第1章 死人が立候補した都知事選第2章 267人もの立候補者が出た村長選第3章 選挙前に人口が増える「架空転入」の村第4章 投票所が全焼、水没、連絡が取れない……第5章 選挙権が剥奪されていた島第6章 書類送検、辞職で議員がゼロに第7章 450万円で立候補を取りやめさせる第8章 無言の政見放送が流れた参院選第9章 選挙で荒稼ぎする方法
2020年06月
第1章 白人ナショナリストの論理と心理第2章 デヴィッド・デュークとオルトライト第3章 白人ナショナリズムの位相第4章 白人ナショナリズムをめぐる論争第5章 白人ナショナリズムとグローバル・セキュリティ
第1章 明初体制の成立第2章 明帝国の国際環境第3章 動揺する中華第4章 北虜南倭の世紀第5章 爛熟と衰勢の明帝国第6章 明から清へ
明初の専制主義の高まりと絶対帝政は決して朱元璋一人の所為の結果ではない。それを支持する空気が当時はたしかにあった。ただ、朱元璋の政策は社会の予想をはるかに超えて、あまりに苛烈かつ酷薄であった。元末の秩序崩壊を経験した中国社会は、狂気と信念の非人間的な明初という時代に生み出してしまったわけだ。(32p)
第1章 政治家の父とユグノーの家系の母―ファミリーヒストリー第2章 修学時代―法学とパラサイト第3章 自己分析としてのプロテスタンティズム研究―病気と方法論と資本主義第4章 戦争と革命―暴力装置とプロパガンダと「官僚の独裁」第5章 世界宗教を比較する―音楽社会学とオリエンタリズム第6章 反動の予言―ウェーバーとナチズム終章 マックス・ウェーバーの日本―「ヨーロッパ近代」のロスト・イン・トランスレーション
この意味で、真理は政治の敵である。複数の意見の可能性があるところでのみ、政治的な議論は成り立つ。全員の賛同を得ることは期待できないが、「私はこう思う」と一人称で語る余地のない政治理論は非政治的である。(72p)
百年戦争と、そこで活躍したジャンヌ・ダルク。この2つの名前に関してはよく知られているかもしれませんが、その百年戦争の具体的な原因や経過となるとよくわからないという人も多いと思います。自分も高校・大学とヨーロッパ中世史を教わる機会がなかったので、あんまりよくわかっていない部分でした。
そんな百年戦争に関して、その始まりから終わりまでを主にフランス側からの視点で語ってみせたのがこの本。誰もが思う「なんでこんなに長引いたのか?」という疑問に対して、「英仏の戦争」という側面だけではなく、「フランスの内戦」という側面に目を向けることによって、一定の答えを出すことに成功していると思います。また、百年戦争が中世から近世へと変わっていく1つの画期となっていることも理解できるでしょう。
さすがにややこしい部分もあるのですが、章ごとに主な登場人物を紹介するなど構成にも工夫があります。
目次は以下の通り。
序章 中世のイングランドとフランス―一〇六六~一三四〇年
第1章 イングランドの陸海制覇―一三三七~五〇年
第2章 フランス敗戦下の混乱―一三五〇~六〇年
第3章 平和条約をめぐる駆け引き―一三六〇~八〇年
第4章 教会大分裂下の休戦と内戦―一三七八~一四一二年
第5章 英仏連合王国の盛衰―一四一三~三六年
第6章 フランス勝利への戦略―一四三七~五三年
終章 百年戦争は何を遺したのか
まず、本書の冒頭で示されているのが、「百年戦争はイギリスとフランスの二国の戦争とは考えられていない。むしろ戦争を通じて、国境と愛国心を備えた二つの国家が生まれたとされる」(6p)という考えです。これは近年の研究の中で広まってきた考えですが、本書を読んでいくと、それが納得できると思います。
そもそもイングランドの王と支配者層はフランスからやって来ていました。1066年のノルマン征服で、フランス・ノルマンディー地方のノルマン家のギョームがウィリアム1世として即位し、1154年にはアンジュー地方のプランタジネット家のアンリがヘンリー2世としてイングランド王になるなど、イングランド王家の出自はフランスにありました。
このプランタジネット家はフランスではアンジュー家として領地を持っており、特にヘンリー2世は、フランス南西部のアキテーヌ公領(ボルドーがある地域)の女相続人のアリエールと結婚することで、その地を手中に収めており、アンジュー、ノルマンディー、そしてアキテーヌとフランスに広大な領地を持っていました。
