山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2013年01月

川田稔『戦前日本の安全保障』(講談社現代新書) 7点

去年出た、『昭和陸軍の軌跡』(中公新書)が面白かった川田稔が、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての日本の安全保障の戦略とそれをとりまく状況を、山県有朋、原敬、浜口雄幸、永田鉄山の4人の考えにそくして分析した本。
 永田鉄山の部分は『昭和陸軍の軌跡』と被りますし、山県有朋と原敬の部分は『原敬と山県有朋』(中公新書)、浜口雄幸の部分は『浜口雄幸』(ミネルヴァ書房)、浜口雄幸と永田鉄山 (講談社選書メチエ)と被るのでしょうが(『昭和陸軍の軌跡』以外は未読)、なかなか興味深い観点が示されていると思います。

 まず、山県有朋についてですが、彼は中国での権益を守るためにイギリスではなくロシアと手を組む日露同盟論者であったことがわかります。
 1911年に改訂された第3次日英同盟で対象国からアメリカが外されたことで、日英同盟は対中国政策で日本と衝突する可能性のあるアメリカを抑えることが出来ないものになりました。
 そこで山県が対中国戦略における日本のパートナーとして想定したのがロシアであり、それは1912年に結ばれた第4次日露協約で実現しました。第4次日露協約の秘密協定の部分には「中国が日露いずれかに敵意をもつ第三国の政治的支配下におちいることを防ぐため、相互に協力し、かつ開戦の場合には軍事援助し合うことを規定し」(42p)、その適用範囲は中国全土という、まさに「軍事同盟」といっていいものでした。

 しかし、この戦略はロシア革命によって水泡に帰します。しかも、ソヴィエト政府は秘密外交廃止の方針のもとに、この秘密協定の部分を公開。日本はアメリカをはじめとする各国から警戒心を持たれることになります。
 ここに山県の安全保障戦略は崩壊し、これが原敬への政権委譲の一員となったと著者は見ています。

 また、二十一か条の要求について、山県は日本人顧問を置くことなどを要求した第五号の内容については反対していたとの見方が強いですが(伊藤之雄『山県有朋』でもこの考えがとられている)、この本では山県が基本的に第五号の内容を了解していたことが、いくつかの史料を使って示されています。

 原敬と浜口雄幸はともに協調主義的な政策を進めた政治家として知られていますが、そこで焦点となるのが大戦後に圧倒的パワーを持つようになったアメリカとの関係です。
 原はパワー・ポイティクスの世界の中で、圧倒的パワーを持つアメリカと対立することは避けるべきだかが、同時にアメリカの「なすがまま」にならないようすべきだとも考えていました。
 原は「世界は英米勢力の支配となりたるが、東洋においてはこれに日本を加う」(118p)との認識を持ち、アジアにおける英米の間隙をうまくつくことで、日本がキャスティング・ボードを握れる可能性もあると見ていました。

 次にとり上げられる浜口雄幸は国際連盟の働きに期待するとともに、軍縮条約や九カ国条約によってアメリカのパワーを抑えることができると考え、協調外交を進めました。
 特に著者は中国の領土保全と門戸開放を決めた九カ国条約の意義を評価しています。九カ国条約は、中国に限ってであるものの、列強による勢力範囲の拡大や植民地化を禁止したもので、20世紀の世界史の一つのターニング・ポイントになったものと著者は見ています。
 浜口はそうした新しい国際協調の流れに乗ることで、日本の安全保障を確かなものにしようとしたのです。

 一方、永田鉄山は軍人らしく「来るべき総力戦にいかに備えるか?」という視点から日本の安全保障を考えています。
 永田はドイツを中心に再び世界大戦が予想しており、その時に日本がフリーハンドで戦略を決めることができる国力を持つということを重視していました。
 「アメリカと組むか?」「ソ連と組むか?」という前に、その時に日本が主体的に行動出来るだけの国力と軍事力を用意しておくことが永田の目的であり、そのためには満州、そして中国の資源が必要だと考えていました。
 結局、この永田の戦力のもとに始まった満州事変、日中戦争が日米の対立を決定的なものにしてしまったことを考えると、永田の戦略というのはあくまで「軍人」としてのものでしかないのですが、この永田の戦略が日本の進路に大きな影響を与えたのは事実です。

