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2022年10月

橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書) 9点

 古代ギリシア民主政研究の日本における第一人者ともいうべき著者による本。一般的な古代ギリシア民主政へのイメージを覆す刺激的な本になっています。
 古代ギリシアの民主政はアテナイを中心に行われ、そのアテナイの民主政はサラミスの海戦での勝利を経てペリクレスのもとで絶頂を迎えるが、次第に衆愚政に陥ってペロポネソス戦争でスパルタに敗北してしまう。古代ギリシアの民生政というとこんなイメージを持っている人も多いと思いますが、著者によれば、民主政はその後のアテナイで復活して成熟を迎え、アテナイ以外のポリスにも広がっていったといいます。

 さらに本書では考古学的な発見などを用い、当時にアテナイの社会の状況の復元を試み、プラトンやトゥキュディデスの本が伝えるものとは違った、そして現代の民主主義とも違う古代ギリシアの民主政の姿を描き出そうとしています。
 古代ギリシアの民主政だけでなく、デモクラシーを論じようする場合にも、まず参照すべき本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに
第1章 民主政の誕生
第2章 市民参加のメカニズム
第3章 試練と再生
第4章 民主政を生きる
第5章 成熟の時代
第6章 去りゆく民主政
おわりに――古代から現代へ

 古代ギリシアのポリスは、標準的なもので領土が25〜100Km2、人口が3000人ほどど比較的小さなものです。周辺には農地が広がり、市民の多くは農民でもあり、同時に戦士でもありました。
 それほど大きな身分差があった社会ではありませんでしたが、基本的には貴族政がとられていました。

 前7世紀頃になると、遠隔地交易がさかんになるとともに豊かになる者が現れます。豊かになった平民の中には貴族の支配に対する不満も現れ、党争が激化しました。
 こうした中で市民の対立を防ぐ処方箋として出てきたのが成文法の制定です。最初の成文法はクレタ島のポリスで制定されたと考えられています。要職の独占を防ぐきまりや財産や家族などについてのきまりが定められました。
 ただし、クレタ島のポリスは民主政になりませんでしたし、貴族政のスパルタも成文法が早くに定められたポリスです。

 民主政が始まったポリスとして小アジアのキオスがあげられることもありますが、やはり本格的な民主政が生まれたのはアテナイということになります。
 アテナイは2550km2という広大な面積をもつポリスで(普通のポリスが町や村のサイズなのにアテナイは神奈川県サイズ(24p))、人口も古代ギリシアのポリスで最大だったと考えられています。
 もともとアテナイは王政でしたが、徐々に貴族政に変化していき、他のポリスと同じように前7世紀頃に党争が激化します。

 ここで現れたのがソロンです。ソロンは過去の負債を帳消しにして貧困層を債務から解放し、借財の抵当に市民の身体を取ることを禁止しました。
 さらに市民を収入によって4つの等級に分け、それぞれの等級から選挙で役人を選びました。ただし、重要な役人は上位の等級から選ばれましたし、最下級の等級は民会への出席権しかないなど、富裕エリートを新たな支配者層とするものでした。

 ソロンの改革は一定の安定性をもたらしましたが、エリート同志の権力闘争は変わらず、僭主ペイシストラトスも出現しました(ただし、ペイシストラトスの治世は平穏だったという)。
 前508〜07年にかけて、イサゴラスがスパルタ王の助けを借りて政権を握ろうとしますが民衆の反発を受けて失敗します。そして、クレイステネスが国制の思い切った改革に乗り出します。 

 クレイステネスは貴族政を根本から解体することを目指して、今までの四部族性を解体し、まったく新しい原理で10部族に再編します。
 全土を区(デモス)に分け、この区の区民であることをアテナイ市民の条件としました。さらに全土を沿岸部・内陸部・市域に分け、それを人口が均等になるように10の組織(トリッテュス)に分け、沿岸部・内陸部・市域からそれぞれトリッテュスを抽選で選んで組み合わせて1つの部族としました。
 この人工的なまとまりが、市民の軍団になり、役人の選出母体となりました。これによって名門貴族の基盤は解体されることになります。

 さらにクレイステネスは民会を正式な国家の意思決定機関とし、民会の議事を準備する議事運営委員会として500人評議会を創設しました。
 軍も貴族の私兵的なものから国家の直属軍という形になり、10人の将軍を選挙で選ぶ制度が導入されました。陶片追放の制度もこの時期に導入されています。

 アテナイの民主政はペルシア戦争という大きな試練にさらされます。
 前490年にアテナイはマラトンの戦いでペルシアを撃退しますが、これを手引したのはアテナイのかつての僭主ヒッピアスであり、この戦争は民主政を守る戦いでもありました。
 前483年に銀の鉱脈が発見されると、それを財源として海軍の建設が行われ、前480年のサラミスの海戦でペルシア軍を打ち破りました。
 この戦いの勝利によってアテナイはデロス同盟の盟主となり、同盟貢租金がアテナイに流れ込むことになります。こうした中でアテナイの民主政はさらに発展します。

 この時期の指導者がペリクレスです。弁論にも秀でていた彼は民衆に直接語りかけて民主政をさらに推し進めていきます。9人のアルコン(執政者)は一般市民からも選ばれるようになり、政治参加に日当が支払われるようになりました。こうして下級市民の政治参加も進みます。
 デロス同盟の貢租金という財源がこうしたことを可能にしたのです。

 アテナイは貧富の差があったものの、市民の約7割近くが土地を持っており、中小農民が中心の社会であったと考えられています。
 アテナイの民主政は、労働を奴隷に任せていたために成立可能だったと言われますが、多くの市民は働きつつ、民会などにも参加していたと思われるのです。
 民会は前5世紀半ばにアゴラからプニュクスの丘に移りますが、「プニュクス」とは「すし詰め」という意味であり、大勢の市民が詰めかけたのでしょう。議場は次第に拡張され、前340年頃には収容人数が1万3800人まで広がりました。

 民会の議事運営を担ったのが500人評議会(以下評議会)で、政策や法案はここを経ないと上程できません。評議員には一生に二度までしか選ばれないようになっていました。
 評議会は民会の議長団も選出しましたが、議長は抽選で選ばれ、しかも任期は1日です。
 民会では誰でも自由に発言できましたが、あまりにくだらないことを長々と演説すれば議長判断で降壇させられました。
 採決は挙手で行われ、1度の民会に上程される議案は10件前後、挙手は25回ほど行われたといいます。
 演説などは事前の準備や訓練などが必要なため、エリート中心に行われ、民衆はその演説を聞き、判断して投票する形でしたが、エリートはつねに民衆に訴えて支持を得る必要がありました。

 アテナイでは直接税は僭主政の暴虐に等しい過酷な税と考えられており、戦時財産税を例外として市民には課されていませんでした。そのため、財源は国有財産の賃貸料、銀山の収益、関税、港湾税、市場税、在留外国人からの人頭税、罰金、没収資産などからなっていました。
 
 このような財政の管理も評議会の仕事でした。この多岐にわたる仕事を行う評議会を500人ずつ1年交代で行ったいうのですから、多くの市民参加が必要になります。
 評議員になると評議会に毎日のように出席しなければならず、下層の市民には大きな負担でしたが、手当も出ましたし、何よりも一生に一度か二度の檜舞台でした。
 アテナイの民主政の本質は「順ぐりに支配し、支配される」ことだとされていますが、誰しもが支配者になることを経験するのがアテナイの民主政の本質だったのです。