このヘンリー2世ですが、イングランドでは王でありながら、フランスでは貴族としてフランスのカペー王家に臣従するという形をとっていました。領地の広さは関係なく、フランス王の権威は強かったのです。
この後、マグナカルタで有名なジョン王のときに、イングランドはアンジューとノルマンディーを奪われます。王家の統治の拠点はフランスからイングランドに移り、イングランドの大陸領は縮小していきます。1259年には英仏両王の主従関係がパリ平和条約で確定し、イングランド王はフランス王に対して「優先的臣従礼」をすることが取り決められました。これは家臣はひざまずいて両手を合わせて差し出し、主君がこれを両手で包むというもので、地位の違いをはっきりと示す儀式でした。
このフランスで1328年にカペー王家が断絶します。シャルル4世が男子を残さずに死去したことから父方の従兄であるヴァロワ伯のフィリップが王となりフィリップ6世となりました。このとき、イングランド王のエドワード3世は15歳でフランスに介入している余裕はありませんでしたが、エドワード3世も母イザベルはフランス王フィリップ4世の娘で、エドワードはフランス王の孫にあたる人物でした。
そして、当時のフランスとイングランドの間には、領地、臣従関係、亡命者の受け入れ、フランドルの羊毛取り引きなど、さまざまな対立点がありました。そこでエドワードは1340年ヘントにおいてフランス王への即位を宣言するのです。カペー家の断絶から12年も経っており、やや無理のある主張でしたが、これによりエドワードは王に対する反逆者ではなくなり、また、フランス王に対立する勢力に大義名分を与える存在になりました。この王位継承戦争という性格が百年戦争の長期化をもたらしたのです。
本書で指摘されているように、百年戦争とは英仏王家の戦争であると同時に、フランスにおける内乱です。ちょうど同じ時代におきた日本の南北朝の内乱では、実力的には北朝が優位に立ちながら南朝もしぶとく生き残りました。これは南朝がさまざまな勢力によって利用価値があったからです。同じように百年戦争時のフランスにおいても、「もうひとりのフランス王」はさまざまな勢力にとって都合のいい存在であったことが本書を読むと見えてきます。
とりあえず1337年から始まったとされる戦争ですが、大規模な戦闘はなかなか起こりませんでした。当時のヨーロッパでは、勝利=正しさの証明、敗北=不正や罪深さに対する神の怒り、という考えがあって、敗北は大きなダメージにつながりました。特に今回は王位を争う戦いでもあり、そう簡単に負けるわけにはいかなかったのです。そこで、戦闘の中心は攻城戦あるいは周辺の略奪となり、戦争は長期化しました。
ようやく両軍の本格的な戦闘が行われたのが1340年のスロイスの海戦、1346年のクレシーの戦いです。両会戦ともイングランド軍が勝利しますが、特にクレシーの戦いは百年戦争初の陸上での本格的な会戦であり、エドワード黒太子の活躍やイングランド軍の長弓兵の活躍もあって、人数で倍ほどだったフランス軍に圧勝した戦いでした。戦いの序盤はイングランド軍が優位に進みます。
ただし、スロイスの海戦からクレシーの戦いまで6年の間があいています。これは途中に休戦協定が挟まったりしているからです。「百年〈戦争〉」ではなく「百年〈交渉〉」の時代と言った歴史家もいるそうですが(61p)、この戦争ではたびたび休戦協定が結ばれ、和平交渉が行われています。特に教皇庁は何度も和平交渉の仲介を行っています。
1348年になるとペストが襲来し、フランスもイングランドも大きな被害を受け、戦闘は一時縮小することになります。
しかし、休戦協定が結ばれたからといって平和が訪れるわけではありません。遠征中の軍隊は略奪によって糧食などを賄っていましたが、休戦となると兵士たちは戦利品や報酬が手に入らなくなり、より一層略奪を行ったと言われています。また、戦争継続のための課税もたびたび行われました。
1350年、フランスではジャン2世が即位します。騎士としての資質を備えており「善良王」というあだ名が付いてます。
ところが、フランス国内は揺れ続けました。自らの処遇に不満を持つナヴァール王シャルルがエドワード3世と提携する構えを見せ、他にもヴァロワ朝に不満を持つ貴族たちがエドワード3世と提携する動きを見せました。
1356年、英仏両軍の大規模な会戦・ポワティエの戦いが行われます。この戦いも英軍の圧勝に終わり、敗北をさとったジャン2世は自ら捕虜として名乗り出たと言われています。フランス国王が捕囚となってしまったのです。
