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2021年11月

武井彩佳『歴史修正主義』(中公新書) 9点

 既存の歴史の書き換えを図る「歴史修正主義」(revisionism)、近年この言葉を聞く機会が増えましたし、それが良くないことであるとの認識も広がっています。
 ただし、「何が歴史修正主義なのか?」という難しい問題でもあります。ここ最近、織田信長について今までの「革命児」的なイメージが否定され、「意外と保守的で常識的な人物であった」との見方が研究者の間で強まっていますが、今までの歴史の見方を修正するものであってもこれを「歴史修正主義」とは言わないでしょう。

 本書はこの捉えにくい概念である「歴史修正主義」と、さらにそれを一歩進めた「否定論」(denial)をとり上げ、その問題点と、歴史修正主義と歴史学を分かつもの、ヨーロッパで歴史修正主義の代表である「ホロコースト否定論」がいかに法的に禁止されるに至ったかを紹介しています。
 簡単に割り切れない問題だけに「問題を一刀両断する」といった勇ましさはないのですが、この本の特筆すべき点は記述が非常にわかりやすい点です。これだけ複雑な問題を扱っていながら非常にスムーズに頭に入ってきて、なおかつ深く考えさせられます。
 新書の役割の1つが問題への入口を示すことであるとするなら、本書はまさにベストな内容だと思います。

 目次は以下の通り。
序章 歴史学と歴史修正主義
第1章 近代以降の系譜
第2章 第2次世界大戦への評価
第3章 ホロコースト否定論の勃興
第4章 ドイツ「歴史家論争」
第5章 「アーヴィング裁判」
第6章 ヨーロッパで進む法規制
第7章 国家が歴史を決めるのか

 まず、歴史修正主義の厄介さを感じてもらうために、本書の中で引用されている文章を紹介します。
 
 客観的な議論が、平和を構築するための前提となる。ただし客観性は、歴史のなかに根づいていなくてはならない。国民の過去を捏造する者は、客観的でも正直でもなく、信頼を欠き、人々に平和も正義も保障することはないだろう。(中略)今やこの世界で真実ほど危険にさらされているものはない! 過去と未来が、戦争責任をしっかりと明らかにせよと求めている。(51p)

 何も知らずにこれを読むと、歴史修正主義に反対する近年の歴史家が出した声明のように見えますが、実はこれはウード・ヴァレンディによる『ドイツのための真実』という1964年に出版された歴史修正主義文献の書き出しになります。ここからドイツ無罪論とヒトラーに戦争の意志はなかったという免罪論が展開されていくのです。

 歴史を語ることは、史料から何かを選択し並べることなので、「解釈」というものは避けられません。もちろん、史料からある程度は客観的な事実が見えてきますが、それをマルクス主義でもフェミニズムでも独自の視点で解釈し歴史を語っています。
 しかし、史料を意図的に無視したり歪曲することは問題ですし、政治的な意図をもった歴史の解釈が問題視されることもあります。一方、歴史の教科書などは国家が自国民統合の目的などをもって編纂しています。

 第一次世界大戦でドイツが敗北すると、ドイツ外務省が「戦争責任課」をつくってドイツの戦争責任を軽くすることを試みたり、アメリカではウォールストリートの「死の商人」たちがアメリカを戦争に引きずり込んだといった見方が生まれます。

 例えば、ハリー・エルマー・バーンズという歴史社会学者は、第一次世界大戦中は熱心な対独参戦論者でしたが、アメリカの戦争介入を糾弾する立場から戦後に『世界大戦の起源』という本を出版します。さらにバーンズは陰謀論に傾斜していき、第二次世界大戦においてはローズヴェルトが真珠湾攻撃を事前に知っていた上でアメリカを戦争に引きずり込んだとの議論を展開し、ホロコーストを矮小化しました。
 バーンズは反権力の人物で、隠された真実を暴こうとしましたが、それが徐々に歴史修正主義へと流れていったのです。

 第二次世界大戦後、ドイツではニュルンベルク裁判によってナチの犯罪が断罪されますが、この裁判を公正ではないと考えた人たちも多くいました。
 こうした中で、ヒトラーやナチを擁護する本もぽつぽつと出版されるようになってきます。最初に紹介したヴァレンディの本もその1冊で、権力によって「正義」が損なわれ、歴史の「真実」が隠されているとの観点から歴史を語り直そうというものです。
 ただし、1960年に特定の民族や宗教団体に対して憎悪を煽るような行為を禁止する「民衆扇動罪」が設けられたこともあって、ドイツのおける歴史修正主義の影響は限られていました。

 ホロコースト否定論が最初に出てきたのはフランスです。
 注目すべきはポール・ラスィニエという人物で、レジスタンスに参加した社会主義者でドイツの強制収容所に送られたこともありましたが、その著作の中で強制収容所の実態を歪曲する主張を行いました。
 ラスィニエは強制収容所では囚人の中から選ばれる監視役の「カポ」が最も残忍で、ドイツ人の親衛隊は人道的ですらあり、中で行われていたことを知らなかったと書きました。ひょっとするとラスィニエの経験はそうだったのかもしれませんが、ラスィニエはそれを一般化することで歴史修正主義の根拠を与え、さらに自らの主張を守るために他の囚人たちの証言を否定しました。

 ニュルンベルク裁判ではナチ国家の犯罪を「公知の事実」としてそれを立証することはありませんでしたが、一方で強制収容所の様子などを8ミリカメラで撮影していました。
 しかし、歴史修正主義者はこれらの証拠を捏造だとし、経験者の証言も「嘘つき」だと否定します。そして、これらを繰り返すことで「公知の事実」を揺るがそうとするのです。

 1970年代に入るとホロコースト否定論が勃興します。ちなみに日本ではホロコースト否定論も「歴史修正主義」と言われることが多いですが、ヨーロッパではホロコースト否定論は歴史修正主義の範囲を超えておりヘイトスピーチとして法規制の対象としている国が多いです。
 
 ホロコースト否定論に共通する論点は、「600万人も死んでいない」、「ガス室はなかった」、「ホロコーストの原因をつくったのはユダヤ人」、「ホロコーストはイスラエルがドイツから金を取るために利用するためのもの」といったものです。
 基本的に反ユダヤ主義と人種主義(レイシズム)が根底にあり、現在の政治的な関心が動機となっており、表面的には歴史問題であっても本質はそこにはありません。

 70年代なってホロコースト否定論が出てきた背景には、世代交代とともに若者たちが親世代の歴史認識を批判するようになった一方でそれに対する反発も現れた、第3次と第4次中東戦争における勝利でイスラエルの軍事強国化が鮮明になったといったことがあります。

 ドイツでは1973年にティーズ・クリストファーゼンという元親衛隊隊員が『アウシュヴィッツの嘘』という短いパンフレットを出しています。これは自分はアウシュヴィッツにいたが、そこでは映画や劇の上映なども行われており、アウシュヴィッツで虐殺が行われていたことは知らなかったし、考えられないというものです。
 また、裁判官であったヴィルヘルム・シュテークリヒもアウシュヴィッツで栄養失調の囚人など見たことない、生存者はなぜ抹殺対象から外れたのか説明する必要があると、生存者の証言を否定しました。
 自らの体験を重視しつつ、他者の体験に関してはそれを認めないというのがこれらの議論の特徴になります。

