山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2020年06月

宮澤暁『ヤバい選挙』(新潮新書) 7点

 「事実は小説より奇なり」という言葉がピッタリとくる本です。
 本書は選挙マニアでブログなどを執筆している著者が、選挙にまつわる驚くべき話をまとめたものになります。267人も立候補者が出た村長選、「死んだ男」が立候補した都知事選、日本なのに選挙権が剥奪されていた地域など、考えられないような話が続くのですが、それらをトリビア的に消費するのではなく、丁寧に説明しているのが本書の特徴と言えるでしょう。
 ここでとり上げられているのは、かなり極端な話が多いですが、そこから選挙制度について改めて考え直すヒントが得られるような内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 死人が立候補した都知事選
第2章 267人もの立候補者が出た村長選
第3章 選挙前に人口が増える「架空転入」の村
第4章 投票所が全焼、水没、連絡が取れない……
第5章 選挙権が剥奪されていた島
第6章 書類送検、辞職で議員がゼロに
第7章 450万円で立候補を取りやめさせる
第8章 無言の政見放送が流れた参院選
第9章 選挙で荒稼ぎする方法

 選挙戦の最中に候補者が亡くなってしまうことがあります。有名なところでは80年の衆院選の最中に大平首相が亡くなったことがありましたし、07年には長崎市長選の最中に現職の伊藤市長が銃撃されて亡くなりした。
 しかし、実は死んだはずの人が立候補していた事件というものもあったのです。1963年の東京都知事選において橋本勝(かつ)という候補者がいたのですが、この橋本勝は戸籍上、すでに死んでいたのです。この顛末を追ったのが第1章です。

 この橋本勝という候補者、選挙公報に「青少年非行防止のため女の人造人間を数万体造って東京都周辺にその部落を造り青年のエネルギー発散場所をつくってやる」(15p)と書くような、かなり強烈な人物だったのですが、東京都の選挙管理委員会が本籍地の大阪市福島区役所に問い合わせたところ、彼がこの年の2月に死んでいたことが判明したのです(選挙は4月)。
 選管は「候補者の橋本勝」には被選挙権がないと判断し、彼への得票は無効票とすることを決定します。
 
 では、なぜこのような候補者が出てきたのでしょうか? ヒントになるのがその名前です。この63年の都知事選は東京オリンピックを控え、現職の東龍太郎に革新統一候補の阪本勝が挑む構図でした。
 この阪本勝の名前に注目してほしいのですが、「橋本勝」と似ています。この選挙には右翼系の泡沫候補が大挙して立候補しており、いずれも自らの当選を目指すよりも阪本勝の選挙活動を妨害するために立候補したような候補でした。おそらく、橋本勝もそうした阪本勝の選挙を妨害するための候補の一人だったのでしょう。似たような名前で有権者の誤認を誘う作戦です(中山勝という候補もいた)。
 選挙後、自民党の選挙対策本部の事務主任であった松崎長作(戦中、諜報機関にいた人物)が逮捕されますが、その下にいた肥後亨という人物も逮捕されます。そして、この肥後が橋本勝、さらには中山勝の背後にいた人物だったのです。おそらく組織的な選挙妨害の一環だったと考えられます(肥後が拘置所内で死亡したため、真相はよくわからない)。
 ちなみに、「橋本勝は一体誰だったのか?」という謎についても著者はフォローしているので、興味を持った人は本書を読んでください。

 第2章では、267人も立候補者が出た1960年の栃木県桑絹村の村長選をとり上げています。このときの村の人口は約17000人。そんな小さな村でこれだけの大量立候補があったのです。
 この絹桑村は絹村と桑村が1956年に合併してできた村でしたが、実は絹村は「結城紬」の生産地であり、隣接する茨城県結城市とのつながりが深く、桑村とではなく結城市との県を超えた合併を目指す地区もありました。
 しかし、栃木県は「昭和の大合併」が行われる中で、桑村と絹村の合併を急ぎます。県当局がとりあえず合併して、その後に絹村南部地区は結城市との越境合併を目指せばとよいと言ったことから、絹村も合併を認めることになるのですが、その後に県が「合併後の分村は認めない」と言い出したことから、この問題は地域を巻き込んだ闘争へと発展します。
 絹村の南部の7つの集落は納税を拒否し、村政との絶縁を宣言するなど対決姿勢を強めます。さらに子どもを結城市の学校に集団転校させようとし、57年の村議選は集団でボイコットしました。さらには分村派と反対派の間で、農作物の抜き取りや放火騒ぎまで起きたと言います。
 
 そんな中で、桑絹村の伊沢村長が亡くなったことから村長選が行われることになります。そして、このときに分村派の住民が大量立候補を行ったのです。
 桑絹村全体では分村派は少数でした。桑村の住民、絹村北部の住民は分村反対派であり、まともに候補を立てても分村派が勝つ見込みはありませんでした。そこで世間にアピールするためにとられた戦術が大量立候補でした(大量立候補は59年の栃木県栗野町の町議選でも行われていた)。当時の村長選は立候補を数日に渡り受け付けていましたが、1日目に18名、2日目に16名、3日目に205名と立候補が相次ぎ(52pに205名の立候補者名が書かれた新聞紙面が紹介されている)、最終的には267名になりました。
 中島という集落では被選挙権を持つ25歳以上全員が立候補したと言いますし、25歳から84歳まで分村派は全勢力をあげて立候補を行いました。立候補の取り下げもあり、最終的に202名まで減りましたが、それでも前代未聞の人数でした。

 結局、190名は得票数0に終わり選挙は桑村派の候補が勝利します。では、この大量立候補が無駄だったかというと、そうではありませんでした。
 選挙後に自治省の視察が行われ、南部7集落を結城市に合併させるという斡旋案が提示されたのです。しかし、これに栃木県と絹桑村が反発、用水を使わせないなどの「水攻め」が行われたりした結果、最終的には分村なしに落ち着きます。さらに65年に絹桑村が小山市と合併したことで、絹桑村自体もなくなりました。

 第3章では、選挙目的の架空転入をとり上げています。地方自治体の選挙に参加するためには3ヶ月前から当該自治体に継続して住民登録をし、居住実態があることが必要ですが、裏を返せばこの要件を満たせば特定の候補者を応援するために転入することも可能です。オウム真理教の麻原彰晃が90年の衆院選に旧・東京4区から立候補したとき杉並区の教団施設に200人以上が転入しています(告発されたが結果は不起訴)。
 本書では、村の人口の約5%にあたる128人が転入してきた1995年の栃木県栗山村の村長・村議選、選挙自体が無効になった1981年の滋賀県虎姫町の町議選を中心に取り上げています。
 特に虎姫町の町議選は、最高裁まで行って、大量の架空転入が疑われるのにもかかわらず形式的な照会のみで選挙人名簿を作成したのは違法で選挙は無効という前代未聞の判決が出ています。
 なお、栗山村も虎姫町も議会定数の変動がこのような不正の引き金となっていたことも指摘されています。

 第4章では突発的な災害によって投票ができなくなってしまったケースをとり上げています。比較的よく聞くのは台風などの来襲が予想されるために繰上投票が行われるケースですが(2017年の衆院選において台風が来襲したために九州・沖縄地方の離島を中心に繰上投票が行われた)、例は少ないながらも、突発的な災害などのために繰延投票が行われることも行われたこともあるのです。
 地方選挙では台風来襲を理由とする2014年沖縄県豊見城市長選、大津波警報が理由の2010年青森県おいらせ町長選などがありますが、国政選挙となると、1947年の参院選における長野県飯田市の一部、1965年の参院選における熊本県五木村と坂本村の一部、1974年の参院選における三重県御薗村および伊勢市の一部で起きた3例のみだと言います。

 47年の飯田市では4月20日の参院選の選挙当日に大火事が起きて各地の投票所も焼けてしまいました。このときは5日後の25日に衆院選が予定されていたことから、この日に参院選の繰延投票が行われることになりました。
 当時、参院選は地方区と大選挙区の2本立てで、しかもこのときは初回だったために上位当選者は任期6年、下位当選者は任期3年という変則的な仕組みとなっていました。そこで何が起きたかというと全国区の順位をめぐる延長戦です。100位の当選ラインが1000票ほど、任期が3年か6年かの50位の攻防も2000〜3000票差だったために、候補者15名が飯田市に殺到したのです。
 被災した有権者としては「それどころではない」という反応もありましたが、結果的に事前の予想を上回る人が投票に足を運びました。

