山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2017年02月

金成隆一『ルポ トランプ王国』(岩波新書) 8点

 朝日新聞で注目を集めたトランプ支持者へのルポの書籍化。
 「いずれは失速する」と言われ続けたトランプですが、結局は共和党の予備選を制し、さらには本選でも大本命のヒラリー・クリントンを破りました。この原動力となった支持者の熱気と素顔を伝えてくれる本です。
 日本では、ニューヨークやワシントンの東海岸、あるいはロサンゼルスやシアトルなどの西海岸発の記事が多いですが、その真ん中に広がるアメリカの現在の雰囲気も教えてくれます。

 著者はニューヨーク駐在の記者ですが、周囲にトランプ支持者はほとんどいなかったといいます。実際、本選でのトランプの得票率はニューヨークのマンハッタンで10%、ブロンクスで9.6%、ブルックリンで17.9%、ワシントンでは4.1%(ii p)。都市部からの票はほとんどなかったのです。

 一方で、トランプはアメリカの真ん中で勝ちました。255pのエピローグの扉絵にはトランプ支持者の描いたアメリカの真ん中を共和党のカラーの赤で塗りつぶした絵が載っています。
 そして、この絵を書いたオハイオ州の溶接工の男性は次のようにトランプ勝利後に次のように言っています。
 「大陸の真ん中が真のアメリカだ。鉄を作り、食糧を育て、石炭や天然ガスを掘る。両手を汚し、汗を流して働くのはオレたち労働者。もはやオレたちはかつてのようなミドルクラスではなくなり、貧困に転落する寸前だ。今回は、真ん中の勝利だ」(257p)

 この本では、この「アメリカの真ん中」、特に今回の大統領選の勝敗を決定づけたと言われる五大湖周辺の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」を中心にトランプ支持者の話を聞いています。
 トランプの言動だけを追っていると、「こんな政治家を誰が支持するんだ?」という疑問も湧いてきますが、この本を読むと、その支持者たちはいたって真っ当な人物が多く、トランプを支持する理由というものも見えてくると思います。
  個人個人の話に関しては、著者がうまく引き出しているのでぜひ本書を読んでほしいのですが、ここではこの本に描かれているトランプ支持者のいくつかの特徴を紹介したいと思います。

 「貧しい」というより「以前より貧しくなった」
 トランプの支持者は貧乏な白人が多いと言われており(所得だけでいくと5万ドル以下の層はクリントンに投票した人が多いのですが(巻末264pのCNNの出口調査を参照)、困窮した白人がイチかバチかでトランプに票を入れたというイメージがありますが、著者が取材した人には意外と大きな家に住み、さまざまなものをもっている人が多いです。
 著者がインタビュー相手を地域のダイナー(食堂)で探したこともあって、インタビューされている人は高齢者が多いのですが、彼らは学歴がなくても真面目に働けば家と車を買い、年に一度は旅行に出かけられた世代で、現在もその時に買った家に住んでいます。
 彼らの生活はけっして余裕のあるものではないのですが、それよりも「昔はよかったけど今は…」という不満、あるいは将来への不安がトランプ支持の原動力の一つとなっているのです。

 オバマはそんなに嫌われていない
 オバマ大統領のもとで民主党と共和党の分断は深まりましたし、議会の共和党はオバマのやることなすことに文句をつけていたイメージがあるのですが、この本に出てくるトランプ支持者はオバマに対して好意的な人も多いです。
 オハイオ州に住むフェンス工場勤務のロニーは「オバマも好きだ。他人を攻撃しない彼を100%支持してきた。彼が思うように実績を残せないのは、(共和党多数の)議会の協力を得られないからだ」(94p)と冷静な分析を披露し、トランプを「オバマと正反対で下品なヤツだ」と言いつつ「今回はトランプもおもしろいかもな」と言うのです。
 オバマの「チェンジ」に期待した層が、今回の選挙ではその「チェンジ」への期待をトランプにかけたということなのでしょう。

 ヒラリー・クリントンはすごく嫌われている
 ヒラリー・クリントンについては「エリート」「傲慢」「カネに汚い」というイメージが定着しており、「エスタブリッシュメント(既得権益層)」の代表者として見られています。
 ヒラリー自身は弁護士時代に貧困問題や教育問題に熱心に取り組んだことがあり、「カネに汚い」わけではないと思うのですが、ゴールドマン・サックスから3回の講演料として67万5000ドル(7760万円)を受け取ったという話(55p)がすべてを打ち消している感じです。また、2016年9月9日にヒラリーがトランプ支持者を「deplorable(惨めな、嘆かわしい)人々の集まりだ」と発言したことは相当反発を買ったようで、トランプの女性蔑視発言よりもこちらが実は大きかったのかもしれません。

