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2022年06月

嶋田博子『職業としての官僚』(岩波新書) 6点

 一昔前までは「日本を動かしている」といったイメージを持たれていた官僚ですが、近年ではそのブラックな働きぶりなどが話題になっています。つまり、ここ2、30年ほどで官僚の置かれている状況は大きく変わっています。
 本書は、長年人事院に在職し現在は大学教授となっている著者が、現在の日本の官僚の実像と、ここ2、30年の変化を明らかにしつつ、あるべき官僚の姿を国際比較などを通じて探ったものになります。
 著者は1986年に採用されており、本書でも1986年当時と比較しながら説明していますが、これを読むとこの間の変化には驚かされます。
 今後の官僚のあり方については、理念的なものではなくて、もう少し具体的に期待される制度改革などを知りたかった気持ちもありますが、現在の日本の官僚の状況を知るには有益な本だと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 日本の官僚の実像――どこが昭和末期から変化したのか
第2章 平成期公務員制度改革――何が変化をもたらしたのか
第3章 英米独仏4か国からの示唆――日本はどこが違うのか
第4章 官僚論から現代への示唆――どうすれば理念に近づけるのか
結び――天職としての官僚

 第1章では、まずは現状を説明した上で、比較として1986年当時の状況が説明されていますが、ここではわかりやすいように1986年の状況→現在の順で紹介します。

 まず、採用ですが、1985年に採用区分がⅠ種、Ⅱ種、Ⅲ種に再編され、86年度入省組はその一期生でした。Ⅰ種合格者に占める東大出身者の割合は32.7%、事務系に限れば約56%になり、採用された者に限れば、さらにその比率は上がります。
 「出張が多い」「男性の部下に指示できない」などの理由で女性を門前払いする省庁もありました。

 2021年度の東大からの総合職の合格者の割合は17.6%(事務系に限れば19.7%)、出身大学の多様化は進んでいます。女性の割合は全試験採用者で37.0%、総合職で34.1%となっています。

 昇進と人事評価については、1986年の段階では人事が各省の自治に委ねられており、上級職で採用されれば、3年程度で係長、6〜7年で課長補佐、20年目前後に本省課長に昇進するのが通常でした。
 事務次官を頂点とする組織でどこまで出世するかは、有力OBを含む周囲の評判で決まるような形で、評点をつける人事評価はありませんでした。

 現在では、Ⅰ種や総合職で入ったから横並びで出世するというわけではなく、Ⅰ種以外からの本省課長級以上のポストへの登用も増えています。人事評価も年2回行われるようになっており、幹部人事においては内閣人事局の発足以降は官邸の意向が重要になっています。

 給与については1986年も現在も民間企業との均衡を考慮に入れて人事院勧告が行われていますが、1986年には調査対象は従業員100人以上の企業だったが、現在は50人以上の規模となっています。
 1986年の段階では年功制が強く、若手管理職よりもベテラン係長の給与が高いことも珍しくなかったですが、現在では人事評価により違いも大きくなっています。以前にはあった官舎が削減されたことも、待遇的にはマイナスと言えます。

 勤務時間については、1986年当時は週44時間で土曜は半日勤務、92年から週休2日制に移行しています。勤務時間の管理についてはルーズで、国会対応のための残業はありましたが、質問主意書は少なく、政府委員として官僚の答弁が可能だったため、今のような大臣への詳細なレクは必要ありませんでした。
 一方、法案の作成や改正に関しては有望な若手を集めてプロジェクトチーム(タコ部屋)がつくられ、内閣法制局のダメ出しを避けるべく連日深夜におよぶ作業が行われました。各省協議では自省の立場を守るべく相手に大量の質問を浴びせる「紙爆弾」が飛び交い、あきらめたほうが負けということになりました。
 
 現在は、所定内勤務時間が38時間45分になりましたが、長時間労働は相変わらずです。
 政府委員が廃止されたこともあって大臣レクは詳細なものになり、質問主意書も大きく増加しました。質問主意書の中には「政府はUFOを確認したことがあるか」「二日酔いは病気か」(29p)といったものもあります。
 実績に応じた残業手当の支給は進みつつありますし、育児や介護をカバーするための制度も手厚いですが、結果として独身者に国会対応などが集中するといった問題もあります。

 1986年時には、官僚が関係企業の宴席に出向くのは業務の一環と考えられていましたが、2000年施行の国家公務員倫理法によって接待は禁止され、利害関係がない場合でも5000円を超える贈与や飲食の接待、謝金などについては四半期ごとの届け出が必要になっています。
 また、身分が安定しているのが公務員の特徴ですが、社会保険庁の廃止の際には522人が分限免職となっています。

 1986年には当たり前だった「天下り」への規制も強まっています。86年当時も、退職後2年以内に密接な関わりのある営利企業に再就職することは禁止されていましたが、まずは公社・公団、特殊法人等に再就職し、2年後に営利企業に入るというやり方がたびたびとられていました。
 しかし、「天下り」への批判の高まりによって、現在では再就職の斡旋はなくなっており、結果として組織の新陳代謝は遅くなっています。

 仕事の中身に関しては、2021年に行われた1990年代なかばに採用された現役幹部6名のインタビューからその変化を見ようとしています。
 まず、小泉政権から官邸の影響力が強くなるとともに、内閣官房副長官補室の役割も大きくなっています。官邸主導の結果、縦割りの弊害は弱まっていますが、同時に各省は下請け化しており、政策は上から降りてくるので「やらされ感」が強くなっているといいます。

 90年代までは紙爆弾で相手から覚書をとってなんぼという文化がありましたが、情報公開法と省庁再編、官僚の不祥事、橋本行革で省庁間で所掌が重なっても良くなったことなどによってそういったものはなくなってきました。また、内閣法制局の地位低下も著しいといいます(これは第2次安倍政権ではなく民主党政権のときに始まっているという)
 政策形成については以前はボトムアップ式で、係長・課長補佐あたりから関わっていたといいますが、現在は課長級からで、その課長は以前は若手がやっていたペーパーを起案などもするようになっています。また、ネットの発達によって官庁の情報における優位はなくなっています。
 
 第2章では、平成期に行われた公務員制度改革を見ていきます。
 戦前の官僚性はドイツ・プロイセンを模範としていましたが、戦後になるとアメリカ型の公務員制度が導入されます。
 とはいえ、各省ではすでに長年にわたってドイツ・プロイセン流の内部育成型の運用が定着しており、アメリカ型の職階制や公募制は根付きませんでした。GHQがアメリカの人事委員会をモデルにしてつくった人事院に対しても反発が強まり、給与などの労働条件の確保の機能を中心に残っていくことになりました。
 結果的に、人事に関しては各省ごとの分権的な仕組みが残りました。

 55年体制のもとで自民党と省庁が密接な関係を築きましたが、90年代の初頭までは官僚への評価は概ね高かったと言えます。
 ところが、住専問題や薬害エイズ問題、95年の大蔵省の過剰接待問題、96年の厚生省事務次官の収賄逮捕、98年の大蔵省金融接待の問題などが明らかになり、官僚に対する信用は大きく低下していきます。

 こうした中で、公務員制度改革の方向性として3つのベクトルが打ち出されました。
 各省が望んだのは人事に関する規制緩和・分権化(ベクトルⅠ)、政権が望んだのは各省人事の集権化(ベクトルⅡ)、公務員労組が望んだのは労働基本権回復による自律的労使関係の回復(ベクトルⅢ)です。

 橋本行革がスタートしたころには、ベクトルⅠとベクトルⅡが混在していましたが、官僚の不祥事などもあり、局長級以上の人事に内閣の関与が強まっていきます。幹部人事に内閣官房長官の事前了解が必要になり、ベクトルⅠの方向が強くなっていきます。

