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2021年02月

菊池秀明『太平天国』(岩波新書) 8点

 帯には「人類史上最悪の内戦」との言葉が載っていますが、太平天国の乱による死者は江蘇省だけで2000万人を超えるとも言われ、まさに世界大戦に匹敵するような犠牲者が出ています。また、乱が14年近く続いたのも1つの特徴で、同じく清末の反乱として知られている義和団の乱に比べると、その持続性は段違いです(義和団の乱は1年ちょっと)。
 本書はそんな太平天国の乱の始まりから終わりまでをたどるとともに、そこに中国の歴史に繰り返し現れ、現代にも通じている1つのパターンを見出そうとしています。副題は「皇帝なき中国の挫折」となっていますが、単純に太平天国の興亡のドラマを見せるだけではなく、中国の近代や、中国の政治や社会そのものを考えさせるような内容です。

 目次は以下の通り。
一 神は上帝ただ一つ
二 約束の地に向かって
三 「地上の天国」の実像
四 曽国藩と湘軍の登場
五 天京事変への道
六 「救世主の王国」の滅亡
結 論

 太平天国の中心人物となった洪秀全は、広州の郊外の花県で1814年に生まれています。洪秀全は客家と呼ばれる後発の移民の生まれで、秀才だった洪秀全は幼い頃から科挙合格の期待をかけられたものの、勉強を進める上での人脈などはなく、上手くはいきませんでした。
 1837年、科挙に不合格になった後に洪秀全は熱病に倒れ、そこで金髪に黒服姿の老人からこの世を救えと命じられる夢を見たといいます。1843年、プロテスタントの伝道のパンフレットを読んだ洪秀全は、ここに書かれた偶像崇拝禁止の教えに感銘を受けるとともに、夢で見た老人こそキリスト教の神のヤハウェであるに違いないと思い、「上帝」と呼ばれていたヤハウェを信仰するキリスト教こそが、太古の中国で信じられていた宗教だと確信し、布教を始めます。
 この舶来の新しいキリスト教を中国の伝統と結びつけたことが太平天国の1つの特徴と言えるでしょう。

 しかし、アヘン戦争の記憶も新しい中で西洋の思想を布教することは困難で、洪秀全は広西省に赴きます。この中で、洪秀全は教義をまとめていきますが、堯・舜・禹も上帝を信仰していた、天国の約束された領土は中国だと考えるなど、一般的なキリスト教理解とは違ったものでした。 
 初期からの信者であった馮雲山は広西省で2000人近い信者を獲得し、この団体は上帝会と呼ばれるようになります。信者は主に山間部に入植した貧しい客家で、彼らに現世利益を約束したことで上帝会は勢力を拡大させました。
 「皇上帝はこの世のすべての人にとって共通の父である」(18p)との教義に示されるように、上帝会は大家族思想をとっており、宗族を形成できなかった貧しい人々に宗族に代わる相互扶助組織を提供するような面があったのです。

 その後、洪秀全らは偶像破壊運動を起こし、各地の廟を破壊するなどして地元社会との摩擦を引き起こしました。
 そんな中、楊秀清と蕭朝貴という2人の会員にヤハウェとイエス・キリストが降臨し、お告げを発し始まるという出来事が起こります。広西ではシャーマニズムの伝統があり、その流れを継ぐものでしたが、洪秀全が楊秀清と簫朝貴のお告げを本物だと認めたことで、上帝会はシャーマニズムの要素も取り入れながら拡大していくことになります。楊秀清は、洪秀全をヤハウェの次子、イエスの弟として権威を強調し、来たるべき新王朝の君主であると主張し始めました。こうして上帝会は易姓革命の要素も取り込みます。

 こうした中、1850年に広西省の貴県で客家とチワン族や早期に移民していた漢族との争いが起こると、行き場を失った客家の人々は上帝会を頼り、石達開に率いられて戦うようになります。50年の12月には蜂起を決意し、弁髪を切って清朝への抵抗の姿勢を明らかにしました。

 1851年の前半には太平天国という国号も決まり、新王朝創設の意思を示します。清朝の軍事力の中心は満州人や蒙古人からなる八旗と漢人中心の緑営でしたが、この時期には弱体化が進んでおり、太平軍を鎮圧することはできませんでした。
 51年12月、洪秀全は詔により、楊秀清を軍師かつ東王に、蕭朝貴を西王に、馮雲山を南王に、韋昌輝を北王に、石達開を翼王に任命します。こうして上帝=ヤハウェのもと、地上の支配者が皇帝を名乗ることを許されないとの教えにもとづき、洪秀全以下6人の王が存在する体制が生まれます。洪秀全と他の王は兄弟であり、両者の間には絶対的な身分の差はありませんでした。
 一方、信者に対しては戦闘で功績のあったものには官職を与えると宣言しました。このあたりは日本の一揆などとは違うところで、「昇官発財(官となって財産を築く)」という官界への上昇志向を刻み込んだものとなっています。

 清軍の反撃を受けた太平軍は永安州を脱出し、途中で馮雲山を失うなどの大きな損害を受けますが、広西から湖南に進出します。太平軍がダメージを受けながらも戦闘が継続できた背景には、この地域に貧しい人々が多かった背景もあり、また、銀納を原則とする土地税が銀の海外流出に伴う銀貨の高騰によって重くなっていたということもあります。税負担に耐えかねた人びとが太平軍に合流していったのです。
 1852年9月、太平軍は湖南の省都長沙を包囲しますが、蕭朝貴を失うなど攻撃は失敗します。そこで、太平軍は11月末には船を手に入れて岳州を陥落させ、さらに長江を東進して南京を目指すことを決めます。
 太平軍は略奪や徴発を厳しく禁止したこともあり、一般の人々の支持を受けます。また、「滅満興漢」の主張も掲げるようになり、清を「夷」と捉える華夷観念に訴える形で、人びとの支持を集めようとしました。太平天国は「中国」や」「中国の人」という言葉をよく使っており、中国のナショナリズムに訴えるような面もあったのです。

 1853年1月に太平軍は武昌(現在の武漢の一部)を占領します。武昌は太平軍が占領した初めての省都クラスの都市で、太平軍は大きな富を得ました。同時に辺境出身の彼らと都市住民の間には埋めがたい意識の差があったといいます。
 53年2月には太平軍は十数万の兵力で水陸に分かれて南京を目指します。太平軍は農村で略奪をしないだけではなく、都市の富を農村に分け与え、租税の3年間免除などを掲げて、人びとを引きつけました。
 3月にはついに南京を占領し、同時に旗人に対する虐殺が行われました。また、カトリックの教会にあったイエス・キリスト像も偶像として破壊するなど、過激な面も見せました。

 洪秀全の入城後、南京は天京と改称され、洪秀全の宮殿や、楊秀清、韋昌輝、石達開らの宮殿が作られました。南京の住民は男女に分けて「館」に収容されました。家族は引き離され男性、女性がそれぞれ25人1組の組織にまとめられました。纏足が禁止され、女性の集住区の「女営」は男性が立ち入ることが禁止され、父娘や夫婦であっても館の外から顔を見るか声を交わすことしかできませんでした。さらに建築や武器製造などの職人集団が設けられました。
 1853年末に南京を訪れたカトリック神父は「南京は都市というよりも一つの兵営だった」(83p)と述べています。食糧は南京に貯蔵されていたものや住民から没収した銀などで買い付けたものが配給され、一種の公有制の経済が目指されていました。
 また55年には男女に結婚と夫婦同居を認める決定がなされますが、功績をあげた老兄弟(古くから太平天国に参加している者)に若い女性を娶らせ、集団結婚式が行われたといいます(95p)。
 
