現在、日本でも世界でも不平等(格差)が大きな問題となっています。この本は政治学者でもある著者が、「デモクラシーを脅かすもの」として不平等の問題点をとり上げ、不平等を解消していくための制度とあるべきデモクラシーの姿を探った本になります。
デモクラシーがうまくいくためには成員間の平等が必要だという議論は最近出た稲葉振一郎『政治の理論』と共通しますし、背景にアレントの政治理論がある点も同じですがが(もっともこの本ではあまり表には出てきていない)、そのアプローチの仕方はかなり違います。
構成は、「第1部 平等な関係」、「第2部 社会保障と平等」、「第3部 デモクラシーと平等」の3部仕立てになっています。
まず、この本で問題としている「不平等」の問題は「貧困」の問題とイコールではありません。
貧困はセーフティーネットを張ることで解消することができます。現在の日本にそれができているかはともかくとして、ある程度の福祉国家であればナショナル・ミニマムを定め、それ以下の人を援助することによって貧困の解消は可能です。
しかし、貧困が解消されても依然として不平等は残っています。そして、著者はこの不平等も解消されるべきだと考えるのです。
ロールズは人々が関係において占める立場(ポジション)として、「平等な市民としての立場」と「所得および富の分配において各人が占める場所によって規定される立場」の2つをあげました(23p)。
著者は、前者は後者によって影響を被らざるを得ず、「平等な市民」としての関係をつくり出すためには、所得や富の分配の問題にまで踏み込んでいく必要があると言います。
この所得や富の問題を規定するのが再分配や社会保障などさまざまな「制度」ですが、近年はこの制度への不信が広がっており、また、制度が特定の人や地域に負担を押し付けるような構造になっているケースもあります。
これに対して、著者はこうした制度や負担を、「公共的理由」(あらゆる市民の立場から批判的に検討を加えてもなお維持できる理由(51p))の有無によって吟味していくことが重要だといいます。
「合理性」だけでなく「道理性」(理にかなっていること)が重要なのです(53-55p)。
このあと第1部では、「相互承認」や「連帯」といった概念を検討していきますが、ここまででも著者が想定するのがかなり「強い平等」であることがわかると思います。
著者の考える「平等」は、「ジニ係数がいくつ以内」とか「相対的貧困率の低減」とかではなく、「市民間の平等な関係性」というかなり強いものなのです。
とは言っても、先程も述べたように所得や富がある程度平等でなければ、平等な関係性を築くことは難しいです。そこで、第2部でとり上げられるのが社会保障の問題です。
著者は「互いを平等な者として扱うために必要なのは等しい扱いであるとは限らない」とのドウォーキンの考えを引用し、財の分配だけではなく、それを通じて市民が他者との社会的関係においてどのような立場を占めることができるかに注目する必要があると言います(92p)。
障碍者やマイノリティには特別な支援が必要になることも多いのです。
ここで著者が持ち出してくるのが「社会的連帯」という言葉です。
われわれは国内の人々だけと諸制度を共有しているわけではありませんが、市民が共有する国内の制度には厚みがあり、特に社会保障制度は主要な制度の一つです。
この制度内にいる者は制度を共有する者に対する責任を負っており、ここから社会的連帯の必要性が出てきます。
それぞれの人間の生はさまざまなリスクや偶然性にさらされており、脆い存在です。また生の多様性は社会の豊かさをもたらします。こうした理由からも社会的連帯は必要とされるのです。
そのためには事後的な支援だけではなく、事前の支援も重要です。この本ではそれに対処するものとして、ロールズの「財産所有デモクラシー」の議論を紹介しています。
これは各期のはじめに生産用資産と人的資本が広く行き渡った状態を確保しようとするもので、市民の対等な足場をつくろうとするものです(121-122p)。
著者は、結果的に貧しくなってしまった人を支援する今の社会保障制度は不十分であり、「その人がなしうる事柄、すなわち実効的に享受しうる自由」に注目するケイパビリティ・アプローチ(138p)が適切だと言います。