 80〜90年代にかけてフランスでホロコースト否定論の中核となったのがリヨン大学の文学教授ロベール・フォリソンです。フォリソンはテクスト批評などを専門とする人物で、歴史とは起こったことではなく、過去についての表象にすぎないというポストモダン的な見方でホロコーストに疑義を呈したことが特徴でした。
 
 ホロコーストの否定論が世界的に知られるきっかけになったのが80年代にカナダで行われたツンデル裁判でした。これはエルンスト・ツンデルというドイツ出身で当時カナダに住んでいたホロコースト否定論者が訴えられた裁判です。
 ツンデルはネオナチとして活動しており、70年代末に北米でテレビドラマ『ホロコースト』が放映されると、ドイツ人の子どもがいじめられると反ユダヤ主義の活動を強めていました。

 1983年、このツンデルをホロコースト生存者団体の代表であるサビーナ・シトロンが訴え、カナダの検察もこれに加わりました。訴因は刑法177条「虚偽のニュースの流布」です。
 当時のカナダではヘイトスピーチを取り締まる法律はなく、検察はホロコースト研究の大家ラウル・ヒルバーグを証人として呼び、ツンデルの主張が嘘であることを証明しようとしました。
 この裁判では裁判所がホロコーストを「公知の事実」として認めなかったこともあり、ツンデルの弁護士のダグラス・クリスティは、書かれた歴史は解釈であり、生存者の証言は「伝聞」にすぎないとしてホロコーストは証明できないと主張しました。
 さらにアウシュヴィッツのガス室の壁のサンプルを検証したというフレッド・ロイヒターという人物が証人に呼ばれ、壁からは周囲よりも高濃度の毒物は検出されなかったと主張しました。しかし、このロイヒターは毒ガスの専門家でもなんでもなく、裁判ではこの証拠は却下されています。ただし、それでも「ロイヒター報告」はホロコースト否定論の論拠に使われ続けることになります。

 85年の判決でツンデルは禁錮15ヶ月の有罪判決を受けますが、92年、カナダの最高裁は刑法177条は違憲であるとしてツンデルに無罪判決を出します。
 この裁判によってホロコースト否定論の問題点が認識され、それをヘイトスピーチとして扱うべきだという主張が強まりました。一方、この裁判が大きくとり上げられたことで「反権力」としてのホロコースト否定論に惹きつけられた者もいたと考えられます。

 ドイツでは1980年代後半に「歴史家論争」と呼ばれる論争が起こっています。
 これは86年にエルンスト=ヘルマン・ノルテという歴史学者が「過ぎ去ろうとしない過去」という文章を発表したことに対して、哲学者のユルゲン・ハーバーマスなどが反論したものです。
 ノルテはナチズムは「裁きの剣のように現代の頭上に吊り下がっている過去」(119p)だとし、ナチの強制収容所にはソ連のグラーグという起源があると主張しました。一方、ハーバーマスはこれを歴史修正主義だとして、ノルテだけでなく保守的な歴史家を広く批判しました。
 ここでは何が歴史の「修正」なのか、ホロコーストは他のものと比較可能なのか、歴史の政治利用をどう考えるか、といったことが焦点になりました。
 最後の論点に関しては、保守派は国民の一体化を促進するような歴史認識が必要だとしたのに対して、対立側はナショナルヒストリーではない開かれた歴史が重要だとしました。

 1996年にはアメリカ人の政治学者ダニエル・ジョナ・ゴールドハーゲンが発表した『普通のドイツ人とホロコースト』がいわゆる「ゴールドハーゲン論争」を生みました。
 ゴールドハーゲンはホロコーストが起こったのはドイツ人が反ユダヤ主義に染まっていたからだと主張しましたが、その主張には史料の恣意的な選択や抜粋があるともいいます。ただし、ゴールドハーゲンが「歴史修正主義者」と批判されることはありませんでした。

 2000年にはイギリス人の著述家デイヴィッド・アーヴィングがアメリカ人の歴史家デボラ・リップシュタットとペンギンブックスを訴える裁判が起きます。アーヴィング裁判です。
 アーヴィングは歴史「読み物」を書く著述家として成功していた人物ですが、ヒトラーはホロコーストを知らなかったという説を唱え、80年代末にはホロコースト否定論者に接近していました。
 このアーヴィングをリップシュタットは93年の『ホロコーストの真実』の中で「危険な否定論者」として名指しで批判し、これに対してアーヴィングがリップシュタットと出版社を訴えたのです。
 イギリスの名誉毀損裁判では訴えられた側が自説の正しさを証明する責任を負うために、アーヴィングがホロコースト否定論者であることを証明する必要がありました。

 裁判では、リップシュタット側にはリチャード・エヴァンズや『普通の人びと』の著者のクリストファー・ブラウンニングなどの錚々たる証人が並び、アーヴィングが史料を恣意的に選び、読み替え、誤訳していることを指摘し、彼が歴史家の名に値しないことを証明しようとしました。
 判決ではほぼすべての点でリップシュタット側の主張を認め、アーヴィングの主張を退けました。アーヴィングは巨額の訴訟費用に耐えきれずに破産しています。

 こうした裁判が行われる一方で、ヨーロッパの各国ではホロコースト否定論などの否定論そのものを禁止する法整備が行われていくことになります。
 否定することが禁止されたのは、大きく分けてホロコースト、その他のジェノサイド、共産主義の犯罪の3つで、ドイツではホロコースト否定論のみが禁止ですが、フランスではその他のジェノサイドも、チェコでは共産主義の犯罪も含めたすべてが禁止されています(180−181p表1参照)。

 ドイツでは1959年末から翌年にかけてシナゴーグにナチのカギ十字が落書きされたりユダヤ人墓地や施設が荒らされる事件が起き、それを受けて60年に「民衆扇動罪」が導入されました。さらに94年の改正で公の場で「ナチ支配下で行われた行為を是認し、その存在を否定し又は矮小化する者」(190p)を罰する規定が追加され、ホロコースト否定論を公の場で主張することが法的に禁止されました。
 もちろん、表現の自由との兼ね合いもありますが、ドイツの憲法である基本法では第1条で「人間の尊厳は不可侵である」と規定しており、表現の自由よりも人間の尊厳を重視する姿勢を見せています。

 フランスでは1990年にゲソ法と呼ばれるホロコースト否定禁止法ができています。これはニュルンベルク裁判で定義された「人道に対する罪」の存在に異議を唱える者を処罰する法律です。
 否定する者ではなく異議を唱える者も処罰できることが特徴で、哲学者ロジェ・ガロディも著作でホロコーストの死者数に疑問を呈することなどを繰り返したために98年に有罪判決を受けています。

 このようにヨーロッパではホロコーストを法的に禁止する流れができつつありますが、ここで問題になるのが「禁止されるのはホロコースト否定論だけなのか?」というものです。
 21世紀になって東欧諸国がEUに加盟していきますが、これらの国ではむしろ共産主義による虐殺が問題になります。

 何が許される歴史で何が許されない歴史かを裁判所が決める「歴史の司法化」が進んでいるわけですが、その最前線は東欧です。
 例えば、ウクライナでは「ホロドモール」と呼ばれる大飢饉をスターリンによるジェノサイドだと認定しており、これをジェノサイドではなかったと公の場で発言すると処罰されます。
 EUは各国にホロコースト否定に対する刑事罰の導入を求めましたが、それに対して東欧は共産主義の負の歴史の認定を求める状況があります。