フランスでは王太子シャルル(のちのシャルル5世)とナヴァール王シャルルの間でフランス王の座をめぐる争いが生じ、ジャン2世解放のための交渉も進みませんでした。しびれをきらしたエドワード3世は再びフランスのランスに向けて進軍しますが、王太子は十分な兵を集められず、大きな戦闘は起こりませんでした。しかし、これがかえって英軍を苦しめます。戦利品が手に入らず食糧も尽きていき、結果的にフランスの「不戦」作戦が効いたのです。
こうして両軍に厭戦気分が広がった1360年にカレー条約が結ばれます。1・アキテーヌの独立、2・イングランド王とフランス王の主従関係の解消、3・300万金エキュのジャン2世の身代金の支払い、4・両国が相手を牽制するために結んでいた同盟関係の破棄、が主な合意内容となります。教皇という保証人のもと、「永久に遵守されるべき」平和を樹立するための条約でした。
エドワード3世はフランス王位をあきらめましたが、内容的にはイングランド側の長年の要求を認めるものとなっており、両国間の問題はほぼ解消したようにも見えます。
ところが、戦争は終わりませんでした。長年、戦闘に従事してきた兵士たちは、戦争が終われば食えなくなるということでより一層略奪行為を行いました。さらには盗賊団を結成するものも現れます。さらにジャン2世がイギリスで人質となっていた次男のルイの行動に怒って渡英し、そのまま客死してしまうという出来事も起こります。
エドワード3世は1362年に息子のエドワード黒太子にアキテーヌ公国を授封しますが、同年、ピレネー山脈を挟んだイベリア半島でカスティーリャ継承戦争が起こります。この戦争はそれぞれにイングランドとフランスが付き、代理戦争の様相を呈しました。
この戦争を戦うためにエドワード黒太子はアキテーヌで新たな課税を行いますが、これに反発したのがエドワード黒太子に臣従礼を行っていたガスコーニュの領主たちです。彼らはこの問題をパリ高等法院に持ち込みます。
当時、平和条約は結ばれていましたが、城塞や領地の引き渡し、権利放棄文書の交換は済んでいませんでした。そこでシャルル5世はこの訴えを受理します。そして1369年には戦闘が再開されるのです。
1370年からフランス側の攻勢が強まり、イングランド側の領地を次々と征服していきました。フランスの大規模な会戦を避ける不戦作戦が効果をあげたのです。同時にシャルル5世は諸侯の領地を結婚などを通じて統制していきました。さらにシャルル5世は神聖ローマ皇帝カール4世の支持も取り付けます。
1370年代後半になると、百年戦争にも世代交代の波が押し寄せます。1376年にエドワード黒太子、77年にはエドワード3世が亡くなります。さらに1380年にはシャルル5世、カール4世が亡くなります。特にシャルル5世の死は勢いづいていたフランスにとってはブレーキとなりました。
イギリスではエドワード3世の孫にあたるリチャード2世が即位しましたが即位時はわずか10歳で、しかも後に廃位されています。一方のフランス王に即位したシャルル6世も即位時は11歳で、政治を動かしたのはおじたちでした。そして、時が経つとおじであるブルゴーニュ公フィリップと王の弟であるオルレアン公ルイが争うことになります。
そして、ブルゴーニュ公フィリップの跡を継いだジャンがルイを殺害することによって対立は決定的になります。ブルゴーニュ派とルイの遺児オルレアン公シャルルを押し立てるアルマニャック派の内戦が始まったのです。
両派がイングランドに援軍を求めたことによって百年戦争は再燃します。イングランド王ヘンリー4世はアルマニャック派の援軍要請を受け入れて、イングランド軍をフランスに上陸させるのです。
1413年、ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリー5世が即位します。ヘンリー5世は、1415年にフランスに遠征するとアザンクールの戦いでフランス軍を打ち破りました。
一方のフランスでは王太子のシャルル(のちのシャルル7世)がブルゴーニュ公ジャンを殺害する事件が起こります。ブルゴーニュ派はヘンリー5世に助けを求め、病身のシャルル6世とヘンリー5世との間でトロワ平和条約が結ばれることになります。
内容は、1・ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの結婚、2・シャルル6世存命中はヘンリー5世がフランスの摂政となり、死後はヘンリー5世とその相続人がフランスを統治、3・英仏連合王国の成立、4・シャルル6世の地位と居所の保証、といったものでした。