もちろん、すべての望みが保障されるわけではありませんが、社会保障の制度は、「まずあらゆる市民が十分性に達するように生活条件の改善をはかり、そのうえで、十分性を超えたレベルでの不平等については、より不利な立場にある人々の生活条件を最大限改善するよう保障するよう編成されるべきである」(154p)と主張しています。
また、保障の仕方としては所得補償(現金給付)よりもアクセス保障(現物給付)が優れていると言います。所得補償だけではより不利な立場にいる人が十分な福祉を受けられない可能性があるからです。
このため著者はベーシック・インカムにも否定的です。ベーシック・インカムは労働への圧力から人々を開放するという長所があることを認めつつも、財源的に難しく、働く人のルサンチマンが働かない人へ向かうのではないかと危惧しています(161-163p)。
第3部では、市民を平等な者として尊重する方法として熟議デモクラシーがプッシュされています。
デモクラシーは一般的に多数意思を尊重するものだと考えられがちですが、多数意思は誤りうるものであり、また、多数派によって少数派が抑圧されてしまう可能性もあります。多数の意思を尊重しつつも「多数の暴政」を避けるためのしくみが必要なのです。
そこで著者が必要だと考えるのが「理由の検討」です。ある政策を正当化する理由は何か?反対意見の理由は何か?といったことを検討することによって、市民の意思が形成されていくのです。
熟議には専門家によるものと市民によるものがあります。著者は専門家による熟議の異議を認めつつも、議論に多様性をもたらすためにも市民による熟議は必要だと言います。「専門家の熟議は主として問題の解決に方向づけられるが、市民の熟議は、問題解決だけではなく新たな問題の発見にもひらかれている」(193p)のです。
こうした熟議の積み重ねを通じて、「妥当なものとして広く受容される理由は、共通の確信として政治文化のなかに蓄積され」(198p)ていきます。このように蓄積された「理由のプール」がその後の熟議の基盤となり、政治を規定してくのです。
ちなみに著者は理由を重視する立場から、人々の欲求をデータとして顕在化して政治に取り入れようとする東浩紀『一般意志2.0』の議論に否定的です(211ー212p)。
このような熟議デモクラシーに対して、「市民にとって要求が高すぎるのではないか」という批判がありますが、著者は「市民として意見を形成したり、活動するための政治的資源はその意味で稀少であることは否めない」としながらも、実際に「反原発」、「外国人の権利擁護」、「限界集落の問題」などに取り組んでいる市民がいることをあげてこの批判を退けています(254ー255p)。
このようにこの本では、「平等とは何か」、「いかに平等を実現するか」、「デモクラシーと平等の関係」という問題が緊密に絡みあう形で議論が進められています。
議論があちこちに行くので決して読みやすい本ではないですが、著者の一貫した立場や議論を読み取ることはできるでしょう。
ただ、個人的にはどうしても著者の理想とする社会を実現するためのコストというものが気になります。
著者はベーシックインカムをその財源問題から否定していますが、著者の考える社会保障や政治の制度を実現するのはベーシックインカム以上の財源が必要になるのではないかと、漠然と思いました。
また、著者は熟議のコストの問題に対して、現実にコストを払っている市民がいることをあげてその問題は小さいように書いていますが、こうした市民の中には政治に対して自らの資源のすべてを投入している「運動家」のような人もいます。
もちろん「運動家」をすべて否定するわけではないですが、熟議デモクラシーとなるとそのような「運動家」がイニシアティブを握ることにならないのでしょうか?(このような「運動家」は無制限に残業する社員にも似ている)
基本的にこの本は「理念」についてのもので、「理念を鍛える」といった内容です。
こうしたことは必要だと思うのですが、そうした「理念」をどう現実の制度やしくみに落とし込めるのかということをもう少し考えてみるべきではないかと感じました(例えば、「負の貯蓄」を将来世代に残してはならず財政赤字は問題だというような議論をしながら(125p)、別の場所では「氷河期世代」のような不運を許してはならないという議論をしていましたが、「氷河期世代」を救うには財政赤字の拡大は受け入れざるを得ないと思う)。
