山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

東畑開人『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)

 編集部よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。

 タイトルは「カウンセリングとは何か」ですが、カウンセリングやその周辺を少しでもかじったことのある人であれば、この問の答えが非常に難しいものであることが想定できると思います。
 それこそフロイトの精神分析から認知行動療法、家族療法など、多くのものがあり(それ故に国家資格創設の際ももめた)、さまざまな手法を列挙するだけで終わってしまうのでは? と考える人もいるでしょう。
 
 しかし、本書はそうした手法を取らずにさまざまな「カウンセリング」に共通するエッセンスを取り出し、「カウンセリングとは何か」という問いに対して、その核心を答えようとしています。

 また、著者はその際に「浅い」カウンセリング(「作戦会議としてのカウンセリング」)と「深い」カウンセリング(「冒険としてのカウンセリング」)の2つを紹介しながら議論を進めていくのですが、この構成が非常に良いと思います。
 どうしても「深い」ものにこそ本質があるという議論になりやすいですが、「深い」カウンセリングはドラマチックである一方(本書のハルカさんのケースは村上春樹の小説を思い出させる)、「非科学的」という印象を与えるものでもあります(ほぼ再現性のないものなので)。

 著者は「深い」>「浅い」という序列をつけず、ユーザー(本書はクライエントではなくてこのように表記する)の必要に応じて使い分けるものとし、両者について同じような分量で紹介しています。
 カウンセリングに確実な効果を求める人は第3章の「作戦会議としてのカウンセリング」を、人生の変化を求める人は第4章の「冒険としてのカウンセリング」をじっくり読めばいいでしょう(ただし、著者は読ませる文章を書ける人なので、一度読み始めれば多くの人は440ページ超えの本書を通読してしまうでしょう)。
 今、なにか困っていることがあってカウンセリングを受けてみようか迷っている人にも、まさに「カウンセリングとは何か」ということを知りたい人にもお薦めできる本です。


 目次は以下の通り。
まえがき ふしぎの国のカウンセリング

第1章 カウンセリングとは何か──心に突き当たる

第2章 謎解きとしてのカウンセリング──不幸を解析する

第3章 作戦会議としてのカウンセリング──現実を動かす

第4章 冒険としてのカウンセリング──心を揺らす

第5章 カウンセリングとは何だったのか──終わりながら考える

あとがき 運命と勇気、そして聞いてもらうこと

 カウンセリングやカウンセラーには怪しさもつきまとうといいます。
 この背景には「①カウンセリングは誰でもやっていることだ」、「②カウンセリングは宗教や占いみたいなものだ」(25p)という2つの考えがあるといいます。

 ①については、確かに「カウンセラーの仕事は人の話を聞くことだ」といったことを聞くと、「それならば友人やパートナーで十分じゃないか」と考える人もいるでしょう(友人やパートナーがいない人はカウンセラーのもとに行く)。
 これに対して、普段のコミュニケーションとカウンセリングの違いは、カウンセリングは「心の非常時」に行われる点だと著者は述べています。
 ちょっとした風邪や怪我であれば医者に行かなくても治りますが、大きな病気や怪我ではそうは行きません。心の不調でも素人には手に負えない部分があるのです。

 ②については、著者も、宗教や占い、あるいはシャーマニズムなどがカウンセリングの親戚であることを認めています。
 実際、カウンセリングの源流となっている精神分析のもとを辿れば、催眠術や動物磁気に行き着きます。
 ただし、問題の原因を神やオーラや磁気に求めるのではなく、「心」に求めることがカウンセリングのポイントだといいます。
 ちなみにカウンセリングには、「心の非合理な部分を自由にさせるシャーマニズムから精神分析へと連なる流れと、心の合理的部分を強化する哲学的治療から認知行動療法に至る流れ」(70p)があるといいますが、著者は前者に近い立場です。

 こうしたことを踏まえたうえで、著者は第2章の冒頭でカウンセリングを次のように定義しています。

 カウンセリングとは、心の問題で苦しんでいる人に対して、心理学的に理解して、それに即して必要な心理学的な介入を行う専門的な営みである。(92p)

 その上で第2章では、カウンセリングの導入部分が語られています。
 その人の人生がうまく言っていないのには何らかの原因があるわけで、カウンセラーはまずその謎解きをしなければなりません。
 カウンセラーは、まずは原因を「解明」し、それをユーザーにもわかる形で「説明」し、対処方法について「提案」をします。

 カウンセリングにおける初回の面接を「インテーク面接」といい、ここで一定程度の「解明」、
「説明」、「提案」をしなければなりません。著者の場合はインテーク面接を60分として、その間に頭をフル回転させて3つのことを行います。
 ただ、本書の指摘で興味深いと思ったのは、カウンセリングは予約制のため、カウンセラーもユーザー側もともに実際にカウンセリングをする前からさまざまな想像をめぐらしているという点です。主訴を書くといった行為を通じて、ユーザーは問題をある程度客観的に見る機会を持つことになります。

 インテーク面接では、ユーザーの現在の状態、心の不調に陥った直接的な原因、その背景にある今までの人生などを聞いていきながら、問題の所在を突き止めていきます。
 本書では次の3つの焦点をあげています。
 ①破局度の評価ー いかなるカウンセリングが役立つのか
 ②問題の所在ー カウンセリングでどこを変化させるのか
 ③物語化ー 問題の全体的メカニズム(135−136p)

 ①では、問題が火急的ものなのか、原因が本人の外部にあるのか/内部にあるのか、問題が最近起きたことなのか、ずっと続いている慢性的なものなのか、といったことを判断します。
 原因が外部にあり専門家に任せたほうがいいケースなどでは、カウンセリングをしないという判断もあります。また、問題がずっと続いている歴史性のあるものならば、じっくりと腰を落ち着けたカウンセリングを勧めることになります。

 ②では、まずは投薬などの外部的な要因に対処し、それから内部である心の問題に対処していきます。問題が見えたとしても、そこにどのような順序で介入していくのかということも重要です。
 
 ③では、一定の仮説を提示します。もちろん、インテーク面接ではすべてを理解できないことが多いので、荒っぽいものにとどまりますが、これが一種の診断となり、今後のカウンセリングの指針となっていきます。ここでカウンセラーとユーザーがその物語を共有できるかが鍵であり、これに失敗すると、カウンセリングは初回で終わりということになりかねません。
 ここでユーザーの悩み、ユーザーのことを理解できるかがカウンセリングの1つの核心です。本書ではこのことを「アセスメント」と呼んでいますが、「カウンセリングの中核にあるのはアセスメントである」(157p)と著者は述べています。

 そのうえで、今後のプランが提案されます。著者は、基本的に「作戦会議としてのカウンセリング」と「冒険としてのカウンセリング」の2つのプランを用意するといいます。

 第3章で取り上げられているのが「作戦会議としてのカウンセリング」です。
 この章のはじめには「カウンセリングとは何か?」という問いに対して、さまざまな流派の答えが乱立し、互いに批判し合ってきた歴史が紹介されています。フロイトの精神分析なども、何度も「非科学的だ」、「治療効果がない」と批判されてきました。
 著者はこうした混乱に対して、人には「生存」と「実存」、あるいは「生活」と「人生」があり、流派によって照準としているものが違うと述べています(精神分析は後者を対象としている)。
 
 本書においては、「作戦会議としてのカウンセリング」が前者を、「冒険としてのカウンセリング」が後者を対象にしています。
 もしも、その人の生活が破綻の危機にあるのであれば、行うべきは「作戦会議としてのカウンセリング」です。時間をかけて人生を考え直す前に、まずは生活を安定させる必要があるのです。
 著者は「作戦会議としてのカウンセリング」におけるカウンセラーはボクシングのセコンドのようなもので、「伴奏する冷静な第三者」(178p)だといいます。

 この章では、20代の会社員で、いろいろと言ってくる女性上司へのムカつきがとまらず、そのストレスでオンラインゲームでお金を使ってしまい経済的にも行き詰まったカナタさんのケースが紹介されています。
 生活が乱れてかなり憔悴しており、著者はまずは生活の立て直しが必要だと考えて投薬を勧めます。心の問題があるのも明らかですが、まずは投薬、休養、運動、生活リズムの立て直しなどの身体に対するはたらきかけを行って身体の変化させることができる部分を変化させるわけです。

 さらにオンラインゲームでつくってしまった借金の整理をするために親に頼ることを勧めるのですが、結果的にこれが家族の今までの関係を反省するきっかけにもなってうまくいきます。
 教員だった父が子どもへの接し方についての反省を口にしたことによって、カナタさんは今まで知らなかった親の一面を知ることになります。
 著者は、実際のカウンセリングは「世界を動かす」ことが中心になるといいます。カウンセリングというと「心を動かす」ことが目的のように思われますが、「心を動かす」には安全な環境が必要であり、まずは環境を変えていくはたらきかけが重要になるのです。
 DVがあったらDVがあったらを止める、実際に止めるのは難しくても「それはDVです」と名指すことで認識を変える、そういったことがユーザーと世界の接し方を変えていくのです。

 その後の面接の中で、カナタさんは上司が最近離婚していたことを知り、「自分のような部下を持ってイライラするのも仕方がない」と思うようになります。
 実際に上司がどんな考えを持っていたのかはわかりませんが、こういった視点の転換や広がりが本人をラクにすることもあるのです。
 「作戦会議としてのカウンセリング」は、生活の立て直しを目標としますが、その中でユーザーの生き方も変わってくるのです。

 第4章では「冒険としてのカウンセリング」がとり上げられています。いわゆる精神分析やユングの流れをくむ河合隼雄などのやっていたことに近いです(本書を読めばわかるが日本のカウンセリングに対する河合隼雄の影響は大きく、著者もそういった雰囲気の中で学んだとのこと)。
 このようなカウンセリングは、時間がかかる贅沢なものであり、基本的に「生存」に力を入れるべきだという批判もあります。
 著者はそうした考えに一定の賛意を示しつつも、「生活を守ることで、人生が死んでしまうこともある」(246p)と述べています。

 では、どうやって「実存」を変えていくのか? 著者はスライムと鎧という比喩を持ち出します。
 人間の心は最初はドロドロとしたスライムのようなものだが、それでは余りに傷つきやすいので、鎧でそれを守るようになります。ところが、この鎧が硬化しすぎて問題化することがあります。硬化した鎧は他者の介入を受け付けずに、傷ついた心は凍結されます。
 この傷ついたスライムのような心に対して、鎧を緩めて介入していこうというのが「冒険としてのカウンセリング」です。
 
 「冒険としてのカウンセリング」では、高頻度で長期間会うことによって鎧を揺らし、カウンセラーとの間での「転移」を通じてスライムを生き直します。このとき、カウンセラーは舞台監督となってユーザーの物語を監督し、ときには助演俳優としてユーザーの相手をします。

 ここではハルカさんという30代の女性のカウンセリングが紹介されています。ハルカさんは大学の心理学科を卒業したあとに大企業でバリバリ働いているという既婚女性で、「子どもを持つかどうか悩んでいる」というのが主訴になります。
 今の時代、「子どもを持つかどうか悩んでいる」というのは多くの女性が持つ悩みかもしれませんが、それをカウンセラーに相談するというケースはそんなにないと思います。この悩みの背景にはおそらくなにかがあるわけです。

 そこで著者はハルカさんに「冒険としてのカウンセリング」を提案します。精神分析的なカウンセリングを通じて、自分の人生を見つめ直そうというのです。
 著者の経験によれば、隠れた古傷を抱えている人は、どこかしら心が麻痺している、死んでいると思わせる部分があるそうで、例えば、理路整然と自分のことを話しながらも、どこかで上滑りしているような感じや、特定の部分だけ突然解像度が低くなるようなことがあるそうです。
 ハルカさんからも「他者(とりわけ夫)と一緒に物事を考えられない」という部分が見受けられました。

 このハルカさんとのカウンセリングは最初にも書いたように小説のように劇的で面白いのでぜひ本書を読んで確かめてほしいのですが、ポイントは「人生の脚本は反復される」(283p)ということであり、これをカウンセラーとの間での転移を使って行うことです。
 「転移とは人生の脚本がカウンセラーとの間で再演されること」(294p)であり、本書でも著者との間でハルカさんの人生が再演されます。
 ハルカさんは周囲の人を軽蔑する傾向があり、それはカウンセラーでもある著者にも向かうのですが、そういった負の感情が3年目に爆発します。著者の筆力もあるのか、ここはハッとさせられます。
 ある意味で「破局」にまで行き着き、そこから再生していく。これが「冒険としてのカウンセリング」になります。

 普通の本だと、この「冒険としてのカウンセリング」の説明で終わりになりそうなところですが、本書では「カウンセリングの終わり」について1章を割いています。
 身体の病気やケガと違って、心の問題は何を持って「治った」とするかが難しく、また、ユーザーをずっと依存させ続けるほうが儲かるという危惧もあるため(新興宗教や占いなどではこうしたことをやっているおそれがある)、「終わり」というものを語ってくれるのは親切だと思いますし、同時にカウンセリングが専門知としてしっかりと認知されていくためにも必要なものでしょう。

 カウンセリングは1回ごとの面接に終わりがあります。ここで「他人であることの根源的なさみしさ」(349p)を感じることがあります。しかし、同時に「終わりは孤立ももたらすし、自立ももたらす」(353p)という面があります。この孤立と自立の葛藤の中でカウンセリングは「終わり」を迎えるのです。
 もちろん、うまく終われなかった(途中で来なくなってしまったなど)カウンセリングもありますが、ヤマをこえたユーザーとカウンセラーは「終わり」について話し合います。
 ハルカさんのケースは8年間もカウンセリングを続けたといいますが、それだけの時間をかけて「古い物語を終わらせる」ということをやっています。
 著者は「カウンセリングとは何か?」という問いに対して、「それは生活を回復するための科学的営みでもあり、人生のある時期を過去にするための文学的営みでもある」(424p)と述べています。

 この「科学」と「文学」の両面に目配せができているのが本書の特徴であり、良い点だと言えるでしょう。
 カウンセリングのようなものにやや懐疑を抱いている人にも、カウンセリングに大きな期待を寄せている人にもお薦めできるという稀有な本に仕上がっています。
 「カウンセリングとは何か」という難問に非常にうまく答えて見せた本だと言えると思います。


高杉洋平『帝国陸軍』(中公新書) 9点

 帝国陸軍は悪しき精神主義の代名詞のようにも言われ、対英米戦争という無謀な戦争に日本を引きずり込んだ現況と見られています。また、統帥権の独立によって政治が軍をコントロールできなかったことが、日本が戦争への歩みを止められなかった原因だと考える人も多いでしょう。
 これらの見方は完全に間違っているわけではありませんが、大正期の陸軍にはより開明的で進歩的な軍を目指す動きがありましたし、統帥権の独立は政治を縛ると同時に軍の行動も縛っていました。
 本書は今までとは違った角度から帝国陸軍の姿を描き出しています。

 戦前の陸軍を描いた同じ中公新書に川田稔『昭和陸軍の軌跡』がありますが、『昭和陸軍の軌跡』が永田鉄山、石原莞爾、武藤章といったここの軍人の考えを明らかにしながら、陸軍の軌跡を探ったのに対して、本書は組織としての陸軍を見ています。
 もちろん永田鉄山や石原莞爾などの人物についても書かれていますが、それ以上に陸軍が組織として置かれていた状況や、その力、さらにはその限界を明らかにしています。
 新書でありながら、日本陸軍の姿を総合的に描き出した非常に面白い本です。

 目次は以下の通り。
はしがき
第1章 栄光からの転落
第2章 第一次世界大戦の衝撃
第3章 ポスト大戦型陸軍への挑戦
第4章 「大正陸軍」の隘路
第5章 「昭和陸軍」への変貌
第6章 陸軍派閥抗争
第7章 政治干渉の時代
第8章 日中戦争から対米開戦へ
終 章 歴史と誤り

 本書は陸軍の創設から説き起こしていますが(といっても15ページほど)、ここでは日露戦争後からの部分を紹介したいと思います。

 日露戦争に勝利したものの、ロシアは依然として大国であり、ロシアの巻き返しを防ぐには相当の軍事力が必要だと考えられました。そこで1907年に「帝国国防方針」が策定されます。
 ここで陸軍は仮想敵をロシア、米国、フランス、ドイツとして平時25個師団を目指すこととしましたが、この「帝国国防方針」の策定の過程には、統帥権の独立の問題もあり、政府は関与しませんでした。結果として、当時に日本の状況から乖離した計画が生まれてしまいます。
 ちなみに当時の首相の西園寺公望は、実行には財政の斟酌を求めるとしたものの、強い抗議はせずにこれを容認します。

