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2024年05月

麻田雅文『日ソ戦争』(中公新書) 8点

 1945年8月8日、玉音放送が流れる1週間前にソ連が日本に宣戦布告し、ソ連に終戦の仲介を頼んでいた日本は万事休すとなりポツダム宣言の受諾へと動きます。
 ソ連の参戦は日本の敗戦が決定的になってからのものであり、長い戦争の中では最後のちょっとしたダメ押しのようにも見えますが、ソ連側は185万、日本側でも100万以上の兵士が参加した大戦争であり、さまざまな悲劇をもたらしました。
 本書はソ連の参戦が決まった経緯から始まり、満州や樺太での戦い、さらには8月15日以降に行われた千島列島での戦いを追い、さらには日本人居留民を襲った悲劇などを総合的に描いています、
 ソ連参戦に対するアメリカ側の考えなども史料を通して明らかにしている一方、日本人居留民の証言なども拾い上げており、まさに日ソ戦争の全体像を提示しようとした本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 開戦までの国家戦略―日米ソの角逐
第2章 満洲の蹂躙、関東軍の壊滅
第3章 南樺太と千島列島への侵攻
第4章 日本の復讐を恐れたスターリン

 まずは参戦までのソ連側の経緯から説き起こしています。
 フランクリン・ローズヴェルト大統領は日米開戦前の1941年7月10日に、ウマンスキー駐米ソ連大使に「貴国の航空機が、天気のよい風の強い日を選んで、厚紙でできた日本の街に大量の焼夷弾を降らせてくれればと願う」(3p)と述べています。
 日本を方針転換させるために、ローズヴェルトはソ連からの日本への攻撃を望んだのですが、ドイツに攻め込まれたソ連にそのような余裕はありませんでした。

 その後も、対日参戦を望むアメリカと対独戦に集中したいというソ連の考えはすれ違います。1943年11月のテヘラン会談でドイツが崩壊したあとの対日参戦を口にしたものの、具体的な対日作戦計画を提示したのは1944年10月のチャーチルとのモスクワ会談のときでした。
 そして、1945年2月のヤルタ会談でソ連の参戦とその条件が固まります。チャーチルは米英中ソの共同宣言で日本は降伏するのではないかと考えていましたが、ローズヴェルトは言葉だけでは日本は降伏しないと見ていました。

 ローズヴェルトに代わって大統領になったトルーマンはソ連に不信感を抱いており、原爆の完成を急がせましたが、それでもソ連の参戦は必要だと考えていました。
 原爆の完成により、トルーマンや国務長官のバーンズはソ連の参戦を急がせる必要は薄れたと考えましたが、マーシャル米陸軍参謀総長は原爆が完成した後もソ連の参戦を望んでいます。

 こうした中、当初スターリンはポツダムで対日参戦は8月15日になるとトルーマンに伝えていましたが、8月7日になるとスターリンとアントーノフ参謀総長は極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥に8月9日に越境するように命じます。
 ソ連側が参戦を早めた背景には原爆の投下があったとも言われます。日本が想定よりも早く降伏するのではないかと考えたというのです。

 一方、日本はソ連に戦争の仲介を期待しつづけていました。1945年4月5日に1年後に期限が迫った日ソ中立条約を延長しないと通告してきたことからソ連との友好は期待できないとわかっていながら、無条件降伏を避けるための唯一の手段としてソ連の仲介に期待をかけていたのです。
 7月には近衛文麿を特使として派遣することも決まりますが、ソ連側はこの要請に対して肯定的な返事はせずに時間を稼ぎました。
 それでも、ポツダム宣言にソスターリンの署名がなかったことから、日本側は「希望的観測」を持つことになります。

 しかし、待ちに待った回答はソ連からの宣戦布告でした。
 ここに至って日本は「聖断」によってポツダム宣言の受諾を「国体護持」を条件に受け入れると表明しますが、無条件降伏を求めるスターリンは満州での攻撃を続行させます。
 その後、改めて「聖断」が行われ、8月15日にはアメリカ軍の攻撃がやみますが、ソ連軍の攻撃は止まりませんでした。

 第2章では満州で実際どのような戦いが行われたのかが述べられています。
 当時の満州には満州国がありました。満州国は日本の傀儡国家であり、国防と治安維持は日本に委託されており、満人や漢族の大臣がいたとしても実質的に仕切っていたのは日本人官僚でした。
 関東軍の幕僚は満州国の統治も「兼業」しており、そのために純粋に戦闘には集中できない状況でした。
 満州国にも軍はあり、そこには部隊を監視する「日系軍官」もいました。しかし、満州軍の中にはこの「日系軍官」への不満が渦巻いており、ソ連との戦闘が始まると多くが逃亡したり、「日系軍官」を殺してソ連軍に投降しました。

 陸軍はずっと対ソ戦に備えており、1943年初めまで関東軍は約80万の兵力を擁しており、44年9月までは作戦的にもソ連極東へ攻め込むことを前提としていました。
 しかし、戦局の悪化から44年になると関東軍の戦力の抽出が進み、これが45年6月まで続きます。これでは満州国が守れないと、7月から満州国にいる17〜45歳の男性25万人を入営させましたが、彼らは主に陣地構築のために働かされ、満足な軍事教練を受けないまま、そして十分な武器を持たないままに開戦を迎えます。
 しかも、国境近くでの陣地構築はソ連側を刺激するとして控えられました。
 
 東京の大本営の参謀部第二部第五課(通称ロシア課)では、7月末にもソ連軍130万が極東に集結しているし、冬になる前に作戦を進めるため、8月いっぱいに戦争が始まると予想していました。
 それでも大本営ではソ連の参戦は米軍の本土上陸が始まってからという見方が強く、ここでも希望的観測が強くありました。

 こうした中、関東軍は満州の地形を利用して持久戦を行いつつ、主力を大連から新京を結ぶ連京線の沿線に集結させ、機をうかがって反撃するという形になりました。
 この方針に基づいて、主力は南に集められます。最後の拠点として通化市が選ばれましたが、十分な整備ができないままに開戦を迎えることになります。

 一方、ソ連側は日本を圧倒する戦力を着々と整えていました。アメリカからの兵站の支援も受け、極東に大軍を集結させます。ただし、対独戦の部隊をそのまま転用するのは復員の問題もあって難しく、農村の疲弊を考えると一部の動員は解除せざるを得ませんでした。それでも8月には極東ソ連軍は175万に近くまで増強されます。

 ソ連軍の侵攻は8月9日の未明に三方向から始まりました。西からはザバイカル方面軍がハイラルを超えて大興安嶺に進み、東からは第一極東方面軍が沿海地方からハルビンと新京を目指し、北からは第二極東方面軍がハルビンを目指しました。
 これに対して日本側はソ連のこのタイミングでの参戦を予想しておらず、大本営では満州を放棄して有力兵団を朝鮮に南下させる作戦が了承されます。
 
 関東軍では運悪く総司令官の山田乙三が大連に出張しており、ここでも後手に回りました。
 奉天の第三方面軍を率いる後宮淳大将は連京線沿線での決戦を求めて部隊を動かし始めますが、持久戦の方針が崩れるとしてその動きは止められ、結局はほとんどの部隊が戦わずに終戦を迎えます。
 一方、ハルビンにいた第4軍では上村幹男司令官がソ連の動きを警戒しており、孫呉と璦琿(あいぐん)の陣地でソ連軍の侵攻を食い止め、停戦命令まで陣地を死守しました。
 日ソ戦争の最大の激戦地は満州国東部であり、ソ連の第一極東方面軍と日本の第5軍の間で牡丹江で激しい戦闘となりました。また、国境近くの要塞でも日本軍は頑強に抵抗しています。
  
 このように関東軍は一部で奮戦しましたが、評判が悪いのは民間人よりも先に軍人とその家族が避難したという問題です。
 山田乙三の弁明によれば、民間人はすぐに逃げる準備ができていなかったためとのことですが、逆に言うと、軍人の家族にはいち早く情報が届いており、それが避難を可能にしたということも考えられます。

 また、西部ではあっさりと突破を許しました。これはそもそも日本側が内モンゴルの砂漠地帯を横断して大興安嶺を突破していくるとは考えていなかったためで、完全に虚を突かれました。
 ソ連側は満州の関東軍と中国にいる日本軍部隊が合流することを警戒していましたが、ザバイカル方面軍の進撃により満州と華北の切り離しに成功します。

