山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2023年10月

近藤正規『インド―グローバル・サウスの超大国』(中公新書) 8点

 意外となかったインドについての新書、今年になってから相次いで刊行されていますが、中公新書というレーベルの力もあって本書が本命というイメージですかね。

 著者はアジア開発銀行や世界銀行で働いていたこともある経済畑の人ですが、インドの経済だけでなく内政・外交と幅広く論じています。特に外交に関しては、「日本から見たインド」だけではなく「インドからみた国際社会」という視点もきちんと入っており面白いです(オープンになっている情報だけでなく、関係者の間で言われている憶測もまじえているところも面白い)。
 
 300ページ弱の本文の中に、インドの政治と経済に関する基本的な情報と近年の動向が盛り込まれており、インドの政治、経済分野の基本を理解するには十分な1冊ではないかと思います。
 モディ政権の近年の強権ぶりに対する警戒感はやや薄い感じもありますが、本書を読むことで、インドの強味と弱味、そして何よりも「中国の次はインド!」的な理解では追いつかないインドの複雑さというものがわかってきます。

 目次は以下の通り。
第1章 多様性のインド―世界最大の民主主義国家
第2章 モディ政権下のインド経済
第3章 経済の担い手―主要財閥、注目の産業
第4章 人口大国―若い人口構成、人材の宝庫
第5章 成長の陰に―貧困と格差、環境
第6章 インドの中立外交―中国、パキスタン、ロシア、米国とのはざまで
第7章 日印関係―現状と展望

 インド人のアイデンティティは「出身地、言語、宗教、カースト」の4つで構成されるといいます。一般的な日本人同士だと、この中で話題になるのは出身地くらいでしょうから、これだけみてもインドが多様なアイデンティティを持つ人で構成されていることがわかります。

 地域ごとの差が大きいのも特徴で、北部は農業がさかんでデリー首都圏もありますが、教育レベルは低めで保守的だといいます。
 東部は西ベンガル州が中心で、1911年まで植民地インドの首都のコルカタがありましたが、1977年から34年間に渡ってインド共産党が政権を担っていたために経済発展が遅れています。
 西部は商業の中心でありモディ首相の地元のグジャラート州も西部にあります。
 南部はインドで最も教育水準が高く治安も良い地域です。南部ではトラヴィタ系の人が多数で、かつてアーリヤ人に南部へと追いやられた過去があります。インドのシリコンバレーとも呼ばれるバンガロールがあるのも南部です。

 2011年国勢調査によると、インドの宗教の比率はヒンドゥー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%です。
 カーストについては、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラという4つの階層があり、さらにその下に「ダリッド(不可触民)」、「アディヴァシ(先住民)」と呼ばれる2つの最下層が存在します。ダリッドは「指定カースト(SC)」、アディヴァシは「指定部族(ST)」と呼ばれています。さらにシュードラに相当する階層が「その他後進階層(OBC)」と位置づけられています。
 こうしたカーストの下にさらに「ジャーティ」と呼ばれる集団があり、このジャーティは職業と結びついています。

 インドは上院と下院の二院制で、下院が優位です。インドの全国政党はインド人民党(BJP)とインド国民会議派の2つで、基本的にこの2つの政党が政権を争うわけですが、各州に有力政党があり、BJPも国民会議派もどの地域政党を連携するかがポイントになります。

 BJPはRSS(民族義勇団)と呼ばれるヒンドゥー至上主義組織を支持母体とする右派政党で、都市中間層が支持母体となっています。
 現在、BJPを率いるモディ首相はグジャラート州の首相として名を挙げ、首相にまで上り詰めました。ただし、グジャラート州時代の2002年には、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の衝突で1000人以上のイスラム教徒が亡くなった暴動に際し、十分な対策をとらなかったとして米国から入国ビザの発給を止められていたこともあります。
 本書ではモディ首相の右腕ともいうべきシャー内相についても紹介されています。

 一方、国民会議派の中心にいるのがガンディー家です。ただし、このガンディーはマハトマ・ガンディーとの血縁を示しているわけではありません。ネルー首相の娘のインディラがネルーに批判的な異教徒のジャーナリストと恋愛結婚し、そのジャーナリストがヒンドゥー教徒でなかったことを心配したマハトマがインディラ夫妻に「ガンディー」の姓を与えたのが事実だといいます。
 このインディラがネルーの死後に首相になり、84年に暗殺されるまで政治の中心にいました。インディラはアメリカがパキスタンを支援したのに反発してソ連に接近し、社会主義的な政策をとるようになりました。

 その後、インディラの息子のラジブ・ガンディーが首相になり、ラジブの死後はその妻のソフィアが政界に進出するなど、ガンディー家の影響は大きいです。
 イタリア生まれのソフィアが首相になることはなく、代わりに首相を務めたのがマンモハン・シンでした。
 ラジブの息子のラフルは「パプー」(お人好しの間抜け)とのニックネームをつけられてしまったことからもわかるように、政治家としてはまだ不十分と見られています。

 インドは現在、世界第5位のGDPになりましたが、その特徴は内需主導の経済であるという点です。中国は輸出を中心とした製造業の発展によって高度成長を遂げましたが、インドの輸出依存度は低く、製造業のGDPに占める比率も15%程度と低いままです。

 社会主義的な政策をとったこともあって低迷していたインド経済ですが、1991年に始まった自由化をきっかけに成長が始まり、2010年代前半の、そしてコロナによる停滞がありましたが、基本的には高い成長率が続いています。
 名目GDPでは2025年にはドイツと日本を抜いて世界第3位になると予測されており、2075年にはアメリカを抜いて世界第2位になるとの予測もあります。
 
 モディ政権は、インフラの整備、法人税の引き下げと間接税の強化、汚職の撲滅、労働法の改正など、ビジネスがしやすい環境の構築を進めています。
 ただし、インドの著名な経済学者からは批判も多く、アマルティア・セン、アビジット・バナジーといったインド出身のノーベル経済学賞受賞者も、貧しい人々の生活の改善が進んでいないと、モディ首相の経済運営に批判的です。
 一方、家族もなく清廉潔白なイメージを維持し続けているモディ首相の国内からの人気は高く、モディ政権の経済政策を糾弾するような動きは起きていません。

 インド経済において大きな存在感を示しているのが財閥です。
 一番有名なのはタタ財閥でしょう。1839年にゾロアスター教徒のジャムシェトジー・タタによって設立され、イギリスの中国・インドとの三角貿易にも携わり、綿花やアヘンを取り扱って成長しました。その後、製鉄所をはじめとしたさまざまな事業に進出しています。
 タタ財閥は従業員に対する面倒見の良さが特徴で、日本人ビジネスマンからも「タタだけは絶対に騙されることがない」(63p)との声があります。
 タタ自動車は10万ルピー(16万円)の大衆車ナノで話題を集めましたが、これはさっぱり売れず、財閥もリーマン・ショック後には経営不振に苦しみましたが、ITや半導体などで巻き返しを狙っています。

 タタと並ぶ二大財閥のリライアンスは1977年上場と新興の財閥ですが、合成繊維やエネルギーの分野で積極的な投資を行ってのし上がりました。近年では携帯電話事業に参入し、、そのブランドのジオ・プラットフォームズは大きな成功を収めています。
 インド経営大学院の教授は「リライアンスの株を買ってタタに就職しろ」と言ったといいますが、それだけの急成長を見せています。

 ビルラ財閥も古参の財閥で、アヘン輸出で巨利を得て他の産業に参入していきました。現在の中核は化学繊維のグラシム・インダストリーズと非鉄金属のヒンダルコです。
 アダニ財閥はグジャラート州を拠点としており、モディ首相に近いのが特徴です。インフラ整備や電力事業にも参入していますが、急成長の影で財務問題を指摘する声もあります。

 インドではIT産業がさかんになっています。もともと数学や理系が強かった国であり、英語が公用語になっており、アメリカと半日の時差があることもプラスに働きました。
 インドはソフトウェアの輸出が伸びていますが、こうしたソフトは不況になると合理化のためのIT投資が行われる傾向があることから、景気の波に左右されずに伸びています。
 バンガロールを中心にさまざまなスタートアップ企業も生まれています。

