山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2013年05月

南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書) 8点

 新書『ローマ五賢帝』(講談社現代新書)を書いた著者が(まだこういうブログをやる前に読んで、けっこう面白かった記憶があります)、ローマ帝国の衰亡史というテーマに挑んだ本。
 この本については著者が岩波書店のホームページに次のような文章を寄せています。
  執筆にあたっては、学界の最新の成果を取り込み、また「ローマ帝国とは何か」ということについて私の独自の解釈に拠ったので、ギボンの衰亡史とはすっかり 異なるものになりました。たとえば、ローマは地中海ではなく「大河と森」の帝国であった、最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった、古代に「ゲルマン 人」はいなかった、あの巨大な帝国はわずか30年で崩壊したなどと聞くと、驚かれる方もあるのではないでしょうか。

 ここからもわかるように、著者はローマ帝国崩壊の要因を今までとは違ったところに注目しながら分析しています。
 
 著者は注目するのは「ガリア」です。
 ガリアとは現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる地域で、カエサルが征服しローマ帝国に組み込んだい地域としても知られています。
 このガリアに住む人々と、そこに駐屯していた軍隊がローマ帝国の末期の政治を大きく動かすことになるのです。

 ローマの衰亡史を語る前に、著者はまず「最盛期のローマ帝国には「国境線」はなかった」という事を述べます。
 ローマの国境というとイギリスにある「ハドリアヌスの長城」のようなしっかりとした国境線を思い浮かべますが、実は軍隊の駐屯地を中心に一定程度の幅を持ってローマの貨幣が通用する「ゾーン」が広がっていたようです。
 そして、そこに駐屯する軍隊と拠点としての都市が緩やかな国境線の中で「ローマ帝国」という実体を担っていたというのが著者の見立てです。

  ですから、「ローマ人/ゲルマン人」というはっきりとした区別は存在せず、「ゲルマン人」自体が、さまざまな民族(当時の人びとに「民族」という言葉を当 てはめることの問題点についてもこの本で指摘されています)の寄せ集めであり、当時としては実体を持つものではなかったのです。

 そうしたことを踏まえて、著者はコンスタンティヌス大帝以降のローマの歴史を見ていきます。
 コンスタンティヌスは皇帝になるまで数々の戦いをしてきましたが、その統治の中心となったのはガリアです。また、のちに「背教者」として有名になる皇帝ユリアヌスもガリアを中心とした地域で戦い、皇帝にまで登りつめました。
 そしてこの2人に共通する点は、ともにガリアの兵士を従えて東へと向かった点です。コンスタンティヌスはコンスタンティノープルを建設してそこに都を定め、ユリアヌスはペルシア遠征のさなかティグリス河畔で戦死しています。
 このころになるとガリアの兵が皇帝の力を支える大きな力となっており、また副官やコンスルなどにもガリア出身の人びとがさかんに登用されました。皇帝は自らを支えるマンパワーをガリアに求めていたのです。

 一方、コンスタンティヌスが辺境の駐屯地に貼り付けておいた軍隊を自由に移動できる野戦機動軍に振り向けたことで、ローマは外部からの影響を受けやすくなることになりました。
 それとともに在地の有力者が力を持つようになり、農民たちはその有力者たちを頼るようになります。「ローマの統治体制を介さない結合体」(157p)が形成されるようになってきたのです。

  こうした中で、376年のゴート族の移動を皮切りに、世にいう「ゲルマン民族の大移動」が始まります。先に述べたように「ゲルマン民族」という確固たる集団がいたわけではないのですが、このころになると「外部世界に住む人々、そこからローマ帝国に移ってきた人びとを、個別の部族を越えて「ゲルマン人」とし てまとめて捉え、野蛮視、敵視する見方が成長して」(183p)きます。
 そして「ゲルマン人」たちを「ローマ人」へと変えていったシステムは機能しなくなってくるのです。

 このことを著者は次のようにまとめています。
  四世紀後半、諸部族の移動や攻勢を前に「ローマ人」のアイデンティティは危機に瀕し、ついに変質した。そして、新たに登場した「ローマ」を高く掲げる思潮 は、外国人嫌いをともなう、排斥の思想だった。つまり、国家の「統合」ではなく「差別」と「排除」のイデオロギーである。これを私は「排他的ローマ主義」 と呼んだが、この思想は、軍事力で実質的に国家を支えている人々を「野蛮」と軽視し、「他者」として排除する偏狭な性格のものであった。この「排他的ロー マ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、世界を見渡す力は国家から失われてしまった。(203p)

