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2019年02月

元木泰雄『源頼朝』(中公新書) 8点

 日本の歴史に大きな足跡を残しながら、意外とメインでとり上げている一般書が少ない源頼朝。その源頼朝に関して、近年の研究の成果などを折り込みながら、その生涯をたどった評伝になります。
 どうしても『平家物語』の印象が強い頼朝ですが、この本を読むと今までのイメージのいくつかが覆されると思います。近年、鎌倉時代についても研究が進んでいたことは断片的には知っていたので、個人的に「そろそろ源頼朝の新書が出るべきではないか」と思っていたのですが期待以上の発見がありました(ちなみに次は北条泰時の新書を期待したい)。ただし、文章はやや硬めです。

 目次は以下の通り。
頼朝の登場―河内源氏の盛衰
流刑地の日々―頼朝挙兵の前提
挙兵の成功―流人の奇跡
義仲との対立―源氏嫡流をめぐって
頼朝軍の上洛―京・畿内の制圧
平氏追討―義経と範頼
義経挙兵と公武交渉―国地頭と廟堂改革
義経の滅亡と奥州合戦―唯一の官軍
頼朝上洛と後白河の死去―朝の大将軍
頼朝の晩年―権力の継承と「失政」

 頼朝の事績にすべてふれながらまとめていくとかなりの分量になってしまうので、ここでは今までのイメージを書き換えている部分を中心にポイントをしぼって紹介していきます。

 平治の乱について
 まず、保元の乱の恩賞が少なかったために頼朝の父の義朝が不満を持ったという説ですが、これについて河内源氏で初めて内昇殿を許され、左馬頭という本来は四位の者が任じられる官職についてたので、これは破格の待遇だったといいいます。
 平治の乱は藤原信頼と義朝が中心となって起こりますが、従来、信頼に関しては基本的には無能で後白河の男色相手だから出世したという話があります。しかし、著者は信頼が武蔵守を務め、その関係で東国武士を動員できたこと、平清盛や奥州藤原氏の秀衡と姻戚関係を結んでいたこと、関白藤原基実を妹婿に迎え摂関家の武的基盤となっていたことなどをあげ、信頼を「武門の統合者」(21p)と評しています。
 
 頼朝を支えた勢力について
 頼朝の挙兵が成功した背景として、義家以来、東国において河内源氏が大きなブランドなっていたことがあげられますが、代々河内源氏の乳母を出した山内首藤氏の山内首藤経俊は頼朝の乳母子でありながら石橋山で頼朝を攻撃しましたし、河内源氏と関わりの深い波多野氏の波多野義常も挙兵に協力せずに滅亡しています。頼義や義家の打ち立てた河内源氏のブランドが頼朝の挙兵を支えたというわけではないのです。
 一方、頼朝を支援者の中心となったのが頼朝の乳母の一人の比企尼です。彼女の女婿には安達盛長、河越重頼、伊東祐清といった人物がいますが、彼らはのちに頼朝を支える重要人物になっていきます。
 また、伊豆の知行国主は源頼政であり、在庁官人であった北条時政が頼朝を保護した理由として頼政の存在があげられるといいます。

 以仁王の乱の失敗から頼朝の挙兵へ
 治承三年の政変によって後白河院政を停止させた清盛は、院や院の近臣のもっていた知行国を奪い、平氏の一門や関係者に与えました。これとともに平氏の家人がそれらの国に進出していきます。
 坂東では相模と上総で受領が交代しますが、これとともに大庭景親や伊藤忠清といった平氏の家人が坂東に進出し、在庁官人であった三浦氏や上総介広常らと軋轢が生じました。
 さらに以仁王の乱で頼政が敗死すると、伊豆の知行国主も頼政から平時忠へと交代します。頼朝の挙兵には以仁王の令旨だけではなく、こうした状況があったのです。
 
 石橋山での敗戦からの巻き返し
 伊豆の知行国主・頼政の敗死によって頼朝は追い詰められ挙兵へと至ります。しかし、目代の平兼隆を討つことには成功するものの、三浦氏などの頼朝を支持する一族と合流できないままに石橋山で大庭景親の軍勢に敗れます。
 ただし、頼朝が房総半島に逃れると千葉常胤や上総介広常らが加わり頼朝の軍勢は膨れ上がりました。なお、広常に関しては当初明確な態度を示さず、場合によっては頼朝を殺す「二心」を抱いていた『吾妻鏡』には書かれていますが、広常は上総で平家の家人の伊藤忠清の圧迫を受けており、平氏方になる可能性はなかったと著者は見ています。

 富士川の合戦と義経への態度
 富士川の合戦にいたる前に、駿河の目代や平氏方の家人が武田信義以下の甲斐源氏に討たれました。甲斐源氏はこの後も頼朝から独立した勢力として動きます。
 これに対し、平氏は頼朝や甲斐源氏を討伐するために軍を差し向けます。平氏の作戦はまずは勇猛・忠実だが少数の「家人」が敵を攻撃し、その後、強制的に挑発された「かり武者」が残敵を殲滅するというものでしたが(65p)、平氏の「かり武者」中心の軍勢が東国に着く前に波多野義常や大庭景親、伊東祐親といった平氏の有力家人はすでに頼朝軍の前に敗れていたのです。結果、寄せ集めの軍勢の士気は下がる一方で、戦う前に勝負は決まっていました。
 このとき、頼朝は義経と初めて出会うわけですが、当初、頼朝は義経を猶子として扱ったといいます。義経は弟というだけではなく、藤原秀衡の支援を受けて頼朝のもとに参じたと考えられ、頼朝を喜ばせました。
 また、富士川の合戦後、頼朝は新恩給与と本領安堵を行い、さらに佐竹氏を攻撃した後にも新恩給与を行うなど、東国武士の掌握に務めました。

