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2024年03月

中野博文『暴力とポピュリズムのアメリカ史』(岩波新書) 7点

 副題は「ミリシアがもたらす分断」。「ミリシア」と言っても多くの人にはピンとこないかもしれませんが、これは「民兵」と訳される事が多い言葉です。ただし、アメリカでは州軍も「ミリシア」と呼ばれています。
 本書はアメリカにおける2つの「ミリシア」について説明しながら、人民武装の歴史と、それが2021年の連邦議会襲撃事件につながっているさまを描き出しています。
 
 州軍に関する歴史的な説明が中心であるため、もう少し近年の民兵の動きについても知りたいという人もいるかもしれませんが、州軍の歴史を追うだけでもアメリカという国の特殊性が十分に見えてきて面白いと思います。

 目次は以下の通り。
はじめに
第1章 現代アメリカの暴力文化――2021年米国連邦議会襲撃事件の背景
第2章 人民の軍隊――合衆国憲法が定める軍のかたち
第3章 デモクラシーが変貌させたミリシアの姿
第4章 転機としての南北戦争
第5章超大国アメリカのミリシア
おわりに――問い直される人民武装理念

 アメリカ合衆国憲法修正第2条には「よく規律されたミリシアは、自由な国家の安全にとって必要であるので、人民が武器を保有し携帯する権利を侵してはならない」(vii p)とあります。
 銃規制をめぐる問題でよくとり上げられる条文ですが、この条文が想定しているのは個人として武装と言うよりはミリシアを組織して武装する権利を認めたものです。
 
 このようなミリシアは基本的に州軍に吸収されていき、州軍も次第に連邦政府のコントロール下に置かれることになるのですが、一方で、90年代から極右的な民兵(ミリシア)の動きも活発化しています。
 本書の第1章がとり上げるのは、このような極右的なミリシアです。

 2021年1月、トランプ大統領に扇動された人々が連邦議会を襲撃するという衝撃的な事件が起こりました。
 トランプは選挙後にエスパー国防長官を解任しており、そのために軍の行動は遅れ、州軍が出動していたものの効果的な対処はできませんでした。

 アメリカの中には政治的暴力を許容する風潮があるといいます。
 連邦議会襲撃事件を起こしたのは右派ですが、こうした風潮は左派にもあり、BLM運動の中で、シアトルのキャピトルヒル地区では抗議者との衝突を避けるために警察官が撤退してしまい、地区の治安が悪化するという事態も起きました。

 ただし、民間ミリシアの多くは民主党を敵視する極右団体です。
 この極右の民間ミリシアが数多く創設されるようになったきっかけは1992年にアイダホ州で起こったルビーリッジ事件です。
 鉄砲の不法売買の疑いをかけられたランディ・ウェヴァーが連邦保安官やFBIの捜査官と銃撃戦になり、連邦保安官やウェヴァーの息子や妻が亡くなった事件でしたが、実はFBIのおとり捜査がきっかけで、ウェヴァーの息子の死についても捜査機関側に問題があったことが明らかになったのです。

 この事件から2ヶ月後、コロラド州のエステスパークに右派の集団が集まり、政府の不法行為に対抗する「小規模の武装ミリシア」を全米各地につくっていくことが呼びかけられます。
 こうした動きはクリントン政権が同性愛者の軍勤務を認める政策を打ち出したことや、銃規制を行うブレイディ法が成立したことなどにより、文化闘争的な色彩を帯びながら加速していきます。

 この民間ミリシア創設の動きは、1995年のオクラホマ連邦政府ビル爆破事件の犯人がミリシア団体員であったことや、2001年のブッシュ政権の成立によって下火になります
 しかし、2009年にオバマ政権が成立すると再び活性化します。そして、「反民主党」という要因が大きいのであれば、2017年のトランプ政権の成立によって再び下火になってもおかしくはなかったのですが、ミリシア団体を煽るようなトランプの発言もあって緩やかな減少にとどまりました(25p図1−4参照)。

 このような民間武装ミリシアの拡大に関して、著者はナチスや共産党の党員が武装していたワイマール憲法期のドイツを想起させるとしています。
 こうなるとこのような武装ミリシアの取り締まりが必要ではないか? となるわけですが、先述のように憲法修正第2条がある以上、武装は合法ですし、政治家や裁判官の中にもこうした民間ミリシアの活動に理解を示すものが多いです。また、警察の予算不足や、警察の中にも理解者がいることもミリシアの取り締まりが鈍い原因です。

 第2章以降では、こうしたミリシアの来歴を合衆国建国前からたどっていきます。
 アメリカに軍隊が設置されたのは1636年12月13日だとされています。現存する最古のミリシアが創設された日付です。
 もともとイギリスは植民地の成年男子にカンパニーと呼ばれる100人程度の戦闘集団の設置を義務付けていました。1630年に成立したマサチューセッツ植民地において、複数のカンパニーを連隊(レジメント)としてまとめて運用するようになりますが、これができたのが先述の日付というわけです。

 第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズは日記の中で、ミリシアを住民自治、学校教育、キリスト教会と並ぶ共和主義の支柱と記しています。
 このようにミリシアは共和主義を体現するものとして考えられていましたが、同時にミリシアが先住民に対して強硬な姿勢を取るように総督府に圧力をかけるような事件もありました。

 17世紀後半以降、植民地の人々はイギリス本国が行う戦争などに巻き込まれることになります。
 こうなると小規模な部隊では足りなくなり、植民地軍が組織されました。ミリシアは自衛のための組織であり、長期の遠征には向いておらず、新しい戦術をとることも難しかったからです。
 
 独立戦争において、ミリシアは愛国派(イギリスに抗議する者)と忠誠派(イギリスを支持する者)に分裂して戦いました。
 革命思想に対する賛否とともに、官職をめぐる争いなども含む形で多数派工作が行われることになります。
 
 ジョージ・ワシントンのもとで大陸軍が結成され、苦戦しつつも、フランスなどの助力を得て独立を達成しました。
 この大陸軍は独立を勝ち取るためにつくられたものでしたので、独立後に大陸軍の存続が問題になりました。ハミルトンは一定規模での存続を求めましたが、結局は一連隊700名規模となり、その定員も十分には満たせませんでした。
 合衆国憲法でも、大統領がミリシアの最高司令官であると規定されたものの、ミリシアの士官の任命権などは州政府に留保されることになりました。

 このようなミリシアについて、1872年にアメリカを訪れた岩倉使節団は「我が消防仕組に彷彿たり」(73p)と書いています。
 ただし、1812年の対英戦においてミリシアの限界は露呈していました。この戦いで活躍したアンドリュー・ジャクソンは「ミリシアが役に立つと感じられるのは、つなぎとしてだけです」(76p)と述べています。
 それでも、常備軍が政府によって悪用されるという警戒心は強く、常備軍の整備は進みませんでした。

 一方、ミリシアの訓練も形骸化するようになり、1820年代のペンシルヴェニアでは夏の集中訓練日が家族ぐるみのレクリエーションの機会になっていたといいます。
 都市部ではミリシアを負担に感じる層も増え、1838年にボストンでは今までのミリシアに代わって警察業務を担う初の警察署が誕生しています。

