山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2013年04月

藤原帰一『戦争の条件』(集英社新書) 7点

国際政治学者である著者が戦争の条件、平和の条件を探った本。
 「探った本」と書きましたが、まさに「探った」だけで「答え」はほとんど出していません。この本ではさまざまなケースがあげられ、そこで国際政治における戦争と平和の難しさが語られています。

 こうした判断の難しいケースをあげながら思考していくという本は、サンデルの『これからの正義の話をしよう』以来、よく見かけるようになってきたと思いますが、サンデルが「正解」を示さないようでいてそれなりの「方向性」を示しているのに対して、この本は問題を提示しただけで「方向性」すらほとんど示していない部分も多いです。
 ですから、多少なりとも現実の国際問題に対する「解答」が欲しい人には不満の残る本だと思います。逆に、国際政治の難しさを認識するためにはいい本と言えるでしょう。

 例えば、第1章の「戦争が必要なとき」であげられている問いは次のようなものです。
問一 A国がB国に軍事侵攻を開始した。B国はどうすればよいだろうか。

問二 A国に軍事侵攻されたB国が、第三国C国に派兵を求めてきた。C国はどのような行動をとるだろうか。

問三 A国が、A国国民に対して大規模な虐殺を開始した。B国はどのような選択をとるだろうか。

問四 A国では独裁政権の下で極度の人権弾圧が続き、経済的逼迫もあって国民は飢餓線上の生活を強いられている。B国はどのような選択をとるだろうか。
 先日紹介した松元雅和『平和主義とは何か』の中で説明されていた「絶対平和主義」ならば、すべてのケースにおいて軍事力の行使に反対するでしょうが、そうでもない限りそれぞれのケースは一概には判断できないと思います。
 著者も問一のケースこそ、「現実には、この問いの答えは、はっきりしている。反撃だ」(13p)と述べていますが、それ以外のケースについては、その判断の難しさをさまざまな点から指摘しつつ、答えを出さずに終えています。

 以下、第2章では「覇権国と国際関係」、第3章では「デモクラシーの国際政治」、第4章では「大国の凋落・小国の台頭」、第5章では「領土と国際政治」といった問題をとり上げています。
 そんな中でやや毛色が違うのが、第6章の「過去が現在を拘束する」と、そこからつづく第7章の「ナショナリズムは危険思想か」の部分。

 ここでは「問い」という形ではなく、いくつかの主張が「議論」という形でとり上げられています。例えば第6章では「議論三 戦争で加害行為を加えた側が、その事実を認め、謝罪し、補償を行うことが歴史問題を解決に導く。」、「議論四 関係当事国の間で共通の歴史認識を探り、育てることが歴史問題を解決に導く。」といった主張がとり上げられ、分析されています。
 
 ここでも著者は特定の立場をとることはしませんが、第7章の「ナショナリズムは危険思想か」では、かなり踏み込んでナショナリズムの欺瞞性が指摘されています。
 「その国民の固有の歴史を学ぶべきだ」といった議論に対して、「国民固有の数学、物理学、生物学を学ぶべきなのか」といった議論がぶつけられ、「民族自決」についても、現実にはそう簡単にはいかないということが示されています。そしてこの章は次のように結ばれています。
 ナショナリズムほど鮮やかに組織的な自己欺瞞に成果を収めた政治的イデオロギーは存在しない。どれほどウソに基づいているとしても、当事者にはそのウソは見えないのである。(164p)

 著者が嫌うのは国際政治という領域における問題の単純化です。それぞれの戦争や紛争にはそれぞれの背景や、望ましい解決方法があるにも関わらず、マスメディアでは単純な原理・原則にも続いた判断が好まれます。そしてナショナリズムはその単純化の最たるものです。
 この本はそうした「問題の単純化」に抗した本と言えるでしょう。

戦争の条件 (集英社新書)
藤原 帰一
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海部美知『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書) 7点

