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2022年05月

デイビッド・T・ジョンソン、平山真理、福来寛『検察審査会』(岩波新書) 7点

 一般の市民が検察の不起訴処分に対して異議を唱えることができる検察審査会。2009年の法改正によって、同一事件で2回、起訴すべきとの判断が出ると検察の意向にかかわらず強制的に起訴されることになり、実際に強制的に起訴される事件も起きています。

 ただし、この検察審査会というのは不思議な仕組みで、検察に市民の声を反映させることを目的としていながら、検察の公訴権限を抑制するのではなく、むしろ公訴を控えようとする検察に起訴させるという形になっています。権力を抑止する仕組みとも言い難いのです。

 本書はそんな検察審査会について、さまざまな角度から分析し、その意義が一体どのようなところにあるのかということを探った本になります。
 本書を読むと、一見するとわかりにくい検察審査会の存在意義と同時に、日本の検察や司法制度の問題点というものも見えてきます。

 目次は以下の通り。
第1章 検察官と検察審査会
第2章 検察審査会の誕生と運用
第3章 検察審査会の影響
第4章 強制起訴
第5章 教訓

 日本の検察官は起訴について大きな裁量をもっており、裁判所で有罪が得られる見込みが高いケースのみを起訴しています。その結果、日本の刑事裁判の有罪率は100%に近いものになっています。
 また、有罪になる見込みがあっても「起訴猶予」を選ぶこともでき、近年では送検された事件の55%以上が起訴猶予となっています(4p表1−1参照)。

 この結果、拘禁率(人口10万人あたりの受刑者数)はアメリカが639人、タイが549人、台湾が258人、ニュージーランドが188人、中国が121人、イギリスが114人、ドイツが69人に対して、日本は39人と非常に低くなっています(5p表1−2参照)。
 これは犯罪が少ないと同時に、日本の検察が保守的な起訴方針をとっているがゆえの数字と言えます。
 また、基本的に歓迎すべき数字かもしれませんが、この低い拘禁率の裏で、自らを傷つけた加害者が十分に罰せられていないと感じる被害者もいることでしょう。

 先ほども述べたように日本の検察官の裁量は大きく、その権限は強力です。一方で、その権力に見合った説明責任がなされているかというと、そうではないと感じる人が多いでしょう。
 裁判官が検察官の起訴権限を監視するといったことはありませんし、検察官の行動を外部からチェックする仕組みはほとんどありませんが、その例外とも言えるのが検察審査会なのです。

 本書ではまず、検察審査会に「被害者」「不処罰」「民主主義」という3つの観点からアプローチしています。
 近年まで、日本の司法制度は被害者のニーズに応えてきたとは言い難いものがありました。そこで2000年の刑事訴訟法の改正で被害者等が意見陳述できるようになり、08年の改正では被害者参加制度が導入され、情状に関する証人尋問や、被告人に直接質問することが可能になりました。
 このように法廷では被害者の立場は強化されましたが、そもそも日本では法廷で審理される事件が少ないわけで、そこに検察審査会の出番があるのです。

 「不処罰」については過剰拘禁よりはマシではないかという考えもあると思いますが、本書では特定の被疑者や犯罪が起訴されにくいことに注意を向けています。
 起訴されにくいのは、例えば、警察官や政治家であり、事件としてはホワイトカラー犯罪やDVなどの家庭内のもの、そして性的犯罪です。
 こうした傾向を修正することが検察審査会にはできるかもしれません。

 最後に「民主主義」ですが、例えば、アメリカでは地区検事長は選挙で選ばれており、検察においても民主主義のしくみが働いていると言えます。
 検察官についてはその独立性が重要だとされており、単純に政治家が統制することには問題もあります。検察と民主主義というのは難しい関係ではありますが、検察審査会は検察の民主化の一助になるかもしれません。

 日本の検察審査会という制度は世界的に見てもユニークな制度になります。
 戦前の日本には1923年に公布され、28年に施行された陪審法があり、死刑又は無期刑にあたる刑事事件は原則陪審(ただし辞退もできる)、懲役3年を超える刑事事件については請求陪審事件として被告人が請求した場合には陪審にかけられることになっていました。
 しかし、1930年代の後半から陪審の人気はなくなっていき、1935年以降、誰も請求陪審事件を選択しない状態となります。そして、1943年に陪審制は停止されました。

 日本の陪審制衰退の要因として文化的なものがあげられることも多いですが、本書では陪審制を選択した被告人は控訴ができなかったという制度的な問題を指摘しています。また、裁判官は、陪審員の出した結論と自らの心証が異なるときは陪審評決を拒否することができました。
 陪審裁判は裁判官裁判よりも多くの無罪判決を出しましたが、これも司法当局が陪審制を軽視する原因になったといいます。

 戦後、GHQは「検察の民主化」を目的に、検察の起訴権をチェックする一般市民で構成される大陪審と、公選で地方の主任検察官を選出する検察官公選制という2つの改革案を提出したといいます。
 これに対して、日本の検察は受け入れ難いとし、代わりに検察審査会という制度を提案したのです。GHQも日本側の強い反対を受けて、この検察審査会という制度を受け入れることになり、ここに世界的に見てもユニークな制度が始まるのです。

 そして、2004年の改正で強制起訴という制度が導入されるわけですが、この改革には3つの背景がありました。
 まず1つ目は犯罪被害者の権利運動であり、2つ目は司法制度改革でした。そして3つ目が2000年に起きた福岡高裁判事妻ストーカー事件でした。
 福岡高裁判事妻ストーカー事件は、判事の妻が彼女の元交際相手の男性と三角関係にあった女性に脅迫メールを送ったり、被害者の娘の通う小学校に被害者を中傷するビラを撒いたりした事件ですが、このとき福岡地方検察庁の次席検事が福岡高裁判事に操作情報を漏らし、さまざまなアドバイスまで行っていました。
 次席検事は国家公務員法の守秘義務違反に問われたものの、検察は「嫌疑不十分」とし、検察審査会が「不起訴不当」の結論を出したものの、検察は再びこの検事を不起訴としました。
 
 結局、次席検事は引責辞任、判事も退官し、判事の妻の懲役2年の実刑判決を受けることになるのですが、この事件は検察に対する国民の信頼を大きく傷つけました。
 検察の持つ起訴権の裁量が問題となり、これが強制起訴制度へとつながっていくことになったのです。

 検察審査会は全国に165か所あり、地方裁判所や主な地方裁判所の支部内に設置されています。検査審査会は選挙人名簿から無作為に選ばれた11人で構成され、任期は6ヶ月です。任用開始期間をずらしているため、およそ3ヶ月で半分が入れ替わります。ですから、検察審査会の1回目の議決と2回目の議決ではメンバーの顔ぶれが変わっていることもあります。
 
 検察審査会は独立して職権を行使しますが、実際は裁判所の職員で構成される検察審査会事務局によって運営されており、事務局の担当者が非公式の法律顧問を務めるような状況になっています。
 検察審査会における2回目の審査では弁護士から選ばれる「審査補助員」がつくことになっており、法律面からのアドバイスを行います。

 検察審査会は犯罪被害者などからの審査申立を受けますが、申立がなくても検察審査会の過半数の議決によって独自に審査を行うこともできます。
 
 審査の結果としては、不起訴が適切という「不起訴相当」、「起訴されなかったことは不適切である」とする「不起訴不当」、「起訴所運が適切である」とする「起訴相当」があります。不起訴相当と不起訴不当は過半数の議決でできますが、起訴相当は2/3以上、つまり8人以上の特別過半数が必要になります。

 1949〜89年までの40年間で検察審査会は年平均1930件の事件を審査し、不起訴相当と起訴相当となったのはその6.8%ほどです。このうち検察が処分を変更したのは20%です。つまり検察審査会が扱った事件で検察が処分を変更したのは1.4%となります(68p)。
 
 では、検察審査会の存在は日本の司法制度にどのような影響を与えているのでしょうか?
 1989〜2019年の30年間に、検察審査会に対して年平均3268件の申立があります。ただし、これは1993年の申立数4万件超えという外れ値の影響(金丸信に対する捜査が国民の怒りを引き起こした)で、これを除くと年平均2000件ほどです(86p表3−1参照)。
 検察審査会の審査は申立を受けるケースと職権で行うケースがありますが、申立のケースが圧倒的に多く89〜19年の平均で12対1ほどです。
 扱う事件は2019年の統計では傷害・同致死が13.8%、職権乱用が12.8%、文書偽造が12.3%、詐欺が9.1%となっており、2〜4位はいわゆるホワイトカラー犯罪です(92p表3−2参照)。

 検察審査会が出す結論のうち、起訴相当と不起訴不当は検察への差し戻しであり「検審バック」と呼ばれるものになります。
 96−97pの表3−4に過去の検審バックの統計が示されていますが、最初の5年間は起訴相当が10%を超えており、かなり積極的に起訴相当の判断が示されています。ただし、この数字は低下していき、1978年以降1%を上回る年はないです。
 一方、当初は低かった不起訴不当は起訴相当の減少に従って増えますが、93年と94年の外れ値っぽいのを除くと高くても80年以降は3〜6%台です。
 