 18世紀後半、アメリカではウイスキーへの課税に抗議したウイスキー反乱などが起きますが、1820〜30年代になって普通選挙が広まると政府への反乱は減少していきます。
 しかし、市民間の騒乱はおさまらず、奴隷制や宗派対立や反英主義などを原因とする暴動が起きました。
 こうした中で、州政府もすべての白人男子をミリシアにするのではなく、一定の人々を選ぶようになってきます。ただし、選び方は独特で有志の団体を州政府が公認するというものでした。

 1846年から始まったメキシコ戦争においても、ミリシアがその主力となりましたが、このミリシアは志願兵であり、さまざまな人が志願兵を募る形で人を集め、それが公認されていきました。
 当時にアメリカが不景気だったこともあって、生活に困窮した者や、特に移民してきたばかりで米国籍をまだ持たない者が数多く志願しました。メキシコ戦争では兵卒の半分が米国籍をもたない移民だったといいます。

 この志願兵の部隊は虐殺事件などを起こすこともありましたが、部隊の指揮官が地域の有力者であることも多かったので、処罰をすることも難しかったといいます。
 志願兵の士官から政治家になるケースも多く、正規軍としては扱いにくい存在でもありました。

 こうした軍のあり方が問い直されたのが南北戦争です。
 例えば、北軍の将軍として名高いシャーマンやグラントは、士官学校の卒業生でしたが開戦時は民間人でした。こうした士官学校の卒業生などが政治家などに伝手で正規軍やミリシアの指揮官になっていきました。
 地域によっては奴隷制への賛成派と反対派が入り混じっており、ミリシアの動員が難しいこともありました。

 政治的な駆け引きもさかんになされており、南軍に対する容赦ない戦いぶりから「野獣(ビースト)」との異名を取ったベンジャミン・バトラー将軍も元は民主党員でありながら、ミリシアを率いてリンカンのもとに馳せ参じ、軍務の経験がほとんどないにもかかわらず少将の地位を得ています。
 
 このように南北戦争時のアメリカにおける軍は非常に雑多な寄せ集めのようなもので、ガリバルディが率いる外国人義勇兵もいましたし、今までミリシアから排斥されていたドイツ系の移民やアイルランド系の移民も、自分たちの地位向上のために戦争に協力していきます。

 戦争はそれまでの差別の構造を変えていった面もあるのですが、そこで大きな役割を果たしたのが先ほど紹介したベンジャミン・バトラーです。
 バトラーはアンドリュー・ジョンソンから「これほど怖れ知らずで破廉恥なデマゴーグに、私は出会ったことがない」(132p)と評された男ですが、マサチューセッツではミリシアからアイルランド系が除隊されそうになったことに反対し、南北戦争では自由黒人の部隊を認め、さらに奴隷主から逃げてきた黒人たちが加わることも認めました。
 リンカンよりも奴隷廃止に積極的で、軍人としては無能でグラントから更迭されたものの、奴隷解放の道を切り開いた人物となりました。

 南北戦争後、南部では黒人ミリシア部隊も誕生します。南部占領が終わるとその数は減っていきますが、それでも黒人ミリシアがなくなることはありませんでした。
 ミリシアは労働争議の鎮圧などの治安維持に用いられましたが、軍事組織としては限界もあり、徐々に軍服や武器を州政府が与えたり貸与するようになりました。

 次に大きな転換点となったのが第1次世界大戦です。
 アメリカが参戦へ向けて動き出すと、元大統領のシオドア・ローズヴェルトは準備してきた志願兵師団を率いて出征することを大統領のウィルソンに願い出ます。
 しかし、ウィルソンは連邦政府主導で兵士として適切な者を強制的に徴用した組織が望ましいとしてこれを断ります。これには軍事上の理由もありましたし、共和党のローズヴェルトが戦場で華々しい活躍をすればウィルソンの民主党は不利になるという政治的な理由もありました。

 ただし、軍の改革自体はシオドア・ローズヴェルト政権のときから始まっていました。
 ローズヴェルトは欧米や日本と戦える大規模な軍の建設を目指し、弁護士だったエリフ・ルートを陸軍長官とともに改革を行います。
 1903年にはミリシア法が成立し、それを基礎に1916年国防法が生まれたことでミリシアの予備軍化が完成しました。ミリシアの予備軍化のために巨額の連邦予算が投下され、ミリシア予算の殆どが連邦政府の負担になりました。

 ただし、1910年のメキシコ革命時にはこの予備軍はうまく機能せず、9万5千人いるはずの常設ミリシアのうち、集まったのは4万7600人と半分程度に過ぎず、その半数ほどが身体検査で兵役不適格となりました。
 そこで、ウィルソンは1917年に選抜徴兵法を成立させます。ヨーロッパに29個師団130万人の兵員を送ることとし、その2割は州の常設ミリシアから派遣されました。
 しかし、派遣される州軍の部隊編成も指揮官の選任も正規軍が行うこととなり、複数の州軍による混成部隊もつくられました。
 第一次世界大戦後も、州軍は定期的な訓練を受けるほかは別の生業を営む人々で構成されていましたが、予備軍としての服務が徹底され、命令に従うことが求められました。

 ウィルソンが志願兵部隊を拒否した背景には人種差別の問題もありました。
 ウィルソンを支えていた南部の民主党の政治家は黒人士官を排除しようとしており、1917年に将軍になることが期待されていた黒人のチャールズ・ヤング中佐は健康問題を取り沙汰されて退役させられてしまいます。
 ローズヴェルトの師団案には黒人連隊も存在しており、師団の幹部としてヤングを起用しようとしていました。
 こうした要因もあってローズヴェルトの志願兵師団は退けられ、黒人兵は主に労役を担当し、軍事施設でも人種ごとの隔離が進みます。

 選抜徴兵法は1940年に第2次世界大戦の勃発を受けて復活し、1972年まで続くことになります。
 第2次世界大戦のときのフランクリン・ローズヴェルト大統領は北部出身であり、軍の人種隔離的な政策を撤廃していきました。

 1960年代になると州軍は人種暴動の鎮圧などに使われるようになります、一方、徴兵から逃れる手段として州軍への志願が選ばれるようにもなりました。ベトナムに出征しないための手段として州軍が利用されたのです。
 
 結局、徴兵の不人気と軍事技術の高度化のためにニクソン大統領によって徴兵は取り止められ、志願制の軍になります。
 福祉制度が貧弱なアメリカにおいてもっとも福利厚生が整っているのが軍であり、これによって志願者の確保を図っています。

 このようにアメリカの軍は20世紀になって他国と変わらないような仕組みになっていくのですが、ミリシアの伝統が消えたわけではなく、さらに2008年のヘラー判決で、個人の自衛権行使のために銃が持てるようになり、銃規制が難しくなりました。
 こうしたこともあり、民間の武装ミリシアをつくる動きは続きますし、それを規制することも難しいのです。

 このように本書を読むと、アメリカにおける「軍」がかなり特殊なものだということがわかると思います。
 銃について独特の考えがあるのはよく知られていることですが、本書を読むと、さらにその背景には軍(ミリシア)についての独特の考えがあることがわかります。
 民間の武装ミリシアと全米ライフル協会の関係など、もう少し近年の民間の武装ミリシアの来歴についても知りたかった感はありますが、アメリカという国の来歴を知ることができる本ですね。

橋本陽子『労働法はフリーランスを守れるか』(ちくま新書) 7点

 ウーバーイーツやAmazonの配達員など、近年になってギグワーカーとも呼ばれるアプリなどで仕事を請け負って働く人が増えています。
 法律的に、彼らは労働者ではなく自営業者に近い位置づけなのですが、実際に彼らの働く様子などを聞くと、自営業者にあるような意思決定の自由がないことも見えてきます。