 ポーランドではナチの犯罪とスターリンの犯罪双方を否定することを禁止していますが、さらに2018年には上院でポーランド人がホロコーストに加担したとする表現を違法化する法案を可決するなど、ポーランドの名誉を傷つける歴史言説を禁止しようとしています。
 これに対抗してロシアではニュルンベルク裁判で確定した事項を否定したり、第二次世界大戦中のソ連の行為について虚偽の情報を拡散させたの者を処罰する法律を制定しています。
 西欧では国内の対立を煽らないために歴史修正主義の規制が行われましたが、東欧ではむしろ国際政治において対立を煽る道具としてこうした規制が行われているのです。
 
 アーヴィング裁判において、エヴァンズは裁判後に歴史が司法の場で争われることに警告を発しましたが、歴史家の間では歴史修正主義を批判するとともに同時に法規制に対しても反対する終えが強いです。
 著者も最後の「おわりに」で、「歴史を法的にガバナンスするという考えには、歴史の研究者としてはやはり反対である。歴史の言説を法で管理するということは、両刃の剣だ」(239p)と述べています。
 法によって白黒をつけるのではなく、歴史修正主義の陰謀論じみた単純性を否定し、歴史における複雑性やグラデーションを受け入れながら、歴史修正主義に対峙していくしかないというわけです。
 
 このように本書は歴史修正主義を批判的に検討するとともに、それへの対処の難しさも認めています。
 ホロコーストについてはヨーロッパ(西欧)の歴史において特権的な地位を占めてるということに多くの人が同意しているだけに、ホロコースト否定論を法的に禁止することが社会の安定につながるという認識になるかもしれませんが、他の歴史事象において、あるいは他の地域でそういったコンセンサスが生まれるのか、あるいは必要なのかといったことは難しいものです。
 本書はヨーロッパの事例をとり上げていますが、アジアにおいても歴史修正主義や「歴史の司法化」の問題はもちろん存在します。そしてヨーロッパよりもコンセンサスが得にくい状況かもしれません。
 本書は私たちがこれから取り組まねばならない問題とその難しさを教えてくれる本と言えるでしょう。

国立歴史民俗博物館監修・「性差の日本史」展示プロジェクト編『新書版 性差の日本史』(集英社インターナショナル新書) 7点

 2020年に国立歴史民俗博物館で開催された企画展示「性差の日本史」の図録をコンパクトな新書にまとめたのが本書になります。
 「性差」には「ジェンダー」とよみがなが振ってあり、今まで男性中心だった日本史について女性の視点から改めて捉え直したのがこの展示であり、本書です。
 
 男性中心の歴史とは言え、卑弥呼、推古天皇、紫式部、北条政子と日本史においては何人かの女性をあげることはできますが、本書はそうした数少ない女性有名人をクルーズアップするのではなく、男性に比べて見えにくい社会における女性のはたらきを史料などを通して見ていくものになっています。
 とり上げられている史料はどれも興味深く、カラーの図録が欲しくなってしまうところではありますが、展示をもとにしているだけあって、非常に読みやすいものに仕上がっており、多くの発見がある本だと思います。
 
 目次は以下の通り。
プロローグ 倭王卑弥呼 
第1章 古代社会の男女
第2章 中世の政治と男女
第3章 中世の家と宗教 
第4章 仕事とくらしのジェンダー ―中世から近世へ―
第5章 分離から排除へ 近世・近代の政治空間とジェンダーの変容
第6章 性の売買と社会
第7章 仕事とくらしのジェンダー ―近代から現代へ― 
エピローグ ジェンダーを超えて―村木厚子さんに聞く

 プロローグで卑弥呼のことが少し触れられていますが、卑弥呼に限らず女性の首長はいました。熊本県の向野田古墳は古墳時代前期につくられた残存部分の全長が約89mの大型の前方後円墳ですが、石棺からは30代の女性人骨が見つかっています。この女性からは妊娠痕も確認されています。
 しかし、古墳時代中期になると女性首長の古墳の割合は急速に減少します。この時期は副葬品として武器や武具が重視されるようになった時代でもありました。

 ただし、古墳時代後期の栃木県甲塚古墳は女性首長が葬られたと見られていますし、そこから出土した埴輪には機を織る女性の埴輪など、当時の女性の活躍をうかがわせるものもあります。
 この機織りによってつくられる布は、律令制国家のもとでは税の代わりとなり成人男性が納めることとなりますが、実際に織ったのは女性でした。
 この律令国家がつくった戸籍によって男女を明確に区別しました。女性の名前は例外なく「○○売(め)」と記され、一目で女性とわかるようになりました。
 史書でも『古事記』では男女関係なく「○○王」と記されることが多いですが、『日本書紀』では「皇子(みこ)」「皇女(ひめみこ)」と区別されています。

 しかし、公式の場から女性が排除されたわけではありません。采女(うねめ)というと、地方の豪族から大王に献上された女性というイメージもあるかもしれませんが、地方と中央をつなぐキャリア女性だったと考えられるようになっています。
 8世紀初頭に活躍した因幡国出身の女官、「伊福吉部徳足比売臣(いおきべのとこたりひめのおみ)」の火葬した骨を納めた器の蓋には彼女の事績が刻まれていますが、それを見ると彼女が従七位下の位階を得たことなどがわかります。

 農作業に関しては、田植えというと「早乙女」という言葉があるように女性の仕事というイメージがありますが、木簡や『日本紀略』などの記述を見ると、9世紀頃までは男女関係なく田植えを行っていたことがうかがえます。
 一方、11世紀に成立した『栄花物語』には、藤原道長が若い女性が白い衣装に笠をかぶり化粧をしてた上をする様子を見学したという話が載っており、このあたりから田植えは女性の仕事となっていったようです。

 11世紀頃になると身分の高い女性は御簾の中に隠れて顔を見せないようになります。『枕草子』には仕事柄、人に顔を見せる女房のことを低く見る見方があったことが書かれています。
 しかし、天皇の母などは女院として「女院庁」が置かれ、荘園領主としてさまざまな支持を出したりしていました。例えば、鳥羽上皇の娘の八条院は源平合戦のさなかに平宗盛に対して、自らの荘園から無理に兵糧米を取らないように手紙を送っています。
 13世紀になると、藤原定家が、娘が女房になったことを出世だと喜んでいるように、女房の地位は向上します、女房は荘園の管理などで大きな役割を果たすようになってのです。
 また、中世において、女房は天皇の言葉を外に伝える役目も果たしました。

 最初にもあげた北条政子が代表例ですが、中世では夫を亡くし再婚せずに尼となった妻が家長として強い権限を持つ例がありました。今川義元の母で、氏親の妻だった寿桂尼もそんな1人です。夫が病に倒れると「氏親」の印を使った文書を発給し、その死後は「帰」という印を使った文書を発給しました。「帰」には「とつぐ」という意味があり、そこから選ばれたものと思われます。

 鎌倉時代は女性の地頭も珍しくなく、土地の売買なども自らの名義で行っていました。ただし、女性には公式の実名がないために幼名か法名、もしくは「藤原氏女」のように父方の姓を名乗ります。ちなみに、ここからもわかるように近世までは夫婦別姓でした。
 
