山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2013年03月

中川淳司『WTO』(岩波新書) 7点

最近、TPPやFTAの影に隠れてあまり注目の集まらないWTO(世界貿易機関)。実際、2001年に始まったドーハ開発アジェンダは10年以上たった今も妥結の見通しがなく、各国は交渉の場をWTOからFTAやEPAへと移しています。

 では、WTOの交渉はすでに意味を失っているのか?
 そもそもWTOはいかに誕生しどんな役割を果たしているのか?
 WTOの交渉が進まない原因は何か?

  そういった疑問に答えてくれるのがこの本です。読んでいて「面白い」という本ではないかもしれませんが、TVや新聞の解説レベルではわからないWTOの組 織や仕組みがわかりますし、「WTOからFTAへ」という動きの原因が「先進国と途上国の対立からくるWTOの機能不全」といった単純なものではないことも理解出来ます。

 目次は以下の通り。
第1章 ガットからWTOへ
第2章 WTO、一八年の歩み
第3章 どんな組織が、何をしているのか
第4章 WTOの貿易規律
第5章 WTOの紛争解決手続
第6章 WTOと市民社会
第7章 WTOと途上国
第8章 WTOはどこへ行く

 第3章まではWTOの沿革と組織の説明といった内容ですが、第4章以降になると、WTOが果たしている役割、そしてそれが各国の国内政治に与えている影響といったものも見えてきます。
  例えば、第4章では「EU−ホルモン牛肉事件」がとり上げられています。これはEUが成長ホルモンを投与して肥育した牛肉の輸入を禁止したことに対してア メリカがWTOに訴えた事件です。WTOは成長ホルモンの一律禁止は科学的証拠がないとして、科学的証拠がなくても予防措置として正当化できるとしたEU の主張を退けました。
 また、第5章ではアンティグア・バーブーダというカリブ海の小国が訴えた「越境賭博禁止事件」がとり上げられています。これはネットカジノを開設したアンティグア・バーブーダがネットカジノを国内法で禁止しているアメリカを訴えた事件です。
 ネットカジノを規制するのはその国之自由だろと考える人も多いでしょうが、実はアメリカは「スポーツを除く娯楽サービス」の自由化を約束しており、WTOのパネルではアンティグア・バーブーダの主張が認められました。

 この2つの事件に対するWTOの判断に疑問を持つ人も多いと思います。「やはりWTOはグローバリゼーションを推し進める市民社会の敵なのだ」と感じてしまう人もいるでしょう。
  しかし、この本を読見進めるとWTOというのがグローバリゼーションを推し進めたりする組織ではなく、一種の裁判所のような組織であることがわかってくる と思います。WTOが尊重するのはあくまで自由貿易のルールであり、特定の国や大企業の利益などではありません。アンティグア・バーブーダの「越境賭博禁止事件」でも、WTOのルールに照らし合わせて大国アメリカではなく小国のアンティグア・バーブーダの主張を認めているわけです。

 しかし、WTOの実態というのはなかなか一般の市民にはわかりにくいもので、1999年のシアトル閣僚会議ではNGOや労働団体などの猛烈な抗議行動により新ラウンドの立ち上げに失敗しました。
 特に環境問題や食品の安全性に関してより厳しい対応を求める先進国の市民にとって、それらの上乗せ規制を自由貿易の原則から否定することもあるWTOは「敵」として認識されてしまうことになります。

 またWTOでは裁判と同じように数々の判例が蓄積され、その判例を利用する形で紛争の解決が行われています。素人が法律を読んだだけでは裁判を闘うことが難しいのと同じように、WTOの紛争解決においてもWTO法などの専門知識をもった人材が必要になります。
 その結果、途上国の申し立て件数が少なくなるという状況になっています(125ー128p)

