山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2017年03月

齋藤純一『不平等を考える』(ちくま新書) 6点

 現在、日本でも世界でも不平等(格差)が大きな問題となっています。この本は政治学者でもある著者が、「デモクラシーを脅かすもの」として不平等の問題点をとり上げ、不平等を解消していくための制度とあるべきデモクラシーの姿を探った本になります。
 デモクラシーがうまくいくためには成員間の平等が必要だという議論は最近出た稲葉振一郎『政治の理論』と共通しますし、背景にアレントの政治理論がある点も同じですがが(もっともこの本ではあまり表には出てきていない)、そのアプローチの仕方はかなり違います。

 構成は、「第1部 平等な関係」、「第2部 社会保障と平等」、「第3部 デモクラシーと平等」の3部仕立てになっています。

 まず、この本で問題としている「不平等」の問題は「貧困」の問題とイコールではありません。
 貧困はセーフティーネットを張ることで解消することができます。現在の日本にそれができているかはともかくとして、ある程度の福祉国家であればナショナル・ミニマムを定め、それ以下の人を援助することによって貧困の解消は可能です。
 しかし、貧困が解消されても依然として不平等は残っています。そして、著者はこの不平等も解消されるべきだと考えるのです。

 ロールズは人々が関係において占める立場(ポジション)として、「平等な市民としての立場」と「所得および富の分配において各人が占める場所によって規定される立場」の2つをあげました(23p)。
 著者は、前者は後者によって影響を被らざるを得ず、「平等な市民」としての関係をつくり出すためには、所得や富の分配の問題にまで踏み込んでいく必要があると言います。

 この所得や富の問題を規定するのが再分配や社会保障などさまざまな「制度」ですが、近年はこの制度への不信が広がっており、また、制度が特定の人や地域に負担を押し付けるような構造になっているケースもあります。
 これに対して、著者はこうした制度や負担を、「公共的理由」(あらゆる市民の立場から批判的に検討を加えてもなお維持できる理由(51p))の有無によって吟味していくことが重要だといいます。
 「合理性」だけでなく「道理性」(理にかなっていること)が重要なのです(53-55p)。

 このあと第1部では、「相互承認」や「連帯」といった概念を検討していきますが、ここまででも著者が想定するのがかなり「強い平等」であることがわかると思います。
 著者の考える「平等」は、「ジニ係数がいくつ以内」とか「相対的貧困率の低減」とかではなく、「市民間の平等な関係性」というかなり強いものなのです。

 とは言っても、先程も述べたように所得や富がある程度平等でなければ、平等な関係性を築くことは難しいです。そこで、第2部でとり上げられるのが社会保障の問題です。

 著者は「互いを平等な者として扱うために必要なのは等しい扱いであるとは限らない」とのドウォーキンの考えを引用し、財の分配だけではなく、それを通じて市民が他者との社会的関係においてどのような立場を占めることができるかに注目する必要があると言います(92p)。
 障碍者やマイノリティには特別な支援が必要になることも多いのです。

 ここで著者が持ち出してくるのが「社会的連帯」という言葉です。
 われわれは国内の人々だけと諸制度を共有しているわけではありませんが、市民が共有する国内の制度には厚みがあり、特に社会保障制度は主要な制度の一つです。
 この制度内にいる者は制度を共有する者に対する責任を負っており、ここから社会的連帯の必要性が出てきます。
 それぞれの人間の生はさまざまなリスクや偶然性にさらされており、脆い存在です。また生の多様性は社会の豊かさをもたらします。こうした理由からも社会的連帯は必要とされるのです。

 そのためには事後的な支援だけではなく、事前の支援も重要です。この本ではそれに対処するものとして、ロールズの「財産所有デモクラシー」の議論を紹介しています。
 これは各期のはじめに生産用資産と人的資本が広く行き渡った状態を確保しようとするもので、市民の対等な足場をつくろうとするものです(121-122p)。
 
 著者は、結果的に貧しくなってしまった人を支援する今の社会保障制度は不十分であり、「その人がなしうる事柄、すなわち実効的に享受しうる自由」に注目するケイパビリティ・アプローチ(138p)が適切だと言います。
 もちろん、すべての望みが保障されるわけではありませんが、社会保障の制度は、「まずあらゆる市民が十分性に達するように生活条件の改善をはかり、そのうえで、十分性を超えたレベルでの不平等については、より不利な立場にある人々の生活条件を最大限改善するよう保障するよう編成されるべきである」(154p)と主張しています。

 また、保障の仕方としては所得補償(現金給付)よりもアクセス保障(現物給付)が優れていると言います。所得補償だけではより不利な立場にいる人が十分な福祉を受けられない可能性があるからです。
 このため著者はベーシック・インカムにも否定的です。ベーシック・インカムは労働への圧力から人々を開放するという長所があることを認めつつも、財源的に難しく、働く人のルサンチマンが働かない人へ向かうのではないかと危惧しています(161-163p)。

