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2023年07月

八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書) 9点

 江戸時代にやってきた外国人、例えばゴローヴニン事件で捕らえられたゴローヴニンや、漂流民を装って日本にやってきて森山栄之助に英語を教えることになったラナルド・マクドナルド、あるいはイギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人の読み書きの能力に驚いています。
 こうしたことから、当時の日本は世界一の識字率だったというような主張もあります。

 ただし、ここでいう「識字率」とは一体どのようなものなのでしょうか?
 活字に囲まれた現代に生きる私たちは、漢字を除き、一定の訓練を受ければ提示された文章をどんどん読めるし、自分の思ったことを書けるようになると考えがちです。
 ところが、近世までの日本において、話し言葉と書き言葉は分離しており、ひらがなを覚えたからといって自分の思ったことが「書ける」ようになるわけではありませんし、行書や草書で書かれた字体を読み解くには、また訓練が必要です。
 つまり、「字を知っている/書ける」ということに関して、さまざまなレベルが想定されるのです。

 本書は、日本における書き言葉の特徴を指摘し、さらに読み書きの教材として使われた「往来物」に注目することで、庶民がいかなる読み書きの能力を欲し、それを学んだかということを検討しています。
 さらに、先程あげた「識字率」のレベルの問題、そして、近代になって始まった学校教育の新しさと、その中にある寺子屋教育との連続性についても分析しています。
 
 日本の歴史における読み書きと教育の問題について断片的には知っていましたが、本書は日本語の特殊性から説き起こして、これを1つの流れとして説明しています。
 多くの論点を含んだ非常に刺激的な本だと思います。

 目次は以下の通り。
第一章 日本における書き言葉の成立
第二章 読み書きのための学び
第三章 往来物の隆盛と終焉  
第四章 寺子屋と読み書き能力の広がり
第五章 近代学校と読み書き
 
 人間の言語を話しますが、文字を持たない人々もいます。日本にかつて住んでいた人々も文字を持っておらず、漢字を取り入れる形で文字を使うようになりました。
 しかし、中国語と日本語ではまったく言語類型が違います。語順も違うわけですが、日本語の単語の中には営業、減速、就職のように中国語的な語順の言葉がたくさんあります。
 本書では「券売機が発券する」という例があげられていますが、「券売」は日本語的、「発券」は中国語的な語順になっています。

 当初の漢字で書かれた文書は、ほぼ外国語のようなものだったと思われますが、やがて漢文訓読という漢文にレ点などをつけて、日本語風に読む方法を生み出していきます。
 これは考えてみれば不思議な方法で、”I play piano.”という文章を「アイ プレイ ピアノ」と発音せずに、レ点を打って「我、洋琴を奏す」などと読んでいると思えば、かなり特殊なやり方だということがわかると思います。
 
 しかし、いくら漢文訓読という手法が編み出されても、元になっている中国語の文章は日本人にとっては読解が困難です。
 そこで、より日本語に近接した文体が生み出されていくことになります。変体漢文と言われるものであったり、あるいは天皇の発する詔書に使われた宣命体です。
 さらに万葉仮名という漢字を当て字に使う方法が生み出され、さらに片仮名、平仮名が発明されることでさらに日本語に近接した表現方法が生み出されていくことになります。

 こうした日本の文章表記において主流になっていったのが候文というものです。特に近世期になると公文書から手紙にいたるまで、この候文で書かれていくことになります。
 候文は漢文性を極力排除しつつ、「有之」「難有」などの漢文的な表現を含んでおり、ぎりぎりのところで漢文的な性格を保ったものでした。

 また、近世になると書体の統一も進みます。平安時代初期までは公文書は楷書体、私的性格が強まると行書体漢字・平仮名が使用されるという使い分けがありましたが、次第にすべての文書が行書体で書かれるようになります。
 近世期になると、その崩し方まで一様になり、きわめて均質的な書記世界が成立していくことになります。
 ただし、候文も話し言葉との乖離は大きく、言葉が話せることと読むこと・書けることの間には大きな壁がありました。

 古代の日本では紙のかわりに木簡が用いられていましたが、この木簡に役人たちが字の練習をしたものが見つかっています。これが習書木簡です。
 この習書木簡に多く書かれているものが、官司名や地名、物品名です。これらは役人たちが必ず書かなければならないものでそのための練習だったと考えられています。
 