 この評議会の下に役人がいましたが、軍事職と水源監督官を例外として役人は抽選で選ばれました。役人も順ぐりに経験したのです。
 役人であることのポイントは責任を問われることで、特に大きな責任を背負った将軍はたびたび弾劾されています。
 
 裁判でも裁くのは抽選で選ばれた市民であり、民衆裁判所(ヘリアイア)では30歳以上の一般市民から抽選された任期1年の6000人の裁判員がいくつかの法廷に分かれて審理を行っていました。重要な事件ほど多くの裁判員によって裁かれたといいます。
 どの法廷に入るかは、買収を防ぐために当日に決まるようになっており、裁判員は小石(のちの青銅製のコマのような形のもの)を使って投票しました。これによって有罪や無罪が決まったのです。

 アテナイの投票で有名なのは陶片追放です。陶片追放は誰かを名指しして国外に退去させるものですが、投票を行うかどうかは事前に告知されますが、候補者が指名されることも、公開討論が行われることもありません。
 市民たちは追放したい市民の名前を書いた陶片を持ち寄り、それが開票されます。その結果、6000票以上の最多得票者が10年間の国外退去を命じられます。
 僭主の登場を防ぐためと言われてきましたが、民衆から声望のある者は追放されにくいわけで、有力な貴族の衝突を市民の判断によって防ぐといった目的があったのではないかと考えられています。
 
 アテナイの民主政が崩れていくきっかけとされるのは、前431年から始まったペロポネソス戦争です。
 アテナイとスパルタが戦ったこの戦争では、アテナイはペリクレスのもとで籠城戦を選択しますが、そこに疫病が襲います。市民の3人に1人が死んだとされ、死者の埋葬さえ十分にできなかったといいます。ペリクレスも亡くなりました。
 
 前421年、アテナイとスパルタの間で和約が結ばれますが、アテナイはかつての栄光を取り戻そうと征服活動をやめませんでした。
 アテナイは美青年としても評判だった若き貴公子アルキビアデスの弁舌に乗せられる形でシチリア征服に乗り出しますが、これに失敗します。身の危険を感じたアルキビアデスはスパルタに逃げ込み、逆にアテナイとの戦争を再開するようにけしかけたのです。
 アテナイの同盟市も次々と離反し、民主政を転覆させようとする企ても起こります。
 前406年、アルギヌサイの海戦でアテナイはスパルタを打ち破りますが、勝利後の暴風雨によってアテナイ軍も大損害を受け、民会は将軍を弾劾裁判にかけることとします。そして、民衆の怒りが煽られ6名の将軍を処刑してしまうのです。いわゆる衆愚政を代表するエピソードとされています。

 結局、アテナイはスパルタに敗北し、民主政も崩壊するのですが、著者はこうした異常な状態を生み出した戦争や疫病による大量死、狭い市街に人々が籠城したことによるストレス、ペロポネソス戦争について伝えるトゥキュディデスやクセノポンの偏見といった点も指摘しています。

 前404年、アテナイはスパルタに降伏し、スパルタの後押しを受けて寡頭指導者30人に全権を委ねる30人政権が成立します。
 プラトンは30人政権への誘いを受け、この政権に期待しましたが、実際は暴力や財産の没収が横行する恐怖政治でした。
 前403年、民主派の将軍トラシュブロスが帰国し、30人政権を倒して民主政を回復します。このとき、大赦令が出され、「何人も悪しきことを思い出すべからず」という誓約を全市民が立てました(140p)。アテナイ市民は過去を告発せずに、共生を選んだのです。

 この後、民会の決定に一定の制約をかけることになり、一般的な成文法「法(ノモス)」と外国との条約などの一時的な国の決定「民会決議(プセピスマ)を区別し、前者が優位に立つという原則を決めました。
 民会は法を変えることができず、法の規定に縛られることになります
 前399年にはソクラテスが民衆法廷の裁判で死刑になっていますが、著者はソクラテスが30人政権に近しい人物だったことや当時の宗教意識などにも注意を向けています。

 第4章では再び民主政の実態を探っています。
 アテナイの民主政の基盤には人々が日常的に暮らす区での民主政がありました。区民会や区役人の経験が市民を鍛えたのです。
 
 著者はアテナイの民主政の特徴として、①組織の無頭性、②代表性の不在、③警察権力の不在、④情報の公開をあげています。
 まず、アテナイでは組織の代表者を置くことを嫌いました。ペリクレスも10人の将軍の1人に過ぎません(このあたりは江戸時代の老中などの輪番制に少し似ているかも)。
 代表者を置かなかったことにも通じることですが、アテナイの評議員や役職者は決して誰かを代表しているわけではありません。
 さらに「弓兵(トクソタイ)」という警備などにあたる国有奴隷はいましたが、警察のような存在はいませんでした。同時に市民は武装する権利を持っていました。
 最後に情報の公開ですが、これは非常に進んでおり、公文書館もつくられました。そして、この公文書館には市民であれば自由に出入りし、文書を閲覧できました。

 このように現代の民主主義とは異質であったアテナイの民主政は、しぶとく生き残ります。
 前4世紀になって、スパルタに代わってテバイが陸上の覇権を握るようになり、アテナイも同盟市戦争に破れて海上の覇権を失います。
 それでも、アテナイの民主政は民会出席手当の創設などによって再び活性化し、さらにアテナイ以外のポリスにも民主政は広がりました。
 本書では、アルゴス、テバイ、シラクサの民主政が紹介されています。テバイの覇権も、スパルタの支援を受けた寡頭政に対する民主派の反対運動の中から生まれてきたものです。

 ペロポネソス戦争に敗れて影響力を失ったアテナイですが、そこで生まれた民主政や文化の影響力は戦争後に帰った強まりました。
 例えば、アテナイの民主政で使われた名札や青銅製の投票具などは他のポリスでも見つかっています。

 前4世紀半ば、財政危機に見舞われたアテナイでしたが、財政官を選挙で選ぶこととし、国庫を回復させました。デュオニュソス劇場などもこの時代につくられています。
 しかし、アテナイをはじめとするギリシアのポリスは新興国家マケドニアに飲み込まれていきます。カイロネイアの戦いで破れたギリシアのポリスはマケドニアの傘下に入りました。
 ただし、マケドニアのもとでアテナイは自治を許され、民主政は続きました。その後、アレクサンドロスの後継争いなどに巻き込まれ、直轄地になったりしますが、近年の研究では前2世紀末まで民主政は続いたと考えられています。

 完全に民主政が終わるのはローマの時代になってからです。前86年にローマに対する反乱に破れたアテナイは多くの市民を失い、以後、民主政が活性化することはありませんでした。

 その後、ルネサンス期になって古代ギリシアに注目が集まりますが、民主政に対する評価は低いものでしたし、アメリカ建国の父が理想としたものもローマの共和政であって民主政ではありませんでした。
 19世紀半ばになってようやく民主政を評価する機運が生まれますが、民主政は常に衆愚政と結びつけられ、危険なものとみなされました。
 しかし同時に、近代民主主義は、古代ギリシアにはなかった「代表制」という原理に従って運営されており、古代の民主政が蘇ったというわけではないのです。

 このように本書はアテナイの民主政の実態と、それがしぶとく残り続けたことを教えてくれます。
 特に「代表制」という考えを持たずに、「順ぐりに支配すること」を重視したアテナイの民主政と現代の民主主義の異質さというのは非常に重要なことではないかと思います。
 ここ最近、デモクラシー(民主主義)を論じる本が増えていますが、やはりデモクラシーを論じるにはその起源と実態を知る必要があるわけで、本書はデモクラシーを論じる上でも必読の本と言えるでしょう。