 そして「WTOからFTAへ」という動きが何故起こっているか?
 著者はこの理由として、WTOの加盟国が増えて交渉がまとまりにくくなったという事の他に、1990年代以降に進んだ生産ネットワーク(サプライチェーン)の国際化をあげています。
 従来の国際分業で求められるのは、関税の引き下げや非関税障壁の撤廃であり、それはWTOが目指してきたものです。
 一方、生産ネットワークの国際化で求めれらるのは、関税の引き下げや非関税障壁の撤廃以外にも、投資の自由化や円滑化、法制度・経済制度の調和、インフラの整備などさまざまなものがあります。
 つまり、WTOだけでは現在進行している新しい経済の国際化には対応できないのです。そこで、各国はより包括的な分野について定めることのできるFTAを重視しているというのです。

 このように、たんにWTOについて知るだけではなく、現在の国際経済のあり方などを考えう上でも有益な本だと思います。

WTO――貿易自由化を超えて (岩波新書)
中川 淳司
400431416X

飯尾潤『現代日本の政策体系』(ちくま新書) 4点

 『日本の統治構造』(中公新書)の評価が高い(個人的にはあまり評価していないのですが)飯尾潤の久々の新書。現在、日本が直面する問題を整理し、それに対して政治がいかに政策を作っていくべきなのか?ということを論じた本です。
 目次は以下の通り。

第1章 現代日本における政策像の転換
第2章 政党間競争の共通基盤
第3章 人口変動にどう対応するか
第4章 都市と農山漁村の共存へ
第5章 自然と技術と人間の関係転換―環境・防災政策と新たな産業
第6章 社会的紐帯の変化とその対応―教育・治安・情報通信政策
第7章 政党政治の役割
 これを見ればわかるように、とり上げられている分野は幅広く多岐にわたっています。そしてこれらすべての問題に対し飯尾潤が分析しコメントしています。いわば「1人シノドス」みたいな感じです。
 シノドスジャーナルでは各分野の専門家が現在日本が直面する問題に対して短い論考を寄せていますが、この本ではいろいろな本が参考文献としてあげられているものの基本的には飯尾潤一人の論考です。
 
 ですがやはり1人でこれだけの領域をカバーするのは厳しいでしょう。
 例えば、この本の参考文献にあげられている経済学関係の本は次の通りです。
  青木昌彦・奥野正寛・岡崎哲二(編著)『市場の役割 国家の役割』、池尾和人『開発主義の暴走と保身』、植田和弘・梶山恵司(編著)『国民のためのエネル ギー原論』、駒村康平『年金はどうなる』、清家篤『生涯現役社会の条件』、戸堂康之『日本経済の底力』、八田達夫・高田眞『日本の農林水産業』、藻谷浩介 『デフレの正体』、吉川洋『転換期の日本経済』。
 いろいろな本を読んでいる印象ですが、これらの参考文献を元に財政やデフレ脱却、成長戦略などの問題を論じているとなると、経済学の著作をよく読んでいる人は「ちょっと大丈夫なのかな?」と思うかもしれません。

 実際、デフレと財政再建について著者は次のように書いています。
 成長さえすれば財政再建はできるというのは順序が逆で、財政再建の枠組みが確立すれば、成長しても財政は破綻しないし、その成果の果実を財政再建に利用することもできるのである。財政再建は、デフレ脱却や経済成長を実現するための、必要条件の一つなのである。(58p)

 これはちょっとどうでしょう?確かに景気が良くなって長期金利が上昇すれば国債の利払いは増えますけど、それをクリアーするよりも名目GDPが減少している中での財政再建のほうが難しいのではないでしょうか?
 これ以外にもマクロ経済については疑問符のつく記述が多いです。

 他にも社会保障の改革、農業の再生、原発・エネルギー問題、治安問題、教育問題と扱っているテーマは幅広いですが、基本的に大手新聞の論説委員が書きそうなことで、それほど目新しいことはありませんし、何か政策の対立軸が打ち出せているとも思えません。

 ただ、第7章の「政党政治の役割」に関しては、政治学者らしい鋭い指摘も多く、頷くことが多いです。
  現在の日本の政治の大きな問題が、衆議院と参議院のねじれからくる「決められない政治」だとして、それを解決するために立法府と行政府の「ねじれ」を生む 可能性が高い首相公選制を持ち出すのはどうか、という指摘はその通りだと思いますし、政治家の「劣化」について、「昔は今の「〜チルドレン」のように1年 生議員が注目されることがなかったからではないか?」という指摘も当たっている面があると思います。