 「web2.0」につづくIT業界のキーワードとして注目されている「ビッグデータ」。最近、NHKスペシャルでも『震災ビッグデータ』という番組がありましたし、日本でも世間に流布してきた感じです。
 帯にはその「ビッグデータ」について、「シリコンバレー在住の著名コンサルタントがわかりやすく最新事例を紹介。アップル、フェイスブックの意外なアキレス腱?!グーグル、アマゾンの存在感。新たな情報革命に日本はどう立ち向かうのか。」と書いてありますが、この煽り文句から受ける印象と本文から受ける印象はちょっと違いますね。
 
 著者の海部美知は「シリコンバレー在住の著名コンサルタント」ながら普通の人の目線で物事を分析できる人で、たんに技術を解説したり、「世界の変革」を熱く語ったりするのではなく、「ビッグデータ」を身近な例で説明しつつ、同時にGoogle、Amazon、Apple、Facebookのビッグデータを使ったビジネス戦略についても語ってくれています。
 今までの「ビッグデータ」の話というのは、「スーパーでおむつの隣にビールを置いたら売れた!」みたいな話から、「ビッグデータでこんなことまでわかります」というふうに技術を売り込むようなものが多かったですが、この本は技術の中身を一般の人に噛み砕いて解説しつつ、それがIT業界と私達の生活にどのような影響をおよぼすのか?といったところに重点を置いています。

 「ビッグデータ」について、著者はまず「人間の脳で扱える範囲を越えた膨大な量のデータを、処理活用する仕組み」(12p)と説明しています。
 そしてさらにビッグデータを「新しい石油」という比喩で紹介しています。いまはまだその使い道が十分にわかってはいないが、使い方によっては社会の生産性や効率を大幅に引き上げる「資源」だというのです。

 現代の私たちは、日々ネットに様々な情報をアップし(ブログは書いていなくてもメールを書いたりTwitterでつぶやいている人は多いと思います)、携帯電話やカーナビの位置情報は刻々と蓄積されていきます。さらにクレジットカードやポイントカードの利用、Suicaなどによる移動、私たちは様々な形で情報を吐き出しているわけです。
 例えば、Twitterで一日に100も200もツイートするような人が、そのツイートをすべてノートに書き留めていたとしましょう。その人が余程の有名人か、将来有名人にならない限り、基本的にそのノートは他人にとってはゴミでしょう。しかし、相当数の人のツイートが集められそれが検索・集計できたとしてたら、それは世間の流行をキャッチするための有用な「資源」となりえるでしょうし、それ以外にももっとすごい使い道があるかもしれません。「新しい石油」とはそういうことです。

 Googleは、人びとがメールの受信ボックスの容量を開けるのに四苦八苦していた時代に、無料で1GBまで使えるというGmailを2004年にリリースして人々を驚かせました。Googleは人々のメールというデータが「資源」となることに気づいていたのです。
 Googleはメールや人々の検索行動から情報を集め、それを使ってネットを見ている人に合わせた広告配信を行い、ネット界の「巨人」に成長しました(一方、個人にターゲティングできないと、ページビューの少ないページはエステや消費者金融、出会い系などの「スパム」で埋まってしまい「スラム化」する。MySpaceはそれで没落した(59ー61p))。

 ただ、もちろんメールの中身などはプライバシーに引っかかります。Googleもソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の分野においては苦戦を強いられていますし、Facebookも個人のさまざまな人間関係や生活記録といった宝の山を手にしておきながら、「それをいかに使うのか?」という部分では苦戦しているというのが著者の見立てです。
 また他の企業では、Appleは「クラウド」が実は苦手であり、ビッグデータの収集と展開では遅れを取っていると見ていて、Amazonに関してはビックデータの収集だけではなく、ビックデータを支えるインフラとしての存在感を増していると見ています。
 この辺りの分析は非常に面白いと思います。

 さらに後半では、日本を含めた世界でのビッグデータの活用例、ビッグデータで使われる技術の簡単な解説、そして改めてプライバシーとビッグデータの問題を論じています。
 プライバシーとビッグデータの問題に関しては、ビッグデータを活用したシステムが「迷惑ストーカー」になるのか「忠実な執事」になるのか、その分かれ目は「信頼関係の有無」ではないか?という常識的な答えを出すにとどまっていますが、「ビッグデータに一体どこまでのことができるのか?」という全貌がわかっていない状況では仕方のないことでしょう。
 ビッグデータの現在の状況を知り、将来の姿を想像することができる、読みやすくて面白い本だと思います。