 小泉政権では、鈴木宗男議員と外務省の関係など、族議員と官僚の関係が問題になりましたが、基本的に小泉首相は公務員制度改革に興味を持っておらず、本格的な改革は以降に持ち越されます。

 つづく第1次安倍政権は公務員制度改革に取り掛かり、新たな人事評価や再就職規制の見直しを進めます。基本的には第1次安倍政権は官僚に「民間並みの厳しさ」を求めるスタンスでしたが、その中で「自律的労使関係の確立」(ベクトルⅢ)が浮上します。
 労働基本権を与える代わりに処遇を切り下げるということが考えられたのです。

 つづく福田政権で国家公務員制度改革基本法が成立し、総理・内閣官房長官の下での一元的な幹部人事の管理とそれを担う内閣人事局の創設が決まります。しかし、この基本法にはさまざまな要素が混在しており、これが形になるにはさらなる時間が必要でした。
 
 2009年に成立した民主党政権の特徴は政策形成からの官僚の排除であり、事務次官会議や内閣法制局長官が国会で政府解釈を述べることなどが廃止されています。
 公務員制度改革についても、基本的には政治家による官僚への統制を強める方向で議論が進みますが、一方で死じ団体である連合の意向も受けて、自律的労使関係の実現の目指されます。

 しかし、民主党政権が下野して第2次安倍政権が成立すると、自律的労使関係(ベクトルⅢ)は消え、各省人事の集権化(ベクトルⅡ)のみが実現することとなります。2014年に国公法改正案が成立しますが、幹部人事一元管理と内閣人事局の創設のみが実現する形となったのです。
 こうして第2次安倍政権では、首相や内閣官房長官、副長官、官邸官僚と呼ばれる人々が政策や人事を主導し、各省がそれに従うというスタイルが出来上がりましたが、官僚の中からは「アイディアが出てこなくなった」「言うべきことが言えない」、「若手が政策に関われなくなった」といった声もあがっています。
 
 第3章では、海外(英米独仏)との比較が行われています。
 まず、公務員の数ですが、フランスが人口1000人あたり公的部門の職員数が90.1人と一番多く、イギリス67.8人、アメリカ64.1人、ドイツ59.7人、日本36.9人っとなっています(129p図3−1参照)。前田健太郎『市民を雇わない国家』でも指摘されていたことですが、日本の公務員は非常に少ないです。

 任用体系について「内部育成型か開放型か」「政治任用多用型か成績主義貫徹型か」という軸で分類すると、アメリカが「開放・政治任用」、ドイツが「内部育成・成績主義」、フランスが「内部育成・政治任用」、イギリスはかつては「内部育成・成績主義」でしたが、近年では「開放型・成績主義」に移りつつあります(131p図3−2参照)。

 ドイツとフランスでは入口での選抜試験で最上位グループの試験で採用された者だけが将来の幹部候補になります(日本だと採用後の逆転もありえる)。
 ドイツでは事務次官・局長は「政治的官吏」と呼ばれ、大臣が更迭することも可能です。しかし、更迭されたあとも7割を超える給与(恩給)が3年にわたって支給されるようになっており、大臣もそう簡単に更迭するわけにはいきません。
 フランスでは事務次官のポストは存在せず、局長級や大使・知事(公選ではない)などは大臣が官僚の中から自由に任用・更迭できます。

 イギリスは、以前はオックスフォードやケンブリッジからファストストリーマー(速い流れ)と呼ばれる採用試験で合格した者が幹部になっていきましたが、近年では民間企業出身者なども増えています。

 アメリカは政治家と政治任用者が政策立案を行うということになっており、幹部は公務外からの登用が基本です。
 下位ポストについては成績主義による採用が浸透しつつありますが、給与の面などでは民間に劣ります。

 ドイツとアメリカの公務員に労使交渉がなく、イギリスは労使交渉があります。フランスは「公務員も争議は可能だが、協約締結権はない」(141p)という形です。
 勤務時間については英米仏独とも、一般の公務員はそれほど長時間労働をしていませんが、エリート職員についてはそうではなく、フランスでは大卒程度以上の上位カテゴリーに属する官僚は超過勤務手当の支給対象になっていません。

 近年、イギリスにおけるNPM(新公共管理)改革など、官僚制度についての改革も進んでいますが、著者に言わせれれば「「学ぶべき成功例」というほどのものは見出しにくい」(167p)そうです。
 政治からの圧力という点でも、各国に共通した課題となっていますが、日本は特に官僚の自律性を保証する制度的な決まりがなく、また、政権交代も少ないために、官僚が政治家に従属しやすい状況になっているといいます。

 第4章はウェーバーやシュミット、アーレント、ウィルソン、マートンなどの官僚論からあるべき官僚の姿を探るという話なんですけど、ここは正直なところあまり面白くなかった。
 NPM改革について、上級官僚には執行部門の切り離しに魅力を感じるものをいたが、執行部門が切り離されたことで政策全体への大臣の統制を難しくした、「執行知」という官僚の強みを失わせることになったという指摘は興味深いですが、全体的にやや浅いおさらいに終わってしまっていると思います。

 「結び」では、官僚の喜びとしていくつか現場の声を拾っています(警察庁×3、財務省×2、金融庁×1、総務省×1、外務省×1、文科省×1、厚労省×1、農水省×1、経産省×1、国交省×1、環境省×1、防衛省×1)。
 こうした声を読むと、やはり自分の仕事が社会の役に立ったという感覚が官僚の仕事の喜びにつながっていると言えます(そしてそれが一番感じられるのが警察なのか?)。

 このように本書は官僚の喜び、持つべき心構え、向いているタイプといったことを述べて終わるのですが、人事院にいたという著者からはもう少し細かい制度的な部分も聞きたかった気がします。
 例えば、幹部人事の登用において、「主要ポストについては具体的職責と求められる能力・経験(職務記述書)を事前に公開し、特定の人材が選ばれた後に要件に照らして最適任と判断した理由を公表するという運用」を提案し、2007年の人事評価制度の導入以降は、年2回の評価が定着しており、各ポストの具体的業務内容の記録が積み上がっているので、「これをベースに、その時々の政権の政策優先順位に沿ってアレンジするだけで、主要ポストの職務記述書は比較的容易に公開できよう」(175p)と述べているのですが、官僚の世界を知らない者からすると、それは具体的にどんなもので、本当に容易なのかということが知りたいです。
 最初にも書いたように、個人的には理念よりも具体的な制度改革についてもっと書いてほしかった気持ちがあります。
 

千々和泰明『戦後日本の安全保障』(中公新書) 7点

 去年、同じ中公新書から『戦争はいかに終結したか』(中公新書)を刊行した著者が、タイトルの通り、戦後日本の安全保障の歴史を「日米安保条約」「憲法第9条」「防衛大綱」「ガイドライン」「NSC」といったトピックに沿いながらたどった本になります。
 日本の安全保障といえば、憲法の制約もあって「建前」と「実態」の乖離が問題となっており、また、「建前」を維持するために文言自体もややこしいものになっているのですが、本書を読むことで、そのいくつかについては見通しが良くなるのではないかと思います(もちろん「建前」と「実態」の乖離がなくなるといったことではないですが)。
 防衛大綱の部分などはけっこうマニアックで、面白いと思えるかは人それぞれかもしれませんが、安保条約やガイドラインのところで出てくる、日米同盟と米韓同盟のリンクに関する話などは非常に面白く、安全保障に対する理解が一歩深まる本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 日米安保条約―極東地域に「開かれた」同盟
第2章 憲法第九条―「必要最小限の実力」を求めて
第3章 防衛大綱―基盤的防衛力構想という「意図せざる合意」
第4章 ガイドライン―地域のなかの指揮権調整問題
第5章 NSC―「司令塔」の奇妙な制度設計
終章 歴史に学ぶこれからの日本の安全保障

