日本の歴史に大きな足跡を残しながら、意外とメインでとり上げている一般書が少ない源頼朝。その源頼朝に関して、近年の研究の成果などを折り込みながら、その生涯をたどった評伝になります。
どうしても『平家物語』の印象が強い頼朝ですが、この本を読むと今までのイメージのいくつかが覆されると思います。近年、鎌倉時代についても研究が進んでいたことは断片的には知っていたので、個人的に「そろそろ源頼朝の新書が出るべきではないか」と思っていたのですが期待以上の発見がありました(ちなみに次は北条泰時の新書を期待したい)。ただし、文章はやや硬めです。
目次は以下の通り。
頼朝の事績にすべてふれながらまとめていくとかなりの分量になってしまうので、ここでは今までのイメージを書き換えている部分を中心にポイントをしぼって紹介していきます。
平治の乱について
まず、保元の乱の恩賞が少なかったために頼朝の父の義朝が不満を持ったという説ですが、これについて河内源氏で初めて内昇殿を許され、左馬頭という本来は四位の者が任じられる官職についてたので、これは破格の待遇だったといいいます。
平治の乱は藤原信頼と義朝が中心となって起こりますが、従来、信頼に関しては基本的には無能で後白河の男色相手だから出世したという話があります。しかし、著者は信頼が武蔵守を務め、その関係で東国武士を動員できたこと、平清盛や奥州藤原氏の秀衡と姻戚関係を結んでいたこと、関白藤原基実を妹婿に迎え摂関家の武的基盤となっていたことなどをあげ、信頼を「武門の統合者」(21p)と評しています。
頼朝を支えた勢力について
頼朝の挙兵が成功した背景として、義家以来、東国において河内源氏が大きなブランドなっていたことがあげられますが、代々河内源氏の乳母を出した山内首藤氏の山内首藤経俊は頼朝の乳母子でありながら石橋山で頼朝を攻撃しましたし、河内源氏と関わりの深い波多野氏の波多野義常も挙兵に協力せずに滅亡しています。頼義や義家の打ち立てた河内源氏のブランドが頼朝の挙兵を支えたというわけではないのです。
一方、頼朝を支援者の中心となったのが頼朝の乳母の一人の比企尼です。彼女の女婿には安達盛長、河越重頼、伊東祐清といった人物がいますが、彼らはのちに頼朝を支える重要人物になっていきます。
また、伊豆の知行国主は源頼政であり、在庁官人であった北条時政が頼朝を保護した理由として頼政の存在があげられるといいます。
以仁王の乱の失敗から頼朝の挙兵へ
治承三年の政変によって後白河院政を停止させた清盛は、院や院の近臣のもっていた知行国を奪い、平氏の一門や関係者に与えました。これとともに平氏の家人がそれらの国に進出していきます。
坂東では相模と上総で受領が交代しますが、これとともに大庭景親や伊藤忠清といった平氏の家人が坂東に進出し、在庁官人であった三浦氏や上総介広常らと軋轢が生じました。
さらに以仁王の乱で頼政が敗死すると、伊豆の知行国主も頼政から平時忠へと交代します。頼朝の挙兵には以仁王の令旨だけではなく、こうした状況があったのです。
石橋山での敗戦からの巻き返し
伊豆の知行国主・頼政の敗死によって頼朝は追い詰められ挙兵へと至ります。しかし、目代の平兼隆を討つことには成功するものの、三浦氏などの頼朝を支持する一族と合流できないままに石橋山で大庭景親の軍勢に敗れます。
ただし、頼朝が房総半島に逃れると千葉常胤や上総介広常らが加わり頼朝の軍勢は膨れ上がりました。なお、広常に関しては当初明確な態度を示さず、場合によっては頼朝を殺す「二心」を抱いていた『吾妻鏡』には書かれていますが、広常は上総で平家の家人の伊藤忠清の圧迫を受けており、平氏方になる可能性はなかったと著者は見ています。
富士川の合戦と義経への態度
富士川の合戦にいたる前に、駿河の目代や平氏方の家人が武田信義以下の甲斐源氏に討たれました。甲斐源氏はこの後も頼朝から独立した勢力として動きます。
これに対し、平氏は頼朝や甲斐源氏を討伐するために軍を差し向けます。平氏の作戦はまずは勇猛・忠実だが少数の「家人」が敵を攻撃し、その後、強制的に挑発された「かり武者」が残敵を殲滅するというものでしたが(65p)、平氏の「かり武者」中心の軍勢が東国に着く前に波多野義常や大庭景親、伊東祐親といった平氏の有力家人はすでに頼朝軍の前に敗れていたのです。結果、寄せ集めの軍勢の士気は下がる一方で、戦う前に勝負は決まっていました。
