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2022年09月

森万佑子『韓国併合』(中公新書) 7点

 タイトルは「韓国併合」ですが、副題の「大韓帝国の成立から崩壊まで」が本書の内容をよく表しているかもしれません。朝鮮が日清戦争の結果、中国の「属国」から独立し、そして日本に併合されて独立を失うまでの歴史になります。
 日本から視点だと、この時代は日本が大韓帝国(朝鮮)の主権を徐々に侵食していく過程として描かれるわけですが、この日本の動きに対して大韓帝国(朝鮮)がどのように対応しようとしたのか、近代化とどのように向き合ったのかということはあまり知られていません。
 本書は、この時代を大韓帝国(朝鮮)側の視点からたどることで、今まで注目されていなかった部分を明らかにしつつ、日本の支配の問題点も浮き彫りにするような構成になっています。

 目次は以下の通り。
序章 中華秩序のなかの朝鮮王朝
第1章 真の独立国家へ―一八九四~九五年
第2章 朝鮮王朝から大韓帝国へ―一八九五~九七年
第3章 新国家像の模索―皇帝と知識人の協和と不和
第4章 大韓帝国の時代―皇帝統治の現実と限界
第5章 保護国への道程―日露戦争前夜から開戦のなかで
第6章 第二次日韓協約の締結―統監府設置、保護国化
第7章 大韓帝国の抵抗と終焉―一九一〇年八月の併合へ
終章 韓国併合をめぐる論争―歴史学と国際法

 朝鮮が近代化の波に直面化したときにまず問題となったのが、中国を中心とした「朝貢体制」と、その中での「属国」という立場です。
 西洋では主権国家は平等であるという関係が成立していましたが、アジアでは中国を中心とした上下関係が成り立っていました。ただし、「属国」といっても朝鮮が儀礼を守っている限り、中国側が干渉してくることはなく、のちの日本による「保護国化」とは違ったものでした。
 また、17世紀に満州人によって清が建国されると、朝鮮こそが明朝中華を継承するという「小中華思想」も出てきました。

 こうした中、近代化の波に直面したのは明治天皇と同じ1852年に生まれた高宗です。1863年に国王の哲宗が亡くなると高宗が即位することとなりましたが、満11歳での即位だったため、哲宗の母后である大王大妃趙氏の垂簾聴政のもと、実父の大院君が政治を取り仕切りました。
 大院君は、内政では科挙の合格者を排出する有力家門の両班を牽制する政策を行い、対外的にはアメリカやフランスの開国要求をはねつけました。
 日本に対しても、明治政府が新政府の樹立を知らせる書面を持ってきても、そこに「皇」や「勅」の文字が使われていることを理由に受け取りませんでした。

 1873年から高宗の親政が始まります。高宗は日本との関係改善に意欲を示し、「皇」や「勅」が入った書面を受け取ることとしますが、日本の使節をもてなす宴会で日本人が西洋式の大礼服を着ることを主張したことで決裂してしまいます。
 結局は、江華島事件をきっかけに日朝修好条規が結ばれますが、ここでは朝鮮は「自主の国」と規定され、中国の「属国」という関係は不問に付されました。
 この後、清の周旋により朝鮮は欧米各国と条約を結ぶことになります。

 1882年の壬午軍乱の背景には、近代化政策を進めようとする高宗とそれに反対する大院君の対立がありましたが、ここで清が、皇帝に冊封された国王を退かせることは皇帝を軽んじることであるというロジックを使って介入し、朝鮮が「属国」であるとの立場を明らかにしました。
 これに対して朝鮮の「独立」を求める名門両班出身の金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼らは日本と組んでこの体制を打破しようとしますが、彼らのクーデターは清の介入で失敗します(甲申政変)。
 朝鮮が清の「属国」であるということはますます明らかになりましたが、日本を含む欧米各国は「知らないふり」をすることで関係を続けました。

 日清戦争の開戦直後、朝鮮は大鳥圭介公使の最後通牒を受け入れる形で清に対して宗属関係の否定を通告していますが、この関係が完全に否定されるのは下関条約においてです。ここで清によって朝鮮が「完全無欠なる自主独立の国」であることが確認されました。
 
 この日清戦争のさなかに、朝鮮では甲午改革と呼ばれる近代化政策が行われています。
 軍国機務処と呼ばれる政府の中枢期間が設置され、そこで科挙や身分制の廃止、罪人の家族を罰する縁坐の廃止、早婚の禁止、朝鮮独自の暦法の採用、特命全権大使を各国に派遣するなどの改革案が打ち出されました。
 さらに軍国機務処を含む議政府がつくられ、これが1895年に内閣に改称されます。そして、日本をモデルとした軍制改革、教育制度改革などが行われましたし。

 清と切り離された中、高宗は自らが「真天子」になることを考え始めます。1895年4月に下関条約が結ばれた3ヶ月後、高宗は「圜丘壇」と呼ばれる、儒教経典の最高神である昊天上帝を祀る祭壇の建築を命じます。この祭祀は中華の皇帝のみに許されるもので、高麗王朝が983年に圜丘壇を導入していましたが、朝鮮王朝初期に明との関係を考慮して廃止されたものでした。

 1895年10月に日本の三浦梧楼公使らによって引き起こされた閔妃殺害事件は高宗と朝鮮人に衝撃を与えました。同じ頃、陰暦から陽暦への切り替え予定や、断髪令の発令もあり、反日・反近代化の運動が各地で起こります。
 1896年2月には高宗がロシアの公使館に避難する「露館播遷」も起こり、日本の影響力は後退します。ただし、国王が外国の公使館に逃げ込んだことに対しては批判もありました。

 高宗は内閣制度を廃止し、甲午改革で行われた国家財政と宮中の財政の分離をもとに戻し、教育制度でも伝統的な学問習得を重視するようにし、暦を陰暦に戻すなど、近代化を巻き戻すような政策を打ち出します。そして、皇帝への即位を目指し始めます。
 高宗は明治天皇の母の英照皇太后の死に際して丁寧な弔問を命じます。閔妃殺害事件以来、悪化の一途だった日本との関係ですが、この背景には他国に比べて日本が「皇帝」の称号の使用を認める可能性が高いのではという読みがありました。
 実際、1897年10月、高宗は日本の加藤増雄弁理公使に対して、各国が皇帝号を承認するよう周旋してほしいと依頼しています。

 1897年2月にはロシア公使館を出て宮殿に戻っていますが、これは露館播遷に対する批判の高まりと、ロシア公使館にいるままでは「皇帝」にはなれないとの判断があったと考えられます。
 97年の5月以降、臣下から高宗に対して皇帝即位を願う上疏(請願や意見を国王に差し出す文書)が行われるようになります。高宗はこれを断っていますが、高宗の意向を受けて行われたものと思われます。
 10月にはついに高宗は上疏を受け入れることを決め、皇帝に即位します。国号は「大韓」とすることが決まり、大韓帝国が成立するのです。

 こうやって新国家がスタートしますが、次第に明らかになったが、高宗と近代化を当時影響力を強めていた独立協会のズレです。
 独立協会は甲申政変で開化派の中心にいた徐載弼が1896年4月に『独立新聞』を発行したことをきっかけに結成されたグループです。
 徐載弼は甲申政変後、日本に亡命しましたが、その後渡米してアメリカ国籍をとり、1895年に帰国していました。
 
 『独立新聞』はハングルと英文によって発行されましたが、ハングルによる新聞発行は画期的なものでした。当初の主張は「清からの独立」に主眼が置かれています。
 この新聞で行われたキャンペーンのためにつくられたのが独立協会で、委員長の李完用など政府の官僚が名を連ねていたことも特徴でした。そして、この独立協会は露館播遷という状況の中で「ロシアからの独立」も主張していくようになります。