 まずは日米安保条約ですが、著者は1951年に署名されたこの条約の性格に関して「物と人との協力」だとまとめています。もしものときにアメリカは日本を守り、その代わりに日本が基地を提供するというわけです。
 ただし、日米安保条約には「極東条項」があり、単純に日本の防衛のためだけにあるというわけではありません。また、事前協議制度がありますが、朝鮮半島有事に関しては事前協議の対象外になるという「朝鮮密約」がありました。
 
 当初の日米安保条約はアメリカの日本防衛の義務に口をつぐんでおり、「対等性を欠く」との批判もありました。そこで1960年により双務性が高い内容に改定されました。
 それでも「物と人との協力」という性格から、平時では一方的に物を提供する日本の負担感が強く、逆に有事になればアメリカの負担感が強くなると著者は述べています。

 それでも先程述べた「極東条項」や朝鮮半島有事が事前協議の対象外になるという点に不平等を感じる人もいると思いますが、これについては著者は戯画的であるがと断った上で次のような説明をしています。
 例えば、朝鮮半島有事の際、北朝鮮攻撃のために日本の基地から米軍機が飛び立とうとするのを日本が事前協議を使って止めたとします。そうなれば米軍機は一旦引き返して国連旗のシールを貼れば、日本政府は口出しできなくなるのです。
 1950年に結成された朝鮮国連軍はまだ存続しており、座間、横須賀、佐世保、横田、嘉手納、普天間、ホワイトビーチの各基地は「在日国連軍基地」でもあります。
 
 
 つまり、日米安保条約は在日米軍だけではなく在日国連軍の行動も保障しており、日米安保条約は米韓同盟ともかかわっているのです。
 この米韓同盟との関わりについては、沖縄返還にあたって韓国が日本に対して事前協議の権利を放棄するように求めてきたことにも現れています。朝鮮密約を知らなかった、あるいは実効性に疑問を持っていた韓国政府は、沖縄の基地に事前協議の縛りがかかることで朝鮮半島における米軍の行動に縛りがかかることを恐れたのです。
 2014年に安倍首相が韓国救援のための沖縄の在日海兵隊の出動が事前協議の対象であると答弁した際も、在米韓国大使館関係者は日本の基地は在日国連軍基地であるから事前協議は不要との反論を行っています(34−35p)。

 米韓同盟意外にも、アメリカはANZUS同盟、米比同盟、米華同盟(米中国交正常化によって失効)という形で東アジアではアメリカをハブとして軍事同盟が結ばれています。日米安保条約は二国間同盟ですが、アメリカを通じて他の国々とつながっているのです。
 このあたりが日本の一国平和主義との間で齟齬をもたらしているとも言えます。

 憲法9条は戦争放棄と戦力不保持を掲げています。戦争放棄の規定は、国際法の観点から見て特異なものではありませんが、戦力不保持は国際的に見ても踏み込んだ規定です。
 ただし、この規定は天皇制の存続とバーターで取り入れられたという経緯があり、著者は「天皇制を守るためのいわば「捨て石」」(63p)と見ています。
 
 ところが、朝鮮戦争が勃発すると警察予備隊がつくられることになります。そして1954年に自衛隊が発足するわけですが、集団的自衛権の行使ができないという下田武三外務省条約局長の答弁もこの年に行われています。
 そして、この解釈は1972年には政府解釈に格上げされて、1981年の答弁でも「憲法上許されない」としています。

 これについて著者は「政治的必要性を満たすために演じられた一種の手品」(68p)と書いています。
 1952年の保安隊時代、政府は「戦力」を「近代戦遂行に役立つ程度の装備、編成を具えるもの」(68p)と定義し、保安隊はこれに当てはまらないので合憲という立場をとっていました。
 
 ところが1954年に自衛隊が発足し、防衛任務が付与されるようになると、この「近代戦遂行能力」を使った説明は苦しくなります。
 そこで政府は「必要最小限論」という自衛のための「必要最小限」のものであれば憲法の戦力には当たらないという立場をとるようになります。
 54年には佐藤達夫内閣法制局長が、自衛権発動の要件として、①「急迫不正の侵害」、②「それを排除するために他の手段がない」、③「必要最小限度それを防禦するために必要な方法をとる」という3つの要件を示しました。

 同じ年に出たのが集団的自衛権行使違憲論ですが、著者は、これを並立するはずの集団的自衛と個別的自衛権の関係を上下の関係に転倒させて、集団的自衛権と個別的自衛権の間に「必要最小限」の基準を引いたものだと見ます。
 1951年に日米安保条約を結ぶ段階では集団的自衛権が禁止されているという認識は示されなかったのですが、ここで集団的自衛権の行使が禁じられたのは「必要最小限」の基準を示すためだというのです。
 
 2014年、第2次安倍政権のもとで「存立危機事態」というものが設けられて集団的自衛権の限定行使に道が開かれましたが、「必要最小限度の実力を行使する」という点は変わっていません。

 実は「必要最小限論」ではなく、9条第2項に「前項の目的を達するために」を挿入した「芦田修正」を使えば、2項の「戦力」は侵略戦争のための「戦力」を指すことになり、「必要最小限論」に拘る必要はなくなります。
 しかし、吉田首相がこの「芦田修正論」を使わなかったこともあり、過去からの整合性をとるために政府の解釈はずっと「必要最小限論」でした。

 PKOへの自衛隊での参加では、PKOは他国の武力行使とは一体化しない、との説明がなされています。これに対して、小沢一郎は9条第1項は侵略戦争の放棄を意味しており、自衛隊が国際平和強力において武力を行使しても第2項の違反にはならないという芦田修正に近い考えをとりましたが、政府解釈としては採用されませんでした。
 結局、取ってつけたような「必要最小限論」が、さまざまな苦しい解釈を生み出しているというのが著者の見立てになります。

 第3章は防衛大綱について。
 防衛大綱は「自衛のための必要最小限の実力」の内実を定めるものですが、登場したのは1970年代で、それまでは「○次防」と俗称される5か年防衛力整備計画がありました。
 
 5か年防衛力整備計画は1957年に策定された「1次防」から72年に策定された「4次防」まで4回つくられています。
 しかし、「3次防」で計画されていたものが達成できないままに「4次防」となり、その「4次防」の経費が原案から6800億円も減額されたこともあって「4次防」は「死次防」と言われる始末でした。
 これはデタントと中ソ対立、景気後退などによって「脅威対抗論」に立つ「所要防衛力構想」に疑問が呈されたからです。ソ連や中国の脅威を掲げて防衛力を強化してきたやり方が通じなくなったわけです。

 そこで脅威対抗論に代わって出てきたのが「基盤的防衛力構想」という考えでした。提唱者の久保卓也はこれを「できればこれを速やかに排除しあるいは少くとも相手の犠牲をできるだけ大きくさせ、短期間に屈服することなく、国際世論の反撥を受けさせるような防衛力、防衛構想」(108−109p)と位置づけています(今回のウクライナ危機をみるとこのような力の重要性は理解しやすいと思う)。

 そして、この「基盤的防衛力構想」は30年以上も維持されます(撤廃されるのは「2010年大綱」)。この間に冷戦の集結など安全保障環境の大きな変化があったにもかかわらずです。