 義経と義仲の立場
 1181年になると、平氏が巻き返しますが、この年の閏2月に清盛が亡くなり、後白河の院政が復活します。戦線は膠着状態に陥りますが、ここで頼朝は後白河に敵対する意思がないことを示すとともに和平提案を行っています。平氏はこれを受け入れませんでしたが、これは後白河と公家に頼朝という存在を認識させる一つのきっかけとなりました。
 一方、平氏は清盛の跡を継いだ宗盛が藤原秀衡を陸奥守に就任させることで、奥州藤原氏を味方に引き込もうとしました。これに対して、頼朝は秀衡を呪い殺すための調伏まで行ったそうですが(93p)、これとともに義経の立場は悪化していきました。
 1183年、倶利伽羅峠の戦いで圧勝した義仲が京に入り、平氏は都落ちします。一躍時の人となった義仲ですが、京での認知度は低く、院や貴族からは頼朝の代官と認識される程度でした。また、義仲が北陸宮の践祚を要求したことや義仲軍の乱暴狼藉もあって、後白河は義仲を見限ります。
 それとともに頼朝の価値は上昇し、1183年の十月宣旨によって頼朝は東国の支配権を獲得し、義仲とともに頼朝は官軍に位置づけられます。

 頼朝軍の上洛
 1183年12月、上総介広常が梶原景時によって殺害される事件が起こっています。これは広常が上洛を望まずに東国での独立を求めたことが原因とも考えられていますが、同時に挙兵時において最大の兵力を持っていた広常の軍の再編にもつながりました。
 1184年の1月になると源範頼の軍が上洛し、義仲は滅亡します。そして、2月には一の谷の合戦で平氏の軍を打ち破りました。義経の活躍に関しては、鵯越を行ったのは摂津源氏の多田行綱である可能性が高いが、一の谷の関門を攻略した義経の功績もそれなりに大きなものだったと述べています。

 その後の義経
 一の谷の活躍で頼朝から警戒された義経が平氏追討の軍から外されたという解釈もありますが、義経が動かなかったのは兵糧不足と1184年7月に起きた伊賀・伊勢平氏の蜂起のためだとしています。この反乱は抑えこむことが出来たものの、伊藤忠清が逃亡し、京はしばらくその影に怯えることになります。
 範頼が山陽道を押さえたものの、平氏の水軍には手出しができずに膠着状態が続きますが、85年の2月に義経が屋島に出撃し、これを落とすと、3月には壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させます。
 この功績によって義経は伊予守・院御厩司となります。これは頼朝の推挙であり、伊予守は播磨守と並ぶ受領の最高峰なので妥当な昇進なのですが、院御厩司は在京武力の第一人者が就任する役職であり、頼朝の意向であったかどうかはわからないとみています。
 また、梶原景時の「讒言」に関しては、その裏に西国武士中心で行われた義経の戦いに対する東国武士の憤懣があったとみています。
 
 最終的な決裂
 近年の研究では「腰越状」は創作と見られており、決裂はもう少しあとの伊予守に任官しながら検非違使に留任したあたりにあると著者は見ています。受領は遥任が可能で、鎌倉在住が可能ですが、検非違使はそうはいきません。義経を手元に置きたい後白河がこの異例の人事を行い、義経がその後白河のもとで独自の勢力を築こうとしたことが決裂の要因であるというのです。そして、父義朝を弔うための勝長寿院の落慶供養に義経が来なかったことが決定打となり、義経は後白河に迫って頼朝追討宣旨を受けるのです。

 鎌倉幕府の成立年について
 近年、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に就任した1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年とする説が唱えられています(他にもさまざまな説がある)。義経が武士の動員に失敗し都落ちすると、頼朝の代官として北条時政が上洛します。そして、時政が守護と地頭の設置を要求し、これが鎌倉幕府成立の画期となったというのです。
 しかし、荘園・公領単位の地頭は前年から設置されていますし、大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場するのは1192年以降であり、ここで設置されたのは「国地頭」だと考えられるといいます。この国地頭は段別五升の兵糧米を徴収できるとともに国内の武士の動員権を有する強大な存在で、軍政官的な存在でした。
 時政が五畿内以下七カ国の国地頭となったほか、梶原景時が播磨・美作、土肥実平が備前・備中・備後など、義経追討の体制を固めますが、国地頭の強引な支配は反発を呼び、設置から半年ほどで国地頭は廃止されていきます。
 では、鎌倉幕府の成立はいつだと捉えればいいのか? 著者は大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場する1192年をもって「鎌倉幕府は名実ともに成立した」(242p)とみています。大犯三カ条をもった守護の出現により、代理の警備は御家人に一元化され、「国家的武力の大半を幕府が独占」(242p)することになったからです。

 奥州合戦の意義
 義経が奥州藤原氏の庇護下に入ると頼朝は秀衡への圧迫を強めます。1187年に秀衡が死去すると、奥州藤原氏は内紛によって結束力を失い、泰衡は頼朝の圧力に屈する形で義経を殺害します。
 後白河は頼朝の軍事行動を抑えようとしますが、頼朝は大庭景能の献策を受けて奥州征伐へと向かいます。たとえ、朝廷から恩賞として官位がもらえなくても、敵方の所領を没収することによる新恩給与が可能だったからです。
 この奥州合戦によって頼朝は唯一の官軍となり、頼朝の地位は盤石なものとなりました。

 上洛と頼朝の官職
 1190年、頼朝は上洛し右近衛大将になり、1192年には再び上洛し、ご存知のように征夷大将軍となります。右近衛大将はすぐに辞任しますが、これは不満があったため
ではなく、鎌倉に下向しなければならず、儀式の故実も知らない頼朝がその職にとどまれなかったからだと考えられます。
 征夷大将軍の任官の背景にも、京都以外に居住しても就任可能で、二位以上の公卿にふさわしい官職ということで、不吉な先例のない征夷大将軍が選ばれたと考えられます。

 大姫入内工作
 1195年、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養のために上洛しますが、このときは百日以上にわたって京にとどまりました。この理由の1つが大姫の入内工作です。
 大姫は許嫁であった義仲の子・義高を殺されて以降「気鬱」となっていました。大姫の入内工作を不遇な娘に対する親心とする見方もありますが、頼朝は大姫の死後には妹の三幡(さんまん)の入内工作も進めており、朝廷の掌握がその目的だったと考えられます。
 しかし、大姫も三幡も入内前に亡くなってしまったことから、この計画は頓挫するのです(三幡の入内工作は頼朝の死後にも行われたが、三幡は14歳で夭折した)。
 この入内工作の部分では、頼朝と九条兼実の関係などにも触れられており、そこも興味深いです。