 65年の五木村と坂本村の一部のケースは、事前に大雨で道路が寸断されてしまい、複数の自治体から繰延投票を求める声があがりました。自治省が難色を示したこともあり、最終的には五木村と坂本村の一部のみで繰延投票が行われることになります。
 当初は7月4日に投票が予定されていましたが、1週間の繰延で11日に投票が行われることになります。繰延投票の対象となった有権者は約1万人で、この票にかかわらず熊本県選挙区の当選者は動かない情勢でした。しかし、ここでも全国区の補充枠においてはこの票が意味を持つ可能性がありました。改選数は52で50位までは任期が6年、51位と52位は任期が3年になります。そこで50〜52位の候補が被災地へと向かったのです。この選挙戦では反発を避けるために大声で呼びかけるようなことはしない一方で、ポスター貼りは徹底されていて「水害で流れてきた流木や岩石にまでポスターが貼ってあった」(108p)そうです。
 ここでも50位の逆転劇は起きなかったものの、投票率は前回のものを上回ったそうです。

 74年の御薗村および伊勢市の一部のケースは、投票が終わった後に大雨のために投票所に行けなかった人がたくさんいたことが判明したケースです。中には眼鏡や雨合羽をなくしつつも15メートルを泳いで投票所にたどり着いた70歳という猛者もいましたが(111−112p)、投票所の周辺が首のあたりまで浸水していて投票所に行けなかった人が多かったのです。
 結局、全国で70%近い投票率があったにもかかわらず伊勢市は30%ほどで御薗村は44%。この投票率が決め手となって繰延投票が行われることになります。
 ここでも三重県選挙区の結果は決まっていたのですが、全国区の順位をめぐって候補者がこの地域にやってきました。ダンプカーやバキュームカーを投入して復旧活動を手伝う候補もあり、繰延投票では77%を超える高投票率を記録しました。ただし、順位の逆転は起きなかったとのことです。

 第5章は東京都の青ヶ島がとり上げられています。実はこの島、れっきとした日本の領土でありながら戦後の10年ほど投票する権利が剥奪されていたのです。
 投票する権利は憲法で保障されものですが、公職選挙法第8条に「交通至難の島その他の地域において、この法律の規定を適用し難い事項については、政令で特別の定をすることができる」(121p)という規定があり、これをもとにした政令で青ヶ島では選挙は当分行わないということが定められていたのです。
 青ヶ島は伊豆諸島の有人島としては最南端に位置する島であり、周囲の海岸がすべて断崖絶壁になっている島です。海が荒れると長くて5ヶ月以上も島外と人や物のやり取りができないことがあり、しかも通信手段も不安定な無線電信のみだったことから選挙の実施は難しいと考えられていたのです。
 本章では、そんな青ヶ島で選挙が行われるまでの経緯を描いています。

 第6章は、議員が逮捕されて議会が開けなくなったケースをとり上げています。2014年の青森県平川市では市議会議員の3/4が逮捕されるという事が起きていますが、この平川市のある青森県津軽地方は「津軽選挙」という言葉があるほど選挙違反の多い地域でもあります。
 太宰治の長兄津島文治も次兄津島英治も、ともに選挙違反で逮捕された経歴があります。この地域の選挙違反の特徴は選管までも巻き込んでいることで、1971年には青森県鰺ヶ沢町で選管が不正を行った結果、2人の町長が登庁しようとする事件も起きています。

 第7章は、選挙戦以前の不正行為である無投票工作をとり上げています。選挙になると金がかかるので、お金を積んで立候補を辞退してもらおうというやり方です。
 1994年の沖縄県伊良部町町議選では、前年に20年ぶりの町長選が行われて金がないということで町長や議員が立候補予定だった2人に金銭や町役場へのポストを用意して立候補を辞退させたものの、議長をめぐる対立から露見して関係者が逮捕されれるという事件が起きています(ちなみにこの事件の記述で伊良部「町」のはずなのに、なぜか村長派・反村長派という言葉が使われている(154−155p))。
 また、もう1つとり上げられている2003年の青森県の東北町町議選の話も強烈で、前章の話を合わせて青森の選管は大丈夫なのか? と不安になりました。

 第8章は政見放送について。現在行われている東京都知事選挙にも立候補している後藤輝樹候補は、2016年の都知事選にも立候補していますが、このときの政見放送はたびたび音声カットが入るという異様なものでした。性器の名前を連呼したためにそこがカットされたのです。
 この政見放送カットが最初に行われたのは1983年の雑民党の東郷健の政見放送です。このとき東郷は障害に関する差別的な用語を使ってカットされています(ちなみに東郷は性器の俗称を言ったこともあるが、それはカットされなかった)。この問題は最高裁まで争われますが、結局東郷が敗訴しています。
 一方、1987年の参院選では聾者の渡辺完一が立候補し、テレビでは字幕をラジオでは手話を音声化してくれる人をつけてくれることを求めましたが、容れられず、テレビでは手話のみが、ラジオでは当人の唸り声らしき音声のみが流れるという結果になりました。これに抗議が殺到し、自治省はアナウンサーが代読することを認めることになりました。

 第9章は金儲けの手段としての選挙がとり上げられています。かつて、自らの当選のためではなく特定候補を褒めたり中傷したりする「ほめ賃」「けなし賃」を得るために選挙に立候補する者がいました。他にも選挙管理委員会から交付される選挙はがきを横流しする者、新聞広告を載せ、広告代理店からリベートを受け取る者など、選挙公営制度を利用して金儲けを企む者がいました。
 その対策として供託金が引き上げられ、衆議院議員の小選挙区で300万円となっています。これによって金儲けのための出馬はなくなりましたが、国民の立候補する権利を大きく制限しているとも言えます。

 思わぬ長いまとめになってしまいましたが、それは本書が興味深い細部まで調べて書いてあるからです。「びっくりネタ」として消費されそうなネタでも、その背景を丹念に調べています。
 また、選挙制度の穴をついたような話も多いのですが、そこから見えてくる制度の問題というものもあります。「ヤバい選挙」を面白がるのもいいですが、そこから考えるべき制度的な問題が見えてくるのも本書の面白さだと思います。


渡辺靖『白人ナショナリズム』(中公新書) 7点

 2020年5月25日、ミネソタ州で黒人のジョージ・フロイド氏が警察官に首を圧迫され死に至ったことから各地でデモや暴動が起きました。警察官の黒人に対する差別的な取り扱いは過去にも繰り返されてきたことではありますが、今回、ここまで怒りが高まった背景としてはトランプ大統領が積極的な「火消し」に動かなかったという面もあるでしょう。そして、そのトランプ大統領の姿勢の背後にあると見られるのが本書がテーマとする「白人ナショナリズム」です。
 本書は、そんな「白人ナショナリズム」の実態を、当事者へのインタビューなどを通じて解き明かそうとしています。著者は長年アメリカについて研究を重ねてきた社会人類学の学者であり、センセーショナルにならずにその実態を描いていきます。
 古くはKKK、あるいは映画『アメリカン・ヒストリーX』で描かれていた白人至上主義の団体など、人種差別的なグループは存在していましたが、本書を読むと近年ではそれが洗練され、さらには表舞台にも出てきたということがわかりますし、また、その多様性と単純さのようなものも見えてきます。

 目次は以下の通り。
第1章 白人ナショナリストの論理と心理
第2章 デヴィッド・デュークとオルトライト
第3章 白人ナショナリズムの位相
第4章 白人ナショナリズムをめぐる論争
第5章 白人ナショナリズムとグローバル・セキュリティ

 『アメリカン・ヒストリーX』ではないですが、白人至上主義を主張する人というと「スキンヘッドの若者」といったイメージがありましたが、著者が参加した白人至上主義の雑誌『アメリカン・ルネサンス』の年次会合の様子はまるで学会のような雰囲気だったといいます。
 そして、以前の白人至上主義はかなり攻撃的なイメージでしたが、『アメリカン・ルネサンス』を主催するジャレド・テイラーという人物の口から語られるのは、むしろ被害者意識と言ってもいいものです。
 「サラ・ジョン(韓国生まれのジャーナリスト)は「白人は嫌いだ」と公言してもさほど批判されないのに、私たちが「ヒスパニック系が嫌いだ」と言うと「白人至上主義者」と批判されるのです」「他の人種や合法移民を米国から追い出せと主張しているわけではありません。白人が罪悪感を感じることなく堂々と生活できる空間を求めているのです」(10p)、「ポリティカル・コレクトネス(PC)が跋扈する米国に「言論の自由」はありません。共産主義国家と同じです」(12p)など、彼の口から出てくるのは自分たちこそが抑圧されているという主張です。

 そんな彼らは日本にかなり好意的で、「白人ナショナリストの99パーセントは日本が好きです」(20p)といった言葉も飛び出してくるのですが、それは日本が移民が少なく均質性が高い社会だからでしょう。
 白人ナショナリスト政党の米国自由党は、国際機関からの離脱や在外米軍の撤退や他国への介入をしないことを求めており、その主張はかなり「内向き」です。また、彼らの中には「白人のエスノステート」(白人のみが市民権なり居住権をもつ州または地域)を求める声もあるのですが、このあたりも彼らの「内向き」さを示しているように思えます。
 そして、この「内向き」の姿勢はトランプ大統領とも響き合います。トランプ大統領は機会主義者であって、白人ナショナリストではないのかもしれませんが(例えば、親イスラエルの行動は一部の反ユダヤ主義者と衝突する)、明らかに彼らにウケるような行動をしており、トランプ大統領の発言が白人ナショナリズムを勢いづかせている面もあります。
 