 本書は、こうしたギグワーカーを始めとしたフリーランスを、労働法においてどう捉えるべきなのか?  どのように保護していくべきなのか? ということを主にヨーロッパの状況と比較しながら論じた本になります。
 著者は労働法の研究者であり、タイトルからくる印象よりも硬めの本で、第2章が「労働法とは何か」となっているようにそもそも的な部分から説き起こしており、やや読むのが骨が折れるところもあるかもしれませんが、本書を読むことで近年の働き方の変化がもたらす問題が見えてくると思います。
 
 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 新しい働き方のどこが問題か
第二章 労働法とは何か
第三章 労働者性と使用者性
第四章 どのような法制度が必要か
第五章 「労働者性」を拡大する
第六章 これからの雇用社会

 本書では、冒頭でフリーランスが問題に直面した6つのケースが紹介されています。
 それは例えば、①ウーバーイーツの配達員は労働組合を結成できるか? ②葬儀会社のスタッフが葬儀会社ではなく、葬儀会社と業務委託契約を結ぶ支部長に雇用される契約を結んでいた場合に、葬儀会社とスタッフに雇用関係があることを主張できるか? といった問題です。
 また、③実質的に出るイベントを選べず最低賃金を割り込むような労働的な行為もさせられているアイドルが辞めようとしたところ、事務所の社長から違約金を求められて自殺してしまったケースもあります。

 職種などはバラバラですが、いずれもポイントとなるのが労働者性と使用者性です。
 ①ではウーバーイーツの配達員が労働組合を結成できる労働者かどうかが争点になりますし、②では、葬儀会社がスタッフの使用者にあたるかどうかがポイントになります。
 ③については、必ずしも労働者性がなくても訴えられるケースですが、最低賃金についても問題になっています。

 こうした労働者性や使用者性をどこで判断し、どう見ていくかということが本書のポイントになりますが、まずはフリーランスがいかなる働き方なのかが紹介されています。
 2021年に内閣官房や公取委、中小企業庁、厚労省が公表したガイドラインでは、フリーランスを「実店舗がなく、雇人もいない自営業主や一人社長であって、自身の経験や知識、スキルを活用して収入を得る者」(18p)と定義しています。
 このように定義されるフリーランスじゃ2020年で462万人(本業214万人、副業248万人)と試算されています。
 近年では①のウーバーイーツの配達員のような、アプリを介して働きたいときにオファーを受けるギグワーカーという働き方も増えています。

 フリーランスやギグワーカーの契約は労働契約ではなく業務委託契約になっています。
 そのため発注者側から見れば労働法によるコスト、例えば、最低賃金の支払いや就業規則、労災や解雇からの保護、さらには社会保険料の支払いなどのコストも負わないことになります。
 
 フリーランスというのはどの仕事を受けるのかが自由であるということに特徴がありますが、実態を見ると、専属契約をしている場合が12.3%、特定の依頼者に90%以上の売上を依存しているのが27.5%、50%以上の売上を依存しているのが5割を超えるといいます(22p)。
 また、主たる生計者が本業として行うフリーランスの年収は、200万以上300万円未満が19%と最も多くなっています(23p図1-1参照)。

 一部の自営業者にも労働法が適用されるケースがあります。例えば、製造業のみになりますが家内労働者を保護する家内労働法がありますし、建設業の一人親方などは労災への特別加入ができます。近年では、ウーバーイーツの配達員も労災への特別加入が認められました。
 さらに立場の弱い自営業者を保護するために下請法が制定されており、代金の減額や支払い遅延などを禁止しています。

 フリーランスの保護については2023年に「フリーランス新法」が制定されました。これについては第6章の部分で詳しく紹介したいと思います。
 
 ここまでが序章と第1章。つづく第2章では「そもそも労働法とは何なのか?」という問題をとり上げています。
 ここはヨーロッパでの法学における議論などを踏まえて専門的な議論がなされているので、詳しくは本書をご覧ください。
 ただし、最後のところの、日本では高齢者の適正な雇用機会の提供のためにフリーランス保護が議論されるようになったという指摘は押さえておきたいと思います。

 第3章は「労働者性と使用者性」と題されています。
 労働者性とは働いている者が労働者なのか否かということを識別するための概念です。労基法では、労働者を「使用される者で、賃金を支払われる者」と定めていますが、ポイントになるのは「使用される」という概念だとされています。
 この「使用される」の具体的判断基準には、業務諾否の自由の有無、業務内容や遂行における指揮監督、時間的・場所的拘束性などに加え、機械や器具を誰が負担しているか、などがポイントになります。
 労働者性が昔から争われていた職業としてトラックの持ち込み運転手があげられますが、平成8年の最高裁の判決では、時間的拘束性が緩かったことなどを理由に運転手の労働者性を否定しています。また、トラック運転手についてはトラックを自ら所有していることをもって労働者性を否定する判断もあります。

 次に労組法上の労働者性についてみていきます。ここで素人は「労基法の労働者と労組法の労働者は違うの??」となるわけですが、古い判例では同義だったのですが、近年の判例では違った判断になっているとのことです。
 平成23年に個人事業主として扱われていたメーカーの製品の修理を行っていたエンジニアや劇団の合唱団員に労組法上の労働者性を認める判決が相次いで最高裁で出ています。

 こうした中で、自転車で書類を配達する「ソクハイ」のバイシクルメッセンジャーやNHKの集金スタッフについては、労基法上の労働者性は否定されたものの、労組法上の労働者性は認められています。
 労組法上の労働者性が認めれれるポイントは、事業組織への組入れ、業務の依頼に応ずべき関係、広い意味での指揮監督下の労務提供、機械や器具の負担関係などですが、労基法と労組法における扱いの違いについての明確な基準はないようで、個々の要素を積み上げての判断となっています。
 ちなみにコンビニのオーナーについては、事業組織への組入れを基準にオーナーは独立の事業者であって事業組織へ組み入れられているわけではないとして、労組法上の労働者性を否定されています。

 ウーバーイーツの配達員については、2022年10月に都労委が配達員の労組法上の労働者性を認め、会社側に団体交渉に応じるように命じています。
 ウーバーイーツではほぼすべての配達を配達パートナーが行っており事業組織への組入れが認められました。契約内容の一方的・定型的決定も認められ、業務を行うか否かの自由はあったものの、配達員の裁量は小さく広い意味での指揮監督下にあることも認められました。

 労働者性とともに注目されるのは使用者性という概念です。
 例えば、XはZ社と雇用関係を結んでいるが、実際はZ社の親会社であるY社の命令を受けて働いているようなケースもあります。2008年に大阪高裁はパナソニックの工場でパナソニックの従業員の指揮命令を受けていた下請け会社の従業員との間に黙示的な労働契約が成立していると認めましたが、翌年、最高裁はこの判断を覆しています。採用や賃金の決定にパナソニックが関与していないことを重視したのです。