 というわけで第7章は読む価値があると思います。
 けれども、それ以外の部分に関しては、残念ながら政治学者がいわゆる「ブレーン」として政策に大きな影響を与えるような時代が過去になったことを表してしまっていると思います。
 ある意味で「政治学者が何をする人なのか?」ということを考えさせる本です。

現代日本の政策体系: 政策の模倣から創造へ (ちくま新書)
飯尾 潤
4480067108

お知らせ

 新書以外の本の書評やCDなどのレビューをしているもう一つのブログ「西東京日記 IN はてな」のほうに著者の方から献本を頂いた岡本信広『中国―奇跡的発展の「原則」』の書評を書きました。
 
 岡本信広『中国―奇跡的発展の「原則」』 

 いわゆる新書のレーベルではないのでこちらではとり上げませんでしたが(アジア経済研究所の「アジアを見る眼」シリーズの1冊)、サイズ的には新書サイズで、内容的にも「新書」でイメージされるものと重なっていると思います。

宇野常寛『日本文化の論点』(ちくま新書) 6点

『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』などの著作、あるいは批評誌『PLANETS』の編集長、さらには最近ではTVのコメンテイターとしてもその姿をよく見かける宇野常寛のはじめての新書。
 目次は以下の通りです。
序章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉へ
論点1 クール・ジャパノロジーの二段階論――集合知と日本的想像力
論点2 地理と文化のあたらしい関係――東京とインターネット
論点3 音楽消費とコンテンツの「価値」
論点4 情報化とテキスト・コミュニケーションのゆくえ
論点5 ファンタジーの作用する場所
論点6 日本文化最大の論点
終章 〈夜の世界〉から〈昼の世界〉を変えていくために
あとがき
付録 『日本文化の論点』を読むキーワード
 ちなみに論点6の「日本文化最大の論点」とはAKB48のこと。全体的に現在、宇野常寛が興味を持っている、可能性を感じていることを網羅するような内容になっていて、TVなどで彼を見かけた人が手にとって見るのに適した内容になっています。

 以前、濱野智史との共著『希望論』の書評を書いた時に、宇野常寛について「まざまな思想的な立場が一人の人間の中でごっちゃになっている」と書きましたが、この本ではずいぶんと『希望論』における濱野智史の明解な考えに寄った感じで、匿名的なコミュニケーションの集積や、ゲームによって社会参加などを促すゲーミフィケーションがこれからの文化のキーになると、さらにはそうしたネットなどの<夜の世界>の想像力が、行き詰まった今の日本の<昼の世界>のシステムを書き換える可能性があるというのが中心的な主張になります。

 この本でとり上げられている考えの多くは、濱野智史のものであったり國分功一郎のものであったり井上明人のものであったりで、宇野常寛オリジナルのものは少ないのですが、それを印象的なエピソードとともに各論点に流しこむ手際はさすがのもので編集者としての才能が窺えます。

 ただ、『ゼロ年代の想像力』、『リトル・ピープルの時代』に比べると、この本では「批評家」としての宇野常寛の「熱さ」のようなものが感じられないのも事実。
 これは「仮面ライダー」、「テレビドラマ」という宇野常寛がいつも「熱く」語る対象についての言及がほぼないからだと思いますが、やや寂しい感じがします。

 ほぼ同時期発売の『ダ・ヴィンチ×PLANETS 文化時評アーカイブス 2012-2013』を読むと、自分の興味の対象はコンテンツからそれを生み出すシステムに移りつつある、といったことが書かれているので、この本ではコンテンツの分析はしなかったのでしょうが、もしシステムについて分析するのであればもう少し「理論」の部分が欲しいです 

 特に弱いと感じだとのは、この本のキーコンセプトである<夜の世界>と<昼の世界>の考え。
 この本では、ものづくり中心の経済に働く夫と専業主婦、そしてそうしたシステムを守る政治体制。そういったものが<昼の世界>で、そうした標準モデルから離れた人々によるサブカルチャー的な想像力とリベラルな考えといったものが<夜の世界>といったように分類されています。
 イメージとしては漠然とわかりますが、ちょっと考えるとこれはよくわからない分類ですよね。
 宇野常寛が<夜の世界>の想像力としてあげてくるものの多くがネットに関連するものです。確かに2ちゃんねるやニコニコ動画や食べログといったものは、<夜の世界>というイメージにある程度あてはまっていると思います。

