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2019年04月

室井康成『事大主義』(中公新書) 6点

 事大主義とは時流や大勢に身を任せる考えで、日本人の国民性を表すものとして使われるとともに、韓国・北朝鮮の民族性や沖縄の県民性などを表すものとしても使われてきました。基本的に否定的な意味で使われることが多い言葉ですが、その歴史は浅く、明治期に福沢諭吉がつくった言葉だと考えられます。
 この本は、この事大主義という言葉が、なぜ広まり、なぜ否定的な意味を帯びていったのか、そして日本のみならず朝鮮半島でも使われるようになったのはなぜかということを解き明かしていく内容になっています。そして、同時に東アジアの言説空間の一部をあぶり出すような面白い内容となっています。

 目次は以下の通り。
序章 「事大主義」という見方
第1章 「国民」の誕生と他者表象
第2章 反転する「事大主義」―他者喪失によるベクトルの内向
第3章 沖縄「事大主義」言説を追う―「島国」をめぐる認識の相克
第4章 戦後日本の超克対象として―「事大主義」イメージの再生
第5章 朝鮮半島への「輸出」―南北対立の中の事大主義言説
終章 “鏡”としての近現代東アジア

 「事大主義」の「事大」とは『孟子』の中にある「惟智者為能以小事大」(=小国がとるべき道はただ一つ。大国に仕えることである。それが智者のなすことである)からきています(11−12p)。
 「智者のなすこと」ということからもわかるように、孟子にとって事大は悪いことではありません。性善説に立つ孟子の考えでは大国は仁の観点から小国を保護すべきであり、小国が大国を頼むことは何ら恥じることではないです。

 もともとは中国国内において小国が大国に仕えることが事大でしたが、漢帝国が成立し、周囲の国を従えるようになると、この関係は中国と周辺国の間で結ばれました。中国の冊封体制下に入った朝鮮や琉球では、さまざまな思惑を抱えながらも中国という大国に仕える形となりました。

 この「事大」に「主義」という言葉をつけて「事大主義」という言葉を生み出したのは福沢諭吉だと考えられます。この言葉は『時事新報』の1884年12月15日号にの甲申政変を論じた記事の中で「事大の主義」という形で初めて登場したとされています。『時事新報』の論説は無署名で、福沢のほか中上川彦次郎と渡辺治の3人が分担執筆していたので、福沢が書いたという確証はないのですが、福沢は若い頃に『孟子』に親しんでおり、著者は福沢が書いた可能性が高いと見ています。
 福沢は甲申政変を起こした金玉均とも面識があり、金のことを物心両面で支持していました。しかし、金の起こした清国軍の介入もあってクーデターは失敗に終わります。福沢からすると、朝鮮の近代化の動きは清に従っていたほうがいいという「事大」の考えの前に挫折したのです。

 福沢には朝鮮人全体に対する偏見のようなものはなかったと考えられますが、この「事大主義」という言葉は朝鮮人の民族的な特徴を表すものとして侮蔑的に用いられるようになっていきます。
 特に日本が日清・日露戦争に勝利し自信を深めると、「日に事(つか)へんか露に事へんか、事大主義を以て唯一の外交政略とせる韓廷も之が選択に苦しみ、面白き国際間の迷子となれり」(42p、引用部分は松宮春一郎『最近の韓国』より)などと書かれるようになり、事大主義は朝鮮のもつ欠点として認識されるようになっていくのです。

 ところが、日露戦争集結からしばらくするとこの事大主義という言葉は日本に対しても向けられるようになります。明治維新以来の欧化一辺倒の傾向に対して、これは「事大主義」であり、克服すべきであるという主張が見られるようになるのです。日露戦争の勝利による自尊心の高まりがこうした言説の背景にはあります。
 また、著者は1910年の韓国併合によって、韓国・朝鮮が喪失したことも大きいといいます。「論難の対象としての「他者」が喪失してしまえば、その矛先が自ずと「自己」へと向かうのは自然のなりゆき」(49p)というわけです。
 一方、桐生悠々のように事大主義はすべての国や人々に共通する法則のようなものだと主張する人物もいました。 

 日本人の特徴に事大主義があると考えた人物の一人が柳田国男です。柳田は島国である日本において、海を渡って移り住む人々は常に内陸部に先に住んでいた人々の意向に従わざるを得ず、ここに事大主義的な発想が育まれたとみています。
 このように、柳田の考えは過去の日本人の生き方から事大主義という特徴を把握しようとするものでしたが、日本人の主体性のなさを事大主義という言葉で批判しようという言説も多く見られます。例えば、中野正剛は1921年に「日本人は最初支那人をブン擲ることを、上海に於て英国の先輩から学んだ。例の事大主義で無批判に此の悪習慣を受け入れた。若し日本人の胸中に自主的信念があつたら、支那人の為に此英人の悪習慣を憤つたであらう」(69p)と書いており、また、外交における対英米協調主義を批判する文脈などでも用いられました。

 また、この時期は大正デモクラシーと重なっており、普通選挙の導入の是非を巡って行われた議論でも、この日本人の事大主義が問題になりました。柳田国男も普選導入論者でありながら、この点には危惧を示しています。
 そんな中で、日本人の事大思想の打破を目的として政治教育の重要性を訴え、青年団運動を組織したのが元内務省官僚の田澤義鋪(よしはる)でした。この運動には柳田も共感を示し、さまざまなイベントに協力しています。柳田の民俗学の背景には、こうした日本人の事大主義の打破というものもあったのです。
 さらに著者は与謝野晶子の発言などに触れ、「やはり事大主義の打破は、大正デモクラシーの重要なキーワードといえるのではないか」(85p)と述べています。
 ただ、ここでは触れられてはいませんが、大正デモクラシー最大の思想家ともいえる吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」は、大勢順応主義的、つまり事大主義的な部分もあり、このまとめは少し引っかかります。

 第3章でとり上げられているのは沖縄です。沖縄の県民性としてしばしば否定的な意味合いで事大主義という言葉が用いられますが、この源流は「沖縄学の父」ともいわれる伊波普猷(いはふゆう)にあるとされます。
 伊波は柳田国男と交流があり、柳田と同時並行的に沖縄の研究を進めました。柳田は八重山諸島の研究をする中で、沖縄本島に協力した人たちを「事大派」と呼び、そこに日本との共通性を見ました。柳田の高弟の折口信夫をまた、沖縄と日本の共通性の一つとして事大主義を見出しています。