 アマゾンの宅配については、アマゾンの下請け会社が運転手と業務委託契約をするという形をとっています。個人事業主である運転手はアマゾンとは直接契約していませんが、アマゾンのアプリで配達先や労働時間を管理されているといいます。
 運転手がアマゾンと団体交渉をしようとする場合、まずは運転手と下請け会社の間の契約に労働者性が認められることが必要ですし、さらにアマゾンの使用者性が認められることが必要です。
 労働者性については2022年に労基署によって、アマゾンの下請けの最大手の運送会社である丸和運輸機関の運転手の労働者性が認められたケースもあります
 この使用者性については、放送局のディレクターの指揮命令を受けて働く下請け労働者の組合が放送局に対して団交を要求したことを認めた判決もあり(朝日放送事件)、アマゾンの使用者性が認められる可能性は十分にあります。

 冒頭であげた②の葬儀社のケース(ベルコ事件)でも、葬儀社(ベルコ)が従業員を直接雇用せず、支社長や支部長が雇用するという形式でしたが、2019年に北海道労委はベルコの労組法上の使用者性を認め、団体交渉に応じるように命じています(ちなみにQBハウスを展開するキュービーネット社も同じような契約のスタイルをとっており、キュービーネットの使用者性をめぐって争いがある)。

 第4章ではこうしたフリーランスやギグワーカーの問題について、ドイツやEUの対応を見ていってます。
 ドイツやEUでは社会の均衡の実現のために国家が介入するのは義務であると考える社会的市場恵税の考えが基本にあり、日本よりも積極的な労働市場への介入が行われています。

 EU司法裁判所では、「労働関係の本質的要素は、ある者が、一定期間、他者のために、その指揮命令に服して給付を行い、反対給付として報酬が支払われる点に存在する」(142p)として、労働者の概念を広く捉えています(「ローリー・ブルームの定式」)。
 これだとプラットフォーム上で働くギグワーカーなども労働者に含めれそうですが、実際にEUの立法として明文化される際にはさまざまな抵抗もあり、難航しています(ただし、今月(2024年3月になってEUプラットフォーム労働指令案が合意したとのニュースもある)。

 第5章ではギグワークをめぐる近年の各国の対応が紹介されています。
 この問題が最も早くから問われてきたのがアメリカです。2018年、カリフォルニア州の最高裁が宅配便の配送を行う運転手の労働者性を認め、基準として「ABCテスト」を提示しました。ABCテストとは次の3つの基準に基づき労働者性が推定され、使用者が労働者でないことを立証しなければならないというものです。
A 委託者による指揮監督を受けていないこと
B 委託者の通常の事業過程に含まれな仕事を提供していること
C 独立の事業者として当該職業ないし事業を行っていること(151p)

 例えば、宅配ドライバーやウーバーの運転手は、まさにBの通常の事業に含まれるサービスそのものを提供していることになるので労働者性が推定されることになります。
 しかし、このABCテストの基準が2019年に立法化されたのですが、ロビー活動の結果、多くの職業が適用除外になり、ウーバーの運転手についても一定の保護を与える代わりに、この法の適用から除外されました。いわば、労働者と自営業者の間の「第三のカテゴリー」がつくられた形になっています。

 この他にも第5章では、フランス、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツの状況が紹介されています。
 このうち、イタリア、スペイン、ドイツに関しては、いわゆる「第三のカテゴリー」が実定法で定められており、ギグワーカーなどにも一定の労働者性を認めるような形になっています(国ごとの踏み込み方の違いもあり、ドイツでは2020年にクラウドワーカーの労働者性を認め、解雇制限法の適用を認めた判決もでている)。
 その中でも、イタリアにおいて、デリバリーの配達員に対し病気や「正当な理由」(ストライキ)により欠勤を考慮しないアルゴリズムは間接的差別に当たるとされた2020年のボローニャ地方裁判所の判決、ドイツにおいて、フードデリバリーの配達員の自転車とスマホの費用を使用者が負担すべきだとした2021年の連邦労働裁判所の判決などが注目されます。 

 また、ドイツでは「闇労働」とそれへの取り締まりがあります。闇労働とは法律で定められている税金や社会保険料が支払われない労働のことで、これがかなり厳しく取り締まられています。
 ドイツには社会保険料不払罪という刑罰が存在し、罰金または5年以下の懲役刑、特に重大なケースでは6ヶ月〜10年以下の懲役刑となっています(日本にはこうした刑罰はない)。
 ドイツではこの取り締まりのために税関に専門の部局が設置されています。州を越える問題であり、またEU内の人の移動などもあって人身売買などともかかわるために、このような体制になっているそうです。
 この闇労働の取り締まりは、企業に対してフリーランスの活用を慎重に判断させる効果もあります。

 第6章ではこれからの雇用社会を展望しています。リ・スキリングやキャリア権などについても紹介されていますが、ここではフリーランスに関わる部分を紹介したいと思います。
 
 2023年5月に公布されたフリーランス新法は経済法と労働法の規制が組み合わさった独特の性格を持つ法律となっています。
 同法では保護の対象を「特定受託事業者」または「特定受託業務従事者」としていますが、両者ともフリーランスを意味しています。
 この法律では、フリーランス側に責がないときの受領の拒否、報酬減額、返品、買いたたき、物品を強制的に購入させること、不当なやり直しなどが禁止されています。基本的に発注者の資本金が1000万円以上でないと適用されなかった下請法の保護が広くフリーランスにも拡張されました。
 ただし、不当なやり直しについてどこまでを不当とするかは、今後の公取委の対応などに次第だといいます。

 さらに、育児中・介護中のフリーランスへの配慮義務やハラスメントの防止措置、継続的業務委託について、契約を解除する場合には30日前に予告する義務が盛り込まれました。このあたりは労働法における労働者の保護に対応していると言えます。
 ただし、解雇権濫用法理が適用されない以上、育児・介護への配慮義務を定めたとしても委託者はそうした者との契約を解除すれば足りることになります。

 厚生省の「雇用類似の働き方に対する検討会」の座長を務めた鎌田耕一によると、今後の雇用社会は、今までの日本型雇用を踏襲する「組織内キャリア」、専門的な知識や技能を活かす「スペシャリスト型キャリア」、ギグワーカーを含む非正規の「テンポラリー型キャリア」の3つに類型化されるといいます。
 こうした中で、フリーランスはテンポラリー型キャリアだけではなく、スペシャリスト型キャリアにも関わってきます。企業内で一定の技能を身に着けた社員がフリーランスになって仕事を請け負うことが想定されているのです。
 
 こうした動きに対して、著者はフリーランスを広く「労働者」として扱い、保護していくことを主張しています。
 今までの日本では、労働者に認められているものよりも劣る保護を新たに追加するというやり方がとられてきましたが、それによって労働者性は認められにくくなる可能性があり、十分な保護のためには労働者性を広く認めるほうがよいというのです。
 
 このようにフリーランスの保護のあり方とこれからの雇用社会を展望している本書ですが、かなり本格的な法学的議論を盛り込んでおり、また、フリーランスの問題だけではなく近年の雇用社会の変化などについても論じているので、読むのはやや大変かもしれません。
 このまとめでもかなりの部分は割愛しているものの、それでもまとめるのは苦労しました。

 それでも、このまとめでも書いたように、フリーランスが直面している問題だけではなく、それに対する各国の対応やその基底にある法の考えが示されており、これからの雇用社会を考えていくうえでも有益な本だと言えるでしょう。


岡野八代『ケアの倫理』(岩波新書) 7点

 副題は「フェミニズムの政治思想」。近年、新聞記事などでも見かけるようになった「ケア」という考えが、どのように生まれて発展してきたのかをたどった本になります。
 特にケアの倫理の嚆矢と言われるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』の読解にかなりの紙幅を割いており、「ケア」という言葉がどのような場所から生まれ、なぜ必要だったのかということがよくわかる内容になっています。
 
