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2021年10月

伊藤俊一『荘園』(中公新書) 8点

 日本の古代史〜中世史にかけてのキーワードでもある「荘園」。中学の歴史の教科書にも載っているので多くの人が知っているでしょうが、「荘園とは何か?」と訊かれるとなかなか説明が難しいと思います。
 本書は、そんな荘園の成り立ちと変遷を解説した本ですが、同時に荘園についての一般的な理解を修正する本でもあります。
 高校の日本史ですと、墾田永年私財法をきっかけに初期荘園が成立し、その後、摂関政治〜院政期に開発領主から貴族や大寺社への寄進によって寄進地形荘園が成立する。しかし、鎌倉期の地頭による侵略され、室町時代になると決定的に衰えて太閤検地で完全に終止符を打たれるというような説明だと思います。
 これに対して、本書は近年の過去の気温や降水量の推定に関する研究を引きながら、荘園の成立と発展を自然条件と関連付け、なおかつ、院政期に成立した領域型荘園を1つの画期に位置づけています。
 「荘園」という多くの人が知っていることを解説しつつ、その理解を更新する本とも言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 律令制と初期荘園
第2章 摂関政治と免田型荘園
第3章 中世の胎動
第4章 院政と領域型荘園
第5章 武家政権と荘園制
第6章 中世荘園の世界
第7章 鎌倉後期の転換
第8章 南北朝・室町時代の荘園制
第9章 荘園制の動揺と解体
終章 日本の荘園とは何だったのか

 初期荘園成立のきっかけは墾田永年私財法となりますが、それ以前でも、例えば長屋王は父の高市皇子から引き継いだ広大な田地を保有しており、そこは長屋王から派遣された役人によって経営されていました。こういった皇族・貴族による大土地所有を「古代荘園」と呼ぶこともあります。

 それでも基本は公地公民制でしたが、この制度のもとでは人々が新たな農地を開発するインセンティブを持たないことが問題でした。実は唐の律令には墾田の私有を認める規定があり、これを子孫に伝えることができたのですが、日本の律令にはなかったのです。
 また、中国の均田制は畠作地帯で生まれたものですが、日本の水田はそれよりも開発に手間がかかるようになっており、そこにも問題がありました。

 そこで723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法が出されるわけですが、この間の730年代後半には天然痘の大流行が起こり、人口の1/3ほどが失われたとも考えられています。人口が減少し、農地が荒廃する中で、再開発や新たな開墾が求められたことが、墾田永年私財法の背景にはありました。
 
 墾田永年私財法をきっかけに開発された荘園を初期荘園といいます。このときの荘園は墾田と開墾予定地に倉庫兼管理事務所の荘所が付属したもので、荘所には農具や種籾や人夫に支給する食料などが収められていました。
 初期荘園には基本的に専属の農民はおらず、周辺の農民が出作して収穫の2〜3割を収めていました。農民にとってはパートに出るようなものだったと考えられます。
 初期荘園の持ち主としては東大寺が有名ですが、これは史料が残っているからであって、貴族たちも東国を中心に荘園をつくりました。また、天皇や上皇のための荘園を勅旨田といいます。

 9世紀後半になると律令制は大きく揺らいできますが、この背景にあったのは864年の富士山噴火、869年の貞観地震などの天災と天候不順です。
 9世紀後半には降水量が多くなり、10世紀になると温暖化と乾燥が進みます。こうした中、9世紀後半には古代村落の消滅が見られるようになり、郡司層が没落していきます。代わって富豪層と呼ばれる有力農民が力を持つようになり、この富豪層が貴族や中央の官庁と結んで戸籍を離れた浪人となった農民などを使って荘園を経営するケースが出てきました。これを止めようとしたのが902年の延喜の荘園整理令です。

 しかし、律令制解体の流れはいかんともしがたく、税制は人頭税から地税へと転換していきます。有力農民である田堵の請負制が採用されていきます。
 この変化を主導したのは中央政府ではなく地方の国司(受領)でした。受領は決められた税さえ中央政府に納入すれば国内の経営や徴税について干渉されなかったために、任国で自由に手腕を振るうようになります。
 一方、田堵は農業経営のための資材と資本を持つ「プロ農民」(40p)のようなもので、国司も彼らを使って国内の経営を行いました。

 国司は課税額を決める権限も移譲され、さまざまな意図から私領に対する税の減免も行いました。摂関期の荘園はこうした私領(免田)が集まったものであり、荘園領主が招き寄せた田堵らによって耕作されました。
 国司は税の減免を行いましたが、その任期は4年であり、次の国司は新たに検田を行い、長らく耕作実態のない私領・荘園を没収したりもしました。こうした中で私領が公領に、そしてまた私領になるといったことが繰り返されます。

 律令国家では徴兵制をとっていましたが、9世紀になって国際的な緊張が緩まるとこれが停止され、地方の軍団も廃止されていきます。
 しかし、この軍縮は地方での盗賊団の跋扈を招き、これに対抗するために東国の国司たちは蝦夷から乗馬術を学んで軍団を再建し、群盗化した富豪層の一部を取り込みました。こうして武士や武士団が生まれてくることになります。
 一方、11世紀なかばになると気候変動も落ち着き、新しい集落が生まれ、平野部での水田の開発が進むことになりました。

 このころ、国衙は郡の権限を吸収し、そこで地元の有力者である在庁官人が働くスタイルが定着していました。また、別名制という、公領を再開発した有力者に対して国衙がその管理権や徴税権を与え、郡や郷を経由せずに直接納税する制度も生まれ、これによって長期的な開発が可能となりました。
 「職(しき)」と呼ばれる役職の世襲から生まれた権利形態が生まれてくるのもこのころで、これらのことによって地方では在地領主と呼ばれる新たな有力者が生まれます。彼らの多くは受領に伴って都から下った中下級貴族の末裔で、中央の上級貴族と繋がりを持ちながら、地方での土地支配の権利を確保していきました。

 1068年、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると、翌年に延久の荘園整理令を発布します。それまでの荘園整理令は実施が国司に委ねられていましたが、それでは国司の人事権を握っている貴族の荘園には手が出せなかったため、後三条天皇は中央に記録荘園券契所を設置しました。
 この荘園整理令は効果を発揮し、多くの荘園が停止されます。しかし、同時に荘園の存廃は4年で交代する国司によってではなく、記録荘園券契所が事務的に判断するものとなったため、荘園の地位は安定しました。

 その後、白河天皇が上皇として院政を始めます。この時代、白河天皇による法勝寺の他、天皇や上皇らによる御願寺が次々と建てられますが、この運営費用を賄ったのが荘園でした。
 白河上皇が設定した荘園は、院庁から命令で設立され、最初から不輸・不入の権を持つもので、完全にその地域一帯を囲い込んで支配するものでした。こうした荘園を領域型荘園といいます。
 この時期には一国の税からの収益を皇族や貴族・自社に与えるという知行国制も導入されました。今まで、皇族や上級貴族は「偉すぎて」地方の政治に関わることはできませんでしたが、知行国ではこれが可能になりました。
 国司が止めても知行国主の了解が取れれば、領域型荘園を設定できるようになったのです。
 
 この領域型荘園は在地領主にとっても都合の良いものだったと考えられます。荘園の領域を示す四至に囲まれた場所は自由に開発できたので、より長期的な開発が可能になりました。
 領域型荘園は、在地領主による寄進だけではなく、上皇や摂関家の権力により囲い込みで大きく発展しました。在地領主と上皇や摂関家を仲介したのが院近臣や后妃の女房、摂関家の家司などでした。
 在地領主は下司などの荘官になり、院近臣や女房、家司などが領家となり、天皇家や摂関家が本家になるという三層構造のピラミッド体型が出来上がったのでし。これを「職の体系」といいます。