 伊波は琉球王国が清と薩摩藩への両属を続ける中で独立自営の精神が減退したと考えています。伊波によればこの状況は琉球処分によって打破され、事大主義は過去のものとなったはずですが、伊波以降、沖縄の県民性を示すものとして事大主義という言葉が使われるようになっていきます。
 同時に本土にも沖縄を事大主義というフィルターをかけて見る視線がありました。軍ははその事大思想から沖縄の人々はいざとなったら信用出来ない考え、その克服のために義勇兵を組織しました。しかし、このことは沖縄戦での犠牲をかえって大きくしたとも言えます。

 第4章では戦後の日本における事大主義の言説がとり上げられています。戦前、戸坂潤や山川菊栄など一部の論者はファシズム的な傾向を事大主義という言葉を使って批判していましたが、本格的に事大主義という言葉によって日本人を批判的に検討する言説が現れるのは戦後になってからになります。
 例えば、教育基本法の制定の中心となった文部大臣の田中耕太郎は「単に政治的のみならず思想的、又文化的にも、事大主義が日本の社会の一つの特徴であった」(121p)と述べていますし、国会の審議でも戦争の原因として事大主義が指摘されたりしました。
 柳田も戦後になると、改めて事大主義の打破と「真の民主政治」の実現を訴えており、50年代なると、大手マスコミに対する事大主義に警鐘を鳴らしています。

 一方、戦後の沖縄では、特に本土復帰後の沖縄では、伊波の言説は否定的に見られるようになり、事大主義も自虐的な表象だと考えられるようになっていきます。
 しかし、知事となる大田昌秀が、1990年に刊行された著書で伊波の「沖縄人の最大欠点」は事大主義だという考えを再びとり上げ、特に沖縄の政界における問題として事大主義をとり上げるなど、政府からの補助金を得るために基地を受け入れる態度を「事大主義」と批判する言説が見られるようになります。本土ではあまり聞かれなくなった事大主義という言葉は沖縄では生き続けたのです。

 第5章では戦後の韓国・北朝鮮における事大主義がとり上げられています。終戦とともに日本による植民地支配は終わりましたが、事大主義という言葉は消えませんでした。
 特にクーデターによって実験を握った朴正熙が「事大主義の打破」を唱えたことから、事大主義は韓国人が乗り越えるべきものとして前面に押し出されました。
 一方、北朝鮮の金日成は朴正熙をアメリカに隷属する事大主義として攻撃し、対概念として「主体(チュチェ)思想」が生み出されました。北朝鮮は韓国を「事大主義」として、自らは「反・事大主義」をその正統性の根拠としたのです。
 
 朴正熙は農村の伝統的な民俗を否定し、経済成長を目指します。そして、事大主義は政敵を攻撃するキーワードとして使われるようになります。1971年の大統領選では対抗馬の金大中がアメリカ・日本・中国・ソ連との連携を訴えると、これを国防を他国に任せる事大主義だと言って批判しました。さらに金泳三が野党党首として期待を集めると、これを外国(アメリカ)に通じる事大主義者だとして批判します。しかし、民衆への弾圧を指示した朴正熙は79年に部下によって暗殺されます。

 その後、日本では事大主義という言葉はあまり用いられなくなってきますが、山本七平の「空気」を事大主義の言い換えと考えれば、今の「空気を読む」日本人は事大主義が問題になった事大と変わっていないのかもしれません。
 ただし、国民性なるものが存在するのかという疑問はあります。これに対して、著者は事大主義はある意味で普遍的なものであり、「事大主義言説とは、それらの東アジアの国と地域が、近現代という時空間において、相互を”鏡”とすることで描いてきた自画像の系譜であったといえるのではなかろうか」(192−193p)と述べています。

 このように事大主義という言葉の歴史をたどることで、日本・韓国・北朝鮮、沖縄の自らと他者の表象のされ方を描き出しています。
 著者も最後に言うように、ある意味で事大主義とは普遍主義的なあり方であり、多くの人々が事大主義的に生きていると言えます。ただし、これがある地域全体を批判するときに使われ、また自民族を批判するときにも使われるのが東アジアの特徴と言えるのかもしれません。
 この問題に関して終章でとり上げられているのですが、事大主義が人間社会に普遍的な現象なのか、それとも乗り越えるべきものなのか、ややブレがあるような気がします(「事大主義普遍主義が、正しい見方であったというべきあろう」(192p)、「訓練により自己を確立するか、それとも事大主義の安きに流れるか」(195p)と、両方肯定している部分がある)。

 それでもこの本でとり上げられているさまざまな言説は非常に興味深いですし、現在の沖縄県政に対する批判が2010年以降の日本の言説空間での対韓イメージと重なっているという指摘(88p)など、鋭い部分もあります。
 最後の結論には少しもやもやした部分も残るのですが、日本の自己像、日本と韓国・北朝鮮、日本と沖縄などの関係を考える上でも有益な本だと思います。


原武史『平成の終焉』(岩波新書) 7点

 副題は「退位と天皇・皇后」。『大正天皇』、『昭和天皇』(岩波新書)などの著作を送り出してきた著者が、まもなく退位する天皇と皇后の「平成流」のスタイルを批判的に分析するとともに、今後の皇室の将来を占った本になります。
 かなり賛否が分かれる本なのではないかと思います。かなり独自の裏読み的な考察が展開されており、牽強付会としか言えない部分もありますが、天皇・皇后が多くの国民から人格的にこの上なく立派だと思われている中で、現在の象徴天皇制に対する批判的な視座を獲得するためには、これくらい強引な読みが必要なのかもしれません。特に美智子皇后の国民の中に入り込み、寄り添ってくスタイルがミクロ化した「国体」を生み出したのではないかという指摘は重要だと思います。

 目次は以下の通り。
序論 天皇明仁の退位
第1章 「おことば」を読み解く
第2章 「平成」の胚胎―過去編1
第3章 「平成」の完成―過去編2
第4章 ポスト平成の行方―未来編
 
