山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

2012年09月

今野真二『百年前の日本語』(岩波新書) 9点

「明治期の日本語がいかに表記されたのか?」という、かなり細かい話題を追っている本なのですが、これが面白い!
 漢字の字体、振り仮名、外来語、「同語異表記」と「異語同表記」、「消えたひらがな」、辞書の変遷などのトピックを通じて、明治期の言葉の揺れと、その揺れの終息、そして日本語に起きたこの100年の大きな変化が見えてきます。

 著者は、まず明治期のテキストの現物を徹底的に見ていきます。
 例えば、夏目漱石の手書きの原稿。その中の漢字には「楷書体」「草書体」「行書体」が混在しており、またいわゆる「旧字体」である「康煕字典体」と「新字体」である「非康煕字典体」の両方を見ることができます。
 さらに行頭に句読点が来る例もあり、「禁則処理」がなされていません。

 このようにある意味で明治期の日本語というのは「自由」です。
 「元始」(はじめ)、「喜楽」(よろこび)、「虚仮」(いつはり)、「隆盛に」(さかんに)など、振り仮名を使うことで(58ー59p)、和語を漢字で表すこともできますし、同じ「基礎」という漢字の表記に、「いしずゑ」、「もとゐ」、「どだい」と振り仮名をふることで「異語同表記」を行ったりもしています(74p)。

 また、外来語の「handkerchif」(ハンカチーフ)も、意味や音から「手巾」(ハンケチーフー)、「白汗巾児」(しろはんけち)、「半手巾」(はんかちーふ)、「半巾」(はんけち)など、さまざまな漢字を当てて表そうとしています(77ー80p)。

 明治期まで、日本語の「公」性の高い文書においては漢語を使って漢字で書くというスタイルが一般的でした。当時の法律などに見られる漢字にカタカナが混じった文というのがその代表です。
 一方で、幕末から明治期にかけて出版された「草双紙」においては、漢語もほぼひらがなで書かれており、庶民の読み物の間では一種の「漢字離れ」が進んでいたことも窺えます。
 
 この日本語表記の大きな「揺れ」は、活字印刷の普及とともに徐々に収束していくことになります。
 漱石の『それから』の手書き原稿にあった「矢っ張り」は新聞紙上では「矢張」に書き換えられ、「難有い」という漢文式表記は「有難い」に直されています。まだこの時点では「ピアノ」と「ピヤノ」など不統一な部分も残っているのですが、「正しい表記」というものを確立しようとする動きが出てきています。
 
 さらにこの「揺れ」を収束させる動きはひらがなの表記にも及んでいます。
 明治期までひらがなの「し」には、現在まで使われている「し」と、それが行頭や行末にきた時に使われる漢字の「志」に似た文字に2つのものがありました。
 明治期に大槻文彦が編纂した日本初の近代的国語辞典とされる『言海』においても、見出し語の「し」には「志」に似たひらがなが使われています。
 ところが、この「志」に似たひらがなは1900年に文部省の出した「小学校令施行規則」の中の「第一号表」には存在せず、これらのひらがなは「変体仮名」と言われるようになり、次第にその姿を消していきます。
 ここでは教育が日本語の「揺れ」を収束させる役割を果たしていたのです。

 こうした活字や教育による日本語表記の統一について豊富な事例を用いて検証しているのがこの本の一つの魅力なのですが、この本にはもう一つ日本語の変化につての大きな主張があります。
 それが日本語の中の「漢語」と「和語」の関係です。この関係こそが、明治期の言葉と現在の言葉の大きな違いとなります。
 
