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2020年09月

古矢旬『グローバル時代のアメリカ』(岩波新書) 8点

 岩波新書<シリーズ アメリカ合衆国史>の第4巻。前巻の中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』が非常に面白かったので本書も読んでみましたが、これも面白いですね。
 扱う時代は1973年から現在まで。『20世紀アメリカの夢』が20世紀の幕開けから1970年代までを扱っていたのに比べると短い期間のようにも思えますが、つい最近の事例まで、その歴史的な意義を考えながら濃密に論じているのが特徴です。オバマやトランプに関しては、まだ歴史として描くには難しい部分があるとは思うのですが、そこにも歴史家ならでは視点で踏み込んでいます。
 自分がニュースで見聞きしてきた時代について経験豊かな歴史学者が書いた本を読むのは面白いもので、自分の記憶の中にあるニュースを「あの出来事はこんな影響をもつ出来事だったのか」と頭の中で再構成できます。

 目次は以下の通り。
第一章  曲がり角のアメリカ──一九七〇年代 
第二章  レーガンの時代   
第三章  グローバル時代の唯一の超大国   
第四章  二一世紀のアメリカ   
 
 本書では1970年代、特に1973年をアメリカ史の転換点と考えています。
 1973年は第一次石油危機が起きた年であり、アメリカが変動相場制に移行した年であり、人工妊娠中絶を禁止した州法を違憲とした連邦最高裁判所のロー対ウェイド判決が出た年でした。アメリカ経済がはっきりと失速し、アメリカが国際経済の利他的な守護神の地位を降り、さらに社会的にはイングルハートの言う「物質主義」から「非物質主義」への転換がはっきりとしてきた年でした。
 一方で革新的な動きに対する「保守」の動きが強まってくるのもこのあたりからで、下院と上院を圧倒的多数で通過した男女平等権憲法修正案(ERA)は、1973年に30州が批准したものの、そこから保守派(女性運動家フィリス・シュラフリーら)の巻き返しがあり、結局必要な批准数に足りないまま82年に廃案になりました。
 
 翌74年にはウォーターゲイト事件が発覚します。72年の大統領選に圧勝したニクソンでしたが、このスキャンダルでホワイトハウスを去ることになります。この事件はベトナム戦争などで肥大化した大統領の権限を議会が制限することにもつながっていき、80年代になると議会と大統領の対立が目立つようになります。
 一方、ニューディール型の社会福祉政策の進展は、政党を空洞化させます。そんな中でニクソンは南部戦略によって南部を支持基盤とすると、民主党は経済的リベラリズムの政党から文化的リベラリズムの政党へと変貌していきました。

 ニクソンの辞任を受けて就任したフォードは、「どこまでも不運なフォード」(33p)と形容されているように、74年の中間選挙の惨敗を受け、圧倒的に民主党が多数という状況の中でベトナム、ウォーターゲイトの敗戦処理にあたることになります。75年にはサイゴンが陥落し、連邦政府への信頼も大きく下がっていきました(36p図1−3参照)。
 こうして76年の大統領選挙は民主党優位の選挙となりましたが、候補者が乱立する中で予備選を制したのは中央政界では無名のジョージア州前知事のカーターでした。連邦政治に対する信頼が揺らぐ中で、カーターの無名性がかえってプラスに働いたと考えられます。本選でもヴァージニア州を除く南部を制しフォードに競り勝ちました。また、黒人や中西部の労働者からも支持を集めておりニューディール連合の復活を思わせる勝利でした。
 
 しかし、カーターには国際的な経験や人脈が欠けており、また、「南部福音派を精神的立脚基盤とするカーターの政治指導は、あまりにも地方主義的、道義主義的な性格が濃厚」(43p)でした。
 カーターは肥大化した政府を批判し、インフレ率を抑制するためにFRBの議長にポール・ボルカーを据えました。ボルカーは金融引締によってインフレの沈静化を図りますが、すぐには効果はあがらず、アメリカ国民は実質所得は変わらないのにインフレによって税率等級は引き上がっていく状況に置かれることになりました。
 こうした中で、78年にはカリフォリニア州で州財産税の大幅引き下げなどを含む州憲法改正の提案の住民投票が成立し、全国的な反税運動が広がっていくことになります。そして新自由主義と宗教保守などが重なりつつ、「ニューライト」と呼ばれる流れが形成されていくことになります。

 カーターは外交では、77年のパナマ運河返還協定への調印、78年のキャンプ・デイヴィッドにおけるイスラエルとエジプトの和平合意、同年の米中国交正常化など、成果を上げました。カーターは人権外交を掲げ、今までのような何でもありの介入主義から距離を取ろうとしました。
 しかし、79年のイラン革命とソ連のアフガニスタン侵攻は、カーター外交の失敗を印象づけました。
 
 こうして80年の大統領選でカーターは敗れます。経済がスタグフレーションから抜け出せず、ソ連の攻勢が強まる中で大統領になったのは共和党のレーガンでした。レーガンは64年のゴールドウォーターの支持演説で注目をあび、76年大統領選の共和党予備選では現職のフォードに及ばなかったものの、80年の予備選では60%近い支持を集めて大統領候補となります。
 同時に共和党は、減税、福祉基準の厳格化、ERAへの支持撤回、人工妊娠中絶への反対、銃規制の反対など、保守的な政治綱領が掲げられるようになり、保守色の強い政党になりました。
 ダイレクトメールや電話によるマーケティングなどを駆使した戦略もはまり、レーガンは本選でも圧勝します。レーガンはたくみな弁舌によって「理想化された過去に向けての復古的「革命」」(66p)を成し遂げたのです。

 レーガンの経済政策は、減税、福祉を中心とする政府支出の削減、連邦の既存の諸計画を財源とともに州へ移転する「新連邦主義」、規制緩和、労働組合の弱体化であり、特に減税に関しては所得税の最高税率を70%から50%に引き下げ、キャピタルゲイン課税の最高税率も28%から20%へと引き下げるなど、富裕層中心に思い切っった引き下げを行いました。
 しかし、国防費が40%も増大したこともあって政府支出の削減は進みませんでした。85年には増税という言葉を避けながら、免税措置や控除制度を極力是正し、所得税基盤を拡大する租税改革法が成立しています。
 一方、連邦職員である航空管制官の組合によるストライキに対しては、即座にストライキ労働者を解雇し、代替管制官を補充するなど強硬策を取り、これ以降、アメリカではストライキ労働者を即座に解雇して大体の労働者を雇う行動が一般化しました。
 
 レーガン政権になってもインフレと高失業率は収まらず、82年の中間選挙で共和党は議席を減らしますが、その後ボルカーが金融緩和に動いたこともあり、経済状況は好転します。この経済状況を活かして84年の大統領選挙でレーガンは再選されます。
 
 外交面ではソ連との対決姿勢を打ち出し、ソ連の支援を受ける独裁国家に介入していきますが、中東ではイラン・イラク戦争で「二つの悪のうちのよりましな方」(89p)であるイラクを支援し、イスラエルのレバノン侵攻をめぐってベイルートの大使館や海兵隊宿舎が自爆テロにあうなど、躓きが続きます。
 一方、中米においてはグレナダ侵攻を行い、さらにニカラグアではキューバやソ連の援助を受けたソモサ政権の打倒を目指して、反革命組織コントラを支援しますが、これはなかなかうまく行かず、イランに秘密裏に武器を売却した資金をコントラ支援にあてたというイラン・コントラ事件を引き起こします。これは大スキャンダルでしたが、それが致命傷にならなかったのは同時期にソ連に対する優位が明らかになってきたからです。

 レーガンは対ソ強硬派でしたが、ゴルバチョフが書記長に就任すると、ゴルバチョフの改革姿勢を受け入れ、一転して交渉に踏み出します。そして、米ソは協調して軍縮を進めていくことになります。
 こうした外交上の成功もあって、レーガンは政権末期まで高い支持率を維持し続け、88年の大統領選挙では後継のブッシュが勝利を収めました。ブッシュ自身は中道派であり、レーガンのような熱狂的な支持は受けないままに大統領の椅子に座ることになります。
 外交では89年に天安門事件、ベルリンの壁崩壊、マルタ会談での「冷戦の終結」宣言、91年ソ連の解体と怒涛の展開が続きます。ブッシュ政権は外交に関しては豊富な人材を揃えており、これらの変化に対応していきます。

 一方、ノリエガ将軍逮捕を目的としたパナマ侵攻では数万の兵力を投入して一国の元首を排除・連行するものであり、国際法上の正当性はともかくとして、「ポスト冷戦期の「唯一の超大国」アメリカ対外介入のモデル」(114p)となりました。
 さらに「唯一の超大国」としての力は湾岸戦争でも遺憾なく発揮されます。米軍50万、多国籍軍20万ほどが投入された作戦で、アメリカはほとんど損害を出さずにイラク軍を壊滅させました。
 しかし、フセイン政権はその後も自滅しませんでしたし、サウジアラビアへの米軍への駐留は、後に宗教原理主義的なテロにアメリカを巻き込んでいくことになります。
 
