山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2011年07月

西牟田靖『ニッポンの国境』(光文社新書) 7点

戦後、北方領土に渡った日本人はけっこういると思いますが、竹島となるとあまり話を聞きません。ましてや、両方行ったことのある人となるとかなり珍しいのでしょうが、著者の西牟田靖はその珍しい一人。自らの体験をもとに日本の領土問題の実情が語られています。
 そして、そうしたルポだけでなく領土問題が生まれてしまった背景についてもつっこんだ考察がしてある本です。

 まずなんといっても興味深いのはルポの部分。
 サハリンから北方領土へ向かう船の中には、「ウニ、タコ、イクラ、・・・マスノスケ・・・」と反しかけてくるロシア人や何やら商売をしているらしい日本人がいて、密貿易的なものであるのかもしれないけど、経済関係があるのが窺えますし、また、島民たちはある意味で日本人慣れしている。
 一般の人にとって北方領土は遠い場所ですが、元島民や研究者、報道関係者などは1992年から始まったビザ無し渡航で行くことができますし、何よりも北方領土のロシア人たちはビザなし渡航で日本に来ることができ、毎年のように来ている人もいるとのこと。
 また、国後島では日本のTVが映り、島民たちはロシアの天気予報よりも役に立つということで日本の天気予報を見ていたりします。
 そういうこともあって、著者の紹介するロシア人には日本に対して友好的な人が多く、日本人と一緒に暮らしても良いと考える人も多いです。
 ただ、2002年の「ムネオスキャンダル」以来、日本からの融和的な支援はほぼなくなり、代わってプーチン政権が援助を強化したために日本の存在感は落ちてしまっているのが現状のようです。

 また、竹島(独島)に行く韓国船の様子も興味深く、"熱い”です。
 「日本の侵略の最初の犠牲になった島」として韓国人に強烈に印象づけられている竹島。何しろ「韓民族の愛国心が向けられる聖なる場所」(163p)とのことですから、著者もアウェー感を半端なく感じたようです。

 さらに著者は尖閣諸島にも上陸を試みますが、こちらは海上保安庁などの厳重な軽快のため果たせず。例えば、漁船をチャーターしていこうとすると、「漁船を漁以外につかってはいけない」という「船舶安全法」に引っかかってしまってダメだそうです(白タク行為のようなもの)。
 さすがの著者も飛行機で上空から島の様子を撮影するにとどまっています。

 こんなやっかいな領土問題を引き起こしてしまった原因はなんなのか?
 それを著者はアメリカの巧妙な戦略(著者の見立てだと陰謀と言ってもいいかもしれない)に見ます。
 1946年にGHQ/SCAPによって出された日本の範囲を規定する命令・SCAPIN677によると、北方領土や竹島、尖閣諸島はおろか、伊豆諸島や奄美大島も入っていないものでした。
 これはあくまでも暫定的なものでしたが、これがサンフランシスコ平和条約の時に問題になります。
 当初、サンフランシスコ平和条約では日本の領土と放棄する島々が列挙されるものでした。ところが、シーボルトやダレスが「細かすぎる」と注文をつけ、日本が放棄する領土は曖昧になります。

 この狙いについて、著者は原喜美恵『サンフランシスコ平和条約の盲点』を引きながら、日本と近隣国との間に楔を打つために行われたと推測していますが、これについてはやや疑問も残ります。
 確かに北方領土に関しては、日本が日ソ共同宣言時にニ島返還で妥協しそうになったのを、アメリカが四島返還論をバックアップし、日本の外交をある意味で妨害した部分はあると思います。それについてはこの本の第3章で詳細に説明されています。
 しかし、このアメリカの「陰謀」を竹島や尖閣諸島にまで広げるのはさすがにいき過ぎではないかと。
 アメリカは日本と韓国の不仲を憂いて、国交回復を願っていたわけだし、尖閣諸島に関しては、さすがに日中共同宣言のだされたころまで、アメリカが日中の間の領土問題について決定的な意見を述べられうような立場にいたとは言えないと思います。

