山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2012年03月

佐々木俊尚『「当事者」の時代』(光文社新書) 8点

著者とタイトル名を見た時に想像した本とは全く違う内容だったけど面白い。
 手に取る前は、今回の震災でのソーシャルメディアの活用のされ方や新しいマスメディアのあり方を探った本かと思ったんだけど、実際は現在のマスコミの陥った隘路を戦後の歴史の中に位置づけた本。
 450ページを超えるページ数もそうですが、中身の方もかなりスケール感のある本。「渾身の書下ろし」との帯の表現は嘘ではありません。

 目次は以下の通り
プロローグ 三つの物語
第一章 夜回りと記者会見――二重の共同体
第二章 幻想の「市民」はどこからやってきたのか
第三章 一九七〇年夏のパラダイムシフト
第四章 異邦人に憑依する
第五章 「穢れ」からの退避
第六章 総中流社会を「憑依」が支えた
終章 当事者の時代に
 ただ内容を紹介する前に言うと、この本の欠点は長すぎること。
 第一章のソーシャルメディアの分類をした後半部分はいらないと思いますし、全体的に繰り返しが多いです。
 時間がない人は、第一章の88p以下を飛ばして読んでもいいと思いますし、さらに時間がない人はいきなり第三章から読み始めるのもありだと思います(ただ、第一章と第二章は著者の実体験を下に書かれている部分が多いので読み物としては非常に面白い)。
 もっとも、第三章から読んでも普通の新書以上の読み応えはありますし、論旨を説明するものとしては過剰だとしてもこの本でとり上げられているエピソードには興味深いものが多いです。

 まず、第一章では著者の記者時代の体験を下に、記者の「夜回り」という奇妙な実態が描かれます。
 記者会見の場では、権力の側を追い詰めるマスコミも、裏では夜回りという行為を通じて、警察や官僚となんとも言い難い関係を結んでいます。 
 詳しくは本書を読んで欲しいのですが、「親しい」わけでも「ズブズブ」なわけでもないのですが、記者と警察などの権力の間には、あうんの呼吸による共同体のようなものが成立しています。
 これによってマスコミは「勧善懲悪的に権力を批判する」と同時に「当局とハイコンテキストな共同体を形成しているインサイダー」(135p)と二面性を持つことになります。

 そうした中でマスコミは「客観中立な立場」を標榜するわけですが、そこで出てくるのが「市民」という概念。自分たちの正当性を、「市民目線」、「市民感覚」に求めようとするのです。
 ところが、第二章で書かれているように、日本における「市民運動」というのは「孤立したマイノリティ」です。
 しかし、マスコミは権力側の情報提供とバランスをとるために、こういった「市民運動」を好んで取材します。物事が「権力対市民運動」という単純な構図では割り切れないことを理解してもなお、このわかりやすい図式を捨てられません。

 では、この「孤立したマイノリティ」を「市民」としてとり上げ、そこから権力を批判する視点というのはどこから生まれたのか?
 これがこの本の大きなテーマです。

 著者によると、それは1970年前後に生まれたといいます。
 このころまで日本の戦争体験は「被害者」の立場から語られてきました。ところが、このころになると中国などでの日本軍の加害行為が徐々に明らかになり、また、ベトナム戦争にどう関わるか問うことが問題になります。

 そんな中で、ベ平連の小田実は、ベトナムで残虐行為を行なっているのは「ひょっとすると自分の手でもあるかもしれない」(252p)と述べ、「被害者だからこそ加害者になる」という図式(例えば、土地を取り上げられたがゆえに基地労働者になり爆弾を積込むさぎゅ添えうる沖縄の農民)から、いかに自分を切り離すか?ということを問題にしました。
 
 さらに南京の「大虐殺記念館」で衝撃を受けた津村喬は、1969年の華僑青年・李智成の自殺に衝撃を受け、『われわれの内なる差別』という本を書き、遠いベトナムだけでなく、身近な異邦人である華僑や在日韓国・朝鮮人への目を持つことが大切だと説きます。