 鳥羽上皇の時代になると、荘園の設立はさらに大規模に、そしてシステム化されていき、巨大荘園群が出現することとなりました。
 こうしたことが書かれている本書の第4章の最後で、著者は「寄進地形荘園」という言葉と「鹿子木荘」の史料に触れています。
 著者は、「寄進地形荘園」という言葉は免田型の荘園を指すのか領域型荘園を指すのかわかりにくく、院政期における領域型荘園の成立という画期も捉えられないということでこの用語を使ってません。免田型の荘園にあとから不輸・不入の権が与えられたケースも有るのですが、寄進だけでは、院という権力が主導した荘園形成を説明できないのです。
 また、鹿子木荘については、開発領主とされている寿妙は在地勢力ではなく受領を務めるような中央の貴族で、その孫の高方にも400石の年貢を収められるようん大荘園を開発する力はありませんでした。開発の中心は最初に寄進を受けたという太宰府大弐の藤原実政であり、実政の失脚によって消滅した荘園が、高陽院を本家とする領域型荘園として復活したというのが正しいところらしいのです。

 保元の乱と平治の乱を経て平清盛が政治の実権を握りますが、平氏の台頭の裏にも荘園がありました。
 清盛は後白河上皇と結んで次々と荘園を設立していきます。鳥羽上皇の遺領の大部分は後白河上皇の妹の八条院に受け継がれており、後白河上皇は地方の平氏勢力と結んで荘園を設立し、その領家職や荘官職に平氏の一族・郎党に分配されました。
 さらに清盛は娘の盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせていましたが、基実が若くして亡くなると、盛子が摂関家領の大半を管領することになりました。
 このように広大な荘園を支配した平氏政権のもとで、現在も使われている基幹用水路が整備されたという伝承も各地に伝わっています。
 また、この時期から拡大した日宋貿易によって大量の宋銭が流入したことも、のちの日本と荘園に大きな影響を与えることになります。

 平家政権の末期には低温と旱魃の影響で養和の飢饉が発生します。そうした中で挙兵した源頼朝は、富士川の戦いで平氏の軍を破りますが、ここで頼朝は敵方に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えるという行為をします。
 その後の武家政権では当たり前の行為ですが、当時としてはとんでもない脱法行為でした。荘園の下司職などの任免権は領家や本家にあり、それを勝手にすげ替えることなど許されなかったのです。
 しかし、当時の頼朝軍は反乱軍であり、既存の秩序を無視してこれが行われました。そして、木曽義仲が京で問題となると、後白河上皇は「寿永二年十月宣旨」で、この頼朝の脱法行為を追認したのです。
 さらに義経と範頼が義仲を討ち、平氏を一ノ谷の戦いで破ると、平氏没官領500ヶ所あまりの荘園がすべて頼朝に与えられ、頼朝は巨大な荘園領主となりました。頼朝は、こうして得た荘園などの所職の名を地頭職という名に統一し、恩賞としてこれを与えていきます。

 さらに義経の要求で後白河法皇が頼朝討伐の宣旨を出すと、頼朝はこの責任を追求し、守護と地頭の設置を認めさせます。ただし、実際にこのときに設置されたのは国単位の国地頭で、これがのちに守護職になっていったようです。
 この一連の動きの中で、今まで荘園領主や知行国主が握っていた荘官や郡郷司の任免権が幕府に移ります。
 地頭となった彼らは荘園領主や知行国主から解任されることがなくなり、その立場は大きく強化されました。著者は「いわば在地領主層による強力な労働組合ができたようなものだ」(124p)と述べています。
 ただし、地頭は同時に領家や本家に年貢・公事物を収めるという義務を負ったことから、、荘園制を安定させる働きもしました。年貢の未進を繰り返せば地頭は解任されることもあり、鎌倉幕府は在地領主の離反による荘園制の崩壊を押し止めるはたらきもしました。
 また、荘園と公領の比率も全国的におおむね6対4で落ち着きます。

 鎌倉幕府の成立によって荘園の新設はほぼ止まりますが、中世の荘園は独立した小世界となりました。荘官は警察権や検断権を持つようになります。一方で年貢を払った上で荘園を移動するのは百姓の権利であり、百姓は荘官に完全に隷属してわけではありませんでした。
 荘園が安定するとともに新田開発も増えますが、鎌倉時代後期になると荘園を超えた大規模開発が難しかったこともあって土地の効率的な利用が模索されます。
 荘園が山野も囲い込んだことから、草木やそれを焼いた灰が肥料としてさかんに使われるようになり、百姓が牛馬を飼って牛馬耕を行うことや二毛作も普及していきました。

 荘園の中では地域的なまとまりである村や郷が生まれます。中世後期になると徴税単位の名よりもこの村が重視されるようになり、鎮守社寺の祭礼を担った宮座を中心に惣郷や惣村が形成されることになります。
 近畿、瀬戸内海、九州など京へ開運が使える地域の年貢は米で納められましたが、その他の地域からの年貢は絹布や麻布のような現物貨幣としても使われるもので納められることが多く、塩や鉄を年貢として納めていた地域もありました。
 こうした年貢の輸送を請け負ったのが問や問丸といった倉庫・運送業者です。問丸は商品の中継や卸売などもするようになり、荘園というしくみから商業が発展していくことになります。
 
 鎌倉時代後期になると、地頭は年貢納入の義務を負ったものの、荘官の任免権を失った本家・領家の力は弱くなり、荘園の支配をめぐって地頭と領家が争う事態が頻発します。
 解決方法としては、地頭が荘郷の支配を完全に請け負う地頭請と、領家と地頭で支配領域を折半する下地中分がありました。
 また、領家と本家の争いも起きましたが、鎌倉時代の本家に院政期のような力はなく、領家の権利が重視される傾向が強かったようです。

 鎌倉時代には、1230〜32年の寛喜の飢饉、1258〜60年の正嘉の飢饉という2つの大きな飢饉があり、これを機に二毛作が普及します。
 銭の流通がますます盛んになり、年貢の絹布や麻布が銭に置き換えられます。さらに年貢米までもが銭に置き換わり、商業が発達しました。
 また、年貢の収納や貸付などのを通じて莫大な富を蓄積する有徳人といった人びとや、既存の秩序に反抗する悪党といった人びとも登場します。

 鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まりますが、後醍醐天皇は寺社・公家、武士の区別なく恩賞を与えたので、武士が本家になったり、貴族が地頭職を所有したりするようになりました。ピラミッド型の「職の体系」は崩れたのです。
 ここから南北朝の動乱、守護権力の拡大によって遠隔地の荘園の支配が困難になり、荘園は衰退していくというのが多くの人の理解かもしれませんが、ここでも荘園はしぶとく生き残ります。それを可能にしたのが守護在京制でした。

 足利義満は守護権力の削減を図るとともに、守護大名を常時京都に置く守護在京制の導入に踏み切ります。京都にいる守護大名は貴族や僧侶などと交流を持つようになり、そこから公家や寺社が地方の所領支配について守護権力と折衝する道が開かれました。
 この時代には武家が帰依した禅寺や八幡宮の荘園も増えており、禅僧の代官も増えています。禅僧は守護大名との人脈を持ち、各地で活躍しました。
 また、守護自らが代官の役目を果たす守護請も行われましたし、資金力を持つ土倉や酒屋が代官を務めることもありました。

