世界対戦が勃発し、ドイツが西ヨーロッパを席巻すると、以前からアジアでのイギリスの影響力の駆逐を狙っていた武藤を中心とする陸軍は、アジアのイギリス植民地や蘭印に興味を示し始めます。このときの武藤の見立ては「英米可分」であり、イギリスのアジアにおける植民地を攻撃してもアメリカは参戦しないというものでした。
 
 この南方進出とアメリカへの「牽制」の目的でゴーサインが出されたのが日独伊三国同盟でした。この同盟は、当初、対英軍事同盟として構想されていましたが、アメリカを「牽制」したいドイツの思惑もあって、対英米軍事同盟となります。
 また、当時の外相の松岡洋右はこの三国同盟にソ連を加える四国連合によって、アメリカを「牽制」できると考えましたし、武藤や陸軍の中枢も同じように考えていました。

 ところが、この「牽制」はかえってアメリカの態度を硬化させただけでした。圧力によって引き下がる国もありますが、当時のアメリカはそうではなかったのです。さらにこの構想自体が、独ソ戦の開始によって破綻します(独ソ戦が始まるまでは、アメリカもやや妥協的な姿勢を示していた(134ー142p))。

 独ソ戦は、四国連合構想を破綻させるだけでなく、「米英ソ」という新たな連携を生み出しました。「日独伊ソ」でアメリカに圧力をかけるはずが、逆に「米英ソ」によって日本が圧力をかけられる情勢にもなってきたのです。
 ここにおいて田中新一は対ソ戦を主張します。もし、枢軸から抜けて英米と協調すれば、なるほど日中戦争は解決できるかもしれないが、ドイツが倒れれば日本は英米中ソに包囲されることになり、それならば日本も対ソ戦を始め、「米英ソ」に一角を打倒すべきだというのです。

 ただ、結局、ソ連の兵力が思ったよりも欧州戦線に回らなかったこともあって、もともと劣勢だった日本軍は対ソ戦の機会を逸します。
 一方、対ソ戦を不可とする武藤が田中や松岡外相の思惑などを考慮に入れて進めた南部仏印進駐は、アメリカの思わぬ(陸軍から見て)反発を呼び、対日石油禁輸措置が発動されます(必ずしも即時全面禁輸ではなかったがモーゲンソーやアチソンなどの意向もあって事実上の全面禁輸となった(217ー223p))。
 アメリカはイギリス存続のためにも日本のこれ以上の南進は絶対に許さない構えをとったのです。

 この対日石油禁輸措置によって、資源獲得にはつながらない対ソ戦は破棄されることになります。
 そして、日本はだんだんと国力を奪われる「ジリ貧」状態となりましました。ここにおいて田中は日米開戦は不可避であり、それならばアメリカの戦争準備が整わない早い時期に疥癬すべきだと主張します。一方、武藤は三国同盟の軍事的協力事項を空文化するならば、日米の妥協の余地はあると考えていました(258p)。
 ここに主戦派の田中と戦争回避を目指す武藤との間の激しい対立が起こるのです。

 田中は、三国同盟を捨てれば一時的にアメリカとの関係を修復できるにしても、アメリカが対独戦に参戦するのは必至であり、それによってドイツが崩壊すれば日本は孤立し、今まで得た植民地などをすべて吐き出させられる、と見ていました。著者はこの田中の戦略に石原莞爾の「世界最終戦争論」の影響を見ています。
 一方、武藤はアメリカが戦争を賭してまで満州国や日本の華北における権益を否定する可能性は低いと見ており、三国同盟からの離脱も視野に入れていました。

 ところが、結局は武藤の「対米開戦絶対不可」の考えも、アメリカからの「ハル・ノート」提示によって、「開戦やむなし」へ追い込まれます。「ハル・ノート」にある中国からの無条件撤兵に関しては、日中戦争を指導した武藤にも、首相である東条にも強い抵抗感があり、ここに交渉の道は閉ざされるのです。

 この本を読むと、当時の日本の戦略の問題点として次の2つのことが浮かび上がってきます。
 1つ目は日本の戦略の最大のパートナーであるドイツとの十分な意思疎通ができていなかったこと。2つ目はアメリカに「圧力」をかければアメリカが融和的な姿勢を示すだろうという想定です。
 三国同盟+ソ連による四国連合によって、アメリカに「圧力」をかけてアジアから手を引かせようという戦略は、独ソ戦の開始とアメリカの強硬的な姿勢の前にあえなく崩壊。結局、この戦略の失敗を取り返すことが出来ずに開戦へとなだれ込んでいくのです。
 また、大事なときに「話が違う」みたいなことでヘソを曲げる松岡や東条の行動には改めてげんなりします。

 もともと読みやすい文章を書く人ではなくこの本もやや読みにくい文章であるという欠点はありますが、日米開戦に至る経緯が、陸軍の立場からだけではなくアメリカ側の立場からも網羅的に検討されており、たんに「陸軍史」としてだけではなく「日米開戦史」としても十分に読み応えになるものになっています。
 シリーズ全体の構成としては、ノモンハン事件にも紙幅を割いても良かったのではないかと思いますが、最後まで質量ともに充実しており興味深く読むことができました。


昭和陸軍全史 3 太平洋戦争 (講談社現代新書)
川田 稔
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