山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2014年05月

赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書) 6点

 女性誌のある種ズレてしまった現状を斬りまくった新書『モテたい理由』が非常に面白く、その影響で小説『東京プリズン』まで買ってしまった赤坂真理の新刊。
 赤坂真理は、『モテたい理由』では、女性誌分析から最終的には「戦争」、「アメリカ」、「敗戦の記憶」といったものへと現代の男女がおかれた状況の遠因をたどろうとしていましたし、『東京プリズン』では、ストレートに「戦争」、「アメリカ」、「天皇」、「敗戦の記憶」、「東京裁判」といったものをテーマにしていました。
 今回のこの本は、「戦争」、「アメリカ」、「天皇」、「敗戦の記憶」、「東京裁判」、といった『東京プリズン』のテーマ(さらに「憲法」も付け加わっている)をエッセイで展開したものといえるでしょう。

 ただ、個人的に『東京プリズン』が小説としてはいまいちに感じたように、この本も前半と後半の「戦争」、「アメリカ」、「天皇」、「敗戦の記憶」、「東京裁判」、「憲法」に真正面から取り組んだ部分はいまいちでした。
 『東京プリズン』の感想を書いたときに、「著者の戦後の日本に対する疑問、米に対する違和感といったものは共感できるのですが、それがあまりにもわかりやすい図式と比喩によって描かれてしまっている」と書いたのですが、この本についても、日本の戦後について感じる違和感については共感するものがあるものの、結局はそれが「アメリカ=男性」、「日本=女性」のような手垢のついた比喩にほとんど回収されてしまっていると思うのです
 また、いきなり「戦後という大きな謎」に取り組もうとした結果、文体も大げさになってしまっていて、出だしはやや疲れます。

 けれども、著者ならではの鋭い視点や感覚が生きている場所もあります。
 第4章「安保闘争とは何だったのか」にある「学生運動がわからない」という言葉や、第5章「一九八〇年の断絶」の部分は、自分が著者の10歳ほど下にもかかわらず非常によく分かる部分です。

 1970年代後半から1980年代の前半にかけて、日本の社会の表側からきれいに暴力が消えていっています。
 例えば、1973年に国鉄労組の「遵法闘争」によるダイヤの乱れに怒った客が暴動を起こし車両や駅舎を破壊した上尾事件。1970年代に生まれて70年代前半の様子を知らない身からすると、日本でこのような事件が起きた事自体がなんだか信じられません。
 80年代にも校内暴力などはありましたし、不良が主人公のドラマもさかんに放映されていましたが、もはや暴力はそうしたテレビの中や学校の中に押し込まれて、スペクタクルとして消費されている感じでした。

 赤坂真理は1964年生まれなので70年代前半の空気を多少は知っていると思うのですが、それでも「1980年に、「何か」が変わった」、「暴力の残り香、そして戦争の残照のようなものが、81年にはきれいになくなっていた」(155p)と書きます。
 これは著者が1980年にアメリカの高校に留学していたからでもあるのですが、1972年のあさま山荘事件(学生運動と暴力がスペクタクルとして消費された)とともに、1980年を一つの分水嶺と見ています。

 1980年は漫才ブームが始まった年でもあり、松田優作が「太陽にほえろ」と「探偵物語」の中で死んだ年でもあります(「探偵物語」では刺されるが生死は不明)。
 著者に言わせると、1980年とは、「お笑いタレントたちが男子の成功例として文化の表面に現れた」(158p)年であり、「日本社会のある局面が、最終的に松田優作を不要とした最初の年」(163p)なのです。
 これは、ストレートな暴力がそのままの形では社会に表現されなくなった年と言ってもいいでしょう。ビートたけしも島田紳助も内側に暴力性を秘めた人だと思うのですが、それがまずは「お笑い」という形で表現されたというのは重要な事かもしれません。

