山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2015年03月

岡本裕一朗『フランス現代思想史』(中公新書) 8点

 レヴィ=ストロース以降の「フランス現代思想」についての解説書ですが、注目すべきはタイトルが「フランス現代思想」ではなく、「フランス現代思想史」となっている点。「フランス現代思想」というムーブメントが「終わった」ことを前提に、その内容と意義をたどる形になっています。
 また、著者は「フランス現代思想」を専門にしている人物ではなく、専門はヘーゲル。フランス現代思想に取り組むようになったきっかけは、非常勤講師先で学生からドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』について講義してくれと頼まれて読んでみたが、まったくわからなかったことだそうです。
 ということもあって、「フランス現代思想」の専門家がその研究対象の「凄さ」を伝えるような本ではなく、ドイツなどの現代思想と比較しながら、その内容をなるべく客観的に評価するようなスタイルになっています。冒頭からいきなりソーカル事件をとり上げていることからもそのスタンスはわかるでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに
プロローグ フランス現代思想史をどう理解するか
第1章 レヴィ=ストロースの「構造主義」とは何か
第2章 構造主義的思想家たちの興亡――ラカン・バルト・アルチュセール
第3章 構造主義からポスト構造主義へ――フーコー
第4章 人間主義と構造主義の彼方へ――ドゥルーズ=ガタリ
第5章 脱構築とポスト構造主義の戦略――デリダ
第6章 ポスト構造主義以後の思想
エピローグ 〈フランス現代思想〉は終わったのか
おわりに/ブックガイド

 目次を見るとわかりますが、フランス現代思想の思想家を網羅的に取り上げつつ、特にレヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、デリダに焦点を当てています。
 これらの思想家については、その思想の変遷を含めてある程度丁寧に分析されています(一方、ラカン・バルト・アルチュセール、特にラカントアルチュセールについては簡単な紹介にとどまっています)。

 紹介に関しても、レヴィ=ストロースの思想と数学グループのブルバキ派やヤコブソンの言語学との関係は、橋爪大三郎『はじめての構造主義』(自分は昔、この本で「フランス現代思想」に「入門」しましたが非常に面白かった記憶があります)よりも丁寧ですし、フーコーの権力論やドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で陥った隘路などの説明もわかりやすいです。
 また、ドゥルーズの管理社会論やデリダの「郵便」モデルなど、現代のビッグ・データとデジタル・ネットワークの問題を予言した部分ににも紙幅を割いており、「フランス現代思想」が持っている「可能性」についても触れています(この「可能性」については第6章「ポスト構造主義以後の思想」でも検討されている)。

 このようにここの思想家の紹介としてもいい本だと思いますが、やはりこの本の売りは日本では80~90年代にかけて「ブーム」としてまとめて消費された「フランス現代思想」を「歴史」としてきちんと位置づけている点でしょう。

 レヴィ=ストロースのサルトル批判やデリダのレヴィ=ストロース批判など、各思想家間の関係や批判の構図も丁寧に説明していますし、さらには1968年の「五月革命」が思想家に与えた影響、90年代のデリダの発言の政治化の背景にあったフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」への反発など、各思想家の変化や発言の裏側にあったものがわかるようになっています。
 よく一緒くたに使われる「ポスト・構造主義」と「ポスト・モダン」の違いについても、デリダとリオタールの対立を通して明確に描かれています。

 特に、日本やアメリカでは80~90年代に広く受容された「フランス現代思想」が、本場のフランスではすでに下火になっていた、という指摘は重要でしょう。
 フランスでは1973年にロシアの作家・ソルジェニーツィンがソ連の強制収容所の実態を暴露した『収容所群島』を発表した、いわゆる「ソルジェニーツィン事件」によって、マルクス主義は大きな打撃を受け、同時にマルクスから強い影響を受けていた「フランス現代思想」もまた大きな打撃を受けました。
 「フランス現代思想」が、「ポストモダニズム」の思想とともに、「文化」を分析する方法として輸入された日本やアメリカとは違い、その思想が「政治的実践」と結びついていたフランスでは、マルクス主義の失墜の影響は大きく、改めて思想が受け入れられる「文脈」というものを考えさせられました。

