去年出た、『昭和陸軍の軌跡』(中公新書)が面白かった川田稔が、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての日本の安全保障の戦略とそれをとりまく状況を、山県有朋、原敬、浜口雄幸、永田鉄山の4人の考えにそくして分析した本。
永田鉄山の部分は『昭和陸軍の軌跡』と被りますし、山県有朋と原敬の部分は『原敬と山県有朋』(中公新書)、浜口雄幸の部分は『浜口雄幸』(ミネルヴァ書房)、浜口雄幸と永田鉄山 (講談社選書メチエ)と被るのでしょうが(『昭和陸軍の軌跡』以外は未読)、なかなか興味深い観点が示されていると思います。
まず、山県有朋についてですが、彼は中国での権益を守るためにイギリスではなくロシアと手を組む日露同盟論者であったことがわかります。
1911年に改訂された第3次日英同盟で対象国からアメリカが外されたことで、日英同盟は対中国政策で日本と衝突する可能性のあるアメリカを抑えることが出来ないものになりました。
そこで山県が対中国戦略における日本のパートナーとして想定したのがロシアであり、それは1912年に結ばれた第4次日露協約で実現しました。第4次日露協約の秘密協定の部分には「中国が日露いずれかに敵意をもつ第三国の政治的支配下におちいることを防ぐため、相互に協力し、かつ開戦の場合には軍事援助し合うことを規定し」(42p)、その適用範囲は中国全土という、まさに「軍事同盟」といっていいものでした。
しかし、この戦略はロシア革命によって水泡に帰します。しかも、ソヴィエト政府は秘密外交廃止の方針のもとに、この秘密協定の部分を公開。日本はアメリカをはじめとする各国から警戒心を持たれることになります。
ここに山県の安全保障戦略は崩壊し、これが原敬への政権委譲の一員となったと著者は見ています。
また、二十一か条の要求について、山県は日本人顧問を置くことなどを要求した第五号の内容については反対していたとの見方が強いですが(伊藤之雄『山県有朋』でもこの考えがとられている)、この本では山県が基本的に第五号の内容を了解していたことが、いくつかの史料を使って示されています。
原敬と浜口雄幸はともに協調主義的な政策を進めた政治家として知られていますが、そこで焦点となるのが大戦後に圧倒的パワーを持つようになったアメリカとの関係です。
原はパワー・ポイティクスの世界の中で、圧倒的パワーを持つアメリカと対立することは避けるべきだかが、同時にアメリカの「なすがまま」にならないようすべきだとも考えていました。
原は「世界は英米勢力の支配となりたるが、東洋においてはこれに日本を加う」(118p)との認識を持ち、アジアにおける英米の間隙をうまくつくことで、日本がキャスティング・ボードを握れる可能性もあると見ていました。
次にとり上げられる浜口雄幸は国際連盟の働きに期待するとともに、軍縮条約や九カ国条約によってアメリカのパワーを抑えることができると考え、協調外交を進めました。
特に著者は中国の領土保全と門戸開放を決めた九カ国条約の意義を評価しています。九カ国条約は、中国に限ってであるものの、列強による勢力範囲の拡大や植民地化を禁止したもので、20世紀の世界史の一つのターニング・ポイントになったものと著者は見ています。
浜口はそうした新しい国際協調の流れに乗ることで、日本の安全保障を確かなものにしようとしたのです。
一方、永田鉄山は軍人らしく「来るべき総力戦にいかに備えるか?」という視点から日本の安全保障を考えています。
永田はドイツを中心に再び世界大戦が予想しており、その時に日本がフリーハンドで戦略を決めることができる国力を持つということを重視していました。
「アメリカと組むか?」「ソ連と組むか?」という前に、その時に日本が主体的に行動出来るだけの国力と軍事力を用意しておくことが永田の目的であり、そのためには満州、そして中国の資源が必要だと考えていました。
結局、この永田の戦力のもとに始まった満州事変、日中戦争が日米の対立を決定的なものにしてしまったことを考えると、永田の戦略というのはあくまで「軍人」としてのものでしかないのですが、この永田の戦略が日本の進路に大きな影響を与えたのは事実です。
こういった内容で読み応えはあるのですが、個人的には取り上げる人物のひとりは浜口雄幸ではなく加藤高明ではなかったかと思います。
確かに浜口雄幸も重要ですが、浜口の外交方針は加藤高明内閣の時に確立した「幣原外交」を踏襲したもので、外交の転換点は浜口ではなく加藤にあったと思います。また、加藤の対中国政策は大隈内閣の外相として二十一か条の要求を行った時点から首相就任時までに大きく変化しており、そこが日本の政治を読み解く上での一つのポイントになっているように思います。
ただ、それなりに歴史の本を読んでいる人でも新しい発見のできる面白い本だと思います。
戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)
川田 稔

永田鉄山の部分は『昭和陸軍の軌跡』と被りますし、山県有朋と原敬の部分は『原敬と山県有朋』(中公新書)、浜口雄幸の部分は『浜口雄幸』(ミネルヴァ書房)、浜口雄幸と永田鉄山 (講談社選書メチエ)と被るのでしょうが(『昭和陸軍の軌跡』以外は未読)、なかなか興味深い観点が示されていると思います。
まず、山県有朋についてですが、彼は中国での権益を守るためにイギリスではなくロシアと手を組む日露同盟論者であったことがわかります。
1911年に改訂された第3次日英同盟で対象国からアメリカが外されたことで、日英同盟は対中国政策で日本と衝突する可能性のあるアメリカを抑えることが出来ないものになりました。
そこで山県が対中国戦略における日本のパートナーとして想定したのがロシアであり、それは1912年に結ばれた第4次日露協約で実現しました。第4次日露協約の秘密協定の部分には「中国が日露いずれかに敵意をもつ第三国の政治的支配下におちいることを防ぐため、相互に協力し、かつ開戦の場合には軍事援助し合うことを規定し」(42p)、その適用範囲は中国全土という、まさに「軍事同盟」といっていいものでした。
しかし、この戦略はロシア革命によって水泡に帰します。しかも、ソヴィエト政府は秘密外交廃止の方針のもとに、この秘密協定の部分を公開。日本はアメリカをはじめとする各国から警戒心を持たれることになります。
ここに山県の安全保障戦略は崩壊し、これが原敬への政権委譲の一員となったと著者は見ています。
また、二十一か条の要求について、山県は日本人顧問を置くことなどを要求した第五号の内容については反対していたとの見方が強いですが(伊藤之雄『山県有朋』でもこの考えがとられている)、この本では山県が基本的に第五号の内容を了解していたことが、いくつかの史料を使って示されています。
原敬と浜口雄幸はともに協調主義的な政策を進めた政治家として知られていますが、そこで焦点となるのが大戦後に圧倒的パワーを持つようになったアメリカとの関係です。
原はパワー・ポイティクスの世界の中で、圧倒的パワーを持つアメリカと対立することは避けるべきだかが、同時にアメリカの「なすがまま」にならないようすべきだとも考えていました。
原は「世界は英米勢力の支配となりたるが、東洋においてはこれに日本を加う」(118p)との認識を持ち、アジアにおける英米の間隙をうまくつくことで、日本がキャスティング・ボードを握れる可能性もあると見ていました。
次にとり上げられる浜口雄幸は国際連盟の働きに期待するとともに、軍縮条約や九カ国条約によってアメリカのパワーを抑えることができると考え、協調外交を進めました。
特に著者は中国の領土保全と門戸開放を決めた九カ国条約の意義を評価しています。九カ国条約は、中国に限ってであるものの、列強による勢力範囲の拡大や植民地化を禁止したもので、20世紀の世界史の一つのターニング・ポイントになったものと著者は見ています。
浜口はそうした新しい国際協調の流れに乗ることで、日本の安全保障を確かなものにしようとしたのです。
一方、永田鉄山は軍人らしく「来るべき総力戦にいかに備えるか?」という視点から日本の安全保障を考えています。
永田はドイツを中心に再び世界大戦が予想しており、その時に日本がフリーハンドで戦略を決めることができる国力を持つということを重視していました。
「アメリカと組むか?」「ソ連と組むか?」という前に、その時に日本が主体的に行動出来るだけの国力と軍事力を用意しておくことが永田の目的であり、そのためには満州、そして中国の資源が必要だと考えていました。
結局、この永田の戦力のもとに始まった満州事変、日中戦争が日米の対立を決定的なものにしてしまったことを考えると、永田の戦略というのはあくまで「軍人」としてのものでしかないのですが、この永田の戦略が日本の進路に大きな影響を与えたのは事実です。
こういった内容で読み応えはあるのですが、個人的には取り上げる人物のひとりは浜口雄幸ではなく加藤高明ではなかったかと思います。
確かに浜口雄幸も重要ですが、浜口の外交方針は加藤高明内閣の時に確立した「幣原外交」を踏襲したもので、外交の転換点は浜口ではなく加藤にあったと思います。また、加藤の対中国政策は大隈内閣の外相として二十一か条の要求を行った時点から首相就任時までに大きく変化しており、そこが日本の政治を読み解く上での一つのポイントになっているように思います。
ただ、それなりに歴史の本を読んでいる人でも新しい発見のできる面白い本だと思います。
戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)
川田 稔