 まず、第1章では2016年8月8日に出された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が詳細に分析されています。天皇明仁の口から直接国民に退位の意向が示されたメッセージです。
 著者が注目するのはその中の「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」という部分です。
 著者は「国民の安寧と幸せを祈ること」を宮中祭祀、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を行幸と捉えています。

 「国民の安寧と幸せを祈ること」を宮中祭祀に限定するのはやや強引かとも思うのですが、天皇明仁と皇后美智子は先代の昭和天皇・香淳皇后に比べて、明らかに熱心に宮中祭祀の行事に出席しています。
 行幸に関しても、天皇明仁は皇太子時代から熱心に各地を訪ねており、また、皇后美智子も皇太子妃時代からほとんどの行動をともにしており、2人は皇太子(妃)時代から日本全国の都道府県を三巡しています。

 また、おことばの中には摂政を否定した部分も含まれ、最後は「国民の理解が得られることを、切に願っています」と締めくくっています。
 この最後の部分について、著者は「終戦の詔勅」の「爾臣民其レ克ク朕か意ヲ体セヨ」に通じるものがあるとしています。

  このおことばに対して著者は6つの問題点をあげていますが、そのうち重要なのは、問題点1「権力主体となる天皇」と問題点2「象徴の定義」でしょう。
 日本国憲法では天皇は権力主体となることを禁じられていますが、今回の退位では天皇がイニシアティブをとる形で特例法が制定されました。もちろん、歴代の内閣が天皇の意思を受け止めきれなかったゆえの止むに止まれぬ選択だったという見方もできるでしょうが、やはり問題もはらみます。
 また、天皇がおことばの中で重要な仕事として述べた宮中祭祀と行幸は憲法に規定された国事行為ではありません。ところが、おことばの中ではこの2つが非常に重視されており、天皇自らが象徴の役割を再定義したとも言えるような形になっています。

 このおことばで示された「平成流」ともう言うべき象徴天皇のスタイルがいかにして出来上がってきたかをたどったのが第2章と第3章です。
 まず、第2章では皇太子・皇太子妃時代の地方への行啓がとり上げられています。
 1958年の婚約発表とともに起こったミッチーブームは、63年の皇太子妃の流産をきっかけに沈静化していったという見方がなされますが、著者は地方紙の記事などをもとに地方では皇太子夫妻への高い関心が続いていたことを指摘しています(72年に訪れた鹿児島県徳之島では島民37000人のうち36500人が沿道で出迎えたとのこと(75p))。
 特に皇太子妃への女性からの人気は圧倒的で、皇太子妃の乗る左側の沿道が混雑したそうです。

 皇太子夫妻の行啓先は、国立公園大会、国体(夏季と冬季)、全国高校総体、全国障害者スポーツ大会、全国育樹祭など、各都道府県が持ち回りで開催するものが多いのですが、このとき同時に役場や福祉施設などその地域のさまざまな施設に足を運んでおり、沖縄では戦跡もまわりました。

 当初の行啓では、昭和天皇の行幸と同じく「お立ち台」が設定されていることが多く、皇太子夫妻もこのお立ち台に立って人々からの歓迎を受けましたが、しだいにこのスタイルはなくなっていきます。代わりに皇太子夫妻が行ったのが地域の人々との懇談でした。
 基本的に当り障りのないことしか尋ねなかった昭和天皇に対して、皇太子夫妻、特に皇太子妃は地元の若者に対してかなり突っ込んだことを尋ねています。例えば、62年に訪れた宮崎県では、自分よりも若い20代の女性に対して「農村の主婦は家計簿を持っていますか」(93p)と尋ねるなど、「声なき声」(94p)をすくい上げるようなやり取りをしています。
 さらに63年の山口県では「農村に女性をオヨメにやりたくないとか、行きたくないという話をききますが、どういうわけでそうなるのか調査したものがありますか」(96p)と質問するなど、地方の問題を積極的にとり上げようとしています。
 著者はこうした懇談会が一種のタウンミーティングのようなものだったと考えています。もちろん皇太子夫妻は政治家ではありませんが、地域の問題をメディアに乗せる役割を皇太子夫妻が果たしたのです。
 ただし、70年代後半になるとテーブルを囲んだ懇談会は少なくなり、タウンミーティング的な機能は失われていきます。

 また、2人が積極的に訪れたのが福祉施設でした。戦前までは福祉施設などを訪れたり保護したりするのは女性皇族の仕事とされてきましたが、幼い頃からカトリックの教義に触れてきた皇太子妃に感化される形で皇太子も熱心に福祉施設を訪れるようになっていきます。
 肢体不自由児の療護施設などでは夫妻がともに膝を付き言葉をかけることもあり、いわゆる「平成流」の一人ひとりに目線を合わせて語りかけるスタイルは、こうした中ですでに行われていたのです。
 さらに広島、長崎、沖縄といった戦争の記憶が濃厚に残る場所にも積極的に足を運んでいます。75年に沖縄のひめゆりの塔を訪れたときには新左翼系の過激派に火炎瓶を投げつけられましたが、皇太子は「それをあるがままのものとして受け止めるべきだと思う」と述べた上で、「気落ちとしては、また行ってみたい」と発言しています(123p)。

 天皇として即位したあとも積極的に行幸啓は続けらました。特に被災地と激戦地への訪問は天皇の強い意志が反映されたものでした。
 一方、人々との交流に重点を置く「平成流」に対しては、右派からの反発もありました。天皇の権威化を求める動きとして80年代から提灯奉迎が復活し、天皇の即位、在位10年、在位20年を祝う「国民祝典」が開かれました。
 
 そして、こうした中で起こったのが皇后へのバッシングです。宮内庁に勤務すると称する匿名の人物の文章を皮切りに皇后の力が強くなりすぎているという批判が起こったのです。
 この一連の騒動の中で皇后は失声症となり一部の行幸啓への同行が取りやめとなりますが、しばらくすると行幸啓に復帰し、地方の人々との対話の中で回復していくことになります。
 91年の雲仙普賢岳の大火砕流、93年の北海道南西沖地震、95年の阪神淡路大震災と大きな災害が起こるたびに天皇と皇后は被災地への訪問を続けました。被災者の前にひざまずくスタイルに反発する人々もいましたが(江藤淳は阪神淡路大震災のときの振る舞いに触れ、「国民の気持ちをあれこれ忖度されることすら要らない」(150p)と書いている)、しだいに「平成流」として定着していきます。