 このようにこの本は、今まで流布してきた頼朝に関する「物語」を近年の研究や史料を通じて再検討したものになります。頼朝に関しては、どうしても義経らと対比されて、その冷酷非情な「性格」が前面に出てきてしまうことが多いですが、そうした「性格」を脇に置き、まずは「事績」をたどることで、頼朝という人物を明らかにしようとした本といえるでしょう。
 断片的には知っていたことも多いのですが、近年の研究の成果がまとまって提示させており、非常に勉強になりました。

石原俊『硫黄島』(中公新書) 9点

 沖縄に関して、よく「日本で唯一地上戦が行われた」と言われます。もちろん、少し考えてみればこの本の舞台となる硫黄島も内地なのでこの表現は誤りなのですが、硫黄島の場合はそこに住民がいなかった印象があるので、スルーされてしまうのでしょう。
 しかし、硫黄島にも住民はいましたし、そこに社会がありました。硫黄島の戦いを扱ったクリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』にも栗林忠道が「島民は速やかに本土に戻すことにしましょう」と言うシーンがあります(著者はこの言及を評価しつつも「戻す」という表現を問題視している(98-99p))。硫黄島に住民がいなかったという印象は、戦後、住民が帰島を許されずに軍事基地化したことから、いつの間にか出来上がったものなのかもしれません。

 この本は、戦前の硫黄島社会を再現しつつ、実は住民の一部も巻き込まれていた地上戦、戦後の「難民化」、そして硫黄島への帰島が政府によって封じられていくまでを、元島民の証言や史料から描き出しています。
 今まで歴史の盲点となっていた部分に光を当てた貴重な仕事であり、非常に読み応えがあります。平岡昭利『アホウドリを追った日本人』(岩波新書)が面白かった人には前半部分を中心に面白く読めるでしょうし、戦後補償の問題などに興味がある人には後半の内容は必読と言うべきものでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに―そこに社会があった
第1章 発見・領有・入植―一六世紀~一九三〇年頃
第2章 プランテーション社会の諸相―一九三〇年頃~四四年
第3章 強制疎開と軍務動員―一九四四年
第4章 地上戦と島民たち―一九四五年
第5章 米軍占領と故郷喪失―一九四五~六八年
第6章 施政権返還と自衛隊基地化―一九六八年~現在
終章 硫黄島、戦後零年

 記録に残る限り、硫黄島、北硫黄島、南硫黄島は1543年にスペイン人により「発見」されています。硫黄島は硫黄を意味するSulpher(サルファー)と名付けられました。さらに1779年にはジェームズ・クックが率いていた船団がこの島の近くを通っています。
 ただし、北硫黄島に関しては紀元前1世紀~紀元後1世紀頃にマリアナ諸島からやってきた人々が定住したあとも見つかっているそうです。
 一方、小笠原群島は1670年に日本人の漂流者によって「発見」されました。その後、幕府は現地調査を実施しましたが、硫黄列島には到達しませんでした。

 幕府は開国後の1862年に小笠原の領有事業に着手しますが、1830年から小笠原には定住者がしました。ハワイのオアフ島から、捕鯨船との交易などを当て込んで25人ほどが移住していたのです。
 このころの小笠原には漂流者や海賊などさまざまな人が集まっていましたが、1785年に明治政府が官吏団が派遣され、彼らを「帰化人」という形で日本臣民に編入していきます。
 
 硫黄島に入植が始まったのは、1888年からになります。漁業や硫黄の採掘を目的に父島の船大工・田中栄治郎らが東京府に硫黄島の「拝借願」が提出され、開発が始まります。
 当初はアホウドリの撲殺も行われましたが、すぐに個体数が減少し、また硫黄の採掘にも限界が見え始めたことから、産業の主力は農業へと移っていきます。硫黄島は温暖で、地熱もあり、また硝酸カリウム成分が豊富だったことから植物の生育が良好だったのです。
 1910年に久保田宗三郎によってサトウキビ栽培と製糖が開始され、砂糖価格の暴落があった1920年代後半以降はコカやレモングラス、デリスなどの栽培が行われました。
 コカはコカインの原料であり、日本の製薬会社に買い取られ、そこでコカインへと精製されインドなどの闇市場へと流れていったそうです。

 こうしたこともあって入植者は増えていき、1910年に52世帯246人だった硫黄島の人口は1925年には196世帯1144人まで増えています(21pの表を参照)。
 入植者の多くは伊豆諸島(特に八丈島)や父島、母島出身者でした。当初、硫黄島への定期便は2ヶ月に1度であり、北硫黄島に関しては周辺海域の波が高く、4ヶ月近く本土や他島との連絡が絶たれることもありました。

 硫黄列島は得意なプランテーション社会であり、島民の多くは小作人でした。同じくサトウキビのプランテーションがつくられた大東諸島のシステムが硫黄島にも移植され、小作人は会社から指定された作物をつくらなくてはいけないだけでなく、島外からやってくる生活必需品を会社経由で購入せねばならず、しかも、報酬は会社の指定店舗でしか使用できない金券で支給されていたそうです(1932年には独自金券を流通さた容疑で関係者が摘発されている(40p))。
 さらに「警察官駐在署の管理運営までもが、拓殖会社によって担われて」(41p)おり、治外法権的な空間となっていました。

 このような条件下で、当然ながら小作人たちは搾取されていました。砂糖やコカの取引価格すら知らされず、多くの小作人は会社に対して借金を抱えており、満足に医者にかかれなかったも多かったといいます。
 ただし、食料事情は悪くなかったようです。硫黄島では野菜の自主栽培や家畜の飼育、漁業などによって自給が可能であり、「島では贅沢しましたよ」(54p)と回顧する元島民もいます(これについては著者も159pで指摘するように戦後の厳しい生活との対比で、島での生活を「美化」している側面もないとは言い切れない)。
 また、北硫黄島ではコカの栽培は行われず、次第に漁業の比重が高まっていきました。

