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2020年03月

佐藤洋一郎『米の日本史』(中公新書) 7点

 同じ中公新書から出た『食の人類史』が非常に面白かった著者が、日本における米の歴史について語った本。歴史といっても著者は農学博士であり、文献史料や遺跡・遺構などだけではなく、品種や栽培技術の面からも歴史にアプローチしている点が大きな特徴です。
 本書では、時代ごとに、米作りがいかに行われたのか、米作りが日本人にとってどのような意味を持ったのかということを読み解いていきます。現代に近いパートに関しては、著者の大まかな展望が述べられていて少し散漫ではあるのですが、前半にある日本の米作りに関する農学的なアプローチは、いろいろな日本史の本を読んできた人にとっても刺激的なものだと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 稲作がやってきた―気配と情念の時代
第2章 水田、国家経営される―自然改造はじまりの時代
第3章 米づくり民間経営される―停滞と技術開発が併存した時代
第4章 米、貨幣になる―米食文化開花の時代
第5章 米、みたび軍事物資になる―富国強兵を支えた時代
第6章 米と稲作、行き場をなくす―米が純粋に食料になった時代
第7章 未来へ「米と魚」への回帰を

 第1章の「気配と情念の時代」が扱うのはだいた弥生時代の前半までです。どのように稲作が日本にやってきたのか? という問題が取り扱われています。
 現在では稲作は縄文時代から始まっていたという説が出てきています。稲作の始まりがどこまで遡れるかははっきりしませんが、大量の土器が使われ始めたということは集団の定着性が高まったということであり、ツルマメなどの栽培は行われていたようです。
 稲作は九州北部から始まったとされています。しかし、稲作を軌道に乗せるのは意外と大変です。著者の試算では人口100人の村で1人あたり1年間に100キログラムの米が必要とすれば、必要な水田面積は6.7ha、これを開墾するには50人で1600日間の時間が必要であり、村の経営を軌道に乗せるには数年の時間が必要です(9−10p)。
 そこで著者は「屯田」の可能性や縄文人の集団が朝鮮半島などに渡って稲作の技術を持ち帰った可能性などを指摘しています。

 稲作渡来の経路に関しては、(1)朝鮮半島経由、(2)長江流域から直接渡来、(3)琉球経由の3つが唱えられており、考古学の世界では(1)が有力視されています。しかし、著者によればイネの生育には日長時間(日の出から日の入りまでの時間)が重要であり、緯度によって育つイネの傾向は違います。ですから、あまり北を通るルート(例えば、山東半島から陸沿いに錦州まで北上し、朝鮮半島へと南下)は考えにくいといいます。西日本で見られる晩生品種は別のルートできたと考えられるのです。

 稲作というと一面の緑の田んぼを想像しますが、肥料のない時代に毎年イネを作っていけば地力は低下していきます。静岡の曲金北(まがりかねきた)遺跡では3〜4畳程度の小区画水田が1万枚も出土しましたが、かなりの休耕田や放棄田があったと思われます。

 日本にやってきたイネはジャポニカ米だったと考えられますが、その中には熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあります。ブランドオパールと呼ばれるイネ由来のケイ酸体の分析によれば、日本の稲作は熱帯ジャポニカから始まり、温帯ジャポニカに変化してきたと見られています(41p)。そして、両者は交配し、その雑種が栽培されてきたと考えられます。
 食べ方に関しては、玄米を食べていたと想像されがちですが、このころの技術では玄米をつくることは難しく、臼と杵で籾摺りをし、糠の部分がまだらに残っていたような米を食べていたと考えられます。

 第2章の「自然改造はじまりの時代」は弥生時代から飛鳥時代までを取り扱っています。
 『魏志倭人伝』の記述などからもわかるように、この当時の日本には多くのクニがあり、互いに争っていました。大規模な戦闘があったとすれば、そのときに問題になるのが食料です。そしてこれを可能にしたのが米だと考えられます。栗やイモ類などに比べてカロリーも高く、調理も便利です。
 こうしたこともあって稲作は東進、北進をつづけたのですが、北進の壁になったのが自然条件です。緯度の高い地域でも育つ早生の品種が見いだされていったと考えれます。

 3世紀後半になると古墳の造営が始まります。大仙古墳の造営には2000人の労働力が15年8ヶ月動員されたという試算がありますが(65p)、この規模になると土木工事の専門家集団がいたはずです。この時期には難波江の掘削や「古市大溝」と呼ばれる巨大な水路も建設されており、工事の従事者の食事を賄うためにも米が用いられたと考えられます。こうした工事に伴って、周囲の森林は切り開かれ、そこに水田が開かれたのでしょう。
 さらに水田や溜池、水路の開発は、水田漁撈システムの発展を促しました。人間の活動が新たな生態系を生み出し、「米と魚」という糖質とタンパク質を摂取する食を形作りました。
 一部では小麦と馬の飼育という形もあったようですが(大阪府蔀屋(しとみや)北遺跡などにその痕跡がある(75−76p))、それが広がることはありませんでした。
 また、モチ米がいつ頃からあったのかという問題も検討されています。

 第3章の「停滞と技術開発が併存した時代」では、奈良時代から室町時代までを取り扱っています。
 奈良時代には班田収授のしくみが導入されましたが、地力の低下による休耕田や放棄田があったことを考えると、このしくみを維持することは難しかったと考えられます。三世一身法に既存の水路や改修した墾田は当代限りの所有を認めるとの規定がありますが、ここからも休耕田や放棄田が多くあったことがうかがえます。
 時代が下って荘園が成立しますが、荘園図に描かれた「野」も休耕地だったと考えられ、有効な肥料のない時代では安定した経営というのは難しかったのでしょう。

 いつ始まったのかはまだわかっていませんが、鎌倉時代頃になると二毛作が普及します。冬に麦を作ることにより初夏の端境期の食料不足に対応したと考えられます。二毛作には肥料が必要であり、家畜の排泄物の利用などが始まったのでしょう。
 麦の栽培により米の作付けは遅れます。そのために苗代の技術なども発達したのでしょう。大豆や麦を原料とする醤油や味噌が普及するのもこの頃です。
 
 また、この時代に登場したのが大唐米です。高校の日本史の教科書などにも載っていますが、インディカ米の一種で干ばつに強いという特徴がありました。近年の研究では西日本を中心にかなり幅広く栽培されていたこともわかってきています。江戸時代の一時期、大坂市場に送られた肥前藩の蔵米の2割が大唐米だったとのことであり、通常の米よりやや安価で取引されていました(98p)。
 この大唐米は800年ほど一定規模で栽培されましたが、地域的には西日本中心で、現在ではほぼ絶滅していしまっています。

 戦国時代になると各地で戦いが起こりますが、ここでも戦いと稲作は密接な関わりを持っていました。上杉謙信は秋から冬の時期に北関東で軍事行動を起こしていましたが、これは農閑期だったからと考えられますし、また、兵士は「3日分の腰兵糧」を持つように命じられていましたが、夏場だと握り飯的なものは3日持たなかったでしょう。
 戦場で行われた「刈田」行為に対処するため、早生の品種の栽培が行われたとも考えられます。いち早く収穫しなければ的に刈り取られてしまうからです。大唐米も早生品種として広がった可能性もあります。
 秀吉によって進められた兵農分離は(兵農分離があったのか否かは近年議論のあるところですが、本書ではオーソドックスな歴史観に沿っています)長期戦を可能にしました。大軍の遠征には米を買い集めることが必要不可欠となり、米は軍事物資となって投機の対象ともなっていきました。

 また、この時代には米の調理法も発展し、すし(ふなずしが原型と考えられることが多いが、かなりの技術が必要でありもう少し原始的なものがったと考えられる)や、粽(ちまき)、柏餅など葉で包むもの、米粉を使ったもの、酒なども登場しました(日本酒の起源は文献上では『大隅国風土記』まで遡るとのこと(131p))。
 米食の広がりとともに肉食は次第に禁忌となっていきました。675年に天武天皇が4〜9月に家畜などを食べることを禁止する勅令を出していますが、仏教の広がり(著者は仏教だけでなく修験道の影響も見ている)とともに肉を食べる風習は廃れていきます。

 第4章の「米食文化開花の時代」は戦国時代の後半から江戸時代の終わりまでを取り扱っています。
 この時代に開発が始まったのが大規模河川の下流域に広がる低湿地です。いちばん有名なのは家康による利根川の付け替えと新田開発ですが、こうした低湿地の開発は昭和30年まで続きました。
 大阪平野もこの時代に大きく改造されています。大阪の陣によりこの地域周辺の森林の伐採などが進んだせいもあり、この地域はたびたび大きな洪水に襲われるようになりました。そこで人々は堆積した砂を取り除いて脇に積み上げ、取り除いた部分を水田に、砂を積み上げた部分に綿花を栽培する(綿花は乾燥に強く乾きやすい砂地でも栽培できる)という「島畠」という農法を生み出しました。さらに大和川の流れを大きく変える工事も行いましたが、洪水が減ったことによって土砂は大阪湾に流れ込み、堺港を浅くさせることで堺の衰退を招いたといいます。

 これらは「多すぎる水」に悩まされた地域ですが、もちろん「少なすぎる水」に悩まされた地域もあります。三重県いなべ市では「まんぼ」と呼ばれる地下水路が作られましたし、他にも有名な箱根用水、あるいは数々の溜池が作られました。
 水不足以外に米作りを妨害したのが害虫です。特に大陸から風にのってやってきて西日本中心に広がるウンカは一体の田をすべて駆らせてしまうほどの害をもたらしました。また、いもち病も厄介な問題でした。これに対抗するために現代とは違っって1つの村で多くの種類のイネが栽培されました。病気による全滅を防ぐためです。
 
 稲作の進展はさまざまなものを変化させていきます。関東平野では水路が整備され、近郊からは米や野菜が運ばれ、江戸からは肥料になる排泄物が運ばれるシステムがつくり上げられました。肥料としては蝦夷地の鰊粕も使われるようになります。

 当時の品種と今の品種の大きな違いは背丈だといいます。今のイネは背丈が低いのです。これはイネが倒れる危険性を減らすためです。窒素肥料を減らせば背丈は抑えられるのですが、そうすると収穫は減ってしまいます。そこで、穂数型という短い穂を多数持つ品種も栽培されました。一方で、「白玉属」と呼ばれる大粒の品種も生まれ、ここから山田穂(ここから山田錦が生まれた)などの酒造用の品種も生まれました。
 江戸時代においては、年貢米に品質が求められ、質の高い米が年貢にされ、質の低い米が村に残ったと考えられます。上層階級では白い米が食べられるようになる一方(綱吉は脚気になった)、農村では白米と玄米の中間のような米が食べられていたのでしょう。
 江戸では朝に米が炊かれ、昼と夜に冷や飯が食されましたが、これは朝の風の少ない凪の時間に炊くことによって火事を防ぐという意味もあったようです。
 
