借金を帳消しにする徳政令に関しては歴史の授業などで聞いたことがあると思いますし、室町時代には民衆が徳政を求める徳政一揆をおこしたということを知っている人も多いでしょう。
民衆が実力で持って勝ち取った徳政ですが、実は16世紀になると人々の間で好ましくないものと認識されるようになってきます。
この徳政に対する認識の変化がどのようなもので、何によってもたらされたのかを丁寧に解き明かそうとしたのがこの本です。室町時代の社会構造の変化を辿るとともに、「借りたお金は返すべきだ」という共通意識がどのように芽生えていったのかを示そうとしています。
わかりやすく説明するために現代社会に置き換えた喩えなども多用してあって(個人的にはもう少し簡潔でもよいかと思いましたが)、読みやすいと思いますし、最後には内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という有名な話に反論しつつ、歴史学の意義を訴えるなど意欲的な内容となっています。
目次は以下の通り。
中世において「借金の帳消し」が「徳政」として認識されており、多くの人が借金の帳消しにはそれなりの正当性があると考えられていました。特に正長元年(1428)の徳政一揆以降、15世紀は徳政一揆が頻発しています。
こうした徳政令に対して、笠松宏至は「元の持ち主に返す=あるべきところに返す」という古代~中世の人々の意識が背景にあると考え、勝俣鎮夫は古代から中世における永代売買契約観念の薄さ、耕作者の立場といったものを指摘し、その正当性を説明しようとしました。
しかし、近年の研究によると、中世において土地所有と耕作者という立場のつながりは強くはなかったといいますし、必ずしも土地売買契約が未成熟とは言えないとされています。
そこで、著者はそもそも徳政令が求められた時代背景と、それが失われた要因を探ろうとします。
16世紀の中葉に成立した、歴史上の故事逸話を集めた『塵塚物語』という史料がありますが、そこには「中古天下徳政という、ふしぎの法をたてて、我がままをふるまいきれたり」という一文があります(41p)。このころには徳政令は「ふしぎの法」と認識されており、「我がまま」を後押ししたと考えられているのです。
1428(正長元年)、いわゆる正長の徳政一揆が起きます。はじめに起こったのは近江国で、4代将軍足利義持が亡くなり将軍の代替わりにあたる時期でした。
後世の人間はこの一揆が歴史に残るほど大規模なものになったことを知っていますが、当初、室町幕府はこの一揆に迅速に対応しており、一度は沈静化しました。
しかし、最初の蜂起から一月ほど後に近江の馬借が下京に攻め込むと、大和・河内・播磨などでも馬借を中心とする一揆が盛んになり、各地の郷などで独自に徳政令を出す動きが起こります(教科書にも載っている神戸四ヶ郷の碑文もこうしたものと考えられる(66-68p)。
さらに幕府が徳政禁令を出していたにもかかわらず、大和の国では大和を支配していた興福寺が徳政令を出すことに踏み切り、徳政の動きが広がりました。
ここで注目すべきは徳政令といっても各主体がばらばらに法令を出していたことです。また、中世には借りたお金を返さなければならないという法がある一方で、利子を元本以上払っていれば条件つきでお金を返さなくてもよいうという法も存在していたといいます(71p)。
中世にはさまざまな法が併存しており、あちらがある法を持ち出して正当性を主張すれば、こちらは別の方で対抗するというシーソーゲームのような事が行われていました。
一揆側の主張の根拠のようなものはこれでわかりましたが、では、なぜこの時期に大規模な徳政一揆が起こったのでしょうか?