 著者は「おわりに」の中で、明治期から現在までの歴史で日本語が「得たもの」として「書き方のルール」をあげ、「失ったもの」として「漢語という語種」をあげています。そして「失ったもの」について次のように書きます。
 こうしたルールの下にある現代の日本語について、これまであって、今ないことを、一言でいえば、「漢語という語種」ということに尽きる。現代においては、今使っている語のどれが和語でどれが漢語か、という語種の感覚が著しくなくなってきている。平安期以降編まれた勅撰和歌集において原則的には漢語が使われないということを持ち出すまでもなく、過去の日本語においては、漢語は、漢語としての、言い換えれば「外来語」としての特徴を維持し続けていた。
 本書においては、明治期を「和漢雅俗の世紀」と呼んだが、明治期もまたそれまでの時期と同様に漢語が漢語として存在していた時期であった。漢語は外来語としての位置を長く保っていた。和語と漢語がある種の緊張関係を保ち、その緊張関係に基づいて語彙体系が形成されていたというのが過去の日本語であろう。漢語を適切に、かつ効果的に使うことは、過去の日本語の「書きことば」に求められていたことであった。そして、それが「書きことば」の「公」性を支えていた。漢語は漢字で書くのが当たり前であり、「漢語を使う」ということは「漢字を使いこなす」ということでもあった。(185ー186p)
 
 言うまでもなく、現在「外来語」といえば、英語、ドイツ語、フランス語など欧米の言葉をルーツにしたものを思い浮かべます。そしてそれはカタカナで表記され、他の日本語とは区別して書かれます。
 この感覚がかつては中国から来た「漢語」にもあり、それが明治期を境にどんどん失われていったということは、たんに言葉だけの問題ではなく、日本の「外国観」にも通じるものがあるようにも思えます。
 かつて日本にとって進んだ「異国」として揺るぎない位置にあった中国。しかし、ペリー来航以来の欧米との接触によって日本にとって進んだ「異国」は欧米となり、中国はあるときは自分たちよりも西洋化の面で遅れている「蔑視の対象」として、またある時は「同じ亜細亜の同胞」として立ち現れるようになります。いわば「ある種の緊張関係」がなくなっているわけです。
  
 ですからこの本は、明治期の日本語の「書きことば」という非常に細かく思える対象を分析しながら、同時に「書きことば」の変化の中から、近代日本の大きな変化をあぶり出しているとも言えるでしょう。
 万人向けの本ではないかもしれませんが、個人的には強くお薦めしたい本です。

百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書)
今野 真二
4004313856

福井健策『「ネットの自由」vs.著作権』(光文社新書) 8点

これはタイムリーで面白い新書。本格的な「本」として、著作権の歴史や基本的な考え方をもうちょっと深く書いて欲しいという意見もあるかもしれませんが、「今起こっていること」に対するパンフレット的なものとしては、まさにぴったりの内容だと思います。
 著者は著作権問題に詳しく、さまざまな訴訟にも関わってきた弁護士の福井健策。今までも『著作権の世紀』など、著作権に関する著作がありますが(著作権の歴史や基本的な考え方を知りたい人は最初の著作の『著作権とは何か 』を読むといいんでしょう(自分は未読です))、最近の話題のトピックをユーザー、権利者相互の立場から語れるのが、実際にさまざまな訴訟や交渉に携わってきた人物ならではの特徴。この本でもSOAP、「ダウンロード刑罰化」、TPPなど、最新の著作権にまつわる動きをとり上げ、その中身を分析しつつ、これからの著作権のゆくえを見通そうとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 「SOPAの息子たち」
第2章 TPPの米国知財条項を検証する
第3章 最適の知財バランスを求めて
第4章 情報と知財のルールを作るのは誰なのか
あとがき
(巻末資料)TPP米国知財要求抄訳
主要参考文献
索引
 2012年1月、SOAP(オンライン海賊行為防止法)がアメリカでIT企業の大々的な反対キャンペーによって葬られ、2月には欧州では反ACTA運動(ACTAは「模造品・海賊版拡散防止条約」などと訳される)が盛り上がりました。いずれも知財分野における新たな規制強化に対するネット中心の大規模な反対運動で、「ネットの自由」を求める力が知財ロビーに匹敵、あるいはそれを上回るパワーを持っていることを見せつけた事件でした。 