 そしてこの流れは本多勝一の『戦場の村』で決定的になりました。南ベトナム解放民族戦線の村に潜入することに成功した本多はそこで彼らと侵食を共にし、日本人にとってはベトナム反戦を声高に叫ぶのではなく日本でそれぞれの形で問題に取り組むことが大切だというメッセージを表します。

 ところが、この「被害者=加害者」の二重性を意識しようとする動きは、その難しさ故に、しだいに社会や一般の人々の加害者性を告発するスタイルへと単純化していきます。
 そして、より抑圧された者にこそ「真実」がある。それと同化することによって、社会を批判できる視座を得ることができるという「マイノリティ憑依」という現象が起こってきます。

 この「マイノリティ憑依」というのがこの本の一つのキーワードです。
 この本では太田竜の『辺境最深部に向かって退却せよ!』や、本多勝一のその後の著作などが引かれているのですが、そこにはマイノリティを取材すること、マイノリティと生活をともにすることによってマイノリティと同化し、そこから日本社会を批判するという論理が使われています。

 「マイノリティ憑依」という現象は、その後のマスコミにも大きな影響を与え、政治や社会を批判するためにマイノリティを持ち出すという一種のスタイルを生み出します。
 ところが、このスタイルは「より不幸な人」、「より差別されている人」を見つけ出す競争を生み出しかねませんし、場合によっては「不幸なマイノリティ」を捏造するようにもなってしまいます(このあたりのことについては、自分も昔、絓秀実『1968年』を読んだ後に「1968年の必然的行き詰まりとしての2ちゃんねらー」というエントリーを書きました)。
 
 著者は、この「マイノリティ憑依」というスタイルが限界を迎えつつあるのに、それを越える報道のスタイル、社会批判の視座を持てていないことが、現在のマスコミの問題点だというのです。

 ここでようやく登場するのが「当事者性」です。
 今回の震災における河北新報の記事などを例にあげながら、著者は「当事者性」こそが今のマスコミにおいて必要なものだといいます。

 ただ、これについては半分納得、半分疑問という感じです。
 マスコミが報道しなければならない問題には、外交や先端的な科学技術など当事者性を持つことがかなり難しい問題もあります。当事者性が重要な武器だとしてもそれを使える場面は実は意外と限られていると思うのです。
 また、当事者性を強調すると、この本の182p以下でとりあげられている新聞記者・高田昌幸の市民ジャーナリズム批判に反論できないのではないかと思いました(市民は高度な問題はマスコミに任せて身近な問題だけを活写すればいいという批判)。

 というわけでいろいろと欠点はある本です。
 ただ、非常に面白く読めましたし、著者の「熱量」のようなものが伝わってきた本でした。

「当事者」の時代 (光文社新書)
佐々木 俊尚
4334036724

大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』(岩波新書) 4点

副題は「3・11後の哲学」。社会学者の大澤真幸が3・11後の世界について考察した本で、「反原発」を主張している本でもあるんだけど、その主張はアクロバティックで個人的には破綻していると思います。

 まず第1章の「倫理の不安」では、津波や原発事故のような破局的な出来事は、人間の努力や倫理的な思いとは無関係に起き、そこでは倫理の無根拠性が明らかになるといいます。例えば、人間社会の「進歩」のために原子力の研究を進めた科学者も「破局」が起きてしまえばその行為が間違ったと言われてしまうのです。

 次の第2章の「原子力という神」では唯一の被爆国である日本において、なぜこれほどまで多くの原発が建設されたのかということが検討されています。大澤真幸は、20世紀の半ばにおいて原子力が「ユートピアへの鍵」であり、一種の「神」のような存在であったとし、まず原子力の平和利用が「理想」として提示され、その後、「虚構の時代」の中で、原子力の危険性を知りつつそれを推進するという「アイロニカルな没入」が進んだとしています。
 ややアクロバティックで無理のある議論もあるのですが、ここで示される、日本人は憲法9条や非核三原則があるがゆえにかえって安心して原発の開発ができた、という指摘(96ー97p)に関しては一理あると思います。