 しかし、代官を使った荘園経営の外注化は領主権の空洞化と弱体化ももたらしました。一方、村では今までばらばらに建っていた屋敷が一箇所に集中するようになり、農作業においても村の中での協力が進みます。百姓たちの団結力は強まり、一揆を結んで代官や荘官に抵抗するようになりました。
 
 そして、応仁の乱と明応の政変によって荘園の運命は絶たれます。応仁の乱によって守護たちは京都を離れ守護在京制が崩壊し、寺社本所領や幕府御料所・直臣領などの押領を続ける近江守護六角高頼を打つ企てが失敗して、守護を抑え込もうとした足利義材がクーデターで追放されると、もはや荘園領主の領主権を守る存在はいなくなり、荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失っていくのです。

 このように本書は荘園の誕生から消滅までを追っています。かなり広い時代を扱った通史的な記述ながら、教科書レベルの理解から一歩踏み込んだ議論がなされており、非常に刺激的な内容だと思います。過去の気候変動を織り込んだ記述も、社会の変化を考える上で新しい視点を提供してくれるものだと思います。
 荘園をめぐる議論について知らなければ、多少難しく感じる部分もあるでしょうが、少なくとも日々荘園の説明と格闘してきた歴史の教員にとって必読の書と言えるでしょう。

濱口桂一郎『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書) 9点

 著者が2009年に同じ岩波新書から出した『新しい労働社会』は、ここ20年程度の中でも非常に大きな影響力をもった1冊で、ここで提示されたメンバーシップ型とジョブ型という雇用のあり方を示す言葉は広く流通するようになりましたし、話題になった筒井淳也『仕事と家族』(中公新書)や小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書)も『新しい労働社会』で示された日本的雇用の問題を下敷きにしています(ただし、『日本社会のしくみ』では著者の『日本の雇用と労働法』(日経文庫)や『若者と労働』(中公新書ラクレ)があげられている一方で、『新しい労働社会』は参考文献にあげられていない)。
 しかし、一方で著者の考え、特に「ジョブ型」は誤解され続けており、一部(特に日経新聞)では成果型の変形としてこの言葉が使われています。

 そんな状況に対し、世の「ジョブ型」に対する誤解を正しつつ、もう1度日本の労働法と雇用の現実の間にある矛盾を掘り下げて、近年の労働政策を検証しています。
 基本となる構図は『新しい労働社会』で示されていたものですし、その後も著者はさまざまな本で問題を論じ続けてきたわけですが、それでも今作の議論は刺激的です。特に日本の労働法の矛盾が鋭く抉り出されており、この問題の根深さを改めて教えてくれます。
 『新しい労働社会』につづき、日本の雇用問題、そして日本社会の問題を考える上で重要な論点を示してくれた本と言えそうです。

 目次は以下の通り。
序章 間違いだらけのジョブ型論
第1章 ジョブ型とメンバーシップ型の基礎の基礎
第2章 入口と出口
第3章 賃金―ヒトの値段、ジョブの値段
第4章 労働時間―残業代と心身の健康のはざま
第5章 メンバーシップの周縁地帯
第6章 社員組合のパラドックス

 2020年6月8日付の日経新聞に「ジョブ型」の解説には次のように書かれていました。

 終身雇用を前提に社員が様々なポストに就く日本のメンバーシップ型とは異なり、ポストに必要な能力を記載した「職務定義書」(ジョブディスクリプション)を示し、労働時間ではなく成果で評価する。職務遂行に能力が足りないと判断されれば欧米では解雇もあり得る。(5p)

 まず、職務定義書に「ポストに必要な能力が記載」していませんし、「労働時間ではなく成果で評価する」というのもまったくの間違いです。また、解雇がしやすくなるとの記述も誤解を招くものです。
 職務定義書には職務が記述されており、それに必要な技能(スキル)はありますが、それは日本的な「能力」とは違うものですし、何よりもジョブ型は与えられた職務をそのとおりに実行することが求められるわけであり、そこに「評価」はありません。職務ができていれば決められた賃金を払うだけなのです。
 解雇に関しても、解雇が自由なのはアメリカであり、他のヨーロッパ諸国において解雇が自由などということはありません。

 日本型雇用の特徴は、終身雇用・年功序列・企業別労働組合の3点セットだと言われますが、著者は職務と人の結びつけ方にあるといいます。
 欧米では一般的に遂行すべき職務が雇用契約に明確に規定してあり、そこに人がはめ込まれていきますが、日本では職務が特定されていないのが普通で、人がさまざまな職務にはめ込まれていきます。前者がジョブ型で後者がメンバーシップ型です。
 ジョブ型ではその職務がなくなれば雇用関係は終了となりますが、メンバーシップ型では現在の職務がなくなれば他の職務に異動していきます。その結果、終身雇用慣行が生まれます。
 賃金もジュブ型では職務によって賃金が決まっています。一方、メンバーシップ型では賃金は職務で決まらずに職務と切り離したヒト基準で決まります。ここから年功序列型賃金が生まれます。
 ジョブ型では労組と企業の間で職種ごとの賃金が決まりますが、日本では総額人件費をどれくらいにするかが交渉の的です。そのため労組は企業別になります。

 しかし、日本の実定法はジョブ型を基本としています。民法は雇用契約を労働に従事することと報酬を支払うことを対価とする債権契約と定義していますし、従業員は株主などを指す「社員」ではなく「労務者」です。
 労働組合法や労働基準法も、基本的には企業と労働者は取引相手であるという枠組みに則っており、労働組合も取引相手である労働者にカルテルの結成を認めたものです。
 ただ、この法の立て付けと実際の日本の雇用システムは違います。そこでそれを埋めてきたのが裁判所の判例です。裁判所は「権利の濫用」という例外的な規則を持ち出して、日本の雇用ルールを形作ってきたのです。

 ジョブ型とメンバーシップ型で大きく違うのは入口の部分です。ジョブ型では具体的な職務があり、それができる人が募集されます。ですから経験者が有利です。一方、メンバーシップ型ではやるべき職務が決まっていないので、とりあえずいろいろなことができそうな若者が採用されます。
 ジョブ型だと採用時における差別というのもわかりやすいです。スキルが高いにもかかわらず人種や性別や障害などで採用されなければ、それは差別です。
 一方、メンバーシップ型では長期間の信頼関係が持ち出されます。三菱樹脂事件では学生時代に学生運動をしていた過去を隠していた労働者が本採用を拒否されてます。

 年齢差別に関しても、労働施策総合推進法にはそれを禁ずる規定がありますが、同時に「長期間の継続勤務による職務に必要な能力の開発及び向上を図ることを目的として」(62p)年齢制限をすることが認められており、大きな穴が開いています。
 
 メンバーシップ型雇用の入口は、入口以前の教育にも大きな影響を及ぼしています。
 ジョブ型では、労働者は当該職務を行う上での一定の訓練を受けていることが想定されています。徒弟制が存在しないのであれば、これを行うのは学校などの教育訓練機関です。
 しかし、メンバーシップ型では労働者は未経験が前提であり、訓練はOJTによって行われます。ですから、学校で何を学んだかは求められず、求められるのは「地頭の良さ=偏差値」になります。
 以前は、政府も日経連も職業教育を重視するように求めていたのですが、日教組はこれに対して冷ややかでした。ここには生徒の「能力・適正・進路による選別」を否定したことが、偏差値という一元的なふるい分けにつながったという逆説があります(73p)。

 日本の大学もまた日本型雇用の影響を大きく受けました。日本の大学の特徴に授業料の親負担主義がありますが、これが可能だったのは年功賃金のおかげです。そして、日本の大学が大衆化の中でも純粋アカデミズムの世界を維持できたのは、企業が大卒の学生に職業上のスキルを求めなかったからです。