 というわけで、やや「陰謀論」めいたところがあるのはマイナスなのですが、全体として見れば面白く興味深い本だと思います。

 ニッポンの国境 (光文社新書)
西牟田靖
4334036333

隈研吾・清野由美『新・ムラ論TOKYO』(集英社新書) 6点

以前紹介した『新・都市論TOKYO』の続編。
 汐留や丸の内、六本木といった再開発の地域をめぐった前作は最後に町田の雑多な光景に面白みを見出すという形で終わったのですが、今作では、そうした視点をもって、下北沢、高円寺、秋葉原、そして長野県の小布施を隈研吾・清野由美の二人が巡っています。

 タイトルにある「ムラ」とは、扉に書かれた言葉によると以下のようなもの。

 「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり、
 また、多様な生き方と選択肢のよりどころである。
 私たちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める。

 というコンセプトからも今回は建築はほとんど問題にはされず、もっぱら都市自体が考察の対象になります。
 人々の雑多な欲望を受け入れ、育むことのできる「ムラ」。そのような「ムラ」を都市の中に探っていくのが今回の本です。

 ただ、下北沢や高円寺といった街を歩きながら交わされる会話は、前作に比べると予定調和的でつまらない。
 前作では、隈研吾が現代の大規模開発において、建築家の置かれた現実を非常に率直に語っている点が面白かったのですが、今回は建築に対する批評がほぼないので、そういった話も少なく、もっぱら清野由美がいかにも「サブカル的」な店とかを紹介し、隈研吾がそれに感心してみせるといった話が続きます。

 秋葉原に関しては、隈研吾が広場について「人間の性欲がすれ違う場所のことです」(165p)と言っていたり、メイドカフェの内装の貧しさについて「男の想像力の中には、この貧しさが必要なんですよ。というか、この貧しさを利用して演じている自分自身を笑い、否定している。そこが三重に快感なんです」(151p)と言っていたりしてなかなか面白いのですが、そういう秋葉原について評価しながら、最後に小布施に落ち着くというのが何ともつまらない。
 小布施は確かに魅力的な「ムラ」なのかもしれませんが、テーマパーク的な「ムラ」とも言えるものであり、それこそ「「人間の性欲がすれ違う場所」ではないのでは?
 広がりを持つ可能性もあった「ムラ」という概念が、最終的には「東京発の大資本へのアンチ」的なものにまとまってしまっている感じです。

 ちなみに隈研吾は東急沿線で育ったらしいですが、その都市に対する認識は、年齢の違いはもちろんありますが同じ東急沿線で育った東浩紀とは対照的。東浩紀が思想地図で示したショッピングモールをめぐる議論はこの本で示される認識とは全く異なっています。
 隈研吾・清野由美のコンビは、ぜひ東浩紀・速水健朗あたりと対決してほしいですね。


 新・ムラ論TOKYO (集英社新書)
隈 研吾 清野 由美
4087206009

渡辺京二『日本近世の起源』(洋泉社新書y) 9点

「渡辺京二傑作選1」と銘打っていて、最初は弓立社の「叢書日本史再考」、つづいて洋泉社の「新書MC」で出されていた本の新装版とも言えるもの。
 もともとの刊行形態も新書ではなかったわけですが、中身も新書レベルを超えたもので、本来ならばちくま学芸文庫あたりに入るのがぴったりなのかもしれません(実際、ちくま学芸文庫でも「渡辺京二コレクション」が出ている)。

 内容は日本近世の成り立ちを扱ったもので、副題に「戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」とあるように、政府が機能せずに自力救済が求められたホッブズの「リヴァイアサン」的状況からいかに徳川幕府による太平の世がもたらされたかをいくつかのトピックを取り上げながら論じています。
 基本的に藤木久志などによる近年の戦国史研究などをもとに議論を進めている部分が多いので、藤木久志の著作に親しんでいる人などにとっては目新しくもないかもしれませんが、鎌倉時代から江戸時代までの広い範囲を、一つの流れとして描き出す筆の運びはさすがです。

