矢内原忠雄は東京帝国大学で「植民政策学」を講じた社会科学者であり、内村鑑三の影響を受けた無教会主義のキリスト教徒であり、矢内原事件で大学を追われた人物であり、戦後は東大の総長となった戦後民主主義を象徴する人物ともなりました。
このような経歴を見ていくと、矢内原は時代の圧力に逆らった平和主義者であり、良心的知識人であった、とまとめたくなりますが、矢内原にはそうした「良心的知識人」の枠には収まりきらない宗教的なパッションがあります。それを含めて矢内原の生涯と思想を改めて検討してみせたのがこの本です。
矢内原は晩年に次のように記しています。
目次は以下の通り。
目次を見ても分かるように、この本は矢内原の評伝であり、その誕生から死までが描かれているわけですが、中心となるのはやはり矢内原のキリスト教思想になります。
矢内原は1893年に現在の愛媛県今治市に生まれています。父はこの地方で最初の西洋医であり、その子の忠雄も幼い頃からその秀才ぶりを発揮し、わずか5歳で尋常小学校に通い始めています。
その後、神戸中学校に進み、1910年には第一高等学校に入学しています。まさにエリートと言っていいでしょう。
矢内原の同級生には芥川龍之介、菊池寛、久米正雄ら、1つ上には近衛文麿、2つ上には河合栄治郎、田中耕太郎らがいます(12p)。また、当時の校長は新渡戸稲造でした。
この一高時代に矢内原に決定的な影響を与えたのが内村鑑三です。友人の三谷隆信の影響もあってキリスト教に強い関心を持つようになった矢内原は、内村鑑三の聖書研究会に入会し、さらに内村門下の帝大生や一高生の集まりである柏会にも入会します。
この本では1912年に内村の娘が亡くなった際の内村の振る舞いに、矢内原が「抵抗する事のできない権威」を感じたということが紹介されています。自分の娘の告別式において「この式はルツ子の結婚式であります」「天国に嫁入れさするのであります」と述べた内村の行動は字として読むとエキセントリックにしか思えませんが、何か得も言われぬ迫力があったのでしょう(19-20p)。
1913年、矢内原は東京帝国大学法科大学政治学科に進学します。その後、朝鮮で働くことを模索したりしましたが、結局は1917年に住友に就職し、別子銅山で働きました。
1920年、矢内原は大学からの誘いを受けて東京帝国大学経済学部助教授に就任します。経済学部は前年に法科大学から分離したばかりの新設学部で、新渡戸稲造の植民政策講座の後任として矢内原は採用されました。
その後、矢内原は2年余りの欧米留学い出発し、ロンドンやベルリンなどで過ごしたあと、1923年から講義を担当します。
植民政策とは移民などによる植民活動や植民地統治に関する学問で、矢内原はこれを経済学、社会学、政治学を横断する独立した学問として確立しようとしました(58p)。
矢内原は英帝国モデルを高く評価しています。英帝国には植民地が自主国民へと発展していくプロセスや、統治関係が互恵的関係に発展していくプロセスがあり(65p)、日本と朝鮮や台湾の関係においても現地に議会を設置する自治主義を模索していました。
また、中国に対しては中国ナショナリズムを評価する立場から、南京政府と平和的な関係を築くべきだと主張しています(80p)。
ただ、小林英夫『<満洲>の歴史』(講談社現代新書)でとり上げられている「満洲農業移民不可能論」は紹介されていませんし、社会科学者としての矢内原については記述はやや弱いと思います。
一方、キリスト教者としての矢内原に関する記述は充実しています。
1930年に内村鑑三が亡くなり、その遺志に従って聖書研究会は解散されます。内村鑑三の無教会主義は組織などを残さないものでしたが、その「預言者」としての立ち位置のようなものが矢内原へと引き継がれていくのです。
内村は「日本的キリスト教」という言葉を使い、「日本」という国家単位で「罪」や「迫害」などを考えたところに一つの特徴がありますが(104-106p)、矢内原もこの「日本」という単位にこだわりました。
矢内原は天皇を信奉してもいるのですが、その天皇と国民がキリスト教の<絶対神>を信仰することが必要だというのです(109-111p)。
矢内原は二・二六事件に衝撃を受け、ある種の終末的な考えを深めていきます。