このとき、頼朝は義経と初めて出会うわけですが、当初、頼朝は義経を猶子として扱ったといいます。義経は弟というだけではなく、藤原秀衡の支援を受けて頼朝のもとに参じたと考えられ、頼朝を喜ばせました。
また、富士川の合戦後、頼朝は新恩給与と本領安堵を行い、さらに佐竹氏を攻撃した後にも新恩給与を行うなど、東国武士の掌握に務めました。
義経と義仲の立場
1181年になると、平氏が巻き返しますが、この年の閏2月に清盛が亡くなり、後白河の院政が復活します。戦線は膠着状態に陥りますが、ここで頼朝は後白河に敵対する意思がないことを示すとともに和平提案を行っています。平氏はこれを受け入れませんでしたが、これは後白河と公家に頼朝という存在を認識させる一つのきっかけとなりました。
一方、平氏は清盛の跡を継いだ宗盛が藤原秀衡を陸奥守に就任させることで、奥州藤原氏を味方に引き込もうとしました。これに対して、頼朝は秀衡を呪い殺すための調伏まで行ったそうですが(93p)、これとともに義経の立場は悪化していきました。
1183年、倶利伽羅峠の戦いで圧勝した義仲が京に入り、平氏は都落ちします。一躍時の人となった義仲ですが、京での認知度は低く、院や貴族からは頼朝の代官と認識される程度でした。また、義仲が北陸宮の践祚を要求したことや義仲軍の乱暴狼藉もあって、後白河は義仲を見限ります。
それとともに頼朝の価値は上昇し、1183年の十月宣旨によって頼朝は東国の支配権を獲得し、義仲とともに頼朝は官軍に位置づけられます。
頼朝軍の上洛
1183年12月、上総介広常が梶原景時によって殺害される事件が起こっています。これは広常が上洛を望まずに東国での独立を求めたことが原因とも考えられていますが、同時に挙兵時において最大の兵力を持っていた広常の軍の再編にもつながりました。
1184年の1月になると源範頼の軍が上洛し、義仲は滅亡します。そして、2月には一の谷の合戦で平氏の軍を打ち破りました。義経の活躍に関しては、鵯越を行ったのは摂津源氏の多田行綱である可能性が高いが、一の谷の関門を攻略した義経の功績もそれなりに大きなものだったと述べています。
その後の義経
一の谷の活躍で頼朝から警戒された義経が平氏追討の軍から外されたという解釈もありますが、義経が動かなかったのは兵糧不足と1184年7月に起きた伊賀・伊勢平氏の蜂起のためだとしています。この反乱は抑えこむことが出来たものの、伊藤忠清が逃亡し、京はしばらくその影に怯えることになります。
範頼が山陽道を押さえたものの、平氏の水軍には手出しができずに膠着状態が続きますが、85年の2月に義経が屋島に出撃し、これを落とすと、3月には壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させます。
この功績によって義経は伊予守・院御厩司となります。これは頼朝の推挙であり、伊予守は播磨守と並ぶ受領の最高峰なので妥当な昇進なのですが、院御厩司は在京武力の第一人者が就任する役職であり、頼朝の意向であったかどうかはわからないとみています。
また、梶原景時の「讒言」に関しては、その裏に西国武士中心で行われた義経の戦いに対する東国武士の憤懣があったとみています。
最終的な決裂
近年の研究では「腰越状」は創作と見られており、決裂はもう少しあとの伊予守に任官しながら検非違使に留任したあたりにあると著者は見ています。受領は遥任が可能で、鎌倉在住が可能ですが、検非違使はそうはいきません。義経を手元に置きたい後白河がこの異例の人事を行い、義経がその後白河のもとで独自の勢力を築こうとしたことが決裂の要因であるというのです。そして、父義朝を弔うための勝長寿院の落慶供養に義経が来なかったことが決定打となり、義経は後白河に迫って頼朝追討宣旨を受けるのです。
鎌倉幕府の成立年について