 このように外交面では輝かしい成功を収めたブッシュ政権でしたが、内政では行き詰まります。財政赤字問題から上位10%への増税も含んだ包括的予算調整法への署名を余儀なくされますが、これによって「新税はない」という選挙公約は破られ、共和党保守派の間でブッシュの評価は急落します。

 1992年の大統領選挙では、民主党のビル・クリントンが、第三の候補ロス・ペローが19%もの得票を集めてブッシュの票を奪ったこともあり、勝利します。クリントンは経済政策を選挙運動の中心に据え、ニューディール型の福祉国家を修正する方針を打ち出しました。
 クリントン政権の閣僚には3人のアフリカ系アメリカ人、2人のラティーノ、3人の女性が含まれるという多文化主義的な色彩を持ちつつ、同時にブッシュ政権以上に多くの百万長者を含んでいました。
 クリントンは財政赤字の削減のために貧困層を福祉依存から労働へといざなう政策を打ち出していきます。また、国民皆保険の実現を目指して医療保険制度改革にも乗り出し、妻のヒラリー・クリントンがこれを指揮しましたが、これは完全な失敗に終わりました。

 一方、共和党はギングリッチを中心に「アメリカとの契約」という政治綱領を作成し、94年の中間選挙に一丸となって望みます。結果は共和党の圧勝であり、ギングリッチはクリントン政権への攻勢を強めました。しかし、あまりに性急に歳出削減をもとめたギングリッチは世論の支持を失っていき、逆に景気の回復とともにクリントンは支持を回復していきます。
 クリントン自身も歳出の削減には積極的であり、自らの実績として生活保護受給者が1410万人から580万人へと60%削減されたことを誇りましたたが、これらの給付を打ち切られた多くは黒人のシングルマザーでした。また黒人男性の収監率が急上昇していくのもクリントン政権の時期です(145p図3−1参照)。

 96年の大統領選挙でクリントンは再選を果たします。経済はグリーンスパンのもとで好調でしたが、99年のシアトルでのWTO会議の失敗はグローバル化に反対する勢力を可視化させました。
 また、金融とハイテクが新たな繁栄を生みましたが、同時にそれは格差を拡大させました。この時期に進行した多文化主義的な動きもあり、アメリカはより分裂の度合いを強めていくことになります。
 
 クリントン政権の外交は経済重視でしたが、そのために軍事面に関してやや場当たり的ともいえるものになりました。ソマリアへの介入と撤退、ルワンダの虐殺事件への消極姿勢、ユーゴ内戦への介入と、国内世論を眺めながらの介入となりました。
 中東ではパレスチナ和平に積極的に動き、93年にオスロ合意の仲介に成功しますが、イスラエルのラビン首相の暗殺などによって、和平の動きは停滞します。一方、米軍を狙ったアルカイダのテロの度々起こるようになります。

 2000年の大統領選挙では、激しい党は対立のもとでブッシュ(子)が勝ちますが、ラルフ・ネーダーの出馬、そして何よりもフロリダでの票の集計作業の打ち切りという要因に支えられての勝利でした。
 ブッシュ(子)は中道だった父親とは違いニューライトに近い志向を示しており、減税や規制緩和などレーガンに近い政策を行いました。
 そんなブッシュ政権の運命を大きく変えたのが9.11テロです。このテロを好機としてチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官らは世界を大きく変えようとしていきます。パウエル国務長官が警察的な対応を考えていたのに対して、彼らはまずアフガニスタンという主権国家を敵と定め、さらにテロ容疑者を捕虜でもない「非合法の戦闘員」としてグアンタナモ収容所などで過酷に扱いました。
 さらにこの皇道派イラク戦争へと進み、フランスやドイツの反対を押し切ってイギリスなどの同調する一部の国とともにこの戦争を遂行します。あっという間にフセイン政権は崩壊しましたが、アメリカ軍はイラクでテロの泥沼にはまっていくことになります。
 
 2004年の大統領選挙でブッシュは再選されますが、この背景には前回に引き続きカール・ローブの指揮した選挙戦術がありました。草の根組織の活用や、ネガティブ・キャンペーン、宗教右派の動員などを行い、「道徳的価値観」を選挙の争点とする作戦を取ったのです。
 しかし、戦費による財政の逼迫、ハリケーン・カトリーナへの対抗の失敗、イラクでの被害の増加などによって第2期のブッシュ政権は低迷します。
 そして、2008年のリーマン・ショックという未曾有の経済危機の中でブッシュ政権は終わりを迎えるのです。

 そしていよいよオバマとトランプですが、著者はまったく対象的な両者に共通点も見出しています。まずは2人が完全なアウトサイダーであることと、「アンチ・ヒラリー」という点です。
 2008年も2016年も大統領選挙の本命はヒラリー・クリントンでした。ヒラリーは「初の女性大統領」にもっとも接近した女性でしたが、民主党タカ派としてイラク戦争を支持し、ウォール街の大口献金に依存していた人物でもありました。「変化」を打ち出すオバマやトランプに対して、彼女は「経験」を対置しましたが、そのあり方は有権者の支持を得ることができなかったのです。

 オバマは大統領選に勝つと、ヒラリー・クリントンを国務長官に据え、ブッシュ政権の国防長官ロバート・ゲイツを留任させるなど、可能な限り挙国一致的な布陣を敷きましたが、「個別の政策分野ごとに適材を配するその人事政策が、長期的な挙国一致体制をもたらすことも大統領統治の求心性と一貫性を高めることも」(246p)ありませんでした。
 オバマはまず金融危機の後始末のために巨額の財政出動を行い、さらにポール・ボルカーを中心に金融業の規制を行おうとしました。しかし、金融機関の抵抗や、そもそも銀行監督の技術的な難しさもあって金融業の規制は中途半端に終わります(トランプ政権になって規制は緩和された)。

 こうした中で、共和党陣営から出てきたのがティー・パーティ運動です。オバマ流の「大きな政府」へのアンチとして生まれたこの運動は、2010年の中間選挙で共和党を勝利に導くと同時に共和党の内部をより原理主義的な保守に変質させていきました。
 オバマはオバマケアを成立させますが、2010年の中間選挙を境に変革のムーブメントは衰えていきます。
 また、人種的な対立が政治に持ち込まれるようにもなり、2012年のロムニー支持の集会では「ホワイトハウスを白人に取り戻せ」というロゴの入ったTシャツが見られたそうです(274p)。2014年にはBLM運動が始まっており、今までとは別の形で人種差別に抗議する運動が展開されることになりました。

 一方、金融危機は白人労働者層にも大きな打撃を与えており、これが2016年のトランプの勝利へとつながっていきます。トランプは公職経験のまったくないアウトサイダーでしたが、選挙戦では対立候補を徹底的に叩くという戦術で生き残り、ラストベルトの白人労働者の支持を取り付けて本選にも勝利します。
 
 外交に関しては、多国間主義のオバマとアメリカ単独主義のトランプは対極の存在のようにも思えます、しかし、中東から手を引き、アジアにリバランスするというオバマ外交の路線はトランプも受け継いでいると言えますし、アメリカの衰退を前提とした外交という点では、両者は共通しています。
 ただし、もちろんトランプの外交は思いつきのレベルであり、著者は「トランプ政権下、アメリカ外交の核心的問題は、「外交素人」である大統領自身の衝動や思い付きがどこまでコントリール可能かという点に帰してきたようにもみえる」(305−306p)と述べています。

 このように本書は歴史書でありながら、現役の大統領のトランプに対する評価までを含んでおり、まさに現代につながる歴史を描いていると言えます。
 まだ歴史的評価の定まっていない部分までを取り込む必要があり、そのためにやや厚めの本になっていますが、さまざまな出来事や流れが「今」につながってくる歴史の叙述というのは非常に面白いものです。

春木育美『韓国社会の現在』(中公新書) 9点

 帯には「隣国の苦悩は、日本の近未来だ」との言葉があります。人によっては「日本のほうが先に豊かになって先に高齢化しているんだから日本こそが韓国の近未来では?」と思うかもしれませんが、本書を読むと、良くも悪くも韓国が先に進んでいる部分があり、日本と似たような問題に、より厳しい形で直面していることがわかると思います。
 0.92という先進国の中でも圧倒的に低い出生率、高齢者の貧困問題、ジェンダー・ギャップなど韓国はさまざまな問題を抱えていますが、同時に大胆な対策も取られています。ただし、その大胆な政策がうまくいくとは限らず、むしろ副作用に苦しんでいる面もあります。

 本書はそんな韓国社会の取り組みを明らかにすることで、同時に同じような問題に直面する日本に対するヒントも与えてくれる内容になっています。韓国社会を知りたい人はもちろん、日本の少子化問題や教育問題、ジェンダー問題などに興味がある人が読んでも得るものは大きいでしょう。同じ中公新書で、非常に面白かった大西裕『先進国・韓国の憂鬱』と重なる部分もありますが、本書のほうがより間口が広い感じです。

 目次は以下の通り。
第1章 世界で突出する少子化―0.92ショックはなぜ
第2章 貧困化、孤立化、ひとりの時代の到来
第3章 デジタル先進国の明暗―最先端の試行錯誤
第4章 国民総高学歴社会の憂鬱―「ヘル朝鮮」の実情
第5章 韓国女性のいま―男尊女卑は変わるか
終章 絶望的な格差と社会―若者の活路は

