山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2018年09月

早島大祐『徳政令』(講談社現代新書) 8点

 借金を帳消しにする徳政令に関しては歴史の授業などで聞いたことがあると思いますし、室町時代には民衆が徳政を求める徳政一揆をおこしたということを知っている人も多いでしょう。
 民衆が実力で持って勝ち取った徳政ですが、実は16世紀になると人々の間で好ましくないものと認識されるようになってきます。
 この徳政に対する認識の変化がどのようなもので、何によってもたらされたのかを丁寧に解き明かそうとしたのがこの本です。室町時代の社会構造の変化を辿るとともに、「借りたお金は返すべきだ」という共通意識がどのように芽生えていったのかを示そうとしています。
 わかりやすく説明するために現代社会に置き換えた喩えなども多用してあって(個人的にはもう少し簡潔でもよいかと思いましたが)、読みやすいと思いますし、最後には内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という有名な話に反論しつつ、歴史学の意義を訴えるなど意欲的な内容となっています。

 目次は以下の通り。
第一章 中世とは何か 債務破棄が徳政と呼ばれた時代
第二章 正長元年の徳政一揆、室町幕府を飲み込む
第三章 法と法とのシーソー・ゲーム
第四章 室町の格差社会
第五章 過剰負担社会の誕生
第六章 「大法」に飲み込まれる人びと
第七章 接触する法と社会
第八章 「裁定者」の登場
第九章 分断される一揆
第十章 徳政に侵食される社会
第十一章 貸借・土地売買と徳政
第十二章 シーソー・ゲームの終わり
終章 「新しい人」の登場 文明の転換期としての戦国時代

 中世において「借金の帳消し」が「徳政」として認識されており、多くの人が借金の帳消しにはそれなりの正当性があると考えられていました。特に正長元年(1428)の徳政一揆以降、15世紀は徳政一揆が頻発しています。
 こうした徳政令に対して、笠松宏至は「元の持ち主に返す=あるべきところに返す」という古代~中世の人々の意識が背景にあると考え、勝俣鎮夫は古代から中世における永代売買契約観念の薄さ、耕作者の立場といったものを指摘し、その正当性を説明しようとしました。

 しかし、近年の研究によると、中世において土地所有と耕作者という立場のつながりは強くはなかったといいますし、必ずしも土地売買契約が未成熟とは言えないとされています。
 
 そこで、著者はそもそも徳政令が求められた時代背景と、それが失われた要因を探ろうとします。

 16世紀の中葉に成立した、歴史上の故事逸話を集めた『塵塚物語』という史料がありますが、そこには「中古天下徳政という、ふしぎの法をたてて、我がままをふるまいきれたり」という一文があります(41p)。このころには徳政令は「ふしぎの法」と認識されており、「我がまま」を後押ししたと考えられているのです。

 

 1428(正長元年)、いわゆる正長の徳政一揆が起きます。はじめに起こったのは近江国で、4代将軍足利義持が亡くなり将軍の代替わりにあたる時期でした。
 
 後世の人間はこの一揆が歴史に残るほど大規模なものになったことを知っていますが、当初、室町幕府はこの一揆に迅速に対応しており、一度は沈静化しました。
 
 しかし、最初の蜂起から一月ほど後に近江の馬借が下京に攻め込むと、大和・河内・播磨などでも馬借を中心とする一揆が盛んになり、各地の郷などで独自に徳政令を出す動きが起こります(教科書にも載っている神戸四ヶ郷の碑文もこうしたものと考えられる(66-68p)。
 
 さらに幕府が徳政禁令を出していたにもかかわらず、大和の国では大和を支配していた興福寺が徳政令を出すことに踏み切り、徳政の動きが広がりました。

 

 ここで注目すべきは徳政令といっても各主体がばらばらに法令を出していたことです。また、中世には借りたお金を返さなければならないという法がある一方で、利子を元本以上払っていれば条件つきでお金を返さなくてもよいうという法も存在していたといいます(71p)。
 
 中世にはさまざまな法が併存しており、あちらがある法を持ち出して正当性を主張すれば、こちらは別の方で対抗するというシーソーゲームのような事が行われていました。

 

 一揆側の主張の根拠のようなものはこれでわかりましたが、では、なぜこの時期に大規模な徳政一揆が起こったのでしょうか?
 
 中世の金融業者は、12~13世紀頃までは借上、13世紀以降は土倉と呼ばれています。中世の利子は月に5%ほどで年利にすると60~65%くらいになります。ずいぶんと高利に思えますが、これは古代の出挙以来の利子率の設定で、春に種籾を借り、秋に返すことを想定していました。
 
 中世の金融業者の多くは、荘園の代官請負業者で、荘園経営のなかで行われていた副業のようなものでした。京の借上や土倉業者の多くは延暦寺の支配下にありましたが、これは大規模な荘園領主である延暦寺の下級僧侶が荘園の管理にあたっていたからです。

 

 1221年の承久の乱によって東国の武士たちが西国の荘園を所有するようになると、彼らの多くはその経営を代官たちに任せました。借上たちは今まで以上の規模の荘園を管理するようになり、年貢などを保管するために蔵を築きます。そうして彼らは土倉と呼ばれるようになったのです。
 


 14世紀になると、室町幕府や守護から課せられる役負担が増大し、地域の在地領主たちが疲弊していきます。彼らは地域において小規模な資金を融通する存在でしたが、それができなくなっていったのです。さらに15世紀初頭に飢饉や洪水が頻発したことにより、ますますその経営は苦しくなり、京の土倉に依存する体制ができあがりました。そして、土倉たちは土倉沙汰人として独立し、存在感を示すようになていきます。彼らは祠堂銭なども受け入れて、さらに資金量を拡大させていきました。


