新書『ローマ五賢帝』(講談社現代新書)を書いた著者が(まだこういうブログをやる前に読んで、けっこう面白かった記憶があります)、ローマ帝国の衰亡史というテーマに挑んだ本。
この本については著者が岩波書店のホームページに次のような文章を寄せています。
ここからもわかるように、著者はローマ帝国崩壊の要因を今までとは違ったところに注目しながら分析しています。
著者は注目するのは「ガリア」です。
ガリアとは現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる地域で、カエサルが征服しローマ帝国に組み込んだい地域としても知られています。
このガリアに住む人々と、そこに駐屯していた軍隊がローマ帝国の末期の政治を大きく動かすことになるのです。
ローマの衰亡史を語る前に、著者はまず「最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった」という事を述べます。
ローマの国境というとイギリスにある「ハドリアヌスの長城」のようなしっかりとした国境線を思い浮かべますが、実は軍隊の駐屯地を中心に一定程度の幅を持ってローマの貨幣が通用する「ゾーン」が広がっていたようです。
そして、そこに駐屯する軍隊と拠点としての都市が緩やかな国境線の中で「ローマ帝国」という実体を担っていたというのが著者の見立てです。
ですから、「ローマ人/ゲルマン人」というはっきりとした区別は存在せず、「ゲルマン人」自体が、さまざまな民族(当時の人びとに「民族」という言葉を当 てはめることの問題点についてもこの本で指摘されています)の寄せ集めであり、当時としては実体を持つものではなかったのです。
そうしたことを踏まえて、著者はコンスタンティヌス大帝以降のローマの歴史を見ていきます。
コンスタンティヌスは皇帝になるまで数々の戦いをしてきましたが、その統治の中心となったのはガリアです。また、のちに「背教者」として有名になる皇帝ユリアヌスもガリアを中心とした地域で戦い、皇帝にまで登りつめました。
そしてこの2人に共通する点は、ともにガリアの兵士を従えて東へと向かった点です。コンスタンティヌスはコンスタンティノープルを建設してそこに都を定め、ユリアヌスはペルシア遠征のさなかティグリス河畔で戦死しています。
このころになるとガリアの兵が皇帝の力を支える大きな力となっており、また副官やコンスルなどにもガリア出身の人びとがさかんに登用されました。皇帝は自らを支えるマンパワーをガリアに求めていたのです。
一方、コンスタンティヌスが辺境の駐屯地に貼り付けておいた軍隊を自由に移動できる野戦機動軍に振り向けたことで、ローマは外部からの影響を受けやすくなることになりました。
それとともに在地の有力者が力を持つようになり、農民たちはその有力者たちを頼るようになります。「ローマの統治体制を介さない結合体」(157p)が形成されるようになってきたのです。
こうした中で、376年のゴート族の移動を皮切りに、世にいう「ゲルマン民族の大移動」が始まります。先に述べたように「ゲルマン民族」という確固たる集団がいたわけではないのですが、このころになると「外部世界に住む人々、そこからローマ帝国に移ってきた人びとを、個別の部族を越えて「ゲルマン人」とし てまとめて捉え、野蛮視、敵視する見方が成長して」(183p)きます。
そして「ゲルマン人」たちを「ローマ人」へと変えていったシステムは機能しなくなってくるのです。
このことを著者は次のようにまとめています。
「あとがき」にも書いてあるように、この本はキリスト教については簡単に触れられているだけです。個人的には、もう少しその辺りにも触れて欲しかったのですけれど、200ページちょいの新書にそれを望むのは贅沢なことかもしれません。また、経済面のことなどもこの本ではほとんど触れられていません。
けれども、読み応えのある本ですし、何よりもローマ帝国の衰亡を考えることが、今なお意味のあることなのだということを認識させてくれる本です。
新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)
南川 高志

この本については著者が岩波書店のホームページに次のような文章を寄せています。
執筆にあたっては、学界の最新の成果を取り込み、また「ローマ帝国とは何か」ということについて私の独自の解釈に拠ったので、ギボンの衰亡史とはすっかり 異なるものになりました。たとえば、ローマは地中海ではなく「大河と森」の帝国であった、最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった、古代に「ゲルマン 人」はいなかった、あの巨大な帝国はわずか30年で崩壊したなどと聞くと、驚かれる方もあるのではないでしょうか。