 1920年、日本は父島に要塞の建設を開始します。小笠原群島や硫黄列島は1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約で軍事施設の拡充が禁止されますが、日本は条約発行前に要塞化を行ったのです。
 1930年代になると日本は国際的な孤立を深めていきますが、そうした中で父島や硫黄島に飛行場が整備されていきます。
 
 1941年に始まった太平洋戦争は当初日本の優位に進みますが、しだいに米軍が反攻に転じ、44年7月にはサイパンを攻略します。これによって日本本土はB29の航続距離圏内に入るわけですが、爆弾を搭載しての距離としてはギリギリであり、1200mの滑走路がある硫黄島が不時着のための場所としてクローズアップされました。
 一方、父島に関しては要塞化されており、また飛行場の滑走路の距離も短いことから、米軍は攻略を回避します。

 44年5月、硫黄島の守備隊として第109師団が編成され、栗林忠道中将が師団長となります。栗林は今まで日本軍が行っていた水際迎撃作戦を捨て、硫黄島の天然の洞窟などを利用して壕を整備し、ゲリラ戦を行う作戦を立て、地下トンネルの整備が急ピッチで進められました。
 44年6月に米軍空母による硫黄島への大規模な空襲が実施されると、栗林は民間人の引揚を求め、硫黄島の住民の多くが強制疎開の対象となります。ただし15歳から69歳の男性の多くは軍務に動員され、強制疎開のあとも160人が残留し、このうち103人が地上戦に動員されることとなりました(79p)。

 しかし、実はこれ以外にも硫黄島に留まるように言われた人々がいました。それが「偽徴用」問題と言われるものです。
 硫黄島産業株式会社の役員が、軍に残っているコカインの乾燥作業をやりたいと申し出て、22人の島民に対して軍に徴用されたと嘘を付き、島に残したのです。この作業が終わると役員は島を去り、最終的に16人が取り残され、その後軍に徴用されました。そして、彼らのうち11人はその後の地上戦で死亡しています。
 また、北硫黄島の住民も強制疎開の対象となり、島を去りました。

 硫黄島の戦いは激戦となりました。栗林の「合理的」な作戦によって日本軍は予想以上の善戦をしたという評価が一般的でしょう。
 ただし、この栗林の戦いは軍部の本土決戦派のプロパガンダに利用されることとなりましたし、上陸直後から米軍は強力な妨害電波によって日本軍の通信を遮断し、それによって栗林の命令を無視して無謀な攻撃命令を出す将校も多かったようです。
 生き残った兵士は硫黄島の壕の中は「人間の耐久試験」(104p)だったと表現しており、自決する者も相次ぎました。
 この章では、徴用されて生き残った人へのインタビューなども組み込みながら「住民を巻き込んだ硫黄島の地上戦」を描き出そうとしています。

 終戦後の1946年1月、アメリカの決定によって小笠原群島、硫黄列島ですべての民間人の帰還・移住が禁止されます。10月には父島において1876年の日本併合以前から小笠原群島に居住していた先住民の子孫とその家族に限って居住が認められることとなります。
 一方、居住者のまったくいない硫黄島には、米空軍と沿岸警備隊の秘密補給基地が建設されていきます。1951年のサンフランシスコ平和条約でも小笠原群島や硫黄列島の施政権は返還されず、硫黄列島民は「事実上の「難民」状態」(129p)となりました。

 こうした「難民」状態が長期化する中で元島民たちの生活は困窮していきました。小笠原諸島民と硫黄列島民の生活状況は、1944年の強制疎開から53年までの間に大きく悪化し、「生活苦のための異常死亡者」が147人もいました(134p)。
 この状況に対し、島民たちは帰島運動・補償運動を起こします。54年には自由党議員・福田篤泰の尽力により衆議院外務委員会で公聴会が開かれました。ここでは島民への公的扶助を東京都の小笠原支庁長が独断で断っていた事実などが明らかになりました。
 この公聴会をきっかけに補償の動きが起こり、日本政府からの見舞金や米国政府からの補償が実現します。ただし、この配分方法をめぐって島民の間で対立が起こりました。
 小笠原群島や硫黄列島では本土のような農地改革が行われておらず、大土地所有が温存されていました。そこで地主と小作人の間で補償金をどう配分するかが問題となったのです。この配分は5:5で決着することとなりますが、島民の間に大きな亀裂を残しました。

 硫黄列島民の中には栃木県那須町の御用地の払い下げを受け入植した人もいましたが、硫黄島とは似ても似つかぬ寒冷な気候で、多くの人は農業を断念せざるを得ませんでした。結局、定着できたのは酪農に転換した一部の世帯だけです。
 著者は元島民などの証言を紹介しながら、「多くの日本国民(帝国時代の本土住民)には、敗戦直後の一時期を除けば、「戦前」よりも「戦後」が相対的に「豊かな」生活だったという自意識がある。(中略)これに対して、硫黄列島民の自己認識においては、「戦前」よりも「戦後」が苦難の経験として回想されがちだ」(158ー159p)と述べています。

 1967年、小笠原群島と硫黄列島の施政権が日本に返還されます。元硫黄列島民の間でも帰還の期待が高まりますが、70年に佐藤内閣が決定した小笠原諸島復興計画では「帰島および復興計画の対象は、当面父島および母島」と定められました。硫黄列島に関しては、不発弾処理と火山活動の安全性の確認を理由に対象から外されてしまったのです。
 その後も帰島へ向けた動きは進展せず、84年には小笠原諸島振興審議会のもとに設けられた硫黄島問題小委員会が、火山活動が活発であること、コカが栽培禁止になっていること、漁業施設の建設が難しいことなどをあげ、「硫黄島において、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが可能な地域社会形成のための整備は、極めて困難であるといわざるを得ない」(178p)と結論づけています。火山活動は戦前からあったにもかかわらずです。