 では、GoogleやAmazonはどうなのでしょう?実際に世界を変えつつあるこれらの会社もやはり<夜の世界>の会社なのでしょうか?確かにGoogleは初期のネットカルチャーの影響がまだ残っている企業かもしれませんが、Amazonに関してはサブカルチャー的想像力などよりもトヨタなどの管理システムに近い気がします。
 このように<夜の世界>と<昼の世界>の境界は容易に定められるものではなく、今の使われ方だとたんに「新しい/古い」に変奏にすぎないのではないでしょうか?

 そして「日本文化最大の論点」として上げられているAKB48。
 この本ではAKB48こそ、小さな劇場とソーシャルメディアで始まった<夜の世界>の想像力が、TVなどの<昼の世界>に進出して成功した代表例としてとり上げられていますが、逆に<昼の世界>の住人の秋元康が<夜の世界>の住民を搾取するために作り上げた巧妙なシステムだとは考えられないのでしょうか?
 これは意地悪な見方かもしれませんが、実際にAKBというのはメンバーとファンがコミュニケーションをとりながら大きくなっていくシステムであると同時に、さまざまな手法を使ってCDなどの売上を伸ばし大きくなっていくシステムでもあります。つまり、コミュニケーションのシステムであると同時に資本のシステムでもあります。
 システムの問題を語るのではあれば、やはりこの資本の側面は無視できないと思います。そうした意味でこの本のシステムについての分析はやや甘いと思います。

日本文化の論点 (ちくま新書)
宇野 常寛
4480067132

鎌田道隆『お伊勢参り』(中公新書) 7点

 「お伊勢参り」というと、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に描かれる弥次ヤジさんと喜多さんの旅や、庶民が伊勢神宮に行くためにつくった「お伊勢講」、一度に数百万人が押し寄せたという「おかげまいり」など、さまざまなことが思い浮かぶかもしれません。
 ただ、考えてみれば、なぜ伊勢神宮なのか?(日光東照宮じゃいけないのか?)、「お伊勢講」できちんとお金を出し合った人はともかく「おかげまいり」で突発的に参加した人たちはどうやって旅を続けたのか?数百万にが押し寄せた伊勢周辺の町はそれらの人々を捌ききれたのか?といった疑問も同時に浮かんできます。
 そして、こんな疑問に答えてくれるのがこの本です。

 まず、なぜ伊勢神宮なのか?という点。
 著者はこれを庶民の家での話から始めます。江戸時代の京都では家出が多発しており、奉行所に家出の届出の記録が残っています。
 届出の中には、「もしや伊勢神宮に「抜け参り」に行ったかと思って伊勢に行く往復の日数(京都からだと8日前後)待ってから、それでも帰ってこない」といったことが書かれているケースもあり、突発的な伊勢への「抜け参り」がある程度想定された自体だったことがわかります。

 元禄時代になると町人の経済が発展し、裕福な町人たちが四季折々の年中行事を楽しむ一方で、奉公人たちも好景気にあおられて奉公先を転々とするようになります。
 そんな状況と、伊勢神宮への参拝行為は尊く、これを妨害すれば神罰が下るという考えがあいまって、宝永2年(1705)の「おかげまいり」が発生したと著者は見ています。

 また、東国の者の中には「お伊勢参り」という名目で西日本周遊を企てる者もいました。
 この本で紹介されている世田谷喜多見村田中国三郎は、東海道を旅して伊勢に参拝した後、さらに奈良、大坂を周り、そこから船で四国に渡って金毘羅さんへ。続いて道後温泉に入湯し、そこから本州に渡って岩国の錦帯橋。帰りは大坂から今度は京都に入って京都の名所をさんざん回って、中山道へ。中山道では善光寺まで足を伸ばして往復87日の大旅行を敢行しています(45pに地図あり)。
 陸奥国北宇津志村(今の福島県田村市)から「お伊勢参り」に出た男7人も、伊勢参りのあとに新宮を通って高野山、大坂、そして金毘羅さんに足を伸ばし、帰りは京都、善光寺のこれまた大旅行(51pに地図あり)。
 「お伊勢参り」が西日本周遊の名目になっていた様子もわかります。

