日本の古代史〜中世史にかけてのキーワードでもある「荘園」。中学の歴史の教科書にも載っているので多くの人が知っているでしょうが、「荘園とは何か?」と訊かれるとなかなか説明が難しいと思います。
本書は、そんな荘園の成り立ちと変遷を解説した本ですが、同時に荘園についての一般的な理解を修正する本でもあります。
高校の日本史ですと、墾田永年私財法をきっかけに初期荘園が成立し、その後、摂関政治〜院政期に開発領主から貴族や大寺社への寄進によって寄進地形荘園が成立する。しかし、鎌倉期の地頭による侵略され、室町時代になると決定的に衰えて太閤検地で完全に終止符を打たれるというような説明だと思います。
これに対して、本書は近年の過去の気温や降水量の推定に関する研究を引きながら、荘園の成立と発展を自然条件と関連付け、なおかつ、院政期に成立した領域型荘園を1つの画期に位置づけています。
「荘園」という多くの人が知っていることを解説しつつ、その理解を更新する本とも言えるでしょう。
目次は以下の通り。
第1章 律令制と初期荘園第2章 摂関政治と免田型荘園第3章 中世の胎動第4章 院政と領域型荘園第5章 武家政権と荘園制第6章 中世荘園の世界第7章 鎌倉後期の転換第8章 南北朝・室町時代の荘園制第9章 荘園制の動揺と解体終章 日本の荘園とは何だったのか
初期荘園成立のきっかけは墾田永年私財法となりますが、それ以前でも、例えば長屋王は父の高市皇子から引き継いだ広大な田地を保有しており、そこは長屋王から派遣された役人によって経営されていました。こういった皇族・貴族による大土地所有を「古代荘園」と呼ぶこともあります。
それでも基本は公地公民制でしたが、この制度のもとでは人々が新たな農地を開発するインセンティブを持たないことが問題でした。実は唐の律令には墾田の私有を認める規定があり、これを子孫に伝えることができたのですが、日本の律令にはなかったのです。
また、中国の均田制は畠作地帯で生まれたものですが、日本の水田はそれよりも開発に手間がかかるようになっており、そこにも問題がありました。
そこで723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法が出されるわけですが、この間の730年代後半には天然痘の大流行が起こり、人口の1/3ほどが失われたとも考えられています。人口が減少し、農地が荒廃する中で、再開発や新たな開墾が求められたことが、墾田永年私財法の背景にはありました。
墾田永年私財法をきっかけに開発された荘園を初期荘園といいます。このときの荘園は墾田と開墾予定地に倉庫兼管理事務所の荘所が付属したもので、荘所には農具や種籾や人夫に支給する食料などが収められていました。
初期荘園には基本的に専属の農民はおらず、周辺の農民が出作して収穫の2〜3割を収めていました。農民にとってはパートに出るようなものだったと考えられます。
初期荘園の持ち主としては東大寺が有名ですが、これは史料が残っているからであって、貴族たちも東国を中心に荘園をつくりました。また、天皇や上皇のための荘園を勅旨田といいます。
9世紀後半になると律令制は大きく揺らいできますが、この背景にあったのは864年の富士山噴火、869年の貞観地震などの天災と天候不順です。
9世紀後半には降水量が多くなり、10世紀になると温暖化と乾燥が進みます。こうした中、9世紀後半には古代村落の消滅が見られるようになり、郡司層が没落していきます。代わって富豪層と呼ばれる有力農民が力を持つようになり、この富豪層が貴族や中央の官庁と結んで戸籍を離れた浪人となった農民などを使って荘園を経営するケースが出てきました。これを止めようとしたのが902年の延喜の荘園整理令です。
しかし、律令制解体の流れはいかんともしがたく、税制は人頭税から地税へと転換していきます。有力農民である田堵の請負制が採用されていきます。
この変化を主導したのは中央政府ではなく地方の国司(受領)でした。受領は決められた税さえ中央政府に納入すれば国内の経営や徴税について干渉されなかったために、任国で自由に手腕を振るうようになります。