 この他、医薬品やバイオなどもインドの強いところで、ワクチン製造大国でもあります。
 また、伝統的にさかんなのがダイヤの加工業です。インドは17世紀までは世界最大のダイヤ産出国でしたが、近年は南アフリカなどから輸入したものをカットしています。これに従事するのがジャイナ教徒で、虫を殺せず農業の従事できないためにダイヤ加工業に従事しています。
 自動車・自動車部品も重要な産業で、自動車に関してはスズキが1981年という早い段階で進出し、大きな成功を収めました。

 インドが経済的に注目されている理由の一つが人口です。今年、インドは中国を抜いて世界一の人口になったとも言われています。
 ただし、インドでも人口の増加にはブレーキが掛かっており、2022年の合計特殊出生率は2.0で人口置換水準をやや下回っています。
 インドの人口の3人に1人が10〜24歳の若い世代であり、一方、出生率は減少であるため、これからいわゆる「人口ボーナス」が期待できます。インドの人口ボーナス期は2040年代の前半まで続くと考えられています(その後はインドも高齢化が問題になる)。

 インドではかつては不妊手術などの強引な人口抑制策がとられましたが、女性の教育水準が高いケララ州ではいち早く出生率が下がるなど、女性の高学歴化などを要因に、南インドで出生率の低下が進みました。
 一方、北部や東部では出生率が高く、また、イスラム教徒の出生率がヒンドゥー教徒に比べて高いことが政治問題化しています。

 インドは理系の高度人材を数多く排出していることで知られていますが、一方で大学の卒業生、特に文系の場合は就職難が待ち構えているという問題もあります。また、インドの国公立大学は教員の給与水準が低く、それゆえに優秀な教員を引き止められずに大学ランクでも低迷している現状があります。

 インド人は海外にも進出しており、最近ではIT企業のCEOになるインド人が目立っています。
 一方、そうしたエリートだけではなく中東へ渡る出稼ぎ労働者も数多くいます。世界的に見ると女性の出稼ぎ労働者が多いですが、男性が圧倒的に多いのがインドの特徴です。

 経済成長がつづくインドですが、さまざまな格差の問題が大きく残っています。
 例えば、保健分野における政府の取組は遅れていて、インドの公的医療機関は無料で受診できるもの、供給が大幅に不足しているために、国民の多くはお金を払って民間の医療機関を受診しています。
 コロナ禍で医療崩壊が起き、さらにはロックダウンによってインフォーマルセクターの人々が収入を失うなど、大きな混乱が起きました。

 インドでは貧富の差も大きく、上位1%への資産の集中度は3割を超え、日本や中国を上回り、アメリカに迫っています。一方、上位10%への集中度を見ると、インドは中国を下回ります。財閥のオーナーなどの一部の超富裕層に富が集中しているものと思われます(145p表5−2参照)。
 
 インドには1億8000万ヘクタールの農地があり、これはアメリカに次ぐ規模となっています。「緑の革命」によってコメや小麦の生産性は向上しましたが、それでも、全体的な生産性は低く、緑の革命が定着したパンジャブ州やハリヤナ州とそれ以外の地域の差もあるといいます。 
 インドでは国内供給を優先すために、しばしば穀物輸出の禁止を行う傾向があり、これもインドの農家の所得の伸びを抑えているといいます。

 インドでは男女の格差も大きく、新婦側から新郎側へと金品を贈る「ダウリー制度」の習慣もあって、女児の妊娠がわかると中絶することも多いです。また、女性への性犯罪も深刻です。
 女性の社会進出も遅れており、労働参加もあまり進んでいません。

 カーストによる差別も問題ですが、前述の指定カースト(SC)と指定部族(ST)では置かれている状況が少し違うといいます。
 STは村全体の住人がSTということも多く差別に気づきにくい(都市に出てくると差別されたりする)ですが、SCは上位カーストと同じ村などで暮らしているために、差別を実感しやすくなっています。
 インドでは下位カーストのための留保制度というものがあり、議員、公務員、高等教育の入学枠が設定されています。これもあって、SCやSTでは親の教育水準を子どもが上回ることが多くなっていますが、こうした制度に対する上位カーストの反発もあります。
 また、イスラム教徒はダリットから改宗した人が多いこともあって、貧しい人が多く、しかも教育水準の改善も進んでいません。
 なお、カースト問題はセンシティブであり「カーストについて安易に聞くことは控えたほうが無難」(161p)とのことです。

 外交面では、インドは非同盟中立の立場を取っており、最近の「グローバル・サウス」のリーダーとしての振る舞いもその流れになります。
 著者は、このインドにとって対中外交がもっとも大きな問題だと指摘してます。
 もともと、非同盟中立の立場は中国と重なるものであり、初代首相のネルーは周恩来との親交を深め、ともの第三世界のリーダーになることを目指しました。
 ところが、この中国との協調は1962年10月に中国軍が侵攻し、ラダックの東側のアクサイチンの領土を奪ったことで終わります。

 その後、中国との関係改善が進みますが、2020年6月のラダックのガルワン渓谷での印中両軍のの衝突は、かつての軍事衝突を思い起こさせるものでした。22年にはブータン近くのアルナチャル・プラデシュ州のタワンでも衝突が起きていますが、ここはチベット仏教徒の聖地でもあり、中国が併合を狙っている場所だともいいます。
 
 2020年6月の衝突後、インドではTiktokをはじめとする中国製アプリの禁止、高速道路事業や通信事業に対する中国企業の投資や入札の停止といったことも行われています。中国のEVメーカーのインド進出も凍結されています。
 一方で、中国はインドの最大の貿易相手国でもあり、工業製品を中心に中国依存というべき状況にもなっています。
 中国は、ブータン、ネパール、バングラデシュ、スリランカといったインドの周辺国でも影響力を高めており、インドにとっては大きな問題となっています。
 
 ここでインドが頼りにするのがロシアです。国際的には中ロの接近が言われていますが、インドはロシアを「特別で特権的な戦略パートナー」と位置づけています。
 1962年の印中紛争やアメリカのパキスタン寄りの政策はインドをソ連に接近させましたが、その後も友好関係は続いており、インドはロシア製の武器を数多く購入しています。ロシアはインドに「印中間で戦争があったら中立を保つ」(204p)と伝えており、中国との戦争になった時に頼りになるのはロシア(とイスラエル)だけだとも言われています。

 印中の対立はアメリカとインドの関係を接近させることにもなり、クアッドなどの枠組みがつくられていますが、例えば、インドがアメリカ陣営に入ってロシアを敵に回した場合、インドは最悪のケースとして、中国、ロシア、パキスタンを同時に敵に回すことにもなりかねません。
 かつてブリンケン国務長官が非公式に「印中間に万が一のことがあっても米国は助けに来ない」(211p)と述べたという報道もあり、インドとしてみると完全にアメリカと共同歩調をとるわけにもいかないのです。

 また、インドの最大の敵国はパキスタンで、パキスタンを牽制するためにインドはアフガニスタンへの援助に力を入れていましたが、この援助はアメリカ軍の撤退によって水泡に帰しました。
 アメリカは対テロ作戦を進める上でもパキスタンの協力が必要であり、この面でもアメリカは信頼しきれないパートナーなのです。

 最後に本書は日印関係にも触れています。
 ここで興味深いのは貿易に関しては伸び悩んでいるものの、日本の対印直接投資が非常に堅調なことです。これはインドが有望な市場だからでもありますし、対中リスクの見直しの中でインドが注目されているという面もあるでしょう。
 また、政治面では、やはり安倍元首相の死去は大きいと著者はみています。モディ首相との個人的な関係を軸にインドの関係を大きく進めたのは安倍元首相であり、インドとの大きなパイプが失われてしまったのは事実です。

 このように本書はインドの政治と経済を総合的に論じた本になります。ここでは紹介できなかったさまざまなトピックもあり、この1冊を読めば、インドについての知識がかなり深まるでしょう。
 最初に書いたように、ややモディ政権への見方が甘く感じる部分もありますが、現在のインドが抱える問題点も指摘しており、多面的にインドを分析することが出来ていると思います。