 第2章では、白人ナショナリスト界の大物デヴィッド・デュークにインタビューを行い、同時にオルトライトとも呼ばれる近年の白人ナショナリズムの動きを追っています。
 冒頭にデュークへのインタビューがあるのですが、デュークも日本を激賞しています。「単一人種国家(mono racial country)を訪れたのは日本が初めてでした。人種の血筋(racial heritage)が保持されている社会の偉大さに気づかせてくれたのが日本でした」(39p)といった具合です。

 彼は太平洋戦争をユダヤ系の謀略と考えうような人物なのですが、ウクライナの大学で歴史学の博士号を得ており、「歴史家」を名乗っていたりもします。1950年生まれのデュークは14歳でKKKに参加し、大学卒業後は「クー・クラックス・クランの騎士」という団体を設立し、最高幹部の称号である「グランド・ウィザード」を自らに用いました。
 このようなセンスの持ち主ではあるのですが、70年代末以降、マイノリティへの憎悪ではなく白人やキリスト教徒の権利を押し出し、整形手術も行ってイメージチェンジを図りました(48pに容貌の変遷を示した写真が載っている)。
 1989年にはルイジアナ州議会下院補選に共和党から出馬して初当選を果たし、政治家としてもデビューしています。ただし、その後はさまざまな選挙に挑戦するも当選することはできず、21世紀になっていからは「歴史家」の肩書をもつイデオローグとして活躍しています。特に彼の反ユダヤ主義は顕著で、イランのアフマディネジャド大統領と面会しているほどです(51pに写真が載っている)。

 ただし、このデュークもオルトライトの中心人物というわけではありません。オルトライトは「もう一つの右翼(alternative right)」の略語ですが、特にリーダーがいるわけではなく、さまざまな思想傾向の人を含みます。近年では同性愛者などからもオルトライトの代弁者が出ています。
 彼らは反PCという傾向で一致しており、匿名掲示板などを利用しています。また、日本の2ちゃんねるのようにそこから生まれたインターネットミームもさかんに利用されていて、「カエルのぺぺ」などが使われています。

 近年、このオルトライトが注目を集めたのは2017年のシャーロッツビルの衝突事件で、南軍のリー将軍の銅像の撤去に反対するオルトライトの人々が集会を開き、それに抗議する人たちに20歳のネオナチを公言する若者の運転する車が突っ込んだというものでした。
 さらにこの事件に関しては、トランプ大統領が当初沈黙していたことも批判を浴びました。この対応などが引き金となってスティーブ・バノンがホワイトハウスを去ることになるわけですが、バノンはその後、ヨーロッパの極右団体と連携を探るなどの活動を行っています。

 では、このオルトライトにいたる白人ナショナリズムの源流はどこにあるのか? 第3章ではそれを探っています。
 もちろんKKKの存在は大きいですし、本書でもその歴史に触れていますが、現在のある意味で「内向き」なナショナリズムを唱えた人物として、本書ではパット・ブキャナンに注目しています。
 ブキャナンはニクソンのスピーチ・ライター、フォードとレーガンの上級顧問を歴任し、92年と96年の大統領選に共和党から、2000年の大統領選には改革等から出馬しトランプと指名獲得を争いました。 
 ブキャナンは著作の中で白人の出生率低下と移民の「侵略」によって米国が第三世界化すること、日本や欧州との同盟関係は不要と断じ、日本に核武装を勧めるなど、「内向き」のナショナリズムを展開した人物でした。
 そして、こうした内向きのナショナリズムは、経済のグローバル化によって白人の中間層が没落すると、それとともに支持を広げることになります。

 この第3章では、さまざまな白人ナショナリズム集団が紹介されていますが、「反移民系」「反LGBTQ系」「反イスラム系」「クリスチャン・アイデンティティ系」「ホロコースト否定系」「男性至上主義系」「南部連合系」などさまざまです。
 基本的に、民主主義や自由主義の原則を否定するというよりも、それらが自分たちには適用されないこと、白人は「犠牲者」である認識に立脚したものが多いですが、近年では「加速主義」「暗黒啓蒙」といった、破壊によって新しい社会の到来を目指すべきだという考えも出てきています。啓蒙主義そのものが「壮大な「ポリティカル・コレクトネス」」(108p)というわけなのです。

 白人ナショナリストには高学歴者が多く、以前はリベラルだったという者も少なくありません。彼らの基本的なスタンスは白人が不当な扱いを受けていることへの異議申し立てであり、若い世代ではアファーマティブ・アクションなどがそのきっかけとなったりしています。
 高学歴者が多いということもあって、「科学的」な根拠を使いますが、「人種」という科学的とは言えないカテゴリーを好んで使うこともあり、その根拠は怪しげです。ただし、近年では遺伝に関する研究がさかんになっており、そこから「人種」間の優劣を指摘する動きもあります。ちなみに、130pには上半身裸で牛乳を一気飲みする若者の写真が掲載されていますが、これは白人が乳糖を分解する酵素を多くもっていることから、「白人性」をアピールする行為になっています。

 アメリカには経済的な自由と個人の自由を重視するリバタリアンと呼ばれる人々がいます。白人ナショナリストとリバタリアンは集団主義や経済的に内向きな思考という点で対立しますが、PCに反対するという点では一致しています。
 また、リバタリアンとしても知られる政治家のロン・ポールは「人種」という集合主義的な視点を持ち続ける限り人種間の対立はなくならないと主張しましたが、白人のポールがそれを言うと人種差別的に受け止められることもあるかもしれません(139p)。
 FOXニュースの人気司会者でトランプ大統領にも近いと考えられているタッカー・カールソンも白人ナショナリストに親和的なリバタリアンといった立ち位置になります。

 白人ナショナリズムは前にも述べたように陰謀論と親和的なのです、特にその反ユダヤ主義は根強いといいます。ユダヤ系の国際金融資本が世界を牛耳っているという認識が広まっており、「グローバリズム」と「ユダヤ人」という言葉が結び付けられています。
 もともと「反中央政府」の気風が強いアメリカでは、こうした陰謀論を政府が規制することが、さらなる陰謀論を呼び込むような構図もあり、その対処はなかなか難しくなっています。

 第5章では白人ナショナリズムの国際的な動きや、それに抵抗する運動を紹介しています。2001年のノルウェーの連続テロ事件のブレイヴィクのマニフェストが15年のサウスカロライナでの黒人教会銃撃事件のディラン・ルーフに影響を与え、19年のニュージーランド・クライストチャーチでのモスク銃撃事件のブレントン・タラントはそのブレイヴィクとルーフに言及するなど、一匹狼的なテロリストが国境を超えて影響を受けあっている構図があります。
 また、アメリカの白人ナショナリズム団体と、欧州の極右団体とのつながりもあり、それぞれ支部を展開したりもしています。彼らの中ではハンガリーのオルバーン首相やロシアのプーチン大統領の人気が高く、オルバーンの反ジョージ・ソロスの運動は大きな支持を受けています。ちなみに浅沼稲次郎を視察した山口二矢を英雄視するような考えもあり、カエルのぺぺのミームまであります(165pに画像がある)。

 一方で白人ナショナリズムから訣別する人もいます。いくつかのケースが紹介されていますが、興味深かったのが女性の白人ナショナリストのケース。当然、女性の活動家もいて、白人ナショナリストの男性とカップルになるケースもあります。ところが、「周囲を見渡せば、女性が懸命に稼ぎ、男性はインターネットに興じるといったカップルがほとんどだった」(174p)そうです。女性蔑視の雰囲気も強く、そういったことがきっかけで離脱する女性もいます。
 
 そうはいっても白人ナショナリズムの動きは活発で、2009年からの10年間に起きた過激派による殺人事件の犠牲者のうち、73%が極右によるもので、イスラム系によるものが23%、極左によるものが3%トなっており、極右の76%が白人ナショナリストによるものだそうです(182p)。
 そして、こうした動きを煽っているとも受け取られかねないのが、トランプ大統領の言動であり、その背景にあるのが米国民の意識です。
 2018年の世論調査では「現在、米国では人種的少数派が攻撃されている」との指摘に強くまたは多少なりとも同意すると答えた人が57%だったのに対し、「現在、米国では白人が攻撃されている」との指摘にくまたは多少なりとも同意すると答えた人は43%いて(185p)、白人の「被害者意識」の高さがうかがえます。
 今後、米国における白人の割合は減少していくと考えられており、この「被害者意識」はますます高まるかもしれません。

 このように、本書はインタビューなをを通じて白人ナショナリズムの実態を明らかにしようとしています。ルポ的な性格も強く、インタビュー対象から運動の広がりを探るスタイルになっていて、そんなにきっちりと整理されたような構成にはなっていません。
 ただし、本書の売りはしっかりとした構成などではなく何といってもタイムリーさにあるでしょう。アメリカにおける人種間の緊張が近年まれに見るほど高まっているこの時期に、こうした本が出てくることは素晴らしいことだと思います。