一方、田堵は農業経営のための資材と資本を持つ「プロ農民」(40p)のようなもので、国司も彼らを使って国内の経営を行いました。
国司は課税額を決める権限も移譲され、さまざまな意図から私領に対する税の減免も行いました。摂関期の荘園はこうした私領(免田)が集まったものであり、荘園領主が招き寄せた田堵らによって耕作されました。
国司は税の減免を行いましたが、その任期は4年であり、次の国司は新たに検田を行い、長らく耕作実態のない私領・荘園を没収したりもしました。こうした中で私領が公領に、そしてまた私領になるといったことが繰り返されます。
律令国家では徴兵制をとっていましたが、9世紀になって国際的な緊張が緩まるとこれが停止され、地方の軍団も廃止されていきます。
しかし、この軍縮は地方での盗賊団の跋扈を招き、これに対抗するために東国の国司たちは蝦夷から乗馬術を学んで軍団を再建し、群盗化した富豪層の一部を取り込みました。こうして武士や武士団が生まれてくることになります。
一方、11世紀なかばになると気候変動も落ち着き、新しい集落が生まれ、平野部での水田の開発が進むことになりました。
このころ、国衙は郡の権限を吸収し、そこで地元の有力者である在庁官人が働くスタイルが定着していました。また、別名制という、公領を再開発した有力者に対して国衙がその管理権や徴税権を与え、郡や郷を経由せずに直接納税する制度も生まれ、これによって長期的な開発が可能となりました。
「職(しき)」と呼ばれる役職の世襲から生まれた権利形態が生まれてくるのもこのころで、これらのことによって地方では在地領主と呼ばれる新たな有力者が生まれます。彼らの多くは受領に伴って都から下った中下級貴族の末裔で、中央の上級貴族と繋がりを持ちながら、地方での土地支配の権利を確保していきました。
1068年、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位すると、翌年に延久の荘園整理令を発布します。それまでの荘園整理令は実施が国司に委ねられていましたが、それでは国司の人事権を握っている貴族の荘園には手が出せなかったため、後三条天皇は中央に記録荘園券契所を設置しました。
この荘園整理令は効果を発揮し、多くの荘園が停止されます。しかし、同時に荘園の存廃は4年で交代する国司によってではなく、記録荘園券契所が事務的に判断するものとなったため、荘園の地位は安定しました。
その後、白河天皇が上皇として院政を始めます。この時代、白河天皇による法勝寺の他、天皇や上皇らによる御願寺が次々と建てられますが、この運営費用を賄ったのが荘園でした。
白河上皇が設定した荘園は、院庁から命令で設立され、最初から不輸・不入の権を持つもので、完全にその地域一帯を囲い込んで支配するものでした。こうした荘園を領域型荘園といいます。
この時期には一国の税からの収益を皇族や貴族・自社に与えるという知行国制も導入されました。今まで、皇族や上級貴族は「偉すぎて」地方の政治に関わることはできませんでしたが、知行国ではこれが可能になりました。
国司が止めても知行国主の了解が取れれば、領域型荘園を設定できるようになったのです。
この領域型荘園は在地領主にとっても都合の良いものだったと考えられます。荘園の領域を示す四至に囲まれた場所は自由に開発できたので、より長期的な開発が可能になりました。
領域型荘園は、在地領主による寄進だけではなく、上皇や摂関家の権力により囲い込みで大きく発展しました。在地領主と上皇や摂関家を仲介したのが院近臣や后妃の女房、摂関家の家司などでした。
在地領主は下司などの荘官になり、院近臣や女房、家司などが領家となり、天皇家や摂関家が本家になるという三層構造のピラミッド体型が出来上がったのでし。これを「職の体系」といいます。
鳥羽上皇の時代になると、荘園の設立はさらに大規模に、そしてシステム化されていき、巨大荘園群が出現することとなりました。
こうしたことが書かれている本書の第4章の最後で、著者は「寄進地形荘園」という言葉と「鹿子木荘」の史料に触れています。
