山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2011年10月

沢田健太『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(ソフトバンク新書) 7点

とりあえず今のところ自分は就活とは離れたところにいるので「読み物」として読んで「7点」をつけましたが、就活生、あるいはその親や周囲に就活生がいる人にとってはかなりいい本だと思います。「就活」関連の新書について、今までそれほどオススメできるような本を読んだことはなかったですが、とりあえず今まで読んだ中ではこの本が一番いいのでは、と感じました。

 就活を扱った本というと「就活に勝つために過剰な適応を強いる本」か「就活の理不尽さを批判し、同時に日本企業の人事システムを批判した本」の二種類がまず頭に思い浮かびます。前者は妙にテンションが上がるだけで就活生以外が読んでも意味がないし、後者はそれなりに聞くべきところはあっても就活生の役には立たない、基本的にはそういった本が目立つように思えます。
 一方、就活を「斜めから見る」ような本もここ最近目立ってきていて、就活のからくりや問題点、学生の盲点などが一端がわかったりします。ただ、そういった本の多くは多くの場合元リクルートの人事コンサルタントとかが書いたもので、個人的には「マッチポンプじゃないか?」という思いもあります。
 そんな中、この本の著者は複数の大学のキャリアセンターで働いたことのある人物。名前は匿名とのことですが、その分、企業、大学、学生、そしてリクルートをはじめとする業者の問題点をしっかりと指摘した内容になっています。

 就活をめぐる問題点が幅広く指摘されているこの本ですが、そうした中でも個人的に「なるほど」と思ったのが「ショーイベント化する企業説明会」という指摘。
 ナビサイトの登場に一気にエントリー数が激増した大企業は、面接に回す人数を絞るためにSPIを行ったりエントリーシートにいろいろなことを書かせたりして志望者の絞り込みを図ろうとしています。
 そして1次面接で面接を行うのは人事部の人間ではない若手社員のケースも多く、そこで「ノリの悪い」学生たちが落とされていきます。
 このように志望者の増加というのは採用する側にも大きな負担をかけていますし、また、必ずしも企業にとっていい人材が確保できるシステムというわけでもありません。

 けれども、最近の企業説明会はますますショーイベント化し、企業は若手の人事マンを表に出し、学生たちに「会社のイメージ」を熱心にアピールしています。
 これについて著者は以下のように分析しています。
 多くの人事部は企業内のエライさんから、内定者の数(予定人数の確保)と質においてのみ、採用活動を評価されているわけじゃない。エントリー数、説明会参加者数、書類提出者数、筆記試験受験者数、面接受験者数…の人数管理を前年対比で評価される。(120p)
 著者によると、こうした学生に親近感を覚えさせ応募人数を増やすやり方は、外食チェーンやパチンコ産業から始まったそうですが、今や大手企業までにこうした採用活動が広まってきて、結果的に学生がそのイメージに振り回されているというのが著者の見立てです。

 また、現在の学生に対してもよく見ています。
 もちろん、文章の力の低さなど学力の面についての厳しい指摘もあるのですが、興味深かったのが「縁故採用を嫌う」という最近の学生の傾向。就活がここまで通過儀礼のようになると、どうしても仲間とは違うやり方で内定を取ることに値する後ろめたさがあるようで、縁故で悩む学生が多いのだそうです。
 こういったことを知ると、今まではしょせんは運や縁故で決まっていた就職というものが、ナビサイトやさまざまな情報の流通経路の発達により、「オープンな競争(実質はオープンに見える競争)」になってきたことが就活の大きな問題のような気もします。

 その他にも、人事マンの本音と建前や心理テストの答え方など就活生に役立ちそうな情報が沢山載っていますし、就活生の親にとっても現在の就活を知る上で有益な本でしょう。

 個人的には、最終章にある著者の「大学はアカデミック追求型と職業教育校に積極的に二分化させていくべきだ」という議論を詳しく知りたかったですが、就活の本筋と外れてしまうので、まあ仕方がないです。
 就活も問題点を指摘しつつも、就活に立ち向かうための知恵を授けてくれる本だと思います。


 
大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動 (ソフトバンク新書)
沢田 健太
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速水健朗『ラーメンと愛国』(講談社現代新書) 8点