 4次防はつくられたものの、結果的に予算は保証されませんでした。もう「5次防」はつくりたくないということで採用されたのが計画期間や所要経費を明示しない防衛大綱という方式でした。
 ところが、「所要防衛力構想」に立つ限り、計画期間を明示しないわけにはいきません。日本が受ける「脅威」を定期的にレビューする必要があるからです。
 そこで生み出されたのが「基盤的防衛力構想」です。これには「脅威対抗論」に立つ制服組が反発しましたが、結果として広い解釈を可能とするこの方針は生き残りました。
 79年のソ連のアフガニスタン侵攻によって米ソ対立が再燃しても、「基盤的防衛力構想」は「脅威対抗論」に寄りながらも生き延びましたし、冷戦終結後は「脅威」が後退したがゆえに再び注目されました。
 こうして2010年大綱で、グレーゾーンを含む多様な事態へのシームレスな対応を含む「脅威対抗_運用重視」の防衛構想が打ち出されるまで、曖昧かつ都合の良い概念として「基盤的防衛力構想」は維持されたのです。

 第4章はガイドライン(日米防衛協力のための指針)です。
 実は有事の際に自衛隊とアメリカ軍が共同対処を行うための公式な枠組みは長らく存在しておらず、1978年になって初めてこのガイドラインが策定されました。
 
 長いこと公式な枠組みがなかった理由の1つが指揮権の問題です。
 米韓同盟やNATOとは異なり、日米同盟では識見は統一されず、「連合(軍)司令部」も設立されません。1952年の日米行政協定をめぐる交渉でもアメリカ側は有事指揮権の統一を要求していたのですが、日本側はこれを拒否しました。しかし、行政協定締結直後に有事指揮権の統一を認めた「指揮権密約」が交わされています。

 その後、ガイドラインがつくられ、その内容も深化していきますが、表向き指揮権並立体制をとっていることに変わりはありません。米韓同盟では司令官がアメリカ人、副司令官が韓国人と決まっていますが、日米同盟では「並列」です。
 
 この背景として、そもそも日本が他国の指揮下で戦ったのは義和団の乱のときしかないという歴史的経緯もあるとされますが、著者は指摘するのは米韓同盟との関係です。
 1952年の「指揮権密約」が結ばれた当時、アメリカの極東司令官は国連軍司令官を兼務する立場であり、警察予備隊がアメリカの極東司令官の指揮下に入れば、それは日米連合司令官のみならず米日・米韓両連合司令官となるものでした。
 つまり、当時の日本政府はアメリカの指揮下に入ることにより日本部隊が朝鮮半島へ派兵されるのを恐れたのです(実際、朝鮮戦争で海上保安庁の特別掃海艇が機雷掃海活動に従事している)。 
 こうしたことから、日本政府は日米行政協定に指揮権の統一が明記されることに抵抗しました。そして、78年のガイドラインの策定のときもやはり問題として浮上しています。

 1997年のガイドライン策定交渉では、有事指揮権統一は論点とはならず、自衛隊とアメリカ軍が効果的な作戦を共同で実施できるように「日米共同調整所」の設置と活用がうたわれました。
 しかし、著者は有事指揮権統一の問題は現在もくすぶり続けていると考えています。

 第5章はNSC(国家安全保障会議)についてです。
 2013年、第2次安倍政権のもとで創設された組織で、日本の安全保障の「司令塔」の役割を期待されています。
 ただし、決定自体はあくまでも閣議で行われるため、日本のNSCはあくまでも審議機関ということになります。

 鳩山一郎政権期の1956年に国防会議がつくられ、それが中曽根政権期の1986年に安全保障会議となり、NSCとなったわけですが、こうした内閣安全保障機構の設置趣旨は、文民統制確保のための慎重審議ということで一貫しています。
 文民統制には、文民指導者が軍に対して「何々せよ」と命じる「ポジティブ・コントロール」と「何々するな」と命じる「ネガティブ・コントロール」があるといいますが、戦後の日本で強調されてきたのは後者のネガティブ・コントロールです。

 NSCは総理を議長とする四大臣会合、九大臣会合、「緊急事態大臣会合」という三種類の閣僚級会合から構成されています。
 ところが、四大臣(総理・外務・防衛・官房長官)会合と九大臣(上記の四大臣+総務・財務・経産・国交・国家公安委員長)会合を比べると、四大臣会合のほうが審議事項が広いというあべこべな構成になっています。九大臣で話し合って処理できなかった問題をより上位の四大臣会合で決定するという立て付けになっていないのです。

 実はこの九大臣会合というのは安全保障会議のメンバーとほぼ同じであり(経済企画庁長官がいなくなるなどの変遷はあったものの)、ネガティブ・コントロールの要として位置づけられたものでした。
 この機能を九大臣から四大臣にすることは、「監視主体」の縮小を意味し、ネガティブ_コントロールが後退したとの印象を与えます。そこで、重要事項に関しては九大臣の関与が残ったのです。

 もともと旧軍人を嫌い、保安庁の内局に内務官僚を配置した吉田茂に対し、改進党などは再軍備に旧軍人を関与させる機会をうかがっていました。改進党案では「国防会議の構成員はその3分の2以上は文民でなければならない」となっており、この規定を使って旧軍人をここに押し込むことを狙っていました。
 ところが、吉田が退陣して鳩山政権が成立すると攻守が交代する形になり、自由党が国防会議に民間人を入れることを批判します。結局、鳩山は民間人枠を断念し、さらに服部卓四郎を事務局長に迎える案も断念します。
 こうして国防会議は「文民統制確保のための慎重審議」をする場所という形に落ち着いたのです。そして、これは安全保障会議にも受け継がれていきます。

 このように本書を読むと、日本の安全保障政策が置かれている歴史的・国際的な条件というものが見えてきます。
 もともと9条があるのに自衛隊をつくり、集団的自衛権を否定しながら日米安保条約を結び、といった具合にいろいろと無理を重ねてきた結果、非常にわかりにくくなった安全保障政策の立て付けや東アジアにおける安全保障体制との関わりといったものが見えていきます。
 前にも述べたように、ややマニアックなところもありますが、安全保障や戦後史に興味がある人ならば「なるほど」と思える本ですね。


山本章子・宮城裕也『日米地位協定の現場を行く』(岩波新書) 7点

 『日米地位協定』(中公新書)で日米地位協定の実態と問題点を掘り下げた山本章子が、沖縄出身の毎日新聞記者である宮城裕也とタッグを組み、米軍基地が立地する地域や部隊や訓練が移転されている地域を取材した本になります。
 
 本書の面白さは、宮城が沖縄出身、山本が琉球大学に勤めていながら、沖縄以外の地域を重点的に取り上げているところにあります。
 宮城は高校2年生のときに沖縄国際大学に米軍ヘリを墜落した事件を間近で目撃し、ここから基地問題に関心をいだき、新聞記者となります。そして、三沢基地のある青森県に赴任するのですが、ここでの米軍基地を取り巻く人々のあり方や感情は沖縄とは違います。この「ズレ」がまずは興味深いです。

 そして、さまざまな基地の現場を見ていくことで、騒音などの問題だけではなく、こと米軍に関してはアカウンタビリティがまったくはたらかないという日米同盟のあり方の問題も見えてきます。
 米軍基地の問題というと、どうしても沖縄の問題と考えられがちですが、そうではないことを教えてくれる本ですし、また、沖縄の基地問題を考える上でも有益な本だと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 日米地位協定とは何か
第2章 三沢基地──青森県
第3章 首都圏の米軍基地
第4章 岩国飛行場──山口県
第5章 自衛隊築城基地──福岡県
第6章 自衛隊新田原基地──宮崎県
第7章 馬毛島──鹿児島県
第8章 嘉手納基地──沖縄県
おわりにかえて

 日米地位協定は1960年の安保改定のときに結ばれたもので、誕生以来、一度も改定されていません。占領軍の特権を温存した日米行政協定を改定する形で締結されたものですが、米軍の起こした犯罪や事故について日本側が捜査・調査できないなど大きな問題を抱えています。

