編集部よりご恵投いただきました。どうもありがとうございます。
タイトルは「カウンセリングとは何か」ですが、カウンセリングやその周辺を少しでもかじったことのある人であれば、この問の答えが非常に難しいものであることが想定できると思います。
それこそフロイトの精神分析から認知行動療法、家族療法など、多くのものがあり(それ故に国家資格創設の際ももめた)、さまざまな手法を列挙するだけで終わってしまうのでは? と考える人もいるでしょう。
しかし、本書はそうした手法を取らずにさまざまな「カウンセリング」に共通するエッセンスを取り出し、「カウンセリングとは何か」という問いに対して、その核心を答えようとしています。
また、著者はその際に「浅い」カウンセリング(「作戦会議としてのカウンセリング」)と「深い」カウンセリング(「冒険としてのカウンセリング」)の2つを紹介しながら議論を進めていくのですが、この構成が非常に良いと思います。
どうしても「深い」ものにこそ本質があるという議論になりやすいですが、「深い」カウンセリングはドラマチックである一方(本書のハルカさんのケースは村上春樹の小説を思い出させる)、「非科学的」という印象を与えるものでもあります(ほぼ再現性のないものなので)。
著者は「深い」>「浅い」という序列をつけず、ユーザー(本書はクライエントではなくてこのように表記する)の必要に応じて使い分けるものとし、両者について同じような分量で紹介しています。
カウンセリングに確実な効果を求める人は第3章の「作戦会議としてのカウンセリング」を、人生の変化を求める人は第4章の「冒険としてのカウンセリング」をじっくり読めばいいでしょう(ただし、著者は読ませる文章を書ける人なので、一度読み始めれば多くの人は440ページ超えの本書を通読してしまうでしょう)。
今、なにか困っていることがあってカウンセリングを受けてみようか迷っている人にも、まさに「カウンセリングとは何か」ということを知りたい人にもお薦めできる本です。
目次は以下の通り。
まえがき ふしぎの国のカウンセリング第1章 カウンセリングとは何か──心に突き当たる第2章 謎解きとしてのカウンセリング──不幸を解析する第3章 作戦会議としてのカウンセリング──現実を動かす第4章 冒険としてのカウンセリング──心を揺らす第5章 カウンセリングとは何だったのか──終わりながら考えるあとがき 運命と勇気、そして聞いてもらうこと
カウンセリングやカウンセラーには怪しさもつきまとうといいます。
この背景には「①カウンセリングは誰でもやっていることだ」、「②カウンセリングは宗教や占いみたいなものだ」(25p)という2つの考えがあるといいます。
①については、確かに「カウンセラーの仕事は人の話を聞くことだ」といったことを聞くと、「それならば友人やパートナーで十分じゃないか」と考える人もいるでしょう(友人やパートナーがいない人はカウンセラーのもとに行く)。
これに対して、普段のコミュニケーションとカウンセリングの違いは、カウンセリングは「心の非常時」に行われる点だと著者は述べています。
ちょっとした風邪や怪我であれば医者に行かなくても治りますが、大きな病気や怪我ではそうは行きません。心の不調でも素人には手に負えない部分があるのです。
②については、著者も、宗教や占い、あるいはシャーマニズムなどがカウンセリングの親戚であることを認めています。
実際、カウンセリングの源流となっている精神分析のもとを辿れば、催眠術や動物磁気に行き着きます。
ただし、問題の原因を神やオーラや磁気に求めるのではなく、「心」に求めることがカウンセリングのポイントだといいます。
ちなみにカウンセリングには、「心の非合理な部分を自由にさせるシャーマニズムから精神分析へと連なる流れと、心の合理的部分を強化する哲学的治療から認知行動療法に至る流れ」(70p)があるといいますが、著者は前者に近い立場です。
こうしたことを踏まえたうえで、著者は第2章の冒頭でカウンセリングを次のように定義しています。
カウンセリングとは、心の問題で苦しんでいる人に対して、心理学的に理解して、それに即して必要な心理学的な介入を行う専門的な営みである。(92p)
その上で第2章では、カウンセリングの導入部分が語られています。
その人の人生がうまく言っていないのには何らかの原因があるわけで、カウンセラーはまずその謎解きをしなければなりません。
カウンセラーは、まずは原因を「解明」し、それをユーザーにもわかる形で「説明」し、対処方法について「提案」をします。
カウンセリングにおける初回の面接を「インテーク面接」といい、ここで一定程度の「解明」、
「説明」、「提案」をしなければなりません。著者の場合はインテーク面接を60分として、その間に頭をフル回転させて3つのことを行います。
ただ、本書の指摘で興味深いと思ったのは、カウンセリングは予約制のため、カウンセラーもユーザー側もともに実際にカウンセリングをする前からさまざまな想像をめぐらしているという点です。主訴を書くといった行為を通じて、ユーザーは問題をある程度客観的に見る機会を持つことになります。