 第5章の「富国強兵を支えた時代」は明治時代から第2次世界大戦敗戦までの時期を扱っています。
 明治維新によって藩の垣根が取り払われましたが、それによって起こったのが全国的な米不足と、都市に集める米の品質低下でした。藩内の米不足は全国的な問題となり、藩が行っていた品質チェックがなくなったからです。
 そのため民間でも品種改良と増産が行われました。1929年に記録された10アールあたり1260キロという収穫は現在の全国平均の1.6倍にも当たる数字です(207p)。
 また、水田の開発はさらに進み、八郎潟、児島湾、有明海などで干拓が行われ、明治用水の開削なども行われました。

 三田育種場もつくられましたが、品種改良において大きな役割を果たしたのは民間でした。収量の大きい「神力」も民間人の手で見いだされ全国に広がっていきましたし、品質の高さが買われコシヒカリの祖お1つである「旭」も民間人が見出した品種です。
 また、北海道の稲作に関しても、開拓者の米が食べたいとの熱意がそれを実現させた面は大きく、「赤毛」という品種が偶然見いだされたことがその突破口になりました。そして、それが札幌農学校などで体系化されていくのです。
 「白い米を食べたい」という人々の欲望は、例えば、陸軍に入隊すれば白い米を腹いっぱい食べられるといった噂をうみ、貧しい人々を惹きつけましたが、白い米によって軍隊内では脚気も流行しました。

 第6章の「米が純粋に食料になった時代」は戦後から現在まで。米不足が解消され、米があまり始めた時代です。学界は多収量米の研究を続けていましたが、その意味がなくなってきたのです。
 品種に関しても、いわゆるブランド米が登場するとともに在来品種は姿を消していきます。ブランド米の中でも、近年、「きらら397」「ゆめぴりか」「ななつぼし」といった北海道米が存在感を示していますが、温暖化が進めば十勝平野あたりが大稲作地帯になる可能性もあるそうです。
 この第6章と次の第7章に関しては、歴史というよりは米に関するトピックをいくつか紹介している感じですね。

 このように最後のほうは少し弱い部分もあるのですが、それ以外の部分の知見は非常に興味深いと思います。稲作は昔から日本の農業の中心であり、多くの人がそれなりに知っているため、現在の稲作から過去の稲作を類推して考えていますが、本書を読むと、同じ稲作といっても過去と現在では大きな変化があったことがわかります(著者は時代劇などで水田が映るが水田の時代考証はないのだろうか? と疑問を呈している(昔のイネはもっと背が高かった(180p))。
 歴史学者が見ている風景とは少し違った風景が見えてくるのが本書の特徴であり、新たな思考を刺激する点だと思います。


永吉希久子『移民と日本社会』(中公新書) 9点

 先月刊行された友原章典『移民の経済学』(中公新書)はなかなか面白い本でしたが、2ヶ月連続で同じレーベルから同じく移民をテーマとして刊行された本書もまた面白い!
 データをもとにして移民を受け入れたときの経済や社会への影響を分析している点は同じですが、『移民の経済学』が主に海外の経済学者による研究を中心に検討しているのに対して、本書では「移民と日本社会」というタイトルに沿う形で、移民が日本社会に与える影響をさまざまな角度から検討しています。
 そして、本書はこの「さまざまな角度」の充実ぶりが素晴らしいです。大量の先行研究に目を通しており、移民をめぐるさまざまな実態と論点を知ることができます。また、最後に出てくる「移民問題」というわかりやすい看板の下で、社会の本質的な問題が隠されているのではないかという視点も良いと思います。

 目次は以下の通り。
序章 移住という現象を見る
第1章 日本における移民
第2章 移民の受け入れの経済的影響
第3章 移民受け入れの社会的影響
第4章 あるべき統合像の模索
第5章 移民受け入れの長期的影響
終章 移民問題から社会問題へ

 移民問題を扱うときに、まず問題となるのが「移民」の定義ですが、本書では「生まれた国から一時的なものも含め、他の国に移り住んだ人」(4p)としています。ただし、日本の統計でこの人数を確定させようとすると、日本で把握されているのは本人および親の国籍だけなので、「外国生まれ」の人を正確にはカウントできません。おおよその推計として人口の1.2〜2.0%が本書の定義する移民にあたるとしています(10p)。
 また、是川夕の推計によると、現状程度の増加が続いた場合、両親のいずれかが外国籍である人(とその子孫)までを含んだ移民的バックグラウンドを持つ人は、2065年には12.0%まで増加すると推計しています(11p)。

 移民が起こる要因としては、送り出し国での貧困や差別、紛争などのプッシュ要因と、受入国の雇用の機会、政治の安定などのプル要因があると言われていますが、それ以外にも移民の社会的ネットワークの存在も大きいといいます。一定の規模の移民社会ができあがると、その国の出身者は移住しやすくなっていくのです。
 さらに、国際結婚や日本の技能実習生制度などでは仲介業者が介在しているケースもあります。こういった業者も移民を行き先を左右することがあります。

 日本では長年、単純労働で働く外国人労働者を受け入れを拒否していましたが、バブル景気のころから受け入れの需要は高まり、1980年代後半以降、日系ブラジル人・ペルー人の受け入れ窓口となった定住者資格制度、技能実習制度の前身となる「研修」の在留資格などが創設されます。
 日本では、小井土彰宏と上林千恵子の表現によれば「技能実習制度、留学生政策など、個々の政策が、異なる領域でそれぞれに由来する「政策的正統性」を根拠に形成された結果、「移民政策の断片化(fragmentation)が構造的に進行し続け」」(29p)ることとなりました。
 
 一方、専門職に関しては受け入れが進められてきましたが、塚崎裕子によれば「日本の「専門職」移民に付与される在留資格は、一般には専門職とみなされない職務を含む、きわめて日本的なもの」(32−33p)となっています。
 例えば、専門職移民を雇っている企業のうち、37.7%が販売・営業職であり、19.0%が生産・製造、専門職としてイメージしやすい研究関係18.4%やシステム開発・設計の18.0%を上回っています(33p)。また、2018年に就職した留学生の勤め先としては、従業員50人未満の企業が36.9%と最も多く、五十嵐泰正の表現を借りれば「日本の企業で働く専門職移民の多くが、「「イノベーションをもたらす」即戦力」というよりも、「日本企業のマスに近い人材」であり、「定着思考の強いホワイトカラー職の外国人」である」(34p)のです。

 2012年に導入された高度人材ポイント制度に関しても、大石奈々の指摘によれば「すでに日本に滞在している移民の定住化政策としての機能を果たしている」(37p)状況です。
 日本の専門職移民は受け入れは企業主導で行われており、どのような人をどれだけ受け入れるのかという点も企業のニーズによって左右されているのが現状です。
 留学生も名目的には「高度人材獲得」のための国家戦略として打ち出されましたが、留学生の専攻分野は社会科学34.5%と人文科学24.0%で工学17.0%を上回っています。これはイノベーションの担い手としては少しずれますが、日本の企業が求めるのが国内外をつなぐブリッジ人材だと考えると納得の行くデータです。また、留学生の中には就労のほうがメインの「出稼ぎ型」もいると考えられますが、留学生の年齢別のアルバイト率は日本人学生を下回っています(43p)。

 日本では単純労働移民を原則的に受け入れていないので、そうした仕事についている外国人は「サイドドア」と呼ばれる他の目的で作られた制度を使っているか、あるいは「バックドア」と呼ばれる不法移民になります。
 サイドドアの代表例が日系人の定住者資格制度と技能実習生です。日系人は三世までは日本に滞在する資格がることになっており、失業しても日本に滞在できます。ただし、リーマンショック後、政府は支援金を提供し、帰国を促す政策をとりました。また、2018年の出入国管理法の改正で四世まで受け入れが広げられましたが、年齢は18〜30歳、家族の帯同は認めず、滞在年数の上限は5年と、一時的な労働力のみとして受け入れる形になっています。
 リーマンショック時には技能実習生よりも日系人が先に解雇される傾向がありましたが、これは実習生の方が相対的に賃金が低く、転職ができないために雇用の継続が期待できるからだと考えられます。

 技能実習生制度に関しては今までも多くの問題点が指摘されてきました(例えば、望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書)など)。大きな問題点は雇用先を移動する権利を持たないことで、低待遇に留め置かれる大きな要因となっています。ただし、技能実習生の受け入れの有無にかかわらず労働基準監督署が監督指導を行った企業の法令の違反率はあまり変わらないということで、残業代の不払いや長時間労働は日本の労働者にも共通する問題とも言えます(57p)。
 「バックドア」である不法就労者はリーマンショック以後減少し、近年は微増となっていまう(60p図1−8参照)。現在不法就労者数は1万人ほどです。
 
 近年では介護や看護の分野で外国人労働者の受け入れが行われています。日本はEPAによってインドネシア、フィリピン、ベトナムの3カ国からこれらの人材を受け入れていますが、看護師試験の合格者数は日本語の問題もあって低迷しています。介護福祉士試験の合格者は健闘していますが(64p図1−9参照)、合格者の1/3はすでに帰国しています(65p)。これらの人々は医療の一環として介護を捉える母国の考えと、雑用や日常的介助まで含む日本の介護の考えの違いにギャップを感じているケースが多いと考えられます。
 また、ケア労働の担い手として無視できないのが結婚移民です。80年代から農家の男性が外国人の妻を迎えるケースが目立ち始めましたが、2006年まで、この日本国籍の男性と外国籍の女性の結婚は増加傾向にありました(70p図1−11参照)。これらの人々もケアの担い手となっていると考えられます。
 難民に関しては受け入れ数が非常に少なく問題視されています。これは日本が難民条約における難民の定義を厳密に適用しているせいでもあります。また、難民認定申請者に対する経済的な支援も限定的です。

 では、移民の増加はどのような経済的な影響をもたらすのか? これについて答えようとしているのが第2章です。ただし、友原章典『移民の経済学』と被る部分もあるので、ここでは日本について影響だけをとり上げます。
 『移民の経済学』でも書かれていたように、移民が国内労働者の労働条件を悪化させるかどうかは、両者が代替関係になるのか。補完関係になるのかがポイントです。移民の就く仕事が日本人と被るかどうかがポイントになるのです。
 しかし、2015年のデータではどの雇用形態どの職業でも移民のシェアは非常に小さく、今あるデータから傾向を読み取ることは難しくなっています。
 