 この本で十分な議論が展開されているわけではありませんが、このあたりの著者の嗅覚は鋭いです。
 また、第7章で、自分が地域の公園の改修を検討する委員会のメンバーに立候補した時のことが書いてあるのですが、この部分も面白いです。
 とにかく、「子どもがうるさい」、「ボール遊びが危険」、「カップルが居る」といった文句を言い募る老人たち。アンケートでは「子どもの遊び場を」という意見が多く、著者がそのことを指摘すると、「複数意見があるときは、弱者の意見がもっとも尊重されなくてはならない」と言い放ったそうです。
 これに対して著者は「自民党に共産党を直接接続したキメラを見る気持ちだった」(218p)と書いていますが、これはうまい表現だと思います。

 しかし、自分の体験などを語るときにはこのような鋭い部分があるものの、抽象的な理念である「憲法」(この本では憲法は理念の話がメイン」、「天皇」といったことになると、とたんに文体がわざとらしくなる。
 もちろん、こうした文体を好む人もいるんでしょうけど、個人的にはあまり好きではないですね。

愛と暴力の戦後とその後 (講談社現代新書)
赤坂 真理
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濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』(ちくま新書) 8点

 著者の濱口桂一郎は、去年『若者と労働』(中公新書ラクレ)という新書を出しましたが、それと対になるテーマの本です。
 日本の雇用が、仕事に人を割り振る「ジョブ型」ではなく、人に仕事を割り振る「メンバーシップ型」であり、それが時代の変化とともに歪みを生じさせている、という現状認識は『若者と労働』、あるいはその前の『新しい労働社会』(岩波新書)と共通。
 『若者と労働』では、そうした現実に対して「ジョブ型正社員」という解決策のビジョンと大学改革の必要性を示したわけですが、この本では政策レベルの議論を丁寧にしつつ、最後に労働政策だけではなく福祉制度の変革を訴える内容になっています。
 
 日本では年功賃金が根強く、中高年は若者に比べて高い賃金をもらっています。だから、不景気になり会社の経営が苦しくなると、賃金の高い中高年がリストラのターゲットになります。これは日本人は当たり前のように受け入れている「事実」です。
 ところが、諸外国ではこれは当たり前でもなんでもありません。いくら年齢が高くなってもやっている仕事が同じであれば賃金は基本的に同じですし、レイオフは普通、勤続年数の短い順に行われていきます。

 あるいは、大企業の部長経験者が面接に来て、「あなたは何ができますか?」と聞かれて「部長ならできます」と答えたという「笑い話」。この本の164pでも紹介されていますが、実は欧米ではこの小咄が「笑い話」にはなりません。欧米ではビジネススクールを出た人間が最初から管理職として登用されるわけで、日本のように管理職が一種の「社内身分」になっているわけではないのです。

 このように日本の雇用の「常識」は、決して世界の「常識」ではないですし、非正規雇用や女性を犠牲にしたかなりいびつなものでもあります。
 ただ、それが高度成長にマッチし、石油危機語の世界経済の低迷をうまく切り抜け、さらいには小池和男の「知的熟練論」(中高年は経験の蓄積などにより単純に仕事給では評価できないスキルを持っているという考え)などの理論づけもなされたことから、日本の「常識」として定着していったのです。

 しかし、こうした「常識」が崩れつつあるのはご存知のとおりです。
 そして、この本を読むと日本型の雇用システムが、今になって急に壁にぶち当たったわけではなく、以前からさまざまな矛盾を抱えていたことがわかります。
 
 例えば、定年制。もし、「知的熟練」によって労働者のスキルが向上し続けるならば、定年などというものはいらないのかもしれませんが、現実には年功賃金によって高給取りになった社員を切るために必要不可欠なものです。
 2012年にほぼ例外なく義務化された65歳までの継続雇用制度。ここでも「65歳定年」ではなく、「継続雇用制度」となっているのは、60歳で一回定年とし、契約内容を見なおさないと企業の負担が大きすぎるからです(98~111p)。

 また、最近話題のホワイトカラー・エグゼンプションも、企業の問題意識としては、かなり年齢のいったホワイトカラーに残業代を出していると、残業代の出ない若い管理職(当然、課長とかが労働基準法のいう管理職なのか?という問題もあり、この本ではその点にも触れています)よりも給与が高くなってしまうというものがあります。
 