 独特の文体を持つ思想家たちの著作からの引用が多いため、その点で読みにくく感じる人もいるかもしれませんが、引用部分に対する著者の解説も行き届いており、じっくりと読めばその難解な言い回しも理解できるようになっています。
 哲学や「フランス現代思想」についての知識があまりない人には難しい面もあるかもしれませんし(「フランス現代思想」についての知識がゼロなら先ほど触れた橋爪大三郎『はじめての構造主義』(講談社現代新書)あたりから読むといいと思う)、当然ながら「この思想家のこの部分の記述がない!」といった批判もあるとは思いますが、「フランス現代思想とは何だったのか?」という問題に答えてくれるいい本だと思います。


フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ (中公新書)
岡本 裕一朗
4121023005

安藤至大『これだけは知っておきたい働き方の教科書』(ちくま新書) 7点

 NHK・Eテレの「オイコノミア」などにも出演している経済学者・安藤至大による「働き方」の解説書。「なぜ働くのか?」、「なぜ雇われて働くのか?」といった根本的な疑問から、「正社員とは何か?」、「ブラック企業とは何か?」といった現在の日本の「働き方」を考える上で避けて通れない問題、さらにはこれからの「働き方」についての予想図を示しています。
 
 この本の特徴は2つあって、一つは経済学者でありながら「働くこと」に対する法律面についての検討を丁寧に行っている点と、もう一つは経済学者らしく現在の日本の雇用システムについて経済学的な面から説明を行おうとしている点です。

 経済学者が雇用について語るというとなると、「日本の正社員の既得権となっている解雇規制を撤廃して、成果主義、あるいは同一労働同一賃金を中心とする柔軟な雇用システムを!」みたいな議論を想像する人もいるかもしれませんが、この本の議論はもっと丁寧です。
 例えば、他人のために仕事をして金銭をもらう契約について、「雇用」、「委任」、「請負」の3つのタイプに分けて、それぞれを法律上の分類に基づいて目的と裁量の面からきちんと説明していますし、「正規雇用」というなんとなく使われている言葉に対しても、その言葉がきちんと法律では定義されていないことを指摘しつつ、専門家の見解として「無期雇用」、「直接雇用」、「フルタイム雇用」の3つの条件をみたすものが「正規雇用」であるときちんと紹介しています。

 雇用について経済学者やエコノミストが口を出すとなると、「派遣は良いか悪いか?」、「正規と非正規の格差をいかになくしていくか?」といったような「わかりやすい」問題を単純化して俎上に上げるケースが多いのですが、この本では日本の法制度や実情も踏まえた上でより丁寧な議論がなされています。

 ただ、こうした説明は労働法の専門家や、労働問題に精通している弁護士などでもできます。この本の売りはやはり雇用についての経済学的な面からの説明にあるといえるでしょう。

 「年功賃金」や「終身雇用」、あるいは「新卒一括採用」、これらは現在、日本の雇用における「非合理」なシステムや慣習として捉えられがちです。
 しかし、この本では、これらのしくみがある意味で「合理的」であることをきちんと説明しています。
 例えば、「終身雇用」は、高度成長期の人手不足のもとでのみ「合理的」だったとおもわれがちですが、「業績変動のリスクを会社側が一手に引き受けることにより、平均的にはより低い賃金の支払いで労働者を雇うことができ」(90p)ますし、その企業に特有な知識や技能を労働者に身につけさせるにも有効です。
 「新卒一括採用」についても、採用時の選別が比較的容易で教育コストなども抑えられることから今後も完全になくなることはないとみています(174ー176p)。

 もちろん、著者は現在の日本の雇用システムに問題がないと考えているわけではなく、長時間労働やブラック企業などの問題を指摘していますし、「年功賃金」や「終身雇用」や「新卒一括採用」、今のような形態でずっと続くと考えているわけではありません。
 「年功賃金」や「終身雇用」の待遇を受ける人は今後減ってくるでしょうし、「新卒一括採用」以外の入り口も整備されるべきだと考えています。
 また、正規と非正規の格差の問題に関しても、勤務地や仕事内容などを制限した「限定正社員」などの、今までの正規と非正規の中間となるような雇用形態を増やすことで解決していきたいと考えています(このあたりは濱口桂一郎が『若者と労働』(中公新書ラクレ)などで主張する処方箋と近い)。

