山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2021年12月

高口康太『中国「コロナ封じ」の虚実』(中公新書ラクレ)

 著者の高口康太氏よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。
 新型コロナウイルス発祥の地と言われ、最初に大流行を経験した中国ですが、その後コロナは他国に比べて大きく抑え込まれました。その理由としては、徹底したロックダウンとともにIT技術を駆使したさまざまなデジタル監視技術があったとも言われています。
 しかし、「上に政策あれば下に対策あり」と言われる中国において、本当にIT技術だけで人を動かすことはできたのでしょうか? また、デジタル監視技術が進歩する中で中国の人びとはそれに対してどのように感じているのでしょうか?
 本書は、こうした疑問に対して中国に関するさまざまな取材を続ける著者が迫ったものになります。著者は話題になった『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)の共著者でもありますが、コロナという危機に対して「幸福な監視国家」がどのように振る舞ったのかということを教えてくれる本になっています。

 目次は以下の通り
第1章 14億人を封じ込めた大動員
第2章 デジタルに導かれる人々
第3章 デマと迷信を乗り越えて
第4章 摩天楼と城中村

 著者は2020年の2月17日に広東省の深センを訪れています。中国政府が新型コロナウイルス対策を支持してから1月ほど経っての訪問になりますが、とにかく「無接触」が徹底されていたそうです。
 バイドゥが発表した移動データによると2月〜3月中旬にかけて都市内の移動は7〜8割ほど減少しており、中国での外出自粛は徹底していました。

 なぜ、人手はここまで減少したのでしょうか? 2月17日の深センの新規感染者数はわずか1人、累計でも416人に過ぎなかったというのに(28p)、街にはほとんど人影はなかったといいます。
 この理由として、日本ではデジタル技術による監視があげられることが多かったのですが、著者はそれは少し違うと考えています。
 確かに一部ではドローンを使った監視なども行われたとのことですが、実際に鍵を握ったのは、習近平指導部がコロナ対策を最優先事項に引き上げ、各地方政府が争って対策を行ったからだといいます。

 例えば、チベット自治区では湖北省からの訪問者の陽性が確認されたことで医療戒厳令とも言うべき「一級饗応」が発令されました。たった1人の感染者が出ただけでです。
 また、ロックダウンは個人の事情などをまったく考慮せずに行われました。たまたま家に帰る途中に武漢市内の高速道路を通ったために2ヶ月近いロックダウンに巻き込まれた夫婦もいたといいます。
 
 ただし、そうは言ってもどのように人びとにルールを遵守させたのでしょうか?
 これを可能にしたのが社区と呼ばれる団地を管理する居住委員会や農村の村民委員会でした。
 もともと中国では社会主義経済のもとで、都市部では国営企業などが従業員を管理し、行政サービスを提供していましたが、改革開放が始まるとこの構造が崩れます。その代わりに団地などを単位として社区が設置されるようになったのです。
 この社区を管理するのが居住委員会です。日本の町内会などを思い起こさせますが、居住委員会のトップ(書紀)は政府から給与をもらう公務員です。この居住委員会は社区内の問題の調停、保緑(緑化と維持)、保潔(清掃)、保安(治安維持)の公共サービスなどを担っており、これがコロナ対策で活躍しました。なお、同じようにコロナ対策に成功した台湾にも里長という同じような仕組みがあるそうです。

 さらに中国全土には中国共産党の組織がはりめぐらされています。2021年6月時点で党員数は9515万人で、ここ40年で党員数は2.5倍に伸びています。さらに中国共産主義青年団(共青団)という14〜28歳の若者が所属する下部組織もあり、こちらも2017年末時点で8124万人がいるといいます。両方に所属しているケースが単純には言えないのですが、全人口の1割、1億4000万人程度が中国共産党、または共青団に属していると思われます(62-65p)。

 このようなマンパワーに加えて、中国政府は「網格化管理」(グリッド・マネジメント)と呼ばれる手法を導入したといいます。社区を300〜500世帯の網格に分割し、そこに網格員を配置して管理を徹底しようとしたのです。
 実際に網格員がどの程度配置されており、今回のコロナ対応でどれくらい役に立ったかどうかはわからない部分もあるのですが、北京市では8万5千人の網格員が戸別訪問を行って発熱者の把握に努めたと言われます。

 では、デジタル技術は無意味だったかというと、そんなことはありません。
 まず、デジタルを使った網格員間の情報共有が行われ、住民とのやり取りをチャットなどで済ませることによって仕事の負担を軽減しました。さらにコロナ前から普及していた行政への情報通報アプリも情報の共有や網格員の管理に役立ったといいます。
 
 また、中国で進んでいるのがデジタル技術による本人確認です。中国がネットの普及でも後発でしたが、その分、モバイルインターネットが中心になりました。中国では2004年から第2世代身分証の普及が始まり、2010年代になってからは携帯電話番号の所得に身分証の登記が必須となったため、スマホが本人確認の機能をもつツールになりました。
 さらに身分証には顔写真データもあるために、AIカメラによる顔認証機能を使うことも可能です。こうしたことによって中国ではさまざまな行政手続きがスマホで完結するようになりました。

 いわゆるシェアリングエコノミーに関しても中国では日本以上に進んでいます。日本のウーバーイーツはサービスに対応した店しか扱っていませんが、中国では配達員が一般客として購入したものを運んでおり、「市場で肉を500g買ってきて」といったリクエストも可能です。
 病院などに関しても、以前は良い医者にかかるために何時間も並ぶという状況でしたが、まずは整理券を売るダフ屋が現れ、ネット予約が始まり、大病院の医師によるオンライン健康相談が始まるなど、一種のシェアリングエコノミーによって問題が乗り越えられています。

 さらにデジタル技術による管理はコロナ禍の中で一段と進みました。「ハイリスク地域への滞在履歴がないこと」と「特定の場所を訪問した記録を残すこと」という2つの機能をもった「健康コード」というアプリが登場し、これが機能したのです。
 例えば、感染者が出たマンションは公表され、感染者が出た航空機や高速鉄道なども公開されます。さらに感染者の簡単な行動履歴も公開され、自分が感染者と接触した可能性があったのかが確かめられるのです。また、位置情報はGPSではなく携帯電話基地局の記録が活用されておりGPS以上の精度がありました。
 2021年10月には、感染者と同じ場所に10分以上いた場合、健康コードが黄色になり、緑に戻すにはPCR検査が必要となりました。

 デジタル技術による省力化も進みました。健康コードのチェックイン機能も紙に名前などを書く方式からQRコードの読み取りに変化し、健康コードど紐付いた顔認証機能をもった端末も発売され、スマホがなくても健康コードの履歴を確認し、同時に体温測定もできるようになりました。
 
 もともと中国ではエラー防止や不正防止のためにさまざまな手段が用いられており、レストランが衛生的に営まれているかを証明するために厨房をガラス張りにしたり厨房の動画を公開したり、食器類をビニールでパッキングして出したりしていましたが(政府の認証を受けた第三者の企業が食器を洗ってパッキングする)、デジタルで記録を残すことが「緩み」の防止に役立ったといいます。

 経済対策にもデジタル技術が活かされました。コロナによる経済の落ち込みを防ぐために、日本をはじめとして先進国では現金給付が行われましたが、中国では電子消費券というクーポンが使われました。これは利用額の10%程度が割り引かれるクーポンで決済アプリなどを通じて配布されました(著者の中国の友人は1人当たり1200ドル配ったアメリカのほうが社会主義的だと笑っていたとのこと)。
 さらにアプリを使った社区単位の共同購入なども行われ、これは老人なども助かったといいます。

 ただし、基本的にデジタル技術が駆使される中で中高年などは取り残される状況にあります。
健康コードがなければ地下鉄にも乗れない状況であり、スマホが使いこなせなければ日常生活にも支障をきたします。
 先ほど紹介した電子消費券もアプリからの申請が必要で、使えなかったという中高年も多かったと考えられます。

 一方で最近の中国ではIT企業への規制も進んでいます。アリババやテンセントの株価は大きく落ち込み、中国のIT企業のアメリカでの上場が断念されるケースも出ているのです。
 この引き金は、アリババの幹部が自らの不倫をもみ消すためにウェイボーからこのトピックを消す行動に走ったことが問題視されたからだとも言われています。共産党にとってメディアをコントロールするのは自分たちであり、巨大IT企業がそれを行うことは大きな問題なのです。
 デジタル化が進む中で、民間のIT企業への締め付けはさらに強まりそうな情勢です。

 このように中国ではコロナを抑え込んだわけですが、それでもこれだけ強引な手段を使えば人びとには不満がたまるのではないかと思われます。それでも、今のところ人々から大きな不満が高まっている様子は見受けられません。これはなぜなのでしょうか?

