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2018年05月

木村光彦『日本統治下の朝鮮』(中公新書) 7点

 「植民地支配にはプラスの面もあったのか?」、これは非常に難しい問題であり、特に日本の朝鮮半島支配に関しては問いを立てることすら難しい問題です。
 日本の台湾統治に関しては、八田與一の存在やその後の国民政府の統治のまずさもあって「良いところもあった」と言えるかもしれませんが、朝鮮半島統治に関しては創氏改名などの施策もあって、民族の誇りを大きく傷つけたという評価は揺るがないと思います。
 けれども、「純粋に経済的な部分に限ればどうなのか?」、本書はそんな疑問に国際経済学や開発経済学を専攻し、朝鮮半島の経済史についても研究してきた著者が応えようとした本です。
 実は『日本統治下の朝鮮』という同タイトルの本は岩波新書で山辺健太郎が書いているのですが、著者はこの本を「はじめに結論ありき」の性格が強いとし、実証主義に徹した姿を提示したいとしています(iii-iv p)。
 取り扱いにやや注意すべき点もあると思いますが、あまり類書のない貴重な仕事となっています。

 目次は以下の通り。
序章 韓国併合時-1910年代初期の状態とは
第1章 日本の統治政策-財政の視点から
第2章 近代産業の発展-非農業への急速な移行
第3章 「貧困化」説の検証
第4章 戦時経済の急展開-日中戦争から帝国崩壊まで
第5章 北朝鮮・韓国への継承-帝国の遺産
終章 朝鮮統治から日本は何を得たのか

 韓国併合当時、朝鮮半島は農業中心の社会でした。当時の朝鮮の総人口は1500万~1600万程度と考えられていますが、朝鮮の全戸口の80%が農家でした(6-7p)。
 米の収量でいうと南朝鮮が一反あたり1石、北朝鮮が一反あたり0.8石程度、当時の日本が一反あたり2石程度だったことを考えると、生産性は高いとは言えませんでした(7-8p)。
 
 教育に関しては書堂(ソダン)と呼ばれる伝統的な初等教育機関が存在しましたが、基本的には男子のみで、儒学の古典を用いた教育が行われていました。
 儒学が盛んだったのは慶尚道などの南部ですが、書堂の教育に関しては北朝鮮のほうが普及していたといいます(16p)。

 1910年以降、朝鮮総督府を通じた日本の朝鮮統治が始まるわけですが、日本は総督府に多くの人員を送り込みました。
 1926年末の段階で、帝国の官僚総数は14.8万人でしたが、総督府が2.8万人で最大でした(19p)。また、人員構成では一貫して内地人が朝鮮人よりも多く、イギリスのインド統治などとは違って、日本の朝鮮統治が直接統治であったことを反映しています。
 
 総督府の歳入は地税や関税などの税と日本からの補充金、そして公債金で構成されていました。1911年の段階では税収に匹敵する補充金がありましたが、補充金は年々減少し、1919年についに全廃されています(30pの表1-6参照)。
 しかし、1919年の万歳騒擾事件(三・一独立運動)をきっかけに日本は統治のしくみを改め、憲兵を排除して普通警察への転換を図ります。この警察官の増員によって再び予算は膨張、補充金も復活することになります。

 総督府はまず土地調査事業を行いました。従来はこの土地調査事業によって朝鮮の多くの農民が土地を奪われたとされていますが、近年の研究ではこれは誤りだとされているといいます(41p)。
 また、租税負担率を見ると1911-1915年の段階で3.9%と内地の13.1%、台湾の9.6%とかなり低くなっています。この差は年とともにつまってくるのですが、経済力の劣る朝鮮では租税の負担も抑えられたのです(42pの表1-12参照)。

 第2章では、産業の発展についてとり上げられています。冒頭で産業構造の変化を示した表が掲げられており、1912年の段階では農林水産業68.1%・鉱工業4.9%だったのが1939年には農林水産業41.1%・鉱工業18.6%と、日本統治下において産業構造の変化が進んだことがわかります(46pの表2-1参照)。

 農業では米の生産が大きく伸びました。米の生産量は1910年代初め1200万石前後でしたが、1937年には2700万石を記録しています(48p)。これは品種改良や肥料の普及などにより反収が上がったからです。この朝鮮米の増産は内地の農家にも大きな影響を与え、1930年代になると朝鮮米の移入に対する反発が強まっています。
 一方、大麦、粟、大豆などの畑作は停滞しました。棉作は朝鮮総督府によって奨励され、なかなか計画通りには進まなかったものの、その生産量は1930年代末には1910年代初頭の6倍まで増加しています(58p)。

 鉱工業に関しては、今まで1910年に出された会社の設立を許可制とする「会社令」によって起業が抑圧されたとの見方が強くありましたが、朝鮮人の会社設立の許可率は高かったといいます(59-60p)。
 朝鮮において、まずさかんになったのが籾摺・精米業です。日本に輸出する前に米を精米する必要があり、そのための工場が各地につくられたのです。
 また、石炭の採掘もさかんに行われ、特に平壌の無煙炭は海軍に必要とされ、煉炭製造所もつくられました。
 さらに朝鮮半島の資源を活かす形で、製鉄や非鉄金属、セメント、製糸・綿紡織、製紙・パルプなどの工場もつくられていきます。

 1920年代後半になると、日窒の野口遵が朝鮮半島に次々と事業を展開していきます。
 野口は1926年に朝鮮水力発電株式会社を設立し、鴨緑江の支流などで電源開発を行い、さらにその電力を使って北朝鮮東部の興南にコンビナートを建設しました。このコンビナートの規模は「帝国日本の全工業施設のなかでも屈指であるばかりでなく、世界でも有数といわれた」(77p)と言います。
 野口はさらに北朝鮮北東部の永安で石炭から造る人造石油の開発などにも取り組んでいます。