 こういった内容で読み応えはあるのですが、個人的には取り上げる人物のひとりは浜口雄幸ではなく加藤高明ではなかったかと思います。
 確かに浜口雄幸も重要ですが、浜口の外交方針は加藤高明内閣の時に確立した「幣原外交」を踏襲したもので、外交の転換点は浜口ではなく加藤にあったと思います。また、加藤の対中国政策は大隈内閣の外相として二十一か条の要求を行った時点から首相就任時までに大きく変化しており、そこが日本の政治を読み解く上での一つのポイントになっているように思います。
 ただ、それなりに歴史の本を読んでいる人でも新しい発見のできる面白い本だと思います。

戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)
川田 稔
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山下祐介『東北発の震災論』(ちくま新書) 6点

去年出た同じちくま新書の『限界集落の真実』が面白かった著者による震災論。青森で長年研究し、日本のさまざまな地域をフィールド・ワークしてきた経験を活かして、今回の震災についての考察を行なっています。

  一応、社会学者らしく「広域システム」、「中心と周辺」、「主体性」というキーワードをもとに分析した部分もあるのですが、個人的に面白かったのはそう いった分析の部分ではなく、「被災地」、「被災者」とくくられてしまう地域や人びとの違いを丁寧に掬いあげている部分です。

 著者は、震災後に東北のかなり広い地域にわたって視察を行なっているのですが、これだけ広域に渡った災害だと、例えば津波の被害といっても地域によってその様相は随分と違います。
  著者は2011年の4月〜5月にかけて青森県八戸市から岩手県沿岸にかけて視察をしているのですが、それによるとそれによると本当に大きな津波の被害を感 じさせるのは岩手県久慈市から。さらに南下して田老町に入ると街は空襲を受けたあとのようになり、大槌町はさらにひどい状況だったということです。
 一方、市街地の一部や役場の機能が残ったのが釜石市や大船渡市。被害は大きいものの「壊滅」といった被害ではなかったために、復興に向けたスタートも早かったそうです。

 原発事故についても、強制避難と自主避難、仮設住宅に入居した人と借り上げ住宅に入居した人、世代間の考えの差異を取り上げており、問題の複雑さの一端をうまく取り出していると思います。
  被災者が集中している仮設住宅は取材もしやすく、そこに住む人の意見はメディアにもとり上げられやすいですが、借り上げ住宅に住む人は個人情報の壁なども あってなかなか、メディアに登場しません。その結果、仮設住宅に多い高齢者の「早く帰りたい」という声がよくとり上げられることになります。

 また、「仮の町」などの復興に向けた検討のためのたたき台のアイディアがマスコミに報道されることによって、あたかも既定路線のように受け取られ問題となってしまうという196p以下の記述も、復興を進める難しさを感じさせるものです。

 このように具体的な問題点の指摘は興味深いのですが、全体を貫く理論には不満もあります。
 この本では「システム」を問題にしています。確かに今度の震災では広域化した「システム」が機能不全を起こしましたし、原発のような大きすぎて人間の手には負えない「システム」の存在を浮き彫りにしました。
 そして震災を踏まえての防災や復興の動きが更なるシステムの強化を生みかねないというのも著者の言うとおりでしょう。

 この「システム化」に対抗するために著者が持ち出すのは「共同体」です。著者は必ずしもその「共同体」を村落に限っていませんが、市町村合併によって「中間項」がなくなってしまったという議論から、この「共同体」の基本は村落なのだと思います。
 ただ、個人的には村落もまた「システム」だと思うのです。もちろんサイズが重要なのだということかもしれませんが、村落という「システム」も時に個人を抑圧します。

  また、福島第一原発の周辺地域のように、「いっしょに住む場所を失ったあとでも「共同体」は可能なのか?」という議論も必要でしょう。基本的に日本の村落 は地縁的な結合で成り立っています。そうした地縁が亡くなってしまった中で「何が「共同体」を成り立たせるものなのか?」という問題についての突っ込んだ 考察も欲しかったです。

 もちろん、これらの問題はひじょうに大きな問題で震災からまだ2年も立たない時点で簡単に論じられる問題ではないのかもしれませんが、もう少し緻密な議論が必要ではないかと思いました。

東北発の震災論: 周辺から広域システムを考える (ちくま新書)
山下 祐介
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長有紀枝『入門 人間の安全保障』(中公新書) 7点