 まずは少子化です。韓国の出生率は2019年の時点で0.92というずば抜けた低さで、しかも急ピッチで少子高齢化が進んでいます。2020年の段階で人口の中で65歳以上の占める割合は日本28.9%、韓国15.7%ですが2060年には日本38.4%、韓国46.5%となります(5p1−1参照)。人口自体も2017年の5136万から2067年には3929万に、2117年には1168万に減少する予測となっています(9p1−5参照)。
 韓国では未婚率も上昇し続けており、2035年頃には日本を上回る予測となっています(12p1−7参照)。この結果、高齢者単身世帯も急速に増加すると考えられています。
 さらには徴兵制を敷く韓国では兵力不足も懸念されており、2018年に97万人いた19〜21歳の男性人口は2040年には46万人に半減します(14p)。
 ただし、社会全体の危機感はやや薄いといいます。これは北朝鮮との統一がなされれば人口が増加するというが理由の1つなのですが、北朝鮮の出生率も2018年時点で1.9と少子化が進んでいます。
 また、政府が少子化対策に取り組むタイミングも遅れており、1996年までは「出生抑制政策」がとられていました(28p)。

 韓国の少子化の要因も日本と同じく晩婚化・未婚化が大きいです。初婚年齢は2018年で男性33.2歳(日本は31.1歳)、女性は30.4歳(日本は29.4歳)となっており、日本以上に晩婚化が進んでいます(18p1−10参照)。さらに夫婦がもうける子どもの数も日本は2人近くなのに対して韓国は1.33人です(26p)。
 こうした状況をもたらしているのが、経済的要因です。男性側の結婚できない要因としては「就職できないから」「安定した職につけないから」といったものがメインで、結婚式の費用や新婚の住居の費用も重くのしかかります。
 女性側では結婚に対するネガティブなイメージも強く、「結婚に負担を感じる」のは日本女性が32.3%に対して韓国女性は64.0%、「子どもがいると就業やキャリアに制約を受ける」は日本女性35.6%に対して韓国女性77.2%と、結婚や子育てに対するマイナスイメージが強いです。
 さらに、1995〜2000年にかけて女児100人に対して男児が平均114人とアンバランスな状況がつづいたこともあり(息子欲しさに中絶が行われたと考えられる)、男性の結婚難はつづくと考えられます。

 政府は2004年から少子化対策に本腰を入れており、保育所の整備は日本以上に進みました。3歳未満の保育所利用率は2012年の時点で日本25.3%に対して韓国は62.0%にのぼっています(31p)。女性の正社員が朝7時〜夜10時まで子どもを預けて働くことも可能になりました。
 さらに、無償保育も日本に先駆けて実施されました。2013年、朴槿恵政権のもとで0〜5歳児を持つ全所得者対象に行われています。ただし、出生率は回復していませんし、保育所の質が低下し、保育士の暴言や暴行が問題になりました。また、タダならばと専業主婦が子どもを保育園に子どもを預ける動きも起こったり、裕福な家庭は保育無償化で浮いたお金を習い事につぎ込むようになるなど、あまりうまくいっていないのが現状のようです。

 実は韓国では小学校こそ教育費がかかります。韓国では小学生の学校外学習活動への参加率が82.3%と中学高校よりも高く、その費用が家庭に重くのしかかっているのです。これは韓国の小学校が1,2年生は午後1時、3,4年生が午後2時と比較的早く終わるために、親が帰宅するために学習塾や習い事をはしごさせるのが当たり前になっているからです。
 結果として、小学生の学校以外の平均学習時間は5時間23分と大学生(4時間10分)よりも長くなっています(48p)。
 文在寅政権は対策として2024年から小学校の下校時間を遅らせるとしていますが、これは教員組合から大きな反発が出ています。

 この他にも、結婚移民者(主に韓国の男性のもとに嫁いでくる外国人女性)へのかなり手厚い語学教育や帰化促進、重国籍の容認などを打ち出していますが、少子化対策の決定打とはなり得ていないのが現状です。

 続いてとり上げられているのが、高齢化とそれに伴う格差の問題です。
 一般的に高齢化が格差を拡大させると考えられていますが、韓国は65歳以上の相対的貧困率が43.7%とOECD加盟国中トップであり(53p)、特に問題が深刻です。
 この背景には、韓国が急激な経済成長と高齢化の中で、社会保障制度の整備が追いつかなかったことがあげられます。国民皆年金が実現したのは1999年であり公的年金の支給額は平均61万ウォン(約5万3千円)と定額で、年金受給率も45.9%にとどまっています(55−56p)。
 以前は、子どもが親の面倒を見るのが当たり前でしたが、子ども世代も就職難や不安定な雇用で余裕を失っており、親の面倒を見ない子どもを親が訴える「親不孝訴訟」も起きています。
 
 ただし、すべての高齢者が苦しんでいるわけではありません。例えば、公務員年金の受給者で受給額が月100万ウォンに満たいない者は10%以下にとどまっています。このような年金格差がある中で公務員年金の赤字の穴埋めに2018年で2兆2806億ウォンが使われており、問題となっていますが、韓国ではそれ以上に国民年金公団を通じた株主権の行使に注目が集まっています。2019年には大韓航空の会長の再任を阻止するなど、年金公団を通じて企業を統制しようという動きがあります。

 年金だけは暮らせないので多くの高齢者が働いています。清掃やホテルなどで働く高齢者が大きのは日本と同じですが、65歳以上が地下鉄をただで乗れることを利用した「老人宅配」もあるそうです(66p)。
 シルバー・ユーチューバーも続々と生まれており、年配者の中でもユーチューブなどのネットの存在感は高まっています。

 第3章ではデジタル化がとり上げられていますが、ここは韓国が圧倒的に先行している分野です。
 2016年の時点でキャッシュレス決差が96.4%、スマホの利用率は95%(2018年)、国税庁のウェブサイトで住民登録番号を入力すれば、過去1年間の買い物履歴のすべて確認できます。国民健康保険システムも住民登録番号と連動しており、病院での治療歴も蓄積されています。病院の実績などもネットで確認でき、日常生活にデジタル化が浸透しています。

 韓国の住民登録番号制度は、もともと日本の植民地支配時代の住民管理制度にさかのぼり、北朝鮮との対立の中で住民登録制度が整備されていきました(このあたりは羅芝賢『番号を創る権力』に詳しい)。
 もともとは国民統制のためのしくみでしたが、現在ではその利便性から広く国民に受け入れられています。ただし、あまりに住民登録番号の仕様が当たり前だったために、番号が漏れる問題がたびたび起きていました。近年では民間業者による番号の収集や利用に歯止めがかけられるようになっていますが、それでも遅漏問題は起きています。

 行政のデジタル化も進んでおり、2001年には行政事務は原則として電子処理をする「電子政府法」が制定されています。書類の交付は基本的にオンラインで行われ、提出先にもそのままメールで送信すれば良いようになっています。
 韓国ではトップダウンでデジタル化が進められており、中央政府が標準システムを開発し、それを各自治体などが使う方式で、自治体ごとにバラバラのシステムを使う日本との間の大きな違いになっています。
 監視カメラの普及、スマートシティの推進などでも、韓国は進んだレベルにありますが、さらに密告を奨励する「パパラッチ制度」もあります。犯罪行為を撮影して関係当局に通報すると、奨励金がもらえるのです。
 
 このIT化のきっかけとなったのがアジア通貨危機です。金大中大統領のもとで電子政府化が進められるとともに、パソコン講習を各地で開いたり、若年失業者をデータベース構築作業に雇用するなどして一気にIT化を進めました。
 ICT教育に関しても進んでいますが、PISAの読解力分野では12年連続して平均点が下がっており(117p)、ICT機器の利用は進んでいるものの、日本と同じく詰め込み中心の教育が問題になっています。また、デジタル・ポートフォリオも日本より先に導入されていますが、教員が入力作業に1日4時間以上使う状況になっており、その負担軽減が課題になっています。

 第4章が韓国の学歴社会について。韓国の受験が日本以上に厳しいというのは知られていることかもしれませんが、韓国の大学進学率は2009年に77.8%とピークに達した後、18年には69.8%に低下しています(日本は18年で59.7%(127−128p)。
 先進国では女子の大学進学率が男子を上回ることが多いですが、韓国もそうで、18年で女子が73.8%、男子は65.9%となっています。
 この男子の進学率の落ち込みの背景にあるのが就職難です。25〜34歳人口の就業率は大卒75%、高卒65%と低く、大卒新入社員の平均年齢は兵役があるとはいえ、30.9歳まで上昇敷いています(132−133p)。それにも関わらず、大学教育の私的負担率が高く、投資に見合うリターンが得られない状況になっているのです。