 戦術的には、航空機、戦車ともソ連側が圧倒しており、特にソ連軍の戦車に対して日本側は兵士が爆弾を抱えての自爆攻撃くらいしか対抗策がありませんでした。しかも、それもソ連側に対策され、十分な効果をあげることはできませんでした。

 8月15日の午後10時、山田乙三総司令官は玉音放送を拝聴しますが、正式な統帥命令はないとして作戦を続行させました。16日の大陸命が即時戦闘行動の停止を命じると、山田総司令官も即時停戦を命じます。
 ただし、ソ連軍の攻勢は止まらず、8月18日にようやくスターリンとアントーノフから停戦命令がでます。この背景には、日本のアメリカへの懇願と、それを受けてのソ連のアメリカへの配慮があったともいいます。
 最終的に8月19日に関東軍の泰彦三郎参謀総長とヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官の間で停戦条件がまとまりますが、このとき秦はソ連軍が満州全土をできるだけ早く占領するように要請しました。中国人や朝鮮人との関係が悪化する中で、日本人と関東軍をソ連軍の保護下においてもらうためです(のちの展開を考えれば甘い見通しだった)。
 しかし、その後も一部で戦闘はつづき、興安北省にいた第107師団などは停戦命令を疑い8月29日まで戦闘をつづけました。

 停戦したあとも満州にいた在満日本人の苦難は続きます。
 もともと現地の人の土地を奪う形で入植したケースも多かったために、中国人から襲われ、ソ連軍も保護するどころか襲いかかりました。多くの女性が暴行され、男性も時計などの金目の物をあらかた巻き上げられました。
 本書では森繁久彌、宝田明、赤塚不二夫らの証言も紹介されています。

 満州国はあっけなく崩壊し、溥儀はソ連極東のチタで軟禁されます。
 空白地帯となった満州にはソ連の手引のもとで中国共産党が勢力を伸ばしていきます。大連については国際港にするという話もありましたが、8月22日にソ連の空挺部隊が進駐し、9月2日にアメリカの巡洋艦が入港したときにはすでにソ連が大連の市内を掌握していました。

 朝鮮について、当初ソ連軍は北東部の港以外には興味を示していませんでした。ソ連軍の狙いはあくまでも関東軍の包囲殲滅であり、そのために満州と朝鮮の国境線を確保することが目指されたのです。
 それでも、8月16日にトルーマンからスターリンへ38度線以北をソ連に降伏する地域に指定するとの草案が届くと、朝鮮半島の占領が進み、9月17日までに38度線以北の占領が完了します。
 ここでも困難な状況に陥ったのが民間人です。朝鮮人から襲撃を受けつつ、ソ連軍からの保護も期待できない状況で、しかも日本への送還も進まず、多くの人が寒さや飢えや伝染病で倒れました。

 日ソ戦争の舞台は満州だけではありませんでした。第3章では南樺太と千島列島での戦いがとり上げられています。

 実は南樺太と千島列島にはアメリカも注目していました。アメリカは第2次世界大戦が始まるとソ連に対して物資を供給しましたが、その半分弱が太平洋を渡った東方ルートで運ばれました。
 ところが、日本領の千島列島近海や宗谷海峡を通るために、輸送船178隻が抑留され、9隻が沈められました。
 カムチャッカ半島の南端を通るルートも使われましたが、アメリカとしては宗谷岬を通過できることが望ましく、そのために海峡の北にある南樺太の占領を望んだのです。
 また、アメリカは日本空襲の拠点としてソ連の領内や南樺太、あるいは千島列島に飛行場を求めており、一時期は千島列島の占領も計画していました。
 一方、ソ連の狙いはあくまでも満週であり、南樺太の攻略には消極的でした。

 これに対して日本のこの地域を担当する第五方面軍は、アメリカ軍が千島列島南部や道東に侵攻してくることを警戒していました。道東に精鋭の第7師団が置かれ、その分、南樺太の守りは手薄になります。
 その南樺太でもアメリカの上陸に備えて、第88師団の主力は南部に置かれました。
 
 ソ連の樺太での総攻撃は8月10日に始まります。国境付近で日本側は頑強に抵抗し、国境地帯ではソ連側の死者(730人)が日本側(民間人を含めて651人)を上回りました。
 8月16日にはソ連太平洋艦隊の陸戦隊が塔路町に上陸し、恵須取(えすとる)を目指します。恵須取の街には避難民も押し寄せますが、ソ連側の艦砲射撃と空襲で大きな犠牲がでました。
 さらに8月20日には真岡にもソ連軍が上陸します。この真岡では若い女性の電話交換手が自決しており、南樺太の犠牲者の象徴的な存在になっています。

 停戦については88師団からも使者が送られたものの、ソ連側が応じなかったために、日本側は自衛のための戦闘を続けました。最終的に8月22日になって停戦が成立しますが、結果的に8月15日以降にも大きな犠牲がでました。
 さらに停戦成立後の22日午後3時にも豊原に空襲が行われ100〜500人が犠牲になっています。また22日早朝には樺太から北海道へ逃れる避難民を乗せた船も攻撃され、大きな被害がでています。
 残った人々もソ連の樺太経営にために樺太に引き留められ、46年末になってようやく送還が始まりました。

 次に千島列島での戦いです。先程述べたように、アメリカは千島列島の占領も計画し、ソ連に共同作戦を持ちかけたりもしていましたが、最終的に断念します。それでも、アメリカはソ連に対して上陸用の艦艇の供与などを行いました。
 ただし、ソ連が千島列島の占領に動くのは8月15日になってからです。ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官が配下に北千島の「解放」を命じますが、これがスターリンからの指示だったのかは判然としていません。

 日本の降伏を好機とみてソ連は急遽、占守島へ上陸部隊を送りますが、ここでソ連軍は苦戦を強いられます。
 占守島を担当する第91師団のもとにも玉音放送は届いていましたが、17日には大本営から「一切の戦闘行動停止但し止むを得ざる自衛行動を妨げず 其の完全徹底の時期を一八日一六時とする」(210p)との命令が届きます。これは18日の午後4時までは自衛のための戦闘ができるとも取れる命令で、実際に8月18日には激しい戦闘になりました。
 結局、8月21日まで停戦は成立せず、ソ連軍は1500名以上の死者を出しました。ソ連が奇襲攻撃を仕掛けなければ出る必要がなかった犠牲と言えます。
 その後、ソ連軍は攻撃などをせずに、第91師団の手引のもとで他の島の占領を進めていきました。

 8月16日、ソ連はアメリカに対して占領地域として北海道の割当を希望します。8月11日に、占領軍の司令官にマッカーサーとともにヴァシレフスキーの任命を望みましたが、これを断られたために分割統治を求めたのです。
 スターリンは北海道の北半分を占領することで宗谷海峡と千島列島の支配を完全なものにしようとしましたが、これはトルーマンに拒否されます。ただし、千島列島については「全クリル諸島」の明け渡しを認めました。ここに北方領土が入るのかが後々問題になります。
 結局、ソ連は北海道への上陸を諦めますが、そのかわりに急いだのが北方領土への上陸でした。8月28日に択捉島へ、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月3日に歯舞群島へと軍を進め、9月7日までに武装解除を完成させました。

 このようにどさくさに紛れて千島列島の占領という既成事実を完成させたソ連ですが、対日戦に対する兵士や国民の士気は低かったといいます。
 そこでスターリンは日露戦争の復讐を果たしたことをアピールしましたが、それゆえにスターリンは日本の復讐を恐れることになります。そのための方法が、日本の民主化、対日同盟網の構築、南樺太と千島列島の併合、シベリア抑留でした。
 シベリア抑留に関しては労働力の確保などの狙いがあったと言われますが、同時に日本軍の将校を厳しく取り扱いました。これには将校を抑留することで日本軍の復活を阻む目的もあったと考えられています。
 また、関東軍から接収した武器の多くは中国共産党へ引き渡され、中国の国共内戦の帰趨にも大きな影響を与えました。