 第4章では、室町時代末期に描かれた3つの風俗図屏風「月次風俗図屏風」、「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」、「東山名所図屏風」から中世の女性の暮らしと労働について読み解いています。
 まず、「月次風俗図屏風」を見ると、花見は男女別々のグループで行われており、女性の家族が独自に行動していたことがうかがえます。また、田植えの様子を描いた場面では、華やかな早乙女とそれを囃す男性の姿が描かれており、田植えは女性の仕事としてイメージされています(ただし、このあとの103pの図4−25にあるように明治の頃の田植えの写真では男女が混じって田植えを行っており、「イメージ」としての側面も強かった)。

 呉服屋を描いた場面では女性店員の姿もあり、男ばかりが働いていた江戸時代の呉服店とは違います。
 「洛中洛外図屏風(歴博甲本)」では、遊女、祇園社の巫女、魚屋などが描かれています。魚屋は「今町供御人」と呼ばれる特権を認められた女性の集団でしたが、1587年の文書では今町の魚屋の名義はすべて男性になっていますが、この時期になると少なくとも名義は男性に書き換える動きが他でも見られます。
 「東山名所図屏風」には女性の扇屋が描かれていますが、扇売りの「本座」は男女混合の座で、この座の最有力者は女性でした。

 扇に関しては、17世紀の「職人尽絵」などでも女性の職人の姿が描かれています。しかし、近世になると女性は職人の世界から遠ざけられ、職人は「男の世界」になっていきます。
 19世紀の初め頃の職人の姿を描く鍬形蕙斎「近世職人尽絵詞」という作品がありますが、遊女などの売春関連の職業以外の職人はすべて男となっています。
 その少しあとに書かれた『花容(はながた)女職人鏡』という女性職人の絵に狂歌を添えた版本では40種類ほどの女性職人が描かれていますが、版を重ねるごとに狂歌は削除され、一種のグラビアとして消費されていきます。布を柔らかくする「砧打」の仕事や手習いの師匠など、働いている女性はいたのですが、「家」が重要になるとともに女性が「家長」となることはなくなり、女性はその「家」を代表し、経営していく部分から排除されていったことが背景にあると思われます。

 髪を結う髪結についても、江戸では男性の髪結が髪結仲間をつくって営業の独占を認められていました。一方、女性の髪結に関しては幕府は女性の髪は自分で結うものだとして女髪結という職業を認めませんでした。
 女髪結は非合法の仕事であり見つかったら処罰を受けましたが、それでもプロの女性に髪を結ってもらいたいという需要は根強かったようで、収入の多い仕事だったそうです。
 明治なってこのような規制はなくなりますが、一方で女髪結は「ふけとり三年」と言われるように下層の人がつく仕事という認識が強まっていきます。
 
 江戸時代、女性たちは基本的に政治から排除され、「大奥」や「奥」に押し込められたと思われていますが、近年の研究ではその政治的な役割が見直されているといいます。
 「大奥」といえば「男子禁制」の空間として知られていますが、「奥方」には男性役人が勤めている「広敷向」という場所もあり場所もあり、奥女中と男性の役人が共同で維持運営していました(「広敷向」より奥が男子禁制)。
 例えば、仙台藩をみても同じようなしくみになっていましたが、記録を見ると仙台藩の奥女中が将軍家大奥へと派遣され、将軍や御台所への御目見えを許されたこともありました。奥の女性も社交を担っていたのです。

 また、仙台藩では7代目藩主伊達重村の死後、正室の観心院(近衛敦君)が指導力を発揮して危機を乗り越えたこともありました。
 徳川家茂の妻に迎えられた和宮の日記にも、当主に代わって家を守るという責任感が見られます。
 しかし、明治になると公私は分離され、女性たちは政治の場から排除されていきます。1871(明治4)年には薩摩出身の吉井友実がすべての女官を解雇していていますが、日記には「天皇の命令が女房を通じて伝えられるというような数百年来の『女権』が、この一日で一挙に解消されて愉快きわまりない」(125−126p)と書かれています。
 皇室典範の制定過程においても女帝を認めるとの意見もありましたが、井上毅の反対で否定されました。
 明治憲法に女性の参政権を否定する条文はありませんが、「市制町村制」の趣旨説明では、女性に公民権を与えないことは「通例」とされましたし、近代とともに女性を政治の場から排除する動きはより強まったのです。

 第6章では性の売買の歴史がとり上げられています。
 現在の研究では、日本で職業としての売春が生まれたのは9世紀後半頃であると言われています。それまでは男女関係・夫婦関係が緩やかであったために、そういった需要があまり生まれなかったと考えられます。
 中世になると、遊女は今様の歌い手となったりしましたが、後の時代と何よりも違うのは、遊女自身が経営権を握っていた点です。遊女は母から娘へと受け継がれる一種の家業でした。

 しかし、戦国時代以降になると、男性経営者が人身売買によって女性を集めて売春を行わせるようになります。
 江戸時代になると、幕府が遊廓を公認し、新吉原を頂点として、全国のさまざまな場所で遊女屋が営業するようになりました。新吉原遊廓の遊女屋は売上の1割を町奉行所に上納しており、維新後は東京府がこれを引き継ぎましたが、慶応3年9月から1年間の市中からの総収入の7.8%が新吉原、14.4%が深川の遊女屋の上納金だったといいます。

 19世紀になると『吉原細見』というガイドブックが発行されるようになり、そこには遊女のランキングも載っていました。遊女屋はこのランキングを使って遊女同士の競争を煽ったり、管理したりしました。
 147pに載っている高橋由一の「美人(花魁)」は新吉原遊廓の稲本屋のトップであった四代目小稲を描いた作品ですが、リアルを追求した由一の絵を見て、小稲は怒り、泣いたといいます。

 明治政府は「芸娼妓解放令」を出し、遊女の人身売買を禁止しました。これは非常に近代的な施策にも思えますが、これによって遊廓がなくなることはありませんでした。
 遊女は自らの「自由意思」で売春をする娼妓とされ、遊女屋は娼妓に場所を貸す「貸座敷」業であるとされたのです。このあたりの状況は本展覧会のプロジェクト代表である横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)にも書かれていますが、本書でも遊女からの解放を願う女性の嘆願書などが紹介されています。

 親によって身売りされた娘は、そのお金を身体を売った代金で返済しなければなりませんでしたが、売上から借金の利子や必要経費も返済しなければならないこともあって、借金が減るどころか増えることもしばしばでした。
 娼妓たちは借金を返すために、より条件のよい貸座敷に移ろうとしましたが、かえって借金を増やしてしまうことも多かったようです。
 本書では、娼妓が客をとった後に性器を洗った洗浄器の写真なども載っていて、娼妓たちの境遇が生々しく蘇ってきます。

 明治になって女性は政治の場からは排除されましたが、職業に関しては、新たに女性が表に出てくることになりました。看護婦や判任官と呼ばれる下級官吏になる女性が出てきたのです。
 また、日本の産業革命を牽引した製糸業や紡績業では多くの女工が働いていました。女工というと悲惨な境遇がイメージされますが、1910年代くらいになってくると女工を集めるために福利厚生がアピールされるようになりました。
 また、工場で能率的に働くために月経バンドなども導入されるようになり、本書では工場で共同購入された「エンゼルバンド」なるものが紹介されています(182p図7−8)。

 戦後、GHQが日本を占領しましが、そのGHQにマリア・ミード・スミス・カラスという女性がいました。彼女は谷野せつ、山川菊栄といった労働省の女性官僚らと女性労働者の地位向上のために力を尽くしました。