 大規模な工場に関しては無い知人経営のものが多いですが、工場全体で見ると朝鮮人経営の工場も増加し、1932年には朝鮮人経営の工場の数が内地人経営の工場の数を上回っています(83pの表2-3参照)。
 また、著者は第2章の最後で、注目すべきこととして朝鮮半島の経済における華人の存在感の薄さをあげ、これが朝鮮人がさまざまな事業に進出できた理由の1つだと考えています(86p)。

 近代的な産業が勃興したとしても、朝鮮人の生活が向上したかどうかはまた別の問題です。朝鮮人は一方的に収奪され、経済発展の恩恵を受けることができなかったというのが今までの見方です。
 この「収奪」を裏付けるものとして、自作農の減少と小作農の増加、1935年に東畑精一と大川一司が指摘した一人当たりの米消費量の減少などがあげられています。しかし、東畑と大川のデータは1939年に修正されており、さらに最近の研究ではさらに修正され、一人当たりの米消費量の減少は微減にとどまり、カロリー消費量はほとんど減少しなかったと言います(92-93p)。

 人びとの生活水準を客観的に示すと考えられるのが身長、体重などの体格のデータです。特に身長は生活水準が良ければ大きくなり、悪くなると小さくなります。朝鮮では学生と勤労者を比べると、豊かな階層出身である学生の方が平均身長が高くなっています(99pの表3-1参照)。
 著者は1930-40年のデータと、1895-1909のデータを比較していますが、これを見ると特に世代による差は見られません。ここから著者は日本の植民地支配によって急速に生活水準が悪化したということはなかったとみています。

 日本の朝鮮支配は1937年の日中戦争勃発以降、大きな急展開を見せます。第4章では、この大きな変化が語られています。
 まず、戦時体制に伴い、朝鮮総督府の人員と財政は膨張しました。増税と公債金の増加によって歳入は激増しましたが、同じように臨時軍事費などを中心に歳出も伸びました。また、1944-45年度の予算では、朝鮮人官僚の給与を内地官僚と同水準に引き上げる措置なども取られています(112p)。
 
 農業では統制が強化され、農村労働の組織化・共同作業化、営農共同施設の拡充、女子労働力の動員などが行われました。米の供出も強化され、1943年には米の自由販売が禁止され、強制供出となります。
 地主に対する統制も強化され、1939年の小作料統制令によって小作料を自由に変更することはできなくなりました(119p)。地主の権限は総督府に奪われて形骸化したのです。
 しかし、内地や鉱工業部門への労働力の流出、過大な供出を強いた結果による生産意欲の低下などによって、1940年代、農業生産は大きく低下します(122p)。

 工業に関しては内地から遅れること6年、1937年に重要産業統制法が施行されます。この後、工業の統制が進み、工場の国営化なども行われます。
 鉱業分野においては新資源の探索がさかんに行われ、コバルト、タングステンなどの希少鉱物の採掘が行われるとともに、原爆製造の研究のためにウランの探索も行われ、朝鮮のモナザイトが注目されました(140ー142p)。

 工業分野では、1940年代になると軍の要請などを受けて朝鮮での工場建設の動きが加速していきます。長期戦に備えるために、満州経済と一体化するかたちで本国から独立した経済体制の確立が目指されたのです。
 南朝鮮でも兵器や造船などの工場建設が進み、これらは空襲を受けなかったために戦後も無傷で残りました。
 1940年以降、農業生産とは対照的に朝鮮の鉱工業生産は増大しています(163p)。

 第5章では、日本の植民統治が韓国と北朝鮮にいかに継承されたのかという問題が検討されています。
 人的な面から言うと、韓国ではいわゆる「親日派」と呼ばれる人びとが政治や経済の世界で力を持ち続けたの対して、北朝鮮ではそうした人びとは徹底的に排除されました。ですから、韓国での「連続性」、北朝鮮での「非連続性」ということになるのですが、著者は逆に北朝鮮での「連続性」と韓国での「非連続性」に注目します。

 日本のファシズムと北朝鮮の共産主義は全体主義というイデオロギー面で共通していたという議論は少し粗いと思うのですが、統制経済の共通性や、日本人技術者を抑留し、工場生産の志津に当たらせた点、そして北朝鮮に残された日本の工場群など、確かに北朝鮮こそが帝国日本の遺産を受け継いだといえるのかもしれません。

 終章では、「朝鮮統治から日本は何を得たのか」と題し、朝鮮統治が日本経済にもたらした影響などを分析しています。朝鮮米の流入を除けば、朝鮮統治は日本経済に大きな影響をもたらさなかったとのことですが、朝鮮経済への影響ということはカッコに入れてあることは注意する必要があると思います。
 また、最後に「総合的にみれば、日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治したといえよう」(202p)との一文がありますが、これは治安に関するデータや統治コストの国際比較などのデータがないと言えないのではないかと思います。やや勇み足ではないでしょうか。

 というわけで、やや取り扱いに注意すべき点もあると思うのですが、日本の朝鮮統治を経済データの面から明らかにしようとした貴重な仕事であり、日本の植民地支配に違った側面から光を当てるものとなっています。


日本統治下の朝鮮 - 統計と実証研究は何を語るか (中公新書 2482)
木村 光彦
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麻田雅文『日露近代史』(講談社現代新書) 7点

 『満蒙』(講談社選書メチエ)、『シベリア出兵』(中公新書)などの著作で、日露関係(『満蒙』では中国も入る)を日露双方の史料を使って分析してきた著者が、幕末から終戦にいたる約100年の日露関係史を伊藤博文、後藤新平、松岡洋右というロシア(ソ連)と関係に深かった3人の政治家を中心に描いてみせた本。参考文献などを含めると470ページを超えるボリュームで、まさに力作と言っていいでしょう。
 全体としては、対立の歴史だけではなかったということを強調するために、日露戦争やシベリア出兵については特に詳しくは触れず、戦間期の動きに注目しています。
 
