タイトルは「韓国併合」ですが、副題の「大韓帝国の成立から崩壊まで」が本書の内容をよく表しているかもしれません。朝鮮が日清戦争の結果、中国の「属国」から独立し、そして日本に併合されて独立を失うまでの歴史になります。
日本から視点だと、この時代は日本が大韓帝国(朝鮮)の主権を徐々に侵食していく過程として描かれるわけですが、この日本の動きに対して大韓帝国(朝鮮)がどのように対応しようとしたのか、近代化とどのように向き合ったのかということはあまり知られていません。
本書は、この時代を大韓帝国(朝鮮)側の視点からたどることで、今まで注目されていなかった部分を明らかにしつつ、日本の支配の問題点も浮き彫りにするような構成になっています。
目次は以下の通り。
序章 中華秩序のなかの朝鮮王朝第1章 真の独立国家へ―一八九四~九五年第2章 朝鮮王朝から大韓帝国へ―一八九五~九七年第3章 新国家像の模索―皇帝と知識人の協和と不和第4章 大韓帝国の時代―皇帝統治の現実と限界第5章 保護国への道程―日露戦争前夜から開戦のなかで第6章 第二次日韓協約の締結―統監府設置、保護国化第7章 大韓帝国の抵抗と終焉―一九一〇年八月の併合へ終章 韓国併合をめぐる論争―歴史学と国際法
朝鮮が近代化の波に直面化したときにまず問題となったのが、中国を中心とした「朝貢体制」と、その中での「属国」という立場です。
西洋では主権国家は平等であるという関係が成立していましたが、アジアでは中国を中心とした上下関係が成り立っていました。ただし、「属国」といっても朝鮮が儀礼を守っている限り、中国側が干渉してくることはなく、のちの日本による「保護国化」とは違ったものでした。
また、17世紀に満州人によって清が建国されると、朝鮮こそが明朝中華を継承するという「小中華思想」も出てきました。
こうした中、近代化の波に直面したのは明治天皇と同じ1852年に生まれた高宗です。1863年に国王の哲宗が亡くなると高宗が即位することとなりましたが、満11歳での即位だったため、哲宗の母后である大王大妃趙氏の垂簾聴政のもと、実父の大院君が政治を取り仕切りました。
大院君は、内政では科挙の合格者を排出する有力家門の両班を牽制する政策を行い、対外的にはアメリカやフランスの開国要求をはねつけました。
日本に対しても、明治政府が新政府の樹立を知らせる書面を持ってきても、そこに「皇」や「勅」の文字が使われていることを理由に受け取りませんでした。
1873年から高宗の親政が始まります。高宗は日本との関係改善に意欲を示し、「皇」や「勅」が入った書面を受け取ることとしますが、日本の使節をもてなす宴会で日本人が西洋式の大礼服を着ることを主張したことで決裂してしまいます。
結局は、江華島事件をきっかけに日朝修好条規が結ばれますが、ここでは朝鮮は「自主の国」と規定され、中国の「属国」という関係は不問に付されました。
この後、清の周旋により朝鮮は欧米各国と条約を結ぶことになります。
1882年の壬午軍乱の背景には、近代化政策を進めようとする高宗とそれに反対する大院君の対立がありましたが、ここで清が、皇帝に冊封された国王を退かせることは皇帝を軽んじることであるというロジックを使って介入し、朝鮮が「属国」であるとの立場を明らかにしました。
これに対して朝鮮の「独立」を求める名門両班出身の金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼らは日本と組んでこの体制を打破しようとしますが、彼らのクーデターは清の介入で失敗します(甲申政変)。
朝鮮が清の「属国」であるということはますます明らかになりましたが、日本を含む欧米各国は「知らないふり」をすることで関係を続けました。
日清戦争の開戦直後、朝鮮は大鳥圭介公使の最後通牒を受け入れる形で清に対して宗属関係の否定を通告していますが、この関係が完全に否定されるのは下関条約においてです。ここで清によって朝鮮が「完全無欠なる自主独立の国」であることが確認されました。
この日清戦争のさなかに、朝鮮では甲午改革と呼ばれる近代化政策が行われています。