日本の国民食とも言えるラーメン。そのラーメンは貧乏人の食べ物の定番といった地位から、いまや人生を語るポエムにあふれたラーメンに命かけてます的な店まで登場し、「ラーメン道」が成立したといってもいいような状況になっています。
 しかし、考えてみればラーメンはもともと中国の料理であり、日本ではたかだか100年ほどの歴史を持つものでしかありません。
 「なぜラーメンは日本の象徴的な食べ物になったのか?」、「なぜラーメン屋の色は赤から黒へと変化したのか?」、「なぜ最近のラーメン屋の店員は作務衣を着ているのか?」、そんな数々の疑問を解き明かすと同時に、ラーメンをダシにして戦後社会を大胆に語ってみせたのがこの本です。

 内容はあまりに多岐に渡っているので、とりあえず講談社のホームページに載っている目次を転載しておきます。
第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略
安藤百福の見た闇市の支那そば屋台/『サザエさん』に登場する「シナソバ」と「中華そば」/スパゲティナポリタンの誕生/生産力を持て余していたアメリカの小麦農家/日本人にとって特別な存在だった米と稲作/GOPANのヒットを後押しした自給率低下への危機感 etc.

第二章 T型フォードとチキンラーメン
日 本人の兵器観にみる「一点もの至上主義」/デミングとドラッカー/大規模オートメーションから生まれる「魔法のラーメン」/ポパイはなぜ缶詰のほうれん草 で強くなるのか/アメリカの朝食を変えたケロッグ社の宣伝戦略/子ども向け番組を提供して大ヒットしたチキンラーメン etc.

第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー
『渡 鬼』の五月(泉ピン子)はなぜラーメン屋に嫁いだのか/『ガラスの仮面』におけるラーメン屋の記号的役割/『ALWAYS 三丁目の夕日』とラーメン博物館/あさま山荘事件とカップヌードル/独身者のアパートからベトナム戦争の前線まで/そしてラーメンは国民食となった etc.

第四章 国土開発とご当地ラーメン
田中角栄を軸にした中央と地方のシーソーゲ-ム/「ラーメンの街」札幌の発見/万博を 機に広がったファストフードとファミレス/ご当地ラーメンの進化とファスト風土化の同時進行/映画『タンポポ』に登場する「ラーメン通」という人種/「捏 造された伝統」としてのラーメン列島神話 etc.

第五章 ラーメンとナショナリズム
メディアを通して体験された湾岸戦争/「環 七ラーメン戦争」が夕方のニュースの話題に/“ラーメン屋から麺屋へ”というパラダイムシフト/政治的プロパガンダに担ぎ出された「佐野JAPAN」/ 「ラーメン二郎」という信仰/ファン獲得のヒントはコミュニケーション消費 etc.

 このうち第2章の日米の兵器に対する思想の違いやフォード社の生み出した大量生産技術の話、田中角栄の列島改造の話など明らかにラーメンの話から逸脱してしまっている部分もあるのですが、戦後の様々な世相の変化とラーメンを結びつけていく手際は鮮やか。
 特に第3章の『渡る世間は鬼ばかり』の幸楽や『ガラスの仮面』から当時のラーメン屋のおかれた地位をさぐりつつ、貧乏の代名詞ともいえる存在だったラーメンが『三丁目の夕日』的な過去の美化とつながっていく様子を描いた部分や、第4章のご当地ラーメン誕生の経緯とラーメン博物館における「偽史」の発生をたどった部分、第5章のラーメンがいつの間にか日本の象徴となり、2009年の「ラーメンShow in Tokyo 2009」で中国嫌いの石原慎太郎が推し進めたオリンピック招致運動に駆り出されたねじれを指摘した部分などは特に面白いですね。

 ご当地ラーメンは、ある地域でたまたまヒットしたラーメンが、規格化され、さらに大々的に売り出され、しだいにその地域のアイデンティティとなっていくという経過をたどっています。そして、後から「郷土の気候、風土、知恵が混じり合い、その地域に根ざした味が生まれました」(136p)と「偽史」が捏造されるのです。
 これは社会学などでいう「捏造された伝統」であって、例えば「大相撲」などにもそういった部分がありますし、「近代天皇制」もこれにあたります。
 そしてラーメンそのものが、「和風」テイストを施され、店員は作務衣を着こみ、「ラーメン道」として「道」となり、今まさに「捏造された伝統」として、その体裁を整えようとしているのです。