ビッグデータの覇者たち (講談社現代新書)
海部 美知
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片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』(光文社新書) 9点

  前作『円のゆくえを問いなおす』(ちくま新書)でも丁寧で鋭い分析を見せていた片岡剛士の新刊は新書における「アベノミクス分析・一番乗り」の本にして、 しばらくこれで十分だろうと思わせる本。前作は、安達誠司『円高の正体』(光文社新書)とやや内容がかぶっていて遅れを取った感じもなくはなかったのです が、今作は出版のタイミングも内容も申し分ないと思います。
 
 「アベノミクス」は、「大胆な金融緩和」、「機動的な財政政策」、「民間投資を喚起する成長戦略」の「3本の矢」からなっており、その中でも注目が集まっているのが、新しく総裁に就任した黒田東彦総裁による「異次元緩和」とも呼ばれる「大胆な金融緩和」です。

 実際、この「大胆な金融緩和」が「円安・株高」の流れをつくり出し、経済に明るい展望をもたらしていますが、この政策に対しては批判や疑問も多く寄せられています。
  その中でも、「今まで日銀はさんざん金融緩和をやってきたのに景気が回復しなかったのだから金融政策は無力である」という意見と、「大胆な金融緩和はミニ バブルをもたらすだけで生産性が伸びなければGDPは増えない」という意見、さらに「アベノミクスは再分配の政策が弱く、一部の金持ちにしか恩恵が行き渡 らないのではないか?」という意見は代表的なものだと思います。

 では、この本ではそうした疑問に対してどう答えているのか?
 簡単に見て行きたいと思います。

 まず、「今まで日銀はさんざん金融緩和をやってきたのに景気が回復しなかったのだから金融政策は無力である」という意見。
  これについて著者は、プラザ合意からバブル景気、そしてバブル崩壊後の経済低迷の時期の日本経済に関して、「3×3のフレームワーク」という複合的な視点 を使って分析することで、日銀の金融政策がいかに情勢分析を誤り、そして緩和が足りなかったかということを指摘しています。
  また、220p以下では白川総裁のもとで行われた2013年1月22日の日銀政策決定会合で打ち出された「2%の物価安定の目標」がいかに不十分で、問題 の多いものだったかということが説明されており、今までの日銀の金融緩和と黒田日銀の金融緩和の中身の違いがわかるようになっています。

 次の「大胆な金融緩和はミニバブルをもたらすだけで生産性が伸びなければGDPは増えない」という意見。
 これに対して、この本では市場の動きを株や債券・土地などのストック市場と、生産活動や設備投資・雇用などのフロー市場に分けて考えています。
 ストック市場は株価の動きなどを見ればわかるように実体経済を先取りして動きます。そこでは人びとの「予想」が重要な役割を果たし、その市場は大きく動きます。いわば、ストック市場は「未来」を先取りしています。
 一方、フロー市場はそうはいきません。景気の減速が明らかになったからといって、社員の給料はすぐさま引き下げたり、販売する商品の価格を一気に改定するというのは簡単なことではありません。フロー市場は「過去」に強く影響され、粘着的な性質を持つのです。
 ですから、景気が上向く時はまずはストック市場が反応し、その後にフロー市場が動き出すことになります。景気回復が株価の上昇などから始まるのはごく自然なことなのです。