中世の金融業者は、12~13世紀頃までは借上、13世紀以降は土倉と呼ばれています。中世の利子は月に5%ほどで年利にすると60~65%くらいになります。ずいぶんと高利に思えますが、これは古代の出挙以来の利子率の設定で、春に種籾を借り、秋に返すことを想定していました。
中世の金融業者の多くは、荘園の代官請負業者で、荘園経営のなかで行われていた副業のようなものでした。京の借上や土倉業者の多くは延暦寺の支配下にありましたが、これは大規模な荘園領主である延暦寺の下級僧侶が荘園の管理にあたっていたからです。
1221年の承久の乱によって東国の武士たちが西国の荘園を所有するようになると、彼らの多くはその経営を代官たちに任せました。借上たちは今まで以上の規模の荘園を管理するようになり、年貢などを保管するために蔵を築きます。そうして彼らは土倉と呼ばれるようになったのです。
14世紀になると、室町幕府や守護から課せられる役負担が増大し、地域の在地領主たちが疲弊していきます。彼らは地域において小規模な資金を融通する存在でしたが、それができなくなっていったのです。さらに15世紀初頭に飢饉や洪水が頻発したことにより、ますますその経営は苦しくなり、京の土倉に依存する体制ができあがりました。そして、土倉たちは土倉沙汰人として独立し、存在感を示すようになていきます。彼らは祠堂銭なども受け入れて、さらに資金量を拡大させていきました。
この土倉に目をつけたのが室町幕府です。室町幕府の財政基盤は当初、足利家の荘園と守護に課す守護役くらいしかありませんでした。そこで3代将軍義満は遣明船の派遣と土倉酒屋役によって新たな財源を確保しました。特に遣明船による利益は莫大なもので、一回の派遣で現在の価値に換算し200億円ほどの利益があったといいます(135ー136p)。
ところが、4代将軍義持は遣明船を中止しました。そこでクローズアップされたのが土倉酒屋役です。室町幕府はその財源を京の土倉に求めるようになり、守護在京制と相俟って幕府の地方への関心は失われていくのです。
こうした中で、疲弊した地方の人びとが起こしたのが正長の徳政一揆でした。
この徳政一揆の動きは嘉吉元年(1441)の嘉吉の徳政一揆で大きな転機を迎えます。ついに幕府が徳政令を出したのです。
嘉吉の徳政一揆は6代将軍義教が暗殺された嘉吉の変の後に起こりましたが、幕府の軍勢は義教を暗殺した赤松満祐の討伐に向かっており、京の守りは手薄でした。そんな中、数万人規模の一揆勢が京に押し寄せ、幕府は為す術がなかったのです。
この徳政令は「徳政之大法」と呼ばれ、各地の在地法、慣習法、あるいは公家法や寺社法をこえてあまねく適用されるべき法として認識されるようになっていきました。
中世の法はほとんどが一部の法曹官僚に知られるのみのものでしたが、この徳政令は広く社会に知られるようになっていったのです。
さらにこの流れをあと押したのが、1425年に幕府が借財論争の裁判を受け付けると宣言したことです(163p)。
荘園領内での相次ぐ借財論争を受けて幕府もこれに関与する姿勢を見せ、雑務沙汰と呼ばれる民事訴訟制度の整備を行いました。さらに荘園住人の武家への被官化が進んだことによって、武家と地下人の統合が進んだことも、この流れを後押ししました。
この幕府による民事訴訟制度の整備は、貸す側の土倉にとっても債権回収を容易にするという点で利点があったと考えられます。
こうした中で、幕府は1454年(享徳三年)の徳政一揆を受けて分一徳政令という徳政令を出します。これは徳政を認める代わりに債務の10分の1を幕府に納めるというもので、翌年には債権者にも対象が拡大されました(納める金額は20%になった)。つまり、早いもの勝ちで、債務者がお金を納めれば徳政、債権者がお金を納めれば借金の帳消しとなったのです。
さすがに無茶苦茶な法のように思えますが、意外にも当時の人はこれを受け入れました。
幕府などから文書を発給してもらう場合、1割程度の手数料を支払うことは一般的であり、分一徳政令もそうしたものとして理解されたようなのです。
この制度の運用に関わったのが室町時代中期の幕府を支えた伊勢貞親であり、彼を中心とした官僚たちがこうしたしくみや民事訴訟を取り仕切っていました。
こうした徳政の「制度化」ともいえる動きの中で、徳政によって債務から身軽になった在地領主たちが再び土地集積の動きを見せます。これらの在地領主たちは債権者となり、徳政一揆を求めるグループからは離脱していきますが、一方で徳政一揆に加わるようになったのが牢人でした。
武家の被官となった荘園の住人たちが牢人として京の町に集まり、また、守護のお家騒動が起こるたびに、主を失った牢人たちが京に流れ込みました。そして、彼らが主導する徳政一揆も起こるようになったのです。
