既存の歴史の書き換えを図る「歴史修正主義」(revisionism)、近年この言葉を聞く機会が増えましたし、それが良くないことであるとの認識も広がっています。
ただし、「何が歴史修正主義なのか?」という難しい問題でもあります。ここ最近、織田信長について今までの「革命児」的なイメージが否定され、「意外と保守的で常識的な人物であった」との見方が研究者の間で強まっていますが、今までの歴史の見方を修正するものであってもこれを「歴史修正主義」とは言わないでしょう。
本書はこの捉えにくい概念である「歴史修正主義」と、さらにそれを一歩進めた「否定論」(denial)をとり上げ、その問題点と、歴史修正主義と歴史学を分かつもの、ヨーロッパで歴史修正主義の代表である「ホロコースト否定論」がいかに法的に禁止されるに至ったかを紹介しています。
簡単に割り切れない問題だけに「問題を一刀両断する」といった勇ましさはないのですが、この本の特筆すべき点は記述が非常にわかりやすい点です。これだけ複雑な問題を扱っていながら非常にスムーズに頭に入ってきて、なおかつ深く考えさせられます。
新書の役割の1つが問題への入口を示すことであるとするなら、本書はまさにベストな内容だと思います。
目次は以下の通り。
序章 歴史学と歴史修正主義第1章 近代以降の系譜第2章 第2次世界大戦への評価第3章 ホロコースト否定論の勃興第4章 ドイツ「歴史家論争」第5章 「アーヴィング裁判」第6章 ヨーロッパで進む法規制第7章 国家が歴史を決めるのか
まず、歴史修正主義の厄介さを感じてもらうために、本書の中で引用されている文章を紹介します。
客観的な議論が、平和を構築するための前提となる。ただし客観性は、歴史のなかに根づいていなくてはならない。国民の過去を捏造する者は、客観的でも正直でもなく、信頼を欠き、人々に平和も正義も保障することはないだろう。(中略)今やこの世界で真実ほど危険にさらされているものはない! 過去と未来が、戦争責任をしっかりと明らかにせよと求めている。(51p)
何も知らずにこれを読むと、歴史修正主義に反対する近年の歴史家が出した声明のように見えますが、実はこれはウード・ヴァレンディによる『ドイツのための真実』という1964年に出版された歴史修正主義文献の書き出しになります。ここからドイツ無罪論とヒトラーに戦争の意志はなかったという免罪論が展開されていくのです。
歴史を語ることは、史料から何かを選択し並べることなので、「解釈」というものは避けられません。もちろん、史料からある程度は客観的な事実が見えてきますが、それをマルクス主義でもフェミニズムでも独自の視点で解釈し歴史を語っています。
しかし、史料を意図的に無視したり歪曲することは問題ですし、政治的な意図をもった歴史の解釈が問題視されることもあります。一方、歴史の教科書などは国家が自国民統合の目的などをもって編纂しています。
第一次世界大戦でドイツが敗北すると、ドイツ外務省が「戦争責任課」をつくってドイツの戦争責任を軽くすることを試みたり、アメリカではウォールストリートの「死の商人」たちがアメリカを戦争に引きずり込んだといった見方が生まれます。
例えば、ハリー・エルマー・バーンズという歴史社会学者は、第一次世界大戦中は熱心な対独参戦論者でしたが、アメリカの戦争介入を糾弾する立場から戦後に『世界大戦の起源』という本を出版します。さらにバーンズは陰謀論に傾斜していき、第二次世界大戦においてはローズヴェルトが真珠湾攻撃を事前に知っていた上でアメリカを戦争に引きずり込んだとの議論を展開し、ホロコーストを矮小化しました。
バーンズは反権力の人物で、隠された真実を暴こうとしましたが、それが徐々に歴史修正主義へと流れていったのです。
第二次世界大戦後、ドイツではニュルンベルク裁判によってナチの犯罪が断罪されますが、この裁判を公正ではないと考えた人たちも多くいました。
こうした中で、ヒトラーやナチを擁護する本もぽつぽつと出版されるようになってきます。最初に紹介したヴァレンディの本もその1冊で、権力によって「正義」が損なわれ、歴史の「真実」が隠されているとの観点から歴史を語り直そうというものです。