 というわけで読み物としても大変面白いこの本なのですが、個人的には抜け落ちている部分があると思います。
 それはラーメンにおける「ホモソーシャル」的な要素です。
 バブル期のグルメブームはフレンチやイタメシ屋を流行させましたが(この本でもとり上げられているナポリタンはそれで駆逐されました)、こういった店は男にとって「カップルでないと入れない」というものでした。そこで見出されたグルメこそが一人でも入れる、というか一人で入るのが当たり前のラーメン屋であったと思うのです。
 そしてその究極の形態こそが「二郎」ではないかと。
 圧倒的なボリュームと想像不能なカロリー、大量に投入されているであろう化学調味料、汚い店内、いずれも女性を寄せ付けないために機能します。ラーメンブーム以降、女性客を呼び込むために内装に凝りヘルシーさを装うラーメン屋も登場しましたが、そんな「裏切った」ラーメン屋に対して「男だけの世界」をつくってみせたのが「二郎」であり、それこそがジロリアンを生んだ大きな要因なのではないでしょうか?
 
 まあ、こういった反論を生み出すというのもこの本の面白さの一つでしょうね(そして「二郎」の魅力なのかもしれません)。

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)
速水 健朗
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伊藤邦武『経済学の哲学』(中公新書) 7点

ジョン・ラスキン、多くの人は名前は聞いたことはあるが具体的に何をしたのかというとわからないというような存在だと思います。
 もちろん絵画に詳しければターナーの擁護者としてのラスキンを知っているかもしれませんし、デザインに詳しい人ならウィリアム・モリスに大きな影響を与えた人として、あるいは環境保護に関心のある人ならナショナル・トラスト運動の元になる運動を始めた人として名前を知っているかもしれません。
 そんな多面的な活動をしたジョン・ラスキンの経済学批判を読み解き、現代社会においてクローズアップされてきたエコノミーとエコロジーの調和の問題を考えようとした本です。

 著者は伊藤邦武は歴史学者でも経済学者でもなく哲学者。今までも『ケインズの哲学』などで経済学における合理性の問題などを扱い、パースやジェイムズのプラグマティズムなどを研究してきた人物です。
 というわけでこの本は、たんにラスキンの主張を見るだけではなく、プラトンやクセノフォンから受け継がれたその思想的背景、彼の批判対象となったアダム・スミスやJ・S・ミルの主張、プルーストやガンディーへの影響、さらにガンディーからディープエコロジーへの思想的つながりなど、ラスキンを西洋思想の大きな流れの中に位置づけ、その独自性を取り出そうとした内容になっています。

 そのラスキンの経済学批判の骨子とは著者のまとめによれば以下のとおり(108p以下の記述を参照)。
1,経済学における「エコノミック・マン」の想定はあまりに抽象的である。
2,人びとが「富裕になること」しか考慮に入れず、「名誉」の問題を扱えない
3,「富の蓄積」だけをとり上げ「富の公平な配分」がとり上げられていない。
4,経済の自己調整能力への信頼は、富裕による権力の腐敗を考慮に入れると過剰である。
5,労働の価値は市場に従属するものではなく、労働に内属する価値がある。
6,労働の生産性は「正しい物が正しい者に届くか否か」で決められるべき。
7,「需要が供給によって決定される」という前提(セーの法則)は誤っている。
8,人格的な志向が需要と労働を生む。経済学ではこれらの分析がなされていない。

 内容はやや難しく感じられるかもしれませんが、例えば7の「セーの法則は誤っている」というのは、このあとケインズによって指摘されることですし、それ以外の点に関してもこの後の経済学批判ではよくとり上げられているものです。
 特に以下に引用するような労働に関する、ラスキン、そしてロマン主義者たちの経済学への批判というのは現代社会にとってますます重要なものとなっているのではないでしょうか?
 (功利主義とロマン主義の対立は)私たちの「労働」を、私たち自身が追求する欲望充足を妨害する「苦」と捉えるのか、それとも、それ自体において私たちの「自己表現」の実現としての「快」と考えるか、という対立として現れるのである。(83ー84p)
 