 日米地位協定の問題点については前掲の山本章子『日米地位協定』(中公新書)が詳しいですが、犯罪や事故の問題以外にも、米軍基地の環境汚染に有効な対策を打てない、米軍の基地間の移動を自由に認めているために米軍の訓練が規制できない、表向きの条文以外にも日米地位協定合意議事録というものがあり、それが協定とは異なる運用を可能にしているなど、さまざまな問題があります。
 日米地位協定合意議事録については表立ってぎろんされることがなかったものですが、ここで「所在のいかんを問わず合衆国軍隊の財産について、捜索、差押え又は検証を行う権利を規定しない」(20p)と定めており、これが米軍の事故を日本が調査できない根拠になっています。

 こうした不平等も言える構造が温存されてきた背景には、日米安保条約が米軍の日本駐留の権利を書いた「駐軍協定」の性質を持っていることがあります。NATOであればNATOの一員であることと米軍を受け入れることは別問題ですが、日本の場合は同盟関係と米軍の駐留が切り離せない関係になっているのです。

 第2章では青森県の三沢基地がとり上げられています。先程述べたように著者の1人である宮城の赴任地ですが、ある市民に「ミサワは基地とともに発展した。沖縄とは歴史的刑が違うんですよ」(32p)と諭されたように、沖縄との基地に対するスタンスの違いに驚かされたといいます。

 1938年、もともと放牧地と雑木林だった土地に海軍が飛行場を建設し、戦後になって米軍がそれを接収したことで三沢の基地の歴史は始まりました。
 三沢村は1948年に三沢町に、58年に三沢市になったように基地の拡張とともに発展していきます。
 三沢市の2015年度の予算約239億円のうち、2割の約51億円が基地関連の補助金で、基地とは「共存共栄」「持ちつ持たれつ」の意識があります。
 沖縄では、基地はいずれ返還されるものとの認識がありますが、著者が種市三沢市長にそのことを尋ねると、「そういう議論をしたことさえないのでは」(35p)と返されたといいます。

 これには歴史的な経緯もありますが、沖縄では観光業の発展とともに経済の基地依存度も下がってきたのに対して、三沢ではそういったものがないということもあります。
 ただし、1970年代前半に米軍の縮小で実戦部隊が姿を消した際には、基地従業員が解雇され、米兵向けの飲食店などが閉店するなど大きな影響がありました。基地依存の問題点というものは三沢の市民もわかっているはずです。

 また、配備されているF-16戦闘機の騒音の被害も深刻で、100デシベルを超えるような騒音の計測されています。
 この騒音対策として集落の集団移転も行われており、国有地となったその場所はほぼ活用されないままになっています。国有地は営利目的の活用ができず、また建物を建てる際は取り壊し可能なものを条件にしているため、公園などにするしかないのです。
 また、2001年には天ケ森地区の近くにF-16が墜落するなど、事故の不安とも隣り合わせです(結局、天ケ森地区でも住民の移転が進められた)。

 基地の外に住む米兵もいますし、街でも米兵の姿を見かけるのですが、その正確な人数はわかりません。米軍関係者は住民登録の義務が免除されており、市民税も払っていません。その代わりとなる交付金もありますが、その算出根拠となるはずの人数も自治体は把握できません。
 
 2018年2月にはF-16の燃料タンクが小川原湖に落下する事故が起き、油が流出したために漁ができなくなりましたが、漁ができなくなったことに対する補償交渉もなかなか進まず、その間にも訓練は再開されました。
 小川原湖ではオスプレイによる水中救助訓練なども行われており、「日本を守るためなのか何なのか分からないが、戦争に負けたからしょうがないんだべな」(74p)と話す市民もいます。

 第3章は首都圏の米軍基地。横田がスルーされていることもあってここは比較的短いです。
 赤坂プレスセンターと厚木基地がとり上げられていますが、厚木の話が中心です。厚木については横須賀とともに一度は返還が決まったのですが、第7艦隊の削減に佐藤栄作首相が反対したこともあって返還が白紙になっています。
 その後、基地の管理権の一部が自衛隊に移ったものの、それは名ばかりで、ほぼ米軍が自由に使用しています。
 また、騒音の問題も深刻で、被害がひどい地域については国による土地の買取も行われていますが、それによって住宅街のあちこちに緑のフェンスに覆われた移転跡地が点在するような風景になってしまっています。

 第4章は岩国基地。沖縄の問題について「本土は無関」という声を聞きますが、岩国市の市議会の桑原敏幸議長は岩国市市議会で「沖縄の基地負担軽減の決議」を主導し、三沢などの他の基地の立地自治体にも同じような決議をするように呼びかけていました。
 桑原氏は著者(宮城)の取材に「「本土も沖縄は気の毒だと思いやっていることを分かってもらわんと。そのへんを沖縄の人は分かってないと思うんよ。本土は冷たいと。本土でも考えている自治体はある。受け入れるものは全部受け入れるよ」(101−102p)と答えてます。

 もちろん、この発言の背景には米軍の受け入れと引き換えに政府からアメがあります。桑原氏も「国が手当するのは当然」(104p)と述べているように、岩国は今までもさまざまな手当を受けてきた街でもあります。
 2012年から民間空港としても使われ始めた岩国飛行場の駐車場料金は以前は無期限で無料、立体駐車場ができてからは5日間無料という大盤振る舞いですが、これを支えているのが米軍再編交付金です。
 岩国には厚木から艦載機が移駐してきましたが、それに伴って10年間で140〜150億円の再編交付金が周辺自治体に支給されたのです。

 岩国では2018年に「愛宕スポーツコンプレックス」という野球場、陸上競技場、テニスコート、体育館などを併設した施設が誕生しています。米軍関係者のためにつくられたものですが、岩国市民もお金を払えば利用できるようになっています。
 その近くには「愛宕ヒルズ」という米軍関係者のための住宅地もありますが、関係者以外の立ち入りは禁止で、何人住んでいるのかは市も把握していません。

 こういった米軍基地のあり方に疑問を持つ人もおり、2006年に当時の井原勝介岩国市長は関西紀伊店の是非を問う住民投票を行い、投票率58.68%、そのうち反対票が87%という結果が出ます。
 この結果を受けて井原市長は国に艦載機移転の撤回を求めますが、国は市庁舎の建て替えの補助金を停止するなどの圧力をかけました。結果として、井原市政は終わりを告げることになります。
 このような「ムチ」を見せられた岩国市は、再び交付金という「アメ」に頼る市政に転換していったのです。

 第5章では福岡県築上町の自衛隊築城(ついき)基地がとり上げられています。築城は自衛隊の基地ではないか? と思う人もいるでしょうが、築城には拡張計画が持ち上がっており、その中に米軍用の駐機場と弾薬庫の整備と滑走路の延長が含まれているのです。
 これは普天間基地返還の代わりとして築城と新田原基地が有事の際の受け入れ機能を果たすためのもので、これによって自衛隊の使うスペースが手狭になることから基地自体の拡張も計画されています。

 当然、住民からはさまざまな不安の声が上がるわけですが、ここでも問題になるのは米軍が絡んだときの説明の不透明さです。
 米軍機は基地間や基地と民間空港の間を移動できるという日米地位協定第5条第2項の規定を使って訓練を行っています。飛行訓練についての明確な規定がないために、米軍が築城の周辺でどのような訓練を行う可能性があるのかはわかりません。
 また地位協定の第2条第4項に自衛隊基地のような日本の管理下にある施設を米軍が「一定の期間を限って」使用できるとしていますが、逆に言えば試用期間以外は制限がないということでもあります。
 このため、基地拡張をめざす防衛省も住民が納得するような説明はできないのです。