 検審バックの影響ですが、2001〜19年について見ると、検審バックの22%について検察は不起訴処分から起訴処分へとその判断を変えています(103p表3−5参照)。
 この数字を高いと見るか低いと見るかは判断の分かれるところかもしれませんが、一般的に譲歩しない検察官としてみれば大いに再考していると言えるかもしれませんし、この数字は近年になって上昇しています(105p表3−6参照)。
 特に起訴猶予を起訴に変更したケースは1997〜2019年にかけて34.3%にのぼります(107p表3−7参照)。一方、嫌疑不十分を起訴に変更したケースは19.2%です(108p表3−8参照)。
 検察バックを受けて、起訴された被告人のうち、実刑は11%、罰金刑60%、執行猶予の懲役刑(23%)、無罪6.6%であり(114p)、比較的軽い判決が多いと言えます(だから検察は起訴しなかったと考えられる)。

 検察審査会は検察に正当性を与えているだけだとの見方もありまが、検察バックに対してそれなりの割合で処分を変更していること、また、検察審査会が存在することが検察に与えるプレッシャーというのもあるはずで、著者たちはそれなりにポジティブな影響を与えていると見ています。

 強制起訴の制度ができてから12年で実際に強制起訴に至ったのは10件です。本書の第4章ではそのすべてがとり上げられています。
 ①「明石花火大会歩道橋事件」、②「JRA福知山線脱線事件」は、それぞれ責任が上の立場の者の責任を問うために強制起訴となりましたが、①は時効が完成しているとして免訴、②は無罪判決となっています。

 ③「沖縄未公開株詐欺被告事件」は知名度のない事件ですが、投資会社の社長の被告人が上場する見込みのない未公開株の購入を持ちかけて3600万円を騙し取ったという事件です。不起訴にした検察に対して検察審査会は強制起訴という判断を下しましたが、立証が難しい詐欺罪ということもあって無罪になっています。

 ④「陸山会事件」は小沢一郎が強制起訴されましたが、無罪となっています。この事件に関しては、現役の政治家が巻き込まれた事件でもあり、政治的な意向なども取り沙汰されましたが、裁判で秘書の供述調書の一部が虚偽であることが明らかになるなど、検察の問題点も明るみに出ました。

 ⑤「尖閣諸島中国漁船衝突事件」では、すでに帰国した船長を強制起訴しましたが、起訴から2ヵ月以内に起訴状の謄本が被告人に送付されない場合は公訴の提起はさかのぼってその効力を失うという刑事訴訟法の規定によって、公訴は棄却されました。

 ⑥「徳島県石井町長暴行事件」は強制起訴された事件で初めて有罪判決が下された事件です。被告人は石井町の町長で、地元のバーでフィリピン人ホステスの顔に左拳を押し付けて暴行したとされました。検察は起訴猶予の不起訴処分としましたが、検察審査会が2度に渡って起訴相当の議決を出し、強制起訴の結果、科料9000円の有罪判決が下っています。

 ⑦「ゴルフインストラクター準強姦被告事件」は、鹿児島のゴルフインストラクターの男性が当時18歳の生徒の女性に対して強引に性行為に及んだ事件です。被告人は女性の両親の前で謝罪し、二度と姿を見せない、ジュニアの選手の指導しないといったことを約束したために告訴をしないことで合意しましたが、その後、他のジュニア選手の指導を続けていたことを知り、被害届を出しました。
 検察は不起訴処分にしましたが、検察審査会は2度に渡って起訴相当の議決を強制起訴に至っています。結局、被告人は無罪となりましたが、この裁判で明らかになった事実などをもとに、民事では男性に330万円を支払うように命じる判決が下っています。

 ⑧「柔道教室学生重傷事件」は強制起訴で有罪判決が下された2件目の事件です。長野県の柔道教室の指導者が小学校6年の男子児童に片襟体落としという投技をかけて児童は意識不明の重体となりました。
 この有罪判決は柔道事故において刑事責任が認められた画期的なものとなり、これが1つのきっかけとなって柔道指導における事故防止の重要性が認識されることになりました。

 ⑨「東名高速道路あおり運転をめぐる名誉毀損事件」は、あおり運転によって高速道路で車を停止させ、その結果夫婦二人が亡くなった事件から派生した事件です。この事件では、被告人とたまたま同姓であるということから福岡県の建設会社の社長の家に脅迫メールや電話が殺到し、福岡県警はネットに虚偽の書き込みをした11人を書類送検しますが、全員不起訴となりました。
 これに対して、検察審査会は11人のうち9人を起訴相当と判断します。検察はこのうち6名を略式起訴しますが、検察審査会は残った3人のうち1人を強制起訴としました。しかし、強制起訴された被告人は裁判開始前に遺体で発見されています(自死と見られる)。
 日本における「起訴」というものの衝撃の大きさを感じさせる事件でもあります。

 ⑩「福島第一原発事件」は東電幹部の原発事故の責任を問おうとしたものですが、無罪となっています。ただし、裁判の過程の中で東電が虚偽のデータを出していことや隠されていた安全上の問題が明らかになりました。

 これらの事件を見ると、①、②、③、④、⑩は組織的なホワイトカラー犯罪で、これらの犯罪を立証することの難しさや、世間の判断と法的な責任のズレを感じさせるものとなっています。検察審査会の判断はこうした犯罪をどのように扱うべきかということを問いかけているのかもしれません。
 また、第5章でもとり上げられているように、⑦にみられる性犯罪も有罪にするのが難しいという問題を抱えています。

 このように本書はなかなか一般的に知られていない検察審査会の実態と影響を分析しています。
 検察審査会は検察の起訴を制限するのではなく、不起訴の見直しを求める組織で、国家権力を制限しているものとは言えません。ただし、検察にアカウンタビリティを求める存在でもあり、本書に書いてあるようにプラスの影響もあります。
 検察審査会がどの程度まで活性化し、どのくらいの影響力をもつべきなのかということは本書を読み終わったあとも判断できませんが、興味深い内容を持った本であるのは間違いないです。

大空幸星『望まない孤独』(扶桑社新書) 7点

 出たときはチェックしていなかったのですが、ネットで面白いとの評判を目にして読んでみました。
 著者は20代ながら、24時間対応の無料の「あなたのいばしょチャット相談」を運営するNPO法人あなたのいばしょの理事長でもあり、菅内閣における孤独担当大臣(初代は坂本哲志)創設の立役者ともなった人物です。ちなみに下の名前は「こうき」と読むそうです。

 このように書くと華々しい活躍をしている若者といった感じですが、著者が大学在学中に無料のチャット相談を立ち上げたのは、自らのつらい体験があったからです。
 本書では、まずは著者の体験が語られ、「望まない孤独」という問題がさまざまなデータとともに打ち出され、さらに自分のような立場を救うために始めた活動や運動が紹介されています。
 本書はこのバランスが非常に良く、自らの壮絶な体験を語るだけでもなく、かといってデータをまとめただけでもなく、血肉と数字の双方が入った内容になっています。
 また、著者自身も若く、受けている相談も若い人からのものが多いために、現在の若者の問題の一端を見せてくれるような内容にもなっています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 あなたのいばしょ設立までの経緯
第2章 イギリスで定義された「望まない孤独」とは
第3章 増え続ける子どもの自殺相談
第4章 懲罰的自己責任論で苦しむ人々
第5章 匿名相談チャットデータで見る“死にたい人”の思考
第6章 世界が注目する日本の孤独政策

 まず、第1章では著者の生い立ちが語られています。著者は愛媛県の生まれで一般的な中流家庭でしたが、著者が小学生に入る頃から両親の間に喧嘩が絶えなくなり、著者が小学校5年生のと気に両親は離婚します。
 母親が家を出ていったことによって著者は父親と暮らすようになりますが、父親とはうまくいかずに不登校になり、ついには入院することになります。
 それを聞きつけた母親が連絡をとり、著者は東京に出ていた母親と暮らすようになるのですが、母親はすでに再婚しており、著者の「居場所」はありませんでした。

 中学生になった著者は友達とはうまくやっていたものの、過程ではネグレクト状態でした。
 在学中に生徒全員に留学のチャンスがあるという高校に入りますが、留学先を決める面談に親は来ない状態だったといいます。それでもニュージーランドに留学し、著者はそこで普通の家庭の温かさに触れます。
 しかし、帰国すると母親は離婚して精神状態が不安定になっており、著者も追い詰められました。そのとき著者は高校の担任にメールを送りますが、そこで担任が迅速に、そして親身になって行動してくれたことが著者を救いました。
 「信頼できる人」にめぐり合った著者は、その後、さまざまなアルバイトを重ねながら大学に入学し、そこで自分のように孤独に苦しむ人を救うためのNPOを友人と立ち上げました(ここでの紹介は本当に「あらすじ」という感じなので、著者の苦悩についてはぜひ本書を読んでみてください)。

 著者が取り組んだのがチャットによる相談です。
 自殺などの相談窓口といえば電話ですが、慢性的な相談員不足であり、24時間対応も難しいです。
 相談員になるには研修のためにお金を払ってなる必要がありますが、そうなると相談員は余裕のある高齢者が中心になります。そうした人々が対応できるのは平日の昼間であることが多く、もっとも相談件数が多くなる深夜から明け方に関しては対応できません。2020年の自殺者数を時間帯別に見ると「不詳」に次ぐのが「0〜2時」です。