 ネット規制について著者は『三体』で知られる劉慈欣にインタビューで聞いてみたことがあるのですが、劉の答えは「ネット時代においては、デマとフェイクニュースも避けられません。ですから、まずは法律と政府によるネット情報への関与を強化し、危険な影響を持つデマとフェイクニュースをすみやかに発見・防止すべきでしょう」(136−137p)というものでした。

 もちろん、中国政府を批判するようなことは言いにくいということもあるのかもしれませんが、この「無秩序なデマよりも政府の検閲のほうがましである」という考えは、多くの中国の人々に共有されていると見られます。
 2003年のSARSのときには「炊飯器に酢を入れて保温モードにすると空間除菌ができる」、「ヤクルトが良い」などの噂が広がり、2010年の鳥インフルエンザのときにはニンニクが予防になるとしてニンニクの価格が30倍以上に高騰しました。
 福島第一原発事故の際には、食塩にヨウ素が添加されていたことから食塩の買い占め騒動が起きています。著者の妻の親戚の家にも食塩が山のように買い置きしてあったそうですが、その親戚は「多分、デマだろうとは思った。でも誰もが買っていたからね。もし買わなかったらしばらく塩は手に入らないでしょう。そもそも安いし、腐らないし、万が一を考えたら勝っておいたほうが合理的」(152p)と答えたそうです。
 このように数々のデマや噂に右往左往させられた経験のある中国の人々にとって、言論統制は必ずしも悪いことではないわけです。

 また、中国のネットの監視技術が洗練化されていて普通の人にはその監視や規制が気づきにくいという理由もあります。
 中国では以前からGoogleやFacebookへのアクセスが制限されていましたが、胡錦濤体制のもとではネットに地方政府を告発する声がさかんにあがり、それが大きな事件に発展することもありました。
 しかし、2012年に習近平体制が発足して以降、ネットへの統制は厳しく巧妙になっています。政府を批判するメッセージはあからさまに削除されるのではなく、密かに他の人から見えない状態にされており、なかったものとして埋もれていきます。
 新型コロナウイルスの感染拡大局面において、湖北省からの発信が極端に少なくなったというデータもあり、発信が密かに消された、あるいは見えなくされたということも考えられます。
 
 習近平政権になって登場した言葉に「正能量」(ポジティブエネルギー)というものがあります。これはポジティブな情報でメディアを満たそうというコンセプトで、これによって怪しげな健康食品等への規制は強くなり、広告タレントに連帯責任を負わせるような法律もできています。
 この「正能量」は、アイドルにも向けられています。ファンに投票券を買わせるようなアイドルのオーディション番組は「正しくない」として規制され、さらに芸能人やインフルエンサーにも規制の手は伸びています。

 ただし、本当に中国政府が人々の行動をコントロールできるのかどうかはわかりません。
 例えば、今回の新型コロナウイルスではセンザンコウが中間宿主だとも言われており、「野味(やみ)」とも言われる野生動物を食べることを規制する動きがありますが、中国ではトラを食べるためにトラ牧場がつくられ、パンダの肉が流通した過去もあり、こうした規制が今後も実効性をもってつづくのかどうかは不透明です。

 中国ではデジタル技術だけではなく、経済、あるいは人々を取り巻く社会そのものが急速に変化しています。人々を啓蒙だけでは間に合わないような変化の中で、政府はさまざまなデジタル技術を駆使して人々の行動を変えようとしているわけですが、それが成功するかどうかはまだわからないのです。

 このように本書はタイトルに書かれている「「コロナ封じ」の虚実」をさまざまな事例を通じて明らかにするとともに、強引な対策に対して人々からの不満があまり出てこない理由についてもその一端を明らかにしています。
 日本では受け入れられないようなことをなぜ中国の人々は受け入れるのかといえば、やはりそこには今までの社会のあり方の違いがあるのです。
 おもしろネタを交えながらも中国社会の本質について教えてくる本ですし、日本のコロナ対策や今後の社会のあり方についてもいくつかの示唆を与えてくるものになっています。




2021年の新書

 去年の「2020年の新書」のエントリーからここまで52冊の新書を読んだようです。 
 ジャンル的には歴史系が手堅く売れるということなのか、歴史系に良作が多かったですし、同時にかなりマイナーな歴史も新書化されるようになってきたように感じます。 
 レーベルでは、今年もやはり中公、岩波、ちくまに面白そうな本が目立ちましたが、そんな中でも今回1位と2位にあげた中公の本は充実していたと思います。
 また、今までは文庫化されたようなものが新書化されるようになったのも今年の新しい動きの1つで、藤木久志『戦国の村を行く』(朝日新書)、安田峰俊『八九六四 完全版』(角川新書)など、選書や単行本から新書化されています。今までならこれらの本は文庫として長く棚に置かれることが目指されたのでしょうが、文庫の棚の流動化が激しくなる中で、新書として再パッケージ化されるケースが今後も増えていくかもしれません。
 
 では、まずはベスト5をあげて、その後に次点を5冊あげたいと思います。

小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書)



 テーマももちろん面白いですが、ムハマド・ユヌスがつくったグラミン銀行は貧しい人にお金を貸す仕組みをつくって賞賛されてノーベル平和賞まで受賞したのに、同じように貧しい人にお金を貸す仕組みをつくった(金利も20%前後で同じようなもの)日本のサラ金はなぜ叩かれたのか? という切り口が素晴らしいです。 
 また、サラ金各社の借り手に対する情報の非対称性(貸す側は借りる側はどんな人間であるかがわからない)を乗り越える試みから、日本のジェンダーであったり、サラリーマン社会が見えてくる部分も非常に面白かったです。




武井彩佳『歴史修正主義』(中公新書)



 既存の歴史の書き換えを図る「歴史修正主義」(revisionism)、基本的に良くないことと認識されていますが、では「何が歴史修正主義なのか?」というと難しい問題でもあります。
 本書はこの捉えにくい概念である「歴史修正主義」と、さらにそれを一歩進めた「否定論」(denial)をとり上げ、その問題点と、歴史修正主義と歴史学を分かつもの、ヨーロッパで歴史修正主義の代表である「ホロコースト否定論」がいかに法的に禁止されるに至ったかを紹介しています。 
 本書は歴史修正主義を批判的に検討していますが、同時にそれへの対処の難しさも認めています。法によって白黒をつけるのではなく、歴史修正主義の陰謀論じみた単純性を否定し、歴史における複雑性やグラデーションを受け入れながら、歴史修正主義に対峙していくしかないというわけです。 
 そして、白黒つけられない難しい問題を扱いつつ、それを非常にわかりやすい形で読者に提示できているという点でもすごい本です。




濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)



 著者が2009年に同じ岩波新書から出した『新しい労働社会』は、ここ20年程度の中でも非常に大きな影響力をもった1冊で、ここで提示されたメンバーシップ型とジョブ型という雇用のあり方を示す言葉は広く流通するようになりました。
 しかし、一方で著者の考え、特に「ジョブ型」は誤解され続けており、一部(特に日経新聞)では成果型の変形としてこの言葉が使われています。
 そんな状況に対し、世の「ジョブ型」に対する誤解を正しつつ、もう1度日本の労働法と雇用の現実の間にある矛盾を掘り下げて、近年の労働政策を検証しています。
 日本ではジョブ型を基準とする労働法と現実のメンバーシップ型の雇用スタイルの齟齬が大きく、それが入口の就活、出口の定年、非正規、女性、外国人労働者、労働組合などさまざまな部分で問題を引き起こしているのです。





尾脇秀和『氏名の誕生』(ちくま新書)



 時代劇に出てくる「大岡越前」や「水戸黄門」、私たちは「大岡越前の本名は大岡忠相であり、水戸黄門の本名は徳川光圀である」と言いたくなります。越前は越前守、黄門は中納言の唐名で、いずれも官名を表すものだからです。
 ただ、「織田上総介信長の「上総介」も官名で本名ではないのか?」と言われると、迷いが生じてくるでしょう。戦国時代から江戸時代にかけて〜右衛門や〜左衛門といった官名風の名前が溢れているからです。
 一方、明治期の政治家を見ると、「大久保利通」と「後藤象二郎」のような2つの系統の名前が見受けられます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?
 本書は、まず江戸時代の名前の常識を解説した上で、融通無碍だった江戸時代の名前が、いかにして基本的に生涯変わらない(もちろん結婚すれば苗字が変わることはありますが)「氏名」というものにたどり着いたのかを教えてくれます。 
 そしてそれは、武士や庶民の常識と公家の常識の衝突の結果として生まれたものなのです。



 
青木栄一『文部科学省』(中公新書)




 帯には「失敗はなぜ繰り返されるのか」の文句。確かに、大学入試への民間英語試験の導入失敗、共通テストへの記述問題の導入失敗、教員試験の倍率低下、日本の大学の研究力の衰退、ろくに機能しているとは思われない教員免許更新制度など、近年の文部科学省の政策は失敗続きの印象が強いです。
 本書は「なぜそうなってしまうのか?」という疑問に答える本です。「外に弱く、内に強い」文科省は、周囲からの圧力を受けて教育委員会・学校、大学に努力を促しますが、財務省に対しては弱いのでそこに財政的な支援はありません。結果として現場にしわ寄せが及びます。 
 こうした状況に対して、本書は文部科学省という組織の特徴や官僚へのサーベイ調査などを通じて迫ります。教育問題に関心のある人、行政の仕組みに関心のある人双方にお薦めできる本です。





 次点が、日本の「自然村」は一種の幻想であり、村というのはあくまでも支配のための「容器」であったと主張した荒木田岳『村の日本近代史』(ちくま新書)、チャリティという視点からイギリスの歴史と社会を分析し、イギリス社会の構造を摘出してみせた金澤周作『チャリティの帝国』(岩波新書)、過去の気温や降水量の推定に関する研究なども引きながら従来の荘園についての理解を修正し、古代から中世の社会を描いた伊藤俊一『荘園』(中公新書)、ミャンマーにおいてロヒンギャがなぜ弾圧されていたのかを解説しながらミャンマーという国家のあり方についても教えてくれる中西嘉宏『ロヒンギャ危機』(中公新書)、江蘇省だけで2000万人という死者を出し「史上最悪の内戦」とも呼ばれる太平天国の乱の顛末を描いた菊池秀明『太平天国』(岩波新書)あたりになるでしょうか。

 あとは去年の11月の発売にもかかわらず読むのが今年になってしまったものの、中国社会を考えさせる内容になっていた小口彦太『中国法』(集英社新書)、同じ集英社新書の橋迫瑞穂『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』(集英社新書)は企画も内容も面白かったですね。

 あと、個人的なことを書かせてもらうと、「アーバン ライフ メトロ」というWeb媒体で東京に関係する新書の紹介記事を書かせていただきました。こちらにまとまっていますので、興味がありましたら読んでみてください。
 