近年、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に就任した1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年とする説が唱えられています(他にもさまざまな説がある)。義経が武士の動員に失敗し都落ちすると、頼朝の代官として北条時政が上洛します。そして、時政が守護と地頭の設置を要求し、これが鎌倉幕府成立の画期となったというのです。
しかし、荘園・公領単位の地頭は前年から設置されていますし、大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場するのは1192年以降であり、ここで設置されたのは「国地頭」だと考えられるといいます。この国地頭は段別五升の兵糧米を徴収できるとともに国内の武士の動員権を有する強大な存在で、軍政官的な存在でした。
時政が五畿内以下七カ国の国地頭となったほか、梶原景時が播磨・美作、土肥実平が備前・備中・備後など、義経追討の体制を固めますが、国地頭の強引な支配は反発を呼び、設置から半年ほどで国地頭は廃止されていきます。
では、鎌倉幕府の成立はいつだと捉えればいいのか? 著者は大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場する1192年をもって「鎌倉幕府は名実ともに成立した」(242p)とみています。大犯三カ条をもった守護の出現により、代理の警備は御家人に一元化され、「国家的武力の大半を幕府が独占」(242p)することになったからです。
奥州合戦の意義
義経が奥州藤原氏の庇護下に入ると頼朝は秀衡への圧迫を強めます。1187年に秀衡が死去すると、奥州藤原氏は内紛によって結束力を失い、泰衡は頼朝の圧力に屈する形で義経を殺害します。
後白河は頼朝の軍事行動を抑えようとしますが、頼朝は大庭景能の献策を受けて奥州征伐へと向かいます。たとえ、朝廷から恩賞として官位がもらえなくても、敵方の所領を没収することによる新恩給与が可能だったからです。
この奥州合戦によって頼朝は唯一の官軍となり、頼朝の地位は盤石なものとなりました。
上洛と頼朝の官職
1190年、頼朝は上洛し右近衛大将になり、1192年には再び上洛し、ご存知のように征夷大将軍となります。右近衛大将はすぐに辞任しますが、これは不満があったため
ではなく、鎌倉に下向しなければならず、儀式の故実も知らない頼朝がその職にとどまれなかったからだと考えられます。
征夷大将軍の任官の背景にも、京都以外に居住しても就任可能で、二位以上の公卿にふさわしい官職ということで、不吉な先例のない征夷大将軍が選ばれたと考えられます。
大姫入内工作
1195年、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養のために上洛しますが、このときは百日以上にわたって京にとどまりました。この理由の1つが大姫の入内工作です。
大姫は許嫁であった義仲の子・義高を殺されて以降「気鬱」となっていました。大姫の入内工作を不遇な娘に対する親心とする見方もありますが、頼朝は大姫の死後には妹の三幡(さんまん)の入内工作も進めており、朝廷の掌握がその目的だったと考えられます。
しかし、大姫も三幡も入内前に亡くなってしまったことから、この計画は頓挫するのです(三幡の入内工作は頼朝の死後にも行われたが、三幡は14歳で夭折した)。
この入内工作の部分では、頼朝と九条兼実の関係などにも触れられており、そこも興味深いです。
このようにこの本は、今まで流布してきた頼朝に関する「物語」を近年の研究や史料を通じて再検討したものになります。頼朝に関しては、どうしても義経らと対比されて、その冷酷非情な「性格」が前面に出てきてしまうことが多いですが、そうした「性格」を脇に置き、まずは「事績」をたどることで、頼朝という人物を明らかにしようとした本といえるでしょう。
断片的には知っていたことも多いのですが、近年の研究の成果がまとまって提示させており、非常に勉強になりました。

