1945年8月8日、玉音放送が流れる1週間前にソ連が日本に宣戦布告し、ソ連に終戦の仲介を頼んでいた日本は万事休すとなりポツダム宣言の受諾へと動きます。
ソ連の参戦は日本の敗戦が決定的になってからのものであり、長い戦争の中では最後のちょっとしたダメ押しのようにも見えますが、ソ連側は185万、日本側でも100万以上の兵士が参加した大戦争であり、さまざまな悲劇をもたらしました。
本書はソ連の参戦が決まった経緯から始まり、満州や樺太での戦い、さらには8月15日以降に行われた千島列島での戦いを追い、さらには日本人居留民を襲った悲劇などを総合的に描いています、
ソ連参戦に対するアメリカ側の考えなども史料を通して明らかにしている一方、日本人居留民の証言なども拾い上げており、まさに日ソ戦争の全体像を提示しようとした本だと言えるでしょう。
目次は以下の通り。
第1章 開戦までの国家戦略―日米ソの角逐第2章 満洲の蹂躙、関東軍の壊滅第3章 南樺太と千島列島への侵攻第4章 日本の復讐を恐れたスターリン
まずは参戦までのソ連側の経緯から説き起こしています。
フランクリン・ローズヴェルト大統領は日米開戦前の1941年7月10日に、ウマンスキー駐米ソ連大使に「貴国の航空機が、天気のよい風の強い日を選んで、厚紙でできた日本の街に大量の焼夷弾を降らせてくれればと願う」(3p)と述べています。
日本を方針転換させるために、ローズヴェルトはソ連からの日本への攻撃を望んだのですが、ドイツに攻め込まれたソ連にそのような余裕はありませんでした。
その後も、対日参戦を望むアメリカと対独戦に集中したいというソ連の考えはすれ違います。1943年11月のテヘラン会談でドイツが崩壊したあとの対日参戦を口にしたものの、具体的な対日作戦計画を提示したのは1944年10月のチャーチルとのモスクワ会談のときでした。
そして、1945年2月のヤルタ会談でソ連の参戦とその条件が固まります。チャーチルは米英中ソの共同宣言で日本は降伏するのではないかと考えていましたが、ローズヴェルトは言葉だけでは日本は降伏しないと見ていました。
ローズヴェルトに代わって大統領になったトルーマンはソ連に不信感を抱いており、原爆の完成を急がせましたが、それでもソ連の参戦は必要だと考えていました。
原爆の完成により、トルーマンや国務長官のバーンズはソ連の参戦を急がせる必要は薄れたと考えましたが、マーシャル米陸軍参謀総長は原爆が完成した後もソ連の参戦を望んでいます。
こうした中、当初スターリンはポツダムで対日参戦は8月15日になるとトルーマンに伝えていましたが、8月7日になるとスターリンとアントーノフ参謀総長は極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥に8月9日に越境するように命じます。
ソ連側が参戦を早めた背景には原爆の投下があったとも言われます。日本が想定よりも早く降伏するのではないかと考えたというのです。
一方、日本はソ連に戦争の仲介を期待しつづけていました。1945年4月5日に1年後に期限が迫った日ソ中立条約を延長しないと通告してきたことからソ連との友好は期待できないとわかっていながら、無条件降伏を避けるための唯一の手段としてソ連の仲介に期待をかけていたのです。
7月には近衛文麿を特使として派遣することも決まりますが、ソ連側はこの要請に対して肯定的な返事はせずに時間を稼ぎました。
それでも、ポツダム宣言にソスターリンの署名がなかったことから、日本側は「希望的観測」を持つことになります。
しかし、待ちに待った回答はソ連からの宣戦布告でした。
ここに至って日本は「聖断」によってポツダム宣言の受諾を「国体護持」を条件に受け入れると表明しますが、無条件降伏を求めるスターリンは満州での攻撃を続行させます。
その後、改めて「聖断」が行われ、8月15日にはアメリカ軍の攻撃がやみますが、ソ連軍の攻撃は止まりませんでした。
第2章では満州で実際どのような戦いが行われたのかが述べられています。
当時の満州には満州国がありました。満州国は日本の傀儡国家であり、国防と治安維持は日本に委託されており、満人や漢族の大臣がいたとしても実質的に仕切っていたのは日本人官僚でした。