 第3章の「未来の他者はどこにいる? ここに!」では、3・11後においても日本では「反原発」「脱原発」の声が意外に少ないことを問題にしています。
 大澤真幸は、原発のもたらす経済的な利益を認めつつも、現在の経済的利益と将来の破局の可能性の比較を、『ソフィーの選択』において自分の子供と1億円のどっちをとるか?が問題になっているようなものだとしています(実際の『ソフィーの選択』で選択の対象になるのは二人の子ども、これは究極の問いだが、子どもと1億円ならいうまでもないというのが大澤真幸の考えで、これを「偽ソフィーの選択」と名付けている)。
 このあとこの章では、ヨーロッパで反原発が進んでいるのはキリスト教の「終末論」の伝統があるからだ、といった議論が続きます。

 第4章のタイトルは「神の国はあなたたちの中に」。イエス・キリストの思想を手がかりに反原発への道が示されます。
 ここの議論もかなりアクロバティックですが、結論は次のようなものです。
 原発事故という出来事、現代の神の死を告知するこの出来事に対応する、実践的な命令を引き出すとすれば、それは何であろうか。簡単なことである。事故は、否定的な仕方で ー悲惨な災害を媒介にしてー 、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。この「神の国」が実現するように、である。(191p)

 第5章は「階級の召命」。原発労働者を含めた現代日本のプロレタリアートが政治的な主体として階級闘争などに動く気配が無いことを指摘し、しかしながらそれでもなおプロレタリアートの可能性を見出そうとしています。マルクスやヘーゲル、ソクラテスなどが引用されるこの章の議論はかなり複雑で、要約するのは難しいですが、結論としては、プロレタリアートの概念を「自分が何者でもないと自覚する者、自分が同一化すべき内容が社会のどこにもないと自覚している者」と拡張した上で、そうした人びとが「第三者の審級」の位置を占めることが可能なソクラテス的な「懐疑する指導者」「無知な指導者」によって導かれるべきだとしています。

 そして最後の「特異な社会契約」では、ジャック・ラカンが考案した分析化になるための「パス」のシステムをもとにした、新しい意思決定の方法が提示されています。

 これがこの本の内容です。
 確かにこの本には議論を追う面白さというものはあります。
 けれども、この本の内容が実際の被災者に届くのか?そして現実の政治や社会に何らかの影響を与えるのかというと甚だしく疑問です。
 もちろん、現実の政治から距離をとった思想的な検討というのは必要だと思いますが、それでももう少し「現実」を見ることは必要でしょう。

 そしてそれ以上に問題だと思うのが、この本の議論全体が非常に否定神学的な終末論であること。
 これは大澤真幸の前著の『「正義」を考える』でも感じたのですが、近年の大澤真幸の議論は、カルト教団の終末論のような趣があります。
 「破局」を想像する、あるいは「破局」の中に生きる、それが人間社会の新しい可能性を開くというのが前著でもこの本でもポイントになっているのですが、これは危険な考えですし、本当にそうなのでしょうか?
 例えば関東大震災という「破局」は、素晴らしい社会をもたらしたのでしょうか?
 
 また、著者のキータームである「第三者の審級」も混乱しています。
 「第三者の審級」の典型例は「神」だったはずですが、原子力が「神」なら、原子力も「第三者の審級」なのでしょうか?
 また、現代社会においては「第三者の審級」が衰えているという判断があったはずですが、第5章ではマルクスやフロイトやソシュールのテクストは「第三者の審級」として機能しているといいます。
 普通に考えれば、マルクスのテクストが参照すべき権威でなくなったことこそ「第三者の審級」が衰えている例の一つだと思うのですが、「第三者の審級」は衰えているものの、マルクスのテクストの権威は衰えていないというのでしょうか?

 このようにこの本の議論にはさまざまな疑問符がつきます。
 別に全てがつまらない本ではありませんが、震災後一周年にあわせて出版する必要があったかどうかは正直疑問です。

夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)
大澤 真幸
4004313562

小林哲夫『高校紛争 1969-1970』(中公新書) 7点

1969年から70年にかけて、大学の「全共闘」の動きに引きずられるように全国の高校でも「高校紛争」が起きました。この本は膨大な資料と関係者の証言から、その高校紛争の姿を描き出そうとした本です。
 一部の学校、一分の関係者をとり上げるのではなく、あくまでも高校紛争の全体像を描き出そうとしている点がこの本の一番の特徴でしょう。