大木毅『日独伊三国同盟』(角川新書) 7点

 『独ソ戦』(岩波新書)が話題となった著者が2010年に出した『亡国の本質 日本はなぜ敗戦必至の戦争に突入したのか?』(PHP研究所)を改題し加筆修正したもの。
 「なぜ、対米英戦という無謀な戦争に突入したのか?」というのは繰り返されるテーマで、その答えは満州事変に遡ることもありますし、明治国家のあり方にまで遡ることもあります。一方、直前の日米交渉に焦点をあわせる議論もあります。
 そんな中で本書が分水嶺として指摘するのが日独伊三国同盟です。日米交渉でもネックになったように、日独伊三国同盟は日本をアメリカが許容できない枢軸側に位置づけるものとなったものであり、日本の外交方針を大きく規定したものでした。

 本書は、なぜ日独伊三国同盟が成立し、どのように太平洋戦争の開戦までたどり着いてしまったのかを、大島浩と松岡洋右という2人の人物を通じて描き出します。この2人を中心とした日本の意思決定の中枢にいた人びとの甘い思い込みが日本を亡国の戦争へと引きずり込んでいくのです。
 著者が「あとがき」でも述べているように、この時期の著者は赤城毅という名前でミステリ作家としても活躍しており、本書も「読み物」として面白く読めることが追求されています。そのために落とされている要素もありますが、日本が開戦へと至る過程が非常にわかりやすく示されている本です。
 また、著者のもともとの専門はドイツ現代史であることもあって、類書よりもドイツの動きにも目を配っている点も特徴と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序に代えて――わたしに似たひとびと
第一章 ヒトラーに「愛された」日本大使
第二章 同盟のため奮闘せるも……
第三章 バスに乗ってしまった男たち
第四章 独ソに翻弄される松岡外交
第五章 亡国の戦争へ

 ヒトラーが最初に日本との連携を考えだしたのは1938年の「五月危機」からだといいます。オーストリア併合に成功したヒトラーは、次の一歩としてチェコスロヴァキアを狙っていましたが、チェコ政府が抵抗の構えを見せ、イギリスとフランス、さらにソ連までもがチェコを支援する姿勢を見せたために、ヒトラーはチェコへの侵攻をあきらめざるを得ませんでした。
 このときヒトラーは英仏を牽制できる存在として改めて日本に注目したといいます。ソ連に対抗する防共協定をすでに結んでいた日本とさらなる連携をはかることで、ヨーロッパにおけるドイツのフリーハンドを確保しようとしたのです。
 
 このヒトラーの構想に応えた、というよりも飛びついたのが大島浩です。大島浩の父の健一は山県有朋の寵を受ける形で出世した人物で陸軍大臣まで務めましたが、とうとう大将にはなれませんでした。また、健一は熱心な親独家でもあり、子どもの浩にも1日10個のドイツ語単語を暗記することを義務付け、長期休暇の際にはドイツ人家庭に預けられました。
 こうした履歴もあって浩のドイツ語は見事なものでしたが、「駐独ドイツ大使」と揶揄されるほどのドイツびいきになりました。
 1934年に大島は駐独大使館付陸軍武官となります。大島に期待されたのはドイツを通じてのソ連の情報の入手でしたが、大島はそれを越えて日独の提携を深めることを狙っていました。

 しかし、ドイツ側の反応は良いものではありませんでした。ドイツ外務省は第一次世界大戦における日本の火事場泥棒的な参戦を快く思っていませんでしたし、国防軍は日本と対立を深めていた蒋介石の国民政府に軍事顧問団を派遣していました。ドイツは中国の兵器を輸出する代わりに資源を得ることになっており、1935〜36年にかけてのドイツの武器輸出総額の57.5%が中国向けとなっていました(36p)。

 そんな中で日本との提携との前向きだったのがリッベントロップとカナーリス提督でした。
 リッベントロップはナチス外交を動かした人物として知られていますが、もともとは外交官でもなんでもなく、酒類貿易会社の社長などとして海外経験が豊富だったいう人物であり、外交は素人でした。
 ナチスに接近したリッベントロップはヒトラーの就任後に外務省No.2の地位を狙いますが、副首相のパーペンに拒否されます。しかし、リッベントロップはヒトラーの顧問だとして私的外交を進めようとし、さまざまな工作を行っていました。
 一方、カナーリス提督はヒトラー暗殺計画に関わったことでも知られていますが、筋金入りの反共の人物で、反ソの諜報網構築を考える中で日本にも注目しました。また、英仏の目を極東に向けさせるためにも日本の存在は重要だと考えていました。

 さらに日独防共協定の助産師役を果たしたのが武器商人のフリードリヒ・ハック博士です。第一次世界大戦で日本軍の捕虜となった経験も持つハックは、日本との間に人脈を作り武器を売り込むだけでなく、日独海軍の間の情報ブローカー的存在になっていました。
 このハックに大島が防共協定の締結を持ちかけます。大島はこのとき日独外務省による交渉は望ましくないとしてリッベントロップに打診するようにハックに要請しました。大島とリッベントロップの関係がいつできたのかは判然としないのですが、大島はリッベントロップとドイツ外務省の対立を知っており、これを利用しようとしたと考えられます。
 しかも、大島はこのとき両国のどちらかがソ連と戦争になれば自動参戦の義務を負うという案まで用意していました。

 この案に親中のスタンスだった国防軍は消極的でしたが、リッベントロップは飛びつきます。ドイツ外務省も抵抗する中で、リッベントロップと大島は防共協定の締結を目指すのです。
 また、寝耳に水であった日本の外務省も、当時の外務大臣であった有田八郎が、対ソ連の協定であれば満州事変以後国際的孤立が進んでいる中で悪くはないと判断し、交渉にGoサインを出します。

 ただし、1936年4月にドイツと中国の間で1億ライヒスマルクの借款が決まるなど、国防軍を中心とした親中的なスタンスは変わっていませんでした。彼らは日本との協定が無意味であり、英米との関係を悪くするものだと主張しました。
 こうした中でドイツ外務省は、逆に日本から中国か日本かの二者択一を迫られることを嫌って交渉に前向きになります。スペイン内戦勃発を機に、独伊対英仏ソという構図も見え始めており、ここから一気に日独防共協定の締結へと向かうのです。

 しかし、大島はこの協定では満足しませんでした。さらに軍事同盟への格上げを目指して画策し始めます。ちなみにハックは1937年に「男色罪」で逮捕されるものの、日本の要請もあって釈放され各地を転々とした後にスイスに落ち着きます。1945年にはそこで藤村工作と呼ばれる終戦工作にかかわることになります。
 1937年7月に日中戦争が勃発します。ドイツはトラウトマンを仲介にこの戦争の調停をはかりますが失敗しました。そんな中で、38年2月にはドイツの国防軍と外務省で今までの支配的な人物が排除され、外務大臣にリッベントロップが就きます。ドイツの極東政策は中国から日本へと大きく振れることになりました。
 さらに防共協定にはイタリアが加わり、三国防共協定となります。

 そして、最初に述べた1938年の「五月危機」以降、ドイツ側が日本との軍事同盟との締結を望むようになります。リッベントロップは大島に対象国をソ連に限らない協定を打診するのです。
 当時の陸軍大臣は板垣征四郎で、板垣はドイツとの連携に前向きでした。また、外務省も外相の宇垣一成は日独伊同盟に消極的でしたが、外務省の内部にもドイツと結んで日中戦争を解決すべきだと考えるグループがいました。
 しかし、海軍はこの日独伊同盟に強硬に反対します。海軍中堅層には親独派もいましたが、中枢の米内光政海相、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオがドイツとのさらなる提携に強力に抵抗することになるのです。

 米内に言わせれば、日本とイギリスの対立点は中国問題のみであり、中国に権益を持たないドイツやイタリアと結んでイギリスを追い出しても中国問題は解決できないし、アメリカが介入してきて圧迫を加えてくれば日本は持ちこたえられない。対ソのみならず対英を射程に入れる攻守同盟の締結は日本にとって利益がないというものでした。
 
 外務省は頭越しに話が進んだことに怒りますが、対象国をソ連に絞り攻撃性を弱めた案をつくり、これが五相会議でも確認され日本の基本方針となります。
 しかし、海軍と外務省があくまでも対象をソ連に絞り、英仏米を含まない形での協定を想定していたのに対して、陸軍では英米を含み、前文でコミンテルンを名指しするのはカムフラージュとすることを望んでいました。板垣が五相会議の内容をしっかりと伝えなかったこともあって、三国同盟の交渉は食い違いをはらんだまま進んでいくことになります。

 大島は基本的な同意は得られたと考えてリッベントロップに伝え、リッベントロップは大島に対してヒトラーも基本的には同意であると伝えます。
 ドイツはチェコのズデーテン地方をあきらめておらず、38年10月1日にチェコに侵攻する予定を立てていました。そのためにもできるだけ早い同盟の締結が必要だったのです。
 ところが、ここでイギリスのチェンバレン首相が仲介の乗り出し、チェコにズデーテン地方を割譲させる代わりに残りのチェコの領土を保障するという内容をまとめあげました。ヒトラーの進行計画は空振りとなったのです。

 38年9月、外相の宇垣が辞任し、有田八郎が後任となります。有田は防共協定こそ賛成だったものの、ソ連以外を対象にした同盟には懐疑的でした。
 このころ陸軍は大島をドイツ大使に格上げするように運動していましたが、外務省は軍人大使に難色を示していました。これに対してリッベントロップがオット駐日武官を大使に昇格させることでアシストをし、大島駐独大使が実現します。さらに駐伊大使に白鳥敏夫が任命されたことで日独伊三国同盟を推進する現地の体制は整いました。