 「帝国国防方針」策定のあと、とりあえず2個師団の増設が認められ、平時19個師団となりましたが、その後が進みませんでした。この流れで1912年に起きたのが2個師団増設問題であり、上原勇作陸相が辞職したことによって第2次西園寺内閣は総辞職を余儀なくされました。
 しかし、これは陸軍の政治的敗北でもありました。西園寺が折れると見て強硬的な態度をとった上原とそのバックにいた山県有朋でしたが、西園寺が折れずに辞職したことで世論の反発は陸軍へと向かい、第1次山本権兵衛内閣での軍部大臣現役武官制の改正も受け入れざるを得なくなりました。

 こうした中で第一次世界大戦が勃発します。大戦景気もあって1915年に朝鮮に駐屯する2個師団の増設が実現しますが、第一次世界大戦で登場した飛行機や戦車などの近代的な兵器の導入において大きな遅れを取っており、総力戦体制の構築もできていないかことが明らかになりました。
 同時に大戦後の世界では平和を求める動きが強まり、軍縮の必要性が叫ばれました。
 日本陸軍にとっては軍縮という逆風の中で軍の近代化や総力戦体制の構築を進めなければならないという難しい状況に立たされたのです。

 1918年、「帝国国防方針」の抜本的な改訂が行われ、平時25個師団を目指す目標から平時22個軍団制を目指す方針が示されました。軍団は人員を半分程度に減らした2個師団を統括したもので、人員はほぼ変わらないものの特化兵種などの増設が必要でした。
 この計画は大戦景気の中で了承されましたが、戦後不況や軍縮を求める世論も高まりによって暗礁に乗り上げます。

 そこで1922年、「帝国国防方針」の二次改訂作業が行われ、師団数の現状維持が決まります。一方、師団の人員を減らすことで資金を捻出して軍の近代化を進めることが決まりました。この方針のもとで行われたのが山梨半造陸相のもとで行われた「山梨軍縮」です。
 この山梨軍縮では6万人近い将兵が削減されましたが、そこで浮いた予算の多くは国庫への返納を命じられ、実現したのは2個飛行大隊の新設などにとどまりました。また、師団数の維持にこだわったために、世間からは不十分なものとみなされました。
 アンチ・ミリタリズムの風潮もあって軍人の社会的地位も低下し、士官学校への入学辞退者が増加するなど職業としても軍人は不人気になっていきます。

 不十分に終わった山梨軍縮に代わって行われたのが「宇垣軍縮」です。陸相の宇垣一成が行ったことからこの名前がついていますが、もともとは上原勇作が退いたあとに参謀本部で作られたもので、4個師団削減という思い切ったものでした。
 この方針に基づいて軍縮を行ったのが宇垣です。宇垣は陸軍内の反対派を抑え込むとともに、より大きな削減を求める政党を抑え込みました。宇垣は4個師団の削減と引き換えに航空部隊10個中退の新設、戦車や高射砲部隊の新設などを行います。
 また、旧制中学以上の官公立学校に現役将校を派遣する学校配属将校制度をつくりました。これによって軍縮によって余剰になった将校を救済するとともに、総力戦の素地をつくろうとしました。

 宇垣は清浦奎吾内閣のもとで陸相に就任すると、護憲三派内閣、加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣にわたって陸相を務めました。田中義一内閣でも陸相就任を求められましたが、宇垣はこれを断りました。
 政権が憲政会から立憲政友会に移ったにもかかわらず自分が留任すると、軍部大臣が憲政の常道における「治外法権」のような形になるのを嫌ったためだといいます。宇垣は政権交代と出処進退を合わせることで政党からの軍部大臣文官制の導入や統帥権の独立への批判を抑え込もうとしたのです。
 
 このように宇垣は政党との協調路線を取り、政党も宇垣を頼りました。この政軍協調路線はうまくいきましたが、同時に政党内閣からの軍制改革の芽を摘んだとも言えます。宇垣はこうした状況を理解しながら行動したと考えられます。

 このころ軍隊内部の雰囲気も変わったといいます。将校の中にはマルクス主義や無政府主義の本を読む者も現れ、士官学校で民主主義についての講演が行われたり、兵営生活の中でもスポーツが取り入れられたりしました。

 しかし、宇垣軍縮に対する反動が訪れます。
 師団の廃止にともなって連隊も廃止されますが、例えば、熱心な近代化論者で宇垣軍縮を熱烈に歓迎した小磯国昭も、連隊の廃止とともに連隊旗が天皇に奉還されるとなると、二度とこのようなことを起こしてはならないと思ったといいます。
 また、近代化の端緒こそ開いたものの、飛行機にしろ戦車にしろ高射砲にしろ、その数において他国に大きく劣る状況は変わりませんでした(93p表1参照)。
 ここから、やはり精神力で補わざるを得ないという考えも再び生まれてきます。
 そして、この頃になると軍人の中から自分たちは報われていないという被害者感情的なものも生まれてきます。こうしたこともあって軍縮の立役者でもあった宇垣の陸軍内でも影響力も失われていきました。

 大正デモクラシー期に将校はその教養を高めましたが、それは軍人が社会問題に目を向けることにもつながりました。特に徴兵した兵士たちと生活をともにすることが多い陸軍では、農村の貧困などを問題視する風潮が強まります。
 腐敗した政党への反発が強まるとともに、政党へと接近した田中義一や宇垣一成といった実力者への陸軍内部での評価は低下していき、軍の近代化の進展を相まって上層部は若い世代を十分に指導できなくなっていきました。

 こうした中で「陸軍革新運動」が動き始めます。
 中心となったのは1つのグループが陸大出の中堅幕僚将校グループであり、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、河本大作、板垣征四郎、東條英機らが参加した「二葉会」、さらにそれよりも若いメンバーが中心なって結成された「木曜会」がありました。
 ここでは満蒙問題が熱心に話し合われ、木曜会では1928年3月の会合で「満蒙を取る」ことが議決されています。
 これは陸軍としての意思決定ではありませんし、当事者たちもどの程度のリアリティをもって決議したのかはわかりませんが、のちの歴史的な推移に大きな影響を及ぼしていくことになりました。

 なお、二葉会のメンバーの河本大作は張作霖爆殺事件を引き起こしましすが、その事件処理に関して著者は「たとえ見え透いた嘘であっても、日本政府としては頑として軍人の関与を否定するしか現実的選択肢はなかった可能性が高い」(136p)とし、政府や昭和天皇の対応も致し方ないものとしています。

 1929年に二葉会と木曜会が合併して「一夕会」になります。第一回の会合では、陸軍人事の刷新、満蒙問題の解決、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を護り立てて陸軍を立て直す、という3つのことが方針として決議されています。
 当時の中堅幕僚将校は、当初は宇垣に対して期待していたものの、軍縮の痛みに耐えた結果の果実が少なかったことや、宇垣が政党に接近したことに不満をいだいていました。
 次第に彼らは政党との協調によって総力戦体制を構築するのではなく、軍事的理論によって政治そのものを変革しようと考えるようになります。
 そして、彼らは国内の政治体制変革のきっかけとして満蒙での武力発動を構想していくようになります。

 一方、中堅幕僚将校グループとは別に、青年将校グループと呼ばれる20〜30代の隊附将校(陸大出身ではない尉官クラス)もいました。
 彼らはアンチ・ミリタリズムの空気の中で士官学校などをすごし、任官してからは昭和恐慌の影響を肌で感じていました。彼らは北一輝の『日本改造法案大綱』に引き寄せられ、「天皇の名の下におけるクーデター」を志向していくことになります。
 この他、橋本欣五郎の「桜会」の動きなども陸軍の革新機運に火を付ける役割を果たしました。

 満州事変は既存の体制の打破に大きな役割を果たしました。満州事変は上層部の指示を得て始まったわけではありませんが、何らかの手段で満蒙問題の根本的な解決をしようという雰囲気は陸軍内に横溢しており、軍務局には軍務課長の永田をはじめとする一夕会の会員がいました。ある種の「緩いコンセンサス」のもとで事変は拡大していきました。
 政府としては朝鮮軍の独断越境を承認せずに「統帥権の干犯」だと批判する手もありましたが、関東軍が孤立すること、陸軍内でのその後の混乱などを考えると、そうそう簡単に打てた手ではありません。若槻内閣は越境を事後承認します。
 アンチ・ミリタリズムだった世論も満州事変での軍の動きを熱狂的に支持し、陸軍士官学校への志願者なども急増していきます(それまでも不況の影響で持ち直してはいた)。

 1931年、荒木が陸相に、林が教育総監に、真崎が参謀次長となります。一夕会が目標としていた人事が実現した瞬間でした。
 しかし、この頃から、荒木が露骨な「子分」偏重人事を行ったこともあって、荒木、真崎、小畑と永田の確執が強まります。荒木や真崎は青年将校グループに接近し、中堅幕僚将校は永田のもとに結集していきます。この永田グループが「統制派」と呼ばれるようになりました。
 永田らの国家革新をめざした研究は永田が軍務局長に就任したこともあって、陸軍の軍務局で進められていくことになります。

 軍務局長になった永田のもとで1934年10月に『陸軍パンフレット』(『国防の本義とその強化の提唱』が公表されますが、これは「狭義の国防」にとどまっていた陸軍が「広義の国防」の大義名分のもとで非軍事的な社会改革に言及したものとして衝撃を与えました。
 陸軍では35年7月に教育総監になっていた真崎が罷免されるなど、青年将校に近い「皇道派」が中枢から追放されていきますが、翌月には相沢事件が起こって永田は命を落とすことになります。

 本書では歩兵第三連隊長時代の永田に仕え、のちに青年将校グループの一員として永田と対立する新井勲の永田評が紹介されています。
(満洲事変時の重臣説得について)永田はその重臣説得に、単に弁舌の力だけで成功したのであろうか。決してそうではない、その説得の裏には剣の威嚇が潜められていた。かれらは自分からサーベルを鳴らし、人を威嚇するような野蛮な人物ではない。かれらはこの威嚇を、若き青年将校の動きを利用してやったのである。(中略)
 人間としても人情を解し、秀才には珍しい親切心と包容力を持っていた。かれは決して軽薄才子ではない。しかし余りに策が多かった。かれ自身としては全軍のためという、崇高な気持ちもあったであろうが、小刀細工が多過ぎた。策士策にたおれるというが、正しくかれこそ策のために斃れた人間である。(190−191p)

 永田を失った統制派の一体感は失われ、皇道派は二・二六事件を起こします。
 この二・二六事件の収拾に置いて活躍し、その存在感を高めたのが石原莞爾でした。石原は満州事変の立役者となったものの、陸軍内では「満州派」とも言われる小さなグループの中心に過ぎず、その影響力は限られていました。
 二・二六事件の事態収拾をきっかけとして石原は陸軍内の中心的な存在になります。

 二・二六事件の後に皇道派の将軍の復権を防ぐために大将の大量馘首が行われ、軍部大臣現役武官制も復活します。
 陸軍内部では石原と武藤章が影響力を持つようになりますが、1936年6月に武藤が関東軍の参謀に転出したこともあって石原が力を持つようになりました。
 広田内閣総辞職のあと、この石原が中心となって宇垣の組閣を潰します。軍部大臣現役武官制が復活してなければ、おそらく宇垣は自らが陸相を兼任して組閣を強行したと考えられ、それが成功したかはともかくとして、二・二六事件以後の国民の反軍的な雰囲気もあって何らかの形で歴史を変えた可能性はあると著者は見ています。

 石原は林銑十郎内閣のもとで自らの政策を実行しようとしますが、梅津美治郎陸軍次官が介入し、満州派を排除します。林内閣は議会を解散して政治を動かそうとしますが、既成政党が多くの議席を獲得したことで行き詰まります。この後、新体制運動にいたるまで、陸軍は「統帥権の独立」という武器が、同時に陸軍が直接政治を動かすことはできないという制約にもなっている状況に苦しむことになります。

 盧溝橋事件から始まった日中戦争は拡大し泥沼化していきます。1937年秋から始まったトラウトマン工作において、その継続を最も強く主張したのは参謀本部であり、参謀次長の多田駿でしたが、外交や和戦の決定は政府の管轄であり、参謀本部の影響力は限られていました。
 参謀本部はなお、統帥権の独立にもとづく帷幄上奏権をつかって交渉打ち切りを阻止しようとしますが、これは昭和天皇によって阻止されました。昭和天皇も日中戦争の終結を願っていましたが、それよりも政治手続きの正当性を重視していたためと思われます(ちなみに阿部信行内閣で多田が陸相に就任する案が出るが昭和天皇が峻拒したのも、このときの問題が影響していると考えられる)。

 石原が失脚したあとに陸軍内部で影響力を持つようになった武藤は強力な戦争指導体制の構築を目指して新体制運動を進めますが、統帥権の独立という陸軍の特権的な地位を維持しながら、陸軍以外の政治勢力に挙国一致を求めるのは虫のよい話でした。
 また、この動きは戦場での失敗を政治よって取り返すというものともいえ、誕生した大政翼賛会は武藤らが期待したものにはなりませんでした。

 この戦場での失敗を別のもので取り返すということは国家戦略のレベルで行われました。日中戦争の目的は「東亜新秩序」あるいは「大東亜新秩序」の樹立とされ、日中戦争はその手段と位置づけられていきます。
 この目的のもとで南方への進出が行われ、日本は英米と決定的に対立していくことになります。そして、日米交渉において、陸軍は中国からの撤兵を受け入れることができず無謀な戦争に突入していくことになるのです。

 陸軍、特に昭和の陸軍に関する本は色々と読んできたつもりまですが、本書は今までの研究も踏まえた上で、新鮮な陸軍像を描いています。特に何か斬新な見方が提示されているわけではないのですが(例えば、大正デモクラシーと昭和陸軍の関係については黒沢文貴『大戦間期の日本陸軍 (岩波現代文庫)がある)、全体的により俯瞰した視点から陸軍の内実や行動が分析されています。
 そして、その俯瞰した視点から日露戦争後から太平洋戦争勃発までの帝国陸軍の組織として姿が見えてくるのが本書の大きな魅力です。
 「なぜ、無謀な戦争を始めてしまったのか?」という問いを考えたい人に広くお薦めできる本です。


帝国陸軍―デモクラシーとの相剋 (中公新書)
髙杉洋平
中央公論新社
2025-07-23


浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』(SB新書)

 著者の浦出美緒氏と編集部よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。

 著者は死恐怖症(タナトフォビア)をもった人物であり、そのために日本タナトフォビア協会まで設立してしまった人物です。
 多くの人にとって死は「怖い」ものであると同時に「仕方のない」ものであり、手塚治虫の『火の鳥』や高橋留美子の『人魚の森』などの影響もあって、「死は怖いけど、不老不死はもっと怖い」くらいに考えている人が多いと思います。

 そうした中で、著者は本気で「死にたくない」と思っている人です。本書において著者と対話している渡辺正峰も「死にたくない」と思っている人物ですが、著者のほうがより「怖がっている」と言えます。
 そんな著者がこの恐怖と、そこから抜け出せる可能性について5人と対話したのがこの本になります。
 対話の相手は、医者、宗教社会学者、神経科学者、哲学者、小説家ですが、それぞれのスタイルの違いが出ていて面白いと思います。
 個人的には哲学者の森岡正博との対話における「死」という問題の扱い方についての部分が興味深かったですね。

 目次は以下の通り。
序章  怖がる人
第1章 予習する人  中山祐次郎 外科医、作家
第2章 共に怖がる人 橋爪大三郎 宗教社会学者
第3章 希望の人   渡辺正峰 神経科学者
第4章 対峙する人  森岡正博 哲学者
第5章 超越する人  貴志祐介 作家
終章  生きる人
 
 第1章の中山祐次郎との対話では、一般的な人の死の怖がり方と著者の怖がり方の違いが明らかになります。
 著者の「死をすごく怖がり、拒絶するのはどういう人ですか・」という質問に、中山は「中小企業の社長さんですね」と答えていますが(27p)、多くの人の死への恐怖は、自分が死ぬことで家族がやっていけなくなるのではないか? 会社が終わってしまうのではないか? やりたいことが十分にできずに終わってしまうのでは? といったことではないかと思います。
 また、ガンなどでは死の直前の「痛み」に対する恐怖もあるかもしれません。