 このように、本書は日ソ戦争の開戦に至るまでの動きから始まって、満州と南樺太・千島での戦闘、巻き込まれた民間人の悲劇、日ソ戦争の影響とバランスよく論じています。シベリア抑留についてもう少し知りたいという人もいるかもしれませんが、これについては同じ中公新書で富田武『シベリア抑留』という優れた本があるのでこちらを読めばいでしょう。
 スターリンとトルーマンのやり取りといった戦略体な部分から、兵士や民間人の体験談までうまく取り込んでいるのが本書の特徴で、まさに日ソ戦争をさまざまなレベルから総合的に理解できる本になっています。
 そして、本書を読むと、現在進行中のウクライナ戦争を終わらせる難しさというのも改めて感じますね。


日ソ戦争 帝国日本最後の戦い (中公新書)
麻田雅文
中央公論新社
2024-04-22





藤原正範『罪を犯した人々を支える』(岩波新書) 7点

 副題は「刑事司法と福祉のはざまで」。長年、家庭裁判所調査官の仕事をしていた著者が、刑事事件の傍聴などを通じて、刑事司法と福祉の関係について考えた本になります。
 元国会議員の山本譲司『累犯障害者』(2006)が出て以来、刑務所に服役しているかなりの数の人がケアを必要とする障害者であったり、高齢者であったりという事実が知られるようになりましたが、本書はそうした問題を刑事裁判の場を中心に考えたものになります。
 
 近年、犯罪の原因を社会に求めるような議論は退潮しており、本書の記述についても反発を感じる人もいるかもしれませんが、本書を読むことで、犯罪者、特に小さな犯罪を繰り返す犯罪者たちのイメージが変わってくるのではないでしょうか。
 また、こうした犯罪者のイメージが変われば、今までの司法のままでよいのか? という疑問も生まれてくるでしょう。
 岩波新書らしいコンパクトな本ですが、刑事司法について今一度考え直すきっかけを与えてくれる内容と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序 章 刑事司法で「対話」は可能か
第一章 罪を犯した人たちのリアル――刑事裁判から見えてくるもの
第二章 司法と「罪を犯した人」――刑事司法手続きの全体像
第三章 社会の中の「犯罪者」
第四章 社会福祉士が刑事裁判を支援する
終 章 社会の責任として

 本書ではまず、著者が岡山地方裁判所での傍聴した刑事裁判がいくつか紹介されています。いずれも裁判官単独の法廷で、ある意味でありふれた事件です。
 最初の事件は覚醒剤取締法違反の事件で、覚醒剤を売った場所が岡山ではなく大坂だという意義があった以外は淡々と進んでいきます。そして、覚醒剤をいつからどのような理由で始めたのかということは深められることはなく、使用に関しては特に争いがないということで検察も弁護側も特に争うことなく進んでいきます。

 2つ目の事件は71歳の窃盗犯で、かつて自分が所属していた消防団からガソリンを盗んで捕まりました。
 60歳まで工員として真面目に勤めたが3年前に強制わいせつ事件を起こして離婚、子どもとも疎遠になりにっちもさっちも行かなくなったということです。

 3つ目の事件は78歳の被告人で、女性用下着と高校生の制服を盗んで捕まりました。20年前に妻と別れ、子どもともあっていない状態で、最近、万引きで捕まり警察から注意を受けたといいます。下着泥棒に関しては他にも余罪があったようで、このような性欲から性犯罪を犯す高齢者も目立つといいます。
 判決は執行猶予でしたが、最後に検察官は家に変えるお金を持っているか訊ねたことが印象的だったといいます。

 4つ目の事件は技能実習生として来日した30代の中国人女性が特殊詐欺のキャッシュカードを受け取る役をした事件になります。
 通訳が入る事件になりますが、他の事件と同じように裁判はたんたんと進み、懲役2年2月の実刑判決となりました。しばらく刑期を務めたあと、強制送還になると思われます。

 さらに本書では上記の事件の数年前に別の地裁で見た20歳の男性の窃盗犯の事件についても紹介されています。
 盗んだものは原付、工具、自転車などで、いかにも十代の非行少年がやりそうなことですが、被告人は20歳になっており、複数回逮捕されているので裁判所に来るまで3ヶ月近く拘束されています。少年審判であればここまで時間がかかることはなく、わずかな差で長期間拘束され、しかも判決は保護観察付きであり、次に懲役刑になるような犯罪を犯せば実刑しかなくなります。

 裁判の傍聴をしたことのある人ならわかると思いますが、著者が膨張した刑事裁判は典型的と言っていいものです。
 裁判というと証人への尋問が思い浮かぶ人も多いでしょうが、証人調べをする裁判は全体の半分ほどであり、そのうち80%以上が証人1人だといいます。
 著者はこうした刑事裁判について、「被告人はベルトコンベヤーで運ばれる荷物のようにも見えるが、いや実際は被告人の心の中には言葉にできない思いが溢れているはずで、刑事司法手続きの「川」で溺れているのである」(77p)と述べています。

 第2章では、この「川」の流れを確認しています。
 刑事司法手続きの本流は、①検挙(逮捕→送検→勾留)→②起訴(公判請求)・刑事裁判(実刑判決)→③刑事施設入所(受刑)です。
 
 2020年の『警察統計』のデータでは、交通業過をのぞく刑法犯の検挙件数は279185件、検挙人員は182582人、交通事故件数が300689件、検挙人員は308563人、道路交通法等違反の件数は5788681件となっています。
 ただし、すべての検挙者がここに載っているわけではありません。労働基準監督署や厚生労働省地方厚生局麻薬取締部等に所属する職員も検挙することができます。また、被害者等の告訴で検察庁が直接受理する犯罪もあります。
 これによって検挙人員は増えますが、その中心は道路交通法違反と交通事故事件です。

 特に道路交通法違反が圧倒的に多いわけですが、相当数の交通違反を刑事司法手続きから完全に外す交通反則通告制度というものが設けられています。
 一般的に「青キップ」と呼ばれるもので、行政手続きとして処理され、反則金を納付すれば前科もつきません。これが第一の分流です。

 第二の分流は微罪処分で、警察が被疑者を取り調べたあと、送検せずに手続きを終結させる制度です。窃盗・横領・詐欺・暴行などで被害が小さく、被害が回復され、被疑者がよく反省し、監督者などもいれば、こうした手続が取られます。2020年の1年間で5万2039人がこの処分になっています。

 第三の分流は少年保護手続きで、20歳未満の少年については家庭裁判所に送致されることになります。
 家庭裁判所が審判の対象とするのは犯罪少年・触法少年・虞犯少年の三種類ですが、犯罪少年が99%を占めるそうです。犯罪少年に関しては家庭裁判所が検察官送致決定を行い、成人と同様の司法手続きに進むこともありますが、それ以外は家庭裁判所で保護手続きが行われます。

 第四の分流は起訴猶予です。検察官は捜査の結果、被疑者が犯人でないと判明した場合、あるいは怪しいが証拠不十分の場合は不起訴にします。また、有罪を十分に証明できるときでも諸般の事情によって基礎を見送ることがあります。これが起訴猶予です。
 諸般の事情とは、前歴・前科の状況、被害回復の状況、被害者の意向、本人の反省などですが、検察官の裁量権は大きく、これが検察官を刑事司法最大の権力者にしているといいます。
 2020年の1年間で不起訴処分は51万1021人、うち起訴猶予が44万8072人となっています。

 第五の分流は略式起訴で、検察官が被疑者に罰金刑を求める場合で被疑者が同意すれば、略式起訴から簡易裁判所での略式裁判となります。法定の証言台に立つことなく裁判が終わるので被告人の心理的負担は軽いですが、前科はつきます。
 交通関係時間が多く、2020年で略し起訴されたのは17万3961人になります。

 こうした分流に流れていかなかった人が刑事裁判の法廷に立つことになります。
 公判請求後、基本的に被告人は国が管理する拘置所にいることになります。拘置所は刑務所に併設されていることが多いですが、拘置所は刑務所に比べて生活上の制限は少ないです。ただし、面会や差し入れなどがなければ自由時間があってもかえって孤独かもしれません。
 保釈の制度もありますが、保釈金が必要なので払えなければ保釈されませんし、公訴事実を否認している被告人には保釈が認められないケースが多いです。