 個人的に後半の議論では「ケア」の概念があまりにも拡張されてしまっており、「そこまでいくと「ケア」の意味が薄まってしまうのではないか?」と思うところもありましたが、前半を中心に非常に勉強になる本で、読み応えがあります。

 目次は以下の通り。
序 章 ケアの必要に溢れる社会で
第1章 ケアの倫理の原点へ
第2章 ケアの倫理とは何か――『もうひとつの声で』を読み直す
第3章 ケアの倫理の確立――フェミニストたちの探求
第4章 ケアをするのは誰か――新しい人間像・社会観の模索
第5章 誰も取り残されない社会へ――ケアから始めるオルタナティヴな政治思想
終 章 コロナ・パンデミックの後を生きる――ケアから始める民主主義

 本書ではまず、アメリカにおける第二波フェミニズムの動きから説き起こしています。
 第2次世界大戦中は女性も工場労働などの分野に進出しましたが、戦後になると、女性は家庭に戻るか、看護師や教師や秘書などの女性向けの仕事に就くしかありませんでした。
 こうした中で1960年代になると第二波フェミニズムの動きが起こります。その中には、男性社会に平等に参加する権利を求めるリベラル・フェミニストと、男性中心的なものの見方を根源から覆そうとするラディカル・フェミニストがいました。

 リベラル・フェミニストは男女の平等を目指すために、男女の違いがないという主張に重点が置かれましたが、ラディカル・フェミニストはむしろ男女の差異を強調し、女性を抑圧する社会構造の変革を目指しました。

 ここで打倒されるべきものとして浮上してきたのが家父長制です。
 例えば、古代ギリシャのデモクラシーにおいても、市民同士は対等であったとしても、その市民(男性)が自分の家を支配するのは当然でした。
 これまでの社会は、公私二元論により、男性が決定権を持つ家庭の問題を私的領域に押し込めてきました。ラディカル・フェミニストたちが問題にしたのはこの構造であり、〈個人的なことは、政治的である〉(44p)との主張を掲げて、今まで私的領域に留められてきた問題を積極的にとり上げようとしたのです。

 ただし、あまりにも家父長制の影響力を強調すると、中国の纏足も、ヨーロッパの魔女狩りも、あるいは中絶の犯罪化も、すべて家父長制のせいということになってしまい、文化的、経済的要因などが見えにくくなったしまうおそれもあります。
 ここから資本主義の問題を問い直そうとマルクス主義に接近する動きも起きます。ただし、マルクスは労働力の再生産について商品しか問題にしておらず、再生産を支える女性の労働といったものを無視していたと批判されることにもなります。

 1973年の「ロー対ウェイド判決」によって中絶規制法が違憲だと判断されます。これは女性の権利を認めるもので大きな前進でしたが、同時にキリスト教原理主義と結びついたニュー・ライトの台頭を招くことにもなります。
 男女平等憲法修正条項(ERA)は、1972年に議会を通過するものの、各州議会で四分の三以上の承認を得られずに、82年には憲法改正発議の効力は執行してしまいます。
 これには普遍的な原理を持って判断を下す連邦最高裁への反発と、「女性問題」に保守派が参入してきたことが背景にあると考えられています。
 そして、中絶問題は社会を分断する大きな争点になっていくのです。

 こうした中で1982年に公刊されたのがギリガンの『もうひとつの声で』です。
 ギリガンは心理学を学び1964年にハーバード大で博士号を取得していますが、当時の心理学にはあまり情熱を持てず、社会活動家、モダン・ダンサーとして活動していた時期もあったといいます。
 ギリガンは67年に大学に戻ると、69年には道徳性発達理論の権威であるローレンス・コールバーグの助手になりました。

 コールバーグのもとで学生に講義をする中でギリガンが気づいたのは、沈黙せざる得ないような問題の存在です。
 例えば、〈徴兵制に抵抗すべきかどうか〉という問題に対して、男子学生は「徴兵によってかれらが大切にしている関係性や人々がどのような影響を受けるかを考えさせられることを知っているがゆえに、沈黙するしかなかった」(91p)ということがありました。
 ギリガンは男子学生が、私的な関係や自分が大切に思うひとたちの感情を慮る態度は女性的だと感じ、自制しているのだと気づきます。
 
 こうした経験を経て生まれたのが『もうひとつの声で』です。
 この本の第2章では、コールバーグが考案した、「ハインツという名の男が、自分では買う余裕のない薬を、妻の命を救うために盗むべきか否か」という「ハインツのジレンマ」が検討されています。
 ともに11歳の女の子のエイミーと男の子のジェイクの回答がとり上げられていますが、財産よりも命が重要だとして盗む決断をするジェイクに対して、エイミーは「薬を盗んで助かってもハインツは牢屋に入らざるを得ないのでは?」などと考え、逡巡してしまいます。
 このような態度は既存の理論では、「ディレンマの核心を理解していない」「自分自身の判断で物事を考えることができていない」などの否定的な評価を下されがちですが、これを掬い取ろうとするのがギリガンの考えです。

 ギリガンはエイミーの考えに、他者とのつながりに気づき、そこに応答責任を見出すケアの倫理を見出します。
 正義の倫理が公正の論理によって権利間の衝突を解決しようとするのに対し、ケアの倫理は他者とのつながりを続けようとします。こうした態度は既成の心理学からは未熟であるとみなされ、それが「女性は道徳的に未熟だ」といった考えにつながってしまうことがあったのですが、ギリガンはこうした考えは未熟なものではなく、もうひとつの倫理だというのです。

 ギリガンによれば、〈道徳とは何か〉といった一般的な問いに対する女性の語りからは、「〈他者を傷つけたくない〉という望みと、〈誰も傷つかずに問題を解決する方法が道徳にはある〉という期待」(110p)が抽出されるといいます。
 彼女たちは他者を助けることこそが道徳的であると考えていますが、他者を傷つけないという原理を貫くと自己犠牲を迫られるというディレンマにも直面しています。

 ギリガンはこのディレンマを女性が抱え続ける理由として、女性特有の「傷つけられやすさ」をみています。
 政治的・社会的権利を奪われてきた女性たちは他者を喜ばせることが善きことであると信じてきましたが、それとともに女性は男性以上に他者への配慮を求められてきました。
 
 女性は抑圧されてきたわけですが、ギリガンはその抑圧を取り去って男性のような倫理を身につけようとは考えません。
 ギリガンは、ケアの倫理の発達を次の3つのパースペクティブから捉えます。第1の視座は自己の生存を目的に自分自身へのケアに焦点を当てた自己中心的なものであり、第2の視座は他者とのつながりに注目することで、責任概念と母性的な道徳性の融合という性格を持ちます。そして、第3の視座は自己犠牲とケアを混同するディレンマの経験から、自己をもケア関係の中に包摂する力で利己心と責任の葛藤をときほぐしていきます。
 
 この利己性と責任の葛藤を乗り越えるということについて、ギリガンは次のように書いています。

 人生を「一本道」ではなく、「網の目だから、そこではどんな時でも、さまざまな道を選べる。一本の道しかないというふうではない」と考え、紛争はつねにあり、「絶対の要因はない」ことを彼女は理解している。唯一「真に変わらないことは、過程である」。それは、自分の知っていることに基づき、他のもっともな解決もありうることを理解したうえで、ケアしながら決定するという過程である。(117p)