 もちろん帰島に向けた環境整備のコストの問題もあるのでしょうが、この結論の裏にある要因の1つが硫黄島の軍事基地化です、70年代から自衛隊の対潜哨戒機の訓練がしばしば行われるようになり、81年には大村襄治防衛庁長官が硫黄島を訪問し、基地の整備を進めると発言しました。そして、84年には航空自衛隊の硫黄島基地隊が新設されています。また、米軍の大規模演習もたびたびおこなわれています。
 さらに88年に、厚木基地の艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)のうちの夜間離着陸訓練(NLP)が暫定的に硫黄島に移されると、その後、四半世紀以上硫黄島でのFCLPがつづきます。騒音などの問題で反対運動が巻き起こるFCLPを行う場所として住民のいない硫黄島は好都合なのです。

 最後に、著者も参加した硫黄島への訪問事業がとり上げられていますが、現在、元島民やその子孫が硫黄島に行くことのできる機会は年1、2回です。元島民は高齢化し、帰島の目処も立たないままに時間だけが過ぎているのが現状なのです。

 このように、この本は元島民へのインタビューなども用いながら、今まで知られていなかった戦前の硫黄列島の社会を再現し、硫黄島の戦いの実態を掘り下げ、戦後の元島民の苦難と日本政府の責任を告発する内容となっています。
 戦後、日本から切り離された沖縄では住民たちが抑圧され米軍基地が建設されていったわけですが(このあたりは櫻澤誠『沖縄現代史』(中公新書)に詳しい)、硫黄列島では住民が完全に排除されて軍事施設化が進行してしまっており、この本を読むと、日本の敗戦の傷が放置されたままだということを強く感じます。広く読まれて欲しい本ですね。

君塚直隆『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書) 7点

 ルネサンス期から第一次世界大戦までのヨーロッパ近代史をたどった本。新書のボリュームでは当然ながらヨーロッパの近代史の網羅的に記述することは不可能ですが、この本では舞台を西欧に絞り、さらに時代ごとに代表的な人物をとり上げる列伝体的なスタイルで歴史を描いています(このあたりはほぼ固有名を出さずに中国の近代史を論じた同じちくま新書の岡本隆司『近代中国史』と対照的)。

 全編を貫くテーマは「宗教と科学の相克」で、とり上げられている人物は、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルター、ガリレオ・ガリレイ、ロック、ヴォルテール、ゲーテ、ダーウィン、レーニンの8人になります。
 ちょうど、この8人の没年は次の人物の生年と近くなっており、ちょうどしりとりのような形で時代が進んでいきます。つまり、伝記的事実をたどりながら、同時代に起こった出来事を語っていく構成になっていて、伝記を読んでいくと、いつの間にかヨーロッパの近代史が追体験できるようなしくみです。
 ただ、紙幅を考えれば仕方がないものの、例えば、ヨーロッパの行なった新大陸やアジアでの収奪といったことに関してはあまり触れられいないなど、ややヨーロッパのみの「閉じた」歴史になっている感もあります。
 
 目次は以下の通り。
はじめに 「ヨーロッパ」とはなにか
第1章 ルネサンスの誕生
第2章 宗教改革の衝撃
第3章 近代科学の誕生
第4章 市民革命のさきがけ
第5章 啓蒙主義の時代
第6章 革命の時代
第7章 人類は進化する?
第8章 ヨーロッパの時代の終焉
おわりに ヨーロッパ近代とはなんであったのか

 第1章ではレオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてルネサンスが語られています。
 まず、はじめにとり上げられているのがフィレンツェの街と、1401年にそこで行われたレリーフのコンクールです。結果は無名の新人であったギベルティが勝利しますが、無名の新人が選ばれた「実力主義」と、審査に市民がこぞって参加したという風土に、今までにはなかった新しさがあります。
 そして、1466年頃、このフィレンツェの名門の工房に助手として入ったのがレオナルド・ダ・ヴィンチです。

 ルネサンス期になると、今まで匿名、あるいは工房単位でしか把握されていなかった芸術家が「個人」として認知されるようになります。芸術家など一部の人間だけとはいえ、「個性(個人)」が確立していくのです。
 この時代はまた、現在に続く外交のスタイル(例えば常駐大使など)が生まれた時代であり、軍事革命の時代でもありました。レオナルドも、画家としてだけではなく軍事技術家として自らを売り込んでいきます。
 レオナルドは絵画の制作をしつつも、新しい兵器や要塞の研究などを行い、最終的にはフランス王のフランソワ8世に招聘されます。こうしてルネサンスはヨーロッパの北西へと広がっていくのです。
 
 しかし、このルネサンスの動きはキリスト教世界を大きく揺さぶることになります。1505年、ローマではサン・ピエトロ大聖堂の改築が始まりますが、その資金集めのために贖宥状が大々的に売り出されることになりました。
 そして、この贖宥状の販売に反対し、95カ条の論題を掲げて論争を挑んだのがマルティン・ルターでした。当初、ルターには教会批判の意図はありませんでしたが、論争の中で「教皇も誤りを犯すことがあった」と発言したことから、後戻りができなくなってしまいます。

 ルターは神聖ローマ皇帝カール5世によって異端を宣告されますが、ルターを支持する諸侯によって保護され、聖書のドイツ語訳に取り組みます。そして、このドイツ語訳の聖書やルターの主張をまとめた小冊子は、グーテンベルクの発明した活版印刷術によって広まっていきました。
 さらにルターは礼拝を民衆に委ね、誰でも歌える賛美歌を作り、プロテスタントと呼ばれるようになるキリスト教の新しい潮流をつくりました。
 ルターの死とともにカール5世が巻き返し、プロテスタントの軍を粉砕しますが、このころのヨーロッパはすでに宗派だけで動く世界ではなくなっており、カール5世は失意のうちに引退していきます。カトリックの圧倒的な権威が復活することはなかったのです。