 目次は以下の通り。
序章 未知の隣国への期待―幕末
第一章 樺太と朝鮮での覇権争い―明治時代
第二章 満州で結ばれた互恵関係―日露戦争後~大正時代
第三章 ユーラシア大陸を跨ぐ未完の同盟―昭和戦前
終章 ソ連に託された希望―終戦前夜

 序章においてまず印象的なのは、幕末の日本人の中でロシアに対する評価が高いことです。
 ペリーに遅れること1ヶ月半、ロシアのプチャーチンが日本にやってくるわけですが、幕府の礼法にしたがって長崎に入港したプチャーチンに幕府の役人は好印象をいだきました。
 また、吉田松陰がペリーの艦隊に乗り込んでアメリカへの密航を企てたことはよく知られていますが、その前に彼はプチャーチンの艦隊に乗り込むことも考えています(しかし、松蔭が長崎に着く4日前にプチャーチンは出港していた)。さらに橋本左内もイギリスに対抗するためにロシアと同盟することを考えています(左内は「イギリスは荒っぽくて欲深く、ロシアは落ち着いて威厳がある」(27p)と考えていた)。
 一方で、徐々に南下の動きを見せるロシアに対する警戒感も高まっていき、横井小楠はイギリスを見習うべきだと主張しましたし、福沢諭吉はロシアの専制的な体制を批判しました。

 明治政府が成立して、まず懸案となったのが樺太の取り扱いです。幕府とロシアの間で樺太は日露共有の地とされましたが、すぐに両国の間で摩擦が発生しました。
 この本の主人公の1人である伊藤博文は1869年という早い段階で、樺太の放棄の主張を大隈重信とともに提出しています(40p)。
 一方、西郷隆盛は樺太への派兵も考えており、北海道の鎮台で自らがトップを務めることなどを考えていた時期もあったそうです(47p)。
 その後、征韓論で西郷が下野すると、政府の中心となった大久保利通が樺太問題の解決に取り組みます。大久保は元幕臣の榎本武揚を交渉役とし、樺太千島交換条約を締結。日露関係の安定化に成功するのです。

 このように日露のとりあえずの懸案は回避されましたが、そうした中でロシア皇室との友好に積極的だったのが明治天皇でした。
 明治天皇はアレクサンドル2世の4男、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ親王が来日した際、横浜に停泊していた軍艦を訪問しました。1881年のアレクサンドル2世が暗殺されると2回にわたってロシア公使館に勅使を送るなど怒りと弔意を示しています。
 
 また、ロシアのニコライ皇太子が襲われた大津事件においても明治天皇は自ら京都にまで赴いてお見舞いをし、ニコライ2世が帰国する際には周囲の反対を押し切ってロシア戦に乗り込み、歓待を受けています。
 その後の日露戦争においても、明治天皇は一貫して消極的で、開戦の翌日に宮中で行われた開戦奉告祭は掌典長に「代拝」させ欠席しています(133p)。

 そんな明治天皇の信頼を受け、明治期の日露外交の中心となったのが伊藤博文でした。
 伊藤は1883年のアレクサンドル3世の戴冠式に特命全権大使として出席し、大津事件においては戒厳令を出して憲法を停止させ、犯人の津田三蔵を死刑にする方法を提案しています(このとき後藤象二郎と陸奥宗光は刺客に暗殺させることを提案したが、伊藤は「無法の処置」だとして取り合わなかった(74-75p))。

 大津事件はうまく収まりましたが、その後も日露関係は良好とはいえませんでした。特に三国干渉が起こると、ロシアに対する「臥薪嘗胆」が唱えられるようになりますが、そうした中でも伊藤はロシアとの協調の可能性を探ります。
 ニコライ2世の戴冠式に当時首相の身でありながら自ら出席しようとし、その後も日露戦争回避のためにさまざまな動きをしました。

 日英同盟が持ち上がってからも、伊藤のファースト・オーダーは日露協商でした。イギリスは韓国に対して利害がなく、朝鮮半島の問題を片付けるにはロシアとの協商が「「得策」であり、「本道」だ」(113p)と考えたからです。
 1901年、首相を辞した伊藤はロシアへと赴き、ニコライ2世と会見します。さらに伊藤は朝鮮半島を巡る協定案を打診しますが、ロシア側から色よい返事は得られず、日本は日英同盟を選択しました。
 それでも伊藤は日露協商の実現に期待をかけ続け、開戦後も早期講和を訴えています。

 日露戦争後、しばらくすると日露関係は改善に向かいます。敗戦国のロシアには「外交の息継ぎ」(149p)が必要だったからです。
 1907年には第一次日露協約が結ばれ、日本の韓国における権益とロシアの外モンゴルにおける権益を互いに承認します。こうしたことを背景にハーグ密使事件において、ロシア代表の議長は韓国からの密使に会おうとはしませんでした(151-152p)。

 日露戦争後に対ロシア外交を積極的に進めようとしたのが後藤新平です。後藤は児玉源太郎のもとで台湾経営に手腕を発揮すると、日露戦争後は南満州鉄道株式会社の総裁として満州経営の任に当たります。
 後藤は、満鉄の経営を成功させるにはシベリア鉄道との接続が不可欠だと考えていました。満鉄は一地方の鉄道に過ぎませんが、シベリア鉄道と接続することで、国際鉄道となるのです(166p)。そこで、後藤はビジネスの面からロシアに接近しました。

 後藤はロシアとの交渉を進めるために伊藤に接近します。ロシアの蔵相で親日的と考えられていたココフツォフが極東の視察に来ると知ると、後藤は彼と伊藤を引き合わせることを計画します。
 伊藤もこの話に乗り、そのためにハルビンに向かうのですが、そこで伊藤は安重根に暗殺されます。伊藤の死は日露両国に大きな衝撃を与えましたが、ロシア側の軟化もあり日露関係は改善していきます。
 韓国併合の際も、韓国は最後の期待をロシアにかけ、高宗はニコライ2世に「陛下が日本の軛からわれわれを開放する日が来ることを希望する」(187p)と書いた手紙を送りましたが、返信はありませんでした。
 