 この土倉に目をつけたのが室町幕府です。室町幕府の財政基盤は当初、足利家の荘園と守護に課す守護役くらいしかありませんでした。そこで3代将軍義満は遣明船の派遣と土倉酒屋役によって新たな財源を確保しました。特に遣明船による利益は莫大なもので、一回の派遣で現在の価値に換算し200億円ほどの利益があったといいます(135ー136p)。
 ところが、4代将軍義持は遣明船を中止しました。そこでクローズアップされたのが土倉酒屋役です。室町幕府はその財源を京の土倉に求めるようになり、守護在京制と相俟って幕府の地方への関心は失われていくのです。
 こうした中で、疲弊した地方の人びとが起こしたのが正長の徳政一揆でした。

 この徳政一揆の動きは嘉吉元年(1441)の嘉吉の徳政一揆で大きな転機を迎えます。ついに幕府が徳政令を出したのです。
 嘉吉の徳政一揆は6代将軍義教が暗殺された嘉吉の変の後に起こりましたが、幕府の軍勢は義教を暗殺した赤松満祐の討伐に向かっており、京の守りは手薄でした。そんな中、数万人規模の一揆勢が京に押し寄せ、幕府は為す術がなかったのです。
 この徳政令は「徳政之大法」と呼ばれ、各地の在地法、慣習法、あるいは公家法や寺社法をこえてあまねく適用されるべき法として認識されるようになっていきました。
 中世の法はほとんどが一部の法曹官僚に知られるのみのものでしたが、この徳政令は広く社会に知られるようになっていったのです。

 さらにこの流れをあと押したのが、1425年に幕府が借財論争の裁判を受け付けると宣言したことです(163p)。
 荘園領内での相次ぐ借財論争を受けて幕府もこれに関与する姿勢を見せ、雑務沙汰と呼ばれる民事訴訟制度の整備を行いました。さらに荘園住人の武家への被官化が進んだことによって、武家と地下人の統合が進んだことも、この流れを後押ししました。
 この幕府による民事訴訟制度の整備は、貸す側の土倉にとっても債権回収を容易にするという点で利点があったと考えられます。

 こうした中で、幕府は1454年(享徳三年)の徳政一揆を受けて分一徳政令という徳政令を出します。これは徳政を認める代わりに債務の10分の1を幕府に納めるというもので、翌年には債権者にも対象が拡大されました(納める金額は20%になった)。つまり、早いもの勝ちで、債務者がお金を納めれば徳政、債権者がお金を納めれば借金の帳消しとなったのです。
 さすがに無茶苦茶な法のように思えますが、意外にも当時の人はこれを受け入れました。
 幕府などから文書を発給してもらう場合、1割程度の手数料を支払うことは一般的であり、分一徳政令もそうしたものとして理解されたようなのです。
 この制度の運用に関わったのが室町時代中期の幕府を支えた伊勢貞親であり、彼を中心とした官僚たちがこうしたしくみや民事訴訟を取り仕切っていました。

 こうした徳政の「制度化」ともいえる動きの中で、徳政によって債務から身軽になった在地領主たちが再び土地集積の動きを見せます。これらの在地領主たちは債権者となり、徳政一揆を求めるグループからは離脱していきますが、一方で徳政一揆に加わるようになったのが牢人でした。
 武家の被官となった荘園の住人たちが牢人として京の町に集まり、また、守護のお家騒動が起こるたびに、主を失った牢人たちが京に流れ込みました。そして、彼らが主導する徳政一揆も起こるようになったのです。

 さらに応仁の乱の勃発直前の1446年(文正元年)の徳政令は強盗事件を発端として出されています。応仁の乱を前に各国から軍勢が続々と上洛しますが、滞在が長引くにつれ困窮し、その一部は酒屋や土倉を襲撃しました。
 幕府や守護は本来ならばこれらの行為を断罪しなければなりませんが、それでは自らの軍事力が低下していしまいます。そこで、質者の強奪を債務者による債務破棄に見立てて徳政令を出しました。略奪を正当化する理屈として徳政令が利用されるようになったのです。

 ここに来て徳政令は一般の民衆からも嫌われるようになってきます。
 さらに応仁の乱による混乱は荘園経営を難しくし、土倉の後ろ盾となっていた寺社の権威も低下させました。また、頻発する徳政令は割符や頼母子講といった中世社会の金融の仕組みも脅かしました。
 応仁の乱後の室町幕府の相次ぐ将軍の交代(復権も含む)も、そのたびに債権を保証してもらわないといけない状態を生みました。徳政令はそれまでの地域的な結びつきや身内同士の人間関係も脅かすものとなっていったのです。
 こうして、「身分や階層を越えてともに一揆を結ぶ社会から、身分や階層ごとにときに反発しあい、分断される社会へと大きく変質していった」(275p)のです。

 終章で著者は、戦国時代になると、それまでの自然災害に対して徳政を求める人々に代わって、自然災害に直接向き合ってそれを克服しようとする「新しい人」が登場したと述べます。
 そして、著者は内藤湖南の「日本史は応仁の乱以後を知っていれば十分」という話について、応仁の乱に画期を見る味方には賛同しつつ、応仁の乱以前の社会を知ってこそ、その危機の大きさと予定調和的ではない変化の様相が見えると指摘するのです。

 ここでは徳政令をめぐる大きな変化に絞って本書の内容を見ていきましたが、この本では資料を用いてさまざまな具体的な動きを紹介しています(大河ドラマ「おんな城主直虎」に出てきた井伊家の徳政令騒ぎも紹介している)。
 また、室町幕府のしくみやその統治構造の変化などについても随時言及されており、室町幕府を理解するためにも勉強になる本だと思います。
 最初にも述べたように、叙述に関してはややわかりやすくしようとしすぎている感もなくはないですが、多くの人にとっては理解のしやすさにつながっているのではないかと思います。
 徳政令をめぐる謎を解いていく様子は読んでいて面白いですし、同時に徳政令という題材を通じて、中世社会の実態や応仁の乱前後の変化への理解も深まるという一石二鳥(三鳥?)の本になっています。