 「やっぱり年功賃金をやめて成果主義だ!」
 そう考える人もいるでしょうが、日本の成果主義とは中高年の賃金を削減するための手段に過ぎず、それは中高年にとって過大な負担となりかねません。
 なぜ、過大な負担となるかというと、日本の福祉システムがそうなっているからです。日本の福祉システムは企業を退職した高齢者に関してはしっかりとカバーしていますが、現役世代にとって必要な児童手当、住宅政策、教育政策といった分野がすっぽりと抜け落ちています。
 これらは企業が年功賃金によってカバーするものだとみなされ、公的支援の対象から外され続けていたのです。

 『若者と労働』では、日本の雇用システムと高校や大学の教育が「噛み合っている」様子が描かれていましたが、この本では日本の雇用システムと福祉システムが「噛み合っている」ことが示されています。
 「噛み合っている」=「良い」ということではなく、お互いを「縛りあっている」ことでもあります。「縛りあっている」ぶん、個々のシステムの自由度は低く、改革は難しくなります。
 
 しかし、いくつかの仕組みを同時に変えていくことができるのであれば、改革の可能性はありますし、この本は少なくともその方向性については示すことができています。
 前半の日本の雇用の歴史の部分についてはやや煩雑に感じる人もいるかもしれませんが、このややこしさを丁寧に示すことで、「魔法の薬はない」という現在の状況がより実感できるような構成になっていると思います。
 また、触れられませんでしたけど第5章2の「中高年女性の居場所」の部分も、世間並みに結婚しない女性がいかにひどい状況に置かれていいたかということを知るためにも、ぜひ読むべきところだと思います。

日本の雇用と中高年 (ちくま新書)
濱口 桂一郎
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松田美佐『うわさとは何か』(中公新書) 7点

 デマ、流言、ゴシップ、口コミ、風評、都市伝説…。多様な表現を持つうわさ。この「最古のメディア」は、トイレットペーパー騒動や口裂け女など、戦後も社 会現象を巻き起こし、東日本大震災の際も大きな話題となった。事実性を超えた物語が、人々のつながり=関係性を結ぶからだ。ネット社会の今なお、メールや SNSを通じ、人々を魅了し、惑わせるうわさは、新たに何をもたらしているのか。人間関係をうわさから描く意欲作。

 これが本書の帯に書かれた紹介文。最初に「デマ、流言、ゴシップ、口コミ、風評、都市伝説」と並んでいますが、このうち「デマ、流言、ゴシップ」にはなんとなくマイナスのイメージがありますし、逆に最近は口コミサイトや口コミによるマーケティングなど「口コミ」についてはそのプラスの部分が注目されています。
 そして「風評」については、震災による原発事故以降、「風評被害」という形でしかみかけなくなりました。
 
 これらの言葉を見ると「うわさ」というものには、さまざまな表現が含まれていることが分かりますし、またときに非常に厄介なものだということがわかると思います。
 そんな「うわさ」について、社会学や社会心理学の過去の研究を踏まえつつ、さらにネット時代のうわさについての考察を加えたのがこの本。
 オルポート、ポストマン『デマの心理学』、清水幾太郎『流言蜚語』、タモツ・シブタニ『流言と社会』、エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』などの古典的な研究を抑えながら、ネット時代におけるうわさの変質とその特徴について分析しています。

 うわさについての先行研究はよくまとめられていますし、特に木下冨雄が明らかにした「豊川信用金庫の取り付け騒ぎ」についてのうわさの伝達経路のチャート図などは興味深いです(28p)。
 また、うわさが新たな根拠を付け加えながら拡散していくといったことや、その不安を煽る内容だけでなくその回避策が一緒になっていると伝わりやすいということが、震災後に広まった「コスモ石油の火災により有害物質を含んだ雨が降る」という例とともに説明されています(51ー53p)。
 さらに「都市伝説」についても紙幅をとって紹介しているので、そこに懐かしさや面白さを感じる人もいると思います。