 そこで、著者たちは相談窓口をチャットにし、24時間対応を目指しました。対応が難しい深夜に関しては海外在住の日本人の協力を得ることで対応しています。
 チャットであっても、書類選考・面接・座学研修・実地研修を行い、それをクリアーした人を相談員としており、相談者を不用意に傷つけないように注意を払っています。また、チャットでは相手の性別などがわからない、非言語コミュニケーションが使えないといった難しい点もありますが、こうしたことを踏まえながら著者たちはさまざまな模索をしています。

 第2章では「望まない孤独」という本書のタイトルにもなっている言葉が説明されています。
 「孤独」というのは、協調性が重視される日本ではマイナスにとられることも多いですが、だからこそ、「孤独が人を強くする」といった言説も見られます。
 英語では孤独は、「Solitude」または「Loneliness」ですが、前者には「積極的な孤独」という意味があるのに対し、後者は「消極的な孤独」、つまり「望まない孤独」であり、著者が本書でとり上げているものになります。
 「Loneliness」の定義としては、Perlman、Peplauの「社会的関係のネットワークが量的あるいは質的に不足しているときに生じる不快な経験」(58p)という定義がありますが、誰かに頼りたくても頼れないというのが、「望まない孤独」なのです。

 「孤独」を社会問題としてとり上げたのがイギリスです。
 2018年にメイ首相が「孤独担当相」の設置を発表しましたが(実質的には政務次官級の役職)、この背景にはそれまでの取り組みとジョー・コックス議員の死がありました。
 イギリスでは2010年にNPOが高齢者の社会的つながりを創設することを目的に孤独廃絶のためのキャンペーンが行われましたが、この問題に取り組んだのがジョー・コックスという労働党の女性議員です。
 彼女は選挙区を回る中で高齢者だけでなくあらゆる世代の人が孤独の問題を抱えていることに気づき、超党派の委員会設置を目指していましたが、イギリスのEU離脱を問う国民投票の直前に襲撃されて亡くなってしまいます。EU残留派の議員を狙った極右思想をもった人物の犯行でした。
 
 彼女の死後、彼女の名前をとった超党派の委員会がつくられ、あらゆる世代の孤独に取り組むことを政府に求めました。そして、これが孤独担当相の設置につながるのです。
 指標の開発なども行われ、その結果、孤独を慢性的に感じているのは、高齢者ではなく、16〜24歳の若者であるという結果も得られました(74p)。

 第3章では子どもの自殺がとり上げられています。
 新型コロナウイルスが広がった2020年、日本では自殺者数が11年ぶりに増加し2万1081人となりました。
 2003年に日本の自殺者は3万4427人と最多になり、2006年に自殺対策基本法が制定されています。その効果もあったのか、日本の自殺者数は2010年から19年まで減少傾向を続けました。
 
 2020年には子どもの自殺も注目されました。休校の影響などもあったせいか、2020年の小中高生の自殺者数は前年比25.1%増の499人にのぼりました。
 ただし、子ども(19歳以下)の自殺は、他の世代の自殺が2010年から大きく減ってきたのに対してほぼ横ばいを続けていました。2003年の小中高生の自殺者は318人ですが、2019年の自殺者は399人です(82p)。

 それにも関わらず、子どもの自殺はあまりとり上げられてきませんでしたし、とり上げられるときはいじめ絡みのことが多く、「子どもに自殺=いじめ」という固定観念も強いです。
 しかし、2020年の小中高生の自殺者の原因・動機の上位10項目に「いじめ」は入っておらず、1位は「その他進路に関する悩み」の55人、次いで「学業不振」が52人、その次が「親子関係の不和」が42人で、「いじめ」は6人で「失恋」の16人よりも少ないです(86p)。
 もちろん、自殺の原因の特定は困難ですが、「いじめ」よりも「学業不振」が圧倒的に多くの子どもを死に追いやっているというのは大人から見ると意外かもしれません。

 こうした中で、著者たちが子どものアプローチする方法として有効だと考えたのがチャットです。子どもの自殺対策として相談窓口の電話番号が掲載されることが多いですが、現代の子どもたちは電話を使用することがほとんどなくなっています。「電話をかける」ということは子どもにとっては大きなハードルになり得るのです。

 第4章では寄せられた相談をとり上げながら対応の仕方などを紹介しています。
 相談の中には虐待や性的虐待などに当たるケースもあり、すぐにでも児童相談所に通告すべきケースもありますが。いきなり「通告します」では、そこで関係が切れてしまう恐れもあります。まずは信頼関係を築いた上で、タイミングを見計らって児童相談所や警察への連絡を提案するようにしているといいます。

 また、若い世代の場合は、「なぜだかわからないけど死にたい」という相談も多いです。友だちもいる、家族との関係もそんなに悪くない、でも死にたい、というものです。
 こうしたケースは「自分は恵まれているのにできない」といった「自己否定ループ」に陥っていることがあり、とりあえずは褒めるような対応がとられるといいます。

 ただし、自殺者が多いのは若者ではありません。まず、自殺者の7割近くが男性であり、自殺率が最も高いのは50〜59歳です。 
 しかし、男性は相談しません。著者の運営するチャット相談でも相談者の約7割が女性、男性が15%ほど、「その他」を選ぶ人も15%ほどです。
 コロナ禍においては女性の自殺者の増加が見られました。リモートワークや休校によって夫や子どもと過ごす時間が増えてストレスを溜め込んだ女性も多かったですし、女子高生の自殺も増えました(女子中学生や女子大学生と比べても高校生の伸びが目立った)。
 また、女性に非正規雇用が多く、解雇や雇い止めなどにあいやすかったことも自殺が増えた原因だとも言われます。

 ただ、2020年の女性の自殺の原因・動機を見ると、過去に比べて増えたのは「勤務問題」や「男女問題」で、勤務問題で最も多かったのは「職場の人間関係」でした。必ずしも経済的な困窮のみが原因とは言えません。

 近年、女性の活躍が言われていますが、「責任ある立場の人ほど周囲に頼りづらい」ということもあり、女性が今の男性と同じように責任あるポジションにつけば、女性の自殺者がさらに増加することも考えられます。
 中高年の男性は、責任を抱えたまま誰にも相談できずに苦しんでいるケースが多く、「頼る・相談する」という行為に踏み出すまでにハードルがあります。
 著者は男性が「悩んだり苦しんだりするのは自分が至らないせいだ」という懲罰的自己責任論を内面化しているといい、これが社会全体にも広がっているといいます。

 第5章ではチャット相談のデータから「死にたい人」の思考を読み取ろうとしています。
 著者の運営する相談窓口には1日80万字のデータが集まるといいます。その中には「今すぐ死ぬ」といったものもあれば、「雑談がしたい」といったものもあります。著者らはデータを分析しながら、より切迫した相談をAIで判定するしくみを取り入れてます。

 まず、先ほども触れましたが、相談窓口を利用する7割が女性です。利用される曜日は比較的均等ですが、月曜の利用の多くは日曜の深夜0時以降のものであり、日曜が多いと言えそうです(132p)。時間帯では20〜0時台が多いです(133p)。
 人口10万人あたりの相談件数を見ると、1位は東京、2位が宮城、つづいて京都、神奈川、奈良となっています。基本的には大都市とその周辺が多いですが、宮城が多い理由に関して、著者は宮城県の不登校の多さとの関連を示唆しています。宮城は人口1000人あたりの不登校数が2020年まで5年連続で全国1位だったのです。
 ただし、自殺率となるとまた違った様子になり、相談件数1位の東京の自殺率は全国40位、4位の神奈川は全国で自殺率が最も低くなっています。

 あなたのいばしょが設立されたのは2020年3月であり、ちょうど新型コロナウイルスが流行していった時期でした。相談でも「外出自粛」や「家」「自宅」「在宅」といった言葉が多く使われるようになります。
 一番多かったのが「育児家事のストレス」、次に「経済的不安」、さらに「家が安全な場所ではない」といった悩みが続きます。その後も相談は伸びていきますが、特に芸能人の自殺報道があると相談件数が伸びるとのことです。
 最初の緊急事態宣言のときはあまり使われなかった「学校」という言葉も、緊急事態宣言が2回目、3回目、4回目となる中で増えていっており(147p)、学校の行事の中止や延期、あるいは自分が感染して学校にいけなくなることを不安に思う相談などがあったといいます。

 また、「お金」という言葉も多いですが、データでも無職の人ほど孤独を感じる傾向があり、自殺念慮も強いです(150−151p)。やはり経済的な余裕と心の余裕は密接に関わっています。

 最後の第6章では現在の日本の動きが紹介されています。
 2021年に孤独担当大臣が誕生したわけですが、実はこれは著者の狙いでもありました。相談体制を強化しても根本的な「孤独」の問題が解決されなければ、いずれ相談体制はパンクしてしまいます。
 そこで著者は「孤独」が社会問題として捉えられるための最短ルートとして、孤独を「政策課題の対象」とすることを考えました。そして、その方法として孤独担当大臣の設置を政府にはたらきかけたのです。