先月出た、中公新書の細谷雄一『国際秩序』は、国際社会についての非常に面白い本でしたが、読んだ人の中には大国中心の国際社会の記述に不満を憶えた人もいるかもしれません。そんな不満に答えて、ある意味でその抜けた部分を補完するような本が同じ中公新書から登場。
 著者は「難民を助ける会」、「ジャパンプラットホーム」などのNPO法人の理事を務め、地雷禁止条約の策定交渉などにも携わった人物です。
 大国中心の国際社会からはこぼれ落ちた、あるいは大国によって翻弄される人びとの実態と、そうした現実に対する「人間の安全保障」というアプローチの内容を知ることができます。

 目次は以下のとおり。

 序章  私たちが生きている世界
 第1章 国際社会とは何か
 第2章 紛争違法化の歴史と国際人道法
 第3章 「人間の安全保障」概念の形成と発展
 第4章 「人間の安全保障」の担い手
 第5章 「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」
 第6章 「人間の安全保障」領域に対する取り組み
 第7章 保護する責任
 第8章 東日本大震災と「人間の安全保障」
 終章  「人間の安全保障」実現のために

 正直なところ、第3章の途中までは内容的にもやや硬く、抽象的な話がつづくので読みにくいかもしれません。特に第2章に関しては全体の内容からもやや浮いている気がしますし、本格的に論じるには歴史的な検討が甘い感じで、やや読むのが大変に感じる人や急いでいる人は第3章から読んでもかまわないかもしれません。
 
 また、この手の本を読むのに慣れていな人は思い切って第5章の「「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」」から読んでもいいと思います。
 ここでは、難民問題、通常兵器の蔓延、子ども兵、紛争ダイヤモンド、児童労働、HIV、ジェンダー問題など、「人間の安全保障」が取り組みべき分野が列挙されていて、「人間の安全保障とは何か?」ということがそうした問題から浮き上がるようになっています。
 紛争地域の問題だけではなく、イスラム圏における婚前交渉などをした女性に対する「名誉の殺人」、インドの持参金の少ない花嫁が殺される「ダウリー死」、広く行われている女性性器切除の問題なども取り上げており、「人間の安全保障」が取り組むべき分野の広さがわかると思います。

 さらに第8章では東日本大震災という日本人にとって身近なものを、「人間の安全保障」という視点から取り上げているので、「人間の安全保障」という概念が、難民や紛争地域に住む人々だけに適応されるものではなく、全世界の個人に焦点を当てた、かなり射程の広い概念だということも理解できるでしょう。

 ただ、理念は立派でもやはり現実には色々と難しい面もあるわけで、この本でも随所にその難しさはにじみ出ています。
 特に第7章の「保護する責任」は、その難しさを正面から認めていて読み応えがあります。
 ルワンダやコソボの悲劇を受けて、国際社会ではジェノサイドや民族浄化に対して武力行使をするため「保護する責任」という概念が打ち出されるわけですが、その後に起こったスーダンのダルフール紛争では「史上最大の人道危機」とまで言われながら、「保護する責任」が果たされたとは言えない状態でした。

 その理由として、著者はアメリカのイラク攻撃などが西側の人道的介入に対する疑念をもたせた点、そして「優先される自国民の保護」という要因をあげています。
 国際社会における人道的活動では、五大国ではないヨーロッパの中堅国家やカナダなどが大きな役割を果たしてきましたが、スレブレニツァではオランダ軍が、ルワンダではベルギー軍が自国の軍の安全を確保するために撤退し、結果的に悲劇をとめることができませんでした。
 同じように人道援助機関やNGOであっても職員の命が危険に晒されれば現地からは撤退してしまいます。こうした状況については著者も次のように認めています。
 自国民の生命という犠牲を払ってでも、他国で発生した深刻な人権侵害、ジェノサイドに対して、道義的・人道的理由から軍事的な介入を行う、あるいは自国民に多大な犠牲が発生しても介入を続ける、あるいはさらなる事態の悪化に対処して介入を強化するという国家は、民主主義国の中からまだ現れているとはいえません。(228ー229p)
 
 これはある意味当たり前で、大きな破局の前では「人間の安全保障」という考えも絵に描いた餅にすぎないのかもしれません。
 けれどもこの本を読めば、「人間の安全保障」という考えが、世界の様々な問題にアプローチするための一つの有効なツールであるということはわかるのではないでしょうか。
 「人間の安全保障」の限界を感じさせつつも、同時にその可能性を感じさせてくれる本だと思います。