 メンバーシップ型雇用の出口は定年です。日本では当たり前ですが、これも年齢差別の一種であり、アメリカでは禁止されていますし、ヨーロッパ諸国でも年金支給年齢を下回る定年は違法です。
 かつては雇用の終了を意味した日本の定年ですが、現在では高年齢者雇用安定法によって65歳までの継続雇用が義務付けられており、定年は今までの雇用条件が一旦リセットされる契機となっています。
 多くの場合、ここで賃金水準が下がるわけですが、年功賃金を説明する蓄積された「能力」が60歳を境に急に落ちるわけでもありませんし、ほぼ同じ仕事を継続していやるケースも多いので、この賃金低下はジョブ型からも説明できません。
 結局は、中高年の給与が高すぎるからなんとかしなければならないという話で、実際、長澤運輸事件では定年前と同じトラック運転手の仕事をしているのに賃金を3割下げられたのは違法だという訴えに対して、最高裁は基本的にそれは不合理ではないとしています(102p)。

 定年ではない出口は解雇です。ジョブ型だと解雇の原因としてその職務がなくなることがあります。また、スキル不足によって試用期間内に解雇されることもあります。
 一方、日本ではその職務がなくなってもすぐに解雇されたりはしません。配置転換をすればいいからです。ところが、残業や転勤の拒否は解雇の理由になります。会社への忠誠心の欠如こそが問題となるのです。その意味ではメンバーシップ型は解雇されにくいとは言えません。
 
 ただし、中小零細企業に行けば、日本はかなり自由に解雇が行われています。都道府県労働局のあっせん事案を見ると、有給を申請したら解雇、労基署に未払い賃金を申告したら解雇といった事例がたくさんあります(124−125p)。また、経営悪化による整理解雇も多いです。
 労働局のあっせんは任意であり、会社が不参加のケースも多く、解決金が出たとしても10万円台が多く、約8割が50万円以下です(127p)。
 日本では解雇に対して、裁判所が「権利の濫用」を用いて正当な事由のある解雇以外を認めてきませんでしたが、だからこそ解雇の金銭解決制度が確立されず、裁判に訴えられない中小零細の労働者が泣きな入りしている現状があるのです。

 ジョブ型では職務によって賃金は決まっています。「職務評価」という言葉がありますが、これは職務の内容の評価であってヒトの評価ではありません。
 しかし、定期人事異動が当たり前のメンバーシップ型においてこのやり方はできません。定期の異動で職務が代わったからといって給与を下げることは難しいからです。

 日本の年功賃金は、国家総動員体制のもとで賃金統制が行われ、そこで軍が年功的な賃金の採用を支持したことから始まります。そして、この生活給的な賃金の考えは戦後の労組にも引き継がれました。
 1950、60年代は経営側は職務給を提唱し、政府もそれを後押ししていましたが、60年代末になると経営側も年功賃金を支持するようになり、「能力」なるものを重視するようになります。

 この「能力」は特定の技能ではなく、与えられた仕事をこなせる潜在能力のようなもので、基本的に長期的な勤務の中で向上し、下がることはないと想定されています。結果的に年功賃金になるので生活給を重視していた労組にも受け入れやすいものでした。
 そして、この「能力」とは往々にして「生活態度としての能力」(熊沢誠)でした。考課の中心は情意考課で、一言でいうとやる気、具体的にいうと残業をいとわない長時間労働が評価されたりするわけです。
 しかし、バブル崩壊以降、人件費抑制のために「成果主義」が導入されますが、もともとの職務が明確でないために多くの人が不満を溜め込むことととなりました。

 2016年、安倍首相は「同一労働同一賃金の実現に踏み込む」と発言しました。これを本当に実現するには今までの「能力」に基づいた年功的な職能給を解体することが必要ですが、やはり政府もそこまでラディカルな考えを持っているわけではありませんでした。
 結局は「職務内容、職務内容・配置の変更範囲、その他の事情」という今まで通りの基準で賃金差別が認められることとなりました。

 日本ではたびたび長時間労働や過労死が問題になっていますが、長時間労働そのものの規制はなかなか進みませんでした。
 日本では一定の残業がそもそも前提とされていることがあり、1985年の日産自動車事件では組合員にのみ残業を命じないのは不当労働行為であるとの判決が出ています。ここでは残業が一種の権利として捉えられています。
 労組も雇用維持を重視する中で、残業を一種の糊代として捉えており、残業時間規制はその糊代を失わせるものとして反対の姿勢をとる労組が多かったのです。

 欧米では管理職となるエリートと普通の人々の世界ははっきりと分かれていますが、日本では普通の人々も擬似エリートとして猛烈に働いています。
 欧米では普通の人々とエリートが競争することはありませんが、日本では擬似エリートとして競争しています。このエリートに追いつく手段が長時間労働であり、これを認めるのが日本のガンバリムの平等主義です。

 ただし、誰でもが長時間労働を頑張れるわけではありません。ここで排除されるのが子育て中の女性などです。
 女性の社会進出が進み少子化が問題になると、育児休業法などが整備されていくわけですが、同時に男女平等のために女子の深夜業の禁止などの保護規定が撤廃されます。ところが、日本には男女共通の労働時間規制はありませんでした。
 また、日本の裁判所は転勤を拒否した労働者の解雇を認めており(東亜ペイント事件)、子どもを保育園に送り迎えしていた女性が目黒区から八王子への異動を拒否したことに対する解雇も認めています(ケンウッド事件)。ライフ(生活)への配慮はなされていない状況です。

 過労死が問題となり、2018年に労働基準法が改正され、残業は月45時間、例外的な場合でも月平均80時間、単月100時間未満という規制が導入されました。
 それとともに月100時間を超える時間外労働に対しては医師の面接指導が義務付けられたのですが、ここで著者は会社と労働者が取引相手だという前提がどこかに飛んでしまっているといいます。会社が従業員の健康状態を把握することは会社にプライバシーを委ねていることでもあるのです。
 特に過労自殺の問題とともに重視されるようになってきたメンタルヘルスは、プライバシーの中でも特に問題となりやすいものです。労働者が企業の一因であれば、それを把握して配慮してくれるかもしれませんが、「企業と労働者は赤の他人だという考え方からすれば、メンタルヘルス不調に陥った労働者は配慮よりも排除の対象となる」(224p)かもしれないのです。

 日本のメンバーシップ型雇用というのは、あくまでも大手企業の男性を中心としたものであり、その周縁ではさまざまな齟齬が生じています。
 例えば、それは女性であり、障害者です。障害者に関してはジョブ型であれば、障害者のできる仕事をあてればいいわけですが、日本ではあくまでも別枠として雇用する形になりました。
 
 外国人労働者についても問題があります。本書では技能実習生の問題についても触れていますが、ここではハイエンドの外国人労働者の問題を紹介しておきます。
 普通のホワイトカラーのサラリーマンの仕事に相当する在留資格が技術・人文知識・国際業務のいわゆる「技人国」です。この資格は大学での専攻と業務の関連を要請していましたが、これではまず単純作業からという日本の働かせ方ができません。そこで2018年には飲食・小売店などのサービス業務ができるように改正されました。
 外国人の受け入れに関しても、法の立て付けはジョブ型になっていながら結局は日本の雇用の現実に押し流されていっているのです。