ここからもわかるように、著者はローマ帝国崩壊の要因を今までとは違ったところに注目しながら分析しています。
著者は注目するのは「ガリア」です。
ガリアとは現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる地域で、カエサルが征服しローマ帝国に組み込んだい地域としても知られています。
このガリアに住む人々と、そこに駐屯していた軍隊がローマ帝国の末期の政治を大きく動かすことになるのです。
ローマの衰亡史を語る前に、著者はまず「最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった」という事を述べます。
ローマの国境というとイギリスにある「ハドリアヌスの長城」のようなしっかりとした国境線を思い浮かべますが、実は軍隊の駐屯地を中心に一定程度の幅を持ってローマの貨幣が通用する「ゾーン」が広がっていたようです。
そして、そこに駐屯する軍隊と拠点としての都市が緩やかな国境線の中で「ローマ帝国」という実体を担っていたというのが著者の見立てです。
ですから、「ローマ人/ゲルマン人」というはっきりとした区別は存在せず、「ゲルマン人」自体が、さまざまな民族(当時の人びとに「民族」という言葉を当 てはめることの問題点についてもこの本で指摘されています)の寄せ集めであり、当時としては実体を持つものではなかったのです。
そうしたことを踏まえて、著者はコンスタンティヌス大帝以降のローマの歴史を見ていきます。
コンスタンティヌスは皇帝になるまで数々の戦いをしてきましたが、その統治の中心となったのはガリアです。また、のちに「背教者」として有名になる皇帝ユリアヌスもガリアを中心とした地域で戦い、皇帝にまで登りつめました。
そしてこの2人に共通する点は、ともにガリアの兵士を従えて東へと向かった点です。コンスタンティヌスはコンスタンティノープルを建設してそこに都を定め、ユリアヌスはペルシア遠征のさなかティグリス河畔で戦死しています。
このころになるとガリアの兵が皇帝の力を支える大きな力となっており、また副官やコンスルなどにもガリア出身の人びとがさかんに登用されました。皇帝は自らを支えるマンパワーをガリアに求めていたのです。
一方、コンスタンティヌスが辺境の駐屯地に貼り付けておいた軍隊を自由に移動できる野戦機動軍に振り向けたことで、ローマは外部からの影響を受けやすくなることになりました。
それとともに在地の有力者が力を持つようになり、農民たちはその有力者たちを頼るようになります。「ローマの統治体制を介さない結合体」(157p)が形成されるようになってきたのです。
こうした中で、376年のゴート族の移動を皮切りに、世にいう「ゲルマン民族の大移動」が始まります。先に述べたように「ゲルマン民族」という確固たる集団がいたわけではないのですが、このころになると「外部世界に住む人々、そこからローマ帝国に移ってきた人びとを、個別の部族を越えて「ゲルマン人」とし てまとめて捉え、野蛮視、敵視する見方が成長して」(183p)きます。
そして「ゲルマン人」たちを「ローマ人」へと変えていったシステムは機能しなくなってくるのです。
このことを著者は次のようにまとめています。
四世紀後半、諸部族の移動や攻勢を前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高く掲げる思潮 は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」 と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽視し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ロー マ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。(203p)
「あとがき」にも書いてあるように、この本はキリスト教については簡単に触れられているだけです。個人的には、もう少しその辺りにも触れて欲しかったのですけれど、200ページちょいの新書にそれを望むのは贅沢なことかもしれません。また、経済面のことなどもこの本ではほとんど触れられていません。
けれども、読み応えのある本ですし、何よりもローマ帝国の衰亡を考えることが、今なお意味のあることなのだということを認識させてくれる本です。
新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)
南川 高志