間永次郎『ガンディーの真実』(ちくま新書) 9点

 今までのガンディーのイメージを書き換える非常に刺激的な本です。ガンディーの生涯について書かれていますが、以下の目次を見ると、この本が普通の評伝ではないこともわかると思います。

はじめに――非暴力思想とは何か
第1章 集団的不服従――日常実践の意義
第2章 食の真実――味覚の脱植民地化
第3章 衣服の真実――本当の美しさを求めて
第4章 性の真実――カリスマ性の根源
第5章 宗教の真実――善意が悪になる時
第6章 家族の真実――偉大なる魂と病める魂
終章 真実と非暴力

 第1章の「集団的不服従」はわかりますし、第3章の「衣服の真実」もガンディーがイギリス製品のボイコットを呼びかけ、チャルカーと呼ばれる糸車が運動の象徴になったことを考えれば理解できます。
 一方、「食の真実」、「性の真実」と言われても、それはガンディーにとって重要なことだったのか? と疑問に思う人も多いと思います。

 ところが、ガンディーの食や性を見ることで、ガンディーのとてつもない意思の強さが見えてきますし、同時に本書を読み終える頃には、その意志の強さが見えなくさせたものもわかってきます。
 ガンディーの偉大さを十分に認めながら、偉大さ故にこぼれ落ちてしまったものも拾い上げる、本書はそんな刺激的な内容になっています。

 まず、本書はガンディーの「非暴力」についてとり上げています。
 1930年の「塩の行進」において、工場に入ろうとした2500人の男性が警官に棍棒で次々と殴られるという出来事がありました。リチャード・アッテンボロー監督の映画『ガンジー』でもインパクトがあった記憶がありますが、実際にこれを見たジャーナリストのウェッブ・ミラーも見たことがない強烈さがあったと述べています。

 ガンディーは自らの非暴力を説明する中で「もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、私は疑いなく暴力を選ぶように助言するでしょう」(17p)と書いています。
 ガンディーは、「非暴力」について、「勇者の武器」(17p)だとも言っています。ここから塩の行進における異常なまでの迫力が生まれているのです。

 ガンディーの非暴力思想を理解する上での鍵が「サッティヤーグラハ」という言葉です。これは「真実にしがみつく」といった意味で、これがガンディーの生涯を貫くキーワードだとして、著者は次のように述べています。

 ガンディーの生涯をめぐる一貫した問いとは、人間はどこまで真実を直視し、それに忠実に従うことができるのか、換言すれば、どこまで人間は真実にしがみついていられるものなのか、ということだった。そして、ガンディーの生涯は、その「極限」を模索するものだったと言える。(24p)

 ガンディーは1869年にインド西部グジャラート州のポールバンダルという藩王国に生まれています。父は藩王国の宰相であり、モード・ヴァーニャーというカーストで、大きいカーストでは3番目のヴァイシャになりますが、グジャラート地方の有力カーストだったそうです。
 ガンディーは英語での教育を受け、18歳でイギリスに渡り、そこで弁護士資格を取得します。21歳でインドに戻り弁護士として働こうとしますが、うまくいかずに、1893年に南アフリカに渡りました。

 ここでガンディーは決定的な体験をします。
 一等車の切符を持っていたにも関わらず三等車に移ることを命じられ、拒否すると強制的に列車から降ろされました。乗合馬車に乗ると、白人から有色人種のくせに態度が悪いと、馬車から引きずり降ろされそうになります。さらにホテルでも有色人種であることを理由に宿泊を拒否され、やっと確保できたホテルでも自室で食事をとるように言われたといいます。
 ガンディーはこの経験を周囲のインド人に伝えましたが、彼らにとって人種差別は当たり前でした。
 このときガンディーは、人種差別が当然のように受け入れられている社会の構造自体を変えなければならないと決意します。

 この後、ガンディーは南アフリカで1906〜14年にかけて不服従運動を展開し、さらにインドに帰国し、1919〜22年(第一次独立運動)、1930〜34年(第二次独立運動)、1942〜44年(第三次独立運動)と4度に渡って不服従運動を行います。
 ただし、著者に言わせれば、例えば南アフリカの不服従運動についても常に運動が行われていたわけではなく断続的に行われており、ガンディーの生涯を見ると、必ずしも運動に従事している期間は長くないといいます。
 
 では、ガンディーは他に何をしていたのでしょうか? ここで本書が提示する答えが「真実の追求」ということになります。

 まずは「食の真実」です。
 「暴力」という言葉は、必ずしも直接的に暴力を振るわない場面でも使われます。菜食主義者の中には自分たちが肉を食べることが一種の暴力であると考える人がいますが、ガンディーも同じように考えています。
 しかし、ガンディーは菜食主義者になれば暴力と決別できるとは考えていません。菜食主義者であっても植物を殺しているからです。
 さらに食は暴力と快楽が表裏一体になっているとも言えます。「美味しい」という幸福の裏には奪われている命があるわけです。

 インドではもともと菜食主義が広まっていましたが、ガンディーが菜食主義の意義について目覚めたのはイギリスに渡ってからでした。
 ガンディーはロンドンで菜食主義を維持するために菜食主義レストランを探しましたが、見つけたレストランがロンドン菜食主義協会の事務所に隣接しており、そこでガンディーはイギリス人の菜食主義者たちと交流を持つことになります。
 ただし、このころのガンディーが菜食主義にこだわったのは、菜食主義が非暴力的であるからではなく、菜食主義が健康的であり、肉体も強化すると考えていたからです。

 こうしたスタンスは南アフリカで差別を経験してから変化していきます。
 ガンディーは南アフリカでインド人が砂糖、紅茶、コーヒーのプランテーションで働いていることに注目しました。さらにアフリカ人がカカオ豆のプランテーションで悲惨な扱いを受けていることも知りました。
 これらの作物はどれも人間の生存のために必要不可欠なものではありません。ここにガンディーは「自然本来の味覚」の疎外という問題を見出し、こうしたもののために人々が過酷な労働を強いられていることに「近代の病」を見ました。
 ガンディーは非暴力的な食を目ざし、果実食へとたどり着きます。ガンディーは南アフリカではミルクさえも断念していました。

 この食へのこだわりが「塩の行進」へと結びつきます。塩は人間の生存に必要不可欠であり、何も傷つけておらず、誰にでも入手可能です。
 しかし、イギリスが1882年に制定した「インド塩税法」は、この塩へのアクセスを阻害するものでした。ここにガンディーは植民地支配のおける大きな悪を見出します。
 ガンディーが塩の行進を始めようとしたとき、イギリス政府もインドの国民会議のメンバーもその意義を理解できませんでしたが、この塩の行進は巨大な運動へと発展します。

 そして、ガンディーが晩年にたどり着いたレシピは健康面でもよく考えられてるものでした。「食の真実」の探求は、政治的なものだけではなく、科学的なものでもあったことがわかります。

 つづいて「衣服の真実」です。
 ガンディーといえば白い布だけをまとった姿が有名ですが、若い頃はファッションに敏感な青年であり、留学で初めてイギリスに到着した際には、真っ白なフランネルスーツを着ていましたが、イギリスでは誰もそのような服を着ていないことを知り恥じたといいます。
 その後、本書の105〜106pに載っている8枚の写真を見ればわかるように、ガンディーの服装は変わっていきます。

 詳しくは本書を見てほしいのですが、伝統的な衣装を着ていた少年がスーツを着るようになり、南アフリカ時代には労働者っぽい服装になり、インドに戻ってからは伝統的な衣装→独自の衣装と変わっていきます。
 
 ガンディーは体を締め付ける西洋の服装は健康の面からも問題だと考えるようになり、「裸体」を理想としてシンプルな服装を追求していきます。
 また、ガンディーは「国産」にこだわりました。インドの綿織物業が産業革命を経たイギリス製品によって壊滅させられたことを踏まえ、「国産」であることを重視したのです。
 この「国産」については、ガンディー以前から「スワデーシー(国産品愛用)」運動が起こっていましたが、ガンディーは「国産」だけでなく、「手紡ぎ・手織り」にもこだわっていました。
 たとえ、イギリスへの富の流出を防いだとしても、衣服の工業化は格差を生み、イギリスと同じ様な文明の病に陥ると考えたからです。
 ガンディーはチャルカーという簡素な手紡ぎ機を見出し、これを独立運動のシンボルとしていったのです。