 第3部では、市民を平等な者として尊重する方法として熟議デモクラシーがプッシュされています。
 デモクラシーは一般的に多数意思を尊重するものだと考えられがちですが、多数意思は誤りうるものであり、また、多数派によって少数派が抑圧されてしまう可能性もあります。多数の意思を尊重しつつも「多数の暴政」を避けるためのしくみが必要なのです。
 そこで著者が必要だと考えるのが「理由の検討」です。ある政策を正当化する理由は何か?反対意見の理由は何か?といったことを検討することによって、市民の意思が形成されていくのです。
 
 熟議には専門家によるものと市民によるものがあります。著者は専門家による熟議の異議を認めつつも、議論に多様性をもたらすためにも市民による熟議は必要だと言います。「専門家の熟議は主として問題の解決に方向づけられるが、市民の熟議は、問題解決だけではなく新たな問題の発見にもひらかれている」(193p)のです。

 こうした熟議の積み重ねを通じて、「妥当なものとして広く受容される理由は、共通の確信として政治文化のなかに蓄積され」(198p)ていきます。このように蓄積された「理由のプール」がその後の熟議の基盤となり、政治を規定してくのです。
 ちなみに著者は理由を重視する立場から、人々の欲求をデータとして顕在化して政治に取り入れようとする東浩紀『一般意志2.0』の議論に否定的です(211ー212p)。

 このような熟議デモクラシーに対して、「市民にとって要求が高すぎるのではないか」という批判がありますが、著者は「市民として意見を形成したり、活動するための政治的資源はその意味で稀少であることは否めない」としながらも、実際に「反原発」、「外国人の権利擁護」、「限界集落の問題」などに取り組んでいる市民がいることをあげてこの批判を退けています(254ー255p)。

 このようにこの本では、「平等とは何か」、「いかに平等を実現するか」、「デモクラシーと平等の関係」という問題が緊密に絡みあう形で議論が進められています。
 議論があちこちに行くので決して読みやすい本ではないですが、著者の一貫した立場や議論を読み取ることはできるでしょう。

 ただ、個人的にはどうしても著者の理想とする社会を実現するためのコストというものが気になります。
 著者はベーシックインカムをその財源問題から否定していますが、著者の考える社会保障や政治の制度を実現するのはベーシックインカム以上の財源が必要になるのではないかと、漠然と思いました。
 また、著者は熟議のコストの問題に対して、現実にコストを払っている市民がいることをあげてその問題は小さいように書いていますが、こうした市民の中には政治に対して自らの資源のすべてを投入している「運動家」のような人もいます。
 もちろん「運動家」をすべて否定するわけではないですが、熟議デモクラシーとなるとそのような「運動家」がイニシアティブを握ることにならないのでしょうか?(このような「運動家」は無制限に残業する社員にも似ている)

 基本的にこの本は「理念」についてのもので、「理念を鍛える」といった内容です。
 こうしたことは必要だと思うのですが、そうした「理念」をどう現実の制度やしくみに落とし込めるのかということをもう少し考えてみるべきではないかと感じました(例えば、「負の貯蓄」を将来世代に残してはならず財政赤字は問題だというような議論をしながら(125p)、別の場所では「氷河期世代」のような不運を許してはならないという議論をしていましたが、「氷河期世代」を救うには財政赤字の拡大は受け入れざるを得ないと思う)。


不平等を考える: 政治理論入門 (ちくま新書1241)
齋藤 純一
4480069496

白波瀬達也『貧困と地域』(中公新書) 8点

 副題は「あいりん地区から見る高齢化と孤立死」。日雇い労働者の町であった大阪西成区のあいりん地区(釜ヶ崎)の歴史と実情、そして将来の展望を分析した本になります。
 著者は長年に渡ってあいりん地区でソーシャルワーカーとしても働いたことのある社会学者です。あいりん地区については、近年、「西成特区構想」が進められており、その内容は推進役となった経済学者の鈴木亘が『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』という本にまとめています(この本は面白い!)。著者はこの構想のプロジェクトの中心的な役割をになったまちづくり検討会議にファシリテーターとして参加しており、『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』の内容を補う本としても面白く読めます。

 『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』では、日雇い労働者が集まる「集積のメリット」が、景気低迷と日雇い労働者の高齢化により生活困窮者の集まる「集積のデメリット」になってしまった変化が語られていましたが、この本ではそうした面も押さえた上で、生活困窮者にとってあいりん地区は今なお「集積のメリット」がある場所でもあるということを示しており、数字にはなかなか現れてこない町と人々の暮らしの関係を浮かび上がらせることに成功しています。

 目次は以下の通り。
序章 暴動までの歴史的背景
第1章 日雇労働者の町として
第2章 ホームレス問題とセーフティネット
第3章 生活困窮者の住まいと支援のあり方
第4章 社会的孤立と死をめぐって
第5章 再開発と向き合うあいりん地区
終章 地域の経験を活かすために

 戦前から釜ヶ崎地区は木賃宿が立ち並ぶ貧困層が集まる場所でしたが、1961年の第一次釜ヶ崎暴動までは女性や子どもも多い地域で、いわゆる一般的なスラム街でした。
 それが高度成長と度重なる暴動の中で徐々に日雇い労働者が集まる「ドヤ街」として性格を強めていきます。
 この本の24pには社会学者・大橋薫によるスラムとドヤのちがいが表としてまとめられていますが、スラムの住居は恒久的であり、助け合いの必要性から人間関係は緊密になります。一方、ドヤでは住居は一時的なものであり、人間関係は匿名的なものとなります。また、得た収入を目の前の消費に使ってしまう傾向があり、そのことが生活の余裕を奪うともいいます。

