山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2014年04月

入江昭『歴史家が見る現代世界』(講談社現代新書) 5点

 ハーバード大学名誉教授にしてアメリカ歴史学会の会長も務めた著者が、変わりゆく現代世界と歴史学について語った本。
 歴史学について語った部分はさすがに面白いのですが、現代世界の変化について語った部分はありがちな理想論で、個人的にはあまり刺激を受けませんでした。
 目次は以下のとおり。
第1章 歴史をどうとらえるか
第2章 揺らぐ国家
第3章 非国家的存在の台頭
第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
第5章 普遍的な「人間」の発見
第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
結 語 現代の歴史と記憶

 第1章では、まず「いつから「現代」なのか?」という問いからはじめ、「冷戦後が「現代」なのだ」という冷戦史観を批判しつつ、グローバリゼーションこそが「現代」を過去と分かつ重要なポイントであり、そのために歴史学も今までの国家の枠組みにとらわれたものではなく、「グローバル」、「トランス・ナショナル」に展開していかなければならないとしています。
 近年、歴史学の世界では「グローバル・ヒストリー」ということがさかんに言われていますが、この第1章を読むと、こうした概念が登場した理由というものがよくわかると思います。

 第2章の「揺らぐ国家」も、提出されている問いには興味深いものがあります。第2章の中の見出しには「福祉国家はグローバリズムと両立するか」、「グローバル・ガバナンスという問題の浮上」といった項目がありますが、いずれもしっかりと考えていくべき論点でしょう。

 ところが、そういった問への答え、現代世界が進むべき道やそのための方法を語った部分の議論が大雑把で物足りない。
 第3章以降は、基本的に「国家の枠を越えたグローバルな取り組みが増えている」、「これからは国家の枠組みに縛られない「人間」、「地球」に時代!」みたいな話が続くわけです。

 例えば、冷戦の終結についても次のように説明しています。

 現実主義的な専門家が冷戦の行方を予測できなかったことからわかるように、国際関係としての冷戦は、もともとグローバルな世界と相対するものであり、人権その他の力が強くなっているときに、人類の運命を左右するほどの影響力は失っていたのである。
 人権などを通してつながる世界は、冷戦によって定義された世界とは異質なものであり、前者が高揚すればするほど後者が後退、最終的には消滅してしまうのも不思議ではなかった。
 そのような文脈で見ると、「ヘルシンキ宣言」で参加国すべてにおける人権の尊重が取り決められた時点で、歴史は「冷戦の時代」から「世界主義の時代」に入ったのだといえる。(173p)
 
 確かに、「ヘルシンキ宣言」で設立された全欧安全保障協力会議は冷戦の終結に大きな役割を果たしましたが、そこに対話の枠組みが生まれたことに意味があるのであって、「人権の尊重が取り決められた」ことが、冷戦の終結につながったとは思えません。
 やはり、ソ連の経済の行き詰まりが一番の要因でしょう。

 また、この本では人権を、「国家の枠組みを超えるもの」として扱っていますが、現在のところ人権を保障する中心的な機関はやはり国家でしょう。
 さきほど、この本の小見出しに「福祉国家はグローバリズムと両立するか」というものがあることを紹介しましたが、今考えるべきなのは「人権と国家の対立」ではなく、「自国民の人権を守ってきた福祉国家がグローバリズムにどう対処すべきか?」といった問題なのではないでしょうか?

 また、大きな流れとしてのグローバル化は認めるにしても、EU統合の終焉(遠藤乾『統合の終焉』を参照)、東ティモールや南スーダンなど、それにもかかわらずつづく独立の動きなどもフォローして欲しかったですね。

 同じくアメリカで活躍し、この本の著者の入江昭より4歳年下の青木昌彦の『青木昌彦の経済学入門』が、参考文献に最近の本がずらっと並んだ「現役感」に満ちた本だったのに対して、この本には参考文献の一覧もなく、学者としては「あがって」しまった人の本だと感じました。