 そこで、「国として孤独対策に取り組む意思の明確化」、「効果的な対策のため、孤独に関する調査研究を推進する」、「社会全体で孤独対策を実施する体制を整える」、「孤独に対するスティグマの軽減と正しい理解の普及」、「すべての人が頼れる存在にアクセスできる体制を整える」という5つの柱を掲げ、政治にはたらきかけました。
 それぞれの項目にはさらに細かい目標がある、例えば、最後のアクセス体制については、現在相談窓口の電話番号がありすぎることを指摘し(例えば東京都が児童生徒に配布した案内には13の番号が記されている(185p))、3桁の全国共通ダイヤルの設立なども求めています。

 こうした著者の行動に応えたのが自民党の鈴木貴子や国民民主との玉木雄一郎、伊藤孝恵、立憲民主党の蓮舫らで、特に鈴木貴子が当時の官房長官の加藤勝信につないでくれたことから一気に動き出し、孤独担当大臣の設置へとつながったのです。

 本書を読むと、自らの経験を土台にしながらも、そこから「どうしたらより多くの人を助けられるのか?」ということを冷静に考え、行動し続けている著者の姿が見えてきます。
 「自分の経験を活かして社会問題にアプローチする」というのは多くの人が考えることではありますが、ここまで見事にそれをやっているケースも珍しいでしょう。孤独の問題に限らず、なにか社会問題にアプローチしようと考えている人にとっても参考になる本です。
 また、なかなか見えにくい今の若者の悩みの一端を教えてくれる本でもあります。若い人と接する機会のある人にも得られるものが多い本だと思います。




小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方』(岩波新書) 8点

 「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の第1巻。今年度から始まった高校の「歴史総合」を見据えて、「歴史総合」の議論にも大きな影響を与えてきた著者2人が、岸本美緒、長谷川貴彦・貴堂嘉之・永原陽子・臼杵陽をゲストに迎えて、歴史に関する本を読みながら近現代を中心とした世界史と歴史学について考えるという構成になります。
 章ごとに3冊の本がとり上げられており、それを著者2人+ゲストが紹介しながら、時代の特徴や歴史学の展開を語っていく形で、刺激的な議論がなされています。
 ただ、前半については文句がなしですが、後半の本のセレクションについては個人的には大いに問題があるように感じます。

第一章 近世から近代への移行
とり上げられている本:大塚久雄『社会科学の方法』、川北稔『砂糖の世界史』、岸本美緒『東アジアの「近世」』
ゲスト:岸本美緒

 まずは戦後を代表する知識人でもある大塚久雄の著作がとり上げられています。大塚は日本の「近代」が不十分なものであったとの反省のもと、イギリスの「近代」を生み出した人々の精神に迫ろうとしています。
 大塚は「ロビンソン・クルーソー」というわかりやすい類型をとり上げながら、近代を生み出した人々のエートスを分析したわけですが、「合理性」や生産の局面を強調する議論には批判もあります。
 また、大塚の時代は海外に行くことは難しく、欧米の二次文献にあたって理論を組み立てていましたが、その後、日本の研究者も海外で一次文献にあたるようになり、大塚の研究が参照されることは少なくなりますが、歴史教育の分野ではまだ大塚の枠組みの影響は強いと言います。

 一転して、川北稔『砂糖の世界史』は砂糖という商品に注目して国の枠を超えた歴史を描こうとするもので、産業革命を生み出したものはイギリスの小経営のエートスなどではなく、カリブの奴隷を使った砂糖のプランテーションがイギリス本国にもたらした富こそがその原動力だったという主張をしています。
 『砂糖の世界史』は世界システム論に依拠しているわけですが、同時に消費の局面にも目を配っているのが特徴と言えます。

 これら2冊の紹介が終わってから岸本美緒が登場するわけですが、まずは「近世」という「近代」の前の時代を表す概念が検討されています。
 岸本はあえて「近世」という時代区分の内容的指標については論じておらず、16〜18世紀にかけてアジアに登場した銀というモノの流れを軸にした新たな世界といった意味合いでこの言葉を使っています。
 世界システム論のような中心−周辺の図式ではなく、銀、さらには生糸やニンジンといった商品でつながりながら、東アジアに中国・朝鮮・日本といったそれぞれに特徴のある社会が成立したことを論じていくのです。
 単線的な発展論ではない歴史の姿が打ち出された議論と言えるでしょう。


第二章 近代の構造・近代の展開
とり上げられている本:遅塚忠躬『フランス革命』、長谷川貴彦『産業革命』、良知力『向う岸からの世界史』
ゲスト:長谷川貴彦

 遅塚忠躬(ちづかただみ)『フランス革命』は「歴史における劇薬」との副題があるように、フランス革命の理想と悲惨さを表裏一体のものとして描いた本になります。
 ここでは、フランス革命における犠牲の大きさと三谷博が『日本史のなかの「普遍」』で指摘する明治維新の死者の少なさを比較したり、革命主体の決断に焦点を合わせる遅塚忠躬『フランス革命』と革命を生み出した諸要因の相互作用に注目した柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』を対比させたりしながら、「近代」という時代に対するフランス革命の意味を探っています。

 一方、同じ「革命」という名がついていながらドラマ性がないのが産業革命です。ここでは『産業革命』の著者の長谷川貴彦をゲストに迎えて議論が行われています。
 産業革命については実はGNPの伸びなどは大したことがなかったという指摘もありますが、労働力の移動や都市化、労働時間の増加、栄養状態の悪化などさまざまな変化がありましたし、何よりも「有機物依存経済」から「鉱物依存経済」への大きな転換があったと言います。これによって土地の有限性という足枷が外れたのです。

 長谷川によれば、市場経済と共同体の解体を説明するときに、内部から市場が発展し共同体が解体するという内的要因を重視する説明と、外部から市場経済が浸透して共同体が解体するという外的要因を重視する説明がありますが、この両者をうまく結びつけようとしたのが自分の狙いだと言います。
 そして、イギリスでは長期的で緩慢な動きだった工業化が、他国に輸出されると、まさに「革命」というほどに激烈な変化を引き起こしたと言います。

 3冊目の良知力(らちちから)『向う岸からの世界史』は1848年の革命を扱った本になります。
 本書は1848年の革命において「プロレタリアート」と呼ばれた人々の内実を明らかにしようとした本になります。ウィーンにおける「プロレタリアート」はボヘミアの農村から仕事を求めて市壁の外側の区域に流れついたスラヴ系の住民であり、3月革命ではこの「プロレタリアート」が革命側に身を投じ、一方でハンガリーからの解放を願うクロアチア人の赤マント部隊が鎮圧側に回りました。
 マルクスはクロアチア人を買収された「ルンペン・プロレタリアート」だと批判しましたが、良知は「支配者VS被支配者」では分析できない、その地域の特殊性や「民族」の問題を見ていこうとします。
 また「向う岸」という言葉には、西欧中心の世界史に対する、「東」の存在といったものも込められています。
 
第三章 帝国主義の展開
とり上げられている本:江口朴郎『帝国主義と民族』、橋川文三『黄禍物語』、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』
ゲスト:貴堂嘉之

 江口朴郎は「戦後歴史学」の旗手とも言われた人物で、『帝国主義と民族』はマルクス主義の立場に立ちつつも資本主義と帝国主義の関係性や民衆の主体性、民衆とナショナリズムの関わりなどを分析したものだと言います。本書の紹介だけだとややわかりにくいですね。
 
 『黄禍物語』の著者の橋川文三は、丸山真男のもとで政治思想史を学んだ人物ですが、現在では文学論などのほうが有名かもしれません。『黄禍物語』の中で、橋川は黄禍論に対して黄禍の主体として反発した中国と白人に意識を重ね合わせた日本を対比する形で論じ、近代日本がヨーロッパ人の人種主義を受け入れてしまったことを指摘しています。
 ただし、本書の編者の小川は、この本は「人種主義を白人社会の遺伝子であるかのように描いて」(162p)しまっており、「叙述の仕方がとても散漫」(164p)と批判的に述べています。

 ゲストの貴堂嘉之は『黄禍物語』に触れ、アメリカの人種主義が南北戦争における奴隷解放後に顕在化し、人種平等を求める政治がアジア系への移民排斥運動によって瓦解することに注目すべきだと言います。
 『移民国家アメリカの歴史』のタイトルにある「移民国家」は建国当初からのアメリカの変わらぬ姿だと思いがちですが、この本では「奴隷国家」だったアメリカが南北戦争を経て「移民国家」になっていった過程を描き出しています。
 奴隷は解放されるわけですが、「黒人」は二級市民としての扱いを受け、さらにアジア系も帰化の可能性を否定されて市民権から排除されていきます。さまざまな民族を受け入れてきたアメリカですが、そこでは「白人性」というものが中心に据えられることになったのです。
 「移民国家」というキャッチフレーズの中で隠蔽されたものを暴き出す試みとも言えるでしょう。

第四章 二〇世紀と二つの世界大戦
とり上げられている本:丸山真男『日本の思想』、荒井信一『空爆の歴史』、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』
ゲスト:永原陽子