  「あとがき」にも書いてあるように、この本はキリスト教については簡単に触れられているだけです。個人的には、もう少しその辺りにも触れて欲しかったのですけれど、200ページちょいの新書にそれを望むのは贅沢なことかもしれません。また、経済面のことなどもこの本ではほとんど触れられていません。
 けれども、読み応えのある本ですし、何よりもローマ帝国の衰亡を考えることが、今なお意味のあることなのだということを認識させてくれる本です。

新・ローマ帝国衰亡史 (岩波新書)
南川 高志
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竹森俊平『通貨「円」の謎』(文春新書) 8点

 ユーロの危機の本質を深く分析してみせた新書『ユーロ破綻 そしてドイツだけが残った』(日経プレミア)を書いた竹森俊平が「アベノミクス」について分析した本。
 ただ、片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』(光文社新書)が王道的な分析だったのに対して、こちらはやや搦手から攻めている感じで、「なぜ日本は危機に陥っているにもかかわらず円高になるのか?」という問題から、日本経済の陥っている罠を分析しています。

  東日本大震災後、日本経済は大きな危機に直面にしたにもかかわらず円は史上最高値に迫る勢いを見せました。エコノミストや経済学者の中には「強い円は日本 の国力の証明」という人もいますが(日銀総裁にもいました…。この本では38pでその日銀総裁が辛辣に批評されています)、日本の国力が大きく毀損した災 害が起こっても、なぜか円は強くなっているのです。
 これは日本が資本輸出国で、危機が起きると海外資産を売って円に戻す動きが起こるためなのですが、この「危機」→「円高」という動きが誤った価格シグナルをもたらし、日本の不況を長引かせているというのが著者の見立てです。

 90年代前半に経済危機に陥ったスカンディナビア3カ国(スウェーデン、フィンランド、ノルウェー)、90年代後半に経済危機に陥った韓国は、いずれも「通貨の下落」→「輸出の増加」という形で危機から立ち直っています。
 経済危機が起きると海外資本が逃げ出してそれが通貨安をもたらし、その通貨安が輸出の増加をもたらします。このメカニズムによって輸出に頼ったV字回復が可能になります。
 
 ところが、日本では経済危機が起こっても通貨高に触れるので、国内の不況で余剰となった生産設備が輸出に向かうことがありません。そのため生産設備の余剰はいつまでも続き、経済停滞とデフレがつづくのです。

 この分析から出される日本経済への処方箋は、「思い切った緩和によって通貨安にもっていき、輸出によって景気回復を図ること」になります。
 これはスカンディナビア3カ国や韓国と同じ回復のシナリオで、先ほど述べたように日本とこれらの国では経済環境は違います。それでも著者は「それ以外の方法は、筆者は正直思いつかない」(214p)と言い切ります。
 
  実際、2002年から始まった日本の景気回復をひっぱたのは、巨額の為替介入による円安誘導とそれに伴う輸出の増加でした。この景気回復は著者の言うとこ ろの「グリーンスパン・バブル」の崩壊(リーマン・ショック)によってストップしてしまいますが、バーナンキ議長が率いるFRBが金融緩和を行なっている 中で、日本にはやはりこのシナリオしかない、というのが著者の考えになります。

 このように書くと「通貨安政策は近隣窮乏化政策であり、貿易戦争が起こる!」との反論が聞こえてきそうですが、著者はこの批判に対し、スカンディナビア諸国の例をあげて次のように説明しています。
 マクロ経済学の悪しき伝統なのだが、「外需」を「輸出マイナス輸入」とする考え方がある。その考え方を用いれば、スウェーデンも、フィンランドも、輸出と同時に輸入が伸びたので、外需の成長は微々たるもので、GDPの成長にはさほど寄与するものではなかったことになる。
  だが「輸出マイナス輸入」をもってして、GDPの成長要因とする考え方は根本から誤りである。大事なのは「輸出」である。輸出の伸びがあれば、金融危機後 に発生した過剰設備を解消することが容易になる。そのためデフレにもならない。輸出は経済成長を牽引する。この時、輸出用の生産拡大に対応して、エネル ギーや原材料の輸入が拡大した所で、経済成長にも、過剰設備の解消にも、障害とはならない。(213p)