 ビル・クリントンは意外と好かれている
 ヒラリーへの悪いイメージは、夫のビル・クリントンのニューデモクラット路線やNAFTAの締結などが影響しているのかと思いましたが、この本ではビル・クリントンを評価するトランプ支持者が複数登場します。
 前出のロニーは「ビル・クリントンが最高の大統領だった。ヒラリーでもいいかな、と思うのは、ついでにビルが政治の世界に戻ってくるからだ」(94p)と言っていますし、ケンタッキー州のアパラチア地方の町の建設業者のブッチャーは「これまでの大統領で一番は(民主党の)ビル・クリントンだ。雇用状態もよく、(大きな)戦争もなく繁栄した。ブッシュは最悪。若者の命とカネを犠牲にしたイラク戦争を始めた」(160p)と言います。こうした人が今回の選挙ではトランプ支持に回ったのです。

 アメリカは広いし、人生は長い
 「NAFTAをはじめとする90年代から進んだグルーバル化が格差の拡大と不法移民の増加をもたらし、それが今回のトランプ勝利の背景となった」といった理解がなされていますが、この本を読むとそんな単純なことだけではないことがわかります。
 ペンシルベニア州のエドナという80歳の女性は、「街に知らない人が増えた。いろんな人種が増えた」と言うのですが、その「知らない人」とはヒスパニックやアジア系ではなく、「ポーランド人とかスロベニア人とか、新しい人たちが増えた」と言うのです(172p)。彼女にとってアメリカが最高だったのは1950年代であり、近年のグローバル化とは違ったスパンでアメリカを憂いているのです。

 トランプは急に出てきたわけではない
 この本の第2章ではオハイオ州出身の下院議員ジム・トラフィカントの話が紹介されているのですが、彼は国境警備の強化を訴え、雇用の重要性を訴えって個別の企業を名指しで批判しました。「労働者のホンネをありのまま表現した」(64p)と評されるトラフィカントは、ある意味でトランプを先取りした存在でした。
 また、この本の第7章では「北米自由貿易協定(NAFTA)が間違いというのはまったくその通り」、「私はNAFTA改定を試みるため、メキシコなどの大統領にすぐに電話を入れます」、「雇用を海外に出す企業への税の優遇措置は止め、アメリカに投資する企業を優遇しないといけません」といった大統領候補の言葉が紹介されていますが(236p)、これはトランプの言葉ではなく、ヒラリー・クリントンと戦った時のオバマの言葉なのです。
 トランプのような主張が受けるというのは、以前から知られていたことでもあったのです。

 トランプの強さは「独立している」こと
 支持者の多くが口にするのは、トランプは自己資金を使っていて大企業から献金を受けていないからえらいし、実行力も期待できるというもの。アメリカでは「独立している」ということが高く評価されているのだと改めて思いました(以前、日本で政治家を評価する言葉として「クリーン」というものがありましたが、それとは少しずれるのでしょうね)。

 他にも第6章ではサンダースの支持者も取材していますし、この本を読めば今回のアメリカ大統領選の様子や現在のアメリカの雰囲気というものが見えてくると思います。
 センセーショナルな取材対象を選ぶのではなく、いろいろなタイプのトランプ支持者を取材しており、テレビの報道などに比べても厚みのある内容に仕上がっているといえるでしょう。面白くタイムリーな本です。

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)
金成 隆一
4004316448

池田嘉郎『ロシア革命』(岩波新書) 8点

 今年100週年を迎えたロシア革命、ご存知のようにロシア革命は二月革命と十月革命という2つの革命をからなっています。まず二月革命でロマノフ朝が倒され、十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが権力を握るわけです。
 世界史の教科書などでは、この二月革命から十月革命の間、政権を担っていた臨時政府(ケレンスキー内閣)については「倒された存在」としてしか書かれていませんが、当然ながら、臨時政府はなんとか政権を運営し、政情を安定させようと努力したわけです。
 そんな臨時政府の立場からロシア革命を辿り直してみせたのがこの本。最近の歴史の本はさまざまなアクターを登場させることが多いですが、あえて臨時政府というアクターに絞って、ロシア革命の展開と、「無理ゲー」とも言える当時のロシアの政治情勢のなかで悪戦苦闘した政治家たちの姿を描いています。