どうしても『平家物語』の印象が強い頼朝ですが、この本を読むと今までのイメージのいくつかが覆されると思います。近年、鎌倉時代についても研究が進んでいたことは断片的には知っていたので、個人的に「そろそろ源頼朝の新書が出るべきではないか」と思っていたのですが期待以上の発見がありました(ちなみに次は北条泰時の新書を期待したい)。ただし、文章はやや硬めです。
目次は以下の通り。
頼朝の登場―河内源氏の盛衰
流刑地の日々―頼朝挙兵の前提
挙兵の成功―流人の奇跡
義仲との対立―源氏嫡流をめぐって
頼朝軍の上洛―京・畿内の制圧
平氏追討―義経と範頼
義経挙兵と公武交渉―国地頭と廟堂改革
義経の滅亡と奥州合戦―唯一の官軍
頼朝上洛と後白河の死去―朝の大将軍
頼朝の晩年―権力の継承と「失政」
頼朝の事績にすべてふれながらまとめていくとかなりの分量になってしまうので、ここでは今までのイメージを書き換えている部分を中心にポイントをしぼって紹介していきます。
平治の乱について
まず、保元の乱の恩賞が少なかったために頼朝の父の義朝が不満を持ったという説ですが、これについて河内源氏で初めて内昇殿を許され、左馬頭という本来は四位の者が任じられる官職についてたので、これは破格の待遇だったといいいます。
平治の乱は藤原信頼と義朝が中心となって起こりますが、従来、信頼に関しては基本的には無能で後白河の男色相手だから出世したという話があります。しかし、著者は信頼が武蔵守を務め、その関係で東国武士を動員できたこと、平清盛や奥州藤原氏の秀衡と姻戚関係を結んでいたこと、関白藤原基実を妹婿に迎え摂関家の武的基盤となっていたことなどをあげ、信頼を「武門の統合者」(21p)と評しています。
頼朝を支えた勢力について
頼朝の挙兵が成功した背景として、義家以来、東国において河内源氏が大きなブランドなっていたことがあげられますが、代々河内源氏の乳母を出した山内首藤氏の山内首藤経俊は頼朝の乳母子でありながら石橋山で頼朝を攻撃しましたし、河内源氏と関わりの深い波多野氏の波多野義常も挙兵に協力せずに滅亡しています。頼義や義家の打ち立てた河内源氏のブランドが頼朝の挙兵を支えたというわけではないのです。
一方、頼朝を支援者の中心となったのが頼朝の乳母の一人の比企尼です。彼女の女婿には安達盛長、河越重頼、伊東祐清といった人物がいますが、彼らはのちに頼朝を支える重要人物になっていきます。
また、伊豆の知行国主は源頼政であり、在庁官人であった北条時政が頼朝を保護した理由として頼政の存在があげられるといいます。
以仁王の乱の失敗から頼朝の挙兵へ
治承三年の政変によって後白河院政を停止させた清盛は、院や院の近臣のもっていた知行国を奪い、平氏の一門や関係者に与えました。これとともに平氏の家人がそれらの国に進出していきます。
坂東では相模と上総で受領が交代しますが、これとともに大庭景親や伊藤忠清といった平氏の家人が坂東に進出し、在庁官人であった三浦氏や上総介広常らと軋轢が生じました。
さらに以仁王の乱で頼政が敗死すると、伊豆の知行国主も頼政から平時忠へと交代します。頼朝の挙兵には以仁王の令旨だけではなく、こうした状況があったのです。
石橋山での敗戦からの巻き返し
伊豆の知行国主・頼政の敗死によって頼朝は追い詰められ挙兵へと至ります。しかし、目代の平兼隆を討つことには成功するものの、三浦氏などの頼朝を支持する一族と合流できないままに石橋山で大庭景親の軍勢に敗れます。
ただし、頼朝が房総半島に逃れると千葉常胤や上総介広常らが加わり頼朝の軍勢は膨れ上がりました。なお、広常に関しては当初明確な態度を示さず、場合によっては頼朝を殺す「二心」を抱いていた『吾妻鏡』には書かれていますが、広常は上総で平家の家人の伊藤忠清の圧迫を受けており、平氏方になる可能性はなかったと著者は見ています。
富士川の合戦と義経への態度
富士川の合戦にいたる前に、駿河の目代や平氏方の家人が武田信義以下の甲斐源氏に討たれました。甲斐源氏はこの後も頼朝から独立した勢力として動きます。