 こうした釜ヶ崎地区の変化を加速させたのが61年から数次に渡る暴動です。
 交通事故の自己処理における警察の人名軽視の姿勢に端を発した第一次暴動は3日間に渡って続き、警察は6000人以上の警察官を投入してこれを鎮めました。
 この後も暴動はたびたび起こり、61~73年にかけて21次にわたる暴動がありました(36p)。特に70年以降は、新左翼が釜ヶ崎を「革命の拠点」と位置づけて組織化を進めたこともあって、70~73年の間に13回もの暴動が起きました(37p)。

 1966年、大阪市・大阪府・大阪府警は釜ヶ崎を「愛隣地区」と改称し、対策を進めますが、こうした過程の中で、家族を持つ者が徐々に流出していくことになります。32pにはこの地区の萩之茶屋小学校の児童数の変遷がまとめられていますが、61年に1290人いた児童は、70年に632人、80年に421人、90年に137人とその数を減らし続けました。
 あいりん地区のマイナスイメージが住人の就職や結婚にマイナスにはたらくということもあったそうです(39p)。
 一方、キリスト教関係者などはこの地区の支援に入ってくるようにもなり、独特のセーフティーネットを形成していくことになります。

 また、港湾運輸業、製造業などさまざまであった日雇いの求人も80年代以降になると、建設業に一元化されていきます。建設業の需要は天候や時期(年度はじめは工事が減り年度末は増える)によって左右され、ただでさえ不安定な日雇い労働者の立場をさらに不安定にしました(46p)。
 バブル期にはあいりん地区は活況を呈し、外国人労働者の流入などもありました。一方で、90年には17ぶりの暴動が起き、さらにその後のバブル崩壊でホームレスが増え、住人の高齢化も進んでいきます。

 ホームレスに関しては、2002年に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が制定され対策が進みます。また、09年に厚労省から当該自治体に住所を持たない者でも生活保護の申請ができるという通知が出たこともあり、ホームレスは生活保護を受給し、この地区に定住するようになっていきます。
 あいりん地区は「単身男性を中心とする非定住型の貧困地域=労働者の町」から「単身男性を中心とする定住型の貧困地域=福祉の町」へと変貌したのです(74p)。  
 
 あいりん地区は長い歴史をもった貧困地域であることから、ある意味で貧困者向けのセーフティーネットが充実した町だともいえます。
 生活保護だけでなく、市と府と国による「あいりん対策」、キリスト教系団体、社会運動団体によるあわせて4つのセーフティーネットがあるといいます(78-90p)。
 しかし、その一方で生活保護受給者を囲い込む業者が現れたもしましたし、キリスト教系団体の無料食事会や社会運動団体の行う炊き出しは「生活保護費を計画的に利用する意識を弛緩させる負の効果を持つ」(81p)こともあります。
 貧困の集積は、他に比べて充実したセーフティーネットをもたらす一方で、必ずしも社会全体のメリットとはなっていない面もあるのです。

 中盤以降は、住宅と孤立死の問題がとり上げられています。
 先述のように、あいりん地区では生活保護の受給によってホームレスは減少していますが、その住居問題が解決されたとはいえません。
 あいりん地区では、無料低額宿泊所が生活保護受給者に住居を提供していますが、生活保護費から住居費やケアの費用を徴収するスタイルは特に公的既成がないために「貧困ビジネス」の温床ともなっています。
 しかし、これらの無料低額宿泊所を規制すべきかという、これらの施設がケアを担っている面もあり、意見が分かれるところとなっています。

 また、近年は簡易宿泊所を回収したサポーティブハウスという施設も増えています。
 サポーティブハウスは簡易宿泊所を転用しているため、居室は三畳ほど、トイレ・風呂・炊事場は共用というものが多いです。スタッフが24時間常駐して必要な生活支援を行い、共同のリビングを設置しているのもサポーティブハウスの特徴になります。
 しかし、居住面積の狭さという問題があり、2015年の生活保護の住宅扶助の引き下げによりその経営は苦しくなっています。
 
 次に孤立死の問題です。
 あいりん地区の居住者の多くは単身男性であり、その死を看取る家族がいるケースはまれです。あいりん地区のある西成区の一人暮らし高齢者の出現率は2010年で66.1%(130p)、さらに、あいりん地区の女性人口は約15%にすぎず(132p)、高齢者男性の町であることがうかがえます。
 また、日雇いの町であったあいりん地区では、互いの過去に踏み込まないことが一種の社会規範となっており、そういった流動的な人間関係から生活保護に定住生活への以降の中で孤立してしまう人間もいるとのことです(133-137p)。
 
 孤立死を防ぐためには人のつながりを再構築することが必要ですが、家族的ネットワークの再構築は期待できず、また町内会などへの加入状況も非常に低い割合にとどまっており、何らかの新たな地縁の創造が必要になっています。
 当然ながら無縁仏も増えており、あいりん地区ではそれに対するさまざまな取り組みがなされています。ある意味で日本の今後の課題を先取りしていると言えるかもしれません。