関東軍の幕僚は満州国の統治も「兼業」しており、そのために純粋に戦闘には集中できない状況でした。
満州国にも軍はあり、そこには部隊を監視する「日系軍官」もいました。しかし、満州軍の中にはこの「日系軍官」への不満が渦巻いており、ソ連との戦闘が始まると多くが逃亡したり、「日系軍官」を殺してソ連軍に投降しました。
陸軍はずっと対ソ戦に備えており、1943年初めまで関東軍は約80万の兵力を擁しており、44年9月までは作戦的にもソ連極東へ攻め込むことを前提としていました。
しかし、戦局の悪化から44年になると関東軍の戦力の抽出が進み、これが45年6月まで続きます。これでは満州国が守れないと、7月から満州国にいる17〜45歳の男性25万人を入営させましたが、彼らは主に陣地構築のために働かされ、満足な軍事教練を受けないまま、そして十分な武器を持たないままに開戦を迎えます。
しかも、国境近くでの陣地構築はソ連側を刺激するとして控えられました。
東京の大本営の参謀部第二部第五課(通称ロシア課)では、7月末にもソ連軍130万が極東に集結しているし、冬になる前に作戦を進めるため、8月いっぱいに戦争が始まると予想していました。
それでも大本営ではソ連の参戦は米軍の本土上陸が始まってからという見方が強く、ここでも希望的観測が強くありました。
こうした中、関東軍は満州の地形を利用して持久戦を行いつつ、主力を大連から新京を結ぶ連京線の沿線に集結させ、機をうかがって反撃するという形になりました。
この方針に基づいて、主力は南に集められます。最後の拠点として通化市が選ばれましたが、十分な整備ができないままに開戦を迎えることになります。
一方、ソ連側は日本を圧倒する戦力を着々と整えていました。アメリカからの兵站の支援も受け、極東に大軍を集結させます。ただし、対独戦の部隊をそのまま転用するのは復員の問題もあって難しく、農村の疲弊を考えると一部の動員は解除せざるを得ませんでした。それでも8月には極東ソ連軍は175万に近くまで増強されます。
ソ連軍の侵攻は8月9日の未明に三方向から始まりました。西からはザバイカル方面軍がハイラルを超えて大興安嶺に進み、東からは第一極東方面軍が沿海地方からハルビンと新京を目指し、北からは第二極東方面軍がハルビンを目指しました。
これに対して日本側はソ連のこのタイミングでの参戦を予想しておらず、大本営では満州を放棄して有力兵団を朝鮮に南下させる作戦が了承されます。
関東軍では運悪く総司令官の山田乙三が大連に出張しており、ここでも後手に回りました。
奉天の第三方面軍を率いる後宮淳大将は連京線沿線での決戦を求めて部隊を動かし始めますが、持久戦の方針が崩れるとしてその動きは止められ、結局はほとんどの部隊が戦わずに終戦を迎えます。
一方、ハルビンにいた第4軍では上村幹男司令官がソ連の動きを警戒しており、孫呉と璦琿(あいぐん)の陣地でソ連軍の侵攻を食い止め、停戦命令まで陣地を死守しました。
日ソ戦争の最大の激戦地は満州国東部であり、ソ連の第一極東方面軍と日本の第5軍の間で牡丹江で激しい戦闘となりました。また、国境近くの要塞でも日本軍は頑強に抵抗しています。
このように関東軍は一部で奮戦しましたが、評判が悪いのは民間人よりも先に軍人とその家族が避難したという問題です。
山田乙三の弁明によれば、民間人はすぐに逃げる準備ができていなかったためとのことですが、逆に言うと、軍人の家族にはいち早く情報が届いており、それが避難を可能にしたということも考えられます。
また、西部ではあっさりと突破を許しました。これはそもそも日本側が内モンゴルの砂漠地帯を横断して大興安嶺を突破していくるとは考えていなかったためで、完全に虚を突かれました。
ソ連側は満州の関東軍と中国にいる日本軍部隊が合流することを警戒していましたが、ザバイカル方面軍の進撃により満州と華北の切り離しに成功します。
戦術的には、航空機、戦車ともソ連側が圧倒しており、特にソ連軍の戦車に対して日本側は兵士が爆弾を抱えての自爆攻撃くらいしか対抗策がありませんでした。しかも、それもソ連側に対策され、十分な効果をあげることはできませんでした。