 こうして男性の声だけでない、女性のもうひとつの声に耳を傾けることでより良い社会が可能になると考えています。

 このような内容を持つ『もうひとつの声で』は、大きな反響を巻き起こすとともに、フェミニストからの批判も受けました。
 まず、批判の対象になったのはギリガンが既存の心理学の発達概念を批判しつつ、「発達」という概念は保持したことです。そのため、問題が「発達」によって解決できるかのような印象を与えますが、フェミニストにとってはそうではなくて性差別や抑圧の構造自体を問題にすることが必要だというのです。
 また、ギリガンが聞き取った声は白人中産階級中心であり、黒人や非西洋出身の女性はそうではないといった批判もありました。

 また、ギリガンとしては意図していなかったことですが、女性と男性は本質的に異なっているか否か、男女いずれの性が優れているのか、といった論点で語られてしまいました。
 ギリガンとしては、これまで男性の経験を中心に構築されてきた理論が、いかに女性の声を奪ってきたかということを論じたかったわけですが、それが素直に受け取られたわけではなかったのです。

 ギリガンに触発されて、それまでの男性中心的な哲学を批判したのが哲学者のアネット・ベイアーです。
 ベイアーは、カントなどの道徳理論を取り上げ、約束を守る、嘘をつかないといった義務を教えるのは誰なのか? と問います。義務論が想定する人間はすでに道徳を身に着けている人間であり、それを獲得する過程は無視されているのです。
 
 ベイアーはケアの倫理を西洋の伝統的な個人主義に対する挑戦だとみています。
 ケアの倫理には依存関係に巻き込まれた存在間における関係性の中ではたらいます。それは依存せざるを得ない存在を前にして応答していく関係性の中で生まれてくるものであり、そのプロセスです。
 しかし、このケアは労働集約的であり、ケアを提供する者はそれ以外の活動に時間や労力を割く余裕がなくなりがちです。女性はこうした立場に押し込められてきたとも言えるでしょう。
 こうしてケアの仕事を女性に押し付けた男性が、あたかも何者にも依存してないかのように語るのがこれまでの正義の倫理であったというのです。

 ケアと正義の関係については、のちの論者の中でもさまざまな立場があり、①正義一元論、②ケア一元論、③ケアと正義の併存論、④ケアと正義の統合論、という4つの立場が想定されています。
 このうち、ギリガンが批判したコールバーグは①であり、ギリガンは④の立場だと考えられています。
 ただし、著者はこのような整理では見落としてしまうことも多いといいます。著者は「ケアの倫理の意義は、倫理学的な点にではなく、ケアの倫理が、むしろ社会変革、現在の社会編成のオルタナティヴを志向している点にこそ求めたい」(160p)と書いており、今の社会を問い直す視点としてのケアの倫理を重視しています。

 ギリガンは『もうひとつの声で』の5年後に公刊された「道徳の指向性と発達」の中で、パースペクティブとしての正義とケアという視点をよりはっきりと打ち出しています。
 正義のパースペクティブから見れば、社会関係はあくまで背景であり、注目されるのは道徳的行為者ですが、ケアのパースペクティブから見れば、むしろ自己と他者の関係性こそが中心になるというわけです。
 例えば、中絶の問題においても、正義の倫理では「胎児は人格か?」といった問題が浮上しますが、ケアの倫理においては、母親と胎児の関係性、あるいは母親とそれまでの家族の関係性などがクローズアップされます。
 ギリガンは正義の倫理を否定するわけではありませんが、、あたかもそれが唯一の、あるいは最上位のパースペクティブとして流通していることを批判しています。
 
 こうしたケアの倫理を女性という性と結びつけることに関してはさまざまな議論がありますが、あえて「母的思考」という概念を使ったのがサラ・ラディクです。
 ラディクによれば、母親業とは放っておけば命を落とすことが必至な子どもの要求に応え、さまざまなはたらきかけをしていくことです。このような母親業遂行から母的思考が生まれます。
 このように子育ての主体を「母」に代表するラディクの考えには多くの批判もありましたが、ラディクは、この母的思考を公的領域に持ち込むことで、身体的・精神的苦痛を軽視する現在の社会を変革することができるとしています。

 このラディクの考えを受け、『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』を書いたのがエヴァ・フェダー・キテイです。キテイには重い障害を持ちほぼ24時間のケアが必要な娘がおり、著作にもその経験が反映されています。
 キテイは娘のケアのために住み込みのヘルパーを雇いますが、自分とヘルパーの関係は家父長制的でもあり、フェミニストで平等主義者であったキテイにとっては葛藤の伴うものであったといいます。
 それでも依存する存在への責任がよりよく共有される社会であれば、こうした母親業の困難も緩和されるのではないかとキテイは考えます。
 さらにキテイは、ロールズの正義論では、当初、原初状態の当事者は家長であったことを取り上げて批判し、依存者とそれをケアするものを含む平等というものを考えていきます。

 法学者のマーサ・ファインマンはキテイの議論などを受けつつ、婚姻制度の廃止というラディカルな提言を行っています。
 ファインマンは依存関係を中心とする家族と性的な結びつきにすぎない婚姻を混同しないように訴え、務めている大学でも花形教員を引き止めるために配偶者への優遇措置が議論されたときに、それならば教員の子どもへの優遇措置こそが必要だと訴えたといいます。 
 ファインマンによれば、なぜ解消することが可能で、永続することが確実でもない婚姻関係が、そうではない親子関係よりも重視されるのはおかしいというわけです。
 ファインマンは、ケアの観点から家族を「性的家族」から切り離し、「母子」を基本と単位に再編成することを要求しました。この「母子」とはメタファーだといいますが、当然ながら女性を子育てに縛り付けるものだとして批判も受けています。

 第5章では、ケアを表す言葉として「文脈依存とそこから生じる脆弱性/傷つけられやすさ(ヴァルネラビリティ)」(242p)という表現が登場します。自立的・自律的な存在ではなく、依存し傷つけられやすい存在を基盤とした思想がケアの倫理というわけです。
 だたし、第5章では、さらにジョアン・トロントのケアについての次のような定義も紹介しています。

 もっとも一般的な意味において、ケアは人類的活動であり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。この世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境のことであり、生命を維持する複雑な網の目へと、わたしたちが編みこもうとする、あらゆるものを含んでいる。(256p)

 著者も「ここまで本書を読まれてきた方は、この定義に戸惑うのではないだろうか」と書くように、あまりに漠然としており、何でもありの定義です。
 トロントはこれに対して、〈人間のあらゆる活動は、まさしくケアなのだ〉と言うわけですが、個人的にはここまでくると、ケアという言葉は全てに当てはまるマジックワードになってしまっていると思います。

 このあとのアイリス・ヤングの責任論などは興味深いと思いますが、平和論とケア、気候変動とケアのような話になると、別にこうした問題は必ずしもケアで語るべきものでもないような気がします。
 例えば、今までの正義論は「他者の困窮や苦悩に無関心」(276p)だと言いますが、ピーター・シンガー的な功利主義なら違うでしょうし、気候変動対策だって将来世代の効用を計算に入れた功利主義で正当化できるでしょう。
 このあたりは読む人によって違うでしょうが、自分は具体的な関係性を離れた部分での「ケア」という言葉にあまり重要性を感じませんでした。配慮することは重要でも人間が配慮できる対象は有限なはずです。