 まずは丸山真男『日本の思想』ですが、個人的にはこのセレクトは大いに不満で本書の最大の欠点だと思います。
 『日本の思想』自体は優れた日本社会論であり日本人論だと思いますが、歴史の本ではないですし、丸山の語り口には魅力があるものの、実証的なところもありません。『日本の思想』を戦後を考える上での「史料」として扱うことは可能だと思いますが、そういったとり上げ方がされているわけでもありません。結果として「二〇世紀と二つの世界大戦」というタイトルの章でありながら、ロシア革命も第一次世界大戦も世界恐慌もほとんどとり上げられずに終わっています。

 一方、荒井信一『空爆の歴史』は未読ですが、タイトルから想像される以上にスケール感のある本。空爆という戦術について、第二次世界大戦だけではなく、1911年のイタリア・トルコ戦争から始まりベトナム戦争に至るまでの20世紀の戦争を俯瞰する形で論じています。
 残虐な戦術いうものは大規模な戦争とともに生まれたと考えられがちですが、空爆がイタリア・トルコ戦争におけるイタリア軍のリビアに対する空爆から始まったように、対植民地戦争でこそ残虐な戦術がとられてきた面もあります。空爆というものは文明/野蛮という非対称な認識のもとに行われてきました。
 日本の重慶爆撃、アメリカによる日本への爆撃、ベトナム戦争での爆撃、いずれも敵を「劣位」な集団だとする人種主義が見え隠れしているのです。

 つづいて内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』ですが、この本は日本軍の軍属して捕虜の管理などにあたり、そのことが理由で戦後になった戦犯として処罰された朝鮮人を追っています(処罰された中には台湾人も多い)。
 戦争犯罪においても加害者と被害者という立場があるわけですが、朝鮮人BC級戦犯は捕虜を虐待した「加害者」であると同時に、日本の植民地支配による「被害者」とも言える存在です。
 しかも、講和条約の発効時に日本政府が彼らの日本国籍を剥奪したことによって、日本人であれば受けられた補償などからも排除されました。まさに戦争と植民地支配の負の影響を理不尽な形で受けたと言えます。
 
 ゲストの永原陽子も指摘していることですが、『空爆の歴史』と『朝鮮人BC級戦犯の記録』は、戦争責任を問いつつ、さらにそれを超えて植民地支配の責任についても問う内容になっています。植民地支配と現在の問題のつながりを考えていくような議論がなされています。

第五章 現代世界と私たち
とり上げられている本:中村政則『戦後史』、臼杵陽『イスラエル』、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』
ゲスト:臼杵陽

 中村政則『戦後史』は戦後60年の2005年に出版された本で、「戦前」を克服するものとしての「戦後」を自らの体感に重ね合わせるように論じています。ただし、戦前と戦後をまったく別のものとして描くのではなく、「日本の戦後史の源流・原型は1920年代に始まり戦時動員体制の中で形成された」(294p)という「貫戦史」という視点を打ち出しています。
 ただし、本書の持つナショナルな枠組み(例えば「下から湧き上がる日本人のエネルギー」を成功要因にあげている点など)に対して、小川はやや批判的です。
 
 同じ1つの国の歴史に注目しながら「ナショナル」の難しさを教えてくれるのが臼杵陽『イスラエル』です。
 イスラエルと言えば「ユダヤ人」の国ですが、「ユダヤ人」は民族なのか、それともユダヤ教の信者を指すのか、という問題がありますし、ユダヤ人・教徒にもスペイン系で地中海沿岸地域を中心に離散したラディーノ語を話す「スファラディーム」、ドイツ系(のちに東欧・ロシアに移住)でイディッシュ語を話す「アシュケナジーム」、さらにイスラエル建国後にアラブ諸国やイスラーム世界からきた「ミズラヒーム」がいます。
 そして、イスラエルにはアラブ人(パレスチナ人)も住んでいます。

 イスラエルはシオニズムの考えのもとで建国されますが、60年代頃からホロコーストがイスラエル統合のシンボルになっていきます。しかし、このホロコーストをシンボル化するということが、さまざまな問題を引き起こしていると、ゲストの臼杵陽も考えています。

 3冊目が峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』ですが、以前このブログで紹介したときにも書いたように、個人的にこの本についてはあまり評価していません。
 欧米列強によって植民地支配された「アジア+アフリカ=アフラシア」という枠組みは、植民地主義を批判してきた本書の論調からは魅力的なものかもしれませんが、「反西洋」で一つのまとまりを構想するというのは往年の「アジア主義」のようですし、健全ではないと思います。
 歴史を学んだ上で未来を構想したいというのはわかりますが、ここは禁欲すべきでしょう。

 いくつか文句もつけましたが、全体を通して非常に密度の濃い議論がなされており、別に「歴史総合」に関わらない人にとっても非常に刺激的で面白い本になっていると思います。
 近現代をたどりながら、歴史学がどのように変化・発展してきたのかということがわかりますし、その歴史学がさまざまな枠組みを揺さぶっていることもわかると思います。
 「歴史」に対する入門書と「歴史学」に対する入門書を兼ね備えた内容になっていると言えるでしょう。


濱本真輔『日本の国会議員』(中公新書) 9点

 国民の代表でありながら、多くの人がその姿に納得しているとは思えない日本の国会議員。そんな日本の国会議員の姿にデータを使って多角的に迫ったのが本書になります。
 中公新書には林芳正・津村啓介『国会議員の仕事』という現職の国会議員がその活動について綴った本もありますが、本書はあくまでも外側から、どのような人物が国会議員になり、どんな選挙活動を行い、国会ではどのような仕事をし、政党の中でどのようにはたらき、カネをどのように集め、使っているかということを分析した本になります。
 過去と現在、日本と海外、与党と野党といった具合に、さまざまな比較がなされているのが本書の特徴で、この比較によって、問題のポイントや解決していくべき課題といったものも見えてきます。
 国会議員ついて知るだけではなく、日本の現在の政治を考える上でも非常に有益な本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 誰が政治家になるのか
第2章 当選に向けた活動とは
第3章 立法過程への参画ー議員の仕事
第4章 不安定な議員ー政党制の問題
第5章 政治資金ー政治家とカネの問題
終章 政治改革後の国会議員とは

 「投票したい人がいない」ということはよく言われることですが、では「立候補したい人」はどれだけいるかというと、2020年のウェブ調査で国会議員に「非常になりたい」「ややなりたい」と答えた人は男性で計28.9%、女性で計9.4%、一方で「絶対になりたくない」は男性で34.0%、女性で59.4%、なりたいかどうかは男女差が大きく、また拒否感も大きい仕事だということがわかります(5p1−1参照)。
 政党が候補者を公募したり、政治家志望者に向けた塾などを開くと3000名前後の数は集まるので、政治家になりたいと考える一定数の人間がいることはわかります。

 ただし、立候補にはさまざまなハードルがあります。日本の衆議院25歳、参議院30歳という被選挙権の年齢は高いほうですし、衆議院の小選挙区に出馬するための供託金300万円というのは国際的に見てもかなり高額です。
 
 政党が立てる候補者に関しては、公明党や共産党のように内部からの選抜が中心のケースもありますし、民主党のように公募を積極的に行った政党もあります。
 自民党は、以前は派閥が候補者の発掘や公認を行い、当選したあとの追加公認といったこともさかんに行われていましたが、選挙制度改革以降は公募も取り入れるようになりました。
 
 実際に国会議員になった人を見ると、平均年齢は衆議院議員が55歳、参議院議員が58歳と年齢は高めです。女性の割合は衆議院の当選者で10%前後、参議院の当選者で20%台前半となっており、その比率は低いと言わざるを得ません。
 1947〜2014年までの衆議院選挙の当選者の前職を見ると地方議員、官僚、秘書の順番になっており(24p1−7参照)、自民党の当選者を見てもこの順番は同じですが、民主党・民進党では秘書、地方議員、経営者、公明党では地方議員、メディア、弁護士、共産党では地方議員、労組、教育の順番になっています(26p1−8参照)。

 自民党に絞ってみてみると1955〜76年までは官僚出身が多く100名を超えるほどでしたが、2012年以降は55名前後です。一方、増えているのは地方議員と秘書で、秘書は世襲候補が多く、2000年代になると秘書出身の7割が世襲です。
 
 日本の世襲議員は1955年以降に増え始め、80年以降は25〜30%ほどになっています。これは多くの国が10%以下であるのに比べると高い数字になります(33p1−13参照)。
 55年以降に世襲が増えたのは選挙において個人後援会の組織力が重要になったからで、この後援会を引き継ぐために世襲が行われるようになりました。

 女性議員の少なさについては、クオータ制が導入されていないこと、選挙制度が小選挙区に重点を置いた制度であること(衆議院より参議院のほうが女性の割合は高い)、固定的な性別役割分業意識があることが要因としてあげられています。
 
 こうした機会の不平等に対して、本書では非選挙権の年齢と供託金の引き下げ、政党交付金と組み合わせることで政党に自発的なクオータ制をとらせること、公募制の強化、一定の年齢や当選回数になった現職議員への新人チャレンジの機会をつくることなどを提言しています。