 と同時に、この本は日本史学界への批判の書でもあります。
 基本的スタンスは今までの日本史学界における、「室町から戦国期にかけての争いは、武士階級と農民階級の戦いでもあり、徳川幕府の体制はそういった農民階級の自立の芽を完全に抑圧することで成り立った」根強い左翼的姿勢を批判するものです。
 さらに、渡辺京二は網野善彦にも批判の矢を向けます。
 網野善彦は中世における「無縁」に注目し、そこに領主権力に縛られない「自由」を見たわけですが、これに対して渡辺京二は江戸時代においても必ずしも「自由」が否定されていないことを指摘しつつ、そもそもここでの「自由」というのがポジティブなものなのか?ということを問題にします。
 中世にあったのは血なまぐさい暴力による自力救済の「自由」であって、その内実は今の感覚からしても肯定しがたいものです、それを「自由」という言葉だけに着目して持ち上げて見せることに渡辺京二は苛立っているのです。

 こうした観点から、「国一揆」「一向一揆」「刀狩令」「兵農分離」「山論・水論」といったものも読み解かれています。
 「山城国一揆や加賀の一向一揆は果たして農民による共和国と言えるのか?」「刀狩令や秀吉の一連の政策は兵農分離によって農民を被支配階級に押し込めるものだったのか?」「惣村の自治の実態はどのようなものだったのか?」、こうした興味深い問題を考察していくことによって、今までの中世・そして近世に対するイメージを大きく書き換えている本です。

 もっとも、日本史について学者の書いた本をそれほど読んだことのない人にとっては、渡辺京二が何にこれほど苛立っているのかわからないかもしれませんし、また、逆に「網野善彦こそが日本史学界の主流」といった偏ったイメージをもってしまうおそれもあります(影響力はあるけど、戦後日本史学界の主流といった扱いはオーバーでは…)。
 それでも、現代の日本人とは価値観や感覚が隔絶した時代があったということを印象づけてくれるいい本であることは間違いないです。

渡辺京二傑作選① 日本近世の起源 (新書y)
渡辺 京二
4862487661

山本太郎『感染症と文明』(岩波新書) 10点

これは面白い!
 近年、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』に見られるように、「感染症」を人類の歴史を決定づけた一つの大きな要因としてクローズアップする考え方が出てきています。この本もそうした感染症と文明の関係を扱った本です。
 ただ、ちょっと違うのは著者が歴史学者ではなく医師であるという点。感染症の特徴、そして感染のメカニズム、加えて感染症との「共生」という新しい考え方が打ち出されています。

 農耕の開始と文明の出現は、また大規模な感染症の出現でもありました。
 農耕の開始は多くの人口が狭い地域に暮らすことを可能にし、また同時に飼われはじめた家畜はさまざまなウィルスを持っていました。
 定住は排泄された糞便の集積をうみ、そこに寄生虫が繁殖します。余剰食料はネズミを呼び寄せ、そのネズミにいたノミやダニを通じて新たな病気がもたらされます。そして、家畜の持つウィルスは増加した人口という恰好な土壌を得て、ヒト社会へ定着します。
 
 古代メソポタミアではさまざまな帝国が攻防を繰り広げましたが、それを著者は次のように分析します。
 急性感染症をもたない文明の周辺に位置する人々は、感染症をもたないことで享受する健康と人口増加圧力で、文明の中心部を狙う。しかしそうした周辺部の人々が、ひとたび文明中心部の人々と接触すると、文明が保有する感染症によって、人口動態に変化を及ぼすほどの影響を受ける。周辺部の集団が、新たな文明の担い手となるには、そうした、文明が保有する生物学的障壁を乗り越える必要がある。こうした両者の関係は、歴史の中で繰り返し現れる。(45p)

