日本人の洋装がどのように広がったのかをたどった本。文明開化とともに洋服が入ってくるわけですが、当然ながら、すぐに日本人が洋服を着るようになったわけではありませんし、特に女性については和服中心の時代が長く続きました。
この女性が洋服を着るようになったきっかけとして、「関東大震災」や、昭和7(1932)年の「白木屋百貨店の火災」があげられることがありますが、著者はこれらを「俗説」として退けた上で、「洋装の発展段階論」を示そうとしています。
「あとがき」を読むと、著者が家政学の服飾史研究に大いに不満を持っており、これに代わってしっかりとした資料に基づいた服飾史を打ち立てようとしていることがわかります。
文脈を知らないと、多少気負いすぎている感じもしますが、洋装の広がりというテーマは面白いもので、いろいろな発見がある本です。
目次は以下の通り。
第1章 幕末の海外渡航と洋服との出会い第2章 欧化政策の表と裏第3章 衣服改良運動第4章 服装改善運動第5章 昭和モダニズムの服装第6章 国家総力戦と服装第7章 洋服を着る時代の到来
最初に洋服を着た日本人は漂流民だと言われています(本書では中浜万次郎らの名前が挙げられているけど、大黒屋光太夫のほうが早いし、さらには天正遣欧少年使節とかもっといるのでは?)。
こうした人々以外で先駆けて洋服を着ることになったのが幕末に海外に渡った留学生らです。彼らは当然ながら羽織袴に髷を結っていたわけですが、現地の人々からあまりに奇異な目で見られるために洋服を着るようになりました。
国内では、洋式軍隊の導入にあたっても動きやすさを重視して筒袖の服を導入する動きがありました。
幕府は、留学生らに対しても洋装は現地に限り認めるという形でしたが、慶應2年にフランスとの間に軍事教官団の派遣の取り決めが行われると、軍服として洋服が導入され、徳川慶喜にも軍服が贈られました。
文久3(1863)年にイギリス人のミセス・ピアソンが横浜の居留地にドレスメーカーを開店したのが、日本での洋服仕立て業の発祥だといいます(明治2年にイギリス人のカペルが神戸に開いた店を発祥とする説もあるが横浜のほうが古い)。
その後、横浜には衣服輸入商なども開業しましたが、基本的には外国人向けの店だったと言います。
明治なっても日本人が洋服を着るのは軍服に限られており、他には造幣寮の制服、海外に行くときの「旅行服」などしかありませんでした。
こうした状況が動くのは廃藩置県後です。廃藩置県が行われた翌月の明治4(1871)年8月に洋服・断髪・脱刀姿で宮中や太政官へ行くことが許されました。
この背景には政府内で主導権を握った旧藩士層が外見から身分の差をなくそうとしてことが考えられます。
これには公家たちからの反発などもありましたが、このときに服装改革の内勅が出され、日本古代の「筒袖」、「細袴」に戻るのだという理屈で洋服の着用が正当化されています。
ここでは文明開化の結果として洋装が進んだという説が退けられています。
使節団の大使だった岩倉は和装で海外に向かいましたが、アメリカで見世物のようになってしまったために、断髪して洋服を着るようになり、イギリスでヴィクトリア女王に謁見した際には洋式の文官大礼服姿でした。
左大臣・島津久光の文明開化に反対する意見が退けられ、西南戦争で政府軍が勝利すると、「洋服・断髪・脱刀」への反発はおさまっていきます。
明治18(1885)年には奏任官以上が出仕する場合には洋服の着用が義務付けられ、翌年には判任官にも義務付けられました。
学生服としても洋服が導入され、特に学習院と東京大学のものは後のデザインに大きな影響を与えました。なお、学習院では生徒が華美な服装をすることを嫌って制服が導入されています。
一方、女性の洋装は遅れました。明治6年に撮影された御真影でも明治天皇が洋装なのに対して、美子(はるこ)皇后は御小袿・袴姿です。
女性の洋装がすすむきっかけとしてよく鹿鳴館の存在があげられます。確かに鹿鳴館外交を進めた井上馨は「欧化政策」を広めようとしていましたが、著者は伊藤博文のはたらきに注目しています。
明治17年に伊藤が宮内卿に就任すると、女性勅任官と勅任官の夫人に必要に応じて洋服で行事などに参加することを望み、宮中での女性の洋装化をはたらきかけました。その結果、明治19年に天皇が皇后の洋装を許可し、美子皇后は初めて洋服を着て、公の場にも姿を見せました。
「婦女服制のことに付て皇后陛下思食書」も出されましたが、ここでも洋装を1つの復古として正当化しています。衣と裳は西洋の服と同じだというのです
著者はこの「思食書」の存在を重視しており、ここから一部で女性の洋装化が進み、また、女性の服は上下一体でなければならないという固定観念が取り払われるきっかけになったとみています。
欧化政策によって女性華族や官僚夫人が洋服を着ましたが、明治20年代になると洋装をする女性は減っていきます。