 後半は西成特区構想とあいりん地区の今後について。
 最初にも述べたように現在、あいりん地区では経済学者の鈴木亘などを中心として西成特区構想が進められています。外から見ると橋下市長がトップダウンで進めている改革にも見えましたが、実際は特区構想以前から活動していた「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」の主催する「定例まちづくりひろば」などの仕事を受け継ぐ形で進められており、住民や関係団体の意見を取り入れたものとなっています。

 著者もファシリテーターとして参加したようにこの構想に完全に反対しているわけではありません。あいりん地区の貧困問題には何らかの対処が必要ですし、実際にこの構想が動き出してからあいりん地区の治安や景観は改善されています。
 一方、著者は「手厚いケアが「強い管理」をもたらすのではないか?」、「再開発によって簡易宿泊所などがなくなり日雇い労働者が暮らしていくことが困難になるのではないか?」といった懸念も抱いています。
 実際に新今宮駅周辺の簡易宿泊所は外国人旅行者向けに改修されつつあり、特区構想の成功によって日雇い労働者たちが居場所を失う可能性は十分に考えられます。

 あいりん地区は日本でも例外的な場所であり、貧困の集積は問題を産むと同時に、さまざまな取り組みやセーフティネットも生み出しました。しかし、一つの地域に貧困を押し付けるやり方は限界となっています。
 また、あいりん地区であらわになっている孤立死をはじめとする高齢単身世帯の問題は、これから他の地域が直面する問題でもあります。
 何かスパッとした解決方法が示されているわけではないですが、問題を考えていく上でのいろいろなヒントが詰まった本と言えるでしょう。


貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 (中公新書)
白波瀬 達也
4121024222

米川正子『あやつられる難民』(ちくま新書) 5点

 もと難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員としてルワンダやケニア、コンゴ民主共和国などで活動した著者が、難民支援の実情や偽善性を告発した本。UNHCR職員だった人物による内部からの批判であり、また日本で流布している「虐殺を乗り越えたルワンダ」という言説を真っ向から批判する主張は価値がありますし、著者の熱意というのもうかがえます。
 ただ、残念ながら本の構成や文章の組み立てがあまり良くなく、やや読みづらい本になってしまっています。

 目次は以下の通り。
第一章 難民問題の基本構造
第二章 難民とUNHCR、政府の関係
第三章 難民キャンプの実態とアジェンダ
第四章 難民と安全保障――ルワンダの事例から
第五章 難民の恒久的解決――母国への帰還と難民認定の終了
第六章 人道支援団体の思惑とグローバルな構造

 本書のタイトル「あやつられる難民」とは、難民を支援するはずの政府(難民受け入れ国政府と援助の資金などを拠出する政府)や国連(UNHCR)、NGOがときに難民を利用し操作し、難民に対する加害者になっている現状を告発するためいつけられています(17p)。
 特に著者が活動していたルワンダやコンゴではその傾向が強かったようです。
 著者はこうした中で自らの活動に疑問を感じ、また、難民についての研究者バーバラ・ハレル=ボンド氏の研究に触れることでその認識を深めたといいます。

 おそらく、最初に著者の体験談やバーバラ氏の著作についての説明があるとわかりやすくなったと思うのですが、この著者の体験やバーバラ氏の主張は、このあと細切れに紹介されていく形になり、「難民とは何か?」という大問題に移っていきます。
 ただ、そうした大きな問題の説明の中でもちょくちょく著者の体験が挟み込まれるので、その論旨はわかりにくくなっています。

 第2章ではUNHCRの問題がとり上げられています。
 UNHCRというと日本の緒方貞子が高等弁務官をつとめたこともあり、難民を守る組織として知られています。
 しかし、UNHCRといえども資金を提供するドナー国の影響は無視できず、その方針はしばしばドナー国の政府(アメリカをはじめとする先進諸国)の都合に左右されると言います。
 また、難民を法的に保護する存在から、難民に現地で福祉を提供する存在に変質しつつあるとの指摘もあり(78-80p)、むしろ難民の移動を制限しているケースもあります。
 また、UNHCRの職員の中には難民に対して「上から目線」であったり、自分のキャリアばかりを考えている者もおり、官僚主義的な対応も目につくということです。

 第3章は難民キャンプについて。
 現在では難民を保護する場所として一般的になった難民キャンプですが、そのルーツには捕虜収容所や強制収容所があります。
 本来、難民条約には難民を受入国に統合させていく規定がありますが(117p)、「今日の難民はキャンプで「保管」され、拠出国が提供した支援で生存している」(118p)状態だといいます。
 UNHCRの『緊急対応ハンドブック』には「キャンプは最後の手段」と明記されていますが(119p)、実際はキャンプがあって当然という認識になっているそうです。

 援助物資を届けるためにはキャンプは便利な場所ですが、そのキャンプであっても食料の配給や居住スペースが不十分なこともあり、何よりも長期間のキャンプでの生活は難民の無力感を高めます。
 何もすることがないキャンプの中で子どもたちの間では早い時期から性的行為がさかんになり、今後の難民キャンプでは「15歳以上の女の子の大多数が妊娠しているか出産経験者」(134p)だそうです。
 