そして日中戦争が勃発した1937年にはいわゆる矢内原事件によって大学を追われることになります。『中央公論』に掲載しようとした「国家の理想」という論文と、「神の国」という講演がとり上げられ、特に「神の国」の中の「一先づ此の国を葬つてください」という表現が問題視されました。
この矢内原事件については将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書)という優れた研究もありますが、本書を読むと、矢内原の「預言者」的な振る舞いが引き起こした事件という印象も強くなります。
大学を追われたあとも矢内原の言論活動・伝道活動はつづきました。『嘉信』という雑誌を創刊し、「自由ヶ丘集会」と呼ばれる集会を開くなど、警察などによる監視がつづく中でも矢内原の活動は衰えませんでした。
しかし、このころの矢内原の言説には奇妙な点もあります。この本ではそのあたりが深く掘り下げられています。
矢内原は内村の考えを引き継ぎ、日本でこそ「神の国」が実現すると考えていたのですが、日中戦争によってその希望は失われつつあるといいます。矢内原は日中双方に戦争を止めるように呼びかけるのですが、そこには中国に対して「降参」を呼びかけているようにみえる箇所もあります(152p)。
矢内原の議論の特徴として「個人の悔い改めが日本国民の救いへと飛躍するところ」(154p)があります。「悔い改め」というのはキリスト教で重視されている概念ですが、その個人的行為が日本の運命のようなものに結びつくのです。そして、それを媒介するものとして天皇が想定されているということを考えると、矢内原が「リベラリスト」のようなカテゴリーにはあてはまらない人物であるということが見えてくると思います。
また、矢内原は「非戦」を訴えましたが、実際の戦争への抵抗といった考えは希薄です。戦争は一種の耐えるべき受難と捉えられています。
矢内原にとって、終戦は日本国民がキリスト教を受け入れ、日本において「神の国」が実現されることに近づいたことを意味していました。
特にこの時期、天皇がキリスト教に改宗することにかなり期待していたようで、45年12月の公演では「陛下よどうぞ聖書をお学び下さい」と呼びかけていますし(187p)、昭和天皇の「人間宣言」については「之れ日本の救の基礎なり、出発なり」と日記の欄外に記してています(189p)。さらに49年11月には昭和天皇に対して「新渡戸稲造について」というテーマで進講を行っています。
しかし、50年頃になると天皇がキリスト教に改宗する望みが消えていき、矢内原は戦後の日本や天皇に失望していくことになります。
一方で、大学に復帰した矢内原は南原繁学長のもとで要職を務め、1951年には東京大学の総長となります。学生運動への対応などに苦慮することもありましたが、総長就任もあって『嘉信』の読者は増え、無教会キリスト者の数も増えていきます。
ただし、冒頭にも引用したようにキリスト教へのアレルギーというのも根強く、「公共的知識人としての矢内原への期待と、矢内原自身が抱いている「預言者」としての自覚や使命感との間のズレがあらわれ」(226p)ることになるのです。
このようにこの本は、矢内原の生涯を追いつつ、矢内原自身の思想と世間からのイメージの「ズレ」を丁寧に描き出しています。
戦争の時代の「狂気」に対抗するにはそれに負けない「良識」が必要だと考えられていますが、時代に逆らった矢内原を支えたものは「良識」だけではなく、やや非合理的とも言える「信仰」でもあったのです。
さらにここから近代日本におけるキリスト教の位置づけや、キリスト教の信仰そのものについても考えさせる、重厚な内容の本だといえるでしょう。
矢内原忠雄――戦争と知識人の使命 (岩波新書)
赤江 達也

このような経歴を見ていくと、矢内原は時代の圧力に逆らった平和主義者であり、良心的知識人であった、とまとめたくなりますが、矢内原にはそうした「良心的知識人」の枠には収まりきらない宗教的なパッションがあります。それを含めて矢内原の生涯と思想を改めて検討してみせたのがこの本です。
矢内原は晩年に次のように記しています。