 ただ、個人的に物足りなく感じたのが解雇について論じた部分。
 経済学者において、「解雇規制の撤廃」を主張し(ここでカギカッコをつけたのは実際の法律に解雇規制があるわけではないから。「解雇規制」とは日本の裁判では整理解雇が認められる条件のハードルが高い(あるいは不透明)だけであって、これは「撤廃」するようなものではありません)、「解雇規制の撤廃」こそが正規と非正規の格差、あるいは若者の就職難を解消するキーだと考える人が目立つ中で、著者は現在の「解雇規制」にもそれなりの理由があると考え、また、別の場所(「世代間格差は「解雇規制の緩和」では解消されない」など)では、「解雇規制の撤廃」が必ずしも若者の雇用状況の改善にはつながらないと主張しています。
 この本でも、第2章や176ー178pのコラムなどで解雇の問題について触れ、「整理解雇の四要件」の明確化などについて書いているのですが、ここは経済系の人と法律系の人の対立が一番ヒートアップする部分なので、経済学者でありながら、異なる見解を持つ著者のもっと踏み込んだ見解を読みたかったです。

 このようにちょっとだけ物足りない部分もありましたが、全体的にはバランスのとれた良い入門書だと思います。さらに巻末にはブックガイドも付いているので、「働き方」を考える最初の1冊としてもいいでしょう。

これだけは知っておきたい働き方の教科書 (ちくま新書)
安藤 至大
4480068236

原田泰『ベーシック・インカム』(中公新書) 7点

 すべての人に基礎的な生活資金を国家が支給するベーシック・インカム。自由主義者、平等主義者、それぞれの立場からその魅力が語られているアイディアでもありますが、同時に「実現不可能」と切って捨てる人も多いと思います。
 そんなベーシック・インカム(以下BI)の思想的な背景、日本での有用性、そしてその実現可能性をシミュレーションしてみせたのがこの本。特に、最後の実現可能性については現実の日本にあてはめて議論を進めており、今後の議論を進めていく上での基礎を提供するものになっていると思います。

 著者の原田泰は基本的に経済学の原理に忠実な人であり、「そんな人がなぜBIを推すのか?」と疑問に思う人もいるかもしれません。
 しかし、例えば、『震災復興 欺瞞の構図』(新潮新書)を読んだ人であれば、著者がBIを推すというのは非常に納得できることでしょう。『震災復興 欺瞞の構図』は、仮設住宅の建設や新たな住宅地の造成に巨額の税金を投入するのであれば、そのお金を被災者に直接配ったほうが、はるかに安上がりに、また効率的に使われると指摘した本でしたが、この本を貫く考えも基本的には同じでです。

 日本は、これまで無理やり仕事を作ることで人々の生活を守ろうとしてきた。公共事業、農業保護、中小企業保護などの政策である。もちろん、生活保護のように、直接、生存権を守るという政策もある。これらの政策にいくら使っているだろうか。これらの予算を、人々への直接給付にしたら、どれだけのことができるだろうか。(116p)

 このように、「政府があれこれとお膳立てをするよりも、個人に直接お金を渡したほうが効率的であるし、自由である」というのが著者の基本的なスタンスです。

 それでも「国民全員にばらまくのではなく、困っている人だけを重点的に支援した方がいいだろう」と考える人は多いと思います。
 ところが、現在の日本では支援の手は困っている人には届いていません。
 日本の生活保護の水準は他の先進各国と比べて低いものではないのですが(著者の「際立って高い」(25p)の表現は強すぎると思いますが)、生活保護を受けている人の割合は非常に少ないです。この本で紹介している橘木俊詔の研究によると、生活保護水準以下の暮らしをしている人は人口の13%、ところが生活保護の受給者は2006年時点で人口の1.2%程度だといいます(25p)。

 つまり、本来、保護を受けるべき人たちが保護を受けていないのです。もちろん、本人が生活保護を受けることを望んでいないケースも有ると思いますが、生活保護以下の生活水準であるにもかかわらず、行政の窓口でなんだかんだ理由を付けられて生活保護の支給を断られている人もいるでしょう。もしBIが実現すれば、そうした行政の恣意的な選別を防ぐことができます。
 
 佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学』の中で、「人々に対する政府の移転給付を選別的にすればするほど、経済全体の格差は広がる」というコルピとパルメが1998年に示した「再分配のパラドックス」という概念が紹介されていますが、「本当に困っている人」だけを選別して援助しようという社会保障政策は往々にしてうまくいかないものです。
 ここからもBIの考えというのは正当化できるでしょう。

 しかし、BIの考えに賛成する人でも、その実現可能性に関しては疑問視する人は多いと思います。これに対して、この本の第3章ではさまざまなデータを示しながら今の日本においてBIが実現可能であると説きます。