歴史家が見る現代世界 (講談社現代新書)
入江 昭
4062882574

厚香苗『テキヤはどこからやってくるのか?』(光文社新書) 4点

 お祭や縁日などで屋台を出しさまざまなものを売るテキヤ。『男はつらいよ』の寅さんを思い浮かべる人もいるでしょう。
 そのテキヤが「どこからやってくるのか?」というのは確かに気になることだと思います。今の時代のテキヤは寅さんのようにトランク1つで全国を旅しているわけはないだろうと思いつつも、大きなお祭りの度に集まるテキヤの数を考えると、地元の人だけとは思えません。
 そんな誰しもが抱く疑問をタイトルにした本なのですが、残念ながらタイトルの問いにズバリ答えてくれているわけではありません。また、民俗学の研究者の書いた本なのですが、研究のスタイルが定まっていない感じで全体的にやや散漫な印象を受けます。

 「テキヤはどこからやってくるのか?」ということに関しては、第一章で青森県岩木山神社の例大祭の資料と、熊本の植木市の案内板の写真を紹介し(編集の問題だと思うけどこの写真は小さすぎて残念ながら中身が読み取れない)、出ている露店にも地元のものとよそからやってくるものがあることをまず示してくれています。
 ところが、そのよそからやってくるテキヤがどこからやってきているのかについての言及はありません。
 著者によると、基本的には地元の露天商が多数派で仕切っているとのことなのですが、やはりよそ者である「タビの人」がどこから来るのか知りたいところです。
 
 次にテキヤの世界の地域性は北海道・東日本、西日本、沖縄の3つに分かれると書いてあります。
 知り合いのテキヤに沖縄はなぜ違うのか?と尋ねたところ、「沖縄はアメリカだったから」との答えを得ていますが(30p)、具体的にどう違うのかはわかりませんし、沖縄まで旅しに行くテキヤがいるのかどうかもわかりません。また、西日本と東日本の具体的な違いというのもよくわかりません。

 この本は一事が万事このような感じなのです。
 もちろん、テキヤという存在自体が記録に残りにくいものでもありますし、テキヤ自体が自分たちの仕事の詳細を語りたがらないというのもわかります。
 この本を読みながら、誰か一人でもいいからテキヤのライフストーリーが知りたいと思いましたが、「自分の人生を順を追って詳しく話してくれるテキヤはほとんどいなかった」(177p)そうです。
 それでも、例えばテキヤの一年の行動とか、忙しい時期と閑散期とか、何がしかテキヤの行動を浮かび上がらせてくれる題材はあると思います。
 この本では、そうしたものが145〜149pの墨田区あたりのテキヤのなわばりと、161〜162pにかけてのあるテキヤの親分の商いに出かけた場所の地図くらいしかありません。こうした地図もテキヤのインタビューと組み合わせれば興味深いものになりそうなのですが、そうしたものもなく、たんに紹介されているだけです。

 テキヤの神農信仰の話や、テキヤの口上の重要性とその紹介など、興味深い話もいろいろ散りばめられていますし、露天商自らが「七割商人、三割ヤクザ」という部分についても、兵庫県神戸市で「兵庫県神農商業協同組合」が暴力団に顧問料を払っていた事件をとりあげるなど、踏み込んで紹介していますが、やはり全体的に分析のターゲットや方法がしっかりしていないように思えます。
 題材は面白いですし、著者も頑張ってフィールドワークをしたようなので、少しもったいない感じのする本です。

テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る (光文社新書)
厚 香苗
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島宗理『使える行動分析学』(ちくま新書) 5点

 サブタイトルは「じぶん実験のすすめ」。「じぶん実験」とあるので、いくつかの簡単な実験から人間の認知の歪みとか行動のバイアスみたいなものを探る本なのかな?と思って購入したのですが、「目標を達成するにはどうしたら良いか?」というような本でした。