 こういった不安は保険や事業継承の仕組み、あるいは痛みを取るセデーションなどである程度解消できるのかもしれませんが、著者の感じている怖さは「自分が存在しなくなること」の怖さであり、なかなか取り除けるようなものではありません。
 中山は死の恐怖を和らげる方法として「死を分解する」ことを提唱し、「来年、目が見えなくなったらどうしますか」「来月、足が動かなくなったらどうしますか?」、「明日、食べられなくなったら今夜何を食べますか?」といったことを考えることを勧めていますが(47p)、常に死を考えてきた著者はとっくにそれらの問の答えを用意しているわけです。

 ただ、中山が言うには、ガンなどで亡くなる多くの人は死の2週間前くらいから意識がぼんやりとしてくることが多く、自分の「死」をはっきりと捉えているわけではないだろうとのことです。
 そこから中山は「死は実はあなたのものではない」(61p)とも言います。自分の死を見るのは自分ではなく周囲の人だというのです。
 最初の対話は、医師から見える「死」についての考えとしても面白いですし、著者の「死への恐怖」とのズレもわかって本書の導入としてよく機能していると思います。

 次は橋爪大三郎との対話。ある程度現代思想をかじっている者ならば、橋爪の言うことはオーソドックスだと思います。
 独我論、否定神学的な議論、既存の宗教の仕組みやからくり、「社会の本質は言語だ」(109p)という言明など、橋爪の著作をある程度読んだ人であれば、なんとなく想像のつく話がなされています。
 この対話はかなり説諭調でして、全体的に意外性はないですが、こういう議論が初めての人には面白いかもしれません。

 つづく渡辺正峰は、著者と同じく自分がいなくなってしまうことへの恐怖を抱いている人間で、自分の意識をコンピューター上にアップするマインド・アップロードの研究をしています(信原幸弘・渡辺正峰『意識はどこからやってくるのか』(ハヤカワ新書)参照)。
 
 本書の対話の中でまず興味を引くのが、渡辺が瞑想をして「無」になる時間があったとしても、そこには何かが残っている気がするとして、聴覚や視覚といったアプリが閉じられている状況でもOSのようなものが走っているのではないか? という疑問を口にするところです。
 
 また、後半での「死は怖くない」と考える人にどうアプローチすべきか考えている部分も面白いですね。
 著者の感覚だと、自分の意識がなくなることを怖がっている人は10%くらいだといいます。渡辺はこうした状況は宗教などによって死への恐怖が抑え込まれているからだと考えており、こうした人が変わってくればマインド・アップロードへの研究資金も集まるではないかと考えています。
 そして、マインド・アップロードができるようになれば、人びとは意識の断絶ということにもっと恐怖心を抱くようになるのではないかと想像しています。
 渡辺によれば、マインド・アップロードは「不老不死」というよりは「避死(死を避けること)」であり、著者もこの技術に大きな期待を寄せています。

 本書の中で一番面白く読んだのは次の森岡正博との対話です。
 森岡も著者も死への恐怖を抱きながら、信仰を持てないという点で共通しており、同じ思想系でも橋爪大三郎との対話よりも噛み合っている感があります。

 森岡は自分が小学校高学年のときに感じた死の恐怖は、「一つは私が死んで私が無になる恐怖と、もう一つは私のいない世界が続いていくっていうことの恐怖」(182p)だと言います。
 そのうえで眠っているときはこれと同じではないかと言います。眠っているときは自分がいないにもかかわらず世界は続いているわけです。
 もちろん、次の朝に起きる睡眠とは違って、死は目覚めないわけですが、眠りについたあとに絶対に目覚めるという保証はありません。
 森岡はここから普段の生活にも「信じる」という要素が入っており、「信仰の世界」と「信仰のない世界」の二分法は間違っているではないかと述べています。

 また、「私がいない世界」という点から考えると、私が生まれる前の世界も「私がいない世界」です。ただし、これを怖いと感じる人が少ないでしょう。
 そこから、森岡は死の恐怖は「有→無」への移行の恐怖ではないかと考えます。有の世界から無の世界を想像するからこそ怖いわけです。

 最後の方では、人生は死へと一歩一歩進んでいくようなものであり生きること自体がネガティブなことだと言える一方で、死にゆくなかにもポジティブな面があるのではないかと述べています。
 同時に「死の恐怖」よりも「生きることは無意味だ」という言明のほうが支持を得られやすい問題にも触れ、その流れの中で体験した感覚は無になっていくけれども記憶のような形で残っていくのではないかという話もしています。
 対話なのできちんと整理されているわけではありませんが、本章ではこのようにいくつかの面白い切り口が提示されています。

 最後はホラー小説などで有名な貴志祐介との対話です。貴志には『天使の囀り』というタナトフォビアの登場人物が登場する小説もありますが、小説家らしく人間の心理に興味を持っている感じがうかがえますね。

 貴志は自分もタナトフォビアの傾向があったとともに自分の親が死んでしまうことが恐怖だったと述べています。そして、それは親子関係があまりよくない子ども特徴ではないかと言っています。親に認めてもらう機会が失われてしまうことが怖かったのではないかという分析です。
 ただし、それもあって現在の貴志は死への恐怖をほぼ失っているといいます。親との関係にある程度折り合いがついたこともあって、自分の死も親の死も恐れる必要がなくなったというのです。

 また、ホラー小説を書くという恐怖に対する「曝露療法」をしていることも死の恐怖を感じなくなった理由かもしれないとしています。
 ただし、阪神・淡路大震災ではリアルな死の恐怖を感じてパニックになったと語っており、タナトフォビアとは別の死の恐怖は存在するようです。
 あと、貴志が自分の世界観に影響を与えたものとしてユングとドーキンスをあげていたのは、いかにもという感じがしました。

 森岡との対話などでも言われていますが、この「私の死」に対する恐怖というのは他人にはなかなか伝わらないもので、本書を読み終えたあとでもタナトフォビアについてはわかったようなわからないような気もします。
 ただ、特に「私の死」の恐怖を感じない人でも、例えば、中山祐次郎の語る死との向き合い方などは広く参考になると思いますし、渡辺正峰の神経科学、脳科学的な話、森岡正博の哲学的な話は死への恐怖を抜きにしても面白いのではないでしょうか?
 そしてもちろん、死が怖い人にとってもその苦しみを軽くしてくれるようなヒントが散りばめられている本だと思います。

富永京子『なぜ社会は変わるのか』(講談社現代新書) 8点

 去年、『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』という面白い本を出した著者が、自らの専門である社会運動論について語った本になります。
 著者は「社会運動」をかなり広く捉えている研究者であり、雑誌の「ビックリハウス」の投稿欄に着目したりするのもその現れだと思うのですが、本書は社会運動論の学説史になっており、一見すると「お勉強」のための本にも見えます。

 けれども、本書を読み進めていくと、社会運動を論じるための学説が取り逃がした部分が、次の学説を生み出し、さらにはそれが取り逃がした部分が次の学説を生むといった具合に社会運動の幅の広さやバリエーションが新しい学説を要請してきたという歴史がわかります。
 そしてその結果として、社会運動というものが私たちが思っている以上にさまざまなものを含んでおり、実は自分も知らず知らずのうちにやっていたかもしれないと思うようになるでしょう。
 また、古い学説が単純に否定されるわけではなく、現在でも使える枠組みであるということを書いてくれているのも良いところかと思います。
 最後の第10章のタイトルは「社会は社会運動であふれている」ですが、まさにそういった感想を抱くのではないかと思います。

 目次は以下の通り。
第一章 社会運動とはなにか

第二章 集合行動論 

第三章 フリーライダー問題から資源動員論へ 

第四章 政治過程論/動員構造論

第五章 政治的機会構造論 

第六章 フレーム分析 

第七章 新しい社会運動論 

第八章 社会運動と文化論 

第九章 2000年代の社会運動論 

第十章 社会は社会運動であふれている

 社会運動とは何なのでしょうか? マリオ・ディアーニの定義は以下のようなものです。
 ① 明確に特定された敵との対立関係にある
 ② 緊密で非公式なネットワークに紐づけられている
 ③ 集合的なアイデンティティを共有している(24p)

 「「敵」は政府?」、「集合的なアイデンティティとは?」など、いくつかの疑問が浮かぶと同時に、この定義にあてはまらない運動も思い浮かぶかもしれません。例えば、エコロジー運動などは必ずしも明確な敵を想定していないケースもあるでしょうし、ネット上のハッシュタグ・デモなどでは、緊密なネットワークや集合的なアイデンティティの要素は薄いかもしれまえん。
 他にもいろいろな定義がありますが、そうしたものと共通するポイントは右/左、保守/革新といった政治的立場を限定しないことです。

 ただし、やはり曖昧な部分もあり、例えば経団連が選択的夫婦別姓の導入を求めたことは社会運動と言えるのか? と問われれば難しい問題で、利益集団的な部分と社会運動的な部分が混じっていると言えるかもしれません。
 このようにさまざまな活動に社会運動的な部分が混じっているというケースは数多くあります。

 では、こうした社会運動は理論的にどう捉えられてきたのでしょうか?
 まず、1960年代に登場したのが集合行動論です。この理論において社会運動は社会が不安定になったときに現れるパニックや暴動などの集合行動として捉えられます。
 こうした集合行動が起こる要因として、既存の共同体が弱体化して大衆が放り出されたとする考えるのが大衆社会論であり、また、高学歴なのにそれに見合った地位や仕事が与えられないという「地位の非一貫性」といったものがあります。
 集合行動論ではシステムのひずみが社会運動をもたらすと考えられており、また、人びとのフラストレーションにうまく対処することで社会運動は減ると考えられます。
 
 これはあまりに単純すぎる見方のような気もしますが、フィクションなどで社会運動をする人がヒステリックに描かれがちなことを考えると、この集合行動論は一般的な人の見方に近いのかもしれません。
 また、近年では「怒り」をキーワードにした運動などもありますし、「炎上」もこういった集合行動として捉えられるのかもしれません。
 そういった意味では狭すぎる理論かもしれませんが、死んではいない理論と言えるかもしれません。

 次に紹介されるのがマンサー・オルソンの「フリーライダー問題」をきっかけにして生まれてきた「資源動員論」です。
 フリーライダー問題とは、自分が参加しないで運動の成果が手に入るならばそれに越したことはないので「タダ乗り」の誘因があるというものです。例えば、労働組合ががんばって非組合員の賃上げも実現してくれるならば、組合に入らないほうが得でしょう。

 こう考えると、社会運動も誰かがやってくれたほうがラクだということになります。実際、ある問題を解決したいと思っていても、そのために立ち上がる人は少ないわけです。
 そこで研究者たちは、社会運動を可能にする組織や資源に注目することになりました。同時に、孤立やストレスが社会運動を生むとする集合行動論を批判していくことになります。
 資源動員論では運動を支える「外部からの支援」などに注目しています。外部からの支援は運動を継続させる一方、支援者に気に入られるように運動が変質してしまう可能性も持ちます。
 また、資源動員論における「資源」は必ずしもお金や人員だけではなく、個人の持つ知識だったり時間だったりさまざまなものが考えられます。

 ただし、資源動員論には心理的な側面を軽視しすぎている、社会運動と利益集団の行動の差が見えにくくなってしまうといった批判もありました。
 そこで出てきたのが、政治過程論や動員構造論です。

 資源動員論で社会運動を見ていくと、どうしても持つ者と持たざる者の差が出てしまいます。弱い立場のものは資源を持たないために運動を成功させるのが難しいのです。
 それに対して、マルクス主義の影響を受けながら「本当にそうなのか?」と問い直したのが政治過程論です。労働者が団結すれば経営者に言うこときかせられますし、そもそも「弱者」というのはそう思い込まされているだけかもしれません。
 政治過程論によれば、社会運動を発生に影響を与える「政治的機会」があり、しかもこの機会とは客観的なものと言うよりは主観的なものです。
 人びとが「社会を変えられる」という認識を持つ(認知的解放」ことが、社会運動の生起や成功に大きな影響を持つのです。

 動員構造論では、そういった機会をいかすための組織やネットワークに注目します。
 例えば、公民権運動にはそれに先行する「教会」や「大学」といった動員構造があったことが重要だったとマックアダムは指摘しています。近年ではファンダムなども動員構造として注目できるかもしれません。
 
 社会運動が成功するには、政治家などが要求に応えることが必要です。この要求を受け入れる側に注目したのが政治的機会構造論になります。
 要求が受け入れられるきっかけの1つは政治的状況が不安定になることです。「不安定」という言葉はネガティブに捉えられますが社会運動によってはチャンスです。
 エリートは今までの支持基盤が揺らぐ中で、新しい支持基盤を築くためにマイノリティなどの要求に応えるかもしれないからです。

 またどのようなルートならばうまくいきそうかということもポイントで、例えば、同性婚や同性愛者のパートナーシップについては、日本の国政では保守政党の自民党が力を持っているために難しいですが、地方自治レベルのパートナーシップは各地で実現しています。
 そのため、地方分権的な国家ほど、社会運動が成功する可能性は高いと言えるかもしれません。

 このように社会運動のポイントとして認知と構造の2つがあることが意識されるようになってきたのですが、この2つを統合的に考えようというのが「フレーム分析」です。
 社会運動を行う人は自分たちの運動が目指しているものや意味や周囲に伝える必要があるのですが、その切り取り方をフレーミングといいます。
 例えば、「カスタマー・ハラスメント(カスハラ)」という言葉はUAゼンセン同盟が広めた言葉ですが、2016年に悪質なクレームについて組合員にアンケートを取ったところ予想の倍以上の回答が寄せられたそうです。
 今まで困っていた問題が「カスハラ」という言葉を与えられたことで、多くの人が共通して抱えている問題だということがわかり、世論へのアピール力もついたのです。

 バラバラの問題意識を統一する「マスター・フレーム」という概念もあります。例えば、「反グローバリズム」は、先進国と途上国の格差、環境問題、児童労働など、さまざまな問題を包摂することができます。
 一方、2011年以降の脱原発運動において、運動側が脱原発以外のメッセージを掲げることを控えてと呼びかけたように、フレームが拡大するのを嫌うケースもあります。
 また、運動にはさまざまな「レパートリー」があります。デモでも、プラカードを掲げるのか、音楽を流すのか、歌を歌うのかなど、さまざまなやり方があり、これによっても運動のスタイルが決まってきます。

 今まで紹介してきた理論は主にアメリカで発展してきたものですが、「新しい社会運動論」はヨーロッパで生まれた理論です。
 分析の対象として組織だけではなく個人にも目を向け、自分自身や文化、人びとの意識を変える運動も社会運動とみなしました。フェミニズムが代表的ですが、私的な領域と思われていた部分も運動の対象として考えるのです。
 
 こうした考えはハーバーマスの「生活世界の植民地化」にも通じます。ハーバーマスは国家や企業による合理化・効率化によってそれまでの生活や文化が壊されてしまうことを生活世界の植民地化と呼びました。本書では『美味しんぼ』のサクンタラさんのタイ米のエピソードを使って紹介しています(著者は『美味しんぼ』マニアでもある)。
 『美味しんぼ』のタイ米のエピソードでは、電気炊飯器の普及によってタイ米の伝統的な炊き方が失われつつあることが指摘されていましたが、このように考えれば便利な電気炊飯器をあえて使わないことも社会運動足り得るのです。

 新しい社会運動の理論家の1人であるアルベルト・メルッチは「集合的アイデンティティ」を重視しましたが、これは人びとが自分たちの利害や関心、悩みや課題を理解して共有していくことが社会運動に必要だと考えたからです。
 また、メルッチはハーバーマスの生活世界の植民地化について、社会変動をマイナスに捉えすぎてしまうとの批判も行っています。
 この「新しい社会運動」に対しては、「新しい」ことを強調することが今までの運動との連続性を見にくくしてしまうとの批判もあります。

 新しい社会運動論のインパクトを受けて、アメリカでも文化を重視する動きが生まれてきます。
 1つは資源動員論に認知的要素や文化的要素を取り入れるもので、人びとは本当にフリーライダー問題が想定するように損得ばかりを考える合理的な存在なのか? 組織やネットワークの前に存在するコミュニケーションが大事ではないのか? といった問い直しを行いました。
 また、運動における歌やポスターといった文化的要素にも注目しています。