軍国機務処と呼ばれる政府の中枢期間が設置され、そこで科挙や身分制の廃止、罪人の家族を罰する縁坐の廃止、早婚の禁止、朝鮮独自の暦法の採用、特命全権大使を各国に派遣するなどの改革案が打ち出されました。
さらに軍国機務処を含む議政府がつくられ、これが1895年に内閣に改称されます。そして、日本をモデルとした軍制改革、教育制度改革などが行われましたし。
清と切り離された中、高宗は自らが「真天子」になることを考え始めます。1895年4月に下関条約が結ばれた3ヶ月後、高宗は「圜丘壇」と呼ばれる、儒教経典の最高神である昊天上帝を祀る祭壇の建築を命じます。この祭祀は中華の皇帝のみに許されるもので、高麗王朝が983年に圜丘壇を導入していましたが、朝鮮王朝初期に明との関係を考慮して廃止されたものでした。
1895年10月に日本の三浦梧楼公使らによって引き起こされた閔妃殺害事件は高宗と朝鮮人に衝撃を与えました。同じ頃、陰暦から陽暦への切り替え予定や、断髪令の発令もあり、反日・反近代化の運動が各地で起こります。
1896年2月には高宗がロシアの公使館に避難する「露館播遷」も起こり、日本の影響力は後退します。ただし、国王が外国の公使館に逃げ込んだことに対しては批判もありました。
高宗は内閣制度を廃止し、甲午改革で行われた国家財政と宮中の財政の分離をもとに戻し、教育制度でも伝統的な学問習得を重視するようにし、暦を陰暦に戻すなど、近代化を巻き戻すような政策を打ち出します。そして、皇帝への即位を目指し始めます。
高宗は明治天皇の母の英照皇太后の死に際して丁寧な弔問を命じます。閔妃殺害事件以来、悪化の一途だった日本との関係ですが、この背景には他国に比べて日本が「皇帝」の称号の使用を認める可能性が高いのではという読みがありました。
実際、1897年10月、高宗は日本の加藤増雄弁理公使に対して、各国が皇帝号を承認するよう周旋してほしいと依頼しています。
1897年2月にはロシア公使館を出て宮殿に戻っていますが、これは露館播遷に対する批判の高まりと、ロシア公使館にいるままでは「皇帝」にはなれないとの判断があったと考えられます。
97年の5月以降、臣下から高宗に対して皇帝即位を願う上疏(請願や意見を国王に差し出す文書)が行われるようになります。高宗はこれを断っていますが、高宗の意向を受けて行われたものと思われます。
10月にはついに高宗は上疏を受け入れることを決め、皇帝に即位します。国号は「大韓」とすることが決まり、大韓帝国が成立するのです。
こうやって新国家がスタートしますが、次第に明らかになったが、高宗と近代化を当時影響力を強めていた独立協会のズレです。
独立協会は甲申政変で開化派の中心にいた徐載弼が1896年4月に『独立新聞』を発行したことをきっかけに結成されたグループです。
徐載弼は甲申政変後、日本に亡命しましたが、その後渡米してアメリカ国籍をとり、1895年に帰国していました。
『独立新聞』はハングルと英文によって発行されましたが、ハングルによる新聞発行は画期的なものでした。当初の主張は「清からの独立」に主眼が置かれています。
この新聞で行われたキャンペーンのためにつくられたのが独立協会で、委員長の李完用など政府の官僚が名を連ねていたことも特徴でした。そして、この独立協会は露館播遷という状況の中で「ロシアからの独立」も主張していくようになります。
1896年5月のロシアのニコライ2世の戴冠式に際して、高宗は特命全権大使を通じて、ロシア近衛兵による国王の護衛、ロシア軍事教官団の派遣、対日負債返済のための借款などを要請しており、ロシアを頼る姿勢を見せいていました。
97年11月の閔妃の国葬でも、輿の両側にロシア式の儀仗兵が並び、高宗の駕の四隅をロシア人士官が警護しました。
しかし、これに対して独立協会が反発し、98年にはロシア人財政顧問と軍事教官が帰国することになります。
独立協会は啓蒙団体から政治結社に性格が変わっていきますが、李完用が政府に取り込まれ、徐載弼が政府の圧力によって出国させられたこともあって、独立協会は政府の役職を持たない会員が主導していくことになります。