さらに応仁の乱の勃発直前の1446年(文正元年)の徳政令は強盗事件を発端として出されています。応仁の乱を前に各国から軍勢が続々と上洛しますが、滞在が長引くにつれ困窮し、その一部は酒屋や土倉を襲撃しました。
幕府や守護は本来ならばこれらの行為を断罪しなければなりませんが、それでは自らの軍事力が低下していしまいます。そこで、質者の強奪を債務者による債務破棄に見立てて徳政令を出しました。略奪を正当化する理屈として徳政令が利用されるようになったのです。
ここに来て徳政令は一般の民衆からも嫌われるようになってきます。
さらに応仁の乱による混乱は荘園経営を難しくし、土倉の後ろ盾となっていた寺社の権威も低下させました。また、頻発する徳政令は割符や頼母子講といった中世社会の金融の仕組みも脅かしました。
応仁の乱後の室町幕府の相次ぐ将軍の交代(復権も含む)も、そのたびに債権を保証してもらわないといけない状態を生みました。徳政令はそれまでの地域的な結びつきや身内同士の人間関係も脅かすものとなっていったのです。
こうして、「身分や階層を越えてともに一揆を結ぶ社会から、身分や階層ごとにときに反発しあい、分断される社会へと大きく変質していった」(275p)のです。
終章で著者は、戦国時代になると、それまでの自然災害に対して徳政を求める人々に代わって、自然災害に直接向き合ってそれを克服しようとする「新しい人」が登場したと述べます。
そして、著者は内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という話について、応仁の乱に画期を見る味方には賛同しつつ、応仁の乱以前の社会を知ってこそ、その危機の大きさと予定調和的ではない変化の様相が見えると指摘するのです。
ここでは徳政令をめぐる大きな変化に絞って本書の内容を見ていきましたが、この本では資料を用いてさまざまな具体的な動きを紹介しています(大河ドラマ「おんな城主直虎」に出てきた井伊家の徳政令騒ぎも紹介している)。
また、室町幕府のしくみやその統治構造の変化などについても随時言及されており、室町幕府を理解するためにも勉強になる本だと思います。
最初にも述べたように、叙述に関してはややわかりやすくしようとしすぎている感もなくはないですが、多くの人にとっては理解のしやすさにつながっているのではないかと思います。
徳政令をめぐる謎を解いていく様子は読んでいて面白いですし、同時に徳政令という題材を通じて、中世社会の実態や応仁の乱前後の変化への理解も深まるという一石二鳥(三鳥?)の本になっています。

民衆が実力で持って勝ち取った徳政ですが、実は16世紀になると人々の間で好ましくないものと認識されるようになってきます。
この徳政に対する認識の変化がどのようなもので、何によってもたらされたのかを丁寧に解き明かそうとしたのがこの本です。室町時代の社会構造の変化を辿るとともに、「借りたお金は返すべきだ」という共通意識がどのように芽生えていったのかを示そうとしています。
わかりやすく説明するために現代社会に置き換えた喩えなども多用してあって(個人的にはもう少し簡潔でもよいかと思いましたが)、読みやすいと思いますし、最後には内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という有名な話に反論しつつ、歴史学の意義を訴えるなど意欲的な内容となっています。
目次は以下の通り。
第一章 中世とは何か 債務破棄が徳政と呼ばれた時代
第二章 正長元年の徳政一揆、室町幕府を飲み込む
第三章 法と法とのシーソー・ゲーム
第四章 室町の格差社会
第五章 過剰負担社会の誕生
第六章 「大法」に飲み込まれる人びと
第七章 接触する法と社会
第八章 「裁定者」の登場
第九章 分断される一揆
第十章 徳政に侵食される社会
第十一章 貸借・土地売買と徳政
第十二章 シーソー・ゲームの終わり
終章 「新しい人」の登場 文明の転換期としての戦国時代
中世において「借金の帳消し」が「徳政」として認識されており、多くの人が借金の帳消しにはそれなりの正当性があると考えられていました。特に正長元年(1428)の徳政一揆以降、15世紀は徳政一揆が頻発しています。
こうした徳政令に対して、笠松宏至は「元の持ち主に返す=あるべきところに返す」という古代~中世の人々の意識が背景にあると考え、勝俣鎮夫は古代から中世における永代売買契約観念の薄さ、耕作者の立場といったものを指摘し、その正当性を説明しようとしました。