 晩年のガンディーの白い衣服やガンディー帽と呼ばれる帽子は、インドに以前からあったものではありません。
 ガンディーは伝統的なものを参考にしながら、最良のものを探し続けました。ガンディー帽については、カシミール地方のカシミール帽のデザインを参考にして作られています。

 つづいて「性の真実」です。実はガンディーにとって性と暴力は切っても切れない関係で、レイプなどはもちろん、同意のある性行為や自慰行為さえも「暴力的」であると論じていました。
 一方、ガンディーの性に対するスタンスは、宗教によく見られる戒律的な禁欲主義とも少し違っています。
 
 ガンディーの性に対するスタンスには、若い頃のトラウマ的な経験が影響しているとも言われています。
 ガンディーは13歳の時に、14歳の少女であるカストゥールと結婚しています。これはインド社会の伝統でもありますが、その後イギリスに渡って外の世界を知ったガンディーにとって価値観の合わない妻との生活は幸福なものではなかったと思われます。
 さらにガンディーは16歳のときに妻との性交渉との最中に父を亡くすという経験をしており、これを後悔していました。

 ガンディーはジャイナ教徒のラージチャンドラとの交流などを通じて、求道者は性的欲望から完全に解放される必要があるという考えを受け入れていくことになります。また特定の相手との性行為は不平等に愛する行為でもありました。
 また、性的なエネルギーと生命エネルギーは密接に関わっており、何かをなすためには性的なエネルギーを貯めておかなければならないとも考えるようになりました。

 ガンディーは36歳の時にブラフマチャリの誓いを立てて、妻との性交渉を一切断つと宣言しました(なお、このときガンディーは南アにおり、妻と話し合って決めたとは思われない)。
 こののち、ガンディーは自分の内側から「シャクティ」と呼ばれる力が湧き上がってくるのを感じます。こうした精神力こそがガンディーの重視したものでした。

 しかし、一方で南ア時代のガンディーはボディビルダーでもあったヘルマン・カレンバッハと2年半に渡って同居生活を行っており、互いに「ソウル・メイト」だと認めあっていました。
 さらにこの関係は進展し、ガンディーにはカレンバッハに対する「愛情」のようなものが芽生え、「ホモエロティック」な関係が築かれていたとも思われます。

 インドに帰国後も、禁欲を通じた「男らしさ」や肉体的強健さの向上を説いていましたが、1920年代半ば以降になると「女性原理」が強調されるようになります。
 1925年には国民会議議長の自らの後継として女性のサロージニー・ナーイドゥーを推しています。さらに自らが投獄されているときには、ナーイドゥーに塩の行進を率いさせました。こうしたこともあって塩の行進は多くの女性も巻き込んでいきます。
 また、「女性こそがアヒンサー(非暴力)の化身」だと度々言うようになり、女性との身体的接触も避けなくなりました。むしろ、自分自身の身体に女性的変化を求めるようになったと言われます。
 ガンディーは晩年に自分の従姪孫にあたる19歳のマヌという女性と裸の同衾をするという「実験」を行っています。こうしたことを行った背景には、インドの伝統的なタントラ思想とガンディー独自の解釈があるとのことです。

 次は「宗教の真実」です。インドはさまざまな宗教が生まれた地であり、同時に宗教対立を抱えた国でもあります。インド独立の際にはヒンドゥー教徒とムスリムの対立の中で、ガンディーの反対にもかかわらず、ムスリムが多い地域はパキスタンとして分離していしまいました。
 ガンディーは宗教的多元主義をとったと言われますが、この多元主義は多様な宗教の違いを認め合うというものではなく、宗教は究極的には1つの価値観を持っているというものでした。ガンディーは宗教の違いを消し去ることで和解を成し遂げようとしたのです。

 ガンディーが宗教を勉強し始めたのはイギリスに渡って以降で、『バガヴァッド・ギーター』もイギリスで読んでいます。
 ガンディーはさまざまな宗教を学ぶ中で、「自己犠牲」や「慈悲」こそが共通するものではないかと思うようになります。この考えはトルストイの考えにも通じるもので、ガンディーはトルストイに傾倒し、書簡のやり取りも行っています。
 
 宗教の中にはときに暴力を肯定するような思想もありますが、ガンディーは恐れや臆病からくる無抵抗よりも、暴力に依拠してでも立ち上がる方が良いとしており(ガンディーの中では、「完全な非暴力」>「非暴力的暴力」>「偽善的無抵抗」という位置づけになっている(192p図2参照)、こうした考えでもって『バガヴァッド・ギーター』なども解釈しています。

 1919年から始まったインドの第一次独立運動に際し、ガンディーはさまざまなインドの宗教勢力を団結させることに成功し、それまでエリートに限定されていた反英闘争に一般大衆を動員することに成功します。
 それまでイギリスによる分断統治によって対立してきた諸宗教勢力は世俗主義を取ることで宗教対立を乗り越えようとしましたが、この考えはエリートには理解できても、一般大衆にはなかなか理解されませんでした。一般大衆の動員には宗教的なイメージを使うことが有効でしたが、それをすると宗教対立が起こってしまうというジレンマに陥っていたのです。

 これに対し、ガンディーは今の「宗教」はイギリスが持ち込んだものに過ぎないとし、それ以前の「宗教」はこうした分断を乗り越える「寛容の精神」を第一義とするとしたのです。
 ガンディーはヒンドゥー教徒とイスラム教徒がそれぞれの宗教を極めていけば、同じ場所に行き着くものだと考えていました。

 ただし、ガンディーのこうした考えがすべてうまく行ったとは言えません。
 1922年2月4日、チャウリー・チャウラー事件と呼ばれる起こっています。これは非協力運動を呼びかけるデモ行進を行っていた農民がイギリスが雇うインド人警官に妨害されたことに怒り、警官を殺害し、警察署を焼き払って23人の死者を出した事件でした。
 この事件を承け、ガンディーはインドの人々が非暴力運動を実践する準備が整っていないとし、第一次独立運動を急遽停止しました。

 この判断はガンディーが非暴力精神を貫徹した事例として肯定的に捉えられていますが、著者はその半年前に南インドで起きたモープラー暴動に注意を向けます。
 「モープラー」」とはムスリムの農民のことですが、非協力運動に参加していた彼らはヒンドゥー教徒の地主にも怒りの矛先を向けるようになり、最終的にヒンドゥー教徒への虐殺につながります。イギリス政府の介入もあって鎮圧されましたが、1万〜1万2千人の死者が出たとも言われています。
 ガンディーはこの暴動を知ってもそれを放置しましたし、モープラーたちを「勇敢」だと評したこともありました。
 ガンディーは常にヒンドゥー教徒を優遇していないように配慮しており、この暴動でも加害者がムスリムで被害者がヒンドゥー教徒だったことがガンディーの判断に影響していると考えられます。ガンディーは「寛容の精神」から、この暴力を許容したのです。

 著者は、このガンディーの姿勢がヒンドゥー至上主義のイデオロギーである「ヒンドゥトヴァ」を掲げる民族奉仕団(RSS)誕生の要因になったと考えています(現在のインド人民党はRSSを支持母体とする)。
 ガンディーはこのRSSの元メンバーに暗殺されることになりますが、ガンディーのムスリムへの融和的な政策はこうした反動も生み出しました。

 そしてガンディーはパキスタンの分離を引き止めることができませんでした。パキスタンの分離を招いたとされるムハンマド・アリー・ジンナーは早くからガンディーに批判的でしたが、彼は世俗主義の立場からガンディーを批判していました。
 