不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)
齋藤 純一

デモクラシーがうまくいくためには成員間の平等が必要だという議論は最近出た稲葉振一郎『政治の理論』と共通しますし、背景にアレントの政治理論がある点も同じですがが(もっともこの本ではあまり表には出てきていない)、そのアプローチの仕方はかなり違います。
構成は、「第1部 平等な関係」、「第2部 社会保障と平等」、「第3部 デモクラシーと平等」の3部仕立てになっています。
まず、この本で問題としている「不平等」の問題は「貧困」の問題とイコールではありません。
貧困はセーフティーネットを張ることで解消することができます。現在の日本にそれができているかはともかくとして、ある程度の福祉国家であればナショナル・ミニマムを定め、それ以下の人を援助することによって貧困の解消は可能です。
しかし、貧困が解消されても依然として不平等は残っています。そして、著者はこの不平等も解消されるべきだと考えるのです。
ロールズは人々が関係において占める立場(ポジション)として、「平等な市民としての立場」と「所得および富の分配において各人が占める場所によって規定される立場」の2つをあげました(23p)。
著者は、前者は後者によって影響を被らざるを得ず、「平等な市民」としての関係をつくり出すためには、所得や富の分配の問題にまで踏み込んでいく必要があると言います。
この所得や富の問題を規定するのが再分配や社会保障などさまざまな「制度」ですが、近年はこの制度への不信が広がっており、また、制度が特定の人や地域に負担を押し付けるような構造になっているケースもあります。
これに対して、著者はこうした制度や負担を、「公共的理由」(あらゆる市民の立場から批判的に検討を加えてもなお維持できる理由(51p))の有無によって吟味していくことが重要だといいます。
「合理性」だけでなく「道理性」(理にかなっていること)が重要なのです(53-55p)。
このあと第1部では、「相互承認」や「連帯」といった概念を検討していきますが、ここまででも著者が想定するのがかなり「強い平等」であることがわかると思います。
著者の考える「平等」は、「ジニ係数がいくつ以内」とか「相対的貧困率の低減」とかではなく、「市民間の平等な関係性」というかなり強いものなのです。
とは言っても、先程も述べたように所得や富がある程度平等でなければ、平等な関係性を築くことは難しいです。そこで、第2部でとり上げられるのが社会保障の問題です。
著者は「互いを平等な者として扱うために必要なのは等しい扱いであるとは限らない」とのドウォーキンの考えを引用し、財の分配だけではなく、それを通じて市民が他者との社会的関係においてどのような立場を占めることができるかに注目する必要があると言います(92p)。
障碍者やマイノリティには特別な支援が必要になることも多いのです。
ここで著者が持ち出してくるのが「社会的連帯」という言葉です。
われわれは国内の人々だけと諸制度を共有しているわけではありませんが、市民が共有する国内の制度には厚みがあり、特に社会保障制度は主要な制度の一つです。
この制度内にいる者は制度を共有する者に対する責任を負っており、ここから社会的連帯の必要性が出てきます。
それぞれの人間の生はさまざまなリスクや偶然性にさらされており、脆い存在です。また生の多様性は社会の豊かさをもたらします。こうした理由からも社会的連帯は必要とされるのです。
そのためには事後的な支援だけではなく、事前の支援も重要です。この本ではそれに対処するものとして、ロールズの「財産所有デモクラシー」の議論を紹介しています。
これは各期のはじめに生産用資産と人的資本が広く行き渡った状態を確保しようとするもので、市民の対等な足場をつくろうとするものです(121-122p)。
著者は、結果的に貧しくなってしまった人を支援する今の社会保障制度は不十分であり、「その人がなしうる事柄、すなわち実効的に享受しうる自由」に注目するケイパビリティ・アプローチ(138p)が適切だと言います。
もちろん、すべての望みが保障されるわけではありませんが、社会保障の制度は、「まずあらゆる市民が十分性に達するように生活条件の改善をはかり、そのうえで、十分性を超えたレベルでの不平等については、より不利な立場にある人々の生活条件を最大限改善するよう保障するよう編成されるべきである」(154p)と主張しています。