 日本本国においては、板垣がソ連を主、英仏を従たる対象とすると言い出して混乱がつづき、結局は近衛が辞めることで仕切り直しとなります。 
 後任の平沼騏一郎は国粋思想の持ち主として知られていましたが、同時に常識的な人物でもあり、対象をソ連に限るべきだと考えていました。
 そうした中で外相に留任した有田は、対象はソ連だが場合によって英仏も含むという妥協案を出し、これをもって交渉を進めようとします。
 これに対して大島や白鳥は猛反発するわけですが、三国同盟をめぐる日本の目論見は1939年8月の独ソ不可侵条約の締結によってご破産となります。ドイツは英仏を牽制する駒として煮え切らない日本ではなくソ連を選んだのでした。
 平沼内閣は「欧州情勢複雑怪奇」の言葉を残して退陣し、大島も白鳥も辞任しました。

 その後、阿部信行、米内光政と首相は変わり、親独派は鳴りを潜めることとなります。
 しかし、三国同盟の機運はすぐに高まってきました。ドイツが40年の5月に西方への攻勢を開始し、6月にフランスを屈服させたのです。仏印と蘭印が権力の空白地帯となったこともあって、俄然、ドイツと結んで南方に進出すべきだという声が強くなります。そして、陸軍は畑俊六陸相を下ろすことで米内内閣を崩壊させました。

 米内内閣に代わって40年7月に成立したのが第2次近衛内閣ですが、近衛は軍部を抑えるためにと新外相に松岡洋右を迎えました。この松岡が本書の後半の主人公です。
 松岡は三国同盟に賛成の立場であり、対英戦も辞さずという考えでした。就任後すぐにオット大使に枢軸強化についてのドイツの態度を質しています。これに対して、ドイツは冷淡でした。すでにフランスを降しイギリスを追い詰めたドイツにとって、英仏を牽制する存在としての日本の価値はなかったのです。
 ところが、しばらくするとドイツはシュターマー(スターマー)を日本に派遣して交渉に前向きになります。イギリスが降伏する見込みがなくなるとともに、ドイツが対ソ戦を考え始めたことがその理由でした。対ソ戦遂行中にアメリカを牽制する存在として日本に再び注目したのです。

 そんな中、唯一海相の吉田善吾がドイツとの同盟は対英対米戦につながると慎重姿勢でしたが、周囲が賛成する中から9月には入院し、海相を辞任します。
 一方で、強硬策のみがアメリカの妥協を引き出せるとして松岡は同盟案を対米を含むものに強化しました。結局、アメリカに対しての参戦は各国政府が判断するとしたものの、英米ソを対象とした三国同盟の原案が出来上がり、日本政府で了承されました。
 
 1941年3月、松岡はシベリア鉄道を使って欧州へ向かいます。持論である日独伊ソの四国同盟を完成させるためでした。
 なお、この日独伊ソブロックに関しては、リッベントロップも同じような構想を抱いており、40年の11月に訪独したソ連の外相モロトフに対して四国同盟案を提示しています。しかし、モロトフはこの案に乗らず、ヒトラーは対ソ戦の決意を固めることになります。ですから、松岡の四国同盟案はすでに実現不可能なものだったのです。
 
 松岡とヒトラーの会談でも、松岡が四国同盟を論じたのに対してヒトラーは日本のシンガポール攻撃を要請するという噛み合わないものでした。
 四国同盟がダメならばせめて日ソ関係の改善だけでも成し遂げたいと考えた松岡は4月にモスクワに入り、モロトフと交渉を重ねます。モロトフは北樺太の利権問題にこだわり交渉は停滞しましたが、帰国直前にスターリンとの会談が実現し、ここで一気に日ソ中立条約が決まります。
 ドイツが攻撃してくるとは予想していなかったスターリンでしたが、対独関係の悪化は意識しており、保険として日本との関係改善に踏み切ったのです。
 一方の松岡は、これで対米交渉ができると考えました。

 しかし、この松岡の自信が対米交渉の出足をくじくことになります。41年4月に野村吉三郎駐米大使とハル国務長官の間でまとまった「日米諒解案」に対して、自分の知らないところでまとめられた松岡は敵意を抱きます。そして、サボタージュを繰り返した挙げ句に三国同盟堅持を打ち出し、日米交渉の障害となったのです。
 一方、4月には大島から独ソ戦切迫の兆候ありとの報告が伝えられました。その後も情報は伝えられますが松岡は独ソ戦はないだろうと考えていました。
 ところが、6月22日に独ソ戦は始まります。松岡はドイツとともにソ連を打つべきだと主張し、最終的にはソ連、英、米と戦うことになると奏上して昭和天皇を驚かせました。
 結局、対米交渉を進めるには松岡を排除するしかないとして内閣から排除されますが、事態が好転することはありませんでした。

 さらに本書は、その後の日米開戦までの流れも簡単にではありますがフォローしています。

 このように日独伊三国同盟を基軸にして開戦までの日本の外交をたどったのが本書です。日本の対米開戦に至る道を論じた本は数多くありますが、本書はドイツ側の事情を詳しく論じていること、叙述がわかりやすいことの2点が特徴と言えるでしょう。特に後者に関しては、人物に関するエピソードを豊富に盛り込みながら、複雑な流れが上手く整理されています。
 森山優『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書)などと比べると情報量は少ないですが、こちらのほうが読みやすく、頭にも入ってきやすいと思います。


吉田徹『くじ引き民主主義』(光文社新書) 7点

 自民党が勝ち続け変化が起きない選挙、あるいはトランプのような人物が大統領になってしまう選挙、いずれにせよ選挙に対する不満が高まっている現状ですが、この選挙とそれによって実現される代表制民主主義への疑念から、くじ引きによる民主主義に注目が集まっています。
 くじ引きで決めるなんていうと、人によってはヤケクソのように聞こえるかもしれませんが、古代ギリシアのポリスでも用いられていた由緒正しい手法であり、近年エスカレートしているとされる党派の分断を緩和するはたらきもあるとされています。

 そんなくじ引き民主主義について、その意義と歴史、ヨーロッパを中心とした実践などについて教えてくれるのが本書です。
 本書を読むと、くじ引き+熟議のセットが現在の代表制民主主義の抱える問題のいくつかを乗り越えるものとして期待されていることがわかると思います。
 日本における実装についてそれほど突っ込んだ検討がなされているわけではありませんが、くじ引き民主主義のメリットがわかりやすく説かれている本です。

 目次は以下の通り。
はじめに――政治のイノヴェーションに向けて
第1章 作動しない代表制民主主義
第2章 増発する「くじ引き民主主義」
第3章 参加して、議論する民主主義
第4章 くじ引きの歴史と哲学
終章 「スローな民主主義にしてくれ」

 まず、最初に指摘されているのが現在の代表制民主主義の行き詰まりです。
 代表制民主主義では選挙で選ばれた代表が有権者の代理人(エージェント)として活動することが期待されていますが、例えば、議会を「信頼しない」と考える人は多くの先進国で増える傾向にありアメリカでは8割を越えています(23p図1参照)。この図の中で日本は1981−84に比べて2017−20で「信頼しない」の数値がはっきりと低下している唯一の国なのですが、日本の調査では「どの機関を信頼するか」という問いに対して、自衛隊や警察が上位にいる一方で、政党や国界は低い数値にとどまっています(25p図2参照)。

 先進国に共通する政治不信の対して、これまでの研究は、学歴の上昇などを背景にした一般市民の批判意識の高まり、石油危機以降の経済成長の低迷、社会関係資本の減退などの要因が指摘されてきました。
 また、トランプ大統領に代表されるような党派性による分断も代表制民主主義に対する不信を高めます。選挙には勝ち負けがつきものですが、分断が強まれば対立するグループの共通の土俵がなくなり、選挙の敗北を受け入れなくなるかもしれないからです。

 著者はさらに代表制民主主義そのものに内在する問題も指摘しています。
 1つ目は時間の問題です。代表制民主主義は4年や5年ごとの選挙というサイクルで進んでいきますが、そのために政治家は短期的な課題の解決に集中しがちになります。気候変動問題や社会保障、教育改革や格差の問題など、長いスパンで取り組むことが必要な問題に対して腰を据えた対処がしにくいのです。
 2つ目は空間的な問題です。グローバル化が進展する中で人々は国境を超えて移動するようになり、企業も国境をまたいで活動しています。それに対して一国単位で対処できることは限られていますし、逆に個人の抱える問題が多様化する中で、国家ではそれにうまく対処できないという状況も生まれています。
 3つ目は代表される者と代表する者の非対称性です。どうしても選挙で選ばれる政治家は一般の市民よりも高学歴で高所得ということになりやすいですし、日本などでは政治家の多くが男性で女性が少ないといった問題も抱えています。さらに政治家の訴えや公約がどこまで真実か、政治家は本当にきちんと活動しているのかといった情報についての非対称性もあります。

 こうしたこともあって各国ではデモやシットイン、不買運動、SNS上での運動など、選挙によらない政治活動が活発になっています。アメリカやイギリスやドイツでは70年代後半と00年代後半を比べると、デモに参加したことがある市民は増えているのです。ただし、日本では7%→3.5%と低下しています。
 こうした中で新しい民主主義を求める声は高まっており、その新しい民主主義の1つがくじ引き民主主義なのです。

 そのくじ引き民主主義ですが、OECDの報告書によると一般市民を無作為抽出する形での政治参加が2010年代以降に増えてきていることがわかります(67p図4参照)。
 こうした試みの中の早期のものとしては、西ドイツで始まった「計画細胞」というしくみがあります。1970年代に考案されたもので、市政当局が主宰し14歳以上の市民が母集団の人口構成(男女比・年齢・職業など)を反映するような形で無作為に選ばれます。そして、都市計画や環境問題、消費者保護問題などについて討議し、報告書を公表するのです。
 この計画細胞では、通常、問題についての情報提供を受けた市民が25人×5グループに分かれ、1日4コマ(1コマは専門家や当事者からの情報提供20分、質疑応答10分、話し合い45分、結果発表10分、投票に5分の90分)、4日間にわたる話し合いを行います。そして、話し合いの結果として「市民鑑定書」が作成され、行政当局はこの鑑定書を尊重することが義務付けられます。