 こうした感染症の存在は同時に文明が拡大する障壁にもなりました。
 中国には黄河と揚子江という2つの大きな大河があり、現在は揚子江流域の人口が多いですが、最初に文明が生まれたのは黄河流域でした。著者はこの理由として揚子江流域の寄生虫の影響をあげています。
 また、アフリカに進出したヨーロッパ人に立ちはだかったのも感染症でした。
 アフリカにおける「熱病」の死亡率は、イギリス出身者とアフリカ出身者で200倍の差が見られ(99p)、1830年、イギリスは下士官をのぞいて白人兵士を西アフリカに送るのをやめました(100p)。まさにアフリカは「暗黒大陸」だったのです。
 しかし、そんな状況を打ち破ったのが新大陸で見つかったキニーネでした。持ち込んだ病原菌によって先住民を死に追いやったヨーロッパ人は、今度はその新大陸で感染症の薬を手に入れたのです。
 
 20世紀前半の医学の歴史は、こうしたさまざまな感染症が植民地での研究によって解明されていく歴史でもありました。列強による帝国主義は感染症の謎を次々と明らかにしたのです。
 一方、帝国主義による世界の一体化は、感染症の爆発的な流行も生みました。
 第1次大戦末期から流行したスペイン風邪の流行は、帝国主義によって構築された交通システムと、第1次大戦下での兵士や労働者の移動を抜きにしては考えられないもので、戦争がその流行を加速させたとも言えます。
 スペイン風邪のウィルスは第一波よりも第二波が強毒性で、第三波は再び弱毒性になりました。著者はここにウィルスの進化を見ます。
 戦時中のように多くの人が兵営などで密集している場合、流行速度は加速し、強毒性のウィルスへの選択圧として働きます。第二派において毒性が強まったのはそのせいだと考えられます。
 けれども、流行が広がり免疫を獲得した人々が増えると流行速度は緩やかになります。つまりウィルスにとっては宿主がある程度の期間動きまわってくれないと、次の感染先を確保できないのです。そのために、ウィルスは弱毒化したと考えれます。
 このようなウィルスの特性にも焦点を当てているところが、普通の歴史の本とは違うところです。

 ここから著者はウィルスとの「共生」という考えを打ち出します。
 例えば、不治の病として恐れられているHIVですが、徐々に平均潜伏期間が長くなり、弱毒化しているといいます。強毒性のHIVは高い致死性と短い潜伏期間のために、宿主を消耗し尽くしてしまいます。つまり新しい宿主が次から次に現れないと繁殖できません。つまり、長期的に見れば潜伏期間が長く弱毒性のウィルスのほうが生き残っていく可能性は高いのです。
 そして、その先にウィルスと宿主(人間)の安定的な「共生」の可能性があるのではないか?というの著者の考え。
 かなり突飛な考えに見えるかもしれませんが、この本を読めばこの考えにある程度は納得出来ると思います。

 この他にも、感染症との戦いや、「姿を消した感染症」など興味深いトピックも満載で、200ページほどのホントは思えない濃密さ。オススメの1冊ですね。


 
 
感染症と文明――共生への道 (岩波新書)
山本 太郎
4004313147

藤原聖子『教科書の中の宗教』(岩波新書) 7点

2006年の教育基本法改正では、「宗教的情操」という言葉を入れるか入れないかで議論が起こりました。こうした言葉を入れることは政教分離の原則を踏み越えるものだと警戒心を持った人もいましたし、結局、この言葉は法案には入れられませんでした。
 しかし、現実にはとっくに「政教分離」を踏み越えた教育が行われていて、宗教に関して偏った教育が行われているではないかというのが著者のこの本での問題提起。