 では、現在の政治家は当選のためにどのような活動を行っているのでしょうか?
 まず、日本の選挙は戸別訪問の禁止をはじめとして非常に制限が多く、選挙運動期間も短いため(かつては30日あって衆議院の選挙運動期間は94年に12日まで短縮された)、選挙期間以外の活動が重要になります。

 ですから、普段からとにかく一軒一軒の家を訪ね、街頭で演説し、ミニ集会を開くといったことが重要になります。地方であれば戸別訪問やミニ集会、都市部であれば街頭での活動に力点が置かれます。
 活動資金については、政治改革以降、党から活動資金が提供されるようになりましたが、それでも足りないケースが多く、候補者自身の資金や借入金に頼ることになります。
 当選後も次の選挙に向けた活動は必要で、「金帰火来」と言うように週末のたびに選挙区入りする議員も多いです。最近は自民党の当選4回以上の議員でも選挙区入りする頻度が高くなっており(59p2−1参照)、地元の活動を重視する傾向がうかがえます。

 日本では政治家の多くが個人後援会を持っています。政策的な理由というよりは政治家個人とのつながりでつくられる団体であり、そのために政治家は新年会やバスツアー、国会見学など、さまざまな手を使って、後援会を維持・活性化させようとしてきました。

 国会議員はさまざまな陳情も受けます。2016年の調査によると自民党の議員は民進党の議員よりも陳情を受ける頻度が高く、特に地元の公共事業に関する陳情では大きな差があります(65p2−2参照)。
 ただし、陳情自体は以前よりも減っており、また、地方議員とのつながりや、後援会への加入者なども減っており、地域における有権者とのつながりは弱まっていると言えます。

 国会議員は公費で秘書を雇うことができ、現在は政策担当秘書を含めて3名が公費で雇用できます。政策担当秘書は政策スタッフとして期待されており、資格試験もありますが、公設秘書を一定期間やれば資格が取れるため、必ずしも政策スタッフとして働いているわけではありません。
 この他にも私設秘書がいます。2002年の調査では衆参平均で5.7人、2012年の衆院の調査では平均7.0人の秘書を雇用しており、公設秘書が3名だということを考えると2〜4名ほどの私設秘書がいるということになります。政党別では2012年の調査で自民が8.6名に対して民主党6.6名、共産党4.0名などとなっています(71p2−4参照)。

 日本では有権者の政治参加が低調です。2018年の調査では政党・団体の一員として活動した人は1.1%、デモに参加した人は0.6%、最も高い署名活動への参加でも10.7%。政党・団体の新聞や雑誌の購読も73年には11.0%ありましたが、18年は2.9%です(78p2−6参照)。
 日本では経済団体や農業団体などの生産者団体の活動がさかんですが、それに参加する人も減りつつあり、団体そのものへの参加も減りつつあります。
 
 こうした中で、1980年代までは「地元の利益のために力をつくす人」を重視していた有権者は、90年第以降は「国全体の政治について考える人」を重視するようになっています。また、候補者の特性として重視されるものも「手腕のある人」から「見識のある人」にシフトしつつあると言います。
 「候補者重視」と「政党重視」の選択では、それまで拮抗していたものが2000年以降になると「政党重視」が優位に推移しています(83p2−8参照)。
 議員自身の認識していている当選の原動力でも、2016年の調査では自民党議員で所属政党がトップ、ついで後援会となっています(時期的なものもあって民主党議員は所属政党の順位は低く、個人的な関係者がトップ(86p2−10参照)。
 
 小選挙区比例代表並立制の導入以降、政党本位の選挙になりつつありますが、政党組織はそれほど拡充されていません。
 そのために議員は当選のためにかなりの運動をする必要があり、また、議員は当選のために党首の交代を求めたり、造反や離党をするようになっています。本来ならば、個人後援会が政党の地方組織に変わっていくことが望ましいのかもしれませんが、地方議員の選挙が中選挙区制が中心だということもあって、地方議員の政党化は進んでいません。

 こうして当選した議員は国会内でどのような活動を行っているのでしょうか?
 政党では朝からさまざまな会議が開かれています。特に自民党では政策調査会の下に部会というものがあり、重要な役割を果たしています。
 この部会でまず法案が審議され、関係者の合意形成が図られるとともに政府との調整も行われます。そして、部会→政務調査会→総務会の順に審議が進み、総務会の決定により党議拘束がかかります。

 このように政府が提出する法案の事前審議に多くの与党議員が関わるというのは日本独自のものです。イギリスでは政府提出法案の内容は少数の与党幹部にのみ知らされますし、議員がかかわるのはあくまでも議会に提出されてからという国が多いです。また、党議拘束の強さと多さも日本は突出しています。
 この背景には、日本では国会の議事運営に内閣が関われないこと、参議院の権限が強く自律性も高いこと、与党議員の意見の多様性と議員の自律性の高さといったことがあると言われています。
 
 与党内で事前に綿密な審議がなされ党議拘束がかかるとなれば、おのずから国会での審議は形骸化します。
 民主党政権は当初事前審査制を採用せず、党議拘束にも消極的でした。しかし、野田政権になると事前審査制が復活し、党議拘束もかかるようになります。個人の力で選挙を勝ち抜く風潮の強い風潮のもとで、「イギリスのようなバックベンチャ(平議員)のありようは、日本には合わない」(玄葉光一郎の発言(119p))のです。

 議員立法に関しては成立率が低いですが、これは議院内閣制の国では共通の現象であり、議員立法の提出数は90年代以降増加傾向にあります。野党の提案は成立しないことが多いですが、党のアピールや議員への教育効果、党内での能力のアピールなど、さまざまなプラスの効果もあります。

 部会には人気の部会とそうでないものがあります。自民党では国土交通部会、経済産業部会、農林部会などに参加者が多い一方で、法務部会の参加者は少ないです(127p3−5参照)。また、中選挙区時代とは違って外交部会にも人が集まるようになっています。

 138p3−8には「政策決定で影響力があるのは誰か」ということを国会議員に尋ねたグラフが載っていますが、これによると政調部門の影響力が下がり、首相官邸の影響力が高まっていることが見て取れます。例えば、公共事業分野で影響力を持つのは87年の段階では政調部門51.1%、首相官邸5.3%でしたが、16年になると政調部門19.1%、首相官邸33.6%です。
 いわゆる族議員の影響力も弱まっていると見ていいでしょう。

 国会での審議を取り仕切るのは国会対策委員会になります。ここで法案の重要度を仕分けし、審議の日程などを決めていくわけです。
 日本では国会の会期が短く、しかも会期不継続の原則というものがあるため審議日程が重要です。野党には法案の修正をめざすか、日程的に追い込んで阻止するかという戦略があるわけですが、内閣が審議に関われない中で法案の修正は難しく、どうしても日程闘争の色合いが濃くなります。
 また、いつでも解散ができるということで、野党も常に対決色を出す必要に迫られているとも言えます。

 国会の審議は質疑が中心ですが、与党議員が官僚から多くの情報を得ているのに対して野党議員は官僚からの情報が得にくく、情報公開の不十分さもあって野党は質疑のために情報収集に苦労することになります。
 質問主意書も活用されていますが、これについては官僚に過大な負担を強いているとの指摘もあります。ただし、本書によれば国際比較では日本のあり方が特に大きな負担を敷いているわけではないとしています。

 国会における日程闘争は、質問主意書の提出の遅れの原因ともなっており、これが官僚たちに大きな負担を強いているとの問題もあります。
 会期の長期化と会期不継続の原則の見直しを行い、内閣の国会審議に関する関与を強めるとともに、少数者調査権を拡充し、野党に情報収集などの手段を与えていくべきだというのが本書が示す処方箋になります。

 先に述べたように選挙における政党の存在感は高まっていますが、その政党が必ずしも安定していないのが現在の日本です。
 政党の対立軸としては、まず右と左のイデオロギーが考えられます。海外では国家への社会経済への関与を軸として「右」「左」の対立軸が構成されることが多いですが、日本では長年、憲法や安全保障を軸にして保守と革新・リベラルという対立が構成されてきました。
 80年第以降に自民党が新自由主義的な傾向を強めると、それを軸にした対立も浮上していくることになりますが、それでも憲法と安全保障の軸は影響力を残しています。そして、この憲法と安全保障は、野党を分断するくさびの争点ともなっています。

 個々の議員の立ち位置を見ると、大まかなまとまりはあるものの(2014年の調査で自民はイデオロギーは右で現状維持志向、民主は中道で改革志向、維新は右で改革志向など(174p4−1参照))、ばらつきも大きく、特に自民と民主の議員はかなり分散しています。

 こうした中で候補者は、公約を尊重しつつも自らの意見を主張するとした割合が7〜8割で政党の公約がやや軽く扱われていることがわかります(180p4−4参照)。
 党議拘束についての考えでは政党ごとにばらつきが見られ、なるべく党議拘束をかけるのが望ましいと考える議員の割合は、2012年の調査で共産党(100%)>自民党(67.3%)>民主党(36.9%)などとなっています(184p4−6参照)。