 本書では第六の分流として執行猶予をあげています。3年以下の懲役・禁錮、50万円以下の罰金で前科などがなければ裁判官は刑の執行を猶予する判決を下すことができます。
 執行猶予には保護観察がつくものとつかないものがありますが、いずれにせよ刑務所で服役せずにすむわけで被告人にはありがたい制度です。ただし、執行猶予中にまた別の犯罪を犯してしまうケースも多いといいます。

 実刑判決を受けると受刑者となります。2020年の統計では死刑が2人、無期懲役が19人、有期の懲役の実刑が15771人となっています。さらに有期の禁錮の実刑が47人います。ちなみに2025年より懲役と禁錮は拘禁刑として1本化される予定です。
 新受刑者がどのような罪で服役しているのかを見ると、男性が14850人で、窃盗が34.2%、覚醒剤が25.1%、詐欺が9.7%、女性が1770人で、窃盗が46.7%、覚醒剤が35.7%、詐欺が6.6%となっています(110p表2−6参照)。
 事件としては殺人事件などが目立ちますが、刑務所で服役する人数の中での割合は小さなものです。

 出所する受刑者を見ると、男性が17039人で、満期釈放が6971人(40.9%)、仮釈放が8796人(51.6%)、女性が1892人で、満期釈放が469人(24.7%)、仮釈放が1198人(63.3%)となっています(111p表2−7参照)。
 仮釈放は刑務所から一般社会への移行を円滑にさせるための仕組みですが、本人の生活態度が悪い、身元を引き受ける人がいないといった理由で満期まで刑務所にいる人も多いです。そのせいもあって出所受刑者の5年以内の再入率は、満期釈放者49.5%、仮釈放者28.7%となっています。

 著者は裁判の傍聴の中で、「弱々しい被告人」が目立ったといいます。
 実際、新受刑者の高齢化は進んでおり、男性で2010年の7.4%から2020年の12.1%へ、女性は11.1%から18.9%へ増えています(121p表3−2参照)。
 高齢者のほうが社会内処遇がふさわしく思えますが、高齢者のほうが仮釈放されにくく、保護観察もつきにくくなっています。

 『矯正統計二〇二〇』では、新受刑者のIQも見ることができますが、新受刑者の中でIQ70未満の人は19.9%おり、こうした人達は仮釈放されにくく、保護観察もつきにくくなっています。
 また、新受刑者の中で知的障害、人格障害、神経症的障害、その他の精神障害と診断された人は全体の15.3%で、これもかなり多くなっています。
 刑事裁判の基本姿勢は心神喪失や心神耗弱でない限り、治療よりも刑罰を優先させるものですが、今後もこの方針でよいのかと著者は疑問視しています。

 また、被告人の多くが貧困であることが国選弁護人の選任状況からうかがえます。地方裁判所では85.4%が国選弁護人であり、簡易裁判所では91.7%が国選弁護人です(128p表3−10参照)。
 また、罰金を払えずに労役留置場に入る人が1.7%います。割合としては小さく思えますが、人数で言えば3000人近くいることになります。
 満期釈放者7440人のうち半分を超える3761人が更生緊急保護を申し出ています。この制度がなければ出所後に彼らはホームレスになったと考えられます。

 このように近年の受刑者についてはかなり福祉のニーズが高まっています。
 そこで刑務所などでの処遇も変わってきているわけですが、著者は裁判の段階から福祉ニーズのある人を支援するような仕組みが必要ではないかと考えています。

 こうした状況を受けて第4章は「社会福祉士が刑事裁判を支援する」と題されています。
 少年司法では、少年の「福祉ニーズ」が最大の関心事となっています。家庭裁判所では調査官の社会調査と少年鑑別所の心身鑑別に基づいて行われ、少年の個人情報が満載された「社会記録」は裁判官の判断やその後の処遇での重要な材料になります。
 一方、一般の刑事司法では被告人の内面に無用に立ち入らないのが原則です。基本的に罪を犯した人にはその罪が及ぼした影響に応じて制裁を加えることしかできないという「侵害原理」がはたらいているためです。
 これはこれで重要な原則ですが、刑罰を執行する際には「侵害原理」一本槍ではうまくいかないといいます。

 刑務所と保護観察所はここ20年ほどで社会福祉士の力を活用するようになりました。山本譲司『獄窓記』、『累犯障害者』をきっかけとして刑務所に福祉ニーズのある人が溢れていることが知られたことが大きいです。
 特に長崎県諫早市の「社会福祉法人南高愛隣会」は精力的な研究活動を行い、受刑者に対する「出口支援」を行っていきました。
 今までは受刑者に対して就労という目的をもって対応してきましたが、高齢者が増えると就労という目的は機能せず、社会内の福祉サービスとつなぐことが必要になりました。そこで「地域生活定着支援センター」がつくられましたが、この施策によって満期釈放者の再犯率が下がっているとみられるデータもあります。

 南高愛隣会は、出口支援だけでなく刑事司法手続きから離れて社会に出るとき(起訴猶予など)の支援である「入口支援」も始めました。
 こうしたことは検察も取り組んでおり、社会福祉アドバイザーを採用するようになっています。
ただし、検察が行うことで支援を断ると起訴されてしまうのではないか? という危惧もあるといいます。

 入口支援については検察側につくか、弁護側につくのかという問題もあり、なかなか制度化はしにくいです。また、財源をどこに求めるかという問題もあります。
 さらに「社会的排除」を基本スタンスとする刑事司法と「社会的包摂」を基本スタンスとする社会福祉では、さまざまな面で対立することが予想されます。

 そうした中、本書では実際にそうした難しい活動を行っている社会福祉士の原田和明、弁護士の谷村慎介、弁護士の荻大祐(祐は右側が示だけど自分のパソコンでは出てこない…)社会福祉士の飯田智子らの活動が紹介されています。
 彼らは緻密な「支援計画書」をつくり、知的障害の疑いのある被告人などが社会でも暮らしていけるようなサポート体制をつくり、法廷でもそれを掲げて弁護をしました。

 また、岡山でも弁護士と社会福祉士との連携が行われており、「岡山モデル」と言われています。
 最後に、この岡山で社会福祉士が法廷に証言にたった裁判が紹介されています。事件は知的な障害を持つ26歳の女性が県警のホームページにスーパーマーケットで人を指して自分も死ぬとの書き込みをして偽計業務妨害に問われたものです。
 被告人はこの書き込みを複数回して罰金→再び起訴となっており、放っておけば同じような犯罪を犯す可能性が高そうですが、そこに社会福祉士が入ることで今後の支援計画が法廷でも具体的に見えるようになっています。

 さらに暴行事件を起こした高齢者の裁判も紹介されていますが、法廷の回数を重ねるに連れ、被告人が衰えていくのがわかるような状況であり、現在の刑事司法手続きと高齢者の相性の悪さを浮き彫りにするものになっています。

 終章で著者は反発する人は多いだろうと断りながら、「私は、犯罪を生み出すのは社会であり、社会の傷として犯罪が生み出されると考えている」(203p)と述べています。
 確かに現在は犯罪者に非常に厳しい社会であり、犯罪の原因を社会に求める議論は流行らないのかもしれません。それでも、本書でとり上げられている裁判例をみれば、被告人の多くが何らかの援助を必要としている人だということもわかると思います。
 社会が厳罰化へと進む中で、今一度立ち止まって考えるきっかけを与えてくれる本だと言えるでしょう。

池上俊一『魔女狩りのヨーロッパ史』(岩波新書) 8点

 魔女狩りについての新書と言えば、岩波新書の青版に森島恒雄『魔女狩り』があって、魔女狩りが行われたのは中世ではなく近世が中心だったことや、魔女狩りの残酷な実態に驚かされたものですが、それから50年以上経って新しい魔女狩りの新書が登場しました。
 何か今までのイメージを覆すような考えが披露されているわけではないですが、今まで数々の新書を書いてきた著者だけあって、あまり煩雑にならないようにしつつも、さまざまな史料や研究成果を紹介しながら、魔女狩りの実態を改めて多角的に検討しています。
 「魔女狩り」というと、熱狂や狂気と結び付けられることが多いですが、それにしては魔女狩りは長期、そして広範囲に及んでいます。本書は、「熱狂」では片付けられない魔女狩りの要因を丁寧にときほぐす内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 魔女の定義と時間的・空間的広がり
第2章 告発・裁判・処刑のプロセス
第3章 ヴォージュ山地のある村で
第4章 魔女を作り上げた人々
第5章 サバトとは何か
第6章 女ならざる“魔女”――魔女とジェンダー
第7章 「狂乱」はなぜ生じたのか――魔女狩りの原因と背景
第8章 魔女狩りの終焉
おわりに――魔女狩りの根源