入門 人間の安全保障 - 恐怖・欠乏からの自由を求めて (中公新書)
長 有紀枝
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中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』(岩波新書) 6点

現在の日本の政治の混迷を政党と有権者の関係のあり方を中心に分析した本。
 民主党政権の失敗を、マニフェストを一種の商品のように提示する「市場競争型民主主義」の行き詰まりと捉え、その打開策を模索しています。
 
 この本では、民主主義を「競争型民主主義」と「参加型民主主義」に分け、さらに「競争型民主主義」を「エリート競争型」と「市場競争型」に分類しています。
 「エリート競争型」は、エリートである政治家同士が競い合い選挙で有権者の委任を勝ち取るというタイプの民主主義で、選挙後は政治家に大きなフリーハンドが与えられます。この本ではシュンペーターの考えを用いて説明されています。
 一方、「市場競争型」は、アメリカのダウンズによって提示されたモデルで、政治家が有権者に対して商品のような形で政策を提示し、選挙によってその優劣を決め、当選後は政治家が有権者に約束した政策を実行していくというものです。
 まさにマニフェスト選挙というのは、この「市場競争型」の典型になります。
 
 日本では、政治腐敗に対する批判が高まり、1994年の政治改革では「競争型民主主義」を理念とした小選挙区比例代表制が導入されることになります。
 この時の改革の中心者、小沢一郎が考えていたモデルは「競争型民主主義」の「エリート競争型」でした。しかし、小沢一郎の結成した新進党は失敗に終わり、彼の当初の計画は挫折します。

 自民党に対抗する野党としては民主党が徐々にその地位を固めつつありましたが、民主党はさまざまな考えの政治家を抱えた政党であり、また「参加型民主主義」を実現していくほどの党組織もない政党でした。

 そこで採用されたのがマニフェスト選挙です。
 必ずしも一致した理念を持たない民主党は、マニフェストという政策パッケージを有権者に示すことでその支持を得ようとしたのです。
 しかし、著者によるとこのマニフェストは本家のイギリス労働党者とは違い、ほぼトップダウンで決められたもので、そこに党員や市民の「参加」の契機はありませんでした。

 こうしたマニフェスト選挙を著者は次のように批判します。
  選挙のたびに政党を選好する「そのつど支持」を含め、中長期的に支持する政党を持たない無党派層こそが、マニフェスト選挙が想定する有権者なのである。ところが、そのような有権者は、マス・メディアを媒介としてしか、政党に関する情報を得られず、なかでもテレビから大きな影響を受ける。そうしたテレポリティクスが、イメージ選挙を生み出す原因となる。(185ー186p)

 著者の主張のポイントは「参加」の重要性です。著者はハーシュマンの「発言」と「離脱」の概念を引きながら、政党に失望したから「離脱」するのではなく、そこにとどまって「発言」する有権者の重要性を説きます(197ー200p)。
 さらに著者は衆議院において比例代表の比率を高めることで、多党化を進めるべきだと考えています。「ある程度明確な理念を掲げる多様な政党が現れるならば、中長期的に支持する政党を持つ有権者が増えるに違いない」(203p)からです。

 この本と同じようにここ最近の政治流れを追って最後に選挙制度の改革を持ち出す本としては、小林良彰『政権交代』(中公新書)があります。
 それに比べると、この本は歴史的記述も理論の部分でもしっかりしていると思いますが、やはり個人的には納得いかない部分もあります。
 引用部分にもあるように、この本でも小泉政権における「テレポリティクス」的側面が強調されていて、小泉人気が小泉首相のそうした才能によるものとして論じられていますが、郵政造反議員の復党を契機に安倍政権の人気が失速したことや、最近の国政選挙でのみんなの党への根強い支持を考えると、実は「新自由主義的な改革」が都市部の住民から一貫して支持されているという見立てのほうが正しいのではないでしょうか。
 もしそうならば、総選挙における2005年→2009年→2012年の「有権者の揺れ」というのは、「有権者の揺れ」と言うよりは「政党の揺れ」なのかもしれません。
 そうだとすると、政党が国民の「発言」を聞けていないことこそが問題なのではないでしょうか?