 さらに第3章では、ラスキンのエコロジー的な考えもとり上げられており、1885年の時点で「気候変動」に警鐘を鳴らすなど、ラスキンが現在の視点から見て先進的な考えを持っていたこともわかります。
 このようにこの本は、ラスキンという人物の思想、そして多面的な活躍、そして当時の思想的対立を
知ることのできる本になっています。

 ただ、ラスキンの考えから現在の経済学を乗り越えるような価値観を取り出せているかというと個人的にはそこまではいっていないと思います。
 ラスキンの経済学批判は確かに妥当であって、経済学の限界というものを19世紀の早い時期に見て取っているのですが、ではラスキンの提唱する「穏やかな経済」が国家レベルで実現するかとなるとそれは難しいと思います。
 「あとがき」で著者はラスキンを通じて「よい・わるい」という価値判断の問題(同じ「よい・わるい」でも道徳的価値、美的価値、合理的価値によってその内実は異なる)を考えたかったと述べていますが、そこまでは至らなかったというのが個人的な感想です。

 
経済学の哲学 - 19世紀経済思想とラスキン (2011-09-25T00:00:00.000)
伊藤 邦武
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萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書) 6点

『ナショナリズムは悪なのか』というタイトルから想像されるとおり、ナショナリズムへの安易な批判を批判した本。
 「格差問題を批判する人が同じ口でナショナリズムを批判するのはどうなのか?」という問いからこの本は始まります。
 日本でもグローバル化とともに下位層の貧困化が進みつつあり多くの知識人がそれを問題にしてます。しかし、国内での格差の拡大は、同時にグローバルな世界における格差の縮小であり(中国人やインド人はどんどん豊かになっている)、本当にナショナリズムが乗り越えられるべきものならグローバルな格差縮小を喜ぶべきではないのか?国内の格差が問題だと思っていながら、ナショナリズムを簡単に否定するのは矛盾だろうというのが著者の問題提起です。

 ここまでは非常に面白い。
 この日本の左翼が「ナショナル」なものを嫌うあまりに、ほとんど「新自由主義」的な思考に陥っているというのは濱口桂一郎なんかもブログで指摘しているところですが、まさに日本の左翼の問題点といえるでしょう。
 
 ただ、ここからの議論の展開はやや期待はずれ。
 著者はゲルナーの「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなけばならないと主張する一つの政治的原理である」との定義から議論を始め、さまざまなナショナリズムの問題点に触れながらも、言語がネーションの基礎にあり、そこにナショナリズムの一つの基盤があるとします。
 このことについて、著者は次のように述べています。

 歴史的には、ある範囲の人びとが共通の言語をもつ人間集団だと考えられるようになったことが、ネーションが生まれる基盤になったということ。そしてそこには、人間の集団的な意思決定が言語の共通性のもとでおこなわれるという圧倒的なリアリティがあるということ。これがここで確認しておきたいポイントだ。
 言語の共通性こそがネーションの基盤となったということは、逆にいうなら、ネーションの形成にとって一義的なのは言語の共通性であるということだ。言語の共通性にくらべれば、人種的な同一性はネーション形成にとって副次的なものにすぎない。(69p)

 完全に間違った議論だとは思いませんが、ベルギーやカナダの例なんかを考えると大雑把すぎる気がしますし、何よりもこうした議論は90年代の前半辺りに西部邁がしていたと思います(確か「「日本語」と「円」を使っているかぎりナショナリズムからは自由になれない」というようなことを言っていた記憶が…)。
 
 このあとこの本では国家の持つ「暴力」の問題を切り口に、ネグリ=ハートの「マルチチュード論」を批判したりして、それはそれで間違ってはいないと思うのですが、基本的に西部邁とかの左翼批判の別バージョンを聞いている感じです。
 別に
西部邁と似た考えだからダメだということは全くないのですが、それならば西部邁の主張する保守主義とは別の「ナショナリズムのとの付き合い方」を示して欲しいです。
 もちろんそれは簡単に示せるものではないのかもしれませんが、それがないと一昔前の保守主義者による左翼批判と代わり映えがしないです。
 第1章で「ナショナリズムそのものの性格を変えていかなくてはならない」(45p)と言っているのですから、「どう変えるのか」ということをもっと論じて欲しいですね。