しかし、近年の研究によると、中世において土地所有と耕作者という立場のつながりは強くはなかったといいますし、必ずしも土地売買契約が未成熟とは言えないとされています。
そこで、著者はそもそも徳政令が求められた時代背景と、それが失われた要因を探ろうとします。
16世紀の中葉に成立した、歴史上の故事逸話を集めた『塵塚物語』という史料がありますが、そこには「中古天下徳政という、ふしぎの法をたてて、我がままをふるまいきれたり」という一文があります(41p)。このころには徳政令は「ふしぎの法」と認識されており、「我がまま」を後押ししたと考えられているのです。
1428(正長元年)、いわゆる正長の徳政一揆が起きます。はじめに起こったのは近江国で、4代将軍足利義持が亡くなり将軍の代替わりにあたる時期でした。
後世の人間はこの一揆が歴史に残るほど大規模なものになったことを知っていますが、当初、室町幕府はこの一揆に迅速に対応しており、一度は沈静化しました。
しかし、最初の蜂起から一月ほど後に近江の馬借が下京に攻め込むと、大和・河内・播磨などでも馬借を中心とする一揆が盛んになり、各地の郷などで独自に徳政令を出す動きが起こります(教科書にも載っている神戸四ヶ郷の碑文もこうしたものと考えられる(66-68p)。
さらに幕府が徳政禁令を出していたにもかかわらず、大和の国では大和を支配していた興福寺が徳政令を出すことに踏み切り、徳政の動きが広がりました。
ここで注目すべきは徳政令といっても各主体がばらばらに法令を出していたことです。また、中世には借りたお金を返さなければならないという法がある一方で、利子を元本以上払っていれば条件つきでお金を返さなくてもよいうという法も存在していたといいます(71p)。
中世にはさまざまな法が併存しており、あちらがある法を持ち出して正当性を主張すれば、こちらは別の方で対抗するというシーソーゲームのような事が行われていました。
一揆側の主張の根拠のようなものはこれでわかりましたが、では、なぜこの時期に大規模な徳政一揆が起こったのでしょうか?
中世の金融業者は、12~13世紀頃までは借上、13世紀以降は土倉と呼ばれています。中世の利子は月に5%ほどで年利にすると60~65%くらいになります。ずいぶんと高利に思えますが、これは古代の出挙以来の利子率の設定で、春に種籾を借り、秋に返すことを想定していました。
中世の金融業者の多くは、荘園の代官請負業者で、荘園経営のなかで行われていた副業のようなものでした。京の借上や土倉業者の多くは延暦寺の支配下にありましたが、これは大規模な荘園領主である延暦寺の下級僧侶が荘園の管理にあたっていたからです。
1221年の承久の乱によって東国の武士たちが西国の荘園を所有するようになると、彼らの多くはその経営を代官たちに任せました。借上たちは今まで以上の規模の荘園を管理するようになり、年貢などを保管するために蔵を築きます。そうして彼らは土倉と呼ばれるようになったのです。
14世紀になると、室町幕府や守護から課せられる役負担が増大し、地域の在地領主たちが疲弊していきます。彼らは地域において小規模な資金を融通する存在でしたが、それができなくなっていったのです。さらに15世紀初頭に飢饉や洪水が頻発したことにより、ますますその経営は苦しくなり、京の土倉に依存する体制ができあがりました。そして、土倉たちは土倉沙汰人として独立し、存在感を示すようになていきます。彼らは祠堂銭なども受け入れて、さらに資金量を拡大させていきました。
この土倉に目をつけたのが室町幕府です。室町幕府の財政基盤は当初、足利家の荘園と守護に課す守護役くらいしかありませんでした。そこで3代将軍義満は遣明船の派遣と土倉酒屋役によって新たな財源を確保しました。特に遣明船による利益は莫大なもので、一回の派遣で現在の価値に換算し200億円ほどの利益があったといいます(135ー136p)。
ところが、4代将軍義持は遣明船を中止しました。そこでクローズアップされたのが土倉酒屋役です。室町幕府はその財源を京の土倉に求めるようになり、守護在京制と相俟って幕府の地方への関心は失われていくのです。
こうした中で、疲弊した地方の人びとが起こしたのが正長の徳政一揆でした。
この徳政一揆の動きは嘉吉元年(1441)の嘉吉の徳政一揆で大きな転機を迎えます。ついに幕府が徳政令を出したのです。
嘉吉の徳政一揆は6代将軍義教が暗殺された嘉吉の変の後に起こりましたが、幕府の軍勢は義教を暗殺した赤松満祐の討伐に向かっており、京の守りは手薄でした。そんな中、数万人規模の一揆勢が京に押し寄せ、幕府は為す術がなかったのです。
この徳政令は「徳政之大法」と呼ばれ、各地の在地法、慣習法、あるいは公家法や寺社法をこえてあまねく適用されるべき法として認識されるようになっていきました。