 16世紀半ばから17世紀半ばの人物としてとり上げられるのはガリレオ・ガリレイです。ガリレオは音楽家の家に生まれましたが、当初は医学部に入り、やがて数学者への道を歩み始めます。ただ、数学科の教授の給与は十分なものではなく、貴族の子弟に築城術なども教えていました。
 その後、ガリレオは望遠鏡に出会い、天文学にのめり込んでいきます。ガリレオは木星の衛星を発見するなどの業績を重ね、ローマ教皇にも進講する機会を得るなど、ガリレオの発見は聖職者たちにも認められました。
 
 しかし、ここから神学者や哲学者たちの逆襲が始まります。ガリレオの唱えた太陽中心説は旧約聖書の記述と矛盾するとして批判を始めたのです。これには一介の数学者にすぎないガリレオが聖書の解釈にまで口を出そうとしているという反発もありました。結局、ガリレオは、1615年に反対派から告発を受け異端審問の嫌疑でローマに召喚され、太陽中心説を公言しないように求められたのです。
 1623年、以前からガリレオに好意的だったバルベリーニ枢機卿がウルバヌス8世としてローマ教皇になります。ガリレオは再び自説を唱えますが、これに教皇庁が激怒し、1633年から第二次裁判が行われます。そして、ガリレオは「異端放棄の宣誓」をさせられることになるのです。

 このころ、ちょうどヨーロッパでは三十年戦争が行われており、カトリック国であるはずのフランスがプロテスタント陣営を支援したことからカトリック陣営は劣勢に立たされていました。ガリレオに対するローマ教皇の厳しい姿勢にはこうした国際情勢も影響したと考えられます。
 
 第4章の主役となるのはジョン・ロックです。ロックが生まれた頃のイングランドではジェントルマン(地主貴族階級)によって支配されていました。彼らは地方の名望家として活躍すると同時に、議会の議員として国政に関わりました。
 ロックは中小ジェントリの出身でしたが、後に首席の大臣職になりシャフツベリ伯爵となるアシュリに見出され、その秘書官となります。そして、現実の政治に関わっていくこととなるのです。

 しかし、そのシャフツベリがカトリック教徒であることを公言していたジェームズ2世の王位継承に反対して失脚すると、ロックもまたオランダでの亡命生活を強いられます。
 このオランダでロックは『宗教的寛容論』の執筆に取り組みます。ロックは「個人の理性のなかにこそ神は存在する」(158p)と考え、宗派に属することや離脱することは個人の自由だと主張しました。
 1688年に名誉革命が起こるとロックは帰国し、『市民政府二論』や『人間悟性論』を刊行します。『市民政府二論』では権力分立と抵抗権や革命権を主張し、後の世に大きな影響を与えました。
 また、この時代は世界の覇権がオランダからイギリスに移りつつありましたが、著者はその要因の1つとしてイングランド銀行設立による金融の中央集権化と、それによるロンドンのシティの地位向上をあげています。

 第5章の主人公はヴォルテールです。ヴォルテールもご存知のようにロックと同じく宗教的寛容を唱えた人でしたが、同時に18世紀のヨーロッパ大陸のパワーゲームに巻き込まれた人物でもありました。
 父からは法律家となることを期待されたヴォルテールでしたが、演劇や詩作にのめり込み名を上げます。しかし、決闘騒ぎに巻き込まれたこともありロンドンに亡命しました。
  
 その後、ヴィルテールは許されパリに戻り、1736年からプロイセンの皇太子フリードリヒ(のちに「啓蒙専制君主」として知られるフリードリヒ2世)との文通が始まります。
 ヴォルテールはその後、オーストリア王位継承戦争でプロイセンを味方につけるためにフランスからフリードリヒのもとへ派遣されます。劣勢だったフランスは勢力を取り戻し、プロイセンはシュレージエンの大部分を獲得し、列強に承認させました。そして、ヴォルテールはフリードリヒのつくったサンスーシ宮殿に滞在することとなしています。

 しかし、この交流も喧嘩別れに終わり、ヴォルテールはジュネーブで『百科全書』の発行に協力します。さらに1761年にプロテスタントのジャン・カラスが息子を殺したとした死刑になったカラス事件が起こると、これを宗教的不寛容がもたらした冤罪事件だとして厳しく批判します。ヴォルテールは『寛容論』を出版し、知識人として世論に訴えかけました。こののち、世論が政治を動かす時代が到来します。

 18世紀後半から19世紀半ばは、フランス革命に始まる革命の時代ですが、この時代の主人公として選ばれたのがゲーテです。
 ヴォルテールが法律の勉強を捨てて文芸の道に入ったのに対して、ゲーテは文芸に興味を持ちつつも法律家となりました。ただし、彼の名を知らしめたのは25歳の時に出版した『若きヴェルター(ウェルテル)の悩み』によってです。
 この本はベストセラーとなり、ゲーテは一躍有名人となります。そして、ドイツ中部のザクセン・ヴァイマール・アイゼナハ公国の君主に請われ、この国の政務を担当することとなるのです。ゲーテは、領内のイエナ大学にフリードリヒ・シラーを招聘し、さらにフィヒテやヘーゲルやシェリングを迎え入れます。

 1789年にフランス革命が勃発すると、ゲーテもその嵐の中に巻き込まれていくことになりますが、ゲーテは政治家としては保守主義者であり、貴族政治こそが善政と考えていました。
 革命の混乱を嫌ったゲーテが「歴史上可能なもっとも優れた現象」(228p)と絶賛したのがナポレオンです。ベートーヴェンが皇帝となったナポレオンに失望したのに対してゲーテはナポレオンを信奉し続けました。
 ナポレオン戦争の2年後にゲーテは政治家を引退し、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』や『ファウスト』を世に送り出します。しかし、政治の世界ではゲーテの信奉していた保守主義と貴族政治は1848年の革命で完全に破綻しました。
 一方、著者はこの時期にイギリスが第一次選挙法改正を成し遂げ、漸進的な改革を進めたことをとり上げ、ここにイギリスの優位性を見ています。