 本書が扱う「魔女」は、キリスト教的ヨーロッパにおいて15〜18世紀に「魔女狩り」の対象になった人です。
 魔女は悪魔と契約し特別な能力を手に入れます。そして、魔女は集団(セクト)を形成します。魔女は集団でサバト(悪魔崇拝)を行うため、逮捕者の自白によってその参加者があぶり出されていきます。
 魔女は人々や家畜に害を与え、ときには天候を操って農作物に被害を与えます。

 魔女には一部男性も混じっていましたが、女性が多く、特に高齢層が中心で、ほとんどの魔女が50歳以上でした。知的エリートにあった「女嫌い」の伝統が魔女狩りの背景にあったと考えられます。
 魔女狩りの犠牲者に関してはさまざまな説がありますが、数百万人というような人数は現在の研究では支持されておらず、処刑されたのが5〜6万人、獄中死や裁判所外でのリンチ殺人などを含めると10万人近くいたかもしれないといいます。

 魔女狩りがさかんに行われたのはヨーロッパの中央部で、ドイツの南部と西部、フランスと神聖ローマ帝国の境界地帯、スイス、南仏やノルマンディーなどのフランスの辺境といった場所で、特にドイツ(神聖ローマ帝国)では魔女狩りにおける処刑の約半分(2万5000人)が行われています。
 ドイツで魔女狩りの犠牲者が多かった要因としては、中央集権的な政治秩序が貫徹しておらず、在地領主よ在地裁判所の力が強かったこと、1532年公布の『カール5世刑事裁判例』(「カロリナ刑法典」」)により、それまでの当事者主義から職権主義に、弾劾主義から糾問主義に変わったことなどがあげられます(逆にイングランドはコモン・ローの影響で犠牲者が少なかったという)。

 中世ヨーロッパでは教会裁判所と世俗裁判所がありました。魔女を裁くのは教会裁判所の管轄でしたが、教会は「血を流せない」ので、処罰は世俗裁判所に任せることになります。ただし、15世紀末になると魔女裁判の主体は世俗裁判所に移り、教会裁判所は予審のみを行うようになります。
 
 魔女狩りの背景には13世紀に成立した「異端審問制」があるとも言われます。
 異端審問制が始まるまでは、被害者やその親族が告訴する弾劾手続きを経て行われる親告方式の裁判が慣例でしたが、異端審問制では当事者が告訴しなくても裁判官とその属僚が職権で調査と裁判を進められる職権主義に変わりました。今までの顕名での告訴ではなく、匿名の密告によって裁判が行われるようになったのです。
 ただし、16世紀になると教皇直属の異端審問は行われなくなり、魔女狩りは世俗裁判所によって担われるようになります。

 魔女狩りが始まるきっかけに「噂」があったといいます。12世紀以降のヨーロッパの裁判では噂は重要な扱いを受けており、多人数による噂となると予審のきっかけとなり、「証拠」として採用されました。
 共同体の中でもともと評判の良くなかった人に加えて、他の村や地域から嫁入りした女性もこうした噂を立てられやすく、また、下働きの女中なども同じでした。

 16世紀になると、「魔女発見人」と呼ばれる人々が活動するようになります。彼らはさまざまな出自でしたが、多少の読み書きはでき、魔女についての知識を仕入れていました。そして、村でなにか厄災が起こったりしたのを耳にすると、そこに乗り込んで村人から「犯人」の名前を聞き出し、「魔女」に仕立て上げました。
 彼らは魔女の印を探し出し、その代わりに報酬を得てました。何百人もの魔女を発見した魔女発見人もいたといいます。
 ドイツでは「魔女委員会」や「請願」による告発もありましたが、領邦君主権力がこうした下からの訴えを受け入れることで自らの威信を強化しようとしました。

 魔女は検事によって告訴されたり一般人によって告発され、裁判官によって尋問されることになります。裁判官はサバトの宴会のメニューやダンスがどんなだったのか?など、微に入り細を穿つように訊いていきます。
 基本的に冤罪ですので被告は否認しますが、そうすると証人を呼んできてい改めて証言させ、ときには被告と証人を対面させて被告を追い詰めました。

 魔女の証はその肉体に印されているといいます。悪魔との契約の印として無痛点があり、体毛を剃り上げて調べます。そして怪しいところを針やメスを刺すわけですが、しこりなど刺しても痛がらないところ、血が出ないところを見つけると、これこそが証拠となるわけです。
 また、「涙」も重要なポイントでしたが、彼女が涙すれば悪魔が促し動かしているからだし、涙を流さないならば悪魔が苦痛を取り去っているからだと考えられました。

 魔女は神への大逆罪であり、証拠を残さずに行われる「例外犯罪」と考えられていたため、取り調べの中での拷問も許容されました。
 ここで拷問の様子を詳述するのも気分の良いものではないので詳しくは本書に譲りますが、拷問によって死に至らせてはならない、拷問は通常3回までしか許されず3回耐えたら釈放するといったルールもありました。ただし、裁判所によっては3回の規定を無視して拷問を行ったところもありました。
 また、拷問では身体にその痕跡を残さずに行うことが好まれたので、引き伸ばしや締め付けといった拷問が行われました。また、無理やり塩漬けの魚などを食べさせ、飲み物も鰊のつけ汁などを与えて渇きを惹起させる拷問もあったといいます。

 魔女裁判では多くの者が処刑されましたが、自白がないと処刑にはできなかったので、そうした場合は追放刑になりました。処刑になった者の割合は地域によって差があり、スペインやイタリアでは魔女として告発されても大半の者が有罪にならない地域もあります。
 処刑は通常火刑でした。魔女の処刑は劇場化・儀礼化されており、多くの見物人の前で処刑が行われました。

 第3章では、実際にフランスの南ロレーヌでおきた魔女狩りの顛末を追っています。
 ここも詳しくは本書を読んでほしいのですが、親戚筋にあたるピヴェール家とドマンジュ家の家畜の放牧などをめぐる喧嘩からそれまでの摩擦が表面化し魔女狩りへとつながっていきました。
 さらにピヴェール家の下女がサバトについて証言し、ピヴェール家の人々を次々と告発し、さらにピヴェール家の9〜10歳の娘もこの告発に加わったことで、ピヴェール家の面々が次々と逮捕され、拷問を受けては自白するという形で次々と処刑されていきました。
 ご近所同士や家族内の不和に裁判官がつけ込み、次々と無実の人を血祭りにあげていったのです。

 魔女狩りの最盛期は16世紀後半から17世紀半ばであり、近世、あるいは近代初頭の出来事と言っていいでしょう。ですから魔女狩りを「暗黒の中世」と結びつけるのは間違いなのですが、中世に魔女狩りを正当化するイデオロギーがつくられていったということもあります。このあたりについて述べているのが第4章です。

 キリスト教は、ギリシャ・ローマ的、ゲルマン的、ケルト的な女神や女鬼を信じることを許しがたい誤謬、迷信としてきました。
 13世紀頃になると、こうした「迷信」が実態化し、悪魔が人間界に現存して行動したり、魔女が「自由意志」で悪魔と契約を結ぶ主体となるといったことが考えられるようになっていきます。
 14世紀になると魔術行為が異端とされ、占星術なども異端として糾弾されるようになっていきます。

 こうした中で15〜17世紀にかけて「悪魔学者」とも呼ばれる、魔女の害悪や魔女狩りの方法などを説く学者が登場します。
 初期のもっとも有名な悪魔学書はヤーコプ・シュプレンガーとハインリヒ・クラーマーによる(最近はクラーマー一人の作品と考えられている)『魔女への鉄槌』(1486)で、そこには悪魔と魔女の妖術など以外にも、拷問のやり方や自白させるための騙しのテクニックなども紹介されています。