インテーク面接では、ユーザーの現在の状態、心の不調に陥った直接的な原因、その背景にある今までの人生などを聞いていきながら、問題の所在を突き止めていきます。
本書では次の3つの焦点をあげています。
①破局度の評価ー いかなるカウンセリングが役立つのか②問題の所在ー カウンセリングでどこを変化させるのか③物語化ー 問題の全体的メカニズム(135−136p)
①では、問題が火急的ものなのか、原因が本人の外部にあるのか/内部にあるのか、問題が最近起きたことなのか、ずっと続いている慢性的なものなのか、といったことを判断します。
原因が外部にあり専門家に任せたほうがいいケースなどでは、カウンセリングをしないという判断もあります。また、問題がずっと続いている歴史性のあるものならば、じっくりと腰を落ち着けたカウンセリングを勧めることになります。
②では、まずは投薬などの外部的な要因に対処し、それから内部である心の問題に対処していきます。問題が見えたとしても、そこにどのような順序で介入していくのかということも重要です。
③では、一定の仮説を提示します。もちろん、インテーク面接ではすべてを理解できないことが多いので、荒っぽいものにとどまりますが、これが一種の診断となり、今後のカウンセリングの指針となっていきます。ここでカウンセラーとユーザーがその物語を共有できるかが鍵であり、これに失敗すると、カウンセリングは初回で終わりということになりかねません。
ここでユーザーの悩み、ユーザーのことを理解できるかがカウンセリングの1つの核心です。本書ではこのことを「アセスメント」と呼んでいますが、「カウンセリングの中核にあるのはアセスメントである」(157p)と著者は述べています。
そのうえで、今後のプランが提案されます。著者は、基本的に「作戦会議としてのカウンセリング」と「冒険としてのカウンセリング」の2つのプランを用意するといいます。
第3章で取り上げられているのが「作戦会議としてのカウンセリング」です。
この章のはじめには「カウンセリングとは何か?」という問いに対して、さまざまな流派の答えが乱立し、互いに批判し合ってきた歴史が紹介されています。フロイトの精神分析なども、何度も「非科学的だ」、「治療効果がない」と批判されてきました。
著者はこうした混乱に対して、人には「生存」と「実存」、あるいは「生活」と「人生」があり、流派によって照準としているものが違うと述べています(精神分析は後者を対象としている)。
本書においては、「作戦会議としてのカウンセリング」が前者を、「冒険としてのカウンセリング」が後者を対象にしています。
もしも、その人の生活が破綻の危機にあるのであれば、行うべきは「作戦会議としてのカウンセリング」です。時間をかけて人生を考え直す前に、まずは生活を安定させる必要があるのです。
著者は「作戦会議としてのカウンセリング」におけるカウンセラーはボクシングのセコンドのようなもので、「伴奏する冷静な第三者」(178p)だといいます。
この章では、20代の会社員で、いろいろと言ってくる女性上司へのムカつきがとまらず、そのストレスでオンラインゲームでお金を使ってしまい経済的にも行き詰まったカナタさんのケースが紹介されています。
生活が乱れてかなり憔悴しており、著者はまずは生活の立て直しが必要だと考えて投薬を勧めます。心の問題があるのも明らかですが、まずは投薬、休養、運動、生活リズムの立て直しなどの身体に対するはたらきかけを行って身体の変化させることができる部分を変化させるわけです。
さらにオンラインゲームでつくってしまった借金の整理をするために親に頼ることを勧めるのですが、結果的にこれが家族の今までの関係を反省するきっかけにもなってうまくいきます。
教員だった父が子どもへの接し方についての反省を口にしたことによって、カナタさんは今まで知らなかった親の一面を知ることになります。
著者は、実際のカウンセリングは「世界を動かす」ことが中心になるといいます。カウンセリングというと「心を動かす」ことが目的のように思われますが、「心を動かす」には安全な環境が必要であり、まずは環境を変えていくはたらきかけが重要になるのです。
DVがあったらDVがあったらを止める、実際に止めるのは難しくても「それはDVです」と名指すことで認識を変える、そういったことがユーザーと世界の接し方を変えていくのです。
その後の面接の中で、カナタさんは上司が最近離婚していたことを知り、「自分のような部下を持ってイライラするのも仕方がない」と思うようになります。
実際に上司がどんな考えを持っていたのかはわかりませんが、こういった視点の転換や広がりが本人をラクにすることもあるのです。
「作戦会議としてのカウンセリング」は、生活の立て直しを目標としますが、その中でユーザーの生き方も変わってくるのです。