8月15日の午後10時、山田乙三総司令官は玉音放送を拝聴しますが、正式な統帥命令はないとして作戦を続行させました。16日の大陸命が即時戦闘行動の停止を命じると、山田総司令官も即時停戦を命じます。
ただし、ソ連軍の攻勢は止まらず、8月18日にようやくスターリンとアントーノフから停戦命令がでます。この背景には、日本のアメリカへの懇願と、それを受けてのソ連のアメリカへの配慮があったともいいます。
最終的に8月19日に関東軍の泰彦三郎参謀総長とヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官の間で停戦条件がまとまりますが、このとき秦はソ連軍が満州全土をできるだけ早く占領するように要請しました。中国人や朝鮮人との関係が悪化する中で、日本人と関東軍をソ連軍の保護下においてもらうためです(のちの展開を考えれば甘い見通しだった)。
しかし、その後も一部で戦闘はつづき、興安北省にいた第107師団などは停戦命令を疑い8月29日まで戦闘をつづけました。
停戦したあとも満州にいた在満日本人の苦難は続きます。
もともと現地の人の土地を奪う形で入植したケースも多かったために、中国人から襲われ、ソ連軍も保護するどころか襲いかかりました。多くの女性が暴行され、男性も時計などの金目の物をあらかた巻き上げられました。
本書では森繁久彌、宝田明、赤塚不二夫らの証言も紹介されています。
満州国はあっけなく崩壊し、溥儀はソ連極東のチタで軟禁されます。
空白地帯となった満州にはソ連の手引のもとで中国共産党が勢力を伸ばしていきます。大連については国際港にするという話もありましたが、8月22日にソ連の空挺部隊が進駐し、9月2日にアメリカの巡洋艦が入港したときにはすでにソ連が大連の市内を掌握していました。
朝鮮について、当初ソ連軍は北東部の港以外には興味を示していませんでした。ソ連軍の狙いはあくまでも関東軍の包囲殲滅であり、そのために満州と朝鮮の国境線を確保することが目指されたのです。
それでも、8月16日にトルーマンからスターリンへ38度線以北をソ連に降伏する地域に指定するとの草案が届くと、朝鮮半島の占領が進み、9月17日までに38度線以北の占領が完了します。
ここでも困難な状況に陥ったのが民間人です。朝鮮人から襲撃を受けつつ、ソ連軍からの保護も期待できない状況で、しかも日本への送還も進まず、多くの人が寒さや飢えや伝染病で倒れました。
日ソ戦争の舞台は満州だけではありませんでした。第3章では南樺太と千島列島での戦いがとり上げられています。
実は南樺太と千島列島にはアメリカも注目していました。アメリカは第2次世界大戦が始まるとソ連に対して物資を供給しましたが、その半分弱が太平洋を渡った東方ルートで運ばれました。
ところが、日本領の千島列島近海や宗谷海峡を通るために、輸送船178隻が抑留され、9隻が沈められました。
カムチャッカ半島の南端を通るルートも使われましたが、アメリカとしては宗谷岬を通過できることが望ましく、そのために海峡の北にある南樺太の占領を望んだのです。
また、アメリカは日本空襲の拠点としてソ連の領内や南樺太、あるいは千島列島に飛行場を求めており、一時期は千島列島の占領も計画していました。
一方、ソ連の狙いはあくまでも満週であり、南樺太の攻略には消極的でした。
これに対して日本のこの地域を担当する第五方面軍は、アメリカ軍が千島列島南部や道東に侵攻してくることを警戒していました。道東に精鋭の第7師団が置かれ、その分、南樺太の守りは手薄になります。
その南樺太でもアメリカの上陸に備えて、第88師団の主力は南部に置かれました。
ソ連の樺太での総攻撃は8月10日に始まります。国境付近で日本側は頑強に抵抗し、国境地帯ではソ連側の死者(730人)が日本側(民間人を含めて651人)を上回りました。
8月16日にはソ連太平洋艦隊の陸戦隊が塔路町に上陸し、恵須取(えすとる)を目指します。恵須取の街には避難民も押し寄せますが、ソ連側の艦砲射撃と空襲で大きな犠牲がでました。
さらに8月20日には真岡にもソ連軍が上陸します。この真岡では若い女性の電話交換手が自決しており、南樺太の犠牲者の象徴的な存在になっています。