 新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか (NHK出版新書 361)
萱野 稔人
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川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』(ちくま新書) 4点

ちくま新書の性風俗ものというと今年の5月に出た荻上チキ『セックスメディア30年史』が面白かったのですが、それに比べると個人的には読み物としてもいまいちでしたし、資料的な面からも不十分に感じました。
 1970年代〜80年代にかけてのエロ本をリアルタイムで読んでいた人にとってはさまざまな裏話が分かって面白いかとは思いますが、特にそのころのエロ本に思い入れがなければ面白さを十分には感じられない本田と思います。

 著者はエロ本雑誌の編集長を務めたり、官能小説も書いていた人物でまさに70年代から80年代のエロ本業界の渦中にいた人物で、当時のエロ本業界の雰囲気というのはわかります。また、「通販本」、「自販機本」、「ビニ本」といった種類のエロ本がどのように登場し、どのよう中身で、どんなふうに廃れていったかもわかります。
 さらに当時のエロ本業界にいた人物として、のちにコミケの主催となった米澤嘉博、作家の亀和田武、竹熊健太郎などの名前も紹介されており、エロ本業界がのちのオタク文化やサブカルチャーと密接な関わりを持っていたことを知ることも出来ます。

 ただ基本的のこの本の面白さというのは裏話的な面白さ(例えばエロ本の自販機野本になったのはさけのおつまみの販売機だとか、通販で名を馳せた松尾書房のエロ本の作り方だとか)であって、エロ本が社会の変化と共にいかに変化したかとかそういう話ではないんですよね。
 著者はロリコンブームの火付け役と言われる「少女アリス」の編集長も務めており、その内幕というのも語られているんだけど、なぜこの時期(1979年頃)にそういったブームが起こったかという分析はない。別に社会学者とかではないので仕方が無いのですが、その時代に物心がついていなかった者としては世相への言及もほしいところです。

 ただ、著者は自ら通販本や自販機本を集めて、その販売時期やモデル、撮影機材などに対して細かい分析をしており、そういった部分を楽しめる人にとっては面白い本なんだと思います。

 ポルノ雑誌の昭和史 (ちくま新書)
川本 耕次
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水町勇一郎『労働法入門』(岩波新書) 6点

極めてバランスのとれた労働法の入門書。労働法が生まれた歴史的な背景から現在の日本の労働法まで幅広く丁寧に解説しています。
 ただ、読んでいて面白いかというと、そういった「読み物」としての面白さはあまりない。「入門書に面白さを求める必要はない」という声もあるでしょうが、そこはやや不満に感じました。

 例えば、この本の49ページの第3章の冒頭で、大学の授業で日本の労働法の中で最も重要な判例は「秋北バス事件判決」だと聞いた話をして、自分が思うにそれと同等あるいはそれ以上に重要な判例は「日本食塩製造事件判決」だと述べています。
 本の中にはそれぞれの事件の判決で「就業規則の不利益変更法理」、「解雇権濫用法理」が確立したとしてその内容を説明していますが、その事件の具体的な内容には触れていません。
 やはり一般の人にとって事件の具体的なディティールがわからない限り、これらの判決の重要性やその評価といったものはわからないのではないでしょうか?(それぞれの事件の内容についての具体的な内容に関してはリンク先を参照してください)

 また、現在これほどまでに日本の労働をめぐる問題が噴出している状況を考えると、もう少し現状に対する踏み込んだ批判や提言があってもいいと思います。
 法と現実が乖離しているというのは日本ではよくあることですが(例えば道路の制限速度とか)、労働法においてはこれが著しいです。
 著者も「大学などで学ぶ「労働法」と実際に企業に入って味わう「現場」とのギャップこそが、日本の労働法の最大の問題といえるかもしれない」(85p)と述べています。
 そうした問題意識を受けて第9章では、裁判をはじめとする労働問題の解決方法、そして権利が侵害されたときに声を上げることの重要性を訴えているのですが、果たしてそれだけで「労働法」と「現場」のギャップが解消できるのかな?と思います。
 やはり具体的な法改正、あるいは裁判の仕組みの大きな変化など(例えば懲罰的な賠償金を認めるとか)がないと、なかなか変わっていかないのではないでしょうか。