川名壮志『記者がひもとく「少年」事件史』(岩波新書) 8点

 副題は「少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」。新書らしからぬ長い副題ですが、内容は新書らしい、コンパクトに鋭く社会に切り込む1冊になっています。
 著者は毎日新聞の記者で、佐世保で小6女児が同級生に殺害された事件のその後を描いた『謝るなら、いつでもおいで』や同じ岩波新書の『密着 最高裁のしごと』などの著作があります。
 『密着 最高裁のしごと』は、最高裁という一般の人からは「遠い」組織について、個々の事件を切り口にその変化をうまく描いていましたが、本作も「少年犯罪」という漠然とした対象を「マスコミがどう伝えたのか?」という切り口で読み解いています。
 そして、これによって少年犯罪の変化だけではなく、少年犯罪を取り巻く社会の変化が浮かび上がるようになっています。

 目次は以下の通り。
第1章 戦後復興期 揺籃期の少年事件
第2章 経済成長期 家庭と教育の少年事件
第3章 バブル時代 逸脱の少年事件
第4章 バブル前後 曲がり角の少年事件
第5章 平成初期 少年と死刑
第6章 少年事件史の転成
第7章 21世紀の精神鑑定 発達障害の時代
第8章 少年事件の退潮
最終章 少年事件を疑う

 1949年に家庭裁判所の審判に付された少年や公訴を提起された少年の実名報道を禁ずる少年法が制定されていますが、こうした少年法の精神はしばらく守られていませんでした。
 58年の小松川女子高生殺人事件では、逮捕されたのが18歳の少年であったにもかかわらず、逮捕前から読売新聞に犯行を告白する電話をかけた劇場型犯罪だったということもあって、逮捕後には読売と毎日は実名、顔写真入りで報道しています。

 この事件は逮捕前から注目を集めていた事件でしたが(警視庁、または大阪府警の取り扱う事件は記者の配置の関係もあって大きく取り扱われるとのこと、小松川事件は警視庁の管轄)、50年代後半ころは、扱いの小さな事件でも特に断りもなく実名報道が行われていました。

 ただし、報道がエスカレートした小松川事件のあと法務省からクレームが入ります。そこで日本新聞協会は自主規制の方針を示しましが、そこで持ち出された理由は「新聞は少年の”親”の立場に立って法の精神を実せんすべきである」(9p)というものでした。つまり「加害者の親」の立場に立って配慮するという態度だったのです。

 ところが、この方針はあっけなく破られます。1960年に17歳の少年が日本社会党の党首・浅沼稲次郎を刺殺する事件が起こると、各社は少年を山口二矢という実名で報じ、さらに視察の瞬間の写真も大々的に掲載しました。
 政治的テロという扱いで、「少年事件」とは区別されたのです。翌年の風流夢譚事件も犯人の17歳の少年でしたが、テロ事件として実名報道されています。
 ただし、同じ時期の一般の少年事件の犯人は匿名で報道されており、その扱いも小さなものでした。

 この次に少年事件の報道のあり方を大きく変えたのが永山事件です。当時19歳だった永山則夫が手に入れたピストルで4人を射殺した事件で、警察が全国的な捜査体制をとったこともあって逮捕前から報道は過熱していました。
 永山逮捕後、朝日と読売は実名で報じ、毎日は匿名で報じます。報道機関は特に永山が「少年」だということに注目せずに報道しましたが、知識人の間から永山の生い立ちや境遇に注目する発言などが相次ぎます(これは小松川事件でもそうだった)。
 さらに永山が獄中から手記「無知の涙」を発表すると、永山は体制の落とし子と考えられるようになり、「少年事件」としてとり上げられます。

 地裁で死刑判決を受けた永山は、高裁では「劣悪な環境にある被告人に、早い機会に救助の手を差し伸べることは、国家社会の義務である」(30p)として無期懲役に減刑されます。ただし、最終的には最高裁で「永山基準」が示されて死刑が確定しました。

 1969年、川崎で高校1年生の男子生徒が首を切られる殺人時間が起こります。後年の酒鬼薔薇事件を思わせるような事件でしたが、逮捕の報道こそ大きかったものの匿名であり、続報は数日で消えました。
 少年事件では刑事裁判の手続きに入らない限り、審理はブラックボックスであり、報道する材料もなかったのです(小松川事件や永山事件は刑事裁判だった)。
 同年の正寿ちゃん誘拐殺人事件も大きくとり上げられましたが、ここでも匿名は貫かれています。
 
 70年代になると、少年による殺人事件が減ったこともあって、紙面に大きくとり上げられる少年事件は減っていきます。
 この頃、注目されるようになったのは少年個人ではなく暴走族などの少年の集団です。

 そんな中で大きく注目されたのが川崎金属バット殺人事件です。浪人生の次男が両親を金属バットで撲殺した事件は、次男が当時20歳だったこともあり少年事件ではありませんでした。そのため新聞でも実名・顔写真入りで報道されましたが、マスコミは「青少年」というカテゴリーを当てはめて、彼を「子ども」として扱うスタンスを見せました。
 新聞各紙は事件についての連載記事を設け、政治家からの発言も相次ぐなど、当時に受験戦争や親子問題と絡めて大きくとり上げられたのです。
 
 この他にも家庭内暴力に端を発した殺人事件が起きていますが、いずれも「ウチの子にかぎって」と思わせるような事件であり、さらにそれが社会批判の材料としても使われました。
 1983年には横浜でホームレスが少年の集団に襲われて殺される事件が起こり、校内暴力の嵐も吹き荒れていましたが、マスコミの論調としてはいずれも社会の問題と結び付けられていました。

 しかし、バブルの頃になると、「少年事件=社会の歪みの現れ」といった図式では捉えられないような事件も起こってきます。
 例えば、88年に起きた目黒中2少年祖母両親殺害事件は、当初は成績をめぐる親との口論が殺人に発展したものと捉えられ、「親子」と「教育」に問題があったという典型的な語られ方がなされましたが、その後の捜査で、友人を殺人に誘い死体を見せていた、アイドルの殺害も計画していたといった典型的な話では収まらない面も明らかになります。 
 ただし、家裁で初等少年院への送致が決まったことで報道は下火になっていきます。

 88年には少年少女5人が名古屋でアベックを殺害する名古屋アベック殺人事件が起こります。残酷な犯行でしたが、犯人の少年たちは暴力団とも親交があり少年犯罪の報道の型にはまりにくい、名古屋の事件であるということもあって大きな報道はなされませんでした。
 しかし、風向きが変わったのは名古屋地検が主犯格の少年に死刑を求刑してからです。この求刑を受けて、89年に名古屋地裁で少年への死刑判決が下されますが(その後高裁で無期懲役に減刑)、少年への死刑判決は69年に起きた永山事件と正寿ちゃん誘拐殺人事件以来でした。
 この段階になって各紙は事件を大々的に報じるようになります。さらに雑誌が事件の残虐性を強調する記事を載せ、「オール読物」は名古屋地検の冒頭陳述の全文を掲載しました。

 88〜89年にかけて起きた綾瀬女子高生コンクリート殺人事件でも、各紙は当初、「親子」と「教育」の問題として報じるスタイルでしたが、刑事裁判になって検察側が事件の残虐性を強調し、世間に強いインパクトを残しました。
 ただし、この時点では「加害者の親」の立場に立つとする新聞各社の姿勢は保持されていたと著者は述べています。