横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書) 8点

 明治維新を「革命」と呼べるかどうかは昔から議論の分かれるところですが、明治維新をきっかけとして身分制社会が解体され、近代社会が立ち上がったことを考えると、やはり「革命」と言っていいような大きな変化だったのだと思います。
 しかし、「身分制社会の解体」と言ったとき、一般の人々の暮らしはどのように変化するのでしょうか?
 この本は明治維新によって日本の中でもとりわけ大きな変化を被ったと考えられる江戸に暮らすさまざまな身分の人々に光をあて、明治維新がもたらした変化を描き出そうとしています。
 この本よりも扱う時代は少し後になりますが、内容的には松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(講談社選書メチエ)に通じるものがあります。『町村合併から生まれた日本近代』は明治の大合併を見ることで近世の村落の特徴が浮かび上がる内容になっていましたが、この本も維新後の変化を見ることで近世の町と身分制社会の特徴が見えてくるものとなっています。

 目次は以下の通り。
第1章 江戸から東京へ
第2章 東京の旧幕臣たち
第3章 町中に生きる
第4章 遊廓の明治維新
第5章 屠場をめぐる人びと
 第1章では江戸の地図や江戸を描いた絵図から江戸時代後期の町の様子、そして維新後の変化を読み解こうとしています。
 現在の丸の内、大手町、皇居外苑近辺(この本では「大名小路」と呼んでいる)には有力大名の屋敷のほか、老中や若年寄の役宅、寺社・勘定・南北町奉行の三奉行所などが並んでいました。
 この中に「腰掛(腰掛茶屋)」と呼ばれる庶民がさまざまな用向きで役所に出向く際の施設があります。腰掛は裁判の補佐を行う公事宿の管轄下にある施設で、町人が設置・運営していました。町方の借家人が訴えを起こすときは、家主と町の名主に加判してもらったうえ、家主の付添いを受けまず腰掛で訴願を受理してもらうことが通例でした。江戸時代の行政はこうした庶民の職分や住む場所を基礎とする集団に支えられていたのです。

 そうした江戸の町を一変させたのが明治維新です。
 大政奉還後、薩摩藩は江戸で挑発行為を繰り返し、浪人たちを組織して御用盗みを行わせましたが、そうしたこともあって江戸開城直後にあったのは薩摩や新政府に対する警戒心でした。
 1868年9月、元号が明治に改められると新政府は人心収攬のため天皇の東幸を行います。東京府の責任者となった大木喬任はこれに合わせて市中に酒やするめなどを配る天盃頂戴を行い、戦時が終わったことを印象付けようとします。
 翌69年には再び天皇の再幸が計画されますが、これは事実上の遷都でした。

 しかし、このときの東京においてまず大きな問題となったのが人口の激減です。幕末期の江戸の人口は約100万、そのうち50万が武家人口でした。維新後、旧幕臣の約半数が徳川家に付きしたがって静岡に移住。参勤交代の義務がなくなった大名や藩士が帰国すると、江戸の人口は40%近く減少したといいます(26p)。
 武家屋敷に奉公していた人びとも職を失い、困窮する人びとが続出しました。大木喬任は、遊惰な江戸町人にはたらかなければ生きていけないことを理解させ、桑茶の生産に動員するのがよいと主張しています(27p)。
 
 一方、各藩の藩邸でも国元からの送金が途絶えてしまい、また、藩士を帰国させようとしてもその費用がないなどの混乱に見舞われていました。
 そうした中で、大名小路には新たに公家が屋敷を構えるようになり、毛利藩などの新政府側の大名もより便利な場所に屋敷を移転させました。
 こうした屋敷の入れ替わりとともに腰掛は姿を消し、職分に基づいた私的な集団は行政において居場所を失っていくのです。

 第2章は旧幕臣たちのその後を追います。旧幕臣の中には榎本武揚のように最後まで抵抗した者もいましたし、勝海舟のように後に新政府でも重責を担う者も現れましたが、この章でとり上げられるのは本多元治(げんじ)という知名度のない下級幕臣です。
 
 脱籍浪士たちが起こすさまざまな事件に苦慮した新政府は、戸籍を作成しすべての人民をその居住地によって把握することにより、脱籍浪士をあぶり出そうとしました。
 そのため、京都では士族、卒、僧侶・神官、町人の4種類の戸籍を身分集団につくらせましたが、武家地において急速な流動化が進んでいた東京においてこの方法をとることは困難でした。
 そこで新政府は身分的統治を廃止し、住む場所にしたがって居住者を把握しようとしていきます。そして、この政策の先に身分制の解体があるのです。

 身分制の廃止は明治維新のもたらした大きな成果であり、それらは新政府の開明的な人びとや、あるいは「一君万民」の思想によってもたらされたと考えがちですが、著者はこうした政策上の必要性に注意を向けます。
 この身分制の廃止は、兵制の問題(「国民皆兵」を目指すか、当分は藩兵でいくか)とも絡みながら進展していきます。

 このような中、本多元治という人物がなぜとり上げられているのかというと、彼の居住地の変遷が、江戸から東京への町の再編成とつながっているからです。
 元治はもともと小石川諏訪町(現在の後楽園あたり)に200坪の屋敷地を拝領していましたが、そこは清水家の家臣に貸し、自らは本所緑町(現在の墨田区緑)の幕臣の屋敷を間借りしていました。それぞれにとって家賃収入は重要なものだったのでしょう。

 維新後の1870年、長男が太政官主記に採用されると、本所一つ目千歳町(このあたりは歓楽街だった)の土地のを永拝借(事実上の下賜)を受けました。
 そこで、元治は小石川の土地と本所の隣接地の引替を願い出ました。人口減少によって当時の小石川はあたり一面畑となっており、より栄えた場所の土地を手に入れようと考えたのです。
 職を失った旧幕臣にとって土地からの収入は死活問題であり、彼らは少しでもいい土地を拝領し、そこを他人に貸すなどして収入を得ようとしました。この利益追求の動きは、さらなる居住者の流動化をもたらし、武家地・町人地といった身分ごとの居住制度を解体していきました。