檀上寛『陸海の交錯』(岩波新書) 8点

 岩波新書の〈シリーズ中国の歴史〉の第4巻。この巻では明朝の成立から滅亡までが描かれています。一見すると、今までの「陸の中国」と「海の中国」にわけた構成に対して非常にオーソドックスに見えますが、「明清」とセットにされることが多い中で、あえて明だけで1巻使っているところに本シリーズの特徴があるといえるでしょう。
 多くの人にとって、明というと、朱元璋(洪武帝)げ建国し、永楽帝が勢力を広げて、鄭和に東南アジア〜アフリカにいたる大航海を行わせたが、それ以降は「北虜南倭」に苦しんで滅亡、といった程度のイメージしかないかもしれませんが、本書を読むと、明の時代がさまざまな可能性の中からその後の中国のあり方を大きく規定する選択を行った時代だということが浮かび上がってきます。
 あと、明というと暗君が多かったことでも知られているのですが、そういった暗君を含めて日本では考えられないようなスケールでの無茶苦茶な政治についての記述も本書の読みどころの1つと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 明初体制の成立
第2章 明帝国の国際環境
第3章 動揺する中華
第4章 北虜南倭の世紀
第5章 爛熟と衰勢の明帝国
第6章 明から清へ

 元朝の末期、官紀の弛緩やチベット仏教に傾倒した皇帝による多額の支出、寒冷化減少による食糧不足などが重なって社会が混乱します。そんな中で民衆の心を捉えたのが白蓮教でした。白蓮教は未来仏の出現と世直しを説く宗教で、この教団を中心に紅巾の乱が起こります。
 この反乱の中で頭角を現してきたのが朱元璋です。貧農の家に生まれ、17歳の時に家族をなくして托鉢僧をしていた朱元璋は、この反乱に加わり、そして集慶(南京)を根拠地に地主などの支持萌えながら勢力を拡大しました。

 各地で反乱軍が割拠する中で、朱元璋は劉基と宋濂という二人の儒学者を加え、「養民」という主張を掲げて支配を固めていくことになります。
 当時、江南地域では塩を扱う商人出身の張士誠、海賊あがりの方国珍、さらには陳友諒らがいましたが、朱元璋はまず陳友諒を討つと、つづいて張士誠を討ち、方国珍は降伏しました。
 江南を支配下において朱元璋は北伐を開始し、1368年に皇帝に即位し、国号を大明としました。元朝最後の皇帝トゴン・テムルは戦わずして大都を放棄して北方に逃れ、明による統一が完成します。

 ここで明が抱えた問題が、「南人政権」という性格でした。もともと江南の発展とともに科挙の合格者数などで南が北を上回るような傾向があったのですが、明は江南の地主の支援を受けて成立した王朝であり、しかも中国史上唯一、南から北を統一した王朝ということもあって、北をいかに包摂するのかというのが大きな課題だったのです。
 この問題に対して、朱元璋は南京に対して開封を北京とする両京制度をとり、官僚も南人を華北に、北人を江南に赴任させるなどの措置をとりました。さらに科挙を一時中断して推薦制度によって北人の官僚を増やそうとしました。
 経済政策では疲弊した華北に配慮して現物納の税制を敷き、金銀の使用を禁止して、不換紙幣を流通させようとしました。放っておけば江南が銀建ての経済圏となり、華北との格差が一層開くからです。
 さらに南人官僚と江南地主の癒着を断ち切るために、朱元璋は計画的に大獄を起こし、官僚たちを処刑していきました。「禿」「僧」「光」などの文字は朱元璋の托鉢僧としての過去を揶揄するものだとして、これを使った者を弾圧した「文字の獄」は有名です。
 このように朱元璋は南北の融和とともに皇帝の地位の絶対化を進めていったのです。

 明の初期には職業の固定化が行われました。民戸(農民)、軍戸(兵士)、匠戸(手工業者)といった具合に戸籍をつくり、その移動を禁止しました。特に農民は里甲制のもとで土地に縛り付けられ、里内から出ることや、夜間の外出まで制限されました。
 人々には「分」を守って生活することが求められましたが、その理論的な柱となったのが儒教でした。儒教では徳治が求められ、やむを得ないときは法が使われますが、実際は徳治は法を正当化するための手段となり、秩序の維持が求められました。
 これは混乱していた社会が望んでいたことでもありますが、朱元璋のあり方について著者は次のように論じています。

 明初の専制主義の高まりと絶対帝政は決して朱元璋一人の所為の結果ではない。それを支持する空気が当時はたしかにあった。ただ、朱元璋の政策は社会の予想をはるかに超えて、あまりに苛烈かつ酷薄であった。元末の秩序崩壊を経験した中国社会は、狂気と信念の非人間的な明初という時代に生み出してしまったわけだ。(32p)

 元は宋の流れを受け商業を重視した海洋国家でもありました。もしも、張士誠や方国珍が天下をとったら、また違った形の国際政策があったのかもしれませんが、「大地に固執する貧農出身の朱元璋にとり、海洋世界は想像すらできない埒外の境域」(42p)でした。
 張士誠や方国珍の残党らが倭寇などを引き込んで明に抵抗すると、明は海禁を打ち出して、陸と海を分離させようとします。さらにモンゴルに対しても万里の長城地帯を固めて守りに入ります。

 一方で明は、大越(安南)、占城(チャンパ、ベトナム南部)、高麗、日本に使者を派遣し朝貢を促します。特に日本は倭寇対策のためにも重要であり、征西将軍懐良親王が日本国王として入貢しました。
 当初、明は朝貢と民間貿易を両立させていましたが、1374年にすべての市舶司を突然廃止し、すべての民衆の出海を禁止し、外国の商人の来航も禁止します。これは先述の南北格差を縮小する経済政策と関わりがあるもので、これによって銀経済の伸展を止めようとしました。
 明と周辺国の貿易は朝貢に限られることになり、ここに朝貢一元体制が成立するのです。明は朝貢によって華夷の統一を謳いつつ、同時に華夷の分離をはかりました。日本に関しては倭寇の禁圧に成果が上がらなかったことから、1386年に国交を断絶し、子孫に対しても永遠の国交断絶すると同時に、日本や挑戦などを列挙し、無用の海外遠征をしないように厳命しています。「日本を討て」ではなく「討つな」と言っているところが、明らしいと言えるかもしれません。

 しかし、この内向きの方針は永楽帝の登場によって修正されます。朱元璋の孫にあたる建文帝を討ち帝位についた朱元璋の第4子の永楽帝は、日本の足利義満を日本国王に冊封し、ベトナムに大軍を送って制圧し、鄭和に南海遠征を行わせました。さらに永楽帝はモンゴルに親征し、北京への遷都を行います。
 こうしてみると、朱元璋の路線がひっくり返されたようにも見えますが、著者はそうではないと言います。朱元璋が目指しつつ果たせなかったものが、国内的には南人政権から統一政権への脱却、対外的に華と夷の統合でした。永楽帝は北京遷都によって前者を実現し、モンゴルを威嚇し、鄭和によって促された東南アジアなどからの朝貢を受け入れることで華夷の統一を演出しました。しかし、一方で民間貿易や民衆の出海は禁止されており、開放的な政策がとられたというわけではなかったのです。

 しかし、永楽帝の強引ともいえる政策に対する反動も起こります。永楽帝が亡くなると新帝の洪煕帝は南京への遷都を発表しますが、これは洪煕帝の急死によって取りやめになりました。つづく宣徳帝は、永楽帝の意思を継ぎつつ、それをソフト・ランディングさせました。鄭和に最後の大航海を命じるとともに、ベトナムを放棄し、国内体制の安定を目指しました。
 ただし、このころになると銀経済の広がりを押し止めることは難しくなり、不換紙幣の流通も滞るようになります。また、身分制度も動揺を見せ始め、社会の流動化が始まります。
 また、朝貢体制も動揺し、北方のオイラトと朝貢の下賜品をめぐって対立し、明に侵攻してきたオイラトによって当時の皇帝・正統帝が捕虜になるという土木の変が起こります。
 このころになると朝貢によって華と夷の統一を図るという題目は捨てられ、朝貢に対しても関税をかけるなど、内向きの姿勢が鮮明になりました。北方での密貿易もさかんになり、白蓮教徒たちが長城の外に定住社会を築き、モンゴルと接触するようになっていきました。

 政治では永楽帝のときに内閣制度がつくられ、その首輔大学士がやがて宰相のような存在になっていきます。さらに永楽帝が宦官を用いたことから、宦官の力も強まり、官僚を観察する司令監太監の権力が増大しました。吃音のために配下との接触を嫌った成化帝は司令監太監を自らの代わりに閣議に出席させ、宦官の公的な政治への介入が強まっていきます。
 成化帝の跡を継いだヤオ族出身の母を持つ弘治帝で、比較的安定した時代でした。法律も整備され、「弘治の中興」とも呼ばれますが、銀の流通はますます広まり、奢侈の風潮が強まっていきました。