 さらに「生産性」については次のようにコメントしています。
 潜在成長率に影響する要因である「生産性」も、(景気の)循環変動と密接な関係性を持っています。生産性は、機器や設備などの投資によって向上します。ですから、投資が停滞すると生産性も停滞してしまいます。(74p)
  これは非常にシンプルでわかりやすい理論ではないでしょうか。「生産性」をキーワードに使うエコノミストは、やれ「イノベーションが必要だ!」、やれ「解 雇規制の緩和と人材の流動化が必要だ!」などと主張しますが、一番確実な生産性を上げる方法は生産設備の更新ですよね。
  そして、この投資をするかどうかは現在と未来の景気動向、金利、手持ちの資産などによって総合的に判断されると思いますが、「大胆な金融緩和」は景気の見 通しをよくし、金利を低下させ、株などの手持ちの資産の価値を高めます(211pの「リフレ政策の経路」の図を参照)。
 もちろん株価の上昇ほどに実体経済が上向かない可能性もありますが、少なくとも人びとの「未来」に対する見方を変え、生産性を上げるための設備投資を促進する効果はあるといっていいのではないでしょうか?

 最後は「アベノミクスは再分配の政策が弱く、一部の金持ちにしか恩恵が行き渡らないのではないか?」という意見。
 これについて著者は「現時点で著者が考えるアベノミクスの最大のリスク要因は、所得再分配政策を軽視しているのではないかという点です」(204p)と書き、生活保護費の引き下げなどに疑問を呈しています。
 また、アベノミクスが掲げる「機動的な財政政策」に関しても、著者はその効果を疑問視しており、著者の支持するアベノミクスの政策が「大胆な金融緩和」であるということが明確になっています。

 この「財政政策がなぜ効かないのか?」という問題についても紙幅を割いて分析してありますし、予定されている消費財増税の影響、TPPに参加した時の経済効果、エネルギー政策が経済にもたらす影響など、現在話題に上がっている経済問題が丁寧に分析してあります。
 さらに1985年のプラザ合意以降の日本経済の分析も読み応えがあり、アベノミクスに限らず、近年の日本経済を幅広く考えることが出来る本になっていると思います。
 ほんのちょっと文章や構成が読みにくく感じる点もあるのですが、非常に中身の詰まった新書で、ここしばらく日本経済に関してはこの本を片手に考えればいいのではないか、と思える本です。

アベノミクスのゆくえ 現在・過去・未来の視点から考える (光文社新書)
片岡 剛士
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木村草太『憲法の創造力』(NHK出版新書) 6点

 なかなか面白い本なのですが、ところどころに著者の勇み足的な部分があって正直もったいないと思います。憲法そのものについて論じている部分に関しては、しっかりしていると思うのですが、そこから政策的な部分に踏み込んだ時にすべってしまっていて、印象を悪くしてしまっています(そういう部分に目をつむれば7点かな)。

 目次は以下の通り。
序章 憲法とは何か?
第1章 君が代不起立問題の視点―なぜ式典で国歌を斉唱するのか?
第2章 一人一票だとどんな良いことがあるのか?―クイズミリオネアとアシモフのロボット
第3章 最高裁判所は国民をナメているのか?―裁判員制度合憲の条件
第4章 日本的多神教と政教分離―一年は初詣に始まりクリスマスに終わる
第5章 生存権保障の三つのステップ―憲法25条1項を本気で考える
第6章 公務員の政治的行為の何が悪いのか?―国民のシンライという偏見・差別
終章 憲法9条の創造力
 基本的に一つの章ごとにその問題に対する最高裁の判例を取り上げて、その妥当性を検討する内容になっています。 

 例えば、第1章の「君が代不起立問題」では、平成19年のピアノ伴奏拒否事件に対する最高裁の判決、平成23年の起立・斉唱命令判決をとり上げて、「君が代問題」を「思想・良心の自由」の問題としてとり上げるのではなく、一種の「パワハラ」と捉えることはできないだろうか?と論じています。
 個人的にはその見方はやや厳しいのではないか?とも感じましたが、大阪のように口元チェックとかまでやるようになると、確かに「パワハラ」的なものとして捉えることも可能かもしれません。

 このようにこの本は最高裁の判例を解説しながら、著者の主張をそれにぶつける形で構成されています。
 第2章の「衆議院議員選挙の一人別枠方式の是非」のように、個人的には同意できない部分も多いですが(著者は政治決定の「正解」の発見と「正統性」の調達に資するという点から一人別枠方式によって地方に過重に議席を配分することも正当化されうる、と述べているけど、政治においてクイズのような「正解」を想定するのは間違っていると思う)、公務員の政治的行為について論じた第6章などは、有名な猿払事件だけではなく、堀越事件や世田谷事件といった最新の判例も検討していて興味深いですね。