一見するとヘンリー5世にとっては満額回答のようにも思われますが、イングランド議会からは王がパリに滞在することでイングランドがフランスに従属するようになるとの懸念が出ていましたし、アルマニャック派は抵抗を続けていました。
そして1422年はシャルル6世よりもヘンリー5世が先に亡くなってしまいます。跡を継いだのは生後9ヶ月弱のヘンリー6世、このヘンリー6世はシャルル6世の死によってアンリ2世としてフランス王にもなりますが、このときもわずか生後11ヶ月でした。
アルマニャック派の王太子シャルルはシャルル7世として即位を宣言し、戦いを仕掛けますが、戦闘はイングランド軍の有利に進みました。
そこに登場したのがジャンヌ・ダルクです。ただし、ジャンヌ・ダルクの活躍を期待してページをめくると、そのあっさりとした退場に拍子抜けするかもしれません。ジャンヌ・ダルクが本格的に登場するのは194pですが200pでは早くも異端審問で処刑されています。
では、ジャンヌ・ダルクが重要ではなかったかというと、そうではありません。ジャンヌ・ダルクの重要性はむしろ事後的に見いだされていくのです。
ジャンヌ・ダルクの活躍によってオルレアンが解放されましたが、その後もイングランドによるフランス統治はしばらく続きます。しかし、人々はイングランド統治に反発しはじめ、ブルゴーニュ公との関係も悪化します。
1435年にはアラス平和条約が結ばれ、英仏間で領土などの取り決めが行われますが、ここで同時にシャルル7世とブルゴーニュ公の間で講和が成立します。ついにフランス側が統一を取り戻したのです。シャルル7世は1436年にパリの奪還に成功します。
一方、イングランドでは占領と防衛の経済的な負担もあって次第に厭戦気分が高まります。1437年からヘンリー6世は親政を開始しますが、周囲は和平派が中心でした。
いくどかの和平交渉を経て、1449年に戦闘が再開されますが、今度はフランスが優勢でイングランド領を奪還していきます。1450年にはジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われますが、これはシャルル7世が異端の者によって助けられたということを払拭するためでした。この年にはノルマンディーが完全に奪回され、シャルル7世は解放記念日を制定し、今流に言えば、ナショナリズムを鼓舞しました。そしてジャンヌ・ダルクもその重要なパーツとなったのです。
1453年にはボルドーが完全に陥落。これをもって百年戦争は集結したと言われます。
実は戦闘が集結したわけではないのですが、イングランドでは王位をめぐってランカスター家とヨーク家の薔薇戦争が始まり、互いにフランスに援軍を求めました。一方、ヨーロッパの対立の主軸はフランス対イングランドから、フランスのヴァロワ家とハプスブルク家の対立へと移っていきます。
戦争の終わりがいつだったかということには諸説ありますが、著者はボルドー陥落の翌年に出された王令に注目し、ボルドー陥落によってフランスの統一が実現した=戦争が終結した、との見方をとっています。
両王家の戦いだった戦争は、戦闘や課税を通して「臣民」や「国家」という概念を植え付け、そしてフランスの統一を生み出しました。「大陸から英軍が撤退する頃、戦争は少なくともフランスにおいては、「フランス人」と「イングランド人」の戦争となっていた」(268p)のです。
やはり戦争の経過は複雑でけっこう端折ったつもりでも長いまとめになってしまいました。フランスの諸侯の動きなどは頭に入ってきにくい面もあるのですが、本書では、フランスにおける二重の権威から統一国家へという大きな絵が提示されているために、わけがわからなくなることはないですし、百年戦争の意義というものも理解できるようになっています。
本を読みながら、もう少しイングランド側の事情も知りたいと思った部分もありましたが、おそらくそれをやると本当にわけがわかなくなるでしょうから、構成としてはこれで良かったのでしょう。複雑な戦争をうまくまとめてみせた1冊です。
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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