 目次は以下の通りです
 第一章 一九六九年十月二十一日、都立青山高校
 第二章 紛争の源流をたどる
 第三章 社会への反抗、学校への反抗
 第四章 高校生はなにを問うたか
 第五章 活動家の実像
 第六章 紛争重症校列伝
 第七章 紛争はどう伝えられたのか

 90年代前半にこの本にも一覧の中であげられている都立高校で学んだ身としては、高校紛争といってもほとんどぴんと来ませんし、今の高校生の姿からは、この高校紛争が再び起こるようなことがあるとはなかなか思えません。
 やはり時代の違いというのは大きいです。
 この本に書かれているように高校紛争の背景としては、ベトナム戦争があり、アメリカに協力する佐藤榮作内閣があり、大学の全共闘があり、そして何よりも学生運動が「かっこ良かった」「面白かった」ということがありました。
 
 灘高校で紛争を経験した前田年昭は「活動家にすれば、『おもしろいことをしたかった』に尽きると思います」(277p)と述べていますし、作家の小池真理子は自分の学生活動や喫茶店「無伴奏」での思い出を語りながら「実存主義で三〇分語れるだけで英雄だったんです」と回想しています(228p)。
 内ゲバや連合赤軍事件などですっかりと色あせてしまった学生運動ですが、やはりこの頃は「輝いていた」のだと感じます。 
 この本では押井守の経験も何度か引用されていますが、このときの押井守の体験が『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の文化祭前夜の学校泊まりこみのシーンに影響を与えているのは間違いないでしょう。
 また、教職員の中にも日教組に加入している者が多く、学生たちにシンパシーを感じていた教師が多かったということも、その後の学校との違いです。

 こうした高校生たちのエネルギーが、学校の規則や試験、授業への不満。政治活動を規制されることへの抵抗、日米安保体制やベトナム戦争反対へとつながっていきます。
 論理としては「自分たちが高校で日常生活をつづけることが、日米安保体制の肯定へつながる」といったかなり無茶なものもあるのですが、米軍に抗議した琉球政府立高校、独裁的な校長代行を追放した麻布高校など、自分たちの問題から出発してそれなりに成果をあげたような学校もあります。
 
 ただ、必ずしも高校紛争を突き動かしたものは「時代」だけではありません。
 この本の83ー84pには「卒業式における学校批判、社会批判の例」があげられているのですが、そこには受験中心の教育への批判、管理教育への批判、「先生に人間と人間のふれあいをもとめたがついになかった」など、その後の学校批判に通じるものもあります。

 さらにこの本を読んで感じるのは高校生の純粋さとそれがもたらす危うさ。
 多くの学生がある意味で親や教師に甘えながら運動をしていたような部分もあるのですが(266p以下の坂本龍一の話なんかはその典型)、一方で、最後まで運動の筋を通そうとした学生もいます。
 退学にさせられた生徒もいましたし、そうした生徒の中にはマルクス・レーニン主義的な考えを素朴に突き詰めて、あえて大阪の釜ヶ崎で働くものもいました。
 「社会を変革しようというなら、上昇ではなく下降、社会の底辺に向かわなければならない」という言葉が紹介されていますが(255p)、高校紛争が起きた高校の多くはエリート校です。そうしたエリート校にいる生徒たちがマルクス・レーニン主義を掲げて既存のシステムを告発する矛盾、この矛盾に鈍感なものはあっさりと学生運動を卒業したのでしょうが、この矛盾をしっかりと抱え込んでしまったものは今でもそれを抱えながら生きている。この本を読んでそんなこともわかりました。

 これで当時の学生を語る「理論」のようなものが提示されていると、さらに面白いものになるのかもしれませんが、一つの歴史の記録としていろいろと考えさせられる本だと思います。

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)
小林 哲夫
4121021495

大石久和『国土と日本人』(中公新書) 7点

建設省道路局長なども務めた人物による国土論。最後の方になると「公共事業してえ!」という叫びが聞こえてくるような本でもあるのですが、土木的な立場から見た日本の国土の特徴、そして日本の土地利用の問題点がわかる本でなかなか面白いと思います。