 輸出とともに輸入が伸びれば、近隣諸国の経済も新たな輸出先を見つけることになるわけで、「貿易戦争」にはなりません。貿易というのは「いかに黒字を増やすか」というゼロサムゲームではないのです。

  これ以外にも、この本には「安倍政権は中央銀行の政治的独立性を侵している!」の批判に対して、FRBやECBは政治の領域にかなり踏み込んで仕事をして おり、「「中央銀行の政治的独立性」という言葉は、現代ではもはや繁華街に貼られた駐車禁止の標識の役割しか持たない、無意味な用語に転落しつつある」 (98p)と述べ、「小手先の金融緩和よりも構造改革を!」といった声に対しては、「「構造改革」という言葉を繰り返している論者の深層心理には、日本経済が15年以上もデフレと停滞に陥っているのは罪を犯したためであり、罰としての地獄の業火の痛みを感じるのでない限り、健全な状態に戻れないという、一種の宗教的信念があるのではないだろうか」(239p)と述べるなど、マスコミで語られる「通説」に痛烈な批判を浴びせています。

 今までの竹森氏の本に比べると、若干、構成が練られていない感もあるのですが、片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』とともにオススメしたいです(この2人のスタンスの違いというのも実は興味深い)。

通貨「円」の謎 (文春新書 923)
竹森 俊平
4166609238

丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』(ちくま新書) 8点

 『現代中国の産業』(中公新書)において、「垂直分裂」というキーワードをもとして「中国製品はなぜ安いのか?」ということを分析してみせた著者が、さらに「大衆資本主義」というキーワードを使って中国の産業を分析してみせた本。
 中国の産業のある種のダイナミズム(+無秩序さ)がわかると同時に、著者が「あとがき」言うように「資本主義の原初的な姿」(241p)を垣間見ることができて面白いです。

 「中国は特殊な国会資本主義である」といった事はよく言われますし、最近では「国進民退」のキーワードがよく使われるように、中国経済において公的セクターは大きな存在感を持っています。
  しかし、「改革開放」以降の30年ちょっとの歴史を振り返れば、やはり民間企業が経済成長の大きなエンジンだったことは間違いありません。別ブログで紹介 した岡本信広『中国―奇跡的発展の「原則」』では、これを「政府の退出」というキーワードを使ってマクロ的視点で整理していましたが、この『チャイニー ズ・ドリーム』では、ほとんど資産も持たないような庶民が見よう見まねで次々と起業していく「大衆資本主義」の姿をミクロ的視点で描いています。

 この本では、温州の中小企業、携帯電話、太陽電池、自転車、レアアースといった分野がとり上げられていますが、何と言っても驚くのは「ゲリラ携帯電話」とも言われる、中国の中小零細携帯電話メーカーの実態でしょう。

 今、「中小零細携帯電話メーカー」と書きましたが、日本の携帯を見る限りこのようなカテゴリーが存在することはなかなか理解できないと思います。
 携帯電話を製造している業者はAppleやサムスンやソニー・エリクソン、日本国内でも富士通やシャープなどの大手で、アプリならともかく携帯電話製造にチャレンジするようなベンチャー企業というのは考えられないでしょう。
 ところが、中国の深センでは、「インテグレーター」と呼ばれる携帯電話メーカーが1500社ほどあり、100万元(1300万円)ほどの資金があれば、携帯電話を開発して量産できるというのです(66p)。

 携帯電話を作るとなると、ICの調達、基盤の設計、ボディの金型、専用のソフト、政府の認証などさまざまな事が必要になり、素人考えでもこれらのことがいくら中国といえども1300万円でできるとは思えません。事実、政府の型式認証でも400万円ほどかかるそうです。