 このように、本書は日本の歴史における女性のあり方を豊富な史料とともに辿っています。
 ここでは基本的に本書のテクストをまとめましたが、これは本書の半分であり、もう半分は紹介されているさまざまな史料です。
 本書は、この史料とテクストを通じて今まで見えていなかった日本の歴史における女性の姿を浮かび上がらせています。
 非常に面白い試みで勉強にもなりますが、史料がよいだけにカラー口絵などもほしいところで、「十分に面白いけどやはり図録か…」とも思わせる本ですね。


芝健介『ヒトラー』(岩波新書) 7点

 『ホロコースト』(中公新書)などの著者が岩波新書から出す「ヒトラー」というド直球なタイトルの本であり、しかもページ数を増やさない方針の岩波新書にもかかわらず、本文だけで360ページのボリュームというものになっています。 
 ヒトラーの評伝については、ナチスのやったことすべてをヒトラーによるものだとすると、ヒトラーを良くも悪くも「すごい人物」として描くことなってしまいますし、逆に当時の社会状況や周囲の人物の影響を重点的に書くと、今度はヒトラーの責任が薄まってしまうというジレンマがあります。
 このジレンマに対して、本書はヒトラーの人物像、当時の社会状況、周囲の人物のすべてを書くことで、政治軍事において傑出した人物ではないが、ナチスの蛮行の責任を追うべき人物としてのヒトラーを描き出そうとしています。
 このため、ページ数が増えるのは当然といえば当然です。また、かなり細かく書いている部分のある一方で、アウトバーンやフォルクスワーゲンについてはまったく記述がないなど、思い切って落としている部分もあります。
 次に紹介する目次からもわかるように、充実している一方で癖のある評伝と言えるかもしれません。

 目次は以下の通り。
第1章 兵士ヒトラー――勲章と沈黙と
第2章 弁士から党総統へ――カリスマの源泉とテロル
第3章 国民的政治家への道――『わが闘争』と党の躍進
第4章 総統兼首相として――一党独裁のなかの多頭制
第5章 「天才的将帥」から地下要塞へ――第二次世界大戦とホロコースト
第6章 ヒトラー像の変遷をめぐって――生き続ける「ヒトラー」

 最初に構成を紹介すると第1章の第1次大戦の敗北までが約30ページ、第2章のミュンヘン一揆に失敗し釈放されるまでが約55ページ、第3章の首相になるまでが約50ページ、第4章の首相になってから第2次大戦の開始までが約60ページ、第5章の第2次大戦の開始から死ぬまでが約80ページ、第6章の死後の評価についてが約70ページです。
 とりあえず、死後の評価の部分にかなりの紙幅をとっていることがわかると思います。 

 まず、第1章ではオーストリアの税官吏の家に生まれたヒトラーの生い立ちが語られています。母から溺愛されたこと、ワーグナーにはまっていたこと、画家を目指してアカデミーを受験したが失敗したことなど、オーストリア時代のヒトラーは、まだ政治に目覚めていない段階です。
 このあと、ヒトラーは24歳のとき(1913年)にミュンヒェンへ出奔しますが、この背景には24歳になって父の遺産に手を付けることができるようになったことと、兵役逃れがあったと見られます。
 この兵役逃れの罪でヒトラーは1914年にオーストリア警察に捕まるのですが、検査の結果、兵役につくには虚弱と判定され、懲役刑になることもありませんでした。ここでオーストリアに強制送還されて懲役刑になっていたら歴史は変わっていたかもしれません。

 第1次世界大戦が始まると、ヒトラーはミュンヒェンで志願し、外国籍にもかかわらず従軍が認められます。
 ヒトラーの従軍経験に関しては近年の研究でヒトラーの言っていることにいくつかの誇張があることが明らかになっているそうですが、ヒトラーは伝令兵として西部戦線で戦い、1917年6月には、上官が無事に指令を届けたら一級鉄十字章をやる言ったことを受けて見事にこれをこなして一級鉄十字章を授与されています。
 ちなみにこのときの上官のグートマン少尉はユダヤ人であり、少なくともこのときには強い反ユダヤ主義を持っていたとは思われません。

 第1次世界大戦はドイツの敗北に終わりますが、ヒトラーと軍との関係は終わりませんでした。ヒトラーはミュンヒェンのレーテ(評議会)の部隊代表員に選ばれており、大戦後に成立した兵士レーテの指示にしたがってさまざまな役回りをこなしていました。
 この後、ミュンヒェンでレーテ共和国が崩壊し、ヒトラーは逆に軍内の共産主義分子の狩り立てに動きます。

 バイエルン国防軍では、啓蒙宣伝局「部隊コマンド4」が設置され、責任者にカール・マイア大尉が就任しますが、彼が要員として選抜した1人がヒトラーでした。
 ヒトラーはここでの講義で、「生産的資本」と「ユダヤ人による〈強欲資本〉」を弁別し、金融資本の「利子奴隷制打破」が必要だというゴットフリート・フェーダーの主張に接し、大きく影響されるとともに、その演説の才能を見いだされました。

 ヒトラーは民族主義政党のドイツ労働者党にマイア大尉の差し金で入党します。ヒトラーの演説はこの党を人気と資金獲得の手段となり、ヒトラーの存在感は重みを増していきます。
 そして、1920年2月に行われた党大会でドイツ労働者党は国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と名称を変更し、ドイツ民族主義や労働者や中間層への再分配、ユダヤ人排斥などの綱領を掲げました。
  
 1921年7月にヒトラーはナチ党からの脱党を宣言するという挙に出ますが、これは自らがナチ党の指導権を握るためのものでした。ヒトラーを失うわけでには行かないと判断した他の党幹部の判断により、ヒトラーはナチ党の「フューラー」(総統)になります。
 このころ、市町村自警団(住民軍)に対して解散命令が出され、武装解除が進みますが、これをかいくぐってバイエルンの右翼諸派と接点のあったレーム大尉はナチ党のSA(突撃隊)にも武器を横流ししていました。
 1922年の11月にはヒトラーは、第1次大戦の英雄でもあったゲーリングと知り合い、貴族層ともつながりがあったゲーリングを介してヒトラーも上流社会に知られるようになります。

 1923年なると、「ルール占領」からドイツはハイパーインフレに襲われ、一般庶民の生活は成り立たなくなりました。そうした中、この時期にはロシアや東欧から逃げてきた東方ユダヤ人がドイツの負担になっているという認識も高まり、ナチ党もこれを厳しく批判します。
 当時のバイエルンの州総監であったカールも反ユダヤであり、ユダヤ人問題をめぐって共和国政府と対立していました。
 23年11月、ヒトラーはカールらを監禁して、ルーデンドルフを担いで新政府の設立を目指して行動します。いわゆるミュンヒェン一揆です。ご存知のようにこの企ては失敗しますが、デモ行進の際にヒトラーの隣りにいた人物が撃たれて死亡する中で、ヒトラーは無傷で生き残るという運の強い面も見せます。

 裁判ではカールやルーデンドルフをかばうためにヒトラーに一揆の責任が被せられましたが、これがヒトラーの声望を高めることにもなります。
 この裁判の管轄権がバイエルンではなく共和国になっていればヒトラーは重罰を免れませんでしたし、オーストリアへの国外追放も検討はされたものの実行はされませんでした。結局、ヒトラーは5年の要塞禁錮という軽い刑になり、しかも1年ちょっとで釈放されることとなります。