これに対し、平氏は頼朝や甲斐源氏を討伐するために軍を差し向けます。平氏の作戦はまずは勇猛・忠実だが少数の「家人」が敵を攻撃し、その後、強制的に挑発された「かり武者」が残敵を殲滅するというものでしたが(65p)、平氏の「かり武者」中心の軍勢が東国に着く前に波多野義常や大庭景親、伊東祐親といった平氏の有力家人はすでに頼朝軍の前に敗れていたのです。結果、寄せ集めの軍勢の士気は下がる一方で、戦う前に勝負は決まっていました。
このとき、頼朝は義経と初めて出会うわけですが、当初、頼朝は義経を猶子として扱ったといいます。義経は弟というだけではなく、藤原秀衡の支援を受けて頼朝のもとに参じたと考えられ、頼朝を喜ばせました。
また、富士川の合戦後、頼朝は新恩給与と本領安堵を行い、さらに佐竹氏を攻撃した後にも新恩給与を行うなど、東国武士の掌握に務めました。
義経と義仲の立場
1181年になると、平氏が巻き返しますが、この年の閏2月に清盛が亡くなり、後白河の院政が復活します。戦線は膠着状態に陥りますが、ここで頼朝は後白河に敵対する意思がないことを示すとともに和平提案を行っています。平氏はこれを受け入れませんでしたが、これは後白河と公家に頼朝という存在を認識させる一つのきっかけとなりました。
一方、平氏は清盛の跡を継いだ宗盛が藤原秀衡を陸奥守に就任させることで、奥州藤原氏を味方に引き込もうとしました。これに対して、頼朝は秀衡を呪い殺すための調伏まで行ったそうですが(93p)、これとともに義経の立場は悪化していきました。
1183年、倶利伽羅峠の戦いで圧勝した義仲が京に入り、平氏は都落ちします。一躍時の人となった義仲ですが、京での認知度は低く、院や貴族からは頼朝の代官と認識される程度でした。また、義仲が北陸宮の践祚を要求したことや義仲軍の乱暴狼藉もあって、後白河は義仲を見限ります。
それとともに頼朝の価値は上昇し、1183年の十月宣旨によって頼朝は東国の支配権を獲得し、義仲とともに頼朝は官軍に位置づけられます。
頼朝軍の上洛
1183年12月、上総介広常が梶原景時によって殺害される事件が起こっています。これは広常が上洛を望まずに東国での独立を求めたことが原因とも考えられていますが、同時に挙兵時において最大の兵力を持っていた広常の軍の再編にもつながりました。
1184年の1月になると源範頼の軍が上洛し、義仲は滅亡します。そして、2月には一の谷の合戦で平氏の軍を打ち破りました。義経の活躍に関しては、鵯越を行ったのは摂津源氏の多田行綱である可能性が高いが、一の谷の関門を攻略した義経の功績もそれなりに大きなものだったと述べています。
その後の義経
一の谷の活躍で頼朝から警戒された義経が平氏追討の軍から外されたという解釈もありますが、義経が動かなかったのは兵糧不足と1184年7月に起きた伊賀・伊勢平氏の蜂起のためだとしています。この反乱は抑えこむことが出来たものの、伊藤忠清が逃亡し、京はしばらくその影に怯えることになります。
範頼が山陽道を押さえたものの、平氏の水軍には手出しができずに膠着状態が続きますが、85年の2月に義経が屋島に出撃し、これを落とすと、3月には壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させます。
この功績によって義経は伊予守・院御厩司となります。これは頼朝の推挙であり、伊予守は播磨守と並ぶ受領の最高峰なので妥当な昇進なのですが、院御厩司は在京武力の第一人者が就任する役職であり、頼朝の意向であったかどうかはわからないとみています。
また、梶原景時の「讒言」に関しては、その裏に西国武士中心で行われた義経の戦いに対する東国武士の憤懣があったとみています。
最終的な決裂
近年の研究では「腰越状」は創作と見られており、決裂はもう少しあとの伊予守に任官しながら検非違使に留任したあたりにあると著者は見ています。受領は遥任が可能で、鎌倉在住が可能ですが、検非違使はそうはいきません。義経を手元に置きたい後白河がこの異例の人事を行い、義経がその後白河のもとで独自の勢力を築こうとしたことが決裂の要因であるというのです。そして、父義朝を弔うための勝長寿院の落慶供養に義経が来なかったことが決定打となり、義経は後白河に迫って頼朝追討宣旨を受けるのです。
鎌倉幕府の成立年について