著者は、「寄進地形荘園」という言葉は免田型の荘園を指すのか領域型荘園を指すのかわかりにくく、院政期における領域型荘園の成立という画期も捉えられないということでこの用語を使ってません。免田型の荘園にあとから不輸・不入の権が与えられたケースも有るのですが、寄進だけでは、院という権力が主導した荘園形成を説明できないのです。
また、鹿子木荘については、開発領主とされている寿妙は在地勢力ではなく受領を務めるような中央の貴族で、その孫の高方にも400石の年貢を収められるようん大荘園を開発する力はありませんでした。開発の中心は最初に寄進を受けたという太宰府大弐の藤原実政であり、実政の失脚によって消滅した荘園が、高陽院を本家とする領域型荘園として復活したというのが正しいところらしいのです。
保元の乱と平治の乱を経て平清盛が政治の実権を握りますが、平氏の台頭の裏にも荘園がありました。
清盛は後白河上皇と結んで次々と荘園を設立していきます。鳥羽上皇の遺領の大部分は後白河上皇の妹の八条院に受け継がれており、後白河上皇は地方の平氏勢力と結んで荘園を設立し、その領家職や荘官職に平氏の一族・郎党に分配されました。
さらに清盛は娘の盛子を摂関家の藤原基実に嫁がせていましたが、基実が若くして亡くなると、盛子が摂関家領の大半を管領することになりました。
このように広大な荘園を支配した平氏政権のもとで、現在も使われている基幹用水路が整備されたという伝承も各地に伝わっています。
また、この時期から拡大した日宋貿易によって大量の宋銭が流入したことも、のちの日本と荘園に大きな影響を与えることになります。
平家政権の末期には低温と旱魃の影響で養和の飢饉が発生します。そうした中で挙兵した源頼朝は、富士川の戦いで平氏の軍を破りますが、ここで頼朝は敵方に加わった武士の所職を没収して味方に分け与えるという行為をします。
その後の武家政権では当たり前の行為ですが、当時としてはとんでもない脱法行為でした。荘園の下司職などの任免権は領家や本家にあり、それを勝手にすげ替えることなど許されなかったのです。
しかし、当時の頼朝軍は反乱軍であり、既存の秩序を無視してこれが行われました。そして、木曽義仲が京で問題となると、後白河上皇は「寿永二年十月宣旨」で、この頼朝の脱法行為を追認したのです。
さらに義経と範頼が義仲を討ち、平氏を一ノ谷の戦いで破ると、平氏没官領500ヶ所あまりの荘園がすべて頼朝に与えられ、頼朝は巨大な荘園領主となりました。頼朝は、こうして得た荘園などの所職の名を地頭職という名に統一し、恩賞としてこれを与えていきます。
さらに義経の要求で後白河法皇が頼朝討伐の宣旨を出すと、頼朝はこの責任を追求し、守護と地頭の設置を認めさせます。ただし、実際にこのときに設置されたのは国単位の国地頭で、これがのちに守護職になっていったようです。
この一連の動きの中で、今まで荘園領主や知行国主が握っていた荘官や郡郷司の任免権が幕府に移ります。
地頭となった彼らは荘園領主や知行国主から解任されることがなくなり、その立場は大きく強化されました。著者は「いわば在地領主層による強力な労働組合ができたようなものだ」(124p)と述べています。
ただし、地頭は同時に領家や本家に年貢・公事物を収めるという義務を負ったことから、、荘園制を安定させる働きもしました。年貢の未進を繰り返せば地頭は解任されることもあり、鎌倉幕府は在地領主の離反による荘園制の崩壊を押し止めるはたらきもしました。
また、荘園と公領の比率も全国的におおむね6対4で落ち着きます。
鎌倉幕府の成立によって荘園の新設はほぼ止まりますが、中世の荘園は独立した小世界となりました。荘官は警察権や検断権を持つようになります。一方で年貢を払った上で荘園を移動するのは百姓の権利であり、百姓は荘官に完全に隷属してわけではありませんでした。
荘園が安定するとともに新田開発も増えますが、鎌倉時代後期になると荘園を超えた大規模開発が難しかったこともあって土地の効率的な利用が模索されます。
荘園が山野も囲い込んだことから、草木やそれを焼いた灰が肥料としてさかんに使われるようになり、百姓が牛馬を飼って牛馬耕を行うことや二毛作も普及していきました。