 19世紀の半ば(1830~80)を代表する人物として選ばれているのがダーウィンです。18世紀に産業が革命が起こったイギリスでは、さまざまな科学や芸術の振興組織がつくられ、また図書館や博物館、美術館も登場し、一種の「公共圏」を形作っていました。
 こうした環境のもとで生まれたのがダーウィンの業績でした。聖職者になる道をあきらめ科学の道を進もうと志したダーウィンは、大学を卒業すると測量船のビーグル号へ乗り込み、南米、ガラパゴス諸島、オセアニア、アフリカ南部を回りロンドンへと帰ります。
 ダーウィンは航海での研究成果を発表するとともに、進化論のアイディアにたどり着き、1859年には『種の起源』を出版します。もちろん、この本は大きな論争を引き起こしましたが、ダーウィン自身は沈黙を守りました。著者はこの時代になると論争は「「宗教の科学の相克」というよりは、「信仰と理性の融合」のなかで進められたのではないだろうか」(280p)と述べています。

 一方、進化論はハーバード・スペンサによって「社会進化論」へと拡張され、人間社会にも優れた社会と劣った社会があり、劣った社会が消えていくのは仕方がないという議論に利用されていきます。そして、これは欧米による世界の植民地化を正当化する理論となっていくのです。

 最後の第8章の主人公はレーニン。唯一西欧以外の出身者になります。
 レーニン(本名はウラジーミル・イリイーチ・ウリヤーノフ)の父は貧しい仕立て屋の息子から教員、官吏となり世襲貴族にまで出世した人物でしたが、父が亡くなり、兄が皇帝の暗殺計画に関与していたことが明らかになると、レーニンは苦学を強いられます。
 レーニンはマルクス主義のサークルに入り、シベリア送りになったりもしますが、1901年からはレーニンの筆名で活動するようになり、次々と論文を発表していきます。
 また、レーニンというと宗教を批判したイメージが強いですが、この時代の活動では当時のロシアで弾圧されていたキリスト教の古儀式派の力を借りていたのではないかという分析を紹介しています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアはタンネンベルクの戦いで大敗を喫し苦戦を強いられることとなります。こうした中、スイスに亡命してたレーニンは『帝国主義論』を書き上げ、資本主義と帝国主義の打倒を訴えます。
 そして、1917年の2月にそのチャンスはやってきます。ペトログラードで始まったデモは兵士の反乱へと発展し二月革命が起こったのです。当初は自由主義的な臨時政府が実権を握りましたが、戦争と食糧不足の混乱の中でその政治はうまく行かず、「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げ帰国したレーニンのボリシェヴィキが十月革命によって権力を奪取しました。

 レーニンはドイツと講和するとともに今までの秘密外交をすべて暴露し、さらに土地の私有性を廃止するなど、今までのヨーロッパの近代を支えてきた基盤を次々と破壊していきました。また、内戦の中で正教会の財産も没収され、ヨーロッパの近代に大きな存在感を示していたキリスト教も否定されていきます。ここに「ヨーロッパの近代」は終わりを告げることとなるのです。

 終章で著者は、第一次世界大戦とともに民主主義は進展したが、「ヨーロッパ近代がそれまで築いてきた「個人」というものが、再び衰微してしまうような状態に戻ってしまった」(336p)と述べています。
 読み物としては文句なしに面白く、高校の世界史などで習った点としての知識を線としてつないでくれる本ですが、最初に述べたアジア・アフリカからの収奪についての記述がほとんどない点と、上述のようなエリート主義的な視点は、個人的には少し引っかかるところでした。


紀谷昌彦『南スーダンに平和をつくる』(ちくま新書) 5点

 2015年4月から2017年9月までの約2年半、日本の南スーダン大使を著者による、その仕事と日本の国際貢献のあり方を論じた本。
 南スーダン大使という当事者による記録は貴重ではありますが、外務省のプレスリリース的な部分が多く、著者個人の分析があまり出ていないのが少し残念なところ。また、南スーダン情勢に関してもそれほどわかりやすい説明がなされているわけではないので、2016年のジュバ衝突のインパクトや、衝突がなぜ起こって、どのように収拾されたのかといった点はあまり見えてきません。
 ただ、やはり当事者の記録や提言には興味深いところもあり、なるほどと思わせる部分もあります。

 目次は以下の通り。
第1章 南スーダン問題の構造―現場の視点から
第2章 政治プロセス―国内と国際社会の取り組みの双方を後押し
第3章 国連PKO―自衛隊のインパクト
第4章 開発支援―JICAが支えた国づくり
第5章 人道支援―国際機関と連携したリーダーシップ
第6章 NGO支援―現地NGOと連携した展開
第7章 危機管理―平和構築支援の安全確保

 南スーダンは2011年に独立した新しい国です。スーダンはもともと北部にアラブ系民族が、南部にアフリカ系民族が暮らしていいた土地で、英国がこの地域を支配する中で、南部を「閉鎖地域」として南北の交流を制限したことから、南北の分断が進みました。
 第二次世界大戦後は、英国もこの分断政策を改め、南北の統合をはかりますが、1956年のスーダン独立の前年から北部と南部の間で内戦が始まり、最終的に2005年に南北包括和平合意が署名され、2011年の国民投票によって南スーダンの独立が決まります。
 しかし、独立後には与党SPLM内の権力争いが持ち上がり、2013年12月から政府軍(SPLA)と反政府軍(SPLA‐IO)の衝突が起こりました。著者が赴任した2015年の5月は政府と反政府勢力の衝突解決合意が署名される直前の時期で、政情が安定しない中での赴任でした。難民・国内避難民は400万人以上で、国民の約3分の1にのぼっています。
 
 南スーダンにはさまざまなアクターが関わっています。まず周辺国としてエチオピア、ウガンダ、ケニア、スーダンなどが加盟する政府間開発機構(IGAD)があり、その外側にはAU(アフリカ連合)があります。
 もちろん、国連もPKOを派遣しており、その関与は大きいですが、先進国の中では米国、英国、ノルウェーが「トロイカ」として政治プロセスの支援や人道支援をリードしています。さらに、南スーダンの石油に投資している中国、エチオピアと関係の深いイタリアなども、南スーダンに関わっています。