近年、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に就任した1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年とする説が唱えられています(他にもさまざまな説がある)。義経が武士の動員に失敗し都落ちすると、頼朝の代官として北条時政が上洛します。そして、時政が守護と地頭の設置を要求し、これが鎌倉幕府成立の画期となったというのです。
しかし、荘園・公領単位の地頭は前年から設置されていますし、大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場するのは1192年以降であり、ここで設置されたのは「国地頭」だと考えられるといいます。この国地頭は段別五升の兵糧米を徴収できるとともに国内の武士の動員権を有する強大な存在で、軍政官的な存在でした。
時政が五畿内以下七カ国の国地頭となったほか、梶原景時が播磨・美作、土肥実平が備前・備中・備後など、義経追討の体制を固めますが、国地頭の強引な支配は反発を呼び、設置から半年ほどで国地頭は廃止されていきます。
では、鎌倉幕府の成立はいつだと捉えればいいのか? 著者は大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場する1192年をもって「鎌倉幕府は名実ともに成立した」(242p)とみています。大犯三カ条をもった守護の出現により、代理の警備は御家人に一元化され、「国家的武力の大半を幕府が独占」(242p)することになったからです。
奥州合戦の意義
義経が奥州藤原氏の庇護下に入ると頼朝は秀衡への圧迫を強めます。1187年に秀衡が死去すると、奥州藤原氏は内紛によって結束力を失い、泰衡は頼朝の圧力に屈する形で義経を殺害します。
後白河は頼朝の軍事行動を抑えようとしますが、頼朝は大庭景能の献策を受けて奥州征伐へと向かいます。たとえ、朝廷から恩賞として官位がもらえなくても、敵方の所領を没収することによる新恩給与が可能だったからです。
この奥州合戦によって頼朝は唯一の官軍となり、頼朝の地位は盤石なものとなりました。
上洛と頼朝の官職
1190年、頼朝は上洛し右近衛大将になり、1192年には再び上洛し、ご存知のように征夷大将軍となります。右近衛大将はすぐに辞任しますが、これは不満があったため
ではなく、鎌倉に下向しなければならず、儀式の故実も知らない頼朝がその職にとどまれなかったからだと考えられます。
征夷大将軍の任官の背景にも、京都以外に居住しても就任可能で、二位以上の公卿にふさわしい官職ということで、不吉な先例のない征夷大将軍が選ばれたと考えられます。
大姫入内工作
1195年、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養のために上洛しますが、このときは百日以上にわたって京にとどまりました。この理由の1つが大姫の入内工作です。
大姫は許嫁であった義仲の子・義高を殺されて以降「気鬱」となっていました。大姫の入内工作を不遇な娘に対する親心とする見方もありますが、頼朝は大姫の死後には妹の三幡(さんまん)の入内工作も進めており、朝廷の掌握がその目的だったと考えられます。
しかし、大姫も三幡も入内前に亡くなってしまったことから、この計画は頓挫するのです(三幡の入内工作は頼朝の死後にも行われたが、三幡は14歳で夭折した)。
この入内工作の部分では、頼朝と九条兼実の関係などにも触れられており、そこも興味深いです。
このようにこの本は、今まで流布してきた頼朝に関する「物語」を近年の研究や史料を通じて再検討したものになります。頼朝に関しては、どうしても義経らと対比されて、その冷酷非情な「性格」が前面に出てきてしまうことが多いですが、そうした「性格」を脇に置き、まずは「事績」をたどることで、頼朝という人物を明らかにしようとした本といえるでしょう。
断片的には知っていたことも多いのですが、近年の研究の成果がまとまって提示させており、非常に勉強になりました。