 80年代、少年犯罪の捜査や少年審判の手続きに疑問を抱かせるような事件も起こりました。
 89年の綾瀬母子殺害事件では、当初逮捕された少年たちが、女子高生コンクリート殺人の少年たちと同じ中学出身の不良グループだと報じられましたが、結局は不処分(無罪)でした。警察の深夜に及ぶ強引な取り調べが原因と言われています(この事件は未解決事件となった)。

 85年に起きた草加事件では、15歳の少女を殺害したとして逮捕された少年ら5人が逮捕され、少年院に送致されましたが、のちに彼らは冤罪だとして少年審判のやり直しを求めました。この申し立てはすでに少年院を出ていて訴えの利益がないと退けられています。
 ところが、少女の遺族が賠償を求めた民事裁判で、浦和地裁が「少年たちが犯人とはいえない」として遺族の請求を棄却したのです。その後、高裁は少年たちの「有罪」を認定しますが、最高裁は「犯人とはいえない」との判断を示します。事件から17年後、民事では少年たちは「無罪」になりました。

 93年の山県マット死事件も少年審判とその後の裁判の判断が分かれました。審判では6人の少年のうち3人を少年院送致、3人を不処分にしましたが、少年院送致になった3人の抗告を受けた仙台高裁は不処分の3人についても事件の関与を示唆しました。この判断は最高裁でも維持されています。
 民事では地裁では全員について事件への関与を否定しましたが、高裁では少年全員を「有罪」とみなす判決がくだされ、これが最高裁でも支持されます。

 少年審判は「懇切を旨として、和やかに行う」とされ、更生に重きが置かれていますが、その分、事実認定は甘くなります。また、重大な事件では裁判官3人の合議が一般的ですが、当時の少年審判は裁判官が1人で行うことになっていました、

 92年、市川市で一家4人が殺害される事件が起こります。市川市一家4人殺人事件と呼ばれる事件です。
 19歳の少年が半月ほど前に性的暴行を加えた長女の家に金を奪う目的で入り、その長女以外の一家4人を殺したという悪質な事件でしたが、逮捕時以外はそれほど大きく扱われませんでした。
 しかし、94年に千葉地裁が少年に死刑判決を言い渡すと各紙は大きくとり上げます。この死刑判決は2001年に最高裁で確定しますが、地裁判決時、各紙は少年への死刑判決に懐疑的でした。

 ところが、4人が殺害された94年の大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件では少し様相が変わってきます。主犯格の少年3人に対して、検察が3人全員に死刑を求刑し、2001年の名古屋地裁の判決では一人が死刑、2人が無期懲役となります。
 最終的に3人全員が死刑になるのですが、名古屋地裁の死刑判決に際して、各紙は社会面で遺族の無念の思いを伝えています。
 市川市一家4人殺人事件の死刑判決が出た94年と、この事件の判決が出た2001年では少年犯罪を取り巻く状況が大きく変わったのです。

 ピンときた人もいると思いますが、94〜01年の間には97年の神戸連続児童殺傷事件があります。この事件こそ、今まで居心地の悪さを感じつつも維持されてきた新聞の建前が根底から覆された事件でした。

 中学校の校門に小6の男児の頭部が置かれていたことから発覚した事件は、その猟奇性と、死体に残されていた警察を挑発するメッセージ、神戸新聞に送りつけられた犯行声明といった要因もあって、マスコミが大々的にとり上げることになります。
 さまざまな犯人像が語られましたが、事件から1月後に14歳の少年が逮捕されます。各紙とも朝刊1面を丸々使ってこの逮捕を報じました。少年事件では逮捕後に報道が抑制されるのが通例でしたが、この事件では報道の熱がおさまることはありませんでした。

 今まで少年犯罪は、その動機が「貧困」「差別」「受験戦争」といった社会問題に還元されていましたが、この事件は殺す理由が「わからない」事件でした。
 同時に、罰しないとした14歳未満と刑事処分が可能な16歳以上の間に置かれた14・15歳の少年をどう扱うかという問題、裁判官1人で少年審判を行うという問題、少年法による観護措置は最長4週間で、この間に少年の処分を決めなければならないという問題、少年院は最長で収容期間が3年だという問題、少年審判の閉鎖性の問題などが噴き出しました。

 こうした状況を受けて、神戸家裁は「精神鑑定」という裏技的な手に出ます。精神鑑定は刑事責任能力の有無を問うものですが、刑罰を科されることがない少年に行われることになりました。これによって時間を稼いだのです。
 さらに少年審判の決定を詳細にわたって公表しました。もちろんプライバシーは保護されましたが、可能な限り事件当時の少年の心理を明らかにしようとしたのです。
 また、この事件では被害者の親が手記を出版し、多くの読者の胸を打ちました。報道も加害者の「親の立場」から被害者の「親の立場」へとシフトしていくことになります。
 
 このシフトを象徴するのが1999年に起きた光市母子殺害事件です。18歳の少年が母親と生後11ヶ月の娘を殺したこの事件は、発生当時は注目されませんでしたが、2000年に山口地裁が死刑の求刑に対して無期懲役の判決を下すと、家族を殺された遺族の男性の訴えもあって、報道がヒートアップしていきます。
 広島高裁でも無期懲役でしたが、06年に最高裁が死刑が相当として高裁判決を差し戻し、各紙は遺族の声を大きく報じました。報道は完全に被害者サイドから行われるようになったのです。
 2000年には少年法自体も改正され、手続きの不備が是正されるとともに、保護主義から厳罰主義へと舵を切っていくことになります。

 00年5月、豊川市で65歳の女性が刺殺される事件が起き、さらに西鉄高速バスがバスジャックされる事件が起こります。犯人はともに17歳の少年であり、神戸の少年Aと同い年でした。
 この頃になると、犯人が少年であることは犯罪報道を抑制させるのではなく、むしろ加熱させる方向にはたらくことになります。
 バスジャック事件の犯人の少年は、両親の離婚や不登校、家庭内暴力などの問題を抱えており、以前であれば「家庭」の問題が前面に出たでしょうが、「キレる17歳」としてひとくくりにされていきます。両事件とも当然のように精神鑑定が行われました。

 03年に長崎市で12歳の少年が8階建ての駐車場の屋上から4歳の男児を突き落として殺害した事件でも、12歳は罰せられないことが決めっているのに精神鑑定が行われました。
 04年に佐世保市で小6の少女が同級生を殺害した事件でも精神鑑定が行われています。
 少年犯罪についての「なぜ?」は、家庭や学校などの社会環境から心理面に移っていくことになります。

 06年に奈良で高1の少年が自宅に放火し寝ていた母と弟・妹を殺害した事件も、少年だけが前妻の子であり、父から医師になるようにプレッシャーをかけられるなど、川崎金属バット殺人事件と似た面もありましたが、受験戦争や社会のひずみを見出した記事はありませんでした。

 2009年に裁判員制度が導入されますが、06年の意識調査で少年による殺人事件に関わった場合、4人に1人が「成人よりも量刑を重くする」と回答するなど、国民の意識と少年法のズレは明らかでした。
 実際、10年に石巻市で18歳の少年が元交際相手の姉と友人を殺害した事件において、裁判員裁判は微妙な案件にもかかわらず死刑を選択しています。

 しかし、この頃から少年事件についての報道は退潮していきます。14年に名古屋の19歳の女子学生が「人を殺してみたかった」と知人の77歳の女性を殺害し、さらに高校時代に友人に硫酸タリウムを飲み物に混ぜて飲ませた事件でも、ほぼ大人と同じような扱いで比較的淡々と報道されています。
 一方、15年に13歳の少年が多摩川の河川敷で殺された事件では、SNSに「犯人」とされる少年の情報が書き込まれるなど、今までとは違った形での過熱が見られました。