 最後の章で労働組合がとり上げられています。日本の企業別労組が経営側と癒着しやすいということは今までも指摘されていたことですが、ここではヨーロッパにある従業員代表機関のはたらきを念頭に置きながら、日本の企業別労組を検討しています。
 日本の労組の起源は産業報国会にあります。産業報国会は社長以下の従業員全員が参加する機関でしたが、戦後はここから上層部が排除されて企業別労組となります。企業と対決するよりも、企業経営の内部に入って効率を高めることが目指され、労組は企業のインサイダーとなりました。日本の企業別労組は従業員代表機関と労組の二役を兼ねるような存在になったのです。

 そうしたこともあり、企業と争うような交渉は企業外のコミュニティ・ユニオンが担うようになります。労組の本来のあり方からするとおかしなものですが、これが企業別労組からこぼれ落ちた人の救済手段となります。
 この企業別労組からこぼれ落ちているのは非正規労働者も同じです。日本では従業員代表機関が企業別労組に統合されているがゆえに、労組に入れない非正規労働者は救済されにくくなっています。
 これに対して、著者は企業別労組の機能を組合機能部と従業員代表機能部に分けることを提唱していますが、その実現性については難しいとも認識しています。

 この他にも興味深い部分はたくさんあるのですが、きりないのでこのあたりまでにしておきます。
 著者の考えについては何冊かの著作を読んでだいたいわかっていましたが、本書を読んで改めて感じるのが法律と現実の齟齬であり、その齟齬を法を現実に寄せる形で解決してきた裁判官たちの問題です。
 もちろん、日本型のメンバーシップ型雇用にも利点はあり、一概に否定されるものではないかもしれませんが、この長年積み重なってきた法律と現実の齟齬がさまざまな問題を生み出していることがこれでもかと書いてあります。
 そして、本書からは、一部の大企業の労働者のための法解釈や労働政策が、中小企業の労働者や女性、障害者、非正規雇用をかえって不利な立場に追いやっているということが見えてきます。
 問題を切れ味鋭く論じるだけではなく、日本の労働法と現実の間の齟齬を厳しく告発する本だと言えるでしょう。


清水唯一朗『原敬』(中公新書) 8点

 今年で没後100年を迎えた原敬の評伝。日本初の本格的な政党内閣を組織し、日本の議会政治を大きく前に進めた人物ですが、板垣退助や尾崎行雄のように議会政治の「シンボル」のようなイメージがないのも原の特徴でしょう。
 その、どちらかというと玄人受けする原の業績を、一般の人にもうまく伝わるように書いてあるのがこの評伝の特色であり、権力志向の人物と思われがちな原について、当時の時代状況をうまく説明することで、その理想や原を後押ししたものがわかるような構成になっています。
 著者は同じ中公新書の『近代日本の官僚』でも膨大な情報量を読みやすい文にうまく落とし込んでいましたが、本書も詰まった内容ながら読みやすいです。
 個人的に原敬というとテツオ・ナジタ『原敬―政治技術の巨匠』のイメージが強いのですが、それに比べるとこちらは「明るい」原敬を描いていると思います、

 目次は以下の通り。
第1章 明治維新後の新時代―激変のなかを生きる
第2章 興隆期の官界中枢へ―建設と発展のために
第3章 政界再編、政治への参画―立憲政治の始動
第4章 政権への接近―桂園体制の七年間
第5章 大正デモクラシーの時代―政界トップへの道
第6章 近代日本の政党政治確立へ―第一次世界大戦後
おわりに―原敬が遺したもの

 原敬は1856年に南部藩の家老格に家に次男として生まれています。原が9歳のときに父が亡くなり原家は困難に見舞われますが、それ以上に大きかったのが戊辰戦争のおける南部藩の敗北でした。
 こうした中で、盛岡でも秀才と呼ばれていた原は15歳のときに勉強のために東京へと向かいます。その後、東京から一時盛岡に帰った原は名前を健次郎から敬に改めています。兄の平太郎(→恭(ゆたか))をはじめ兄弟揃って改名しており、期するものがあったのでしょう。

 しかし、原はしばらく自分の道を見つけられずにいます。海軍兵学寮を受験するも失敗、宿泊費と食費が無料であったラテン学校に寄寓します。その後、カトリックの洗礼を受け、布教活動をしていたフェリクス・エヴラール神父とともに行動をともにしました。
 その後、エヴラールと別れた原は盛岡に帰ると、実家の戸籍を離れて自ら「平民」となりました。落ちぶれていく士族ではなく「平民」こそが新しい時代をつくっていくという想いがあったと思われます。

 1876年、原は司法省法学校に合格します。フランス語とフランス法を学ぶ学校で、ついに官吏への道が開けたわけですが、ここを小さなトラブルが原因で放校処分になってしまいます。
 官吏への道が絶たれた原は、中江兆民の仏学塾に通い、民権運動の記事を書くようになります。さらに1879年には栗本鋤雲が主筆を務める『郵便報知新聞』に入社し、外字紙の記事の翻訳・転載をする外報欄を任されました。

 明治14年の政変が起こると、大隈重信とその一派が政府から追放され、大隈とともに下野した矢野文雄が『郵便報知新聞』を買収し、犬養毅や尾崎行雄といった論客も加わりました。それとともに居場所のなくなった原は退社することになります。
 ここで井上馨から声がかかり、政府が大阪で発行する『大東日報』で働くこととなりますが、同じく政府が用意していた立憲帝政党の位置づけなどめぐった対立もあり、わざか7ヶ月で原は退社しました。

 しかし、井上の伝手もあって原は外務省に入ります。外務省はフランス語話者の不足に悩まされており、司法省法学校生に目がつけられたのです。原は文書や情報の翻訳などにあたることになります。
 83年には太政官御用掛に異動して『官報』の編纂に携わり、さらに同年11月には天津領事となります。井上と親しい中井弘の娘・貞子との結婚も決まり、原は藩閥のサークルへと入っていくのです。

 天津は李鴻章の本拠地でもあり、甲申事変の事後処理のための天津条約が結ばれた場所でもあります。原は交渉のためにやってきたは伊藤博文の知己を得て、その仕事ぶりも評価されます。
 1885年には外務書記官としてパリ公使館への赴任を命じられ、ここで駐オーストリア公使の西園寺公望などとの関係を深めました。
 井上が外国人判事の任用問題で批判されて辞職すると、しばらくして原も帰国し、今度の農商務相参事官となります。井上の後任の大隈は原を良く思っておらず、農商務相となっていた井上が原を引き取ったのです。

 この農商務省に大臣して陸奥宗光がやってきます。これが原にとって運命の出会いでした。原の才能を見抜いた陸奥は原に省内の改革を行わせ、陸奥が外相になると通商局長に原を据えました。ここでも原は外務省改革の中心となり、外交官試験制度の導入などを行っています。
 日清戦争後の1895年には外務次官となりましたが、このとき陸奥は病気で、原が事実上の大臣ともいえる存在でした。
 しかし、朝鮮では三浦梧楼が閔妃殺害事件を起こすなど出先の暴走に悩まされ、自ら駐朝鮮特命全権公使となりましたが、大隈が外相になるとこの地位を降りています。

 その後、原は『大阪毎日新聞』の編集長に誘われます。原はいつでも退社できること条件にこれを引き受け、家庭欄の新設、義太夫や俳優の人気投票などを企画を立ち上げ、部数を伸ばしました。
 この間に師とも言える陸奥を失った原でしたが、伊藤博文が立憲政友会の結成に動くと、憲政党とパイプになれる人物として原に白羽の矢が立ちます。ただし、立憲政友会とともに成立した第4次伊藤内閣では原はポストを得られませんでした。入閣が絶望的になると貴族院への勅選を求めています。このときはまだ政党政治家になる覚悟がなかったとも言えます。
 原は政友会の総務委員兼幹事長のポストに食い込み、星亨が汚職疑惑で辞職すると後任の逓相となります。しかし、党と渡辺国武蔵相の対立から第4次伊藤内閣は短命に終わりました。