ただし、1960年に特定の民族や宗教団体に対して憎悪を煽るような行為を禁止する「民衆扇動罪」が設けられたこともあって、ドイツのおける歴史修正主義の影響は限られていました。
ホロコースト否定論が最初に出てきたのはフランスです。
注目すべきはポール・ラスィニエという人物で、レジスタンスに参加した社会主義者でドイツの強制収容所に送られたこともありましたが、その著作の中で強制収容所の実態を歪曲する主張を行いました。
ラスィニエは強制収容所では囚人の中から選ばれる監視役の「カポ」が最も残忍で、ドイツ人の親衛隊は人道的ですらあり、中で行われていたことを知らなかったと書きました。ひょっとするとラスィニエの経験はそうだったのかもしれませんが、ラスィニエはそれを一般化することで歴史修正主義の根拠を与え、さらに自らの主張を守るために他の囚人たちの証言を否定しました。
ニュルンベルク裁判ではナチ国家の犯罪を「公知の事実」としてそれを立証することはありませんでしたが、一方で強制収容所の様子などを8ミリカメラで撮影していました。
しかし、歴史修正主義者はこれらの証拠を捏造だとし、経験者の証言も「嘘つき」だと否定します。そして、これらを繰り返すことで「公知の事実」を揺るがそうとするのです。
1970年代に入るとホロコースト否定論が勃興します。ちなみに日本ではホロコースト否定論も「歴史修正主義」と言われることが多いですが、ヨーロッパではホロコースト否定論は歴史修正主義の範囲を超えておりヘイトスピーチとして法規制の対象としている国が多いです。
ホロコースト否定論に共通する論点は、「600万人も死んでいない」、「ガス室はなかった」、「ホロコーストの原因をつくったのはユダヤ人」、「ホロコーストはイスラエルがドイツから金を取るために利用するためのもの」といったものです。
基本的に反ユダヤ主義と人種主義(レイシズム)が根底にあり、現在の政治的な関心が動機となっており、表面的には歴史問題であっても本質はそこにはありません。
70年代なってホロコースト否定論が出てきた背景には、世代交代とともに若者たちが親世代の歴史認識を批判するようになった一方でそれに対する反発も現れた、第3次と第4次中東戦争における勝利でイスラエルの軍事強国化が鮮明になったといったことがあります。
ドイツでは1973年にティーズ・クリストファーゼンという元親衛隊隊員が『アウシュヴィッツの嘘』という短いパンフレットを出しています。これは自分はアウシュヴィッツにいたが、そこでは映画や劇の上映なども行われており、アウシュヴィッツで虐殺が行われていたことは知らなかったし、考えられないというものです。
また、裁判官であったヴィルヘルム・シュテークリヒもアウシュヴィッツで栄養失調の囚人など見たことない、生存者はなぜ抹殺対象から外れたのか説明する必要があると、生存者の証言を否定しました。
自らの体験を重視しつつ、他者の体験に関してはそれを認めないというのがこれらの議論の特徴になります。
80〜90年代にかけてフランスでホロコースト否定論の中核となったのがリヨン大学の文学教授ロベール・フォリソンです。フォリソンはテクスト批評などを専門とする人物で、歴史とは起こったことではなく、過去についての表象にすぎないというポストモダン的な見方でホロコーストに疑義を呈したことが特徴でした。
ホロコーストの否定論が世界的に知られるきっかけになったのが80年代にカナダで行われたツンデル裁判でした。これはエルンスト・ツンデルというドイツ出身で当時カナダに住んでいたホロコースト否定論者が訴えられた裁判です。
ツンデルはネオナチとして活動しており、70年代末に北米でテレビドラマ『ホロコースト』が放映されると、ドイツ人の子どもがいじめられると反ユダヤ主義の活動を強めていました。
1983年、このツンデルをホロコースト生存者団体の代表であるサビーナ・シトロンが訴え、カナダの検察もこれに加わりました。訴因は刑法177条「虚偽のニュースの流布」です。
当時のカナダではヘイトスピーチを取り締まる法律はなく、検察はホロコースト研究の大家ラウル・ヒルバーグを証人として呼び、ツンデルの主張が嘘であることを証明しようとしました。