 しかし、こうした動きに対して権利者側からは「裏口」を使って規制の強化を行おうという動きが出てきました。
 例えば、日本で今年成立した「ダウンロード刑罰化」を行うための著作権法の改正は、通常の文化審議会での立法ルートをとらずに、議員立法による著作権法改正案の修正という「裏口」を使い、審議もほとんどしないままに決定されました。
 
 そして、この「裏口」の一つとして注目すべきなのがTPPです。
 TPP(環太平洋経済連携協定)は域内の自由貿易を推進するための経済協定ですが、その中には「非関税障壁の撤廃」と、それに含まれる知財分野でのアメリカの要求があります。
 もちろん、多国間協定なのでアメリカの言い分がストレートに通るわけではありませんし、アメリカの詳しい要求内容もわかっていない状況なのですが、流出したとされるアメリカの条文案には次のようなことが書かれているといいます(25p)。 ちなみにこの条文案については最後に巻末資料として著者が訳したものが載っています。
 ・ 著作権保護期間の大幅延長
 ・ 著作権・商標侵害の非親告罪化
 ・ 法定賠償金制度の導入
 ・ アクセスガードなど、DRMの単純回避規制
 ・ 真正品の並行輸入の広範な禁止
 ・ 米国型のプロバイダーの義務・責任の導入
 ・ 音・匂いにも商標
 ・ 診断・治療方法も特許対象に
 ・ 医薬品データの保護
 この本では、これらの要求が通った場合に日本で何が起こるのか?といったことが身近な事例を引きながら解説されています。
 例えば、「真正品の並行輸入の広範な禁止」が通れば、音楽CDの輸入盤はなくなってしまう可能性がありますし、「医薬品データの保護」が通れば、ジェネリック医薬品の開発が難しくなる可能性があります。

 そして、著者はこのようなTPPなどを使った政策決定を「ポリシーロンダリング」と呼び警鐘を鳴らします。
 権利者とユーザーの対立が激しくなり、国内での法改正が難しくなった中で、TPPなどの条約交渉のかたちでユーザーの望まない著作権や知財分野の規制の強化が進む可能性があるのです。「いわば政策をいったん国外に出して、外交要求の形で逆輸入することで国内の批判をかわす形」(167p)です。

 このような「ポリシーロンダリング」の動きに対して、著者は、「条約が国内法に優越し、国内法の改正が難しくなること」、「条約交渉が基本的に秘密交渉で行われること」、「民主的正当性に疑問が残ること」などの危険性を指摘しています。
 この「ポリシーロンダリング」というスタイルは、知財分野にかぎらず他分野でも十分にありえることであり、気をつけていかなかればならないことでしょう。

 またこれ以外にも、これからの著作権のゆくえ、新しいビジネスモデルのあり方についての考察もあり、TPPの問題だけでなく、これからの著作権のあり方も考える内容になっています。
 創作者の収益モデルのあり方に気を配り、GoogleやAmazon、Facebookなどの巨大プラットフォームの規約の問題に懸念を示す著者の姿勢は明快ではないかもしれませんが、ここまで複雑化した知財分野の問題を考える上では必要不可欠な複眼的思考だと思います。

「ネットの自由」vs.著作権: TPPは、終わりの始まりなのか (光文社新書)
福井 健策
4334037070

神門善久『日本農業への正しい絶望法』(新潮新書) 5点

『さよならニッポン農業』(NHK生活人新書)が非常に面白かった神門善久による2冊目の新書。単純な農業保護論でも、経済学の立場からでもない提言というスタンスは変わらないのですが、東日本大震災であまりに「憂国の情」が強くなってしまったのか、今回の本は冷静な議論とはいえない部分も多く、やや残念な感じです。