 ネットの登場とうわさの変容に関しては、ネットの特徴として「身体性の欠如」と「匿名性」をあげ、さらには「文脈の欠落」、「消えない記録」といった部分に注目して議論を進めています。
 特に「消えない記録」という部分については、ネットで見に覚えなのない殺人犯に目されたスマイリーキクチの事件を例にあげ、一度沈静化したうわさも、何かのきっかけで話題になるとそこから「検索」→「再炎上」ということが起こりうることを示しています(212ー217p)。
 また、FacebookやTwitterなどで定期的に広まる真偽が定かでない「いい話」についても、「他人に見せたい自分」、「自分に見せたい自分」といった視点から分析されており(222ー228p)、分析はかなり広い範囲に及んでいます。
 
 ただ、ここまでくれば「釣り」といった現象もとり上げて欲しかったですし(参考文献にはHagex-day.infoもあがっていることですし)、うわさへの対処法としても、公的機関やマスメディアの信頼性の向上や「あいまいさへの耐性」といった漠然としたものだけでなく、何かもう少し具体的な手がかりが欲しかった気がします(『オルレアンのうわさ』から「対抗神話」という考えを紹介していますが、ここをもう少し掘り下げられたらよかったかもしれません)。
 もっとも、「うわさ」を考えるための基本図書としては非常によくまとまっているのではないでしょうか。

うわさとは何か - ネットで変容する「最も古いメディア」 (中公新書)
松田 美佐
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大西裕『先進国・韓国の憂鬱』(中公新書) 9点

 身近にあるものほど客観的に評価するのが難しいということがありますが、これは日本の隣国・韓国にもあてはまるのかもしれません。
 著者は「あとがき」で次のように書いています。
 韓国ほど、時期によって極端に評価がぶれる国も珍しい。アジア通貨危機に陥ったときは韓国はいかにダメかという論調が支配し、危機から劇的に復活するとそれが賞賛される一方で、なぜ日本が苦境から脱せないかが嘆かれた。そして2010年代に入ると日韓関係の悪化とともに韓国をあしざまに論ずるものが激増している。
 このような毀誉褒貶は奇妙である。現実の韓国に、それほどの変動があるわけではない。(247p)

 こうした中、この本はアジア通貨危機以降の韓国政治を冷静に分析しています。
 ただ、そこで分析されているんは「親日・反日」、「親米・反米」、「親北朝鮮・反北朝鮮」という、日本で報道される韓国政治のおなじみの対立軸ではなく、主に福祉をめぐるものです。

 「なぜ福祉?」と思われる方もいるかもしれませんが、これは非常に興味深い視点です。
 日本と韓国が文化などの面で「似ている」かどうかは意見の分かれるところだと思いますが、少なくとも欧米諸国に比べて急速な経済成長で先進国(OECDの加盟国)になり、同じく欧米諸国よりも速いペースで少子高齢化が進んでいるという点は同じです。
 また、近年、経済格差が問題になっている点も日本と同じです。

 しかも、韓国では問題のいくつかは日本よりも先鋭化しています。
 少子高齢化のペースは日本以上ですし、ジニ係数や相対貧困率で見ると日本よりも格差が小さいものの貧困層の所得が相対貧困線をどの程度下回っているかを見る貧困ギャップでは日本よりもひどく、特に高齢者に関してはジニ係数、相対貧困率、貧困ギャップとも先進国で最悪のレベル(19ー22p)、また、若者の就職も厳しく、そのせいで若年層の労働参加率は25.52%と日本の42.48%を大きく下回っています(23ー24p、もちろん韓国の数字には徴兵制の影響もある)。
 
 こうした問題が深刻化した原因の一つは、アジア通貨危機以来行われたいわゆる新自由主義的な改革です。韓国はここ15年ほど米韓FTAの締結をはじめ、日本以上に思い切った改革を進めてきました。
 ところが、この間の大統領は金大中(進歩派)、盧武鉉(進歩派)、李明博(保守派)と、社会保障などに熱心な進歩派大統領の時代が長かったですし、米韓FTAの交渉も盧武鉉政権のときに進みました。
  
 金大中も盧武鉉も、IMFに強要されやむを得ず新自由主義的な改革を進めたというのが「通説」ですが、2000年にはIMFへの借金を返済し終えており、この説明は成り立たないというのが著者の見立てです。
 そして金大中、盧武鉉、李明博の各政権がそれぞれ経済や福祉に対する改革のビジョンを持ちつつも、韓国の政治情勢や社会状況の中でその改革が十分にうまくいかなかったというのです。
 この本では金大中、盧武鉉、李明博の各政権のビジョンとその挫折の理由を分析し、そこから朴槿恵政権の課題を浮き彫りにしています。 