 ダイエットや毎日の運動、英語の勉強など、こつこつ毎日やれば良い結果がついてくるのがわかってるのに結局は三日坊主で終わってしまうことは多いです。
 実際にそういったことに悩んでいる人は多いでしょう。イアン・エアーズの『ヤル気の科学』では、そういった三日坊主をなくすために、何らかの約束(コミットメント)をすることが重要で、そのためのネットサービスを立ちあげたことが紹介されていました。
 ただ、日本ではそうしたネットサービスはまだ一般的ではないですし、ちょっと大げさに関してしまうかもしれません。
 そこでもうちょっと気軽にチャレンジできるのがこの本で紹介されている「じぶん実験」でしょう。

 「じぶん実験」といっても、基本的には改善したい行動に対してどうやってアプローチするのか?ということを手順に従って決め、それが決まったら日々の行動を記録し可視化する、といった程度のものです。
 ただ、帯に「理系発想の心理学」とあるように、問題へのアプローチの仕方は系統だっていて、役に立つと思います。

 まずターゲットにするのは行動で、「〜をしない」という形のものはターゲットにしません。
 この本では「死人テスト」という言葉が使われていますが、ようするに死人にはできないことです。例えば、「お酒を控える」というのは死人もできます。飲めませんから。そこで「お酒を飲む」という行きた人間にしかできないことをターゲットにしてそれを記録し、改善をはかるのです。

 そうしたら、その行動が出現する状態を映画やドラマのワンシーンのようにイメージし、どのようなときに出現するかを書き留めます。さらに後続する現象をあげていきます。このときにその行動の自発頻度を高める出来事や条件を「好子(こうし)」、逆に行動の自発頻度を低める出来事や条件を「嫌子(けんし)」と言います。
 この「好子」、「嫌子」を書き出すことで行動を阻んでいるもの、あるいは行動を続けていくための助けになりそうなものを探します。
 ただし、いくら「好子」があってもそれが現れるのが相当先ならば、あまり効果はありません。「塵も積もれば…」という形の成果は、なかなか人間の習慣をかえられないのです。

 ですから、「彼女をつくるために」とか「お腹が割れるように」という理由で毎日腹筋を続けるのは難しいとのことです。表を作って丸をつける、腹筋ができたらなにかご褒美的なものを設定するなど、直後に何か「好子」を設定するのがよいそうです。
 
 そして、行動ができたかできなかったかを記録し、グラフ化します。このグラフは簡単なものでいいそうですが、レコーディングダイエットなどに見られるように、成果を記録し、それを見えるようにするというのはやはり大きなポイントのようです。

 先ほど腹筋の話は、実際に著者が大学の授業で学生に課題としてやらせたものの一つです。この本には他にも、「片付けられない」「きれいな字を書く」「骨を鳴らさない」「試験勉強をする」「毎日新聞を読む」といった学生の取り組みが紹介されています。
 同じような悩みを抱えている人は、この本を手にとってそこの部分だけでも見てみるといいかもしれません。

 ただ、この本で解説されている心理的なメカニズムは非常に単純なもので、深みやなにか新しい知見のようなものはありません。
 前述のエアーズの本には、「なぜ目標を守ることが難しいのか?」ということに対する心理的なメカニズムの解説などがありましたが、この本では行動を変えるために役立つシンプルなメカニズムが紹介されているだけです。
 もともとそういう本なので仕方がないのでしょうが、個人的にはそこが物足りなかったです。

使える行動分析学: じぶん実験のすすめ (ちくま新書)
島宗 理
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河添房江『唐物の文化史』(岩波新書) 8点

 なぜ日本人は舶来ブランド品を愛するのか? 艶やかな織物や毛皮、香料、楽器、書、薬、さらには茶や茶器、珍獣……正倉院宝物から江戸の唐物屋まで、この国の文化は古来、異国からの舶来品、すなわち 「唐物」を受け入れ吸収することで発展してきた。各時代のキーパーソンとの関係を軸に、唐物というモノを通じて日本文化の変遷を追う。図版も多数収録、絢爛豪華! 日本人の舶来品信仰の歴史がこの1冊でわかる。