 「主権論」で有名なジャン・ボダンも『妖術師の悪魔狂』(1580)という悪魔学の本を書いています。ボダンは魔女の妖術が例外犯罪であることを強調し、立証が極めて困難であるために通常の訴訟手続の規範は無視する権利があると考えました。
 ボダンは女は悪魔と同じく「嘘つき」であるとしていますが、自らの『国家論』で展開した「聖なる国家」の秩序を乱すものとして魔女を捉えています。
 その他、スコットランド王のジェイムズ6世も『悪魔学」という本を書いています。

 第5章はサバトについて1章を割いています。
 サバトは悪魔を中心とする魔女の集会のことで、当然、想像上のものなのですが、かなり明確なイメージが作られていました。
 サバトのイメージは1420代末〜1440年代はじめごろにスイス西方の産地とその周辺で結晶化したと言われています。この土地に残っていた呪術的な土着文化や民衆的に解釈されたキリスト教的な悪魔や悪霊などのイメージを「原材料」として知識人達によってつくられていきました。

 サバトの開催場所は開催時期はさまざまですが、多くの場合、魔女は空を飛び開催場所に集合し、悪魔に臣従を誓います。魔女たちはキリスト教を捨てた証に十字架を踏みにじり唾をかけ、悪魔の肛門や性器にキスをします。
 その後、宴会、ダンス、乱交とつづきますが、食事はどれも不味く、悪魔との性交にはなんの快楽もないそうです。ここで快楽が否定されているのは興味深いですね。

 このサバトのイメージは絵画や版画になって広まりました。アルブレヒト・デューラー、ピーテル・ブリューゲル(父)などの有名な画家もサバトをテーマにした作品を手掛けていますが、これは画家が十分に想像力を発揮できるテーマとしてサバトが選ばれたという面があったのではないかと著者は見ています。

 第6章では女性以外の「魔女」がとり上げられています。
 男性の「魔女」は「妖術師」という言い方が適切になるでしょう。全体では魔女裁判にかけられた被告の8割が女性だと言われていますが、北欧や東欧では男性の「魔女」も目立ちました。西ヨーロッパでも辺境では男性の割合が高かったといいます。
 男性であっても共同体の中の周辺的存在や、信徒共同体と仲違いした聖職者、社会的地位があっても家長の役目を果たせないケースなどは魔女狩りの対象になることがありました。
 また、魔女狩りと異端追求と結びついたり、魔女狩りが制御の効かない状況になると男性も巻き込まれていきました。

 また、若年世代が年長世代を告発する傾向は男性の場合でもよく見られるものでした。
 子どもについては、証言することはあっても告発されることはなかったのですが、1630年代から17世紀末には特にドイツで子どもを魔女として告発・処刑される例が増えました。
 当初、魔女は自由意志で悪魔と契約を結んだとされていましたが、のちの時代になると親からの遺伝や親から妖術を学んだと問題視されるようになったのです。
 一方、子どもは魔女の告発者としても重要で、子どもへの宗教教育熱の高まりが、子どもによる告発を生み出した面もあったといいます。潔癖さを教え込まれた子どもたちが家族を告発する事例も多かったのです。

 第7章では魔女狩りの背景について考察しています。
 まずは、気候不順、疫病、戦争などがもたらす社会不安です。魔女狩りの嵐が吹き荒れた1560〜1630年は「小氷期」と呼ばれるにふさわしい寒冷期で、こうした気候は1660〜70年代にも再来しています。
 魔女は天候を操ると言われており、悪天候の原因として魔女が求められたという面があります。
 疫病については本格的な疫病は被疑者である魔女も巻き込んでしまうために、魔女と疫病を結びつけることは一般的ではありませんでしたが、中には疫病をきっかけとした魔女狩りもあるそうです。
 また、「魔女狩りは平和なときに起きる」と言われるように、戦争が起こると魔女狩りが減ります。戦争中には魔女狩りをする余裕はないのです。

 15世紀末に新大陸が発見され、銀の流入とともに物価が騰貴する価格革命が起きます。これによって農村では階層分化が進み、それまでの農村共同体は解体の危機を迎えました。
 こうした状況の中で、今まで周囲の人の喜捨に頼っていた寡婦などが魔女として告発されていきます。こうした女性に手を差し伸べる余裕がなくなっていたのです。
 また、近代的な医療の知識が広がる中で、医療関係者からそれまで医療行為をしていた「賢女」が「魔女」として排斥されることもあったといいます。

 都市部でも魔女を告発する動きがありましたが、その特徴として比較的身分が高い層の女性が告発されるケースがあげられます。党派に分かれた都市エリートがライバルを排斥するために魔女裁判を利用することがあったのです。

 また、絶対王政のイデオロギーを信奉した都市エリートが農村的・民衆的な思考様式や世界観を改変しようとした「文化変容」という動きも背景にあったと考えられます。
 キリスト教の教義にあった清浄な世界を作ろうとする動きがあり、さらに農村の新しいエリート層がそういった動きを受け入れる中で魔女狩りは起きました。
 この背景には絶対主義をめざす国家の動きもあるわけですが、これについては上からの影響を重視する研究者と下からの動きを重視する研究者がいるそうです。

 魔女狩りと宗教改革を結びつける議論についても、魔女狩り自体はルターの宗教改革以前から始まっていたので直接の原因とすることはできませんが、ルターもカルヴァンも魔女や妖術の実在を信じており、プロテスタントとカトリックの対立が魔女狩りを燃え上がらせた面もあるとのことです。 
 こうした対立の中でお互いに良きキリスト教徒、清浄な社会を目指して「社会的規律化」が進みますが、これも魔女狩りを進める原動力になりました。

 16世紀になると、魔女についてのあれこれはメランコリーに冒された想像力の産物であるといった批判が出てきます。モンテーニュも『エセー』の中で魔女狩りについて「わたしの見るところ、人間というのは、なにかの事実が示されれると、えてして真相を究明するよりも、その理由を探そうとするようである」(200p)という言葉を残しています。
 17世紀になると魔女狩りへの反対意見はさらに強まっていきます。また、この時代に起こったいくつかの「悪魔憑き」事件が紹介されていますが、原因として聖職者による性的虐待があると思われるものもあります。そうして、こうした事件が耳目を集めるとともに魔女狩りの波は引いていきました。

 また、フランスにおいてはパリ高等法院が魔女狩りの歯止めとなりました。フランスでは下級裁判所で言い渡された妖術案件の判決は、1624年には必ずパリ高等法院に上訴しなければならなくなり、1565〜1640年にかけて下級裁判所の死刑判決の76%が覆されました。
 さらに1640年には妖術や悪魔との契約を神への大逆罪として裁かないことを決め、拷問にも難色を示しました。
 国王自身が介入することもあり、1682年7月の勅令で魔女の妖術を法的に訴追することがフランス全土でできなくなり、フランスでの魔女狩りは終演を迎えました。こうした動きの背景には理性を重視する啓蒙思想の広がりがあります。

 このように、本書はヨーロッパにおける魔女狩りの全体像を描き出そうとしています。
 かなり前のことですが森島恒雄『魔女狩り』は読んでいて、読んでいてその内容を思い出したりもしましたが、やはり新しい研究を踏まえていることもあって、魔女狩りという現象がより立体的に分かるようになっていると思います。
 特に絶対主義の広がりが、ときに魔女狩りを促進しつつも、最終的には魔女狩りのブレーキになっていったことは興味深いです。
 魔女狩りについての新しいスタンダードになる本ではないでしょうか。


魔女狩りのヨーロッパ史 (岩波新書)
池上 俊一
岩波書店
2024-03-25


川名晋史『在日米軍基地』(中公新書) 8点

 副題は「米軍と国連軍、「2つの顔」の80年史」。この副題が本書のポイントになります。
 日本にある米軍基地は1952年に締結された日米安全保障条約を根拠にして使用されています。これにそれこそ中学や高校でも習うことですが、それに対して本書は実はもう1つの根拠があるのだと指摘します。
 それが朝鮮戦争のときに結成された「国連軍」の基地としての役割で、実際にその後方司令部は横田にあり、国連軍後方基地として横田・座間・横須賀・佐世保・嘉手納・普天間・ホワイトビーチの7ヶ所が指定されています。

