ご存知、アメリカ大統領ビル・クリントンの評伝。クリントンの半生と大統領としての業績を辿りつつ、イデオロギー的な分極傾向が続くアメリカ政治の中で、クリントンがそれにいかに対処したかということが描かれています。
クリントンの半生も面白いですし、クリントン政権を通して語られる「歴史」としての90年代にも興味深いものがあります(141pで触れられている、ロシアが民主化を進める代わりにアメリカがロシアに経済的な援助を行うことを約束した94年の「モスクワ宣言」などは現在のプーチン=オバマの関係からは考えられないですね)。また、当然ながらヒラリー・クリントンについても言及があり、大統領の座に近づいているヒラリー・クリントンの生い立ちや政治的スタンスを垣間見ることができます。
ビル・クリントンの生い立ちはかなり複雑で、自ら「アダルトチルドレン」だと告白したことを覚えている人もいるかもしれません。
クリントンの実の父親はクリントンが生まれる前に亡くなっており、母が再婚したことにより継父のもとで育つことになります。しかし、この継父はアルコール依存症であり、家族を虐待することもあったようです。
そんな中でも学生時代のクリントンは精力的に活動しており、アーカンソー州の地元の高校では「どこに行ってもビル・クリントンの姿を見た」(8p)というほどだったそうです。
クリントンは当初ミュージシャンや医者になることを考えていたようですが、1963年に夏期キャンプでケネディ大統領と会ったことから政治家になることを決意。この本の10pにはケネディ大統領と握手するクリントンの姿を写した写真が載っています。
その後ジョージタウン大学に進学し、ローズ奨学金の奨学生としてイギリスに渡ります。徴兵もうまくすり抜け、イェール大学のロー・スクールへと進みました。
このロー・スクールでクリントンはヒラリーと出会っています。ヒラリーはクリントンの第一印象を「毛穴からほとばしるようなバイタリティがあった」(19-20p)と評しており、2人は付き合うようになります。
74年、クリントンは連邦下院議員選挙に立候補しますがあえなく落選。翌75年にヒラリーと正式に結婚しています。
その後、クリントンは州政治でキャリアを積む道を選び、76年、州の司法長官に当選します。さらに78年には32歳の若さでアーカンソー州の知事に当選、当時の州知事のなかでは最も若い知事でした。
80年の再選には失敗しますが、得意の弁舌を活かして82年の選挙で返り咲くと92年までアーカンソー州の知事を務めました。
80年代後半になると、クリントンはレーガン政権下で劣勢に立たされていた民主党の将来を担う人材として期待されるようになります。
30年代から60年代にかけて、民主党は南部の白人・黒人、労働者、インテリなど幅広い支持を得て黄金時代を築きましたが、60年代にジョンソン大統領が公民権法が制定すると、南部の白人は共和党へと支持を変え、民主党の勢いも低迷していきます。
80年代の大統領選では民主党は1勝も出来ず、その立て直しが求められていたのです。
そんな中で、クリントンはいわゆる「ニュー・デモクラット」の一員でした。彼らは「マイノリティの党、犯罪者に甘い、増税容認」といった民主党のイメージを書き換えるべく、より中道的な理念を掲げようとしました。
クリントンは1992年の大統領選挙に挑戦するわけですが、冷戦を終わらせ湾岸戦争に勝利した現職のブッシュの支持率は91年の2月の時点で90%近くあり(46p)、民主党の大物は早々にブッシュへの挑戦を諦めていました。
そこにあえて出馬したのがクリントンです。しかし、過去の女性スキャンダルなどもあって序盤は苦戦し、アイオワでもニュー・ハンプシャーでも首位を獲得できずに終わります。「大統領選に勝つにはアイオワかニュー・ハンプシャーのどちらかで勝利する必要がある」というのがアメリカ大統領選の一つのセオリーなのですが、クリントンはこれに失敗するのです。
ところが、クリントンは撤退せずに粘り強く戦い、南部で勝利を得ると、ヒラリーの失言なども乗り越えてニューヨークやカリフォリニアで勝利。ついに民主党の大統領候補となります。
本選では、自分の得意な経済問題を中心に掲げ、ブッシュが得意な外交・安全保障問題について正面から論戦をすることは避けました。