 しかし、太平天国は南京を攻略したものの、周辺地域を面として占領したわけではないために、徐々に食糧不足に苦しむことになります。配給は減らされ、都市住民が周辺の稲刈りなどに動員されましたが、それに乗じて逃げた者も多かったといいます。
 そうした中で人びとは諸王の庇護を求めるようになります。諸王は長江上流へ出陣し食糧を確保し、それを頼って多くのひとが諸王のもとに集まりました。諸王はそれぞれが宗族的な集団を形成したのです。

 1853年5月、太平天国は北京攻略のために約2万の精鋭部隊を送ります。天津についたら援軍を送るとの話もあったようですが、洪秀全らは南京攻略後、南京からは動きませんでした。
 北伐軍に対して援軍も送られましたが、その援軍は途中で糾合した反体制集団を統率できず、本隊は食糧不足などに苦しみ、結局、この北京遠征は失敗します。

 太平天国は北だけでなく西にも兵を送りました。1853年6月には1000隻あまりの船に分乗した数千人の部隊が長江上流へと向かっていあす。この西征軍の目的は食糧の調達であり、ここでも面としての支配地域の拡大は目指されていませんでした。
 ただし、安徽の省都である安慶を占領した石達開はそこを拠点にして一帯の支配を目指します。地方官を配置し、土地税を取るようになったのです。税負担は清朝のものよりも軽く、太平天国の支配は清朝よりもましなものでした。
 一方、安徽や湖北で科挙が行われたものの、孔子廟を破壊したり儒教の経典を焼き捨てたりする太平天国に対する読書人の反発は強く、彼らの心を掴むことはできませんでした。

 そんな中で登場したのが曾国藩です。曽国藩は1811年に湖南で生まれた人物で、比較的貧しい家の出ながらも科挙に合格し、内閣学士に抜擢されるなど、順調に出世をした人物でした。曽国藩は咸豊帝に諫言をして激怒されますが、どうにか許され、1853年に母の死によって故郷に帰っていたところ、団練大臣に任命されます。
 当初は治安維持の役割などを担っていましたが、農民たちを集めて訓練し、太平軍と戦うことを決意します。曽国藩は火力と水軍を重視して軍(湘軍)を編成すると、54年の2月に1万数千人からなる軍を率いて出撃します。
 曽国藩は「官僚となり財産を築いてハハハと笑おう」(141p)といったスローガンで士気を鼓舞し(ここは太平軍と同じ)、はじめは苦戦しながらも、徐々に太平軍相手に勝利を重ねていきます。清の地方官の非協力的な態度などに悩まされながらも、ついに西征軍を撤退させるのです。

 しかし、この西征軍の撤退の主因は太平天国側の内部分裂でした。天京事変が勃発したのです。
 この顛末は第5章に書かれていますが、第5章の前半では太平天国と外国との関係についても書かれています。キリスト教を母体とする太平天国は欧米にとって歓迎する要素を持つ存在でしたが、その外交スタイルは以前の中華思想丸出しのもので、外国からの使節を失望させました。多妻制や三位一体説の否定も西洋人は受け入れがたいものであり、欧米列強との交渉では清朝側に遅れをとることになります。

 この太平天国のキリスト教からみて異教的な要素にシャーマニズムがありますが、このシャーマニズムが天京事変の引き金になります。
 東王・楊秀清は天父下凡と呼ばれるシャーマニズムを行う人物でもあり(ヤハウェが楊秀清のもとに降臨する)、南京攻略後もお告げがたびたび下されました。ここで問題となるのは、普段の序列では洪秀全が兄、楊秀清が弟であるものの、天父下凡のときはヤハウェが憑依した楊秀清が父となり、子の洪秀全を指導するという点です。
 この地位を利用して、楊秀清はNo.2の地位を確立し、ときに他の王を天父下凡を利用して笞刑に処すなど周囲に対しても高圧的に出ます。ただし、著者はこれを楊秀清の驕りというよりは軍事上の権力を掌握しながら、結果を出せなかった楊秀清の焦りと、その不安からさらなる専制を求めたものと解釈しています(これは袁世凱や毛沢東にも見られた中国の権力者のよくあるパターンとのこと(179p))。

 1856年8月、楊秀清は天父下凡を行い、洪秀全に対し、洪秀全にしか認められていなかった「万歳」の称号を楊秀清にも認めるように迫ります。このとき、洪秀全はそれを受け入れましたが、楊秀清に自らと同等の地位を与えるというお告げを受け入れるわけにはいかず、南京の外にいた韋昌輝と秦日綱に密かに楊秀清を殺すように命令を出し、楊秀清を殺害させ、東王府の兵や関係者は皆殺しにされました。
 帰還した石達開はこの楊秀清だけではなく関係者を皆殺しにした行いを責めますが、同時に見の危険も感じて南京を脱出します。この後、石達開は韋昌輝を殺すことを洪秀全に要求し、洪秀全はこれを受け入れ、韋昌輝を殺し、秦日綱も殺されます。
 石達開は楊秀清に代わって政務を担当することになりますが、洪秀全の兄などから圧力にいたたまれなくなり、軍を率いて、江西から浙江、福建へと移動し、最終的に広西の地に戻りますが、最終的には捉えられて殺されました。こうして洪秀全を支えた5人の王はすべていなくなったのです。

 普通ならこの内部崩壊によって終わるところですが、ここで太平天国はしぶとく盛り返します。南京周辺も危うくなった洪秀全は兄の王号を剥奪し、陳玉成、李秀成、李世賢らに主将として兵を率いさせますが、彼らの活躍によって再び包囲網が破られます。
 さらにこの頃には洪秀全のいとこで香港に逃れていた洪仁玕が合流します。洪仁玕は干王と軍師の地位に任命され、外国との通商や産業の育成など近代化政策に着手します。さらに太平天国の教義をオーソドックスなキリスト教に近づけることでヨーロッパ諸国との条約締結を目指しました。
 一方、李秀成の軍は杭州、そして蘇州に勢力を広げ、蘇州の一帯を支配し始めます。ただし、洪仁玕が企図した上海のヨーロッパ勢力との交渉はうまくいきませんでした。
 
 この頃になると洪秀全は夢のお告げに従ってさまざまなことを行うようになり、太平天国の国号を「上帝天国」、さらに「天父天兄天王太平天国」に改めますが、こうした洪秀全に対し、李秀成らの諸王は自立する姿勢を強めました。
 1861年9月に安慶が陥落し、長江中流域の支配権を失った太平軍ですが、浙江へ進出し、なおしばらく勢力を維持します。特に李秀成は江蘇東部と浙江西部を支配し、ヨーロッパ商人から鉄砲を購入し、傭兵を雇いました。ただし、軍紀の低下は深刻で、創設当時の軍律の厳しさは失われていました。

 1861年8月に咸豊帝が死去すると西太后と咸豊帝の弟だった恭親王の奕訢がクーデターを起こして実権を掌握します。彼らは欧米列強の力を借りて太平天国を鎮圧する方針を決め、62年になると英仏軍や常勝軍と言われる中国人の傭兵部隊が太平軍と戦うようになります。
 太平軍はこうした列強の支援を受けた軍と曽国藩の湘軍に挟撃されるような形になり、62年5月には湘軍が南京へと迫ります。李秀成率いる軍による反撃も失敗し、李秀成は南京に戻り洪秀全に南京を脱出するように求めますが、洪秀全はこれを拒否し、64年の6月に南京が飢えに苦しむ中で病気で亡くなります。そして7月には南京が陥落し、太平天国は終りを迎えました。