 まず、これは日本の近世史などを勉強していれば知っていることでもありますが、日本に手付かずの自然というのはほとんどありません。日本の平野を流れる大きな河川は、ほぼ戦国〜江戸期にかけて改修されており、その流れに何らかの形で手が加えられています。そして、これが耕地面積と人口をほぼ3倍に引き上げ、江戸時代の安定した社会をもたらしたわけです。

 この事実を踏まえた上で、著者は日本の国土の「難しさ」を指摘していきます。
 地震や台風といった天災に関しては誰しもが思いつくところですが、それ以外にも「国土のゆがみ」、「地形の複雑さ」、「四島に分かれていること」、「急峻な脊梁山脈」、「水系の多さ」、「地質の不安定さ」など、さまざまな要素に関してヨーロッパのドイツやフランスといった国々との比較を行い、日本の国土の「難しさ」を説明しています。

 いくつかの要素に関して「ヨーロッパと比較しているからそうなるだけであって、他の大陸の国と比較するとどうなんだ?」と思うものもありますが、「軟弱地盤上の都市」についての指摘はなるほどと思いました。
 日本の都市大部分は沖積平野に位置していて、戦国〜江戸時代の河川改修によって安定して人が住めるようになった場所が多いです。そのため、地盤は軟弱で、天井川(河底が周辺の地盤より高い川)になる河川が多く、また地下水位が高く地下工事の難しさを生んでいます。
 このため、東京や大阪で地下工事をする場合、まずは地下水を排水し、さらにそれによって緩んだ地盤を支えながら工事をする必要があるとのことです(53p)。

 次に著者がとり上げるのが日本の土地所有に関する考えです。
 著者は日本人の土地所有概念について「世界中のほとんどの国の土地保有の概念は利用優先になっているのに対して、わが国では所有優先、所有権絶対といってもよいような観念に貫かれている」(92p)と述べています(著者はこの理由を明治期の「壬申地券の発行」に求めていますが、この理由に関してはもうちょっと複雑だと思う)。
 その上で、著者は日本の地籍が確定していないこと、土地の細分化を問題にしています。 
 地籍とは、土地の所有者や境界・面積などを確定させたものなのですが、日本ではまだこれが半分も確定していません。お隣の韓国は日本が植民地支配していた時代に終わらせていたにもかかわらず(ただし現在最調査中)、日本では1951年から開始して未だに調査中です。
 この地籍の問題は、災害からの復興などにも影響を及ぼし、地籍が確定している地域はスピーディに復旧工事に着手できることになります。
 そして、この地籍に問題も、土地の細分化も土地収用の難しさに直結します。いかにも国土交通相的な問題意識ではありますが、この日本における土地収容に関するコストというのは否定出来ないものです。

 後半では、「これまでの国土づくり」、「これからの国土づくり」ということで、過去の公共事業の意義、そしてこれからの公共事業の必要性が語られているわけですが、ここはちょっと公共事業の正当化が鼻につくかもしれません。
 それでも、「公共事業=悪」という価値観が広まっている中で、公共事業推進派の考えを概観しておくのはいいことだと思います。
 例えば、128〜129pでは東京と名古屋の地下鉄の運賃を比較し、東京の地下鉄については戦後のインフレ以前に建設された路線が多いことが運賃の安さにつながっていると指摘してます。また、188〜191pでは宮崎県と熊本県を比較し、、高速道路のネットワークの有無が宮崎の野菜が東京の市場に進出できない理由だと指摘しています。
 このあたりは、正当な指摘で、現在の費用便益だけでははかれない公共事業の価値があることを教えてくれます。

 まあ、冒頭にも書いたように、公共事業を正当化したいという思いが出すぎている部分もあるのですが、公共事業に逆風が吹く中で、それを担ってきた人たちの考え、そしてその人達の経験を通じた国土の姿を見せてくれる本です。