 目次は以下の通り。
第1章 一〇〇年前のロシア
第2章 二月革命―街頭が語り始めた
第3章 戦争と革命
第4章 連立政府の挑戦
第5章 連邦制の夢
第6章 ペトログラードの暑い夏
第7章 コルニーロフの陰謀?
第8章 ギロチンの予感
第9章 十月革命

 「後進国のロシアでなぜ社会主義革命が成功したのか?」
 これは長年問われてきた問ですが、この本を読むといくつかの前提条件が見えてきます。
 まず、ロシアでは政府の抑圧が強かったため、有産層の政党よりも、「はじめに地下活動をおこなう勇気と大胆さをもった社会主義者が、非合法で政党をつく」りました(5-6p)。
 欧米流の教育を受けた自由主義者もいましたが、その数は圧倒的に少なく、農民や労働者といった民衆の力を借りずに政府をひっくり返すことは不可能でした。
 一方、長年、抑圧されてきた民衆にとって「現在ある秩序はこつこつ修正していくべきものというよりは、いつか、夢のような真実の瞬間に、一挙の転覆されるべきものであった」(16p)のです。

 そんな中で、第一次世界大戦が始まります。ロシアも総動員体制を敷きましたが、1915年の半ばにロシア軍は総崩れとなり「大退却」が始まります。そして、農村から大量の兵士が動員され、「独自の公正観念をもつ農民が、武器をもたされて、前線や都市に大量移動させられた」(17-18p)のです。

 1917年2月23日(ロシア暦)、ペトログラードの街頭で女工たちが「パンを!」と要求したことから二月革命は始まります。
 街頭に繰り出す人は次々と増えていきましたが、皇帝ニコライ2世は大本営の置かれていたベラルーシのモギリョフにあり、事の深刻さを把握することはありませんでした。 
 ペトログラードにいたロシア議会ドゥーマの議長ロジャンコは皇帝に対処を求めましたが、2月27には兵士の反乱も始まり、事態は切迫します。
 ここでドゥーマは自ら権力を掌握する道は選ばず、臨時委員会を設立する道を選びました。一方、ペトログラードの道を埋め尽くした群衆らは労働者と兵士の代議員評議会、メンシェヴィキの指導によりソヴィエトをつくり出します。

 ソヴィエトからは兵士の自由を求める声が強まり、兵士委員会による将校の解任なども行われました。この戦時下における、兵士の自由・解放と軍紀の維持の問題はこのあともずっと続いていきます。

 当初、臨時委員会はニコライ2世を退位させて12歳の皇太子に譲位し、皇帝の弟のミハイル大公を摂政に立てようとしましたが(33p)、事態の急転の中でこの案では事態を収拾できなくなり、共和制への移行と、臨時政府が全権力を引き継ぐことが決まります。この時、ミハイル大公の声明を書いたのが作家・ナボコフと同名の父で法学者のナボコフでした(40p)。

 臨時政府の中心となったのはカデットと呼ばれる政党を中心とした自由主義者たちでした。基本的にカデットなどの自由主義者が臨時政府に、社会主義者たちはソヴィエトによって事態を動かそうとしましたが、そんな中でケレンスキーは個人の資格で臨時政府の司法大臣となります。
 臨時政府の首班はリヴォフ公ですが、内閣の顔となったのは外務大臣のミリュコーフです(43p)。
 
 臨時政府はソヴィエトとの協議によって、成立にあたって8項目の活動方針を掲げましたが、その中には「革命に参加した部隊を武装解除せず、ペトログラードから動かさぬこと」という厄介な条項も含まれていました(48p)。
 また、ケレンスキーによって政治犯が釈放され、シベリアに流刑されていたボリシェヴィキの面々も釈放されていくことになります。
 臨時政府とソヴィエトの対立はありましたが、全体としては「社会全体が専制の崩壊を喜んで、幸福な一体感を味わっていた」(53p)という状況でした。

 しかし、臨時政府とソヴィエトでその姿勢が大きく違ったのが戦争に対する態度です。ソヴィエトが「無併合、無賠償、民族自決」の原則を打ち出したのに対して、外相のミリュコーフは英仏との協調のため、戦争の継続は必要との立場でした。
 当時の情勢からするとミリュコーフの考えももっともなものでしたが、政治の場は街頭にも溢れ出しており、「「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心を捉える政治」であり、「「敵」を探す政治」でもありました(69p)。
 ミリュコーフは帝国主義的な「ブルジョワ大臣」とされ、結局、5月2日に辞意を表明することになります。