 著者は、日本の農業が「危機」であると考えていますが、その危機の原因を「輸入自由化」や「行き過ぎた保護」、「農協」などに見るのではなく「技能の消滅」に見ています。
 近年、マスコミでたびたび農業がとり上げられ、一種の「農業ブーム」が起きていますが、そこでスポットライトの当たる新しく農業にチャレンジする人による無農薬有機栽培や、企業による「野菜工場」などは、いずれも日本の農業の強みである土づくりを始めとする「技能」を受け継いでいない「ハリボテの農業」だと著者は言います。

 「有機栽培」というと、それだけでさもおいしい野菜であるような印象がありますが、著者によれば処理が不適切な家畜の糞尿が大量に投入されれば土地は窒素過多になって野菜の味は落ちるとのことです。
 また、「野菜工場」や大規模で効率化を目指した農業はいずれもエネルギーの大量投入によって成り立つもので、味もそれなりものです。
 それよりも土地の狭い日本では、優良農地に手間暇を掛け、美味しい味と高い収穫量をめざす「技能集約型農業」こそが望ましいというのが著者の意見です。

 これは基本的には正しい考えだと思うのですが、この本では「絶望」ばかりが目立って、その「技能集約型農業」を目指す建設的な提言がなされていません。
 もちろん、だから「絶望」なのだとも言えますが、この本を読むかぎりうまく問題が解きほぐされずにぐちゃぐちゃなままになっている印象です。

 著者は「技能」が衰えた要因として、「農地利用の乱れという「川上問題」」、「消費者の舌の劣化という「川下問題」」(229p)をあげています。
 このうち、農地利用の問題は『さよならニッポン農業』で中心的に論じられていた問題で、ぜひとも改革を行わなければならないものなのですが、「消費者の舌の劣化」で問題を片付けられると、そこから先に進まないですよね。

 例えば、現在の農協で集荷してスーパーに出荷されるような流通システムでは、消費者が野菜を「おいしい」と感じでも、その要因が農家の「技能」なのかを見分けるすべはないですよね。
 個々の農家の「技能」がまったくわからない状態では、消費者はその野菜の美味しさの理由を「技能」ではなく、「鮮度」「有機栽培」といったものに求めるのは自然でしょう。消費者は結局野菜の「産地」くらいしかわからないわけで、今のところ「技能」を評価してもらおうと思ったら、産地全体で取り組んでブランド化するしかないですよね。
 そういった意味では、著者の毛嫌いする生産者の顔写真付きの野菜というのも、「技能」を正当に評価してもらうための一つの試みでしょう。

 農地利用の問題についての指摘は相変わらず鋭い部分があると思いますし、「JAの弱体化」についての指摘も興味深いのですが、全体的に冒頭に書いたように「憂国の情」に囚われて冷静な分析ができていないように思えます。

日本農業への正しい絶望法 (新潮新書)
神門 善久
4106104881

真野俊樹『入門 医療政策』(中公新書) 8点

近年、「日本の医療を改革しなければ!」という声が高まっています。その一つは小児科や産婦人科などの医師不足や地域医療の崩壊を食い止めるための「医療の充実」を求めるものであり、もう一つは高齢化とともに増え続ける医療費を減らすという、ある意味で「医療の抑制」を求めるものです。
 このような矛盾する二つの声に対応することはできるのか?現在の日本で「持続可能な医療制度」を考えた場合に選ぶことのできる道にはどんなものがあるのか?そして、その時に犠牲になるものは何か?
 こんな難問を、名古屋大学の医学部を卒業し、アメリカでMBAを取得、さらに経済学の博士号を持つ著者が解きほぐそうとしてくれたのがこの本。

 今までのこの手の本や文章は、医者か経済学者、あるいは元厚生省の官僚といった人が書いたものが多く、それぞれ「医療現場、または医学からの要求」、「経済学的に見た効率的な医療制度と現在の不効率な部分」、「現在の制度の説明」に偏ったものが多いと思うのですが(これは医療関係のものに限らず、年金や介護などについてのものでもその傾向があると思います)、この本では著者が「医療現場からの要求」、「経済学的な理論」、「現実の制度」の3つを分ったうえで、現実の問題を分析しています。
 何と言ってもこの点が一番のこの本のウリでしょう。

