谷干城(”たにたてき”、または”たにかんじょう”。この本では本人が好んだ”かんじょう”の読みをとっています)というと、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読んだ人なら西南戦争時に熊本鎮台の司令官として西郷軍を相手に城を守り通した人物として印象に残っているかもしれませんし、歴史に詳しい人なら第1次伊藤内閣に初代農商務大臣として入閣したことを知っているかもしれません。ただ、ほとんどの人にとってそれ以上の印象はない人物でしょう。
そんな谷干城という人物について、特に彼の後半生の貴族院における活動を中心に掘り起こしてみせたのがこの本。一見するとわかりにくいながらも、実は一貫した考えのもとで政治活動を行った谷干城の姿を見ていくことで、谷干城という人物、そして明治期の議会政治の姿というものが見えてきます。
土佐藩の儒家であった谷家の分家の家に生まれた谷干城は、坂本龍馬の2歳年下で板垣退助と同い年。他の土佐藩士と同じように最初は尊王攘夷運動に身を投じ、坂本龍馬や後藤象二郎との関わりの中で徐々に考えを修正し、戊辰戦争では板垣退助らと共に甲府から奥州へと転戦します。
また、維新後は国内一致のために征韓論に賛成、その後の台湾出兵においても当初はその都督に予定されていました。
このあたりまでの谷干城の思想というか生き様というのは、ある意味でこの時代の人物のものとしては「平凡」といっていいもので、わざわざ振り返るようなものでもないものに思えます。
けれども、徴兵制に対して「良民の自主自由を得せ令む、実に未曽有の盛典と云べし」(75p)と述べ、徴兵の義務を負うことが国民の自由につながり、それが真の「民権的」な国家をもたらすという考えは、たんなる「保守主義者」的なものとも違います。
また、谷干城は初入閣以来、ほほ一貫して地租の引き下げを主張しています。日本という国家の基本は自作農にあり、重すぎる地租はその没落をもたらし、結果的に国家の基盤を破壊すると谷干城は考えたのです。
帝国議会の発足後、貴族院の議員となってからもその姿勢は一貫しています。
初期の帝国議会というと、藩閥政府の出してくる巨額の軍事費を含む予算を、民党が多数派を占める衆議院が削減させるという対立構図が知られていますが、貴族院でも谷干城を中心とした予算削減を求める動きがありました。このため谷干城らのグループは政府からは「民党」とみなされていたようです。
一方で、貴族院の権限を確保するために衆議院とも対立。私利私欲に走る板垣や星亨らの自由党の面々に厳しい批判を向けながら、政治批判の自由を確保するために新聞紙条例や保安条例の廃止を主張するなど、自分の信じる思想のもと政府にも政党にも批判の手を緩めなかった谷干城の姿は、「代表的明治人」という名に恥じないものです。
さらに足尾鉱毒事件にいち早く注目し、政府に対して救済を迫ったことも忘れてはならないことでしょう。
この本の面白さはそんな谷干城の姿を通じて、明治期における「民権派の変質」といったものが見えてくることです。
「民力休養」を掲げて軍事費の拡大に反対した民権派も、三国干渉後は「臥薪嘗胆」のスローガンのもとに増税と軍事費拡大を支持していきます。谷干城は一貫した姿勢とは違い、多くの民権派は「時勢」に従ってその考えを大きく転換させていったのです。やはり、民主主義が単純に平和的な国家をもたらすとは言えません。
個人的に谷干城の行動、そしてその儒教的な政治思想に賛同するわけではありませんが、この本によって谷干城という魅力的な人物を、そして一貫した彼の姿から明治という時代の一端を知ることができます。
谷干城―憂国の明治人 (中公新書)
小林 和幸

そんな谷干城という人物について、特に彼の後半生の貴族院における活動を中心に掘り起こしてみせたのがこの本。一見するとわかりにくいながらも、実は一貫した考えのもとで政治活動を行った谷干城の姿を見ていくことで、谷干城という人物、そして明治期の議会政治の姿というものが見えてきます。
土佐藩の儒家であった谷家の分家の家に生まれた谷干城は、坂本龍馬の2歳年下で板垣退助と同い年。他の土佐藩士と同じように最初は尊王攘夷運動に身を投じ、坂本龍馬や後藤象二郎との関わりの中で徐々に考えを修正し、戊辰戦争では板垣退助らと共に甲府から奥州へと転戦します。
また、維新後は国内一致のために征韓論に賛成、その後の台湾出兵においても当初はその都督に予定されていました。
このあたりまでの谷干城の思想というか生き様というのは、ある意味でこの時代の人物のものとしては「平凡」といっていいもので、わざわざ振り返るようなものでもないものに思えます。
けれども、徴兵制に対して「良民の自主自由を得せ令む、実に未曽有の盛典と云べし」(75p)と述べ、徴兵の義務を負うことが国民の自由につながり、それが真の「民権的」な国家をもたらすという考えは、たんなる「保守主義者」的なものとも違います。
また、谷干城は初入閣以来、ほほ一貫して地租の引き下げを主張しています。日本という国家の基本は自作農にあり、重すぎる地租はその没落をもたらし、結果的に国家の基盤を破壊すると谷干城は考えたのです。
帝国議会の発足後、貴族院の議員となってからもその姿勢は一貫しています。
初期の帝国議会というと、藩閥政府の出してくる巨額の軍事費を含む予算を、民党が多数派を占める衆議院が削減させるという対立構図が知られていますが、貴族院でも谷干城を中心とした予算削減を求める動きがありました。このため谷干城らのグループは政府からは「民党」とみなされていたようです。
一方で、貴族院の権限を確保するために衆議院とも対立。私利私欲に走る板垣や星亨らの自由党の面々に厳しい批判を向けながら、政治批判の自由を確保するために新聞紙条例や保安条例の廃止を主張するなど、自分の信じる思想のもと政府にも政党にも批判の手を緩めなかった谷干城の姿は、「代表的明治人」という名に恥じないものです。
さらに足尾鉱毒事件にいち早く注目し、政府に対して救済を迫ったことも忘れてはならないことでしょう。
この本の面白さはそんな谷干城の姿を通じて、明治期における「民権派の変質」といったものが見えてくることです。
「民力休養」を掲げて軍事費の拡大に反対した民権派も、三国干渉後は「臥薪嘗胆」のスローガンのもとに増税と軍事費拡大を支持していきます。谷干城は一貫した姿勢とは違い、多くの民権派は「時勢」に従ってその考えを大きく転換させていったのです。やはり、民主主義が単純に平和的な国家をもたらすとは言えません。
個人的に谷干城の行動、そしてその儒教的な政治思想に賛同するわけではありませんが、この本によって谷干城という魅力的な人物を、そして一貫した彼の姿から明治という時代の一端を知ることができます。
谷干城―憂国の明治人 (中公新書)
小林 和幸
