事大主義とは時流や大勢に身を任せる考えで、日本人の国民性を表すものとして使われるとともに、韓国・北朝鮮の民族性や沖縄の県民性などを表すものとしても使われてきました。基本的に否定的な意味で使われることが多い言葉ですが、その歴史は浅く、明治期に福沢諭吉がつくった言葉だと考えられます。
この本は、この事大主義という言葉が、なぜ広まり、なぜ否定的な意味を帯びていったのか、そして日本のみならず朝鮮半島でも使われるようになったのはなぜかということを解き明かしていく内容になっています。そして、同時に東アジアの言説空間の一部をあぶり出すような面白い内容となっています。
目次は以下の通り。
序章 「事大主義」という見方第1章 「国民」の誕生と他者表象第2章 反転する「事大主義」―他者喪失によるベクトルの内向第3章 沖縄「事大主義」言説を追う―「島国」をめぐる認識の相克第4章 戦後日本の超克対象として―「事大主義」イメージの再生第5章 朝鮮半島への「輸出」―南北対立の中の事大主義言説終章 “鏡”としての近現代東アジア
「事大主義」の「事大」とは『孟子』の中にある「惟智者為能以小事大」(=小国がとるべき道はただ一つ。大国に仕えることである。それが智者のなすことである)からきています(11−12p)。
「智者のなすこと」ということからもわかるように、孟子にとって事大は悪いことではありません。性善説に立つ孟子の考えでは大国は仁の観点から小国を保護すべきであり、小国が大国を頼むことは何ら恥じることではないです。
もともとは中国国内において小国が大国に仕えることが事大でしたが、漢帝国が成立し、周囲の国を従えるようになると、この関係は中国と周辺国の間で結ばれました。中国の冊封体制下に入った朝鮮や琉球では、さまざまな思惑を抱えながらも中国という大国に仕える形となりました。
この「事大」に「主義」という言葉をつけて「事大主義」という言葉を生み出したのは福沢諭吉だと考えられます。この言葉は『時事新報』の1884年12月15日号にの甲申政変を論じた記事の中で「事大の主義」という形で初めて登場したとされています。『時事新報』の論説は無署名で、福沢のほか中上川彦次郎と渡辺治の3人が分担執筆していたので、福沢が書いたという確証はないのですが、福沢は若い頃に『孟子』に親しんでおり、著者は福沢が書いた可能性が高いと見ています。
福沢は甲申政変を起こした金玉均とも面識があり、金のことを物心両面で支持していました。しかし、金の起こした清国軍の介入もあってクーデターは失敗に終わります。福沢からすると、朝鮮の近代化の動きは清に従っていたほうがいいという「事大」の考えの前に挫折したのです。
福沢には朝鮮人全体に対する偏見のようなものはなかったと考えられますが、この「事大主義」という言葉は朝鮮人の民族的な特徴を表すものとして侮蔑的に用いられるようになっていきます。
特に日本が日清・日露戦争に勝利し自信を深めると、「日に事(つか)へんか露に事へんか、事大主義を以て唯一の外交政略とせる韓廷も之が選択に苦しみ、面白き国際間の迷子となれり」(42p、引用部分は松宮春一郎『最近の韓国』より)などと書かれるようになり、事大主義は朝鮮のもつ欠点として認識されるようになっていくのです。
ところが、日露戦争集結からしばらくするとこの事大主義という言葉は日本に対しても向けられるようになります。明治維新以来の欧化一辺倒の傾向に対して、これは「事大主義」であり、克服すべきであるという主張が見られるようになるのです。日露戦争の勝利による自尊心の高まりがこうした言説の背景にはあります。
また、著者は1910年の韓国併合によって、韓国・朝鮮が喪失したことも大きいといいます。「論難の対象としての「他者」が喪失してしまえば、その矛先が自ずと「自己」へと向かうのは自然のなりゆき」(49p)というわけです。
一方、桐生悠々のように事大主義はすべての国や人々に共通する法則のようなものだと主張する人物もいました。
日本人の特徴に事大主義があると考えた人物の一人が柳田国男です。柳田は島国である日本において、海を渡って移り住む人々は常に内陸部に先に住んでいた人々の意向に従わざるを得ず、ここに事大主義的な発想が育まれたとみています。
このように、柳田の考えは過去の日本人の生き方から事大主義という特徴を把握しようとするものでしたが、日本人の主体性のなさを事大主義という言葉で批判しようという言説も多く見られます。例えば、中野正剛は1921年に「日本人は最初支那人をブン擲ることを、上海に於て英国の先輩から学んだ。例の事大主義で無批判に此の悪習慣を受け入れた。若し日本人の胸中に自主的信念があつたら、支那人の為に此英人の悪習慣を憤つたであらう」(69p)と書いており、また、外交における対英米協調主義を批判する文脈などでも用いられました。
また、この時期は大正デモクラシーと重なっており、普通選挙の導入の是非を巡って行われた議論でも、この日本人の事大主義が問題になりました。柳田国男も普選導入論者でありながら、この点には危惧を示しています。
そんな中で、日本人の事大思想の打破を目的として政治教育の重要性を訴え、青年団運動を組織したのが元内務省官僚の田澤義鋪(よしはる)でした。この運動には柳田も共感を示し、さまざまなイベントに協力しています。柳田の民俗学の背景には、こうした日本人の事大主義の打破というものもあったのです。
さらに著者は与謝野晶子の発言などに触れ、「やはり事大主義の打破は、大正デモクラシーの重要なキーワードといえるのではないか」(85p)と述べています。