 ヒトラーは獄中で『わが闘争』を執筆しますが、ここでヒトラーは自らの半生についてそのカリスマ性を誇るのではなく、まだ使命を自覚していない運命に抗う者として提示し、演説の力を指導者に必要な資質とすることで、自らを来たるべき指導者に位置づけました。
 
 ミュンヒェン一揆の後に減少したナチ党の党員は、26年ごろから回復してきますが、それでも28年の総選挙では得票率2.6%で、12議席を獲得したに過ぎませんでした。しかし、当時の党員は約8万だったのに対して、81万票あまりを獲得しており、ヒトラーは手応えを感じていました。
 29年4月にドイツに対する新たな賠償案としてヤング案が提示されます。これは今までのものよりもドイツの負担を軽減するものでしたが、ナチ党はこのヤング案を批判する反共和国のキャンペーンを繰り広げ、狂信的少数派から「国民的」政党へと人々の持つイメージを変えることに成功します。

 29年10月に始まった世界恐慌の影響はドイツにも及び失業者が急増します。こうした中で行われた30年9月の選挙で、ナチ党は得票率18.3%、107議席と躍進します。この躍進の原動力となったのは農村部での得票で、保守的な聖職者の支持を得たことが要因の1つとしてありました。
 31年1月にはSAの新幕僚長にレームが就任し、SAは青年失業者を吸収して急激に膨張します。31年1月から1年間でSAの隊員数は約7万7千から約29万へと急増し、徴兵制を禁じられていた国防軍にとっても提携すべき存在とみなされていきます。

 順調にその存在感を増していったヒトラーでしたが、31年9月には同居していた異母姉の娘アンゲラ(ゲーリ)が拳銃で胸を撃ち抜かれた遺体で発見されます。ヒトラーが付き合った女性は自分より20歳ほど若い女性がほとんどで、このゲーリとも単なる叔父・姪の関係ではなかったとも言われます。
 ヒトラーはこの事件の後、しばらく茫然自失となり、これ以降、肉を食べなくなったともいいます。

 32年の大統領選挙でヒトラーは現職で第1次大戦の英雄であるヒンデンブルクに敗れますが、36%の票を獲得し、右翼陣営の中心的存在になりました。
 ヴァイマル憲法は大統領制と議院内閣制とを折衷した統治機構で、大統領が首相を任免し、国会がそれを信任するというスタイルでしたが、このころになると対立が続く国会をパスし、大統領緊急令で政治を進める傾向が強くなっていました。
 32年7月の総選挙ではナチ党が得票率37.4%で230議席を獲得し、ついに第一党となります。当時のパーペン内閣はヒンデンブルクの大統領緊急令に頼って政権運営を行っており、32年9月には再び解散を行うなど政治は相変わらず混乱した状態でした。
 この選挙でナチ党は第一党の座を守ったものの、得票率33.1%、196議席と後退し、一方で共産党が首都のベルリンを中心に議席を伸ばしました。
 ヒンデンブルクはヒトラーを入閣させて体制を強化しようとしますが、ヒトラーはあくまでも首相のポストを要求し、33年1月、ついにヒトラーが首相に就任することになります。

 ヒトラー内閣が発足すると、共産党や社民党の集会や機関紙が禁止され、SAやSSが警察に入り込むなど、党暴力組織の体制化が進みます。さらに2月に起きた国会議事堂放火事件を利用して、共産党の弾圧と基本的人権の停止を行いました
 こうした中で行われた33年3月の総選挙ではナチ党は得票率43.9%を獲得しますが、ナチ党単独での絶対多数はなりませんでした。 
 それでもSAやSSの暴力装置を使って33年3月に授権法を成立させ、ヒトラーの独裁的な政治が行われることになります。

 ナチ党の政権獲得は、「革命」を夢見た、SA隊員などを含む人びとを反ユダヤ主義的な行動へと駆り立てましたが、政権はこうした突き上げと経済秩序の維持の間で板挟みになりました。33年4月にはユダヤ商品に対するボイコット運動が展開されますが、一般市民は品不足を懸念してボイコット開始前にユダヤ系の商店に殺到するなど中止を余儀なくされます。
 
 ヒトラーは他の政党を禁止して一党独裁を完成させますが、その内実は「一党制国家の多頭政治」とも言うべきものでした。例えば、ユダヤ人問題をとってみても20あまりの機関が関わっており、各機関が既得権益の維持や政治的発言力の増大を目的に問題に介入していたのです。この各機関の対立を止揚するのがヒトラーであり、各機関はヒトラーの意思を忖度しながら過激な政策を追求していくことになります。
 こうした中で34年6月にSAを率いていたレームが粛清されます。レームが粛清されたことで、ナチ党が穏健化するとの期待を持った者もおり、ユダヤ人も事件後に約1万人が帰還したとされますが、反ユダヤ主義が収まることはありませんでした。

 1936年の3月、ヒトラーはラインラント進駐を行います。ここでフランス軍が攻撃してくれば、ドイツ軍は交代せざるを得ませんでしたが、フランスは示威行動は見せたものの攻撃には踏み切らず、ヒトラーが賭けに勝った形になりました。
 さらにヒトラーは国防軍を掌握し、オーストリア併合、チェコのズデーテン地方の併合へと突き進みます。ここでも英仏が譲歩したことでヒトラーは賭けに勝ちました。
 オーストリアではアイヒマンがユダヤ人の追放を強力に進め、以後、SSがユダヤ人問題を主導していく布石になりました。38年10月には、いわゆる「水晶の夜」が起こり、ドイツ国内でのユダヤ人への迫害が強まります。
 一方、順調に見えたドイツ経済の回復でしたが、軍事費の膨張によって財政は破綻寸前であり、もはや戦争でしかそれを繕えない状況になっていました。

 1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まります。ドイツ軍は翌年の6月にはフランスを降伏に追い込むなど破竹の進撃をします。いわゆる「電撃戦」という戦い方が効果をあげたとされますが、ドイツの兵器は遅れたもので、マンシュタインが発案し、ヒトラーが採用したアルデンヌを突破する作戦が功を奏したと言えるそうです。
 フランスを屈服させたヒトラーでしたが、イギリスを屈服させることはできず、しだいに対ソ戦に傾斜していきます。ドイツが戦争を継続するための物資を賄うにはソ連の征服が不可欠だと考えられたのです。

 独ソ戦の経過については大木毅『独ソ戦』(岩波新書)の紹介にも書いたのでここでは繰り返しませんが、本書を読んで、ここまでさまざまな賭けに勝ってきたヒトラーだからこそ、スターリングラードで包囲された第6軍の内側からの包囲突破を認めることができずに大損害を招いたのだとも感じました。
 一方、ユダヤ人に対する掃討作戦はこの独ソ戦のなかでますますエスカレートしていき、行動部隊による射殺、絶滅収容所の建設へと進んでいきます。

 1942年には連合軍によるドイツへの空襲も始まっており、さらに43年のスターリングラードでの敗北を受け、ヒトラーは公の場に姿を見せなくなります。このころ側近将校がヒトラーの口臭のひどさに驚いたという話が残っていますが、戦局の悪化によってヒトラーが被った精神的な打撃は大きかったようです。
 