  というわけで、これらの携帯電話は政府の認証は受けていません。ニセの認証シールを作る業者もあり、それを貼ってすませんています。だから「ゲリラ携帯電話」なのです(パキスタンでは、輸出されたこのゲリラ携帯電話の持ち主が盗難にあった携帯電話を止めようとしたところ、同じ識別番号を使いまわしていた数 百台の携帯電話が一斉に使えなくなったことがあったそうです(53ー54p))。
  これらの携帯電話メーカーは、心臓部のICを台湾のメーカーから購入し、回路基板は基盤・ソフト設計業者から購入。さらにデザインはケース機構設立会社に委託し、そのデータを成形・金型メーカーに渡す。そしてそれを電子部品組立サービスに渡せば、一丁上がりというわけです。
  深センの華強北にはこうした業者がひしめいており、著者は一時期の秋葉原のようだといいます。この華強北には携帯電話に必要な部品のほか、大手メーカーの 回路基板を解説したガイドブックまで売られており、秋葉原を回れば自作パソコンをつくれるように、華強北を回れば携帯電話がつくれるようになっています。

 もちろん、品質はよくなく、中国でも都市部ではだんだんと正規品に駆逐されているようですが、「SIMカードが2枚入れられる」などの独自のイノベーションで、インドやアフリカなどの海外に販路を広げているそうです。

  ノーベル経済学賞のダグラス・C・ノースはその著書『経済史の構造と変化』の中で、「なぜすべての部品が市場で取引されるのではなく、それらを自前で作る企業が存在するのか?」という疑問に対して、品質の測定コスト、品質の管理コストなどに注目して、その存在意義とはたらきを説明していますが、品質を犠牲にしながらもその製造過程を統合せずに市場に頼る中国のゲリラ携帯電話メーカーの姿は、ノースの理論をある意味で証明しているといえるかもしれません。

  他にも電動自転車では「日本の法令に合わせるために高度な技術を駆使した日本の電動アシスト自転車」と「多少の法令違反は承知で、比較的単純な技術で作ら れた中国の電動自転車」が比較され、太陽電池では「大企業の一部門として変換効率の改善などに血道を上げ、結果的にビジネスチャンスを逃した日本企業」と 「ベンチャー企業として技術よりもコストにこだわりまたたく間に世界を席巻し、そして早くもそのいくつかは危機に陥っている中国企業」が比較されていま す。
  これを読んで中国の産業の「無秩序さ」に眉をひそめる人もいるかもしれませんが、中国産業のダイナミズムを描き出すとともに、日本企業の経営の弱点をうま く炙りだした分析になっていると思います(特に太陽電池におけるシャープの失敗についてはかなり突っ込んだ分析がしてあります)。

 ただ、「国進民退」とも言われる風潮の中で、この「大衆資本主義」がどこまでうまく続いていくかはわかりません。
  レアアースに関しては、多数の民間資本が参加することで中国は一気にレアアース大国になりましたが、それを外交のカードにしようと政府が統制を強め、輸出 規制などを行った結果、中国以外の国でレアアース鉱山が開発され、さらに価格の高騰で需要が低迷した結果、レアアースの価格は一転して下がり始め、また中 国の輸出規制はWTOに提訴されました。
 このように政府の介入が、大衆資本主義の勢いを削いでしまう可能性もあります。国有企業の存在感が薄い分野をついて育ってきた大衆資本主義ですが、見込みがあるとなれば規制に守られた国有企業が中小零細企業を圧迫する可能性もあります。

 「おわりに」の部分で、著者は中国の大衆資本主義と、戦前から戦後にかけての浜松市の製造業の勃興を比較しています。浜松ではオートバイや楽器などにさまざまなメーカーが参入し、そしてホンダやヤマハ、スズキといった世界的なメーカーが育って行きました。
 一方、中国でも製造業の集積や勃興は見られますが、その中から世界的なメーカーが立ち上がってきた例はほとんどありません。
 著者もその点は楽観視してはいないのですが、とりあえずこの本に描かれている中国の産業のダイナミズムは文句なしに興味深いものだと思います。

チャイニーズ・ドリーム: 大衆資本主義が世界を変える (ちくま新書)
丸川 知雄
4480067167

坂野潤治『西郷隆盛と明治維新』(講談社現代新書) 5点

 昨年、『日本近代史』(ちくま新書)という力作を世に送り出した坂野潤治が、その『日本近代史』の中でも取り上げた西郷隆盛の実像に迫った本。
 内容的には『日本近代史』と重なるところもあり、特に幕末の西郷隆盛の考えとその意義付けに関しては面白いのですが、『日本近代史』とほぼかぶっています。一方、『日本近代史』であまりとり上げられなかった征韓論と西南戦争についてはより突っ込んだ記述がしてあるのですが、著者の西郷への思い入れが強すぎて、やや冷静さを欠いた議論になっていると思います。