 さらに憲法改正のプロセスにくじ引き民主主義をとり入れた国もあります。アイルランドとアイスランドです。両国ともリーマン・ショックで大きな経済的なダメージを受け、憲法改正が政治的な課題として浮上しました。
 アイスランドでは、民間の組織の主宰により無作為抽出の市民を中心とした憲法会議が開かれ、これを受けて政府が同じように無作為抽出で選ばれた市民にこれを討議させ、さらに25人の一般市民を選挙で選んで新憲法草案策定委員の構成員とする形で憲法改正が進められました。ただし、野党の反対もあってこの形での憲法改正は行われませんでした。
 アイルランドでは、憲法改正のための憲法評議会に、議長と29名の国会議員、4名の北アイルランド議員に加えて、無作為抽出で選ばれた66名の一般市民が選ばれました。評議会では、大統領任期の短縮や選挙制度の変更、同性婚認可などはが諮問され、カトリック教会の影響力が強い同国で同性婚を認める憲法改正が実現しました。
 日本でも憲法改正には国民投票が必要ですが、アイルランドでは改正のプロセスに市民を巻き込むことで国民投票にともなう対立を緩和することができたとも言えそうです。

 フランスでもくじ引き民主主義が導入されています。2018年に炭素税引き上げに反対する「黄色いベスト運動」とよばれる大規模な社会運動が起こると、マクロン大統領は最低賃金引き上げや税の軽減などを受け入れ、さらに「国民大討議」という政治家と一般市民の対話の場を設けました。
 この国民大討議をもとに「経済社会環境評議会」のメンバーの一部をくじ引きで選ぶことが決まり、さらに脱炭素社会実現のためにくじ引きで選ばれた一般市民150名からなる「気候市民会議」が発足しました。同会議は専門家の助言を受けながら週末に議論を進め、その模様はほぼすべてがライブ中継されました。そして最終的には149の提言が出され、その多くが政令として公布されたり、議会で法案として審議されました。

 これらのくじ引き民主主義の動きはポピュリズムに対抗するためのものでもあります。
 ポピュリズムは、政治世界を「エリート」と「われわれ」に分け、腐敗したエリートを攻撃するという形をとりますが、その背景には「既存の政治家」と「われわれ」は別の世界の住人であるという認識があります。これに対して、くじ引き民主主義は「われわれ」と同じ人々を選ぶことができるのです。

 日本では大規模なものは行われていませんが、三鷹市での「まちづくりディスカッション」など計画細胞をモデルにしたものがいくつか行われていますし、2012年には福島第一原発の事故を受けて「エネルギー・環境の選択肢に関する討論型世論調査」では、くじ引きで選ばれた市民に専門家が知見を提供し討論を行い意識の変化を見る試みもなされています。
 他にも2020年に行われた「気候市民会議さっぽろ2020」や、民主党政権の「事業仕分け」のアイディアを出した「構想日本」による、市民参加の事業仕分けなど、さまざまな試みが行われています。
 ただし、基本的には無作為で選んだ市民の中から希望者を募るという形になっており、網羅性の面で課題が残っています。
 
 著者はくじ引き民主主義必要なものとして、母集団の統計的代表性を満たしていること、事前に専門家などによる情報が提供されていること、市民同士の討議と熟議が行われること、議論を公開するとともに参加者のプライバシーを守ること、出した結論をどのように用いるか明確にしておくこと、の以上5つが必要だと考えています。
 これを見ると、著者の考えるくじ引き民主主義が、たんに代表者をくじで選ぶのではなく、熟議とセットになっていることがわかります。

 この著者の方向性が強く打ち出されているのが第3章。ここでは参加民主主義や熟議民主主義がくじ引きと結び付けられています。
 60〜70年代にベビーブーマーが成長すると、彼らは自分たちが代表されていないという感覚を抱きさまざまな政治運動を起こしていくわけですが、そうした中で政治に参加することで人格的発展を成し遂げることができるという参加民主主義が生まれました。
 さらにこの参加と市民による理性的な討論を結びつけたが熟議民主主義です。ジョン・ドライゼクは環境問題の解決には人びとの思考と行動の変容が重要だとして、これを実現するために市民たちによる討議が必要だと考えましたが、熟議民主主義では人々が正しい判断をするだけでなく、熟議の中で人々が変容することも期待されているのです。

 熟議を行うにはじっくりとした話し合いができるほどの一般市民を選ぶことが必要なのですが、ここでくじ引きと結びつきます。
 参加するかしないかは個人の選択に任さ、参加したい人だけが参加するというやり方もありますが、それではいわゆる「意識の高い人」「余裕のある人」だけが参加することになり、政治から排除された人が残ります。これを乗り越える手段がくじ引きというわけです。
 今まではエリートによる討議と一般市民による選挙が中心でしたが、ここに一般市民による討議を付け加えようというのが熟議民主主義とそれと結びついたくじ引き民主主義の狙いです。

 著者はくじ引きと結びついた熟議民主主義の特徴として、討議の中で人々の選好が変化する可能性があること、討議の中で人々の間に共通項が生まれること、相対的に手間と時間がかかること、の3つをあげています。終章でも触れられていますが、時間や手間がかかることは欠点ではなく利点であるというのです。

 第4章ではくじ引き民主主義の歴史と哲学が語られています。
 古代ギリシアのアテネでは執政官をはじめ、行政部門にあたる「500人評議会」、へイリアイアと呼ばれた民衆裁判所の裁判官もくじ引きで選ばれていました。アリストテレスは『政治学』で「執政官がくじ引きで選ばれるのが民主的で、選挙で選ばれるのが寡頭制的であるとみなされる」(151p)と書きましたが、くじ引きこそが専制政治を防ぎ、民主主義を守るものだという考えがあったのです。

 13〜14世紀にかけてのイタリアの都市国家、フィレンツェやヴェネツィア、ボローニャやピサでも公職を決めるためにくじ引きが用いられました。
 これらの都市国家では内部対立の緩和のためにくじ引きが利用され、選挙とくじ引きを組み合わせたかなり複雑な過程を経て公職を担うものが選出されました。共同体の中で特定の集団が権力を独占しないためにくじ引きが必要だったのです。

 しかし、名誉革命、アメリカ独立革命、フランス革命を経て成立した民主主義は、基本的にくじ引きを排除し、選挙によって代表者を選ぶ政治となりました。この頃になると権力者を抑制するだけではなく、いかにして権力をつくり出すのかが問題となり、選挙こそが権力の正当性を保証するものとなったのです。
 ただし、陪審制をはじめとして司法の場ではくじ引きは残りました。司法の場では卓越した人物ではなくても複数の市民の集合知によって正しい判断が導き出されると考えられたのです。

 くじ引きという「偶然」に政治を委ねるというのは心もとない気もしますが、人生や社会もまた偶然に満ちたものであり、かえって民主主義を強くするというのが著者の考えです。
 基本的には、代表民主主義の欠点を補うものとしてくじ引き民主主義が想定されており、この両者の混合が望ましいとされています。
 ただし、くじ引き民主主義には弱点もあります。くじ引き民主主義(とそれに伴う熟議民主主義)が「合意」や「決定」を前提としていてラディカルな批判を排除しやすいこと、選ばれなかった人の意思表明の機会がないこと、結論の妥当性と誰が責任を取るかという問題です。最後の点に関しては、失敗した政治家は選挙で罰することができますが、くじ引きではそれができないのです。
 ただし、SNSの炎上騒ぎなどに見られるように、どんどん「速く」なっていく世界の中で、あえて「スロー」な空間をつくり出すことが可能であると著者は考えています。

 このように本書はくじ引き民主主義が空想の産物ではなく、しっかりとした歴史と導入事例を持ち、現在の代表民主主義を補完し、新たな民主主義のかたちをつくるものであることを提示しています。
 特にポピュリズムが台頭している現在、「わたしたち」のメンバーをダイレクトに送り込めるくじ引き民主主義はポピュリズムに対するワクチンにもなりそうです。
 
 ただし、それは実は権力者にとって都合がいいことなのかもしれません。フランスでは黄色いベスト運動をきっかけにくじ引き民主主義が導入されているわけですが、人びとの不満を慰撫するものとしてくじ引き民主主義が使われる可能性もあるでしょう。
 山本圭『現代民主主義』(中公新書)では、コンセンサス重視の熟議民主主義を批判するシャンタル・ムフの議論が紹介されていましたが、本書を読んで改めてムフの懸念というものも理解できました。
 また、冒頭で著者があげた代表民主主義の3つの限界のうち、2つ目の空間的限界についてはくじ引き民主主義も無力なのではないかと思います。
 ただし、くじ引き民主主義が興味深いアイディアであることは確かであり、それを実感するにはいい本だと思います。

師茂樹『最澄と徳一』(岩波新書) 6点

 副題は「仏教史上最大の対決」。今からおよそ1200年前に行われた天台宗の開祖・最澄と法相宗の徳一の論戦を明らかにした本になります。
 過去の論争というものは、時間が経つにつれてその文脈が失われていくので、現在からそれを振り返るためにはその文脈を補う必要があるのですが、本書は著者が仏教学者であることもあって、当時の日本のみならず東アジアの仏教とその論争のスタイルという文脈を詳述することで、最澄と徳一の論争を現代に蘇らせようとしています。
 仏教用語や仏教的な思考スタイルの解説が頻出するので、理解が大変な部分もありますが、さまざまな喩えも交えながらわかりやすく書かれており、仏教の教えのあり方や、のちに鎌倉新仏教を生み出す母体となった比叡山延暦寺をつくった最澄のスタンスもわかるようになってきます。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 奈良仏教界の個性――徳一と最澄
第二章 論争の起源と結末――二人はどう出会ったか
第三章 釈迦の不在をいかに克服するか――教相判釈という哲学
第四章 真理の在り処をめぐる角逐
第五章 歴史を書くということ
終章 論争の光芒――仏教にとって論争とは