 そして、2022年、新聞協会は加害者の少年を匿名にする根拠として明記していた、加害者の「親の立場に立って」との文言が消えました。最後に著者は、「皮肉なことに、今、戦後直後とは異なるかたちで、「少年」は「大人」扱いをされている」(221p)と述べています。

 このように本書は個々の少年事件をとり上げながら、その事件に向けられた報道を通じて、社会がいかに「少年犯罪」と「少年」を見てきたかということを明らかにしています。
 長いスパンを扱いつつ、コンパクトかつ鋭く社会の変化を描き出しており、面白いです。


メアリー・C・ブリントン『縛られる日本人』(中公新書) 8点

 日本の高卒の若年男性の苦境について掘り下げた『失われた場を探して』などの著作でも知られ、ハーバード大学のライシャワー日本研究所の所長も務める著者が、日本の少子化問題について、アメリカやスウェーデンとの比較などを通じて分析し、その解決方法を探った本になります。
 本書の特徴の1つはマクロ的なデータの分析だけではなく、日本、アメリカ、スウェーデンの3カ国で実際に若い人々のインタビューし、生の声を集めているところです。

 ただし、それだけではありません。
 前半に関しては、当事者、しかも大卒以上の学歴を持つ人々の声を踏まえて議論を組み立てていることもあって、どうしても日本の男性や社会の「意識」が問題になることが多いのですが、後半になると日本社会の構造をより深く見ていくことで、この問題が単に「意識が高い、低い」の問題ではないことを明らかにしていきます。
 この掘り下げ方は、さすがベテランの研究者という感じですし、提言もラディカルではないものの、堅実で実現可能性があります。
 この問題については、すでにたくさんの本が出ていますが、今までの思考が整理される1冊です。

 目次は以下の通り。
序章 日本の驚くべき現実
第1章 日本が「家族を大切にする社会」だという神話
第2章 日本では男性が育児休業を取れないという神話
第3章 なぜ男性の育児休業が重要なのか
第4章 日本の職場慣行のなにが問題なのか
第5章 スウェーデンとアメリカに学べること
第6章 「社畜」から「開拓者」へ―どうすれば社会規範は変わるのか

 OECDが2017年に行った調査では、日本の女性の人生の満足度はOECD加盟国の中で下位に位置します。ただし、これは必ずしも女性の地位が低いからだと結論付けられません。日本の男性の人生への満足度はさらに低く、日本の女性の満足度のほうが日本の男性の満足度よりも若干高いからです(11p図0−1、図0−2参照)。
 そして、OECD加盟国を見ると、人生への満足度が低い国では出生率が低くなっています。

 ただし、人生の満足度が低いというのは非常に抽象的な話でもあります。そこで、本書ではまずは世界各国の若い人々へのインタビューを通して少子化の要因を探ろうとしています。

 このインタビューは、まず2012年に行い、一部の人には2019、20年に追加で話を聞いています。話を聞いたのは、日本、アメリカ、スウェーデン、スペイン、韓国の大都市に住んでいる20代半ば〜30代前半の男女です(ただし、スペインと韓国の話は本書にはほぼ出てこない)。
 アメリカでは白人に絞って聞いており、また、すべての国で高校卒業後にさらに高いレベルの教育を受けた人のみを対象としています。高学歴層が仕事と子育ての両立の問題に直面していると考えられるからです。

 第1章では、このインタビューをもとに「日本は家族を大切にする社会ではない」という考えが打ち出されています。
 37歳の主婦のアリサが「日本は、人間ファーストではなく、労働ファーストです」(21p)と述べているように、日本において仕事よりも家族が優先されがちだということは多くの人が認めるところだと思いますが、同時に日本よりも離婚が多いアメリカでも家族は壊れてしまっているのではないか? という疑問を持つ人も多いのではないかと思います。

 ここで著者がポイントとしてとり上げるのは、「日本の若い世代はアメリカの若い世代よりも、家族の定義を狭くとらえている」(29p)という点です。男女の役割などについても日本の若い世代の方が固定的にとらえており、それが日本の若い世代の生きづらさにつながっているのではないかというのです。
 
 日本人もアメリカ人も一人っ子よりもきょうだいがいたほうが望ましいと考えています。また、幼い子どもはなるべく親と一緒に過ごすべきだと考えています。
 では、どこに違いがあるかというと、日本では仕事と家庭のバランスについてもっぱら母親の問題としては考えられているのに対して、アメリカでは父親・母親双方の問題と考えられている点です(スウェーデンだと、片親だけではなく両親揃ってという意識が強く、父親母親問わずに時短勤務などが検討される)。

 また、日本では家族が孤立しています。日本で家族というと、父、母、子で終わりという感じですが、アメリカでは子育てでおじ、おばに頼っていますし、祖父母と過ごす時間もアメリカのほうが頻繁で長い傾向があります。
 子育てで友人を頼ることも多く、友人も「夫の友人」「妻の友人」ではなく「夫婦の友人」として捉えられている部分も日本と違うところです。
 「子どもが幸せに成長するには、父親と母親の両方のいる家庭が必要である」という考えに、日本では約7割が賛成したのに対して、アメリカでは2割程度であり、日本のほうが「あるべき家族」にとらわれているとも言えます。
 「家族」についての捉え方の狭さが、狭い範囲のメンバーにより大きな負担を強いていると言えるのかもしれません。

 第2章では男性の育休制度がとり上げられています。
 実は制度的には日本の男性の育休制度は世界トップクラスであり、日本の男性は満額支給換算(育児休業の期間に休業前の何%の額を受け取れるかを掛け合わせた数字。50%で10週なら5週になる)で30週の育児休業を取得でき、これは北欧諸国の約3倍に相当します。
 しかし、2020年のデータで日本の女性の育児休業取得率が81.6%なのに対して、男性は12.7%にとどまっています。制度は整っているのに利用されていない状況なのです。

 著者は、子どもが生まれたばかりの時期にもっぱら母親が育児をするのでは、父親は育児のノウハウを学ぶことができず、育児は母親の役目ということになってしまうと言います。
 若い世代の声からは、男性でもできれば育休を取りたいという声がありますし、母親からもとってほしいという声はあります。

 それでも男性の育休の取得が進まない理由として、①「給料が減ってしまう」、②「出世にひびく」、③「そもそも職場で誰も取っていない」といったものがあります。
 ①については、日本では男性の給与が女性の給与よりも高いことが多いということがありますし、残業代が入ってこないといったこともあるでしょう。
 ②と③については、絡まり合っている部分もあって、「育休を取ろうとする→誰も男が育休を取ることを想定していないし、周りに迷惑がかかる→出世にもひびくに違いない」といった形で考えている男性が多いです。

 ただし、社会心理学者の宮島健と山口裕幸の研究によると、男性は実際以上に周囲の男性が育休に否定的だと思いこんでおり、その思い込みが育休を取得しない原因にもなっているそうです。この、ほとんどの人がある考えを持っていながら自分たちが少数派だと思いこんでいることを「多元的無知」と呼びますが、日本の男性もこうした状態にはまっている可能性があるのです。

 第3章でも、しつこく男性の育児休業をとり上げます。
 マクロレベルの効果として、男性の育児休業の取得が育児を母親と父親の共同作業とみなす社会規範が強まる可能性が指摘されています。
 ミクロレベルでも、アイスランド、スウェーデン、ノルウェーにおいて、第1子が生まれたときに夫が育児休業を取得した夫婦のほうが取得しなかった夫婦よりも第2子が生まれる確率が高いことが指摘されています。
 上記の3カ国では、育休の一定の部分を父親が消化する必要がある「父親クォータ」が制度化されていますが、そうなると育児を夫婦の共同作業とみなす規範もさらに強まります。