 あくまでもこれは形式的なものだろうとも思いますが、本書を読むと、国連軍基地であることはアメリカにとっては都合が良く、それを密かに維持してこようとした歴史が見えてきます。
 日本における米軍は日米地位協定のおかげでNATO国内の基地などよりも自由な行動ができる言われていますが(山本章子『日米地位協定』(中公新書)参照)、本書によれば「国連軍」という姿を取ることでさらに自由な行動が可能だというのです。

 本書は、こうした在日米軍基地の「裏の顔」について、さまざまな史料を使いながら明らかにしていきます。
 この「国連軍基地」という基地のあり方は、普天間基地の移設問題にも絡んでいますし、アメリカとの二国間同盟(日米同盟・日韓同盟)で成り立つ東アジアの安全保障という通説的理解の再考を迫るものでもあります。
 一種のミステリのように面白く読め、なおかつ重要な1冊と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 占領と基地―忘れられた英連邦軍

第2章 朝鮮戦争―日米安保と国連軍地位協定

第3章 安保改定と国連軍
第4章 基地問題の転回と「日本防衛」
第5章 在日国連軍の解体危機
第6章 普天間と辺野古―二つの仮説

第7章 準多国間同盟の胎動
終章 二つの顔
 
 ポツダム宣言を受諾して日本が降伏すると米軍の進駐が始まります。米軍は日本各地の飛行場や港湾施設、軍需工場など、さまざまな場所を接収し、軍事演習なども行いました。
 1950年代になると、こうした米軍の行動や米軍の基地への反発が強まり、砂川事件や内灘事件のような反基地闘争も起きます。
 また、群馬県の相馬が原演習場で日本人女性が射殺されたジラード事件は大きな反発を引き起こし、1958年2月には日本本土に駐留するすべての陸軍戦闘部隊と海兵隊が撤退します。

 しかし、著者はこの記述には大事な部分が抜けているといいます。それが英連邦軍の進駐です。
 英連邦軍の進駐は1946年2月と遅れましたが、この背景には英連邦での派遣を主張した豪軍単独での派遣を主張したオーストラリアの対立がありました。最終的にオーストラリアは英連邦としての参加に同意し、オーストラリア、英国、ニュージーランド、インドの陸海軍による部隊が派遣されることになります。
 英連邦軍は軍事作戦においてはマッカーサーの指揮下に入るものの、兵站などの管理面については英連邦軍の独立性が担保されることになります。
 英連邦軍は広島県の呉や福山を割り当てられ、さらに山口、島根、岡山、鳥取などにも進駐することになります。

 1946年10月、早くも英国軍は財政上の理由と人的資源の不足から撤退を模索し始め、さらにインド、ニュージーランドも撤退、あるいは部隊の縮小に動きます。
 その穴は豪軍が埋めることになりましたが、相次ぐ撤退でその穴を埋めきれず、いくつかの基地は米軍に引き継がれました。1950年3月にはオーストラリアも全面撤退を決定し、5月には米国もそれを承認しますが、その翌月に朝鮮戦争が勃発します。

 国連安保理ではソ連が欠席する中で、すべての加盟国に対して合衆国の下にある統一司令部に対して兵力その他の援助を行うことを求める決議が通ります。
 こうしてマッカーサーを司令官とする「国連軍」がつくられ、オーストラリア、イギリス、トルコ、フィリピン、タイなどがこれに参加します。ただし、この「国連軍」は国連憲章が規定する、つまり安保理が加盟国に「要請」する正規の国連軍とは言えず、「勧告」に基づいた有志連合軍に近いものでした。

 この国連軍は日本を出撃の拠点とします。アメリカの占領軍は国連軍へと衣替えし、朝鮮半島に出撃していきました。
 このとき、撤退を決めていた英連邦軍からも豪空軍などが朝鮮半島の作戦に参加することになります。朝鮮戦争において英連邦諸国は計9連隊を朝鮮半島に送りました。

 しかし、この国連軍の日本での基地使用に関して、開戦から1年ほど取り決めのないままに行われていました。日本はこの時点では国連にも加盟しておらず、すべて日本の頭越しに決まっていったのです。

 開戦から1年たった1951年9月、サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約、吉田・アチソン交換公文という3つの重要な取り決めが結ばれます。
 サンフランシスコ平和条約の第5条には「国際連合が憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え」ることが書かれていますが、これは日本の独立後も国連軍の行動に支障をきたさないためのものでした。

 日米安全保障条約は、日本防衛の義務が入っておらず、米軍がどこにどれだけの基地を置くかを明記していない「全土基地方式」をとっているなど、かなり不平等な色彩の強いものですが、この背景には1948年にアメリカの上院外交委員会での「ヴァンデンバーグ決議」があります。
 この決議では米国が加わる相互防衛条約には「単独及び共同して、自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するための個別的及び集団的能力を維持発展させる」(52p)という条件が必要であるとしており、日本はこの条件を満たせないからです。

 サンフランシスコ平和条約と日米安保条約だけでは日本に駐留する英連邦軍(国連軍参加国)の問題は解決しません。そこで結ばれたのが吉田・アチソン交換公文です。
 ここでは、サンフランシスコ平和条約の発効とともに、国連未加盟の日本が国連憲章第2条の義務を引き受けることが定められました。さらに日本は現に行われている国連軍の行動に対し、引き続き基地と兵站支援を与えることになりました。
 これによって日本に英連邦軍が残留することが可能になりましたが、注意すべきはこの吉田・アチソン交換公文の親条約(本条約)が日米安保条約ではなくサンフランシスコ平和条約であるという点です。万が一、日米安保条約が解消されても、国連軍は日本に駐留し続ける可能性があるということでもあります。
 
 さらに英連邦軍の扱いについては日米行政協定に準じる形となり、1954年2月に国連軍地位協定が結ばれます。
 この協定の署名者は米国政府ではなく、「統一司令部として行動するアメリカ合衆国政府」となっており、日米安保条約でカバーされている在日米軍にこの協定は適用されないが、在日米軍が国連軍に編入されればこれが適用される余地を残しています。
 この協定にはカナダ、ニュージーランド、英国、南ア、オーストラリア、フィリピンの8カ国がまず調印し、さらにフランス、イタリア、タイ、トルコもこの協定に調印しています。

 この協定では関係者のビザの免除や免税措置など日米行政協定と同様のものが定められていますが、注目すべきは撤退について定めた第24条と25条です。

 すべて国際連合の軍隊は、すべての国際連合の軍隊が朝鮮から撤退していなければならない日の後90日以内に日本国から撤退しなければならない。
 
 すべての国際連合の軍隊がその期日前に日本国から撤退した場合には、この協定及びその合意された改正は、撤退が完了した日に終了する。(64〜65p)

 つまり、国連軍が日本から撤退した時点でこの協定は失効することになります。
 
 この国連軍地協定では、第5条2項で国連軍が在日米軍基地を使用できるとしています。つまり、在日米軍基地の「又貸し」が許されています。
 国連軍の兵員数については協議して決めることになっていますが、当時の下田武三条約局長は拒否することは実際問題として難しいと答弁しており、どれほど大規模な国連軍であっても日本は基本的に受け入れることになっています。

 1960年、日米安保条約は改定され、新日米安全保障条約になります。
 この改定でも憲法上の理由からヴァンデンバーグ決議をフルに満たすことはできませんでしたが、在日米軍基地が攻撃されたときの共同対処が約束されたことで、一定程度「相互援助」を満たせたとも言えます。
 米軍は引き続き日本の基地を使用できることになりましたが、日本側の「巻き込まれ」の懸念に応えるために生まれたのが「事前協議」の仕組みです。日本から行われる戦闘作戦行動のために基地を使用する際は事前協議の対象となりました。

 米国側からすると1つのハードルが設けられたわけですが、ここには抜け道もあります。それが新安保条約の調印2週間前に藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使の間で作成に合意した「朝鮮議事録」と呼ばれるものです。
 ここでは朝鮮半島有事が起こり、米軍が国連軍として朝鮮にでていく場合には事前協議の対象とならないとされています。
 この朝鮮議事録については、1969年の「佐藤・ニクソン共同声明」の中で朝鮮半島有事の際は「前向きに、かつすみやかに」態度決定する意向が示しており、この「韓国条項」によって議事録は無効になったという見方があります。
 ただし、著者は米国側は韓国条項を不十分と見ていて、この朝鮮議事録は今も生きているのではないか? という立場です。