また、保障の仕方としては所得補償(現金給付)よりもアクセス保障(現物給付)が優れていると言います。所得補償だけではより不利な立場にいる人が十分な福祉を受けられない可能性があるからです。
このため著者はベーシック・インカムにも否定的です。ベーシック・インカムは労働への圧力から人々を開放するという長所があることを認めつつも、財源的に難しく、働く人のルサンチマンが働かない人へ向かうのではないかと危惧しています(161-163p)。
第3部では、市民を平等な者として尊重する方法として熟議デモクラシーがプッシュされています。
デモクラシーは一般的に多数意思を尊重するものだと考えられがちですが、多数意思は誤りうるものであり、また、多数派によって少数派が抑圧されてしまう可能性もあります。多数の意思を尊重しつつも「多数の暴政」を避けるためのしくみが必要なのです。
そこで著者が必要だと考えるのが「理由の検討」です。ある政策を正当化する理由は何か?反対意見の理由は何か?といったことを検討することによって、市民の意思が形成されていくのです。
熟議には専門家によるものと市民によるものがあります。著者は専門家による熟議の異議を認めつつも、議論に多様性をもたらすためにも市民による熟議は必要だと言います。「専門家の熟議は主として問題の解決に方向づけられるが、市民の熟議は、問題解決だけではなく新たな問題の発見にもひらかれている」(193p)のです。
こうした熟議の積み重ねを通じて、「妥当なものとして広く受容される理由は、共通の確信として政治文化のなかに蓄積され」(198p)ていきます。このように蓄積された「理由のプール」がその後の熟議の基盤となり、政治を規定してくのです。
ちなみに著者は理由を重視する立場から、人々の欲求をデータとして顕在化して政治に取り入れようとする東浩紀『一般意志2.0』の議論に否定的です(211ー212p)。
このような熟議デモクラシーに対して、「市民にとって要求が高すぎるのではないか」という批判がありますが、著者は「市民として意見を形成したり、活動するための政治的資源はその意味で稀少であることは否めない」としながらも、実際に「反原発」、「外国人の権利擁護」、「限界集落の問題」などに取り組んでいる市民がいることをあげてこの批判を退けています(254ー255p)。
このようにこの本では、「平等とは何か」、「いかに平等を実現するか」、「デモクラシーと平等の関係」という問題が緊密に絡みあう形で議論が進められています。
議論があちこちに行くので決して読みやすい本ではないですが、著者の一貫した立場や議論を読み取ることはできるでしょう。
ただ、個人的にはどうしても著者の理想とする社会を実現するためのコストというものが気になります。
著者はベーシックインカムをその財源問題から否定していますが、著者の考える社会保障や政治の制度を実現するのはベーシックインカム以上の財源が必要になるのではないかと、漠然と思いました。
また、著者は熟議のコストの問題に対して、現実にコストを払っている市民がいることをあげてその問題は小さいように書いていますが、こうした市民の中には政治に対して自らの資源のすべてを投入している「運動家」のような人もいます。
もちろん「運動家」をすべて否定するわけではないですが、熟議デモクラシーとなるとそのような「運動家」がイニシアティブを握ることにならないのでしょうか?(このような「運動家」は無制限に残業する社員にも似ている)
基本的にこの本は「理念」についてのもので、「理念を鍛える」といった内容です。
こうしたことは必要だと思うのですが、そうした「理念」をどう現実の制度やしくみに落とし込めるのかということをもう少し考えてみるべきではないかと感じました(例えば、「負の貯蓄」を将来世代に残してはならず財政赤字は問題だというような議論をしながら(125p)、別の場所では「氷河期世代」のような不運を許してはならないという議論をしていましたが、「氷河期世代」を救うには財政赤字の拡大は受け入れざるを得ないと思う)。
不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)
齋藤 純一