 天皇が退位の意向を公にしたのは2010年7月22日の参与会議だと言われています。皇后も含め出席者全員が反対する中でも天皇は考えを変えなかったとのことですが、国民がそのことを知ることはありませんでした。
 そうした中で天皇の存在感を示したのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。3月16日には天皇自らがカメラの前でおことばを述べるとともに、前原子力委員会委員長代理や警察庁長官、外務次官や防衛大臣、統合幕僚長を御所に呼び、説明を受けています。 
 さらに7週連続で被災地への行幸啓を行うなど、精力的に活動しました。こうしたこともあって、NHKの「日本人の意識調査」における天皇に「尊敬の念を持っている」との回答は2008年の25%から13年には34%へと増加しています(169p)。
 もちろん、これには日本社会の「保守化」という要因も考えられますが、天皇・皇后は2018年の「明治一五〇年記念式典」に欠席し、13年には皇后が五日市憲法草案に言及するなど、そうした傾向とは距離を取る姿勢を度々示しています。

 このように戦前のような天皇制とは違ったかたちの天皇制を模索した天皇明仁と皇后美智子ですが、積極的な行幸啓は各地に数多くの行幸啓記念碑を出現させました。こうした状況について著者は「明治から昭和初期までのような学校教育を通じたイデオロギーがなくても、一対一で面会する機会を増やせば増やすほど、前述のようなミクロ化した「国体」が、より多くの人々の内面に確立され」(178p)た、と述べています。
 また、東日本大震災直後にさまざまな人を読んで説明を求めたことは、官邸とは別に司令センターを作るようなものだという批判もあります(167p)。天皇明仁と皇后美智子はまた違った形の権力をつくり上げているという批判もできるのです。

 第4章ではポスト平成の行方がとり上げられていますが、まず指摘されているのが、上皇、天皇、さら男系男子のいる秋篠宮家という三重権威化が起こる可能性です。その分、皇室は不安定になる恐れがあります。
 また、皇太子徳仁も登山を通して行き交う人々との交流を深めているとはいえ、皇太子妃雅子は2003年から引きこもり気味であり、皇太子妃の肉声はもう15年以上も聞こえていません。天皇昭仁と皇后美智子が行ったような全国津々浦々をまわる行幸啓は難しいでしょう。

 一方、精力的に全国をまわっているのが秋篠宮夫妻です。夫妻は宮中祭祀への出席にも熱心で、著者は「平成のときよりは秋篠宮夫妻の存在感が増し、新天皇と新皇后とは対照的に、天皇昭仁と皇后美智子の忠実な後継者として浮上してくることは否定できません」(210p)と述べています。
 著者の見立ては、新天皇と新皇后は「平成流」を受け継ぐことは難しいが、新皇后が元外務省のキャリアであり、新天皇が「水」の問題をはじめとする国際的な環境問題に関心を持っていることを考えると、「国民国家」の枠を超える新しい天皇像を示す可能性もある。一方、「平成流」は次の代の秋篠宮夫妻に受け継がれるのでは、というものです。
  
 全体的にバランスの良い本ではありませんし、「世界的に見ても日本の男女平等度ランキングが低く、政界や企業、大学などで女性がなかなか進出できず、若い女性の専業主婦願望が高まっている理由の一つに、皇后美智子がモデルとしての役割を果たしているとは言えないでしょうか」(190p)など、さすがに強引すぎるのではないかという部分もあるのですが、このタイミングで出る問題提起の本としては面白いと思います。
 巻末に掲げられている行啓、行幸啓先一覧の表や地図などからもわかるように、著者のこだわりが強い本であり、そこに乗っていけるかで評価はやや割れるでしょう。個人的には引っかかる部分もありつつ、全体的には面白く読むことが出来ました。
 

佐藤卓己『流言のメディア史』(岩波新書) 7点

 2016年のアメリカ大統領選挙をきっかけに「フェイク・ニュース」という言葉が広まりましたが、このフェイク・ニュースは必ずしもインターネットやSNSとともに誕生したものではありません。
 マーク・トウェインは「真実が靴の紐を結ばぬうちに、虚偽のニュースは世界を一周していしまふ」(6p)との言葉を残しているそうですが、マーク・トウェインが亡くなったのは1910年、つまり20世紀初めにはフェイク・ニュースは世界にばらまかれていたのです。
 この本はそんなメディアと流言の関係を20世紀前半からたどった本になります。著者は『言論統制』(中公新書)や『八月十五日の神話』(ちくま新書)、『ファシスト的公共性』などで知られる佐藤卓己で、2013~15年年にかけて『季刊 考える人』に連載されたものが元になっています。つまり、フェイクニュースという言葉が世に広まる前い書かれたものなのですが、このあたりはさすがの先見性です。
 連載ものということもあって各章は基本的に独立しており、面白さも章によってややばらつきがあります。

 目次は以下の通り。
第1章 メディア・パニック神話―「火星人来襲」から始まった?
第2章 活字的理性の限界―関東大震災と災害デモクラシー
第3章 怪文書の効果論―「キャッスル事件」の呪縛
第4章 擬史の民主主義―二・二六事件の流言蜚語と太古秘史
第5章 言論統制の民意―造言飛語と防諜戦
第6章 記憶紙の誤報―「歴史のメディア化」に抗して
第7章 戦後の半体制メディア―情報闇市の「真相」
第8章 汚染情報のフレーミング―「原子マグロ」の風評被害
第9章 情報過剰社会の歴史改変―「ヒトラー神話」の戦後史から

 まず、第1章はメディアが起こしたパニックの代表例としてとり上げられるオーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』がとり上げられています。
 メディアの言説が大衆に直接影響を与えるという弾丸効果を示す例として、また、フィクションとノンフィクションの境界が溶けていくメディア社会の到来を象徴するものとして、この火星人の襲来でパニックになった人々は度々語られてきたわけですが、この章で示されるのは、「火星人襲来というフェイクニュースに踊らされた人々」がいたのではなく、「火星人襲来でパニックになった人々というフェイクニュース」を報じた新聞の存在です。
 J・プーレー&M・ソコロウ「『火星からの侵入』の検証-H・キャリントル、P・ラザースフェルド、歪んで記憶された古典の成立」によれば、そもそも人々がパニックに陥った事実がなかったというのです。