 このカバー見返しの紹介文だけですと、日本に伝わった海外のものやその受容のされ方を並べた本のように思えますが、分析は思ったよりも深く、古代から近世に至る日本の外交や、「国風文化」の本当の意味、そして日本人の美意識まで、さまざまなことを考えさせる内容になっています。
 各時代のキーパーソンというのも聖武天皇、嵯峨天皇、仁明天皇、藤原道長・実資、平清盛、奥州藤原氏、金沢貞顕、佐々木道誉、足利義満・義政、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・吉宗と多岐にわたっており、必ずしも「唐物」に興味がなくても、歴史に興味があれば楽しめると思います。

 まずは「国風文化」について。
 「国風文化」というと、「菅原道真の建議による遣唐使の廃止によって、唐の文化の流入が止まり、日本独自の文化が花開いた」といった説明がされることがありますが、実際に当時の貴族などを見ていくと、そうではありません。
 『枕草子』や『源氏物語』には、数々の「唐物」が登場しますし、藤原道長はさかんに中国の書物を求めましたし、道長の家司であった藤原惟憲(つねのり)は太宰大弐になると道長・頼通父子のためにさかんに唐物を求め、その強欲ぶりを藤原実資に批判されています。

 そもそも、「遣唐使の廃止=中国との交流断絶」とは言えません。唐とのあいだの朝貢貿易はなくなったとしても、民間の貿易や、朝鮮半島などを通じた「唐物」の流入ルートはありました。
 清和天皇の貞観の時代は、最後の遣唐使の派遣(838年)から30年近くたっていましたが、唐や新羅の商船が大宰府にやってくると「唐物使(からもののつかい)」と呼ばれる「唐物」を優先的に買い上げる使者が派遣され、また入唐使という少人数で唐の商船に便乗していく買い物目的の使者も派遣されました(45ー46p)。つまり、遣唐使以外の民間の交流はむしろ盛んになっていたのです。

 ただ、この時期から単純に中国のものをありがたがるだけでなく、「唐物」を日本流にアレンジする動きも出てきます。
 この時代、「唐物」の香料を調合して香りを作る薫物が貴族の間で流行し、日本独自の展開を見せ始めます。また、著者の専門とも言える『源氏物語』においても「唐物」=素晴らしい、という単純な図式が取られているわけではありません。末摘花の持つ「唐物」はむしろ「時代遅れ」、「場違いなもの」として機能しています。
 「公 ー 漢詩・漢字(真名)・唐絵」、「私 ー 和歌・仮名・大和絵」という公私の世界における和漢の文化の使い分け(87ー88p)を基本としつつも、和漢に通じ、それを融合させていくようなあり方が目指されたのです。

 この和漢の融合というのは室町時代にも追求されました。
 足利義満は明との勘合貿易を開始し、かつてない規模で「唐物」を手元に集め、それを北山第に並べましたが、同時に寝殿には和物が飾られていたといいます(135p)。
 またこの時代の「唐物」は、中国とはまた違った美意識で集められているケースも有ります。例えば、牧谿は室町時代の日本で非常に評価された水墨画の画家ですが、本国での評価はそれほどでもなかったといいます(137ー138p)。「唐物」を珍重しつつも、中国とはまた違った美意識が育っていったのです。

 そして、「わび茶」の創始者と言われる村田珠光は、「和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要、ようじんあるべき事也」という言葉を残しています(147p)。
 ここにおいて、「唐物」を上位、和物を下位とするヒエラルキーは否定されるのです。また、村田珠光からはじまる「わび茶」の流れでは、中国南部の民窯でつくられた非主流的なものが評価され、さらに日常の食器であった高麗茶碗が評価されていきました。
 「唐物」とその他のものを日本的な美意識で評価するシステムが出来上がったのです。

 このシステムに乗っかったのが織田信長でした。信長は珠光や千利休などが見出した茶器を集め、それを配下の武将などに配り、自らの権威を示しました。
 このやり方は豊臣秀吉、そして部分的には徳川家康にも引き継がれ、政治的な支配者は、「唐物」、そしてこの時代に登場した南蛮物、あるいは見出された茶器を使って文化的な支配者としての地位も誇示したのです。