 想定するBIの水準は20歳以上の大人が月7万円(年84万円)、20歳未満の子どもが月3万円(年36万円)というのが基本になります。これに必要な予算は年96.3兆円です。
 財源に関しては、まずは所得に一律30%の課税を行います。これで77.3兆円の税収を得ます。
 また、BIの導入によって減らせる予算も出てきます。老齢基礎年金への16.6兆円、子ども手当への1.8兆円、雇用保険への1.5兆円はそのまま廃止でき、さらに生活保護費も廃止できますし、公共事業費や中小企業対策費、農林水産省の予算、地方交付税交付金の一部も廃止できるとします(著者に言わせるとこのあたりの予算には無理に雇用や所得を維持するために使われているものが多い)。ここで15.9兆円が削減でき、最初にあげた削減できる社会保障費の合計19.9兆円との合計で35.8兆円は現在の予算から削減できろと考えると、BIは十分に成り立つといいます(116ー123p)。

 ただ、確かにこの水準でBIが実現可能であることは分かったが、「月7万円では生活できない」、「水準が低すぎる」と感じる人も多いでしょう。
 もちろん、月7万円では厳しいことは確かですが、老齢基礎年金の月々の支給額はこれよりも低いくらいですし、夫婦と子ども二人の世帯が生活保護を受給した場合、都市部で月28.7万円、町村部で月20.9万円、大人7万子ども3万のBIですと月20万円。都市部の水準に比べると見劣りがしますが町村部の水準とほぼ同等です。
 これでも「低い」と考える人はいると思いますが、著者は現在の生活保護の、水準は立派であるものの多くの人がアクセス出来ない現状を考えると、「低い」水準のBIでも遙かにましであると考えています(142ー143p)。

 BIに対する実現可能性以外の疑問、例えば、「労働意欲を阻害しないか?」、「賃金を引き下げるか?」といった疑問を持つ人はいると思いますが、それに対してもこの第3章で答えているので本を読んで確認してみてください。
 他にも、ここでは「BIをすれば移民入れられない」とはっきりと指摘していて、そこも重要な論点だと思います(152ー154p)。

 著者の試算を読みつつ、障害者や難病患者、あるいはコミュ力が低く共同生活が難しい人(二人で月14万円ならなんとかなるが月7万円の一人暮らしはやはり厳しい)など、BIがあってもそこからこぼれ落ちる人をどうするかと問題は残るな、と感じましたが、それでもこの試算と、著者の大胆に割りきった考え方は今後の社会保障を考える上で重要だと思いますし、また、BIを巡る議論の土台を提供する貴重な仕事だと思います。

ベーシック・インカム - 国家は貧困問題を解決できるか (中公新書)
原田 泰
4121023072

岡本隆司『袁世凱』(岩波新書) 8点

 『李鴻章』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)などの著作で知られる岡本隆司による袁世凱の評伝。
 袁世凱というと、多くの人にとって「辛亥革命を潰した男」、「皇帝になろうとして自滅した男」といったもので、良いイメージはないでしょう。著者も「あとがき」で「まだ若いころ、少し知って、嫌いになり、立ち入って調べていよいよ嫌いになった。蛇蝎ののように、とつけくわえてもよい」(217p)とまで述べています。
 しかし、それでも袁世凱の歴史的な重要性というのは否定出来ないわけで、例えば、日本史だけを見ていても、壬午軍乱、日清戦争の開戦、21ヵ条の要求など、節目節目でこの男が登場することになります。

 そんな袁世凱の評伝なのですが、この本が描こうとするのは袁世凱という人物というよりは、袁世凱が生きた時代ということになります。著者は、「おわりに」の部分で、袁世凱を次のように評しています。
 曾国藩はいわば、アイドルだった。かれよりもはるかに能力も実績もあったはずの李鴻章は、実務家ゆえに必ず格下にみられる。それでも雄大な体躯、豊かな経歴に裏づけられた威厳があった。それも虚飾にほかならない。
 袁世凱には、それすらなかった。あるのは、ナマの政治力・軍事力、つまり実務能力のみ。(214p)

 ここでいう「アイドル」とか「虚飾」というのは、イデオロギー的な華やかさやカリスマ的なものなのですが、確かに袁世凱にはそういった部分がありません。また、「新しい価値観でもって歴史を変えようとした」といった面もありません。
 袁世凱は持ち前の実務能力と嗅覚で、清朝の崩壊から中華民国の誕生という激動の時代の中でのし上がりました。この本はイデオロギーにとらわれずに立身出世を果たした袁世凱を追うことで、当時の複雑な政治状況を描き出そうとしており、またそれに成功していると思います。