 自らの意見を通すために議員は造反することがありますし、さらに離党することもあります。1990年代以降、日本では政党の離合集散が繰り返されてきました。
 小選挙区ではまとまらないと勝てないので1つにまとまろうとする動きが起こりますが、一方で比例代表の部分や参議院もあるので、そこでは遠心力がはたらきます。さらに政党助成法によって資金問題が軽減されたこともあって、勢いがなくなった政党もその資金で存続します。
 こうしたこともあって自民の対抗軸となった保守系改革勢力を中心に合流と分裂が続いているのです。

 最後は政治資金の問題です。政党助成金以外にも国会議員はさまざまなお金を集めています。
 政治資金を一番集めているのは自民党の議員ですが、2009年頃までは平均7500万円ほどを集めていたものの、それ以降は5500万円前後にまで減っています。一方、民主党系は平均3500万円ほどです(213p5−2参照)。
 衆議院議員は参議院議員の1.5〜2倍ほどの資金を集めており、衆議院の小選挙区選出議員は特に多くの資金を集めています。

 政治資金は政党も集めています。2017〜19年の平均を見ると、自民党は政党交付金を中心に団体寄付を集めています。立憲民主党も政党交付金中心ですが、借入金の割合も24.4%あります。公明党や共産党は事業収入の割合が高く、共産党は政党交付金を受け取っていません(218p5−4参照)。
 90年代の政治改革以降、企業や団体からの政治献金は減少傾向ですが、個人献金も伸びていません(220p5−5参照)。
 政治資金については日本はそれなりに規制の厳しい国ではありますが、会計が一本化されておらず、公開の範囲が狭いといった問題があります。

 このように本書は日本の国会議員の姿を多面的に分析しています。ある程度は知っていたことも多いですが、このように多角的に、しかも国際比較などを交えながら論じてくれると改めて見えてくるものも多いと思います。
 漠然と日本の国会議員について嘆く前に、本書を読んで具体的にどこが嘆くべきところなのかを考えることで、日本の政治ついての議論が実りのあるものになってくるのではないでしょうか。

須田努『幕末社会』(岩波新書) 9点

 出た当初はスルーしていたのですが、いくつか面白そうな感想を目にして読んでみたら、これは面白いですね。幕末において幕藩体制がいかに緩んでいたか、開国からはじまる社会変動がどのようなものであったのかということが庶民の目線から描かれています。
 とり上げられている事例は関東・東北・甲信などの東日本のものが多く、京都と西国雄藩中心に描かれることが多い幕末の歴史について、東国の様子を知ることができるのも興味深いところです。
 天狗党や渋沢成一郎のつくった振武軍など、去年の大河ドラマの「青天を衝け」と重なっている部分も多く、去年出版されていれば大河ドラマのよき副読本となったでしょう。また、新選組についての記述もありますし、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の活動もかなり詳細に追っています。新選組好きも面白く読めると思います。

 「民衆史」というと、以前はどうしても「政治権力vs民衆」的な図式を描くものが多かったですが、本書は民衆の「衆」としての力に着目しつつも、さまざまな意志を持った「個人」を描き、それを幕末の社会情勢とリンクさせているところが面白いです。

 目次は以下の通り。
序章 武威と仁政という政治理念
第一章 天保期の社会揺らぐ仁政
第二章 弘化から安政期の社会失墜する武威
第三章 万延から文久期の社会 尊王攘夷運動の全盛
第四章 元治から慶応期の社会 内戦と分断の時代

 まず、著者は「仁政と武威」という江戸時代の理念に着目します。
 秀吉の朝鮮侵略や鄭成功の物語などから、江戸時代には日本は「武威の国」であるという認識が広まっていました。また、武士は武力を独占しつつ百姓らに仁政を施し、その代わりに百姓らは年貢を納めるという「仁政」の考えも広がります。
 百姓一揆においても百姓たちが暴力を行使することはほとんどなく、幕藩領主の仁政を引き出すための訴願として百姓一揆という方法がとられたのです(著者が調べた百姓一揆1430件のうち武器を携行・使用した事例はわずか14件で、そのうち13件は19世紀になってから(5p))。

 江戸時代の前半は新田開発が進み人口も増えますが、享保期になると限界に達し、新たに百姓が分家をつくることは難しくなります。
 天明期になると田沼意次が株仲間の公認を行いますが、これは商売への新規参入が難しくなることでもあります。結果的に、百姓でも長男以外の男性は、「厄介」になるか、都市で奉公人、日傭稼、棒手振になるしかなく、若者たちは閉塞感を強めていくのです。

 こうした「仁政と武威」が崩れ始めるのが、徳川斉昭が「内憂外患」という言葉で表した天保期です。
 文政7(1824)年、イギリス捕鯨船員が水戸藩領常陸大津浜に上陸します。これを受けて水戸藩の会沢正志斎は「新論」を執筆します。正志斎は「富国強兵」という言葉を使い、軍事力の立て直しを訴えました(もとは古代中国の言葉だが、天子の「徳」を重視する中国では使われなくなっていった)。

 一方、在地社会も動揺します。天明期に関東で生糸や絹織物の生産が盛んになり、それに伴って貨幣経済が広がりますが、その一方で農村から労働力が街道や宿場などに流出し、農村の荒廃も進みました。
 そうした中で博徒や無宿や渡世人などが目立つようになります。これに対して幕府は関東取締出役を設置するわけですが、関東取締出役の定員は当初8人にすぎませんでした。
 幕府は農村の風俗統制などによって治安の回復を図ろうとしますが、そこでは若者組の在方歌舞伎や相撲興行などが禁止の対象とされました。これらの興行を仕切っていたのが博徒であり、そこには独自のネットワークもあったからです。

 一方、関東取締出役については現地に不案内であったために、「道案内」と呼ばれる地域の有力者を雇うのですが、博徒に詳しい人物が求められたために、博徒そのものや無宿などが就任すケースもあり、関東取締出役と博徒の癒着が問題になりました。

 前にも述べたように、この時期になると百姓でも長男以外は将来の見通しが立たなくなり、若者たちが村から逃げ(これを「不斗出」という)、宿場や河岸に滞留するようになります。
 「不斗出」者が犯罪を犯して捕まった場合は入牢その他の費用は村の負担となるため、村は彼らを宗門人別帳から抹消し、関係を絶ちました。こうして彼らは無宿となります。
 宿場や河岸の有力者は無宿を人足として雇用し、さらに賭場を開くことで彼らに支払った賃金を回収していきました。
 こうして博徒の活動も活発になり、国定忠治のような有名な博徒も生まれます。

 博徒の活動は関東で目立ちましたが、これは幕府が江戸防衛の観点から関東地方に大藩を設置せずに中小の譜代藩領と旗本・寺社領が入り組むような形にしたからで、それによって犯罪の取り締まりが難しかったからです。
 また、何者にも負けまいとする気概や秩序からの逸脱を良しとする関東人の気質も大きかったいいます(この気質が剣術の流行にもつながる)。
 
 天保期になると一揆も変質してきます。
 天保7(1836)年、甲州騒動と呼ばれる山梨県全域に広がる打ちこわしが起こっています。この打ちこわしは、飢饉にも関わらず甲州の米が江戸に廻米されていたことに怒った百姓らが穀物を買い占めていた米商人らの居宅を襲ったことから始まっています。
 当初は一揆の作法に則っていた打ちこわしでしたが、次第に飢えてない国中の人々が参加し、米穀商以外の質屋などの有徳人を打ちこわし、盗みまでもはたらくようになります。騒動に参加した人々は「赤き色物」を好んで身に着け、幕藩領主や村々は彼らを「悪党」と呼びました。
 そして、鉄砲などによって騒動勢を殺害・撃退する村も出てきます。捕縛された騒動勢は500人んにもおよび、そのほとんどは20代以下の若者だったといいます。

 一方、同じ頃に発生した三方領知替え反対一揆は、藩の転封をめぐって庄内藩で起きた一揆でしたが、こちらは江戸や水戸藩・仙台藩への愁訴を中心とした「一揆の作法」に則ったものでした。
 この愁訴は庄内藩の暗黙の後押しもあって成功し、三方領知替えは撤回されるわけですが、領主の「仁政」という建前は保持されたものの、幕府の「武威」は大きく傷つく結果となりました。

 そして、この幕府の武威の失墜を決定的にしたのが、ペリーの来航から桜田門外の変にいたる一連の出来事です。
 この流れの中で水戸学から「尊皇攘夷」と「国体」という言葉が生まれます。現在からみると保守的で国粋主義的な言葉という印象ですが、当時としては革新的な思想でした。
 「国体」は会沢正志斎が「新論」の中で使った言葉ですが、正志斎は欧米列強に対向するには武威だけではなく新たなアイデンティティが必要だと考え、天皇家を中心とした宗教的儀礼の中にそれを求めました。これは日本の独自性を打ち出す議論でしたが、同時に徳川将軍家を相対化するものでした。

 「新論」を読み解くには高度な知識が必要であり、吉田松陰も当初はその内容を理解していなかったといいますが、その存在が「聖典」のようになり、国体の考えは全国に広がっていきます。
 海外渡航を試みて失敗し入牢した松蔭は、改めて日本史を学び、国体論を内面化していきます。そして、この松蔭の影響を受けた長州藩の弟子たちが尊皇攘夷を行動原理として政治を揺り動かしていくことになります。
 