 それを受けて、5月7日、ケレンスキーだけでなくメンシェヴィキのツェレテリエスエル党首のチェルノフなど社会主義勢力のリーダーがずらりと入閣した連立政府が発足します。
 しかし、この連立政府には議会がないという欠点がありました。一応、ドゥーマは完全に解散しておらず存在感を示そうとした時期もありましたが、ソヴィエトはこれに猛反発し、廃止提案を可決させます。
 一方で、憲法制定議会の準備は遅々として進みませんでした。
 
 ロシアの社会ではこれまで家父長的な原理が社会を覆っており、軍を始めとする秩序はそれに支えられていました。
 しかし、革命はこの家父長的原理を破壊しました。兵士を突き動かすのは「死地に赴きたくない、故郷に帰りたい、地主地の分割に参加したいという、極めて真っ当な要求のみ」(93p)だったのです。
 
 こうした動きに対して、カデットは「市民になれ」と訴え、他人の財産や権利を尊重するように求めました。メンシェヴィキやエスエルも民衆の反乱に寄り添いつつも、このカデットの呼びかけを否定したわけではありませんでした。
 そんな中で、民衆の反乱を全肯定してみせたのがレーニンの「四月テーゼ」でした。彼は混乱を恐れず、一気に社会主義革命まで突き進もとしたのです。

 多民族との自治や連邦制をめぐる協議でも臨時政府は杓子定規な対応に終始し、ウクライナとの交渉をきっかけカデットの大臣たちは連立を離脱します。
 7月になるとペトログラードの街頭はボリシェヴィキに指導された反政府デモで埋め尽くされますが、レーニンがドイツのスパイだという説が流れたこともあり、臨時政府が再び主導権を取り戻します。トロツキーやカーメネフは獄に繋がれ、レーニンは地下に潜伏しました。
 ボリシェヴィキはその勢いを失いましたが、この好機を臨時政府は活かすことができませんでした。
 メンシェヴィキとエスエルはブルジョワジー勢力との連立を模索し、政党としてのボリシェヴィキの活動を禁止しませんでした(134p)。
 ケレンスキーが首相に就任し、彼のカリスマに頼ることで自体の打開が目指されましたが、第二次連立政府も社会主義者と自由主義者のバランスを重視した構成になりました。

 この時、注目を集めたのが軍人のコルニーロフの存在でした。軍紀を回復し、6月攻勢で勝利を得た彼は7月には軍の最高司令官に就任します。コルニーロフのもと、戦闘地域では銃殺に寄る死刑が復活しました。
 ケレンスキーとコルニーロフは、首都ペトログラードを軍事総督府という特別な地域にし、戒厳令を敷くというプランで合意します(のちにケレンスキーはこれをコルニーロフの「陰謀」だとします(158ー160p))。 
 しかし、ケレンスキーとコルニーロフの間の仲介役をリヴォフが買ってでたことから、この計画は迷走します。余計な仲介で疑心暗鬼になったケレンスキーはコルニーロフを解任。ケレンスキーは臨時政府内で孤立します。 
 このケレンスキーの窮地を救ったのがソヴィエトで、ソヴィエトの動きによってコルニーロフは拘束されますが、それはボリシェヴィキの復活も意味していました。

 この後、事態は十月革命へとなだれ込んでいくわけですが、この時の状況について著者はナボコフの次のような言葉を引いています。
 ナボコフは『レーチ』紙上でこう書いた。代議機関や憲法のない共和国などというものは明確な国家形態であるはずがない。ここにあるのは「われらの動乱時代の大いなるフェティシズム、つまり言葉のフェティシズムである。われわれは言葉に捕らわれている。どれだけの言葉があることか!」(177p)

 9月25日、第3次連立政府が成立しますが、同じ日にペトログラード・ソヴィエトではボリシェヴィキが過半数を掌握。トロツキーが議長となります(189p)。
 そして十月革命で、ボリシェヴィキは軍事クーデタのような形で権力を掌握するのです。

 この臨時政府の挫折とボリシェヴィキの成功について、著者は「おわりに」で次のようにまとめています。
 臨時政府が状況を収拾するためには、(1)早期に戦争を終結する、(2)暴力によって徹底的に民衆の要求を抑え込む、のどちらしかなかった。前者を選ぶには臨時政府はあまりに西欧諸国と深く結びつき、その政治・社会制度に強く惹かれていた。後者を選ぶには臨時政府はあまりに柔和であった。(228ー229p)