 まず、この本を読んで一番腑に落ちたのが政治的存在としての西太后と、その「垂簾聴政」といわれる政治スタイルの意味。
 西太后というと、「清朝を滅亡に追いやった稀代の悪女」のようなイメージがあり、自らの権力を維持するために、「改革」を目指した光緒帝や康有為らの変法運動を潰し、清朝、ひいては中国の停滞を招いた張本人とも思われがちです。
 このうち「悪女」のイメージについては加藤徹『西太后』(中公新書)(これは面白い本)がそのイメージを覆してくれているのですが、それでも政治的な「ガン」だったというイメージは消えません。

 ところが、この本を読むと西太后の「垂簾聴政」という政治スタイルが、19世紀半ば以降の中国に現れた「督撫重権」という地方大官の総督・巡撫がその地方の民政や軍事を担う構造が要請したものであることが見えてきます。

 アヘン戦争や太平天国の乱を経て、中国でも改革や近代化が要請されることになるのですが、その近代化の歩みは、日本のように「分権的な幕藩体制→天皇中心の中央集権制」というものではなく、「中央集権的な皇帝独裁→「督撫重権」の分権的な近代化の試み→光緒帝による中央集権的な変法運動」といった形で複雑に動きます。
 もちろん、幕末の日本においても雄藩は独自に近代化を模索したわけですが、それでも日本全体の近代化には中央集権化が欠かせないという意識はありましたし、また、天皇という格好のシンボルもありました。

 しかし、日本よりもはるかに広大で、しかも中国のマジョリティである漢民族とは違う女真族の皇帝を頂いていた清朝において、このような「近代化=中央集権化」という図式は成り立たないわけです。
 結局、清朝においては古臭い「中央」がしゃしゃり出るよりも、「地方」の「督撫」のもとで近代化は進むわけで、その地方の動きを方向付け追認するのが西太后による「垂簾聴政」なのです。
 袁世凱を引き上げた李鴻章も、そして袁世凱自身も「地方」において地盤を固めることいよって中国全体に影響力を持つに至った人物であり、「督撫重権」と「垂簾聴政」の政治構造の中で力を発揮した人物でした。

 このような構造を見据える著者からすると、光緒帝や康有為らによる変法運動はこの政治構造を無視したものでした。
 明治維新にならい、伊藤博文にアドバイスを仰ごうとした康有為や光緒帝らの「変法」派は、中国近代史の中の「善玉」に見えますが、著者は康有為については「性格はむしろ軽薄」と指摘し、光緒帝についても「冷静沈着という印象をまるで与えない君主」と形容しています(79p)。
 
 袁世凱は「変法」派からその軍事力を頼りにされるわけですが、彼は「変法」派のクーデターには力を貸さずに、そのクーデターを密告します。
 一部では「寝返り」として評判の悪い袁世凱の行動ですが、この本を読めば、あの時点で「変法」派につかないほうが自然であることが理解できると思います。
 袁世凱は強引な「変法」による中央集権化=近代化には付き合わずに、義和団事件後は、北洋大臣兼直隷総督となって「督撫重権」のもとでの近代化を目指します。彼は天津の近代化に力を尽くし、警察制度を整え、財源の確保に努めました。

 しかし、列強の圧力や日露戦争と日本の勝利といった「外圧」は、中国のナショナリズムを刺激し、「督撫重権」のもとでの地域ごと、かつ緩やかな近代化を許しませんでした。
 1908年に西太后が亡くなると、ラスト・エンペラー宣統帝溥儀の父・載灃(さいほう)が実験を握るのですが、彼によって袁世凱はその地位を追われます。
 著者はこれを「政権の自殺行為にひとしい」(152p)と断じますが、周囲の皇族で固めた載灃の政権は急速に求心力を失い、時代は「革命」へと動き出します。

 この「革命」の中で、袁世凱はその実務能力がゆえにキャスティングボートを握り、臨時大総統となってついに「中央」で権力を握ります。
 ところが、中国の分権的な状況は「中央」が無能がゆえに起こっている事態ではなく、もはや構造的な問題であり、「地方」から権力を極めた袁世凱が「中央」に入っても中国全土をコントロールすることはできませんでした。
 袁世凱は「皇帝」への就任というアナクロニズム的な道を選んで失敗し、失意のうちに死んでいきます。
 この辛亥革命後の動きについては、この本でもかなり急ぎ足で端折っている部分もあるのですが、著者は袁世凱が失敗せざるを得なかった構造を描き出すことでよしとしているのでしょう。