 このように本書は波乱に富んだ太平天国の興亡を教えてくれのですが、それだけではなく、その興亡を中国の社会や歴史に重ね合わせているところが特徴です。
 「結論」でも述べていますが、洪秀全と5人の王による分権的な統治を目指した太平天国は、結局はそれを維持できずに血に塗れた天京事変を引き起こしました。そして、後の中国の権力者はこうした内部分裂を防ぐためにさらなる権力の集中を目指すのです。また、キリスト教という「西洋」との出会いが太平天国の乱という巨大な内戦と結びついたという点も、中国にある種の「内向き」な姿勢をもたらしたと言えるかもしれません。
 中国における近代、中国のおける西洋、そして中国の社会構造など、さまざまなことを考えさせてくれる歴史書だと思います。
 

空井護『デモクラシーの整理法』(岩波新書) 7点

 デモクラシーについて書かれた本ですが、例えば、宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のようなデモクラシーに関する「入門書」とは少し違います。「入門書」と言うには、本書は著者の独自の考えがあまりにも強く出ている本であり、政治学を学ぶ上での入り口として機能するような本ではありません。
 また、「整理法」と銘打っていますが、デモクラシーをタイプ分けする本(代表的なものとしてレイプハルト『民主主義対民主主義』がある)でもありません。
 一番簡単に本書を説明しようとすると「デモクラシーを問い直す本」ということになるのでしょうが、本書では「〇〇のためにデモクラシーが必要である」という議論を行わずに、デモクラシーそのものが機能するための必要最小限度の要件を探るような内容になっており、そのあたりも類書とは違います。
 非常に説明しにくい本ではあるのですが、以下、自分なりに本書の議論の特徴をスケッチしてみたいと思います。

 目次は以下の通り。

序 章
 一 本書の目的
 二 本書の構成
第一章 収納――政府・政治・政治体制
 一 政府と政府的共同体
 二 政策と政治
 三 政治体制と政治体制型
第二章 整理Ⅰ――デモクラシーの組み立て
 一 ふたつのデモクラシー
 二 古典デモクラシー
 三 現代デモクラシー
 四 デモクラシーと自由の関係
第三章 整理Ⅱ――民主体制の整列
 一 序列の解消
 二 民主体制の使い分け
 三 デフォルトとしての混合型民主体制
終 章
 一 デモクラティズムの諸相――整理法の整理のために
 二 ふたたび本書の目的について――結語にかえて

 まず、本書では「民主主義」ではなく「デモクラシー」という用語が選択されています。「主義」という言葉を使ったものには、「自由主義」「保守主義」のように何らかの思想や信条が込められているものがありますが、著者が本書で説明したい「デモクラシー」はあくまでも「手続き的なもの」であって、思想面ではありません。政治の仕組みとしての「デモクラシー」を説明することが本書の目的です。
 本書では、「デモクラシー」の訳語にも「民主主義」ではなく「民衆支配」という言葉が選択されています。

 第1章では、まず「統治」の問題から入っていくのですが、その前に「政治はそれ自体とし完結し自立した活動ではなく、政府の存在を前提としている」(23p)とサラッと書いているように、本書が取り上げる「政治」はあくまでも国、あるいは少なくとも自治体レベルのものであり、「個人的なことは政治的なこと」というような政治観は視野に入っていません。
 「政府」とは、「一定の地理的領域内の人的・物的秩序の維持を目的に(あるいは目的にすると称して)活動する人的集団」(25p)であり、その政府によって展開される活動が「統治」です。

 著者は、社会契約説に関しては「およそリアリティを欠いている」(30p)と評価していますが、社会契約説の自分たちの利益のために政府があるという考えには同意します。
 居座り盗賊集団であっても、彼らが一定の治安を維持したり、一定の社会資本をつくったりすれば(それは住民を強制労働させてのものかもしれませんが)、そうした集団の存在は住民の利益になることもありえますし、定期的な略奪は「税」と呼ばれるようになるかもしれません。このように、著者は「正統性」のようなものがなくても、政府は成立して機能しうると考えています。

 多くの本では、こうして成立した政府が何をするかということに関して、「法」という概念を持ち出して説明すると思いますが、本書では憲法〜閣議決定までをひっくるめて「政策」と呼び、この政策を政府に対する指令として理解しています。
 数多くの政策案の中から、政策を決定するのが「政策決定者」であり、本書における「政府」とは私たちが一般的に想像する政府から政策決定者を差し引いたものになります(本書の考えだと例えば、議員や大統領は政府に含まれない)。そして、この政策決定者をどう作り上げるかがポイントになります。

 この政策決定者による決定を政府を構成する人々(公務員、役人)は受け止めて、政府の活動が行われます。この政策決定者と政府(を構成する人々)の関係は<支配=服従>の関係でありますが、この政策決定を「物理的暴力をふんだんに蓄えた政府が引き受ける」のは「かなり不思議な現象」であり、著者は「政府が政策決定者に対して認める正統性」の重要性を指摘しています(49p)。
 場合によっては政府(を構成する人々)から政策に対する異議が出ることもあります。著者は内閣法制局の審査を、「政府に対する指令の事前チェックと異議申立てを、指令の受け手である政府自身に認める仕組み」(50p)とみています。
 また、複数の政策の整合性が問題になることがありますが、著者はここでその整合性を担保する仕組みとして「形式的な意味」でも「立憲主義」の考えを持ち出しています。53p以下で、いわゆる権力を制限する「実質的な立憲主義」もとり上げていますが、本書ではそうした立憲主義の理解はそれほど重視されていません。

 政策の宛先も、いわゆる国民(政府的共同体員)ではなく、あくまでも政府です。憲法は政府を縛り、法律は市民を縛るといったことが言われますが、著者によれば法律も政府を縛っています(例えば、刑法などを見ても「人を殺してはいけない」と書いているわけではなく、「人を殺したら○年以上の懲役」と書かれていることを思い出すとよい)。
 一方で、著者は自由を保障するためには政府からの自由を認めるだけでは足りないと言います。自由を保障するには私人間での自由の侵害に対して、政府が適切な対処を取る必要があるからです。著者はライアム・ナーフィーとトーマス・ネーゲルの議論をとり上げて、「財産権や所有権は政府なしにはあり得ない」(67p)と論じています。

 こうした政治観のもと、本書では政治の型の1つとしてデモクラシーを分析しています。
 デモクラシーという政治体制の型にはレファレンダムを使用する「直接デモクラシー」と、選挙を使用する「関節デモクラシー」の2つが考えられます。しかし、このように書くと「直接」の方が優れている印象を与えるために、本書では前者を「古典デモクラシー」、後者を「現代デモクラシー」と名付けています。
 前者においてはレファレンダムが「まとも」であること、後者においては選挙が「まとも」であることが重要になります。

 古典デモクラシーのモデルとなるのは古代アテナイの民主政です。このアテナイの民主政を現代にアップデートさせるとして、著者はまともなレファレンダムが成り立つためには次の6つの基準が充たされることが必要だとしています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,政治的市民に対するアジェンダ設定権の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 この中で、意外と難しいのが4のアジェンダ設定権でしょう。投票を行うにしても、何を投票し、どのような選択肢を提示するかは非常に重要ですが、それをレファレンダムで決めるようでは無限後退に陥ってしまいます。くじの利用や、一定の要求があったときは必ずレファレンダムを行うといったやり方が考えられますが、ここは難しい問題になります。