 また、選挙制度の改革についてはやはりもっと本格的に論じるべきだと思います。
 フランシス・ローゼンブルース、マイケル・ティース『日本政治の大転換』では、中選挙区制から小選挙区比例代表制に変化したことによる日本の政治・経済・社会のさまざまな転換が描かれていましたが、実際、選挙制度がその国の社会制度を規定する面もあります。
 著者は比例代表制によって、「明確な理念を掲げる多様な政党」が出現すると見ていますが、「個別的利益を主張する多様な政党」が出現するかもしれません(例えば、「労働組合党」、「農協党」的なもの)。
 個人的に民主党政権という一度の失敗で小選挙区制を見限るのは少し早い気がします。

現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)
中北 浩爾
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坂野徳隆『日本統治下の台湾』(平凡社新書) 6点

かなり大作を想像させるタイトルですが、タイトルの前に「風刺漫画で読み解く」とのサブタイトルが入っています。
 この本は国島水馬(くにしますいば)という画家が『台湾日日新報』で描いた風刺漫画を紹介しながら、日本統治下の台湾の実情について紹介した本で、国島水馬が活躍した1920年代から30年代の台湾の日本ではあまり知られていない姿が風刺漫画を通してわかるようになっています。

 台湾は日本が植民地化する前から独立国であった朝鮮と違って、日本が植民地化した時にはきちんとした統治機構やインフラがない状態でした。そこに児玉源太郎台湾総督と後藤新平民政長官のコンビがインフラや公衆衛生の整備に力を尽くし、ようやく財政的にも自立する道筋が見えてきます。
 そんな時代に台湾にやってきたのが国島水馬。彼は1922年に始まった日本人(内地人)と台湾人(本島人)の共学、台湾人と日本人の結婚が許された1932年の共婚法、1922年に導入され日本へと輸出されていった蓬莱米(ほうらいまい)、台湾でも流行したカフェーなど、さまざまな事象をマンガに描いていきます。
 国島の漫画自体は、絵柄もコロコロ変わり、わかりやすかったり、わかりにくかったりもするのですが、とにかくあまり知られることの少なかった日本統治下の台湾の風俗を活写しています。

 他にも1932年には台湾の北投温泉の近くに長野の善光寺の別院が建てられ、東本願寺や西本願寺も豪壮な寺院を建てたこと(137ー138p)、関東大震災では巨額の義捐金が集まったこと(東日本大震災でも台湾からは巨額の義捐金が寄せられました)、関東大震災直後には台湾にも罹災者の避難、移住が相次いだことなどが語られています。

 ただ、もちろん台湾は植民地だったわけで日本の統治の問題点もマンガでは風刺されています。
 関東大震災の義捐金にしても、ピストルを突きつけられて義捐金をとられる台湾紳士のマンガが載っていたりしますし(67p)、震災の影響で不景気に陥った台湾の姿なども描かれています。
 
 また、1930年に起きた霧社事件についても触れられています。霧社事件は、台湾の原住民である霧社セデック族の人びとが霧社公学校の運動会を襲撃し約140人の日本人が殺害された事件で、これに対して日本軍は毒ガスまで用いて徹底的に弾圧しました。
 国島の漫画でもこの霧社事件はとり上げられており、日本の軍人が弾圧すべき蕃族と味方として利用した蕃族を戦わせるような漫画も載っています(104p)。
 
 さらに1930年代後半になると皇民化政策も始まり、1936年には教師が生徒に「コノサイ日本がイヤナラ支那へカエリナサイ」という文章を読むように命じる漫画なども登場します(181p)。
 1937年には「国語常用家庭制度」によって日本語を話す家庭が優遇される制度が始まり、台湾でも皇民化の締め付けが強まります。
 そして国島の活動も1940年の「漫画通年史」の移動展を最後に途絶えます。検閲が比較的緩かった台湾でもだんだんと風刺漫画の居場所はなくなっていくのです。
  
 全体的に国島の経歴や台湾の歴史などもうちょっと突っ込んで欲しい部分もありますし、構成もやや甘いところがあると思うのですが、とにかく今まであまり知られていない部分に光を当ててくれた本であることは確か。
 台湾や日本の植民地支配に興味がある人にはお薦めです。

日本統治下の台湾 (平凡社新書)
坂野 徳隆
4582856640
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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