 そんな中で登場したのが正徳帝です。正徳帝は学問にも武芸にも秀でていたようですが、宦官を集めて戦争ごっこをしたり、遠征しては民家の婦女を掠め、挙句の果てには魚を捕ろうとして池で溺れかけて、そこからかかった病で死ぬという破天荒な人生を送りました。
 この正徳帝の人生について、著者は同時代の陽明学の始祖・王陽明の教えと重ねます。そのテーゼ「心即理」は自らの心を行動の基盤とするもので、正徳帝の無軌道ぶりもそれに通じるものがあるのかもしれません。

 正徳帝の跡を継いだのは正徳帝の従兄弟にあたる嘉靖帝でした。このころから社会の変化は明らかになり、商品経済がますます展開していきます。長江下流域では稲作から綿花栽培、桑栽培に切り替える農家が増え、食糧生産の中心は長江中流域に移っていきます。
 地方では、「郷紳」や「紳士」と呼ばれる科挙に合格した者や引退・休職した官僚などが力を持つようになり、地方政治に大きな影響を与えるようになります。
 またこの嘉靖帝の時代には、金持ちの贅沢こそが庶民の生活を支えるという主張を行った陸楫(りくしゅう)という人物が現れるなど、私欲を肯定する考えも生まれています。

 この嘉靖帝の時代には寧波の乱(1523年)も起こっています。大内氏と細川氏が中国で争いを繰り広げた結果、日本に勘合は与えられなくなり、密貿易が中心になります。また、広州では民間の商船の入港を黙認し、関税をとることが慣例化し朝貢一元体制は有名無実化しました。
 さらにポルトガル人もこの海域に現れ、福建の月港と浙江の双嶼港を中心に密貿易がさかんになりました。特に石見銀山で大量の銀が産出されるようになったことで、日中間の密貿易は拡大していきます。
 明は港や船を破壊して取り締まりを強化しますが、逃亡した農民などは海へ、あるいは北辺の辺境へと逃れ、そこで交易に携わります。「北虜南倭」という言葉がありますが、これは外敵が攻めてきたというよりも、辺境での交易ブームを強引に止めようとした明への反発という側面が強いです。

 明の内部でも貿易(互市)を容認すべきだという意見も出ましたが、結局は江戸時代の日本と同じように「祖法」という考えが勝ちました。倭寇の首領として知られる王直も互市の容認と引き換えに明へ投稿をすることを呼びかけられ、ついにはこれに応じますが、結局は逮捕され処刑されています。一方で、月港だけを開港するという政策もとられ、月港のみで日本以外との貿易が認められました。
 さらに北方でも互市が認められたことで、「北虜南倭」の騒擾は沈静化していきます。

 16世紀後半、明の体制再建に取り組んだのが張居正です。1572年に万暦帝が即位すると、張居正は首輔大学士となり、官僚の綱紀を引き締めるとともに、全国で丈量(検地)を行い税の増収を図りました。さらに一条鞭法を全国的に施行し、税糧と徭役を一本化して銀で徴収しました。こうした改革の結果、明の国庫には銀が積み上がりました。
 しかし、これを使い尽くして国を傾けたのが万暦帝です。若い頃の万暦帝は張居正に厳しく教育され禁欲的な生活を送らされていましたが、張居正が死ぬと、自分の陵墓の建設や子どもの婚礼費に巨額の富を費やし、さらには紫禁城の消失やモンゴル人将軍の反乱、秀吉の朝鮮侵略などもあって明の財政は一気に悪化しました。

 一方で、社会はさらに流動化していきます。空前の出版ブームが到来し、経書や史書を読む「庶」が現れるとともに、「士」も受験参考書や白話小説などを読むようになります。腐敗の中でカネで学位や資格が買えたこともあって、士庶の別は弱まっていきます。
 また、社会の流動化の中で、農民の中には税負担から逃れるために郷紳に土地を寄託したり、郷紳の奴僕となるものも現れます。宗族結合が進展するのもこの時期で、宗族間の結束をはじめとして、さまざまな結社がつくられ、社会のヨコの結合が強まりました。都市などでは郷紳や名士が「善会」をつくって社会福祉活動を行うようにもなります。

 こうした社会の流動化の背景にあったのが中国への銀の流入です。銀は日本から、そして新大陸から、あるいはヨーロッパを経由して中国に持ち込まれ、中国の商品が輸出されていきました。また、サツマイモ、トウモロコシ、タバコなども新大陸からもたらされています。
 こうした貿易により、辺境には東北の李成梁、ヌルハチ、福建の鄭芝龍といった華夷混淆の自立勢力を生み出します。そして、さらなる辺境から国際秩序にチャレンジしたのが豊臣秀吉ということになります。
 秀吉は1592年に朝鮮に攻め入ると、破竹の勢いで軍を進めます。この勝利に気を良くした秀吉は、後陽成天皇を北京に移し、日本には別の天皇を立て、自分は寧波に移るというアイディアを披露します。日本という「小天下」を拡大させる狙いは、中国という「大天下」の乗っ取りに拡張されたのです。秀吉はこの後、講和の条件を日明貿易の再開や朝鮮南部の割譲に引き下げます。これは現実的な選択でしたが、著者は「秀吉はヌルハチになる機会を自ら放棄したということでもある」(182p)とも述べています。

 万暦帝の時代、「東林党」と呼ばれる朱子学にもとづき社会の立て直しを図ろうとする官僚も現れますが、「明朝随一の暗君といわれる」(192p)天啓帝が即位し、宦官の魏忠賢が権力を握ると、東林党は弾圧されます。さらに魏忠賢は各地に魏忠賢を祀る生祠をつくらせ、孔子と並ぶ聖人に祭り上げようとするなど、政治は乱れました。
 天啓帝が亡くなると崇禎帝が即位し、魏忠賢を排除します。この崇禎帝は政治への関心も意欲もありましたが、以上に疑り深い性格で次々と官僚を更迭しました。結局、宦官を頼るようになり、政治は混乱します。
 
 そんな中で流賊の中から李自成が頭角を現し西安を都に大順国を建国し、1644年には北京に攻め入って崇禎帝を自殺に追い込みます。しかし、ここでヌルハチの子・ホンタイジが建国した清との国境を守っていた呉三桂が清と手を結び、李自成を敗北させます。
 明の諸王や遺臣は南部で抵抗しますが、次々と清に撃破されていきます。粘り強く抵抗したのが鄭芝龍とその子の鄭成功で、鄭成功は日本や、さらにはバチカンにまで支援を要請しましたが、結局台湾に逃れ、最終的にはその孫が清に降伏しています。
 夷が中華の地を奪ったことから周辺国も対応を迫られます。日本は琉球などとの間に「小天下」を形成する道を選び、中国中心の国際秩序から離脱していくのです。

 読む前は「明だけで1巻使うのか?」と少し疑問にも思っていましたけど、これは面白いですね。社会の大きな変化と、明の皇帝のダイナミックな無軌道ぶりは読み応えがあります。そして、がっちりとした身分制度をもった農本主義の社会が商品経済の浸透とともに弛緩し、崩壊していくというのは日本の江戸時代と同じであり、同時代の日本とのヨコの関係だけではなく、いわばナナメの関係のようなものを感じられたのも面白かったです。


野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書) 7点

 今年、没後100年を迎えるマックス・ウェーバー。言わずとしれた人文・社会科学の巨人ですが、実はその名声は日本において突出していると言えるかもしれません。1984年にドイツでマックス・ウェーバー全集の刊行が始まったとき注文の2/3は日本からだったといいます(はしがきv p)。日本で「近代ヨーロッパ」を理解するための手がかりとしてウェーバーの著作が読み込まれ、「ウェーバー学」とも言われる精緻な研究が積み重ねられてきました。
 しかし、だからこそ「今さらウェーバーに取り組む意義があるのか?」という疑問が出てくるのも当然でしょう。良くも悪くも「「近代ヨーロッパ」に追いつかねば」という風潮は薄れましたし、特定の思想家だけを研究し続けることが評価される時代でもないのかもしれません。

 そこで、本書はウェーバーの生涯と思想を追いつつも、同時にウェーバーとさまざまな思想家や芸術家との間の関係をとり上げていくことで、ウェーバーの思想の可能性と、彼の生きた時代を再構成し、さらには日本における受容を紹介する内容になっています。
 著者は『官僚制批判の論理と心理』(中公新書)や『忖度と官僚制の政治学』などの著作で知られる政治学者で、本書の関心も政治分野に寄っている部分はありますが、宗教社会学にも注目するなど、バランスは取れていると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 政治家の父とユグノーの家系の母―ファミリーヒストリー
第2章 修学時代―法学とパラサイト
第3章 自己分析としてのプロテスタンティズム研究―病気と方法論と資本主義
第4章 戦争と革命―暴力装置とプロパガンダと「官僚の独裁」
第5章 世界宗教を比較する―音楽社会学とオリエンタリズム
第6章 反動の予言―ウェーバーとナチズム
終章 マックス・ウェーバーの日本―「ヨーロッパ近代」のロスト・イン・トランスレーション