 韓国ではエリート教育と平等主義が併存しており、スポーツの世界では徹底的なエリート主義が行われている一方で、1974年には高校入試を廃止するという高校平準化制度が導入され、受験名門校が一気に解体されました。
 しかし、現在では、トップレベルに答える形で2000年に科学英才高校が新設され、さらに外国語高校や財閥が資金を投入してつくられた自律型私立高校などのエリートのための高校が存在しています。
 親が子どもに過度な期待を抱く「教育虐待」も問題になっています。この理由として、日本と違って韓国の受験は基本的に大学受験のただ1回であり、日本のように徐々に子どもの現実を受け入れる機会がないからだと考えられます。韓国の子どもが両親と一緒に過ごす時間は1日平均わずか48分であり(147p)、OECDで最下位となっています。

 韓国では英語教育もさかんでTOEFLやTOEICの受験者も多いのですが、李明博政権はこうした海外の試験への依存度の高さを是正するために、鳴り物入りで「国家英語能力評価試験(NEAT)」を開発しました。4技能を測るもので大学入試への活用も検討されていましたが、教育現場からの批判、予算オーバーなどによって朴槿恵政権になるとテストはあっさりと中止されました。
 大学の講義の英語化も進められていますが、やはり韓国語の講義に比べると伝えられる内容は限られ、中途半端な学習しかできない状況もあるようです。
 他にも韓国政府は、海外の大学を誘致する「仁川グローバルキャンパス」、「済州国際英語都市」などがありますが、思ったほど学生が集まっていないのが現状のようです。一方でサムソン財閥がバックアップする成均館大学は国際的な大学ランキングの順位を急激に上げています。

 英語教育をはじめとして過度な競争が生まれる背景には若者の就職難があります。就職をあきらめた人やアルバイトなどをしながら就活をしている人を含む20代の拡張失業率は約23%とも言われ(173p)、政府もさまざまな対策を打っています。
 しかし、正社員の平均年収で大企業6487万ウォン、中小企業3771万ウォンと大きな開きがあり、若者は大企業や公務員の職を求めて就活にチャレンジし続けます。韓国では年収以外にも「職業威信」とも言われる世間的な格付け意識が根強く、圧倒的にホワイトカラーが好まれます。日本のキッザニアにあって韓国のキッザニアにない職業は、花屋、消防士、自動車整備士、バスガイド、宅配ドライバー、工員などであり、韓国の親はこれらの職業に「下手に興味を持たれたら困る」と考えるそうです(183p)。
 そこで、海外就職も視野に入ってきます。政府も海外就職を支援しており、海外就職を目指す専門学校も多数存在します。韓国では高学歴化した若者と社会の間でミスマッチが起きていて、自らのイメージする職につくのはなかなか難しいのです。

 第5章はジェンダーの問題です。チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国でベストセラーになり、日本でもヒットしました。日韓ともに女性は社会においてさまざまな形で抑圧されており、その生きづらさは共通だと言えます。
 ただし、この状況に対する反応はずいぶん違っていて、韓国では2004年に比例代表候補者の50%以上を女性とするクオータ制が導入され、公務員の採用や管理職の登用に関しても数値比率を掲げて実行しています。政府の対応は韓国が進んでいます。
 もっとも、公務員の採用試験に関しては「男女平等」はむしろ男性に恩恵を与える制度になっています。公務員には優秀な女性志願者が殺到しており、ジェンダーのバランスを取るために男性に追加合格が出されているのです。また、政治家でも女性道知事はゼロ、学校でも校長は極めて少ないなど、トップに関してはまだまだ男性優位です。

 フェミニズム運動も日本よりもさかんで、#Me Too運動も盛り上がりましたが、同時に男女間のジェンダー対立が先鋭化しています。
 文在寅政権の支持率も2018年12月の時点で20代の女性の支持率が63.5%に対して男性は29.4%と非常にアンバランスです。これは若い男性がジェンダー平等政策に怒りを向けていることが一因だと考えられます。兵役が男性のみに課せられていることの不平等感は大きく、ジェンダー平等政策をすんなりとは受け入れられない形です。
 また、本章では、学校教育の場における人権尊重と自由化を求める運動にも触れています。各地で制定されている学生人権条例によって頭髪の自由や持ち物検査や所持品の没収禁止などが広まっており、ここも日本よりも進んでいる面と言えるかもしれません。

 このように本書はさまざまな面から韓国社会の現在に迫っています。日本と似た面も多いのですが、課題に直面したときに、「理想」と「現実」の間で日本では「現実」が勝利するのに対して、韓国では「理想」が勝利するというイメージを受けました。それが社会のダイナミックな動きにつながっています。
 ただ、それは文化ではなく制度的なものが生み出しているということを示しているのも本書の優れた点です。韓国の大統領は1期5年の再選不可であり、そのために各大統領はレガシーづくりのために大胆な改革に打って出ます。それが思い切った変化をもたらしていますが、同時に短期的なスパンの政策ばかりを生み出し、社会を不安定化させてもいるのです。
 最初にも述べましたが、韓国を知るためだではなく、日本の課題を考える上でも非常に有益な本だと思います。




内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる』(岩波新書) 6点

 シリア内戦からの難民の大量流入、パリでの同時多発テロ事件、そして反イスラームを掲げるポピュリスト政党の台頭と、ヨーロッパにおけるイスラームというのは2010年代の大きな問題となってきました。そんな問題に対して長年ヨーロッパとイスラームの研究を行ってきた著者が分析した本になります。基本的にはムスリムからの視点を中心に、ヨーロッパにおける共生がいかに難しくなっているかということが書かれています。
 ただし、5章立ての本で、第2章から第4章にかけては基本的にはイスラーム世界の動向を追うことに当てられており、「ヨーロッパ」に関する部分はタイトルから想像するよりは少ないかもしれません(もちろんトルコをどう捉えるかにもよりますが)。また、トルコに関する記述に関しては「エルドアン寄り」なので少し注意する必要もあるかと思います。

 目次は以下の通り。
序章 ヨーロッパのムスリム世界  
1章 女性の被り物論争
2章 シリア戦争と難民
3章 トルコという存在在
4章 イスラーム世界の混迷
5章 なぜ共生できないのか
おわりに 共生破綻への半世紀

 ヨーロッパにどれくらいのムスリムがいるのかについて詳しいデータはありませんが、大雑把にドイツに500万人、フランスに500万人、イギリスに300万人、イタリアに250万人ほどがいるとみられています。3pの「図序−1」をみると人口比5〜10%ほどの国が多いですが、ムスリムは都市部に多く暮らしているために、都市部ではもっと多く感じるかもしれません。
 そして忘れてはならないのがバルカン半島に多数のムスリムが暮らしているということです。コソボ92%、アルバニア82%、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ42%、マケドニア34%とムスリムが占める割合が高い国は多いです(9p)。
 一方、東欧の中でもポーランド、チェコ、ハンガリー、スロバキアといった国はムスリム人口が少ないながら(多くてもハンガリーの0.4%)、イスラーム嫌悪を掲げる政治家が表舞台に出てきています。

 第1章ではスカーフをはじめとするムスリムの女性の被り物の問題がとり上げられています。
 この問題はフランスでは1980年代末から問題になっており、いわゆるフランスのライシテの原則と相容れないとして2004年にはヴェール禁止法も制定されています。そして、近年ではそれに加えて特にライシテ原則を持たない国でも治安上の理由からブルカをはじめとする被り物を禁止する動きが強まっています。
 
 女性が自らの身体をどこまで隠すべきかということに関してはムスリムの中でも議論のあるところですが、ムスリムからするとまったく隠さないというのは恥ずかしい部分(ムスリム以外だと下半身とか)を丸出しにするような感覚を持つといいます(35pにイスラーム圏の男性用トイレの写真が載っているが小用であっても仕切りがしっかりとしている)。
 ただし、80年代まではヨーロッパに住むムスリムで被り物をするのは少数派でした。彼らの出身国の多くは世俗的な軍事政権であり、近代化のためにイスラーム色は忌避されていました。
 ところが、軍事政権のもとで格差が拡大し、一部の人間だけが近代的な生活を謳歌するようになると、逆にイスラームへの回帰が起き、それがヨーロッパに住むムスリムにも伝播していったのです。
 
 この被り物の規制に関しては各国で温度差があり、多文化主義の伝統があるイギリスではあまり問題になりませんし、キリスト教が公共的な場にせり出しているドイツでも規制の動きは起きていません。
 一方で2011年にベルギー、2016年にオランダ、2018年にデンマークが公共の場で顔面を覆う被り物の着用を禁止する法律を制定してます。これらの法律はフルフェイス型のヘルメットの着用も禁止しており、あくまでも治安対策という名目ですが、法案が「ブルカ禁止法」と呼ばれることが多いように、ムスリムをターゲットした法案になっています。
 その他の国でも州レベルで禁止法が制定されていたり、反イスラームの政党が躍進している状況があります。著者は治安のためにブルカを禁止しながら、同時にヒジャーブやスカーフに対しても敵意を向け続ける状況の問題を指摘しています。

 第2章ではシリア戦争と難民の問題が語られています。普通は「シリア内戦」と言われますが、著者はあえて「戦争」という言葉を使っています。これはすでに各国の介入によって「内戦」ではなくなっていると著者が考えているからです。
 本章は著者が2015年に出した『イスラム戦争』(集英社新書)と少しかぶっている面もありますが、本書においても基本的に著者はシリアの混乱の大きな原因はアサド政権の残虐な弾圧にあるとみています。
 アサド政権はきわめて世俗的な政権であり、「イスラーム国」の出現はアサド政権にとってプラスになりました。テロ組織のイスラーム国と戦う指導者を演出できたからです。