 期待されたV1もV2も戦局を転換するものとはなりえず、44年12月のバルジの戦いが失敗に終わると、ヒトラーは「戦争に負けたことはわかっている」(278p)との言葉を残しています。しかし、ヒトラーにとって降伏も「背後の一突き」もあってはならず、1918年を繰り返さないために戦争が続いていったのです。
 最終的にはゲーリングやヒムラーまでが講和に動こうとする中、最後まで抵抗の意思を示し、そしてそれが叶わぬとなると、45年の4月30日にヒトラーは自殺しました。

 ここで終わってもいいところですが、最初にも述べたようにこの本はヒトラー死後のことに紙幅を割いています。
 まずヒトラーの遺体はソ連軍が発掘し、歯列をつかって確認したのですが、スターリンやソ連軍はそのことを明かしませんでした。そのためにヒトラー生存説が流れることになります。
 戦後まもなく、ヒトラーは悪魔化され、特に東独地域では低い評価がされる一方で、恐慌からドイツを立ち直らせた人物として肯定的に評価されることもありました。
 ナチの蛮行が積極的にとり上げられるようになったのは、アイヒマンが1960年に逮捕されて裁判を受けた頃からであり、改めてヒトラーの負の側面が掘り下げられるようになっていきます。また、研究者の中では、ヒトラーの役割をナチズムにとって決定的なものだったと捉える「意図派」と、ナチ体制のもつダイナミズムに注目す「機能派」の対立もありました。
 2010年代になっても『わが闘争』の再販をめぐって議論が巻き起こるなど、ヒトラーはいまだに多くの議論を巻き起こす存在になっています。

 ここでは第5章と第6章はやや簡単に紹介しましたが、この2つの章の記述はけっこう手厚いです。一方、最初にアウトバーンやフォルクスワーゲンが出てこないと書いたように、経済政策を中心に切っているところはバッサリと切っています。
 ですから、同じ新書の石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)のほうがバランスもよく初心者向けと言えるでしょう。
 ただし、『ヒトラーとナチ・ドイツ』が描ききれなかったヒトラーの内面や人物像、周囲の人間などに関しては本書のほうが詳しく描かれており、興味深い点も多いです。
 最初の1冊としては少しハードかもしれませんが、ヒトラーについて読む2冊めの本として丁度いいかもしれません。


猪木武徳『経済社会の学び方』(中公新書) 7点

 さまざまな受賞歴を持ち、日本経済学会会長も務めた著者による「経済社会の学び方」を論じた本。学問的な「方法論」というよりは、その一歩手前の「見方・学び方」について述べています。
 ただし、博識に支えられたバランスの取れた見方は、経済学や社会学の素人だけでなく、それなりに学んできた人にも参考になるものだと思います。
 経済学では先端的な方法が次々と開発されていて、それはそれで面白いのですが、ときには本書のようなベテラン研究者による一歩引いた視点も必要かもしれません。また、本書を読むことで「社会科学」と呼ばれるものを改めて考え直すきっかけにもなります。

 目次は以下の通り。

第1章 まずは控え目に方法論を
第2章 社会研究における理論の功罪
第3章 因果推論との向き合い方
第4章 曖昧な心理は理論化できるか
第5章 歴史は重要だ(History Matters)ということ
第6章 社会研究とリベラル・デモクラシー

 まず第1章で、著者は「経済社会」という言葉をとり上げながら、こうした分野の言葉を最初に定義していくことの難しさを指摘しています。自然科学では、まず概念が定義されるケースが多いですが、「社会科学」の分野では研究の中で初めてその概念が明確な形をとってくることも多いです。
 また、自然科学では観察が重要ですが、「物価」「GDP」といったものは可視性のある概念ではありません。しかし、同時に現場を知らなければ、そうした概念は現実から遊離したものにないかねません。
 紙に書かれた法律や制度が実際にその通りに運用されていたのかなど、確かめなければならないことも多いのです。

 社会のさまざまなことを比較しようとするときには、比較を可能にする指標が必要になります。GDPなどの概念は操作可能な数値である「指標」に変換されることによって大きな役割を果たすようになります。
 GDPは経済社会全体の「豊かさ」あるいは「国力」を表す指標ですが、その指標化にあたってさまざまな問題も指摘されています。例えば、家事はお手伝いさんに頼めばGDPに計上されますが、主婦(夫)がやればGDPにはカウントされません。また、GDPは価格を積み上げたものですが、「豊かさ」は金銭的価値だけではないと考える人も多いでしょう。
 GDPにはさまざまな「歪み」がありますが、その一方で「それでもないよりはましだ」とも言えます。
 
 学問において、自然科学的な体裁をとったほうがレベルが高いものとみなされやすいという傾向がありますが、これによって自然科学的なフレームにあてはまる問題のみを追求するようになったしまうという問題もあります。
 著者は、私たちが知ろうとしていることには論理的に証明可能な「真理」と、論証することのできない「真らしい」物事があるとし、社会についての研究はこの「真らしい」物事を探求する学問だとも言います。著者が「社会科学」という言葉をあまり使わずに「社会研究」という言葉を使う理由もここにあります。

 社会研究において、自然科学と違って素人も一家言持っていることが多いですし、また使われている概念にも厳密な定義がなかったりします。また、おおよその論証ができれば十分というケースも多いです。
 著者は、問いを立て適切な指標をつくるためのフィールド・リサーチの重要性も指摘しています。フィールド・リサーチには試行錯誤の可能性が織り込まれているのです。

 第2章では「理論」が扱われています。
 いわゆるグランド・セオリーに対して、著者は「頭から退けるのではなく、預言者の「荒野に叫ぶ声」として心にとめておくことは必要だ」(45p)というスタンスです。
 一方、それ以外のもう少し小さな理論に関しては、どんな仮定を置いているかが重要だと言います。
 例えば、リカードの比較生産費説は経済学の理論の中でも、直観に反していながら自由貿易の利点を説く鮮やかな理論ではありますが、シュンペーターはリカードの理論は無理な仮定を積み重ねたものだとして批判しました。リカードの理論ではぶどう酒の製造職人がすぐに毛織物職人になれるなど、現実には難しい仮定がいくつか含まれているのです。

 実際に歴史を見ると、イギリスは自由貿易を推進しましたが、アメリカは保護主義でしたし、フランスやドイツも1880年代になると保護主義に傾斜しました。
 アメリカで農産物の輸入に高関税をかける「スムート=ホーリー関税法」にフーバー大統領が署名した1930年6月17日は「世界史における転換点」(キンドルバーガー)とも言われますが、経済学者や実業家はこの法案に署名しないように運動していました。
 それでも法案が成立してしまったように、理論的な正しさだけでは動かないというんが経済社会の難しさです。

 日本では今まで演繹理論を重視し、歴史や現実をその理論に当てはめようとするやり方が見られました。1930年ごろから始まった「日本資本主義論争」もマルクス主義をいかにして日本の歴史に当てはめるのかをめぐっての争いでした。

 これに対して著者が持ち出すのが比較と地域研究の重要性です。例えば、封建制は日本でも発展しましたが、ヨーロッパの封建制とは似ている部分と違う部分があります。
 イギリスは産業革命から60年ほどかけて「一人あたりの所得の倍増」を実現させましたが、日本はだいたい35年で、中国や韓国はそれ以上のスピードでそれを成し遂げています。同じ段階を踏んでいるとしても、その様相は随分変わってくるでしょう。
 