 第6章でとり上げられている宮崎県の新田原(にゅうたばる)基地も同じような状況です。新田原は基地の誘致運動によってつくられた基地であり、近くには「爆音緑茶」なるものが売っているように、地元の人の基地に対する感情は良いのですが、ここでも有事のために米軍用弾薬庫や燃料タンク、駐機場などが整備されることになっています。

 2021年11月には宮崎市内のホテルに嘉手納基地の所属の約200人が宿泊することが突如として明らかになり、地元ではコロナ感染の広がりが懸念されました。
 米軍が基地外の宿泊を決めたのもコロナ対策のために複数人の相部屋を避けるためのものでしたが、宮崎県や宮崎市はホテルから連絡があって初めてそのことを知るような状況でした。日米地位協定には訓練についての規定がないために、地元の自治体が米軍の訓練を抑制することはできないのです。
 また、新田原にはF-35Bを配備する計画もありますが、そうなれば米軍のF-35Bも頻繁に飛来する容認なるのではないかという懸念もあります。 
 
 第7章は鹿児島県の馬毛島です。ここは現在主に硫黄島で行われている米軍の空母艦載機の離着陸着艦訓練(FCLP)の移転が予定されています。2006年の在日米軍再編合意で厚木の艦載機部隊が岩国に移転しましたが、岩国から硫黄島は遠すぎるということで、無人島の馬毛島に白羽の矢が立ったのです。
 FCLPは着陸するとすぐにエンジンを全開にして再離陸、急上昇を行うというもので、長時間に渡り轟音が発生します。そのために無人島が好都合なのです。

 地元の西之表市では、反対派がやや強く2021年の市長選でも反対派が勝っていますが、地域振興のために自衛隊に期待する声もあります。
 ただし、ここでも米軍が来ることへの不安があります。本書の中で何度も指摘されているように日米地位協定には米軍の訓練を規制するような決まりがないために、米軍が馬毛島周辺でどのような訓練を行うかは不透明なのです。

 最後の第8章は嘉手納基地です。ここでも騒音の被害があり、集落の移転があり、米軍の起こす事故があります。
 騒音の被害に対して賠償を求める裁判も起こされており、住民側が度々勝訴していますが(ただし、飛行差し止めは認められていない)、国際法上の主権免除原則から米軍の損害賠償の義務は免除されています。そのため日本政府が被害者からの損害賠償請求を処理することになります。

 また、嘉手納の周辺には多くの米軍関係者が住んでいますが、本書で指摘されてきたように、住民登録の義務がないため、実際にどの程度の人数がいるのかはわかりません。
 また、米軍関係者向けの住宅は高い家賃が取れるために、米軍関係者向けの住宅が増えていますが、彼らは住民税を払わないために、住民サービスにただ乗りしている面もあります。

 「おわりにかえて」ではグアムの状況も報告されていますが、ここでは米軍による環境汚染が問題になっています、そして、その浄化費用はグアム政府に押し付けられているのです。2006年に普天間基地の辺野古への移設が完了した際に、在沖海兵隊の司令部要員8000人とその家族9000人がグアムに移ることが日米両政府で合意されましたが、グアムではこれに反発する動きも出ています。
 沖縄や横田でも米軍基地が原因と思われる地下水の汚染が起きていますが、日米地位協定第3条は米軍に基地の排他的管轄権を認めており、第4条で原状回復義務を免除しているために、日本側は立ち入り調査もできませんし、汚染が放置される可能性もあるのです。

 このように本書は米軍基地が立地する地域を実際に訪ねることで、日米地位協定がもたらすさまざまな問題を掘り起こしています。米軍基地というと、どうしても沖縄の問題がクローズアップされがちですが、本書は三沢や岩国をとり上げたことで、米軍基地のもたらす恩恵と、それでも埋められない問題点というものが見えてくる構成になっています。
 東京の多摩に住んでいるものとしては、欲を言えば横田基地をとり上げてほしかったところです。本書では、「日本政府は戦後一貫して米軍基地を本土から沖縄へ、首都圏から地方へ、都市から過疎地へと移し、人口の多い地域から遠ざけることによって基地問題を「解決」してきた」(243p)と述べていて、これはそのとおりだと思うのですが、それだけではないとも思うのです(横田では米兵が外に出なくなったことで基地が透明化してきた気がする)。


中北浩爾『日本共産党』(中公新書) 8点

 『自民党―「一強」の実像』(中公新書)や『自公政権とは何か』(ちくま新書)などの著者が今回挑むのは日本共産党。野党共闘の鍵となる存在でありながら、外側からはその内実がよくわからない日本共産党について、その歴史を紐解きながら実像に迫っていきます。

 『自民党―「一強」の実像』や『自公政権とは何か』では、基本的に現在の意思決定や選挙対策などをとり上げて分析していましたが、今回の『日本共産党』の記述のメインとなるのはその歴史です。
 これは日本共産党が現存する政党の中で最も古い歴史を持ち、その政策や意思決定の過程がかなりの部分、過去の積み重ねによって規定されているからです。
 そのため、本書は本文だけで400ページ以上あり、なおかつソ連が崩壊するまでの記述で300ページ近くあります。そのため、個人的には面白く読めましたが、前半を長いと感じる人もいると思います。
 それでも、客観的な立場で書かれた日本共産党の歴史というのは貴重ですし、また、ソ連の崩壊にもかかわらずしぶとく生き残った理由と、有権者からのアレルギーが強いという理由も、歴史をたどることで見えてくることだと思います。

 目次は以下の通り。
序章 国際比較のなかの日本共産党
第1章 大日本帝国下の結党と弾圧―ロシア革命~1945年
第2章 戦後の合法化から武装闘争へ―1945~55年
第3章 宮本路線と躍進の時代―1955~70年代
第4章 停滞と孤立からの脱却を求めて―1980年代~現在
終章 日本共産党と日本政治の今後

 「共産党」という名前の政党が姿を消す国も多い中で、日本共産党はその名を残してます。
 西側最大の共産主義政党であったイタリア共産党は、東欧革命などを機に91年に名称を左翼民主党に変更し、社会民主主義に転換しました。左翼民主党は「オリーブの木」を結成し、政権を獲得しています。
 一方、フランス共産党は、かつては社会党を上回る勢力だったものの衰退が続き、2012年の大統領選では独自候補を擁立できませんでした。
 ヨーロッパでは、共産党は社会民主主義に転換するか、あるいは左派ポピュリズムとも言われる民主的社会主義の路線で生き残りを図っています。

 そんな中で、日本共産党は「共産党」という名を残していることからもわかるように共産主義を放棄していません。また、民主集中制という古い共産主義の残滓も見られます。
 それでも、日本共産党は東欧革命〜ソ連崩壊の衝撃をそれなりにうまく乗り切ったと言えます。フランス共産党がこの時期に致命的な打撃を受けたのに比べると、日本共産党はそれほど議席を減らさずにすんでいます(25p0−3参照)。
 これは日本共産党がソ連とも中国とも距離をとる自主独立路線をとっていたからです。宮本顕治による独自路線が、ソ連崩壊の衝撃を乗り切らせたと言えます。

 この認識のもとで、本書は宮本路線の形成と変容を軸に日本共産党の歴史を見ていくとしていますが(52p)、日本共産党の誕生からほぼすべての歴史が書いてあるといってもいいでしょう。

 日本の社会主義運動は度重なる弾圧に見舞われていますが、その運動を大きく鼓舞したのが1917年のロシア革命です。
 コミンテルンもアジアの中で資本主義が発達している日本に革命の期待をかけたことにより、1921年4月に堺利彦・山川均・近藤栄蔵・荒畑寒村らによって日本共産党準備委員会が結成され、22年の7月に日本共産党が正式に結成されます。そして11月のコミンテルン第4回大会で日本支部としての承認を受けました。