 シリアでは数多くの難民が発生し、その一部はヨーロッパを目指しました。2015年9月にはトルコのエーゲ海沿いのボドルムという街の浜辺に幼い男の子の水死体が漂着し、難民問題が大きくクローズアップされます。このときにドイツのメルケル首相が難民を受け入れる決定を下したことから、大量の難民がドイツに流入することになります。
 しかし、11月のパリ同時多発テロ事件などもあって難民の流入を問題視する声が高まり、16年の3月にはEUとトルコの間で難民流出抑制の政策がとられることになりました。
 2020年6月にUNHCR発表したシリア難民の総数はヨーロッパで受け入れられた人を除くと554万4000人、トルコに358万5000、レバノンに89万2000、ヨルダンに65万7000など、周辺国にまだ多くの難民がいることがわかります(88p)。
 本章では、こうした難民問題が著者が実際に現地で経験したことも含めて語られています。

 シリア情勢に関しては、アサド政権をイランとロシアが、スンニ派の反政府武装組織をトルコなどが支援しており、2015年11月にはロシア空軍機をトルコ空軍機が撃墜するという事件も起きていますが、16年8月のエルドアン・プーチン会談以降、対立がなくなったわけではないものの、トルコとロシアの間で一種の協調関係が出来上がっています。
 ただし、クルド人の問題などもあり、各国が納得する形でシリアの紛争が終結することを想像することは難しい状況です。

 第3章ではトルコに焦点が当てられています。トルコはアジアとヨーロッパの間に位置する国であり、シリアからの難民をもっとも多く受け入れている国でもあります。
 また、トルコはEU加盟も目指し、1999年には正式加盟交渉の候補国となり、05年には正式加盟交渉が始まりました。しかし、この交渉はキプロス問題でつまづきます。さらに01年の9.11テロ以降、「イスラーム圏のトルコ」に対する拒絶感情が表面化し、EUへの加盟交渉は進展していません。
 2016年には難民流出抑制と引き換えに、トルコがシェンゲン圏内のビザなし渡航を得ることになっていましたが、ここでもテロ組織の指定基準がEUと適合しないということで(トルコはクルド人のクルディスタン労働者党(PKK)とシリアのクルド人系武装組織の人民防衛隊(YPG)をテロ組織としていますが、EUは指定していない)、これも実現していません。

 このクルド人をめぐってはアメリカとも立場が違っています。アメリカは対「イスラーム国」のためにYPGを支援していますが、トルコにとってみるとYPGがトルコ国境沿いのシリアの地域を支配するのは許しがたいことで、2016年8月〜17年3月まで「ユーフラテスの盾」作戦というシリア領内への越境攻撃を行っています。
 ただ、このあたりの記述はかなりトルコ寄りです。「トルコ国内にもクルド人が多く住む地域があるが、そこで国軍と市民の衝突など起きていない。自国で迫害しないのに、わざわざ隣国に軍を出してクルド人を迫害する理由がないのである」(131−132p)と書いていますが、これには反論するクルド人も多いのではないでしょうか(90年代まではクルド人に対する軍や警察の対応に問題があったということは150pに書いてある)。

 著者は基本的にエルドアンを評価しており、クルド人問題についても、エルドアンがクルド人への差別的な政策を改め、クルド人の多い東南部地域の貧困問題に取り組み、PKKとの和解交渉に乗り出したと評価しています(和解交渉に関しては「シリア内戦を勢力拡大の好機と捉えたPKKが反撃に転じたために和解への道は閉ざされることになった」(156p)と書いている)。
 確かにトルコ民族主義を掲げていたことに比べると、エルドアンの公正・発展党(AKP)はイスラーム主義を掲げているためにクルド人への偏見は少ないのだと思います。ただし、2015年の総選挙におけるクルド人系政党HDPの躍進のころから、クルド人に対して厳しい姿勢に転じつつあるように思えるのですが、どうなんでしょうか? 
 また、2016年7月のクーデター未遂事件とギュレン運動の関係についても、エルドアン政権の説明を鵜呑みにしているように思えます。
 ただ、エルドアンをポピュリストであるとはっきりと認めながら(163p)、それを評価するという姿勢は1つの見方ではあると思います。そして、2010年のエルドアン政権下のトルコがスンニー派ムスリム世界のリーダーを目指し始めているという指摘(166p)も重要なものでしょう。

 第4章では「イスラーム世界の混迷」と題し、「アラブの春」後の混乱や「イスラーム国」などについて扱っています。ここも『イスラム戦争』(集英社新書)と少しかぶります。
 まず、「イスラーム国」ですが、カリフを中心とした主権国家とは違う原理で構成される国家についてスンニー派のムスリムの間ではそれを受け入れる素地があったと著者は考えています(例えば、「イスラーム国」を支持するのはナイジェリアで14%、、マレーシアとセネガルで11%、パキスタンで9%、トルコで8%といった数字だが、これらの国の人口を考えると相当な数の支持者がいることになる)。しかし、イスラームは民族によって差別をせず、他宗教の存在も認めるのに対して、「イスラーム国」は異教徒との共存をしようとはしませんでした。ここはイスラームの教えに反しているとしています。
 
 「イスラーム国」を支持する素地をつくった要因の1つが、欧米諸国の中東地域に対するダブルスタンダードともいえる向き合い方です。
 「アラブの春」後のエジプトではムスリム同胞団の支援するモルシーが大統領となりました。これは民主主義の結果ですが、これを軍がクーデターで打倒しても、欧米諸国はそれほど強く反発しませんでした(オバマ政権は軍事援助を凍結しましたが)。イスラーム色の強い政権の誕生は欧米諸国が歓迎するものではなかったのです。
 2010年に同志社大学を訪れたアフガニスタンのカルザイ大統領は、アフガニスタンが安定しないのは宗教が原因かと尋ねた学生に対して、「イスラームとは関係ない。アフガニスタンが平和になれないのは、欧米諸国がアフガニスタンに『国民国家』(ネイション・ステイト)の枠組みを押し付けるからだ」(199p)と述べたといいますが、欧米の考える枠組みや価値観がイスラームの考えとフィットしないことが、問題の根底にはあります。

 第4章の後半と第5章では再びヨーロッパに目を転じています。
 第4章の後半では「イスラーム国」に参加したヨーロッパ在住の若者の心理が分析されています。著者は中東の紛争などで殺されるムスリムをみて、今まで強く感じていなかったムスリムとしての意識が再覚醒されたこと、社会の差別的な構造の中でイスラームの教えが一種の承認を与えてくることなどを指摘しています。
 
 第5章ではヨーロッパ側、特にオランダとドイツにおける反イスラームの動きの高まりを追っています。
 オランダは「リベラル」な国で、以前はムスリムに対する差別は目立ちませんでしたが、9.11以降、特にピム・フォルタウィンやウィルダースといったポピュリズム的な政治家が現れたことによってムスリムに対する見方は一変しました。彼らは同性愛などを認めないイスラームは「リベラル」と相容れないとして、イスラームを批判するのです。

 ドイツに関しては、以前は国籍に血統主義を採用していたように、もともと移民に対して保守的なところがありましたが、やはり状況が厳しくなってきたのは9.11以降だといいます。
 2010年にメルケル首相が「多文化主義は失敗だった」と発言し、政府がより移民に関わって「統合」していかなければならないという方針を打ち出すのですが、この「統合」がムスリムからみると「同化」を求められているように感じることもあります。そして、2015年の難民危機以降は、AfDのような反移民・難民の政党が勢力を伸ばすようになっています。
 
 現在の状況に関して、著者は同化主義も多文化主義も行き詰まっていると見ており、イスラームの考えにヨーロッパ社会が理解を示さない限り、共生は難しいとみています。

 以上が本書の内容ですが、最初にも書いたようにヨーロッパに関する部分はタイトルから想像するよりは少ないかもしれません。また、トルコ、特にエルドアンに対する評価は意見の分かれるところでしょう。
 ただ、ムスリムを内在的に理解しようとする本書のスタンスは、欧米経由の情報に接することの多い日本人にとっては貴重なものでしょうし、現在起きており問題を複眼的に見るために必要なものだと思います。


藤野裕子『民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書) 8点

 「民衆暴力」とはなかなかインパクトのあるタイトルですが、副題にあるように日本近代史における民衆の暴動、暴力を考える1冊です。
 とり上げられているのは、主に新政府反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災の朝鮮人虐殺の4つの事件。秩父事件のように民衆の抵抗としてポジティブに捉えられている事件もあれば、朝鮮人の虐殺のように歴史の暗部として捉えられている事件もありますが、本書は「なぜ暴力が噴出したのか?」という民衆側の論理を読み解く内容になっています。
 その論理には時代性に強く規定されたものがある一方で、時代を超えた普遍的と言えるものもあります。日本近代史を読み解く上ではもちろん、幅広く暴動や暴力といったものを考える上でも非常に面白い内容を含んだ本になっています。