 最澄と徳一の論争は「三一権実諍論(さんいちごんじつじょうろん)」とも呼ばれます。「三乗説」と「一乗説」のどちらが真実かということが争われました。 
 仏教は大きく大乗仏教と小乗仏教(これは大乗側がつけた貶称で本当は適切な呼び方ではない)に分かれます。
 小乗ではブッダはただ1人であり、一般の修行者の目的はあるゆる執着を断ち切り輪廻から解脱することだと考えられていました。これを達成した人が阿羅漢です。
 一方、大乗では釈迦以外にも複数のブッダがいると考えます。また、一般の修行者もブッダになれると考えます。そして、釈迦とその弟子によって受け継がれてきた教義を声聞乗をブッダを目指す道。菩薩乗と区別しました。さらに独力で解脱する独覚である独覚乗の三乗があると考えたのです。これが三乗説です。

 では、なぜ大乗仏教が登場する前の経典には阿羅漢になる道しか説かれていなかったのか?
 この疑問に対して、『法華経』は小乗の教えは大乗に導くための方便だとしています。釈迦の真意は「生きとし生けるものはいずれブッダになれる」というものなのです。『涅槃経』でも「生きとし生けるものにはブッダになる素質がある(一切衆生悉有仏性)」と説いており、これが東アジアでは広く受け入れられました。これを一乗説と言います。

 しかし、玄奘(三蔵法師)がインドから持ち帰った瑜伽行派・唯識派の教えの中には、すべての衆生がブッダになれるわけではなく、菩薩としての素質を持ち長大な修行をした者だけがブッダになれるという教えがありました。
 彼らは一乗説こそが方便だとし、生きとし生けるものには5種類の種姓(ゴートラ)があり、ブッダになれる者は一部に限られているという五姓各別説を唱えたのです。
 この唯識派から形成された法相宗の徳一が三乗真実説の立場から、一乗真実説の立場をとる天台宗の最澄を批判したのが最澄・徳一論争です。

 この論争の当事者の1人の徳一については詳しいことはわかっていません。徳一は平城京がまだ都だった8世紀後半に生まれ、9世紀前半の弘仁のころには奥州の会津のあたりにいたと考えられています。また、常陸で活動していたという記録もあります。
 徳一の出自に関しては藤原仲麻呂の子息、特に六男の刷雄(よしお)と同一人物であるという説もありますが、それだと最澄との論争のときに80歳を超える年齢になり、著者はこれは成り立たないと見ています。
 
 徳一は唯識派の影響を受けた法相宗の僧であると考えられています。唯識派は対象を認識する心のはたらきである識のみが存在すると考え、法相宗は玄奘の弟子である基(き)を始祖とし、基の弟子の慧沼やその弟子の智周を通じて日本に伝わりました。
 日本では興福寺や薬師寺が法相宗の寺院であり、当時の状況からするとメジャーな最澄とマイナーな徳一とは言えません。ただし、徳一の出身寺院についてはよくわからないそうです。

 一方、最澄は遣唐使として中国に渡り帰国後に天台宗を開いた有名人であり、史料も数多く残っています。
 最澄は大安寺という寺院とつながりがあり、鑑真の弟子ともかかわりがありました。また、最澄の弟子には道忠教団出身の者が多く、この教団ともつながりがあったと考えられます。
 最澄は国内で、大安寺や鑑真グループの支援を受けながら天台宗の文献を学んでいました。そして、大安寺ではすでに法相宗への批判が行われています。最澄と徳一の論争は以前からあった対立を引き継いだものだったのです。

 また、当時の日本では三論宗と法相宗の論争(空有(くうう)の論争)が行われていました。三論宗では、『大仏頂経』という経典を典拠にこの世に存在するものはすべて空であると主張していましたが、法相宗ではこの世に存在するものは識のみであると主張し、互いに対立していたのです。
 そして、この対立を調停するために8世紀末から9世紀はじめにかけて朝廷から何度も詔が出されていました。

 最澄も遣唐使派遣にあたっての上表文で三論と法相の争いに触れ、三論と法相がともに経典を後世の人物が注釈、解説した論書に基づいている論宗であるのに対して、天台はブッダの書いた経典に基づいた経宗であると天台の優位性を主張しています(ただし、南都六宗の華厳宗も経宗)。
 最澄とともに入唐した霊仙らも空有の論争に関する唐決(中国仏教界に対する仏教教義の質問書)を携えていました。

 唐から帰国後、最澄は上表文の中で「一目の網では鳥を捕まえることはできない」(55p)と、複数の宗派の必要性を訴え、各宗派ごとに得度させる人数を決めるべきだと訴えています。
 これによって年分度者制が成立し、天台宗も2名が割り当てられました。これは新興の天台宗にとって有利な制度とも言えましたが、最澄には諸宗があっての仏教という認識もあったのでしょう。

 ただし、天台宗で得度した僧が比叡山に定着せずに他宗に行ってしまうケースも多く、807〜818年の12年間で24名が得度し、14名が比叡山を離れました。特に法相宗には6名を引き抜かれています。
 庇護者であった桓武天皇の死や空海との決裂もあり、必ずしも順調ではない中で817年に最澄は東国へと向かいます。これには先にあげた道忠教団とのかかわりが関係しているのかもしれません。
 この東国で最澄は徳一の最初の批判に接し、これに対して反論を行うのです。ちなみに徳一は空海に対しても疑問を列挙していますが、空海は徳一の質問に対してほぼ沈黙しています。
 そして、最澄と徳一の論争は、最澄の死まで5年ほどつづくことになります。

 第3章以降で具体的な論争の内容に入りますが、現在残されている文献はすべて最澄によるもので、徳一のものは残されていません。ただし、最澄はかなり丁寧に徳一の批判を引用しており、徳一の主張についてもある程度はその再現が可能です。

 最澄の著作のもので最大のものは全9巻からなる『守護国界章』ですが、ここで最澄は、天台宗と法相宗は衆生の救済のために両輪のごとくはたらき国境を守護すべきなのに、奥州の会津の徳一が天台の教えをさかんに誹謗しているとして、これに反論するとしています。

 具体的な内容はなかなか難しいものでもあるため詳しくは本書を読んでほしいのですが、ポイントの1つになっているのが、釈迦の教えがどのように変化したかについてです。釈迦は35歳で悟りを開いていから80歳で入滅しますが、その間に語り方が変化しています。天台宗では釈迦の説法は5つの時期に区分する五時教判という考えをとっていますが、法相宗では釈迦の説法を3つの時期に区分する三時教判という考えをとっています。
 
 徳一は三乗説から一乗説を批判しているわけですが、この一乗説の根拠となるのが『法華経』の「すべての衆生はブッダになれるし、ブッダの教えにはそのための一つの道(一乗)しかない」(102p)という部分です。
 法華経は釈迦の入滅の数年前に説かれた経ということになっており、三時教判における三時の時期に当たります。徳一はこの『法華経』が三時教判を説いており、三時教判を批判する天台宗がこの『法華経』に拠って主張を展開することはおかしいと議論を展開しています。
 これに対して、最澄は法相宗の三時教判を否定する文献をあげながら、これを相対化しています。さらに翻訳の問題などもあげ、徳一の主張を退けようとしています。

 さらに第4章ではこの論争のスタイルや形式に踏み込んでいきます。
 本書が注目しているのは因明(いんみょう)と呼ばれる仏教の論理学です。著者がこの因明を専門としていることもあって、ここは詳しい説明がされています。
 因明は「論拠(因)についての学問(明)」(123p)です。何かを主張するときの根拠とその主張の成否を問うものと言ってもいいでしょう。
 日本ではこの因明について長年研究されており、『往生要集』を書いた源信や「悪左府」と呼ばれた藤原頼長も因明に関する著作を残しています。

 因明の形式は次のようなものです。
 主張:あの山には火がある
 理由:煙があるから
 例喩:かまどのように
 まず、立論者は結論(宗)を述べ、次にその論拠(因)を述べます。そして最後に理由を裏付ける前例(喩)を述べるのです。最後の喩では「煙があるところには必ず火がある」といった部分が省略されています。
 これは三支作法と呼ばれますが、喩→因→宗の順で並べると三段論法と似ていることがわかると思います。
 ちなみに上記の例は、炎は出ないが煙は出る籾殻焼きのようなものもあるので、因明書の中では誤った論証として出てくる例だそうです。

 この因明では、いくつかの間違いのパターンが指摘されています。例えば、「あるゆる言明はすべて虚妄である」という主張は自語相違と呼ばれる過失です。論争では、こうした因明上の過失を指摘することが有効になります
 因明において対論が成立するためには、お互いに概念を共有していること(共許(ぐうご))が必要ですが、徳一は天台宗(最澄)は承認されていない概念を使っており、天台宗の主張は成り立たないと批判しています。

 これに対して最澄は、徳一は共許していないかもしれないが、大唐・新羅ではみな共許しているとしてこれを退けています。この外国の権威や多数によって主張を通そうとする最澄の姿勢は論理的には正しくないようにも思えますが、著者はここに最澄の当時の日本の仏教界に対するスタンスが現れていると見ています。
 最澄は「一目の網では鳥を捕まえることはできない」と述べたように、南都六宗のような考えの違う複数の宗が並立しているから多くの人を救うことができると考えており、各宗はお互いに承認(共許)すべきであるとスタンスであったと思われるのです。
 さらに定性二乗についての論争も紹介されていますが、これはうまく紹介できないので本書にあたってください。