 政友会は下野しましたが、原は政友会から離れませんでした。西園寺とともに伊藤に総裁にとどまるように説得し、星亨、尾崎行雄、片岡健吉、大岡育造、そして原の5人が常務委員となりました。そして、政務調査局を設けて地方遊説を行うなど、党の機能強化と党勢の拡張に務めました。
 1901年に星が暗殺され、伊藤が洋行に出たことで政友会は浮足立ちます。議会では桂太郎に50名近い議員が切り崩されるなど政友会は統率の取れた集団とは言えませんでした。
 総務委員の中で唯一議席を持っていなかった原は1902年の衆議院総選挙に出馬します。原の選択肢としては故郷の盛岡の他にも東京や大阪がありましたが、盛岡市を選んで勝利しました。
 
 1903年には、政友会は伊藤が独断で桂と妥協したことで混乱に陥ります。尾崎行雄や片岡健吉らはこれに抗議して退会しました(尾崎はのちに復帰)。結局、桂の取り計らいもあって伊藤は枢密院議長となり、西園寺を後継総裁に指名して政友会総裁を辞職しました。
 政友会は西園寺を総裁に、原と松田正久を筆頭とする幹部で再スタートすることになります。原は憲政本党の加藤高明と連携するなどして議会での政争を抑えますが、日露戦争の足音が近づいてくると議会内の対外強硬派が勢いづき、原は松田とともに総務委員を辞任します。原は東京を離れ、大阪で事態を静観しました。

 日露戦争は日本の有利に進みますが、国力的に限界となると、再び原の出番がやってきます。桂との間で予算などで協力する代わりに次の政権を西園寺に渡すという交渉が行われるのです。こうした交渉の相手となりえたのが原の強みでした。
 日露戦争の講和などが済んだ1906年、ついに政友会を与党とする第1次西園寺内閣が誕生します。しかし、政党内閣を警戒する山県などへの配慮もあって政友会からの入閣は原の内相と松田の法相にとどまりました。

 内務大臣となった原は水野錬太郎、床次竹二郎といった人物を重用し、また、日比谷焼き討ち事件で問題となった警視庁については安楽兼道を再起用して改革に努めます。警察官練習所の設置や警察官の給与引き上げによって良質な人材を確保するとともに、内務省警保局長には司法省法学校の同級生である古賀廉造をあて、警察の掌握しようとしました。

 地方制度に関しては、藩閥勢力出身の知事を辞めさせて若手を登用し、郡制の廃止を試みました。しかし、これは郡制の廃止をきっかけに政友会がさらに勢力を拡大させるのではないかと見た山県とその意向を受けた貴族院の反対で失敗します(この郡制を巡る対立の意味は三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』に詳しい)。 
 貴族院を乗り越える必要を感じた原は貴族院議員を入閣させ、貴族院の掌握に努めます。

 1908年の総選挙で政友会は過半数にせまる大勝をしましが、ここで西園寺が降りてしまいます。ここが潮時と見た西園寺は原にも相談せずに桂に政権を移譲してしまったのです。
 失意の原は外遊へと出かけ、アメリカを皮切りにフランス、イギリスなどのヨーロッパ各国を回ります。アメリカ人の活気と変化の気質は原に強い印象を残しました。
 原が帰国すると桂が接近してきます。議会の運営には政友会の協力が必要であり、政友会の窓口になれるのは原しかいなかったからです。
 原は西園寺に再び政権を移譲することを条件に桂に協力し、1911年の第2次西園寺内閣の成立につなげていきます。

 第2次西園寺内閣では、原は蔵相への就任を求められますが、行財政改革が急務の中、これを貧乏くじだと見て断り、内相に落ち着きます。また、桂から後藤新平の鉄道院総裁の続投を要請されていましたが、鉄道広軌化にこだわる後藤とは相容れないとして、自ら鉄道院総裁を兼務しました。
 原は積極的な政策を望みましたが、これを拒んだのが蔵相となった山本達雄です。山本は陸海軍を含む行財政改革を打ち出し、西園寺もこれを是としました。
 西園寺の方針に反発した原でしたが、原が各省の調整を担いながら行財政改革が進むことになります。1912年の衆議院総選挙でも政友会は大勝し、原の存在感も大きくなっていきました。

 しかし、ここで陸軍の2個師団増設問題が浮上します。世論の支持があると見た西園寺と原は陸軍と妥協しない道を選びます。上原の辞職とともに西園寺も辞職しました。
 後任は桂でしたが、桂は自らが世間の逆風をこれほど受けるとは思っていませんでした。桂は山県から独立しようとしていましたが、世間は山県=桂が西園寺内閣を葬ったと見たのです。

 桂は新党結成と政友会の切り崩しに走りますが、政友会は結束を守りました。結局、桂は大正天皇の勅語によって西園寺に事態を収拾させようとします。原も松田正久もこの勅語に従うつもりでしたが、党内は収まらずに内閣不信任案が提出され、桂も事態を打開することが不可能だと悟って退陣しました。
 しかし、西園寺が勅語を守れなかったことで西園寺は謹慎し、総裁辞任を申し出ます。政友会は桂を引きずり下ろしたものの首相候補を失ったのです。

 ここで登場したのが山本権兵衛です。薩派唯一の首相候補でもあった山本は政友会に好意的でしたが、政友会から見ると藩閥出身の軍人である山本を担ぐリスクは大きいものでした。
 そこで原は首相、陸海相、外相以外の全閣僚を政友会に入党させるという思い切った提案をします。この結果、蔵相になった高橋是清や農商務相の山本達雄などが政友会に入党しました。政友会からは原、松田の他、元田肇が逓相に、床次が鉄道院総裁となりました。

 この提携は尾崎行雄らの脱党を招きましたが、山本内閣は軍部大臣現役武官制の改正を成し遂げ、さらに試験による資格制度によって政党人の官職への就任を妨げていた文官任用令を改正します。これによって次官は政治任用職の色彩が濃くなり、水野錬太郎内務次官をはじめとして多くの官僚が政友会に入党しました。
 その後、松田が病死し、政友会は原の1枚看板となります。そこでシーメンス事件が持ち上がり山本が窮地に陥ると、山本は原に政権を譲ることを申し出ます。
 しかし、原を嫌っていた山県は原の首相就任を退け、非政友会内閣にこだわって長年の仇敵でもあった大隈重信を担ぎ出します。
 周囲に押される形で原は政友会の総裁に就任し、大隈内閣と対決しますが、大隈の人気、第一次世界大戦参戦の高揚感、大浦兼武内相の選挙干渉などによって1915年の総選挙は政友会の大敗に終わりました。

 ただ、敗因は大浦の選挙干渉だとして原に対する責任論は強まらず、原は党内の人事と組織を一新して次の機会を待ちました。大隈内閣が対華二十一箇条要求で元老の不信を買い、大浦の選挙干渉が明らかになると、大隈内閣は動揺し原の存在感は再び高まります。
 次の寺内正毅内閣に対しては是々非々で望みましたが、非政友会系が集結した憲政会との関係が良くなかった寺内と内相の後藤新平は政友会寄りの立場を取り、そのまま1917年の総選挙に突入します。政友会は第一党に返り咲き、原への政権移譲は時間の問題となってきました。
 米騒動で全国が混乱に陥ると、ついに山県も原の首相就任を認め、原に大命が降下することになります。