 というわけで、トロントのケアの定義以降の部分は乗れないのですが、そこまでの部分は面白く勉強になりました。
 1つのパースペクティブとしてのケアという考えの意味や魅力といったものは本書を読んで掴むことができたのではないかと思います。
 新書でありながら、なかなか読み応えのある本ですが、十分にチャレンジする価値はあると思います。


森村進『正義とは何か』(講談社現代新書) 7点

 同タイトルの新書が中公新書からもでていますが(神島裕子『正義とは何か』)、その分析対象は大きくずれています。
 神島本も本書もロールズによって「正義論」が復権したと考えていますが、神島本がロールズ以後の展開を追っているのに対して、本書はプラトンからロールズに至る正義論を見ていきます。

 ただし、ご存じの方も多いと思いますが、著者はリバタリアニズムの立場をとる法哲学者であり、本書も「正義論の歴史をたどる」といったものではないです。
 一定の立場から、古典的な思想家の正義論を分類、検討したものになります。

 ただし、著者が一定のスタンスで批判的に検討していることによって、それぞれの思想家の問題点や曖昧な部分もクリアーになっており、哲学について一通りの知識がある人にとっても面白い本になっていると思います。
 「ホッブズは「社会契約論者」ではない」といった刺激的な主張もしており、古典的思想を再検討するきっかけにもなる本です。

 目次は以下の通り
はじめに――いま、なぜ過去の正義論を見直すのか?
序章 正義論のさまざまなパターン――本書のねらい
第一章 正義とは魂の内部の調和である――プラトン
第二章 正義とは他の人々との関係において現れる徳である――アリストテレス
第三章 正義とは相互の利益になる契約を実行することである――ホッブズ
第四章 正義とは自然権の保護・実現である――ロック
第五章 正義とは慣習によって生じた財産権規則を守ることである――ヒューム
第六章 正義とは非難が適切であるということと権利の保護である――スミス
第七章 正義とは「定言命法」に従うことである――カント
第八章 正義とは功利の原理に役立つ「かもしれない」ものにすぎない――功利主義
第九章 正義とは社会制度の第一の徳である――ロールズ
あとがき――文献案内をかねて

 まず、正義には他の諸価値と違って、複数の人々に関わる「対他性」、他の諸価値に対して優越する「優越性」があるといいます。
 ただし、思想家によってこれらの要素をどれくらい含むかには違いがあり、プラトンは正義をもっぱら個人の魂の状態として理解していますし、ベンサムは正義に重きをおいていません。

 本書が最初に取り上げるのはプラトンですが、著者はプラトンを徳倫理学の典型とみています。
 プラトンは個人における正義を考えるにあたって、まずは理想のポリスを描き出します。そのポリスでは理性に優れた哲学者が支配者となり、勇気に優れた戦士がその支配を補助し、欲望が支配的である一般大衆が生産に携わります。
 この三者の調和や均衡をプラトンは正義だと考え、個人においても知恵と勇気と節制が調和している状態が正義だと考えます。
 正義はあくまでも個人の魂の状態を指し、その人の行動の性質などは問題にしません。不正な人はそれだけで不幸であり、正義における対他性は意識されていないのです。

 プラトンの弟子のアリストテレスの正義論はよく知られています。
 著者はアリストテレスの正義論は〈行為の基準に関する義務論〉と〈個人の性質に関する徳倫理学〉の二面性を持つものだといいます。

 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で正義を諸徳の中でもっとも重要なものとして取り扱っています。
 アリストテレスは、まず正義を「一般的正義」と「特殊的正義」に分けています。前者は「完全な徳」が他の人との関係において現実化するときに認められるとしており、正義の対他性を指摘しています。
 勇気や節制は基本的にはその人のためにあるものですが、正義は他の人々の利益を守るものであり、自分にとっては不利益にもなり得ます。

 「特殊的正義」は何らかの名誉や財に関する割り当ての正しさについてのものであり、一種の平等のことになります。
 この特殊的正義は、さらに「分配的正義」と「矯正的正義」と「応報的正義」に三分されます(「矯正的正義」と「応報的正義」をもとめて「交換的正義」とする見方もある)。
 分配的正義は主に公的な名誉の授与を問題にしており、矯正的正義は損害賠償を、応報的正義は自発的な財の交換や売買を問題にしています。

 アリストテレスは刑罰や売買に一種の等価性を想定しており、市場取引もウィンウィンの関係ではなくゼロサム的な関係を捉えています(どちらかが得をしていればどちらかは損している)。
 著者はこのアリストテレスの考えが、限界革命に至るまでの経済学の誤った考え(例えば労働価値説など)のもとになったと考えています。
 アリストテレスの加害行為の分類が、英米法で殺人を、過失殺人、故殺、謀殺の3つに分けることにつながっているのではないかという指摘を含めて、アリストテレス哲学の西洋における強い影響力を感じさせます。
 アリストテレスの正義論については内容空虚な類型学だという批判もありますが、「しかしそれだからこそ、彼の正義論は実質的な道徳観を異にする人々の間でも共有できる便利な概念枠組みを与えることによって影響力をもってきた」(63p)のです。

 アリストテレスは基本的には徳倫理学に分類されます。
 この徳倫理学は我々の日常的な道徳の感覚や実践と調和するという利点がありますが、著者に言わせれば、行動の結果よりも動機や意図や行為者の性質に重大な関心を持つのはおかしいという考えです。

 徳倫理学は一般的にコミュニタリアニズムと結びつくと言われますが、必ずしもそうではないといいます。
 ニーチェの超人思想は一種の徳倫理学ですが反社会的なものですし、マッキンタイアも反時代的な徳倫理を唱えています。アリストテレスも究極的には真理を観照する哲学者の活動が至高のものだとしており、必ずしも共同体の活動を最重要視しているわけではありません。

 アリストテレスの次にとり上げられているのはホッブズです。
 ホッブズは自然状態において人間は「自由」だと言っていますが、この「自由」とは「禁じられていない」というだけで何らかの正当性を持つものではありません。自然状態の中では基本的に道徳も存在しないのです。
 ホッブズは「平和を求めるべきである」→「そのために自然権を放棄すべきである」→「人は結ばれた契約を履行すべきである」といった順で自然法を考えており、この「契約の履行」を「正義」だとしています(この後、20個の自然法が続く)。
 
 ホッブズの自然法は「こうしなければならない」というよりは、「平和に暮らすならこうした方が良い」というもので、カント的に言えば仮言命法になります。
 誇りや名誉心といったものは平和を脅かすものとして警戒されており、平和を維持するために各人の平等が要請されます。
 また、別々の意見の人が公的問題について口出しすることも有害だと考えています。つまり国民の政治参加は有害なのです。
 一般的にホッブズは社会契約論者だと考えられていますが、ホッブズは契約の有無にかかわらず支配者が国家を実効的に支配していれば人はそれに従うべきだと考えており、国家にとって契約は必須ではありません。

 第4章ではロックがとり上げられていますが、著者はロックは近世の社会契約論の典型だとみています。
 ロックは社会契約は現実にどの国でも結ばれたし、現在の国民も他国に移住せずにその国に澄続けることで暗黙のうちに社会契約を行っていると考えます。
 また、ホッブズの「自然権」が「禁止されていない」ことに過ぎないのに対して、ロックの「自然権」は道徳権利であり、現在の人権に近いものになっています。
 ロックの自然権は社会契約後も活き続けるもので、この自然権を守ることが正義になります。