 1896年5月のロシアのニコライ2世の戴冠式に際して、高宗は特命全権大使を通じて、ロシア近衛兵による国王の護衛、ロシア軍事教官団の派遣、対日負債返済のための借款などを要請しており、ロシアを頼る姿勢を見せいていました。
 97年11月の閔妃の国葬でも、輿の両側にロシア式の儀仗兵が並び、高宗の駕の四隅をロシア人士官が警護しました。
 しかし、これに対して独立協会が反発し、98年にはロシア人財政顧問と軍事教官が帰国することになります。

 独立協会は啓蒙団体から政治結社に性格が変わっていきますが、李完用が政府に取り込まれ、徐載弼が政府の圧力によって出国させられたこともあって、独立協会は政府の役職を持たない会員が主導していくことになります。
 98年の春頃から独立協会は議会開設のための運動を本格的に展開しますが、高宗はこれには反対でした。また、高宗は鉱山を宮内府の管理下に置くなど皇室財政の確保を優先したため、皇室財政は好転しましたが、国家財政は疲弊しました。

 1898年9月10日(陰暦7月25日)は高宗が即位してから初めての誕生日(万寿聖節)で、独立協会の活動もあって王宮の外でも盛大に祝われます。
 ところが、翌日、晩餐に出されたコーヒーに毒物が混入され皇太子が障害を負うという事件が起こります(高宗は味のおかしさに気づいて少量しか飲まなかったために無事)。犯人は金鍾和という26歳の若者で親露派の支持を受けたものだとされています。
 この事件をきっかけに独立協会は大臣らへの批判を強め、議会の開設を目指す運動を加速させます。

 98年10月に、高宗は独立協会の主張を容れる形で内閣に付属していた中枢院を議会へとつくりかえていく方針を示します。中枢院は法律のみならず、皇帝の勅令に関しても制定、廃止、改訂する権利を持っており、実現すればかなり進んだ立憲君主制が出現するはずでした。
 しかし、ここから守旧派の巻き返しが始まり、独立協会寄りだった大臣たちが罷免されていきます。これは高宗の許可のもとで行われました。
 結局、中枢院の改革は大きく後退します。さらに、枢院で大臣候補を選んだ際に閔妃殺害事件に関わっていたとされる朴泳孝の名があったことに高宗が激怒し、12月にはデモの鎮圧のために軍隊を投入し、独立協会を解散させます。

 1899年8月、大韓国国制が公布されます。これは政治政体や皇帝の権限を明記したもので、朝鮮半島で最初の憲法と言っていいものでした。
 全9条の内容ですが、大韓帝国の自主独立を唱うとともに皇帝の「無限の君権」を定めたものでした(114−115p)。大日本帝国憲法の冒頭と似ていますが、冒頭の部分しかないのが特徴と言えます。

 新しく宮殿がつくられ、洋装が進みますが、これには守旧派からの根強い反対もありました。また、愛国歌や西洋式音楽の導入も行われますが、軍楽隊の教育を担当したのは「君が代」にも関わったドイツ人のエッケルトです。

 1900年の義和団事件をきっかけにロシアが満州を占領すると、日本はロシアの満州進出を認める代わりに朝鮮に進出するという考えを固めていきます。一方、大韓帝国は局外中立を目指しますが、これには日本は乗りませんでした。
 1902年に日英同盟が結ばれると日露開戦は必至の情勢となり、高宗は国防に関する日韓協約を模索する一方で、1903年に8月には、有事の際にはロシアを支援するとした密書をニコライ2世に送るなど、定まらない姿勢を見せます。

 1904年1月には、大韓帝国は日本の事前承認なしに独自に第三国と条約を結ぶことを禁止する規定を含んだ密約に関する交渉が大韓帝国側と林権助公使の間で行われますが、交渉中の1月21日に大韓帝国はフランス語で各国に局外中立を打電します。
 こうした高宗の姿勢に対して、林権助は「決心に乏しい」(143p)と評するとともに、今後は実力によって交渉を進めていく決意を固めていきます。

 1904年2月4日に日露戦争が始めると、日本は局外中立宣言を無視して漢城を占拠し、以前から交渉していた密約を「日韓議定書」として結びます。
 5月には「韓露条約廃棄勅宣書」が出され、ロシアとの条約やロシアに与えた特権が破棄され、駐ロシア公使館の撤去も決めます。
 8月になると、日本人の財務・外交顧問への登用や日本の承認なしに外国と条約を結ばないことを定めた第1次日韓協約が締結され、日本の圧力はますます強まっていきます。

 1905年5月の日本海海戦で日本が勝利すると、日本は7月の桂・タフト協定、8月の第2次日英同盟で韓国の保護権を日本が持つことを承認させ、さらに9月のポーツマス条約でロシアにもこれを認めさせます。
 こうして外堀を埋めた日本は、いわゆる第2次日韓協約の締結に動きます。11月に韓国に渡った伊藤博文は「大韓帝国はいかにして今日生存できているのか」と高宗に迫り、高宗が大臣などに相談したいと言うと、「(大韓帝国は)君主専制国ではないのか」と迫ります(157−158p)。
 日本が武力をちらつかせる中で、最終的に高宗は、韓国が富強になったらこの約案を撤回するという一文を挿入させたものの、外交権を日本に任せる第2次日韓協約が調印されることになります。
 統監として伊藤博文が就任するとともに、各国の公使館は撤収し、在日本公使館が事務を引き継ぎました。

 大韓帝国内からは第2次日韓協約は強要されたもので無効だとの声が上がり、高宗もその不当性を国際社会に訴えようとします。
 そこで1907年6月にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送りますが、日本側はこの情報を掴んでおり、また、各国が大韓帝国の外交を日本が管理することを認めていたために失敗します。
 これを受けて伊藤博文は、高宗を強制的に譲位させることとし、皇太子の純宗を即位させ、韓国の内政権を奪う第3次日韓協約を締結しました。

 大韓帝国には親日的な団体もありました。それが一進会です。会長の宋秉畯(ソンビョンジュン)は甲申政変後に金玉均暗殺の密命を受けて渡日したものの同志となった人物で、日本では「野田平次郎」と名乗りました。
 宋秉畯は大韓帝国の政府・支配層に対する不満を吸い上げるような形で組織化を進め、日本と協力して民権を伸長させることを狙っていました。

 一方、日本に対する抵抗として知られているのが義兵運動です。義兵は自発的に組織された民軍のことで、文禄・慶長の役のときなどでもみられたものです。元役人や儒者などを中心に組織され、主たる兵は農民でした。
 服制改革や断髪令などの近代化政策に抗議するとともに、日本に対する抵抗も強めていきます。

 第3次日韓協約ののち、軍隊解散の詔勅が出され、さらに多くの日本人顧問が任用されていきます。純宗の弟の李垠(イウン)は10歳で皇太子となり、日本に「留学」することになりました。
 伊藤博文は、1908年に東洋拓殖会社、09年に大韓帝国の中央銀行である韓国銀行を設立するなど経済開発にも力を入れます。
 さらに伊藤は自らが陪従する形で純宗の巡幸を行います。これは明治天皇に倣ったものであり、近代化を目に見える形で示そうとしたものでしたが、伊藤はここで抗日運動の根強さを目にすることになります。
 解散された元軍人による義兵運動も激しくなり、伊藤の路線は行き詰まりました。

 李垠を皇太子に立てたり、韓国銀行を設立したりした時点では伊藤は韓国併合の意思を持っていなかったと思われますが、南北巡幸を経て併合やむなしと考えたようで、統監を辞める決意を固めたのちの1909年4月の桂太郎と小村寿太郎との会談では併合を認めています。
 09年の6月に伊藤は正式に統監を辞任し、後任は曾禰荒助となりました。7月には韓国併合が閣議決定されています。

 10月に伊藤がハルビンで暗殺されますが、併合は既定路線でした。日本は一進会に併合を願い出させることにし、09年12月には一進会による併合を願い出る上疏が行われます。
 1910年5月に寺内正毅が統監に任命されると、併合に動き出します。総理大臣となっていた李完用は「韓国」という国号を残し、皇帝に「王」の尊称を与えることを要求しますが、基本的にはこれを受け入れました。
 最終的に10年8月22日に韓国併合条約が調印されます。国号については「朝鮮」となり、純宗は「李王」として天皇から冊封を受けました。ここに大韓帝国は終焉したのです。