 ただし、特に女性に顕著ですが生産工程で働く移民は多いです。しかも、ラテンアメリカ出身者で見た場合、出身国でブルーカラーに就いていたのは4.9%であるのに対して、日本でブルーカラーに就いているのは83.2%になります。その他の地域でも欧米諸国以外からの移民はブルーカラーに就く割合が高く、彼らがもともと持っている技能とは関係なく職種が決まっているとも言えます(99p表2−1参照)。
 
 日本の労働市場に対する影響に関する研究はまだ少ないですが、中村二朗らの研究によると賃金への影響は少なく、影響がある場合は賃金を高める、一方女性に対しては退出を促す効果があるとのことです。また、小崎敏男の研究では、移民労働者比率が10%増加すると、実質賃金が0.35%増加し、雇用が約1%削減される。女性の就業率は約1.2%低下するとの試算(男性は影響なし)を行っています(102−103p)。
 これは雇用を、長期で賃金の高い第一次雇用と、短期で賃金の低い第二次雇用に分けた場合、移民が参入するのは第二次雇用で、そこで同じく第二次雇用が多い女性とバッティングしているからだと考えられます。
 リーマンショック時においては、日系人がまっさきに解雇され、女性や高齢者などの非正規雇用に置き換えられるという現象も起きました、女性や高齢者の第二次雇用の労働市場への参入が移民の労働条件を悪化させることもあるのです。

 移民の受け入れは経済成長の起爆剤としても期待されています。
 まず、技術革新を促進するか? という点ですが、ここでも高技能移民が技術革新を促進するという影響と、低技能移民が技術革新を遅らせる(低賃金で人が雇えるので機械の導入などが遅れる)という影響の2つが考えられます。後者に関しては、外国人比率が増加した地域で労働集約的で技能水準の低い企業の操業継続率が高いという研究がありますが(112p)、前者に関しては実証的な研究は進んでいません。

 社会保障への影響に関しては、まず、人口減少を止めるには年75万人の受け入れが必要になります。人口減少が止められなくても、年20万人、あるいは10万人の受け入れでも現役世代の社会保障負担は軽くなります(114p)。ただし、移民の出生率の高さは、イスラム諸国出身者を除いて世代を経るごとに小さくなり、受入国と変わらない水準になっていくそうです。実際、日本でもフィリピン籍とベトナム籍を除くと出生率は日本人を下回っています(117p)。
 
 第3章では社会への影響を見ていますが、まずは「移民は犯罪を増加させるのかという問題が取り上げられています。
 序章でとり上げられている2017年の調査では69%の人が移民が増えると犯罪が増える(そう思うとややそう思うの合計)と考えているわけですが(21p図P−6参照)、データからは移民が増えると犯罪が増えるという関係は支持されません。
 外国人受刑者を対象にした調査によると、外国人受刑者が日本人受刑者に比べて検挙のリスクを低く見積もっているそうですが、だからといってそれが犯罪を誘発しているというようなデータはありません。
 日本人の持つ不安に関しては、例えば窃盗団が詰まった時、外国籍であれば「○○人窃盗団」と報道される一方、日本人だと「重機窃盗団」のように窃盗の対象となったものが使われるといったことが船山和泉によって指摘されています(142p)。

 移民が直接犯罪に手を染めなくても、移民の増加が地域のつながりを希薄化し犯罪が増えるという議論もあります(この場合、犯罪をするのは移民とは限らない)。ただし、アメリカにおける研究ではこの傾向は否定されていて、むしろ減少させるという報告もあります。これは移民の流入が地域を活性化させるからだと考えられます。

 よく「外国人はゴミ出しのルールを守らない」といった声があがりますが、日本人全員がゴミ出しのルールを守っているわけではありません。移民の問題行動だけではなく、ルールからの逸脱を抑制する地域の力「集合的効力感」の問題と捉えたほうがよいのかもしれません。切手を貼った手紙をわざと落として、それが投函されるかどうかを調べる研究では、民族的多様性の高い地域の方が手紙が投函される率が低く信頼や協力が薄いことがうかがえますが、一方、移民が一定の規模、あるいは一定の時間が経てば投函率は変わらないとの研究もあります(152−154p)。
 移民が少ない日本では欧米のような大規模な調査は難しいですが、日系ブラジル人社会へのフィールドワークなどからは、問題解決の回路しては「人材派遣業者」と「日本語学校」があること、自治会活動への巻き込みがトラブル防止の鍵になること、また、公営住宅のほうがルールの共有がしやすいことなどが明らかになっています。

 また、本書では移民が被害を受けるケースも検討しています。ヘイトクライムによって移民が暴力を受けたりするケースです。
 日本でもヘイトスピーチが問題になっていますが、アメリカではトランプ大統領がムスリムに対する否定的なツイートをすると、否定的なツイート、さらにヘイトクライムも増加するという研究や、ヒスパニックに対する差別的ツイートが、アリゾナにおける不法移民の厳格に取り締まる法律の制定によって増加したと行った研究もあります(170−171p)。

 移民をある程度受け入れるとして、「ではどのような社会を目指すべきなのか?」という問題を取り扱っているのが第4章です。
 1つの方向性として多文化主義があります。複数文化を承認し、教育でも多言語教育や多文化教育を進めるのです。カナダやオーストラリア、イギリス、オランダ、スウェーデンなどで採用されました。ちなみにキムリッカの多文化主義指標だと日本のスコアは0です(このスコアはデンマークと同じ(181p表4−1参照))。
 しかし、この多文化主義は90年代以降弱まりを見せています。多文化主義は居住の分離を進め、結果として移民を貧困に追いやるとの批判が出てきたのです。また、多文化主義を反転させてマジョリティの文化を強く主張する動きも出てきました(このあたりは水島治郎『反転する福祉国家』を参照)。
 
 代わって打ち出されたのが「市民的統合」です。これは移民に対して語学教育や市民教育を行うことで、その国の価値観を身に着けてもらい、市民社会に溶け込んでもらおうとするものです。
 ただし、多文化主義が完全に否定されているわけではなく、オランダやイギリスでは多文化主義と市民的統合の政策が同時に進められています。一方、デンマークやドイツは市民的統合が強く多文化主義は弱いです(191p図4−4参照)。
 この2つの政策の優劣ですが、例えば、英語という移住前から慣れ親しみやすい言語を使用しているイギリスと、移住前に接する機会があまりないドイツ語を使用しているドイツを比較するのは難しく、簡単に結論を出すことはできません。

 また、一口に外国人の受け入れと言っても、入国許可、永住許可、国籍付与という3つのゲートがあります。この永住許可を持った人を「デニズン」と呼ぶこともあります。
 202−203pの表4−2に各国の永住権取得と国籍取得の条件が書かれていますが、これを見ると、日本は永住権取得に必要な年数が10年とやや長いですが、語学能力などを求めていないのが特徴です(ドイツだと年数は5年だが、語学能力と市民統合のコースと試験を受ける必要がある)。また、国籍取得については二重国籍を認めていないこともあって日本は厳しいと言えるでしょう。
 永住権と国籍取得の差ですが、日本では永住権の保有者に選挙権・被選挙権が認められていなこともあって政治の分野では差が大きいです。また、国籍取得の効果ですが、欧米の研究では国籍取得によって移民の雇用状況が改善する効果が確認されています。特にこの効果はヨーロッパのEU圏外出身者、低学歴者などに大きく、社会的統合の促進も期待できるとの研究もあります(209−211p)。

 第5章では移民受け入れの長期的な影響を検討しています。移民が定住すれば第2世代が誕生します。一般的に移民第2世代は第1世代よりも統合が容易だと考えられます。しかし、ネイティブと比べると移民第2世代は成績下位層になりやすいですし(ただしアメリカとオーストラリアをのぞく、221p図5−2参照)、ドイツ、スウェーデン、イギリスでは第1世代よりも高等教育を受ける率が低く(223p図5−3参照)、失業率もネイティブに比べて高くなっています(224p図5−4参照)。
 この背景として、二極化した労働市場と人種差別、反学校サブカルチャーがあります。先進国ではブルーカラーの職が減っており、移民の第2世代が安定した職につくのが難しくなっています。そうした中で、人種差別などもあり、移民第2世代は反学校的、逸脱的な文化に染まりやすいのです。

 では、第2世代はどのようによい学歴や職を獲得できるのか? 1つは親の力や受入国の制度によってであり、もう1つはエスニック・コミュニティの力によってです。エスニック・コミュニティといってもピンとこない人もいるでしょうが、例えば、在日コリアンは高い学歴があっても大企業への就職などが困難だったため、エスニック・コミュニティ内の相互扶助によって地位達成を遂げました(240p)。一方、90年代以降の移民ではこうしたエスニック・コミュニティを通じた地位達成はあまり観察されないようです。
 学歴に関しては、高校の在学率を見ると母親が中国籍、フィリピン籍の場合、日本国籍よりも低いものの85%以上ですが、ブラジル籍は80%を割り込んでいます(237p表5−2参照)。大学進学に関しては韓国・朝鮮籍、中国籍は日本国籍とほぼ同じですが、フィリピン籍、ブラジル籍ではかなり低い状態にとどまるとのことです。
 また、学校に関しては「すべての子どもを平等に取り扱う」という日本の学校の原則が、異なる文化を持つ者を逸脱者としてしまう点も指摘されています(243p)。

 終章では今までの知見をまとめていますが、1つのポイントは日本が用意する制度によってどんな移民が来るか(あるいは来ないか)が決まってくることです。例えば、移民と地域社会の関わりが近隣トラブルを減らしますが、移民を短期的/フレキシブルな雇用に当てはめるような制度では地域社会との関わりは生まれにくいでしょう。政治的権利の付与や国籍に関しても、そこに高い壁を置くことは1つの考えですが、国籍付与や政治参加は移民を社会に統合させる機能も持っています。
 また、「移民問題」の裏には日本人も直面している問題があります。地方の人手不足、介護人材の不足、地方における結婚相手の不足、移民によってこれらの問題は一時的に糊塗されるかもしれませんが、根本的な問題は残り続けます。リーマン・ショック時には日系ブラジル人の問題がクローズアップされましたが、その裏には日本人にも関係する非正規雇用の生活保障の問題があったのです。

 それほど厚い本ではないのにまとめを長々と書いてしまいましたが、これでも欧米を対象とした分析の部分はけっこう省いており、興味深い内容が詰まった本です。とにかく、移民問題をめぐるさまざまな先行研究が紹介されており、今までに気づきにくかった論点も知ることができます。 
 著者のオリジナリティがないといった意見もあるかもしれませんが、これだけの内容と論点の提示を新書という媒体で成し遂げた著者の仕事ぶりは文句なしに素晴らしいと思います。