 マックス・ウェーバーは1864年にドイツのエアフルトに生まれています。父はビスマルク派の政治家であり、1869年には参事会員(聖職者や貴族に対して市民が送り込んだ代表)としてベルリンに招聘されています。一方、母はユグノーの末裔であり、強い信仰心を持つ人でした。ウェーバーはこの「政治」と「信仰」の緊張関係の中で育っていくことになります。

 1882年、ウェーバーはハイデルベルク大学に進学します。本書によれば、決闘騒ぎなどもおこし、また「ウェーバーが飲むビールの量は尋常ではなかった」(28p)そうです。
 ウェーバーの主専攻は法学でした。社会学のイメージが強いかもしれませんが、社会学はまだ生まれたばかりでウェーバーが創始者の世代に当たります。著者はここで法学の出自に注意を向け「ウェーバーの方法論が「行為」論であることも、法学と関連づけて理解することができるかもしれない」(30p)と述べています。

 法学を学んだウェーバーは、1887年にベルリン地方裁判所第二部で司法官試補になっています。1889年には博士論文「中世商事会社の歴史」でベルリン大学より博士号を取得し、1891年には「ローマ農業史」でベルリン大学の教授資格を取得しています。
 1893年にはマリアンネ・シュニットガーと結婚し、翌94年にはフライブルク大学の国民経済学の教授に就任しました。
 このフライブルク大学の教授就任講演において、ウェーバーは東エルベ地域へのポーランド人労働者の流入を批判しました。安い労働力はユンカー(保守的な地主貴族)にとって都合の良いものでしたが、ウェーバーは国民国家防衛の観点から、これを好ましくないと考えたのです。基本的にウェーバーはナショナリストでした。

 ウェーバーは父と大げんかをして、その直後に父が死ぬという出来事で精神的に落ち込み、病気になります。
 そんな中でウェーバーは社会科学の方法論に取り組み、1904年には「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」を発表しています。ここでは、すべての主観的な価値判断を排除したものではなく、自らの立脚する観点を自覚化することあが求められています。ウェーバーは「価値自由」という言い方をしていますが、ここで著者はウェーバーが後年、「生産性」のようなあたかも客観的にみえる指標を批判していることに注意を向けています。
 そして、次のようにも述べています。

 この意味で、真理は政治の敵である。複数の意見の可能性があるところでのみ、政治的な議論は成り立つ。全員の賛同を得ることは期待できないが、「私はこう思う」と一人称で語る余地のない政治理論は非政治的である。(72p)
 
 ウェーバーの代表作とも言える『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の前半部分が発表されたのも1904年です。
 実はウェーバーはこの本でプロテスタンティズム→資本主義という因果関係は示しておらず、「選択的親和性」という言葉を使って関連づけています。一見するとまったく関係のないプロテスタンティズムと資本主義が思わぬ化学反応を起こしたというイメージです。
 ウェーバーは「ベルーフ(Beruf)」という日本語で「職業」あるいは「使命」といった意味を持つ言葉にこだわりましたが、この「使命」がある種の倫理的な行動様式を生み、これが資本主義を成長させる1つの行動様式を生み出しました。
 著者は、ウェーバーのこの考えを、エーリッヒ・フロムやジョン・ロックさらにはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にまでリンクさせながら論じています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発しますが、この第一次大戦とウェーバーの関わりをとり上げたのが、第4章の「戦争と革命」です。
 戦争が始まると、ウェーバーは志願してハイデルベルクの陸軍野戦病院で働き出すなど、ナショナリストとして行動しています。ただし、それがずっと一貫していたかというとそうではなく、高揚感とともに疑問も感じています。

 ウェーバーは政治における「暴力」にこだわった人物でもありました。実際、第一次世界大戦後のドイツでは政党は義勇兵のようなものを抱えているケースが多くありました。のちに最も有名になるのがナチの突撃隊です。
 ウェーバーは国家に対して「物理的な暴力行使の独占を要求する(そして、しれを実行する)人間共同体である」(105p)という有名な定義を与えましたが、実は近年の政治理論では、この「暴力」がとり上げられることは少なくなっています。
 著者はロールズをとり上げて、まずは理想状態における規範を論じるロールズをウェーバーとは対称的な思想家と位置づけています。ウェーバーは「正義とはなにか」を中心的に論じようとはせず、政治における「闘争」を重視しました。
 ウェーバーの暴力重視の姿勢に関しては批判を行ったのがアーレントで、彼女は「権力」と「暴力」を同一視するようなウェーバー的な考え方に異を唱えました。「ウェーバーは「悪に対して力をもって対抗する」ことを「男子の尊厳」」(110p)と呼んでおり、このあたりも現在では批判を受ける部分でしょう。

 ただ、ウェーバーの面白さは徹頭徹尾、「闘争」にこだわっている点です。ウェーバーは近代的な政党組織を研究したロベルト・ミヘルスの『現代民主主義における政党の社会学』を激賞していますが、これはミヘルスが当時のドイツの中心的政党であった社会民主党(SPD)に入党し、その内部から問題点を明らかにしたからでした。
 SPDは平等や民主化を掲げていましたが、党勢の拡大とともに組織が官僚化し、幹部による非民主的な支配が進んでいました。政治家が組織を動かすのではなく、組織(マシーン)が政治家をリクルートして使っていくような「近代的政党組織」が出来上がっていたのです。
 もちろん、イデオロギー的にもウェーバーとSPDは合わなかったのでしょうが、同時にウェーバーはSPDの一元的な組織を嫌ったのでしょう。

 社会主義に関しても、ウェーバーは「官僚の独裁」という視点から批判を行っています。ウェーバーは社会主義に関する講演で「公経営および目的団体による経営において優位を占めるのは労働者ではなく、いよいよもって、またもっぱらただ、官僚にほかならないのです」(125p)と述べており、社会主義においては政治と行政の緊張関係もなくなっていくと考えました。
 この「官僚」についての部分では、カフカにも触れられています(カフカはおそらくウェーバーの「官僚」という論文を呼んでいた(132p))。

 第一次世界大戦中、ウェーバーは「世界宗教」を対象にした比較宗教社会学に取り組み、「儒教と道教」、「ヒンドゥー教と仏教」、「古代ユダヤ教」といった論文を発表しています。また、『経済と社会』というタイトルで死後出版されることになるプロジェクトにも取り組んでいました。
 
 ウェーバーの使った有名な用語に「脱魔術化」(本書では「魔法が解ける」の訳語が使われている)があります。ウェーバーは近代を、知性主義や合理主義によって「世界の魔法が解ける」(146p)時代と表現しましたが、同時に宗教などが生み出す理念に注目し続けました。
 魔法が解ければそれだけ、人々は生きる意味を求めます。そこで再魔術化が起こるのです。
 ちなみに、ウェーバーを比較宗教学に駆り立てた背景には音楽への関心もあるとのことです。各地の音楽の違いに着目したウェーバーは、その背景に宗教やそれがもたらす世界観の違いを見出していくのです。

 ウェーバーは現世肯定/現世否定、そして現世否定の場合は禁欲/神秘的合一(瞑想)といった基準をつくって宗教を分類しました。世界宗教では現世肯定が儒教、現世否定の禁欲がユダヤ教、キリスト教(特にプロテスタンティズム)、神秘的合一がヒンドゥー教、仏教になります。
 ウェーバーは儒教をピューリタニズムと対比して論じており、儒教は現世への順応を、ピューリタニズムは現世の合理的改造をもたらすと考えています。著者も言うように、これはかなり単純な図式論であり、東洋をネガにしてヨーロッパのアイデンティティを確立するというおなじみの構図でもあります、このような議論はサイードが『オリエンタリズム』で批判したものですが、著者はこの批判を認めつつも、「ありのまま」への居直りにも警鐘を鳴らしています。

 1918年に第一次世界大戦は終結します。1919年夏にウェーバーはミュンヘン大学に招聘されますが、そこでウェーバーの講義を聞いたホルクハイマーは「そのすべてが実に正確で、学問的に厳密で、かつ没価値的なものだったものですから、私達はひどく悲しくなって、家路についたのでした」(181p)との感想を残しています。
 若者にとってウェーバーはある意味で「反動的」でもありました。1919年にウェーバーは「仕事としての政治」の講演を行っていますが、そこでは「信条倫理」と「責任倫理」という2つの概念を持ち出し、政治において結果に対する責任をとることの重要性を指摘しました。この2つの倫理にはそれぞれ問題点がありますが、著者は「1919年冬のミュンヘンに集っていた信条倫理的な若い世代に対して、ウェーバーはあくまでの大人の責任倫理の人として向き合った」(192p)と述べています。