 しかし、日本では、政府の弾圧によって前身となるべき社会民主主義政党も未発達で、しかも日本共産党自体も秘密結社として発足せざるを得ませんでした(中国では取り締まりが及ばない地域が数多くあったために共産党は発展した)。
 1923年6月には警察による大規模な一斉検挙(第一次共産党事件)によって党は大きな打撃を受け、9月の関東大震災でアナーキストの大杉栄や共産主義者の川合義虎らが殺害されます。
 こうした状況に強い恐怖感を覚えた党員の間で解党論が強まり、24年の4月には解党してしまうのです。

 1925年、日本とソ連との国交が樹立されます。ソ連側でも共産党の再建か、合法的可能性の追求かで議論が分かれましたが、コミンテルンの指示もあって日本共産党の再建が進められることになり、26年に日本共産党は秘密裏に再建されます。

 1927年テーゼで、日本共産党はとりあえず君主制の廃止や農地改革などのブルジョア民主主義革命を目標にすることとし、合法機関紙『無産者新聞』や非合法機関紙『赤旗(せっき)』を発行し、大衆化と労働者の間での党員獲得を目指しました。
 28年の初の男子普通選挙では徳田球一と山本懸蔵が労農党から立候補し、共産党の名前が入ったビラを配るなど公然と宣伝活動をしましたが落選し、徳田は検挙され、以後18年間を獄中で過ごすことになります。

 この選挙運動は治安維持法による弾圧のきっかけにもなり、1928年には三・一五事件、29年には四・一六事件と弾圧が続き、幹部の多くも逮捕されました。
 四・一六事件後に委員長に就任したのは後に右翼となる田中清玄であり、50件をこえる警察官傷害事件を起こすなど活動は過激化しました。この裏には世界恐慌を受けて、革命的情勢が高まっているとのコミンテルンの認識がありましたが、度重なる検挙で共産党は弱体化していきます。

 1930年代になると、政府による弾圧はさらに激しさを増し、スパイMに代表されるスパイも送り込んだことで、共産党内部は疑心暗鬼に陥ります。
 そうした中で1933年には佐野学と鍋山貞親が獄中で「転向」を表明し、田中清玄をはじめ多くの者が転向していきます。また、当時24歳で中央委員に引き上げられた宮本顕治が査問の中で小畑達夫を死なせてしまうという事件も起きています。
 日本共産党の国内での活動はほぼ不可能になり、野坂参三の中国での活動など、海外での活動が細々と行われることになります。

 終戦後のGHQの5大改革指令によって徳田球一、志賀義雄、宮本顕治、袴田里見、春日庄次郎、神山茂夫といった人々が出獄します。拷問を受けながらも非転向を貫いた彼らには他の者にはない権威性がありました。
 彼らを中心に45年の12月に日本共産党は再建されます。書記長には徳田が就任し、連合国軍を解放軍とみなし、アメリカの協力を得つつブルジョア民主主義革命を遂行し、その一環として天皇制を打倒するという方針が決まります。
 しかし、46年1月に野坂参三が帰国すると、ソ連共産党と相談した野坂の指摘もあって、天皇制打倒は後退し、民主主義敵勢力を結集した人民戦線の樹立が目指されることになります。

 1946年4月の衆院選では徳田、野坂、志賀ら5人が日本共産党から当選しました。フランスやイタリアではレジスタンス活動もあったことによっていきなり共産党が大きな勢力として登場しましたが、その条件を欠く日本ではそうはいきませんでした。
 日本国憲法の制定に関しては、共産党は勤労人民の権利の保障が不十分であること、天皇の規定が最初に来ていること、自衛戦争まで放棄していること、民主化の妨害物である参議院があることを理由としてこれに反対しています。
 
 この時期の日本共産党を引っ張ったのが徳田球一でした。「徳球」の相性で知られ、人間的な魅力を持った人物でしたが、家父長的な指導者でもあり、指導部は徳田に近い人物で固められ、宮本顕治は遠ざけられました。
 組合活動においても共産党が支配を強化しようとしたことが反発を呼び、社会党が民主党、国民協同党と連立して片山哲内閣を発足させると共産党は孤立しました。
 そして、GHQの占領政策の転換とともにレッド・パージが起き、共産党員はさまざまな職場から追放されます。

 このように国内において共産主義は劣勢でしたが、1949年の中華人民共和国の成立に見られるように国際的には共産主義の攻勢が続いていました。
 特に中国での成功は日本共産党にも大きな影響を与え、急進的な中国の革命方式がアジア諸国に適用されることになります。
 こうした中で、占領下でも社会主義への平和的意向が可能だとする野坂参三の考えがコミンフォルムの機関誌で批判される事件が起き、そこから野坂を擁護する所感派(徳田や野坂)と批判する国際派(宮本や志賀)の対立が生まれます。
 最終的に徳田はコミンフォルム批判を受け入れますが、徳田らと宮本らの対立は残りました。

 コミンフォルム批判を受け入れた徳田は地下活動を本格化させますが、GHQは第2次レッド・パージを行い、徳田は北京に逃れます。この北京行きによって所感派は国際派よりも急進化し、武装闘争の必要性を説いた1951年綱領が制定されます。
 以後、共産党は警察署への襲撃事件、山岳拠点の設置など武装闘争色を強めていき、これに対して吉田内閣は1952年に破防法を制定し、公安調査庁を設置します。
 ただし、1952年の衆院選で共産党の獲得議席がゼロに終わったように、武装闘争路線はまったく支持されませんでした。
 そして、1953年にはスターリンと徳田が亡くなります。この後、合法活動の強化と国際派の復権が一気に進むことになりました。

 1955年、自由民主党が誕生し、55年体制がスタートします。共産党も武装闘争路線を放棄し社会党へ共闘を呼びかけますが、うまくいきませんでした。
 また、武装闘争路線の放棄に対しては学生運動の側から不満の声があがり、排除された学生党員が共産主義者同盟(ブント)を結成します。
 こうした中、1958年の党大会で宮本を書記長とする宮本体制が確立します。宮本は地方の委員会を統制し、民主集中制の体制をつくり上げていきます。

 1960年、安保闘争が大きな盛り上がりを見せますが、宮本はこれを革命的情勢だとは判断せず、「安保条約反対の民主連合政府」の実現を掲げます。
 一方、この頃から中ソ対立が深刻になっていきますが、日本共産党は中国に親近感を抱いていました。これは1961年の綱領が民族民主革命論を採用し、アメリカ帝国主義との対決を強調していからです。これは当時のソ連の平和共存路線とは違ったものでした。
 中ソ対立は部分的核実験禁止条約をめぐってエスカレートし、日本共産党でもそれを批准する際に、志賀義雄が党の方針に反対して賛成票を投じるなど、分裂含みとなりました。結局、志賀は除名され、志賀はソ連共産党の支援のもと、週刊『日本のこえ』を創刊し、志賀は神山茂夫らと「日本共産党(日本のこえ)」を結成します。

 このように中国寄りの路線を明確にした日本共産党ですが、文化大革命とインドネシアの九・三〇事件によって難しい立場に立たされます。1966年に宮本を団長とする代表団が訪中しますが、ここでソ連共産党を名指しで批判し、反米反ソの統一戦線を求める毛沢東と決裂します。
 結果として、日本共産党はソ連とも中国とも距離を取る自主独立路線を選ぶことになりました。