小林道彦『近代日本と軍部 1868-1945』(講談社現代新書) 9点

 『日本の大陸政策 1895‐1914』(『大正政変』と改題されて復刊されている)、『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』『児玉源太郎』など、地味ながらも日本の政治と軍を考える上で非常に刺激的な本を出していた著者による初めての新書。しかも内容は、明治維新から太平洋戦争終結までの「軍部」の通史であり、8章仕立て550ページを超えるボリュームとなっています。
 今までの見方とは違った視点から歴史が再構成されるさまを見ることは、歴史学の本を読むときの醍醐味の1つですが、本書はまさにそれを味わえる本です。山県有朋が政党の影響力を排除するためにつくった参謀本部や軍部大臣現役武官制、これらが「軍部」というアンタッチャブルな領域をつくり出し、それが昭和に政党政治を飲み込んでいった、というようなわかりやすい「政党」vs「軍部」というイメージをさまざまな史料を用いて覆していきます。
 もちろん、軍部中心の通史ではあるのですが、日本の行った戦争だけでなく、政党政治や統治システムへの目配りもあり、日本近代史の通史としても面白いです。

 目次は以下の通り。
はじめに
第1章 「非政治的軍隊」の創出
第2章 政党と軍隊ーー自由民権運動と士族
第3章 日清戦争の勝利ーー徴兵制軍隊の確立
第4章 「憲法改革」と日英同盟
第5章 日露戦争と山県閥陸軍の動揺
第6章 政党政治と陸軍ーー軍縮の時代
第7章 「憲政の常道」の終焉と軍部の台頭
第8章 軍部の崩壊と太平洋戦争
おわりに 明治憲法体制と軍部

 ボリューム、密度ともに相当なものがあるので、以下ではできるだけポイントを絞って紹介していく予定ですが、まず「はじめに」で提示されている重要なポイントが以下の点です。

 一見すると水と油のように見える、近代日本の軍隊と政党は、実は士族という母体から生まれた一卵性双生児なのであって、こういった来歴こそが、その後の日本の政軍関係や軍部のあり方にも大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。(10p)

 幕末、ライフル銃が輸入され、西洋式の軍隊が知られるようになると、大量の火器と歩兵こそが戦闘の帰趨を決めるものとなり、武士のみの軍隊は時代遅れとなります。そこで長州藩の奇兵隊などが登場するわけですが、彼らもまた武功をあげて士分に取り立てられることを期待しており、いわゆる徴兵制の軍隊とは違ったものでした。一方、薩摩藩では郷士層が西洋式の軍隊に再編成されます。
 戊辰戦争後、戦った人びとの復員が問題となります。恩賞を受けた者はほんの一部にとどまりましたし、奇兵隊などは解散させられました。ここに戊辰戦争後の処遇に不満を持つ士族や、士族になることを期待した大きな一団が誕生します。

 新政府の軍隊についても、大村益次郎−山県有朋のように徴兵制を施行し、非政治的な軍隊をつくるべきだという考えもあれば、板垣退助のように士族中心の軍をつくることで士族階級の維持をはかりたいと考える者もいました。
 板垣は明治六年の政変で一度政府を去りますが、だからといって徴兵制の軍隊の地位が安泰になったのではなく、佐賀の乱において大久保利通は参議兼内務卿として兵権を掌握すると、士族兵を徴募してこれを鎮圧しました。徴兵制の軍隊も軍の指揮系統も無視した運用が行われていたのです。
 西南戦争でも、山田顕義司法大輔や黒田清隆開拓使長官といった他省の人間が野戦部隊の指揮官に任命され、徴募した士族が内務省警視局の巡査部隊に編入されて実戦に投入されるなど、統帥のシステムは混乱していました。ただし、巡査部隊の軍紀は悪く、やはり徴兵制の軍が必要だという認識も与えました。

 薩摩、長州、肥前では士族の不満が暴発しますが、暴発しなかったのが土佐でした。土佐では温存された士族が立志社をつくります。立志社といえば自由民権運動の担い手ですが、士族中心の組織で武道の錬成を重視しており、実体は薩摩の私学校に近いものでした。
 立志社は徴兵制に対して「時期尚早論」を唱えた立志社ですが、その理由は徴兵制は立憲政治のもとで真価を発揮する血税のしくみであり、専制政治とは相容れないからだというものです。ここに民権運動は反常備軍と士族を基盤とする義勇兵を構想として掲げることになります。専制政治のもとでの徴兵制の軍隊は否定されるべきものなのです。

 一方、山県は近衛砲兵大隊が反乱を起こした竹橋事件に衝撃を受け、よりいっそう非政治的な軍隊の建設を目指します。1878年には陸軍省から独立した天皇直轄の軍令機関として参謀本部が設置されました。この参謀本部に関してはドイツで学んだ桂太郎が推進したとされますが、本書では実は桂がフランス流の大陸軍省=小参謀本部を志向していたことが指摘されています(73p)。
 こうした山県の動きに対して、政治的な活動を行ったのが四将軍(谷干城、三浦梧楼、島尾小弥太、曾我祐準)です。彼らは佐佐木高行ら天皇親政論者と中正党を結成し、藩閥の主流派とは距離を取りました。

 明治14年の政変によって10年後の国会開設が決まりますが、来たるべき国会開設に備えていた自由党は「活発有為の士」を養成するために東京築地に「有一館」を開きますが、開館式はまるで武術大会で、板垣も「武の錬成」を訴えるなど、自由党には準軍事組織的な色彩もありました(97−98p)。植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」にも人民武装論的な部分があります。
 1884年に甲申事変が起きると日本の世論は沸き立ち、自由党系の地方政社を中心に義勇兵運動が起こります。しかし、政府中枢には朝鮮半島に介入するような余裕はなく、むしろ清の軍事的脅威からいかにして国土を防衛するかということがポイントでした。1886年に清国北洋水師の水平が入港した長崎で日本人巡査と衝突する長崎事件が起きると、その脅威はますます強く感じられるようになります(106−107p)。

 1884年に日本を出発した大山巌率いる陸軍視察団の影響で、陸軍はフランス式からドイツ式への切り替えが進んでいきます。この動きを推進したのが桂太郎と川上操六でした。
 陸軍では山県・大山らと明治天皇の信任を得ていた四将軍派が制度や人事をめぐって対立しますが、師団制を導入するとともに四将軍を陸軍から追放します。ただし、四将軍派の政治力はまったくなくなったわけではなく、農商務大臣の谷干城は欧州への視察へ出かけ、帰国後は民権派に接近します。
 旧自由党系の人々を中心にして三大事件建白運動が起こりますが、ここでも運動参加者の間では民兵構想が語られていました。これに対して山県は三島通庸警視総監を叱咤して保安条例を施行させます。

 1890年に第一回衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が始まります。その時の首相は山県であり、有名な「主権線、利益線」の演説が行われました。この演説は山県の持っていた朝鮮侵略の意図を示すもの(さらには陸軍の大陸進出の始まり)とされてきましたが、山県はこの後、朝鮮を中立国とする構想を語っており、また、清との融和姿勢を示していました(134−139p)。
 山県の次に首相になったのは松方正義でしたが、松方は各省の自治性を高めるとともに、陸軍大臣と次官の武官専任制の撤廃に踏み切ります。しかし、松方と薩派の行った選挙干渉は大きな混乱をもたらし、高知県では「戦闘」といっていいような自体が起きました(146−148p)。選挙干渉後、松方と陸軍の対立が激しくなり松方は辞職しますが、松方が踏ん張れば文官大臣の可能性もあったと著者は見ています(150−152p)。

 日清戦争が勃発すると、民権派や旧士族による義勇兵運動が起こりますが、同時に戦時にも関わらず第4回衆議院議員総選挙が行われるなど落ち着いていた部分もありました。
 伊藤や山県は日清戦争が長期化することを予想していましたし、戦争の結果にかかわらず清の地域大国としての地位は揺るがないと考えていました。ところが、予想以上の速さで日本は勝利を重ね、清はここでの敗北をきっかけに没落していきます。
 日本は朝鮮半島から清の影響力を一掃しましたが、直後の三国干渉が日本に衝撃を与えました。日本は閔妃殺害事件などによって朝鮮での影響力を弱め、代わってロシアが朝鮮半島にも影響力を発揮するようになるのです。

 こうした中で「北守南進論」も登場します。朝鮮半島では現状維持につとめるとともに台湾を足がかりに福建省、さらには揚子江下流域へと進出しようというのです。
 しかし、第2次松方内閣は台湾経営に行き詰まり、さらに進歩等の支持も失ったことで総辞職します。代わって成立した第3次伊藤内閣は陸相に桂を起用しますが、このころから陸軍における薩派の凋落が始まります。1899年には川上操六も急逝し、薩派の影響力は参謀本部に限られることになりました。なお、台湾経営に関しては児玉源太郎と後藤新平がこれを立て直し、軌道に乗せます。
 1899年、陸軍の大阪地方特別大演習を板垣が山県首相とともに陪観しますが、著者はこれを士族を基盤とする軍を主張した板垣らのグループと徴兵制推進グループの和解を示す象徴的なイベントだと見ています。旧自由党系の星亨は第2次山県内閣を支え、この内閣のもとで地租増徴が実現しました。士族の復権を求めるものでもあった自由民権運動は体制の中に組み込まれていくのです。
 
 本書では日英同盟も北守南進論の見地から捉えられています。一般的に日英同盟によって日本はロシアとの対決を決意したと考えられがちですが、桂や小村寿太郎は日英同盟によってロシアの朝鮮への圧力は減退するはずだという見通しのもと、日英同盟が英領植民地の通商などの開放につながり、日本が南進する契機になると考えていたというのです。
 しかし、1903年になると情勢が変わってきます。ロシアは満州からの撤兵を行わず、日英同盟に対露抑止効果がほとんどないことが明らかになったのです。ただし、1903年7月の時点で児玉が台湾総督のまま内務大臣兼文部大臣に就任し、そこで文部省の廃止(内務省に吸収)が画策されたように、まだ日露交渉の行方は楽観的に捉えられていました。
 ところが、10月に入るとロシアとの妥協が難しいことが明らかになり、急逝した田村怡与造参謀次長の後任に異例の降格人事で児玉が就任します。開戦を予想した人事でもありますが、寺内正毅は明治天皇に、「ロシアとの交渉が上手く行ったら、次は児玉を参謀総長に就任させて参謀本部の憲法内機関化に着手させるつもりであると述べていた」(237p)そうです。

 日露戦争において、外征軍に権限を集中させたい大山・児玉と東京の大本営にもそれなりの権限を確保したい山県・桂・寺内らが揉めることもありましたが、結局、大山を総司令官、児玉を総参謀長とする満州軍総司令部が設立され、作戦を一手に担うことになりました。ちなみに著者は旅順での予想外の苦戦が児玉に超人的なはたらきを強いたとして、「(乃木の)第三軍は大本営の隷下に置かれるべきだったかもしれない」(255p)と述べています。
 戦局が優位に進むと、伊藤−児玉の早期講和論と桂−小村の一撃講和論が対立しますが、結局は早期講和でまとまりポーツマス条約が結ばれます。しかし、賠償金を取れなかったことなどから日比谷焼討ち事件を起きました。