 1871年7月12日、廃藩置県の布告の2日前に、東京府はすべての身分の人々の戸籍事務を区長が取り扱うという布告を出します。「一つの人民に二つの触頭」(71p)と表現される身分にもどづく統治を放棄することとしたのです。
 その後、新政府は賤民廃止、盲人集団などの身分制度の廃止、武家地・町人地の廃止など、身分制度の廃止を進める政策を次々と打ち出していきます。

 第3章では町人地の変化が扱われていますが、そこで登場するのが「家守(やもり)」という耳慣れない職業の人びとです。
 江戸時代の町人は町屋敷をもつ家持と、土地を借りて屋敷を建てている地借、裏長屋を借りている店借の3つの身分からなっていますが、幕末期の江戸では周囲の豪農や豪商が不動産を所有しているケースが多く、不在地主が多数を占めていました。
 その不在地主に代わって地代・店賃を徴収するのが家守です。家守は地代などの徴収だけでなく、地主が果たすべきさまざまな役割も代行しており、捨て子・行き倒れの世話・道普請などさまざまな公的役割も担っていました。
 さらに幕末になるとこの家守の職が一種の株として売買されるようになっており、株をもつ家守が実際の仕事を下家守にやらせるといったことも起きていました。
  
 先述のように、維新後、東京の町は人口が激減し荒廃します。1869年の段階では、東京近辺に物貰いや無宿非人が1万人近くいるだろうとの報告もあり(84p)、貧民対策は東京府に課せられた大きな課題でした。
 新政府は窮民を、下総台地の開墾に当たらせたり、三田や麹町、高輪などの救育所に収容しましたが、なかなかうまくいかななったといいます。

 一方で、東京府は家守を公的な役割から排除していきました。たんなる貸地・貸家の管理人に限定しようとしたのです。
 この章では、江戸の路上につくられた「床店」という小さな家とも小屋ともつかぬ店舗に注目しています。
 これらの床店は路上を私的に専有してつくられており、本来ならば幕府によって撤去されてもおかしくない存在です。しかし、「持ち場負担」といって日々の道路清掃や路上での喧嘩の仲裁、行き倒れの介護、死体の処理までもが道路に面して住む者に任されていた江戸の町では、その負担の引き換えとしてこれら床店の設置が認められていた場所があるのです。

 維新後、床店の人びとは地税を上納することを申し出て借地権を確定させようとしましたが、新政府はこれを却下します。そして、廃藩置県後は官有地と民有地の区別を明確にしていき、官有地を侵す者を排除していきます。それとともに床店も姿を消していくのです。

 第4章では遊廓の変化が描かれています。
 ご存じのように江戸には新吉原という幕府公認の遊廓がありました。男性人口が圧倒的に多かった江戸において、幕府は新吉原での買売春を公認する代わりに、江戸城の畳替えなどさまざまな役を課していました。また、吉原以外での非合法買売春の摘発までもが任されていました。これによって新吉原は江戸の性風俗を取り締まるとともに、摘発した遊女を自らの店で使役することが許されていました。
 
 しかし、その遊廓も18世紀後半から衰退していきます。大名や豪商の遊興が減少し、遊客と遊女のレベルが中・下層化したのです。
 そんな中、19世紀の新吉原で続出したのが遊女たちによる放火でした。厳しい待遇の遊女たちが抗議の放火を行なったのです。
 
 遊女屋が遊女を調達するには30両ほどのお金が必要で、遊女屋の経営にはそれなりの資金が必要でした。そして、その担保となったのが遊女たちです。遊女たちは財として扱われ、ときに換金・転売されました。
 近世社会一般では人身売買は禁止されていましたが、遊女を扱う身分集団の中ではそれが黙認されていたのです。

 1872年、新政府によって芸娼妓解放令が出されます。本人の「真意」による売春以外を禁止するこの法令は遊廓のしくみを大きく揺さぶりました。
 この本では7歳で売られ、芸娼妓解放令のときには新吉原の最下層の遊女屋ではたらいていた「かしく」という女性がとり上げられています。
 かしくは解放令によって前の抱え主のもとに戻ることとなったのですが、そこで再び奉公に出よと迫られたので、東京府に竹次郎という奉公人と結婚するので遊女をやめたいという嘆願書を出したのです。
 「どのよニ相成候共、遊女いやだ申候」という一節を含む嘆願書が121-122pにかけて紹介されていますが、稚拙な文章がかえってかしくの強い意志を感じさせます。
 結局、このかしくの願いは叶わず、その後もかしくは別の男性との結婚を願い出ますが、これも戸主権と新たにできた借財の壁によって阻まれてしまいます。

 このかしくをめぐる騒動を見ながら、著者はかしくやその結婚相手に遊女、あるいは遊女の仕事に対する偏見がないことに注意を向けています。
 芸娼妓解放令によって遊女たちは自由になったはずですが、実際には新たに設定された戸主権や、借金によって娼妓として縛られつづけます。さらに売春が本人の「真意」によるものとされたことで、娼妓への偏見も強まっていくのです。

 第5章では賤民廃止令によって今まで賤民とされていた人びとがどうなっていったのかを追っています。
 江戸時代において関八州と伊豆、駿河、甲斐、陸奥の一部の賤民は浅草に屋敷を構える弾左衛門の支配下にありました。弾左衛門は身分内での刑事・民事事件の裁判権や刑罰権を行使し、特定の商品を独占的に扱う特権も得ていました。
 
 1871年3月、新政府のもとで身分的特権の中心をなす斃(たおれ)牛馬の皮革独占が廃止されると、8月には賤民廃止令が布告されます。身分にもとづく統治を断念するなかで、賤民身分も廃止されたのです。
 今まで差別を受ける代わりにいくつかの職業を独占してきた賤民たちは、ここで新たな職を見つけることを求められました。そこで賤民身分の人びとが就いた職の一つが明治になって需要が出てきた牛肉産業です。