 このようにほぼ袁世凱の人物に触れずに、当時の時代状況について書いてきたように、この本が焦点を当てているのは、袁世凱という人物というよりは彼が生きた時代であり、中国に根強く残る構造。
 この本を読めば、例えば現在の中国の地方政府のあり様や、薄煕来の重慶市での「暴走」などもまた違った視点で見えてくると思います。
 歴史好きだけでなく、広く中国に興味のある人におすすめしたいです。


袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)
岡本 隆司
400431531X

盛山和夫『社会保障が経済を強くする』(光文社新書) 7点

 理論社会学者でありながら、『年金問題の正しい考え方』(中公新書)で年金問題に、『経済成長は不可能なのか』(中公新書)でマクロ経済問題に切り込んだ盛山和夫が、今度は日本経済と社会保障のあるべき姿について提言した本。
 タイトルにあるように、社会保障は経済にとって負担ではなくむしろ経済成長をもたらすものであると論じた本。
 内容的に「どマクロ」というべきもので、「新しい社会保障の姿」といったものを求めている人は肩透かしを食うと思いますし、経済学的な議論にもいろいろと穴はあるのですが、なかなか面白い提言を含んだ本だと思います。

 この本が批判するのは、「我が国の財政は危機的な状態にあり、それには歳出削減が不可欠である。そのためには社会保障費を削減、あるいは伸びを抑え、同時に規制緩和などによって生産性を上げていくしかない」というような、世間に極めて広く流布している考えです。
 これに対して著者は、「財政は短期的には大丈夫であり、需要が低迷している現在の状況では生産性を上げてもそれが経済成長につながるとは限らない(そもそも、国単位の生産性はGDPの数字が出てから事後的に求められるものである)。また、政府による社会保障給付はGDPに計上されるものであり負担ではない。むしろ、社会保障給付は潜在需要を刺激し経済を成長させる。長期的には消費税増税によって社会保障給付の負担を賄うが、それもGDPにはマイナスとはならない」と主張します。

 まず、財政状況についてですが、日本の国債はギリシャなどとは違い、国内の金融機関や個人に保有されており投機的な攻撃にさらされる恐れが少ない、しかも金利は低い状態に留まっており、これは市場関係者が日本の財政破綻の可能性が低いと見ている証拠でもある、というのが著者の見方です。
 これは昨年の消費税引き上げ議論で、引き上げ反対派が持ちだしたロジックと同じであり、同意する人も多いと思います。

 ただ、社会保障の充実が経済成長につながるか、というのは意見の分かれるところでしょう。
 著者は、経済学者が社会保障費を負担と捉えて経済成長にとってマイナスだと考えるのは「小さな政府」イデオロギーという根拠の無い考えにとらわれているからだといいます。
 これは乱暴な議論で、経済学者が「大きな政府」を嫌うのにはそれなりの理由があります。

 一般的に、資源の使い方に関しては政府よりも市場のほうが効率的に使用すると考えられています。効率性を高めないと市場との競争に敗れてしまう企業にくらべて、潰れる心配のない政府には効率性を高めるインセンティブがあまりはたらかないからです。
 そうした政府が人々から多額の税を徴収して市場から資金を吸い上げてしまうと、いわゆるクラウディングアウトが起こり金利は上昇、民間企業は新規の事業を立ち上げられなくなり経済は停滞する、これが「大きな政府」を嫌う経済学者の標準的な考えでしょう。
 
 「以上で反論終わり」と言いたいところですが、現在の日本の現状を考えると、また違った風景が見えてきます。
 現在の日本では、政府が巨額の国債を発行し市場から資金を吸い上げていますが金利が上昇する傾向は見られません。もちろん、これは日銀の金融緩和のおかげでもあるのですが、物価上昇の動きも鈍いとなると、根本的に資金需要が弱い状況にあると考えていいでしょう。
 実際、日本では家計の企業も貯蓄超過の状態にあり、その貯蓄を政府が使っている状態です。つまり、政府よりも市場のほうが効率的に資源を使うとしても、そもそも市場で資源が使用されないのであれば、政府が使った方がましである、という事が言えるかもしれません。

 不景気で失業者がたくさんいる状態では、ケインズ経済学では「穴を掘って埋めるだけ」の公共事業でも効果があるといいます。
 もし、今の日本が人もカネも余っている状態の不況であれば、政府が社会保障の充実によって需要をつくりだすことはGDPにとってプラスになるはずです。