第4章では「冒険としてのカウンセリング」がとり上げられています。いわゆる精神分析やユングの流れをくむ河合隼雄などのやっていたことに近いです(本書を読めばわかるが日本のカウンセリングに対する河合隼雄の影響は大きく、著者もそういった雰囲気の中で学んだとのこと)。
このようなカウンセリングは、時間がかかる贅沢なものであり、基本的に「生存」に力を入れるべきだという批判もあります。
著者はそうした考えに一定の賛意を示しつつも、「生活を守ることで、人生が死んでしまうこともある」(246p)と述べています。
では、どうやって「実存」を変えていくのか? 著者はスライムと鎧という比喩を持ち出します。
人間の心は最初はドロドロとしたスライムのようなものだが、それでは余りに傷つきやすいので、鎧でそれを守るようになります。ところが、この鎧が硬化しすぎて問題化することがあります。硬化した鎧は他者の介入を受け付けずに、傷ついた心は凍結されます。
この傷ついたスライムのような心に対して、鎧を緩めて介入していこうというのが「冒険としてのカウンセリング」です。
「冒険としてのカウンセリング」では、高頻度で長期間会うことによって鎧を揺らし、カウンセラーとの間での「転移」を通じてスライムを生き直します。このとき、カウンセラーは舞台監督となってユーザーの物語を監督し、ときには助演俳優としてユーザーの相手をします。
ここではハルカさんという30代の女性のカウンセリングが紹介されています。ハルカさんは大学の心理学科を卒業したあとに大企業でバリバリ働いているという既婚女性で、「子どもを持つかどうか悩んでいる」というのが主訴になります。
今の時代、「子どもを持つかどうか悩んでいる」というのは多くの女性が持つ悩みかもしれませんが、それをカウンセラーに相談するというケースはそんなにないと思います。この悩みの背景にはおそらくなにかがあるわけです。
そこで著者はハルカさんに「冒険としてのカウンセリング」を提案します。精神分析的なカウンセリングを通じて、自分の人生を見つめ直そうというのです。
著者の経験によれば、隠れた古傷を抱えている人は、どこかしら心が麻痺している、死んでいると思わせる部分があるそうで、例えば、理路整然と自分のことを話しながらも、どこかで上滑りしているような感じや、特定の部分だけ突然解像度が低くなるようなことがあるそうです。
ハルカさんからも「他者(とりわけ夫)と一緒に物事を考えられない」という部分が見受けられました。
このハルカさんとのカウンセリングは最初にも書いたように小説のように劇的で面白いのでぜひ本書を読んで確かめてほしいのですが、ポイントは「人生の脚本は反復される」(283p)ということであり、これをカウンセラーとの間での転移を使って行うことです。
「転移とは人生の脚本がカウンセラーとの間で再演されること」(294p)であり、本書でも著者との間でハルカさんの人生が再演されます。
ハルカさんは周囲の人を軽蔑する傾向があり、それはカウンセラーでもある著者にも向かうのですが、そういった負の感情が3年目に爆発します。著者の筆力もあるのか、ここはハッとさせられます。
ある意味で「破局」にまで行き着き、そこから再生していく。これが「冒険としてのカウンセリング」になります。
普通の本だと、この「冒険としてのカウンセリング」の説明で終わりになりそうなところですが、本書では「カウンセリングの終わり」について1章を割いています。
身体の病気やケガと違って、心の問題は何を持って「治った」とするかが難しく、また、ユーザーをずっと依存させ続けるほうが儲かるという危惧もあるため(新興宗教や占いなどではこうしたことをやっているおそれがある)、「終わり」というものを語ってくれるのは親切だと思いますし、同時にカウンセリングが専門知としてしっかりと認知されていくためにも必要なものでしょう。
カウンセリングは1回ごとの面接に終わりがあります。ここで「他人であることの根源的なさみしさ」(349p)を感じることがあります。しかし、同時に「終わりは孤立ももたらすし、自立ももたらす」(353p)という面があります。この孤立と自立の葛藤の中でカウンセリングは「終わり」を迎えるのです。
もちろん、うまく終われなかった(途中で来なくなってしまったなど)カウンセリングもありますが、ヤマをこえたユーザーとカウンセラーは「終わり」について話し合います。
ハルカさんのケースは8年間もカウンセリングを続けたといいますが、それだけの時間をかけて「古い物語を終わらせる」ということをやっています。
著者は「カウンセリングとは何か?」という問いに対して、「それは生活を回復するための科学的営みでもあり、人生のある時期を過去にするための文学的営みでもある」(424p)と述べています。
この「科学」と「文学」の両面に目配せができているのが本書の特徴であり、良い点だと言えるでしょう。
カウンセリングのようなものにやや懐疑を抱いている人にも、カウンセリングに大きな期待を寄せている人にもお薦めできるという稀有な本に仕上がっています。
「カウンセリングとは何か」という難問に非常にうまく答えて見せた本だと言えると思います。