 この章では、屠場をめぐる屠牛商人とその利権化を目指す藩閥政府と政商たちの対立、そしてそこに巻き込まれる旧賤民身分の動きを追っています。
 特に、三味線皮渡世を営んでいた旧賤民身分の小林健次郎の新産業への挑戦や、警察と結んで屠場の払い下げを受け、のちに牛鍋「いろは」を成功させる木村荘平の動きなどを追いながら、維新直後から自由民権運動期にいたる変化を見ようとしています。
 ただ、この章に関しては旧賤民が結局どうなったかという変化がやや見えにくいかもしれません。

 このようにこの本を読むと、江戸から東京への変化とともに、身分制社会の解体と、そもそも江戸時代の身分制社会とはどのようなものだったのか? ということが見えてきます。
 さらに明治になっても人びとが身分制社会にとらわれていた様子もわかりますし、同時に江戸時代の後期に、すでに不在地主や家守のような従来の身分社会では想定していなかった
存在が幅を利かせ、身分制社会が動揺していたこともわかります。
 200ページに満たないボリュームでありながら、このような重層的な社会変動を史料の中から発掘してみせた本です。

江戸東京の明治維新 (岩波新書)
横山 百合子
4004317347

瀧澤弘和『現代経済学』(中公新書) 8点

 現代経済学を概観した本。こうした本は無味乾燥な紹介に陥りやすいですが、著者のスタンスがはっきりしていていて一貫した視点でさまざまな分野を紹介していること、著者に哲学的な素養もあって経済学の「学問としてのあり方」を問うようなものになっていることから、非常に面白く読める内容になっています。
 著者は青木昌彦の著作の翻訳を行うなど(青木昌彦が英語で書いた『比較制度分析に向けて』の日本語訳)、青木昌彦の影響を受けており、「ゲーム理論」、「制度」といったものをキーに現代の経済学の潮流を読み解いています。
 経済学に関する知識がまったくない人には厳しいかもしれませんが、経済学にそれほど通じていなくても、社会科学(政治学、社会学、経営学なと)に興味がある人であれば楽しめると思いますし、得るものも多いと思います。

 目次は以下の通り。
序章 経済学の展開
第1章 市場メカニズムの理論
第2章 ゲーム理論のインパクト
第3章 マクロ経済学の展開
第4章 行動経済学のアプローチ
第5章 実験アプローチが教えてくれること
第6章 制度の経済学
第7章 経済史と経済理論との対話から
終章 経済学の現在とこれから

 序章で著者はノーベル経済学賞の受賞者に注目しながら、現代の経済学の変化を指摘しています。
 1980年代までの受賞者の受賞理由は、経済モデルの開発や計量的分析手法の確立に貢献した(サミュエルソンなど)、社会主義と資本主義、市場における政府の役割に関する論争に貢献した(ハイエク、フリードマンなど)、一般均衡モデルの発展に貢献した(ヒックス、アロー、ドブルーなど)の3つのタイプが主なものでした。
 ところが、90年代以降になると傾向が変わってきます。市場の限界や、合理的な人間という経済学の想定に疑義を呈するような研究がとり上げられるようになり、同時にゲーム理論の発展とともに市場を介さない取り引きに関する研究も行われるようになってきます。そして、ノーベル経済学賞もそうした分野の研究者に与えられるようになっていくのです。

 とは言っても、80年代までの主流派経済学を理解していなければ90年代以降の変化のインパクトもわかりません。そこでまず、第1章では新古典派経済学をとり上げています。
 「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスが注目したのは交換と分業でした。そしてその交換の場としての市場が注目され、後の経済学ではこの市場の分析が中心となりました。
 アダム・スミスやその後の続く経済学者は当初、商品の価値は労働によって決まると考えていましたが、ジェヴォンズ、メンガー、ワルラスらによる「限界革命」により、商品の価値は消費者が自分の効用と照らしてその財を追加でもう1単位購入するか否かによって決まると考えられるようになりました。
 このとき、消費者は自分の効用を最大化するために「合理的」に行動すると想定されています。ここから市場を数理的に読み解くことが可能であると考えるのが新古典派経済学であり、新古典派経済学は数学を使って市場を精緻に分析していきました。

 新古典派経済学では一般的に、市場の参加者である個々の個人や企業は価格などに影響を与えないと考えられています。
 これに対して相手の行動によって自分の意思決定が左右される局面を扱うのが、第2章でとり上げられているゲーム理論です。
 例えば、向こうから人がやってきてぶつかりそうになったとき、避けるのがいいかそのまま直進するのがいいかは相手の行動によって変わります。これだけですと、たんなる予測問題と思われるかもしれませんが、ジョン・ナッシュが提案したナッシュ均衡というアイディアによってゲーム理論は大きく発展しました。

 ナッシュ均衡は「両方のプレーヤーとも、相手の選択に対して最適な選択を示している状態」(63p)ですが、これは相手に対する信念(予測)のもと、それに対する最適な行動を選ぶことによってその正しさが証明するという「予言の自己成就」が成立している状態です。また、ナッシュ均衡は複数存在しえます。
 さらに「囚人のジレンマ」は、利己的・合理的に行動することが必ずしも両者の利益につながらないということを示し、各々が利己的に振る舞うことによって社会が発展するという伝統的な市場観を揺さぶりました(69p)。
 さらに1970年代にアカロフらによって提唱された「情報の非対称性」もゲーム理論によって記述・分析されるようになっていきました。

 第3章はマクロ経済学の発展です。著者はマクロ経済学の専門家ではないので、マクロ経済学の変遷を詳しくたどっているわけではありませんが、マクロ経済の分析において重要になってきた「期待」という概念と、ゲーム理論の「信念」の類似性に注意を向けています。
 マクロ経済はある程度の規模を持った経済(多くの場合は一国)を分析しますが、それとともにケインズに代表されるように財政政策や金融政策によって景気をコントロールすることを志向していきました。
 しかし、これらのコントロールが1960年代後半になるとうまくいかなくなってきます。インフレ+不況というスタグフレーションが発生したのです。
 こうした状況に対して、マクロ経済に「期待」という概念を持ち込んだのがミルトン・フリードマンです。さらに70年代後半になるとロバート・ルーカスが「合理的期待」に基づくマクロ経済学を打ち出しケインズ経済学に疑義を呈しました。
 しかし、だからといってケインズ経済学が完全に否定されたわけでもなく、さまざまな理論を取り込みながら「総合芸術を志向している」のが現在のマクロ経済学だといいます。