 一方、現代デモクラシーに必要なまともな選挙が成り立つための基準を著者は以下のように整理しています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体と選好対象主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,選挙の十分な頻度の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 4を除くと同じに見えますが、1ではカッコ中に「選好対象主体」という言葉が追加されています。これは基本的には立候補者のことなのですが、著者は必ずしも立候補は必要ではないとも考えています。フランス革命後の選挙において立候補が禁じられていたように、自分が適任だと思う候補者を自由に選ぶというやり方も考えられるのです。
 4に関しては、やはり一定の間隔で選挙が行われることが重要です。選挙で表明された政治的選好には耐用年数がありますし、一定の間隔で選挙が行われるからこそ、政治家たちは次の選挙に備えて振る舞い、有権者はそれを判断の材料にできるのです。

 一般的に、現代デモクラシーは古典デモクラシーの縮小版と捉えられがちですが、著者はレファレンダムが選挙に置き換わっただけだと考えます。
 著者はデモクラシーを「選挙中心主義」(125p)的に理解しており、まともな選挙があるのであれば、選挙で大統領1人を選ぶような政治スタイル(議会はなし)でも、デモクラシーが成立すると考えています(124p)。

 レファレンダムにしろ選挙にしろ、その「まともさ」を保障するのが「政治的自由」になります。一般的な政治の入門書ではここで人権が持ち出されることが多いと思いますが、本書では政治的自由に絞って論じられています。
 ここではバーリンの自由を積極的自由と消極的自由に分け、消極的自由=個人の自由=非政治的な自由であるとする議論が批判されています。ここの議論はややわかりにくいのですが、「「私を統治するのは誰か」という問いへの答えは、筆者に言わせれば政府に決まって」おり、「政府は私にどれほど干渉するか」という問題に関しても、その答えは「政府は私に不当に干渉することが許されないと同時に、私に対する他人の不当な干渉を止めるために干渉する義務を負う」というもので(132p)、個人の消極的な政治的自由を保障するためには政府が必要であるとの議論がなされています。

 ここから、著者は「リベラル・デモクラシー」という用語を批判します。現代の民主主義は自由主義と民主主義が結合したリベラル・デモクラシーである」という考えは広く流通していますが(例えば、待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書))、著者は、この言葉には政治的な自由を保障しないデモクラシーが存在し得るという誤解を招くといいます。もしも、個人の重視や多元主義という意味を含めたいのであれば、そうした言葉を使うべきだというのです。

 第三章では、現代デモクラシーが古典デモクラシーに劣るという印象を覆すために、「政策形成ステイタス」と「政策執行ステイタス」の均衡という議論がなされているのですが、これもややわかりにくいです。
 政治的市民が政策の形成局面において政策との関係いおいて置かれる地位が「政策形成ステイタス」、政策の執行局面によるそれが「政策執行ステイタス」です。本書の理解では政策の受けては政府であり一般の市民ではないので、政策執行ステイタスは中途半端です。一方、実際に立候補して当選し、政策決定者となる市民もわずかなので政策形成ステイタスも中途半端だと言えます。
 とは言え、市民には政治的自由があり、デモなども行うことができます。また、一定頻度の選挙は政策決定者に次の選挙を意識させます。自らは政策決定をしないものの、政策に大きな影響を与えうるのです。
 この政策の形成と執行における中途半端なステイタスが、ときに「決めすぎる」古典デモクラシーの問題点を薄めているというのが著者の見方です。「現代民主政治は「(あえて)決めない政治」(157p)なのです。

 本書では古典デモクラシーと現代デモクラシーを分けながら議論を進めてきましたが、混合的な運用、つまり現代デモクラシーの一部にレファレンダムを取り入れることも可能であると著者は考えています。
 そしてそれには「「政策決定理由」の単純化」(165p)というメリットもあるといいます。政策にはそれを導入するための売り込み文句とも言うべき「政策理由」があります。そして、政策が決定された理由が政策決定理由です。
 レファレンダムの場合、投票運動期間中、政策立案者は政策理由を説明し、反対者はその不十分さなどを指摘します。一方、政策決定理由はレファレンダムで多数を獲得したからという単純な理由で説明できます。
 この政策決定理由の単純化がある種の安定をもたらすと著者は考えています。政策理由に関しては時間の経過とともにそれが必ずしも説得力を持たなくなることもあり、場合によっては政策決定が蒸し返されますが、「レファレンダムで多数を得た」という事実は蒸し返しを困難にします。
 これに対して現代デモクラシーでは、政策決定者(政治家)の判断の是非を蒸し返すことが容易です。また、野党は次の選挙に勝つために政策決定者の判断(政策理由)の問題点を指摘します。ただし、この政策理由が常に蒸し返されて政策決定理由が複雑化することは必ずしも否定的に捉えられるべきではないとも著者は言います(189p)。
 そして、現代のデモクラシーは、基本的に憲法などの重要な政策ではレファレンダムを用い、一般的な政策の決定では代議制を用いるという混合型となっています。

 終章では民主体制を望ましいとものと考えるデモクラティストについて考察していますが、次のような見解は一般的なデモクラシー理解とはずいぶんと違ったものでしょう。

 民主政治は、「自分たちのことを自分たちで決まる」という仕組みではない(本当にそれを実現しようとするならば、政府が自己支配をする、つまり「政府が政策を決める」という仕組みに帰着するはずである)。ゆえに民主政治における政治的市民は、「自己決定」や「自律性」につきまとう道徳的な責任とは無縁なのである。無責任で気ままである点において、非民主体制のもとでの独裁的な政策決定者と民主体制のもとでの民衆とのあいだに、本質的な違いがない。よって民衆による政治支配が慎重で配慮に富んだものとなる保証は、独裁者いよる政府支配と同じ程度に低い。(206−207p)

 ここにいたって本書のデモクラシー理解の特徴は際立ってくると思います。多くの論者は「自己決定」や「自己陶冶」の延長として「デモクラシー」を捉え、そのために市民に責任を自覚させようとするのに対して、本書ではそうしたもっともらしい理由付けが捨て去られ、剥き出しの政治の作動のようなものが記述されているのです。

 さらに近年の民主体制の状況を確認した部分では、フリーダム・ハウスの調査から、信教の自由や学問の自由、あるいは「法の支配」などを差し引いた上で独自の指標を作成しています(215−216p)。つまり、政治に直接関わりのない人権が制限されても、法の支配が十分でなくとも、デモクラシーは成り立つと考えているのです。
 223‐225pでポピュリズムが政治的自由を毀損する危険性に釘を指しているものの、人によってはポピュリズムとの親和性を感じるかもしれません。

 「デモクラシー」という言葉はある意味で理想化されており、そこにはさまざまな理念が込められていることが多いですが、そうした理想化されたデモクラシーから飾りを剥ぎ取って、まともなレファレンダム、まともな選挙こそがデモクラシーであるという、シンプルなデモクラシー観を提示しているのが本書の一番の特徴と言えるでしょう。
 正直、法の支配や政治に直接関わりのない人権を取り去ってもデモクラシーが機能するかどうかは判断がつきかねるのですが、読む人の思考を促す本であることは確かだと思います。
 軽妙な文体で面白く読めるのですが、「整理法」とうたいつつ、同時に多くのひとを(良い意味で)当惑させる本だと言えるでしょう。


 

中元崇智『板垣退助』(中公新書) 7点

 誰もが知っている人物でありながら、意外と評伝などがないのがこの板垣退助。もちろん、本人が監修した『板垣退助君伝』や自由民権運動の指導者としての板垣を描いた『自由党史』はあるのですが、かなり盛っていると思われるところがあり、どこまで信用していいものかはわかりません。
 そんな板垣の生涯について、可能な限り「伝説」的な部分を剥ぎ取ってたどってみせたのがこの本です。以外に謎が多い人物で、前半(自由民権運動に身を投じるまで)に関しては、ややわかりにくい部分もあるのですが、後半の部分は非常に面白く、決して知略や判断力や組織力に優れていたわけではない板垣が、、自由民権運動で大きな役割を果たした理由がわかるようになっています。
 初期議会の状況に関しても、近年の研究をもとに従来のイメージが修正されており、日本の議会史を考える上でも面白い材料を提供してくれる本です。