 社会科学では、対象である「社会生活を営む人間」に研究者自身も含まれており、「その主体を、さらに社会研究者として認識して行動するという「認識の二重構造」」(76p)があります。
 また、研究者の観察や認識が対象となっている人びとの認識や行動を変えてしまう可能性もあります。
 このように社会や歴史は理論通りには動かないわけですが、理論通りにならないのだとすれば、そこに「なぜ理論通りにならないのか?」という問いが生まれます。貿易では「ヘクシャー=オリーンの定理」に対して、「なぜ定理通りに貿易財の流れが決まらないのか?」という問題をレオンチェフが提起したことで、その後の理論の発展に繋がりました。

 第3章では因果推論の問題がとり上げられています。
 原因と結果の因果関係というのは難しいもので、例えば、福沢諭吉は無智が貧困の原因だと論じつつ、同時に貧困が無智をもたらすとも言っています。これは矛盾ではなく無智→貧困、無智→貧困という両方の関係があると見ているからです。
 また、現実に起きる出来事にはさまざまな要因が影響しており、何か1つの要因を取り出して、それを決定的な要因だとするのは困難です。

 因果律そのものに懐疑の目を向けたのがヒュームで、特定の学問領域を除けば、因果的連関は習慣によって形成されるものだとしました。
 ケインズは経済学者や政治哲学者の思想は、正しい場合でも間違っている場合でも後世の人間の判断枠組みに影響を与えているという点で非常に強力であると述べましたが、ケインズはヒュームから強い影響を受けています。
 一方で、過去の経験から因果関係を類推するだけでは、いわゆる「統計的差別」の問題も起こってきます。企業の採用担当者が、過去に女性社員は早く辞め男性社員が長く残った経験から面接で男性社員を優先してしまうようなことも起こりえます。

 こうした中で因果関係を明らかにするためにさまざまな手法が開発されてきました。例えば、一卵性の双子を使って教育年数の効果を図ろうとする試みなどがあります(遺伝や家庭環境がほぼ同じとみなせるため、教育の効果を測定できると考えられた)。
 近年ではさらに、「自然実験」、「ランダム化比較試験(RCT)」、「統計的因果推論」などの手法が開発されています。ただし、本書では紹介はされているものの踏み込んだ評価まではしていないです。

 第4章は人びとの心理を理論化することの難しさが語られています。
 人びとは「期待」(予測や予想)をもって日々行動しているわけですが、この期待と現実がうまく噛み合わないときもあります。
 例えば、ハッカ農家がハッカの価格が高かったので来年に向けて作付を増やしたとします。しかし、これはあくまでもこのときの価格であり、来年の収穫時の価格を保証するものではありません。多くの農家が作付を増やせば価格は下落し、それをみて来年の作付を減らせば今度は価格が上昇するといった「蜘蛛の巣サイクル」と呼ばれる動きを示すこともあるのです。

 ケインズはこの期待を重視しましたし、大正時代に起きた米騒動も、実際に米が不足していたわけではないのに「米の価格が値上がりするのでは?」という「思惑」から起こりました。石橋湛山は「他のものに比べて米は安すぎるから値上がりするはずだ」という思惑を生んだ政府の経済政策を批判しましたが、政策決定者はこうした思惑も計算に入れる必要があるのです。

 このように期待や思惑が人びとを動かすこともあるので、あまり効果のないはずの経済対策が人びとの期待を呼び込んで効果を発揮することもあれば、効果のあるはずの経済政策が悲観的ムードの中で失敗することもあります。
 また、「自己実現的予言」が起こることもあります。健全な銀行であっても、一定以上の人が危ないと思って預金を引き出さえばその銀行は破綻しますし、そういった流れになったときは、その銀行が健全だと知っていても預金を引き出すほうが正解だったりするのです。

 銀行の取り付け騒ぎもそうですが、ある閾値を超えると全体が違う局面に突入する「クリティカル・マス(臨界質量)」といったものが存在することもありますし、自分と違う人種に囲まれるのは少し嫌だなと思うくらいの軽い気持ちが、人種ごとの完全な棲み分けを生んでしまうこともあります。
 一方で、服装などでは他人と同じ格好を嫌う心理もあり、流行りすぎたファッションが急に廃れたりもします。

 第5章では歴史の重要性が説かれています。現在の制度や社会の姿は必ずしも合理性のみで説明できるものではなく、歴史の影響を受けているケースも多いですし、一方で「日本人は〜」といった言説は歴史を辿ってみるとそうではないことも多いです。
 例えば、日本の「終身雇用」についても明治以降の一貫した雇用慣行としてイメージされることもありますが、戦前の離職率は非常に高いものでしたし、戦後も高度成長期までは比較的高い離職率を保っていました。
 こうした離職率の高さに対応するために、長期勤続者への給与の増加や退職金制度が設けられたことで次第に離職率は低下していったのです。

 また、歴史を考える上で重要なのが「経路依存」の考え方です。ものごとのしくみや制度といったものは、他のしくみや制度とも絡まり合っていて、1つのものだけを変えることが難しい場合もあります。結果として、不合理なしくみが残ることもあるのです。
 有名な例としてはキーボードのQWERTYという配置があります。もともとはタイプライターのアームが絡まないように、あえて早く打てないような配置だったのですが、それがデファクトスタンダードになったことで、より合理的なキー配列のキーボードはなかなか生まれないことになりました。
 さらにここでは、ジャレド・ダイアモンド、ジェイムズ・A・ロビンソン『歴史は実験できるのか』に出てくる例を引きながら、歴史における自然実験という方法についても検討しています。
 
 経路依存の考え方をとれば、社会の問題に対しては唯一の正しい解答はないことになります。あくまでも国や時代という特殊性を無視するわけにはいかないのです。
 ですから、証拠(エビデンス)の基づく医療と同じように証拠の基づく政策は重要ではありますが、医療において医者と患者の利益が基本的に一致しているに対して、制作決定に関してはどうしても「価値」をめぐる争いが起こり、エビデンスから自動的に政策が導かれるというわけには行きません。
 経験的な事実だけではなく、「何をなすべきか」という価値観や理念が否応なしに入り込んでくるのです。

 最後の第6章では、科学と政治の問題がとり上げられています。
 自然科学は政治とは独立したものだと考えられがちですが、「ガリレオ裁判」や「ルイセンコ論争」のようにもろに政治にケースもありますし、新型コロナウイルスへの対応などを見ても、政治からの影響なしで純粋に科学的な事実だけを追求するというのは難しいです。
 特に未来に対する予測が政策にも重要な影響を与える地球温暖化問題などでは、科学も非常に政治的に扱われます。

 最後に著者はマーシャルなどの経済学者を例に上げて、理論だけではなく現実の問題を見ることの重要性を指摘しています。例えば、競争はさまざまな進歩を生み出しましたが、その負の部分にも目を向けることが必要なのです。
 リベラル・デモクラシーの世の中において、世の中の問題を一気に解決するような手段は存在しません。「パッチワーク」によって問題を「何とか切り抜けていく」以外に道はないのです。

 このように本書は健全なバランス感覚と著者の博識がいかんなく発揮された本だと思います。このまとめでは著者の博識をあまり伝えることはできませんでしたが、最近の人がカバーしていないようなさまざまな学者の研究や言葉が引かれています。
 因果推論の部分については現在の新しい手法についてのもうちょっと突っ込んだ評価を聞きたかったというのもありますが、主張されている内容は納得のいくものが多いと思います。
 社会経済を学ぶうえでの構えを教えてくれる本と言えるでしょう。


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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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