 日本の判例は、解雇に関しては厳しく制限しながら、採用に関しては「思想・信条を理由とした採用差別もただちに違法となるものではない」(66p)としている点が、海外では強い違和感を持って受け止められるなど、興味深い指摘も多く、この本を読んでいくうちに日本の労働法のあり方や問題点もわかってくるしくみになっているのですが、その問題点やこれからのあるべき姿についてもうちょっと明確な像を打ち出してくれるとよかったと思います。

労働法入門 (岩波新書)
水町 勇一郎
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野口雅弘『官僚制批判の論理と心理』(中公新書) 8点

テーマ的には興味があったものの、著者がウェーバーの研究家のため「延々とウェーバーの政治論だったらどうしよう?」と思っていたのですが、150ページほどの小著にも関わらず幅広い目配りがしてあって面白い!
 現代日本でもさかんに行われている官僚批判、その源流を19世紀以降の政治思想史の中から探り出し、官僚批判が浮上せざるを得ない現代政治の難しさを明らかにした本です。

 小泉改革から民主党による政権交代へ、人々の政治への期待は新自由主義からリベラリズムの方向へと動いたかのように見えますが、小泉政権でも民主党政権でも、そしてその間に挟まれた政権の中でも繰り返されたのが「官僚批判」。
 なぜ、官僚制は右からも左からも批判されるのか?それでいながら、なぜ官僚制がなくならないのか?
 この本では、「現代日本の官僚」といった特定の時代の官僚ではなく、「官僚制」そのものを考察の対象にしながら、これらの謎に迫っていきます。

 官僚制は、18世紀の終わりから19世紀にかけてのロマン主義においてすでにその「非人間性」などが批判の対象になっていました。
 しかし、官僚制を「非人間的である」と攻撃した所で問題は解決しません。例えば、トクヴィルは人々が平等を願うことが強大な中央政府と行政機構をもたらすことを指摘しています。「同等な者たちの間での不均衡が嫌悪されるがゆえにあるいは平等な取り扱いが求められるがゆえに、民主的な社会においてほど、中央政府に権力が集中し、画一性が進行する」(49p)のです。
 「デモクラシーは自らの内から官僚制を呼び寄せながら、しかし同時に官僚制とぶつかり、それを憎む」(50p)になります。

 ウェーバーはこうした中で、「合法的支配」による正当性の考えを打ち出し、官僚が「形式的合理主義」に従うことで「中立性」を保ちながら行政を担うことを期待したとされています(著者のウェーバー理解はもうちょっと複雑です)。
 けれども、経済への政治の介入が求められるようになった後期資本主義の時代になると、この「中立性」の保持が難しくなります。
 「経済システムから寄せられる要請が複雑になり、量的にも多くなればなるほど、こうしたさまざまな要請に対して、官僚制はますます首尾一貫した態度が貫けなくなる」(73ー74p)のです。

 そして、この官僚制の機能不全への処方箋として浮上してきたのが新自由主義です。
 「小さな政府」を目指し、社会の調整の仕事を市場に委ねる新自由主義は、官僚制の無駄を指摘し、首尾一貫して市場の効率性を訴えます。
 著者は、この新自由主義の台頭とより多くのデモクラシーを求めるグループ、そして官僚批判の関係を次のように描いています。

 政治家には芯の通った信念が必要だという一般的な願望が、今日の状況においては、官僚や官僚制を批判し、「小さな政府」を唱える新自由主義にきわめて有利に働くということも見逃されてはならない。そうでない立場を取ろうとすると、財源の問題に直面せざるをえず、またわかりやすい「公平性」では割り切れない、さまざまな「介入」に対して説明が求められ、試行錯誤を繰り返さざるをえないという傾向にある。ここに、批判を受ける余地が広がる。しかし、「後期資本主義国家」において、行政は原理的に割り切れない、パッチワーク的な構築物たらざるをえない。したがって恒常的な議論と微調整が、そしてそれゆえのブレがどうしても出てきてしまう。私たちに求められているのは、こうしたゴタゴタの不可避性に対する認識と、それゆえの我慢強さではないか。(116ー117p)