 日露戦争によっていよいよ声望の高まった児玉は、伊藤からは首班候補と目され、また、参謀総長として帷幄上奏権改革や参謀本部改革に取り組みますが、この動きは1906年に児玉が急逝したことから挫折します。児玉のプランを引き継ごうとしていた寺内の動きも挫折し、伊藤・児玉・寺内の改革路線は失速しました。
 また、満州経営に関しても積極的だった児玉がいなくなったことで、陸軍では消極論が強くなります。満州軍参謀だった田中義一は「満州は清国の領土であり、日本が満州防衛の責に任ずるのは不合理である」(275p)と考えていました。田中は日英同盟を破棄して日露同盟を結び、北守南進を実行すべきだと考えていたのです(276p)。

 日露戦争のため大幅な増税が行われましたが、その結果、「直接国税10円以上という納税資格をクリアした有権者数は76万人から159万人へと飛躍的に増大」(281p)しました。それとともに政党の発言基盤は強化されました。これが桂園体制成立の背景にあります。
 桂園体制は山県系官僚閥と政友会の勢力均衡の上に成り立っていましたが、その裏で薩派陸軍の勢力は凋落し、伊藤もまた韓国統治で行き詰まり、思い切った国制改革を行う機運は失われていきました。そして伊藤は1909年に暗殺されます。

 桂園体制の崩壊の引き金を引いた2個師団増設問題と上原勇作の帷幄上奏ですが、陸軍中央の山県らはそこまで強硬ではなく、強硬なのは薩派でした。山本権兵衛の女婿の財部彪海軍次官は、海軍拡張の好機と捉えて上原に増師要求を貫くようにけしかけていました。
 このときに桂があえて倒閣の動きを止めなかったことが第2次西園寺内閣の総辞職につながります。桂は山県系の人物を退けた上で自前の内閣を組織しますが、これが国民の反発を呼びます。新党運動も不調に終わり、桂内閣は総辞職せざるを得なくなるのです。
 つづいて成立したのは薩派と政友会の連合政権である山本権兵衛内閣でした。山本は軍部大臣現役武官制を改正して予備役後備役からも任用できるようにします。さらに山本は文官任用令を改正するとともに、朝鮮総督府の総督を文官制にする、朝鮮などの「外地」を内務省や外務省の管轄下に置く、満鉄の縮小など、山県系の勢力基盤を切り崩すとともに、大陸への深入りを抑え込もうとしました。こられは伊藤の考えに近い路線でしたが、ジーメンス事件によってこの路線は挫折します。

 大隈重信を後継に推薦した山県の動機は政友会の勢力を削り取ることでしたが、第一次世界大戦の勃発は大隈に思わぬ大きな役割を与えます。大衆世論の動向な大隈内閣は第一次世界大戦に参戦すると、さらに軍部や対外硬派などの要求をそのまままとめる形で対華21ヵ条要求を出します。山県の影響力は後退しており、慎重派の意見は退けられます。結果として、「近代日本外交史上最大級の失策」(321p)となるのです。
 一方、日本の陸海軍が恐れていたのが露独同盟、あるいはドイツがロシアを破り東亜に進出してくるというシナリオでした。こうした中で1916年に第4回日露協約が成立します。これは攻守同盟であり、日本は対露武器援助を開始します。
 しかし、革命によってロシアは崩壊し、ブレスト・リトフスク条約により大戦から離脱します。日本では露独勢力による東漸が警戒されるようになり、それがシベリア出兵にもつながっていきます。シベリア出兵はドイツを挟撃したいというイギリスからの要請などもあってなし崩し的に拡大していき、また尼港事件などもあって出兵は長期化しました。
 一方、国内では原敬内閣が成立しますが、大戦景気による財政状況の好転によって軍備拡張を進めながら協調外交に転換していきます。財政的な余裕が「軍事力も外交も」という路線を可能にしたのです。

 原は植民地総督武官専任制を廃止し、参謀本部の権限を縮小しようとしました。陸相の田中義一はこれに呼応し、参謀本部を陸軍省の内局にしようと考えます。しかし、1921年に原は暗殺され、翌年には山県が亡くなります。今までの陸軍と政党の関係は崩れ、田中、あるいは宇垣一成は政党を直接掌握しようとしました。一方で、こうした政党への接近を嫌ったのが上原で、彼ら薩派は参謀本部に立てこもることになります。
 陸相の人事に関しても、今までは山県が決定権を握っていましたが、田中は陸相、参謀総長、教育総監の三長官会議で決定する方式をつくり上げました。
 国際情勢の安定と政党政治の発展は軍縮の圧力を生みました。特に関東大震災が起こると財政面からも軍縮が求められ、4個師団を削減する宇垣軍縮が行われます。中国政策でも外務省と陸軍は歩調を合わせており、第2次奉直戦争などを上手く乗り切っています。

 元号が昭和に変わり、金融恐慌が起きる中で成立したのが田中義一内閣です。田中は蔵相に高橋是清を起用してこれを乗り切りますが、井上準之助を外相に起用しようとした人事はうまくいかず、外相は自らが兼任しました。しかし、田中は政友会における外務政務次官の森恪らの対中強硬派と高橋是清らの自由主義派の対立をコントロールすることができず、田中の対中外交は迷走します。
 第2次東方会議などを開いて対支政策を政治綱領化しましたが、目まぐるしく変わる中国の情勢に対して、かえって政策の硬直化を生むだけでした。山東出兵でも混乱し、このときに矛盾するような上奏があったことが昭和天皇の田中への不信感を生んだとも考えられます(383p)。
 政友会が幣原の「軟弱外交」を攻撃したことも田中の政策を縛り、第2次山東出兵と済南事件につながっていきます。そして、張作霖爆殺事件が起きます。田中は対中宥和政策を進めて混乱を収めようとしますが、事件の処理をめぐって昭和天皇の信任を失った田中は辞職せざるを得ませんでした。

 つづく浜口内閣は、外相に幣原、蔵相に井上準之助、陸相に宇垣を起用した実力者揃いの内閣で、金解禁と緊縮財政、それを支える協調外交と軍縮という政策を推進しました。軍縮は陸軍にとって飲み難いものですが、浜口内閣の産業合理化政策は陸軍で永田鉄山が研究していた総動員体制と相互補完的な関係にあり、宇垣もこの流れに期待を寄せていました。
 浜口はロンドン海軍軍縮条約の調印に踏み切り、「統帥権干犯」の批判を浴びますが、宇垣はこれを支えました。しかし、宇垣が病気療養でその職を離れると、軍制改革の主導権は宇垣の手から離れ始め、1930年には浜口が襲われ瀕死の重傷を負います。翌年に浜口が辞職して第2次若槻礼次郎内閣が成立すると宇垣は陸相を勇退しました。

 幣原と井上は中国で「政経分離」にもとづいた経済外交を展開しましたが、これらは陸軍や財満日本人の反発を呼びました。そして、そうした中で関東軍の石原莞爾らが1931年9月に引き起こしたのが柳条湖事件です。もともと石原は満州のみならず中国を領有することを考えていた人物ですが、わずか8800名の関東軍で満州制圧の挙に出ました。
 当然ながら、援軍などがなければこの軍事行動は続かないわけですが、まずは林銑十郎朝鮮軍司令官のもとで朝鮮軍が越境します。ここで陸軍首脳は辞職も覚悟しますが、若槻が「出たものは仕方がなきにあらずや」(428p)と述べ腰砕けになってしまいます。
 11月には安達謙蔵内相が政友会との大連立によって陸軍を抑え込む策に出ますが、これには政友会の積極財政を嫌う井上が反発し、失敗に終わります。同じく11月には関東軍はチチハル方面に兵を進めますが、これは永田が発案した金谷参謀総長の臨参委命(臨時参謀総長委任命令)によって押し止められます。ここから参謀本部が関東軍を抑え込み、12月初旬には関東軍の行動は行き詰っていたのです。
 ところが11月28日のアメリカのスチムソン国務長官の記者発表において、幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないだろうという見通しが示されると、幣原の「統帥権干犯」だとして非難が殺到します。幣原や金谷の政治的な求心力は失墜し、政友会も倒閣に動き出すと、若槻は耐えきれずに辞職して、関東軍の暴走を止める機会は失われたのです。

 ついで首相になった犬養毅は中国国民党と強いパイプがあり秘密交渉によって事態を収拾しようとしますが、陸相荒木貞夫と参謀次長真崎甚三郎は戦線の拡大をはかると、第一次上海事変も勃発し、内閣のコントロールは効かなくなります。さらに五・一五事件によって犬養が暗殺され政党内閣は終りを迎えるのです。
 1933年、塘沽停戦協定が成立し、満州での軍事行動は一段落します。日本は蔵相高橋是清のもとでいち早く世界恐慌から脱出し、その高橋を中心に高橋−民政党−統制派−財界という緩やかな提携関係が形成されつつありました。彼らは満州国を真の独立国として発展させ、門戸開放原則を適用することで外資の導入などを図ろうとしていました。一方、荒木が34年に辞任に追い込まれたことで皇道派の政治力は低下していきます。
 
 本書では永田を中心とした「統制派」と二・二六事件以降の陸軍主流派の「新統制派」を区別しており、永田のもつ柔軟性や協調主義的な傾向を重視しています(468−470p)。しかし、その永田が陸軍省内で斬殺されます。さらに二・二六事件によって高橋是清らが暗殺されると、前述のような高橋を中心とした連携は崩壊し、政治は混迷していきます。広田弘毅は指導力を発揮できず、期待された宇垣は陸相を得ることができずに組閣を断念し、林銑十郎内閣もまた迷走しました。
 「明治憲法体制を円滑に運営するには、議会・官僚・軍部のそれぞれの輿望を担い、体制を束ねることのできる人物に組閣させて権力の中心点を創り出すしかなかった」(480−481p)わけですが、この期待を一身に背負ったのが近衛文麿でした。

 しかし、盧溝橋事件が勃発すると陸軍内の意思の不統一によって戦線は拡大していきます。拡大に反対していた参謀本部は帷幄上奏を使って早期和平に持ち込もうとしますが、手続きを重視する昭和天皇はこれを容れず、第一次近衛声明によって和平交渉は打ち切られます。
 日中戦争が長期化する中で、近衛はより強力な統治機構の構築を目指して新体制運動を起こしますが、既成政党の打破を目指す近衛と近衛新党への相乗りを目指す政友会・民政党は折り合わず、近衛は辞職します。
 