また、この92年の大統領選挙では「第三の候補」として大富豪のロス・ペローが登場します。このロス・ペローがブッシュから票を奪い、クリントンの当選をアシストした、との見方がありますが、この本では、ペローはむしろクリントンから票を奪ったという研究が紹介されています(79-80p)。
大統領選とともに行われた上院・下院選でも民主党は勝利。民主党の「統一政府」が実現し、クリントンは安定した基盤を確保しました。
しかし、クリントン政権の第一期は迷走が目立ちました。
クリントンは財政再建を掲げていましたが、その方法や規模をめぐって、経済チームのベンツェン財務長官やルービン国家経済会議議長と民主党のリベラル派が対立します。
ヒラリーを特別委員会の議長に据えて国民皆保険の導入を図りますが、これに共和党が徹底抗戦、さらに民主党リベラル派からも「共和党寄り」の案だとの批判が起き、クリントンは挫折します(105-109p)。
外交・安全保障においても、対中政策はうまくいかず、日本との経済摩擦を抱え、ソマリアでは米兵が殺される事件が起こります(映画『ブラックホーク・ダウン』で描かれた事件)。
この後、国防長官(アスピン→ペリー)と大統領首席補佐官(マクラーティ→パネッタ)を交代させる人事を行い、体制を立て直し、ユーゴ内戦ではデイトン合意を成立させ、NAFTAの批准にも成功します。
しかし、94年の中間選挙では、ギングリッチに指導された共和党の前に敗北。民主党は上下両院で過半数を失います。
こうして見ていくと、「よくクリントンは再選できたな」、と思うのですが、逆境においてしぶといのがクリントンの特徴です。
クリントンは選挙に勝つために「ヒトラーとマザー・テレサに同じ日に助言できる男」(152p)とも言われたディック・モリスを起用。民主・共和両党の主張のちょうど中観点に大統領の政治的スタンスを置く「三角測量」と呼ばれる選挙戦術(154p)で巻き返しを図ります。
勢いにのるギングリッチは95年の議会で予算をめぐってクリントンと全面対決をする道を選びます。
クリントンはある程度共和党に譲りつつも、大事な部分では絶対に譲歩せずに政府機能停止も受け入れます。この共和党との議会をめぐる戦いでクリントンは勝利、ギングリッチの路線は行き詰まります。
そして、この長期戦は共和党の大統領候補であったボブ・ドールの選挙活動を遅らせます。さらにクリントン陣営は「ドール=ギングリッチを打ち負かせ」という選挙広告を大量投入、ギングリッチの不人気をドールに結びつける作戦に出ます(172p)。
また、当時順調だったアメリカの経済状態もクリントンの追い風となり、クリントンは再選を決めます。結果的にギングリッチがドールの足を引っ張ったとも言えるわけですが、この辺りが中央の統制が弱いアメリカの政党の弱点と言えるかもしれません。
再選を果たしたクリントンの第二期政権は第一期よりも順調で、堅実な経済の情勢のもと99年には財政黒字を計上するなど、財政再建を果たしました。
一方、外交に関してはパレスチナ和平の交渉をまとめきれず、オサマ・ビン=ラディンを取り逃がしました。また、日本との関係に関しては日米安保の再定義を成し遂げるものの、アジア通貨危機における日本のAMF(アジア通貨基金)構想をめぐってぎくしゃくするなど、日本政府内部で「民主党政権は日本に批判的で中国寄り」という印象を刷り込むことになります(196p)。
そして何といってもクリントン政権の第二期を騒がせたのはスキャンダルと弾劾裁判です。
詳しくは本書にあたって欲しいのですが、この本を読むと独立検察官のケネス・スターが非常に「党派的」だったこともわかりますし、クリントンの脇の甘さというのもわかります。
このようなスキャンダルの印象が強いクリントンですが、終章で著者はその優れた部分としてそのエネルギッシュさや記憶力の良さをあげています。特に記憶力については抜群で、一度会った人物は忘れなかったそうです(イメージは全然違いますが田中角栄もそういう人物)。
最後に著者は、オバマ政権はクリントンの中道政権に対する「民主党左派の反動」という顔を持ち、オバマ政権のもとでアメリカのイデオロギー的分断と等は対立が深まったとしています(246ー247p)。
個人的には、ここはちょっとわからない所で、オバマ大統領はそんなに「左派的」には見えないんですよね。むしろ、「黒人」であるオバマ大統領に対して共和党が必要以上にその「左派色」を強調しているだけにも見えるのですが、どうなんでしょう?
