著者とタイトル名を見た時に想像した本とは全く違う内容だったけど面白い。
手に取る前は、今回の震災でのソーシャルメディアの活用のされ方や新しいマスメディアのあり方を探った本かと思ったんだけど、実際は現在のマスコミの陥った隘路を戦後の歴史の中に位置づけた本。
450ページを超えるページ数もそうですが、中身の方もかなりスケール感のある本。「渾身の書下ろし」との帯の表現は嘘ではありません。
目次は以下の通り
第一章のソーシャルメディアの分類をした後半部分はいらないと思いますし、全体的に繰り返しが多いです。
時間がない人は、第一章の88p以下を飛ばして読んでもいいと思いますし、さらに時間がない人はいきなり第三章から読み始めるのもありだと思います(ただ、第一章と第二章は著者の実体験を下に書かれている部分が多いので読み物としては非常に面白い)。
もっとも、第三章から読んでも普通の新書以上の読み応えはありますし、論旨を説明するものとしては過剰だとしてもこの本でとり上げられているエピソードには興味深いものが多いです。
まず、第一章では著者の記者時代の体験を下に、記者の「夜回り」という奇妙な実態が描かれます。
記者会見の場では、権力の側を追い詰めるマスコミも、裏では夜回りという行為を通じて、警察や官僚となんとも言い難い関係を結んでいます。
詳しくは本書を読んで欲しいのですが、「親しい」わけでも「ズブズブ」なわけでもないのですが、記者と警察などの権力の間には、あうんの呼吸による共同体のようなものが成立しています。
これによってマスコミは「勧善懲悪的に権力を批判する」と同時に「当局とハイコンテキストな共同体を形成しているインサイダー」(135p)と二面性を持つことになります。
そうした中でマスコミは「客観中立な立場」を標榜するわけですが、そこで出てくるのが「市民」という概念。自分たちの正当性を、「市民目線」、「市民感覚」に求めようとするのです。
ところが、第二章で書かれているように、日本における「市民運動」というのは「孤立したマイノリティ」です。
しかし、マスコミは権力側の情報提供とバランスをとるために、こういった「市民運動」を好んで取材します。物事が「権力対市民運動」という単純な構図では割り切れないことを理解してもなお、このわかりやすい図式を捨てられません。
では、この「孤立したマイノリティ」を「市民」としてとり上げ、そこから権力を批判する視点というのはどこから生まれたのか?
これがこの本の大きなテーマです。
著者によると、それは1970年前後に生まれたといいます。
このころまで日本の戦争体験は「被害者」の立場から語られてきました。ところが、このころになると中国などでの日本軍の加害行為が徐々に明らかになり、また、ベトナム戦争にどう関わるか問うことが問題になります。
そんな中で、ベ平連の小田実は、ベトナムで残虐行為を行なっているのは「ひょっとすると自分の手でもあるかもしれない」(252p)と述べ、「被害者だからこそ加害者になる」という図式(例えば、土地を取り上げられたがゆえに基地労働者になり爆弾を積込むさぎゅ添えうる沖縄の農民)から、いかに自分を切り離すか?ということを問題にしました。
さらに南京の「大虐殺記念館」で衝撃を受けた津村喬は、1969年の華僑青年・李智成の自殺に衝撃を受け、『われわれの内なる差別』という本を書き、遠いベトナムだけでなく、身近な異邦人である華僑や在日韓国・朝鮮人への目を持つことが大切だと説きます。
そしてこの流れは本多勝一の『戦場の村』で決定的になりました。南ベトナム解放民族戦線の村に潜入することに成功した本多はそこで彼らと侵食を共にし、日本人にとってはベトナム反戦を声高に叫ぶのではなく日本でそれぞれの形で問題に取り組むことが大切だというメッセージを表します。
ところが、この「被害者=加害者」の二重性を意識しようとする動きは、その難しさ故に、しだいに社会や一般の人々の加害者性を告発するスタイルへと単純化していきます。
そして、より抑圧された者にこそ「真実」がある。それと同化することによって、社会を批判できる視座を得ることができるという「マイノリティ憑依」という現象が起こってきます。
この「マイノリティ憑依」というのがこの本の一つのキーワードです。
この本では太田竜の『辺境最深部に向かって退却せよ!』や、本多勝一のその後の著作などが引かれているのですが、そこにはマイノリティを取材すること、マイノリティと生活をともにすることによってマイノリティと同化し、そこから日本社会を批判するという論理が使われています。