 終章では韓国併合までの一連の手続きの正当性について、日韓の学者の考えを紹介していますが、ここで著者は日本と韓国の政治家の態度や記録のあり方の違いを指摘し、それでも日本側が
「正当性」や「合意」を無理矢理にでも得ようとした姿が見えてくるといいます。

 このように本書は、日本の朝鮮半島進出の歴史の中で対象として描かれがちな朝鮮(大韓帝国)が主体としてどのように行動しようとしたかということを教えてくれます。
 基本的には高宗を中心とした叙述になっているので、もう少し朝鮮(大韓帝国)内の社会の動きなどを知りたかった面もありますが、今までにあまりなかった視点から歴史を見せてくれる本になっています。
 蛇足ですが、本書を読むと、日本の近代化の成功の1つの要因は、即位したばかりの明治天皇がまだ少年で、さらにそれを京都から引き離したことにあったのでは? とも感じます。
 

中西嘉宏『ミャンマー現代史』(岩波新書) 8点

 2021年のクーデター以来、内戦状態となりつつあるミャンマーですが、そのミャンマーの近年の情勢を追い分析した本。
 近年の情勢といっても「現代史」というタイトルからは、独立以降の歴史をたどっているかなと想像しますが、本書が主に扱うのは1988年以降です。「史」とつく本の中でこれほど近い時代を扱っている本もなかなかないでしょう。
 著者はサントリー学芸賞を受賞した『ロヒンギャ危機』(中公新書)も書いており、どのように棲み分けるのかと思っていましたが、本書は「同時代史」という感じで、著者の経験も折り込みながら、謎めいた軍の考え、アウンサンスーチーの誤算、今後の行方といったものを明らかにしようとしています。
 ミャンマーはそもそもが不透明な国で、今後の行き先も不透明ですが、さまざまなアクターの背景を見ていくことでミャンマーの現在地を明らかにした本になります。

 目次は以下の通り。
序章 ミャンマーをどう考えるか
第1章 民主化運動の挑戦(一九八八―二〇一一)
第2章 軍事政権の強権と停滞(一九八八―二〇一一)
第3章 独裁の終わり、予期せぬ改革(二〇一一―一六)
第4章 だましだましの民主主義(二〇一六―二一)
第5章 クーデターから混迷へ(二〇二一―)
第6章 ミャンマー危機の国際政治(一九八八―二〇二一)
終 章 忘れられた紛争国になるのか

 韓国、タイ、インドネシアなど、アジアにおいては反共の立場をとる軍がクーデターを起こし、国内市場の開放と経済開発の重視に転換したケースもありましたが、ミャンマーでは1962年にネーウィンが主導したクーデター、1988年にタンシュエが主導したクーデターとも、国を閉じ、経済を停滞させるような方向にはたらいています。
 国家としての統合が弱く、さまざまな民族を抱え、大国からの環境も受けやすい国際環境の中で、軍は社会を統制し、外交的に孤立することでミャンマーという国を維持しようとしてきました。

 1988年、ネーウィンによる支配は26年におよんでおり、「ビルマ式社会主義」は行き詰まっていました。ベトナムがドイモイを始めるのが1986年のことであり、ミャンマーも農産物の取引の自由化に踏み切りますが、これが物価の高騰を招き、人々の不満は高まっていました。
 そうした中で、88年3月に酔っ払った学生の喧嘩の処理をめぐって、人民評議会の議長の息子ということでお咎め無しとなったことに対して学生たちの抗議が始まり、それが各地の大学へと波及していきます。
 この騒動は拡大し、ついに7月にはネーウィンが辞任を発表します。さらに8月8日には大規模なデモとストライキが呼びかけられ、多くの都市に広がりました。

 ここで登場したのがアウンサンスーチーでした。海外暮らしが長く(日本の京大に客員研究員として滞在していたこともある)、このときも母親の看病のためにたまたまヤンゴンにいたのですが、軍に対抗できる人物として運動側のリーダーになっていきます。
 9月18日、クーデタによってソーマウン軍最高司令官が政権を掌握、抵抗勢力を一掃するとともに選挙を約束しました。
 これを受けて9月27日にスーチー、アウンジー、ティンウーの3人を中心にNLD(国民民主連盟)が結成されます。
 1990年5月の総選挙ではNLDが8割の議席を獲得して勝利します。ところが、軍はこの選挙結果を認めず、スーチーは自宅に軟禁されることになりました。

 それでもNLDは存続し続けました。95年には憲法起草をめぐる対立から党員が大量に逮捕されたり、解放されたスーチーが2000年に再び自宅軟禁下に置かれたり、その後解放されたスーチーが03年に襲撃されたりと、NLDの危機は続きましたが、それでもしぶとく生き残りました。
 これはNLDの幹部に元軍人のグループがいて、彼らが組織の維持に長けていたことや、彼らが軍の弾圧を逃れたことなどが影響しています。また、スーチーの主張も父アウンサンが目指した軍への回帰であり、軍との全面的な対立ではありませんでした。
 一方、過激な学生運動は軍によって壊滅させられていきます。

 1988〜2011年にかけて軍事政権が続くことになりますが、軍事政権は「正統性」の問題を抱えています(エリカ・フランツ『権威主義』でも指摘されているように軍事政権は他のタイプの権威主義に比べて短命に終わりやすい)
 そこで、選挙を行って他の勢力に政権を譲り渡すというやり方が考えられますが、ミャンマーでは1990年の選挙結果を軍が否定してしまいました。また、ミャンマーでは指導者の神格化といったことも起こりませんでした。

 著者はこの時期の軍事政権の「正しさ」を支えた論理として、「軍のガーディアンシップ」、「「危機」による正統化」、「仏教ナショナリズム」の3つをあげています。
 民主主義の諸政党とちがって軍はミャンマー全体の利益を考えることができますし、ミャンマーは分裂や外国勢力による「危機」にさらされています。さらに仏教徒が国民の9割を占めるミャンマーにおいて仏教を庇護する存在として軍の存在を押し出しました。
 軍は文民官僚の力も削ぎ、各省の幹部を天下りの軍人で固め、軍人の忠誠をつなぎとめようとします。

 1988年のクーデターののち、精神的な不調に陥ったソーマウンに代わってタンシュエが軍最高司令官と国家法秩序回復評議会(SLORC)の議長に就任しました。
 タンシュエは叩き上げの軍人で、78歳まで現役の軍人として最高指導者であり続けました。各地の軍司令官に大きな権限を持たせるとともに、キンニュンがトップを務める軍の情報部が社会の監視と統制を行いました。

 1997年、SLORCから国家平和発展評議会(SPDC)に最高意思決定機関の名称が変更されると、対外的にはミャンマーは開放的な姿勢を取り始めます。97年、ミャンマーはASEANに加盟しました。
 ただし、2003年に情報部を率いていながら比較的融和的な態度をとっていたキンニュンが失脚すると、スーチーは再び自宅軟禁に置かれ、以降、2010年まで一度も解放されませんでした。
 軍は2007年の僧侶を中心としたデモも抑え込み、2008年に新しい憲法を成立させました。

 経済は、低位安定といった形でしたが、2000年代のはじめに天然ガス田が開発されたことから貿易収支は好転します。
 一方で木材や翡翠、ルビーなどは違法に密輸され、軍が所有する企業グループがさまざまな分野に進出し、この収益が軍人たちの生活を支えました。

 こうした中、2008年憲法のもとで10年に選挙が行われ、11年から新体制がスタートしたのですが、著者を含めて多くの人はここで劇的な変化が起きるとは考えていませんでした。
 2008年憲法では、立法を担う連邦議会が設置され、その議員から大統領が選出されるという制度になっていました。議会には軍の枠が保障されており、憲法改正の発議に対する拒否権も軍が持っている状況でした。
 しかし、新しく大統領になったテインセインのもとでミャンマーは大きく変化していきます。