 金大中、盧武鉉政権のキーワードは「萎縮した社会民主主義」です。
 金大中政権は、公的扶助の拡充を行い、医療保険の一元化を行い(それまでは日本と同じように職域別・企業別・地域別の組合方式だった)、国民皆年金を実現させました。これはいずれも大きな改革です。
 しかし、制度は出来たものの残念ながら中身は伴いませんでした。例えば、医療保険の一元化はなったもののの本人負担額は50%でしたし、公的扶助の拡充も不十分なものでした。
 社会民主主義的な制度ができたにもかかわらず、進歩派と保守派の対立もあってその中身は十分なものにはならなかったのです。

 つづく盧武鉉政権も、社会民主主義的な方向を目指していました。
 彼は「参与福祉」というキーワードを使って、福祉の分権化をはかり、地方自治体やNPOを通じて福祉を拡充しようとしました。また、積極的な福祉を通じて雇用の促進をはかる、いわゆる「第三の道」的な政策を進めました。

 しかし、この盧武鉉政権の改革も十分な成果を上げることはできず、むしろ年金の支給水準などは切り下げられました。狙いとは逆に「参与福祉」が福祉の拡充を阻んだのです。
 医療保険では、労働組合や市民団体が医療保険財政の問題も取り扱う健康保険政策審議委員会に参加するようになったことで、これらの団体はむしろ医療保険の抑制に動くこともありました。
 また、韓国の福祉は主に保守的な団体が担っており、進歩的な団体である労働組合などは福祉に関心は持つものの、福祉が中核的な関心事ではありませんでした。そうした中で分権化が進んでも、福祉団体の積極的なアクションは起こらず、盧武鉉の期待した「参与福祉」は実現しなかったのです。
 この辺りの事情を著者は次のように説明しています。
 福祉政策の拡大にもっとも関心をもつべき福祉団体をはじめとする全国的中核関心団体と中核的関心団体は、政府の市場介入に否定的で、福祉の拡大につながる政策を好ましいとは思っていない。結局、市民団体のがんばりで社会民主主義モデルの制度は導入されるが、その拡大は望まれず、推進もされないということになる。「萎縮した」社会民主主義が韓国特有の団体の性格を勘案した均衡点であったのだろう。(136p)

 米韓FTAの話と李明博政権の話についてはこの本を読んでもらうとして(李明博政権の政策がオーソドックスな経済学に反していたという指摘(177p)は興味深い)、この進歩的な政権でなぜか福祉の充実が進まないというのは日本の民主党政権と同じですよね。
 民主党政権に関しては社会民主主義と新自由主義の呉越同舟といった面もありましたが、責任あるポジションについたがゆえに、かえって予算制約に縛られて「萎縮した」というのは似ています。

 ただ、日本と韓国にはやはり大きな違いもあります。それが最後の第5章「朴槿恵政権の憂鬱」で指摘されている労働市場の流動性です。
 韓国の労働者の平均勤続年数は短く、226pに載っている主要国における平均勤続年数(2010年)の表では男女とも米国に次ぐ短さとなっています。
 それゆえに日本とは違い社会民主主義的な改革もしやすいですし(転職が多い社会では日本のような組合別の医療保険や年金は不便)、また同時にFTAのような貿易の自由化も行いやすいのです(この本の233ー236pでは水産物の自由化を巡る交渉に無関心な漁民たちの様子が紹介されている)。

 このようにこの本は近年の韓国の政治について教えてくれると同時に、日本の政治を考える上での比較対象を提示してくています。
 通商政策や、福祉の制度の一部(中身はともかくとして)に関して、韓国は日本よりもある意味で先行しています。その韓国の動きを知ることで日本のこれからの進路についても考えることができるのではないでしょうか。そういった意味でも非常に面白く参考になる本です。


先進国・韓国の憂鬱 (中公新書 2262)
大西 裕
4121022629
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★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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