 ガンディーの最期の言葉は「へー、ラーマ(おお、神よ)」でしたが、ガンディーは死の前から「もし私がラーマの御名を唱えながら最期の息を引き取ることができれば、それは私が目指したこと[解脱]の徴なのです」(213p)と語っていました。
 ここにガンディーの意志の強さを見る人もいるでしょうが、著者はここに一種の独我論的な姿勢を見ています。インドで宗教暴動が吹き荒れる中、最後までガンディーが気にかけていたのは自分の解脱であったともとれるからです。

 ガンディーのこの独我論的な姿勢は家族との関係にも現れています。ガンディーが生涯説得できなかった人物として名が挙がるのがジンナーと息子のハリラールだったといいます。
 ガンディーの死後しばらくしてアルコール中毒で死んだハリラールとガンディーの関係を追ったのが第6章の「家族の真実」です。

 ハリラールは南アのインド人社会では「小ガンディー」と呼ばれた人物で、運動家としても期待されていた人物でした。
 ところが、ハリラールが父と同じようにイギリスに留学して弁護士資格をとりたいと考えたのに対してガンディーがそれを否定したあたりから二人の関係がギクシャクし始めます。ガンディーはイギリスの近代的な教育を否定的に見るようになっていましたが、息子からすると父はそうした教育を受けているのです。
 さらにガンディーが絶対的平等を追求する中で、家族へのこだわりは薄れていきます。家族からすると、それは冷淡にも見えました。

 ガンディーはインドのさまざまな思想に傾倒するようになるにつれ、外部の現象世界はすべて自己の心・身体の「清浄性」の度合いを反映したものだと考えるようになります。
 こうなると息子の不出来もガンディーの心の問題ということになります。実際、ガンディーはハリラールの不出来を、自らの若い頃の性的放縦に重ね、それを公言するようになります。ハリラールがこれらの発言に傷ついたのは当然だと思われますが、ガンディーにはそれは見えていませんでした。
 「真実」を求め続けたガンディーの目には身近な家族は映っていなかったわけです。

 このように本書はガンディーという人物を多面的に浮き彫りにしています。本書を読んだあとも、「ガンディーは偉大だ」という感想は変わらないかもしれませんが、そこにいるガンディーは、ひたすら善良な「聖人」ではなく、「真実にしがみつく」異常なまでの意志の強さを持った人間です。
 今までのガンディー像に一石を投じる非常に刺激的な本だと思います。




三牧聖子『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書) 7点

 ちょっと前から話題になっていたにもかかわらず、「若い世代がアメリカを変える」みたいな話であれば読まなくてもいいかなと思っていたのですが、先日行われた日本政治学会で著者の報告を聞いて、単純にそういう本でもないのだということがわかったので読んでみました。

 読んだ感想としては、今のアメリカの政治や外交の行き詰まりを非常にわかりやすく指摘している本というもので、アメリカ国内の分極化や、アメリカ外交における後ろ向きな姿勢の背景を理解するのに役立つと思います。
 「世代論」のように読もうとすると、もう少し細かいデータや分析が欲しくなりますが、現在のアメリカ社会の見取り図としては十分なのではないかと思います。
 対テロ戦争や米中対立から、カマラ・ハリスの不人気の要因まで触れられており、来年のアメリカ大統領選挙に向けた「ハンドブック」としても面白く読めるかもしれません。

第1章 例外主義の終わり―「弱いアメリカ」を直視するZ世代
第2章 広がる反リベラリズム―プーチンと接近する右派たち
第3章 米中対立はどう乗り越えられるか―Z世代の現実主義
第4章 終わらない「テロとの戦い」―Z世代にとっての9・11
第5章 人道の普遍化を求めて―アメリカのダブル・スタンダードを批判するZ世代
第6章 ジェンダー平等への長い道のり―Z世代のフェミニズム
第7章 揺らぐ中絶の権利―Z世代の人権闘争

 第1章は「例外主義の終わり」と題されています。例外主義とは「アメリカは物質的・道義的に比類なき存在で、世界の安全や世界の人々の福利に対して特別な使命を負うという考え」(17−18p)です。
 この例外主義を明白に棄てたのがトランプ大統領でしたが、トランプに批判的な人が多いZ世代(1997〜2012年生まれの世代)でも、この例外主義に対しては批判的だといいます。
 また、トランプを破って大統領になったバイデンも、外交における「アメリカ第一」は一定程度は踏襲しており、2021年のアフガニスタン撤退ではそうした姿勢が明確に現れていました。

 『アメリカ自由主義の伝統』の著者であるルイス・ハーツによると、アメリカの例外主義は、「汚れた」世界との関わりを拒絶する孤立主義と、世界に介入して世界を作り変えようとするメシアニズムの両極の外交を生み出したとされていますが、ハーツも期待したようにこのような両極端の考えを乗り越えることが期待されています。
 一方で、アメリカが「盟主」の座を降りようとしていることは、長期的には良いことだとしてお短期的には世界に不安定をもたらす可能性もあります。

 2020年6月のギャラップ社の調査では、アメリカ人であることを「極めて誇りに思う」と「とても誇りに思う」と答えた人の合計は63%で、2001年の調査開始以来最低を記録したそうですが、18〜29歳までの世代で「非常に誇りに思う」と回答したのは20%に過ぎません(ここの書き方だと「極めて誇りに思う」が何%だったのかはわからない(44−45p))。
 ただし、若い世代が単純に「内向き」というわけではなく、気候変動対策での国際協調には積極的ですし、国連への肯定的な意見も増えています。

 第2章ではアメリカにおける「反リベラル」の動きの高まりがとり上げられています。
 2022年2月下旬、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった直後に行われた保守主義者たちの集会・保守政治行動会議において、アメリカにとって最大の脅威として槍玉に上げられたのは、プーチンよりも国内の「ウォーク」でした。
 ウォークとは「常に社会正義に対する意識を持って下す状態のこと」(53p)で、保守派は彼らが「キャンセルカルチャー」を掲げて、アメリカの民主主義を乗っ取ろうとしていると批判するのです。

 こうした中で共和党ではトランプ以外にもディサンティスのようにウォークを攻撃して人気を得る政治家が出てきています。
 ディサンティスは、教育現場における性的指向や性自認についての議論を制限する通称「ゲイと言ってはいけない」法案に署名し、妊娠6週間以降の中絶を禁止する法案にも署名するなど、「文化闘士」としての姿勢を鮮明にしています。
 さらに中南米からの移民を民主党の強い地域に送り込むといったことも行っており、リベラルの偽善をつこうというパフォーマンスで支持者からの人気を得ています。

 こうした「反リベラル」の思想は、LGBTQなどを厳しく取り締まるプーチン大統領に通じるものがあります。
 ウクライナ侵攻以降、さすがに表立ってプーチンを賞賛する声は保守から聞かれなくなっていますが、プーチンは「反キャンセルカルチャー」などのアメリカの保守派に響くような考えを打ち出しており、欧米の右派と共鳴しています。
 キャンセルカルチャーに対しては、それでは世の中を変えられないとしてオバマも批判していますが、保守とリベラルの分断の中で、オバマの考えは響きにくいものとなっています。

 第3章は米中対立をとり上げています。現在のバイデン政権が最大の脅威とみなしているのは中国であり、2021年には「民主主義サミット」を開くなど、対中包囲網をつくるかのような動きを強めています。
 ただし、こういった価値による国の選別はかえって問題を大きくするおそれもありますし。そもそもアメリカ自体が民主主義のお手本とはみなされなくなってきています。
 共和党は各地で投票制限を強めるような選挙規定の見直しを進めていますし、ラリー・ダイヤモンドらのグループが2021年9月に行った調査では共和党支持者の44%、民主党支持者の41%が、ライバル陣営の候補者が勝った場合に暴力を肯定する理由が「少しは」あると回答しており(82p)、平和裏の政権交代という民主主義の根幹にゆらぎが見られます。

 中国に対するアメリカ国民の見方は厳しくなっており、2023年3月にピュー・リサーチ・センターが行った調査では、アメリカ人の成人の8割以上が中国に対して否定的な見方をしており、「非常に好ましくない」と回答した割合が44%に上ります(87p)。
 ただし、これには世代差もあって、65歳以上の91%が「中国を好ましくない」と回答していますが、18〜29歳だとそれが74%に下がります。また、「米中は貿易や経済政策についても協力できない」と回答したのも、65歳以上では51%に対して、18〜29歳だと27%です(95p)。
 TikTokについても禁止に賛成する人が多くを占める中で、Z世代では禁止に反対(53%)が賛成(34%)を上回っています。