 テインセインは大統領顧問として経済、政治、法律の3つのチームをつくり、今まで軍部が独占していた政策形成過程に外部の人材を取り入れました。
 結社の自由が大きく認められるようになり、NGOが増え、学生運動も復活しました。また、2012年に事前検閲制度が撤廃され、さらに携帯電話のサービスが普及していきました。
 11年8月にはスーチーとの「手打ち」も行われ、12年4月の補欠選挙にはNLDも参加し、スーチーも議員に当選しました。2008年憲法を認めることにはスーチーもためらいがあったようですが、スーチーが議員になり外国訪問をしたことで、欧米の経済制裁も緩和されていきます。

 テインセインは少数民族の武装勢力との和解交渉も進めていきます。
 ミャンマーには8つの主要民族(ビルマ人、チン人、カチン人、カイン人、カヤー人、モン人、ラカイン人、シャン人)があり、下位分類で135の民族がいると言われています(112p図表3−3参照)。さらに中国系やインド系など土着民族ではない人も加わります。
 1983年以来、民族ごとの人口数は発表されていませんが、推計ではビルマ人が68.1%で多数を占め、少数民族は主に国境地帯に暮らしています(114−115p図表3−4参照)。
 数多くの武装勢力が国境地帯を中心に活動しており、ミャンマー政府は独立以来一度も国土全体を実効支配したことがない状況です。

 11年8月にテインセインは「和平交渉への招待」という声明を発表します。停戦の実現→武装組織が連邦からの不離脱を約束した上での政党による合法的政治活動への転換→恒久的和平合意という道筋が提示されますが、独立あるいは分権的自治を目指す武装勢力は乗ってきませんでした。
 そこで14年には「民主主義と連邦主義にもとづく連邦国家を樹立」という文言を入れ、停戦を優先させる姿勢を見せました。この結果、15年にはカレン民族同盟(KNU)との停戦合意が実現しましたが、停戦合意を行ったのは8つのグループにとどまりました。

 経済は、インフラの整備と海外直接投資の導入、規制の廃止、法制度や金融制度の整備によって着実に成長していきます。約5000万人の人口を抱えるミャンマーは生産拠点としても市場としても海外から注目されました。
 そうした中でも軍が設立したコングロマリットはミャンマー経済の中心にあり、着実にその利益を得ていました。

 2015年の総選挙ではNLDが大勝し上院・下院ともに80%近くの議席を獲得します(ミャンマーは小選挙区制度であり、得票率以上にNLDが議席を獲得した)。
 スーチーの名前とNLDの党名は非常に強く、テインセインが引退を表明したこともあって与党のUSDPがまとまらず、少数民族政党が伸び悩んだこともあって、NLDの圧勝という結果になりました。

 スーチーは21年ぶりにタンシュエと会談し、さらに軍の最高司令官のミンアウンフラインとも会談し、配偶者や子どもが外国籍である者に大統領資格を認めない憲法第59条の改正に理解を求めたとされますが、これは拒否されます。
 そこでスーチーは国家顧問という「大統領よりも上」の役職をつくって、そこに就任します。軍はこれに反発しますが、スーチーはこれを押し切りました。閣僚数も大幅に削減され、スーチーのリーダーシップによって政府をまとめあげようとします。

 スーチーは、和平交渉、憲法改正、経済開発の3つを政策の柱としましたが、パイプの細さから和平交渉は進まず、憲法改正も軍のサボタージュの前に進みませんでした。テインセイン政権のやり方を引き継いだ経済開発だけがうまく進むことになります。
 ただし、国民の間で自国の「自由」や「民主主義」に対する信頼が大きく伸びたという面もあり、これが2021年のクーデター後の動きにつながったと言えます。

 軍の最高司令官のミンアウンフラインは、寡黙だったタンシュエに比べて饒舌な人間で、海外の要人との会談や外遊にも積極的でフェイスブックのアカウントも開設していました。のちにも指摘されるように大統領になる野心も持っていたと思われます。 
 スーチーは、軍中心の国防治安評議会の有名無実化を図ったり、軍が影響力をもつ内務省から権限を奪ったり、国防予算の伸びを抑えるなど、軍の影響力を削ろうとしますが、政権後半までは両者は共存していました。

 しかし、2017年にラカイン州でいわゆるロヒンギャ危機が勃発し、さらには2019年ごろからアラカン軍(AA)との戦闘も増加していきます。スーチー政権の少数民族政策はうまくいっていはいませんでした。
 2020年、コロナ対策をめぐって軍がスーチー政権への批判を強める中で、11月にスーチーは総選挙に踏み切ります。
 集会などの選挙ウンドが制限され、オンライン中心の選挙戦となりましたが、これはスーチーのようなシンボルのいるNLDに有利にはたらきました。また、ロヒンギャ問題もあって軍は孤立しており、さらにコロナ禍の中で世論調査もあまり行われていませんでした。
 結果は前回以上のNLDの圧勝となり、USDPは惨敗します。

 USDPや軍は選挙の不正を訴えますが、これがクーデターにつながると思っていた者は少なかったといいます。
 軍は票の再集計や議会招集の延期を求めますが、スーチーはこれをつっぱねました。両者ともどこかで相手が折れると考えていたのでしょうが、結果は2021年2月1日のクーデターでした。

 多くの人にとって予想外のクーデターでしたが、著者はその背景として、ミンアウンフラインの大統領への野心(1/4は軍の議席なので+1/4議席を獲得できれば大統領になれると考えていた)、今後5年間スーチー政権が続くことで軍の権益が削られてしまうこと、軍とスーチーの国家観の違い(軍にとっての重要事項は内外からの危機に対してミャンマーの一体性を守ることだった)をあげています。
 
 クーデター自体は無血のうちに行われましたが、その後の展開は軍にとって予想外でした。
 NLDの党員や熱心なスーチー支持者だけではなく、Z世代と呼ばれる若者の多くがクーデターに反対するデモに加わり、さらにデモが農村部にも広がったのです。
 市民的不服従の運動も広がり、医療従事者、公務員、一般の労働者と次々と職場放棄が始まります。
 NLDの議員たちは4月に国民統一政府(NUG)を結成し、オンライン上で活動を続けていきました。

 こうした反対運動に対して、軍は当初は警察を中心に抑え込みを図りましたが、2月22日の大規模なデモとストライキ以降、実弾も使った強硬な鎮圧策を使い始めます。さらに各地で軍が村落を焼き払う動きも見せました。
 無差別に市民に発泡する軍の姿に衝撃を覚えた人も多いでしょうが、ミャンマーにおいて軍人は家族とともに軍敷地内の宿舎に住む閉鎖的な社会を形成しており、また、スーチーやNLDが欧米に操られていると考えている者も少なくありません、こうしたことが市民に銃を向ける抵抗感を弱めていると考えられます。
 
 軍の目的はNLDとスーチーを徹底的に抑え込んで、自分たちの望むような政権をつくることです。スーチーに対してはすでに反汚職法違反などの有罪判決が出ており、1945年生まれのスーチーが死ぬまで収監しておく可能性も高いです。
 一方、若者は非暴力路線を捨て、少数民族武装勢力とともに軍事闘争に走っています。少数民族武装勢力の中では北部のカレン民族同盟(KNU)と南東部のカチン独立機構(KIO)が反軍事政権の立場を明確にしており、さらにNUGに人民防衛軍(PDF)という軍事部門がつくられました。
 犠牲者はすでに2000人を超え、国内避難民も100万人を超えているとされています。さらに経済の落ち込みも大ききなっていますが、今のところ戦闘が止む状況ではありません。 

 ミャンマーをめぐる各国の動きは第6章にまとめられています。
 アメリカはずっとミャンマーに対して無関心でしたが、88年以降、スーチーに注目が集まると、軍事政権に対して厳しい態度をとるようになりました。
 一方、中国とミャンマーの関係は複雑なもので、ミャンマーは国境を接する大国を警戒しつつも、中国の共産党政権を初めて承認したのはミャンマーでしたし、90年代には両国が国際的に孤立する中で連携を強めました。00年代以降は貿易が拡大し、09年には石油と天然ガスのパイプラインの敷設が決まります。