 第4章では行動経済学がとり上げられています。
 今までの経済学は「現実の人間行動を分析する」のではなく、個々の経済主体が合理的に行動すると「仮定」して理論を組み上げてきました。J・S・ミルも経済学は演繹的な学問であり、その基礎をなす仮定は人間がより多くの富を求めているという命題にあると考えていました(111p)。
 ハーバート・サイモンが「限定合理性」の概念を打ち出し、人間の認識能力には限界があり完全には合理的ではありえないとの考えを示したこともありましたが、経済学全体にはそれほど大きなインパクトは与えませんでした。行動経済学の登場によって初めて、この合理性の仮定は大きく揺さぶられることになるのです。
 この章では、ヒューリスティクス・バイアス、プロスペクト理論、双曲割引など行動経済学の代表的な知見を紹介しつつ、fMRIなどを使った神経経済学などについても紹介しその意義と問題点を探っています。
 また、行動経済学が人間の不合理な側面を明らかにする一方で、「合理性」概念を捨ててはないなことに注意を向けています(131-133p)。

 第5章では実験経済学がとり上げられています。J・S・ミルもサミュエルソンも経済学で実験はできないと考えましたが、近年ではさまざまな経済学的な実験が行われ、バーノン・スミスは実験経済学によってノーベル賞を受賞しています。
 さらに実際の政策に活かすために、近年ではRCT(ランダム化比較試験)という方法が開発され、開発経済学の現場などに持ち込まれています(デュフロ&バナジー『貧乏人の経済学』など)。
 ただし、こうした手法には「外的妥当性」と「一般均衡効果」という2つの批判があるといいます。外的妥当性は実験で得られた結果が他のケースでも同じようにはたらくかということであり、一般均衡効果は実験で得られた効果が規模が拡大した場合でもうまくはたらくかということです。

 こうした問題を乗り越えるためにフィールド実験という実際の状況に近い環境で実験を行うやり方も出てきていますが、著者は経済学における実験は実際の因果関係を確定させるというものではなく理論をチェックするために行われるものではないかといいます。
 アカロフの提示した中古車市場と情報の非対称性の理論も、「「だから現実世界では中古車市場は存在しない」とか、「中古車市場では質の良くない中古車しか出回らない」などと主張しているわけではなく、情報の非対称性が存在するときに作用するはずのロジックあるいはメカニズムを明確に示している」(165p)のであり、教室で実験を行うと理論の予測通りのことがおこるといいます。実験は現実ではなく理論と対峙しているのです。

 第5章は制度の経済学、第6章では経済史を扱っていますが、第6章の経済史の主役はダグラス・ノースなので、コース、ウィリアムソン、ノースという新制度派の3人と青木昌彦がこの2つの章の主役になります。
 経済学は主に市場を分析の対象としてきており、そのプレイヤーである企業に関しての研究は手薄でした。そこに「なぜ企業が存在するのか?(なぜすべてが市場で取引されないのか?」という問を提出し、取引費用という考えを打ち出したのがコースです(コース『市場・企業・法』を参照)。
 さらにそのコースのアイディアをウィリアムソンが精緻化することにより、企業に対する研究が進み、市場以外の諸制度を分析することが重要だと考えられるようになっていきました。
 ここではジャン・ティロールや岩井克人による、今までのコーポレート・ガバナンス論に対する批判にも軽く触れており興味深いです(192-196p)。
 この制度の進化と各国の制度の違いをゲーム理論などを使って説明しようとしたのが青木昌彦です。青木は制度の補完性に注目し、制度をまとまりとして捉えようとしました(青木昌彦に関してはとりあえず『青木昌彦の経済学入門』を。

 第6章では、まずQWERTYキーボードを例にあげ、経路依存性について説明し、経済事象における「歴史」の重要性を指摘しています。
 そして「歴史」と「制度」について考察した経済史家としてダグラス・ノースをとり上げています(ノースの制度についての考えは『ダグラス・ノース 制度原論』など)。ノースは制度をゲームのルールとして捉え、制度の違いが西欧とそれ以外地域の経済発展を度合いを決定したと考えます(具体的には財産権の確立)。
 また、アブナー・グライフはゲーム理論を使ってマグリブ商人とジェノヴァ商人の違い、そしてジェノヴァ商人の成功の要因を解き明かしました。また、この章ではピケティの『21世紀の資本』などにも 触れています。

 終章は著者なりの総括ですが、著者はここで近年の経済学の多様な展開を、経済学が新古典派に代わる「法則」を見つける方向ではなく、メカニズムを解明する方向に移りつつあると考えています。 経財事象全体を貫く法則を発見するのではなく、ここの経財事象にはたらくメカニズムを解明すること経済学の仕事ではないかというのです。
 また、経済学の「遂行性」にも注意を向けています。経済学は経済事象を分析するだけではなく、その分析対象である経済事象に影響を与えることがあります。例えば、金融におけるブラック=ショールズ式は、多くのトレーダーに共有されることによって市場がこの式に従って動くようになりました(257p)。
 そして、最後はディルタイやヘーゲルについて言及しながら、経済学を人間の「歴史的生活」を理解する人間科学(=精神科学)として位置づけようとしています。

 このように哲学的なところもあって少し難しく感じる人もいるかもしれませんが、逆に哲学をはじめとする他の諸学問についてある程度知っている人であれば、入っていきやすいかもしれません。
 経済学の入門書とは少し違うと思いますが、現代の経済学の広がりを教えてくれるとともに、他の諸学問とのつながりに気づかせてくれる本となっています。