 さらに第5章の「諸外国の医療政策と医療の実態」を中心に、各国との比較を行なっているのですが、そこでとり上げられている国が豊富なのも特徴。多くの場合、日本、アメリカ、ヨーロッパのどこか1柄2つの国というのがこの手の比較対象の定番ですが、この本ではアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、シンガポール、韓国、タイ、中国、インドとアジア諸国まで幅広く比較の対象になっています。

 これを見ると、例えばイギリスやスウェーデンなどでは、「かかりつけ医」制度によって患者の大病院への自由なアクセスを制限して医療費の無秩序な増大を抑えていることがわかりますし、シンガポールや韓国などではアメリカ流の医療システムが取り入れられ、「産業」としての医療モデルが志向されていることがわかります。

 また単純に制度を紹介するだけではなく、エスピン=アンデルセンの「福祉国家の3つの類型」に基づいた議論もされており、各国の医療制度と日本のこれからの医療制度を考えるうえで非常に有益なものになっていると思います。
 民主党の医療政策が、鳩山内閣のもとで厚生労働省の政務官に就任した足立信也氏などのはたらきかけによって、「産業政策」的傾向が打ち出されてきているといった情報も、この本で改めて認識しました。

 そして、さまざまな分析を行った最後に著者は「治療(キュア)モデルかケアモデルか〜あり得る究極の選択」として次のように書いています(かなり長いですが、この本の議論のレベルや内容を知るうえで参考になる部分だと思うので引用します)。

 もし治療モデルをとった場合には、高度医療を重視するが、医療(機関)へのアクセスは後退する。国内での高度医療は充実するであろう。しかし、超高齢社会を迎えた日本で、ケアを無視した社会保障は国民生活へのマイナスが非常の大きいので、この選択肢はありえない。
  いっぽう、ケアモデルに重点配分した場合には、高度医療がさほど普及せず、アクセスは現状のまま維持できるが、高度な医療が犠牲になる、あるいは国内で行 うことが難しくなる可能性が高い。百歩譲って、高額療養費制度で、患者の費用負担を行ったり、制度的にドラッグ・ラグ、デバイス・ラグをなくすようにして 先進医療の効率化に努めたところで、どこかで予算面の制約が出てくるのはまちがいない。第一章で課題としてのべた混合診療についての議論も、ひとつには高 度な医療をすべて保険に導入するのか、まったく導入しないのか、あるいは高度な医療についてのみ、保険外適用として混合診療を認めるのか、という選択にな ろう。
 このふたつは、極端な選択であり、もちろんどちらをとるべきなのか、直ちに結論が出るわけではない。一番よいのは両方とも充実させることであるが、スウェーデンのような高福祉高負担の国でさえ、ケアモデル重視であって、治療の水準は世界最先端とはいい難い。
  もうひとつの注意点は、アジア諸国が産業モデルをとっているということである。そのためにアジア諸国の高度な医療は急速に日本のレベルに追いついてきてい る。日本がケアモデルを重視した場合、日本からの患者流出のおそれを覚悟できるのかということである。(259ー260p)

 全体的に学術用語をたくさん使いすぎていて、やや読みにくい部分もあるかもしれませんが、今後の日本の医療や社会福祉を考えていくうえで非常に有益な本だと思います。

入門 医療政策 - 誰が決めるか、何を目指すのか (中公新書)
真野 俊樹
4121021770

玉居子精宏『大川周明 アジア独立の夢』(平凡社新書) 7点

まずタイトルから「アジア主義」を唱えた思想家・大川周明の評伝を期待する人も多いと思いますが、これは大川周明が設立し「大川塾」と呼ばれた東亜経済調査局付属研究所の実態とその後東南アジアへと散っていった若き塾生についての本で、大川周明の評伝ではないです。
 なので、タイトルにはミスリードな部分があるのですが、本の内容はなかなか面白く、「アジア主義」を信じた青年たちのひたむきさと、その「アジア主義」と軍の作戦第一主義の中で翻弄される塾生の運命が描かれています。