 次に「おかげまいり」に実態。
 宝永二年の「おかげまいり」は女性と子どもから始まったとされていて、ピークだった4月〜5月にかけては1日平均7万人もの人が伊勢神宮に押し寄せたそうです。
 これを支えたのが御師(伊勢神宮への参拝宿泊を世話するもの)や伊勢の町や沿道の人々のボランティア。参宮者におにぎりやお茶をふるまい、さらには路銀を与えたものもいたそうです。
 また、次の明和8年(1771)の「おかげまいり」では、大坂の商人たちが大規模な「施行」を行い、伊勢を目指す人々に草鞋や銭、食糧が配られました。ある種の「売名」の思惑もあったと著者は見ています。

 それでも、さすがに数百万の人々が訪れるとなると混乱も起きるわけで、伊勢では品不足や物価のこうとも起こったそうです。特に草鞋は不足して通常の2,3倍に価格が高騰し、草鞋を履かない裸足の参宮者も少なくなかったとの記録もあります(95p)。
 地元の人々は向かいの家に行くのも一苦労で、迷い人も続発。かなりの混乱があったようです。

 文政13年(1830)の「おかげまいり」となると、参宮者はさらに増え、街道筋の宿場などはパンク状態で、幕府も峠に役人を出して引き返すように呼びかけたりしたそうです。
 そうした中で盗みや、女性が遊女として売られてしまうケースなども起きたようで、必ずしも良いことばかりではなかったようです。
 ただ、それでも人々は伊勢へと押し寄せ、その中には男性は女装、女性は男装をした一団もいました。やはり「非日常への憧れ」のようなものが人々を動かしたのでしょうね。

 あと、この本の最後の第5章では著者が学生たちと実際に奈良から伊勢まで歩いて旅をした記録がとり上げられています。本書の中心的なテーマからは少しずれるかもしれませんが、これが「ちょっといい話」でして、ここに書かれた旅の中での人々とのふれあいを求めて「歩いて伊勢を目指そう」と考える人もでてくるかもしれません。

お伊勢参り - 江戸庶民の旅と信心 (中公新書)
鎌田 道隆
4121022068

山室恭子『江戸の小判ゲーム』(講談社現代新書) 5点

 松平定信の寛政の改革。節約と風紀の取締が中心だった一連の政策は、近年、前任者の田沼意次の改革などに比べると評価が低いですが、その定信の改革をゲーム理論から分析し、そこに武士と商人の間の持ちつ持たれつの関係と「WinーWinの関係」を見出そうとした意欲作。
 帯に「松平定信と経済官僚たちの所得再分配のためのプロジェクトX !」とありますが、歴史的な出来事がまさにプロジェクトX的なノリで書かれており、読みやすいです。
 が、読み物としては面白くても、江戸時代の経済政策をゲーム理論など現代の経済学から分析しようというねらいに関しては残念ながら失敗していると思います。

 まず、この本では寛政の改革で行われた棄捐令について分析します。
 この棄捐令は、旗本・御家人などの救済のため、彼らに金を貸していた札差に対して六年以上前の債権破棄、および五年以内になされた借金の利子引き下げを命じたもので、いわゆる徳政令です。
 もちろんこれは金を貸していた札差にとってはたまったものではないですが、マクロ的に見れば借金で身動きの取れなくなった武士たちを救済することで武士たちの購買力を復活させ経済を活性化するという効果があります。
 また、この本を読むと、棄捐令の発令にあたっては札差の経営に配慮して、札差が破産しないように幕府が資金提供などをしていることもわかります。
 
