古代ギリシア民主政研究の日本における第一人者ともいうべき著者による本。一般的な古代ギリシア民主政へのイメージを覆す刺激的な本になっています。
古代ギリシアの民主政はアテナイを中心に行われ、そのアテナイの民主政はサラミスの海戦での勝利を経てペリクレスのもとで絶頂を迎えるが、次第に衆愚政に陥ってペロポネソス戦争でスパルタに敗北してしまう。古代ギリシアの民生政というとこんなイメージを持っている人も多いと思いますが、著者によれば、民主政はその後のアテナイで復活して成熟を迎え、アテナイ以外のポリスにも広がっていったといいます。
さらに本書では考古学的な発見などを用い、当時にアテナイの社会の状況の復元を試み、プラトンやトゥキュディデスの本が伝えるものとは違った、そして現代の民主主義とも違う古代ギリシアの民主政の姿を描き出そうとしています。
古代ギリシアの民主政だけでなく、デモクラシーを論じようする場合にも、まず参照すべき本と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
はじめに第1章 民主政の誕生第2章 市民参加のメカニズム第3章 試練と再生第4章 民主政を生きる第5章 成熟の時代第6章 去りゆく民主政おわりに――古代から現代へ
古代ギリシアのポリスは、標準的なもので領土が25〜100Km2、人口が3000人ほどど比較的小さなものです。周辺には農地が広がり、市民の多くは農民でもあり、同時に戦士でもありました。
それほど大きな身分差があった社会ではありませんでしたが、基本的には貴族政がとられていました。
前7世紀頃になると、遠隔地交易がさかんになるとともに豊かになる者が現れます。豊かになった平民の中には貴族の支配に対する不満も現れ、党争が激化しました。
こうした中で市民の対立を防ぐ処方箋として出てきたのが成文法の制定です。最初の成文法はクレタ島のポリスで制定されたと考えられています。要職の独占を防ぐきまりや財産や家族などについてのきまりが定められました。
ただし、クレタ島のポリスは民主政になりませんでしたし、貴族政のスパルタも成文法が早くに定められたポリスです。
民主政が始まったポリスとして小アジアのキオスがあげられることもありますが、やはり本格的な民主政が生まれたのはアテナイということになります。
アテナイは2550km2という広大な面積をもつポリスで(普通のポリスが町や村のサイズなのにアテナイは神奈川県サイズ(24p))、人口も古代ギリシアのポリスで最大だったと考えられています。
もともとアテナイは王政でしたが、徐々に貴族政に変化していき、他のポリスと同じように前7世紀頃に党争が激化します。
ここで現れたのがソロンです。ソロンは過去の負債を帳消しにして貧困層を債務から解放し、借財の抵当に市民の身体を取ることを禁止しました。
さらに市民を収入によって4つの等級に分け、それぞれの等級から選挙で役人を選びました。ただし、重要な役人は上位の等級から選ばれましたし、最下級の等級は民会への出席権しかないなど、富裕エリートを新たな支配者層とするものでした。
ソロンの改革は一定の安定性をもたらしましたが、エリート同志の権力闘争は変わらず、僭主ペイシストラトスも出現しました(ただし、ペイシストラトスの治世は平穏だったという)。
前508〜07年にかけて、イサゴラスがスパルタ王の助けを借りて政権を握ろうとしますが民衆の反発を受けて失敗します。そして、クレイステネスが国制の思い切った改革に乗り出します。
クレイステネスは貴族政を根本から解体することを目指して、今までの四部族性を解体し、まったく新しい原理で10部族に再編します。
全土を区(デモス)に分け、この区の区民であることをアテナイ市民の条件としました。さらに全土を沿岸部・内陸部・市域に分け、それを人口が均等になるように10の組織(トリッテュス)に分け、沿岸部・内陸部・市域からそれぞれトリッテュスを抽選で選んで組み合わせて1つの部族としました。
この人工的なまとまりが、市民の軍団になり、役人の選出母体となりました。これによって名門貴族の基盤は解体されることになります。
さらにクレイステネスは民会を正式な国家の意思決定機関とし、民会の議事を準備する議事運営委員会として500人評議会を創設しました。
軍も貴族の私兵的なものから国家の直属軍という形になり、10人の将軍を選挙で選ぶ制度が導入されました。陶片追放の制度もこの時期に導入されています。
アテナイの民主政はペルシア戦争という大きな試練にさらされます。
前490年にアテナイはマラトンの戦いでペルシアを撃退しますが、これを手引したのはアテナイのかつての僭主ヒッピアスであり、この戦争は民主政を守る戦いでもありました。
前483年に銀の鉱脈が発見されると、それを財源として海軍の建設が行われ、前480年のサラミスの海戦でペルシア軍を打ち破りました。
この戦いの勝利によってアテナイはデロス同盟の盟主となり、同盟貢租金がアテナイに流れ込むことになります。こうした中でアテナイの民主政はさらに発展します。