私が各地で平和や民主主義や教育について一般講演をするとき、聴衆の間から、「矢内原さんの話はよいが、終わりのところになってキリスト教のことを言われる。あれがなければもっとよいのに」、という批評があるそうである。(225p)矢内原本人は、日本におけるキリスト教への理解のなさを嘆いてこのような文章を書いたのでしょうが、この本を読むと、矢内原の多くの人から受け入れられた部分と、受け入れられなかった「あれ」の部分というのが見えてくると思います。
目次は以下の通り。
第1章 無教会キリスト者の誕生―一九一〇年代
第2章 植民政策学者の理想―一九二〇~三七年
第3章 東京帝大教授の伝道―一九三〇年代の危機と召命
第4章 戦争の時代と非戦の預言者―一九三七~四五年
第5章 キリスト教知識人の戦後啓蒙―一九四五~六一年
目次を見ても分かるように、この本は矢内原の評伝であり、その誕生から死までが描かれているわけですが、中心となるのはやはり矢内原のキリスト教思想になります。
矢内原は1893年に現在の愛媛県今治市に生まれています。父はこの地方で最初の西洋医であり、その子の忠雄も幼い頃からその秀才ぶりを発揮し、わずか5歳で尋常小学校に通い始めています。
その後、神戸中学校に進み、1910年には第一高等学校に入学しています。まさにエリートと言っていいでしょう。
矢内原の同級生には芥川龍之介、菊池寛、久米正雄ら、1つ上には近衛文麿、2つ上には河合栄治郎、田中耕太郎らがいます(12p)。また、当時の校長は新渡戸稲造でした。
この一高時代に矢内原に決定的な影響を与えたのが内村鑑三です。友人の三谷隆信の影響もあってキリスト教に強い関心を持つようになった矢内原は、内村鑑三の聖書研究会に入会し、さらに内村門下の帝大生や一高生の集まりである柏会にも入会します。
この本では1912年に内村の娘が亡くなった際の内村の振る舞いに、矢内原が「抵抗する事のできない権威」を感じたということが紹介されています。自分の娘の告別式において「この式はルツ子の結婚式であります」「天国に嫁入れさするのであります」と述べた内村の行動は字として読むとエキセントリックにしか思えませんが、何か得も言われぬ迫力があったのでしょう(19-20p)。
1913年、矢内原は東京帝国大学法科大学政治学科に進学します。その後、朝鮮で働くことを模索したりしましたが、結局は1917年に住友に就職し、別子銅山で働きました。
1920年、矢内原は大学からの誘いを受けて東京帝国大学経済学部助教授に就任します。経済学部は前年に法科大学から分離したばかりの新設学部で、新渡戸稲造の植民政策講座の後任として矢内原は採用されました。
その後、矢内原は2年余りの欧米留学い出発し、ロンドンやベルリンなどで過ごしたあと、1923年から講義を担当します。
植民政策とは移民などによる植民活動や植民地統治に関する学問で、矢内原はこれを経済学、社会学、政治学を横断する独立した学問として確立しようとしました(58p)。
矢内原は英帝国モデルを高く評価しています。英帝国には植民地が自主国民へと発展していくプロセスや、統治関係が互恵的関係に発展していくプロセスがあり(65p)、日本と朝鮮や台湾の関係においても現地に議会を設置する自治主義を模索していました。
また、中国に対しては中国ナショナリズムを評価する立場から、南京政府と平和的な関係を築くべきだと主張しています(80p)。
ただ、小林英夫『<満洲>の歴史』(講談社現代新書)でとり上げられている「満洲農業移民不可能論」は紹介されていませんし、社会科学者としての矢内原については記述はやや弱いと思います。
一方、キリスト教者としての矢内原に関する記述は充実しています。
1930年に内村鑑三が亡くなり、その遺志に従って聖書研究会は解散されます。内村鑑三の無教会主義は組織などを残さないものでしたが、その「預言者」としての立ち位置のようなものが矢内原へと引き継がれていくのです。
内村は「日本的キリスト教」という言葉を使い、「日本」という国家単位で「罪」や「迫害」などを考えたところに一つの特徴がありますが(104-106p)、矢内原もこの「日本」という単位にこだわりました。
矢内原は天皇を信奉してもいるのですが、その天皇と国民がキリスト教の<絶対神>を信仰することが必要だというのです(109-111p)。