 ただし、世代交代が進めば米中関係が好転するかというとそこは不透明です。中国のZ世代もデジタルネイティブではありますが、彼らの接するネットは「グレートファイアウォール」と呼ばれる制限下にあり、アメリカの若者が見ているものとは違います。自然に価値観が共有されていくとは考えにくいのです。

 第4章は今世紀になってからアメリカが続けてきた「テロとの戦い」がとり上げられています。
 今までの内容からもわかるように、Z世代は「テロとの戦い」に否定的であり2019年にアメリカ進歩センターが行った調査ではZ世代の7割が「中東・アフガニスタンでの戦争は時間、人命、税金の無駄遣いであり、自国の安全には何の役にも立たなかった」(103p)と答えています。
 9.11テロが忘れられたわけではありませんが、それに続いて起こった「対テロ戦争」は語られない風潮にもなっています。

 アフガニスタンにおいて、アメリカはその行動を正当化するために「女性の解放」を掲げました。実際、復活したタリバン政権が女性が働くことや学ぶことを抑圧している状況を見ると、アメリカの撤退によってアフガニスタンの女性の権利が後退してしまっとは言えるでしょう。
 ただし、アメリカのアフガニスタン支援策がうまくいっていなかったのも事実で、アメリカ政府はアフガニスタン女性を支援するプログラムに7億8700万ドルもの資金を投入しましたが、現地の文化への無理解などもあって、その効果は限定的でした。
 
 アメリカ国内では、イスラームへの偏見を告発する動きもありますが、9.11テロから20年以上経った今もそうした偏見は存在しています。

 第5章では、引き続き「テロとの戦い」をとり上げながら、そこに現れていたアメリカのダブル・スタンダードを批判するZ世代をとり上げています。
 オバマ政権はアメリカ兵の被害を最小限にするために、「テロとの戦い」においてドローン攻撃を多用しました。このドローン攻撃では多くの民間人も巻き添えになったと言われています。
 2015年4月にアメリカ人とイタリア人がドローン攻撃に巻き込まれた際には、オバマ大統領は「深い遺憾」を表明し、遺族への補償を行うと表明していますが、パキスタン人が犠牲になったときにはこのような対応は見られません。ここにダブル・スタンダードがあるのです。

 オバマは「対テロ戦争」の「人道化」(犠牲者を減らしテロリストだけを殺す)を狙っていましたが、こうした戦争の「人道化」が「対テロ戦争」を永続化させているとの批判もあります。
 一方で、アフガニスタンは忘れられた形になっており、タリバン政権に対する経済制裁がアフガニスタンの国民を苦しめている現実もあります。
 さらにバイデン政権は、アフガニスタン中央銀行がアメリカ国内に持っていた70億ドルを凍結し、そのうち35億ドルは9.11被害者の遺族支援のために保留するという考えを打ち出し、9.11テロの遺族からも批判を浴びました。

 こうしたアメリカのダブル・スタンダードを批判し、若者から支持を受けているのが社会活動家のコーネル・ウェストです。
 BLM運動に関連付け、ウェストはジョージ・フロイドだけではなく、ヨルダン川西岸でもイエメンでもパキスタンでもアフガニスタンでもアメリカによる暴力が振るわれていると批判し、アメリカの政策に内在する人種差別的な要素を告発しています。
 ウェストは2024年の大統領選挙に第三政党から立候補することを表明しており、大統領選挙の行方に影響を与えることも予想されます。
 ちなみにBLM運動はパレスチナとの連帯を打ち出しており、2023年3月のギャラップ社の調査では、パレスチナに共感するとした民主党支持者(49%)がイスラエルに共感するとした民主党支持者(38%)を上回っています。アメリカの親イスラエル政策もどこかでゆらぐ可能性はあります。

 ロシアのウクライナ侵攻以来、ウクライナを支援する動きが強まっていますが、ここでもダブル・スタンダードを指摘する声はあります。アフガニスタンやイエメンとの扱いの違いを問題視する声です。
 自分たちと似ているから支援するというのは素朴な感情ではありますが、そこにレイシズムが潜んでいる可能性もあるのです。

 第6章ではジェンダーの問題がとり上げられていますが、中心的なトピックはカマラ・ハリスの不人気です。
 2020年の大統領選において「私が最初の女性副大統領になるかもしれませんが、最後ではありません」(162p)と述べて喝采を受けたカマラ・ハリスですが、現在の人気は低迷しています。次期大統領候補としても期待を集められなくなっています。

 ハリスはインド系でがん研究者の母とジャマイカ系で経済学者の父の間に生まれ、司法試験に合格し、2004年にサンフランシスコ市郡地方検事になっています。
 ハリスは元犯罪者の社会復帰プログラムに取り組み、2011年に黒人として初めてカリフォリニア州の司法長官になりました。2016年にはカリフォルニア州選出の上院議員になり、2021年には副大統領に就任しています。

 このように輝かしい経歴を持つハリスですが、「内側、つまり意思決定がなされる場にいることが重要」(168p)という考えと、外部からの変革を訴えてきた黒人の活動家の間には埋めがたい違いもありました。
 また、例えば、BLM運動で主張された警察予算の削減についても、ハリスは明確な態度を示しておらず(当初は警察への信頼を表明していたが、徐々に警察を問題視するようになっている)、ここも批判を受ける要因になっています。
 移民問題についても、当初は寛容な姿勢を見せていたものの、副大統領になってからのグアテマラでの外遊では「米墨国境まで危険な旅をしようと考えているグアテマラの人々には、はっきり言っておきたい。来ないで」(172p)と発言し、進歩派から批判されました。

 この移民政策については民主党自体もジレンマに陥っている問題で、バイデンも壁の建設を続行しているわけですが、「中道」的なスタンスをとろうとするハリスはその期待の大きさの反動に直面している状況です。
 #Me Too運動においても、ハリスは連邦最高裁判事の候補となったブレット・カヴァノーの過去の性暴力の疑惑を鋭く追求することで名を挙げましたが、一方で民主党のクオモ・ニューヨーク州知事のセクハラ疑惑にはだんまりといった具合で、そのダブル・スタンダードが批判されています。
 現在の若い世代に広がっているフェミニズムはハリスよりも急進的であり、Z世代からするとハリスは満足できるリーダーではないのです。

 第7章では、ロー対ウェイド判決が覆された状況と若い世代の政治への影響がとり上げられています。
 2022年6月、アメリカ人女性に中絶の権利を認めてきたロー対ウェイド判決が最高裁で覆り、共和党が主導する州で中絶の禁止や中絶の厳しい制限が行われることになりました。
 中絶を女性の権利を考えるのであれば、女性の権利が後退したのです。

 この背景には、トランプ大統領が相次いで保守派の最高裁判事の任命に成功したことがあります。トランプはゴーサッチ(1967年生)、カヴァノー(65年生)、バレット(72年生)という3人の保守派の判事を任命しましたが、いずれも若いのが特徴です。最高裁の判事は終身職であり、かなりの期間、最高裁では保守派の優位が続くことが予想されます。
 バレットは女性ですが、敬虔なカトリックであり、ハイチからの養子2人を含め7人の子どもを育てています。彼女を「新しいフェミニズム」と形容する声もありますが、イメージとして打ち出されているのは「良き母親」です。

 Z世代では中絶の権利を擁護する声が強く、ギャラップ社の調査では18〜29歳の48%が「いかなる状況でも中絶は合法であるべきだ」と答えており、「中絶は違法であるべきだ」の11%を大きく上回っています。
 リベラルが権力ゲームにおいて保守派に負け続けていると言われていますが、2022年の中間選挙において、若者が投票所に足を運んだことが民主党の善戦につながったとの分析もあり、若い世代が政治の保守化に歯止めをかける可能性も十分にあるのです。