 さらに1990年代末になると、ジェイムズ・ジャスパーとジェフ・グッドウィンの二人(二人合わせて「ジャスウィン」という)がより根本的な批判を行いました。
 ジャスウィンは、政治過程論や政治的機械構造論、動員構造論があまりに政治に偏重しており、それが社会運動の幅を狭くしていることを批判しました。また、動員構造論のいう組織やネットワークを過度に重視することも問題だと考えました。
 ジャスウィンは運動における人びとの主観や心理、感情といったものを重視し、こうしたことを読み解くために文化的要素に着目しました。

 今までの社会運動の理論では、どうしても運動が政治的に成功するか/失敗するかということが重視されてきましたが、文化という面にも目を向ければ、政治的にはうまくいかなくても、運動の一要素が文化として定着するといったことも考えられます。
 例えば、DIYは釈迦運動として捉えた場合に成功したかどうかはわかりませんが、文化としては確実に定着し、一定の影響力を持っていると言えます。

 00年代になると、ダグ・マックアダム、チャールズ・ティリー、シドニー・タローの3人(頭文字をとってMTTと言う)が、「Dynamics of Contention」と呼ばれる理論を提唱しました。
 彼らは今までの研究が個別の運動の、特に発生に偏って分析してきたことを批判し、より広い範囲で運動を捉えることを求めました。
 彼らは機会だけでなく、ときに運動が「脅威」となる側面にも注意をはらい、そうした機会や脅威はエリートではなく広く人びとに「帰属」するものだと考えました。
 MMTは社会運動を、より広い「対立の政治」として捉えようとしましたが、これに対しては社会運動を幅広く捉えつつも対国家の運動に限定する側面もあり、さまざまな批判が寄せられています。

 さらに近年では運動に参加する運動家についての研究も行われています。意外と自らを「アクティビスト」だと考えている人間は少なく、「自分は沢山活動しているけど、アクティビストではない」(229p)という人が多いそうです。こうしたある種の謙虚さが活動に駆り立てる原動力になっている可能性もあるそうです(日本だと「アクティビスト」のイメージの過激さを嫌う人もいそうですが)。

 このように本書は社会運動論の歴史を追いながら、社会運動の幅広さや遍在を教えてくれる内容となっています。
 ここではあまり紹介できませんでしたが、各理論の説明として近年のさまざまな日本の社会運動が紹介されていてわかりやすいですし、同時にそれらの社会運動に違和感を感じた人に対してもその背景を説明するような内容になっています。
 その意味で、本書は社会運動の理論と実践の双方を説明してくれる充実した入門書になっていると言えるでしょう。


友松夕香『グローバル格差を生きる人びと』(岩波新書) 7点

 副題は「「国際協力」のディストピア」。副題からは国際援助批判の本のように見えますし、実際にそういうところもあります。「緑の革命」批判など、昔からある批判を反復しているように思える部分もあります。
 ただし、本書には現在の西アフリカの若い世代の様子を活写しているという類書にはない面白い部分があります。特に先進国の人びとを相手としたロマンス詐欺に勤しむガーナの若者の様子は、まさに「グローバル」と「格差」の双方を強烈に感じさせるエピソードとなっています。
 他にも近年の開発のお題目ともなっている「女性のエンパワーメント」が、かえって現地の女性に過重な負担を押し付けているのではないかという指摘も興味深いです。
 著者はJICAの協力隊員から研究者となり、アフリカとの行き来を続けている人で、現地を知る人ならではの面白さがあります。

 目次は以下の通り。
はじめに
序 章 グローバル格差の感情
第1章 請い、与えられる者の日常
第2章 農村の国際詐欺師たち
第3章 ゴリアテに立ち向かうダビデ
第4章 陰謀論に共感する
第5章 「俺たちは腹が減っている」
第6章 自分たちの農法を忘れた人びと
第7章 過重労働をこなす女性たち
終 章 国際協力の再構築

 著者はJICAの協力隊員として2003年にブルキナファソへ赴任し、その後は研究者としてアフリカに足を運んでいます。本書でとり上げられるのは、ガーナやコートジボワールといった西アフリカの国が中心で、前半はガーナの話になります。

 ガーナはアフリカの中でも特に貧しいというわけでもありませんし、内戦が起こっているわけでもありません。
 しかし、一昔前と違う点は多くの人々がスマートフォンを持つようになったことです。アメリカやヨーロッパなどの「白人の国」の情報がリアルタイムで流れてくるようになったことで、人びとはさまざまな不満を抱くようになったのです。

 それは豊かな暮らしだけではなく、例えば、「アラブの春」後に起こったヨーロッパを目指す難民・移民へのひどい取り扱いだったり、アメリカのBLM運動といったものもあります。
 こうした中で、人びとは自分たちが「白人」によってひどい扱いを受けているという思いを強く持つようになっているといいます。


 ガーナ北部はサバンナ地域に属し、海からも離れているため、以前は多くの若者がより経済的な条件のいい南部に出稼ぎをしていました。
 しかし、ガーナ南部の農家の収入源だったカカオの価格の低迷や(本書の調査は2023年になされている。現在はカカオ価格は高騰)、インフレーションなどによって出稼ぎの仕事も以前のようには見つからないといいます。
 
 また、一定の学歴をもった若者に見合った仕事がないのも大きな特徴です。学歴を生かせる仕事というと公務員くらいしかなく、非常に狭き門になっています。
 公務員になるためには一定のお金を積む必要があり、その金額は年々上がっているといいます。さらに有力者のツテも重要で、そのためには二大政党のどちらを応援するかといったことも考えなければなりません。
 こうした中で、多くの若者は日雇いの仕事や物売りなどに従事しており、物売りの競争も激しいためになかなか生活が安定しない状況です。

 そこで若者たちが手を出しているのが国際ロマンス詐欺です。これを紹介した第2章は本書の読みどころと言えるでしょう。
 ネットでの詐欺は産業化しており、東南アジアでは国際詐欺の拠点が摘発されたりしてますが、本書で紹介されているのはもっとローカルなネットワークです。

 本書では、ガーナ北部の農村で「ビッグマン」と呼ばれる若い詐欺師の自分の子どもの命名式の様子が紹介されています。
 DJが音楽を流す中で詐欺師の妻の友人の女性がダンスを披露し、その後に詐欺師が登場すると札束をといて紙幣をばらまきます。それを詐欺師の親族の女性や子どもが拾います。
 式の途中には詐欺師仲間のビッグマンたちがピカピカの車で登場し、同じように札束をばらまきます。ちなみに紙幣は誰が拾ってもいいわけではなく、拾おうとする子どもを制止する監視役もいるそうです。
 このようにガーナ北部の農村では詐欺師が地域のスターのようになっているのです。

 もともと詐欺がさかんだったのはナイジェリアだったといいますが、いまやオンライン詐欺は西アフリカ一帯に広がっています。ガーナ北部でも2010年代の後半から農村で大金を稼ぐ若者が現れ始め、もはや「通過儀礼」のようになっているといいます。
 国際ロマンス詐欺を成功させるには、知識や技術が必要になります。フェイスブックやワッツアップの偽アカウントを複数管理し、自分がなりすます白人の写真を手に入れます。ネットでのやり取りを考えると自撮り風の写真や動画も必要で、これらは友人などのネットワークから手に入れます。
 また、台本も用意されており、さらにはなりすましの動画をうまく流す技術、通話を求められたときにそれっぽく話す人、贈られてくるギフトカードを換金する仕組みなど、様々なものが必要ですが、こういったものも友人のネットワークの中にあったり、ビッグマンが持っていたりします。

 詐欺の相手はアメリカ人が中心です。日本人や中国人は「賢い」からうまくいかないという声もありますが、これは言語の壁だと思われます。以前はインド人に対しても仕掛けていましたが、呪術による仕返しで詐欺師が死んだという噂が広がったこともあり、みなが避けるようになったといいます。
 アメリカ人の中でもターゲットにするのは中高年で訳アリだったり、容姿に自身がなさそうな男性で、こういった男性に白人女性のプロフィールを使ってアプローチします。

 先程見たようにこうした国際ロマンス詐欺で成功したビッグマンたちは若者たちのロールモデルになっています。
 著者の知るガーナ北部の高校では高3の生徒約900人のうち200人近くが頻繁に欠席しているといいます。以前は経済的な問題での欠席が中心でしたが、最近は国際ロマンス詐欺をやりために学校を欠席する生徒が多いそうです。
 アメリカとの時差もあり、ガーナの高校生は夜遅くまでチャットなどにいそしみます。教員はもちろん注意しますが、教員の給料よりもビッグマンたちが稼ぐ額は遥かに大きく、学校を出ても安定して稼げる仕事につくことが難しい状況の中で若者たちは詐欺行為に引き寄せられています。

 こういった詐欺行為に若者が走ってしまう理由として、貧しさや職のなさに加えて「白人」を悪いものだと見る考えが広がっていることもあります。ちなみに、中国人などのアジア系も「白人」と見なさることがあるそうです。

 もちろん、植民地化の歴史などを考えれば現地の人が「白人」を悪いものだとみなすのにも十分な理由があるわけですが、アフリカの政治家がこうした「反白人感情」を利用することでも増幅されています。
 また、さまざまな陰謀論も流れており、その中にはナイジェリアで反西洋主義を掲げ、女子学生を誘拐したボコ・ハラムが実は裏でフランスの支援を受けているといったものもあります。
 アフリカではなかなか政情が安定せずに内戦などが続いているケースが多いのですが、その裏には「白人」がいるというのです。

 「アラブの春」以後、サヘル地域に武装組織が流れ込んで地域が不安定化し、フランスが現地の政府に対して軍事支援を行いましたが、ここでも実はフランスが武装組織を支援しているという噂が流れ、こうしたことがマリでのクーデタにも影響しています。
 一方、「白人」の国でありながら人気があるのがロシアで、フランスへの反発が親ロシア的なムードを生んでいます。
 ロシアはワグネルを派遣するだけではなく、ウクライナ戦争後に高騰した食糧をアフリカ諸国に供給し、現地の人々の半西側の感情を利用して影響力を強めています。

 アフリカでは現地のメディアの力は弱く、欧米のメディアがニュースを提供してきましたが、そこでは飢餓や紛争などの、欧米からみた「アフリカ」のイメージに合致する映像や写真が流されます。
 しかし、現地で暮らしている人びとからするとこうした一面的なイメージは苛立ちがもたらすこともあるといいます。

 そこで近年、勢力を伸ばしているのがソーシャルメディア上に流れるニュースです。こうしたニュースは既存勢力(西側諸国)の影響を受けておらず、かえって信頼できると考える人もいます。
 SNS上のインフルエンサーが流す情報には親ロシア的なものもあったりするのですが、受け手は既存のメディアもインフルエンサーも同じように真実と嘘が混じっていると考えており、既存のメディアでは流れないニュースを求めています。

 これは陰謀論の温床にもなっています。西アフリカの旧フランス植民地の国々では2010年代からCFA(セーファー)フランに対する批判が強ましたました。
 CFAフランには2種類ありますが、いずれも通貨価値を安定させるためにユーロと紐づけられており、CFAフランの使用国は外貨準備の50%をフランスの財務省の運用口座に預けることになっています。
 西アフリカではナイジェリアを巻き込んで「エコ」という新しい共通通貨を発行する動きがありますが、こうした中でCFAフランについて、フランスが不当に搾取しているとの批判が持ち上がりました。

 この問題を指摘した知識人がAUの職から追われると、西側諸国がアフリカの政治家たちを動かし、場合によっては都合の悪い政権をクーデタで転覆させているといった陰謀論的な発言をネット上でするようになり、これが人気を得ています。
 もちろん、植民地時代からの宗主国側に有利な取り決めというのはいろいろとあるのでしょうが、現在ではそこへの反発にロシアや中国がつけ込むような構図になっているといいます。

 第5章と第6章は、この手の本で多い「緑の革命」批判です。
 緑の革命によって収穫量は増えたが、同時に化学肥料を買わなくてはならなくなり、また、従来の農法が失われてしまったことによって農民の生活はかえって脆弱になったというのが基本的なストーリーです。

 このストーリーは確かに一面の事実を表していますが、アフリカ諸国がウクライナ戦争後の国際的な穀物価格の上昇によって厳しい状況に置かれているということはアフリカの食糧生産が足りていない証拠であり、また、人口も増えているということは従来の農法だけでは難しいというのも事実でしょう。
 平野克己『人口革命 アフリカ化する人類』によれば、エチオピアでは政府が化学肥料の供給に責任を持つ形で収穫量を上げているとのことで、こういった方法しかないのではないかと思います。

 逆に、第7章はこれまでほとんどとり上げられてこなった女性のエンパワーメントに対する批判にもなっていて興味深いです。
 女性が家事・育児だけではなく、農作業や賃労働をする、あるいは起業をするといったことは、近年の国際協力においては無条件に進めるべきだとされてきましたが、「本当にそうなのか?」というのです。

 著者が調査してきたガーナ北部の女性は1日中働いています。水汲みから始まり、食事の用意、そのための燃料の調達、粉挽きなど休む暇がありません。また、若い頃は妊娠出産を繰り返しており、それも大きな負担です。
 一方、農作業は基本的に男の仕事とされてきました。しかし、トウモロコシの収穫が伸びなくなったことなどもあって、1980年代から女性も農作業をするようになり、女性も自分の畑をもつようになりました。

 ガーナ北部では必要に迫られて女性が農作業に加わるようになった形ですが、国際協力の分野では「女性のエンパワーメント」と結びつき、女性の農業への参加を促進する政策が進められました。
 農業に取り組む女性はさまざまな援助が受けられるようになりましたが、同時に女性がしなければならない仕事はますます増えました。また、こうした手法は男性の無力感を高めているともいいます。

 終章には本書のまとめと今後の国際協力のあるべき姿が書かれていますが、後者についてはまだまだ煮詰めていく必要があるでしょう。
 ただし、本書は今までの開発協力に関する本が見落としていた部分を拾ってくれています。高校レベルの教育まで受けながら国際ロマンス詐欺に流れてしまう若者、SNSとともに広がる陰謀論、女性への期待がもたらす過重な負担など、日本にいるとなかなか見えてこない問題だと思います。
「答え」が示されているわけではありませんが、本書は開発協力を「問い直す」1冊となっています。
 

筒井淳也『人はなぜ結婚するのか』(中公新書) 7点

 「人はなぜ結婚するのか?」、その答えとしては「好きだから」とか「一緒にいたいから」といったものがあるかもしれませんが、かつては政略結婚のような本人の感情を抜きにしたような結婚もありましたし、通い婚のように必ずしも同居しない結婚もあります。
 また、昔から結婚と生殖は強く結びついてきましたが、基本的には子どもは生まれないと考えられる同性婚も広がりつつあります。

 こうした状況の中で、今一度「結婚とは何か?」を問い直し、近年は何が変わろうとしているのかということを明らかにしようとした本になります。
 著者は実証的な研究を行ってきた社会学者ですが、本書にはデータ分析の部分はほとんどなく、理論的に結婚を読み解こうとしています。
 結婚について今一度根本に立ち返って考えたいという人向けの本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに――議論の見通しをよくするために
1章 結婚のない社会?
2章 結婚はどう変わってきたのか
3章 「結婚の法」からみえる結婚の遷り変わり
4章 同性婚、パートナーシップ、事実婚
5章 結婚と親子関係
6章 乗りこえられるべき課題としての結婚
7章 残された論点

 歴史的に見ると、結婚の意味の中でも重要だったものは「子に父を割り当てる」ことだといいます。
 これだけでは「ちょっとよくわからない」という人も多いでしょう。「母は?」となるかもしれません。
 ただし、母子関係は代理出産などでもなければ疑問が生じにくい関係で、母親が自分の産んだ子を見て「私の子だろうか?」と思い悩むことはまずありません。
 一方、父に関しては生まれた子どもが自分の子であるかどうかを確かめるすべは、DNA検査が普及するまではありませんでした。

 こうして父系社会では、女性を自らの近くに住まわせて目の届く範囲で共同生活を送るインセンティブが生まれます。
 同時に女性からすると、人間の場合は出産直後の育児では他者のサポートが必要になります。男性が身勝手に親子関係から逃げ出さないようにする必要があり、これには近代の民法が規定する「嫡出推定」(結婚している間に生まれたこの父は結婚相手だと推定する)のような仕組みが有効です。
 こうして結婚やそれに類する制度が要請されるわけです。
 