 一方、ボリシェヴィキは「西欧諸国の政府との関係を断ち切ってもよいと考えるほどに、彼らは新しい世界秩序の接近を確信して」ましたし「いざ政権を獲得してからは、躊躇なく民衆に銃口を向けることができるだけの苛酷さをもっていた」のです(229p)。

 このように、この本はロシア革命をたどると同時に、極限状態での強圧的な権力の必要性やそれを生み出すことの難しさなど、さまざまなことを教えてくれます。
 政治とは本来、多くの人々の意見を調整することがその大きな役割ですが、革命の嵐が吹き荒れる状況の中では、自らの意見を強硬に貫き通す勢力が政治を支配することもあるのです。
 ロシア革命だけではなく、革命というものの本質を改めて考えさせる本と言えるでしょう。


ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
池田 嘉郎
4004316375

岩崎育夫『入門 東南アジア近現代史』(講談社現代新書) 7点

 新書1冊で東南アジアのASEAN10に東ティモールを加えて11カ国の近現代史をたどるという欲張りな構成を持った本ですが、「多様性の中の統一」というキーワードのもと、うまくまとめてあると思います。
 もちろん、個々の国に関しては、「もう少しここがほしい」といった部分もありますが、東南アジアという地域のポイントを上手く押さえた内容に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
序章 東南アジアの土着国家
第一章 ヨーロッパの植民地化――16~19世紀
第二章 日本の東南アジア占領統治――1941~1945年
第三章 独立と混乱――1945~1964年
第四章 開発主義国家と民主化――1960年代後半~1990年代
第五章 経済開発と発展――1960年代後半~2000年代
第六章 地域機構ASEANの理想と現実
終章 東南アジアとは何か

 目次を見ればわかるように、この本は国ごとの歴史を見ていくのではなく、時代ごとの東南アジアにおけるトレンドを押さえた上で、各国ごとの特徴を見ていく内容になっています。

 東南アジアはインドと中国という影響力のある文明圏の狭間にある地域であり、そのためインドや中国の強い影響を受けました。
 宗教に関しては、インドからの影響が強く、儒教が入ったベトナム北部を除くと、ヒンドゥー教や仏教といったインド発祥の宗教の影響を強く受けました。
 著者は植民地化される前の東南アジアの土着国家に関して、「インド化」、領域が曖昧な「マンダラ型国家」、貿易港を中心として栄えた「港市国家」という特徴をあげています(42-45p)。

 16世紀にポルトガルがインド、そしてマラッカに進出して以来、この地域は欧米によって植民地化されていきました。
 植民地化は2つの段階で行われ、最初は香辛料を始めとする一次産品の貿易を独占するために貿易に必要な港が支配されました。そして、18世紀の産業革命以降は、一次産品の栽培のために土地とヒトの支配が目指されました(61-62p)。
 マレーシアではゴム、フィリピンではバナナやパイナップル、インドネシアではコーヒーの栽培が進められ、いわゆるモノカルチャー経済が成立することになります。

 そして、この植民地化によって東南アジアの社会も変容していきます。
 一次産品の栽培がさかんになりましたが、すべての人がそれに携わったわけではなく、「近代経済の下で単純労働者として生活する住民と、伝統経済の下で自給自足の農業などで生活する住民が併存する状態」(75p)になりました。
 また、中国とインドから数多くの出稼ぎ労働者がやってきたことにより、東南アジアのいくつかの地域は「単一民族型社会から多民族型社会に転換」(76p)しました。
 さらに、植民地化の過程のなかで領域が策定され、その結果として多民族形社会になった例もあります。ミャンマーの場合、平原部のビルマ人と山岳部の少数民族の間で棲み分けが行われていましたが、イギリスが一つの植民地として扱ったため、多民族型社会に転換したのです(79-79p)。

 こうした欧米の植民地支配を終わらせるきっかけとなったのが、第2次世界大戦における日本による占領と統治でした。
 著者は、この占領下における「シンガポールの華僑虐殺」、「フィリピンでの捕虜虐待」、「泰緬鉄道建設労働者の強制徴用」といった蛮行に触れつつ、「日本の占領統治は、東南アジアの人びとが独立を意識する苦い学習機会」(100p)になったとまとめています。

 第2次世界大戦後、東南アジアの国々は独立していくわけですが、インドネシア、ベトナム、フィリピン、ミャンマーといった戦後すぐに独立した国と、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポール、ブルネイといった比較的時間のかかった国に分かれました。
 この理由を著者は、「国民のあいだでどの政治社会集団が政権を担うのかが決まっていたかどうか」(105p)の違いだったといいます。
 日本の占領下の時代からインドネシアにはスカルノ、ベトナムにはホー・チ・ミンといった独立指導者がいたためにこれらの国は早期に独立しましたが、マレーシアでは王族の力が残っており、イギリスとの話し合いで独立が決まった後も王族(王族出身者)が政治に強い影響を持ちました。