 このように本書は外交だけでなく、アメリカ政治のさまざまな動きを概観する内容になっています。
 Z世代という世代についても、その内実を細かく分析するといったものではなく、Z世代の現在の特徴や動きをすくい取るようものになっています。この世代が、今後どうなるかはわかりませんが(例えば、日本の団塊世代でも若い頃の政治的スタンスを維持しつづけた人はどのくらいいるのか?という問題があるので)、今の気分を掴むのにはいいのではないかと思います。
 最初にも述べたように、2024年の大統領選挙の良いガイドブックになりそうです。


浜忠雄『ハイチ革命の世界史』(岩波新書) 7点

 BLM運動が起きたことなどによって、黒人の歴史、奴隷の歴史というものに注目が集まっていますが、そうした黒人奴隷の歴史の中でも特筆すべき出来事が1791年に起きたハイチ革命です。
 この革命によって西半球ではアメリカ合衆国につぐ2番目の独立国になり、1806年には世界初の黒人共和国が誕生しました。このようにはハイチは輝かしい歴史を持つ国です。
 しかし、同時に現在のハイチは貧困と治安の悪化に悩まされており、日本の外務省も危険情報でレベル4の退避勧告を出しているほどです(2022年10月に引き上げられた)。人間開発指数で見ても193カ国中163位で最貧国と言っていいレベルです。

 なぜ、このようになってしまったのか?
 本書はハイチ革命だけではなく、その後のハイチを明らかにしていきます。
 フランスから請求された多額の賠償金、アメリカの配置に対する無視と介入。さまざまな要素が現在のハイチに影響を与えていることがわかると思います。

 目次は以下の通り。
第一章 ハイチ革命を生んだ世界史――「カリブ海の真珠」の光と影
第二章 ハイチ革命とフランス革命――史上初の奴隷制廃止への道
第三章 先駆性ゆえの苦難――革命以後の大西洋世界
第四章 帝国の裏庭で――ハイチとアメリカ合衆国
第五章 ハイチ革命からみる世界史――疫病史から植民地責任まで

 ハイチはもともとサン=ドマングと呼ばれるフランスの植民地でした。
 フランスは18世紀はじめから半ばにかけて繊維製品を中心とした工業製品の輸出が増えていましたが、後半になると植民地からの食糧品の輸出の伸びが目立っています(3p表1−1参照)。その中でも特に伸びていたのがサン=ドマングの砂糖やコーヒーであり(3p表1−2参照)、サン=ドマングは革命前のフランス経済を支えた植民地でした。

 サン=ドマングでは17世紀から18世紀にかけての100年間で総人口が74倍に膨れ上がっていますが、その内訳は白人が7倍、有色自由人が118倍、黒人奴隷が207倍と黒人奴隷が激増しています。1681年に2102人だったのが1789年には434429人まで増えたのです(6p表1−3参照)。
 こうした奴隷の増加を支えたのが奴隷貿易です。コンゴなどからサン=ドマングへと多くの奴隷が運ばれました。

 砂糖のプランテーションでは、サトウキビの栽培だけではなく、それを圧搾して、煮沸・撹拌、さらに粗糖と糖蜜に分離するなどの複雑な作業があり、有能な奴隷から選ばれた奴隷監督(コマンドゥール)を中心に組織的な作業が行われていました。

 サン=ドマングの奴隷の中で生まれた信仰がヴードゥーです。アフリカに起源をもつ精霊信仰とキリスト教が混淆したもので、フランスがカトリックを「唯一の宗教」として押し付ける中で発展したものになります。
 さらに言語についても、アフリカの諸言語とフランス語が入り混じったハイチ・クレオール語が生まれました。奴隷主たちは奴隷たちの意思疎通を妨げるために出身地がちがう奴隷を集めていたりもしましたが、奴隷たちは自分たちの言語を生み出したのです。

 奴隷たちは奴隷主に唯々諾々として従ったわけではなく、奴隷主を殺そうとしたり、あるいは自死を選んだり、相互絞殺を図った奴隷もいたそうです。
 そうした中で、奴隷の抵抗として目立ったのが逃亡です。サン=ドマングは国土の4/5が山地であり、逃げ込む場所には事欠きませんでした。
 逃亡に成功した奴隷は山間僻地に共同体をつくり、そこを拠点としえ略奪や襲撃を行いました。
 1770年から1790年まで合計19903人の奴隷が逃亡したといいます。

 1791年8月14日の夜、サン=ドマングでは「カイマン森の儀式」と呼ばれる奴隷たちの集会があったと言われます(実在を疑問視する声もある)。
 約200人の奴隷監督が集結し、ヴードゥーの神官でもあったブクマン・デュティという人物を中心に一斉蜂起に向けた意思統一がなされたとされています。

 1791年8月22日の夜、黒人奴隷たちの一斉蜂起が始まります。アキュルという場所で始まった蜂起は行く先々でプランテーションの奴隷たちを糾合して、数日のうちの北部の州を席巻しました。この地域には17万人の奴隷がおり、控えめに見積もっても5万人ほどの奴隷がこの蜂起に加わったとみられています。
 9月末までに1000人以上の白人が殺され、6割近いプランテーションに被害が出たと言われています。

 このときフランス本国では革命が進行していました。
 1789年7月の国民議会でサン=ドマングの議員数は6名と決まりました。人口比からすると過大でしたが、経済的重要性が加味されてこの数になっています。
 サン=ドマングは植民地議会の設置も求め、「植民者とその財産を特別の保護のもとに置く」(43p)との一文を持って奴隷制の存続を図りました。

 サン=ドマング出身の有色自由人でパリに住んでいたヴァンサン・オジェやジュリアン・レイモンらは自分たちも政治に参加できる「能動的市民」であると認めるように議会にはたらきかけましたが、その訴えが認められることはありませんでした。
 失望したオジェはサン=ドマングに戻って反乱を起こしますが失敗し、処刑されています。

 フランス国内では「黒人友の会」もつくられますが、基本的な主張は奴隷貿易の廃止であり、黒人に権利を認めるような主張はしませんでした。
 1791年5月1日に「自由人の父母から生まれた有色人」に限って法的平等を認める法令が可決されますが、植民地のことは植民地議会が決めるという法の前でサン=ドマングでは効力を失います。
 結局、有色自由人に法的平等が認められたのは、サン=ドマングで黒人が蜂起した後のことでした。

 サン=ドマング情勢が混乱する中、フランス本国は革命に干渉してくる諸外国と戦うことになります。この戦いは海外植民地へも波及し、サン=ドマングの白人の中にはイギリスに同調して自らの権益を守ろうとする者も出てきます。
 サン=ドマングにいたソントナクスらのフランスの政府代表委員は、事態打開のために黒人奴隷に武器を持たせてイギリスやスペインと戦うことを考え、1793年8月に奴隷解放宣言を出します。
 これは明らかに越権行為でしたが、以降は黒人たちもサン=ドマングを狙う外国勢力と戦うことになりました。

 こうした中で登場したのがトゥサン・ルヴェルチュールです。トゥサンの父は解放奴隷で、トゥサンは13人の奴隷を所有する小規模なコーヒー園を持ってました。彼はその後、黒人奴隷の蜂起に合流し、一時はスペイン軍に加わりますが、1794年5月にフランス軍に合流し、スペイン軍やイギリス軍と戦い、1800年にはサン=ドマングのほぼ全域を平定しました。

 このトゥサンがフランス軍に合流することになったきっかけがフランス本国での黒人奴隷廃止宣言だったといいます。1794年2月に国民公会は黒人奴隷の廃止を宣言しました。
 宣言が可決される過程はやや拙速でしたが、イギリスへの対抗という理由もあって、奴隷の廃止が他国に先駆けて宣言されたのです。

 奴隷廃止宣言は人権宣言から4年半後のことであり、フランス国内でもこの問題に対する大きな抵抗があったことがうかがえます。そして、この奴隷廃止宣言は1802年にナポレオンによって反故にされてしまうのです。
 ナポレオンは、すでに奴隷解放が宣言されていたサン=ドマングやグァドループでの奴隷制の廃止は認めたものの、イギリスに占領されていたり、現地の抵抗で奴隷の廃止が行われていなかったマルチニックやレユニオン島、フランス島では奴隷制が維持されるとしました。
 