 また、男性はやることがなくさらに無力感を高めます。これらの男性が戦闘員にリクルートされてキャンプが「軍事化」することもあります。
 コンゴでは隣国のルワンダが難民をルワンダ兵士にリクルートする例もあるそうで、それらの「コンゴ難民」をコンゴの天然資源の確保に利用しているとのことです(154p)。
 ソマリア難民が身を寄せているケニアのダダーブキャンプでは難民がテロ行為に関わったとして、ケニア政府がキャンプの閉鎖に動くといった事態も起きています(155-158p)。

 第4章はルワンダの事例について。
 映画『ホテル・ルワンダ』などで描かれた1994年のルワンダの虐殺についてはご存知の人も多いでしょう。多数派のフツ族が少数派のツチ族を大規模に虐殺されたとされる事件です。
 その後、ルワンダは「和解が進んだ「開発の成功例」や「アフリカの優等生」というイメージ」(174p)で語られていますが、著者はそれは表層的な見方だといいます。

 ルワンダでは1959年の社会革命後、多くのツチ族が難民として周辺国に流出しました。1987年にこれらの難民は帰還を目指してRPFを創設します。このRPFは「あらゆる可能な手段を使って」の帰還を目指しており(176p)、90年にルワンダに侵攻します。
 そして、94年の虐殺のあとRPF政権が成立し、カガメ大統領が実権を握ります「虐殺を止めた」ということで、国際的なイメージは良いカガメ政権ですが、実際はRPFによるフツ族への虐殺もあったとのことですし、国外に難民として逃れた反対派の人物の暗殺を行ったりもしているそうです。
 カガメ政権はルワンダ国外のルワンダ難民のキャンプにスパイを潜り込ませて監視するなど、抑圧的な姿勢を強めており、また、先述のように隣国のコンゴでは難民を使って天然資源の確保などを行っています。

 第5章は難民の帰還問題について。
 難民が平和裏に帰還できればそれに越したことはありませんが、実際には母国で迫害される恐れのため帰還を躊躇する難民も多いです。
 しかし、問題はないとしてUNHCRが難民を「強制帰還」させることもあるそうです。時に難民受入国やUNHCRが難民への食料の配給を減らすことで帰還を促すこともあるとのことです(226ー228p)。
 特に著者はコンゴからルワンダへと難民が「強制帰還」させられたことを問題視しています。
 難民の地位が喪失される難民地位の終了条項というものがあり、この難民の地位終了が決まると難民は帰還するか受入国で帰化するかの選択を迫られます(238ー239p)。ルワンダ難民に関しては、ルワンダ政府の長年の申請もあり、2009年にUNHCRはルワンダ難民に終了条項を適用すると発表、2013年に実際に適用されました。
 しかし、先ほども述べたように現在のカガメ政権は抑圧的であり、難民の多くは現政権に恐怖心を抱いています。こうした中で終了条項を適用したUNHCRを著者は問題視しているのです。

 第6章は「人道支援」ということにまつわる問題について。
 ここでは基本的に「人道」という名のもとに、犯罪的な行為や国益の追求が行われている現状を告発しています。
 やや難癖に近いものもあるのですが、アメリカのCIAなどが人道支援機関を利用して現地の軍事情報などを探っている疑いがあるという話は頭に入れていてよいかもしれません。

 基本的に個人的に気になった内容はこんなところですが、今まで書いてきたことは決してこの本の正確なまとめにはなっていません。まとめが困難なほどに論旨がいろいろな所に飛んでいるからです。
 最初にも書いたように著者の熱意というものは十分に伝わってきます。ただし、きちんとした構成なしに情報を詰め込んだ感もあり(その情報もきちんとしたものと伝聞が入り交じっている)、著者の言いたいことが十分に伝わるのかというとやや疑問にも思えます(個人的な見解としては、ルワンダ難民の問題を中心に、著者の体験→ルワンダ虐殺の背景説明→ルワンダ難民の実情→UNHCRの機能不全、というような構成にしたほうが良かったのではないかと思います)。


あやつられる難民: 政府、国連、NGOのはざまで (ちくま新書 1240)
米川 正子
448006947X

柴田悠『子育て支援と経済成長』(朝日新書) 4点

 「子育て支援」が経済成長率を引き上げ財政改善する可能性が見えてきた!純債務残高600兆円を超え、深刻な財政難にいまだ効果的な手を打てずにいる日本。でも現実を見れば、「働きたいのに働けない女性」はたくさんいる。安心して子どもを産み育てられる「良質な保育サービス」に本気で取り組めば、日本はまだ成長できる。データ分析が示す国家戦略の新形態!「マツコ案」を試算した若手社会学者の新提案。

 これがAmazonのページに載っている本書の紹介文。経済成長の「お荷物」と考えられがちな社会保障ですが、子育て支援に関しては女性労働力率の向上や子どもの貧困の削減などを通じて経済成長が期待でき、「投資」としても優れていますよ、というのが本書の主張になります。
 個人的には、この著者の主張には賛成ですし、これを政策効果についての統計分析で裏付けようという姿勢も良いと思います。
 ただし、本書に関してはいろいろと問題点があり、そのロジックや政策の優先順位についてやや疑問が残りました。