 ただ、最初に述べたように引っかかる部分も多いです。
 例えば、裁判員制度が合憲か?違憲か?について論じた第3章。著者は「より良い裁判」のために導入された裁判員制度が、立法の中でその目的が「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」に変質したことを批判し、「国民は「勉強」のために意に反する苦役に服させられるのか」と疑問を呈しています。 
 これは確かに一理あるとして、著者は裁判所のホームページの「刑事裁判には近寄りがたい印象」があったという理由づけを批判し、「もし、私が担当者だったら、裁判官だけでは適切な事実認定や法適用・量刑ができなくなったために、適切な「内容」の裁判をするためには、一般国民の協力がぜひとも必要なのだと書くだろう」(104p)と続けています。
 
 でも、もし著者が本当に担当者だったら、あるいは著者が最高裁の長官だとしても絶対にこの文章は書けませんよね。今の日本の制度では、裁判員制度は第一審のみで、二審以降は裁判員のみの裁判となります。つまり、著者の言う内容は二審以降の裁判の正統性を否定することになるはずです。
 もちろん、議論をわかりやすくするためのサービス精神からきたレトリックなのかもしれませんが、個人的にあまり好きではありません。

 また、第4章では大澤真幸の「宗教論」などを下敷きにして宗教について論じています。その中で、仏教で人を超越する存在は仏だけであり、「天照大御神や素盞鳴尊(スサノオノミコト)などの日本神話の神々が登場する余地はない」(120p)との記述がありますが、すぐに「本地垂迹説!」と言いたくなりますよね(本地垂迹説だと天照大御神は大日如来の化身だったりするはず)。
 ここでは著者の「日本的多神教論」よりも、あくまでも憲法の話を聞きたかったですね(例えば、「愛媛玉串料訴訟」はスルーされている)。

 憲法や法学の入門書として面白く欠けていると思いますが、なんというか、「理論の切れ味」みたいなものを必要以上にアピールしようとして、間違ったものまで斬ってしまっているような感じがありました。

憲法の創造力 (NHK出版新書 405)
木村 草太
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飯倉章『黄禍論と日本人』(中公新書) 7点

「アジア、そしてその中で近代国家として勃興した日本は欧米諸国からどのように見られていたのか?」
 この問いに対して欧米の新聞や雑誌に載った諷刺画を見ることによって答えようとしているのがこの本。日清戦争から第1次世界大戦までの日本のイメージの変遷と、「黄禍論」がいかなるものであったかがわかります。

  最近、坂野徳隆『日本統治下の台湾』(平凡社新書)など、諷刺画をあつかった新書をいくつか見かけるようになりましたが、この本の特徴は一つの雑誌や一つ の国ではなく、ヨーロッパ、アメリカ、さらにはオーストラリアまでさまざまな国の新聞や雑誌から日本についてあつかった諷刺画を集めてきている所。そのお かげで、日本のイメージの変遷だけでなく、当時の国際情勢も見えてきます。

 例えば、「黄禍論」を言い出したのはドイツの皇帝ヴィルヘルム2世で、彼は「ヨーロッパ諸国民よ、汝らのもっとも神聖な宝を守れ!」という次のような絵をつくり各国の政治指導者に配りました。
   
     Voelker_Europas
 一番右に見える「龍に乗った仏陀(?)」が、日本と中国が手を組んだ「黄禍」のイメージなわけですけど、解説によれば大天使ミカエルの後に続く女性たちは、右からフランス、ドイツ、ロシア、オーストリアだそうで、そのオーストリアが手を取っているのがイギリスです。
 ここでは黄禍の恐怖が描かれるとともに仲が冷えていたドイツとロシアの親密さがアピールされ(ドイツは当初、ロシアから日本への三国干渉に誘われなかった)、三国干渉に加わらなかったイギリスを仲間に引きこむような仕草が描かれています。
 つまりこの絵は「黄禍」をアピールするだけではなく、ヴィルヘルム2世の国際政治における「希望」を表す図でもあるのです。