 目次は以下の通り。
第1章 戊辰戦争の「軍事英雄」―土佐藩の「有為の才」
第2章 新政府の参議から民権運動へ
第3章 自由民権運動の指導者―一八八〇年代
第4章 帝国議会下の政党政治家―院外からの指揮
第5章 政治への尽きぬ熱意―自由党への思い
終章 英雄の実像―伝説化される自由民権運動

 板垣退助は1837年(天保8年)、土佐藩の御馬廻・上士の家に嫡男として生まれています。生まれたときの姓は乾で、幼少の頃から喧嘩好きだったとのことです。
 1854年(安政元年)に18歳で江戸勤番を命じられ江戸へ向かいますが、帰国後には同輩に「不作法之挙動」があったとして惣領職を剥奪されています。許された後も再び「不作法」を起こすなど、粗暴な面があった板垣ですが、特に思想的に一致していたわけではない吉田東洋に評価されるなど、見どころのある人物だったようです、
 吉田東洋の暗殺後、板垣は尊皇攘夷の考えを深めます。これは山内容堂の考えとは必ずしも一致しないものでしたが、容堂も板垣を評価しています。

 武市半平太らの土佐勤王党が失脚したあとは藩の要職を歴任し、洋式の騎兵について学んだりしています。そして藩の軍政を掌握し、上士を銃隊に編成するという思い切った改革を行います(当時、鉄砲を扱うのは下士だった)。
 土佐藩は後藤象二郎の献策によって大政奉還へと動きますが、板垣はこれに異論を唱えています。これによって倒幕派の板垣の地位は危うくなりますが、鳥羽・伏見の戦いが起きると、再び板垣が前線に立つことになります。

 板垣は土佐で編成された迅衝隊の司令として東山道軍に従い、さらに別働隊として甲州街道を進軍します。ここで板垣は、自分のルーツが武田信玄の家臣の板垣信方だったことから姓を「乾」から「板垣」に改姓します。板垣の部隊は近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入り、さらに北関東、東北へと転戦します。
 日光では立てこもる大鳥圭介の部隊に対して、日光東照宮の消失を惜しんで退去を求めたという逸話が伝わっていますが、放火すべきだと集中した土佐兵を板垣が諌めたかどうかは定かではありません。
 また、会津では会津の人民が領主を守ろうとせずに逃げたのを見て封建制度の廃止に開眼したということになっていますが、後述のように本当にそうだったのかは謎です。ただし、会津での戦いは軍人としての板垣の名声を大いに高めました。

 明治維新後、板垣は新政府の参与になり、後藤とともに土佐藩の実権を握りました。板垣らは土佐藩で身分制度改革を行い、士族を五等に分け、士族と平民の間の身分の卒族を三等に分けました。しかし、明治政府がこうした家格を認めないという通知を出したために、この制度は維持不可能になります。
 板垣は家格が厳格な高知ではこれは難しいと嘆きましたが、ここで板垣は一気に身分制の解体を主張し始めます。士族が独占してきた文武の職を平民に開放し、身分制を大きく変革したのです。板垣は家格が維持できないと見るや、大胆な手で状況を突破しようとしました。

 1871年(明治4年)、板垣は、藩兵の献上を大久保・西郷・木戸らとともに建言し廃藩置県を断行すると、参議となります。岩倉使節団が欧米へと出発すると、板垣は西郷らと留守政府を預かることになりますが、ここで問題となったのが征韓論です。 
 ご存知のように、板垣は西郷を使節として派遣することに賛成で、岩倉や大久保と対立しますが、西郷は自らが殺されたら戦争は板垣に任せるとしており、西郷が板垣の軍人としての才能を高く評価していることがうかがえます。しかし、結局は西郷の使節派遣はならず、西郷や板垣は下野します。

 下野した板垣は、後藤や江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成し、「民撰議院設立建白書」を提出します。この建白書は古沢滋が中心になって起草されましたが、どうして板垣がこの建白書を出すことになったのかという流れは本書ではよくわかりません。
 その後、板垣は高知で立志社を設立します。これは士族の没落を防ぐための互助的な組織でした。1875年には、大阪で全国的な民権結社愛国社が設立されます。しかし、この愛国社は大阪会議で板垣が政府に復帰したことでほぼ何もせずに消滅します。
 参議に復帰した板垣は、参議の省卿兼任をやめて、内閣と各省を分離することを主張します。この問題で同じ主張をしたのは左大臣の島津久光でした。久光はいわゆる守旧派であり、民権派の板垣とは相容れないはずで、政府の主導権を握るための共闘とみていいでしょう。結局、ここでも板垣は政争に敗れて、久光とともに辞職します。
 1877年に西郷が挙兵し西南戦争が起きると、立志社ではこれに呼応して挙兵するかが問題となります。板垣はまずは建言をもって政府を突くべきあると主張します。立志社の林有造は挙兵に前向きで、西郷軍が劣勢になったあとも挙兵を主張しますが、板垣は最終的には挙兵を決断しませんでした。戦後、林有造だけでなく立志社社長の片岡健吉らも逮捕されますが、板垣は逮捕されませんでした。

 武力による政権奪取の道がなくなった板垣らは民権の道を目指しますが、板垣のもとには土佐出身の植木枝盛らだけではなく、河野広中、杉田定一、栗原亮一らが集まってきます。板垣個人の政治家としての能力に関しては疑問符もつきますが、周囲に優秀な人を集めることができたのは板垣の人望でしょう。また、人の意見を取り入れることもでき、板垣の主張する政策の多くは栗原によるものとされています。
 1878年に愛国社が再興され、1880年には国会期成同盟が結成されますが、板垣はこの動きに表立っては関わりませんでした。その後、板垣は運動を活発化させ、81年には東北を遊説に出発します。その最中、明治14年の政変が起こり、10年後の国会開設を約束する国会開設の勅諭が出されます。これに呼応して正式に自由党が発足し、東北遊説中だった板垣が総理とされます。

 1882年(明治15年)の4月に板垣は岐阜で相原尚褧(なおぶみ)に刺されて重傷を負います。このとき「板垣死すとも自由は死せず」の名言が飛び出したとも言われていますが、具体的にどのように言ったのか、相原に対して言ったのか、周囲の人物に言ったのかなどいろいろなバリエーションがあり、本書では一覧にまとめられています(96−97p)。
 この遭難事件の後、板垣の人気は一種の社会現象となり、板垣の写真が売れ、伝記や演説集が発行されます。また、このとき明治天皇から勅使が派遣されましたが、断ったらよいと言う自由党員もいた中で、板垣は涙をながしたといいます。板垣の「尊王」は揺るぐことがなく、イギリスにおける国王と人民の一体化を理想と考えていました。「教科書的理解では、「フランス流の急進的な自由主義をとなえる自由党」とされがちであるが(『山川出版社 詳説日本史B』2014年)、板垣が主張した政治体制はイギリスの立憲君主制に近かった」(103p)のです。

 事件後、明治政府は板垣を外遊させて民権運動を鎮静化させようとします。この計画は伊藤博文や井上馨が後藤象二郎と連携して進めました。自由党の党員からは反対も出ますが、板垣は伊藤博文の憲法調査などを意識し外遊を決意します、洋行の費用は、三井銀行からのものと板垣の支持者の山林地主の土倉庄三郎から出たものがありましたが、前者の金は後藤が管理したようで、板垣は知りませんでした。
 板垣は外遊中、ジョルジュ・クレマンソー、ヴィクトル・ユーゴー、ハーバード・スペンサーらと交流しましたが、金銭不足などにも苦しめられ、「引きこもり」に近い状況にあったようです。少し情けないようにも見えますが、当時日本を圧倒していた欧米を見ても「変わらなかった」のが板垣の長所なのかもしれません。
 