中世の法はほとんどが一部の法曹官僚に知られるのみのものでしたが、この徳政令は広く社会に知られるようになっていったのです。
さらにこの流れをあと押したのが、1425年に幕府が借財論争の裁判を受け付けると宣言したことです(163p)。
荘園領内での相次ぐ借財論争を受けて幕府もこれに関与する姿勢を見せ、雑務沙汰と呼ばれる民事訴訟制度の整備を行いました。さらに荘園住人の武家への被官化が進んだことによって、武家と地下人の統合が進んだことも、この流れを後押ししました。
この幕府による民事訴訟制度の整備は、貸す側の土倉にとっても債権回収を容易にするという点で利点があったと考えられます。
こうした中で、幕府は1454年(享徳三年)の徳政一揆を受けて分一徳政令という徳政令を出します。これは徳政を認める代わりに債務の10分の1を幕府に納めるというもので、翌年には債権者にも対象が拡大されました(納める金額は20%になった)。つまり、早いもの勝ちで、債務者がお金を納めれば徳政、債権者がお金を納めれば借金の帳消しとなったのです。
さすがに無茶苦茶な法のように思えますが、意外にも当時の人はこれを受け入れました。
幕府などから文書を発給してもらう場合、1割程度の手数料を支払うことは一般的であり、分一徳政令もそうしたものとして理解されたようなのです。
この制度の運用に関わったのが室町時代中期の幕府を支えた伊勢貞親であり、彼を中心とした官僚たちがこうしたしくみや民事訴訟を取り仕切っていました。
こうした徳政の「制度化」ともいえる動きの中で、徳政によって債務から身軽になった在地領主たちが再び土地集積の動きを見せます。これらの在地領主たちは債権者となり、徳政一揆を求めるグループからは離脱していきますが、一方で徳政一揆に加わるようになったのが牢人でした。
武家の被官となった荘園の住人たちが牢人として京の町に集まり、また、守護のお家騒動が起こるたびに、主を失った牢人たちが京に流れ込みました。そして、彼らが主導する徳政一揆も起こるようになったのです。
さらに応仁の乱の勃発直前の1446年(文正元年)の徳政令は強盗事件を発端として出されています。応仁の乱を前に各国から軍勢が続々と上洛しますが、滞在が長引くにつれ困窮し、その一部は酒屋や土倉を襲撃しました。
幕府や守護は本来ならばこれらの行為を断罪しなければなりませんが、それでは自らの軍事力が低下していしまいます。そこで、質者の強奪を債務者による債務破棄に見立てて徳政令を出しました。略奪を正当化する理屈として徳政令が利用されるようになったのです。
ここに来て徳政令は一般の民衆からも嫌われるようになってきます。
さらに応仁の乱による混乱は荘園経営を難しくし、土倉の後ろ盾となっていた寺社の権威も低下させました。また、頻発する徳政令は割符や頼母子講といった中世社会の金融の仕組みも脅かしました。
応仁の乱後の室町幕府の相次ぐ将軍の交代(復権も含む)も、そのたびに債権を保証してもらわないといけない状態を生みました。徳政令はそれまでの地域的な結びつきや身内同士の人間関係も脅かすものとなっていったのです。
こうして、「身分や階層を越えてともに一揆を結ぶ社会から、身分や階層ごとにときに反発しあい、分断される社会へと大きく変質していった」(275p)のです。
終章で著者は、戦国時代になると、それまでの自然災害に対して徳政を求める人々に代わって、自然災害に直接向き合ってそれを克服しようとする「新しい人」が登場したと述べます。
そして、著者は内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という話について、応仁の乱に画期を見る味方には賛同しつつ、応仁の乱以前の社会を知ってこそ、その危機の大きさと予定調和的ではない変化の様相が見えると指摘するのです。
ここでは徳政令をめぐる大きな変化に絞って本書の内容を見ていきましたが、この本では資料を用いてさまざまな具体的な動きを紹介しています(大河ドラマ「おんな城主直虎」に出てきた井伊家の徳政令騒ぎも紹介している)。
また、室町幕府のしくみやその統治構造の変化などについても随時言及されており、室町幕府を理解するためにも勉強になる本だと思います。
最初にも述べたように、叙述に関してはややわかりやすくしようとしすぎている感もなくはないですが、多くの人にとっては理解のしやすさにつながっているのではないかと思います。
徳政令をめぐる謎を解いていく様子は読んでいて面白いですし、同時に徳政令という題材を通じて、中世社会の実態や応仁の乱前後の変化への理解も深まるという一石二鳥(三鳥?)の本になっています。