 また、この本の第4章では少子化対策は「投資」になると主張しています。保育園などを対する国の支出は保育士の給与などになってGDPに計上されますし、保育園の整備が進むことで働く女性が増えれば、それもGDPを押し上げる要因になります。
 さらに著者は少子化対策は長期の投資として有望であるといいます。この本では毎年2.4兆円を育児休業制度や育児給付金制度に使って出生数を24万人押し上げることができたとしたら65年後には生産年齢人口が1080万人増え、GDPは出生数が増えなかった場合に比べると73兆円増加、年平均で5.4%の収益率が得られるといいます(158ー162p)。
 実際、このような数字が得られるかは疑問もありますが、子育て世代に子どもに投資する余力がない現状を考えると、政府がこのような投資をするというのもありかもしれません。

 つづく第5章では年金の問題を取り上げています。
 少子高齢化の中、年金をこのまま維持していくことは厳しくなっています。(A)保険料を上げるか、(B)税の投入を増やすか、(C)支給水準を引き下げるか、いずれかの選択肢を選ぶ必要が出てきています。
 著者はまず、(A)の保険料引き上げは限界だろといいます(これには個人的に同意します)、そこで(C)の支給水準の引き上げが避けられないと考える人が多いのですが、著者は(C)よりも(B)の税の投入のほうが経済的にもプラスではないかといいます。
 著者によれば、現在の支給水準を2020年においても維持するために必要な消費税率は3.29%、一方、税の投入がなければ支給額を14.7%減らさなければなりません(193ー197p)。

 ここから現在35歳以上の人にとっては税を投入して支給水準を維持したほうが得であり、さらにそれ以下の年齢の人にとっても年金制度を維持することによる安心感や過剰貯蓄の防止を考えれば、経済的にプラスであると結論づけています。
 個人的に完全に説得されたわけではないですが、財務省の「我が国の家計は大変!」キャンペーンに比べると、この路線のほうが消費税増税への理解は広まりやすいんではないかなと思いました。

 というわけで、なかなか面白い提言が出されているのですが、やはり穴もあると思います。
 この本では「小さな政府」を擁護する経済学を「時間の概念がない」と批判しているのですが、著者のマクロ的な予想も十分に時間的な変化、変数といったものを織り込んでいるようには見えません。
 例えば、現在はまだ失業者もいるので市場よりも非効率な政府が資源を使ってもいいとは思いますが、労働人口が減り、労働者の需給関係がタイトになってきたら、非効率な政府が資源を占有することは成長の妨げになるでしょう。
 
 また、この本では格差の問題がほぼ捨象されています。
 いくら福祉のためとはいえ消費税の増税は貧しい人にとって大きな負担となります。この本では同じようにとって同じように配る形で議論が進められていますが、実際には個々人の貧富の差は大きいです。佐藤滋・古市将人『租税抵抗の財政学』が指摘するように、所得税でしっかりとした再分配をしない限り、充実した福祉の構築は難しいでしょう。

 このように問題点も色々とある本なのですが、ここまで「どマクロ」の視点から社会保障を擁護する本というのは珍しいと思います(社会保障を重視する人に限って「くたばれGDP」的な人が多くてうんざりすることが多いのですが、この本ではほぼGDPの話しかしていません)。
 この本の穴が致命的なものなのか、埋められるものなのかはわかりませんが、他の人の意見を聞いてみたい本ですね。

社会保障が経済を強くする 少子高齢社会の成長戦略 (光文社新書)
盛山 和夫
4334038433

中田考『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書) 7点

 中東情勢を語る人やイスラームを研究する学者には事欠かない日本ですが、意外といないのがムスリム(イスラーム教徒)の立場から発言をする人。
 この本の著者の中田考は、東京大学文学部イスラム学科の一期生にしてムスリムであり、さらにあの「イスラーム国」ともパイプを持っているという人で(幹部と直接の知り合いとかそういうものではないようですが)、2014年10月に大学を休学中の学生が「イスラーム国」に加わろうとした際にそれを手引しようとしたとされる人物です。
 「イスラーム入門」的な本なので、ムスリムでもない人にも違和感なく読めるように書かれていますが、注意深く読むと日本や欧米社会の常識からずれている面もあり、その主張に賛成しがたい部分も数多くあります。ただ、ムスリムの考えを知る上においては間違いなく貴重な本と言えそうです。