これについては国粋主義の高まりで説明されることもありますが、著者は洋服が高価であったこと、コルセットなどもあって着心地が悪く健康にも悪かったこと、活動するに不便だったことなどが影響したと見ています。
ただし、活動するに不便なのは従来の和服も同じであり、ここから衣服改良の試みがなされていくことになります。
そうした中で女学生を中心に広がったのが、下田歌子が考案した袴姿です。袴姿は和服よりも動きやすく、また帯で締め付けないの健康的でもあります。こうして朝鮮袴などを参考にしながら、女子のはく袴というものが改良されていきました。
この他にもさまざまな改良服が提案されていますが、美的な面で支持を得られなかったこともあり普及はしませんでした。筒袖の採用も看護婦の制服など一部に限られています。
一方、着物に袴というスタイルは高女の学生の服装として定着していきます。袴は高女だけではなく小学校などにも広がり、さらに電話交換手など働く女性の間でも袴姿が一般的になっていきます。
ただし、袴スタイルは学生のうちに限られ、家庭に入れば和服になるというのが一般的でした。服装改良は一部に留まったのです。
日露戦争後になると、学生服以外にも鉄道関係の職員や銀行の小間使いなど、都市部では学生のような制服を着る者が増えてきます。
第一次世界大戦後の大正8(1919)年になると服装改善運動が盛り上がります。この背景には戦中に欧州で女性の職場進出が進んだことなどがあると考えられます。
また、文部省が生活改善運動に関与し、その一環として児童服や婦人服の改良も試みられました。
山脇高等女学校の創始者の山脇房子は大正8年に洋式制服を取り入れ、大正12年には全生徒が洋式の制服を着用するようになりました。和服に比べて経済的だったというのも着用が進んだ理由でした。
ただし、山脇の制服や改良服に対しては、その機能性を評価しつつも美的な面からするとどうか、という声が上がりました。
この美的な面というのは婦人向けの洋服の普及のネックになります。子どもや学生対象の洋服は普及するのですが、大人の女性が着るには物足りないものと考えられたのです。
女学生や子ども向けの服としてはセーラー服も普及し始めます。愛知の金城女学校では大正9年から洋服の着用を推奨しますが、そこで生徒の間に広がったのがセーラー服でした。翌年になるとフェリス女学院や福岡女学校がセーラー服を採用し、女子の制服としてセーラー服が広がります。
女学校では下級生のセーラー服を上級生が洋裁の授業で縫製する伝統も生まれ、経済的な負担も軽減されていたと言います。
このように大正期には子どもや女学生の洋装化はかなり進みますが、大人、特に既婚者において和服の優位はゆるぎませんでした。大正12(1923)年の関東大震災をきっかけに洋装が進んだとも言われますが、著者はこれを俗説として退けています。
震災から逃げる中で帯が解けて貴重品を落としてしまった、足を開くと裾が開いてしまうので貨車などによじ登ることができなかったことなどがあったと指摘されていますが、こうした言説は本書の152〜153pで指摘されているように、震災後数年経ってから、改めて洋装化を進めるために持ち出されています。つまり、関東大震災で人々の意識がすぐに大きく変わったというわけではないのです。
また、著者は昭和7(1932)年の白木屋百貨店の火災が洋装(下着を履くこと)を進めたという話とも矛盾があるといいます。関東大震災をきっかけに洋装が進んでいれば、白木屋百貨店の火災において和服の裾を気にして多くの女性が命綱から落ちてしまったということは成り立たないからです。
また、白木屋の火災をきっかけに下着を履くことが進んだという話も、多少は影響があった程度の話が確固たる「きっかけ」として語られるようになってしまっている状況だと言います。
大正後期〜昭和初期に登場したのがモダンガールとモダンボーイ、いわゆるモガとモボです。
モダンガールは耳下2、3センチくらいま髪を切る、顔には引き眉毛を書き、口紅を塗り、服装はもちろんワンピースなどの洋装でした。彼女たちの洋服姿は目立つものだったために、この時期に洋装が広がったという印象も受けます。
しかし、モガは基本的には「不良」とみなされたために、モガの存在は女学校の生徒が卒業後に洋服を着ることを逆に妨げる要因ともなりました。淡谷のり子はモガの代表的存在とされていますが、「モガというのは、不良性を帯びていると思われていたんです。札つき女ですね」(163p)と述べていますし、高い洋服を買い揃えるにはパトロンが必要でした。
一方、職業婦人向けの洋服も売り出されますが、いずれも制服っぽいのが特徴で、著者も「洋服というより洋式の制服といった方がよいくらいである」(166p)と書いています。
一方、この頃になると洋裁学校が生まれ始めます。
