タイトルからすると、織田信長を包括的に論じた本にも思えますが、以下の目次を見ると、ほぼ信長と朝廷の関係に焦点を絞ったかなりマニアックな本だということがわかると思います。
この本の基本的な主張は、「信長が朝廷の権威を完全に無視して政治を行おうとし、それに抵抗した正親町天皇との間に激しい対立があったという事実はない」というものです。
この信長と朝廷の対立説というのは、比較的人気のある説で、本能寺の変についても「朝廷黒幕説」というのはよく言われるものです。
その信長と朝廷の対立説を、著者は史料の丁寧な読解によって否定しようとします。
確かにこの本を読むと、必ずしも信長が朝廷に高圧的だったとはいえないことが分かりますし、対立説の論拠には強引なものもあることがわかります。
ただ、それは納得するにしても、著者の描き出す「信長の実像」については納得できませんでした。
まず、この本では信長の掲げた「天下布武」の天下が「全国」という意味ではなく、京都とその周囲のことであり、その地域の安定である「天下静謐」こそが信長の目的だったといいます。
そして、室町幕府を否定する狙いはなく、最初は足利義昭を補佐することによって「天下静謐」をめざし、その義昭が「天下静謐」のための働きができないとなると、自らがその地位にとってかわり、「天下静謐」のために戦い続けたというのです。
「天下布武」の天下が「全国」ではなく、信長の当初の目的はあくまでも義昭を担いで「天下静謐」を目指すものだったというのは納得できます。
しかし、著者はこの信長の「天下静謐」という行動原理が、本能寺の変が起こった1582年に四国攻めを決断した時まで維持されたと考えます。この年の「三職推任問題」、朝廷が信長を関白か太政大臣か征夷大将軍に任じようとしたことが、信長を全国統一へと駆り立てたというのです。
さすがにこれは厳しい解釈ではないでしょうか。
「天下静謐」を何よりも重視するならば、義昭をはじめとする敵対勢力ともっと妥協したのではないかと思いますし、義昭追放後も、他の足利氏の誰かを将軍につけるという手もあったのではないでしょうか(例えば、14代将軍義栄の弟の義助とか)。
また、この本では信長と朝廷の関係を資料を元に丁寧に辿り、信長が朝廷と協調し、そのやり方を尊重していたことを明らかにしています。
ですから、信長が最初から朝廷の権威を無視して高圧的に振舞っていたというのは間違いだと言えます。
ただ、第6章でとり上げられている「興福寺別当職相論」では、興福寺の次期別当職を巡って正親町天皇の決定を信長が覆し、この件に関わった公家たちを厳しく処分、正親町天皇の子の誠仁親王が信長に詫び状を出しています(203ー210p)。
著者はこの事件について信長は従来の風習に従っただけであり、「信長は朝廷を統御したり勅断をゆがめたりしようとはしていない」(211p)と結論づけていますが、天皇の綸言を撤回させることは「勅断をゆがめる」ことにはならないのでしょうか?
全体的に、この本は信長という人間が常に一貫したスタンスで動いているということを前提にしすぎていると思います。
「天下静謐」が当初の目的だったから信長の目的は「天下静謐」、最初朝廷を尊重していたからその後も朝廷を尊重し続けたはず、というような見方です。
しかし、当初の目的が「天下静謐」でも「全国統一」が実現可能なものとなってくれば、当然目的は代わるでしょうし、朝廷についても最初は利用価値を感じて尊重したとしても、その利用価値が感じられなくなれば次第に軽んじるようになるのはあたりまえだと思うのです。
でてくる事件や史料に関しては面白い面もあるのですが、著者の解釈には疑問が残った本でした。
織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)
金子 拓

序章 信長の政治理念
第1章 天正改元―元亀四(天正元)年
第2章 正親町天皇の譲位問題―天正元年~二年
第3章 蘭奢待切り取り―天正二年三月
第4章 まぼろしの公家一統―天正二年
第5章 天下人の自覚―天正二年~三年
第6章 絹衣相論と興福寺別当職相論―天正三年~四年
第7章 左大臣推任―天正九年
第8章 三職推任―天正一〇年
終章 信長の「天下」
この本の基本的な主張は、「信長が朝廷の権威を完全に無視して政治を行おうとし、それに抵抗した正親町天皇との間に激しい対立があったという事実はない」というものです。
この信長と朝廷の対立説というのは、比較的人気のある説で、本能寺の変についても「朝廷黒幕説」というのはよく言われるものです。
その信長と朝廷の対立説を、著者は史料の丁寧な読解によって否定しようとします。
確かにこの本を読むと、必ずしも信長が朝廷に高圧的だったとはいえないことが分かりますし、対立説の論拠には強引なものもあることがわかります。
ただ、それは納得するにしても、著者の描き出す「信長の実像」については納得できませんでした。
まず、この本では信長の掲げた「天下布武」の天下が「全国」という意味ではなく、京都とその周囲のことであり、その地域の安定である「天下静謐」こそが信長の目的だったといいます。
そして、室町幕府を否定する狙いはなく、最初は足利義昭を補佐することによって「天下静謐」をめざし、その義昭が「天下静謐」のための働きができないとなると、自らがその地位にとってかわり、「天下静謐」のために戦い続けたというのです。
「天下布武」の天下が「全国」ではなく、信長の当初の目的はあくまでも義昭を担いで「天下静謐」を目指すものだったというのは納得できます。
しかし、著者はこの信長の「天下静謐」という行動原理が、本能寺の変が起こった1582年に四国攻めを決断した時まで維持されたと考えます。この年の「三職推任問題」、朝廷が信長を関白か太政大臣か征夷大将軍に任じようとしたことが、信長を全国統一へと駆り立てたというのです。
さすがにこれは厳しい解釈ではないでしょうか。
「天下静謐」を何よりも重視するならば、義昭をはじめとする敵対勢力ともっと妥協したのではないかと思いますし、義昭追放後も、他の足利氏の誰かを将軍につけるという手もあったのではないでしょうか(例えば、14代将軍義栄の弟の義助とか)。
また、この本では信長と朝廷の関係を資料を元に丁寧に辿り、信長が朝廷と協調し、そのやり方を尊重していたことを明らかにしています。
ですから、信長が最初から朝廷の権威を無視して高圧的に振舞っていたというのは間違いだと言えます。
ただ、第6章でとり上げられている「興福寺別当職相論」では、興福寺の次期別当職を巡って正親町天皇の決定を信長が覆し、この件に関わった公家たちを厳しく処分、正親町天皇の子の誠仁親王が信長に詫び状を出しています(203ー210p)。
著者はこの事件について信長は従来の風習に従っただけであり、「信長は朝廷を統御したり勅断をゆがめたりしようとはしていない」(211p)と結論づけていますが、天皇の綸言を撤回させることは「勅断をゆがめる」ことにはならないのでしょうか?
全体的に、この本は信長という人間が常に一貫したスタンスで動いているということを前提にしすぎていると思います。
「天下静謐」が当初の目的だったから信長の目的は「天下静謐」、最初朝廷を尊重していたからその後も朝廷を尊重し続けたはず、というような見方です。
しかし、当初の目的が「天下静謐」でも「全国統一」が実現可能なものとなってくれば、当然目的は代わるでしょうし、朝廷についても最初は利用価値を感じて尊重したとしても、その利用価値が感じられなくなれば次第に軽んじるようになるのはあたりまえだと思うのです。
でてくる事件や史料に関しては面白い面もあるのですが、著者の解釈には疑問が残った本でした。
織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)
金子 拓