 目次は以下の通り。
第1章 財政難からどう抜け出すか
第2章 働きたい女性が働けば国は豊かになる
第3章 「子どもの貧困」「自殺」に歯止めをかける
第4章 社会保障の歴史から見るこれからの日本
第5章 子育て支援の政策効果
第6章 財源をどうするか
おわりに――分断を超えて

 この本の中心となる主張は、「子育て支援に追加予算を投入したときの経済効果は約2.3倍になる可能性がある」というものです(8p)。経済効果とはGDP増加額を予算投入額で割ったもので、この本の第5章では保育サービスへの予算を0.5兆円(GDPの約0.1%)増やせば、経済成長率が数年以内に0.23%、長期も合わせると0.28%増えるという試算から、数年以内の分を取り出して2.3倍(GDPの約0.1%を投入して0.23%の経済成長)という数字を出しています(165ー166p)。

 この「約2.3倍」という根拠はどこから出てきたかというと、OECD加盟国からデータの揃っている28カ国を選んで1980~2009年、特に00年代のデータを分析して得られた数値だといいます。
 ただ、この本では28カ国がどの国なのかは明示されていません。現在OECDの加盟国は35カ国。そのうち2016年加盟のラトビアは抜いてあるでしょうし、データ分析の期間から2010年加盟のチリ、スロベニア、イスラエル、エストニアも抜いてあるのかな?と思いますが、抜かれているあと2カ国はどこなのでしょうか?新書であってもこれは明示すべきでしょう。

 この本では最初に日本の財政危機に警鐘を鳴らし、そのために追求する目標としてまず財政余裕(財政収支の改善)をあげています。財政余裕のためには、経済成長が必要であり、そのキーとなるのが労働生産性だというのです。
 短期的な財政収支の改善は福祉の切り捨てによっても実現するので、ここはまずは経済成長の方を基本的な目標として掲げるべきではないかと思いました。
 また、経済成長に必要なものとして、労働力率、投入労働時間、労働生産性をあげ、そこから改善すべきものとして労働生産性を選択しています。労働生産性の向上は必要だとは思いますが、経済成長にはそういった供給面の要因だけでなく需要面の要因もあります。需要面の改善によって製品価格が上がれば自然と労働生産性も上がるといった側面もあり、労働生産性にフォーカスしすぎるのはどうかと思います。

 労働生産性の上昇をもたらすものとして、著者は「労働力女性比率が上がると、翌年の労働生産性が上がる」というデータに注目します(53p)。
 この因果関係について、著者は日本の企業においても「正社員女性比率が高い企業ほど利益率が高い」という研究などを参考にしていますが(57-60p)、日本で女性の職場進出が進んだのは近年になってからであり、また女性の勤続年数が短いことを考えると「「正社員女性比率が高い企業」=「近年、採用に積極的な企業」とも考えられると思います。そうなるとそういった企業は利益率も高いだろうと推測できるのではないかと思います。
 女性の職場進出は長時間労働の是正につながる可能性がありますし、女性という新たな労働力の投入は経済成長をもたらすでしょうが、「労働力女性比率の向上」→「労働生産性の向上」という因果関係については証明しきれていないように思えます。

 ちなみにこの本では出生率の向上は目的とされていません。出生率の向上を目的とすると「本人の気持ちを無視して女性に出産を求めてしまう社会」になってしまうおそれがあるからです(111p)。
 これはもっともな配慮ではありますが、ただそうなると「労働力女性比率の向上」を目的として良いのかという疑問も出てきます。それは「本人の気持ちを無視して女性に労働市場への参加を求めてしまう社会」にはならないのでしょうか?(ただしこの問題は非常に難しいもので、現在の日本では成人男性が労働市場に参加するのは当然と考えられているので、女性も当然と考える議論は成り立つと思う)

 第3章では、日本の子どもの貧困と自殺の問題がとり上げられています。
 まず、最近よく言われるようになりましたが、日本の子どもの相対的貧困率は先進国の中でも高くなっています(90p)。
 著者の分析によると、子どもの貧困に効果がある政策は、児童手当、保育サービスの拡充、ワークシェアリング、失業手当の4つです(92p)。政策の効果としてはワークシェアリングが一番なのですが、予算規模を考えると力を入れるべきなのは保育サービスと児童手当であり、2つの中では保育サービスの効果が高いとしています(93ー95p)。

 また、自殺率に関しては職業訓練が有効だとのことですが、同時に著者は自殺率と労働力女性比率の関連に注目します。労働力の女性比率が増えると翌年の自殺率が低下する傾向にあるのです(107p)。
 著者はこの理由として労働力女性比率が上がれば男性が一家の大黒柱としてのプレッシャーから開放されるためでは、との推測を述べています(107ー109p)。
 ここから著者は子育て支援が労働力女性比率の向上を通して自殺率の低下にもつながると結論づけています。
 