 スウェーデンは家事の40%以上を男性が担い、アメリカでも40%近くを担っていますが、日本では15%にすぎません。日本の女性の労働時間に占める無償労働の割合は男性の5倍です(108p図3−1、3−2参照)。
 これは日本の男性がサボっているからではなく、日本の男性の1日あたりの有償労働時間はイタリアやフランスの約2倍であり、スウェーデンやアメリカに比べても1.4倍近くあります(110p図3−3参照)。
 OECDのデータを見ると、日本と韓国は女性の労働時間に占める無償労働の割合が突出して高く、両国とも出生率は低迷しています(112p図3−4参照)。

 加藤承彦、隈丸拓、福田節也の研究によると夫の家事参加と2人目、3人目をもうける確率には関連は見いだせないものの、夫の育児参加は2人目、3人目をもうける確率を高めるとされており、夫の育児参加は出生率を押し上げる要因になると思われます。

 ただし、ここから先が興味深いのですが、永瀬伸子の研究によると、小さな会社に務めているよりも大きな会社に務めている男性の家事負担の割合が小さく、教育レベルについても高いほど家事負担の割合が小さくなります。社員数が29名までの高卒社員では21%ですが、社員5000名以上の大卒社員では13%です(122p表3−1)。
 ある意味、「成功」している男性ほど家事負担をしていないわけで、これが「意識」の問題ではないことがわかります。しかも、育児休業制度が整っているのはこうした大企業の大卒以上の社員の職場なのです(2016年のデータで社員500名以上の企業の100%が育児休業制度を設けている(123p))。
 大企業に務める正社員において、仕事優先の文化がかなり根強いことがうかがえます。

 妻の方の状況を本書で行われた調査から見てみると、既婚の女性では家事の70%、育児の80%を負担しているとの調査結果が出ています。一方、男性の長時間労働(週50時間以上の労働)は避けられないとも見ており、夫の働きぶりをみて「仕方がない」と考えている人が多いです。
 「夫は仕事、妻は家庭」との考え方が古いという意識は一般的になりましたが、「男性が出生して昇給するためには過酷な仕事に耐えなくてはならない」(134p)という意識は変わっておらず、男性の育休の取得が進まないわけです。

 こうしたことを受けて第4章では日本の職場慣行の問題を掘り下げていきます。
 最初にとり上げられているのが単身赴任です。日本の社員数300名以上の企業の3社に2社が正社員の一部を外国や国内の他の地方に転勤させており、そのうち社員自身の希望を考慮すると答えた企業は20%に満たないといいます。
 多くの社員が単身赴任を選択しており、単身赴任をしている日本人は常時100万人ほどいると推定されています。
 もちろん、企業にはそれなりの理由があるわけですが、出生率や女性の労働参加率を高めることを目指しているのであれば、単身赴任はそれに大きなマイナスの影響を与えます。
 
 こうした人事が行われる理由の1つが、日本の企業では人事部が社員の採用や異動に対して大きな権限を持つ集権的な人事制度を持っていることです。
 さらに日本の企業では職務内容が曖昧で、どこまでが自分の仕事が明確ではありません。また、日常的に残業が発生していることを考えると上司のマネジメントもうまくいっているとは言えません。

 日本の社員の仕事量が多すぎ、残業が発生する要因として顧客絶対主義があります。日本とアメリカで働いたことのあるアカネは次のような話をしています。

 「アメリカでは、受注するプロジェクトで引き受ける仕事の範囲を交渉する過程に、幹部が直接関わります。日本では、幹部クラスが『このプロジェクトをやろう』と決めて、あとはもっと地位の低いマネジャーが顧客企業の幹部クラスと交渉しなくてはなりません。そのようなマネジャーたちは、顧客にノーと言えません。これが(長時間労働と残業を生む)構造的な要因だと思います」(155−156p)

 こうした中で残業が常態化し、残業のできない既婚女性などは中核的な業務から排除されていくのです。

 日本、アメリカ、スウェーデンの調査で、週50時間以上労働している割合はそれぞれ19.1%、17.8%、3%、勤務時間に柔軟性がない人の割合は55.7%、29.0%、30.1%、仕事のストレスを経験している人の割合は31.2%、25.8%、23.4%です(158p表4−1参照)。
 労働時間についてはアメリカも長いのですが、日本は勤務時間の柔軟性がないという点で突出しており、これが仕事と家事育児のバランスをとることを難しくしています。

 日本では個人の仕事が切り分けられていないためにチームで働くという意識が強く、これも残業の要因になります。
 もともと日本の雇用はメンバーシップ型で、社員に安定した雇用と昇給を約束する代わりに会社に広汎な人事権をもたせるもので、こうした慣行は裁判の判例でも支持されています。
 
 子どもを抱える女性には時短勤務が認められることが多いですし、本書のインタビューで女性に育児休業を取得しづらい事があったかと尋ねると、ほぼ全員が「なかった」と答えたといいます。
 これはいいことではありますが、同時に育児休業が取得しづらい男性に比べて戦力として期待されていないということでもあります。保育園に入りづらいこともあって、女性の育休の期間は伸びる傾向にありますが、男性の育休は取ったとしても短期間のものにとどまっています。

 著者らが仕事と家庭の両立について聞きたいと企業を訪ねると、面談相手はたいていが女性であり、女性管理職を同席させられずに申し訳ないと言う男性の人事担当者もいました。日本ではこの問題はもっぱら女性の問題だと考えられているのです。
 大手金融機関のダイバーシティ担当の責任者を務める女性は、自分たちの会社にいる40代の女性はほぼすべて独身か子どもがいない人で「ガンダム・ウーマン」(!)と呼ばれていると話したといいます(177p)。

 第5章ではアメリカとスウェーデンの状況をとり上げています。
 1人の女性が45歳までに生んだ子供の数を見た「コーホート完結出生数」をみると、1955年生まれくらいまでは日本、アメリカ、スウェーデンが横並びですが、50年代後半生まれから日本は徐々に下がり始め、アメリカは65年生まれくらいからやや上昇傾向にあります(184p図5−1参照)。

 スウェーデンの出生数が高いのは充実した制度のおかげだろうと予想しますが、実は男性の育休制度は日本のほうが充実しています。そして、アメリカは女性の育休すら公的制度としてはありません。質の高い公的保育サービスもアメリカには存在しません。
 アメリカでは子供の世話にはベビーシッターなどを頼む必要がありますし、育休は上司を交渉して認めてもらう必要があります。ニューヨークで1.5歳未満の子どもを保育施設に預けると月に20万円近くかかりますし、ベビーシッターを雇えば月に35万以上かかるともいいます(193−194p)。

 このように制度的には厳しいアメリカですが、雇用の流動性が高く、常に社員が会社側と交渉することが当たり前の状況が、働き方についての個人が主体性を持つようにさせているともいえます。
 
 一方、スウェーデンは制度が整っています。この制度は単に高福祉というだけではなく、課税単位を夫婦単位から個人単位にする、第一子を出産してから30ヶ月以内に第2子を出産すると育休中の給付金が有利になる仕組みがあったりと、ある種の効率性も追求しています。
 また、女性だけでなく、男性も仕事と家庭が両立できるような政策を追求してきたことも大きな特徴です。