ただ、ここでは触れられてはいませんが、大正デモクラシー最大の思想家ともいえる吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」は、大勢順応主義的、つまり事大主義的な部分もあり、このまとめは少し引っかかります。
第3章でとり上げられているのは沖縄です。沖縄の県民性としてしばしば否定的な意味合いで事大主義という言葉が用いられますが、この源流は「沖縄学の父」ともいわれる伊波普猷(いはふゆう)にあるとされます。
伊波は柳田国男と交流があり、柳田と同時並行的に沖縄の研究を進めました。柳田は八重山諸島の研究をする中で、沖縄本島に協力した人たちを「事大派」と呼び、そこに日本との共通性を見ました。柳田の高弟の折口信夫をまた、沖縄と日本の共通性の一つとして事大主義を見出しています。
伊波は琉球王国が清と薩摩藩への両属を続ける中で独立自営の精神が減退したと考えています。伊波によればこの状況は琉球処分によって打破され、事大主義は過去のものとなったはずですが、伊波以降、沖縄の県民性を示すものとして事大主義という言葉が使われるようになっていきます。
同時に本土にも沖縄を事大主義というフィルターをかけて見る視線がありました。軍ははその事大思想から沖縄の人々はいざとなったら信用出来ない考え、その克服のために義勇兵を組織しました。しかし、このことは沖縄戦での犠牲をかえって大きくしたとも言えます。
第4章では戦後の日本における事大主義の言説がとり上げられています。戦前、戸坂潤や山川菊栄など一部の論者はファシズム的な傾向を事大主義という言葉を使って批判していましたが、本格的に事大主義という言葉によって日本人を批判的に検討する言説が現れるのは戦後になってからになります。
例えば、教育基本法の制定の中心となった文部大臣の田中耕太郎は「単に政治的のみならず思想的、又文化的にも、事大主義が日本の社会の一つの特徴であった」(121p)と述べていますし、国会の審議でも戦争の原因として事大主義が指摘されたりしました。
柳田も戦後になると、改めて事大主義の打破と「真の民主政治」の実現を訴えており、50年代なると、大手マスコミに対する事大主義に警鐘を鳴らしています。
一方、戦後の沖縄では、特に本土復帰後の沖縄では、伊波の言説は否定的に見られるようになり、事大主義も自虐的な表象だと考えられるようになっていきます。
しかし、知事となる大田昌秀が、1990年に刊行された著書で伊波の「沖縄人の最大欠点」は事大主義だという考えを再びとり上げ、特に沖縄の政界における問題として事大主義をとり上げるなど、政府からの補助金を得るために基地を受け入れる態度を「事大主義」と批判する言説が見られるようになります。本土ではあまり聞かれなくなった事大主義という言葉は沖縄では生き続けたのです。
第5章では戦後の韓国・北朝鮮における事大主義がとり上げられています。終戦とともに日本による植民地支配は終わりましたが、事大主義という言葉は消えませんでした。
特にクーデターによって実験を握った朴正熙が「事大主義の打破」を唱えたことから、事大主義は韓国人が乗り越えるべきものとして前面に押し出されました。
一方、北朝鮮の金日成は朴正熙をアメリカに隷属する事大主義として攻撃し、対概念として「主体(チュチェ)思想」が生み出されました。北朝鮮は韓国を「事大主義」として、自らは「反・事大主義」をその正統性の根拠としたのです。
朴正熙は農村の伝統的な民俗を否定し、経済成長を目指します。そして、事大主義は政敵を攻撃するキーワードとして使われるようになります。1971年の大統領選では対抗馬の金大中がアメリカ・日本・中国・ソ連との連携を訴えると、これを国防を他国に任せる事大主義だと言って批判しました。さらに金泳三が野党党首として期待を集めると、これを外国(アメリカ)に通じる事大主義者だとして批判します。しかし、民衆への弾圧を指示した朴正熙は79年に部下によって暗殺されます。
その後、日本では事大主義という言葉はあまり用いられなくなってきますが、山本七平の「空気」を事大主義の言い換えと考えれば、今の「空気を読む」日本人は事大主義が問題になった事大と変わっていないのかもしれません。
ただし、国民性なるものが存在するのかという疑問はあります。これに対して、著者は事大主義はある意味で普遍的なものであり、「事大主義言説とは、それらの東アジアの国と地域が、近現代という時空間において、相互を”鏡”とすることで描いてきた自画像の系譜であったといえるのではなかろうか」(192−193p)と述べています。
このように事大主義という言葉の歴史をたどることで、日本・韓国・北朝鮮、沖縄の自らと他者の表象のされ方を描き出しています。
著者も最後に言うように、ある意味で事大主義とは普遍主義的なあり方であり、多くの人々が事大主義的に生きていると言えます。ただし、これがある地域全体を批判するときに使われ、また自民族を批判するときにも使われるのが東アジアの特徴と言えるのかもしれません。
この問題に関して終章でとり上げられているのですが、事大主義が人間社会に普遍的な現象なのか、それとも乗り越えるべきものなのか、ややブレがあるような気がします(「事大主義普遍主義が、正しい見方であったというべきあろう」(192p)、「訓練により自己を確立するか、それとも事大主義の安きに流れるか」(195p)と、両方肯定している部分がある)。
それでもこの本でとり上げられているさまざまな言説は非常に興味深いですし、現在の沖縄県政に対する批判が2010年以降の日本の言説空間での対韓イメージと重なっているという指摘(88p)など、鋭い部分もあります。
最後の結論には少しもやもやした部分も残るのですが、日本の自己像、日本と韓国・北朝鮮、日本と沖縄などの関係を考える上でも有益な本だと思います。