元裁判官による裁判所批判の本。帯には「最高裁中枢の暗部を知る元エリート裁判官衝撃の告発!」とあり、実際、興味深い指摘もあるのですが、著者の語り口が、あまりに大げさ、あるいは世の中を憂う文学青年のようで、その内容をどこまで真に受けるべきなのか迷う本でもあります。
例えば、著者は現在の裁判所について「一種の柔構造全体主義体制、日本列島に点々と散らばる「精神的な収容所群島」となっていると考える」(53p)と述べています。
さらに「最高裁判事の性格類型別分類」という小見出しを設け(54p以下)、そこで最高裁の判事を「A類型 人間として味わい、ふくらみや翳りを含めたそうした個性豊かな人物 5%」、「B類型 イヴァン・イリイチタイプ 45%」、「C類型 俗物、純粋出世主義者 40%」、「D類型 分類不能型あるいは「怪物」? 10%」と分類しています。
ちなみに「イヴァン・イリイチタイプ」とは、トルストイの『イヴァン・イリイチの死』の主人公をモデルにした類型で「一言でいえば、成功しており、頭がよく。しかしながら価値観や人生観は本当は借り物という人々である。その共通の特質は、たとえば、善意の、無意識的な、自己満足と慢心、少し強い言葉を使えば、スマートで切れ目のない自己欺瞞の体系といったものである」(56p)とのことです。
このような表現に迫真性を感じる人は読むといいと思いますし、引いてしまう人は読まなくてもいいといった感じでしょうか。
著者は、関根牧彦というペンネームで『映画館の妖精』という小説(?)を書いたり、本文のなかにも度々「自分はもともと学者向きだった」という言葉が見られたり、あるいは、あとがきでビートルズの歌詞やボブ・ディランの言葉を引用していることから、「文学的」な方なのでしょう。
しかし、個人的にはこの「文学的」な資質と表現が、裁判所を見る目を曇らせているようにも思えます。
ただ、興味深い指摘もいくつかあります。
一つ目は、裁判員制度の導入の背景に、刑事系裁判官の民事系裁判官に対する巻き返しがあるという指摘。
近年、民事事件が増えるとともに刑事系の裁判官はその数を減らし、また若手の人気もなくなっているといいます。そこで、刑事系の裁判官が巻き返しのために今まで消極的だった国民の司法参加に積極的になったというのです。
この本では、裁判員制度の導入に関して、「実質的な目的は、トップの刑事系裁判官たちが、民事系に対して長らく劣勢であった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権をも掌握しようと考えたことにある」(67p)という見方を紹介しています。
実際、2006年から最高裁長官に2人続けて刑事系の裁判官で、これはこれまでで初めて(73p)、その他のポストでも刑事系裁判官の進出が目立つそうです。
二つ目は、裁判官は決して忙しくないという指摘。
民事裁判においてやたらに和解を進める理由や、法廷での審理がいい加減な理由として「日本の裁判官は大量の事件を抱えていて忙しすぎる」というものがありました。映画『それでもボクはやってない』でも、こうした説明がされています。
ところが、著者はこれは一種の「神話」であって、東京近辺の民事系の裁判官などを除けば、それほど多忙ではないといいます。
実際、「地裁訴訟事件新受件数は、2012年度には、民事(行政を含む)はピーク時である2009年度の74.9%に、刑事はピーク時である2004年度の67.5%に減少」(160p)しており、一方で裁判官の人数は増えているそうです。
あと、この本のメインの主張としては、裁判所の改革には硬直したキャリアシステムをやめ、弁護士から裁判官を登用する法曹一元制度を実現することだとしています。
確かに、裁判所の人事や裁判官の実情がこの本に描かれたとおりであるならば、既存の制度を大きく変えることが必要でしょう。
けれども、この本の書きぶりだと、それをどこまで信じていいのか?という疑問が残ります。