 安保の改定とともに、吉田・アチソン交換公文も改定されています。ここでは国連軍地位協定が有効である限り、吉田・アチソン交換公文も有効であるという認識が示され、国連軍にも事前協議が適用されることが示唆されています。
 この事前協議の問題をすり抜けるためのものが先にあげた朝鮮議事録になります。

 ちなみに安保が改定されたにもかかわらず、吉田・アチソン交換公文も改定されたことに関しては、著者は米側の一種の保険だとみています。万が一、日米安保条約が破棄されたとしても、吉田・アチソン交換公文は生き残り、さらに朝鮮議事録を加えることで、国連軍は日本での自由な行動を保証されていると考えられるのです。
 このあたりはかなり錯綜していてわかりにくいですが、日本政府は世論の反発を恐れてあえてわかりにくさを放置したとも言えます。

 ところが、新安保条約調印直前の1959年12月11日、『毎日新聞』がこの国連軍が事前協議をすり抜けるからくりを報じます。
 野党の追求に対して藤山愛一郎外相は朝鮮議事録とは矛盾する答弁(国連軍も事前協議の対象になる)を行います。さらに日本にいる国連軍が攻撃された場合はどうなるのか? という野党の質問に対して、外務省条約局長の高橋通敏は「国連軍の自衛権の発動」という形で反撃すると述べています。実は英連邦軍などを含めた多国間の安全保障のような形になっている部分があるのです。

 1960年代後半から日本での反基地運動の高まりなどを受けて、米軍基地の再編が進みます。
 特に1968年6月2日に板付基地から飛び立った戦闘機が九州大学に墜落すると、基地反対運動は大きなうねりとなり、米国側も対処を迫られました。
 このとき国防総省の中では、首都圏の航空基地機能の横田への集中、佐世保の閉鎖と横須賀の母港化、沖縄の普天間の完全な閉鎖と在沖海兵隊の撤退を唱えるプランもありました(125p)。

 1969年にニクソン政権が成立すると、上院外交委員会に「サイミントン委員会」が設置されて調査が行われます。
 このサイミントン委員会が水戸射爆場と首都圏の空軍基地の返還を勧告したことで、横田の戦闘機部隊を沖縄の嘉手納に移し、空いたスペースを使って首都圏の空軍施設を横田に集約する「関東計画」が実施されていくことになります。

 このサイミントン委員会では、ジョンソン国務次官が「我々は日本を直接に防衛するために日本にいるのではない。日本の周辺地域を防衛するために日本にいる」(133p)と明言するなど、米国側のスタンスがあらわにもなりました。
 これに対して、日本では野党からは追求の声が上がりましたが、同時に日本の防衛に対する米国側のコミットメントに対して不安が起こり、それが戦闘機部隊の国外移転ではなく、沖縄嘉手納への移転につながったともいいます。

 沖縄返還に際して、嘉手納飛行場、ホワイトビーチ地区、普天間飛行場の3つが新たに在日国連軍基地に指定されています。この3基地には国連軍地位協定が適用されるようになったということです。
 これによって国連軍参加国の沖縄駐留が可能になりました。朝鮮半島有事において英軍や豪軍などが3基地から国連軍として動く米軍に兵站支援を行うことができるようになったのです。
 著者は3基地を国連軍基地にした動きからも、少なくとも米国側は朝鮮議事録は失効していないと捉えていると見ています。

 沖縄が変換された1972年はニクソンが訪中した年でもあります。この米中和解は朝鮮半島情勢にも影響を及ぼしました。このときキッシンジャーは国連軍の解体も視野に入れていたといいます。
 それでも在日国連軍基地は維持されました。この背景には国連軍が解体されれば、国連軍地位協定、吉田・アチソン交換公文、そして朝鮮議事録が失効してしまうことを米国が嫌がったからではないかと著者はみています。
 実際、1974年には日本に対して明示的に朝鮮議事録の延長を求めようとする動きもありましたが、日本側が朝鮮議事録に否定的だったことを知っていたラッシュ国務副長官の意見などもあって取りやめになっています。

 1975年、タイが国連軍からの撤退させる意向を示します。タイはソウルに儀仗兵を派遣しており、日本にも将校4名と下士官4名を後方司令部に、輸送機2機と将校17名、下士官8名を横田基地に派遣していました。
 日本政府はこの時点でタイを国連軍協定を担保する唯一の国と見ていました。そのため、タイ軍の撤退は国連軍協定24条と25条を発動させる恐れがあったのです。
 タイ軍の撤退は76年7月26日に予定されていましたが、アメリカの働きかけもあって7月20日にイギリスからの派遣が急遽決まります。香港にいた下士官1名とその他スタッフ1名をキャンプ座間に移動させるものでした。

 この時点で日本側も国連軍の駐留にメリットを見出していましたが、同時にこれが表沙汰になることは嫌がりました。
 その後、国連軍の維持のため、米国は日本で語学研修を受ける予定の豪軍将校を国連軍後方司令部に配属するいうアイディアが出され、これが実現し、さらに英連邦諸国やフィリピンなどを中心にローテンションが組まれ、国連軍は維持されました。

 第6章は普天間基地移設の問題がとり上げられています。すでにこのまとめも長くなってしまったので、詳しい内容は本書を読んでほしいのですが、普天間の移設先がかなり早い段階から辺野古に絞られており、実は米軍がベトナム戦争のころから今の辺野古と似た計画を持っていたことがわかります。

 また、民主党政権による普天間の国外・県外移設がなぜ失敗したかということも検討されています。
 まず、米国側は普天間の代替施設は国連軍の基地としての能力が必要だとしており(220p)、これだと国外移設はできません。嘉手納への統合も考えられましたが、嘉手納の拡張の難しさ、攻撃をされたときのリスクヘッジの観点から退けられています。また、他の基地との連携の必要から県外移設も難しいものでした。

 2010年3月5日に自民党の佐藤正久が鳩山首相に対し、普天間が国連基地であるか知っているかと質問し、鳩山が教えていただいて感謝すると答弁しています。これを素直に受け取れば鳩山は「知らなかった」ということになるわけですが、2006年に民主党の白眞勲は国会で普天間の移設先は国連基地としての性格を引き継ぐのか? と質問しています。この問題についての認識は民主党内部にもあったはずなのですが、それが鳩山首相には十分に伝わっておらず、政権の迷走につながっていた可能性があります。

 第7章では近年の安全保障をめぐる動きがとり上げられています。ここも詳しくは本書を読んでほしいのですが、ここでは小タイトルにある「準多国間同盟」の部分だけを少し紹介します。
 第2次安倍政権のもとで成立した平和安全法制では、今まで米軍が対象だった法律が「米軍等」と改定されています。存立危機事態における、米軍以外の外国軍に対する支援が追加されており、自衛隊は米軍以外の外国軍とも共通のオペレーションができるようになりました。

 また、日本はACSA(アクサ)という自衛隊と外国軍の間で物資や役務を融通する協定の締結を進め、米国、オーストラリア、英国、カナダ、フランス、インドとの間にこれを結んでいます。インドを除く5カ国が在日国連軍です。
 この背景には北朝鮮の「瀬取り」への対応がありますが、これらの5カ国は日本において、国連軍と自国軍の帽子を付け替えながら行動することができます。国連軍として米軍基地を利用し、自国軍として自衛隊の基地を利用できるわけです。
 こうした状況は、日米の二国間で考えられてきた日本の安全保障の構図を書き換えていくものになるかもしれません。

 最後に著者は米軍基地が「二つの顔」をもつ状況に対し、極東の安全が多国間安全保障によって維持されているメリットや野党の米軍アレルギーをやわらげるメリットと、不透明で民主的統制が及びにくいデメリットをあげています。

 ここで紹介した部分以外にも多くの読みどころがある本で、日本の基地問題や安全保障について今一度考える材料を与えてくれる本になっています。
 実際の朝鮮有事のオペレーションにおいて、どの程度米軍以外の国連軍が動くのかというのはちょっとわからないことではありますが、日本の結んできた条約や合意の中に国連軍にかなり自由な行動を許す規定があり、日本の国民からはかなり見えにくいものになっているという指摘は重要であり、価値のあるものだと思います。

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