 国際的な共産主義の連帯が崩れたこともあって、この時期の日本共産党はナショナリズムへの傾斜を強めます。
 1968年には『赤旗』に、自衛権を強調し、日本の「中立自衛」を訴える論文が掲載され、69年には沖縄だけでなく、ソ連に対しては千島列島全島の返還を要求しました。
 宮本顕治の長男の宮本太郎は父について「禁欲的な明治のモラリストで、同時にかなりのナショナリスであった」(242p)と述べていますが、宮本路線はナショナリズムに乗ったものでもあったのです。

 著者は、宮本路線を、①民族民主革命論を平和的手段によって実現する、②国際共産主義運動の中での自主独立、③大衆的な党組織の建設とそれに基づく国会での議席拡大、の3点にまとめています。
 この中で大衆的な党組織の建設は比較的うまくいきました。機関誌『アカハタ』(66年に『赤旗』に名称変更)は、61年にテレビ・ラジオ欄を新設し、68年にはスポーツ欄を拡充するなど「一紙で間に合う新聞」となり部数を伸ばしました。日曜版も人気を集め、72年には本紙が50数万部、日曜版が190万部に達しました。
 これとともに党員も増え、党の財政も潤沢になりました。76年の政治資金収支報告書によると、繰越と借入金を除く自民党の収入は78.1億円ですが、共産党は159.2億円でした(249p)。

 選挙でも共産党の議席数は伸びていきます。58年の衆院選では1議席でしたが、60年は3議席、63年は5議席、67年も5議席と推移します。一方、共産党から分派した「日本のこえ」は議席を守れず、共産党は国政政党の最左翼のポジションを守りつつ、穏健化を進めることができました。
 衆院ではさらに69年に14議席、72年に38議席となりついに野党第2党に躍り出ます。

 国会でも存在感を増す中で、書紀局長に不破哲三が就任し、スポークスマン的な役割を務めるようになります。共産党は国会重視の路線をとり、77年には参院の全国区から宮本顕治が立候補して当選しています。
 70年の党大会では民主連合政府の樹立が目標として掲げられますが、ここでパートナーと想定されたのは社会党と公明党でした(民社党は自民の補完勢力として批判)。
 ただし、公明党の関係は、マルクスが宗教を否定していたこと、支持基盤が重なること、公明党の言論出版妨害事件を共産党が率先して追求したことなどから、微妙なものでした。
 74年12月には松本清張の仲介のもと、創価学会と共産党が敵対関係を解消するという創共協定が結ばれますが、公明党にとっては寝耳に水であり、逆に共産党の対決姿勢を明確化するきっかけになってしまいます。
 60年代後半からは各地で革新自治体が登場し、社会党との共闘も進みますが、国政において政権交代の展望を示すことはできませんでした。

 72年の衆院選での躍進は保守勢力の衝撃を与え、共産党を批判する動きも高まります。76年には立花隆の「日本共産党の研究」が『文藝春秋』に連載され、スパイ査問事件や民主集中制の原則が批判されます。
 この結果、76年の衆院選と77年の参院選では獲得議席数が前回の半分以下になってしまう敗北を喫し、党員数や『赤旗』の部数も伸び悩みようになりました。
 1980年には社会党と公明党が連合政権構想で合意し共産党は孤立します。また、同年のダブル選で自民党が圧勝したことから連合政権構想の前提となる与野党伯仲状況も終わります。革新自治体もその多くが終わりを迎えました。
 
 1989年には連合に対抗する形で共産党系の全労連が発足しますが、民間大企業の労働者は組織できていませんでしたし、7月の参院選では社会党が改選第一党になる一方で、共産党は4議席減の改選5議席と惨敗しました。
 さらにこの89年は天安門事件、ベルリンの壁崩壊という激震に見舞われた年でソ連や中国と距離をとっていたとはいえ、やはり日本共産党にとっては大きな向かい風となりました。

 1994年には政治改革関連法が成立しますが、小選挙区制は共産党にとっては不利な制度でしたし、政党助成金に関しては受け取らないとの方針を示しました。
 しかし、同年に自社さ政権が成立したことが共産党復調のきっかけとなります。社会党が自衛隊や日米安保を認めることになったために、共産党が従来の社会党の政策位置を奪えたのです。94年7月の党大会で共産党は「自衛中立」論から「非武装中立」論に転換し、社会主義に移行する段階での憲法改正も取り下げました。「護憲」のポジションを明確化したのです。

 95年の統一地方選では地方議員数で自民党を抜いて第一党となり、96年の衆院選でも11増の26議席と躍進しました。一方、社会民主党(社会党)は15議席にまで落ち込み、社会民主主義路線への転換はマイナスだというイメージを植え付けました。
 97年の党大会ではついに88歳の宮本顕治が引退します。ただし、路線自体は変わらず後継者の不破哲三に引き継がれました。

 2000年の衆院選では26から20議席に後退します。このころから党員数や『しんぶん赤旗』の部数減も明らかになり、平成の大合併によって地方議員数も減少します。
 04年の党大会では志位和夫が委員長となり、2004年綱領もつくられますが、基本的には1961年綱領を引き継ぐものでしたが、天皇制と自衛隊を暫定的に容認するともしました。
 しかし、国政では自民・民主の二大政党の中で埋没する傾向は続き、05年の衆院選では全選挙区への候補者擁立をあきらめます。供託金が没収されるケースが相次いだからです。
 09年の総選挙で民主党が圧勝し政権交代を実現させましたが、このときも共産党が148の選挙区で候補者を立てなかったことが民主党の追い風となりました。

 共産党が復調を見せるのは民主党政権が終わり、第2次安倍政権が始まってからです。民主党がごたつく中、13年の参院選で共産党は吉良佳子や辰巳孝太郎といった若手を擁立し、5議席増の改選8議席と躍進します。
 安倍政権の安保法制に対しては他の野党とも協力して反対運動を行い「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」を呼びかけました。
 2016年の参院選では候補者調整も行い、1人区で自民党に対して善戦しますが、当選したのは民進党の候補者が中心で、民進党が一方的に利益を得る形となりました。

 しかし、この共産党との協力は民進党内の対立を生み、これが希望の党への合流に繋がります。民進党の枝野幸男らが立憲民主党をつくると共産党はこれを歓迎する姿勢を示しましたが、17年の衆院選では共産党は9議席減の12議席に後退します。前回、共産党に投票していた無党派が立憲民主党に流れたからだと見られます。
 このように共産党と他の野党の共闘には独特の難しさがあり、19年の参院選ではうまくいきましたが、21年の衆院選では期待ほどの効果はあげられませんでした。

 現在、共産党は難しい立場にあります。野党共闘を深化させるためには安全保障面での政策転換が必要ですが、それは従来の支持者を失うことに繋がります。ドイツの左翼党はもっと成功している急進左派政党だとも言われますが、ポイントは中道左派の社民党との連立に参加せずに独自のポジションを守ったことにあります。

 小選挙区や参院の1人区で勝利するためには野党がまとまることが必須ですが、今の所、野党共闘のメリットは立憲民主党にあり、共産党側のメリットは少ないです。
 しかし、共産党の組織力は衰え、党員の高齢化も進んでおり、現在のような候補者擁立が将来も可能だとは思えません。変わっても変わらなくてもその将来は厳しいのです。
 こうしたことを踏まえながら、著者は共産党が今後取る選択肢として、①イタリア共産党のように社会民主主義への移行、②左派ポピュリスト戦略と親和性の高い民主的社会主義への移行、の2つをあげています。
 ①は社会民主党が凋落している、②はすでにれいわ新選組がいるという難点がありますが、今の路線、そして民主集中制を続けていても展望は開けないというのも確かでしょう。

 最初にも書いたように想像以上に歴史を分厚く記述している本なので、日本共産党の現在の姿を知りたい人は第3章から読むというのもありだと思います。
 ただし、この分厚い歴史の記述が本書の価値の1つであることも間違いないです。


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