「マイノリティ憑依」という現象は、その後のマスコミにも大きな影響を与え、政治や社会を批判するためにマイノリティを持ち出すという一種のスタイルを生み出します。
ところが、このスタイルは「より不幸な人」、「より差別されている人」を見つけ出す競争を生み出しかねませんし、場合によっては「不幸なマイノリティ」を捏造するようにもなってしまいます(このあたりのことについては、自分も昔、絓秀実『1968年』を読んだ後に「1968年の必然的行き詰まりとしての2ちゃんねらー」というエントリーを書きました)。
著者は、この「マイノリティ憑依」というスタイルが限界を迎えつつあるのに、それを越える報道のスタイル、社会批判の視座を持てていないことが、現在のマスコミの問題点だというのです。
ここでようやく登場するのが「当事者性」です。
今回の震災における河北新報の記事などを例にあげながら、著者は「当事者性」こそが今のマスコミにおいて必要なものだといいます。
ただ、これについては半分納得、半分疑問という感じです。
マスコミが報道しなければならない問題には、外交や先端的な科学技術など当事者性を持つことがかなり難しい問題もあります。当事者性が重要な武器だとしてもそれを使える場面は実は意外と限られていると思うのです。
また、当事者性を強調すると、この本の182p以下でとりあげられている新聞記者・高田昌幸の市民ジャーナリズム批判に反論できないのではないかと思いました(市民は高度な問題はマスコミに任せて身近な問題だけを活写すればいいという批判)。
というわけでいろいろと欠点はある本です。
ただ、非常に面白く読めましたし、著者の「熱量」のようなものが伝わってきた本でした。
「当事者」の時代 (光文社新書)
佐々木 俊尚

手に取る前は、今回の震災でのソーシャルメディアの活用のされ方や新しいマスメディアのあり方を探った本かと思ったんだけど、実際は現在のマスコミの陥った隘路を戦後の歴史の中に位置づけた本。
450ページを超えるページ数もそうですが、中身の方もかなりスケール感のある本。「渾身の書下ろし」との帯の表現は嘘ではありません。
目次は以下の通り
プロローグ 三つの物語ただ内容を紹介する前に言うと、この本の欠点は長すぎること。
第一章 夜回りと記者会見――二重の共同体
第二章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか
第三章 一九七〇年夏のパラダイムシフト
第四章 異邦人に憑依する
第五章 「穢れ」からの退避
第六章 総中流社会を「憑依」が支えた
終章 当事者の時代に
第一章のソーシャルメディアの分類をした後半部分はいらないと思いますし、全体的に繰り返しが多いです。
時間がない人は、第一章の88p以下を飛ばして読んでもいいと思いますし、さらに時間がない人はいきなり第三章から読み始めるのもありだと思います(ただ、第一章と第二章は著者の実体験を下に書かれている部分が多いので読み物としては非常に面白い)。
もっとも、第三章から読んでも普通の新書以上の読み応えはありますし、論旨を説明するものとしては過剰だとしてもこの本でとり上げられているエピソードには興味深いものが多いです。
まず、第一章では著者の記者時代の体験を下に、記者の「夜回り」という奇妙な実態が描かれます。
記者会見の場では、権力の側を追い詰めるマスコミも、裏では夜回りという行為を通じて、警察や官僚となんとも言い難い関係を結んでいます。
詳しくは本書を読んで欲しいのですが、「親しい」わけでも「ズブズブ」なわけでもないのですが、記者と警察などの権力の間には、あうんの呼吸による共同体のようなものが成立しています。
これによってマスコミは「勧善懲悪的に権力を批判する」と同時に「当局とハイコンテキストな共同体を形成しているインサイダー」(135p)と二面性を持つことになります。
そうした中でマスコミは「客観中立な立場」を標榜するわけですが、そこで出てくるのが「市民」という概念。自分たちの正当性を、「市民目線」、「市民感覚」に求めようとするのです。
ところが、第二章で書かれているように、日本における「市民運動」というのは「孤立したマイノリティ」です。
しかし、マスコミは権力側の情報提供とバランスをとるために、こういった「市民運動」を好んで取材します。物事が「権力対市民運動」という単純な構図では割り切れないことを理解してもなお、このわかりやすい図式を捨てられません。
では、この「孤立したマイノリティ」を「市民」としてとり上げ、そこから権力を批判する視点というのはどこから生まれたのか?