 著者が主に取り上げるのは高校の「倫理」という科目で行われている宗教についての説明(高校時代に習わなかったという人も多いとは思いますが、「倫理」とは哲学や宗教、そしてちょっと心理学っぽいことを学ぶ科目です)。
 この「倫理」では、仏教やキリスト教に関して、イエスやブッダの思想を取り上げながら、その思想を肯定的にとり上げられている部分が多くの教科書で見られます。
 例えば、「人類的な愛の実践を説くキリスト教の精神は、人類の存続にとって必要不可欠な共存・共生の倫理の根幹をなすものとして、また人種・民族間における差別に対する警鐘として、人間社会に生き続けるであろう」(清水書院の教科書、本書8pより)といった具合です。
 特に問題を感じないという人もいるでしょうが、キリスト教にかなり肯定的な評価を与えているのは間違いないですし、キリスト教の偉大さを生徒に植えつけるような内容だと言えなくもないです。
 同じような表現は仏教にもあって、西洋文明や物質主義のアンチテーゼとして、かなり肯定的に紹介されています。

 一方、この2つの宗教の革新性を際だたせるために、ユダヤ教やヒンドゥー教の記述は否定的なものになりがちです。
 ユダヤ教はキリスト教誕生の背景として、「選民思想」、「律法主義」といったキワードでまとめられていることが多く、イエスがユダヤ人のせいで十字架にかけられたという記述の危うさ(ユダヤ人差別の要因の一つとなる)については鈍感です。
 また、ヒンドゥー教も前身となるバラモン教は、あくまでもカースト制度などの問題を抱えたものとして記述されることが多く、仏教に比べると「遅れた」宗教の印象を持たせるものになっています。

 このような、キリスト教や仏教への肩入れというのは、「倫理」を教えたことのある自分としても多少は感じていたもので、著者の指摘は正当だと思います。 
 特に著者の次のような指摘はまさにそのとおりだと思います。

 倫理や現代社会の教科書は「宗教は本質的に愛の教えだ」と説き、他方、地理の教科書は世界の宗教紛争を取り上げ、「宗教の違いはよく対立の原因となる」と論じる。その間をつなげる教育が、どの科目でもなされていないのである。(198p)

 ただ、著者の主張は正論ではあるんだけど、実際に同理想の宗教教育を実現させていくかというと非常に難しい。
 著者はヨーロッパを始めとする各国の宗教教育の教科書やテキストを取り上げ、世界の「進んだ」実践を提示するのですが、第5章を読めばわかるようにどの国の教育も問題がないとは言えません。
 カナダ・ケベック州の宗教教育などはかなり進んだ内容で、それぞれの宗教の優劣をつけないように気をつけてはいるのですが、それでも無神論者から批判の声が出ています。
 宗教教育が重要であるというコンセンサスはできたとしても、例えば、共同体の文化との関係、カルトの取り扱いなど、中身の面でコンセンサスを得るのはほぼ不可能と言っていいほどです。

 あらゆる宗教に対して差別や偏見を持つべきではないというのは正しい意見ですが、それが本当に実践できるかとなると、相当に難しいはずです。
 例えば、この本を書いている著者でさえ、微妙な表現をしています。
 韓国ではカトリック系の学校のための宗教科の教科書というものが存在し、その中で「儒教」という言葉は避けつつ、韓国の女性を外見で判断する風潮を批判しています。そして、この部分を紹介するとき著者は「儒教的伝統に対する批判の要素が読み取れる。国内の男尊女卑や身分差別の慣習に対して、大いに啓発的なのである」(178p)と書いています。
 これは儒教が「男尊女卑」的であるといってしまっているのと変わらないのではないでしょうか?
 韓国の教科書が慎重に避けている儒教へのレッテル貼りを、簡単にしてしまっているのです。

 ただ、これだけでこの本がダメだと言うつもりはありません。それほどに公平、公正な宗教教育というのは難しいのです。
 著者は宗教教育についての日本の後進性や鈍感さに苛立っていますが、ある意味でそうした宗教教育が通用してきた日本というのは教育関係者にとっては幸せな国だったのかもしれません。
 しかし、今後、国際化が進めばそうも言えなくなる日が来るかもしれません。その来たるべき日のために貴重な問題提起を行った本と言えるでしょう。

 教科書の中の宗教――この奇妙な実態 (岩波新書)
藤原 聖子
4004313139
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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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