国土と日本人 - 災害大国の生き方 (中公新書)
大石 久和
4121021517

成田龍一『近現代日本史と歴史学』(中公新書) 7点

サブタイトルは「書き替えられてきた過去」。戦後の歴史学が「近現代」をいかに捉え、叙述していったかということをたどった本です。
 多くの人が「面白い」と感じる話ではないとは思いますが、大学の史学科で日本の近現代史を学んだ身としては懐かしかったですし、自分の興味が歴史学を離れて政治学や社会学へと移った理由を説明してくれる本のようにも感じました。 
 全体を通して「歴史」と「歴史学」の違い、「歴史学」と「教科書」の関わりについて触れられており、歴史を教えている教員や、あるいは「歴史好き」で大学の史学科に行くことを考えている高校生なんかは読んでおくといい本です(さらに日本近現代史で卒論を書こうとしている大学生は先行研究を知る上で"必読”と言えるかもしれません)。

 著者によると戦後の日本の歴史学は、社会経済史をベースとした第一期、民衆の観点を取り入れた第二期、社会史研究を取り入れた第三期に分けられるといいます。
 イメージしやすくするために言い換えると、第一期はマルクス主義史観全盛の時期、第二期は70年代になって「新左翼」がでてきてマイノリティが注目を集めた時期、第三期はアナール学派とかそういう新しい潮流が出てきた時期にだいたい対応しています。

 現在の高校の日本史の教科書は基本的に「第一期をベースに、第二期の成果がいくらか書きこまれている」(はじめに v)状況です。
 つまり、現在広く流通している「歴史像」と、現在の歴史学で議論されている「歴史像」の間には大きな隔たりがあるわけです。この教科書レベルの記述と現在の歴史学(つまり第3期のもの)」の「ズレ」を指摘していく形でこの本は構成されています。
 明治維新から戦後社会まで、各時代の教科書の記述を概観し、それぞれの時代に対して第一期、第二期、第三期の歴史学がいかに分析を進め、新たな研究対象を見出していったのかということが語られており、教科書をチェックしながら日本近現代史の先行研究を整理するような流れになっています。

 例えば、明治維新は第一期ではヨーロッパにおける「絶対主義」を当てはめる形で理解されています。この第一期においては、天保の改革を絶対主義を目指した改革として近代の始まりに置く考えが主流でしたが、第二期ではペリー来航を契機とする「世界資本主義の日本への到達」こそが近代の始まりだというふうに変化していき、同時に琉球や蝦夷地、朝鮮との関係に注目し「鎖国」を否定する議論が出てきます。そして第三期になると日本の「開国」は「近代世界と中華世界の確執」といった形で捉え直されていきます。
 
 もちろん、この第一期、第二期、第三期という区分は絶対的なものではなく、第一期と第二期、第二期と第三期の特徴は入りっ混じっている部分もあります。
 けれども、全体的に見ればマルクス主義の影響を色濃く受けた歴史像から、「近代国家」あるいは社会システムといったものの分析を軸にした歴史像へと変化していることは明らかでしょう。

 さらにこの本では歴史学者意外の著作にも目を向けていて、上野千鶴子、見田宗介、イ・ヨンスク、佐藤卓己、小熊英二といった社会学者などの著作もとり上げています。
 また、司馬遼太郎とその著書の『坂の上の雲』をとり上げて、その歴史像と司馬遼太郎の「戦後史学批判」を紹介するなど、歴史学の中だけにとどまらない幅広い歴史像を取り出そうとしています。

 このようになかなか読み応えのある本なのですが、マルクス主義に染まった第一期や第二期の日本の歴史学とその議論にうんざりする人もいるでしょう。173pで紹介されている司馬遼太郎の戦後歴史学批判に頷く人も多いと思います。
 これが現実なので仕方が無いのですが、やはり日本の近現代をヨーロッパの歴史段階に当てはめてその限界や可能性を議論していくようなやり方は健全とは言い難いですよね。そういった意味で「つまらない」議論をしていた日本の歴史学の軌跡を描いたこの本を「つまらない」と感じる部分はあると思います。

 ただ、そうはいっても未だに高校生の勉強する日本史の教科書は第一期の研究の影響を色濃く受けていることは事実ですし、マルクス主義という「史観」だけではなく数々の「史実」を日本の歴史学が発掘してきたことは事実です。
 そういった意味でやはり読む価値のある本と言えるでしょう。

近現代日本史と歴史学 - 書き替えられてきた過去 (中公新書)
成田 龍一
4121021509
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-294826-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
タグクラウド
  • ライブドアブログ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('