 この出来事について頻繁に引用されるのは、放送翌日1938年10月31日のニューヨーク・タイムズの「ラジオ聴取者のパニック-戦争劇を真実と取る」との見出しがついた第一面の記事で、その後この事件についての報道が続きますが、有名な「猟銃で火星人を待ち受けるグローバーズ・ミルの農場主」という写真(32p図1-1)はヤラセであることがわかっていますし、それ以外も裏付けの取れない「事件」が多いです。ただし、各社が報じたこともあって新聞社や警察には問い合わせの電話が殺到しました。ネット検索のない当時、情報を確認する手段は電話だったのです。

 このラジオドラマの聴取率は2%程度に過ぎず、多くの人はラジオからではなく新聞などの報道によってこの出来事を知りました。そして報道の中でパニックが起こったという事後的な記憶がつくられていきました。
 ちょうどこの頃は新聞業界が広告収入をラジオに奪われてダメージを受けていたときであり、このニュースはラジオに比べて新聞のほうが信頼できるというキャンペーンに利用されます。
 一方、CBSやオーソン・ウェルズにとってもこの事件によってその名が知られたという面があり、無理に否定すべきものでもありませんでした。こうして「神話」は定着していったのです。

 第2章は関東大震災における「朝鮮人来襲」のデマを検討しています。
 関東大震災で新聞の発行も途絶えるなか、人々はパニックに陥りが、朝鮮人に対する虐殺が起きたという見方があります。一方、噂を煽った当局によって虐殺が発生したのだという見方もあります。警察の流した「不逞鮮人」のデマが本来善良な人々を虐殺へと駆り立てたというのです。
 ここで著者が注意を向けるのが、震災によって東京の主要新聞社は新聞の発行が不可能になり、東京近郊ではメディアによる情報が断絶していた点です。一方、周囲の地域では政府から掲載しないように指示が出たにもかかわらず、「鮮人大暴動 食料不足を口実に盛んに掠奪」(九月三日付『河北新報』)(69p)といった記事が出ます。
 こうした記事のいくつかは内務省などの無線傍受などをもとに書かれています。しかし、傍受内容をそのまま記事にすれば問題となるために、新聞社の主観が入ったまとめとして法事らっれており、そこで「朝鮮人来襲」のイメージをつくり上げていったのです。
 ただし、この章では虐殺の実態についてはほぼ触れていないので、そうした「流言」がどのような影響を与えたのかということはわかりません。

 第3章はキャッスル事件をとり上げていますが、この章は面白いです。
 キャッスル事件は、ロンドン海軍軍縮会議において海軍が主張する「対英米七割」を支持していた新聞が政府の妥協案受け入れとともに論調を変えたのは、駐日アメリカ大使のキャッスルによる買収工作があったからだというデマ報道です。
 現在ではほとんどの人が知らない事件ですが、当時の人々に大きな影響を与え、また、日米戦争末期に山岡荘八が連載していた「御盾」という実録小説でも「アメリカの大使キヤツスル又、わが輿論の激化を覆滅せんとしていしきりに暗躍を繰返し」(81p)と書かれたように、長きにわたって語られ続けた事件でした。

 1920年代後半から30年代前半にかけては数々の疑獄事件が世間を騒がせましたが、そうした中で暗躍していたのは右翼団体でした。この本ではこの時期に右翼運動について、伊藤隆の「上層の復古主義者に食い入って資金を調達し、大義名分を掲げて政界の「不敬」「不正」問題をとらえて「怪文書」を作り「降参料」をとり、それらをもって子分を養成し、運動資金とするというメカニズムである」(86p)とのまとめを紹介しています。
 ただしキャッスル事件で標的となったのは政界ではなく新聞社でした。

 キャッスル事件は、まずは雑誌『日本及日本人』、新聞の『日本』など国粋主義的なメディアでとり上げられ、二流以下の新聞にさかんにとり上げらました。
 攻撃された主要新聞は裁判によってこれを否定しようとしますが、右翼新聞は公判報道の名を借りて個人攻撃を繰り返しました。裁判は主要新聞の勝訴に終わりますが、判決が出たのは3年後で、その間も噂だけは拡散するような状況でした(この糾弾キャンペーンから多くを学んだのが滝川事件や天皇機関説事件で告発の急先鋒を演じた蓑田胸喜(97p))。
 このキャッスル事件は新聞社にとってはトラウマとなり、その後の政府の外交方針への批判を難しくさせました。そして著者はこの事件の教訓を次のようにまとめています。
 キャッスル事件のむずかしさは、流言を広める側も否定する側も、双方がメディア・リテラシーの鉄則、「情報を鵜呑みにするな」と訴えていることである。メディア不信を煽る流言に対して、情報の批判的受容を訴えるメディア・リテラシー必ずしも有効ではない。(102p)

  第4章は二・二六事件とその周辺で唱えられたトンデモ偽史をめぐる問題です。
 『流言蜚語』の著者として知られる清水幾太郎は、論文「デマの社会性」ノ中で、「新聞が独自の機能を失って官報化すればするほど、その空隙を埋めるものとして流言蜚語又デマが蔓って来るのである」(106p)と述べていますが、新聞が独自の機能を失った場面の一つが二・二六事件でした。

 二・二六事件の蹶起部隊は要人を暗殺するとともに、新聞社も押さえにかかり、「蹶起趣意書」の掲載を要求しました。掲載は内務省警保局と憲兵隊からの要求によって阻止されましたが、こうした混乱もあって事件の全体像を報じることができたのは『大阪毎日新聞』の号外だけでした。
 このときに情報を発信し続けたのがラジオです。政府は新聞に記事が掲載されないなかでラジオを使って情報をコントロールしようとしました。「二・二六事件は新聞に対するラジオ放送の「政治的」優位を確立し、やがて新聞のラジオ化、すなわち広報媒体化をもたらすこと」(116p)になります。

 さらにこの章では、この時期に出てきた「天皇家はヘブライ族だ」という日猶同祖論などのトンデモな偽史を紹介しています。支離滅裂な内容なのですが、こうした太古秘史はこの時期にある種の知識人の間で熱心に論じられています。