 西郷隆盛というのは非常につかみにくい人物で、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』が『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』に比べてすっきりしないのも、この西郷の「わかりにくさ」に起因しているのだと思います(結果的には『翔ぶが如く』では大久保利通のほうが魅力的に描かれていると思う)。
 一方、「西郷隆盛ファン」というのも多く、著者のその一人で、そのことを隠していません。佐々木克『幕末政治と薩摩藩』の内容に依拠していることを示しつつ、佐々木克の解釈に疑問を呈した次の文章などは歴史学者の文章とは思えないほどです。
 極言すれば解釈の相違は、西郷隆盛が好きか大久保利通が好きかという、幕末維新史の主人公に対する歴史学者の好みの違いからくるものである。そしてその背後には、幕末薩摩藩の頂点に位した島津斉彬と島津久光の評価の相違がある。明治日本を十分な知識をもって導けたはずの西郷隆盛を、一八五九年初めから丸五年間流刑に処した島津久光には嫌悪の情しか湧いてこないし、その久光に忠勤を励んだこの五年間の大久保利通にも、著者は好感をもてない。(56p)
 個人的には、西郷が復権できたのは、大久保利通が久光の側近の地位にいたからだと思うのですが、どうなのでしょう?

 ただ、それでも幕末期の西郷については、彼の先進性をさまざまな史料からうまく引き出して見せていると思います。
 西郷は自ら「攘夷」を唱えることはほとんどありませんでしたが、幕政の刷新、そして上院・下院の議院を持った新しい政治の創造には、薩摩藩だけではなく「尊王攘夷派」の志士を含め、幕府の中の開明派(勝海舟や大久保一翁など)との「合従連衡」が必要だと考えていました。
 島津久光による幕政改革や、有力諸侯による朝廷会議が失敗した後に、再び薩摩藩が政治のイニシアティブを取り戻すことができたのも、この本で著者が指摘する「合従連衡」の考えが西郷にあり、またそのためのネットワークを西郷が持っていたからでしょう。

 けれども、征韓論と西南戦争についての部分はやや厳しいものがあると思います。
 この本では毛利敏彦『明治六年政変の研究』に基づいて「西郷は「征韓」を唱えたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を唱えただけであり、自分が殺されれば「征韓」の口実になるといったのは「征韓派」の板垣退助を説得するためのものである」と主張しています。
 ただ、この毛利敏彦の研究には様々な批判があり、多くの歴史学者が納得しているものではありません。著者も、毛利敏彦説をとるならば、もう少し丁寧に毛利説への批判に答えていくべきだと思います。

 また、西南戦争について著者は「西郷にとっては、大義なき内戦だったのである」(198p)と述べ、私学校の急進派に引きずられる形で決起せざるを得なくなったと見ています。 
 この見方には個人的に賛成なのですが、それならばもう少し西郷を取り巻く状況についての分析があってもよかったと思います。西南戦争については、「筆者の筆は進まない」(186p)と、著者自らが宣言してしまっているわけですが、幕末期には薩摩藩急進派の暴発を抑えた西郷が、西南戦争ではそれに乗ってしまった説明がもう少し欲しいですよね。

 というわけで、『日本近代史』を読んでいればこの本を読まなくても十分な気がします。『日本近代史』を読んでいなくて、西郷について知りたいという人にはいいかもしれませんが、時間があれば、やはり『日本近代史』にチャレンジしたほうがいいと思います。

西郷隆盛と明治維新 (講談社現代新書)
坂野 潤治
4062882027

日本近代史 (ちくま新書)
坂野 潤治
448006642X
 

清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書) 9点

 面白い本というのはいくつかの楽しみ方ができるものですが、この本もそう。近代日本の官僚制の発展の歴史を知ることが出来るだけでなく、近代日本を担ったエリートたちのドラマ、そして現在の日本の政治システムの問題点を改めて知ることができます。
 しかも、王政復古の大号令から記述が始まっているので、「日本という近代国家は以下にして成り立っていったのか?」という疑問にも答えてくれる内容になっています。