 しかし、母系社会では「子に父を割り当てる」ことがそれほど重要ではないこともあります。
 母系社会でも男性がトップであることが多いのですが、父系社会との違いは女性を迎え入れて子どもを産んでもらうのではなく、自分の姉妹に代わりに子どもを産んでもらうことになります。
 父系社会ではトップの子が集団を引き継ぎますが、母系社会ではトップの甥が集団を引き継ぐことになります。この場合、父の存在はそれほど重要ではなく、一緒に生活するとも限りません。
 父系社会では子と血がつながっているか?ということを気にする必要がありますが、母系社会では自分と姉妹の血のつながりは基本的に自明なため、子の父親についてあれこれ悩む必要はないのです。

 こういった集団には例えばインドのナヤール・カーストがあります。ナヤールでは自集団よりも高貴だと考えられているカーストの男性を受け入れて父になってもらい、子どもは自集団で育てるということをしていました(生物学上の父は子育てにまったくかかわらない)。
 ただし、こういったやり方では人は生まれた拠点から移動せず外の集団の男性を受け入れるだけであり、狭い地域の安定した社会でしか成り立たないといいます。実際にナヤールも現在は母系社会を維持できていません。

 「結婚は「子に父を割り当てる」ことだ」などと言うと、そこにはロマンティックのかけらもないと感じてしまいますが、実際、中世のヨーロッパでは騎士がより上位の既婚女性に対して強い感情を抱く宮廷恋愛では結婚は想定されていません。
 情熱的な恋愛はむしろ婚外において生じるものでもあったのです(古代ギリシアの同性愛とかもそうかもしれない)。

 一方、結婚は今の企業のような家族的組織の経営と結びついていました。
 古代ローマでは家長はファミリアの経営者として家族的組織に誰を組み入れるかを決めていましたが、そのための手段の1つが結婚でした。
 中世のヨーロッパでは奴隷売買の衰退や生産単位の縮小によって家族的組織の規模は縮小しましたが、それでも結婚は家族的組織の経営の手段として使われました。

 このように前近代の社会では、生殖は生産・経営と結びついており、結婚も生殖と強く結びついていましたが、近代社会になると家族的組織の「経営」といったものは重要視されなくなっていきます。
 ただし、近代化が性別分業を伴って進展したこともあって、結婚という行為が下火になったりすることはありませんでした。経営のための結婚は減少しても、生殖と結婚は強く結びついており、生殖を支えるには男性が稼ぎ、女性が育児をするという性別分業のもとでの結婚が必要だと考えられたからです。

 結婚の特徴として、国家がその制度を保障し、何らかの特権を与えていることがあげられます。
 現在は結婚は当人同士の自由な意思に基づいて行われるとされていますが、例えば、結婚できるのは一定以上の年齢とする、複婚を許さないなどの一定の制限を国家が行っています。
 近年では事実婚も広まっており、必ずしも国家の定めた法律婚をしなければならないわけではないですし、ヨーロッパでは法律婚を同棲の間に中間的なカップル制度を設けていたりもするのですが、それでも法律婚はなくなっていませんし、国家が一定の枠組みをはめています。

 おおよそ国家は結婚について、その入口(結婚の要件など)、期間中(相互の協力義務など)、出口(離婚要件、死別の際の相続など)を決めています。
 入口の要件としては年齢をはじめいろいろありますが、著者が注目するのは「愛し合う二人」といった性愛に関する要件がついていないことです。異性であれば(同性婚が認められている国であれば同性でも)、共同生活を送るために性愛抜きで結婚することも可能です。

 結婚期間中については相互の協力や扶助の義務を課していることが多いです。法律は結婚においてある程度の共同生活を想定しています。
 そのため共同生活の実態があれば事実婚であっても、一定の保護が認められるという面もあります。
 また、結婚期間中の嫡出推定も重要なポイントですが、同性婚が認められれば、このあたりを含めて制度の設計をしていく必要があります。
 
 出口は離婚と死別ですが、やはり重要なのは離婚です。
 日本では離婚の理由として、配偶者の不貞、配偶者からの悪意ある遺棄、配偶者の生死不明の3つに加えて「その他婚姻を継続し難い重大な事由」をあげています。この「重大な事由」とは、「性的不調和」、「同性愛」、「性的不能」などであり、こうした事由に基づく離婚を有責離婚といいます。

 一方、結婚生活が実質的に破綻しているなど、上にあげたような具体的な事由がなくても行われるのは無責離婚です。
 無責離婚は、共同生活の有無と結びついていることが多いです。かつては有責離婚が中心だったことろは、信頼に基づいた共同生活の実態がまったく存在しないのに結婚が維持されてしまうケースがありましたが、近年ではこうしたことは少なくなってきています。

 本書は近年の結婚の変化を「内部化」という言葉で表現しています。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、結婚の開始・継続・終了において当事者間で調整できない外部的要素の影響が小さくなっているということです。
 例えば、かつては結婚には両家の意向や釣り合いが強く求められましたが、そういったものは減っていますし、離婚についても世間体やキリスト教的倫理による抑圧は以前よりも弱くなっています。
 また、有責離婚の事由を見てもわかるように、かつての結婚は生殖と深く結びついていましたが、その結びつきもかつてのような強いものではなくなっています。結婚が生殖から切り離されているからこそ、同性婚が認められつつあるということでもあるのです。

 結婚の重点が共同性に置かれるようになると、法律婚と事実婚の距離は縮まっていきます。
 こうした中でヨーロッパなどでは結婚よりも拘束力の弱いパートナーシップ(シビルユニオン)の制度が導入されています。フランスのPACSなどがその代表例です。
 かつては結婚という外箱の中に共同関係が入れられていましたが、現在は「共同関係のなかで結婚(法律婚)が選択肢として内部化されている」(97−98p)といいます。
 二者の間の共同関係のなかで、人々は単なる同棲、シビルユニオン、法律婚といったスタイルを選択していくのです。
 
 事実婚であっても、共同生活の実態があれば離別の際に財産分与などがなされるようになってきましたが、死別の場合は事情が異なっています。法律婚の場合と違って、事実婚では基本的に相続権が発生しません。
 相続制度については、結婚や家族生活の内部化に組み込まれずに残っていると言えます。

 シビルユニオン制度は基本的に同性愛者にも結婚のような法的保護を与えるためにつくられますた。シビルユニオン制度が最初に導入されたデンマークでは(1989年導入、同性婚が法制化された2012年にシビルユニオン制度を廃止しています。
 一方、異性カップルの利用が多いのがフランスのPACS制度で、この背景には離婚の手続きが難しく事実婚と法律婚の距離があったフランスならではの事情があります。

 結婚はますます当事者間の自由意志と自己責任で行われるようになっていますが、それで片付けられないのが親子関係です。
 同性婚が認められるようになり、旧来のような父、母、子という家族のあり方は揺らいでいますが、そうは言っても父、母、子というステレオタイプの家族像は健在であり、そうではない境遇の子どもには一定の心的負担が発生することになります。

 PACSと同性婚の導入に尽力したフランスの法社会学者イレーヌ・テリーは、はじめのうちはLGBT運動の中から出てきた結婚の要求について理解できなかったといいます。法社会学的には、結婚の中枢は「父子関係の推定」であり、この推定が必要のない同性愛カップルが結婚することの意味がよく掴めなかったからです。
 ただし、近年ではDNA鑑定が可能になったことにより、この「父子関係の推定」というはたらきも小さくなってきたとは言えます。

 一方、生殖補助医療の進化によって親子関係はバリエーションが増え、より複雑になりました。
 ただし、親子関係の複数性をもたらすものは生殖補助医療に限りません。養子縁組もそうですし、離婚と再婚を介したブレンドファミリー(ステップファミリー)もそうです。
 こうした中で、子どもから見ても、どのような人を「親」と見るかは個別の事例によって違ってくるかもしれません。親の再婚相手を「親」だと感じる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。
 そのため、親子関係については一律に決めるのではなく、個別に配慮していくべきものとなりつつあります。

 例えば、ネットでも論争になっていた共同親権の導入についても、共同親権を認めることは離婚した二人に無条件に親権を認めるわけではなく、個別のケースに応じて判断することになります。
 共同親権の問題とは、このような個別調整のための仕組みを用意できるかどうかであり、司法制度が不十分であれば時期尚早ということになるかもしれません。
 共同親権に限らず、同性婚でも生殖補助医療でも、それらを導入するためにはそこで生じる問題を解決するための仕組みを整えることが必要になります。

 ただし、一方で企業にとってこのような個別的な配慮はコストにもなります。そのために家族手当の支給に法律婚を条件とするなど一律の対応をするかもしれません。
 また、個人としても多様な親子関係に配慮しながらコミュニケーションを進めるよりも、ある種のステレオタイプに乗っかったほうがラクな部分もあり、それが差別につながる可能性もあります。

 最後に本書では同類婚とオンラインマッチングサービスの問題、選択的夫婦別姓の問題、複婚の可能性などが「残された論点」として簡単にとり上げられています。

 このように本書は「結婚とは何か?」ということを原理的に考えた本になります。人によっては「残された論点」の部分や、近年の日本の結婚の変化についてデータを使って分析してほしいといった考えを抱く人もいるかもしれませんが、本書はあくまでも思弁的です。
 個人的にはもう少し実証的な部分が読みたかった気もしますが、本書はそういった実証的な部分を考える土台となる部分を提供する本だと言えるでしょう。

横山勲『過疎ビジネス』(集英社新書) 7点

 福島県国見町を舞台にした企業版ふるさと納税の闇を暴いた河北新報の調査報道をもとにした本。
 著者は河北新報の記者であり(名前は「つとむ」と読みます)、ちょっとしたタレコミをきっかけにして、小さな役場がコンサルやそれに連なる企業によって食い物にされている実態を暴いていくことになります。
 前半はスリリングで読ませますし、全体を通じてふるさと納税の問題点、そして人口減少の中で自治体の「創意工夫」に頼る国の政策の問題点が浮かび上がる内容になっています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 疑惑の救急車
第2章 集中報道の舞台裏
第3章 録音データの衝撃
第4章 創生しない地方
第5章 雑魚と呼ばれた議員たち
第6章 官民連携の落とし穴
第7章 自治の行方

 著者が国見町の町政に関心を抱くようになったきっかけは、「国見町の特別職三人が、自分たちだけの給料を上げる条例をこっそり通した」(17p)というタレコミでした。
 特別職とは町長、副町長、教育長のことで、さらに調べてみると昇給のレベルを決める等級が変更され、総務課長が7級となり、この給与も引き上げられていたことがわかりました。総務課長が7級に位置づけられるのは福島県の他の自治体と比べても異例だといいます。

 こうして国見町に興味を持った著者は、国見町のある事業のおかしさにも気づきます。
 その事業とは、企業版ふるさと納税で寄せられた4億3200万円を財源に高規格救急車を12台購入し、自分たちで使わずに他の自治体や消防組合にリースするというものでした。
 高規格救急車とは患者への応急措置を車内でできる救急車ですが、特に法的な基準があるわけではありません。
 国見町にとってどんなメリットがあるのかよくわからない事業ですが、国見町の引地町長は議会において国見町のネームバリューを上げるものだからと疑問の声を押し切っていました。

 著者が国見町の給与の問題について報じてからすぐに、救急車リース事業の委託先が地方創生コンサルの「ワンテーブル」に決まります。
 委託先の選定は公募型プロポーザルという事業者のプレゼンを審査・採点する仕組みが取られましたが、プロポーザルに参加したのはワンテーブル1社のみでした。
 ワンテーブルは防災備蓄ゼリーの提供なども行っており、創業社長の島田昌幸は河北新報の記事でもとり上げられてきた人物です。

 調べてみると宮城県の亘理町でも、企業版ふるさと納税を使って高規格救急車を購入していたことがわかり、ここでも受託企業がワンテーブルであることがわかりました。
 ワンテーブルは東日本大震災で被災した亘理町荒浜地区の活性化事業「ワタリ・トリプルC・プロジェクト」の実施主体でもあり、高規格救急車の事業もこの一環でした。
 ここから調べていくと、ワンテーブルが救急車の車両製造をDMM.comのグループ会社である「ベルリング」に委託していることが明らかになりました。
 さらに亘理町議会において町の担当者が「東京と石川の情報系の企業による寄付」と説明していたこともわかりました。DMMは石川県の企業です。

 企業版ふるさと納税では、寄付額の最大9割が本来納めるべき法人税や法人事業税、法人住民税の合計から差し引かれます。もし、DMMが寄付をしていたとするならば、寄付はグループ会社のベルリングの利益につながり、DMMに寄付額が戻ってくるような形になります。
 企業版ふるさと納税は匿名での寄付が可能であり、外から見ているだけではこのつながりはわからないのです。

 ワンテーブルと国見町のつながりは2019年からで、防災パートナーシップ協定を結び、国見町はワンテーブルに防災備蓄ゼリー2万個を発注しています。事業費は3850万円で、ワンテーブルからのふるさと納税945万円と国からの地方創生交付金2675万円、国見町の一般財源230万円を合わせて賄われていました。
 ワンテーブルのゼリーは地元の果物を味付けに使うなど工夫がされていましたが、国見町の監査委員会からは割高ではないか(ワンテーブルの通常商品の倍位以上)という疑問も出されていました。

 このように明らかにおかしさを感じる仕組みではありますが、国の制度設計では企業版ふるさと納税における寄付企業やその子会社による対象事業の受注に関しては禁止されてはいません。
 国の説明によれば、たとえ寄付企業が受注したとしても自治体は公正・公平な入札契約のプロセスを踏んでいるはずなので問題はないとのことなのです。
 つまり、本件を不正だと断じるためには公正・公平な入札契約のプロセスではなかったことを証明する必要が出てくるのです。

 あまり詳しく説明すると本書を読む面白さがなくなってしまうので、ここから先は大雑把に紹介するにとどめますが、本書から見えてくるのは、「税金を食い物にする民間企業」だけではなく、それを半ば黙認しつつも何かアリバイ的に政策を進めようとする「官」の側の状況です。

 著者はワンテーブルの社長の島田昌幸にインタビューを行いますが、彼の口から出てくるのはまずは経済産業省や総務省、各自治体のつながりです。
 そのうえで「(制度に)グレーな部分があるというのなら、国がやめましょうとしたほうがいいですよね。ルールの中でやっていることを言われても困りますよ」(50p)と、自分たちはあくまでも国が設定したルールの中でやっているんだということを主張します。
 ここからは官と民がお互いに制度の穴を利用しているような姿勢が垣間見えます。

 実際、著者が国見町の企画調整課長に話を聞きに行くと、ベルリング製の救急車を選ぶためとしか思われない細かい仕様書ができた理由についても答えられませんし、入札に関しても「私は公平公正と言える立場じゃないです」(60p)と逃げています。

 河北新報が4日連続で一連の疑惑を報じると、ワンテーブルは法的措置をちらつかせますが、同時にタレコミも相次ぎます。
 DMMとベルリングは北海道の余市町、赤井川村で救急車の「寄贈」を行っていましたし、ワンテーブルは新潟県の三条市で中国人富裕層150人ほど三条市に招くというインバウンド誘致事業を随意契約で受託したものの、事業が進まずに問題視されていました。
 また、同じように高規格救急車を導入した亘理町の「ワタリ・トリプルC・プロジェクト」においても、当初描いたような事業にはなっていないこともわかってきます。

 さまざまなタレコミがワンテーブルの主導する事業の胡散臭さを暴いていくわけですが、決定的だったのは島田昌幸を以前から知っているという人物が持ち込んだ彼の肉声を録音したものです。
 ここで島田は「僕たちはふるさと納税っていう制度を使いながら、黒を白に変えている」「超絶いいマネーロンダリング」「なぜか寄付するんだけど、あべこべにもうかっちゃう事業なんですよ」(98−99p)といった具合に放言しています。
 そして、さらに「君たちは民間に見捨てられて、誰も構ってくれない田舎の自治体なんだと、そういうふうに教育していくわけです」(101p)、「地方議会なんてそんなものですよ。雑魚だから」(103p)といった発言も飛び出しています。

 そのうえでワンテーブルはさらに国見町で町の小中学校と幼稚園、保育園を一体化する事業「くにみ学園(仮称)」の事業も進めようとしていたことがわかりました。
 その上に島田は次のように語っています。
  