杉野芳子のドレスメーカー女学院は大正15年に始まり、徐々に生徒を増やしていきました。ただ、生徒は洋服を仕立てても学校には来てこなかったといいます。モガと誤解されることが怖かったのです。それでも昭和4年の卒業式の写真では全員ドレスを着ています(169p図27参照)。
文化服装学院も人気を集めた洋裁学校で、大正11年の文化裁縫学院に始まり、昭和11年に文化服装学院と改称しました。昭和11年に出版された服飾研究雑誌の『装苑』は昭和13か14年ころには1万5000部へと部数を伸ばしています。
また、この時期はシンガー・ミシンが普及した時代でもありましたが、文化服装学院の開設者の1人がシンガー・ミシン株式会社調査員だった遠藤政次郎です。
婦人之友社の調査によると、昭和12年5月1日の午後3時から4時まで、全国の都市で服装を調査したところ、婦人の洋服着用率は平均26%だったそうです。
この数字を見ると、ずいぶん洋服の普及が進んだようにも見えますが、著者はその内訳を見るべきだといいます。東京だと着用率25%のうち、女学生が48.6%、娘が27.5%、職業婦人17.9%に対して、若い主婦が4.4%、中年の主婦が1.6%であり(186p)、やはり洋服は若い世代中心のものなのです。
この背景には美的な問題以外にも、和服のほうが寒暖に対処しやすい、家が和室であるといった要因もありました。
昭和12(1937)年に日中戦争が勃発すると戦時ムードが強まります。国民精神総動員運動も始まり、大日本国防婦人会が活動を活発化させましたが、彼女らのスタイルは着物に割烹着というものでした。これは価格の差がわかる生地を隠す意味もあったといいます。
一方、百貨店では軍国調の服はあまり売れずに、華やかな洋服が売れるようになっていたといいます(もっとも全体としては和服が強かった)。
こうした状況に対して昭和15(1940)年のいわゆる七・七禁令で服の上限価格が指定されます。同年には国民服もつくられましたが、着用率は15%程度にとどまりました。
婦人標準服も模索されましたが、「日本的に」と考えると和服に近づき、「活動的に」と考えると洋服になってしまい、なかなかまとまらず、普及もしませんでした。しかも、戦争が長引くにつて、そもそも婦人標準服をつくる余裕もなくなっていきます。
女性の間では戦時中でもファッションへのこだわりが見られましたが、学生の服装はより軍国調に染まっていくようになります。男子はゲートルを巻くようになり、女学生はセーラー服にモンペという姿になっていきました。
モンペは大人の女性にも普及していきますが、「モンペ→ズボン→女らしくない」という男性からの批判も出ます。ただし、戦局の悪化とともにそういった事も言っていられなくなりました。
戦争が終わった昭和20年代後半に洋裁ブームが起こります。
戦時中、女性たちは工場や学校で軍服の縫製を行っており、また、自分たちの着る服の縫製も行っていました。こういった女性たちが時代の転換の中で洋裁の技術を身に着けたいと考えたのです。ドレスメーカー女学院では昭和21(1946)年1月に学校再開を決めたところ、1000人以上の志願者が集まったといいます。
さらにこの流れはアメリカからの洋服生地の流入、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維の登場によって加速し、地方でも夏服を中心に洋服が普及しました。
合成繊維の登場は機能的でファッション性にも優れた下着を生み、さらに靴の普及が洋装化を後押ししました。
そして、ミニスカートやジーンズなどが流行し、若い世代は成人式や結婚式など、特別なときにしか和服を着なくなります。
『サザエさん』のフネのように日常的に和服を着る世代も残りましたが、世代交代とともに日常生活で和服を着る人は減っていきます。
昭和28(1953)年、和服の売上1632億円に対し、婦人服・子供服は139億円でしたが、昭和39(1964)年には和服5276億円に対し婦人服・子供服は1866億円、昭和51(1976)年には和服2兆477億円に対し婦人服・子供服は2兆2013億円と、ついに逆転し、昭和63(1988)年になると和服2兆4990億円に対し婦人服・子供服5兆2030億円と大きな差がつきました(278p表4参照)。
このように本書は、日本の洋装化の歴史をたどりつつ、その要因を関東大震災などの特定の出来事に求めるのではなく、世代交代を中心とした進展として描いているところに特徴があります。
若い頃に着ていたものをその後も着続けるというのは納得のいくもので、例えば、自分もクールビズ以前に社会人になったために今でも当たり前のようにネクタイをしていますが、下の世代になるとネクタイは特別なときにするものという認識になっているかもしれません。
また、本書にたびたびでてくる「日本らしさ」「女性らしさ」の和服と「活動的」「機能的」な洋服という対比も、明治以来の日本のジレンマの1つを象徴しているようで興味深いです。