 一方、アメリカでは、すかさずこの絵を真似て「近寄るな!モンロードクトリンを遵守せよ」というヨーロッパ諸国がアメリカに押し寄せてくる諷刺画が掲載されています。この時点ではアメリカの脅威は「黄禍」ではなくヨーロッパなのです。

 このようにこの本を読むと、当時の諷刺画が複雑な国際情勢を反映したものだということがわかります。
 諷刺画だけだとわかりにくいものもありますが、この本ではとり上げている諷刺画すべてを説明してくれているので、諷刺画とともに当時の国際情勢を理解することができます。

 そしてやはり興味深いのが日本のイメージの変遷です。
 日清戦争が終わるまで、多くの場合日本はサムライまたは軍服姿の軍人のイメージで描かれ、辮髪姿の中国人と争ったりしています。このころの諷刺画はアジア人同士の対立を揶揄するようなものが多いです。
  ところが、義和団事件のころになると欧米列強に付き従うサムライ、あるいは小さな軍人として描かれるようになり、日英同盟後はイギリスというライオンに付 き従うキツネ、あるいはイギリス人男性に従う女性として描かれたりもしてます。相変わらず卑小な姿で描かれることが多いですが、その位置づけが変化してい るのです。

  さらに第一次世界大戦で日本が協商側で参戦すると、敵国となったドイツではフランスを女性に日本を男性に見立てた諷刺画も登場します。ドイツに苦戦するフ ランスが、日本を誘惑、あるいは日本に懇願しているのです。また、旭日として描かれたり、鷹として描かれたりもしています。もちろん狡猾そうな軍人として 描かれるケースもあるのですが、日本の相対的な地位の上昇が諷刺画からも窺えます。

  ただ、このような諷刺画も国民同士の対立を煽る側面もあるわけで、この本の第7章でとり上げられている日系移民の問題がまさにそう。問題の発端は、日本人 を現地の学校でなく中国人や朝鮮人と同じ「東洋学校」に隔離するという決定が、日本人のプライドを傷つけ、さらにその反発がアメリカ人の恐怖心を煽ってい きます。
 諷刺画の中にはこの問題の滑稽さを揶揄するようなものもありますが、「今にも日本が攻めてくる」といったイメージのものも数多くあります。「滑稽」だけでは済まないのも諷刺画の特徴です。

 やや諷刺画の図版が小さいという欠点はありますが、諷刺画を通して近代日本の歩みを振り返るのは面白い試みです。また、当然ながら諷刺画の出来不出来を楽しむことができますし、いろいろな楽しみ方が出来る本だと思います。

黄禍論と日本人 - 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか (中公新書)
飯倉 章
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松元雅和『平和主義とは何か』(中公新書) 6点

 副題は「政治哲学で考える戦争と平和」。「政治哲学」との言葉が入っているように、例えば、同じ中公新書の細谷雄一『国際秩序』と比べると、同じ国際政治を扱っていながらそのアプローチの仕方はずいぶん違います。
 「愛する人が襲われても無抵抗でもよいか?」「正しい戦争は存在するか?」「虐殺を武力を使ってでも止めないのは無責任ではないか?」といった問いに対して、平和主義の立場から応答するスタイルはまさに「哲学」的で、この本でも引用されているマイケル・サンデルのスタイルを思い起こさせます。

 内容に関しては終章の「結論と展望」の部分に非常にまとまった記述があるので、前半に関してはそれを引用しておきます。
 第一章では、平和主義の大まかな傾向として、より実存的・宗教的・革命的な性質をもつ「絶対平和主義」と、より実利的・世俗的・革命的な性質をもつ「平和優先主義」の区別を紹介するとともに、本書の主な焦点を後者の方に置いた。第二章と第三章では、平和主義が戦争に反対する論拠を、義務論の観点および帰結主義の観点から検討した。第一に義務論者の平和主義は正当防衛を含む一定の状況下では戦争の殺人を免責する余地を認めるが、にもかかわらず戦争の殺人それ自体が罪悪であり続けることを私たちに思い出させる。第二に、帰結主義の平和主義は、たとえ戦争に絶対反対でなくとも、大半の戦争が国民の利益に繋がらず、合理的にみて擁護できないことを強調する、(209ー210p)