 大川周明というと三月事件や十月事件、そして五・一五事件に関与した人物で、東京裁判では唯一戦犯として起訴され、裁判途中で東条英機の頭を叩くなど奇行が目立ち、最終的には「発狂」というのが大方の人のイメージだと思います。
 そんな大川周明が五・一五事件で逮捕され服役し出所してから敗戦まで何をやっていたかというと、それがこの本でとり上げられている東亜経済調査局付属研究所、通称「大川塾」の運営です。

 東亜経済調査局付属研究所(大川塾)は、五・一五事件で禁錮5年の判決を受けた大川周明が、「将来日本の躍進発展に備えるために海外各地に派遣し該地の政治、経済及び諸事情に精通せしめ所要の調査に従事」(27p)する人材を育成するために開設されたもので、全国から「学費無料・小遣い支給・10年働けば1万円」という条件で全国から若者が募集されました。

 大川周明はそのアジア主義の理想から、塾生の活躍の場としては仏印(ベトナム・カンボジア、ラオス)、タイ、蘭領東インド(インドネシア)、ビルマ、インド、さらにはイランやアフガニスタントルコが想定され、塾生はそれぞれの場所を想定した語学の専攻ごとに班分けされ、フランス語+安南語(ベトナム語)といった具合に、宗主国の言語と現地の言葉をセットで学びました。
 さらに大川周明自身によって、アジアの植民地支配の歴史が講義され、「正直と親切」によってアジアを開放するという理想が語られました。
 
 しかし、このような大規模な私塾がきれいごとだけでは運営できないのも確かで、塾の運営資金は陸軍・外務省・満鉄から出たそうです。
 大川塾では松岡洋右や東条英機が講演を行い、また陸軍の様々な謀略に関わった田中隆吉、陸軍中野学校の創設に関わった岩畔豪雄などが講義を行なっています。こういったこともあり、大川塾を「スパイ養成学校」と見る向きもあったそうです。

 そして、そんな大川塾で育った塾生たちの太平洋戦争時の活躍がこの本のメインテーマとなります。
 ある者はタイでマレー作戦の一環としておこなれたシンゴラ湾上陸作戦を手伝い、ある者はビルマ独立義勇軍(BIA)に関わりながら日本軍の作戦第一主義との狭間の中で苦悩し、ある者はベトナムでゴ・ディン・ジェム救出作戦に従事し、また、ある者はインパール作戦でインド兵に投降を呼びかけました。
 
 この本を読むと、「アジア解放」という大川の教えに染まった者、半信半疑だった者がいることがわかりますが、いずれの塾生も異国の地で体当たりで活動していた様子がわかります。
 それと同時に、日本軍自体は「南方占領地行政実施要領」の「其ノ独立運動ノ如キハ過早ニ誘発セシムルコトヲ避クルモノトス」の記述から分かるように、アジア諸国の独立には慎重で、作戦上の理由からアジアの独立運動を利用していました。
 この本では、そんな理想と現実のギャップが若い塾生たちにのしかかっていた様子も描かれており、アジア・太平洋戦争を考え直す上でも有益な本だと感じました。

 大川周明という人物自体に関してはこの本を読んでもよくわからないことが多く、自分の中でもどう位置づけていいのかわからない人間ではありますが(さすがにエキセントリックすぎると思うけど、そのエキセントリックさが若者たちを「感染」させたのかな?と思います)、今まで光の当たらなかった歴史の一面に光を当てた本だと思います。