 ウェーバーはドイツ民主党(DDP)の創設に関わり、立候補もしています。当初は比例代表名簿の1位になるはずでしたが、党内の争いに関わらいないでいる間に当選の見込みのない准尉にされていました。政治的なセンスはなかったというべきかもしれません。
 ウェーバーは比例代表制には否定的で、比例代表制は党内の官僚制を強め、政治家のリーダーシップを阻害すると見ていました。ちなみに日本で小選挙区比例代表並立制の導入に関わった佐々木毅はウェーバーのことを意識していたそうです(195p)。
 ウェーバーは強力な大統領を求めており、これがヒトラーと結び付けられることもあります。そこではカール・シュミットがウェーバーのミュンヘン大学の上級ゼミに出席していたことなども指摘されています。著者はウェーバーとナチズムを直接結びつけることはしませんが、「かなり危なっかしいことは、否定できないだろう」(212p)と述べています。

 終章では、死後のウェーバーの受容のされ方、特に日本における受容のされ方を論じています。
 ウェーバーは1920年の5月にスペインかぜが原因と思われる発熱で亡くなりました。ウェーバーの遺稿は妻のマリアンネの努力によって出版されていきますが、ウェーバーは大学から離れている時期が長かったために、いわゆるアカデミズムの中での直系の弟子はいませんでした。このため、ドイツではウェーバーの仕事は次第に忘れ去られていきます。
 そんな中でウェーバーをアメリカに紹介したのがタルコット・パーソンズです。パーソンズは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を英訳し、ここから受け継がれた「道徳の喪失」というモチーフはダニエル・ベルなどに受け継がれていくことになります。

 一方、日本でウェーバー研究の第一人者となったのが大塚久雄です。大塚は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とイギリスの経済史を結びつけ、彼なりの「ヨーロッパ近代」の理想像を描き出しました。ウェーバーは「ヨーロッパ近代」を教えてくれる存在として日本で独自の地位を築きました。
 この読み方はある意味で特殊ではありますが、著者は「「普遍的なもの」がなにかをめぐっては論争があるとしても、「普遍的なもの」を追求する未完の試みがそこにはあった」(249p)と評価しています。

 以上がまとめになりますが、本書の魅力はまとめきれない脇の部分にあり、実際に読めば、それぞれ興味がひかれる部分を見つけることができるのではないかと思います。
 日本では「ウェーバー学」と言われるほどウェーバーに関する研究が進められてきましたが、その厚みがかえって初学者を遠ざけるという面もあるでしょう。その点、本書はウェーバー読解の深みにはまらないで、ウェーバーとさまざまな思想家や芸術家などの関連性を示すことで、ウェーバーを浅瀬に引き上げるような本と言えるのかもしれません。


佐藤猛『百年戦争』(中公新書) 7点

 百年戦争と、そこで活躍したジャンヌ・ダルク。この2つの名前に関してはよく知られているかもしれませんが、その百年戦争の具体的な原因や経過となるとよくわからないという人も多いと思います。自分も高校・大学とヨーロッパ中世史を教わる機会がなかったので、あんまりよくわかっていない部分でした。

 そんな百年戦争に関して、その始まりから終わりまでを主にフランス側からの視点で語ってみせたのがこの本。誰もが思う「なんでこんなに長引いたのか?」という疑問に対して、「英仏の戦争」という側面だけではなく、「フランスの内戦」という側面に目を向けることによって、一定の答えを出すことに成功していると思います。また、百年戦争が中世から近世へと変わっていく1つの画期となっていることも理解できるでしょう。

 さすがにややこしい部分もあるのですが、章ごとに主な登場人物を紹介するなど構成にも工夫があります。


 目次は以下の通り。

序章 中世のイングランドとフランス―一〇六六~一三四〇年

第1章 イングランドの陸海制覇―一三三七~五〇年

第2章 フランス敗戦下の混乱―一三五〇~六〇年

第3章 平和条約をめぐる駆け引き―一三六〇~八〇年

第4章 教会大分裂下の休戦と内戦―一三七八~一四一二年

第5章 英仏連合王国の盛衰―一四一三~三六年

第6章 フランス勝利への戦略―一四三七~五三年

終章 百年戦争は何を遺したのか


 まず、本書の冒頭で示されているのが、「百年戦争はイギリスとフランスの二国の戦争とは考えられていない。むしろ戦争を通じて、国境と愛国心を備えた二つの国家が生まれたとされる」(6p)という考えです。これは近年の研究の中で広まってきた考えですが、本書を読んでいくと、それが納得できると思います。

 そもそもイングランドの王と支配者層はフランスからやって来ていました。1066年のノルマン征服で、フランス・ノルマンディー地方のノルマン家のギョームがウィリアム1世として即位し、1154年にはアンジュー地方のプランタジネット家のアンリがヘンリー2世としてイングランド王になるなど、イングランド王家の出自はフランスにありました。


 このプランタジネット家はフランスではアンジュー家として領地を持っており、特にヘンリー2世は、フランス南西部のアキテーヌ公領(ボルドーがある地域)の女相続人のアリエールと結婚することで、その地を手中に収めており、アンジュー、ノルマンディー、そしてアキテーヌとフランスに広大な領地を持っていました。

 このヘンリー2世ですが、イングランドでは王でありながら、フランスでは貴族としてフランスのカペー王家に臣従するという形をとっていました。領地の広さは関係なく、フランス王の権威は強かったのです。


 この後、マグナカルタで有名なジョン王のときに、イングランドはアンジューとノルマンディーを奪われます。王家の統治の拠点はフランスからイングランドに移り、イングランドの大陸領は縮小していきます。1259年には英仏両王の主従関係がパリ平和条約で確定し、イングランド王はフランス王に対して「優先的臣従礼」をすることが取り決められました。これは家臣はひざまずいて両手を合わせて差し出し、主君がこれを両手で包むというもので、地位の違いをはっきりと示す儀式でした。


 このフランスで1328年にカペー王家が断絶します。シャルル4世が男子を残さずに死去したことから父方の従兄であるヴァロワ伯のフィリップが王となりフィリップ6世となりました。このとき、イングランド王のエドワード3世は15歳でフランスに介入している余裕はありませんでしたが、エドワード3世も母イザベルはフランス王フィリップ4世の娘で、エドワードはフランス王の孫にあたる人物でした。

 そして、当時のフランスとイングランドの間には、領地、臣従関係、亡命者の受け入れ、フランドルの羊毛取り引きなど、さまざまな対立点がありました。そこでエドワードは1340年ヘントにおいてフランス王への即位を宣言するのです。カペー家の断絶から12年も経っており、やや無理のある主張でしたが、これによりエドワードは王に対する反逆者ではなくなり、また、フランス王に対立する勢力に大義名分を与える存在になりました。この王位継承戦争という性格が百年戦争の長期化をもたらしたのです。


 本書で指摘されているように、百年戦争とは英仏王家の戦争であると同時に、フランスにおける内乱です。ちょうど同じ時代におきた日本の南北朝の内乱では、実力的には北朝が優位に立ちながら南朝もしぶとく生き残りました。これは南朝がさまざまな勢力によって利用価値があったからです。同じように百年戦争時のフランスにおいても、「もうひとりのフランス王」はさまざまな勢力にとって都合のいい存在であったことが本書を読むと見えてきます。


 とりあえず1337年から始まったとされる戦争ですが、大規模な戦闘はなかなか起こりませんでした。当時のヨーロッパでは、勝利=正しさの証明、敗北=不正や罪深さに対する神の怒り、という考えがあって、敗北は大きなダメージにつながりました。特に今回は王位を争う戦いでもあり、そう簡単に負けるわけにはいかなかったのです。そこで、戦闘の中心は攻城戦あるいは周辺の略奪となり、戦争は長期化しました。

 ようやく両軍の本格的な戦闘が行われたのが1340年のスロイスの海戦、1346年のクレシーの戦いです。両会戦ともイングランド軍が勝利しますが、特にクレシーの戦いは百年戦争初の陸上での本格的な会戦であり、エドワード黒太子の活躍やイングランド軍の長弓兵の活躍もあって、人数で倍ほどだったフランス軍に圧勝した戦いでした。戦いの序盤はイングランド軍が優位に進みます。


 ただし、スロイスの海戦からクレシーの戦いまで6年の間があいています。これは途中に休戦協定が挟まったりしているからです。「百年〈戦争〉」ではなく「百年〈交渉〉」の時代と言った歴史家もいるそうですが(61p)、この戦争ではたびたび休戦協定が結ばれ、和平交渉が行われています。特に教皇庁は何度も和平交渉の仲介を行っています。

 1348年になるとペストが襲来し、フランスもイングランドも大きな被害を受け、戦闘は一時縮小することになります。

 しかし、休戦協定が結ばれたからといって平和が訪れるわけではありません。遠征中の軍隊は略奪によって糧食などを賄っていましたが、休戦となると兵士たちは戦利品や報酬が手に入らなくなり、より一層略奪を行ったと言われています。また、戦争継続のための課税もたびたび行われました。