 終章のタイトルでは「社畜」という強い言葉が使われていますが、政策提言に関しては地に足がついたものになっています。
 著者の提言は、①保育園に子どもを入れやすくする、②配偶者控除など既婚者の税制を改革する、③男性の育休に8週間まで100%の賃金を保障するなど、男性の育休を取りやすくし、さらに義務化も視野に入れる(インタビューを受けた多くの若い日本人が男性の育休義務化に賛成していたとのこと)、④時短勤務や勤務地の限定などを男性にも適用しジェンダー中立的な政策を目指す、といったものです。
 基本的には、今までも論じられてきた対策でラディカルさはないですが、育休義務化を中心に、なんとかして日本の男性の100%仕事にコミットする文化を変えなければならないという著者の思いが伝わってきます。
 長年、日本を見てきた著者ならではの現実的な処方箋と言えるのではないでしょうか。


山本和博『大都市はどうやってできるのか』(ちくまプリマー新書) 7点

 タイトルのように東京やニューヨークのような大都市がなぜ誕生するかを探った本ですが、それを都市経済学を専門とする著者が純粋に経済面の理由から説明しようとしていることが本書の大きな特徴になります。
 ですから、歴史を知ってると、本書を読みながら「それだけじゃなくて政治的要因が…」とか「宗教によって人が集まることも…」とか言いたくなるのですが、そういった要素をばっさり落としているところが本書の面白さでもあります。理論しかない感じです。
 ただし、ちくまプリマー新書なのでそれほど難しさはなく、面白く読み進めることができると思います。
 都市の生成を経済学という視点から切り取って見せた本で、だからこそ都市や経済学への理解が深まるとも言えます。

 目次は以下の通り。
第1章 なぜ都市ができるのか
第2章 「多様性」と「輸送費用」の役割
第3章 集積と経済成長
第4章 少子化と都市
第5章 情報通信技術の発達がもたらすもの
第6章 東京は本当に大きすぎるのか

 なぜ、人は都市をつくるのでしょうか?
 本書は、そのはじまりを馬の家畜化や車輪の発明などの輸送手段の発達に求めています。これによって他の地域に物資を運ぶことが可能になりました。
 こうなると交易が始まります。本書では、リカードの比較優位の考えを丁寧に説明し、自給自足よりも比較優位なものに特化して、それを交易したほうがより豊かになることを示しています。
 交易を始めた村は、今までの自給自足状態よりも多くの人口を抱えることができるようになります。

 生産を増やすには生産性の向上が必要ですが、ここで鍵になるのが分業と協業です。アダム・スミスが指摘したように、1人でピンをつくるよりも何人かで工程を分担することで同じ時間でより多くのものが生産できます。また、複数人が協力することで作業が捗るケースもあります。さらに、機械を複数台使うことでより生産効率をあげられるケースもあるでしょう。
 このように、一人ひとりがバラバラに働くよりも、一定の人数が一箇所に集まって働くほうが生産性が高まります。そこで工場に人が集められることになり、都市が生まれるのです。

 特に産業革命以降、生産に大規模な機械が導入されるようになると、その機械の生産能力を最大限に引き出すために多くの人が雇われるようになります。機械の性能が引き出されれば引き出されるほど生産コストは低下し、いわゆる「規模の経済」がはたらくようになります。
 こうして工場の規模は拡大し、その周辺の都市も拡大するのです。

 ただし、これだけでは1つの工場が大きくなるだけで、さまざまな企業が集まる要因にはなりません。
 多くの企業が集まる要因の1つが「地域特化の経済」で、新潟県三条市の金属器、東京銀座でのブランド店の集中などが代表的な例です。
 
 イギリスの経済学者マーシャルはこの集積の要因について、①「人々が集まると、生産活動に必要な情報をお互いにやり取りすることができる」、②「人々が集まる場所には、物を作るには必要だが他の場所に運ぶことが難しいものが存在する」(金融機関の集積には法律事務所が必要など)、③「多くの労働者が集まってくると、有能で生産性の高い人々の数も多くなる」(優秀なプログラマーを探すならシリコンバレー)という、3つ要因を指摘しています。
 さらに、同じ産業が集積すると例えば機械のメンテナンス業者なども集まるために生産が滞りにくい、消費の場においては消費者がとりあえず目当ての店が集積している場所に行くということもあります。

 これに加えて、他業種の企業が集まることで銀行は貸し倒れのリスクを回避できますし、労働者は長期間の失業のリスクを回避できます(同じ業種だけだとその業界が不況になったときに都市ごと不況になってしまう)。
 さらに異なる知識を持つ人の交流も期待できますし、学校も多くできることになるでしょう。さらに人が集まることでマイナーな趣味の集まりや文化活動も可能になります。

 都市の発展の鍵は輸送費用です。
 日本の都市規模の拡大の様子を見ると、高度経済成長期に東京圏、大阪圏、名古屋圏の人口の増加が著しいことがわかります(71p図2−1参照)。
 この人口増加を支えたのが農村部からの人の移動ですが、これを支えたのが輸送費用の低下になります。

 また、多様性は満足感を高めると考えられます。いくら美味しいラーメン店でも毎日通っていれば飽きますが、近くに美味しいカレー店やハンバーガー店があればローテーションしながら楽しめるでしょう。
 
 今、梅田と三宮という2つの都市があり(著者は大阪大学の教授)、それぞれにレストランがありますが、店の数は梅田のほうが多いとします。
 2つの都市の間の移動が大変であれば、梅田周辺の人は梅田で、三宮周辺の人が三宮で食事をするでしょう。
 しかし、移動が簡単になれば(輸送費用が下がれば)、梅田の多様なレストランから選べるメリットが輸送費用のコストを上回るようになるかもしれません。
 梅田に客が集まるようになれば、新規のレストランも出店場所として梅田を選ぶようになるでしょうし、場合によっては三宮の店が梅田に移転するかもしれません。こうやってレストランの梅田への集積が進むのです。さらに梅田に引っ越す人も増えるかもしれません。

 生産における中間投入財の多様性が集積を進めるケースもあります。
 例えば、服をつくるのに、デザイナー、裁断士、縫い手、染め手などが必要でそれは外注できるとします。京都と神戸の2つの都市があり、ある企業は、京都に工場をつくるか、神戸に工場をつくるか、両方に工場をつくるかの選択肢があるとします。
 もし輸送費用が高ければ、両都市の消費者に服を売るには両都市に工場をつくる必要があります。
 しかし、輸送費用が安ければどちらか1つの都市に工場をつくり、輸送したほうがいいでしょう。そして、例えば京都のほうが服をつくる上で外注可能な企業が多ければ、企業は京都に工場をつくって神戸へと輸送するようになり、京都への集積が進むでしょう。
 他にもデザイナー、裁断士、縫い手、染め手といった人材の多様性も集積を進めていく要因になります。
 
 都市への集積は経済成長をもたらします。
 高度経済成長期の経済成長は、ちょうど農村から三大都市圏に人口が流入と対応していますし、イギリスの産業革命期でも都市部への大きな人口移動が見られました。

 経済成長の要因として本書が最初にあげているのが「資本蓄積」です。
 機械が導入されれば、1人の人間がより多くのものを生産できるようになり労働生産性が上がります。素手の労働者、シャベルを持った労働者、ショベルカーに乗った労働者がいれば、誰がより大きく深い穴を掘れるかは明らかでしょう。
 こうした機械の導入を設備投資といいますが、設備投資には資金が必要です。この資金は株式の発行や銀行からの借り入れによって賄われることも多いですが、そのためには人々の貯蓄が必要になります。