 これ以外にもウェーバーの「鉄の檻」という言葉を使った時代と、「リキッド・モダニティ」と言われる現代社会の相違。官僚制とカリスマの問題など、著者の専門であるウェーバーを中心にさまざまな興味深い問題がとり上げられていますし、またアーレントやフーコー、ルーマンといった思想家の考えも参照されていて、著名な政治思想家が官僚制にどう触れているのかということも知ることができます。
 最近の新書にしてはかなり堅い本ではありますが、読み応えのある本です。

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)
野口 雅弘
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辻村みよ子『ポジティヴ・アクション』(岩波新書) 6点

政治・経済・学術などの分野における男女の格差を是正するために用いられるポジティヴ・アクション(積極的格差是正措置)。その内容と諸外国の動向、そして日本での導入可能性について探った本です。
 この手の本はどうしても読む前から評価が分かれがちになると思いますが、著者は憲法学を専攻する人物でポジティヴ・アクションの違憲性や問題点についても視野にいれながら議論を進めているため、反対派の人でも冷静に読み進めることができると思います。

 例えば、九州大学の理学部が2010年に後期試験に女性枠を設けて一般の枠とは別の試験形式で専攻すると発表し(導入は2012年から)、「逆差別である」と批判を受けたことがありました(結局、2011年に実施を断念)。
 これも女性の研究者を増やすための一種のポジティヴ・アクションですが、著者はこの九州大学の方式については否定的です。女子だけ合格基準を下げることは「逆差別」と捉えられますし、女性に対して一種の「スティグマ」を負わせる可能性があるからです(女性だけにプラス点をつけると、その裏返しとして女性は能力が低いとみられてしまう)。

 それでもポジティヴ・アクションは世界各国で導入されています。
 特にフランスでは、男女同数という意味の「パリテ」という思想が力を持ち、着々と制度が整えられています。
 フランスでは1982年に市町村議会議員選挙において名簿の75%以上を同性にしてはならないという25%のクオータ制が導入されましたが、同じ年に違憲判決を受け無効になります。しかし、1999年の憲法改正により「法律は、選挙によって選出される議員職と公職への男女の平等なアクセスを促進する」という条項を導入。比例代表における名簿を男女交互にするといった制度が実施されました。
 さらにフランスでは企業の取締役におけるクオータ制(取締役会における女性数が40%以上になることを目指す)も導入されるなど、強力なポジティヴ・アクションを導入しています。

 また、日本と同じく女性の社会進出が遅れたていたというイメージのある韓国でも小選挙区比例代表並立制の比例代表部分では、50%のクオータ制が導入されており、小選挙区でも女性候補者の擁立に対して金銭的なインセンティブを与えています。

 こうした国際情勢に鑑み、著者は日本でのポジティヴ・アクションの必要性を訴えます。
 女性に議席を割り当てるリザーブ制に関しては憲法14条の「法の下の平等」、あるいは44条の「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」との規定から違憲のおそれがあるとしますが、政党助成でインセンティブを与える方法や、政党に一定割合以上の女性候補の擁立を要請する方法なら違憲ではなく、導入の可能性があるといいます。
 また、女性の政治家が増えたことからクオータ制を廃止したデンマークの例を上げながら、日本でも帰還を決めた導入でかまわないとしています。
 個人的に、政治家の選挙においてがっちりとしたクオータ制が導入され、強制的に議員の男女比が固定されるような形は良くないと思いますが、現在の偏った比率を是正するための暫定的な措置ならば受け入れる余地もあると思います。
 
 ただ、疑問に思ったのは著者がなぜ憲法改正を主張しないのかということ。
 先程上げた14条や44条の規定があるかぎり、日本で強力なポジティヴ・アクションをとることは難しいです。そのため著者は違憲にならないようなポジティヴ・アクションを提案するのですが、改憲をまったく視野に入れないというは著者の主張からすると少し変にも思えます。当然、フランスのように憲法を改正して大胆なポジティヴ・アクションを導入するというのが王道なのではないでしょうか?
 なんだか日本のリベラル派における「護憲イデオロギー」の強さを感じてしまいました。

ポジティヴ・アクション――「法による平等」の技法 (岩波新書)
辻村 みよ子
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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