この時期の指導者がペリクレスです。弁論にも秀でていた彼は民衆に直接語りかけて民主政をさらに推し進めていきます。9人のアルコン(執政者)は一般市民からも選ばれるようになり、政治参加に日当が支払われるようになりました。こうして下級市民の政治参加も進みます。
デロス同盟の貢租金という財源がこうしたことを可能にしたのです。
アテナイは貧富の差があったものの、市民の約7割近くが土地を持っており、中小農民が中心の社会であったと考えられています。
アテナイの民主政は、労働を奴隷に任せていたために成立可能だったと言われますが、多くの市民は働きつつ、民会などにも参加していたと思われるのです。
民会は前5世紀半ばにアゴラからプニュクスの丘に移りますが、「プニュクス」とは「すし詰め」という意味であり、大勢の市民が詰めかけたのでしょう。議場は次第に拡張され、前340年頃には収容人数が1万3800人まで広がりました。
民会の議事運営を担ったのが500人評議会(以下評議会)で、政策や法案はここを経ないと上程できません。評議員には一生に二度までしか選ばれないようになっていました。
評議会は民会の議長団も選出しましたが、議長は抽選で選ばれ、しかも任期は1日です。
民会では誰でも自由に発言できましたが、あまりにくだらないことを長々と演説すれば議長判断で降壇させられました。
採決は挙手で行われ、1度の民会に上程される議案は10件前後、挙手は25回ほど行われたといいます。
演説などは事前の準備や訓練などが必要なため、エリート中心に行われ、民衆はその演説を聞き、判断して投票する形でしたが、エリートはつねに民衆に訴えて支持を得る必要がありました。
アテナイでは直接税は僭主政の暴虐に等しい過酷な税と考えられており、戦時財産税を例外として市民には課されていませんでした。そのため、財源は国有財産の賃貸料、銀山の収益、関税、港湾税、市場税、在留外国人からの人頭税、罰金、没収資産などからなっていました。
このような財政の管理も評議会の仕事でした。この多岐にわたる仕事を行う評議会を500人ずつ1年交代で行ったいうのですから、多くの市民参加が必要になります。
評議員になると評議会に毎日のように出席しなければならず、下層の市民には大きな負担でしたが、手当も出ましたし、何よりも一生に一度か二度の檜舞台でした。
アテナイの民主政の本質は「順ぐりに支配し、支配される」ことだとされていますが、誰しもが支配者になることを経験するのがアテナイの民主政の本質だったのです。
この評議会の下に役人がいましたが、軍事職と水源監督官を例外として役人は抽選で選ばれました。役人も順ぐりに経験したのです。
役人であることのポイントは責任を問われることで、特に大きな責任を背負った将軍はたびたび弾劾されています。
裁判でも裁くのは抽選で選ばれた市民であり、民衆裁判所(ヘリアイア)では30歳以上の一般市民から抽選された任期1年の6000人の裁判員がいくつかの法廷に分かれて審理を行っていました。重要な事件ほど多くの裁判員によって裁かれたといいます。
どの法廷に入るかは、買収を防ぐために当日に決まるようになっており、裁判員は小石(のちの青銅製のコマのような形のもの)を使って投票しました。これによって有罪や無罪が決まったのです。
アテナイの投票で有名なのは陶片追放です。陶片追放は誰かを名指しして国外に退去させるものですが、投票を行うかどうかは事前に告知されますが、候補者が指名されることも、公開討論が行われることもありません。
市民たちは追放したい市民の名前を書いた陶片を持ち寄り、それが開票されます。その結果、6000票以上の最多得票者が10年間の国外退去を命じられます。
僭主の登場を防ぐためと言われてきましたが、民衆から声望のある者は追放されにくいわけで、有力な貴族の衝突を市民の判断によって防ぐといった目的があったのではないかと考えられています。
アテナイの民主政が崩れていくきっかけとされるのは、前431年から始まったペロポネソス戦争です。
アテナイとスパルタが戦ったこの戦争では、アテナイはペリクレスのもとで籠城戦を選択しますが、そこに疫病が襲います。市民の3人に1人が死んだとされ、死者の埋葬さえ十分にできなかったといいます。ペリクレスも亡くなりました。
前421年、アテナイとスパルタの間で和約が結ばれますが、アテナイはかつての栄光を取り戻そうと征服活動をやめませんでした。
アテナイは美青年としても評判だった若き貴公子アルキビアデスの弁舌に乗せられる形でシチリア征服に乗り出しますが、これに失敗します。身の危険を感じたアルキビアデスはスパルタに逃げ込み、逆にアテナイとの戦争を再開するようにけしかけたのです。
アテナイの同盟市も次々と離反し、民主政を転覆させようとする企ても起こります。
前406年、アルギヌサイの海戦でアテナイはスパルタを打ち破りますが、勝利後の暴風雨によってアテナイ軍も大損害を受け、民会は将軍を弾劾裁判にかけることとします。そして、民衆の怒りが煽られ6名の将軍を処刑してしまうのです。いわゆる衆愚政を代表するエピソードとされています。