 というわけで、どこから紹介しようか迷う本なのですが、まずはこの本は「日本の近代国家建設の歩み」を描いたものとして面白く読めます。
 あくまでも力点は官僚と行政機構に起これているので、一般の人々の様子や軍の動きなどはわかりませんが、行政機構の変遷や、そこで活躍した人びとの姿を知ることで、日本という近代国家が立ち上がってくる様子がわかります。

 特にこの本では、時代ごとに日本の行政が抱えた問題とその行政の世界に飛び込んだエリートたちの姿が非常に上手いバランスで描かれていて、「日本の行政機構の発展」+「近代日本のエリートの肖像」という2つの視点を楽しむことができます。

  大久保利通や大隈重信、伊藤博文、原敬といった政治家たちが、行政や官僚をどのように考え、行政機構を変えようとしたのか(原敬の内務省の掌握術なんかは 興味深いです)を通じてそれぞれの国家観が見えてきますし、有名・無名の官僚のプロフィールをたどることで地方の青年たちがどのように立身出世を目指し、 官僚の世界へと飛び込んでいったのか?ということも見えてきます。
 ある者は小藩の期待を一身に背負い、ある者は藩閥とのコネが得られなくて苦労し、ある者は帝国大学での成績争いのプレッシャーに押しつぶされそうになり、ある者は地方の有力者の婿となりといった具合に、そこにはさまざまなドラマがあります。

 また、王政復古以降の行政機構の変遷を個人名を入れた図でもって示してくれているので、歴史の教科書を読んだだけではわからない、それぞれの変化の意味というのも見えてきます。
 
 さらに、この本は今までの通俗的な日本近代史のイメージである「藩閥と官僚VS政党」という図式を覆し、日本の近代政治史に新たな視点を提供してくれます。
  原敬、加藤高明、浜口雄幸など政党政治家の有名所は実は官僚出身ですし、さらに若槻礼次郎、床次竹次郎なども官僚あがりです。もちろん、平田東助や清浦奎 吾などの政党とは距離をとった山県有朋系の官僚もいますが、政党は積極的に官僚を政治家にリクルートしましたし、また官僚たちも自らの経綸を才を発揮するために政党政治家になっていきました。
 
 このようにこの本では、官僚についての一種の「神話」を解体しています。
 日本では政治家は選挙で落ちたり、政権交代で政府から離れることはあっても官僚は常に権力の中心にいつづけ、中立的な立場を装って実質的な政策決定の過程を握り続けたという理解がありますが、政党政治家と官僚との関係をみてもそう単純なものではありません。
 
 つい最近まで、日本では大臣はお飾りで実質的に省内を仕切っているのは事務次官であり、官僚のトップの事務次官こそが日本の政治を実質的に動かしているという議論がありました(今も残っているかもしれません)。
  こうした問題に対して、2001年の中央省庁の再編に伴い、副大臣や政務官といった政治任用職がつくられ、いわゆる「政治主導」が目指されています(民主 党政権が「政治主導」の旗印のもと事務次官会議を廃止し、大臣・副大臣・政務官の政務三役主導で各省を運営しようとしたのは記憶に新しいところです)。
 
 しかし、この問題は近年になって急に浮上してきた問題ではなく、それこそ明治期に官僚制が成立して以来、常に問題となっていました。
 官僚は政治的に無色であるべきなのか、それとも次官などの重要なポジションは政党色をおびるべきなのか。すなわち、どこまでが専門職でどこまでが政治任用職なのかということについて、綱引きが続いていたことがわかります。
 同じように省庁のセクショナリズムに関しても、明治期以来問題とされており、これらの問題が簡単に正解の出せない難しい問題であるということが改めて認識できます。

 「あとがき」で著者は「政治史という専門分野は、しばしば政治学と歴史学のはざまに立たされる」(339p)と書いていますが、「政治学」の本としても、「歴史学」の本としても十分に読み応えがあります。
 この本は、「はざま」というよりは、その「重なり」の中で、非常に厚みを持った内容に仕上がっていると思います。

近代日本の官僚 - 維新官僚から学歴エリートへ (中公新書)
清水 唯一朗
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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