 常磐大定『仏性の研究』(1930)はインド、中国、日本における「天台を以て代表せらるゝ一乗家と、唯識を以て代表せらるゝ三乗家」との対立を描き、その「最高潮」を最澄・徳一論争としています(164p)。
 しかし、実際に『仏性の研究』を読み、最澄・徳一論争の文献を読んでも、天台の存在感はそれほど感じられないといいます。

 実はインド、中国、日本を三国とし、その仏性論争史を書いたものとしては、最澄の『法華輔照(ほっけぶしょう)』という著作があります。
 ここではインド→中国→日本と、仏教の教えが師から弟子へと継承されてきたと書かれており、だからこそ自分たちの教えは釈迦の教えを誤りなく伝えるものだということになっています。
 そして、最澄はインドにおける論争を紐解き、一切皆成仏説で議論が終わっていることをあげて、一乗説こそが正しいというのです。
 しかし、この問題は玄奘により新訳経論がもたらされたことにより中国で再燃します。ブッダはこのような論争が繰り返し起こることを予言していたとも言われていますが、最澄はこうした論争が繰り返される中で、必ず一乗家が勝利する歴史を描き出すのです。

 遣唐使として唐に渡った最澄ですが、翌年には帰国する還学生であったために、実は長安までは行っておらず現在の浙江州のあたりで学んでいます。
 中国での仏教は東だけではなく西(敦煌方面)にも伝わっていきましたが、日本の僧たちにはこの流れはほとんど入ってきていません。最澄の描き出した歴史というものは、ある意味で多様性が削ぎ落とされた歴史でもあるのです。

 その後の日本仏教の展開を見ると、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗などの主要な宗派がすべて一切皆成仏説をとっていることから最澄の一乗説が日本仏教を制したと言えるかもしれません。
 しかし、異なる思想を唱えるなどして教団(サンガ)を分裂させる行為を固く禁止していた仏教において、地獄に落ちるかもしれないと思いながら最澄に疑問をぶつけた徳一や徳一のような態度も日本仏教の歴史の中で大きな役割を果たしたと著者は見ています。

 このように本書は最澄と徳一の論争の経過を単純に追うのではなく、それを仏教史の中に位置づけようとしています。なんとなく大乗仏教ができた時点で、本来の釈迦の教えとはずいぶんと距離ができていたようなイメージもあったのですが、本書を読んで、大乗における議論でも常に釈迦の説教が参照され、そこから正統性が導き出されているということがよくわかりました。また、因明に代表される仏教の論争のスタイルも興味深かったです。
 ただ、一方で議論が拡散していくぶん、最澄と徳一の論争の特に徳一の主張に関しては掴み難い面もありました。仏教思想にそれほど詳しくない者からすると、もう少し徳一の主張の見取り図的なものが欲しかった気はします。


会田大輔『南北朝時代』(中公新書) 7点

 「南北朝時代」と言っても、副題に「五胡十六国から隋の統一まで」とあるように中国の南北朝時代の概説書になります。
 三国志の時代〜西晋と隋・唐に挟まれたこの時代は、とにかく王朝の興亡が激しくてややこしいですし、著名な英雄もいないということで中国史の中でもマイナーな時代だと言えるかもしれません。
 ただし本書を読むと、南北朝時代は、秦・漢で統一された中華がさらなる周辺地域を巻き込んで再編成されて再び統一へと向かうダイナミックだった時代だったことが見えてきます。

 岩波新書の<シリーズ中国の歴史>では、中国の北と南を別々の巻で論じる形をとっていてそれはそれで面白かったですが、本書は北朝と南朝を章ごとに交互に論じるような形で、相互の影響も見ようとしています。
 序盤は、鮮卑族の名前のややこしさなどもあってとっつきにくい部分もあるかもしれませんが、「皇帝菩薩」や「宇宙大将軍」や「天元皇帝」などが登場するころには、この時代の動乱を興味深く追えるようになっていると思います。

 目次は以下の通り。
序章 西晋の崩壊と代の興亡
第1章 北魏の華北支配
第2章 新たな「伝統」を創った宋
第3章 孝文帝の中国化政策の光と影
第4章 東魏と西魏の死闘
第5章 皇帝菩薩蕭衍と波乱の男侯景
第6章 もう一つの三国時代(北斉・北周・陳)
終章 南北朝時代のダイナミズム

 三国時代は司馬懿の孫の司馬炎(武帝)が晋(西晋)を建国し、呉を滅ぼして天下を統一したことで終わりを告げましたが、晋の天下は長くは続きませんでした。
 皇族諸王による八王の乱が起き、彼らは西晋領内の遊牧民(匈奴、鮮卑、烏桓(うがん)など)の兵力を利用して激しく争いました。こうした中で匈奴の劉淵が漢を建国し、西晋を滅ぼしてしまいます。
 西晋の生き残りの司馬睿は長江下流の建康を都に普(東晋)を建国し、中国は南北に分裂することになるのです。

 劉淵が漢を建国してからを五胡十六国時代といいます。さまざまな民族が中国北部に次々と国をつくった時代です。
 こうした諸国の中で、後に北魏を建国することになる鮮卑の拓跋氏が建国したのが代です。
 鮮卑の拓跋部は黒竜江省北部から内モンゴル自治区北東部に伸びる大興安嶺山脈の北部に居住していた部族ですが、2世紀以降、寒冷化もあって南下しました。
 この拓跋部は、西晋が混乱する中で漢人なども受け入れて勢力を拡大し、310年に拓跋猗盧(いろ)が西晋から大単于・代公に封じられました。ここに代が成立します。

 その後、代では後継者争いをめぐって混乱が起きます。拓跋什翼犍(じゅうよくけん)が代に安定を取り戻しますが、前秦の符堅によって376年に滅ぼされました。 
 しかし、淝水の戦いで符堅が東晋の軍に大敗すると、中国北部は再び混乱に陥り、386年に拓跋什翼犍の孫の拓跋珪が代王となり、ついで魏王を称します。北魏の始まりです。
 拓跋珪は後燕を破って華北に進出、398年に平城(現在の山西省大同市)に遷都し、皇帝(道武帝)に即位しました。道武帝は中国的制度を取り入れ、漢人も登用しましたが、高官は鮮卑を中心とする遊牧系の人々でした。
 道武帝は皇帝の実母や外戚が実権を握ることを防ぐため、後継者の決定後にその生母を殺す「子貴母死」という制度も導入しています。

 その後、道武帝の孫にあたる太武帝は442年に華北統一を成し遂げました。ここから北朝と南朝が対立する南北朝時代へと突入します。
 太武帝のブレーンとなったのが漢人の崔浩です。最高位の官職についた崔浩は名門漢人の登用を進め、同時に仏教を外来宗教として批判しました。446年には激しい廃仏の動きが起こっています。

 北魏の皇帝は可汗という遊牧民族の称号も使用したと言われていますが、詳しいことはわかっていません。ただし、国家のしくみとしては遊牧民族によく見られる近侍官に高官の子弟を就任させ幹部候補とする制度をもち、夏には北部で遊牧生活を行うなど、遊牧民族の性格を維持していました。
 ただし、ライバルだった柔然に比べると北魏は明らかに中国の政治文化をとり入れていました。

 ここまでが序章、第1章で第2章の舞台は南朝です。
 318年に東晋が建国されますが、この東晋は華北から逃げてきた名門漢人(貴族)を上位に置き、江南土着の漢人豪族を統治する体制がとられました。
 東晋は魏の九品官人法を受け継ぎ、最高ランクの郷品二品を特定の家柄が占めるようなしくみになっており、彼らを「甲族」、その下の中下級貴族を「次門」、中下級官僚・軍人を輩出する豪族層を「寒門」「寒人」、その下には「庶人」が存在しました。このうち、甲族と次門は「士人」と呼ばれ、貴族層を形成することになります。

 また、貴族だけでなく一般の人々も華北から逃げてきました。東晋はこの避難民(僑民)を僑州郡県という行政領域をもたない統治機構に所属させました。僑民は一般の人々と区別された戸籍をもって主に兵役を担い、「北府」と「西府」と呼ばれる軍団に編成されていました。
 東晋では皇帝の力は弱く、北府と西府が主導権争いをしていましたが、この北府から出てのちに宋を建国することになるのが劉裕です。
 劉裕は寒門の出身でしたが、内乱の中で頭角を現し東晋の実権を握ります。劉裕は僑民の戸籍を一般庶民と同じにする「土断」を行い、北伐を行って洛陽を落とすなどの成果をあげ、420年に東晋の恭帝から禅譲を受け、宋を建国しました。

 劉裕(武帝)は在位2年で亡くなりますが、3代目の文帝は寒人を登用しつつ皇帝権力の強化を進め、つづく孝武帝もこの路線を継承しました。
 孝武帝は寒門・寒人偏重の政策を展開し、叔父や弟の殺害といったことも行ったために暴君というイメージが定着しましたが、本書では新しい礼楽を整備し、のちの中国にも受け継がれる新しい「伝統」をつくり上げた人物として評価されています。
 しかし、この孝武帝の子は前廃帝という暗君で、その後は皇位をめぐる争いから宋は衰退します。結局、寒門出身の武人・蕭道成が479年に斉を建国します。

 しかし、斉も帝位をめぐる争いから混乱しました。斉は建国から23年で滅亡し、代わって蕭衍によって梁が建国されることになります。
 劉裕も蕭道成も寒門出身であり、皇帝も皇族の間の第一人者にすぎなかったために、帝位の継承が不安定で、それが官僚同士の闘争と結びついて政治が安定しなかったのです。