 テインセインが大統領に就任すると、制裁の緩和とともにアメリカとの関係が深まります。一方、中国に対しては中国電力投資集団公司が計画していたミッソンダムの建設が凍結されるなど「中郷離れ」も指摘されました。 
 スーチー政権誕生後、ミャンマーの「中国離れ」がさらに進むとの見方がありましたが、スーチーは最初の外遊先に中国を選びました。これは武装勢力との対話のために中国の強力が必要だったからですし、中国の投資に期待する面もありました。
 ロヒンギャ危機もあって欧米からは批判も浴びますが、米中対立を背景にG7諸国からの援助は伸びました。
 また、この時期、軍はロシアとの関係を深めていきます。

 クーデターに対しては欧米は厳しい制裁を課しましたが、国連では中国やロシアが制裁に反対しています。
 ASEANが仲介に動いていますが、マレーシアやインドネシアなどが軍事政権に厳しい一方、ミャンマーから天然ガスを輸入しているタイなどは及び腰です。

 日本はクーデターを批判しつつも、ODAの既存の案件は中止していません。日本には確かにミャンマーの軍との独自の「パイプ」がありますが(本書では具体的に渡邉秀央、笹川陽平、丸山市郎の名前をあげて解説している)、過度な期待は禁物だといいます。
 
 終章で述べられているように、ミャンマーの状況が短期的に好転する兆しはありません。終章のタイトルにあるように「忘れられた紛争国」になる可能性もあります。
 こうした中で、著者は日本の取るべき政策として弱い立場の人にしわ寄せがいかない制裁と、人道的な援助に的を絞った援助の見直しをあげています。

 このように本書はわかりにくいミャンマー情勢を推移をたどり、今後を展望しています。この紹介では割愛しましたが、著者の体験談も織り込まれており、そこからうかがえるミャンマー社会の変化というのも興味深いです。
 読む前は著者の『ロヒンギャ危機』と内容が被ってしまうのでは? とも思いましたが、この2冊は相補的な内容になっており、両方読むことでミャンマーの抱える問題に対する理解が深まります。『ロヒンギャ危機』に続き充実の1冊と言えるでしょう。






石井幸孝『国鉄―「日本最大の企業」の栄光と崩壊』(中公新書) 7点

 1949年に誕生し、87年に分割民営化された国鉄の歴史を描いた本。著者は研究者ではなく、1955年に国鉄に入り、分割民営化時にJR九州の社長を務めた人物です。
 そのため、国鉄の歴史を万遍なく書いたという感じではなく、あくまでも著者というアングルを通じた国鉄の歴史になります。例えば、著者はディーゼル機関車の開発に携わったことから、DD51などのディーゼル機関車における設計の工夫などマニアックなことも論じられています。
 
 このように書くと鉄オタ向けの本に思われるかもしれませんが、著者は技術者であると同時に経営者でもあり、その経営者視点の部分も面白いです。
 国鉄は万年赤字になってしまったのか? 国鉄における労組の問題、分割民営化の評価、厳しい経営を迫られているJR北海道の今後のあり方、そしてコロナによって乗客の減少に見舞われている日本の鉄道の今後についての提言など、JR九州の経営を軌道に載せた著者ならではの会社経営を見る目とアイディアが披露されています。
 経営に興味がある人などにとっても、読んで得るものが多い本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 戦後の混乱と鉄道マンの根性
第2章 暗中模索の公社スタート
第3章 栄光としのびよる経営矛盾
第4章 鉄道技術屋魂
第5章 鉄道現場と労働組合
第6章 鉄道貨物の栄枯盛衰
第7章 国鉄衰退の20年
第8章 国鉄崩壊と再起
終章 JRの誕生と未来

 1945年8月の終戦を境にして日本は大きく変わりましたが、鉄道は数多くの施設や車両を失いつつも動き続けていました。一方、復員兵士や引揚者の輸送、進駐軍の輸送、通勤・通学客の回復もあって乗客は増加、多くの列車は大混雑の状態でした。
 当初、進駐軍は日本の鉄道を直接管理するつもりでしたが、予想以上に整然と運行されていることを知り、日本側に鉄道の運営を任せます。
 ただし、質の良い客車はほぼすべて進駐軍専用車両として召し上げられるなど、GHQの命令のもとでの運行でした。

 鉄道事業は復員してきた兵士などの多くの労働力を吸収しましたが、結果として過剰な人員を抱えることになってしまいます。
 インフレの抑え込みを図ろうとしたGHQは鉄道の公社化を指示し、1949年、日本国有鉄道(国鉄)が発足します。
 GHQは48年7月22日付のマッカーサー書簡で公務員の争議行為を禁止を指示しますが、国有鉄道や専売事業は、労働権に関して一般公務員よりも制限を緩和してもよいという考えも示されていました。結局、国鉄の職員は団体交渉権を持つが争議権は認められずに、労使間の対立を調停・仲裁するための機関を設けるという形になっています。

 国鉄は公共企業体という形でしたが、予算は年度ごとに国会の審議を経る形になっており、運賃や定期の割引率も法による縛りがあるなど、経営の自由度は低いものでした。
 組織は、総裁室を筆頭に各局が置かれるという形で、地方には各鉄道局が置かれましたが、日本の官庁のスタイルとアメリカ流の組織の論理が混じった結果、複雑なものになりました(38〜39p図2−2参照)。

 国鉄発足当初の課題は人員整理でした。1946年7月末時点で56万人を超える人員がいましたが、適正人員は48万人だと考えられており、この人員整理の過程で労組の活動が活発になり、下山総裁が謎の死を遂げる下山事件をはじめ、三鷹事件、松川事件といった謎の事件が起きました。
 労組では47年6月に単一体の国鉄労働組合(国労)が生まれますが、その後、国鉄動力車労働組合(動労)などが誕生しました。

 公社化後の49年9月のダイヤ改正では東京〜大阪間に特急が復活し(「へいわ」のちに「つばめ」)、車両の新造なども本格的に始まりました。一方、1951年の100名以上の犠牲者を出した桜木町事故、54年の洞爺丸事故(洞爺丸だけで1155名が犠牲になった)などの大事故も起こっており、安全対策も急務でした。

 1956年に東海道本線の全線電化が完成し、58年には電車による特急「こだま」が登場するなど、鉄道をめぐる技術も進歩していきます。非電化の区間でも蒸気機関車はディーゼルに置き換わっていきました。
 56年には「国鉄5ヵ年計画」が策定され、老朽化した設備の更新と健全経営が目指されますが、他の省庁と同じように予算の獲得が必要であり、また、52年に3割の運賃値上げを提案したのに1割に削減され、53年の1割5分の運賃値上げも認められないなど、なかなか自由な経営はできませんでした。

 1961年のダイヤ改正(昭和36年10月1日なので「さんろくとお」と呼ばれる)では、キハ80系のディーゼル特急が各地の登場し、幹線の郵送力が増強されます。
 しかし、前年の60年に石田礼助を委員長とする日本国有鉄道諮問委員会が出した答申では、国鉄が慢性的な投資不足に陥っているにもかかわらず、国家的な要請に基づいて新線建設などの負担を強いられており、さらに機動的な運賃の設定が不可能で、いびつな年齢構成から今後は人件費の上昇が見込まれると、厳しい指摘が行われていました。
 これを受けて61年から「第2次5ヵ年計画」が始まりますが、翌年には160名が犠牲になる三河島事故が起こり、第2次5ヵ年計画は見直しを迫られます。