 その後も、後藤は桂太郎や寺内正毅を通じて、あるいは自らの手でロシアとの関係を深めようとします。
 外務省に基盤を持たない後藤はさまざまな人脈を使って独自の外交を展開しようとしたのです。
 
 第一次世界大戦が勃発すると、英露日の三国同盟案や英仏露日の四国同盟案が俎上に上がるようになります。しかし、当時の外相加藤高明は、日本外交の基軸はあくまでも日英同盟だとしてこれらの案に乗り気ではありませんでした。
 この加藤の態度に不満を持つ者は多く、山県有朋や松方正義といった元老の不満を背景に、後藤も政友会総裁の原敬と密談を重ねていました(199p)。特に山県の不満は大きく、加藤が辞任すると「国家の利益」(201p)とまで語っています。

 そして、1916年に事実上の軍事同盟である第四次日露協約が成立します。日露は同盟関係を結んだのです。
 ところが、この同盟関係は1917年のロシア革命によって終わりを迎えます。外相に就任した後藤が直面したのも、ロシアとの関係を深めるかという問題ではなく、シベリア出兵を行うべきかという問題でした。
 後藤は当初出兵に慎重でしたが、しだいに出兵に積極的になります。第一次世界大戦後の国益を考えた場合、シベリア出兵によって各国と強調し、発言権を得ることは重要だと考えたのです。

 1918年の8月に寺内内閣はシベリア出兵に踏み切りますが米騒動の影響もあって翌月には総辞職、外相の後藤も辞めることになります。
 結局、シベリア出兵は全くの失敗に終わり、ほぼ何も獲得できないまま、犠牲者を出すだけで終わりました。著者は「何か「戦利品」を得なければという、サンクコストの呪縛に陥った典型例が、シベリア出兵だろう」(218p)と述べています。

 ロシア革命により後藤の計画は頓挫しますが、後藤は新たに成立したソビエト政府との交渉に意欲を燃やします。
 後藤は東京市長を任期途中で辞め、北京におけるソ連の代表団の取りまとめ役だったヨッフェを日本に招きました。このとき、後藤は伊藤と桂の遺志を継ぐとして、その墓前で泣いたことが報道されましたが、これを見た西園寺は「相渝(かわ)らず後藤は芝居掛りをやるではないか、是では迚(とて)も大事は托されない」(220p)と語ったそうです。

 1925年、加藤高明内閣のもとで日ソ基本条約が結ばれます。この交渉に後藤は直接関わっていませんでしたが、ソ連は後藤を評価していたようで、1925年9月にヴィクトル・コップ駐日大使はスターリンに後藤への資金援助を提案しています(なお、提供されたかは不明(225p))。
 その後、田中義一内閣のもとで久原房之助と後藤がソ連に行きスターリンと会談しますが、日本共産党への弾圧事件である三・一五事件や山東出兵によって日ソ両国の関係は険悪になり、新たな協定などが結ばれることはありませんでした。
 1929年に後藤は病没。後藤は最後まで満州経営のためにソ連と手を結ぶ必要性を訴えていました。

 後藤の後を継ぐ形でソ連との提携に意欲を燃やしたのが松岡洋右です。松岡は関東都督府にいたころに後藤と知り合っており、ロシアと親しくすべきだという考えも後藤から引き継いだとしています(255p)。
 ただし、著者も何度か指摘するように松岡の証言には事実と合わないところがたびたびあり、後藤との関係もやや割り引いて考える必要があるでしょう。

 松岡といえば国際連盟の脱退時の姿が印象的ですが、実はジュネーブでの国連の会議に先立ってモスクワを訪れています。
 松岡はここでソ連に満州国を承認させることを狙いましたが、ソ連の望む不可侵条約が陸軍の反対で難しくなったこともあり、その目的は果たせませんでした。しかし、松岡はソ連に対して良い印象を持ったようで、帰国後の講演で「数百万人の餓死者を出しおっても微動だにしない。予定の行動を敢えてやる。このロシアと云う国は非常に偉い国である」(279p)などと述べています。このあたりは松岡がイカれた人物である証拠といえるでしょう。

 松岡は全体主義的な国家を夢見て、政党解消運動に奔走しますが、うまくいかず、南次郎に拾われるかたちで1935年に満鉄の総裁となります。
 その後、広田弘毅内閣のもとでの日独防共協定をきっかけに日ソ関係は悪化、さらに日中戦争がはじまると日ソ関係はさらに緊張し、張鼓峰事件やノモンハン事件における軍事衝突につながっていきます。
 一方、欧州では1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれます。日本はドイツに梯子を外された格好となりました。

 日本でもソ連と結ぶべしという声が高まる中、第2次近衛内閣で外相に就任したのが松岡でした。この人事には反対も多く、昭和天皇からも「松岡の外務大臣はどうだろうかと二度までもお言葉があった」(298p)そうですが、近衛は松岡に軍部を抑える役割を期待し、人事を押し通しました。
 
 松岡のプランはドイツと同盟を結び、それを後ろ盾としてソ連と手を結ぶことでした(299p)。モスクワでは東郷茂徳駐ソ大使が日ソ不可侵条約の締結に動いていましたが、松岡は東郷を更迭、あくまでも自らの手で日独同盟→日ソ連携を成し遂げようとします。
 