98年の春頃から独立協会は議会開設のための運動を本格的に展開しますが、高宗はこれには反対でした。また、高宗は鉱山を宮内府の管理下に置くなど皇室財政の確保を優先したため、皇室財政は好転しましたが、国家財政は疲弊しました。
1898年9月10日(陰暦7月25日)は高宗が即位してから初めての誕生日(万寿聖節)で、独立協会の活動もあって王宮の外でも盛大に祝われます。
ところが、翌日、晩餐に出されたコーヒーに毒物が混入され皇太子が障害を負うという事件が起こります(高宗は味のおかしさに気づいて少量しか飲まなかったために無事)。犯人は金鍾和という26歳の若者で親露派の支持を受けたものだとされています。
この事件をきっかけに独立協会は大臣らへの批判を強め、議会の開設を目指す運動を加速させます。
98年10月に、高宗は独立協会の主張を容れる形で内閣に付属していた中枢院を議会へとつくりかえていく方針を示します。中枢院は法律のみならず、皇帝の勅令に関しても制定、廃止、改訂する権利を持っており、実現すればかなり進んだ立憲君主制が出現するはずでした。
しかし、ここから守旧派の巻き返しが始まり、独立協会寄りだった大臣たちが罷免されていきます。これは高宗の許可のもとで行われました。
結局、中枢院の改革は大きく後退します。さらに、枢院で大臣候補を選んだ際に閔妃殺害事件に関わっていたとされる朴泳孝の名があったことに高宗が激怒し、12月にはデモの鎮圧のために軍隊を投入し、独立協会を解散させます。
1899年8月、大韓国国制が公布されます。これは政治政体や皇帝の権限を明記したもので、朝鮮半島で最初の憲法と言っていいものでした。
全9条の内容ですが、大韓帝国の自主独立を唱うとともに皇帝の「無限の君権」を定めたものでした(114−115p)。大日本帝国憲法の冒頭と似ていますが、冒頭の部分しかないのが特徴と言えます。
新しく宮殿がつくられ、洋装が進みますが、これには守旧派からの根強い反対もありました。また、愛国歌や西洋式音楽の導入も行われますが、軍楽隊の教育を担当したのは「君が代」にも関わったドイツ人のエッケルトです。
1900年の義和団事件をきっかけにロシアが満州を占領すると、日本はロシアの満州進出を認める代わりに朝鮮に進出するという考えを固めていきます。一方、大韓帝国は局外中立を目指しますが、これには日本は乗りませんでした。
1902年に日英同盟が結ばれると日露開戦は必至の情勢となり、高宗は国防に関する日韓協約を模索する一方で、1903年に8月には、有事の際にはロシアを支援するとした密書をニコライ2世に送るなど、定まらない姿勢を見せます。
1904年1月には、大韓帝国は日本の事前承認なしに独自に第三国と条約を結ぶことを禁止する規定を含んだ密約に関する交渉が大韓帝国側と林権助公使の間で行われますが、交渉中の1月21日に大韓帝国はフランス語で各国に局外中立を打電します。
こうした高宗の姿勢に対して、林権助は「決心に乏しい」(143p)と評するとともに、今後は実力によって交渉を進めていく決意を固めていきます。
1904年2月4日に日露戦争が始めると、日本は局外中立宣言を無視して漢城を占拠し、以前から交渉していた密約を「日韓議定書」として結びます。
5月には「韓露条約廃棄勅宣書」が出され、ロシアとの条約やロシアに与えた特権が破棄され、駐ロシア公使館の撤去も決めます。
8月になると、日本人の財務・外交顧問への登用や日本の承認なしに外国と条約を結ばないことを定めた第1次日韓協約が締結され、日本の圧力はますます強まっていきます。
1905年5月の日本海海戦で日本が勝利すると、日本は7月の桂・タフト協定、8月の第2次日英同盟で韓国の保護権を日本が持つことを承認させ、さらに9月のポーツマス条約でロシアにもこれを認めさせます。
こうして外堀を埋めた日本は、いわゆる第2次日韓協約の締結に動きます。11月に韓国に渡った伊藤博文は「大韓帝国はいかにして今日生存できているのか」と高宗に迫り、高宗が大臣などに相談したいと言うと、「(大韓帝国は)君主専制国ではないのか」と迫ります(157−158p)。