結局、アテナイはスパルタに敗北し、民主政も崩壊するのですが、著者はこうした異常な状態を生み出した戦争や疫病による大量死、狭い市街に人々が籠城したことによるストレス、ペロポネソス戦争について伝えるトゥキュディデスやクセノポンの偏見といった点も指摘しています。
前404年、アテナイはスパルタに降伏し、スパルタの後押しを受けて寡頭指導者30人に全権を委ねる30人政権が成立します。
プラトンは30人政権への誘いを受け、この政権に期待しましたが、実際は暴力や財産の没収が横行する恐怖政治でした。
前403年、民主派の将軍トラシュブロスが帰国し、30人政権を倒して民主政を回復します。このとき、大赦令が出され、「何人も悪しきことを思い出すべからず」という誓約を全市民が立てました(140p)。アテナイ市民は過去を告発せずに、共生を選んだのです。
この後、民会の決定に一定の制約をかけることになり、一般的な成文法「法(ノモス)」と外国との条約などの一時的な国の決定「民会決議(プセピスマ)を区別し、前者が優位に立つという原則を決めました。
民会は法を変えることができず、法の規定に縛られることになります
前399年にはソクラテスが民衆法廷の裁判で死刑になっていますが、著者はソクラテスが30人政権に近しい人物だったことや当時の宗教意識などにも注意を向けています。
第4章では再び民主政の実態を探っています。
アテナイの民主政の基盤には人々が日常的に暮らす区での民主政がありました。区民会や区役人の経験が市民を鍛えたのです。
著者はアテナイの民主政の特徴として、①組織の無頭性、②代表性の不在、③警察権力の不在、④情報の公開をあげています。
まず、アテナイでは組織の代表者を置くことを嫌いました。ペリクレスも10人の将軍の1人に過ぎません(このあたりは江戸時代の老中などの輪番制に少し似ているかも)。
代表者を置かなかったことにも通じることですが、アテナイの評議員や役職者は決して誰かを代表しているわけではありません。
さらに「弓兵(トクソタイ)」という警備などにあたる国有奴隷はいましたが、警察のような存在はいませんでした。同時に市民は武装する権利を持っていました。
最後に情報の公開ですが、これは非常に進んでおり、公文書館もつくられました。そして、この公文書館には市民であれば自由に出入りし、文書を閲覧できました。
このように現代の民主主義とは異質であったアテナイの民主政は、しぶとく生き残ります。
前4世紀になって、スパルタに代わってテバイが陸上の覇権を握るようになり、アテナイも同盟市戦争に破れて海上の覇権を失います。
それでも、アテナイの民主政は民会出席手当の創設などによって再び活性化し、さらにアテナイ以外のポリスにも民主政は広がりました。
本書では、アルゴス、テバイ、シラクサの民主政が紹介されています。テバイの覇権も、スパルタの支援を受けた寡頭政に対する民主派の反対運動の中から生まれてきたものです。
ペロポネソス戦争に敗れて影響力を失ったアテナイですが、そこで生まれた民主政や文化の影響力は戦争後に帰った強まりました。
例えば、アテナイの民主政で使われた名札や青銅製の投票具などは他のポリスでも見つかっています。
前4世紀半ば、財政危機に見舞われたアテナイでしたが、財政官を選挙で選ぶこととし、国庫を回復させました。デュオニュソス劇場などもこの時代につくられています。
しかし、アテナイをはじめとするギリシアのポリスは新興国家マケドニアに飲み込まれていきます。カイロネイアの戦いで破れたギリシアのポリスはマケドニアの傘下に入りました。
ただし、マケドニアのもとでアテナイは自治を許され、民主政は続きました。その後、アレクサンドロスの後継争いなどに巻き込まれ、直轄地になったりしますが、近年の研究では前2世紀末まで民主政は続いたと考えられています。
完全に民主政が終わるのはローマの時代になってからです。前86年にローマに対する反乱に破れたアテナイは多くの市民を失い、以後、民主政が活性化することはありませんでした。
その後、ルネサンス期になって古代ギリシアに注目が集まりますが、民主政に対する評価は低いものでしたし、アメリカ建国の父が理想としたものもローマの共和政であって民主政ではありませんでした。
19世紀半ばになってようやく民主政を評価する機運が生まれますが、民主政は常に衆愚政と結びつけられ、危険なものとみなされました。
しかし同時に、近代民主主義は、古代ギリシアにはなかった「代表制」という原理に従って運営されており、古代の民主政が蘇ったというわけではないのです。
このように本書はアテナイの民主政の実態と、それがしぶとく残り続けたことを教えてくれます。
特に「代表制」という考えを持たずに、「順ぐりに支配すること」を重視したアテナイの民主政と現代の民主主義の異質さというのは非常に重要なことではないかと思います。
ここ最近、デモクラシー(民主主義)を論じる本が増えていますが、やはりデモクラシーを論じるにはその起源と実態を知る必要があるわけで、本書はデモクラシーを論じる上でも必読の本と言えるでしょう。