これがこの本の大きなテーマです。
著者によると、それは1970年前後に生まれたといいます。
このころまで日本の戦争体験は「被害者」の立場から語られてきました。ところが、このころになると中国などでの日本軍の加害行為が徐々に明らかになり、また、ベトナム戦争にどう関わるか問うことが問題になります。
そんな中で、ベ平連の小田実は、ベトナムで残虐行為を行なっているのは「ひょっとすると自分の手でもあるかもしれない」(252p)と述べ、「被害者だからこそ加害者になる」という図式(例えば、土地を取り上げられたがゆえに基地労働者になり爆弾を積込むさぎゅ添えうる沖縄の農民)から、いかに自分を切り離すか?ということを問題にしました。
さらに南京の「大虐殺記念館」で衝撃を受けた津村喬は、1969年の華僑青年・李智成の自殺に衝撃を受け、『われわれの内なる差別』という本を書き、遠いベトナムだけでなく、身近な異邦人である華僑や在日韓国・朝鮮人への目を持つことが大切だと説きます。
そしてこの流れは本多勝一の『戦場の村』で決定的になりました。南ベトナム解放民族戦線の村に潜入することに成功した本多はそこで彼らと侵食を共にし、日本人にとってはベトナム反戦を声高に叫ぶのではなく日本でそれぞれの形で問題に取り組むことが大切だというメッセージを表します。
ところが、この「被害者=加害者」の二重性を意識しようとする動きは、その難しさ故に、しだいに社会や一般の人々の加害者性を告発するスタイルへと単純化していきます。
そして、より抑圧された者にこそ「真実」がある。それと同化することによって、社会を批判できる視座を得ることができるという「マイノリティ憑依」という現象が起こってきます。
この「マイノリティ憑依」というのがこの本の一つのキーワードです。
この本では太田竜の『辺境最深部に向かって退却せよ!』や、本多勝一のその後の著作などが引かれているのですが、そこにはマイノリティを取材すること、マイノリティと生活をともにすることによってマイノリティと同化し、そこから日本社会を批判するという論理が使われています。
「マイノリティ憑依」という現象は、その後のマスコミにも大きな影響を与え、政治や社会を批判するためにマイノリティを持ち出すという一種のスタイルを生み出します。
ところが、このスタイルは「より不幸な人」、「より差別されている人」を見つけ出す競争を生み出しかねませんし、場合によっては「不幸なマイノリティ」を捏造するようにもなってしまいます(このあたりのことについては、自分も昔、絓秀実『1968年』を読んだ後に「1968年の必然的行き詰まりとしての2ちゃんねらー」というエントリーを書きました)。
著者は、この「マイノリティ憑依」というスタイルが限界を迎えつつあるのに、それを越える報道のスタイル、社会批判の視座を持てていないことが、現在のマスコミの問題点だというのです。
ここでようやく登場するのが「当事者性」です。
今回の震災における河北新報の記事などを例にあげながら、著者は「当事者性」こそが今のマスコミにおいて必要なものだといいます。
ただ、これについては半分納得、半分疑問という感じです。
マスコミが報道しなければならない問題には、外交や先端的な科学技術など当事者性を持つことがかなり難しい問題もあります。当事者性が重要な武器だとしてもそれを使える場面は実は意外と限られていると思うのです。
また、当事者性を強調すると、この本の182p以下でとりあげられている新聞記者・高田昌幸の市民ジャーナリズム批判に反論できないのではないかと思いました(市民は高度な問題はマスコミに任せて身近な問題だけを活写すればいいという批判)。
というわけでいろいろと欠点はある本です。
ただ、非常に面白く読めましたし、著者の「熱量」のようなものが伝わってきた本でした。
「当事者」の時代 (光文社新書)
佐々木 俊尚