個人的には、日本の裁判所についての本であれば、ダニエル・H・フット『名もない顔もない裁判所』のほうをお薦めします。
絶望の裁判所 (講談社現代新書)
瀬木 比呂志

例えば、著者は現在の裁判所について「一種の柔構造全体主義体制、日本列島に点々と散らばる「精神的な収容所群島」となっていると考える」(53p)と述べています。
さらに「最高裁判事の性格類型別分類」という小見出しを設け(54p以下)、そこで最高裁の判事を「A類型 人間として味わい、ふくらみや翳りを含めたそうした個性豊かな人物 5%」、「B類型 イヴァン・イリイチタイプ 45%」、「C類型 俗物、純粋出世主義者 40%」、「D類型 分類不能型あるいは「怪物」? 10%」と分類しています。
ちなみに「イヴァン・イリイチタイプ」とは、トルストイの『イヴァン・イリイチの死』の主人公をモデルにした類型で「一言でいえば、成功しており、頭がよく。しかしながら価値観や人生観は本当は借り物という人々である。その共通の特質は、たとえば、善意の、無意識的な、自己満足と慢心、少し強い言葉を使えば、スマートで切れ目のない自己欺瞞の体系といったものである」(56p)とのことです。
このような表現に迫真性を感じる人は読むといいと思いますし、引いてしまう人は読まなくてもいいといった感じでしょうか。
著者は、関根牧彦というペンネームで『映画館の妖精』という小説(?)を書いたり、本文のなかにも度々「自分はもともと学者向きだった」という言葉が見られたり、あるいは、あとがきでビートルズの歌詞やボブ・ディランの言葉を引用していることから、「文学的」な方なのでしょう。
しかし、個人的にはこの「文学的」な資質と表現が、裁判所を見る目を曇らせているようにも思えます。
ただ、興味深い指摘もいくつかあります。
一つ目は、裁判員制度の導入の背景に、刑事系裁判官の民事系裁判官に対する巻き返しがあるという指摘。
近年、民事事件が増えるとともに刑事系の裁判官はその数を減らし、また若手の人気もなくなっているといいます。そこで、刑事系の裁判官が巻き返しのために今まで消極的だった国民の司法参加に積極的になったというのです。
この本では、裁判員制度の導入に関して、「実質的な目的は、トップの刑事系裁判官たちが、民事系に対して長らく劣勢であった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権をも掌握しようと考えたことにある」(67p)という見方を紹介しています。
実際、2006年から最高裁長官に2人続けて刑事系の裁判官で、これはこれまでで初めて(73p)、その他のポストでも刑事系裁判官の進出が目立つそうです。
二つ目は、裁判官は決して忙しくないという指摘。
民事裁判においてやたらに和解を進める理由や、法廷での審理がいい加減な理由として「日本の裁判官は大量の事件を抱えていて忙しすぎる」というものがありました。映画『それでもボクはやってない』でも、こうした説明がされています。
ところが、著者はこれは一種の「神話」であって、東京近辺の民事系の裁判官などを除けば、それほど多忙ではないといいます。
実際、「地裁訴訟事件新受件数は、2012年度には、民事(行政を含む)はピーク時である2009年度の74.9%に、刑事はピーク時である2004年度の67.5%に減少」(160p)しており、一方で裁判官の人数は増えているそうです。
あと、この本のメインの主張としては、裁判所の改革には硬直したキャリアシステムをやめ、弁護士から裁判官を登用する法曹一元制度を実現することだとしています。
確かに、裁判所の人事や裁判官の実情がこの本に描かれたとおりであるならば、既存の制度を大きく変えることが必要でしょう。
けれども、この本の書きぶりだと、それをどこまで信じていいのか?という疑問が残ります。
個人的には、日本の裁判所についての本であれば、ダニエル・H・フット『名もない顔もない裁判所』のほうをお薦めします。
絶望の裁判所 (講談社現代新書)
瀬木 比呂志