荘園の中では地域的なまとまりである村や郷が生まれます。中世後期になると徴税単位の名よりもこの村が重視されるようになり、鎮守社寺の祭礼を担った宮座を中心に惣郷や惣村が形成されることになります。
近畿、瀬戸内海、九州など京へ開運が使える地域の年貢は米で納められましたが、その他の地域からの年貢は絹布や麻布のような現物貨幣としても使われるもので納められることが多く、塩や鉄を年貢として納めていた地域もありました。
こうした年貢の輸送を請け負ったのが問や問丸といった倉庫・運送業者です。問丸は商品の中継や卸売などもするようになり、荘園というしくみから商業が発展していくことになります。
鎌倉時代後期になると、地頭は年貢納入の義務を負ったものの、荘官の任免権を失った本家・領家の力は弱くなり、荘園の支配をめぐって地頭と領家が争う事態が頻発します。
解決方法としては、地頭が荘郷の支配を完全に請け負う地頭請と、領家と地頭で支配領域を折半する下地中分がありました。
また、領家と本家の争いも起きましたが、鎌倉時代の本家に院政期のような力はなく、領家の権利が重視される傾向が強かったようです。
鎌倉時代には、1230〜32年の寛喜の飢饉、1258〜60年の正嘉の飢饉という2つの大きな飢饉があり、これを機に二毛作が普及します。
銭の流通がますます盛んになり、年貢の絹布や麻布が銭に置き換えられます。さらに年貢米までもが銭に置き換わり、商業が発達しました。
また、年貢の収納や貸付などのを通じて莫大な富を蓄積する有徳人といった人びとや、既存の秩序に反抗する悪党といった人びとも登場します。
鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まりますが、後醍醐天皇は寺社・公家、武士の区別なく恩賞を与えたので、武士が本家になったり、貴族が地頭職を所有したりするようになりました。ピラミッド型の「職の体系」は崩れたのです。
ここから南北朝の動乱、守護権力の拡大によって遠隔地の荘園の支配が困難になり、荘園は衰退していくというのが多くの人の理解かもしれませんが、ここでも荘園はしぶとく生き残ります。それを可能にしたのが守護在京制でした。
足利義満は守護権力の削減を図るとともに、守護大名を常時京都に置く守護在京制の導入に踏み切ります。京都にいる守護大名は貴族や僧侶などと交流を持つようになり、そこから公家や寺社が地方の所領支配について守護権力と折衝する道が開かれました。
この時代には武家が帰依した禅寺や八幡宮の荘園も増えており、禅僧の代官も増えています。禅僧は守護大名との人脈を持ち、各地で活躍しました。
また、守護自らが代官の役目を果たす守護請も行われましたし、資金力を持つ土倉や酒屋が代官を務めることもありました。
しかし、代官を使った荘園経営の外注化は領主権の空洞化と弱体化ももたらしました。一方、村では今までばらばらに建っていた屋敷が一箇所に集中するようになり、農作業においても村の中での協力が進みます。百姓たちの団結力は強まり、一揆を結んで代官や荘官に抵抗するようになりました。
そして、応仁の乱と明応の政変によって荘園の運命は絶たれます。応仁の乱によって守護たちは京都を離れ守護在京制が崩壊し、寺社本所領や幕府御料所・直臣領などの押領を続ける近江守護六角高頼を打つ企てが失敗して、守護を抑え込もうとした足利義材がクーデターで追放されると、もはや荘園領主の領主権を守る存在はいなくなり、荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失っていくのです。
このように本書は荘園の誕生から消滅までを追っています。かなり広い時代を扱った通史的な記述ながら、教科書レベルの理解から一歩踏み込んだ議論がなされており、非常に刺激的な内容だと思います。過去の気候変動を織り込んだ記述も、社会の変化を考える上で新しい視点を提供してくれるものだと思います。
荘園をめぐる議論について知らなければ、多少難しく感じる部分もあるでしょうが、少なくとも日々荘園の説明と格闘してきた歴史の教員にとって必読の書と言えるでしょう。