 ただし、単純な資本蓄積は行き詰まります。コンピュータが1人1台行き渡れば生産性は上がるでしょうが、1人に2台、3台とコンピュータを使わせても1台目の同じような生産性の伸びは期待できません。
 これを乗り越えるのが技術の進歩です。例えば、コンピュータの新たなソフトウェアの開発が生産性を大きく向上させるかもしれません。
 こうした技術の進歩が特許権で保護されることによって、研究開発活動(R&D)が進みます。そうしてさらなる技術の進歩が生まれるのです。

 人的資本の蓄積も重要です。健康な人間はより多くの労働ができるでしょうし、より多くの教育を受けた労働者は、より高い生産性を持つかもしれません。
 ロバート・フォーゲルによると、1780年にイギリスの下位20%の最貧困層の成人は1日1時間の肉体労働に必要なエネルギーさえ持たなかったと計算されていますが、1980年にはこうした不足はなくなりました。これによって1.95倍の生産の上昇があったともいいます(124p)。
 また、ロバート・ジョセフ・バローとジョンファ・リーは、最初の4年間の通学は年13.4%の収益となり。次の4年間は10.1%、8年以上の教育で年6.8%の収益になるとの推計をしましたが、このように教育も生産性を引き上げます。

 日本の高度成長期は、まず輸送費用が下がり、それに伴って経済活動の都市への集積が起こり、さらにそこで物的資本の蓄積が起こり、労働者の集中によるアイディアの発見や共有が起きるといった具合に、都市への集中と経済成長が同時に起こりました。

 今までの議論だと都市への集積は良いことだらけのようにも見えますが、問題もあります。その1つが少子化の進行です。
 2019年の日本の合計特殊出生率は1.36ですが、東京はさらに低く1.15です。日本全体を見ても、人口が多い都道府県ほど出生率が低い傾向にあります(137p図4−2参照)。

 子どもを育てることには大きな喜びがありますが、同時に費用もかかります。この費用とは食費や教育費といったお金だけではなく、子育てに費やす時間なども含みます。
 夫婦が持つ子どもの人数を決める要因として、著者は「子育てにかかる金銭的な費用」、「子育ての機会費用」、「自分が持っている所得」の3つをあげます。
 子育てにかかる金銭的費用が下がる、子育ての機会費用が下がる、自分の持って売る所得が上がる、これらは子どもの数を増やす要因になります(逆は減る要因になる)。

 産業革命以降、より高いレベルの教育が求められるようになり、子育ての金銭的費用は上がりましたが、同時に所得も上がっています。
 これだけだと子どもの数が減る要因と増える要因が打ち消し合うようにも思えますが、さらに近年、女性の賃金水準が上がっています。以前のように肉体労働が求められなくなり、男性の賃金に近づいてきているのです。
 こうなると子育ての機会費用は上がります。出産や子育てのために仕事を中断するマイナスがそれだけ大きくなるからです。
 また、経済発展とともに多様な消費財が登場していますが、これも少子化をすすめると考えられます。子育てによって余暇が減る機会費用がそれだけ大きくなるからです。
  
 都市部において出生率が低くなる原因としてまず考えられるのが土地や家賃の高さです。住宅費が高くなれば、所得が減るのと同じなので、それだけ子どもの数は減ると考えられます。
 さらに、都市にある多様な消費財や、都市における教育費の高さも少子化をもたらします。
 女性の賃金水準が高さも少子化の要因ですが、イメージとは違って人口の多い都道府県のほうが男女の賃金格差は大きい傾向があります(171p図4−9参照)。
 これには日本において男性の方が大学の進学率が高く、そういった男性が高給を得ているからだと著者が推測しています(個人的には親との同居が少なく女性の労働時間が短いといった要因もありそうだと思いましたが)。
 また、都市部の女性のほうが結婚の機会費用を高く見積もっているので(地方よりも賃金水準が高いため)、晩婚化が進み、これも出生率を低下させる要因になるわけです。

 ただし、東京への一極集中はコロナ禍におけるリモートワークの広がりを契機に転換点を迎えるとの予測もあります。ICTが発達すれば、人々が同じ場所に集まる必要はなくなるはずです。
 しかし、著者はICTの発展も都市への集中を止めることはないと見ています。

 確かに、オンライン会議にはどこからでも参加できるのですが、大都市が提供するものには偶然的な出会いもあります。
 日本の人口の28%が集まる東京に日本で登録される特許の61%が集中しているように、新しいアイディアにとって対面でのコミュニケーションは決定的に重要だといいます。
 単純な作業でも、能率のいい人と一緒にやれば能率が上がり、逆ならば下がるという研究がありますが、近くの人とのコミュニケーションや刺激が人々の活動に大きな影響を与えるのです。

 パソナのように本社を地方に移転させる動きもありますが、本社で行われる知的な活動には対面のコミュニケーションが必要であり、また都市に多くいる専門知識を持った労働者も必要になるために、この動きは一部にとどまると著者は見ています。
 
 確かにICTによって海外の人とのミーティングなども気軽にできるようになりましたが、FAXや電子メールが普及しても出張が減ることはなかったように、対面のやり取りの重要性はなくならず、対面でのコミュニケーションを求めて大都市に出てくる人は存在し続けるだろうというのです。

 本書の最後の章では「東京は本当に大きすぎるのか」という問題を扱っています。
 東京都の人口は約1400万人であり、東京の通勤圏には約3500万人が暮らしていると言われます。これが例えば通勤地獄や家賃の高騰を生んでいるわけで、「東京の人口は過大である」と思っている人も多いでしょう。

 では、どのような基準を超えれば「過大」なのでしょうか?
 まず、可処分所得を、賃金所得−土地のレンタル価格−通勤費用とし、人々はなるべく可処分所得を増やそうとしていると考えます。
 大都市は賃金水準が高いですが、人々が集まれば土地のレンタル価格は高くなります。土地の安い郊外に住めば、その分通勤費用は高くなります。
 ここで土地のレンタル価格の差は通勤費用の差に等しいというやや乱暴な仮定を置くと、都市の土地のレンタル価格の合計が通勤費用の合計に等しくなります。都市への集積は生産性を上げますが、どこかでこの集積のメリットを通勤費用の合計が上回ってしまいます。
 このように考えると、「集積の経済の価格」=「土地のレンタル価格の合計」となっているところがその都市の適正人口水準です。これを「ヘンリー・ジョージの定理」と言います。

 ただし、「集積の経済の価格」、「土地のレンタル価格の合計」とも、そのデータを収集することは難しいです。日本では金本良嗣らが東京都市圏の人口が過大かどうかを推計していますが、1996年の論文では他の都市と比べて過大である可能性は低く、98年、06年の論文では他の都市圏に比べて過大になっている可能性があるとしています。

 著者は、消費財の多様性も考えれば、人口集積のメリットはもっと高く評価できるのではないかと主張し、さらに現在の東京一極集中が自由な人口移動の結果であれば、それは個人にとっては良い選択であり、政府がそれを是正しようとすることは問題だとしています。

 このように本書は大都市の成り立ちと成長を経済学の理論によって説明しています。歴史的には政治的中枢が置かれた(城下町)とか、宗教的な施設が置かれた(門前町)とかがあるわけですが、あえてそういったものを無視することで経済学的なロジックがよくわかるようになっています。
 ただし、経済学的な見方といっても基本的には理論面が中心なので、少し実証的な部分があっても良かったかもしれません。例えば、東京圏は94年、95年が転出超過だったわけですが、これはバブルの後遺症的なものもあって、「集積の経済の価格」<「土地のレンタル価格の合計」だったのか? といったことも気になります。


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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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「西東京日記 IN はてな」で。
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