 ただし、独立が達成されたとはいえ、東南アジアの歴史は血なまぐさいものでした。
 ベトナム戦争や、カンボジアにおけるポル・ポト派の虐殺がありましたし、インドネシアでは1965年の九・三〇事件をきっかけに華人に対する弾圧が行われ(華人の粛清はベトナムでも行われた)、またアチェの独立をめぐっても紛争が起きました。
 他にも1950年代後半から60年代前半にかけて、ボルネオ島をめぐってマレーシア、インドネシア、フィリピンのあいだで紛争が起こるなど、地域間の仲も必ずしも良くはなかったのです。

 このように不安定だった東南アジアの国々は、60年代後半から開発独裁というスタイルで社会を安定させるとともに経済を発展させます。シンガポールのリー・クアンユーやインドネシアのスハルト、フィリピンのマルコスなどが代表例です。
 開発独裁において、「経済成長は単なる経済営為にとどまらないで、社会の安定を確保し、かつ古い社会を変革するトータルな国家営為とみなされ」(152ー153p)、国家の主導によって経済開発が行われました。

 この開発独裁のスタイルが東南アジアで同時期に広まった理由として、著者はインドネシアの九・三〇事件をあげています。東南アジアの大国であるインドネシアが中国と断交し、開発主義に舵を切ると、他国でも中国の支援を受けた共産主義勢力が衰退し、それが開発主義国家の形成につながりました(155ー156p)。
 また、シンガポールという成功例の存在も影響を与えています。実現はしませんでしたが、ベトナムは1993年にシンガポールの首相を退任したリー・クアンユーに経済開発顧問への就任を要請しています(162ー163p)。

 しかし、この開発独裁は経済成長にともなって都市に中間層を生まれてくるとその限界を迎えます。86年のフィリピンの「黄色い革命」、92年のタイの「血の民主化事件」などがその代表例です。また、ミャンマーのように外圧によって民主化へと動いた国もあります。
 ただし、現在のタイが軍政下にあるように東南アジアの民主化は「未完」の状態だとも言えます。

 東南アジアはこの開発主義の時代に工業化しました。多くの国が経済発展のために工業化を目指しましたが、東南アジアの成功の秘訣は輸入代替型ではなく輸出志向型を目指したからだといえます。国内に市場を持たないシンガポールなどが輸出志向型で成功したことから、他の国も輸入代替型から輸出志向型へと転換していったのです。
 こうした経済発展を担ったのが、海外とのネットワークを持つ華人企業でしたが、その華人企業と政治家との癒着は東南アジア経済の問題の一つです(205ー208p)。

 また、この本では東南アジアの出稼ぎ労働者についてもとり上げられています。
 東南アジアの出稼ぎ労働者というと、域内から域外へという動きばかりに目を奪われますが、実は域内での移動もさかんです。タイはミャンマー、カンボジア、ラオスなどから大量の未熟練労働者を受け入れており、その数は3国合計で287万人(2014年11月)にのぼります。マレーシアにもインドネシアからの労働者が94万人(2013年)います(210ー211p)。
 もちろん、域外への動きもあり、特にフィリピンは中東などにメイドや建設労働者を送り出すとともに、専門技能者をアメリカなどに流出させています(212ー213p)。

 最後はASEANについて。現在、世界的にみても「成功」の部類に入る地域統合ですが、1967年にインドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールの5カ国で結成された時は、ベトナム戦争においてアメリカを後方支援する同盟といった性格が強く(225p)、経済協力は名ばかりのものでした。
 その後、90年代にベトナムやミャンマーなどが加盟してASEAN10になるとともに、93年には「ASEAN自由貿易地域」(AFTA)が始まり、2007年には「ASEAN憲章」が合意されました。この時期にASEANの統合は急速に深まっていったのです。
 EUなどに比べると、ASEANのつながりは緩やかですが、民族や宗教の異なる東南アジアにおいてこの緩やかさが「多様性」を象徴するものであり、同時に人為的につくられたASEANという組織こそが、東南アジアの「統一(協調)」のシンボルだと著者はまとめています。

 スハルト後のインドネシアやマハティール以後のマレーシア、ASEAN加盟国同士の関係など、他にも知りたいことはいろいろあるのですが、新書で「東南アジア近現代史」という形式を考えれば十分にポイントを押さえていますし、読み応えがあります。
 まさに、「入門」として機能する本だといえるでしょう。