 こうした中で建設が進められたのが新幹線です、東海道本線の輸送力が行き詰まる中で、十河信二総裁が広軌(世界的にみれば標準軌)の別線を建設することが決まります。
 しかし、この手の事業の宿命とは言え、建設費は予想以上に高騰しました。新幹線は総括的な権限を持った新幹線総局のもとで建設が進みますが、権限を集中させる方式は工期の短縮には役立ちましたが、建設費を抑えるには不向きでした。最終的には十河信二総裁他、島秀雄技師長、大石重成新幹線総局長は開業前に辞任します。

 十河総裁の跡を継いだのが先程も名前があがった石田礼助です。国鉄38年間を通してただ1人の純民間出身の常勤執行役員であり(79p)、きっぷを利用者に持たせたまま鋏を入れる「持たせ切り」を禁止したり、国鉄のサービス向上と合理化に務めました。
 民間企業出身者らしく、石田は、例えば、通勤ラッシュの問題は国鉄というよりも政府や東京都や大阪府が住宅政策と関連されて取り組む問題だと考えていましたが、現場を見てその混雑ぶりを知り、東京圏では「通勤五方面作戦」というプロジェクトが始まります。
 一方、石田は新幹線には冷ややかであり、国鉄主体の新たな新幹線の建設にも否定的でした。

 1964年10月1日に東海道新幹線が開業しますが、実はこの昭和39年度は国鉄が赤字に転落した年でもありました。その後も、経営の悪化は止まらず、昭和48年には黒字は新幹線(東京〜岡山)、山手線、高崎線の3路線のみになってしまいます(106p)。

 ここまでが第3章までの内容。第4章の「鉄道技術屋魂」は、技術者だった著者が近藤恭三のもとでディーゼル特急「はつかり」やディーゼル機関車のDD51の開発を行った話などが語られており、これはこれで面白いのですが、ここでの紹介は割愛します。
 ただし、この章でのアンフィビアンバスやDMV(両用車両)といった線路も道路も走れる車体について、結局は物珍しさを除けばBRT(バス専用路に汎用バスに乗り入れる方式)に勝てないといった指摘は興味深いです。

 第5章は労組の問題について。
 まず、国鉄の組織ですが、国鉄は官庁と同じように中枢は少数のキャリア組(東大卒が多い)で占められ、その下に大量の現場職員がいるという構造でした。
 大組織なので基本的には年功序列で、「減点主義」の運営がなされていました。そのため、新しいことや改革はしにくい状況でした。また、家族主義的な雰囲気も改革を難しくしました。

 労組については国鉄発足時にも触れましたが、国労、動労以外にも50年代後半に当局側に近い労組として鉄道労働組合(鉄労)が生まれます。政治的には国労・動労は社会党と近く、鉄労は民社党に近い立場でした(公明党も施設系統に全国鉄施設労働組合(全施労)を一時的につくったとのこと(のちに鉄労と合併))。他にも全動労と千葉動労(成田闘争と接点を持っていたとして動労本部から追放された)と加えた5つの組合が団体交渉の相手でした。

 ただし、国鉄などの公共事業体ではストライキが禁止されていました。1970年代になると、国労は「スト権の回復」を掲げて違法なストライキを頻発させ、さらに1975年11月26日には8日間にわたる「スト権スト」に打って出ますが、三木武夫首相もが拒否する姿勢を明確にしたために失敗に終わります。 
 このストの失敗をめぐって国労と動労が対立し、これが民営化まで続いていきます。

 国鉄の組織は中央集権的で権限は本社が握っており、そうした中で労組からの圧力にさらされるのは現場長でした。仕事のやり方について提案しても、組合側はそれを「交渉」と理解し、職場を団体交渉の場にしようとします。
 現場では労働条件事項と管理運営事項は明確に区別できるものではなく、現場長が下手に動くと組合からつるし上げられるようにもなりました。
 こうした中、1969年末から始まった生産性向上運動(マル生)は現場の反発を呼び、国労、動労は、組合員に対して鉄労と管理者に「何も教えない」「何も聞かせない」「何も知らない(知る必要はない)」の「三ない運動」を展開し(212p)、71年にはこの運動は中止されます。
 この後、国鉄は組合に対して迎合的な経営を余儀なくされました。

 しかし、75年のスト権ストの失敗、82年に発覚したブルートレインのヤミ手当問題から組合を問題視する声が高まり、分割民営化へと大きく動き出すことになります。

 第6章は貨物について。日本は旅客輸送人員は世界一ですが、年間貨物輸送トンキロは20位、年間貨物輸送トン数は32位に過ぎません。鉄道貨物輸送は中国、ロシア、アメリカなどの大国が上位を占めるのですが、例えばドイツと比べても日本の鉄道貨物の量は少ないです(222p表6−2参照)。
 ただし、かつては札幌駅長よりも岩見沢駅長が、博多駅長よりも若松駅長が格上と言われたように(いずれも貨物中心の駅)、貨物輸送は大きな存在感を持っていました。

 貨物輸送の衰退の背景には、石炭輸送の衰退や産業構造の変化といったものがありますが、こうした外的な要因でだけではなく、品目別に決まっていた運賃体系や、時代の変化に対する車両や設備の対応の遅れ、営業マインドの欠如などもありました。
 さらに先述のスト権ストが貨物の鉄道離れに拍車をかけました。それ以前から、小規模ストによって時間通りに荷物が届かないといった不満が上がっていましたが、スト権ストにおいて政府が全日本トラック協会に要請して振替輸送を準備し、大きな混乱がなかったことから、貨物は鉄道からトラックへと決定的にシフトしていきます。
 70年代半ばからは赤字を減らすために運賃の値上げを行い、それがさらなる鉄道貨物の縮小につながるという悪循環に陥ります。

 1968(昭和43)年10月1日、いわゆる「よんさんとお」と呼ばれるダイヤ改正が行われます。これは電車・気動車の大幅導入を踏まえての白紙のダイヤ改正でしたが、これが最後の全国規模の白紙のダイヤ改正になりました。
 同じ68年の11月には「国鉄財政再建推進会議」の「意見書」も出されますが、都市間輸送、大量貨物輸送、通勤・通学輸送の増強によって黒字は可能というバラ色の計画でした。
 1969年度から運賃改定が認可制になり、また特急の乗客も伸びるなどプラスの部分もありましたが、収支は改善せず、昭和44年度から53年度までの「財政再建10ヵ年計画」は途中で修正を余儀なくされます。

 新幹線については、「新全国総合開発計画」や田中角栄の『日本列島改造論』で全国への新幹線網の整備が主張され、「日本鉄道建設公団」によって建設が進められることになりました。これで新幹線の建設は国鉄の経営とは別に進むことになります。

 なお、第7章の最後には天皇の乗る御召列車について、著者の経験も交えて書かれており、ここも興味深いです。

 第8章では、いよいよ国鉄の崩壊が扱われていますが、著者は国鉄の問題点を「症状」と「病状」に分けて分析しています。
 まず、「症状」ですが、(1)「サービス低下、運賃値上げと利用客離れの悪循環」、(2)「接客態度の悪化」、(3)「職場規律の乱れと度重なるストライキ」、(4)「利用客や地元自治体とのコミュニケーション不足」、(5)「マルの精神」(小さなミスや事故をなかったことにしてしまうこと)をあげています。
 では、その「症状」を生み出す「病状」は何かというと、①「人事、権限、財源がほとんど中央の管理になっていたこと」、②「縦割り組織によるセクショナリズム」、③「前例主義、予算消化主義の跋扈」、④「国頼みの経営体質」、⑤「マスコミ、世間への事実の隠蔽」といったことがあげられています。
 これを見ると、国鉄が官庁と同じような問題点を抱えていたことがわかります。

 こんな中で、相変わらず対策としては設備投資によって輸送量の増加をはかるという方向性しかなく、赤字は積み上がっていくことになります。70年以降は赤字幅が拡大し、75年以降になると膨大な借金の利子のために借金を重ねるという状況に陥りました。