 三国同盟が締結されても、日ソの連携はなかなか成立しませんでした。日ソの連携を後押しするはずの三国同盟でしたが、スターリンはむしろこれによって日本の立場は悪化すると見ており、日本との関係改善を焦らなかったからです(314ー315p)。
 そこで松岡は、三国+ソ連の四国連携を目指して自らモスクワとベルリンを訪問します。ベルリンではヒトラーから「来るべき敵はアメリカとソ連だと明言」(328p)されますが、松岡は日ソ中立条約によって独ソを和解させるとして、帰路にモスクワで日ソ中立条約に調印します。帰国の際にはスターリンが見送りに来るなど、松岡は最大限の歓待を受けています。

 ところが、松岡の構想は独ソ戦の開始によって破綻します。松岡は独ソ関係の悪化を知らせる情報が次々と届いて独ソ戦が起こることを信じませんでしたが、これは実はスターリンも同じでした。
 1941年6月22日、ついに独ソ戦が始まりますが、ここで松岡は対ソ戦の開始を唱えます。戦後、松岡は軍部に対する「トリック」だと述べていますが(364ー365p)、6月25日の連絡懇談会で激高して述べた「独が勝ち、『ソ』を処分するとき、何もせずに取ると云うのは不可。血を流すか、外交をやらねばならぬ。面して血を流すのが一番宜しい」(368p)というのが当時の松岡の考えだったのではないでしょうか。
 そして、著者も指摘するように、これは後藤がシベリア出兵前に唱えた理屈と同じです。

 その後、松岡は日米交渉の邪魔者として近衛内閣から追放されます。辞任直後、松岡は「この戦争が終わり講和会議とならば、自分は日本代表として出席する」と語ったそうです(379p)。
 しかし、松岡がいなくなっても日米交渉は好転せず、独ソ戦でもドイツのもたつきがあり、北進の機運もしぼんでいきます。そして、1941年12月8日の日米開戦を迎えるのです。
 松岡は8日には「暗然たる表情」をしていたそうですが、10日には徳富蘇峰に「実に痛快、壮快!」と書いた手紙を送っています(383p)。

 終章では、敗北が濃厚になった日本がソ連に和平の仲介を依頼しようとした動き、ソ連の対日参戦、そしてシベリア抑留にいたる動きが描かれています。
 
 以上、長々と紹介してしまいましたが、本書はほぼ新書2冊分のボリュームを持つものであり、実際はこれに加えてロシア側からの見方や、日露関係以外の部分(松岡と対米交渉など)についても書かれています。まさに力作と言っていいでしょう。
 また、史料の豊富な引用により伊藤、後藤、松岡の3人のパーソナリティも浮かび上がってきます。3人ともやや芝居がかったところがるのですが、伊藤を除く2人に関しては、だから外交の本流は担えずロシアという傍流に行ったのか、それともこういった人物がロシアで受けるのか、興味深く思えました。

 ただ、ややわかりにくくなってしまっているのは後藤の位置づけでしょうか。本書では、伊藤-後藤という系譜を見ていますが、後藤は山県の藩閥勢力の一員とみなされることが多いですし、また、小林道彦『日本の大陸政策 1895‐1914』では、後藤と桂と児玉を山県らとも違う第三の勢力として位置づけています。児玉と伊藤は満州経営をめぐって対立しており、後藤は当然、児玉の側に位置づけられます。
 つまり、同じ親露派といっても伊藤と後藤ではその動機や背景が違うわけですが、そのあたりがこの本ではやや見えにくいと思います。
 人物に焦点を合わせた分、大部ながら読みやすい本に仕上がっていますが、読み取りにくくなった部分もあるかもしれません。


日露近代史 戦争と平和の百年 (講談社現代新書)
麻田 雅文
4062884763

水野一晴『世界がわかる地理学入門』(ちくま新書) 8点

 これは全国の地理が専門ではないのに地理を教えている社会科の教員に強くお薦めできる本。
 構成としては、熱帯気候、乾燥・半乾燥気候、寒帯・冷帯気候、温帯気候の4章からなっていて、それぞれの自然、気候メカニズム、農業、住民生活を紹介する形になっているのですが、それぞれ教科書の記述等よりも少しずつ深掘りする形になっていて役に立つと思います。
 また、狩猟採集民や遊牧民の生活などについても詳しくとり上げているので、世界史などを教える教員にも得るものが多いと思います。

 と、とりあえず教員の立場からこの本の魅力を語ってしまいましたが、教員ではない人が読んでも面白い本になっていると思います。
 カラー口絵のナミブ砂漠を移動する霧や、赤いパウダーを塗ったナミブ砂漠に住むヒンバの女性、チベット仏教ニンマ派の怪しげな曼荼羅などを見るだけで興味深いと思いますし、アフリカの邪術師の話やヒマラヤ地域のゾンビの話など、何か面白い話を求めている人にもお薦めできます。
 そして、もちろん地理を学び直すこともできます。

 網羅的に書かれていて要約していくことは難しいので、以下、面白かった点をいくつか書いていきたいと思います。

 まず、熱帯を扱った第一章で興味深いのは類人猿の話です。人間に近い類人猿といてチンパンジーとボノボがいますが、ボノボの社会が平和的であるのに対して、チンパンジーはオスの序列などをめぐって激しい争いが起こるなど暴力的です。
 この理由として、チンパンジーはゴリラと同じ地域に住み食べ物をめぐって競合しているが、ボノボはコンゴ川を挟んでゴリラのいない地域に住んでいるため食べ物を巡る争いに巻き込まれないからだという説が紹介されています。実際、ゴリラのいない地域のチンパンジーはそれほど凶暴ではないというのです(31-34p)。

 そして、このゴリラの生息地域は約2万年前の最終氷期において熱帯林が生き残った地域と重なっています。最終氷期にアフリカの熱帯林はほぼ消滅しましたが、わずかに熱帯林が残った地域があり、ゴリラはそこで生き延び、そのあと生息地域を広げることはなかったのです(42p)。