入門 東南アジア近現代史 (講談社現代新書)
岩崎 育夫
4062884100

宮本太郎『共生保障』(岩波新書) 6点

 著者は2009年の『生活保障』(岩波新書)おいて、雇用と社会保障を結びつけることで行き詰まりを見せつつある日本の社会保障の再編を提唱しました。この本はお手本となるスウェーデンモデルの問題点なども指摘した非常に面白い本だったと思います。
 それから7年ちょい、著者自身も民主党政権での内閣府参与、野田政権下での三党合意のもとで設置された社会保障制度改革国民会議でも委員を務めるなど、政策形成の場に携わってきたわけですが、社会保障制度の行き詰まりが解消されたとは思えません。
 そんな現状に対して、「支える側」と「支えられる側」の二分法をこえた「共生」によるアプローチによって普遍主義的な福祉の再構築を提唱した本。
 理念や実戦の紹介としては悪くないですが、政策的な処方箋という点からするとやや不満も残ります。

 目次は以下の通り。
第1章 制度はなぜ対応できないか
第2章 共生保障とは何か
第3章 共生の場と支援の制度
第4章 社会保障改革のゆくえ
第5章 共生という価値と政治

 かつての日本は、一家における男性の稼ぎ手に立場が比較的安定しており、その男性が社会保障制度の支え手となり、老人のみの世帯や母子家庭など男性の稼ぎ手がいない世帯は支えられる側として福祉を受けていました。
 また、住宅や子育てに関する費用なども、企業の手当や住宅ローン減税などを通して供給されることが多く、国が直接国民を支えるしくみは手薄でした。

 ところが、男性稼ぎ手の雇用が不安定になり、少子高齢化が進んだことで、このしくみは行き詰まります。「支える側」の生活が不安定になり、「支えられる側」が増加したことで、「支える側」と「支えられる側」の二分法を前提としたしくみは持続が難しくなってきたのです。
 また、特定のカテゴリーの弱者を救うための制度の間に落ち込み、適切な支援を受けられない人々も出てきました。

 そこで著者が打ち出すのが「共生保障」という考えです。
 ポイントは3つで、1つ目は「支える側」を「強い個人」とは見なさずに必要に応じて支え直すこと、2つ目は「支えられる側」に就労や社会参加の機会を提供すること、3つ目は共生の場を作り出すと同時に、補完型の所得保障を広げることです(47p)。

 この「共生保障」という考えは、現在、安倍政権の推進する「一億総活躍社会」の考えと近いようにも見えますが、著者は「一億総活躍」が一般的就労をゴールとして強調している点を問題とし、「共生保障」では、就労がゴールではなく、問題があったらケアを受け、再教育が受けられるような入退出がしやすい社会を目指すとしています。

 こうした「共生」の実践例としてまずとり上げられているのが、秋田県藤里町の事例です。
 藤里町は人口3600人ほどの町ですが、2010年の調査によってひきこもり状態の町民が113名もいたことから(68p)、その対策に乗り出しました。この「ひきこもり」というのは必ずしも障害者というわけではありませんし、母子福祉や高齢者には引っかからない存在です。まさに制度の間に落ち込んでしまう存在なのです。
 藤里町では、こうした「ひきこもり」だった人々へ就労機会を積極的に提供し、特産品の通信販売などにもつなげました。彼らを単純に「支えられる側」だと規定しないことによって彼らの潜在能力を引き出したのです。

 他にもいくつかの事例が紹介されていますが、著者がキーポイントだと考えるのがユニバーサル就労の考え方です。
 ユニバーサル就労とは、「障害や生活困窮など、働きがたさを抱えていた人々が、支援を受けつつも多様なかたちで働くことができる新しい職場環境」(82p)のことで、こうしたかたちを支援していくことが、「支える側」と「支えられる側」の二分法を乗り越えることになるといいます。

 次に共生型ケアがあげられています。共生型ケアとは「福祉のなかから当事者同士の支え合いをつくりだし、部分的には支援付き就労にもつなげていく試み」(106p)で、例えば、高齢者と障害者、障害児などが一つの施設でケアを受けつつ、互いに支援し合うようなやり方です。
 また、こういった仕組みを誘発するための、建物づくりや地域づくりも重要です。