 けれども、そもそも労働力女性比率というのは指標は適切なのでしょうか?
 もし、労働力女性比率が上がれば上がるほど良いなら、男性が一斉に仕事を辞めれば労働力女性比率は100%になります。そうなったら労働生産性は劇的に向上し、自殺率は低下するのでしょうか?
 おそらくそんなことはないですよね。50%を超えれば今度はまた別の問題が出てくるはずですから、追求すべきは労働力女性比率の向上というよりは、この比率の男女差を減らすことになるはずです。そのあたりの注意書きがこの本にはありません(追記(3/9):Twitterで教えていただきましたが、著者の前著『子育て支援が日本を救う』にはこの点に関する注意書きがあるそうです。また55pに「しかし、現在の日本の労働力比率は50%よりも低く、43%にとどまっているのです」との記述があり、著者が50%を理想としていることは推測できます)

 そして、実はこの「労働力女性比率」なる言葉は一般にはあまり流通していない言葉で、「”労働力女性比率"」で検索しても、この著者の本に関連するページくらいしか出てきません。
 普通はポイントになるのは労働力女性比率(働いている人の何割が女性か)よりも女性労働力参加率(女性の内どれくらいが働いているか)だと思うのですが(前にも書いたように投入される労働力が増えれば経済成長する)、女性労働力参加率ではうまく数字が出なかったのでしょうか?

 この後の第4章では、自らの研究者の来歴を振り返るとともに欧米諸国の福祉制度の違いをキリスト教の宗派の違いやトッドの家族システムを用いて説明しようとしています。ただ、個人的には第5章の記述との関係でフランスの位置づけがよくわかりませんでした(第4章ではフランスの子育て支援には否定的なトーン(139ー140p)。

 第5章はさまざまな試算、待機児童を解消するにはいくら必要か、マツコ・デラックスがテレビ番組内で言った教育費と子どもの医療費を全て無料にするにはいくらかかるかといったことを明らかにしています。
 待機児童の解消には1.4兆円が必要とのことですが、172pには「保育サービスの拡充に1.4兆円」→「労働力女性比率0.34%アップ」→「労働生産性成長率0.53%アップ」→「経済成長率0.64%アップ」という図が載っていますが、やはりこの因果関係は腑に落ちないですね。
 第6章では、必要となる財源についていくつかのアイディアと簡単な試算がしてあります。

 なんだか文句ばかりになってしまいましたが、子育て支援が一種の「投資」として機能するのはその通りだと思いまし、それを実際の数字で示そうとした姿勢も良いと思います。
 ただ、どうしても「労働力女性比率」という指標をキーにした分析には違和感が残りました。
 また、日本人の研究者の研究は注をつけて紹介しているのに、ヘックマンやアトキンソンなどの研究の紹介には何も注がついていないところとかも気になりました。新書であってももっと丁寧な本づくりが必要でしょう。


子育て支援と経済成長 (朝日新書)
柴田悠
4022737069

赤川学『これが答えだ!少子化問題』(ちくま新書) 6点

 2004年の『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)で、「男女共同参画社会の推進が少子化を解決するというのはまやかし。男女共同参画社会の推進は別の理由から行われるべき」との主張をした著者が久々に少子化問題の議論の場に帰ってきました。
 『子どもが減って何が悪いか!』はリサーチ・リテラシーの本としても良い本なのですが、少子化問題の処方箋を出している本ではありません。今回の『これが答えだ!少子化問題』も、タイトルから処方箋を期待する人もいるかとは思いますが、それを期待すると肩透かしをくらいます。基本的には現在の少子化対策を批判的に検討した上で、その効果に疑問を呈した本になっています。

 目次は以下の通り。
序章 「希望出生率」とは何か?
第1章 女性が働けば、子どもは増えるのか?
第2章 希望子ども数が増えれば、子どもは増えるのか?
第3章 男性を支援すれば、子どもは増えるのか?
第4章 豊かになれば、子どもは増えるのか?
第5章 進撃の高田保馬―その少子化論の悪魔的魅力
第6章 地方創生と一億総活躍で、子どもは増えるのか?

 第1章は「女性が働けば、子どもは増えるのか?」
 女性の労働労働力率が高まれば子どもが増えるといった議論がよくなされます。この根拠として使われるのがOECD加盟24カ国の女性労働力率と合計特殊出生率をプロットしたグラフです(31p)。
 しかし、このグラフは『子どもが減って何が悪いか!』でも指摘があったように国の抜き出し方に問題があります。このグラフは「OECD加盟国」でなおかつ「1人あたりのGDPが1万ドルを超える国」を抽出しているのですが、OECD加盟34カ国になるとこの関係性は消滅しますし、「1人あたりのGDPが1万ドルを超える国」85カ国を抽出すると負の相関(女性労働力率が上がると合計特殊出生率が下がる)になります(サウジアラビアなどの中東の産油国が入ってくるため)。抽出する国の基準を変えれば、その関係も大きく変化するのです(30-35p)。

 ただ、日本を都道府県別に見ると女性労働力率が高い都道府県ほど合計特殊出生率が高いという関係性は見られます。
 しかし、著者はこの関連は「都市化」という共通の要因から生じているのではないかといいます。「都市化の進んだ都道府県ほど出生率が低く、女性の労働力率も低い」という関係があるからです(40p)。
 また、個人データの調査を見ても本人収入や世帯収入が高いほど子供の数は少ないというデータがあり、「女性の労働労働力率が高まれば子どもが増える」という議論は成り立たないだろうと結論づけます。