 第5章では、戦時下の流言がとり上げられています。政府が発表するいかがわしい情報を「大本営発表」と呼ぶことがあることからもわかるように、戦時下の新聞には多くの誤報や捏造された記事が掲載されました。このことをもって「国民は騙されていた」とする見方もありますが、著者は国民の間にもそれなりに大本営発表を疑う姿勢はあり、一方的に騙されたわけではないだろうといいます。
 この章では、司法省の思想特別研究員・西ケ谷徹検事の分析などを紹介しつつ、戦時下の流言について分析しています。西ヶ谷は「行き過ぎたる報道の統制、行き過ぎたる言論の圧迫は更に造言飛語の発生に適当なる地盤を作るのみである」(144p)と述べていますが、戦時下の日本政府は統制と圧迫に頼った情報戦略をとったために、流言がおさまることはありませんでした。

 第6章では、朝日新聞の従軍慰安婦をめぐる誤報から、新聞の誤報という問題に切り込んでいます。
 第5章の冒頭の小見出しが「ニュース紙からメモリー紙へ」となっているように、近年の新聞の役割の一つが歴史を記録し後世へと残すことです。例えば、歴史学の本でもしばしば新聞が出典としてあげられています。
 しかし、現場の記者がそうした意識を持って仕事をしているかというと、必ずしもそうではありません。特ダネのためなら多少の正確性は犠牲になっていいと考える記者もいるでしょうし、場合によっては事実をでっち上げる記者もいます。
 この章では、朝日新聞社のエダ・チアノ(ムッソリーニの長女)への架空インタビューや鴻上尚史『不死身の特攻兵』でとり上げられた佐々木友次伍長の「二重の戦死報道」、八月十五日の「玉音写真」のやらせ問題などがとり上げられています。特にエダ・チアノの架空インタビューをでっち上げた記者の渡辺紳一郎の話は面白いくもひどい話で、当時の新聞というものを改めて考えさせられます。
 こうした新聞の誤報問題について、著者は新聞に誤報があるのは仕方がないとしつつ、誤報欄の常設を提言しています。

 第7章のタイトルには「半体制」という変わった言葉が使われています。これは戦後のメディアが、戦前の旧体制を否定する反体制でありながら、占領軍の統制下にあった体制メディアであったことを指す造語です。
 この章ではGHQの民間情報教育局(CIE)が手がけたラジオ放送《眞相はかうだ》シリーズとカストリ雑誌『眞相』を中心にとり上げています。
 《眞相はかうだ》は戦争の真実を明らかにするという番組でしたが、大本営発表を流していたラジオが戦争の真実を語るというスタイルは人々の反発を生みました。
 一方、雑誌『眞相』は、天皇家のタブーに切り込むスタイルで人気を博し、特集版第二集『ヒロヒトくんを解剖する』は10万分を売り切りましたが、「ヒロヒトを父に持つ男 ー 天皇家の大秘密」というガセネタを報道したことで失速し休刊に、追い込まれます。「真相」という言葉は「メディアの流言」というように認識されていくようになるのです。

 第8章は「風評被害」という言葉がいかに成立したかをビキニ事件(第五福竜丸事件)を中心に追っています。
 実は「風評被害」という言葉が使われたの比較的新しく、世間一般で使われるようになったのは1997年「ナホトカ号原油流出事故」、99年「所沢ダイオキシン報道」、99年「東海村JCO臨界事故」のあたりからです。
 しかし、読売新聞の「ヨミダス歴史館」でビキニ事件に「風評被害」のタグをつけているように風評被害の元型となった事件でもあります。
 
 1954年3月16日に『読売新聞』の朝刊が「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」とスクープを飛ばすと、日本テレビが午後の野球中継の中で、第五福竜丸の水揚げしたマグロが都内の魚屋に出回ったとのアナウンスが流れ、マグロをめぐる大きな混乱が起こります(実は出回ったのは大阪で都内には出回っておらず、このアナウンスは誤報)。
 魚の買い控えが拡大し、いわゆる「放射能パニック」が起こるのですが、著者は主婦たちはパニックに陥ったのではなく、「主観的には自らが置かれた状況下で最適と考える行動を「合理的に」選択していただけではないだろうか」(235p)と疑問を呈しています。

 また、著者はこの第五福竜丸についての集中的な報道がもたらした歪みについても触れています。第五福竜丸の入院患者にはアメリカから慰謝料から一人あたり平均220万円が分配されましたが、これは当時の一般的な死亡事故の弔慰金20万円よりもはるかに高額で、入院患者の留守宅にはいやがらせの手紙も舞い込みました。
 第五福竜丸以外にも同じ海域で被曝した汚染漁船は683隻にも及んだとされていますが、この第五福竜丸をめぐる風評が「同じ海域で被曝した人々に沈黙を強いたのではないか」(245)と考えられます。ビキニ事件は第五福竜丸も問題に矮小化されましたが、それは「「風評被害」という強迫フレームによって可能になったといえるだろう」(247p)と著者は結んでいます。

 第9章は和服を着たヒトラーのフェイク写真などを紹介しつつ、「絶対悪」として安易にヒトラーが持ちだされることの影響を分析しています。例えば、津久井やまゆり園を襲撃した植松被告は「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」(274p)と発言しているそうですし、ヒトラーはある種のシンボルとなっています。
 ドイツでは『わが闘争』を膨大な注釈で埋め尽くした批判版が出版されましたが、クロード・ケテルは「『わが闘争』の一語一語を批判して、注だらけにするやり方は、言葉のあらゆる意味で貧相な本文にかえって高い価値を生じさせるのではないだろうか」(275p)と述べています。ヒトラー神話はそれを批判する側がつくっている面もあるのです。

 最後の部分で、著者は「現代のメディア・リテラシーの本質とは、あいまいな情報に耐える力である」(286p)と述べています。 
 この著者の結論は鋭いと思いますし、第1章、第3章、第8章は文句なしに面白いのですが、その他の章についてはやや詰め込みすぎている面もあります。周辺情報の深堀りは著者の魅力の一つなのですが、1つの章の中でいくつもの深堀りを行っているために、議論が追いにくい部分もあります。
 ただ、著者ならでは鋭い切り込みは随所に見られますし、面白いネタが詰まっている本であることは確かです。