停戦については88師団からも使者が送られたものの、ソ連側が応じなかったために、日本側は自衛のための戦闘を続けました。最終的に8月22日になって停戦が成立しますが、結果的に8月15日以降にも大きな犠牲がでました。
さらに停戦成立後の22日午後3時にも豊原に空襲が行われ100〜500人が犠牲になっています。また22日早朝には樺太から北海道へ逃れる避難民を乗せた船も攻撃され、大きな被害がでています。
残った人々もソ連の樺太経営にために樺太に引き留められ、46年末になってようやく送還が始まりました。
次に千島列島での戦いです。先程述べたように、アメリカは千島列島の占領も計画し、ソ連に共同作戦を持ちかけたりもしていましたが、最終的に断念します。それでも、アメリカはソ連に対して上陸用の艦艇の供与などを行いました。
ただし、ソ連が千島列島の占領に動くのは8月15日になってからです。ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官が配下に北千島の「解放」を命じますが、これがスターリンからの指示だったのかは判然としていません。
日本の降伏を好機とみてソ連は急遽、占守島へ上陸部隊を送りますが、ここでソ連軍は苦戦を強いられます。
占守島を担当する第91師団のもとにも玉音放送は届いていましたが、17日には大本営から「一切の戦闘行動停止但し止むを得ざる自衛行動を妨げず 其の完全徹底の時期を一八日一六時とする」(210p)との命令が届きます。これは18日の午後4時までは自衛のための戦闘ができるとも取れる命令で、実際に8月18日には激しい戦闘になりました。
結局、8月21日まで停戦は成立せず、ソ連軍は1500名以上の死者を出しました。ソ連が奇襲攻撃を仕掛けなければ出る必要がなかった犠牲と言えます。
その後、ソ連軍は攻撃などをせずに、第91師団の手引のもとで他の島の占領を進めていきました。
8月16日、ソ連はアメリカに対して占領地域として北海道の割当を希望します。8月11日に、占領軍の司令官にマッカーサーとともにヴァシレフスキーの任命を望みましたが、これを断られたために分割統治を求めたのです。
スターリンは北海道の北半分を占領することで宗谷海峡と千島列島の支配を完全なものにしようとしましたが、これはトルーマンに拒否されます。ただし、千島列島については「全クリル諸島」の明け渡しを認めました。ここに北方領土が入るのかが後々問題になります。
結局、ソ連は北海道への上陸を諦めますが、そのかわりに急いだのが北方領土への上陸でした。8月28日に択捉島へ、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月3日に歯舞群島へと軍を進め、9月7日までに武装解除を完成させました。
このようにどさくさに紛れて千島列島の占領という既成事実を完成させたソ連ですが、対日戦に対する兵士や国民の士気は低かったといいます。
そこでスターリンは日露戦争の復讐を果たしたことをアピールしましたが、それゆえにスターリンは日本の復讐を恐れることになります。そのための方法が、日本の民主化、対日同盟網の構築、南樺太と千島列島の併合、シベリア抑留でした。
シベリア抑留に関しては労働力の確保などの狙いがあったと言われますが、同時に日本軍の将校を厳しく取り扱いました。これには将校を抑留することで日本軍の復活を阻む目的もあったと考えられています。
また、関東軍から接収した武器の多くは中国共産党へ引き渡され、中国の国共内戦の帰趨にも大きな影響を与えました。
このように、本書は日ソ戦争の開戦に至るまでの動きから始まって、満州と南樺太・千島での戦闘、巻き込まれた民間人の悲劇、日ソ戦争の影響とバランスよく論じています。シベリア抑留についてもう少し知りたいという人もいるかもしれませんが、これについては同じ中公新書で富田武『シベリア抑留』という優れた本があるのでこちらを読めばいでしょう。
スターリンとトルーマンのやり取りといった戦略体な部分から、兵士や民間人の体験談までうまく取り込んでいるのが本書の特徴で、まさに日ソ戦争をさまざまなレベルから総合的に理解できる本になっています。
そして、本書を読むと、現在進行中のウクライナ戦争を終わらせる難しさというのも改めて感じますね。