 しかし、これをもって「WinーWinの関係」があるというのは無理があるのではないでしょうか?
 いろいろな配慮はあったものの、札差が棄捐令を受け入れたのはそれが利益に繋がるからではなく、幕府の権力を恐れたからでしょう。この本では触れられていませんが、定信は風紀の取締に関してはかなり恐慌な姿勢をとっており、洒落本作者の山東京伝は手鎖50日の処分を受けています。
 それに経済全体にプラスだからといって札差にとってプラスだったとは言えないはずです。のちに札差から近代的な資本家へと成長した例はほとんどありませんが、これは棄捐令に代表される幕府の恣意的な経済政策が資本の蓄積を妨げたからでしょう。

 続いてこの本では、七分積金の制度をとり上げます。
 寛政の改革の中でも評価の高いこの制度は、実は「地代を2割ほど下げて、それによって物価を2割ほど引き下げさせよう。そのためには町会費である町入用を引き下げれば、地代の値下がり→物価の値下がりとなるだろう」という、冷静に考えればどうしようもないほど甘い考え方から生み出された取り組みがもとになっています。
 結局、このプランは失敗し、町入用の節約とそれに基づいた基金の設立だけが達成されることになるのですが、このドタバタ劇は確かに面白いです。でもゲーム理論とは関係ないですね。

 さらにこの本では幕府の貨幣改鋳に触れ、従来の「貨幣の改鋳の目的=品位を落とした貨幣の発行による差益(出目)の獲得」という説を退け、「退蔵貨幣の解消」こそがその目的であったとしています。
 銀行システムがない江戸時代では、大商人などが貨幣を家に貯めこむと、そのぶん世間に流通する貨幣量が減ってしまいます。この貨幣の不足はデフレを生み、経済の停滞をもたらします。この本では貨幣選好の強さを表す「マーシャルのK」の考えに注目し、貨幣の改鋳は貨幣の回転を促すための施策なのだと位置づけています。
 
 たしかにこの側面は重要です。だからといって「出目の獲得」という目的が完全に否定されるとも思いませんし、ここはもう少し大きな目で当時の経済を見るべきだと思います。
 江戸時代の半ばになると各地の鉱山から産出される金銀の量は減る中で、長崎貿易では大量の金銀が海外へと流出していました。つまり、だんだんと日本に存在する金銀の量、つまり貨幣量は減っていくわけで何もしなければ貨幣不足に陥ってしまいます。
 そこに登場したのが五代将軍綱吉のもとで勘定奉行を務めた荻原重秀です。彼は貨幣の改鋳とそれを以前の貨幣と同じ価値で流通させることによって、金属貨幣を現在の紙幣のような名目貨幣にしようとしました。これによって金銀の生産量の軛をのがれようとしたのです(荻原重秀の政策については村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』(集英社新書)を読んでください)。
 が、なぜかこの本では荻原重秀については完全スルー。江戸中期以降の貨幣改鋳のみを取り上げています。

 というわけでねらいは面白いけど、その内容にはやや不満があります。ただ、幕府と商人たちの駆け引きを見ることで、「支配する」「支配される」とは単純に言い切れないような持ちつ持たれるの関係が見えてくる部分は面白いですね。

江戸の小判ゲーム (講談社現代新書)
山室 恭子
4062881926

岡本真一郎『言語の社会心理学』(中公新書) 6点

高橋:うちの娘は男ですよ。
松本:そうですか、うちの娘も前は男だったんですが、今度は女です。
 これはこの本の第2章の冒頭33pに引用されているある会話の例です。
 これを見て「まったく支離滅裂でわからない」と思う人もいるかもしれませんし、「トランスジェンダーとか性同一性障害とか?」とかなりアクロバティックな設定を考える人もいるかもしれませんが、子の2人が孫の話をしているという設定を聞けばすぐにこの会話の内容が腑に落ちるでしょう。
 
 この第2章のタイトルは「しゃべっていないのになぜ伝わるのか」。
 冒頭で掲げた文章は、話された言葉だけを取り出すと意味がよくわからなくなりますが、共有されている話題、状況などを知ればその内容は簡単に理解出来ます。
 このように、「言葉だけを取り出すと伝わらないものがなぜ伝わるのか?」というのが、この本の中心的な内容になります。