望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書) 8点

 副題は「「移民国家」の建前と現実」。イギリスのBrexit、ドイツにおけるAfD(ドイツのための選択肢)の躍進、そして不法移民を排除する「壁」の建設を訴えたトランプ大統領の誕生と、世界では政治の争点として「移民」がクローズアップされています。
 しかし、この「移民」問題は対岸の火事ではありません。在留外国人は2018年の6月の時点で約264万人にまで増加おり、さらに今年の4月から「特定技能」制度が始まります。日本はいつの間にか「移民国家」に近づいているのです。
 このタイムリーな話題を非常にバランス良く論じているのがこの本。著者は大学院から経済産業省→グーグル→スマートニュースなどを経て、現在は移民や難民問題をとり上げるウェブマガジンの編集長をしている人物で、これが初の単著となります。
 冒頭でエピグラフが3つも並んでいるのを見て、「気負い過ぎでは?」とも思いましたが、データを用いて現状を説明しつつ、複雑な制度をわかりやすく解説しており、この問題を考える上でまず手に取るべき1冊に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
はじめに 「移民」を否認する国
第1章 「ナショナル」と「グローバル」の狭間
第2章 「遅れてきた移民国家」の実像
第3章 「いわゆる単純労働者」たち
第4章 技能実習生はなぜ「失踪」するのか
第5章 非正規滞在者と「外国人の権利」
第6章 「特定技能」と新たな矛盾
終章 ふたつの日本

 特定技能を創設する入管法の改正において安倍首相は「いわゆる移民政策を取る考えはない」(22p)と答弁していますが、日本で暮らす外国人は急速に増えています。バブル景気の人手不足とともに1990年に100万人を超えた在留外国人は、リーマン・ショック後に一時的に減ったものの、現在は先程述べたように264万人にまで増えています。
 
 では、この264万人の内訳とはどのようなものなのでしょうか?
 この本では5つのカテゴリーに分けて把握していますが、まず、一番の多いのが「身分・地位」に基づくもので145万人ほどになります、この中には「特別永住者」、「永住者」、「日本人の配偶者等」、「永住者の配偶者等」、「定住者」が入ります。
 かつてこのカテゴリーの多くは在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が占めていたのですが、その数は減っており、その代りに一般の永住者が増えています(24p図表1-2参照)。「定住者」はブラジルやペルーなどの日系人に付与されるカテゴリーです。
 次に多いのが「専門・技術」のカテゴリーで33.4万人ほど。専門的・技術的分野の在留資格をまとめたものです。その次が「留学」で32.4万人。そのあとに続くのが「技能実習」が28.6万人、「家族滞在」が17.4万人ほどになります。

 時系列的に見ると、近年増えているのは「永住者」、「専門・技術」、「留学」、「技能実習」です。
 特別永住者が減っている中でも永住者が増えている原因は、日本の永住許可の基準にあります。永住許可のガイドラインでは「原則として引き続き10年以上本邦に在留していること」(50p)と定めており、外国人の増加し始めた90年代以降にやってきた人が永住資格を得ているからだと考えられます。
 
 ちなみに出身国別で見ると、1位は中国で74.2万人、2位は韓国で45.3万人、3位はベトナムで29.1万人、4位はフィリピンで26.7万人、5位はブラジルで19.7万人、6位はネパールで8.5万人、7位は台湾で5.8万人、8位は米国で5.7万人、9位はインドネシアで5.2万人、10位はタイで5.1万人です(38-39p)。
 
 外国人労働者に限ってみると、1位の中国(38.9万人)は変わりませんが、2位はベトナム(31.7万人)になり、韓国は6位(6.3万人)に後退します(55-56p)。これは在日韓国人の高齢が進んでいる一方、ベトナム人の多くは労働者(留学生として来日し働いている者も含む)としてやってきている若者だからです。また、フィリピン人は40代の女性が目立ちますが、これは80〜90年代に多くのフィリピン人女性がフィリピンパブなどで働くために来日したからです。
 
 また、日本国籍を取得する帰化者も増えています。以前の帰化者は韓国・朝鮮および中国からの帰化者ですが。2000年以降はそれ以外の地域からの帰化者も緩やかながら増えています(69p図表2-16参照)。また、両親のどちらかが外国籍の国際児、両親とも外国籍の子どもの出生も毎年3万~3.5万ほどいます(71p図表2-17参照)。
 「日本に移民がどれくらいいるか?」という問いに明確に答えることは難しいですが、在留外国人全体で263.7万人おり、さらに帰化者や日本国籍の国際児を含めれば約400万人、超過滞在者を含めれば400万人以上いるというのが著者の試算になります(76-79p)。

 こうした中でも日本政府は「いわゆる単純労働者は受け入れない」というスタンスを取ってきましたが、実際には「専門的・技術的分野の外国人労働者」よりも遥かに多くの単純労働に従事する者を受け入れてきました。この単純労働に従事するのが「日系人」、「技能実習生」、「留学生」です。
 本書では、正式に受け入れている「専門・技術職」や「高度人材」をフロントドア、「日系人」、「技能実習生」、「留学生」をサイドドア、非正規滞在者(オーバーステイなど)をバックドアと名付け、日本の外国人受け入れ制度における建前と現実の乖離を明らかにしています。

 80年代後半から90年代前半のバブル景気の頃、人手不足に陥っていた日本では非正規滞在者(ほとんどが観光目的で来日し滞在期間が切れても日本に留まり仕事を続ける超過滞在者)が、建設現場などで密かに雇用されていました。
 しかし、2001年の9.11テロ、2002年のサッカーW杯などをきっかけに非正規滞在者の摘発が進み、その数は減っていきます(144p図表5-1参照)。

 一方、人手不足を訴える現場は多く、そこで注目されたが日系人でした。日系人は外国人でありながら単純労働に従事することができ、多くの工場や建設現場などで日系人が受け入れられていくことになります。
 ところが、日系人をめぐる状況はリーマンショックで一変します。製造業で働いていた日系人の多くが解雇され仕事を失いました。さらに、政府が一人あたり30万円の帰国費用を支給するという「日系人帰国支援事業」を行ったことで、多くの日系人が日本を去ることになります。本来、「定住者」のカテゴリーに入る日系人に旅費を支給するということはおかしいことなのですが、現実的には、政府は日系人を雇用の調整弁と考えていたということなのでしょう。