 39年の独ソ不可侵条約の締結とつづく第2次世界対戦の勃発は日本の外交を混乱に陥れましたが、40年にドイツがフランスを屈服させると、日独同盟論が台頭し、それとともに近衛の新体制運動も息を吹き返します。
 40年7月に第2次近衛内閣が成立すると、外相の松岡洋右が外交の主導権を握るようになり日独伊三国同盟が締結されます。ヒトラーは日本を過大評価し、アメリカを過小評価していましたが、このヒトラーの見方が、ある種のミラー効果によって日本側の自己イメージの肥大化をもたらしたという見方は興味深いと思います(497p)。松岡は日・独・伊・ソによる四国同盟を構想し、41年に日ソ中立条約を結びますが、直後の独ソ戦の開始により、松岡の構想は破綻しました。

 新体制運動は大政翼賛会に結実していきますが、それを「幕府的存在」と批判されたことによって一国一党体制の構想は破れ、精神修養的な団体となります。求心力を高められなかった近衛内閣は松岡と陸軍の方針に振り回され、結局は日米開戦へと引きずるこまれていくのです。
 太平洋戦争が始まると、東条英機首相は陸相と参謀総長を兼任し、軍政権と軍令権を掌握しようとしますが、これだけの権限の集中は責任の集中にも繋がり、サイパン陥落を機に退陣を余儀なくされています。

 著者は「おわりに」で、軍が暴走してしまった理由として、統帥権の規定だけではなく、政党がもともと「反徴兵制的存在」であり、政治家と軍人の相互信頼関係がなかったことをあげています。政党と軍部を股にかけようとした桂は大正政変で失脚し、伊藤が考えた明治憲法体制の改革はうまくいきませんでした。著者は、明治天皇と伊藤が健在で、軍部にそれに呼応する潮流(児玉−桂−寺内)がいた日清戦争後の時期にそのチャンスがあったのではないかと見ています(528p)。
 しかし、憲法は改正されないままに昭和を迎え、統一的な国家意思を形成するには天皇親政か、体制統合能力を持つ総理大臣の登場しかない状況になりましたが、昭和天皇は親政の意思を持たず、近衛の新体制運動は挫折しました

 このように本書は軍部(主に陸軍)の動きに焦点を当てながらも、政党の動きや統治機構に関する分析を含むことで日本近代政治史の通史ともなっています。必ずしも軍に興味がなくても、近代の政治史に興味がある人であれば読んで得るものは大きいと思います。
 このくらいの時代の幅を扱った日本近代史の新書による通史といえば、坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)が思い浮かびますが、『日本近代史』が間違いなく面白いものの、ところどころにやや疑問符がつくような部分があったのに対して、本書はそういったところもあまりなく、ややマニアックでありますが冷静な議論が展開されているように思えます。


丸橋充拓『江南の発展』(岩波新書) 8点

 渡辺信一郎『中華の成立』につづく、岩波新書<シリーズ中国の歴史>の第2巻。以下に本シリーズの構成を示した画像を再掲しておきますが、今作では中国南部の舞台に稲作が始まった時代から南宋の滅亡までが描かれています。
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 「はじめに」で「南船北馬」という言葉が紹介されているように、中国北部が「馬の世界」であるとしたら南部は「船の世界」です。そして船を通じて東南アジアや日本ともつながっていました。また、商業の発達などは「古典国制」の枠組みに包摂されないアウトロー化した人びとを生み出しました。
 本書では中国南部を中心とした通史でありますが、同時に国家とアウトロー化した人びとの関係などを探ることによって現代につづく中国社会の特質にも迫ろうとしています。
 かなり硬い印象のあった第1巻に比べると、同時代の日本への言及なども多く、より柔らかい印象があります。前半は中国史を裏側から眺めるような面もあるので、少しわかりにくい面もあるかもしれませんが、第3章〜第5章、そして「おわりに」は面白いと思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 「古典国制」の外縁
第2章 「古典国制」の継承
第3章 江南経済の起動
第4章 海上帝国への道
第5章 「雅」と「俗」のあいだ
 
 黄河と並ぶ中国の大河・長江には「長江文明」というべき統一的な文化圏はなかったものの、いくつかの文化圏が存在しており、約1万年前あたりからイネの栽培が始まったと考えられています。
 紀元前2050年頃に中原でおこった二里頭文化(夏王朝?)の影響は長江流域にも及んでいたようで、二里頭文化の青銅器は長江流域、さらには華南・ベトナム北部からも発見されていますし、逆に二里頭文化の遺跡からは南部からの貢献されたものも見つかっています。

 春秋時代いなると、楚・呉・越といった国が現れますが、その中で強大になったのが楚です。楚は前597年の邲の戦いで中原諸国連合を撃破し、前6世紀後半から前5世紀にかけては「臥薪嘗胆」のエピソードでも知られる呉や越が力を持ちました。
 前4世紀になると再び楚が力を持ちますが、秦が急成長すると、次第に圧迫され前223年に楚は滅亡しました。
 その後、楚に現れたのが項羽です。項羽は陳勝・呉広の乱をきっかけに台頭し、秦を滅ぼしますが、ご存知のように劉邦との戦いに敗れました。
 劉邦により建国された漢では、帝国の西半分を郡県制、東半分を封建制にするという折衷的な統治制度が導入され、楚王には韓信が任じられました。しかし、体制が安定すると韓信ら功臣は粛清されていき、代わりに劉氏一族が封建されていきます。さらに5代文帝・6代景帝の時代になると、同姓諸侯王も抑圧され、呉楚七国の乱が起こりますが、これも短期間で抑え込まれます。

 前漢末期〜王莽時代〜後漢にかけて中国では「古典国制」が完成していきます。秦の商鞅に始まる小農民を主体とする一君万民体制が固められていったのです。この過程で氏族制社会は解体されていきますが、それとともに大量の遊侠(アウトロー)が社会に流出しました。彼らは個人間の関係(「幇の関係」)を重視し、命をかけました。劉邦や彼に仕えた韓信はそうした人びとです。
 また、戦国時代から商業が盛んになりますが、農本主義をとる法家は商人の活動を抑制しました。武帝の時代に財政再建を行った商人出身の桑弘羊は商人に税を課すとともに、塩や鉄の専売により財源を確保しましたが、このような政策は国家が「民と利を争う」(31p)ものとして批判されました。
 前漢の時代、次第に成長したのが「豪族」と呼ばれる大土地所有者です。豪族はしばしば「酷吏」に弾圧されましたが、彼らは儒教的な教養を学んで官僚の世界にも進出し、同時に基層社会の指導者となっていきます。その過程で儒教が基層社会にも浸透して行きました。
 後漢の時代になると江南の開発が進み、前漢末に250万だった人口は620万へと大幅に増えます(36p)。こうした開発は主に地方官によって主導されたものでした。

 後漢末はいわゆる『三国志』の舞台です。江南に呉を建国したのは孫権でしたが、孫権は元々呉郡の下方豪族の出身で、周瑜・張昭らの北来の豪族、陸遜ら江南の有力豪族、魯粛のような振興富裕層を取り込み、勢力を拡大しました(43p)。
 孫権は魏に対抗するために遼東の公孫氏や朝鮮半島の高句麗などにも働きかけを行っており、さらに東南アジアにも使節を派遣していました。こうした交流の中で呉では仏教がさかんになります。
 
 280年に呉は晋に滅ぼされ、普が中国を統一しますが短期間で崩壊し、五胡十六国時代へと突入します。中国北部に多くの異民族が侵入し王朝を建てたこの時代、90万人とも言われる人びとが戦火を逃れて南へと移動しました。普も江南に移動し、東晋となりました。
 東晋では北部からやってきた豪族が実権を握り、特に何代にもわたって重要な役職を務めた家は「貴族」と呼ばれるようになります。東晋が滅亡した後、宋→南斉→梁→陳と王朝は代わりますが(倭の五王が遣使したのは宋と南斉の時代)、この貴族が大きな存在感を示したという点は代わりませんでした。
 呉から陳に至る時代は六朝時代と呼ばれ、「寒門の新興武人層が軍功を背景に新王朝を創設する歴史を繰り返す一方、貴族・豪族が朝廷の高官を長く寡占し、短命な王朝を尻目に家運を維持しつづけ」(62p)ました。
 一君万民制のもとで小農の力が強かった中国社会において彼らは領主のような権力を確立することはできませんでしたが、魏で創設された九品官人法を背景に高い官品を得て官僚になり、高い官僚の地位を世襲していきます。

 そうした中で貴族たちの権威は高まり、「皇帝一族との通婚さえ、家柄の違いを理由に拒否するほど」(65p)でした。彼らは実務系のポストよりも文章を書くような非実務的なポストを好み、文化を発展させました。中原に遊牧系の王朝ができたこともあって、江南の人びとが中華文化の継承者を自認しました。
 また、この時代には北部からやってきた人びとが先住豪族の私的隷属民となり、江南の開発が進み、貴族の大土地所有も進みました。

 結局、北の隋に南の陳が滅ぼされ中国は統一されますが、隋の煬帝は江南の風土と文化にのめり込み、揚州に建てた離宮にしばしば行幸するとともに、南北を結ぶ大運河を建設しました。
 唐の太宗も王羲之を愛し、南朝の文化、あるいは国制は唐にも大きな影響を与えました。
 唐は8世紀半ばの安史の乱によって大きく動揺しますが、財政に関しては塩の専売と両税法の導入によって立て直しが図られ、9世紀はじめには再び安定します。江南デルタの開発も始まり、江南の富が北へと送られました。

 しかし、憲宗が宦官の手によって殺されると再び世は乱れ始め、戸口数が大きく減少するとともにアウトローが増え始めます。こうした社会の混乱の中、黄巣の乱をきっかけに台頭した朱全忠により唐は滅ぼされ、梁が建国されます。
 その後、中国は五代十国時代と呼ばれる王朝が生まれては倒れる時代となりますが、これを治めたのが後周の軍司令官だった趙匡胤でした。宋を建国した趙匡胤は太祖となって軍事力の集中を成し遂げ、その後を継いだ弟の太宗は遼に割譲されていた燕雲十六州以外の中国を統一し、科挙を改革して中央集権を進めました。特に皇帝自らが臨む「殿試」の導入は、皇帝と官僚の直接的な関係をつくる役目を果たしました。また、さまざまなポストを複数置くことで権限が特定のポストに集中しないような仕組みが取られました。
 
 このような大規模化した官僚組織は農業生産に対する両税と塩の専売などが支えました。また、「北辺や首都圏の需要を、南方の生産が支える」(103p)という仕組みも拡充されました。
 太宗期に進められた改革によって、貴族が没落するとともに科挙官僚が台頭し、皇帝の権力は強化されました。こうした中で江南の地主層はその富を子弟の教育に注ぎ、多くの科挙官僚を排出しました。富だけでなく人材も南から北へ流れたのです。