 原内閣と言えば陸相・海相・外相をのぞくすべての閣僚が政党員という本格的な政党内閣だったわけですが、周囲は各方面から人材を集めた内閣になると予想していました。これに対して原は閣内の統一にこだわり政党員で内閣を固めたのです(ただし、原も当初、法相には司法官僚の平沼騏一郎を起用する予定だった)。

 原は米騒動の原因となった米価高に対して緊急勅令で輸入税を撤廃して外米を導入し、教育の改善、交通インフラの整備、国防の充実、産業貿易の振興といった積極的な政策を打ち出します。交通インフラに関してはいわゆる「我田引鉄」が有名ですが(言葉よりも公正に進められたとの指摘もある)、道路の維持管理を体系的に定めた道路法を制定したのも原内閣の業績です。
 また、選挙権の納税資格を10円以上から3円以上に引き下げるとともに、大政党に有利な小選挙区制を導入しました。
 
 パリ講和会議には西園寺と牧野伸顕を派遣し、国際連盟の成立にあたっては人種差別撤廃条項を提案しています。
 それと同時に対処する必要があったのが日本の植民地統治です。原は関東都督府を関東庁に改めると民政に移行させ、朝鮮においても山県有朋の子・山県伊三郎の主張に乗る形で民政以降を探ります。そのタイミングで三・一独立運動が起こると、原は斎藤実を総督、水野錬太郎を政務総監とすることで今までの武断統治からの転換を図りました。台湾では田健治郎を総督に任命しています。

 このように改革を進めた原でしたが、公債による積極政策を支えるために金利を低く抑えたことなどから、景気の加熱と物価の高騰に悩まされることになります。また、野党は普通選挙法案を提出することで原内閣を揺さぶりにかかりました。
 原は普通選挙を時期尚早としつつ、解散によってこれを抑え込みました。1920年の総選挙で政友会は圧勝し、原の存在はますます大きくなりましたが、同時に世間の不満も原に向かうことになります。

 これに対して、原は社会政策を推進することとし、借地法、借家法、職業紹介所法などを成立させていきます。一方、議会では政友会に関係するスキャンダルが暴露されるなど議事は紛糾を続けました。
 1921年なると、原は皇太子(裕仁親王)の訪欧の準備を進め、アメリカからワシントン会議を開くという打診があると喜んでこれに参加します。軍縮を進めるには英米からの呼びかけが必要と見ていたからです。
 原は皇太子が摂政に就任し、ワシントン会議を成就させるまでは政権を維持することを決めます。しかし、1921年11月4日、原は東京駅で青年に刺されて亡くなるのです。

 このように原の人生について、多くの情報とエピソードを盛り込んだ評伝なのですが、特徴はやはり「明るい」ことだと思います。
 原というと、権力志向のある「政治手技術の巨匠」であり、「趣味は政治」「政友会は我が子」といったイメージが特に玄人の間では強いと思いますが、この原の政治人生を「明治維新の達成」と見ている所に本書の特色があります。すべての人が志を遂げるようにすべきだという五箇条の誓文の理想の1つの実現を原の人生に見ているのです。
 個人的にはもう少し「政友会政治の功罪」といった部分に触れても良かったと思いましたが、原の人生とその生きた時代がよくわかる充実した1冊です。


北村紗衣『批評の教室』(ちくま新書) 7点

 ネットでも積極的な発信を行っている著者による批評の入門書。「批評」というと、小林秀雄や江藤淳や柄谷行人といった名前を思い出し、ある種の他人にはなかなか真似できないような「技」や、批評家本人の独特な思想が必要だと思う人もいるかもしれませんが、本書では誰でもできる方法や技を教えてくれます。
 ただ、それはお手軽にできるものではなく、きちんとしたステップを踏んだものなのですが、それでも批評を書きたい、あるいは批評とまでは言わずとも本や映画の感想をもっとうまく書きたいという人にとって非常に参考になる内容になっています。

 目次は以下の通り。
プロローグ 批評って何をするの?
第1章 精読する
第2章 分析する
第3章 書く
第4章 コミュニティをつくる―実践編(『あの夜、マイアミで』

 まず、最初のステップは精読です。
 著者は現実世界とは違い作品世界に登場しているものには何らかの必然性があると考えます。本書では現実世界では許されないストーキングをするように精読をすることを勧めています。
 批評において「精読」が重視されるようになったのは意外に最近のことで、20世紀になってからニュー・クリティシズムと呼ばれる動きが起こってからです。ニュー・クリティシズムでは、作品を歴史的背景や作者の人生経験に還元したり、作品の道徳効果などを重視するのではなく、テクストにじっくりと向き合うことが重視されました。
 
 では、どのように精読をすればいいのか? 辞書でわからない言葉を調べるといったことは当然ですが、わからない部分を何度も読んだり、映画であれば巻き戻して繰り返して見たりすることが必要になります。

 その上で、まずは作品内の事実を認定していきます。「虚構的真理」という概念がありますが、これはフィクション内のルールのようなものになります。
 これは作品に正しい解釈は存在しないが、間違った解釈は存在するという考えで、フィクション内事実を誤認しているようなケースは誤読に当たります。例えば、著者は志賀直哉の短編小説「クローディアスの日記」における「ハムレットの実父を殺したのはクローディアスではない」という解釈を「間違った解釈」だとして退けています。
 また、作者が伝えようとしているトーンを受け取り損ねるような理解不足といったこともありえます。

 作品内で複数回出てくるものに注目することも作品読解の手がかりになります。『007/スペクター』における穿孔と浸透、『マッドマックス 怒りのデスロード』における血液、母乳、水といった液体など、くり返し出てくるイメージ、あるいは普通ではドラマの中で出てこないようなものが出てくる場合、そこには何らかの意味があるのです。
 ジャンルごとのお約束的なものもあって、例えば、ラブロマンスでは「ヒロインに優しくする男はだいたい口説こうとしている」とのことですが、こういった知識や読みも作品を理解するために役立ちます。

 また、これが本書の特徴の1つですが、自分の性的な趣味や嗜好をしっかりと理解しておくことを勧めています。
 映画でも舞台でも役者の魅力に目が奪われてしまうことがあり、批評の目が曇ることがあります。同時に自分ならではの嗜好が独特の批評を生み出す可能性もあります。

 批評を行うには作品の中の登場人物の言うことを信じすぎないことも重要です。昔から「信頼できない語り手」ということが言われており、物語の語り手があえて重要な部分を欠落させていたり、子どもだったり薬物中毒だったりして、起こったことを正確に描写できていない可能性もあります。
 うそをつくのは語り手だけには限らず、それ以外の登場人物かもしれません。例えば、当時の価値観で問題となる行為(同性愛など)は隠されるかもしれません。

 「信頼できない語り手」の問題からすると作者の意図を見抜くことこそ批評のように思ってしまうかもしれませんが、1960年代にロラン・バルトが「作者の死」の死を提唱したように、基本的に作品は作者の手から離れたものです。
 例えば、シェイクスピアの作品も舞台劇という共同作業の中で練り上げられていったことからシェイクスピア個人によって完全にコントロールされた作品だと考えることはできませんし、作者の意図がすべて作品に表現されるわけでもありません。
 ただし、作者には死んでもらったとしても、歴史的背景は殺さないようにしましょうと著者は言います。作品は歴史的な文脈に埋め込まれており、それを無視しては解釈できないのです。