 帰国後の板垣には逆風が吹いていました、外遊費の出所をめぐって板垣の清廉潔白なイメージは失墜し、外遊中には自由党員による激化事件が起きていました。
 板垣らは「一大錬武舘」をつくりそのエネルギーを吸収しようとしましたが、自由党急進派を抑えることは難しく、また資金募集計画もうまくいかず、1884年10月、自由党は解党します。

 1887年、板垣、後藤、大隈、勝安芳(海舟)に伯爵が授与されます。政府の狙いは民権派の機先を制して在野指導者に叙爵を行うことで「官民協調」ムードをつくることで、後藤と大隈はこれを受けました。
 一方、板垣は辞退する意向を示しますが、明治天皇からの叡慮を伝えられ落涙します。伊藤は爵位を辞退するのは天皇の勅命に背いた朝敵であると批判しており、この問題を使って板垣を追い詰める作戦でした。板垣は再び辞退の移行を示しますが、明治天皇から却下され、最終的には伯爵位を拝受します。

 三大事件建白運動などで自由民権運動は再び盛り上がりますが、政府はこれを保安条例などによって弾圧し、さらに大隈を伊藤内閣の外務大臣、後藤を黒田内閣の逓信大臣として入閣させて運動の切り崩しをはかりました。
 板垣はこの時期は高知にあって動かず。大日本帝国憲法や黒田内閣の政治を基本的には評価していました。1889年の3月には板垣の入閣も検討されましたが、板垣はこれを断っています。
 憲法発布に際しては大赦も行われ、自由党系の運動家も釈放されますが、板垣は自らを襲撃した相原が大赦から漏れたことを遺憾に思い、自ら明治天皇に訴えて相原を出獄させています。

 1890年7月の第1回総選挙において、自由党系は127名の当選者を出します。選挙後、自由党系のメンバーは合流し、9月に立憲自由党が結成されます。党首はおかず、板垣、河野広中、大井憲太郎、松田正久らの集団指導体制でした。このような状況で立憲自由党はなかなか統一的な行動が取れず派閥が生まれますが、板垣を中心とした派閥が土佐派です。
 ちなみに板垣は爵位を持っていたので衆議院には立候補できず、貴族院に関しては辞退しています。板垣の一君万民思想からは貴族院議員というものは収まりが悪いものだったと考えられます。
 また、板垣は議会に備えて立憲自由党にも政策が必要だと考えて、「通商国家構想」を示しています。これを書いたのは栗原亮一ですが、海運貿易によって日本を富ませようという主張は板垣の持論になっていきます。

 第一議会では、山県有朋内閣の示した予算に対して民党が「民力休養」「経費節減」を訴えるわけですが、原田敬一の研究によれば地租引き下げなど山県内閣には「民力休養」「経費節減」の主張を飲む意向があったといいます。
 しかし、立憲自由党内の不一致もあって政府との妥協は上手くいかず、最終的には土佐派が政府との徹底対決を避けたことで、地租引き下げが実現しないままに予算は成立します。板垣や片岡健吉、林有造らの土佐派には第一義会を失敗させてはならないという思いがあり、それがこの妥協につながったと考えられます。

 こうして「裏切った」板垣ですが、第一議会後に開かれた自由党大阪大会で板垣は自由党の総理となります。板垣を批判していた星亨もこの人事を受け入れますが、それは党勢拡大のためには板垣を担がざるを得ないと判断していたからでした。
 第二議会でも自由党・立憲改進党と松方内閣が対立し、衆議院は解散されます。ここで有名な内務大臣・品川弥二郎による選挙干渉が起きるわけですが(この経緯についても諸説ある(165p))、特に高知県では薩摩出身の知事・調所広丈のもとで激しい選挙干渉が行われます。結局、死者10名、負傷者68名を出す騒ぎになりましたが、官憲に抵抗した高知の民衆に、「板垣は非常にご満悦であり、土佐は能くやった能くやったと感嘆していた」(166p)そうです。この選挙で自由党は議席を減らしますが、板垣はこれに落胆することはありませんでした。

 1892年、第2次伊藤内閣が成立します。ここから自由党は政府との接近を目指す星亨とそれに批判的な議員で対立し結局は星が脱党することになりますが、板垣は星を擁護しています。
 1894年の日清戦争を機に、政府と自由党の距離はさらに接近し、自由党は地租軽減要求を取り下げます。そして、95年の11月には自由党と政府の提携が発表され、翌年には板垣が内相として入閣するのです。
 世論の反発も呼んだ板垣の入閣でしたが、大隈の入閣をめぐって対立し、入閣後わずか4ヶ月で第2次伊藤内閣は崩壊します。つづく第2次松方内閣では進歩等の大隈が入閣し、自由党は下野しました。

 一時期、求心力が落ちた板垣でしたが、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣が行き詰まると、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成します。この合同は政策、地方支部など扱いをめぐって問題を抱えており、そのことは板垣も意識していましたが、藩閥政治の専制政治を倒すという目的で合同に踏み切ります。
 そして、第3次伊藤内閣が倒れるといわゆる隈板内閣が成立します。ここで板垣が首相に意欲を見せなかったことから、首相・大隈、内相・板垣という形になりました。隈板内閣のもとでの第6回総選挙で憲政会は圧勝しますが、政党員からの猟官運動に悩まされ、また、共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後任問題、さらには星亨の策動によって隈板内閣は瓦解します。
 憲政会は星亨が仕切るようになり、星は代わって成立した第2次山県内閣との提携を進めます。憲政会は星によって主導されることとなり、板垣は総務委員待遇の辞表を提出します。政治化としての板垣は基本的にはここで終わったと著者は見ています。

 1900年に憲政会が解党して立憲政友会が発足します。1901年に星亨が暗殺されると、板垣を立憲政友会の副総裁に迎えようとする動きも起きますが、伊藤との考えの違いから実現することはありませんでした。1903年には林有造らが立憲政友会から抜けて自由党を結成しますが、翌年の選挙で振るわずに解散しています。
 その後、板垣は激化事件で命を落とした民権運動家の顕彰運動や自由党史の編纂に力を入れます。1913年の第一次護憲運動の際に演説をしたりもしていますが、公的な役職につくことはありませんでした。そして、1919年に83歳で亡くなっています。子どもには爵位を辞退させ、以前から主張していた一君万民思想のための一代華族論を貫きました。
 
 このように本書は板垣の長い生涯を辿っています。前半に関しては史料の制約もあって少しわかりにくい部分もあるのですが、後半は自由民権運動や初期議会への理解も深まる内容で面白いですね。
 そして、本書を読むと自由民権運動のアイコンが板垣だった理由も見えてくると思います。政治家としての能力はともかく、板垣は立派な神輿になれる人物でした。機を見るに敏な大隈や後藤では安心して担げないが、板垣なら担げるということで多くの人が板垣のもとに集まったのではないかと思います。伊藤の柔軟性や先見性は政治家として重要な資質ですが、本書を読むと伊藤は少し「セコく」見えます。そんなところが板垣の魅力なのかもしれません。