 11世紀後半になると宋の財政も傾きます。ここで登場したのが世界史の教科書にも載っている王安石です。教科書の記述ではその革新性は理解しにくいですが、本書ではその新法運動の革新性を次のように指摘しています。

 青苗法・均輸法・市易法はいずれも、地主や富商が利益を独占する民間経済に政府が介入し、彼らが高利貸しや投機を通じて得ていた利益を、国家収入に転化したうえで、中小の農民・商人に再分配するものである。(109p)

 さらに募役法や河倉法は、今まで地域の有力者などに無償で任せていた末端事務を、給与を出して業務委託するというものでした(この無償で末端事務を行う人物は「胥吏(しょり)」と呼ばれしばしば賄賂をとった(岡本隆司『腐敗と格差の中国史』(NHK出版新書)も参照)。また、科挙でもより実務能力を重視する改革が行われました。
 このように王安石の改革は、今風に言えば「大きな政府」を目指す改革でした。だからこそ、中国に伝統的な「政府による民事介入が少ないことを良しとする価値観」(112p)と衝突し、旧法党の激しい反発を呼びました。
 王安石を抜擢した神宗の死とともに新法党は失脚し、その施策は廃止されます。そして12世紀の徽宗の時代に金の侵攻によって徽宗は欽宗とともに捕虜になり、北宋は終焉します。そのため、徽宗は暗君の代名詞(ただし書画の才能は一級品だった)のように言われていますが、近年の研究では彼が新法政治の推進に意欲を持っていたことなどが明らかになっています。

 徽宗の頃、中国の人口は1億人を突破したとされています。人口比率の南北逆転も起こり、11世紀後半には南方の人口が65%になりました(116p)。江南デルタの開発も進みますが、そこで存在感を見せたのが大地主でもある新興の科挙官僚でした。
 中国では家産均分慣行(兄弟が平等に相続)があり、ほっておけば代を経るごとに零細化します。そこで地主は「宗族」という男系血縁集団の復活を図り(商鞅の改革以降、その存続は難しくなっていた)、宗族の共有財産を設定するとともに、宗族内の優秀な子弟に教育を施して科挙に合格させることで、家運の維持を図りました。
 さらに商業の発展とともに豊かになる層もあらわれ、海上交易で栄えた福建は科挙の合格者数でトップに躍り出ました(121p)。

 金に蹂躙された北宋でしたが、高宗が南部に逃れ南宋が成立します。高宗に信頼された秦檜は、金との戦いに善戦した岳飛らを抑えて金と和議を結び、「金が主、宋が臣」という関係を結び、毎年宋から金へ銀25万両、絹25万匹を献上するという和議を結びました。
 1161年、侵攻してきた金を宋は撃退し、金から大幅な譲歩を引き出して和議を結びます。しかし、13世紀になると皇帝の外戚の韓侂冑(かんたくちゅう)が金との戦いに打って出て失敗、その後、南宋は史弥遠(しびえん)のもとで安定しますが、北にはモンゴルという新たな敵が登場しました。結局、1276年に南宋はモンゴルに降伏します。

 最終的にはモンゴルに屈した南宋ですが、経済の発展ぶりは当時の世界でも屈指のものでした。杭州にはさまざまな商品が集まり、本籍地からはみ出したアウトローたちが賃労働に従事していました。
 ただ、J・ジェルネが「商人が金持ちになること以外は何も起こらなかった」(143p)と書くように、中国の商人はブルジョワジーにはなりませんでした。これは中国ではギルドのような団体が発展しなかったこと、成功した商人が一族の中から科挙の合格者を生むことを目指したことなどが背景にあると考えられます。中国のような家産均分と多角経営を軸とする流動的な社会では、身分団体をつくって国家に対抗するよりも、科挙に合格し国家権力に食い込むほうが自然だったのです。
 また、経済の発展とともに銅銭だけでは貨幣需要に応えられなくなり、鉄銭や紙幣(会子など)も使用されるようになりました。さらに銀の使用も広がっていきます。
 南宋では海外貿易もさかんになり、東南アジアや西アジアの品物が流入しました。日本との貿易も行われ、平氏政権、そして平泉ともつながっていました。南宋はまさに「海上帝国」だったのです。

 通史としてはここで終わってもおかしくないのですが、本書では第5章で中国の官民関係を大きく捉え直しています。
 中国では、「歴史上、地方分権(封建制・領主制)が繰り返し否定されてきた結果、「専制国家と基層社会の乖離」は著しく大きく」(164p)なりました。地方官として科挙官僚が任命されましたが、彼らは3年ほどの任期で異動していく存在で、地域社会では豪民(地主や富商など)や胥吏が力を振るっていました。
 一方、争い事に関しては県や州といった国家権力に持ち込まれており、中国の社会団体が「法共同体」としての力が弱かったこともうかがえます。日本のように村が構成員を処罰するような形はあまり見られなかったのです。そのため、中国では村の構成員の資格なども曖昧で、流動性の高い社会となっていました。中国では国家や中間団体は「規制もしないが保護もしない」(167p)存在で、日本や西欧とは対照的でした。
 この中間団体の弱さを補ったのが個人間の「幇の関係」です。個人は友達の友達のような伝手で流動性の高い社会を渡っていこうとしたのです。

 封建社会や部族社会では集団の基礎単位が軍団に由来するために、「武」を中心とした国家機構が組み上げられがちですが、封建社会や部族社会が否定されてきた中国では「文」が軸となり、王朝を生み出した武力は弱体化されました。
 先の述べたように、中国では富裕層が子弟を教育し科挙を受けさせましたが、当然ながら未合格者も増えていきます。彼らに受け入れられたのが「道学」であり、特にその中の「朱子学」でした。朱子学は下っ端の士大夫に修養の道を示すとともに、その先に天下国家を見据える展望を提供し、彼らの期待に応えました。
 朱子学を学んだ中には地域社会の規範を定めたり、飢饉に備えて社倉をつくるものも現れ、これが明清期の郷紳へとつながっていきます。

 「おわりに」では、中国史を学んだ者からよく出る質問として、中国において「「一元性の志向」と「多元性の放任」が併存するのはなぜか?」、「近代的諸価値との不調和を起こしがちなのはなぜか?」という2つの問をあげ、それに対する見通しを示しています。
 前者に関しては、「一元性」は建前で、その建前を崩さない限りの多元性は放任するというのが歴史的に主流だったということを述べ、後者に関しては「対等な団体間での合意形成とい慣行の有無」(183p)がポイントだと指摘しています。
 「「誰でもなれる」「なれれば万能」という科挙官僚制の設計の「卓抜さ」は、当事者の内部からその仕組みを解体する動機が生まれないことにある」(186p)とありますが、唯一の権力とそこにいかに食い込むかという考えは根強いのです。

 このように本書は通史でありながら、中国社会の特質を探る本でもあります。最初にも描いたように前半はやや歴史的事象を追いにくい部分もあるかもしれませんが、後半は歴史だけでなく中国社会への理解が深まる内容となっています。時間がない人は思い切って第3章から読んでも得るものがあると思いますし、そこだけでも十分に買う価値のある本です(もちろん第1章、第2章も読む価値ありですが)。

鶴岡路人『EU離脱』(ちくま新書) 7点

 2016年に世界に衝撃を与えたイギリスにおけるEU離脱の国民投票における離脱派の勝利、Brexitと呼ばれ、その要因についてさまざまな分析がなされてきました。2020年1月31日についに正式な離脱がなされましたが、離脱派の勝利の要因はいまだに多くの人を引きつける謎でもあります。
 一見するとこの本もそうした本の1つに思えますが、本書の特徴は「どうして離脱派が勝利したのか?」ではなく「どうして正式な離脱までにこんなに揉めたのか?」という問題を中心的に扱っている点です。離脱までの3年半を追いかけることで、イギリスとEUの今までとこれからの関係、イギリスの国内政治に与える影響、そして日本が考えるべき問題が見えてきます。
 Web連載がもとになっていて、専門家が書いたものでありながらジャーナリスティックでもあり、面白く読める内容です。

 目次は以下の通り。
第一章 国民投票から離脱交渉へ
第二章 延期される離脱
第三章 ジョンソン政権による仕切り直し
第四章 「主権を取り戻す」から国家の危機へ
第五章 北アイルランド国境問題とは何だったのか
第六章 再度の国民投票、離脱撤回はあり得たのか
第七章 離脱後のEU・イギリス関係の選択肢
第八章 イギリスなきEU、EUなきイギリスの行方
終章 ブレグジットは何をもたらすのか

 まず、「はじめに」で著者が指摘しているように、Brexitは必然ではありませんでした。賛成51.9%、反対48.1%と僅差でしたし、若年層が「残留」、高齢層が「離脱」というはっきりした傾向を示していたことを考えると(18p図表1参照)、数年後に投票が行われていたら賛否は逆転していたかもしれません。
 そして、次のポイントがBrexitはイギリスだけでなく、EUにとっても大きな問題だということです。ここで対処を誤れば次なる離脱が起きかねません。

 国民投票は残留/離脱の二択で行われました。だからEUに残る(100)か離脱する(0)という話だと多くの人が理解しましたが、著者はこれこそがボタンの掛け違いだったと見ています。離脱後のイギリスとEUの関係にはさまざまなグラデーションがあり、0か100かの問題ではなかったのです。
 ハード・ブレグジット派は「主権を取り戻す」とのスローガンのもとで欧州司法裁判所の管轄権の廃止などを求めましたが、それではソフト・ブレグジット派の求める単一市場は維持できません。こうした思惑の違いの中でメイ政権は迷走を続けました。

 2018年11月、メイ政権は交渉の末、EUとの離脱協定案をまとめ上げます。しかし、その案は否決され続け。メイ首相の辞任に行き着きました。
 これは北アイルランドとアイルランドの自由な国境を維持するための「安全策(バックストップ」がネックとなり、強硬離脱派の保守党の議員の支持を得られなかったからです。この北アイルランドの国境問題は第5章で詳述されていますが、場合によっては北アイルランドの現状を維持するために、いつまでもイギリスがEUの関税同盟から抜けられないという警戒から、メイ政権のまとめた協定案は反発を受けました。
 結局、2019年1月、そして3月と協定案は否決されます。メイ首相は労働党との協議で、合意案を承認するための国民投票を提示しますが、これが保守党内の強硬離脱派の反発を生み、5月24日にメイ首相は万策尽きて退陣します。