 第2章では、山口一男氏によるパネル調査をもとによる研究が批判的に検討されています。
 パネル調査とは1年とか2年とか一定の間隔を開けて繰り返し調査を行うもので、山口氏は1993~99年のデータを用いて女性の出生行動に影響を与える要因を分析しています。
 分析手法は手堅いが、著者はその解釈のいくつかに疑問をぶつけています。例えば、「夫の家事分担と育児分担は有意の影響がなかった」そうなのですが、山口氏はこれを日本の男性への家事・育児への期待度が低いために出産意欲に影響を与えていないといった形で評価しています。
 これに対して著者は、「ここは素直に「夫の家事・育児分担は妻の出産意欲に影響を与えない」とみるべきだろう」(58p)といいます。
 
 著者がこの章で指摘するのは、「マイナーな要因のゴリ押し」というものです。先程の例だと、確かに夫が育児に協力的だったので二人目を産む気になったという女性はいると思います。しかし、それは統計に表れてこないような微々たるケースです。
 少子化の要因のほとんどは「結婚しない人が増加したこと」にあるのに(61-62p)、少子化を食い止める要因としては「焼け石に水」しかならない要因がゴリ押しされているというのです。
 著者の分析によれば、第2子出生に影響を与える要因は経過年齢(第1子を産んでから何年経ったか)以外存在せず、「夫婦出生力は社会経済的諸条件には依存していない」という解釈が妥当だといいます(72-74p)。

 第3章では、「男性を支援すれば、子どもが増えるのか」という問題が検討されています。
 確かに男性の年収が男性の結婚率に影響を与えているというデータは存在します(83p)。ここから若年男性の年収をアップする政策を行えば、出生率も上がってくると考えられます。
 しかし、著者はこれは女性のハイパガミー志向を考えるとそうはうまくいかないだろうといいます。ハイパガミー志向とは女性の上昇婚志向のことであり、女性がパートナーに自分よりも経済的・社会的地位の高い者を選ぶ傾向のことです。
 これが強い限り、若年層の収入が全体としてアップしたとしても結婚できない男性は残ります。もちろん、男性だけの年収をアップさせればこの問題は解決しますが、それは難しいでしょう(85-88p)。
 
 第4章では、世界を見ると基本的には「1人あたりのGDPが増えるほど出生率が低下する」という事実を押さえた上で、子育て支援によって出生率を上昇させたスウェーデンやフランスの事例を検討します。
 著者は日本とスウェーデンやフランスの違いとして、「日本では出生率は都市で低く農村部で高いが、スウェーデンやフランスでは都市部で高く農村部で低い」ということをあげます(116ー121p)。著者はこの要因をデュルケイムやトッドの議論などを使って説明しようとするのですが、ここはいまいちよくわからなかったです。また、このことが日本の少子化対策の無効性の理由になるという議論もよくわかりませんでした。

 第5章は「進撃の高田保馬」というインパクトのあるタイトルがついていますが、ここでは戦前を代表する社会学者の高田保馬の少子化論が今でも説得力のあるものとして紹介されています。
 105pのグラフをみてもわかるように、現在の日本では「貧乏人の子だくさん」と「金持ちの子だくさん」という現象が両立しています。子どもの数は世帯年収が300万円以下の家庭と1200万円以上の家庭で多いのです。
 この一見すると矛盾する現象を説明するのが高田保馬の「出生制限が行われるのは「力の欲望」からだ」という議論だといいます(152p)。
 高田によればポイントは相対的な窮乏であり、中流では生活水準を維持し、さらに子どもに階級の上昇を願うために出生制限が行われるのです。これと同じような考えは60年後にピエール・ブルデューも提唱しています(156p)。
 高田はこの解決策として「国民皆貧論」を打ち出していますが(160p)、著者はこの議論に説得力を感じつつ、「国民皆貧」は無理なので少子化を受け入れるしかないといいます。

 第6章は、『地方消滅』で話題を読んだ「増田レポート」の少子化対策を批判的に検討しつつ、「子育て支援」を大々的に打ち出すと子育てに対する期待水準が上がってしまい、また出産に対するプレッシャーも高まるので、行うならば「少子化対策」と銘打たない「ステルス支援」が良いだろうとして本書を閉じています。

 全体としては第1章と2章の議論には説得力があり、第3章と4章の議論には疑問が残るといった感じです。
 第3章では女性のハイパガミー志向がはたしてどれくらい固いのか、ということはもっと分析されるべきですし、男性だけの収入を引き上げることはできませんが男性に安定的な仕事を提供する製造業を支援したりすることは可能なのではないかと思います(松田茂樹『少子化論』では九州の出生率の高さが製造業の強さと結びつけて論じられていた)。
 第4章は、日本がスウェーデンやフランスのような少子化対策をとっても出生率は上がらないということは証明できていないと思います。

 少子化対策の議論にみられるバイアスを教えてくれる本としてはいいですが、この本は逆に「少子化対策は無効である」という結論に向けてややバイアスがかかっているようにも思えます。


これが答えだ! 少子化問題 (ちくま新書 1235)
赤川 学
4480069364
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