 結局は、1982年の第2次臨時行政調査会の第3次答申で国鉄の分割民営化が打ち出されることになります。
 これに対して国鉄は労使とも特に分割に対して抵抗を示します。1985年11月29日には首都圏の各地で通信・信号用のケーブルが切断され、浅草橋駅に火炎瓶が投げ込まれるといった中核派によるテロ事件も起きました(当日は千葉動労がストを予定していた)。 

 最終的に分割民営化の方針となり、国鉄はJR東日本、東海、西日本、北海道、四国、九州、貨物の7社に分割されることとなり、27.6万人の職員を18.3万人まで削減することが決まりました。
 民営化後の経営としては、本州3社が黒字基調、三島3社が赤字基調となることが予想されたので、本州3社に債務を回し、三島会社には「経営安定基金」をつけました。この基金の運用益(金利7.3%)によって三島の経営を安定化させようとしたのです。
 一方、貨物に関しては、先行きが不透明だったこともあり、とりあえずは資産を圧縮して黒字を出す形が整えられました。

 労使の問題については、動労の松崎明委員長が一転して分割民営化を認める方針を打ち出し(「コペルニクス的転回」)、鉄労と協調します。人員整理も比較的順調に進み(退職を希望する者も多かった)、1987年4月1日にJR各社が発足するのです。

 終章はJRの未来について。
 著者はJR九州の社長になりますが、民営化前に近鉄の多角的な経営などを調べており、JR九州においても鉄道サービスの充実とともに、駅ビルやホテル、マンションなどを経営する多角化で黒字を狙っていきます。
 九州の場合、高速道路が整備されると高速バスが鉄道の利用客を奪ってしまうということがあり、バスにはできないような豪華な観光列車の開発なども進めていきます。
 その結果、JR九州は2016年に株式の上場を果たしました。

 本州3社の経営は堅調であり、民営化は総論的には大成功したと言えます。民営化前の1986年は国鉄は1.8兆円の赤字でしたが、2017年にはJR全体で1.1兆円の黒字となっています(334p図S-5参照)。
 しかし、三島会社の経営は、基金の運用益がまったく想定のレベルに達しなかったこともあり、非常に厳しいものとなっています。
 著者は特に厳しいJR北海道の経営について検討しています。著者の提言としては、不動産事業などを含めて札幌圏の事業を黒字化するとともに、宗谷本線、石北本線、石勝線・根室本線、釧網本線の北方4線を貨物中心の路線として活用できないかとしています。そのために北方4線を新幹線と同じ標準軌に改軌し、新幹線を含めた物流を考えるべきだというのです。

 著者は、この新幹線貨物を北海道に限らず進めていくべきだと考えており、北海道から九州まで整備された新幹線を使った物流を構想しています。
 鹿児島〜大阪はJR貨物でもトラックでも18〜20時間程度はかかりますが、新幹線であれば3時間45分、貨物でそこまでは無理でも大幅な時間短縮が期待できます。さらにドライバー確保の問題もないですし、二酸化炭素の排出量も減ります。
 もちろん、そう簡単に実現するものでもないでしょうが、コロナによって旅客輸送が伸び悩む中、貨物輸送にこそ未来があるというのが著者の考えになります。

 本書の面白さは、基本的に国鉄の歴史をたどりながら、著者の技術者としての視点と経営者としての視点の双方が織り込まれているところですね。
 歴史の叙述としてはややまとまりがない部分もあるのですが、自らの経験を活かした分析は研究者ではかけないものでしょう。特にJR九州を経営した経験から出てきたJR北海道への提言は興味深く読めました。
 いろいろと読み所の多い本だと思います。


三木那由他『会話を哲学する』(光文社新書) 7点

 ポール・グライスについて研究している著者が、主にここ最近の日本のフィクションの中の会話を題材にして、私たちの会話の中で何が行われているかについて哲学的に分析した本。

 面白く読むことはできましたが、なかなか評価の難しい本で本書です。本書は会話一般について読み解こうとしているものの、本書でとり上げられている例はかなり特殊な例だと思いますし、そもそもフィクションにおける会話というのは何らかの意図があって書かれているものであり、日常生活の会話と違うような気もします。
 ただし、マイノリティの人にとっては実は会話というのはこれくらいの戦略性に満ちたものかもしれないという感想もあって(著者は性的マイノリティ)、一概に「間違っている」とも言い切れません。
 また、本書は漫画作品を数多く引用しているのですが(紹介の仕方は上手い)、ここでは漫画のコマを持ってくるわけにはいかないので、以下はかなり不完全な紹介だと思ってください。

 目次は以下の通り。
第1章 コミュニケーションとマニピュレーション
第2章 わかり切ったことをそれでも言う
第3章 間違っているとわかっていても
第4章 伝わらないからこそ言えること
第5章 すれ違うコミュニケーション
第6章 本心を潜ませる
第7章 操るための言葉

 2つのスピーカーから自動的に何らかの音声が出ている状況を見て「会話が行われている」とは言いにくいように思えます。会話とは、2つ以上の主体が参加し、何らかの影響を与えあっているような状況が想定されます。
 会話は、言葉を発しなくても、手話やジェスチャーなどでも可能ですが、本書でとり上げられているのは基本的に言葉を発する会話です。

 著者は会話には「コミュニケーション」と「マニピュレーション」の側面があると言います。
 まず、「コミュニケーション」ですが、本書は当事者の間で約束事を積み重ねていく行為と捉えています。
 例えば、これは本書の63pの載っている例です。
A これから映画いかない?
B 明日テストなんだよね
A そっか。じゃあまた今度にしよう。

 映画の誘いに対して、Bは「明日テストなんだよね」と答えているだけですが、「BはBが映画に行けないと思っている」という約束事が成立していると考えられます。ですからAは仕方がないとあきらめるわけですし、もしBが別の人や1人で映画を見に行ってたらAはBを避難するでしょう。
 このように、本書の言う「コミュニケーション」とは双方の間で約束事(了解事項)を積み上げていくようなやりとりです。

 一方、会話には相手を自分の望む方向に変化させようとする側面もあります。本書ではそれを「マニピュレーション」と呼んでいます。
 本書の第7章ではシェイクスピアの『オセロー』におけるオセローとイアゴーの会話がとり上げられています。イアゴーはオセローに対して質問をしながら、オセローに猜疑心を生じさせているのですが、典型的なマニピュレーションとはこのようなものになります。

 ただし、のちの章でも触れられていますが、この「コミュニケーション」と「マニピュレーション」は複雑に絡み合っており、明確に「これはコミュニケーション」「これはマニピュレーション」とは分けられないものでもあります。
 ちなみに本書では、最初にこれを説明する例として、綿矢りさ『勝手にふるえてろ』の中の会話をあげているのですが、主人公のヨシカがかなり変わった人物なので、ちょっとわかりにくい例になっていると思います。

 会話に関する哲学で大きな存在感を示したグライスの議論は「マニピュレーション」の中心のものだといいます。グライスの議論で重要なのは発話者の意図であり、この意図を中心に会話を分析しようとしました。
 グライスの見方を著者は「バケツリレー方式」と呼んでいます。話し手が発言というバケツの中に自分の考えを放り込んで聞き手に渡し、聞き手がその中から話しての考えを取り出すというやり方です。

 しかし、著者はこの図式では説明できない会話があると言います。第2章で例としてあげられているのが、中村明日美子『同級生』の中の会話になります。
 『同級生』は高校生の男子の間の恋を描くボーイズ・ラブ漫画なのですが、ここで片方が好きだという気持ちを持っていることがわかっているのに、あえてその先の言葉を言わせようとするシーンがあります。
 「バケツリレー方式」では、考えが伝わればそれで十分なはずですが、ここでは伝わったにもかかわらずそれ以上のものが求められています。
 これを著者は、「好きだ」と明確に言わせることで、この事実を2人の間の約束事にしたいという気持ちがはたらいていると分析します。