この裁判では裁判所がホロコーストを「公知の事実」として認めなかったこともあり、ツンデルの弁護士のダグラス・クリスティは、書かれた歴史は解釈であり、生存者の証言は「伝聞」にすぎないとしてホロコーストは証明できないと主張しました。
さらにアウシュヴィッツのガス室の壁のサンプルを検証したというフレッド・ロイヒターという人物が証人に呼ばれ、壁からは周囲よりも高濃度の毒物は検出されなかったと主張しました。しかし、このロイヒターは毒ガスの専門家でもなんでもなく、裁判ではこの証拠は却下されています。ただし、それでも「ロイヒター報告」はホロコースト否定論の論拠に使われ続けることになります。
85年の判決でツンデルは禁錮15ヶ月の有罪判決を受けますが、92年、カナダの最高裁は刑法177条は違憲であるとしてツンデルに無罪判決を出します。
この裁判によってホロコースト否定論の問題点が認識され、それをヘイトスピーチとして扱うべきだという主張が強まりました。一方、この裁判が大きくとり上げられたことで「反権力」としてのホロコースト否定論に惹きつけられた者もいたと考えられます。
ドイツでは1980年代後半に「歴史家論争」と呼ばれる論争が起こっています。
これは86年にエルンスト=ヘルマン・ノルテという歴史学者が「過ぎ去ろうとしない過去」という文章を発表したことに対して、哲学者のユルゲン・ハーバーマスなどが反論したものです。
ノルテはナチズムは「裁きの剣のように現代の頭上に吊り下がっている過去」(119p)だとし、ナチの強制収容所にはソ連のグラーグという起源があると主張しました。一方、ハーバーマスはこれを歴史修正主義だとして、ノルテだけでなく保守的な歴史家を広く批判しました。
ここでは何が歴史の「修正」なのか、ホロコーストは他のものと比較可能なのか、歴史の政治利用をどう考えるか、といったことが焦点になりました。
最後の論点に関しては、保守派は国民の一体化を促進するような歴史認識が必要だとしたのに対して、対立側はナショナルヒストリーではない開かれた歴史が重要だとしました。
1996年にはアメリカ人の政治学者ダニエル・ジョナ・ゴールドハーゲンが発表した『普通のドイツ人とホロコースト』がいわゆる「ゴールドハーゲン論争」を生みました。
ゴールドハーゲンはホロコーストが起こったのはドイツ人が反ユダヤ主義に染まっていたからだと主張しましたが、その主張には史料の恣意的な選択や抜粋があるともいいます。ただし、ゴールドハーゲンが「歴史修正主義者」と批判されることはありませんでした。
2000年にはイギリス人の著述家デイヴィッド・アーヴィングがアメリカ人の歴史家デボラ・リップシュタットとペンギンブックスを訴える裁判が起きます。アーヴィング裁判です。
アーヴィングは歴史「読み物」を書く著述家として成功していた人物ですが、ヒトラーはホロコーストを知らなかったという説を唱え、80年代末にはホロコースト否定論者に接近していました。
このアーヴィングをリップシュタットは93年の『ホロコーストの真実』の中で「危険な否定論者」として名指しで批判し、これに対してアーヴィングがリップシュタットと出版社を訴えたのです。
イギリスの名誉毀損裁判では訴えられた側が自説の正しさを証明する責任を負うために、アーヴィングがホロコースト否定論者であることを証明する必要がありました。
裁判では、リップシュタット側にはリチャード・エヴァンズや『普通の人びと』の著者のクリストファー・ブラウンニングなどの錚々たる証人が並び、アーヴィングが史料を恣意的に選び、読み替え、誤訳していることを指摘し、彼が歴史家の名に値しないことを証明しようとしました。
判決ではほぼすべての点でリップシュタット側の主張を認め、アーヴィングの主張を退けました。アーヴィングは巨額の訴訟費用に耐えきれずに破産しています。
こうした裁判が行われる一方で、ヨーロッパの各国ではホロコースト否定論などの否定論そのものを禁止する法整備が行われていくことになります。
否定することが禁止されたのは、大きく分けてホロコースト、その他のジェノサイド、共産主義の犯罪の3つで、ドイツではホロコースト否定論のみが禁止ですが、フランスではその他のジェノサイドも、チェコでは共産主義の犯罪も含めたすべてが禁止されています(180−181p表1参照)。