 ロックの自然権論の特徴はその所有権論です。ロックは身体の自己所有を基礎に、労働によるって所有権の確立を唱えました。
 著者は「正義論の歴史におけるロックの功績は、個人主義的・自由主義的な古典的自然権論の典型を与えた点にある」(113p)とみています。

 第5章ではヒュームがとり上げられていますが、ヒュームの正義論は極めて限定されたものです。
 ヒュームは、①所有、②同意による所有の移転、③約束、という3つの規則の遵守だけを正義、そして自然法という名で呼んでいるのです。
 所有を重視する点はロックと似ていますが、ヒュームは所有の保護は社会契約ではなくコンヴェンション(慣習)によって成り立ってきたと考えます。

 ヒュームによれば、勇敢さや善意といった徳に比べて正義は人為的なものだといいます。勇気や善意は本人か他の人々にとって直接快いか有用であるためにその場で賞賛されますが、正義の有用性は長い経験を経て有用であることがわかるといいます。
 
 ヒュームは、「人間の利己性」「事物の希少さ」「事物の保有の不安定性」「個人間の大まかな平等性」から正義の発生を説明しています。
 人間は利己的ですが、人間にとって価値のあるものは無尽蔵ではありません。また、財産などは奪うことができ、人間の能力は大まかに平等です。こうした状況では、所有や移転や約束を守る正義というはたらきが必要になるのです。
 そして、この考えはハーバート・ハートの「自然法の最小限の内容」に近いものになっています。

 ヒュームについては徳倫理学の要素を指摘する声もありますが、著者はヒュームの考えは規則帰結主義と契約主義によって基本的には説明できると考えています。

 第6章はアダム・スミスです。
 ヒュームは「不正を受けた人への共感や好況の利益への共感が道徳的善悪の感覚を生み出した」(132p)と述べていますが、この「共感」を道徳理論の中核に据えたのがスミスです。

 スミスによれば、われわれは経験を通じて、対象となる人の感情に同一化するのではなく、また自分自身や特定の人の感じる評価的共感や反感を無批判に受け入れるのでもなく、「不偏的観察者」が持つであろう共感によって適正性を判断するようになるといいます。
 この不偏的観察者は、何らかの加害行為が行われたときに、被害者に代わって罰を与えたいと考えるでしょう。この処罰が正義になります。
 一方、適切な行為に対しては報奨を与えたくなります。このふさわしい報奨を与えることが善行です。
 これはアリストテレスの交換的正義と分配的正義に重なるものです。

 スミスは正義と善行という2つの徳に関して、「社会にとって正義は必要不可欠だが、善行は必ずしもそうではない」(139p)と考えます。
 この正義は自然権と結びついており、自然権には自分の身を守る権利だけではなく、その違反に対する処罰を求める権利も含まれるのです。

 スミスの考えのポイントは「不偏的観察者の判断の基準はいかなるものか?」ということですが、スミスは行為者がどのような人であったかよりも、行動の状況が重要だとしています。
 この状況についての判断は社会によって違うと考えられ、不偏的観察者の判断も、まずは隣人との関わりや社交の中で培われていくと考えられます。

 第7章はカントです。カントが正義を明示的に論じているのは『人倫の形而上学 法論』のみだといいます。
 ただし、『道徳[人倫]形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』や『実践理性批判』で展開されている「道徳的勝ちがある/ない」の議論は、「(道徳的に)正しい/不正だ」と言っているのとほぼ大差がなく、本書では『基礎づけ』における議論をとり上げています。

 『基礎づけ』では「善意志」だけが無制限な善だとしています。この結果ではなく意志こそすべてという考えに賛同するかどうかは人それぞれだと思いますが、著者は明らかに否定的です。
 善意志から行われた行為でも悪い結果を生むかもしれませんし、幸福が不確かであるなら意志もまた不確かです。さらに「他人の幸福は目的だが、自分の幸福は手段に過ぎない」という利己主義の裏返しのような主張にも説得力はないといいます。
 さらに著者は「これほど幸福の内在的価値を素直に認めないことはカント倫理学の重大な欠陥だ。道徳理論の中でも幸福は善であり不幸や苦しみは悪であるとどうして考えないのだろうか?」(162p)と述べています。

 この後、カント批判としてお決まりの「善き人」よりも「自らの傾向性逆らって善いことをする人」が評価されてしまう問題や、定言命法についてのパーフィットによる改良版などが紹介されていますが、詳しくは本書をお読みください。
 また、『人倫の形而上学 法論』から自由や所有権などを論じている部分を紹介し、自由権を基礎としてカントと似た問題を論じたスペンサーの議論についても触れています。

 第8章は功利主義です。ただし、功利主義者は特定の正義の観念を積極的に提示しようというよりは、日常的な正義の考えを功利主義によって説明・正当化する傾向が強いといいます。
 実際、ベンサムは正義を、最大幸福原理が特定の行動についてとる形態に過ぎないと考えています。

 一方、J・S・ミルはもう少し突っ込んで正義について論じており、『功利主義』の第5章では、「正義という観念が功利主義という正しい理論の受け入れを邪魔してきた」(202p)とも論じています。
 確かに全体として正義は社会の効用を増進させる働きがあるのですが、例えば、犯罪者の処罰についてもどの程度の罰を与えるかは正義の理論では導き出せず、功利の原理によって決めるしかないといいます。
 
 ただし、著者は『自由論』を読むと、ミルは純粋な功利主義者だったのか疑問も湧くといいます。そこで、本書ではシジヴィックについても検討しています。
 シジヴィックはさまざまな正義観を検討し、「われわれは満足できる形でそれぞれを単独に定義することはできないし、ましてやそれを調和させることはできない」(214p)と結論付けています。結局のところ、正義は「最大幸福を実現するためい役立つかもしれない経験則以上のものではない」(215p)というのです。

 最後はロールズです。
 ロールズの「正義」の特徴は、個人や行為が持つ性質や個々の規則が持つ性質でもなく社会制度全体が持つべき性質を問題にしていることです。
 ロールズは正義の3つのレベルとして、ローカルな正義(さまざまな制度や結社に直接適用される)、国内的正義、グローバルな正義の3つを想定し、公正としての正義は2つ目の国内的正義にかかわるものだとしています。そして、ここからローカルな正義やグローバルな正義に影響を与えていくというのです。
 また、ロックなどが個人の自然権からボトムアップ的にアプローチしたのに対して、ロールズは国家の形からトップダウン的にアプローチしていると言えます。

 ロールズはご存知のように「無知のヴェール」という道具を使って、自分の性別や能力も性格もわからない状況を想像させますが、「自分がどこの国に生まれるか?」ということは自明のことだとして扱っているといいます。これもロールズにとって「国家」という枠が非常に強いことを表しています。
 また、ロールズの議論では国家についての正義から、個人の道徳が導き出されており、著者はそうしたことにも疑問を持っています。

 このように、著者のスタンスがはっきりしている本で、純粋な入門書としては癖があるかもしれませんが、スタンスがはっきりしている分、それぞれの思想家の特徴も見えてくるようになっていると思います。
 「正義とは何か」という問題にズバリ答える本ではありませんが、各思想家の考えをたどることで、正義が人を惹きつける力や、その定義の難しさといってものも浮かび上がってきます。


正義とは何か (講談社現代新書)
森村進
講談社
2024-01-17


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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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