 目次は以下の通り。
序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政府反対一揆
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

 序章では江戸時代の民衆暴力、特に百姓一揆がとり上げられています。
 百姓一揆というと、暴政に耐えかねた百姓たちの怒りが爆発した出来事のようなイメージがあるかもしれませんが、実際には「作法」のようなものがあり、農民たちは刀や猟銃を持っていたにもかかわらず、あえて鎌や鍬や鋤などを持って集まり、支配者側もいきなり弾圧するのではなく、できるだけ説諭して解散させようとしていました。
 この背景にあるのが「仁政イデオロギー」という考えです。領主には百姓の生業維持を保障する責任があり、その「仁政」に対して百姓は年貢を納めるべきだという考えです。
 このように江戸時代の百姓一揆という「暴動」にはしっかりとした枠がはめられていたのです。

 ところが、これが19世紀に入ると変質していきます。当初の一揆が「悪党」や「無宿」と呼ばれた村外の人物を巻き込んで拡大したり、領主ではなく村役人や豪農・豪商などをターゲットにするものも増えました。そして、その一揆勢を、豪農たちが組織した農兵銃隊が鎮圧するようなケースも出てきます。
 一方、人々の生活に関しては、質素倹約によって生活を立て直そうという「通俗道徳」が広まる一方で、村の「遊び日」が増加する傾向が見られます。ある種の解放願望が高まっていたようで、これが幕末の「ええじゃないか」につながっていくと考えられています。
 
 この江戸時代の変化を受けて、第1章では新政府反対一揆がとり上げられています、明治になって、さまざまな制度が導入される一方で、それに反対する一揆も起きました。廃藩置県、学制、徴兵令、賤民廃止令、地租改正、いずれも反対一揆が起きています。
 これらの一揆は新たな負担に対する反発として理解されることが多いですが、本書を読むとそれだけではないことがわかります。名東県(現在の香川県)では1873年に子どもを連れた女性が別の女性に子どもを奪い去れられたことから、七郡にまたがる大きな一揆が起きました。現在からはやや理解に苦しき動きですが、当時、新政府は「文明化」のもとに民衆の生活世界にさまざまな介入を行っており、それが人々の大きな不安を引き起こしていたと考えられるのです。

 ただし、一揆が暴力を向けたのは支配者だけではありませんでした。それを示すのが賤民廃止令反対一揆です。
 1871年から77年まで賤民廃止令に反対した騒擾は西日本を中心に24件判明しています。その中でも73年に起きた美作一揆と筑前竹槍一揆は数万人が処罰される大規模なものでした。
 71年に出された賤民廃止令の背景には、今まで非課税だった賤民身分の家屋から税を徴収したいという意図があり、差別の解消を狙ったものではなかったといいますが、これをきっかけに被差別部落の人々が今まで禁じられていたことを行いはじめたことが、周囲の村の反発を呼びました。
 
 ただし、美作一揆の起こった状況などを見ると単純な「懲らしめてやる」という感情だけではなく、さまざまな背景があったことがわかります。この地域にお雇い外国人の一行がやってきたことが地域の人々の警戒心を呼び起こしたり、新政府の施策などに対して不安や恐怖が高まっている状態でした。
 一揆のきっかけは「白衣の不審者が来た」というもので(白衣の不審者が子どもを誘拐し外国に売り飛ばすという噂が流れていた)、そこから戸長宅を襲撃、さらに被差別部落や小学校を襲撃し、さらにそれが近隣の村を巻き込んで広がりました。一部の地域では「穢多従前通り」とともに「断髪従前通り」「御政治向き、旧幕府に立ち戻り」などが掲げられており(50p)、復古的な要求が目に付きます。

 この一揆では被差別部落に苛烈な暴力が振るわれ、被差別部落の18人が殺害されたとされていますが、その背景には新政府の政策が生み出した不安が異物の排除として被差別部落に向かったという心理的な動きや、あるいは経済的な利益を主張しはじめた被差別部落への反発といったこともあります。一揆勢は、被差別部落に対して旧来通りの礼譲を守り慎むという「詫び状」の提示を求めており(55p)、ここでも旧来へ戻すことが求められています。
 邏卒などが多く殺害されたことからもわかるように、新政府の正当性はいまだ確固たるものではなく、そういった中で民衆側、鎮圧側の双方に暴力が噴出したとも言えます。

 第2章では秩父事件がとり上げられています。歴史の教科書では自由民権運動における激化事件の1つとして紹介されることが多いですが、主張の中心は「借金返済の猶予」であり、自由民権運動的要素はありません。むしろ、この時期に関東の養蚕地帯で頻発した負債農民騒擾に通じるものがあります。当時、松方デフレの中で生糸の値段なども値下がりし、養蚕農家の多くが負債を抱えて苦しんでいました。
 しかも、江戸時代の頃には借金が返済できずに土地の名義が代わっても遅れて返済すれば取り戻せる、借金を村で処理する、最低限の衣食住に必要な財産を残して足りないぶんは棒引きにすると行った慣行がありましたが、明治になると借金の片の土地は競売にかけられ、自己破産する者が続出しました。農民たちはこうした社会のしくみに抵抗したのです。

 ただし、ほとんどの負債農民騒擾が暴力を伴わなかった一方で、秩父事件は蜂起にまで発展しました。ここには「世直し」一揆との連続性があります。
 秩父事件では、「板垣公」と合流して政治を変えるといったことも語られており、当時の自由民権運動や自由党が「世直し」をしてくれるというイメージがあったことがわかります。
 ただ、そうは言っても西南戦争以降、武力による新政府の打倒は不可能だと認識されており、秩父事件のリーダーの田代栄助も可能な限り蜂起を避けようとしていました。一方、秩父困民党は軍隊を模した組織を作っており、国家権力と対峙するために国家権力を意識した組織をつくろうとしていたことがうかがえます。
 蜂起を避けようとした田代でしたが、困民党の一部が警察と衝突したことから蜂起に踏み切ります。東京から軍が派遣されると田代は逃走することを支持しましたが、一部は高利貸しを打ちこわし軍隊と交戦しました。それだけ人々の社会に対する憤怒が強かったとも言えますが、同時に他の負債農民騒擾が蜂起につながらなかったのは、暴力の国家による独占が完成しつつあったからです。

 第3章では、主に日比谷焼き打ち事件がとり上げられています。ご存知のように日比谷焼き打ち事件は日露戦争の講和条約に反対する集会から起こった暴動ですが、これを大正デモクラシーの出発点と位置づけることもあります。
 確かに政府に対する民衆の政治的主張が始まりではありますが、派出所やキリスト教会への放火もさかんに行われており、これを「デモクラシー」という観点だけから捉えるのはやはり無理があるでしょう。

 事件は1905年9月5日の講和条約反対の集会をきっかけとして起こり、まずは政府の御用新聞とされた『国民新聞』の民友社を襲撃し、さらに内務大臣官邸も襲撃しました。この内務大臣官邸の攻防は軍が出動したこともあり収まりますが、暴動は収まりませんでした。暴動は7日未明にかけて東京の区を移動しながら続いたのです。
 暴動は持続性を持ちましたが、実は焼き打ちの集団には発端の国民集会に参加していない人々も含まれていました。離脱者も多く、その多くが焼き打ちに加わった隣接区で離脱しています。暴動は野次馬を巻きこみながら続いたのです。

 この背景にあったのがポーツマス条約への失望ですが、本書を読むと庶民レベルではむしろ厭戦気分というものが広がっていたことが分かります。集会を開いた側は戦争継続を訴えているわけですが、暴動を起こした者たちは戦争に対して馬鹿らしさを覚えていた可能性があります。
 襲撃対象としてキリスト教会があるのはいかにもナショナリズムの発露という感じですが、同時に執拗に襲撃の対象となったのが派出所です。これは暴動の参加者の多くが職工や車夫などの男性労働者であり、彼らが日頃から警官に反発心を抱いていたことが理由にあると考えられます。
 彼らは「飲む・打つ・買う」を基本に、飲んでは喧嘩し、互いの「男らしさ」を競うような生活を送っていました。彼らを日頃から取り締まっていたのが警官で、労働者たちは雇い主や富裕者とともに警官に対しても怒りを溜めていたと考えられます。近世末期から強まってきた通俗道徳に背を向けたか彼らのエネルギーが講和条約反対の集会をきっかけに爆発したのです。

 こうした都市暴動は、憲政擁護運動、山本内閣倒閣運動、米騒動と何度も起こることになります。いずれもデモクラシーやナショナリズムという言葉には収まりきらない要素をもった暴動でした。
 これ対して公権力の側は自警団を整備しようとします。当時の東京市長の尾崎行雄は巡邏夫を設置することとし、評判の悪かった警察以外の治安維持手段を確保しようとします。
 さらに政府はこの時期に青年団や在郷軍人会を組織していきますが、特に在郷軍人会は民衆の中に軍隊的な組織を持ち込みました。こうしてつくられた自警団的な組織が関東大震災の朝鮮人虐殺において大きな役割を果たすことになります。