 さらにこの本は吉宗の実学的な外国文化の輸入、そして「唐物」の中でも昔のものをありがたがる日本人の尚古趣味などについても触れ、さらに「和漢」という区別について改めて考察しています。
 この「和漢」の区別、そしてそれが意味するものというのは、美術品だけでなく、日本の知識人や思想家の考えなどにも深く関わってきます。
 この本にその答えが書かれているわけではありませんが、それを考えるための手がかりが数多く載っている本だと思います。

唐物の文化史――舶来品からみた日本 (岩波新書)
河添 房江
4004314771

矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書) 7点

 昨年公開された映画『ハンナ・アーレント』も話題になった、政治哲学者ハンナ・アーレントの評伝。
 思想家の評伝は、(1) 伝記的事実、(2) その思想家の思想の変遷と時代との関わり、(3) その思想家の後世への影響をはじめとする思想史上の意義、といったもので構成されるものだと思いますが、この本には(3)の部分がほとんどありません。
 それを象徴するのがアーレントの各著作への言及で、『全体主義の起源』、「人間の条件』といった主著と同じくらいの紙幅を使って、『暗い時代の人々』に所収されている「暗い時代の人間性 ー レッシング考」が紹介されています。そして、もちろん『イェルサレムのアイヒマン』についてもその後の論争を含めて紹介されていますが、『革命について』への言及はほとんどありません。
 つまり、そういう本だと思ってください。

 ですから、アーレントがマルクスやルソーを批判する一つの基盤をつくったとか、トクヴィルの洞察の鋭さに再び光を当てたとか、そういった話はないので、思想史の中におけるアーレントの位置づけのようなものを知りたい人には向いていない本です。

 ただ、そのぶん(1) 伝記的事実、(2) その思想家の思想の変遷と時代との関わり、に関しての記述は充実しています。
 アーレントの主な著作はだいたい読んでいましたし、ハイデガーとの恋とか亡命生活といった伝記的事実もある程度は知っていたのですが、この本を読んで、改めてナチスに追われたあとの亡命生活の様子や、ベンヤミンとの劇的な別れ、ハイデガーとの戦後の再会といったエピソードを知ることができました。

 また、アーレントの時代との関わりについての記述は特に充実しています。
 例えば、アイヒマン論争をとり上げるだけでなく、初めに書いたようにアーレントのレッシング賞受賞演説「暗い時代の人間性 ー レッシング考」を詳しく取り上げているので、アイヒマン論争におけるアーレントの立ち位置がよくわかるようになっています。
 アイヒマン論争において、アーレントはユダヤ人のナチスへの協力などを告発したことからショーレムに「ユダヤ人への愛がないのか?」と言われ、「自分が愛するのは友人だけであって、何らかの集団を愛したことはない」と答えています。
 このやりとりだけを見ると、アーレントはいわゆるコスモポリタンなのかとも思いますが、彼女は自らが「ユダヤ人であること」を決して捨て去ろうとはしませんでした。
 「差別的なカテゴリーを押しつけてくる政治のなかでは、そのカテゴリーを手に抵抗するしか現実的な手段はない、とアーレントは考えた」(178p)です。
 しかし、それは「個人的なアイデンティティ」ではありません。「ユダヤ人」であることに「個人的なアイデンティティ」を求めると、その人は「誰でもない者」になってしまいます。
 このあたりのアーレントの微妙な立ち位置がこの本ではうまく説明されていると思います。

 これ以外にも、黒人生徒の高校入学をめぐったリトルロック事件に対するアーレントの意見(子どもや教育の場に政治的な対立を持ち込むことを批判するもの)など、アーレントの思想を知る上で興味深いエピソードがいろいろととり上げられています。

 最初に書いたように欠けている部分もある本ですが、新書というスタイル上ある程度しかたのないことですし、また、それ以外の部分によってその埋め合わせは十分にできていると思います。

ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
矢野 久美子
4121022572

河野至恩『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書) 6点

 この本の著者の河野至恩は、日本の高校を卒業後(ちなみに日テレの高校生クイズの優勝者であるらしい)、グルー基金によってアメリカの大学で物理学と宗教学を専攻、さらにプリンストン大学の比較文学部の博士課程に進み、アメリカで日本文学について学んだというちょっと変わった経歴の持ち主です。
 また、東浩紀『動物化するポストモダン』の英訳をした人物でもあり、その関係もあって『思想地図』などに文章を寄せており、そこで名前を目にしたことのある人もいるでしょう。

 そんな欧米の大学の様子をよく知り、また実際に日本文学などについて教えたこともある著者が、欧米における日本文学の受容のされ方、欧米のアカデミズムにおける日本研究の動向などについて語った本。
 面白い論点がいくつもありますが、全体的に掘り下げが不足気味で、興味深いと同時に物足りなくもあります。

 欧米の大学で日本の文化について学ぶとなると、だいたい「比較文学」か「地域研究」のどちらかの学部になります。
 この本では第1部を「比較文学篇」、第2部を「地域研究篇」として、それぞれの方法論や最近の動向を紹介しています。

 「比較文学篇」では、著者の経験をもとに、日本の大学で日本語で日本文学を研究することと、アメリカの大学で英語で日本文学を研究することの差異が語られ、さらに村上春樹の受容のされ方、「世界文学」へと話が進んでいきます。
 
 例えば、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』については面白い問題が提起されています。『ねじまき鳥クロニクル』は、日本ではまずBOOK1・2が出版され、その後しばらくしてBOOK3が出版されました。最初の時点ではBOOK3が出るかどうかは明らかにされておらず、BOOK2の最後である程度話が終わってもいいようになっています。
 ところが、英訳版の『ねじまき鳥クロニクル』はBOOK1~3が1冊の小説として出版され、村上春樹の了解のもと、BOOK2のラストが削られるなど、かなり大きな変更がなされています。
 著者は、加藤典洋の将来的には英語版のテクストが「決定版」として重視される可能性さえある、という指摘を紹介し(68p)、そこから翻訳の問題や、翻訳から浮かび上がる村上春樹のローカル性などについて触れています。

 第2部は「地域研究篇」です。「地域研究」とは、ある国や地域の文化や社会を総合的に理解しようとするもので、アメリカの大学では「日本研究」は「東アジア研究」の一部となっていることが多いようです。
 ここでちょっと面白いのが、「いっぽうで、「フランス研究」、「ドイツ研究」などは「地域研究」ではなく、フランス文学部、ドイツ文学部、歴史学部などの学部で研究されているという指摘」(136p)。「地域研究」の政治性というものを感じます。

 さらに、欧米の大学では「日本には海外とはちがう特殊な文化がある」という「日本文化論」が否定的に語られているという話も興味深いです。
 「日本文化論」は日本のナショナリズムにとって都合がよく、また「日本文化」というキーワードを使うことで、それ以上の分析が難しくなります。この本では福島第一原発事故の国会事故調の報告書が、この事故は「メイド・イン・ジャパン」、つまり日本独自の文化に根ざすものだと書き、その部分が欧米のメディアから「責任逃れ」と批判された事例が紹介されていますが、この指摘はあたっていると思います。

 また、2009年に『動物化するポストモダン』の英訳の出版を機に、東浩紀と宮台真司が「ポストバブルの文化と理論」というパネル発表をしたところ、質疑応答の中で、女性読者の問題、日本社会におけるマイノリティ、経済格差などについて質問が相次いだというという話も、アメリカの大学の人文系の様子や、「日本文化論」から距離を取ろうとする姿勢がうかがえて面白いです。

 このように、面白い部分は色々とあるのですが、そこからの広がりが物足りないです。第1部を膨らまして、向こうの大学生の日本文学に対する反応などをもっととり上げても面白かったと思いますし、第2部を膨らまして、マンガやアニメに対する反応や、そうしたものがアカデミズムの中でどう研究されようとしているのか?というった部分をもっと掘り下げても面白かったと思います。
 というわけで、ややもったいない本に思えました。


世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)
河野 至恩
4062882558
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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