 「(ワンテーブルは)国見町の役場の機能になっているんですよ。内部組織の事務局運営がワンテーブルなんですけど、我々こそ行政の政策課を運営している。」
 「無視されるちっちゃい自治体がいいんですよ。誰も気にしない自治体。誰も手をつけないやつ。でももうかるっていう。過疎債ってあるんですよ。いわゆる(補助率が)七割引きなんですよ。今回国見町は、都市地域から栄えある過疎地域に指定されたんですよ。ナイス! って俺ら言って。過疎債をばんばん発行できる。インフラ取れるから。ランニングでもうかるわけですよ」(103‐104p)

 過疎債では元利償還の7割が国が措置するので、あとの3割を寄付で賄えば自治体負担ゼロでインフラを作れるという仕組みです、そして、その運営にワンテーブルが入ることで儲けを得ようというわけです。
 さらに小さな自治体をバカにした発言が続きます。

 「ちっちゃい自治体って経営できるんですよ。華々しくやるとハレーション(強い悪影響)が大きいんで、ちょっとずつ侵食しているんですよ。(行政の)機能を外出しさせる。気付かないけど、侵食されたってね。財政力指数が0.5以下(の自治体)って、人もいない。ぶっちゃけバカです。」(106−107p)

 ひどい発言ではありますが、これが職員の少ない自治体の現実でもあります。「三位一体改革」の影響もあって地方公務員の削減が進みました。その後は微増しましたが、少子化対策、デジタル化対応、地方創生など、対応しなければならない仕事は増え続けており、アウトソーシングに頼らざるを得ないのです。
 こうした状況に食い込むワンテーブルのような企業を著者は「過疎ビジネス」と名付けています。

 この音声データは決定打になりました。今までの河北新報の報道に対して、「心外」などと述べていた国見町の引地町長もワンテーブルとの事業を中止せざるを得なくなります。
 島田は総務省の地域力創造アドバイザーの名簿からも外されました。

 ただし、本書は島田1人を悪役にして終わりではなく、そういったコンサルに漬け込まれる地方の状況も描いています。
 地方自治総合研究所が2017年に行っていた調査では集計した1342自治体のうち、77.3%が地方版総合戦略の策定を外部のコンサルタントに委託していたといいます。
 政府が地方版総合戦略の策定を進める市町村にあらかじめ1000万円の予算措置を講じて外部委託費として使えるようにしていたこともあって、コンサルへの委託はますます助長されました。
 国が「地方創生」の旗を振って金を配っても、結局はそれが東京のコンサルに流れていくという構図が見えてきます。

 また、地方創生の目的が人口減少への対応であり、東京一極集中の是正でしたが、これは国がグランドデザインを描かなければ解決しない問題であり、これを目標に自治体を競わせれば人口の奪い合いになります。
 本書には公共系コンサルの写真が発した「コンサル栄えて国滅びる」(149p)という言葉が紹介されていますが、国の予算措置がコンサルの養分にしかなっていない状況があるのです。

 本書では、「雑魚」と呼ばれた国見町の町議会議員の取り組みも紹介しています。
 高規格救急車のリース事業については当然のように町議会の議員から質問も出ているのですが、結局は町長に丸め込まれてしまっていました。
 一連の報道後、国見町では百条委員会が立ち上げられ、この問題を追求していくことになります(一方、町は第三者委員会を立ち上げますが、委員三人のうち二人が「町の不誠実な対応により調査の継続は困難」(167p)と辞職してしまう状況だった)。

 その後の取材で、ワンテーブルは東北だけではなく、むかわ町、厚真町、仁木町、余市町にも食い込んでいました(ワンテーブルの島田社長は北海道出身)。
 国見町の高規格救急車の事業ほど露骨なものではないものの、仕様書の素案や費用の見積もりなどにワンテーブルが関わっていたケースもあり、ワンテーブルがさまざまな自治体の地方創生事業から利益を引き出そうとしていたことがうかがえます。

 一方、国見町の役場の方も第三者委員会の状況に見られるように大きな問題を抱えており、百条委員会ではずさんな仕事ぶりが明らかになりますし、内部情報を流出させたとして課長級の人物に減給10分の1(6月)の懲戒処分を行ったりしています。
 結局、2024年11月の任期満了に伴う町長選挙で現職の引地町長が落選することで政治的責任が取られることとなりました。

 こうした企業版ふるさと納税を使った利益の追求はワンテーブルの専売特許というわけではなく、福岡県の吉富町でも同じようなスキームがみられました。
 吉富町でもワンテーブルと同じように、企業と関係のある人物が地域力創造アドバイザーや地域おこし協力隊として町に入ってきたといいます。
 どちらかというと「公」による「やりがい搾取」のように報じられることもあった地域おこし協力隊ですが、逆に「公」を搾取するための尖兵ともなり得るのです。

 このように本書は国見町でおきた事件を明らかにするだけでなく、地方創生やそういった業務をもはや担うことができななくなっている小さな自治体の問題点を浮き彫りにしてます。
 なんといっても事件を追求する前半部分が面白いですが、後半部分で触れられているいくつかの問題も今後の地方創生や自治体運営を考えていくうえで重要なものだと思います。
 個人的にふるさと納税の仕組みには反対なのですが、企業版ふるさと納税はもっと欠陥だらけの制度だということがよくわかりました。
 今後の地方創生のあり方について国も考え直す必要があると強く感じさせる1冊です。


過疎ビジネス (集英社新書)
横山勲
集英社
2025-07-17


越智萌『だれが戦争の後片付けをするのか』(ちくま新書) 7点

 2022年に始まったロシア・ウクライナ戦争は人々に大きな衝撃を与えました。大国によるあからさまな侵略行為に衝撃を受けるとともに、ブチャで明らかになった虐殺や原発への攻撃など、国際的なルールが無視されていることに衝撃を受けた人も多いことでしょう。
 同時に、戦争が継続中であるにもかかわらず、ICC(国際刑事裁判所]がプーチン大統領の逮捕状を取るなど、戦争犯罪を積極的に摘発しようとする動きが起こっていることに驚いた人もいると思います。
 戦場では第一次世界大戦や第二次世界大戦を思わせるような戦いが続いていますが、それを取り巻く国際社会には変化も見られるのです。

 本書は、国際刑事司法の専門家である著者がこうした戦争を取り巻く国際法や、実際にどのように戦争犯罪が捜査され裁かれるのかということを解説したものです。
 国際法についての本というと、どうしても抽象的な議論が続き難解に感じる事が多いかもしれませんが、本書はウクライナで置きている具体的な戦争犯罪と、それがどのように捜査され、裁かれているのかということから入り、そこから国際法や国際刑事司法の仕組みや問題点を考えさせるような構成になっています。
 ウクライナにおける戦争犯罪については、例えば、犯罪を犯したロシア兵の具体的な名前やプロフィールなどから紹介しており、引き込まれる構成になっています。
 戦場のおける犯罪を裁くことの重要性を難しさの双方を教えてくる本です。

 目次は以下の通り。
はじめに 
第1章 戦争犯罪捜査
第2章 戦争犯罪裁判
第3章 ICCによる逮捕状
第4章 兵士の帰還
第5章 被害者に対する賠償と和解
第6章 ユス・ポスト・ベルム(戦争後の法)
おわりに

 戦争中は相手兵士の殺害といった平時では犯罪となる行為がむしろ奨励される行為となりますが、それでも文民や民間施設などへの攻撃、違法な暴力行為などは戦争中であっても許されませんし、近年では子ども兵の利用なども犯罪行為だとされるようになってきました。
 1998年に結ばれた「国際刑事裁判所(ICC)に関するローマ規程」(ICC規定)では、こうした戦争犯罪がリスト化されています(ただし、その後の追加規定などは各国がそれぞれ受け入れるかどうかを判断している)。

 戦争犯罪も犯罪である以上、それを捜査し、証拠を集め、訴追することが必要です。
 現在ほぼすべての国が加盟している4つのジュネーブ条約では、各締約国が、「違反行為を行い、または行うように命じた疑のある者を捜査する義務を負う」(43p)としており、戦争犯罪についての捜査は各国の義務となっています。

 とは言っても、多くの人にとって戦争犯罪とは戦争が終わったあとに問題になるものであり、どうせ「勝てば官軍」的なものなのだろうと考えている人もいるでしょう。
 ところが、現在進行中のロシア・ウクライナ戦争では、戦争と同時進行でロシアの戦争犯罪が捜査・訴追され、実際に判決を受ける兵士も出てきています。
 
 ロシアによる大規模侵攻が始まってから3ヶ月後の2022年5月、ウクライナは民間人1人を殺したロシア兵に対して初の戦争裁判を終えています。
 その後、2025年の3月14日時点で103件の戦争犯罪裁判が終結しており、152名のロシア兵や協力者が有罪判決を受けました(このうち、91件が被告人不在の欠席裁判)。

 内容としては、移動中に道端で携帯電話で通話している民間人を上官の命令によって射殺、住宅地に向かっての一斉射撃、ハルキウのテレビ塔の爆撃、民間人への拷問、性的暴行、金品の略奪など、さまざまです。

 本書では裁判の詳細の様子も紹介されています。
 例えば、移動中に道端で携帯電話で通話している民間人を上官の命令によって射殺した事件では、被告はワディム・シシマリンという名前のシベリア生まれの職業軍人であり、捕虜になったあとに裁判にかけられました。
 こうした民間人の殺害は証拠がないケースも多いですが、この事件では被害者の妻が走り去る車を見ており、また、同時に捕虜になったロシア兵の証言からシシマリンの仕業ということが明らかになっています。

 ただし、この事件については、上官の命令であったという抗弁もできます。この事件ではシシマリンの直属の上官ではなく、たまたま車に乗り合わせた上の階級の軍人ということでこの抗弁は退けられました。
 また、もしも通話していた人物が諜報活動や情報提供を行っているようなケースであれば事情も代わってきますが、被害者の携帯電話の通話記録が調べられた様子はなく、この点を問題視する武力紛争法の専門家もいるそうです。

 ウクライナではすべての被告に国選弁護人がつき、通訳を配置し、法廷にメディアを入れたうえで、被害者保護が必要な場合を除いてすべての法廷を公開し、オンラインでのストリーミング公開まで行っています。
 拘束中も家族との連絡を取ることを認めたり、外部とのコミュニケーションも許可しています。
 戦争犯罪裁判というと、非公開の軍事法廷で裁かれるというイメージがあるかもしれませんが、ウクライナではEUなどの支援も受けながら司法改革が進められ、このような体制がつくり上げられていたのです。

 戦争犯罪の摘発はウクライナ政府だけが行っているわけではありません。この戦争ではICCが子どもの連れ去り(拉致)を理由にプーチン大統領が訴追されました。
 ICCから逮捕状が出るときは、その理由が詳細に説明された文書が同時に出ます。国内では逮捕状はすぐさま発行されることが多いですが、ICCの逮捕状の発行には数週間から数ヶ月かかります。
 ICC自体は逮捕権限のある捜査官を有しているわけではないので、逮捕状が発付されるとICC加盟国の各国の捜査官に逮捕を依頼することになります。

 ウクライナにおける子どもの連れ去りについては、ウクライナの検察局が生後4ヶ月から17歳までの1万6226人の連れ去り情報を確認し、2023年2月14日に米国国務省紛争監視団が少なくとも6000人の子どもが連れ去られたとの報告書を出しました。
 2月20日にはプーチン大統領と子どもの権利担当の全権代表で、身寄りのない子どもを養子にするプロジェクトを主導しているマリヤ・リボワべロワの対談がテレビ放送されましたが、その3日後にこの両名対しICCのカリム・カーン主任検察官が逮捕状を請求しています。
 その後、この逮捕状決定の判決を下した3名の裁判官の1人が赤根智子裁判官になります。そして、3月17日に逮捕状が発付されました。

 ロシアはICCに加盟していないため、プーチンを逮捕するチャンスがあるのはプーチンがICC加盟国を訪問したときなどになります。
 2023年にはBRICSの会議がICC加盟国の南アフリカで予定されており、南アフリカは対応に苦慮しましたが、結局はプーチンが訪問を取りやめてオンラインで参加するという形に落ち着きました。

 第2次世界大戦後から培われた「公的資格無関係の原則」によって、戦争犯罪などの国際的な刑事裁判所においては大統領や大臣といった肩書は無関係になっており、セルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチやリベリア大統領のチャールズ・テイラーといった国家元首が裁判にかけられてきました。
 一方、国を代表する人物を保護する、国際法上の「身体不可侵」、「裁判権免除」の制度もあり、特にICC非締結国にとっては難しい判断を迫られることになります。
 また、2024年にプーチンはICC締約国であるモンゴルを訪問しましたが、モンゴル政府は身柄の拘束には動きませんでした。

 その後、ICCは2024年3月に大規模な電力インフラへの攻撃を理由に、ロシア航空宇宙軍の司令官セルゲイ・コビラシュ中将と黒海艦隊司令ヴィクトル・ソコロフ海軍大将の逮捕状を発付し、2024年6月にセルゲイ・ショイグ前国防相とヴァレリー・ゲラシモフ参謀総長の逮捕状を発付しています。

 第4章は「兵士の帰還」と題されています。戦争が終わって兵士が帰って来るといった以外にも、負傷して帰って来る、捕虜になって捕虜交換によって帰って来る、遺体として帰って来るなどのさまざまなケースが考えられます。

 戦場における犠牲者の保護は傷病兵の保護から始まりました。1863年にアンリ・デュナンを中心に赤十字国際委員会が設立され、翌年には傷病兵についての国際条約も結ばれています。
 一般市民も看護を行うことが奨励されており、敵兵を看護したとしても、そのことで迫害を受けたり有罪判決を受けたりすることは傷病者保護条約で禁止されています。

 捕虜については、西欧では17世紀頃から捕虜交換や身代金制度が開始され、18世紀に徴兵による軍隊が生まれると捕虜に対する人道的な待遇を保障する国が出てきました。
 捕虜は重病や重症の場合は本国に送還することにあっており、それ以外の捕虜に関しては戦争が終わったあとに直ちに送還することになっています。
 今回のロシア・ウクライナ戦争でも行われてる捕虜交換は国際法上の制度としては確立しておらず、あくまでも当事者国同士の話し合いによって行われるものです。

 基本的に傭兵は捕虜にはなれませんが、ウクライナはワグネルの戦闘員にも捕虜と同等の待遇を与えています。
 2023年4月、ロシア国防省が捕虜交換について発表していない中で、ワグネルが独自にウクライナとの捕虜交換を行いました。

 捕虜交換ではお互いの人数がほぼ同じになるように頭数を揃えます。ウクライナでは、このとき戦争犯罪の容疑者や被告人、有罪判決を受けた者が入ることもあります。
 つまり、自国の兵士を取り戻すために本来は刑を受けるべき人物が釈放されているのです。著者は正義の観点からこのことに否定的ですが、これはなかなか難しい問題でしょうね。ロシアでの捕虜の取り扱いを考えれば、自国の兵士を守るための緊急避難的なものだと位置づけることも可能でしょう。

 遺体についても引き渡しや埋葬を求める国際的な取り決めがあります。
 ウクライナではブチャの虐殺などでは死体が放置され、それを現地のボランティアが収容・埋葬しました。
 また、捕虜の交換と同じように遺体の交換も行われています。

 第5章は被害者に対する賠償と和解についてです。
 過去の戦争では国家間の賠償はなされてきましたが、国内での配分などは国家に任されており個人に対する補償は行われないことも多かったです。
 湾岸戦争では、国連安保理が主導し、国連補償委員会(UNCC)がつくられ、個人や企業がイラクに対して損害の保障を請求できる枠組みが作られました。結果として、524億ドルの賠償がイラクに求められ、2021年12月にイラクの支払いは完了しました。

 侵略に対する国際司法裁判所(ICJ]の賠償裁定を侵略国が履行した事例もあります。
 2005年にICJはコンゴ民主共和国に対するウガンダの軍事活動と占領について賠償を命じ、ウガンダは賠償額3億2500万ドルのうち2022年9月に6500万ドルを支払っています。
 今回のロシア・ウクライナ戦争において、ロシアが賠償を支払う未来というのはやや想定しにくいかもしれませんが、ロシアの凍結資産を使って補償を行おうとする動きがあります。

 こうした中、近年では国家に対して個人が賠償を求めることを認める動きも出てきています。今まではあくまでも国家と国家のやり取りで、個人の賠償についても当該国家の裁量に委ねられていましたが、ここにきて個人が直接相手の国家を訴えることを認める動きが出てきています。
 さらに、犯罪行為を行った個人に対して賠償を求める動きも出てきています。ロシア・ウクライナ戦争では、ハリコフのテレビ塔爆撃についての裁判で、被告人3人に物的被害の賠償を支払うように命じる判決が出ています(ただし、被告人の3人はその後捕虜交換でロシアに帰国)。