大川周明 アジア独立の夢 (平凡社新書)
玉居子 精宏
4582856519

斎藤環『被災した時間』(中公新書) 7点

精神科医の斎藤環が東日本大震災以降に、震災や原発事故をテーマに書いてきた原稿・対談などをまとめた本。普通この手の本は中公新書ラクレのほうにまわることが多いと思うのですが、中公新書本体の方から出版されてきました。
 「毎日新聞」に連載されていたコラム<時代の風>と『現代思想九月臨時増刊号・緊急復刊imago 東日本大震災と<こころ>のゆくえ』に載せられた文章が中心なので、読んだことのある人も多いと思いますし、さまざまな媒体で発表された文章を集めたために重複する部分もありますが、震災後の記録としても読ませますし、震災後を考える上でも興味深い本になっていると思います。

 まず面白いのが、『imago』でも読んだ、同じ精神科医の井原裕との対談「「日常」の回復のために精神科医は何ができるか」。
 埼玉県の加須市に避難した福島県双葉町の住民の健康相談にのっていて岩手にも住んだ経験のある井原裕と斎藤環が、「心のケア」、「ひきこもり」、「PTSD」、そして「復興」といったことについて話しあっているのですが、お互いにかなり率直に意見を言っています。
 「日常」を取り戻すことが大事だけど、震災のような「非日常」がひきこもりの「日常」を変えるチャンスにもなるという指摘や、マスコミではPTSDばかりが注目されて困るといった部分も面白いですが、個人的に注目したのは井原裕の次の発言。
 被災者の心理といえばすぐにPTSD、心のケア、フラッシュバック、デブリーフィングといった常套句が出てくるわけですけど、実際に被災者の心ということを考えた場合、本当に怖いのは、むしろ被害感情とか、やり場のない怒りではないでしょうか。こんな悲惨な運命をもたらしたものに対する恨み、あるいは呑気な暮らしをしている他の町の人々に対する妬みですね。そういう激しい感情を秘めていると思うんですよ。被災者の心を考えた場合、本当は被害感情の鎮魂が最大のテーマになると思います。しかし、それには精神医学は決して触れないですよね。(83ー84p)
 これに対しては斎藤環も「これは医学的ケアが難しい領域ですね」と応じていますが、なかなかマスメディアには出てこない非常に難しい問題だと思います。
 
 そして震災からほぼ1年後に書かれた「最大の懸念は福島の被災者のメンタルヘルスである」という文章の最後で斎藤環は次のように述べています。
 しかし臨床家としては、あえて「何も変わらない」と言い続けるほかはなかった。「変わる」という認識が被災地の喪失感に拍車をかけることを恐れたためである。
 しかし福島を視野に入れて考えるなら、むしろ「変わる」ことに希望を託すべきではないかとの思いもある。少なくとも「脱原発」という「変化」なくして、最終的に被災者の心が慰められることはないのではないか。(170p)
 やや、非科学的な「脱原発論」に聞こえますが、これは重要な指摘かもしれません(ちなみに他の部分では著者は「今ある原発を動かしながら技術者の育成もつづけ100年単位で脱原発するというマイルドな脱原発論を唱えています)。
 戦後、ずっと日本で続いてきた反核兵器の運動も、やはりヒロシマ・ナガサキへの鎮魂という側面は無視できないですよね。

 これ以外にも、福島出身の開沼博と宮城出身の山内明美との「被災県出身鼎談」もなかなかおもしろいと思いますし、「ピンチがチャンス」と書いてしまった自分への率直な反省も、憶測と自己弁護が目立った震災についての言説の中でさわやかな印象を受けます。
 また、震災と若者についての次の指摘も心に留めておくべきでしょう。
 それまで若者論といえば、例えば『希望は、戦争。』といっていた赤木智弘さんだったのが、震災後は古市さんにシフトして行ったあたりの経緯が、今の日本を象徴している気がします。(193ー194p)
 というわけで、一つ一つの文章はやや物足りない面もあるかもしれませんが、本全体で今回の震災を考える上でのさまざまな視座を提供してくれている本だと思います。

被災した時間―3.11が問いかけているもの (中公新書 2180)
斎藤 環
4121021800
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-294826-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
タグクラウド
  • ライブドアブログ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('