 言葉以外のコミュニケーションの側面というと、いわゆる視線やジェスチャーなどの非言語チャンネルに注目が集まりますが、この本では第1章で簡単に触れられているだけです(ここでは有名な「言語の力はコミュニケーション全体の7%いすぎない」という言い方にも触れていて、かなり特殊な状況での実験結果でコミュニケーション一般には当てはめれられないとしています)。
 
 それよりもこの本で焦点が当てられているのは、コミュニケーションの共通の基盤であったり、特定の表現方法から導かれる相手に対する推意であったり、敬語や相手への呼称が生み出すものであったり、自己提示の仕方が相手に与える印象などです。

 例えば、「特定の表現方法から導かれる相手に対する推意」というのは次のようなものです。
西田:山本さんにはいつ会えるかな?
村井:明日飲み会があるよ。
 これは45p-46pに載っている例ですが、西田さんの「いつ会えるかな?」という質問に対して、村井さんは「明日飲み会があるよ」という、英語のテストの会話文の当てはめとかではバツになりそうな答え方をしているわけですが、普通に考えれば「明日飲み会があって、そこで山本さんに会える」ということを言いたいんだなと推論できると思います。
 また、「ヒトシは良い人ではない」と言われれば、ヒトシは「悪い人である」あるというふうに推し量ったり(49p)、私たちは相手のちょっとした表現方法からその表現方法が選ばれた背景にあるものを推意してます。
 こうしたさまざまな推意をこの本では哲学者グライスの「会話の協調の原理」とそれを発展させた研究から導いていきます。

 このように書くとなかなか抽象的で難しそうですが、この本では感謝を表すときの「ありがとう」と「すみません」の違い、「ごくろうさま」と「おつかれさま」の違いなど、身近な表現についてもそれがどのようなケースで使われ、どのような推意を導くのかが分析されています。
 ちなみに「ごくろうさま」が使えるかどうかのポイントは「話し手自身が直接的な利益を受けるかどうか」にあり(直接的な利益を受ける場合に「ごくろうさま」というと尊大な感じになる)、一方、その「ごくろうさま」の難しさがない無難な表現として「おつかれさま」が普及し、ほぼ汎用的な挨拶に転化しつつある、と著者は考えています(113ー120p)。

 こんな感じでなかなか面白いネタのつまった本なのですが、じゃあコミュニケーションの本質に迫っているかというと個人的にはそうは思えませんでした。
 この本では、全体的にコミュニケーションを分類し類型化していく手法がとられるのですが、この分類と類型化によってコミュニケーションの基本構造がわかるかというとそうでもないと思うのです。コミュニケーションには常に逸脱があり、その逸脱がときには言葉や表現方法の変化をもたらします。おそらく江戸時代にこの本が書かれていたとしたら、その内容は随分違ったものになったと思うのです。

 また、グライスの理論もそうなのですが、やはりコミュニケーションにおいて「意図」を持ちだしてそれを中心的なものとして据えると、逆にここまで表現が多様な理由を説明できない気がします。
 多くの場合、「意図」が曖昧であるからこそ表現も揺れ動くわけであって、何か複雑ながらも形のはっきりとした「意図」を伝えるために表現が多様になっているわけではないのではないかと、個人的には思っています。

 ただ、読んでいて面白ですし、役に立つ考え方が紹介されているのは街がないです。
 最後に終章「伝えたいことを伝えるには?」で書かれているコミュニケーションのポイントをいくつか紹介します。
「どんな点で共通の基盤を持てるかを押さえる」
「フィードバックに非言語チャンネルを利用する」
「日常用語に専門の意味がある語には誤解のおそれがある」
「ことさら易しく言うのも混乱の元になる」
「ため口には丁寧に応答せよ」
「自分の「なわ張り」のことは明確に、ただし「なわ張り」を広げすぎるな」
「怒りはためこまず、うまく表現せよ」
「謝罪はまとめて行う」
「立ち止まって相手の立場を振り返る」
 これらのポイントに興味が湧いたのなら手にとってみるといいと思います。

言語の社会心理学 - 伝えたいことは伝わるのか (中公新書)
岡本 真一郎
4121022025
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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