 裁判における処罰や賠償以外にも加害者と被害者の和解も模索されています。
 加害者が多くいる場合はその後の国づくりのことなども考えて恩赦が行われることがありますし、犯罪の事実を告白することを引き換えに恩赦を与える真実委員会の利用も増えています。
 また、処罰するにせよしないにせよ、戦争犯罪の記憶を忘れないようにするために、戦争犯罪のアーカイブをつくる動きもあります。

 最後の第6章では理論的な話がなされています。
 国連憲章は基本的に自衛以外の武力行使を禁止していますが、これは「戦争前の法(ユス・アド・ベルム)」です。
 しかし、それでもっ戦争が始まることがあり、そこには戦争中に守らなければならないルールがあります。これが「戦争中の法(ユス・イン・ベロ)」です。
 これに対して、近年注目されるようになったのが「戦争後の法(ユス・ポスト・ベルム)」です。

 今までは、戦争の集結=講和は政治家による駆け引きの領域と考えられており、水面下で行われることがほとんどでした。しかし、こうした交渉のテーブルにつけない人の声が届かないという問題もあり、戦争の終わり方についてのルールがないことが問題として認識されるようになってきたのです。

 1980年代から、過去の暴力や人権侵害を乗り越えるための「移行期的正義」の考えが提唱されました。また、こうした中で被害者と加害者の和解、関係の修復を重視する「修復的司法(正義)」の考えも取り入れられてきました。
 しかし、近年では「修復的正義」では不十分であり、不正を生み出した社会の変革を目指す「変革的正義」も唱えられるようになっています。たんに人間関係を修復するだけでは不十分であり、紛争などを生み出した構造を変える必要があるというのです。

 このように本書はあまり知ることのなかった戦争中、そして戦争後の法をめぐる問題と、現在どのような取り組みが行われているのかということを教えてくれます。
 特に本書で描かれた、ロシア・ウクライナ戦争における戦争犯罪をめぐる裁判の様子は印象的で、ブチャの虐殺のような象徴的な事件だけではなく、普通の戦争犯罪もリアルタイムで裁かれている様子に国際刑事司法の進展ぶりを感じましたし、勉強になりました。
 最初にも述べたように、現在進行している具体的な事象から抽象的な話に持っていく構成も上手く、読み手を惹きつける形になっています。

 ただ、国際社会における4つの中核犯罪について、44ページに初めて出てきて、その後も何回か出てきているものの、4つの犯罪についてのきちんとした説明がないのはちょっと不親切だと思いました(見落としていたらすいませんが、少なくとも44ページまでにはなかったはず。4つの中核犯罪とはジェノサイド(集団殺害)、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪)。

塩出浩之『琉球処分』(中公新書) 9点

 琉球王国が明治政府の政策によって琉球藩にされ、さらに沖縄県とされた琉球処分という出来事については多くの人が知っていると思います。
 しかし、教科書の記述に出てくるのは明治政府が何をしたかということだけであって、琉球側がそれにどのように対処したのかということはほとんど書かれていません。1つの「国」が消えたという大きな出来事だったにもかかわらずです。
 
 このように今まで日本側からしか語られてこなかった琉球処分について、琉球側からの視点も取り入れて語っているのが本書の大きな特徴です。
 本書を読むと、琉球側が激しく抵抗し、清などの諸外国を巻き込みながら、外交交渉のロジックにおいてはときに日本側を打ち負かしていたこともわかります。
 また、琉球処分前の琉球のあり方を掘り起こすことによって、朝鮮においても問題となった中国を中心とする冊封体制と西洋流の主権国家体制の問題が、琉球においても大きな問題だったことが見えてきます。
 なんとなくわかったつもりになっていた歴史的な出来事を今一度問い直す非常に刺激的な本だと思います。

 目次は以下の通り。
序章 前近代の琉球―中国・日本に両属した国家

第1章 西洋諸国の琉球来航

第2章 明治維新後の併合始動

第3章 琉球併合命令と救国運動

第4章 琉球処分、その後の沖縄県政

終章 日清戦争後の沖縄

 14世紀なかば、沖縄には山北、中山、山南の3つの王権が成立し、それぞれ明に朝貢するようになりました。15世紀になると中山王となった尚巴志が琉球を統一し、明からも琉球の統一王権として認められました。
 15世紀後半には、官人の金丸が尚氏に代わって王位につくというクーデタ的な出来事がありましたが、金丸は尚円と称して明から冊封を受けています。

 琉球と薩摩の島津氏は隣国同士の交際がありましたが、秀吉が日本を統一すると秀吉は島津氏を通じて琉球に朝貢を求めます。翌年、琉球が秀吉のもとに天下統一を祝う使者を送ると、秀吉はこれを服属とみなしました。
 その後、家康は琉球を仲介として日明貿易の再開を考えますが、琉球はこの要請には応えませんでした。すると島津氏はこれを好機と見て琉球に出兵し、首里城を制圧して国王の尚寧らを捕虜として鹿児島に連れて帰りました。

 しかし、島津氏は琉球王国を滅ぼさずに存続させます。その裏にはあくまでも琉球を仲介に日明貿易の復活を望んでいた幕府の意向もあったと考えられます。
 琉球は明に島津氏の侵攻を知らせましたが、領地の一部を割譲したために島津氏は撤退したと報告し、島津氏への服属を隠したまま関係を続けました。
 明が滅亡し清が成立すると、清は琉球に朝貢を求めました。明の復興の可能性を考えた琉球はこの求めに苦慮し、島津氏に指示を仰ぎましたが、島津氏は「日本国之内」ではないので「指図」は難しいと答えています(13p)。
 清は早くから琉球が日本に服属していたことに気づいていたようですが、清にとっては定期的な朝貢こそが重要であり、それができていれば琉球が実質的に島津氏に支配されていようと問題はないと考えていました。また、当時のアジアにおいて複数の国に朝貢することは決して珍しいものではありませんでした(樺太のアイヌについて幕府は服属していると考えていたが、彼らは清にも朝貢していた)。

 1844年、フランスの使節が琉球を訪れて中国の近くに基地を置きたい目的から条約の締結を求めました。琉球は基本的に日本との関係を隠しながらも、日本のトカラ島と貿易しており、フランスと交流を持てば鎖国をしている日本との関係にも差し支えるとし、フランスの申し出を断りました。
 一方、島津氏と幕府はこうした状況を把握し、戦争を避けるにはフランスとの貿易もやむを得ないと考えていました。琉球は「外藩」であり、鎖国政策と矛盾しないと判断したのです。

 また、この時期は琉球にキリスト教の宣教師が長期滞在するようになり、琉球の悩みのタネとなりました。この問題については琉球は清に介入を求め、清からイギリスやフランスへはたらきかけています。

 1852年11月、ペリーが日本を開国させるためにアメリカを発ちますが、ペリーは琉球の港を占領する計画を持っていました。日本に対して武力行使が必要になった場合、その根拠地として琉球の港が必要だと考えていたのです。
 ペリーは琉球についての主権が不明確であり、武装を解かれて軍事力がないことも知っていました。
 アメリカの狙いは太平洋航路の避難地と物資供給地の確保であり、日本が開国に応じない場合は次善の策として琉球を代替地とする考えもあったといいます。

 1853年7月に日本にやってきたペリーでしたが、その前後に琉球に立ち寄っています。ペリーは琉球の武力占領も考えましたし、日本に対する開港地の要望でも日本本土(浦賀か鹿児島)、蝦夷地、琉球の3箇所を要求しました。幕府は琉球は遠隔地の属領だとして要求を断っています。

 1854年3月に日米和親条約を結んだペリーは7月に琉球に戻り、琉球との間に琉米条約を締結しました。この条約では貿易も認められましたが、これはアメリカが日本の貿易を認めたと伝えたためだといわれています。この条約でも領事裁判権の仕組みが採用されています。
 ただし、ペリーは日米和親条約をtreatyと表現しながら琉米条約はcompactと表現しています。琉球が主権国家であるかどうかに迷いがあったためとも考えられます。
 この琉米条約については島津氏や幕府にも報告されましたが、それほど問題視されませんでした。島津斉彬は琉球を通して蒸気船の購入などを考えたといいます。

 この琉米条約を聞きつけたフランスとオランダも琉球との条約締結に動き、琉仏条約、琉蘭条約も結ばれました。ただし、本国の外務省は琉球が主権国家であるか疑問を持っていたこともあって、この2つの条約は批准されないままに終わります(琉米条約は批准された)。

 明治維新後、明治政府は版籍奉還を行い、形式的に諸大名の持つ領地と人民を天皇に返還させます。このとき、島津氏が琉球の領地や人民を返還させたのかが問題になります。島津氏は幕府に対して琉球を組み入れた総石高を申告していたからです。
 鹿児島藩はこのことについて新政府に問い合わせをしていますが、新政府は従来通りに「管轄」するように告げています。ただし、鹿児島藩は琉球について日本と清に両属しているとも答えており、この「管轄」は属国しての管轄でした。
 1871年に廃藩置県が断行されますが、鹿児島藩についてはそれまでの藩政との連続性が強く、琉球への支配もそのまま続けられます。

 廃藩置県の知らせは琉球にも伝わります。廃藩が行われるということは琉球を支配するのは鹿児島藩から日本政府に変わることを意味するわけですが、琉球側はできるだけこれまでの状態を維持しようとします。
 琉球からの問い合わせに対して鹿児島県庁は伊地知貞馨、奈良原繁を派遣します。彼らは世界情勢の変化に対応すべきだとしながら、琉球は日本の属国として、つまり1つの国家として存続することになるだろうとの見通しを告げます。

 一方、日本政府は1872年に日清修好条規を結びますが、この第1条で「両国に属したる邦土」の相互不可侵を取り決めました。清は朝鮮を念頭に置いていましたが、琉球もこれに該当するともとれます(日本は属国は含まないと解釈した)。

 また、同時期に日本政府内部では天皇の近畿・中国・九州への巡幸に合わせて琉球の取り扱いが問題になります。
 このときに琉球に対して日清両属をやめさせ日本の一部とすべきだとの意見書を提出したのが大蔵大輔の井上馨でした。当時に大蔵省は内政も担当する巨大官庁であり、琉球も大蔵省の管轄下に置くべきだと考えたのです。

 これに対して、外務卿の副島種臣は、①琉球国王を華族とする、②琉球国王を「琉球藩王」とする、③「外国との私交を停止する」という意見書を提出しています。
 琉球の日本への服属をはっきりさせながらも、「藩王」という独自の地位を与えることで琉球の独自に地位を認め、日清両属も認める考えでした(③は琉米条約の廃止などを念頭に置いている)。
 太政官の左院でも、基本的には外務省に意見書に基づいたものとなります。琉球は外務省の管轄となり、一方で琉球に九州の鎮台から番兵を置く考えも示されました。

 琉球ではこのころ、台湾に漂着した琉球人が台湾のパイワン族に襲撃される牡丹社事件が明らかになりました。
 この事件を知った日本政府は当初は特に問題視する姿勢を示しませんでしたが、日本政府が琉球から国家としての地位を奪おうとする中でこの事件は再び注目されます。
 1872年10月、琉球からの維新慶賀使が東京にやってきますが、外務省は書簡の中の「国」「王」などを使わないように指示し、琉球が国家として振る舞うことを封じようとしました。このとき、天皇から尚泰を「琉球藩王」にするという「冊封の詔」も与えられています。
 この冊封が終わると、外務卿の副島はアメリカとフランスの公使(オランダ公使は不在)に、琉球に「辞爵譲地」(国王をやめさせ領地を譲ること)をさせたと通知します。これに対し、両国の公使は琉球の併合に異議を唱えませんでした。

 また、牡丹社事件をめぐる清との交渉でも日本は琉球は日本の属地だと主張しており、島津氏とは違って日本と琉球の関係を清に隠そうとはしませんでした。
 このような日本の動きに対して、琉球は与那原(よなばる)親方(うぇーかた)を東京に派遣します。
 与那原は副島と面会し、これまで通りの「国体制度」の存続を求めました。これに対して副島は外交権は接収するが「国体制度」は今まで通りで内政は尚泰に任せるとの発言をします。
 これはまさに琉球が望んでいたことであり、与那原は文書化を求めます。これに対し、外務省は日本政府に反抗しなければ「廃藩」しないという副島の口約束とは内容の違った文書を与那原に渡しています。

 副島は明治6年の政変で下野し、琉球の問題には台湾出兵の問題と絡んで大久保利通が強い影響を持つようになります。
 内務卿となった大久保は征韓よりもリスクが低いと考え台湾出兵へと動きます。理由としては牡丹社事件の他に現在の岡山県の船頭らが台湾の「生蕃」に所持品や積み荷を強奪された事件もあげられました。
 英米公使の反対を受けて台湾出兵の中止命令が出ますが、西郷従道はこれに従わずに出兵は行われます。清も日本に対して抗議を行い、大久保が清に渡って交渉を行うこととなります。

 大久保が北京で行った交渉では、台湾が清に属するかとともに琉球が日本であるか否かが問題になりましたが、日本人の船頭のこともあり、これについては厳密に詰められずに終わっています。
 しかし、大久保はこれを機に琉球併合を進めようとします。大久保は琉球に鎮台の分営を設置するとともに琉球藩の職制を「府県一致の制度」とし、さらに日本の年号の使用、日本の刑法の施行を求めました。
 
 これに対して琉球側は副島の口約束を盾にして国制の変革を拒みます。
 一方で、大久保は琉球が清の光緒帝即位に合わせて慶賀使を派遣することを阻止するために、琉球に清との関係断絶を求めるとともに内務官僚の松田道之を琉球へと派遣します。この松田が琉球処分のキーパーソンとなります。
 松田は大久保に対して、藩王を日本の一等官、つまり日本の管理として扱うこと、琉球との間で音信・贈答を廃止したいといったことを確認し、琉球に出発します。ここからもわかるように松田の使命は琉球から国家としての地位を奪うことでした(後者について、琉球は日本の官員にしばしば贈り物をしていたが、もし琉球の役人も日本の官員であれば、これは賄賂になる)。

 清への朝貢廃止、藩政改革、日本の元号、刑法の使用などを求めた松田に対して、琉球側は今までの歴史的経緯を持ち出して拒みます。
 しかし、松田は主権国家の原則や、日本と琉球の「人種」が近いことなど、西洋流の理論を用いてこれを反駁しました。
 これに対し、与那原親方は松田の部下の中田鴎隣へ、琉球は日本よりも以前に中国に属していたこと、ベトナムなど両属の国はあると反論し(当時のベトナムはフランスに支配されながらも清はこれを属国として扱っていた)、日本側の言い分を封じています。
 松田は交渉において琉球側を説得するロジックをもっておらず、命令遵奉か廃藩の二者択一を迫ります。
 
 どちらを選んでも国家としての琉球の消滅を意味するため琉球としては受け入れられないものでした。そこで、官吏の一部は隠居していた亀川親方のもとに結集し、亀川党として日本の命令を拒絶する方針で団結します。
 琉球の王府は遵奉やむなしと考えつつ、松田との話し合いで使者を上京させて嘆願するという形で時間的な猶予を得ようとしますが、亀川党は遵奉をあくまでも拒否して尚泰を諫止する姿勢を示しました。
 また、琉球からは清に暑家を求める密使も派遣されます。これを受けて、清の駐日公使であった何如璋が日本に対して強く抗議しますが、これは日本政府に琉球併合を急がせることにもなりました。

 1879年3月、太政官は琉球に対する一連の通達を発します。それは朝貢廃止命令や裁判権の接収に従わなかったことから廃藩置県を行うこと、沖縄県を設置し県庁を首里に置くこと、尚泰を東京に居住させることでした。
 松田は警官160名、熊本鎮台分遣隊380名余を引き連れて琉球に向かい、首里城や統治のために必要の書類の明け渡しを命じます。3月29日には尚泰が首里城を明け渡し、4月4日には日本政府は沖縄県の設置を布告しました。

 これに対して琉球の士族(官吏)たちは仕事をボイコットすることで抵抗しました。松田は士族を集め、このままで新県の職は内地人が独占し、琉球の人々は「アメリカの土人、北海道のアイノ(アイヌ)と同じように、「一般と区別」されるようになる」(197p)と述べています。
 松田は今で言う「民族」の概念を持ち出し、このままでは「普通の人々」として扱われなくなると告げたのです。
 その後、県庁は抵抗する亀川党を警察に拘留して拷問を加え、抵抗運動を抑え込みました。