 関東大震災の朝鮮人虐殺について、本書では第4章と第5章の2章を割いて詳しく分析を行っています。
 震災後の混乱において、「朝鮮人が暴動を起こした、井戸に毒を入れた、放火した」などのデマが広がり、多くの朝鮮人が殺害されました。このデマがどのように発生したのかはよくわかっていないのですが、本書では当初警察がそれを率先して流していたことをまず確認しています。震災当日の夕方には警察が朝鮮人による放火に注意せよとの情報を流していたという話がありますし、3日の朝には警察を取り仕切る内務省警保局長から「朝鮮人が暴動を起こした」という内容の電報を各地方長官に送っています。さらに戒厳令が出されたことも、朝鮮人の暴動を裏付けるものとして解釈された可能性があります。
 また、震災の混乱の中で各地で自警団が結成されますが、東京市内では自然発生的に結成されたものが多かったのに対して、内務省からの支持によって在郷軍人会・青年団・消防組などを中心に結成されたものもありました。2日には内務省から「不逞鮮人暴動に関する件」という通牒が出されており、埼玉・群馬・千葉などの自警団へと伝えられました。

 なぜ警察や内務省は朝鮮人を警戒したのか? その1つの補助線となるのが1919年の三・一運動です。日本の植民地支配に対する怒りが噴出した事件ですが、このときに「不逞鮮人」というフレーズが普及することになります。また、関東大震災後当時の内務大臣の水野錬太郎は三・一運動後の朝鮮総督府の政務総監であり、警視総監の赤池濃は三・一運動後の朝鮮総督府の警務局長でした。上層部に朝鮮人に対する強い警戒心があった可能性があります。

 虐殺は震災当日の晩には始まっていたといいます。南葛飾郡の旧四ツ木橋付近で20〜30人の朝鮮人が民衆によって殺害されたという証言があり、さらに荒川放水路沿いでは軍隊が朝鮮人を殺害していたという証言もあります。
 千葉でも朝鮮人に対する虐殺が起きており、9月6〜7日にかけて軍隊が習志野に収容していた朝鮮人を周囲の村の自警団に虐殺させた、収容所の中で殺したという証言もあります。
 9月5日になると、政府は一転して朝鮮人への迫害を諌める告諭を出し、事態の収拾に乗り出します。そして朝鮮人の死体を焼くなどの隠蔽工作を行ったため、虐殺された朝鮮人の正確な人数はわかりません。司法省の調査では約230人ですが、遥かに多い人数が虐殺されたことは確実と見られています。
 虐殺関わった自警団などの一部は責任を問われる一方(といっても量刑は明らかに軽かった)、警官や軍人で起訴された者はいませんでした。

 第5章では、さらに民衆が虐殺に走った論理が考察するために、東京の南綾瀬村での事件と埼玉県本庄警察署の事件が検討されています。
 南綾瀬では朝鮮人の居住する長屋を150人ほどの自警団が襲撃し、7人を殺害しています(さらに翌朝逃げた1人を殺害)。この自警団は、地元の村民のもの、工事などで南綾瀬村に移り住んできた人々のもの、隣町から駆けつけた人々ものという3種類の自警団からなっており、彼らはいずれも軍隊が朝鮮人を虐殺したという情報を得ていました。
 これによって朝鮮人の暴動は「事実」だと認識され、彼らの「義侠心」に火をつけたと考えられます。男性労働者階級のもつ「男らしさ」が人々を動かしたのです。

 本庄の事件は本庄警察署内に収容されていた朝鮮人を自警団が襲撃し虐殺した事件です。本庄町では85人前後の朝鮮人が殺害されています。
 本庄町は埼玉の北に位置しており震災の被害も少なかったですが、東京から多くの人々が避難してきました。同時に自警団に対して郡役所から「朝鮮人が東京で悪いことをした。見たらつかまえて警察につき出せ」という指示があり、朝鮮人に対する検問が行わました。
 そして警察署を襲撃するわけですが、彼らは「この事件でおとがめがあるまい」(192p)と考えていました。国家から委託された暴力であり、恩賞にあずかれると考えた者もいたそうです。
 さらに虐殺の翌日には本庄警察署の焼き打ち未遂事件も起きています。震災以前から本庄署の署長と地元の住民の関係はうまくいっておらず、襲撃のきっかけも自警団が朝鮮人を本庄署に連行したところ「司法権の侵害だ」と怒られたことだと考えられています(198p)。警察が自警活動を否定したことが人々の怒りに火をつけたのです。

 このように本書はできるだけ民衆側の「論理」にそいながら近代の暴動を読み解こうとしています。関東大震災における朝鮮人虐殺では、お上が朝鮮人の殺害を許可するような姿勢を示したことが、民衆による虐殺につながっていくわけですが、これは例えば、田野大輔『ファシズムの教室』で示された「権威に服従することで責任から解放される」というメカニズムに通じるものがあり、説得力のあるものです。
 他にも近年の歴史学の成果をうまく取り入れる形での分析がなされており、民衆の側の「論理」とともに、時代の変化とそれが民衆に与えた圧力が理解できるような内容になっています。
 個人的には少しだけでも米騒動の広がりについても解説してもらいたかった部分はありますが、非常に面白く、同時に重みをもった本になっていると思います。


野嶋剛『香港とは何か』(ちくま新書) 8点

 2019年の大規模デモ、今年2020年の国家安全法の導入によって、今や世界のホットスポットとなった香港について、近年の運動とその背景を探るとともに、香港という都市の歴史とアイデンティティについて取材・考察した本。
 著者は台湾や香港を中心に取材を続けているジャーナリストで、以下の目次を見てもらえばわかるように、「映画と香港史」、「日本人と香港」、「台湾の香港人たち」といった具合に一見すると雑多な内容となっています。
 ジャーナリストやライターが書いた多くの章立てからなる本だと、雑誌の連載などの寄せ集めでややまとまりのないものになることもあるのですが、本書はいずれの章も香港の本質と近年の東アジア情勢の大きな変動を見据えたもので、読み応えのあるものです。
 デモの先頭に立つ若者の考えだけでなく(先日逮捕が報じられた周庭氏へのインタビューも載っている)、そのデモに支持を与えた年長者のありようも見えてくる本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 境界の都市
第2章 香港アイデンティティと本土思想
第3章 三人の若者 ー 雨傘運動のあと
第4章 2019年に何が起きたか
第5章 映画と香港史
第6章 日本人と香港
第7章 台湾の香港人たち
第8章 中国にとっての香港
第9章 香港と香港人の未来

 第1章で著者は香港の物語には主役がいないと述べています。台湾なら李登輝、中国なら鄧小平の生涯を追うことで20世紀以降の激動を見ることが可能かもしてませんが、香港にはそういった人物は見当たりません。香港は「境界」あるいは「例外」的な場所として、さまざまな人を受け入れ、そして送り出してきました。

 著者は、2019年のデモにおいて「香港(人)、加油(香港(人)、頑張れ)」というスローガンが目立ったことに注目しています。香港人が自ら「香港(人)、頑張れ」と言うのは確かに少し変な気もしますが、そこには「香港人」というアイデンティティの確立が見て取れます。

 1984年にイギリスから中国への香港の返還が決まりますが、翌年の85年〜97年の返還まで香港からは当時の人口の1割近い50万人が海外に移民したといいます。「香港人」としてアイデンティティは希薄だったと言えるでしょう。
 ところが、返還から10年ほど経った頃から「本土思想」と呼ばれる、香港を「本土(故郷)」とみなす考えが登場します。自分たちのルーツは中国にあるかもしれないが、中国は愛すべき祖国ではなく香港こそが祖国だという考えです。
 この本土思想がいつ生まれたのかということはよくわからないのですが、2006年のスターフェリー埠頭保存運動にその萌芽があったといいます。道路建設のためい埠頭が取り壊されることがわかると保存運動が起こり、その後も開発に対する反対運動がたびたび起こりました。

 2012年にはD&G(ドルチェ&ガッバーナ)事件が起きます。これはD&G店の前で写真撮影をしていた人が警備員に排除されたことに対して、「買い物に来た中国人は写真を撮っているのに」と反発が起き、D&G店を1万人で撮影しようという運動が起きました。さらに、中国人が香港で大量に商品を購入して中国に持ち帰って売りさばく「水貨」と呼ばれる現象が活発になり粉ミルクなどが不足すると、水貨客を取り囲んで罵声を浴びせる「反水貨運動」が発生しました。
 この2つの出来事に共通するものは「若者、ネット、非組織的」(36p)というもので、このスタイルがその後の本格的な運動にも継承されていくことになります。

 第3章では雨傘運動にかかわった3人の若者、周庭(アグネス・チョウ)、梁天琦(エドワード・レオン)、游蕙禎(ヤウ・ワイチン)にインタビューをしています。
 日本では周庭がもっとも知名度があると思いますが、本書で紹介されているのは本当にややオタク気味な普通の若者という感じで、たまたま黄之鋒(ジョシュア・ウォン)に日本メディアへの対応を振られたことから雨傘運動のスポークス・パーソンのようになりました。運動をめぐる両親との対立など、等身大の姿が語られていると思います。