矢内原は二・二六事件に衝撃を受け、ある種の終末的な考えを深めていきます。
そして日中戦争が勃発した1937年にはいわゆる矢内原事件によって大学を追われることになります。『中央公論』に掲載しようとした「国家の理想」という論文と、「神の国」という講演がとり上げられ、特に「神の国」の中の「一先づ此の国を葬つてください」という表現が問題視されました。
この矢内原事件については将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書)という優れた研究もありますが、本書を読むと、矢内原の「預言者」的な振る舞いが引き起こした事件という印象も強くなります。
大学を追われたあとも矢内原の言論活動・伝道活動はつづきました。『嘉信』という雑誌を創刊し、「自由ヶ丘集会」と呼ばれる集会を開くなど、警察などによる監視がつづく中でも矢内原の活動は衰えませんでした。
しかし、このころの矢内原の言説には奇妙な点もあります。この本ではそのあたりが深く掘り下げられています。
矢内原は内村の考えを引き継ぎ、日本でこそ「神の国」が実現すると考えていたのですが、日中戦争によってその希望は失われつつあるといいます。矢内原は日中双方に戦争を止めるように呼びかけるのですが、そこには中国に対して「降参」を呼びかけているようにみえる箇所もあります(152p)。
矢内原の議論の特徴として「個人の悔い改めが日本国民の救いへと飛躍するところ」(154p)があります。「悔い改め」というのはキリスト教で重視されている概念ですが、その個人的行為が日本の運命のようなものに結びつくのです。そして、それを媒介するものとして天皇が想定されているということを考えると、矢内原が「リベラリスト」のようなカテゴリーにはあてはまらない人物であるということが見えてくると思います。
また、矢内原は「非戦」を訴えましたが、実際の戦争への抵抗といった考えは希薄です。戦争は一種の耐えるべき受難と捉えられています。
矢内原は、植民地朝鮮の人びとに対して植民本国である日本への「服従」を求め、日本に侵略されている中国の国民に対しては「降参」を勧める。そして、日本の青年には死を受け入れる姿勢を説いている。そこの共通しているのは、目の前の苦難は神から与えられた試練であり、それを受容することこそが信仰的な態度だという考えである。(176p)
矢内原にとって、終戦は日本国民がキリスト教を受け入れ、日本において「神の国」が実現されることに近づいたことを意味していました。
特にこの時期、天皇がキリスト教に改宗することにかなり期待していたようで、45年12月の公演では「陛下よどうぞ聖書をお学び下さい」と呼びかけていますし(187p)、昭和天皇の「人間宣言」については「之れ日本の救の基礎なり、出発なり」と日記の欄外に記してています(189p)。さらに49年11月には昭和天皇に対して「新渡戸稲造について」というテーマで進講を行っています。
しかし、50年頃になると天皇がキリスト教に改宗する望みが消えていき、矢内原は戦後の日本や天皇に失望していくことになります。
一方で、大学に復帰した矢内原は南原繁学長のもとで要職を務め、1951年には東京大学の総長となります。学生運動への対応などに苦慮することもありましたが、総長就任もあって『嘉信』の読者は増え、無教会キリスト者の数も増えていきます。
ただし、冒頭にも引用したようにキリスト教へのアレルギーというのも根強く、「公共的知識人としての矢内原への期待と、矢内原自身が抱いている「預言者」としての自覚や使命感との間のズレがあらわれ」(226p)ることになるのです。
このようにこの本は、矢内原の生涯を追いつつ、矢内原自身の思想と世間からのイメージの「ズレ」を丁寧に描き出しています。
戦争の時代の「狂気」に対抗するにはそれに負けない「良識」が必要だと考えられていますが、時代に逆らった矢内原を支えたものは「良識」だけではなく、やや非合理的とも言える「信仰」でもあったのです。
さらにここから近代日本におけるキリスト教の位置づけや、キリスト教の信仰そのものについても考えさせる、重厚な内容の本だといえるでしょう。
矢内原忠雄――戦争と知識人の使命 (岩波新書)
赤江 達也