 では、上級貴族は自由に字が書けたのかというと、律令制が崩壊すると「一文不通」と呼ばれる貴族が出てきます。
 例えば、藤原道綱は、藤原実資から名字しか書けず、「一二」という数字すら知らない者が大納言になるのはおかしいと書かれていますし、藤原経実も藤原宗忠から、一文不通であり、公事のたびに病気と偽って出仕しなかったことを責められています。
 道綱も経実もまったく字が書けなかったわけではなさそうですが、平安時代後期になって官職の世襲化が進むと、文書(漢文)作成能力に疑問がつくような貴族も増えてきたのです。

 こうした時代に登場したものが「往来物」です。「往来」とは手紙のことであり、「往来物」とは基本的には手紙の例文集になります。
 最古の往来者とされているのが『明衡往来』で、平安中期の学者・藤原明衡によるものとされています。内容は貴族の間の各種の手紙文の文例集です。
 これが読み書きの教科書となっていくわけですが、手紙で読み書きを学ぶものとして、中国には「書儀」と呼ばれるものがあり、こうしたものの影響を受けていると考えられます。

 しかし、この「往来物」という呼び方は、手紙の書き方を示したものに限らず、さまざまなジャンルに広がっていることになります。
 例えば、元禄時代に刊行された『商売往来』には、「雑穀は粳(うるち)・糯(もち)・早稲、晩稲・古米・新米・麦…」、「絹布の類は、金襴、繻子・段(緞)子・紗綾、縮緬、綸子、羽二重…」(55p)といった具合に商品名が列挙されており、さらに商人の心得といったものも書かれています。手紙はどこにも登場しませんが、「往来」と名乗っていのです。

 この他にも江戸時代には周囲の村名を列挙したものや、よくある名字を列挙した往来者が刊行されています。
 他にも『国性爺往来』は鄭成功の伝記ですし、『童子往来』はさまざまな教訓などを書き記したものでした。

 こうした往来物は1万を超えるものがつくられたといいます。今までにも述べたようにその中身はさまざまですが、こられが読み書きの教材として使われました。
 その中には借金証文のテンプレートもありましたし、江戸の地名が羅列されたものもありました。

 さらに関ヶ原の戦いの前に上杉景勝の家臣の直江兼続が徳川家康に出した書状とされる『直江状』や、大阪の陣において家康と豊臣秀頼の間でかわされたとされる『大坂状』も往来者として使われていました。家康に対する不穏当な表現が含まれているにもかかわらずです。
 不穏当といえば、往来物には一揆の訴状をとり上げているものもありました。百姓が領主の不法を訴えでたものが往来者となっているのです。

 なぜ、このようなものが教材になったのでしょうか?
 理由の1つは、近代以前の日本の公私文書が候文という口語体とは異なる書記言語によって作成されていた点です。近世以前の人々は文字そのものの読み書きを覚えるだけでは文書を作成することはできませんでした。また、文書ごとの約束事があり、それも身につける必要があったのです。
 もう1つは、近世以前の日本には読んでその内容を深く理解すべきと位置づけられる共通のテクストが不在だったこともあげられます。西洋世界の教理問答書のような、多くの人が理解すべきものと考えられていたものはありませんでした。また、日本ではこうしたことを強制する統一的な権力も不在でした。

 明治期になると「読ませる権力」が出現しますが、往来物については明治初期にそのピークを迎えます。
 内容は手紙中心から、さまざまな公文書の書式集へと変化していきます。ただし、この書式集は実務家を対象とした一般書へと変質していき、読み書きを教わる場は学校に集約されていきます。

 第4章では寺子屋について再検討しています。
 近世の日本の「識字率」の高さを支えたのは寺子屋による教育だと言われていますが、実際にどのような教育が行われ、どの程度の効果があったのか? といったことが探られています。
 ちなみに「寺子屋」という言い方は、「手習師」「手習塾」などのさまざまな呼び名があったものをまとめたもので、明治政府が調査のときにこれらの教育機関を「寺子屋」としてまとめたことから江戸時代の読み書きの教室がこう呼ばれるようになりました。
 また、「寺子屋」といっても必ずしも寺で行われていたわけではなく、さまざまなスタイルのものがありました。