 サイドドアのもう一つが技能実習制度です。日系人の減少と入れ替わるように近年は増加しており、2011年には14.2万人だったのが2018年には28.6万人にまで増加しています。技能実習生は、以前は中国人が3/4近くを占めていたときもあったのですが、現在の出身国1位はベトナム(13.4万人)となっています(113-114p)。

 技能実習制度の建前は「人材育成を通じた開発途上地域等への技能、技術又は知識の移転による国際協力」(115p)になります。
 もともと1981年に「技術研修生」という呼び名での受け入れから始まったこの制度は、バブル時の人材不足に呼応するかのように、中小企業にも受け入れが可能になり、93年に研修終了後に追加でもう1年「技能実習」という名目で働くことのできる「技能実習制度」が生まれています。
 次の述べるようにこの制度はさまざまな問題を抱えているのですが、それにもかかわらず安い労働力を求める声を背景に受入人数や受入年数は拡大を続けています。受け入れ分野で伸びているのは食品製造、建設、農業などの「単純労働」に近い分野です。

 2017年に厚労省が労働基準監督署を通じて行った監督指導では、全体の7割以上で労働基準関係法令の違反が認められました。違反の1位は労働時間、以下安全基準、割増賃金の支払と続きます(117p図表4-3参照)。
 技能実習生の多くは「団体監理型」というかたちで、送り出し国と日本の双方に民間のブローカーが介在しています。技能実習生はこうした民間業者に手数料を払っており、その分、実習生に払う賃金を削ったり、長時間働かせようとします。
 また、実習生本人も日本に来る前に送り出し機関に多額の渡航費用を払っているケースが多いです。そしてこの費用を払うために多くの実習生が借金をしています。もしも、トラブルを起こして強制帰国となればこの借金を返済することはできません。そこで、実習生の多くは問題を感じつつも実習先で働き続けるのです。
 一般の労働者であれば、辞めるという選択肢がありますが、実習生には基本的に転職の自由はありません(17年から施行された技能実習法では転職の調整をするしくみが盛り込まれたが、実効性は未知数)。
 こうした中で増えているのが実習生の「失踪」です。劣悪な労働条件に耐えかねて、あるいは実習先の賃金では借金を返せないとなった実習生たちは、実習先を逃げ出して別の職場を探すのです。

 また、近年、単純労働に従事する存在として数を増やしているのが留学生です。留学生は週28時間という時間の制約はありますが、職種に関しては制限ないで働くことができます。
 政府は2008年に「留学生30万人計画」という大きな目標を立てましたが、これは予定の2020年より前の2017年に達成されています。同時に働く留学生の割合は08年39.4%から17年には83.3%に増加(136p図表4-6参照)、学校では日本語学校で学ぶ留学生が増えています。これは、「留学」という名目でありながら、実際には「労働」に携わる外国人が増えているということを示しています。
 留学生もまた来日前に借金をして日本にやってくるケースが多く、借金の返済と学費のために週28時間の制限を超えて働く留学生も存在します。

 先ほど、バブル期に増えた非正規滞在者は減っているということを書きましたが、近年はその処遇が問題となっています。入管の施設に長期間収容され、自殺や自殺未遂を起こす者が出てきているのです。
 入管の施設に収容されるのは、基本的には送還を命じられてもさまざまな事情で帰国できない者になります。以前は、短期間収容された後、仮放免される者が多かったのですが、最近は半年以上の長期にわたって収容される者が増加しています。
 強制送還をせずに、なぜここまで長期の収容が行われるのか? ということについて、この本ではこの問題に関わっている指宿昭一弁護士の次のような発言を紹介しています。
 「強制送還をした場合、たまにですが国賠請求を起こされることがあります。また、国賠請求まではやらなくても人道的な理由で避難を免れないところがある。(中略)そうした非難を受けるのが嫌だから”自分で帰った”という形を取りたいということなのではないでしょうか」(166p)

 さらにこの収容には法定の上限はなく、やろうと思えば入管の裁量で100年でも収容できる仕組みになっています。また、収容を解かれても多くは「退去仮放免者」として扱われ就労も禁じられています。彼らは仮放免後も「自発的な出国」へのプレッシャーをかけられることになるのです。

 最後の第6章で扱われるのが今年の4月からスタートした「特定技能」制度です。この制度は、2018年2月の安倍首相の「深刻な人手不足に対する専門的・技術的な外国人の受け入れ拡大の検討」の指示から一気に進み、基本的には技能実習制度の延長のような形で制度設計がなされました。
 まず、特定技能には1号と2号があり、1号は上限5年で家族の呼び寄せは出来ませんが、2号は上限がなく家族の呼び寄せも可能です。受け入れ分野は「介護」「外食」「建設」などの14分野で5年間で最大34万5150人を見込んでいます。受け入れ対象の国はベトナム、フィリピン、カンボジア、中国、インドネシア、タイ、ミャンマー、ネパール、モンゴルの9カ国です。

 この制度は基本的には技能実習の延長という形で運用されようとしています。送り出し国と日本の双方にブローカーが介在し、技能実習制度と同じような問題を抱える可能性は高いです。
 ただし、特定技能2号は期間の上限もなく永住権も視野に入ってきます。ところが、現在、2号は「建設」と「造船・船用工業」の分野に限られています(他に「介護」は1号から介護福祉士の資格をとることで「介護」の残留資格を得ることができる)。
 また、永住権の目安は「原則10年在留、うち就労資格か居住資格をもって5年以上在留」なのですが、法務省のガイドラインでは技能実習や特定技能1号は「就労」にあたらないとしています。かなり姑息な感じがしますが、これが「いわゆる移民政策ではない」と言うための仕掛けの1つなのでしょう。

 「いわゆる移民政策ではない」、「いわゆる単純労働者は受け入れない」という言葉の「いわゆる」の部分にはある種のごまかしが隠れており、そのごまかしや矛盾は日本で働く外国人の身に降りかかっています。
 今後、特定技能がどの程度拡大し、どのくらいのペースで「移民」が増えていくのかはわかりませんが、まずは「実態」と「ごまかし」を知ることが大切でしょう。そして、この本はこの問題を知る第一歩として非常に役に立つ本です。

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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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