 梁天琦は雨傘運動の中心的人物で、「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、革命の時代だ)」というスローガンを使い始めた人物でもあります。出身は武漢で生まれてすぐに香港に移り住んでいます。梁天琦は逮捕され、その後海外に渡り、香港に戻って収監されています。そのため、2019年のデモには参加していません(インタビューは2017年に行われたもの)。
 游蕙禎は2016年の立法会選挙で番狂わせを演じて当選を果たし、当選後の議会宣誓で「HonKong is not Chaina」と書かれた青い旗を宣誓台に被せ、立法会から追放された人物です。「本土派は病気に対する抗体なのです。病気のとき、人間の体内に抗体が生まれ、私たちを守ろうとします。香港はいま中国の間違った政策のせいで病んでおり。その抗体は本土派なのです」(58p)と述べるように筋金入りの本土派ですが、逮捕もされ、親との関係などでは相当厳しいこともあったことが語られています。

 第4章では2019年の香港デモがとり上げられています。2018年台湾で起きた香港人カップルの殺人事件をきっかけに香港政府は逃亡犯条例の改正に動き出します。実は台湾当局は司法協力を申し出ており、この事件解決のために条例改正は必要ではなかったとのことですが、香港政府は一気に条例改正へと動き出します。
 しかし、これが香港の人々に火をつけました。本書ではこのデモで使われていたさまざまなスローガンやスラングが紹介されていますが、これを読むと運動の多面性、そして広東語の新語をつくることで北京語を話す中国人とは違った香港アイデンティティを構築しようとする動きがわかります。

 雨傘運動はまだ一部の若者の運動といった感じがありましたし、その若者の間でも路線対立がありましたが、2019年のデモでは「平和的、理性的、非暴力」の和理非派と実力行使も辞さない勇武派が協調を続けました。
 そして、このデモを煽ったとも言えるのが林鄭月娥(キャリー・ラム)香港行政長官のKYな振る舞いです。特に逃亡犯条例の一時凍結を表明した6月の記者会見で謝罪もせずにとうとうと反論したことが200万人デモを引き起こしました。他にもオフレコとは言え、「中央は絶対に解放軍を出さない」(100p)とばらしてしまった点など、政治家としてのセンスのなさが事態を悪化させました。ただし、林鄭月娥は習近平が江沢民色の強い香港に自らが押し込んだ人物であり、習近平はあくまでも林鄭月娥を支える姿勢をとっています。

 第5章は「映画と香港史」。映画を紹介しながら香港史をたどるというものですが、期待以上に読ませます。
 例えば、香港は国共内戦のときに大量に人口が流入しますが、そんな時代を背景にした映画に「慕情」という米国映画があります。香港を舞台にしたラブロマンスですが、香港人は名前のない群衆以外の役割では登場しないといいます。イギリスは香港に「近代」をもたらしましたが、一方で香港にはせんごしばらくするまで美術館や博物館やオペラハウスは作られず、その「近代」には文化的なものが伴っていませんでした。

 香港映画というと何といってもブルース・リーですが、彼について評論家の陳雲は「上層階流文化の哲理と中層文化の武芸パフォーマンス、下層文化の映画娯楽を総合したもの」(117p)と位置づけています。
 また、ジャッキー・チェンに関しては香港警察との関わりが外せません。腐敗した組織の代名詞だった香港警察は70年代からその悪評をはねのけるために改革が行われるのですが、その香港警察のイメージアップに一役買ったのがジャッキー・チェンでした。しかし現在、民主化や学生運動に冷ややかな態度を取るジャッキーは香港で嫌われ者になっています。
 97年後の返還後は、香港映画界は中国市場に打って出る「北上」を目指すことになりますが、それとともに香港映画らしさは薄れまし。ただし、2014年の「ミッドナイト・アフター」、15年「十年」など、近年は中国政府による香港支配をモチーフとしたような映画も登場しており、映画界でも香港アイデンティティを模索する動きがあります。

 第6章は「日本人と香港」。夏目漱石や北里柴三郎らから始まる日本人と香港のかかわりを追っていますが、まず面白いのが佐々淳行のエピソード。佐々は1967年に香港で起きた六七暴動のときに香港総領事館で働いており、そこで催涙弾によるデモの鎮圧方法を見て、日本でも採用するように意見を送ったそうです。2019年の香港中文大、香港理工大での警察とデモ隊の攻防を見て、安田講堂事件を思い起こす人も多かったようですが、そのルーツは香港にあったというわけです。
 また、香港からさらに中国へと積極的に進出してあっという間に破綻したヤオハンの話も面白いです。
 他にも香港を扱った新書なども紹介されていてブックガイドにもなっているのですが、最後に日本の香港研究の厚みに触れる一方で、倉田徹の香港の大学は国際ランキングを強く意識しており、そのため引用されにくい香港研究はあまり発展しないということを指摘を紹介していて、なるほどと思いました。
 
 第7章では著者のもう1つのフィールドとも言うべき台湾と香港の関係が紹介されています。2019年の香港情勢によって最も大きな影響を受けたのが台湾であり、それまで人気が低迷していた蔡英文を再選へと導きました。「今日の香港は明日の台湾」との言葉のもと、今までにはなかった香港と台湾の連帯感が急速に高まっています。
 本章では書店主の林栄基を取材しています。林栄基と言ってもわからないでしょうが、銅鑼湾書店の元店長だと言えば彼が現在の香港の状況を象徴する人物であることがわかるかもしれません。
 銅鑼湾書店事件は、中国政府に批判的な本を扱っていた銅鑼湾書店の関係者が拘束されて中国に連れ去られた事件で、林も中国で取り調べを受け、しばらく広東省で軟禁されていました。「スパイになれ」と要求されサインしたものの、告発の記者会見を開き、その後台湾に渡り、取材のときは台北に銅鑼湾書店を開業しようとしていたところでした。
 他にも中華人民共和国香港特別行政区と台湾の中華民国の2つの国籍を持ち、両地で政治活動に参加している蔡正彦にインタビューしていますが、19年11月の香港区議会選で民主派の候補を応援し、20年の総統選では台湾で蔡英文に投票するというのは、日本人からするとなかなか想像のつかない活動の仕方です。

 第8章は「中国にとっての香港」。毛沢東は「長期打算、充分利用」という考えのもと、香港の回収は急がず、香港を通じて対外関係や貿易を発展させようとしました。それに対して鄧小平は香港を中国に組み込んで経済発展のために利用しようとしました。
 香港返還後も、中国にとって香港は異物でしたが、鄧小平も江沢民も自分たちとは違う香港の体制を尊重する姿勢を見せました。この背景には香港が改革開放の理想モデルとして機能したということもあります。
 そして、中国には香港を通じて海外から資金が流れ込み、海外の企業も中国進出のために香港人という水先案内人を必要としました。

 しかし、この関係は中国の経済成長とともに変わっていきます。返還当時中国全体のGDPの約20%を稼ぎ出していた香港ですが、今や対中GDPの貢献度は3%ほどにすぎません(206p)。香港の隣の漁村であった深センが香港を超え、香港は憧れの地ではなくなったのです。
 現在、中国では香港に関して「脱植民地化」論が広がっているといいます。香港では脱植民地化が徹底していないので問題が起こるのだという考えです。香港人は植民地根性が抜けきっておらず、デモなども「西洋の陰謀」によるものだというのです。この認識から生まれる中国側の対応に関しては暗い未来しか予測できません。

 香港の「一国二制度」は返還から50年、つまり2047年まで続くことになっていました。しかし、若者は香港人としてのアイデンティティを強めており、「親中派として次世代を担っていく若者は皆無と言っていい」(220p)状況です。
 そんな中で今年になって中国が打ち出したが国家安全法でした。著者は2019年のデモを見て「中国は香港に対して「あきらめ」をつけたのだと思う」(224p)と述べています。香港政府による間接統治から直接統治へと大きく舵を切ったと言えるでしょう。
 さらに香港問題には米中対立も関わっています。アメリカが香港ドルと米ドルの交換を拒むような手段に出れば、香港ドルは単なる地域通貨となり香港の金融センターとしての地位は大きく損なわれます。中国に流れ込む資金も大きな影響を受けるでしょう。

 著者は香港の将来に関して、泥沼の戦いが続く「北アイルランド化」、広義や不満が抑え込まれる「マカオ化」、自治権から独立を獲得する「豪州化」、中国国家からしだいに地域国家になっていく「台湾化」、アイデンティティについては一線を画するものの国家の枠組みとしては同化する「沖縄化」などのシナリオを提示していますが、最初に示されているのは「北アイルランド化」と「マカオ化」です。いずれにしても明るい未来とは言えないでしょう。
 
 このように本書は盛りだくさんの内容です。このくらい盛りだくさんの内容で、しかも現在進行系の内容を扱っていながら、全体を通じて深みのある取材と分析がなされているのが本書の特徴です。最初にも述べたように目次を見ると比較的「軽そう」なのですが、読んでみると「重み」を感じさせる内容になっています。
 香港情勢を知りたいという人にはもちろん、これからの東アジア情勢を考えたい人にもお薦めできる本ですね。


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