 熱帯地域の農業というと思い浮かぶのはプランテーションと焼畑農業です。
 プランテーションに関しては50pに各作物に必要な気温と降水量をまとめた表があり、天然ゴムは高温多雨、サトウキビは高温だけどそれほど雨は必要がない、茶はそれほど気温は高くなくてもよいが多雨が必要など、それぞれの作物に必要な気候条件がわかるようになっています(米や小麦、ジャガイモなども載っていて便利)。
 焼き畑に関しては、カメルーン南東部に住むバンガンドゥという農耕民の暮らしぶりが紹介されており、バナナの切らさないために時期をずらしながらバナナを植えるなどの工夫がわかります(63-64p)。

 熱帯に住む狩猟採集民の生活についてもいろいろと紹介されています。
 その一つとして、カメルーンの狩猟採集民バカ・ピグミーの人びとが乾季に行う狩猟採集行に同行した安岡宏和氏の研究が紹介されていますが、それによるとその期間中、一日あたり2390キロカロリーに相当する食物を獲得し、その内訳はカロリー換算で野生ヤムが全体の65%、野生動物が25%、蜂蜜8%、野生果実その他2%だったそうです(82p)。採集の占める大きさがわかります。

 このバカ・ピグミーの人びとは近隣農耕民をゴリラの化身とみなしているそうで、「身振りや振る舞い、興奮したときのうるささ、危険性から農耕民とゴリラの類似性を指摘」するそうで、「ゴリラのシルバーバックが威嚇する際に見せる胸を張る格好は、農耕民がバカ・ピグミーを見下すときの姿勢にそっくり」だといいます(85p)。
 他にもタンザニアで焼畑、狩猟採集などを行いながら暮らすトングヴェの調査をしていた女性研究者が体験した邪術師の話なども面白いです(93-96p)。

 第2章の乾燥・反乾燥気候でまず興味深いのやはりナミブ砂漠についてですね。
 海岸付近の白い砂が内陸にいくに従って赤くなっていく理由や、かつて水のあった時代の樹木が乾燥したまま残っている「死の谷」、ナミブ砂漠を横断する霧など、自然のダイナミズムを感じさせます(113-119p)。

 乾燥地域では植物も独特の発展を見せています。乾燥地域では葉から水分が蒸発するのを防ぐために葉が退化しているケースが多く(サボテンはその代表例)、また、水分を吸収するために根が非常に長くなっていたりします。
 ナミブ砂漠にもナラメロンという果実をつけるナラという植物が生えていますが、その根は数十メートルもあるそうです(129-130p)。
 季節河川の周囲には森林も形成されますが、そこに生えるアカキア・エリオロバも根が発達していて、背丈10センチほどの稚樹の根が230センチ以上あったそうです(136p)。
 
 このように乾燥地域において植物が生き残っていくのは大変ですが、一方、半乾燥地域のステップは穀倉地帯となっています。これは枯れた草の根が分解されてできた腐食が、夏の乾燥や秋と冬の寒さによってさらに分解されずに腐食が蓄積されるためです。これが肥沃な土地を生み出すのです(148-149p)。

 乾燥地域に住むさまざまな人びとの生活も紹介されています。
 ボツアナの狩猟民族サンは、10家族50人位のキャンプで行動し、獲物の所有権は射止めた人ではなく、狩猟具の提供者に帰属するというルールをもっています。これは優秀なハンターに獲物が集中しないようにするための知恵だと考えられます。そして、こうした獲物は平等に分配されるのです(160p)。
 ただし、大型のレイヨウなどの獲物を仕留められるのは月に一度あるかどうかで、普段の生活は女性たちの採集に支えられています(162p)。

 牧畜民ヒンバの女性は、鉄分を含む赤い石を砕いたパウダーを髪や肌に塗っています。これは強い日差しや乾燥、虫などから肌を守るためですが、一種の化粧にもなっているそうです。また、ヒンバの女性は水浴びをせず、体臭を消すために家の中で香木をたき、エプロンにその匂いを染み込ませています(171-172p)。
 
 寒帯・冷帯を扱った第3章では、まずは氷河が作り出した地形を、ストックホルムの急坂、ベルリン郊外の氷河湖やドラムリンと呼ばれる丘、ニューヨーク・マンハッタンの岩盤などを通して紹介しています。
 また、日本におけるカールとモレーンの例として野口五郎岳(こんな名前の山があり、しかもこれが野口五郎の芸名の由来だと初めて知りました!)がとり上げられています。

 人びとの生活としてはイヌイットの生活などがとり上げられていますが、カナダのイヌイットの60%が未成年という数字には驚きました。出生率が高い割に平均寿命が短く、若者中心の社会になっているそうです。そしてこの背後にはアルコール依存症の問題もあります(212ー213p)。

 また、この第3章では山岳地域の暮らしも取り扱っています。ここではインドのチベットに近い地域に住むモンパ民族の様子が興味深いです。
 モンパ民族の住居では入り口を小さくし、さらに段差を設けていますが、これはロランゲと呼ばれるゾンビを恐れているからです。ゾンビは背筋を伸ばしていて、また下を向くことができないため、小さな入口や段差はゾンビを防ぐ手段として有効なのです(243−244p)。
 他にも新築の家は妬まれるために、ピカピカの屋根の下に男根を模したものをぶら下げ、たいした家ではないとアピールするそうです(245p)。
 このわざと汚くして、たいしたものではないと思わせるやり方は、アイヌにもあって、アイヌの赤ん坊はテーネプ・テンネプ(汚物まみれ)、2〜3歳はポンション(小さなうんこ)、4〜5歳はションタク(うんこのかたまり)と呼ばれるといいます(302p)。

 第4章では温帯をとり上げています。
 ここでまず「なるほど」と思うのは、ヨーロッパの植生の単調さの理由。イギリスの植物の種数は約1500ですが、これは高尾山の種数とほぼ同じです(日本全体では約5000)。なぜ、こうなっているかというと、氷河期に植物は種を南に飛ばして生き延びようとしましたが、ヨーロッパではアルプス山脈やピレネー山脈が壁となってそれを阻んだからです。結果、わずかな植物しか残りませんでした(261ー262p)。