河合信晴『物語 東ドイツの歴史』(中公新書) 7点

 中公新書の『物語 〇〇の歴史』シリーズではさまざまな国の歴史が扱われていますが、おそらく本書がもっとも短い期間を扱ったものではないかと思います。1949年10月に建国され、1990年に西ドイツとの統一によって姿を消した東ドイツ(ドイツ民主共和国)のわずか40年ほどの歴史を描いたのが本書です。
 わずか40年ほどの歴史ですが、ソ連による占領→ドイツの分断→社会主義国家の建設→ソ連と西側の間での外交的な駆け引き→ゴルバチョフの登場→民主化と解体という激動の歴史であり、その密度は濃いです。
 東ドイツというと、シュタージによる監視国家というイメージが強いかもしれませんが、本書を読むと、国民が活発に請願などを行なっていたことがわかりますし、逆に国民の不満を恐れて政府が右往左往するような局面も見られます。
 「オリンピックと東ドイツ」「シュタージ」「東ドイツ時代のメルケル」といったコラムも挟まれており、東ドイツの歴史を多面的に振り返ることができます。

 目次は以下の通り。
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙

 東ドイツの歴史は1945年5月にドイツが降伏し、ソ連が占領地域に軍政をしいたことから始まります。ソ連はドイツ占領を円滑に進めるために、ドイツ人の協力者を求めましたが、この役割を担ったのが大戦中にソ連に亡命していた共産主義者であり、ウルブリヒトらが中心人物となりました。
 米・英・ソによるポツダム会談によって、ドイツの非ナチ化、非軍事化、民主化、脱中央集権化という占領目標が決まります。この脱中央集権ということもあり、各占領地域で独自の行政管理が行われることになりました。
 また、ソ連は併合したポーランドの東側の領土の補償のような形で旧ドイツ領のオーデル・ナイセ線以東をポーランドに引き渡しました。国境の正式な確定は講和条約締結後に決まることになっていましたが、講和条約が結ばれないまま既成事実化していきます。

 ソ連占領地域で、6月に政治結社の設立が認められると、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ社会民主党(SPD)、キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ自由民主党(LDPD)といった政党が結成されます。
 当時は社会主義を容認する空気が強く、社会民主党は共産党以上に工場の公有化に熱心で、キリスト教民主同盟も鉱業と基幹産業の国有化を訴えていました。
 46年になるとソ連の後押しもあって共産党と社会民主党が合同し、4月に社会主義統一党が結成されます。しかし、46年10月の州議会選挙ではソ連占領地域において社会主義統一党は50%の得票にわずかにとどかず、キリスト教民主同盟と自由民主党がそれぞれ25%程度を分け合う結果となりました。

 敗戦後のドイツは大きな混乱に見舞われます。戦争によって生産設備は大きな被害を受け、46〜47年にかけては厳冬となり、夏も凶作だったことから食糧不足に陥ります。さらにかつての東部ドイツ領から追放された人も加わりソ連占領地域に多く流入しました。
 そんな中でもドイツ人はアンチ・ファシズム委員会を設け行政を自発的に担おうとする動きを見せました。しかし、共産党と競合する可能性があったこともあり解散させられていきます。
 公務員の非ナチ化は西側よりも徹底的に行われました。親衛隊隊員やゲシュタポの人員は約13万人が戦犯として収容所に送られ、そのうち1/3は収容所の劣悪な環境などが原因で亡くなったといいます(19−20p)。
 土地改革も行われ大規模農場が解体されて小農や小作農や非追放難民に土地が分配されましたが、生産効率のいい大農場が解体されたことで農業生産力は低下しました。

 ソ連はドイツからの賠償を求めており、それはドイツのソ連占領地域から取り立てられることになりました。この賠償は、ソ連軍駐留経費の負担、工場の機械の解体(デモンタージュ)と持ち出し、ソ連が接収し株主となった企業への生産物や利益の納入といった形で行われました。この賠償の取り立てが終了したのは1953年ですが、戦争によって失われたソ連の生産設備が120億7000ライヒスマルクと推定される中、賠償の合計は約540億ライヒスマルクになると言われています(25p)。
 特にデモンタージュは東ドイツ経済に深刻な影響を与え、生活用品などの不足をもたらしました。一方で、鉄道の車両や線路も解体されたこと、規格が違ったことなどにより、解体された機械がソ連で有効に活用されたわけではありませんでした。

 1948年6月、西側の占領地域では新しいドイツマルクを導入する通貨制度改革が行われます。この新しい通貨が西ベルリンを通じで東側に流れ込めば経済が不安定化すると考えたソ連は、ベルリン封鎖を行います。東西の経済的なつながりが断たれたことで、ドイツの分断は決定的になりました。
 そして、東側では「ソ連化」が進行し、社会主義統一党もソ連型の党に改組されていきます。48年にはデモンタージュも終了し、計画経済が導入されました。

 1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国されると、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国されました。このときにつくられた東ドイツ憲法は、基本的にヴァイマル憲法を受け継ぐものでしたが、第6条2項には民主的制度や組織に対するボイコットの扇動を、刑法で定める犯罪行為とするなど、反対運動を抑え込むことも可能なものでした(43p)。
 選挙は、あらかじめ候補者が載った統一リストに対する信任投票の形で行われ、社会主義統一党とその衛星政党が過半数を確保できるようになっていました。
 50年の社会主義統一党の党大会では民主集中制と呼ばれる原則が決まり、書記長にはウルブリヒトが就任します。「分派活動」は禁止され、党の人事はカードル(幹部)人事局は仕切ることになります。連邦制も廃止され、社会主義統一党が指導する中央集権体制が確立したのです。

 1948年にはソ連とチトー率いるユーゴスラビアの対立が表面化し、東ドイツでも粛清が行われます。そして、このときには東欧では多くのユダヤ系の人々がシオニズムを理由に粛清されます。さらにアメリカがイスラエルに接近したことの対抗としてソ連がアラブ諸国に接近したことから、東ドイツも反シオニズムの立場を取り、ユダヤ人に対する補償などは進みませんでした。

 東ドイツ政府は、人々の間に芽生えたドイツ統一願望に対処するために急速な社会主義の建設を目指します。農業の集団化や手工業やサービス業の集団化が進められますが、必ずしも生産力の向上にはつながりませんでした。
 この経済状況の悪化は西側への逃亡者への増加をもたらし、ソ連からの指示もあって社会主義建設のペースは緩められます(新コース)。
 しかし、過重なノルマは撤回されなかったため、1953年6月17日、東ドイツにおいて大規模なゼネストが発生します。特に指導者のいなかったこの動きはソ連軍の出動で沈静化しますが、この六月十七日事件は、社会主義統一党に最低限の生活水準を維持しなければ支配体制の安定化は難しいという教訓を植え付けました。政府はシュタージを強化するとともに、消費財や食料品の生産に重点が置くようになります。

 その後、56年にソ連でスターリン批判が行われると、新コースは転換され、再び重工業重視の路線がとられます。57年には自家用車トラバントの出荷も始まり、経済も順調に成長しました。
 また、政府が教会の活動を抑えるために堅信式に代わる青年式を制定するなどしたため、50年代後半には人々の教会離れも進みます。

 外交に関しては、西ドイツが東ドイツと正式な国交を結んでいる国とは外交関係を樹立しないというハルシュタイン原則をとったため、東ドイツの外交関係は限定されました。
 また、当時、多くのひとがベルリンを通じて東から西へ脱出しており、この穴を塞ぐことは東ドイツにとって大きな課題でした。
 1961年8月13日、フルシチョフの許可も得た上で東ドイツはベルリンの壁の建設に着手します。一夜にして東西ベルリンを横断する道路網は寸断され有刺鉄線が引かれました。市民は当初は一時的なものだと考えましたが、次第に本格的な壁が建設されていきます。
 東ドイツの市民は脱出の可能性を失います。そうした状況を踏まえ62年には徴兵法が制定され、徴兵が始まります。西ドイツとの通商も断たれたことで、工業規格もソ連に合わされ、輸出入の拠点も今まで利用していた西側のハンブルクに代わってロストックが整備されました。