 教科書の記述だとここで琉球処分は終わりなのですが、本書はさらに日本と清の間で琉球の分割案があったことを教えてくれます。
 琉球処分に対して清は抗議し、当時世界一周旅行に出ていた元アメリカ大統領のグラントが日本と清の仲介に乗り出します。このときにグラントが駐日清国公使館員だったアメリカ人のマッカーティの考えを取り入れ、沖縄本島以北を日本領、宮古・八重山諸島を清領とする琉球分割案を提案します。さらのマッカーティは奄美を日本領、宮古・八重山諸島を清領、沖縄島に琉球を復国させ、中立地帯とする案も提案します。

 日本政府は清との争いを避けるために二分割案の受諾に傾き、当初は三分割案を支持していた清もロシアとの関係悪化を受けて二分割案の受け入れに傾きます。
 しかし、一旦は二分割案受け入れを決めた清ですが、ロシアとの関係が改善すると調印を急ぐべきではないという考えが台頭し、交渉は決裂します。また、琉球が琉球全体での復国を主張したことも交渉を難しくしました。

 日本は琉球を「日本」の一部としながら、日本の他の地域とは違い旧来の支配方法を一定程度認める「旧慣温存」政策を取りました。旧官吏の役俸や士族の家禄の維持などを認めたのです。
 これは旧支配層の協力を取り付けるためでしたが、その裏で一般の農民などには過酷な負担がのしかかりました。役人が多すぎたこともあり、さまざまな理由で負担が押し付けられたのです。こうした中で日本の帝国議会に対する請願も行われました。
 最終的に日清戦争における日本の勝利によって琉球国が復活させようとする運動も終息します。そして、松田が言ったように内地人が沖縄の人々を支配するような体制となっていくのです。

 このように本書は琉球処分に対する理解をぐっと深めてくれます。琉球側の主体的な動きを描くことで、琉球処分が一方的な「処分」ではなく、さまざまな国を巻き込んでの「外交」であり、独立を維持するための「闘争」だったこともわかります。
 読み応えがあり、勉強になる1冊です。


琉球処分 「沖縄問題」の原点 (中公新書)
塩出浩之
中央公論新社
2025-06-20


鳥飼将雅『ロシア政治』(中公新書) 8点

 ロシアではプーチンの権威主義体制がつづいており、国内での締付けは近年ますます強くなっているというのは多くの人が理解していることだと思います。
 では、そのプーチン体制はどのようにできあがり、どのように強化されてきたのでしょうか? プーチンは具体的にどのようなやり方で独裁的な体制を維持しているのでしょうか? ウクライナとの戦争はプーチン体制を強化したのでしょうか? 弱体化させたのでしょうか?
 本書は、そんな疑問に答えてくれる本です。

 タイトルは「ロシア政治」ですが、ソ連崩壊後、ロシアはエリツィン体制とプーチン体制しか経験していなために、本書の内容はエリツィン体制の混乱からいかにしてプーチンが盤石な権威主義体制をつくり上げ、現在はどのように機能しているかということになります。
 ロシアの権威主義体制というと、その「国民性」に答えを求めるような議論もありますが、本書ではソ連崩壊後の混乱→地方のボスの割拠→プーチンへの権力集中というロシアの変化を追うことで、権威主義体制がさまざまな政策や制度によって立ち上がっていく様子がわかります。
 こうしたことから、本書はロシアに興味がある人だけでなく、広く権威主義体制や民主主義の後退といったテーマに興味がある人が読んでも面白い内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 混乱から強権的統治へ――ペレストロイカ以降の歴史

第2章 大統領・連邦議会・首相――準大統領制の制度的基盤

第3章 政党と選挙――政党制の支配と選挙操作 

第4章 中央地方関係――広大な多民族国家の統治

第5章 法執行機関――独裁を可能にする力の源泉

第6章 政治と経済――資源依存の経済と国家

第7章 市民社会とメディア――市民を体制に取り込む技術
終 章 プーチン権威主義体制を内側から見る

 目次を見るとわかりますが、本書はロシアについて時系列を追うのではなく、トピックごとに記述をしています。
 ただし、プーチン政権はいきなり盤石な形で出現したわけではないので、第1章では、そこに至る過程がとり上げられています。

 1991年の12月、ソ連は思わぬ形で解体されます。その後、ロシアでは91年8月のクーデタの阻止において大きな役割を果たしたエリツィンが、ロシア大統領としてソ連解体後の舵取りを行ってきますが、経済の混乱、地方エリートの台頭、チェチェン紛争などによってロシアの政治体制は落ち着きませんでした。

 こうした中で、エリツィンによって首相に指名されたプーチンは無名の存在でしたが、チェチェンの分離勢力に対する強い対応などで国民の支持を得て、2000年3月に行われた大統領選挙で勝利します。
 その後、プーチンは2008〜12年にかけて大統領職をメドベージェフに譲って首相となるものの、2012年の大統領選挙で勝利し、再び大統領となっています。

 ただし、プーチンの任期も盤石だったわけではなく、大統領に返り咲いたときのプーチンの人気は以前ほどではありませんでしたし、2018年の年金改革でも大規模な抗議運動が起きましたし、2012年の野党指導者ナヴァリヌィの逮捕でも大規模な抗議運動が起きました。
 こうした支持率の低下を引き上げる役割を果たしたのはウクライナとの戦争です。2014年のクリミア併合とドンバス地域への干渉、2022年の全面侵攻は、ともにプーチン政権の支持率を引き上げました。

 ロシアの政治体制は大統領と首相がいる準大統領制に分類されます。
 公選で選ばれた大統領と議会に責任を追う内閣が併存しているのが特徴で、ロシアはその中でも首相の解任権限を大統領と議会が持つ「大統領議会制」となります。
 この準大統領制はフランスとその旧植民地、そして旧ソ連諸国に多いですが、旧ソ連諸国に多い理由としては共産党支配の構図(日常の業務は閣僚会議に任せ、高度な意思決定は党機構が担う)と準大統領制が似ていることもあるといいます。

 エリツィン政権下では大統領と議会の対立が深刻でした。エリツィンはガイダルに首相に「ショック療法」と呼ばれる急進的な経済改革を行わせましたが、この改革への反発もあってガイダルの首相の就任は最高会議が認めませんでした。

 1993年の憲法改正で最高会議は廃止され、下院にあたる国家ドゥーマと上院にあたる連邦院がつくられ、国家ドゥーマ優位のシステムとなります。
 しかし、国家ドゥーマになっても大統領と議会の対立は続きました。これはエリツィンが政党制の上に立つ存在としての大統領を追求し、大統領与党をつくることに乗り気ではなかったからです。
 また、議会も小党が分立しており、党議拘束なども効きにくい状況で、エリツィンは議会での多数派工作ではなく大統領令によって政策を進めていきました。

 1993年憲法体制では、大統領はいつでも首相を解任できるために首相は大統領に依存していますが、それでも首相になることで多くのメディアに露出し、人脈なども得られることから、首相を務めることは政治的資源を得ることにつながりました。
 チェルノムィルディン、プリマコフらは首相を務めることで政治的影響力を強めましたし、プーチンもエリツィン政権下の首相をステップにして大統領となりました。

 プーチンが大統領になると大統領府が強化され、2001年には政権与党の「統一ロシア」がつくられます。
 2008年の大統領選では、プーチンは連続3選を禁じた憲法の規定によって出馬せず、メドベージェフが大統領となり、プーチンは首相となります。
 この時期、アラブの春でのリビアへの軍事介入をめぐってメドベージェフとプーチンの意見の違いが表面化するなどの緊張関係はありましたが、メドベージェフはプーチンに匹敵するほどの政治的値影響力を持つことはできず、2008年と2020年の憲法改正によってさらに権力を強化したプーチンが大統領として君臨し続けることになりました。
 以前のように首相経験者が政治的資源を得て次期大統領を目指すという流れもなくなり、「プーチン以後」は不透明になっています。

 エリツィン政権下で民主化は進みましたが、政党はあまり発展しませんでした。共産党の一党支配になれた国民にとって政党にあまりいいイメージはありませんでしたし、刻々と変化する情勢の中で政党のブランドも確立されませんでした。
 こうした中でこの空白を埋めたのが知事に率いられた「政治マシーン」です。また、政治化した金融・工業グループも政治的影響力を持っていました。

 こうした勢力を支配下におさめたのが統一ロシアです。
 プーチンが大統領となって強い支持を得て、また、原油価格の上昇によって連邦政府の財政が豊かになると、地方の知事たちは続々と統一ロシアに入党していきました。2004年には知事が公選制から実質的な任命制に移行したこともあって、プーチンは地方の政治マシーンを統一ロシアの支持装置へと変えていきました(統一ロシアの得票率が低い地方の知事ほど解任されやすかった)。
 さらに実業家たちも企業活動で便宜を得るために統一ロシアに入党していきます。
 ただし、統一ロシアはあくまでもプーチンを支える装置であって、プーチンは今まで一貫して統一ロシアの党員になってはいません。

 ロシアに野党が存在しないわけではなく、共産党は一貫して野党的な立場を取っています。しかし、共産党はプーチン体制と共存する中でさまざまな見返りを得ており、共産党が地方議会などで重要な役職を得ている地域では共産党の組織する抗議運動の数や規模が小さくなるといいます。
 政党に関して、ロシアでは全国的な規模を持つ政党しか認められておらず、しかも小政党が集まって選挙ブロックをつくることを禁止しているため、新しい政党が生まれにくくなりました。この要件は2012年に緩和されましたが、これは野党への支持を分散させるためのもので、こうして生まれた政党は「スポイラー政党」と呼ばれています。

 選挙に対する干渉も行われており、投票数の改ざん、メディアの操作、立候補者の排除などが行われています。
 厄介なのが投票行動の強制で、教員が行政府からの解雇や減給の脅迫のもとに父兄に特定候補への投票を働きかけなければならなかったり、営業許可の打ち切りなどをちらつかせて企業の従業員に投票を強いるといったことが行われているといいます。

 ロシアの選挙制度は小選挙区比例代表並立制で行われていましたが、2004年の選挙法の改正で完全比例代表制に変更されました。
 一般的に小選挙区制のほうが与党が勝ちやすいとされてますので、この変更は不可解にも思えますが、比例代表制のメリットは議会内での議員の行動をコントロールしやすいことです。
 2002年の法改正で地方議会について少なくとも半分は比例代表で選ぶようにしましたが、これも無所属議員を減らして地方議会をコントロールしやすくするためのものでした。
 また、2012年には国家ドゥーマを含めてほとんどの選挙が9月の第2週の日曜に行われるようになりましたが、これは夏季休暇中に選挙を行うことで都市部の投票率を下げる狙いがあるとされています。

 ロシアの国土は広大で、民族的な多様性もあります。そこで連邦の構成主体として共和国、自治管区、自治州、州・クライ、連邦市という種類があります。
 ペレストロイカ期の1990年にロシア共和国が主権宣言を出すと、ロシア国内の自治共和国でも次々と「主権宣言」が出されました。この流れは「主権のパレード」とも呼ばれています。
 当時にエリツィンはこうした動きに好意的であり、ロシアの統合に対して大きな遠心力がかかりました。

 1991年にソ連が解体されると、改めてロシアとその中の自治共和国などの関係が問題になり、92年3月に連邦条約が結ばれますが、この条約を拒否したのがタタルスタン共和国とチェチェン=イングーシ共和国でした。
 このうちタタルスタンは94年にロシアからの分離を否定する見返りとして特権的な地位を得る条約に調印しましたが、独立に動いたチェチェンでは軍事的な紛争になりました。
 プーチンは強硬策によってこのチェチェンの分離独立を封じ込めましたが、現在のチェチェンのカディロフ体制は連邦からの離脱を目指さないのと引き換えに例外的に高度な自治権を得ており、共和国政府高官の1/3がカディロフの親戚だという個人支配を生み出しています。

 プーチンはエリツィン体制下で進んだ分権化を引き戻しました。各地方と個別に結んだ権限区分条約も次々と廃止し(ただし、天然資源が豊富なタタルスタン共和国との間では条約を再締結)、自動的に上院に議席を持つことができる知事の特権を廃止するなど中央のコントロールを強めました。
 2004年には知事公選制を廃止し、知事の任命について大統領がコントロールできるしくみをつくっています。
 プーチンは当初は地方エリートを活用する姿勢も見せましたが、徐々に知事の若返りなどを進めるとともに、地方の腐敗のメスをいれるために当該地方でキャリアを積んでいないアウトサイダー知事を増やしています(150p図表25参照)。
 このように集権化が進みました、ウクライナ戦争以後、連邦政府が軍事マネジメントに忙殺される中で地方政府の存在感が高まっている状況もあるといいます。

 法執行機関についても、エリツィン体制下では警察と検察が給与などの予算を握る地方権力にコントロールされるような形になっており、FSB(連邦保安庁)のみが集権的な構造を維持していました。
 プーチンはここでも集権化を進め、内務省、検察、FSBを強化しました。KGB出身のプーチンはこうした部門に人脈を持っており、自らに近い立場の人物で法執行機関(シロヴィキ)を固めていきます。

 こうした法執行機関や司法を掌握したプーチンは、反体制派の政治家やオリガルヒを抑圧、排除してきました。
 興味深いのは、2008年の金融危機以降、経済状況の悪化によって利権の総量が不足しているために、利権配分の総額を抑えるために後ろ盾のないエリートを司法を使って排除しているという見方です(183−184p)。
 プーチン政権はエリートにむしろ汚職を奨励し、甘い汁を吸わせて体制に反抗させないとともに、いざとなったらそれを理由に排除できるようにさせているといいます。
 また、野党の反体制的な動きに対しては、完全に押さえ込むのではなく、デモや集会を郊外などの場所や早朝深夜などの時間帯のみ許可することで、参加者の限定を図っています。ただし、ウクライナ戦争後は徹底的な弾圧が行われています。

 先ほど、エリツィン政権下で地方への権限委譲が進み、プーチン政権で揺り戻したがあったという話が出ましたが、経済でもエリツィン政権下で国有企業の私有化が進み、プーチン政権でその揺り戻しがありました。
 エリツィン政権下の拙速な自由化によってオリガルヒと呼ばれる実業家が誕生しました。彼らはその資金力で政治にも影響を及ぼしましたが、プーチンは彼らを排除していき、石油やガス関連の企業については最国有化ともいうべき動きを進め、コントロール下に置きました。そのため、現在のロシアでは政治と経済の境界は曖昧になっています。

 また、このように国有セクターが再び大きくなったことで、中間層の多くが国家に依存する職に就くようになり、中間層がプーチンの権威主義体制を支持するようになっています。
 ただし、ロシアの国民の体制指示に関しては、そのかわりに国家が人々の生活の面倒を見るべきだという規範もあり、2018年の年金改革に見られるように、それが果たされないとなると国民から反発が起こることもあります。

 第7章の前半では、世論調査からロシア市民の考えを探っています。権威主義国家の世論調査など信頼できないとの考えもありますが、著者は権威主義体制だからこそ市民の考えを知りたがっているはずだとして、一定の信用はあると考えています。
 プーチンは就任以来高い支持率を誇っていますが、その要因は秩序を回復、維持する人物としてのイメージです。秩序と民主政はトレードオフではありませんが、ソ連崩壊後に大きな混乱を経験したロシアでは体制の安定を求める人が多くいます。

 プーチンの支持の内実は、「他に代わりがいないから」という消極的なものだったのですが、クリミア併合後は強い支持が増えているといいます。
 現在のウクライナ戦争において、ロシア国民の半分近くが平和交渉を望んでいますが(285p図表43参照)、同時に占領地への返還を条件にいれるとプーチンによる停戦への支持は半分近くになるという調査もあり、ウクライナ戦争をどう着地させるのかということはプーチン政権にとっても難問であることがわかります。

 このように本書はプーチン体制の実態とそれがどのように出来上がってきたのかということを教えてくれます。
 本書の終章でも述べられていますが、プーチン体制のスタート時点から今のような権威主義体制だったわけではありません。抑圧と懐柔によって少しずつ権威主義体制がつくられてきたのです。
 ロシア政治を知るだけでなく、民主主義の危機を考える上でも有益な本です。

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