 とりあえず、著者がどんな人が知りたい人は解説を『イスラーム国の衝撃』の池内恵が書いているので、それを読むといいと思います。

 まず、この本を読んで感じたのが、イスラーム社会では「法があって制度がない」ような社会であること。
 イスラーム社会では、「シャリーア」と呼ばれる「法」が重要な役割を果たしています。この「シャリーア」は、『クルアーン(コーラン)』や『ハディース』(ムハンマドの言行録)を法源とするもので、それをイスラーム法学者が解釈していき実際の社会に適用されます。
 しかし、このイスラーム法学者は何か資格や免許を持っているわけではありません、「なんとなく決まっていく」(50p)というのです。

 日本だと、憲法などで理念が示され、それに基づいて法律によって組織と制度が作られて政治が行われていき、なにか問題が起こると裁判所が法の解釈を行う、といったイメージですが、この本を読む限り、イスラーム社会では憲法のような『クルアーン』や『ハディース』と、その解釈のみで社会が運営されているような印象を受けます(ちなみに国家による制度を信じない著者は健康保険にも年金にも入っていないそうです、医者に行けなくて死んでもそれは構わないということだそうです(193ー195p))。

 また、イスラームもキリスト教と同じように「最後の審判」がある一神教なので、いわゆる「罪」の文化が強いのかと思いましたが、それも少し違うようです。
 この本には「アッラーは慈悲深いので、善のほうをたくさん勘定してくれる」という項があるのですが(97-99p)、それによると巡礼をすればそれまでの罪のすべてが消えますし、金曜日の礼拝をやると次の金曜礼拝までの小さな罪はすべて許されるなど、かなり甘く見てもらえるそうですし、預言者は「私の名前を唱えた人間はちゃんと許してあげてください」と言っているなど、浄土教を思わせる部分もあります。

 このように一般的なイメージよりも「ゆるい」感じのするイスラームにおいて、なぜ「ジハード」の名において激しい戦いが起こるのか?
 この本によるとそれにもきちんとした理由があるそうです。

 イスラームでは普通の死者は最後の審判の日まで眠りにつくそうですが、ジハードで亡くなった者は天国に直行できます(106p)。殉教者の死は特別なのです。
 ただ、ジハードを命じることができるのは本来カリフ(イスラームの最高指導者)のみであり、カリフが存在しない現在、許されるのは異教徒の攻撃から自衛するためのものだけになります。

 ここで注目されるのが、「イスラーム国」においてカリフ制の再興が宣言され、アブー・アブル・バクダーディーが「カリフ」を名乗ったことです。
 もちろん、名乗っただけで世界中のムスリムに認められたわけではありませんが、イスラーム法学者に資格や免許が必要なかったように、カリフになるのに何か手続きがあるわけではありません。多くのムスリムがカリフと認めればカリフとなるのです。

 著者は、「イスラーム国」のバグダーディーについて、カリフとしては認めがたいとしていますが(211ー218p)、カリフ制の再興こそがイスラームのあるべき姿であり、現在の領域国民国家を打破するものだといいます。
 そもそも人間が人間を支配するというのは不正なのです。だから支配する人間はいないにこしたことはない。でもムスリムの意見が分かれたときには、誰かが彼らをまとめて不満なものにも我慢させなければならない。そうう人間は少なければ少ないほどいい。でも一人だけならいてもよいのではないか。むしろその人がいることによって、たくさんの支配者が出てこないようにする。一人のカリフとはそういうことです。領域国民国家をつくらせないために、法の一体性を守るためにあるのがカリフなんです。(190p)

 まさに、領域国民国家を「超越」する思想なわけですが、同時にすべての制度を解体して一人の人間の解釈に委ねようとするすごく危険な考えでもありますよね。
 
 この本の魅力は、こうした欧米生まれの「近代的」な考えからすると危険極まりない思想を、臆せずに語っているところです。
 もちろん、この本を読んで「カリフ制の再興こそが必要」とはまったく思いませんでしたが、ムスリムの中ではこうした考えがそれほど突飛なものでもないということを知ることは重要だと思います。

 このようによくよく読むとかなり「過激」な部分もあるものの、文章は読みやすく、また『涼宮ハルヒの憂鬱』や『マギ』なんかの引用もあって楽しみながら読める部分も多いと思います。

イスラーム 生と死と聖戦 (集英社新書)
中田 考
4087207641
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-294826-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
タグクラウド
  • ライブドアブログ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('