 ここで「絶対平和主義」を代表するのがトルストイ、「平和優先主義」を代表するのがバートランド・ラッセル、義務論者を代表するのがカント、帰結主義者を代表するのがベンサムです。
 最初にサンデルの名前を出しましたが、義務論と帰結論の両方の立場を紹介して問題にアプローチするやり方はサンデルの『これからの正義の話をしよう』に近いですね

 そして、第四章では「正しい戦争もあるのではないか?」という正戦論、第五章では「平和のためには武力が必要だ」という現実主義、第六章では「人命や人権を守るための武力行使は正しい」という人道介入主義と対決します。
 著者は、国家やコミュニティを自衛するための戦争は正しいと考える正戦論に対しては、「守るべき価値の規定としてコミュニティをあげることは正しいのか?」、「正しい戦争とそうでない戦争は区別できないのではないか?」という議論をぶつけ、現実主義に対しては「個人の生存と同じように国家の生存を第一の目的と考えていいのか?」、「パワー(軍事力)に頼ることが本当に最善なのか?」という議論をぶつけています。
 個人的に、最後の「パワー(軍事力)に頼ることが本当に最善なのか?」という議論は弱いと思いますが(パワーが衝突する世界はもちろん危険だけど、パワーがない世界というのも危険だと思う。細谷雄一『国際秩序』に「ただ単に力を放棄するだけでは、正義は生まれない。「力を放棄」した結果、そこに生まれるのは、正義ではなく「力の真空」である。」(215p)という言葉がある)、全体的に平和主義への批判を考えなおさせる議論ができていると思います。

 けれども、第六章の人道介入主義に対する議論はやや強引だと思います。
 著者も認めている通り、人道介入主義を否定するのは「ある種の平和主義」にとっては難しいものです。確かに武力介入という「作為」をすることによって人が死ぬよりは、何もしないという「不作為」によって人が死ぬほうがまだマシだという議論もあります(安楽死における消極的安楽死はOKだが、積極的安楽死は許されないという議論がこの形)。
 しかし、著者も言うように「不作為」もまた一種の「作為」であり、人道介入主義に対してこの議論が有効だとは思われません。
 そのため、著者は「非衛生的な水と粗悪な衛生設備が原因で死亡する子どもの数は年間180万人以上に上り、武力紛争の不犠牲者をはるかに上回っている」といったデータを示し(195p)、非軍事介入の重要性を訴えます。

 ただ、これはどうなんでしょうか?ルワンダで虐殺が起きているさなか、それには目をつぶって例えばインドで浄水場を建設すれば、「責任」を果たしたことになるのでしょうか?おそらく、多くの人はそれでは「責任」を果たしていないと考えると思います。

 が、そもそもルワンダの虐殺にも、インドの衛生環境にも「責任はない」という考えもありだと思います。
 先ほど「人道介入主義を否定するのは「ある種の平和主義」にとっては難しい」と書きましたが、「自分の身がかわいいから戦争には加担しない」という「無責任な平和主義」というのも存在するはずです。人道介入主義に対しては「それについて私は責任がありません」と言えばいいのです。
 この本の第四章では、ニーバーの「非暴力は無責任である」という批判に対して、良心的兵役拒否者も社会奉仕活動なども行うと主張して、「平和主義は無責任ではない」としていますが、個人的に平和主義の哲学的な一つの基盤は「他者に対する責任」といった概念を拒否する個人主義なのだと思います。
 もちろんこれは立派な考えとはいえないかもしれませんし、「正しい」とも言い難いものですが、哲学的に考えるのであれば、「立派でない平和主義」についての検討も欲しかったです。

平和主義とは何か - 政治哲学で考える戦争と平和 (中公新書)
松元 雅和
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
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