 1350年、フランスではジャン2世が即位します。騎士としての資質を備えており「善良王」というあだ名が付いてます。

 ところが、フランス国内は揺れ続けました。自らの処遇に不満を持つナヴァール王シャルルがエドワード3世と提携する構えを見せ、他にもヴァロワ朝に不満を持つ貴族たちがエドワード3世と提携する動きを見せました。

 1356年、英仏両軍の大規模な会戦・ポワティエの戦いが行われます。この戦いも英軍の圧勝に終わり、敗北をさとったジャン2世は自ら捕虜として名乗り出たと言われています。フランス国王が捕囚となってしまったのです。


 フランスでは王太子シャルル(のちのシャルル5世)とナヴァール王シャルルの間でフランス王の座をめぐる争いが生じ、ジャン2世解放のための交渉も進みませんでした。しびれをきらしたエドワード3世は再びフランスのランスに向けて進軍しますが、王太子は十分な兵を集められず、大きな戦闘は起こりませんでした。しかし、これがかえって英軍を苦しめます。戦利品が手に入らず食糧も尽きていき、結果的にフランスの「不戦」作戦が効いたのです。


 こうして両軍に厭戦気分が広がった1360年にカレー条約が結ばれます。1・アキテーヌの独立、2・イングランド王とフランス王の主従関係の解消、3・300万金エキュのジャン2世の身代金の支払い、4・両国が相手を牽制するために結んでいた同盟関係の破棄、が主な合意内容となります。教皇という保証人のもと、「永久に遵守されるべき」平和を樹立するための条約でした。

 エドワード3世はフランス王位をあきらめましたが、内容的にはイングランド側の長年の要求を認めるものとなっており、両国間の問題はほぼ解消したようにも見えます。


 ところが、戦争は終わりませんでした。長年、戦闘に従事してきた兵士たちは、戦争が終われば食えなくなるということでより一層略奪行為を行いました。さらには盗賊団を結成するものも現れます。さらにジャン2世がイギリスで人質となっていた次男のルイの行動に怒って渡英し、そのまま客死してしまうという出来事も起こります。

 エドワード3世は1362年に息子のエドワード黒太子にアキテーヌ公国を授封しますが、同年、ピレネー山脈を挟んだイベリア半島でカスティーリャ継承戦争が起こります。この戦争はそれぞれにイングランドとフランスが付き、代理戦争の様相を呈しました。

 この戦争を戦うためにエドワード黒太子はアキテーヌで新たな課税を行いますが、これに反発したのがエドワード黒太子に臣従礼を行っていたガスコーニュの領主たちです。彼らはこの問題をパリ高等法院に持ち込みます。

 当時、平和条約は結ばれていましたが、城塞や領地の引き渡し、権利放棄文書の交換は済んでいませんでした。そこでシャルル5世はこの訴えを受理します。そして1369年には戦闘が再開されるのです。


 1370年からフランス側の攻勢が強まり、イングランド側の領地を次々と征服していきました。フランスの大規模な会戦を避ける不戦作戦が効果をあげたのです。同時にシャルル5世は諸侯の領地を結婚などを通じて統制していきました。さらにシャルル5世は神聖ローマ皇帝カール4世の支持も取り付けます。

 1370年代後半になると、百年戦争にも世代交代の波が押し寄せます。1376年にエドワード黒太子、77年にはエドワード3世が亡くなります。さらに1380年にはシャルル5世、カール4世が亡くなります。特にシャルル5世の死は勢いづいていたフランスにとってはブレーキとなりました。

 

 イギリスではエドワード3世の孫にあたるリチャード2世が即位しましたが即位時はわずか10歳で、しかも後に廃位されています。一方のフランス王に即位したシャルル6世も即位時は11歳で、政治を動かしたのはおじたちでした。そして、時が経つとおじであるブルゴーニュ公フィリップと王の弟であるオルレアン公ルイが争うことになります。

 そして、ブルゴーニュ公フィリップの跡を継いだジャンがルイを殺害することによって対立は決定的になります。ブルゴーニュ派とルイの遺児オルレアン公シャルルを押し立てるアルマニャック派の内戦が始まったのです。

 両派がイングランドに援軍を求めたことによって百年戦争は再燃します。イングランド王ヘンリー4世はアルマニャック派の援軍要請を受け入れて、イングランド軍をフランスに上陸させるのです。


 1413年、ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリー5世が即位します。ヘンリー5世は、1415年にフランスに遠征するとアザンクールの戦いでフランス軍を打ち破りました。

 一方のフランスでは王太子のシャルル(のちのシャルル7世)がブルゴーニュ公ジャンを殺害する事件が起こります。ブルゴーニュ派はヘンリー5世に助けを求め、病身のシャルル6世とヘンリー5世との間でトロワ平和条約が結ばれることになります。

 内容は、1・ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの結婚、2・シャルル6世存命中はヘンリー5世がフランスの摂政となり、死後はヘンリー5世とその相続人がフランスを統治、3・英仏連合王国の成立、4・シャルル6世の地位と居所の保証、といったものでした。


 一見するとヘンリー5世にとっては満額回答のようにも思われますが、イングランド議会からは王がパリに滞在することでイングランドがフランスに従属するようになるとの懸念が出ていましたし、アルマニャック派は抵抗を続けていました。

 そして1422年はシャルル6世よりもヘンリー5世が先に亡くなってしまいます。跡を継いだのは生後9ヶ月弱のヘンリー6世、このヘンリー6世はシャルル6世の死によってアンリ2世としてフランス王にもなりますが、このときもわずか生後11ヶ月でした。

 アルマニャック派の王太子シャルルはシャルル7世として即位を宣言し、戦いを仕掛けますが、戦闘はイングランド軍の有利に進みました。


 そこに登場したのがジャンヌ・ダルクです。ただし、ジャンヌ・ダルクの活躍を期待してページをめくると、そのあっさりとした退場に拍子抜けするかもしれません。ジャンヌ・ダルクが本格的に登場するのは194pですが200pでは早くも異端審問で処刑されています。

 では、ジャンヌ・ダルクが重要ではなかったかというと、そうではありません。ジャンヌ・ダルクの重要性はむしろ事後的に見いだされていくのです。

 ジャンヌ・ダルクの活躍によってオルレアンが解放されましたが、その後もイングランドによるフランス統治はしばらく続きます。しかし、人々はイングランド統治に反発しはじめ、ブルゴーニュ公との関係も悪化します。

 1435年にはアラス平和条約が結ばれ、英仏間で領土などの取り決めが行われますが、ここで同時にシャルル7世とブルゴーニュ公の間で講和が成立します。ついにフランス側が統一を取り戻したのです。シャルル7世は1436年にパリの奪還に成功します。


 一方、イングランドでは占領と防衛の経済的な負担もあって次第に厭戦気分が高まります。1437年からヘンリー6世は親政を開始しますが、周囲は和平派が中心でした。

 いくどかの和平交渉を経て、1449年に戦闘が再開されますが、今度はフランスが優勢でイングランド領を奪還していきます。1450年にはジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われますが、これはシャルル7世が異端の者によって助けられたということを払拭するためでした。この年にはノルマンディーが完全に奪回され、シャルル7世は解放記念日を制定し、今流に言えば、ナショナリズムを鼓舞しました。そしてジャンヌ・ダルクもその重要なパーツとなったのです。

 1453年にはボルドーが完全に陥落。これをもって百年戦争は集結したと言われます。


 実は戦闘が集結したわけではないのですが、イングランドでは王位をめぐってランカスター家とヨーク家の薔薇戦争が始まり、互いにフランスに援軍を求めました。一方、ヨーロッパの対立の主軸はフランス対イングランドから、フランスのヴァロワ家とハプスブルク家の対立へと移っていきます。

 戦争の終わりがいつだったかということには諸説ありますが、著者はボルドー陥落の翌年に出された王令に注目し、ボルドー陥落によってフランスの統一が実現した=戦争が終結した、との見方をとっています。

 両王家の戦いだった戦争は、戦闘や課税を通して「臣民」や「国家」という概念を植え付け、そしてフランスの統一を生み出しました。「大陸から英軍が撤退する頃、戦争は少なくともフランスにおいては、「フランス人」と「イングランド人」の戦争となっていた」(268p)のです。


 やはり戦争の経過は複雑でけっこう端折ったつもりでも長いまとめになってしまいました。フランスの諸侯の動きなどは頭に入ってきにくい面もあるのですが、本書では、フランスにおける二重の権威から統一国家へという大きな絵が提示されているために、わけがわからなくなることはないですし、百年戦争の意義というものも理解できるようになっています。

 本を読みながら、もう少しイングランド側の事情も知りたいと思った部分もありましたが、おそらくそれをやると本当にわけがわかなくなるでしょうから、構成としてはこれで良かったのでしょう。複雑な戦争をうまくまとめてみせた1冊です。

 

 


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