 2015年の衝突解決合意でイニシアティブをとったのは米国でした。米国の圧力によって南スーダンのキール大統領は衝突解決合意に署名し、反政府派だったマシャール前副大統領が、第一副大統領として国民暫定政府に加わりました。
 ところが、この合意は2016年のジュバ衝突によって崩れてしまいます。マシャール副大統領はジュバから逃走し、反政府勢力の間でも分裂騒ぎが起こったのです。

 こうした中で日本は融和的に動いています。米国は南スーダン政府に対する武器禁輸と個人制裁強化決議案を国連安保理に提出しますが、日本は棄権に回り、この決議案は否決されました(60p)。対米追従にイメージが強い日本ですが、独自の動きを見せていたことがわかります。

 第3章以降では、日本の行ったさまざまな支援が紹介されています。
 まずは自衛隊のPKO活動です。日報問題のイメージが強くなってしまった自衛隊のPKO活動ですが、南スーダンには2012年から約350名規模の施設部隊が派遣されていました。
 自衛隊の施設部隊はUNMISS(国連スーダン・ミッション)の活動のために派遣されえおり、UNMISSの安全確保のための防護壁や退避壕の設置や強化などを行いました。さらに、南スーダンの国民にとってもプラスとなる幹線道路の整備も自衛隊は行いました。

 また、この本を読むと自衛隊が細々とした交流を行っていたことも見えてきます。孤児院の訪問や、ねぶたをはじめとする日本の祭りの披露、空手の演舞の披露、スポーツ大会のための会場整備や、スポーツ交流など、現地の人々との交流を積極的に行っていたことが見えてきます。
 ただし、ジュバ衝突のときに自衛隊がどれくらい危険な状況下にあったのかということなどは書かれていません。

 第4章では、JICAを中心とした開発支援を扱っていますが、まずは政府に問題がある場合に支援を継続すべきかという問題がとり上げられています。
 欧米諸国は、南スーダン政府が対立をつくり出しているとして、援助を続けることは悪行に対して報奨を与えるようなものだという観点から支援の継続に否定的ですが、日本は政府と国民を峻別することは容易ではないとし、国民のためにも援助を継続すべきだというスタンスです。

 南スーダンは産油国であり、本来ならば比較的財源には恵まれているはずなのですが、政府が南スーダンポンドとドルの公定レートと実勢レートの乖離を放置して、特定の業者に公定レートでドルを手にすることができるようにしたせいで、外貨は流出し、財政状況は悪化していきました(108p)。

 そんな中で日本は治安部門に対して一貫して援助を続けるとともに、JICAを通じてさまざまなインフラ整備などを行いました。
 例えば、ナイル川に架ける橋「フリーダム・ブリッジ」の建設やジュバでの上下水道の整備などがあげられます。ただし、地元の期待も高かったこの2つの事業も2016年のジュバ衝突でストップしてしまったそうです。

 ただ、それ以外にも河川港の建設や農業・灌漑のマスタープランの作成、職業訓練、税関支援、スポーツ支援とオリンピックへの選手派遣など、さまざまな分野で日本による支援が行われていることがわかります。

 第5章では人道支援がとり上げられています。南スーダンのような内戦状態の国では、地方への支援は反政府勢力に流れてしまう恐れがあり、政府は地方への支援に消極的です。また、支援する側の安全を確保する必要も出てきます。
 また、短期的に人道支援は必要ですが、それに依存してしまうようになると、逆に経済発展が阻害される恐れも出てきます。
 
 日本に関しては、特に強調されているわけではありませんが、この章を読む限り、予算的な制約が厳しいようで、特定の分野に大規模な支援を行うよりも、ややニッチな部分に小さな予算を出していく「細切れ作戦」で支援を行っているとのことです。
 例えば、献血制度の構築や、警察支援、南スーダンの若手実務者を国連訓練調査研究所の広島事務所に招いての研修などがあげられます。

 第6章はNGOについて。南スーダンではさまざまなNGOが支援活動にあたっていますが、南スーダン政府のNGOに対する見方は必ずしも好意的なものではありません。
 南スーダン政府の関係者は、南スーダンに対する援助資金の多くがNGOの職員の給与等にあてられているのではないかと疑っており、NGOの登録料引き上げなどを試みたりもしたそうです(184p)。

 そうした中で、日本の大使館としてはまずはNGOにたずさわる日本人の安全確保が問題となります。南スーダンでは、2013年12月以降、ジュバ以外の地域はレベル4(退避勧告)であったため、撤退を余儀なくされたNGOもいました。
 著者自身は、国際NGOの中には国連などと緊密に連携しつつ活動を継続した団体も多いので、日本のNGOも同様に活動できるのではないか? と考えたりもしたそうですが、やはり邦人の安全確保が優先されたのです。

 一方、各国のNGOが行っている支援に対して、日本の大使館として資金協力を行う「草の根無償」というプロジェクトも行われました。 
 さらに、この章では、南スーダンからのハチミツの輸出など、ビジネスの可能性についても触れられています。

 第7章は「危機管理」というタイトルで、UNMISSや南スーダンの治安機関との連携の大切さ、ジュバ衝突の時にいかに動いたかということが簡単に触れられています。ただし、ここの記述は報告書のような感じで、実際の緊迫感などはあまり伝わってきません。

 数々のプロジェクトが中心になっていることからもわかるように、ジュバ衝突は大きなインパクトを持った出来事のはずなのですが、その衝撃がぼかされているような印象を受けるのがこの本の欠点なのではないかと思います。
 自衛隊の日報隠しではないですが、深刻な事態のはずなのに立場的にそれを書けないのではないかと邪推していまいます。

 ただ、副題に「「オールジャパン」の国際貢献」とつけながら、「おわりに」では「ただし、「オールジャパン」という松明は、日本の関係者を広く巻き込む上では効果的だが、他の支援国・機関を尻込みさせ、遮断させることにつながりかねないという点には注意すべきである」(221p)など、著者の経験に則した個人的な見解がうちだされている部分もあり、そういった部分に関しては興味深いです。


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