日本が武力をちらつかせる中で、最終的に高宗は、韓国が富強になったらこの約案を撤回するという一文を挿入させたものの、外交権を日本に任せる第2次日韓協約が調印されることになります。
統監として伊藤博文が就任するとともに、各国の公使館は撤収し、在日本公使館が事務を引き継ぎました。
大韓帝国内からは第2次日韓協約は強要されたもので無効だとの声が上がり、高宗もその不当性を国際社会に訴えようとします。
そこで1907年6月にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送りますが、日本側はこの情報を掴んでおり、また、各国が大韓帝国の外交を日本が管理することを認めていたために失敗します。
これを受けて伊藤博文は、高宗を強制的に譲位させることとし、皇太子の純宗を即位させ、韓国の内政権を奪う第3次日韓協約を締結しました。
大韓帝国には親日的な団体もありました。それが一進会です。会長の宋秉畯(ソンビョンジュン)は甲申政変後に金玉均暗殺の密命を受けて渡日したものの同志となった人物で、日本では「野田平次郎」と名乗りました。
宋秉畯は大韓帝国の政府・支配層に対する不満を吸い上げるような形で組織化を進め、日本と協力して民権を伸長させることを狙っていました。
一方、日本に対する抵抗として知られているのが義兵運動です。義兵は自発的に組織された民軍のことで、文禄・慶長の役のときなどでもみられたものです。元役人や儒者などを中心に組織され、主たる兵は農民でした。
服制改革や断髪令などの近代化政策に抗議するとともに、日本に対する抵抗も強めていきます。
第3次日韓協約ののち、軍隊解散の詔勅が出され、さらに多くの日本人顧問が任用されていきます。純宗の弟の李垠(イウン)は10歳で皇太子となり、日本に「留学」することになりました。
伊藤博文は、1908年に東洋拓殖会社、09年に大韓帝国の中央銀行である韓国銀行を設立するなど経済開発にも力を入れます。
さらに伊藤は自らが陪従する形で純宗の巡幸を行います。これは明治天皇に倣ったものであり、近代化を目に見える形で示そうとしたものでしたが、伊藤はここで抗日運動の根強さを目にすることになります。
解散された元軍人による義兵運動も激しくなり、伊藤の路線は行き詰まりました。
李垠を皇太子に立てたり、韓国銀行を設立したりした時点では伊藤は韓国併合の意思を持っていなかったと思われますが、南北巡幸を経て併合やむなしと考えたようで、統監を辞める決意を固めたのちの1909年4月の桂太郎と小村寿太郎との会談では併合を認めています。
09年の6月に伊藤は正式に統監を辞任し、後任は曾禰荒助となりました。7月には韓国併合が閣議決定されています。
10月に伊藤がハルビンで暗殺されますが、併合は既定路線でした。日本は一進会に併合を願い出させることにし、09年12月には一進会による併合を願い出る上疏が行われます。
1910年5月に寺内正毅が統監に任命されると、併合に動き出します。総理大臣となっていた李完用は「韓国」という国号を残し、皇帝に「王」の尊称を与えることを要求しますが、基本的にはこれを受け入れました。
最終的に10年8月22日に韓国併合条約が調印されます。国号については「朝鮮」となり、純宗は「李王」として天皇から冊封を受けました。ここに大韓帝国は終焉したのです。
終章では韓国併合までの一連の手続きの正当性について、日韓の学者の考えを紹介していますが、ここで著者は日本と韓国の政治家の態度や記録のあり方の違いを指摘し、それでも日本側が
「正当性」や「合意」を無理矢理にでも得ようとした姿が見えてくるといいます。
このように本書は、日本の朝鮮半島進出の歴史の中で対象として描かれがちな朝鮮(大韓帝国)が主体としてどのように行動しようとしたかということを教えてくれます。
基本的には高宗を中心とした叙述になっているので、もう少し朝鮮(大韓帝国)内の社会の動きなどを知りたかった面もありますが、今までにあまりなかった視点から歴史を見せてくれる本になっています。
蛇足ですが、本書を読むと、日本の近代化の成功の1つの要因は、即位したばかりの明治天皇がまだ少年で、さらにそれを京都から引き離したことにあったのでは? とも感じます。