また、クリントン政権の路線を引き継ごうとしたゴアが負けた理由についても触れて欲しかったです。
ただ、クリントン本人に関しては非常にバランスよく書かれていると思いますし、最初に述べたようにヒラリー・クリントンへの言及も興味深いです(ヒラリーは64年の大統領選挙で共和党のゴールドウォーターを熱心に支持していた、など)。
今年秋の大統領選挙を考える上でも非常に役立つ本だと思います。
ビル・クリントン - 停滞するアメリカをいかに建て直したか (中公新書)
西川 賢

クリントンの半生も面白いですし、クリントン政権を通して語られる「歴史」としての90年代にも興味深いものがあります(141pで触れられている、ロシアが民主化を進める代わりにアメリカがロシアに経済的な援助を行うことを約束した94年の「モスクワ宣言」などは現在のプーチン=オバマの関係からは考えられないですね)。また、当然ながらヒラリー・クリントンについても言及があり、大統領の座に近づいているヒラリー・クリントンの生い立ちや政治的スタンスを垣間見ることができます。
ビル・クリントンの生い立ちはかなり複雑で、自ら「アダルトチルドレン」だと告白したことを覚えている人もいるかもしれません。
クリントンの実の父親はクリントンが生まれる前に亡くなっており、母が再婚したことにより継父のもとで育つことになります。しかし、この継父はアルコール依存症であり、家族を虐待することもあったようです。
そんな中でも学生時代のクリントンは精力的に活動しており、アーカンソー州の地元の高校では「どこに行ってもビル・クリントンの姿を見た」(8p)というほどだったそうです。
クリントンは当初ミュージシャンや医者になることを考えていたようですが、1963年に夏期キャンプでケネディ大統領と会ったことから政治家になることを決意。この本の10pにはケネディ大統領と握手するクリントンの姿を写した写真が載っています。
その後ジョージタウン大学に進学し、ローズ奨学金の奨学生としてイギリスに渡ります。徴兵もうまくすり抜け、イェール大学のロー・スクールへと進みました。
このロー・スクールでクリントンはヒラリーと出会っています。ヒラリーはクリントンの第一印象を「毛穴からほとばしるようなバイタリティがあった」(19-20p)と評しており、2人は付き合うようになります。
74年、クリントンは連邦下院議員選挙に立候補しますがあえなく落選。翌75年にヒラリーと正式に結婚しています。
その後、クリントンは州政治でキャリアを積む道を選び、76年、州の司法長官に当選します。さらに78年には32歳の若さでアーカンソー州の知事に当選、当時の州知事のなかでは最も若い知事でした。
80年の再選には失敗しますが、得意の弁舌を活かして82年の選挙で返り咲くと92年までアーカンソー州の知事を務めました。
80年代後半になると、クリントンはレーガン政権下で劣勢に立たされていた民主党の将来を担う人材として期待されるようになります。
30年代から60年代にかけて、民主党は南部の白人・黒人、労働者、インテリなど幅広い支持を得て黄金時代を築きましたが、60年代にジョンソン大統領が公民権法が制定すると、南部の白人は共和党へと支持を変え、民主党の勢いも低迷していきます。
80年代の大統領選では民主党は1勝も出来ず、その立て直しが求められていたのです。
そんな中で、クリントンはいわゆる「ニュー・デモクラット」の一員でした。彼らは「マイノリティの党、犯罪者に甘い、増税容認」といった民主党のイメージを書き換えるべく、より中道的な理念を掲げようとしました。
クリントンは1992年の大統領選挙に挑戦するわけですが、冷戦を終わらせ湾岸戦争に勝利した現職のブッシュの支持率は91年の2月の時点で90%近くあり(46p)、民主党の大物は早々にブッシュへの挑戦を諦めていました。
そこにあえて出馬したのがクリントンです。しかし、過去の女性スキャンダルなどもあって序盤は苦戦し、アイオワでもニュー・ハンプシャーでも首位を獲得できずに終わります。「大統領選に勝つにはアイオワかニュー・ハンプシャーのどちらかで勝利する必要がある」というのがアメリカ大統領選の一つのセオリーなのですが、クリントンはこれに失敗するのです。
ところが、クリントンは撤退せずに粘り強く戦い、南部で勝利を得ると、ヒラリーの失言なども乗り越えてニューヨークやカリフォリニアで勝利。ついに民主党の大統領候補となります。
本選では、自分の得意な経済問題を中心に掲げ、ブッシュが得意な外交・安全保障問題について正面から論戦をすることは避けました。
また、この92年の大統領選挙では「第三の候補」として大富豪のロス・ペローが登場します。このロス・ペローがブッシュから票を奪い、クリントンの当選をアシストした、との見方がありますが、この本では、ペローはむしろクリントンから票を奪ったという研究が紹介されています(79-80p)。