 異国人が日本にやってきた弘化〜安政期は地震が頻発した時代でもありました。弘化4(1847)年には7年に1度の善光寺開帳のさなかで起こった善光寺地震や、安政2(1855)年の江戸大地震をはじめとして多くの大地震が起きています。
 この地震は多くの犠牲者を出しましたが、貧富の差なく平等に襲いかかるというのも自身の特徴です。この時期の地震に関する錦絵では「世直し鯰」を描いたものもあり、「地震が社会的格差を”ならした”」(104p)と見た庶民もいたようです。

 一方、安政5(1858)年にアメリカの軍艦から日本の長崎に上陸したコレラは、衛生状態の悪い都市貧困層を襲いました。こちらは地震とは違って、その被害は不平等だったと言えます。

 さらに本書ではこの時期に百姓身分の中から登場した「強か者」に注目しています。
 盛岡藩(南部藩)では江戸時代を通じて150件もの百姓一揆が発生しています(隣の仙台藩は数件)。この背景には、蝦夷地警備の実績が評価されて表高がそれまでの2倍の20万石に引き上げられたこと(その分、百姓の負担も増えた)、天明期以降、御家騒動などがつづいたことなどがあります。
 
 嘉永6(1853)年の三閉伊通の百姓一揆は、藩政の紊乱に耐えかねた百姓たちが仙台藩への逃散・強訴をはかるという前代未聞のものでした。百姓たちは自分たちを仙台藩の百姓にしてほしい、無理ならば仙台藩が三閉伊通を幕領にするように幕府に推挙してほしいと主張したのです。
 仙台藩はこの願いを受け入れるわけにいきませんでしたが、このことは幕府の知るところとなり、盛岡藩は処分を受けました。一方、百姓たちに処罰者は出ませんでした。

 これだけでもインパクトのある話ですが、この一揆のリーダーの1人だった三浦命助は、地域社会とうまくいかなくなったこともあって出奔し、京に上って献金により二条家の家来になります。そして一揆から4年後に武士の身なりで大小を帯び「二条殿御用」の目印を立てて村に帰ってきます。二条家の家来という立場で三閉伊通の幕領化を成し遂げようとしたのです。
 結局、命助は盛岡藩に捕らえられて牢死しますが、型破りな個人の行動と言えるでしょう。

 和宮降嫁→坂下門外の変のころになると、尊皇攘夷は在地社会にも広がり、「異人斬り」といったことが暴力行為も起こってきます。
 坂下門外の変の実行犯に影響を与えた大橋訥庵は、高杉晋作に言わせれば「愚ニ堪カね」(136p)という人物なのですが、そうした者の影響を受けて老中襲撃が行われています。

 和宮降嫁と引き換えに「破約攘夷」を約束した幕府が追い詰められ、攘夷運動が幕府への批判につながっていきます。
 本書では長州藩や薩摩藩の動きも追っていますが、やはり興味深いのでは在地社会の動きです。

 島崎藤村の『夜明け前』の舞台となった木曽谷・伊那谷の地域では平田国学が広がっていました。もともとこの地域は幕領と飯田藩領などが点在する地域であり、木曽谷は遠く離れた尾張藩の領地でもあったため、統一的な当地は不可能でした。さらに材木業や製糸業がさかんだったこともあって、現金収入があり、また、独自のネットワークも発展していました。
 この地域でも幕末になると遊興にあけくれる若者たちが問題になりましたが、そこで在地社会の秩序を守るために受容されたのが平田国学でした。幕藩領主の存在感の薄いこの地で、一君万民的な考えを持つ平田国学は在地社会の安寧をもたらすものと捉えられたのです。

 本書でとり上げられている竹村(松尾)多勢子(松尾多勢子の名で知られているが松尾は嫁ぎ先の名字で実家の竹村を名乗っていた)は、平田国学に入門し、思いもよらないような行動力を見せた人です。
 多勢子は伊那谷に生まれ、伴野村の庄屋に嫁ぎ、7人の子どもを育て上げます。文久2(1862)年、50歳になった多勢子は京都へと旅立ちます。多勢子は中村半次郎(桐野利秋)をはじめとする志士たちと交流し、平田国学のネットワークを利用して公卿の大原重徳にも会っています。
 多勢子は老婆であるということで幕府の探索から逃れ、長州藩などの尊王攘夷派に朝廷内部の情報を伝えました。

 一方、尊王攘夷運動に染まらなかったものの、時代の変化に対応しようとした地域指導者もいます。土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎もその1人です。
 佐藤彦五郎は代々日野宿の名主をつとめる名家に生まれ、治安の悪化に対応しようとしました。まずは自らが天然理心流に入門するとともに自宅を改造して道場を設け、そこで近藤勇・土方・沖田総司らの試衛館の中心メンバーが多摩の門人に直接稽古をつけました。彦五郎は道場を開くことで、個人の暴力を事故の統制下に入れたとも言えます。

 ご存知のように試衛館のメンバーは上洛し新選組を結成していくのですが、彦五郎はその後もその後も試衛館のメンバーと書翰のやり取りを重ねました。
 さらに幕府の代官・江川英武が多摩地域で農兵の取り立てを行うと、彦五郎は日野宿農兵銃隊の隊長に就任しました。この農兵銃隊は最新のゲベール銃で武装しており、のちの武州世直し騒動で活躍します。

 文久3(1863)年の八月十八日の政変によって京都から尊皇攘夷派が追放されますが、関東では翌年に横浜鎖港を実現するために天狗党が筑波山で挙兵します。もともとは水戸藩の内紛が生んだ天狗党でしたが、これが関東を内戦状態に巻き込んでいきます。
 天狗党は各地で金銭の強要や殺人・放火・強奪などを行うとともに、下妻、水戸城下、那珂湊などの各地で幕府の追討軍と戦います。那珂湊の戦いに破れた天狗党は横浜鎖港をあきらめて京都に向かうことを決めますが、北関東を横断した天狗党は在地社会の恐怖となりました。
 
 天狗党は上州から信州に入り、和田峠で諏訪藩らを打ち破って伊那谷に入ります。ここでは平田国学者らが活躍し、天狗党に軍資金3000両を提供して乱暴狼藉を回避するとともに、尾張藩の領地を迂回するルートを案内しています。一方、先述の多勢子は天狗党に会おうとはしませんでした。岩倉具視に傾倒していた彼女にとって天狗党は時代遅れの存在だったのかもしれません。
 実際、頼りにしていた一橋慶喜にも見放された天狗党は悲劇的な最期を遂げることになります。

 慶応2(1866)年には再び関東で騒乱が起きますが、これは尊皇攘夷とは関係なく物価高騰から起こった打ちこわしである武州世直し騒動でした。 
 飯能町の米穀商への打ちこわしから始まったこの騒動は、打ちこわしを起こした農民はおとなしく帰村したものの、さまざまな人が集まって広域化していきます。有徳人や横浜貿易で利益を得ていた「浜商人」を襲撃し、秩父や上州、多摩地域にまで広がっていきました。
 
 そして、多摩ではこれを佐藤彦五郎らが率いる農兵銃隊が迎え撃ちます。騒動勢を「暴民」とみなし、ゲベール銃での一斉射撃のあとに剣槍隊で追撃したとのことで、もはや、する側も迎え撃つ側もできるだけ暴力を行使しないという一揆の作法などは吹き飛んでいます。
 上州でも小栗忠順が農兵の取り立てを企図しますが、農民たちは反発し、小栗が罷免されたあとは小栗のいた東善寺に幕府の軍資金があるという噂が流れ、東善寺が襲撃されています。

 関東は幕府崩壊後も戦場になりました。
 佐藤彦五郎は江戸に戻った土方から情報を得て、横浜で新式の「元込筒」(スナイドル銃か)を20挺購入し戦いに備えましたが、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊と合流しようとしましたが、甲陽鎮撫隊が潰走したために、彦五郎は新政府の追求を逃れるために身を隠しました。

 この他、幕府の抗戦派の古屋作左衛門率いる古屋隊と新政府軍が栃木県の足利市の梁田で新政府軍と激突した梁田戦争、彰義隊から分かれた渋沢成一郎率いる振武軍が飯能で新政府軍と戦った飯能戦争(この戦いで渋沢栄一の養子の渋沢平九郎が戦死)などが起こっています。
 
 東北での戦いに関しては、本書は庄内藩の戦いを中心にとり上げています。庄内藩の戦いでは「鬼玄蕃」と呼ばれた酒井吉之丞の戦いが有名ですが、同時に注目すべきは2000人を超える農兵・町兵が志願したことです。三方領知替え反対一揆でも見られたように、幕領にはなかった領主と領民の一体感がこの地にはあったということなのでしょう。

 このように本書は幕末の在地社会のさまざまな動きを切り取っています。ここにはとり上げられなかったエピソードもたくさんありますし、また、ここでは書きませんでしたが幕末の政局の基本的な動きもきちんと追っています。
 幕府にとどめを刺したのが薩摩や長州だとしても、それ以前に幕府を支えてきたものは失われつつありました。本書を読むと、幕末において在地社会において既存の秩序が失われ、そこに新しい個人が登場しつつあったことがわかります。そして、彼らが幕藩体制を大きく揺り動かしていたのです。非常に刺激的な本だと思います。

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