 さらにナポレオンはサン=ドマングにおいても軍事力で奴隷制を復活させようとします。サン=ドマングへの派兵を命じ、3万4000の兵がサン=ドマングに送り込まれました。
 ナポレオンはもともと黒人がフランス人と同じような自由を持つことはありえないという人種差別的な考えを持っており、さらにサン=ドマングでトゥサンが大きな権限を握る終身総督に就任したことに対しての怒りがあったと思われます。
 トゥサンが独立を目論んでいたのかは意見が分かれるところですが、ナポレオンはトゥサンを騙して捕らえさせ、トゥサンはフランスで獄死することになります。

 こうした事態に対して、今まで対立していた旧黒人奴隷と以前から自由民になっていたムラートが団結し、フランス軍と戦いを始めます。
 彼らは1803年11月にフランス軍から主要な根拠地を奪還し、1804年1月1日に「自由を、しからずば死」で始まる独立宣言を発表、国名を「ハイチ」としました。
 ハイチは先住民タイノ・アラワク人の言葉で「山の多いところ」という意味ですが、なぜこの名称になったのかは、はっきりとはわからないそうです。

 こうしてハイチは「世界初の黒人共和国」となったわけですが、その歩みは順調にはいきませんでした。
 ハイチの初代元首になったのは元黒人奴隷のジャン=ジャック・デサリーヌでしたが、彼は1804年の10月に皇帝ジャック1世と称して戴冠しています。これは同年5月に皇帝になったナポレオンを意識したものでした。国名も1805年の憲法で「ハイチ帝国」となっています。
 この憲法では奴隷の廃止とともに外国人の財産所有が禁止されました。

 1806年にデサリーヌが亡くなると、北部はアンリ・クリストフが、南部をアレクサンドル・ペションが統治することになります。1811年にクリストフはアンリ1世を名乗って王制をしき、ペションは1816年に終身大統領になりました。
 このようにハイチが南北に分裂した原因は黒人とムラートの対立です。クリストフは黒人で元奴隷、ペションはムラートで有色自由人でした。また、北部には大規模な砂糖プランテーションが置く、南部には小規模なコーヒーやインディゴのプランテーションが多いという違いもありました。
 ペションは1816年に制定した憲法で直接普通選挙を打ち出しましたが、女性、犯罪者、精神障害者、「愚か者」は除かれ、農民がこの「愚か者」のカテゴリーに入れられたために、実際に選挙に参加できたのはエリートと軍人のみでした。

 ハイチ経済の立て直しにはプランテーションの再建が必要でしたが、そのためにトゥサンは農耕従事者の移動を禁じ、「強制労働」に近いしくみをつくりました。
 こうした政策はデサリーヌやクリストフにも受け継がれ、特にクリストフは「シタデル」という要塞や「サン=スーシ宮殿」の建築のために強制労働を維持しました。

 一方、プランテーションには戻らず、農園などを「不法占拠」して自給自足の農業を行う者たちもいました。これによって食糧事情は改善し、1804年に約40万人だった人口は、1904年には約250万人まで増大します。
 また、コーヒーの栽培も盛んになり、砂糖に代わって輸出品となっていきました。

 奴隷制に苦しめられる者にとってハイチは「解放のシンボル」でしたが、奴隷主にとっては恐怖以外の何物でもありませんでした。
 「ラテンアメリカ独立の父」と呼ばれるシモン・ボリーバルはハイチへの共鳴と敵対を揺れ動いた人物で、独立運動への支援をハイチに求め、一部で奴隷解放を行いながら、次第に有色人への警戒を隠さなくなっていきます。

 アメリカはハイチにとって重要な貿易相手国で、米英戦争時にペションが150名の援軍をアメリカに派遣したこともありましたが、アメリカはハイチを国家として承認しようとはしませんでした。
 1822年にアメリカはアルゼンチンとコロンビアを皮切りにラテンアメリカに誕生した独立国家を次々と承認しましたが、ハイチは例外でした。
 新たに独立したラテンアメリカの国々も、ハイチを自分たちのグループに参加させることが「人種」紛争の火種になることを恐れ、ハイチを承認しませんでした。

 結局、ハイチはフランスから独立の承認を求める道を選び、1825年に独立を承認されますが、その代わりに背負ったのが1億5000万フランという途方もない賠償金でした。1824年のハイチの歳入額は1550万フランであり、賠償額はその10年分近くになります。
 最初の支払いはフランスから3000万フランを借り受けて行われますが、支払いが滞るようになり、残額は6000万フランに減額されました。それでもハイチは支払うことができず、返済のための借款とその利息に苦しむことになります。
 ハイチの経済は現在も低迷していますが、その大きな要因がこの賠償金の存在だと言われます。

 第4章ではアメリカとハイチの関係がとり上げられています。 
 アメリカがハイチを国家として承認したのは南北戦争さなかの1862年でした。奴隷解放を行ったリンカーンがハイチを承認したというのはごく自然な気もしますが、本書によるとリンカーンがハイチを承認した背景にはアメリカの黒人をハイチに植民させる計画があったといいます。

 リンカーンは奴隷を解放しましたが、同時に演説で「白人と黒人の間の見境のない人種混交には、ほとんどすべての白人に生理的嫌悪があります。(中略)両人種を分離することが人種混交を防ぐ唯一の完璧な防止策であります。」(135p)と述べているように、人種の分離を主張していました。
 黒人の植民に関してはリベリアで行われていましたが、アフリカは遠かったためにもっと近くで植民が可能な場所が求められました。その候補がハイチだったのです。
 1863年にハイチのヴァシュ島への移民が送り出されますが、住むのには適した場所ではなく失敗します。

 ハイチでは19世紀中頃から20世紀初頭まで混乱が続き、1843〜1915年までの間で22人の大統領が交代しましたが、任期を満了できたのは1人だけでした。
 こうした情勢を見て、アメリカはハイチに介入します。1891年には海軍基地にする目的でハイチ北西部の港のモール・サン=ニコラの譲渡を打診しますが、これは断られました(その代わりに1901年にキューバから租借したのがグアンタナモ)。

 この後も19世紀末からハイチに進出していたドイツに対抗する目的もあり、アメリカは徐々にハイチ経済に対する介入を強めていきます。
 そして1915年にハイチで反政府勢力が首都に迫り混乱が起きると、アメリカの海兵隊が介入し、ハイチにアメリカ人顧問を置き、財政などを制限する「アメリカ合衆国=ハイチ条約」を結びます(内容的には日本の対華21箇条の要求を思い起こさせる)。
 そして1918年には新憲法を制定し、外国人の土地所有を認めさせました。また、道路建設などのためにハイチ人に強制労働を課し、抵抗運動を圧殺しました。

 アメリカがハイチから最後の部隊を撤退させて占領を解除したのが1934年です。この背景には1929年に海兵隊が農民の抗議行動に対して銃を向けたレカイ虐殺事件がありました。
 これにはフランスやイギリスからも批判が上がり、フーヴァー大統領が撤退を決意することになるのです。
 しかし、この後もアメリカはハイチに一定の影響力を持ち続けます。「黒人主義」を打ち出しながら1957〜71年にかけて独裁政治を行ったフランソワ・デュヴァリエを、「反共」の立場から支援したのもアメリカでした。

 さらに本書の第5章では、ヘーゲルなどをとり上げながら、今一度ハイチ革命の世界史的な意義を考察しています。また、近年のフランスに対する賠償金の返還要求などにも触れ、ハイチの
「脱植民地化」が未だに未完であるとしています。

 このように本書は、ハイチ革命だけでなく、それが世界にもたらした影響や、その後のハイチを運命づけたアメリカをはじめとするさまざまな大国の思惑などを教えてくれます。
 アメリカ合衆国やラテンアメリカの国々と同じようにヨーロッパからの独立を勝ち取りながら、合衆国やラテンアメリカから締め出されたハイチの苦難はレイシズムの根深さを示しているのかもしれません、
 

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