 第2章では作品の分析に入っていきます。
 このときにまず役立つのが既存の批評理論です。例えば、1970年代以降、ポストコロニアル批評やフェミニスト批評が、80年代からクィア批評、新歴史主義批評などが盛んになってきましたが、これらは「社会が決めた条件づけ」に敏感な分析を行うための批評戦略だといいます。
 例えば、ポストコロニアル批評の道を拓いたエドワード・サイードは西洋がいかに「オリエント」を他者化しステレオタイプに押し込めてきたのかを小説なども題材にしながら論じました。
 フェミニスト批評では、これまでの文芸批評が扱ってきた「人間」がデフォルトで男性を想定したいた事を鋭く批判しました。
 ポストコロニアル批評、フェミニスト批評、クィア批評は人気のある分野であり、読み手の生きづらさを可視化させてくれることもありますが、やりやすそうに見えてしまうという難点もあります。

 次に理論ではなく、いくつかの具体的な分析手法を紹介しています。
 1つ目はタイムラインに起こしてみることです。これはやたらに短いタイムスパンの作品とやたらに長いタイムスパンの作品を分析する時に有効です。例えば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は有名な作品ですが、タイムラインを書いてみると、ロミオとジュリエットは日曜の夜に出会い、月曜日には結婚して、木曜日には不幸な行き違いから2人が自殺するというジェットコースター的な展開だということがわかります(88p図表2参照)。
 一方、大河小説に関しても簡単なタイムラインを書き、それが特定の時代背景を持つ作品であれば、重要な歴史的な出来ぎとを書き加えることで、小説の背景やテーマが見えてきます。
 また、時系列を入れ替えた語りの作品や、タイムワープなどが行われる作品でもこの手法は有効です。

 2つ目は人物相関図を書いてみることです。大河小説的な登場人物が多い作品では人物関係が整理されるとともに、作品における謎めいた関係を見出すことができるかもしれません。
 この図にしてみるというのは他にもいろいろと応用できるもので、本書でへシェイクスピアのソネットを図にしてみたりもしています。
 
 物語を要素に分解するのも話の構造をつかむのには重要です。例えば、『トップガン』と『アナと雪の女王』はまったくタイプが別の映画のように思えますが、特殊能力を持っているものの協調性の欠けるヒーロー(アナ雪の場合はエルサ)、その能力が友を傷つけその能力は封印される、友や国家の危機、ヒーローは能力を解き放つ、ヒーローは協調性を学び、能力に調和がもたらされ、もといたコミュニティに再び参加。このように並べると似た構造を持つ作品だということがわかります。
 ですから類型的な作品でもあるのですが、『アナと雪の女王』では今までのヒーローのポジションに女性が入っていることに新しさがあるとも言えるのです。
 世界各国の民話をタイプ別に分類したATU・タイプ・インデックスというものがありますが、この分類を使うと、これを使うとさまざまな話が実は似た構造を持つものだということがわかったりもします。

 また、作者によっては特定のモチーフにこだわるケースが多いですが、これを洗い出してみるのも批評の手がかりになります。本書ではタランティーノ作品に対して、「食物の飛散」、「閉所に監禁」、「わざと自分に危害を加えさせる」という3つのモチーフの有無を分析して見せています(113p図表8参照)。

 最後に価値づけです。これはなかなか難しく、やらなくても構いませんが、著者は批評に価値づけはあったほうが良いと考えています。
 ノエル・キャロルは、芸術作品には作品がどのような狙いを持ちそれをどの程度達成しているかという「成功価値」と作品から鑑賞者にもたらされる肯定的な経験である「受容価値」の2つがあるとしています。これは両立しうるものですが、著者は「批評や受容者が存在しなければ芸術作品は存在しないという考え方を強く持って」(117p)おり、どちらかというと「受容価値」を重視しているといいます。

 作品の成功/不成功を判断するには、まず「成功価値」にもとづいて作品が当初の狙いをどの程度達成できているかを評価することができるでしょう。また、独創性や斬新さも評価の対象になります。
 著者は、「成功価値」の高い映画として『オデッセイ』(リドリー・スコット監督)をあげつつ、「成功価値」は低いものの個人的に「受容価値」があるとみなしている映画としてウォシャウスキー姉妹の『ジュピター』をあげています。

 価値づけのために有効な戦略として作品の仲間を見つけるというものがあります。映画であれば同じ監督の作品、同じテーマ、モチーフが同じなど、とにかく気づいたものを片っ端からあげていきます。そうすると、例えば、監督の特徴や、同じようなテーマの作品の中での本作の位置づけ、作者が意識しているモチーフなどが見えてくるのです。

 第3章では批評の初心者のために「書く」ためのステップが示されています。
 まず、初心者は切り口を1つ絞るといいというアドバイスがあります。思いつくままに書いて面白い文章を書ける人もいますが、たいてい場合、そのような書き方では散漫になります。まずは切り口を1つに絞ることがまとまりの良い批評を書くコツになります。

 例えば、新美南吉の『ごんぎつね』ではうなぎがたびたび登場します。このうなぎを切り口にしてみるのも1つのやり方です。
 本書では実際にその批評を書いて見せてくれているのですが、書き出し、段落の構成、文章の展開の仕方など、わかりやすい形で作文の技術も示してくれています。
 その上で、『ごんぎつね』が刊行された1930年代前半におけるうなぎの記事、新美南吉が生まれた愛知県におけるうなぎの記事を検索し、それを踏まえて書くという切り口を見せてくれています。

 また、書くためには「自由にのびのび書いてはいけない」といいます。映画『いまを生きる』でロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生は、生徒に詩の分析について書かれた教科書を破かせますが、十分に教養を持ったエリート校では通じるとしても、基本的にそれは指導の放棄だといいます。
 必ずしも理論やルール通りに書けばいいわけではなく、ときに理論やルールを踏み越えるようなことも必要ですが、それには理論やルールを知っている必要があるのです。

 「感動した」「面白かった」、最初に出てくる言葉はこうしたものかもしれませんが、これでは言った本人がよほどの有名人でない限り、他人を動かすことはできません。どうして感動したのか、面白かったのかをきちんと掘り下げて書く必要があるわけです。
 そのためには受け手を想像することが必要です。相手の持っている知識や興味などを想像しながら書いていく必要があります。
 同時に批評を書くときは人から好かれたいと思う気持ちを捨てることが大事だといいます。その作品のファンの反応を怖がっていては、良い批評は書けないのです。

 さらに本書では「実践編」として、第4章で著者と著者の教え子でもある飯島弘規の2人が実際に映画評を書き、それを添削し合うということをしています。
 『あの夜、マイアミで』(レジーナ・キング監督)と『華麗なるギャッツビー』(バズ・ラーマン監督)の2作品について互いに批評を書き、互いにその改善点を指摘しており、実際の大学でのゼミの様子がうかがえます。
 
 最後には本書のメタ的な読解まで行ってくれて、まさに批評の第一歩から手のこんだ批評までを実際に体験させてくれる1冊となっています。
 もっとも、このまとめだけ読むと本書はそんなに面白く感じないかもしません。それはここでは本書のいたるとこで披露されている著者の趣味あるいは性癖をばっさりとカットしたまとめになっているからです(ちなみにこのブログの記事を「批評」だとすると、タイトルに工夫がなく、本の内容を延々と書いているところがこの記事の大きな減点材料です)。
 第4章の4本の「批評」のうち、著者の『華麗なるギャッツビー』についてのものが著者の趣味が全面に出ていて一番面白いと感じたように、個人的には書き手の一貫した趣味が出ているものが面白いと思います。
 そうした意味で、本書で紹介されている方法論に「なるほど」と思いつつも、本書で語られている著者の趣味こそがそれ以上に面白かったと言えるかもしれません。


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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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