現代経済学-ゲーム理論・行動経済学・制度論 (中公新書)
瀧澤 弘和
4121025016

武田珂代子『太平洋戦争 日本語諜報戦』(ちくま新書) 7点

 太平洋戦争において連合国は日本語ができる人材をいかに探し、育成し、活用したのかということを、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダという国ごとの違いに注目しながら論じた本。
 アメリカにおいて日系人の2世たちが軍に徴用され、日本兵への投降の呼びかけや捕虜の取り調べなどを行なったことは、大河ドラマ『山河燃ゆ』やその原作・山崎豊子『二つの祖国』などでご存知の方も多いでしょうが、この本はそうした日系人の運命にも目を配りながら、あくまでも中心は日本語話者の育成の国際比較というところにあります。
 読む人によっては、もう少し日系人のドラマを詳しく知りたいと思う人もいるでしょうが、この本ではそういった部分は別の本に任せて、今までほとんど取り上げられることがなかったオーストラリアやカナダの事例を調べることで、当時の社会情勢なども浮き彫りにしようとしています。
 面白さよりも学術的な新規性や意義を追求している新書と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序 章 熊本・九州学院に残された名簿
第一章 米軍における二世語学兵の活躍と苦悩
第二章 ロンドン大学と暗号解読学校
第三章 頓挫した豪軍の日本語通訳官養成計画
第四章 カナダ政府の躊躇
終 章 戦争と言語

 序章では、熊本の九州学院に残された日系人2世の名簿をとり上げています。日系人の1世の中には、自分の子どもに日本で教育を受けさせたいと考えた者がおり、そうした2世たちを受け入れて日本語教育などを行なったのが九州学院でした。
 この名簿の中には降伏文書をチェックしたトーマス・サカモトや南太平洋で語学兵チームのリーダーとして活躍したダイ・オカダのような人物もいれば、日本で海軍に入隊し特殊潜航艇の艇長として出撃命令を待っていた竹宮定次(のちに米軍の通訳となる)や日本海軍で諜報の仕事をした和田隆太郎のような人物もいました。
 彼らは開戦時にどちらの国にいたかでその運命が大きく分かれたのです。一方で、偏見にさらされながらも語学力によって自らの道を切り開いたという面は共通しています。

 第1章では、そうした日系2世の活躍も踏まえながらアメリカでの語学兵の育成と活用を見ていきます。
 日露戦争で日本が勝利すると、アメリカ軍は日本語専門家の必要性を感じ、1908年から東京の大使館に将校を送りはじめますが、本格的な育成が始まったのは1941年の3月からです。白人将校にゼロから教えたのでは間に合わないと判断し、日系人約1300人の中から58人、日本に居住したことのある白人2人を合わせた60人が日本語学校の第一期生となりました。
 授業は月〜金に7時間、夕食後には2時間の自習も義務付けられ、土曜には試験と、厳しいスケジュールのもとで日本語教育が行われました。

 しかし、開校後1ヶ月で真珠湾攻撃が起こり、日系人は兵役不可となります。さらに1942年の2月には大統領令によって西海岸に住む日系人が強制収容所へと送られました。
 そんな中でも、2世語学兵の重要性を理解していた米陸軍は、学校をサンフランシスコから日系人にたいして比較的寛容だったミネソタ州に移転させ、米陸軍情報部語学学校(MISLS)として再スタートさせました。

 第一期生は各地で活躍し、米陸軍はさらなる日系2世の動員を図ります。これに対して収容所の暮らしから抜け出すために志願した者もいましたが、米国籍離脱と交換船での日本への「送還」をのぞむ日系人も2万人近くいたといいます(34p)。
 
 MISLSの卒業生たちは米軍のみならず、豪軍、ニュージーランド軍、英軍、中国国民党軍にも帯同し、各地で活躍しました。
 日本兵が残した日記、ノート、地図などの翻訳作業は重要な仕事で、特に日本の新Z号作戦(本ではZ作戦表記だけど、新Z号作戦のほうが正確か?)の計画書が米軍の手に渡り翻訳されたことは、マリアナ沖海戦での日本海軍の惨敗につながりました。
 また、米兵は日記を書くことを禁じられていましたが、日本兵は無頓着であり、部隊の行動などが日記を通して筒抜けになりました。トーマス・サカモトは、のちにこの行動規律の甘さが日本の敗北の一つの理由だと語っています(44-45p)。

 捕虜の取り調べも重要な仕事のひとつでしたが、ここでも日本兵は捕虜になるなとは言われても、捕虜になった場合の振る舞いを教えられていなかったので、2世の語学兵が日本語で話しかけ優しい態度を取ると、非常に協力的になり、作戦計画などの情報も提供しました。
 
 さらに2世語学兵は、通信傍受や日本兵への心理戦に携わり、最前線での投降の呼びかけ、前線で日本軍の命令を聞き取って伝えるなどなど、危険な任務にもつきました。
 占領期においても2世語学兵は活躍し、原爆被害の調査団の通訳などに携わった者もいました。

 アメリカでは海軍も日本語話者の養成を行いました。1941年10月にハーバード大学とカリフォルニア大学バークレー校に海軍日本語学校をスタートさせましたが、海軍は白人の大卒者を中心に養成を行いました。
 カリキュラムは、週6日、1日14時間の学習を50週続けるというハードなもので、1年間での日本語話者の育成が目指されました。
 ハーバードではカリキュラムを巡る対立でうまく行かず、バークレー校は上述の日系人の強制収容の問題もあり、海軍日本語学校はコロラド大学ボルダー校に移転します。
 しかし、やはり1年間の学習だけではうまくいかない部分もあり、捕虜の尋問などに関しては陸軍の二世語学兵の助けを借りることもありました。
 それでもこの海軍日本語学校の卒業生は「ボルダー・ボーイズ」と呼ばれ、日本でもよく知られているドナルド・キーンやエドワード・サイデンスティッカーらが、この卒業生になります。