 さらに補完型所得補償の必要性も主張されています。
 現在の社会保障は代替型が多く、例えば雇用保険は失業することではじめて受給資格を得ます。しかし、これでは低賃金で働いている人を支援することはできません。この問題を解決することができるのが、一定以下の所得の場合にその不足分を給付する補完型所得補償です。
 他国でも導入されているのが給付付き税額控除で、アメリカでは「勤労所得税額控除」というかたちで行われています。アメリカでは、「2016年の段階で、たとえば子ども二人を育てる夫婦で5万198ドルまでの所得に対して、最高額で5572ドルまでが給付される」(125p)ようになっています。アメリカというと低福祉の国としていいられていますが、著者は「600億ドルを越える給付付き税額控除が給付されている事実は、再認識されてよい」(125p)と述べています。

 この本ではさまざまな取組が紹介されており、補完型所得補償を除いては日本でもいくつかの実践例があります。
 しかし、現在の日本において、このような誰でもが受益者となるような社会保障の普遍主義への転換がうまく進んでいるとはいい難い状況です(著者は2000年から導入された介護保険などを普遍主義の例としてあげていますが、全体として著者の理想に近づいているとはいい難いとしている(151-153p))。

 その理由として著者は「三重のジレンマ」をあげています。
 1つ目は「本来は大きな財源を必要とする普遍主義的改革が、成長が鈍化し財政的困難が広がるなかで(その打開のための消費税増税の理由づけとして)着手されたこと」、2つ目は「自治体の制度構造は「支える側」「支えられる側」の二分法に依然として拘束されている」こと、3つ目は「救貧的福祉からの脱却を掲げた普遍主義が、中間層の解体が始まり困窮への対処が不可避になるなかですすめられた、という逆説」です(153-154p)。

 介護保険をはじめとして日本の普遍主義的改革は、準市場的なかたちで進められました。「こうした準市場型の普遍主義は、包括的なサービスを柔軟に提供するという点では、共生保障の条件としてはむしろ好ましくすらある」(155p)のですが、保険料の高騰と自己負担の引き上げは、貧しい人々を排除するしくみにつながります。また、逆進的な社会保険料が上がり続けている状況は、低所得者の負担感を大きくしています。
 これに対して著者は、遺領福祉サービスの自己負担について上限を設ける総合合算制度を提案しています。「たとえば、世帯所得の10%といった上限を決め、それを超える分は公費負担とする」(170p)のです。

 2000年代後半の福田政権~民主党政権時に、「社会保障と税の一体改革」が行われました。これも普遍主義を目指す改革であり、「全世代型の社会保障」が目指されました。
 しかし、これも十分な成果を上げたとはいい難い状況です。実際、消費税が5%から8%に引き上げられたことによって8.2兆円の財源が生まれたものの、既存の社会保障の穴埋めに3.4兆円、基礎年金の国庫負担割合を二分の一にするために3.1兆円が使われ、社会保障の強化に使われたのは1.35兆円にすぎません。社会保障の強化のために増税されたものの、社会保障が充実したという実感は育たなかったのです(179-180p)。

 著者はそうした中で成立した生活困窮者自立支援制度を、共生保障の考えに重なるものとしてある程度評価していますが、同時に「これまで普遍主義的改革を困難にしてきた財政的制約や自治体制度の壁を簡単には突き崩せないでいる」(186p)としています。

 ここまでが第1章〜4章までの内容。これを受けて第5章では、今後の展望が述べられているわけですが、ここが物足りなく感じます。
 例えば、「共生の可視化」ということが語られているのですが、例としてあげられているのが徳島県の上勝町のゴミ分別の話。上勝町ではゴミ収集車が走っておらず、町民が34種類に分別しゴミステーションに持ってくるそうです。これによってゴミ処理費用が抑制され、ステーションでの立ち話も増え、人々の間のつながりを強めたとのことですが(203ー204p)、都市部の共働き世帯がこれをやられたら悪夢ですよね。農家を含む自営か専業主夫のいる世帯でないと成り立たない仕組みでしょう。

 218pに「地域では、人々の支え合いを支え、共生を可能にしようとする多様な試みが広がっている。しかし、こうした動きは「好事例」に留まり大きな制度転換にはつながっていない」との記述がありますが、この本ではその制度転換のためのロードマップを示して欲しかったです。
 もちろん簡単なことではないでしょうが、この本で参照されているアンソニー・B・アトキンソン『21世紀の不平等』は具体的な政策提言に満ちた本でしたよね。

 社会保障の現在地点を確認する上では悪くない本だと思いますが、将来への展望に関してはやや不満が残りました。

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)
宮本 太郎
4004316391
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