大統領選とともに行われた上院・下院選でも民主党は勝利。民主党の「統一政府」が実現し、クリントンは安定した基盤を確保しました。
しかし、クリントン政権の第一期は迷走が目立ちました。
クリントンは財政再建を掲げていましたが、その方法や規模をめぐって、経済チームのベンツェン財務長官やルービン国家経済会議議長と民主党のリベラル派が対立します。
ヒラリーを特別委員会の議長に据えて国民皆保険の導入を図りますが、これに共和党が徹底抗戦、さらに民主党リベラル派からも「共和党寄り」の案だとの批判が起き、クリントンは挫折します(105-109p)。
外交・安全保障においても、対中政策はうまくいかず、日本との経済摩擦を抱え、ソマリアでは米兵が殺される事件が起こります(映画『ブラックホーク・ダウン』で描かれた事件)。
この後、国防長官(アスピン→ペリー)と大統領首席補佐官(マクラーティ→パネッタ)を交代させる人事を行い、体制を立て直し、ユーゴ内戦ではデイトン合意を成立させ、NAFTAの批准にも成功します。
しかし、94年の中間選挙では、ギングリッチに指導された共和党の前に敗北。民主党は上下両院で過半数を失います。
こうして見ていくと、「よくクリントンは再選できたな」、と思うのですが、逆境においてしぶといのがクリントンの特徴です。
クリントンは選挙に勝つために「ヒトラーとマザー・テレサに同じ日に助言できる男」(152p)とも言われたディック・モリスを起用。民主・共和両党の主張のちょうど中観点に大統領の政治的スタンスを置く「三角測量」と呼ばれる選挙戦術(154p)で巻き返しを図ります。
勢いにのるギングリッチは95年の議会で予算をめぐってクリントンと全面対決をする道を選びます。
クリントンはある程度共和党に譲りつつも、大事な部分では絶対に譲歩せずに政府機能停止も受け入れます。この共和党との議会をめぐる戦いでクリントンは勝利、ギングリッチの路線は行き詰まります。
そして、この長期戦は共和党の大統領候補であったボブ・ドールの選挙活動を遅らせます。さらにクリントン陣営は「ドール=ギングリッチを打ち負かせ」という選挙広告を大量投入、ギングリッチの不人気をドールに結びつける作戦に出ます(172p)。
また、当時順調だったアメリカの経済状態もクリントンの追い風となり、クリントンは再選を決めます。結果的にギングリッチがドールの足を引っ張ったとも言えるわけですが、この辺りが中央の統制が弱いアメリカの政党の弱点と言えるかもしれません。
再選を果たしたクリントンの第二期政権は第一期よりも順調で、堅実な経済の情勢のもと99年には財政黒字を計上するなど、財政再建を果たしました。
一方、外交に関してはパレスチナ和平の交渉をまとめきれず、オサマ・ビン=ラディンを取り逃がしました。また、日本との関係に関しては日米安保の再定義を成し遂げるものの、アジア通貨危機における日本のAMF(アジア通貨基金)構想をめぐってぎくしゃくするなど、日本政府内部で「民主党政権は日本に批判的で中国寄り」という印象を刷り込むことになります(196p)。
そして何といってもクリントン政権の第二期を騒がせたのはスキャンダルと弾劾裁判です。
詳しくは本書にあたって欲しいのですが、この本を読むと独立検察官のケネス・スターが非常に「党派的」だったこともわかりますし、クリントンの脇の甘さというのもわかります。
このようなスキャンダルの印象が強いクリントンですが、終章で著者はその優れた部分としてそのエネルギッシュさや記憶力の良さをあげています。特に記憶力については抜群で、一度会った人物は忘れなかったそうです(イメージは全然違いますが田中角栄もそういう人物)。
最後に著者は、オバマ政権はクリントンの中道政権に対する「民主党左派の反動」という顔を持ち、オバマ政権のもとでアメリカのイデオロギー的分断と等は対立が深まったとしています(246ー247p)。
個人的には、ここはちょっとわからない所で、オバマ大統領はそんなに「左派的」には見えないんですよね。むしろ、「黒人」であるオバマ大統領に対して共和党が必要以上にその「左派色」を強調しているだけにも見えるのですが、どうなんでしょう?
また、クリントン政権の路線を引き継ごうとしたゴアが負けた理由についても触れて欲しかったです。
ただ、クリントン本人に関しては非常にバランスよく書かれていると思いますし、最初に述べたようにヒラリー・クリントンへの言及も興味深いです(ヒラリーは64年の大統領選挙で共和党のゴールドウォーターを熱心に支持していた、など)。
今年秋の大統領選挙を考える上でも非常に役立つ本だと思います。
ビル・クリントン - 停滞するアメリカをいかに建て直したか (中公新書)
西川 賢