 つづいてはイギリスです。イギリスは幕末時から日本語の通訳生の養成をはじめており、アーネスト・サトウなどのよく知られた人物もいます。
 しかし、日英同盟が破棄された後は、日本との交流も薄くなり、それに伴って語学将校や通訳生の数も減っていました。
 日中戦争が始まると、日本で1年間日本語を学ばせるプログラムが考えられますが、クレイギー駐日大使は日本語の習得には最低3年かかるとしてこのプログラムに反対しています(83-84p)。
 そこでイギリスは日本に滞在経験のある民間人の中から通訳者を動員するためのリストアップの作業などを行なっています。

 41年12月に対日戦が始まると、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で日本語通訳者の養成が始まります。
 軍人とともに若い学生も集められ、彼らは「ダリッジ・ボーイズ」と呼ばれました。日本経済の研究で有名なロナルド・ドーアもその一人です。
 日本語教師としては、日本に滞在経験のあるイギリス人とともに、日本人ジャーナリストの松川梅賢や簗田銓次(彼らは開戦時にイギリスにいた)、台湾人、日系カナダ人などが加わりました。
 しかし、SOASの卒業生だけで日本通訳者の需要を賄うことは難しかったようで、英軍はアメリカの2世語学兵の助けも借りています。
 
 イギリスでは、他にも暗号解読を目的とした政府暗号学校が日本語教育に乗り出しました。これがベッドフォード日本語学校です。
 ここに集められたのが西洋古典学専攻の学生たちでした。この理由については次のように述べられています。
 西洋古典学を専攻する若者が未知の言語である日本語の訓練生として最適だと判断したこともあるが、理工系や現代語といった分野と異なり、知識がすぐに戦争に役立つわけではない西洋古典学の学生はいまだ戦争に動員されていなかったという背景もある。(112p)

 訓練生は暗号解読の目的のためだけに、日本語の歴史も文化も学ばず、会話や作文の練習もしなかったそうですが、目的のはっきりとしたトレーニングのおかげもあって、訓練生たちは半年もたたずに実際の翻訳や暗号解読が行えるようになったそうです。

 オーストラリアでも1917年に陸軍士官学校のカリキュラムの一環として日本語教育が始まりましたが、「「日本語は文化的価値がほとんどなく、また、生涯をかけて学ぶような言語であり、日本に留学して学習を継続しなければ、学習に費やした時間は無駄である」との判断で、1938年には士官学校における日本がクラスは閉鎖され」(123p)ています。
 その後、日本との緊張の高まりなどから日本語の専門家を育成しようという方針を掲げますが、実施はされませんでした。

 こうした中で外国人の監視などを行う検閲局でも日本語教育の必要性が認識され、ロシア革命後日本で暮らしていた白系ロシア人のジョン・シェルトンを教師に迎え、日本語教育が行われました。
 ただし、日本との開戦の後も日本語話者の組織的な育成は進みませんでした。オーストラリアにも日本人や日系人はいましたが、彼らは「敵性外国人」として強制収容所に入れられ、アメリカのように彼らを語学兵として活用しようという動きはおきませんでした。

 ただし、豪軍が日本語の読解を通じてまったく戦果をあげなかったかというと、そうではなく、1942年に不時着した零戦をほぼ無傷で手に入れた際、部品のプレートを翻訳し、その生産場所を分析しました。このデータは米軍にも送られ、空爆の際の目標選定に使われました(153ー155p)。
 また、この本で紹介されているスイス出身でオーストラリアに帰化、さらに日本に帰化し、再びオーストラリアに戻って対日本の宣伝戦に携わったチャールズ・バビエの話は興味深いです。彼の長男のエドワードはシンガポールで憲兵の軍属通訳官となり、戦後、戦犯として有罪判決を受けています(155ー160p)。

 カナダ軍でも豪軍と同じように、開戦前に日本語ができる人材はほとんどいませんでしたし、開戦後も日本語言語官の育成は進みませんでした。
 実はカナダには日系人が多く住んでおり、オーストラリアからもカナダの日系2世を貸してくれないかという照会があったくらいなのですが、アメリカとは違ってカナダでは日系人の活用は進みませんでした。
 当時のカナダではアジア人の帰化が許されていましたが、帰化後の市民権は限定的なもので、投票権はなく、軍隊からも排除されていました。
 1942年になると日系人は収容所か特定の農場や作業所に移動させられ、設立された日本語学校の訓練生からも日系人は排除されました。

 カナダに対してはイギリスからも日系人を言語官として提供するように求める声が上がりましたが、カナダ政府は、BC州での反日感情や帰国後の法的地位をどうするかで決断ができず、44年末から45年初頭の時期になってようやく日系人の活用に踏み切りました(これにはイギリスのチャーチル首相直々の介入があったという話もある(184ー185p)。
 今でこそ「寛容な多文化社会」とみられるカナダですが、当時の日本人や日系人に対する偏見は非常に強いものがあったのです。
 この本では、日系2世で戦争中日本にいたために通訳官となり、戦犯として起訴されたカナオ・イノウエの運命についても触れられています。彼は戦犯裁判でカナダ国籍があることを理由に裁判の無効を訴えましたが、結局、カナダで国家反逆罪に問われ死刑判決を受けています(199ー201p)。

 このように基本的には太平洋戦争時における各国の日本語話者の育成を概観しつつ、その育成状況、活用状況の違いとその要因を探り、その中にいくつかの人間ドラマを挟み込んだ内容となっています。
 最初にも述べたように、「もう少し人間ドラマが知りたい」という感想を持つ人もいるでしょうが、丁寧な国際比較をすることで、国それぞれの思考の違いといったものも見えてくるのが興味深いところだと思います。貴重な仕事といえるでしょう。

太平洋戦争 日本語諜報戦: 言語官の活躍と試練 (ちくま新書1347)
武田 珂代子
4480071628
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-294826-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
タグクラウド
  • ライブドアブログ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('