ドイツでは1959年末から翌年にかけてシナゴーグにナチのカギ十字が落書きされたりユダヤ人墓地や施設が荒らされる事件が起き、それを受けて60年に「民衆扇動罪」が導入されました。さらに94年の改正で公の場で「ナチ支配下で行われた行為を是認し、その存在を否定し又は矮小化する者」(190p)を罰する規定が追加され、ホロコースト否定論を公の場で主張することが法的に禁止されました。
もちろん、表現の自由との兼ね合いもありますが、ドイツの憲法である基本法では第1条で「人間の尊厳は不可侵である」と規定しており、表現の自由よりも人間の尊厳を重視する姿勢を見せています。
フランスでは1990年にゲソ法と呼ばれるホロコースト否定禁止法ができています。これはニュルンベルク裁判で定義された「人道に対する罪」の存在に異議を唱える者を処罰する法律です。
否定する者ではなく異議を唱える者も処罰できることが特徴で、哲学者ロジェ・ガロディも著作でホロコーストの死者数に疑問を呈することなどを繰り返したために98年に有罪判決を受けています。
このようにヨーロッパではホロコーストを法的に禁止する流れができつつありますが、ここで問題になるのが「禁止されるのはホロコースト否定論だけなのか?」というものです。
21世紀になって東欧諸国がEUに加盟していきますが、これらの国ではむしろ共産主義による虐殺が問題になります。
何が許される歴史で何が許されない歴史かを裁判所が決める「歴史の司法化」が進んでいるわけですが、その最前線は東欧です。
例えば、ウクライナでは「ホロドモール」と呼ばれる大飢饉をスターリンによるジェノサイドだと認定しており、これをジェノサイドではなかったと公の場で発言すると処罰されます。
EUは各国にホロコースト否定に対する刑事罰の導入を求めましたが、それに対して東欧は共産主義の負の歴史の認定を求める状況があります。
ポーランドではナチの犯罪とスターリンの犯罪双方を否定することを禁止していますが、さらに2018年には上院でポーランド人がホロコーストに加担したとする表現を違法化する法案を可決するなど、ポーランドの名誉を傷つける歴史言説を禁止しようとしています。
これに対抗してロシアではニュルンベルク裁判で確定した事項を否定したり、第二次世界大戦中のソ連の行為について虚偽の情報を拡散させたの者を処罰する法律を制定しています。
西欧では国内の対立を煽らないために歴史修正主義の規制が行われましたが、東欧ではむしろ国際政治において対立を煽る道具としてこうした規制が行われているのです。
アーヴィング裁判において、エヴァンズは裁判後に歴史が司法の場で争われることに警告を発しましたが、歴史家の間では歴史修正主義を批判するとともに同時に法規制に対しても反対する終えが強いです。
著者も最後の「おわりに」で、「歴史を法的にガバナンスするという考えには、歴史の研究者としてはやはり反対である。歴史の言説を法で管理するということは、両刃の剣だ」(239p)と述べています。
法によって白黒をつけるのではなく、歴史修正主義の陰謀論じみた単純性を否定し、歴史における複雑性やグラデーションを受け入れながら、歴史修正主義に対峙していくしかないというわけです。
このように本書は歴史修正主義を批判的に検討するとともに、それへの対処の難しさも認めています。
ホロコーストについてはヨーロッパ(西欧)の歴史において特権的な地位を占めてるということに多くの人が同意しているだけに、ホロコースト否定論を法的に禁止することが社会の安定につながるという認識になるかもしれませんが、他の歴史事象において、あるいは他の地域でそういったコンセンサスが生まれるのか、あるいは必要なのかといったことは難しいものです。
本書はヨーロッパの事例をとり上げていますが、アジアにおいても歴史修正主義や「歴史の司法化」の問題はもちろん存在します。そしてヨーロッパよりもコンセンサスが得にくい状況かもしれません。
本書は私たちがこれから取り組まねばならない問題とその難しさを教えてくれる本と言えるでしょう。