 こうした中、南朝では貴族社会がつくられました。貴族は寒門出身の皇帝たちに対して家格では優位に立ち、皇帝たちも婚姻などによって貴族を取り込もうとしました。政治をスムーズに進めるには貴族たちの協力が欠かせなかったからです。
 また南朝は北魏に対抗するために活発に外交を行いました。柔然や高句麗にさかんに使いを出し、倭の五王の遣使を受け入れています。

 第3章は再び北魏に戻って孝文帝の改革がとり上げられています。
 しかし、本書を読むと幼い孝文帝に代わって政治を行った馮太后(祖父文成帝の后)の手腕がまず目立ちます。馮太后は、それまで軍功を上げた際に与えられた土地や奴婢・家畜で生計を立てていた官僚に俸禄を与えるようし、隣・里・党という人工的な郷里制度を設けて戸籍の把握を進め(三長制)、成年男子とその妻に露田と桑田を支給して税よ兵役を課す均田制を導入しました。
 それまでは豪族が一戸に多くの隷属民をかかえていましたが、均田制や三長制によってこれらを解体して、租税と土地所有の均等化をはかり、軍事力を強化しようとしたのです。
 
 490年に馮太后が亡くなると孝文帝の親政が始まります。孝文帝は北魏のさまざまなしきたりを中国化し、493年には洛陽に遷都しました。
 さらに孝文帝は朝廷内で鮮卑語をはじめとする北方語を話すことを禁止し、拓跋の姓を元に改めました。北族の姓も漢姓に改めさせています。また、地方制度では州郡県制をはじめ、貴族制を創出しようとしました。
 この中国化(漢化とも言うが本書では中国化という言葉を使っている)の理由について、本書は孝文帝が本気で中国統一を考えていたからだとみています。今のままの北魏では南朝の貴族社会を統治できないと考えたのです。
 しかし、この中国化政策は北族の反発を生みました。北族の名門が反乱を起こしたり、遊牧民の高車が離反するなど、北魏内部が混乱し、南朝を征服するには至りませんでした。

 第4章では北魏が東魏と西魏に分裂します。
 北魏は征服した地に「鎮」を置いて軍政を敷いていましたが、孝文帝の州郡県制導入後も長城付近には六鎮が残っていました。中国化への不満や、北魏が柔然の侵入に対処できなかったことなどが重なり、523年からこの六鎮の乱が始まります。
 北魏は柔然と結んでこれを抑え込みにかかり、一部を降伏させますが、降伏した反乱軍を河北に移したところ、それがまた反乱を起こすなど混乱は続きました。

 そんな中で登場したのが爾朱栄(じしゅえい)です。彼は稽胡(けいこ)という遊牧民出身で、六鎮の乱後に山西各地で起きた乱を鎮めて名を挙げました、彼のもとにはさまざまな人材が集まり、侯景や高歓もその中にいました。
 当時の北魏では胡太后が実権を握っていましたが、爾朱栄はこの胡太后を討ち、孝荘帝のもとで北魏の実権を握ります。爾朱栄は軍功を上げるとともに、北族の風習を復活させましたが、最後は孝荘帝に誅殺されました。

 しかし、この孝荘帝も爾朱栄の甥の爾朱兆に討たれ、混乱の中で爾朱栄の部下だった高歓が爾朱兆を破って北魏の実権を握りました。
 高歓は晋陽に拠点を置き、洛陽ににいる孝武帝を傀儡として支配しますが、高歓の圧力に耐えかねた孝武帝は534年に関中にいた宇文泰のもとに脱出します。ここに北魏は東魏と西魏に分裂します。
 東魏の実権を握った高歓は、六鎮の中下層北族や寒人豪族を取り込み、彼らは勲貴と呼ばれるようになりました。547年に高歓が没すると、侯景が反乱を起こしますが、高歓の子の高澄はこれを退け、侯景は南朝の梁へと落ち延びていきます。

 西魏で実権を握ったのは匈奴系の宇文泰です。東魏に比べて国力に劣る西魏でしたが、宇文泰が東魏の侵攻を何とか食い止め、四川や江陵へと進出しました。
 西魏の中核は中下層の北族で、孝文帝路線に反発していたため、西魏では鮮卑語の復活や姓を北族風に戻すなど復古的な政策が行われました。

 第5章は南朝が舞台となりますが、主役となるのは梁の武帝と侯景です。
 短命の王朝が続いた南朝ですが、梁では半世紀にわたって王朝が安定しました。その立役者が武帝(蕭衍(しょうえん))です。蕭衍は斉を建国した蕭道成の親族であり、斉では官僚として活躍し、北魏との戦いでも才能を発揮していました。
 そして東昏帝という暗君が出現すると、蕭衍は挙兵してこれを倒し、502年に梁を建国して武帝となります。

 武帝は減税を進め、貴族層に対しては儒教経典に通じたものを優遇し、寒門層向けに学校をつくって成績上位者を任官させるなど学問を重視しました。
 また、武帝は仏教に傾倒しました。仏教関係の書物の編纂を命じるとともに、宗教祭祀の捧げ物から肉類を除き、僧侶や尼僧の肉食・飲酒を禁止するなど、仏教に沿う政策を行っています。
 519年には武帝は菩薩戒を受け、武帝は「皇帝菩薩」と呼ばれるようになります。さらに寺院に自身を布施して奴隷になる捨身を4度も行っています。これは仏教によって国家結集を図るという理由があったと思われます。
 外交では東南アジアの仏教諸国との交流が進み、百済や新羅とも仏教を介して良好な関係を築きました。日本が仏教を導入したのもこの頃ですが、仏教が外交に必要不可欠なものとなっていたことがその背景にあります。
 しかし、殺生を避けて恩赦を乱発したことで治安が緩み、銭の不足から鉄銭を発行したことがインフレを招くなど、徐々にその治世は乱れてきました。

 この武帝の治世を完全と南朝の安定を終わらせたのが侯景の乱です。侯景は北族の中小勢力出身で、爾朱栄、高歓に仕えました。高歓の死後、梁の支援も受けて反乱を起こしますが、敗れて梁の領内に落ち延びました。
 その後、東魏に引き渡されることを恐れた侯景は梁に対して反乱を起こします。豪族や貧窮農民を味方につけた侯景の軍はあっという間に拡大し、ついには建康を陥落させました。侯景は武帝に使える姿勢を示しましたが、結局は幽閉して餓死させています。
 侯景は武帝の子の簡文帝を擁立し、自らは宇宙大将軍・都督六合諸軍事を称しました。爾朱栄は天柱大将軍を称しましたが、それを上回る称号として『淮南子』から宇宙が選ばれたものと思われます。

 侯景はその後、551年に漢を建国しますが、梁の皇族の生き残りに滅ぼされました。
 しかし、梁はその力を取り戻すことができず、西魏に侵攻されてしまいます。江陵には後梁という傀儡国家が誕生し、江南では陳霸先が陳を建国しました。また、こうした混乱の中で南朝の貴族社会は失われていきます。

 第6章では、北斉、北周、陳の三国鼎立が描かれています。
 東魏では高歓の子であり、高澄の弟にあたる高洋が実権を握り、550年に東魏の皇帝から禅譲を受けて皇帝(文宣帝)となり北斉を建国します。
 文宣帝は即位時はまだ22歳で父や兄のようなカリスマ性はなく、勲貴たちの支持は薄かったので、代わりに漢人官僚を頼りにしました。そこで孝文帝路線を継承することになります。
 北斉では文宣帝の死後、帝位継承争いが激しくなるとともに、漢人官僚と皇帝の側近である「恩倖」の対立も激しくなっていきました。

 一方、西魏では宇文泰の後継者である当時15歳の宇文覚を宇文泰の甥の宇文護が補佐し、557年に宇文覚を天王に擁立して北周を建国します。皇帝ではなく天王を称したのは周にならったものです。
 その後、皇帝号が復活し、宇文護によって何人かの皇帝が擁立されますが、572年に武帝が宇文護を誅殺しました。武帝は北族重視政策を改めて漢人を登用し、富国強兵策の一環として仏教・道教の廃毀政策を行っています。
 そして、武帝は陳とも手を組み、577年に北斉を滅亡させ、ついに華北を統一しました。武帝の跡を継いだ宣帝は21歳の若さで譲位し、天元皇帝という自ら天と同一化する姿勢を示しましたが、この行動は群臣には理解されず、22歳の若さで急死します。

 この後、北周の実権を握ったのは宣帝の舅である普六茹堅(ふりくじょけん)、のちの楊堅でした。
 普六茹堅は宣帝が没すると遺詔を偽造して実権を掌握し、反対勢力の反乱を抑え込むと、漢姓の復活を認めて自らも楊堅を名乗り、581年には禅譲を受けて隋を建国しました。

 一方、陳は北周と対決姿勢をとったものの、意外にも北周が華北を統一してしまったために苦境に陥りました。楊堅に対する反乱に乗じて北周に攻め込んだもののこれも撃退されます。
 隋は建国後はしばらく混乱が続いたため、陳に対して融和的な態度をとりましたが、体制が整うと陳に侵攻し、589年に陳は滅亡しました。隋による中国の統一が完成したのです。

 このようにかなりややこしくもある南北朝時代をできるだけわかりやすく追ってくれて本になります。新しい研究の成果なども紹介されており、南北朝時代についてある程度知っている人にとっても新しい発見があると思います。
 本書を読むと、南北朝時代が、中国が遊牧民族を含めた外部勢力に蹂躙されつつ、同時にそれを取り込んだ時代で、非常にダイナミックだったことがわかります。また、個性的な人物も目白押しで、そこも面白いところです(ひどい暴君も多いですが…)。
 個人的には南北での経済や社会の違いなどについてもう少し読みたかった思いもありますが、あまり知らなかった時代の面白さを感じさせてくれた本でした。


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