 その他、きわめて狭い地域に固有種が集中するケープ植物区系とケープ周辺の海域の説明や、先進国の都市問題、日本の地形の解説など、いろいろと読みどころがあります。

 以上、気になった部分をあげてみました、この本がいかに広い話題を取り扱っているかということがわかっていただけたのではないかと思います。
 もちろん、ここにはあげなかったオーソドックスな地理の説明(気候の違いをもたらす要因など)もなされており、地理学の基本的な部分を押さえることもできます。
 最初にも述べたように地理を担当している社会科の教員には非常に役に立つ内容ですし、それ以外の人にも楽しめる内容になっていると思います。


世界がわかる地理学入門――気候・地形・動植物と人間生活 (ちくま新書)
水野 一晴
4480071253

伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書) 8点

 フランスにおける政教分離の原則である「ライシテ」。2015年1月の『シャルリ・エブド』本社襲撃事件、同年11月のパリ同時多発テロ、いずれも事件直後にテロへの避難とともにライシテの原則が確認されました。
 このようにフランスという国家の基本原則ともなっているライシテですが、よくよく見ていくとその適用の仕方にはグラデーションがありますし、誰がどのように主張するかによってもそのニュアンスは違います。
 この本はそんなライシテの来歴と現状を丁寧に見ながら、「政教分離」というものの難しさを教えてくれます。移民や難民、多文化共生、あるいは表現の自由などに興味がある人に是非お薦めしたい本です。

 目次は以下の通り。
序章 共生と分断のはざまのライシテ
第1章 ライシテとは厳格な政教分離のことなのか
第2章 宗教的マイノリティは迫害の憂き目に遭うのか
第3章 ライシテとイスラームは相容れないのか
終章 ライシテは「フランス的例外」なのか

 まず、ライシテがどのようなものかということですが、これについて著者は「一義的な定義は不可能」としつつ、次のように述べています。
 それでもあえてひとつの定義を試みるならば、ライシテとは、宗教的に自律した政治権力が、宗教的中立性の立場から、国家と諸協会を分離する形で、信教の自由を保障する考え方、またはその制度のことである。法的な枠組みでもあるが、国民国家のイデオロギーとして、さまざまな価値観とも結びつく。それゆえ、ひとつの逆説として、宗教から自律しているはずのライシテ自体が、あたかもひとつの宗教であるかのような相貌で立ち現れてくる場合もあるだろう。(15ー16p)

 このライシテが「あたかもひとつの宗教」だというはひとつの大きなポイントです。
 ライシテは1905年の政教分離法がその基本となっていますが、その第一条に書かれているのは良心の自由の保障と自由な礼拝の保護であり、第2条に政教分離の原則が記されています。
 つまり、「良心の自由の保障」と「国家の中立性」の2つを両立させようとするのがライシテだと言えます。ところが、近年はこれが難しくなってきており、ライシテをめぐってさまざまな言説が生まれているのです。

 もともと、ライシテは共和国政府とカトリックの緊張関係の中から生まれました。1902年に首相となった反教権主義者のエミール・コンブは、宗教予算を維持する代わりに教会組織を政府の管理下に置こうとしましたが、それに対する反発もあり、上述の自由主義的な1905年の政教分離法が成立しています。
 その後もカトリックとの対立の中で、ライシテには修正が加えられており、カトリックもこれを受容していくようになりました。1959年にはドゴール政権のもとでカトリック系の私立学校に補助金を出すことを認めるドゥブレ法が制定されています(34p)。

 フランスの政教分離は厳格に見えますが、一方で大統領がカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、さらに仏教や正教会、イスラームの信仰団体の代表者を招く新年会が恒例化されており、「フランスのライシテには、政府が宗教の代表者を通じて管理や対話をするという発想」(38p)も見られます。
 例えば、右派のサルコジはイスラームの代表機関であるCFCMの設立にこぎつけ、統合のために一時的にムスリムを優遇するアファーマティブ・アクションのアイディアも示しましたが、同時に大統領になるとブルカ禁止法を成立させるなど、イスラーム的なアイデンティティに対して厳しい姿勢も見せました。

 また、近年は治安という要素とライシテの概念が混ざりあうこともあります。公立校におけるヴェールの禁止を定めた2004年の法律はライシテの原則に基づいていますが、2010年のブルカ禁止法はライシテではなく「公的秩序」という概念に基づいています(ライシテは個人の良心の自由を規定しており、個人の服装を取り締まることはできない)。
 そして、この治安という要素は左派も無視できないものとなっています。

 ライシテはカトリックに対する警戒から生まれましたが、歴史の中でカトリックをフランスのアイデンティティの中に組み込む「カト=ライシテ」と呼ばれる考えもあります。
 毎週ミサに通うものは2006年でフランス人全体の4.5%にまで落ち込んでおり(48p)、基本的には衰退していると見られているフランスのカトリックですが、2013年の同性婚を認める法律に対する反対運動「みんなのためのデモ」は意外な広がりを見せ、フランス人のカトリックに対する意識の一端を示しました。

 司法の場においてもライシテの適用基準は一律に決まっているわけではなく、「カト=ライシテ」の考えに影響を受けていると思われるものもあります。
 フランス北西部ヴァンデ県の県議会ホールにキリスト生誕の模型が設置され、これがライシテに違反しているとして裁判になりましたが、2015年の二審では設置が認められました。一方で、ムラン市の市庁舎の中庭に設置されたキリスト生誕像は同年の判決で違法とされるなど、司法の判断は分かれています(その後も行政最高裁判所にあたる国務院でもケースバイケースであるとの判断が示されている(72-74p))。