 2019年7月、ボリス・ジョンソンが首相になります。ジョンソンは「合意なき離脱」も辞さずという姿勢をとってEUとの再交渉に臨みました。ジョンソンは「やるか死ぬか(do or die)」というスローガンを掲げ、強硬な姿勢を示しましたが、ジョンソンだからこそ強硬派を抑え込み、ブレグジットに大きな変更を加えることができるという期待も混じっていました。一方、強硬派から見るとメイ政権の協定案の3回目の投票で賛成票を入れるなど、ジョンソンに対して100%信頼できない部分もあったのです。

 強引に「合意なき離脱」に持ち込むかと見られてもいたジョンソンでしたが、10月17日に新たな合意案をまとめ上げます。これは北アイルランドの自由な国境を維持するための「安全策」をイギリス全土ではなく北アイルランドに限るというものでした。しかし、19日に迫っていた期限内にこの合意案を議会で通すことはできず、ジョンソンは下院の解散へと動きます。
 そして、ジョンソンはこの賭けに勝ちます。保守党は650議席中365議席を獲得したのです。ただし、保守党は大勝したものの得票率は43.6%。ブレグジット党の2.0%を足しても過半数にはなりません(102−103p)。ジョンソンの「離脱に決着をつける(get Brexit done)」という主張は支持されたものの、ブレグジットに関する世論は変化しなかったとも言えます。
 こうして2020年1月末でのEUからの離脱が決まったのです。

 このように前半の第1章〜第3章は時系列的に離脱に向けた動きを追っています。そして、第4章以降は、EU離脱が持つ意味を改めて問い直しています。
 まず第4章では、著者はブレグジットを国家の危機と捉えています。

 結論を先取りすれば、EU離脱によって「主権を取り戻す」はずだったイギリスは、離脱によってさらに主権・影響力を失い、さらには連合王国としての自国の存続自体が危機にさらされる事態となっている。皮肉や逆説といった言葉を気軽に使いのが憚られるような帰結である。(108p)

 離脱派はイギリスの主権がEUによって奪われていると感じでいましたが、EU加盟国だからこそ、イギリスは単独で行使できる以上の影響力をヨーロッパと世界で行使できていたという面もあります。実際、EC懐疑派として認識されているサッチャーも、市場統合によってイギリスの利益を最大化しようとしていました。EU予算におけるリベート(払い戻し)などもサッチャーがEUから勝ち取った権利です。しかし、今回の離脱でイギリスはその特別待遇を失ったのです(もし再加盟したとしても今の立場は恐らく獲得できない)。
 
 EUは域内、そして域外にも影響を与えるさまざまなルールを策定してきましたが、今後イギリスは「ルールメーカー」から「ルールテーカー」に転落する可能性が高いです。離脱派は離脱によってEUのルールを無視できると考えましたが、EUとの貿易を続けようとすればより規模の小さいイギリスはEUのルールを受け入れざるを得ません。
 イギリス出身の元EU高官が「抜けるのが無理なのがEUで、そのように作ったのだ」と述べたという話からもわかるようにEUからの離脱は想像以上に難しいもので、メイ首相も「自分が想像したよりも厳しかった」と認めています(120p)。

 また、「憲政危機」という言葉も使われました。ジョンソン首相による議会の停会の強行など、今までの常識(コモンセンス)では考えられないような事態も起こりました。著者はその背景に、ジョンソン政権のドミニク・カミングス顧問の影響も見ています。彼は世論分析の専門家で政治家ではありません。「非政治家に乗っ取られた政権」(124p)と言うことも可能です。
 ブレグジットは連合王国の将来にも暗い影を投げかけました。EU残留派が多数を占めるスコットランドでは、2014年の住民投票で1度は抑えられた独立への動きが再燃するでしょうし、北アイルランドの問題をめぐって明らかになったのは、連合王国の他の地域と分離してでも離脱を実現したいというイングランド・ナショナリズムでした。

 第5章ではブレグジットにおいてもっとも厄介な問題となった北アイルランドの国境問題が詳しくとり上げられています。
 この問題の難しさは国境の自由な通行がアイルランド和平の1つの条件となっていたからです。イギリスがEUから離脱すれば、当然ながら北アイルランドとEU加盟国のアイルランドの間の国境で税関などの検査が必要となります、ところが、98年に成立した和平合意では北アイルランドとアイルランドの自由な往来が取り決められていました。
 この問題はEU離脱後の移行期間の中で開かれた国境を維持するための措置が取られることになっていましたが、移行期間内に適切な措置がとれないケースも考えられます。そのたまに導入されたのが「安全策(バックストップ)」です。EUとイギリスの間で「共通関税領域」のつくり、北アイルランドの開かれた国境維持のため、イギリスがEU関税同盟に残留するというものでした。
 しかし、離脱派はこれによって永久にイギリスがEUの関税同盟に残留させられる可能性があると強く反発したのです。

 問題の解決策としては、(1)北アイルランドとアイルランドの開かれた国境をあきらめる、(2)イギリス本土と北アイルランドの間に境界線を引く、(3)北アイルランドを含めたイギリス本土をEUの関税同盟内に置く、という3つのものがありますが、(1)はアイルランド和平の否定につながり、(2)は連合王国の一体性を毀損、(3)は離脱派にとっては容認し難いというもので、どの選択肢も問題を抱えていました。
 メイ政権はとりあえず(3)の選択肢を選びましたが失敗し、ジョンソン政権は(2)を選択しました。「ジョンソンは外相時代に北アイルランド国境問題などという「小さな問題が大きな問題(ブレグジット)を左右するのを許していること事態が信じられない」と発言して」(152p)おり、連合王国の一体性についてはそれほど深刻に考えていなかったことがうかがえます。
 ただし、もしイギリス本土と北アイルランドの間に境界線が引かれれば、アイルランド統一の声が高まっていくことが予想されます。

 第6章では、サイドの国民投票による離脱の撤回はあり得たのか? という問題を検討しています。
 先程述べたように、離脱協定についての国民投票を行うというメイ首相の提案が保守党内からの反発を生み、メイ首相は退陣に追い込まれました。国民投票はその選択肢の設定が難しく(協定案への賛否を問うだけだと、残留派も合意なき離脱派の双方が反対することになる)、国民投票を行ったとしてゴタゴタに全て片がつくというものではなかったからです。
 ブレグジットに対する世論については、2017年後半以降、一貫して「誤り」とする人びとが「正しい」という人の割合を上回っていましたが、「誤り」だとする人の割合も50%を超えたことはなく(170p図表7参照)、再度の国民投票で残留派が勝利するという保証はありませんでした。
 また、イギリスにあった欧州医薬品庁や欧州銀行監督局はすでに移転を済ませており、残留を表明したとしても、EU内においてイギリスが今までのようなプレゼンスを持てるかは不透明でした。

 第7章と第8章では、離脱後のイギリスとEUの関係が展望されています。
 ノルウェー、スイスなど、ヨーロッパにはEUに加盟しながらEUと緊密な関係を保っている国があります。しかし、ノルウェーはECJの管轄権を認めていますし、スイスは人の移動の自由やEUの規制を受け入れ、両国ともEUへの予算を拠出しています。「バルニエの階段」(バルニエはEU側の首席交渉官)と呼ばれる188pの図表8を見る限り、「主権を取り戻す」ためにはカナダや韓国のようなEUとFTA関係を結んでいる国のような立場にならざるを得ないのです(現在では日本もEUとの間にEPAを締結しているので「主権を取り戻す」にこだわった場合のイギリスは日本と同じ立場になる)。
 
 先述したようにジョンソン合意は、いざとなったら北アイルランドを切り離すことを想定したものだとも考えられ、ジョンソンは北アイルランドを犠牲にしても「主権を取り戻す」事にこだわったとも言えます。イギリスはEUの規制を受け入れずにすむわけですが、これによって雇用や環境に対する規制水準が低下することも警戒されています(それがジョンソンの狙いだという考えもある)。
 ジョンソン合意における移行期間は2020年12月末までで、残された時間はわずかです。この期間にFTAが締結できなければ、結局は「合意なき離脱」に近い状況に陥るかもしれません。

 ブレグジットをめぐってイギリス国内が迷走する間、EUでは着々とイギリス外しが進んでいました。首脳レベルから事務レベルまで、さまざまな会合がEU27(イギリス抜き)で行われることが増えたのです。
 しかし、イギリスは必ずしも「厄介なパートナー」だったわけではありません。オランダやデンマークなど、外交における米欧協力の重視、自由貿易推進を掲げる国にとってイギリスはフランスなどに対抗するときの頼りになるパートナーでした。EUの中心である仏独を牽制できる第三の力がイギリスだったのです。
 また、EU内で最大の非ユーロ参加国だったイギリスが抜けることは、同じ非参加国のスウェーデンやデンマークの周辺化を招くかもしれません。EU内でもコアメンバーとそれ以外で階層化が進むかもしれません。
 
 外交面においてイギリスがいなくなることはマイナスではありますが、安全保障面などでは、EUとしての結束が強まるかもしれません。
 EUというパワーを失うことでイギリスの外交的な影響力は後退すると考えられます。それを補うかのように「グローバル・ブリテン」という構想が掲げられ、例えば、アメリカとのFTAやTPPへの参加なども検討されています。しかし、EUから抜けたことでイギリスの交渉力は確実に落ちています。弱みを見せながらの交渉となるのです。
 また、EUの玄関口(ゲートウェイ)としての地位を失います。特に日本は伝統的にイギリスをゲートウェイとしてヨーロッパ戦略を考えてきただけに、新たなゲートウェイを考える必要が出てきます。

 終章で、著者は2016年のBrexitとトランプ勝利後の世界について次のように述べています。

 トランプ政権になってからのNATO首脳会合やG7首脳会合などは、ツイートを含むトランプ大統領の言動により壊滅的にならなければ、「最悪の事態は回避された」としてポジティブな評価が与えられる。何をもってよしとするのか、何が当たり前で、何が当たり前でないのかに関する我々の判断基準自体が、大きく変化してしまった。このことが気づかれにくくなっているとすれば、それこそが最も懸念すべき事態なのだといえる。(238p)
 
 これに加えて著者は新しく就任したフォン・デア・ライエン欧州委員会委員長が「我々のヨーロッパの生活様式の促進」を担当するポストを創設したことをあげ、この「ヨーロッパの生活様式」という概念に注意を向けています。これは新たな分断を生み出しかねない用語であり、分裂する世界を象徴する1つの言葉となるかもしれないのです。

 最初にも書いたようにWeb連載が元になっておりその時々の状況に応じて書かれたものです。そのため前半に関してはその時々の状況に関する記憶を思い出しながら読むような感じになり、ニュースを追っていなかった人には少しわかりにくい部分もあるかもしれません。
 ただし、そうした時事的な連載であるながら最終的には国際政治の大きな問題にまで引っ張っていってくれるのがこの本の魅力です。今後のイギリスとEUの関係のみならず、今後の世界を占うためにも役に立つ本です。


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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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