 60年代はじめ、ソ連では各企業に経営の裁量を委ねるリーベルマン方式の導入が見送られましたが、これを採用したのが東ドイツでした。この改革の成否を握るのが価格を柔軟に変更できるのかという点でした。東ドイツでは企業間取引の価格の改定には成功するものの、それをストレートに小売価格に転嫁することは市民の反発も考慮されたためにためらわれ、その差額は政府からの補助金が埋めることになりました。
 社会主義統一党は国民のニーズを探るために64年には世論調査研究所を設けるなどし、さかんに世論調査を行います。また各種団体に対して動員をかけるだけでなく、請願や政府批判の声を集めさせます。

 60年代は比較的順調に経済が成長した時代で、冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの耐久消費財の普及も進みます(ただし冷蔵庫と洗濯機の1970年の普及率は50%台(123p))。しかし、すぐに手に入るわけではなくトラバントの予約から納入までの待機期間は8年にも及びました。
 一方、高所得者を対象にしたイクスイジットラーデン(高級商店の意味)や外貨のみで購入が可能なインターショップもつくられ、西側の商品を手に入れることができるようになりましたが、これは一方で人々に不公正を意識させることにもなります。
 
 東ドイツの経済はソ連から安定して安価に資源を獲得できるかどうかにかかっていましたが、64年にフルシチョフが解任されると、ブレジネフは東ドイツの自主性を抑え込むとともに東ドイツへの交易の優遇措置も講じなくなります。
 ブレジネフと上手くいっていなかったウルブリヒトは、西ドイツとの協力によって経済発展を成し遂げようとします。一方、70年にはモスクワ条約が結ばれソ連と西ドイツが接近。ウルブリヒトはさらなる西ドイツとの協力でこれに対処しようとしますが、ホーネッカーは東ドイツの主権を危うくするようなウルブリヒトの行動に反発し、71年1月にはブレジネフにウルブリヒトの解任を要請。結果、5月にウルブリヒトは解任されるのです。
 こうした中でも72年には両独基本条約が結ばれ、両国な特別な関係が承認されました。

 新たに指導者となったホーネッカーは、「「人びとの物質面そして文化面における生活水準の向上」が”あらゆる政策の主要課題”」(152p)だと宣言しました。ウルブリヒト体制のもとで拡大した格差を是正し、さらに西ドイツを基準とした生活水準の実現を求めたのです。
 71年に決まった新たな5カ年計画では、西側から新しい技術を導入し、輸出によって対外債務を減少させることが目指されていましたが、それと人びとの生活水準の向上を両立させることは難しく、結局は西側に対する貿易赤字が拡大していくことになります。

 70年代には経営の自主性が後退し、再び計画経済体制へと移行します。私企業経営者の平均収入が一般労働者の3.5倍になっていたこともあり、私企業の国営化も進められます。これらの企業を計画経済に組み込むことで生産は上がるはずでしたが、結果的にそれらの企業は独自の製品の供給を止め、日用品の不足はより深刻になりました。
 それでも76年頃までは生活状況は改善し、「東ドイツの黄金時代」(160p)と呼ばれる状況が出現しました。最低賃金などは引き上げられる一方で、支配体制の安定のために基礎消費財の値上げは抑えられ、相変わらずの物不足ではあったものの、消費生活は充実したのです。

 西側との関係改善も進み、73年には西ドイツとともに国連に加盟し、その後、フランス、イギリス、アメリカと国交を結びます(日本とも73年に国交樹立)。しかし、その一方で、ホーネッカーは西ドイツの影響力が増大することを恐れつつも、ソ連からの経済的援助が減る中で西ドイツとの経済的な関係を深めざるを得ない状況に追い込まれます。
 オイルショックで石油価格が上昇すると、東ドイツ経済も苦境に陥ります。基礎消費財の値上げを避けたかった政府は質の悪い商品(コーヒーなど)を流通させますが、これは市民の大きな反発を呼びました。
 東ドイツは社会主義統一党の独裁体制でしたが、「平等な社会を実現するために独裁的に政治を運営していると説明している以上、社会から絶えず実現不可能な要求にさらされ続ける」(186p)ことになったのです。

 西側との関係が改善する一方でソ連との関係は冷え込んでいかいます。81年にはブレジネフが突如として東ドイツ向けの原油の輸出を減らすことを通告してきます。70年代後半以降、東ドイツはソ連産の原油を加工し西側に輸出することで外貨を獲得してきましたが、それが難しくなったのです。結局、東ドイツはこの危機を西側からの借款で乗り切っていきます。ウルブリヒトの西ドイツへの接近を批判したホーネッカーですが、結局は同じような状況に追い込まれます。
 ホーネッカーはまた、電子産業の投資によって経済的な活路を開こうとしましたは、COCOMの規制により西側から技術を導入するととは難しく、成功しませんでした。一方で、投資が控えられたインフラは荒廃し、消費財不足も深刻化します。西側の親戚から送られた商品が重要になり、80年代後半には商店での一般的な供給量を上回るまでになるほどでした(212p)。

 1985年のゴルバチョフの登場は東ドイツの政治環境を一変させます。ゴルバチョフと20歳年長のホーネッカーの関係はうまくいかず、ホーネッカーはソ連の改革から距離をとることとしますが、東ドイツ市民はゴルバチョフの改革を望みました。
 87年にホーネッカーは西ドイツを訪問し関係を強化しますが、関係を強化すれば人の移動は増え、西ドイツのメディアは東ドイツの反対派の動きを報じました。ソ連から離れるには西ドイツに接近するしかありませんでしたが、それは体制を不安定化させました。
 80年代になると、平和運動、兵役拒否運動、環境運動などの社会運動が活発化し、体制に対する反対派として成長していきます。

 このあたりからの動きに関しては、アンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書)のまとめも参考にしてほしいのですが、さまざまな抗議運動や反対運動に対してホーネッカーの危機意識は薄く、適切な対処ができませんでした。
 89年の夏にホーネッカーは手術のために3ヶ月近く職務を離れますが、この時期にはハンガリーでの「パンヨーロッパ・ピクニック」をきっかけに東ドイツ市民の大量脱出が始まるなど、支配体制が一気に崩れ始めます。
 そして、89年10月にライプチヒで大規模デモが起こると、内務省は武力鎮圧の用意をしていたものの、内部からの反対もあって鎮圧には踏み切れませんでした。ここから”平和革命”が始まったとも言われます。デモを鎮圧してもソ連の支持は得られそうになく、西側からは借款を打ち切られるだけだったからです。そして10月17日にホーネッカーは解任されます。
 ここから事態はベルリンの壁の崩壊からドイツの統一へと急速に動いていくのです。

 本書を読んで強く感じるのは東ドイツの独特の立ち位置です。ソ連の影響を強く受けた社会主義国家であると同時に、分断国家として西ドイツとの関わりも持ち続けたことが、一定の豊かさをもたらした一方で、統治の難しさも生みました。西ドイツとの交流がある程度ある中では、生活水準は常に西側と比較され、そこから生まれる不満に政府は対処せざるを得なかったからです。このあたりは北朝鮮と韓国の関係と比較してみても面白いかもしれません。
 個人的にはコラムで人びとの生活実感などに触れてくれると、東ドイツの社会がよりわかりやくなったようにも思えますが、40年ほどの短い歴史を通じてさまざまなことを教えてくれる本になっています。
 

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名前:山下ゆ
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