 「好きだ」という言葉を「言わせたい」/「言わない」という攻防が行われるのが高橋留美子『うる星やつら』の最終巻です。
 結局、あたるはラムに対して「好きだ」とは言わずに物語は幕を閉じるわけですが、ラストのコマであたるは「いまわの際にいってやる」と言っています。
 2人間で「あたるはラムを好きだ」という約束事は成り立たなかったということになりますが、「いまわの際にいってやる」ということは、これから一生ずっと一緒にいることを約束しているともとれるわけで、2人が一生付き合っていくという約束事が成立したともとれます。

 第3章が扱うのは、間違っているとわかっていても会話が続いていくような例です。
 本章ではアガサ・クリスティ『オリエント急行の殺人』がとり上げられています。名探偵のポアロは乗客を集めて、殺人事件に関する2つの推理を披露します。1つはかなり無理のある推理で、すぐに医師のコンスタンティンが「筋の通った説明ではない」と退けます。ところが、2つ目の殺人事件にかかわる悲劇的な背景が明らかにされると、コンスタンティン医師は、1つ目の推理が正しいと言い出します。
 コンスタンティンは1つ目の説明が間違っていると理解しつつ、犯人への同情から犯人を見逃そうという約束事をつくり上げようとしていると考えられるわけです。
 
 第4章では、「伝わらないとわかっているのに話す」という状況が分析されています。
 まず、横田卓馬『背筋をピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ』というスポーツ漫画とり上げられています。この漫画では、御木清斗という実力者がそのパートナーでロシア人であるターニャに自分の心の弱さを打ち明けるシーンがあるのですが、普段はロシア語で意思疎通をしている中、ここではターニャに促されて御木はターニャのわからない日本語で思いの丈を話します。伝わらないのに話すのです。

 頭の中での独白を「内言」と呼んだりしますが、ここでは内言でもよさそうなのに、あえて内容を理解できないと思われる(実際は少しは理解していた)ターニャに語っています。
 ここで著者は御木くんは内言によって自分との間のコミュニケーションを成功させたくなったのでは? という分析を行っていますが(自分の弱さを自分との間の約束事にしてしまう)、個人的に「内言」のような自己内対話は一律にコミュニケーションから除外してしまっていいのでは? とも思います。
 
 ただし、「伝わらなくても誰かに話したい」というのは、よくある思いなのかもしれません。ネットの書き込みなども一定量は「誰にも伝わらないだろうけど書き込んでおく」といったものでしょう。
 本章でとり上げられている鎌谷悠希『しまなみ誰そ彼(たそがれ)』でも、「なんでも話して。聞かないけど。」というセリフを言う「誰かさん」という謎の人物が登場し、他人に悩みを話させます。
 「誰かさん」は完全に聞いていないわけではなく、それらしい助言的なことを言うこともあるそうなのですが、「聞かない」という約束をすることで、当事者のコミュニケーションにおける心理的な負担を解除しています。

 一方、伝わらないと思っていた言葉が伝わってしまったのがシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、ジュリエットの「ロミオ様、そのお名前をお捨てになって」という独白がロミオに聞かれてしまったことによって、悲劇的な結末を迎えることになるのです。

 第5章は「すれ違うコミュニケーション」と題されて、コミュニケーションの失敗が分析されています。
 松井優征『魔人探偵脳噛ネウロ』では、魔神のネウロが桂木弥子の家に起きた事件(父親が殺害された)を解決し、「この家に用はない」と去っていきます。当然、弥子はネウロは二度と戻ってこないと考える(ネウロがもう自分に関わることはないという約束事が形成された)わけですが、ネウロは「家にはないが貴様にはある」とあっさりと戻ってきます。
 ネウロは約束を破ったわけではないのかもしれませんが、少なくとも最初の約束事に関しては2人の間に齟齬があったというわけです。

 また、一方が強引に約束事を破るケースもあります。本章では『高橋留美子劇場』の中の「君がいるだけで」という短編の中の、お弁当屋さんの外国人定員に対して客がしたはずの注文を取り消すケースが出てきます。このとき、その客はこの店員は外国人だから日本語を間違えたという主張を店長に対して行います。

 このように立場の強い者が弱い者との約束事を反故にする、あるいはなかったことにしてしまうとうことが起こります。
 ここでは発話がどのような意味を持ってるかの決定権を独り占めするようなやり方を「意味の占有」と呼んでいます。
 こうした「意味の占有」は、社会的な立場が強く、また使える資源が多い人ほど行いやすく、逆にそうではない人は服従させられてしまうのです。

 第6章と第7章では「マニピュレーション」が分析されています。
 ただし、第6章で出ている尾田栄一郎『ONE PIECE』と魔夜峰央『パタリロ!』の例は個人的にはしっくりきませんでした。
 『ONE PIECE』の例は、ドラム王国のDr.くれはがナミに対して退院させるつもりはないけど、私はしばらく部屋を開けるよと言うシーンで、『パタリロ!』の例は、「マリネラに降る雪」でパタリロが妹に雪を見せるためにダイヤを盗もうとした昔の友人に対して「ぼくがうしろを向いている間にだれかがコッソリ持っていってたとしても、それはぼくの関知するところではない」というシーンです。

 著者は医者、あるいは国王としての建前をコミュニケートしつつ、裏ではOKを出しているということで、これをマニピュレーションの例としてあげているのですが、これは素直に「自分は立場上OKは出せないけど、OKだ」という約束事が形成されている、つまり、著者の言う「コミュニケーション」がなされていると考えてもいいのではないでしょうか?
 実際、友人がダイヤを持っていってすぐにパタリロがタマネギ部隊を使って友人を捕らえたら、友人は「なぜ?」となるでしょう。
 
 一方、その次に出てくる荒川弘『鋼の錬金術師』のアームストロングとマスタングの会話は、知っていることを話せないアームストロングが、その内容をマスタングに示唆しようとする形になっており、著者の考える「マニピュレーション」に当てはまる気がします。

 第7章では先ほど紹介した『オセロー』の例が出ていますが、この例が「マニピュレーション
」の例としては一番しっくりきますね。
 また、この章では疑問文や比喩や言葉の言い換えと「マニピュレーション」の関係についても分析されています。
 例えば、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』では、ドイツ兵を「フリッツ」と言うように教育されるシーンがあるのですが、この言い換えによって相手を殺す心理的負担が下がっています。

 この例からもわかるように、疑問文や比喩や言い換えをつかったマニピュレーションは、差別につながりやすいです。
 本書では「ゲイを差別するわけではないけど、でもみんながみんなゲイになったらどうなると思う?」という疑問文が例として出されていますが、確かにこれはゲイへの差別を引き出す意図をもった「マニピュレーション」です。

 といったものが本書で論じられていることなのですが、個人的には、やはりここでとり上げられているのは会話の中でも特殊な部類に入るものではないかと思います。
 例えば、次の会話はよくあるものでしょう。
A 今日も暑いですね。
B 本当にいつになったら涼しくなるんでしょうね?
A ねぇ

 この会話において、「Aは暑いと思っている」「Bは涼しくなってほしいと思ってる」との約束事ができていると捉えるのは不可能ではないでしょうが、普通の感覚では、2人は何か話したほうがいいと思ったから当たり障りのない(どうでもいい)ことを言っているだけで、特に約束事とか意図とかはない、と考えるのではないでしょうか。
 そして、世間では行われている会話の多くはこんなものなのではないでしょうか?
 フィクションの世界ではつくり上げられた虚構の世界は約束事や意図に満ちているわけですが、現実の世界の世界にそんなに約束事や意図はないような気がするのです。

 ただし、本書では、ここで紹介した『同級生』や『しまなみ誰そ彼』以外にも、山内尚『クイーン舶来百貨店のおやつ』やヤマシタトモコ『違国日記』など性的マイノリティを扱った作品が数多くとり上げられています。
 性的マイノリティの人は、そのことを他人に打ち明けて共有するか、それとも隠しておくかなど、マジョリティ以上に「約束事」というものを意識しているでしょうし、他人の言葉が持つ意図に関しても敏感でしょう。
 そういったことことから、約束事と意図に満ちた「フィクションの世界」と「マジョリティの世界」の間に「マイノリティの世界」があるのかもしれません。


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