 このように公共施設におけるキリスト生誕像が場合によっては許されるのに対し、民間の託児所で働くムスリムの女性がヴェールを被ろうとしたことによって解雇されたバルビー事件では、紆余曲折の末、解雇を正当とする判決が下されています。
 やはり、マジョリティかマイノリティかという要素もライシテの適用に関しては無縁ではないと言えるでしょう。

 この宗教的なマイノリティを考える上で重要なのが、ヴォルテールの『寛容論』です。ヴォルテールは、フランスでは少数派のプロテスタントであったカラス氏が、カトリックに改宗しようとした子どもを殺したとして死刑になったカラス事件をうけて、カラス氏の無実を確信して『寛容論』を書き、狂信を戒めました。
 この『寛容論は』は『シャルリ・エブド』事件の後にベストセラーとなり、カラス氏と『シャルリ・エブド』の編集者が重ね合わせられましたが、著者はヴォルテールの言説を読み解くと、そう単純に重ね合わせることはできないといいます。

 もう一つ、フランスにおける宗教マイノリティの問題を考える上で欠かせないのがドレフュス事件です。
 1894年、ユダヤ人でフランス軍の大尉だったドレフュスは、ドイツのスパイと疑われ終身流刑となります。ドレフュスは無罪を訴え、ドレフュス以外の犯人を示唆する証拠が出てきたにもかかわらず、軍はそれに目をつぶって罪をドレフュスに押し付けようとしたのです。
 これに反対の声を上げたのがエミール・ゾラなどの知識人たちです。ゾラは反ユダヤ主義を生み出す「われわれ」を批判しました(117p)。

 そして現在、宗教的マイノリティの問題の中心はイスラームへと移っています。
 フランスでは1989年にいわゆるスカーフ事件が起きています。これは公立中学校に通うマグレブ出身の3人の女学生がスカーフを着用して登校したところ、学校側がスカーフはライシテに反するとして登校を禁止した事件で、フランス社会に大きな議論を巻き起こしました。
 
 このスカーフ事件が2004年のヴェール禁止法へと行き着くわけですが、議論がヒートアップしていくにつれ、「白か黒か」となっていく様子がうかがえます(この本では生徒を対象としたアンケートも紹介していますが、生徒たちはスカーフやヴェールをそれほど気にしていない(129-131pと135p))。
 著者は、アルジェリア独立戦争時にフランス人女性がアルジェリア人女性を「文明」に導くとしてヴェールを取り去る儀式を行ったことをあげながら次のように述べています。
 ヴェールの強制に苦しんでいるという女性を「発明」(または焦点化)し、「解放」すると称して学校から締め出し、「原理主義者」のもとに送り返すのは解決策なのか。信教の自由の観点からヴェール着用を擁護する地点にまでは至らずとも、ヴェールの女性にも共和国の教育を受けさせることが「解放」の手段となるのではないだろうか。(138p)

 ヴェールをどう考えるかということについては、ムスリムの女性の中でもさまざまな考えがあります。
 スカーフは、まず自分をムスリムとして定義するメッセージを発信してしまい他者との壁をつくってしまうと考えるドゥニア・ブザールのような女性もいますし、スカーフを被った自分が等身大の自分であり、それがあってこそより深い人間関係が築ける考えるサイーダ・カダのような女性もいます(151-152p)。

 また、イラン革命を経験し「ヴェールか死か」の選択を迫られたシャードルト・ジャヴァンにとって、ヴェールは女性抑圧の象徴以外の何物でもありませんが(157p)、ファドラ・アマラによれば、ムスリム女性はヴェールを被らなければ郊外の男性から「売女」と指弾され、被ればフランス社会から「忍従の女」とみなされるという別の面で追い詰められた状況にいます(165-166p)。
 さらに郊外の住民は「原住民」化され攻撃されていると考えるフーリア・ブーテルジャのような女性もいます(171p)。

 この本では、つづけてムスリム同胞団の創始者ハサン・バンナーの孫でフランスなどの各国で言論活動を行うタリク・ラマダン、哲学者アブデヌール・ビダール、ラッパーのアブダル・マリクの考えなどを紹介し、フランスにおけるイスラームの可能性という議論を紹介しています。
 アブダル・マリクには現在十分に機能していない共和国の普遍主義をイスラームの普遍主義によって鍛え直すという面も見られますが(202p)、その普遍主義はスピリチュアリティと結び付いており、ある意味でライシテの原則と親和的なイスラームともいえます。

 政治学者のクリスチャン・ヨプケによれば、ヨーロッパにおいて「リベラルなイスラーム」の動きが起こっているといいますが、同時にヨーロッパの「リベラリズム」も変質しています。
 人びとの内奥に関与しない「政治的リベラリズム」には、市民共同体に愛着を抱くよう人びとを駆り立てることにかけては「弱さ」がある。イスラームに対峙する近年のヨーロッパでは、あたかもこの「弱さ」を補強するかのように、リベラリズムが「倫理的リベラリズム」に変貌し、排除的で抑圧的な「リベラル・アイデンティティ」として機能している(『世俗国家の危機』)。(207p)

 最後の終章で、著者はカナダのケベックの例と日本の問題に触れています。日本国憲法も政教分離の原則を採用しており、ライシテの原則をもつといえるのかもしれません。ただし、近年のライシテは「多文化共生」の問題に関わるものとなりつつありますが、日本ではこのようなニュアンスで政教分離が考えられることはほとんどないかもしれません。
 日本でもやがて、フランスのようにライシテに関して議論を深めざる得ないことになるかもしれないのです。

 何かすっきりとした結論があるわけではないですが、政教分離をめぐる問題に関するわかりやすい処方箋が示されているわけではないのですが、考えるための多くの素材を与えてくれる本です。
 冒頭にも述べたように、移民や難民、多文化共生、あるいは表現の自由など、幅広い分野に対して考えるための有益な材料を提供してくれます。
 
ライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま (岩波新書)
伊達 聖伸
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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