 まず、近世初期の「識字率」です。これを推定するのは難しいのですが、本書では長崎出島と京都六角町の宗旨人別帳において、花押を書いた者、署名した者、印鑑を押した者、◯などの記号をつけた者の割合を分析した研究が紹介されています。
 1634年の長崎平戸町において家持当主23人のうち21人が、借家層の当主17人のうち10人が花押を書いています。1635年の京都六角町では家持当主19人全員が、借家層7人のうち6人が花押を書いています。
 これらの地域はかなり先進地域だと考えられますが、都市部では流暢に字を書く者の割合はかなり高かったと考えられます(ただし、女性で花押を書いた者は皆無)。

 17世紀になると地方都市にも寺子屋が普及するようになります。寺子屋の総数を把握することは困難ですが、寺子屋の師匠が亡くなったときに建てられた筆子碑の数などから見ても、相当な数があったと考えられます。
 
 また、寺子屋の門人帳を見ることで、住民のどのくらいが通っていたかもわかります。新潟県の村上のケースでは、寺子屋周辺の町で、世帯数とほぼ同じ数の世帯から入門者がいるなど、住民のかなりの割合が寺子屋に通っていたこともわかっています。
 近江の北庄村にあった時習斎寺子屋は、4276人もの寺子が入門した寺子屋として有名で、常時200人前後が学んでいたのではないかと推測されています。
 ちなみに北庄村の人口が900人ちょっとだった一方、明治6年までの60年間に時習斎寺子屋で学んだ北庄村の者が860人にのぼることから、村人のほとんどがこの寺子屋に通っていたのではないかとも推測されています(ただし、女子の割合は少なく全体を通して女子の割合は22.2%(121−123p))。
 
 では、これだけ寺子屋に通っていたからには多くの人が自由に読み書きができていたのかというと、そうでもないようです。
 志摩国の鳥羽町の寺子屋で使用された手本を分析した研究によると、入門者の半分以上は習った手本が5冊以下であり、候文を含めた文書の作成は難しかったと思われます。
 陸奥国岩手郡篠木村の寺子屋師匠が残した『俗言集』には、百姓の子どもは半年から1年で辞めてしまう者も多く、農作業が忙しいとかその他の理由で来なくなってしまって、結果として読み書きを忘れてしまうという嘆きが書かれています。
 宮本常一は、寺子屋に通った自分の祖父の話として「平生使いもしない字をならうのはつまらなかったという」(133p)と書いています。一方、外祖父は「大工になったので相当に読み書きができた」(134p)と書いており、文字を使う環境にいたかどうかが、その後の読み書きの能力に大きな影響を与えたようです。

 農村の識字率についてはわからないことが多いですが、村請制が行われていたということは村には一定の読み書きできる層がいたと考えられます。
 明治初期(明治7〜8年)に和歌山県が行った識字調査では、全住民を対象とした50ヶ村の調査で、男子の自署率は54.4%、その中で文通できる者は男子全体の10.2%ほどでした。
 他の地域に関しても、この10%程度の層が村請制を支えていたと考えられます。

 さらに江戸時代の後期になると、徘徊をはじめとして書、詩文、画などの文化活動を行う人々が増え、在村文化を形成していきます。
 こうした趣味のネットワークが広がるに連れ、一定以上の層にとっては読み書きや教養が必須のものになり、大庄屋などになれば漢文の素養なども求められることになりました。

 こうしたことから、近世日本のリテラシーは、「読めるか/読めないか」ではなく、一種のスペクトル状に展開していたと考えられます。
 漢学や国学などを学ぶ層から、徘徊や和歌を楽しむ層、寺子屋で往来物を学んだ程度の層といった具合に、「識字」の中にもさまざまなレベルがあったのです。

 明治になると学校において読み書きの教育が始まるわけですが、そうした中でいくつかの県において住民を対象にした自署率の調査が行われています。
 本書では滋賀県、岡山県、鹿児島県の調査が紹介されていますが(159p図5−1)、まず目を引くのは滋賀県男子の自署率の高さです。1877年から一貫して90%近い自署率です。滋賀県の女子は1877年で4割程度、これが1893年には7割弱程度まで上がってきています。
 一方、鹿児島県は1884年の時点で3割ちょっと、女子に至っては4%しかありません。岡山は滋賀と鹿児島の中間といった具合ですが、明治初期において地域の格差が相当に大きかったことがうかがえます。そして学校教育の普及とともに自署率は上がっていっています。
 
 自署を超えるレベルはどうかというと、和歌山県の調査では、自署と文通についてそれぞれ可能かどうかを調べています(166p図5−2)。これによると、自署率に関しては村によってバラバラですが、文通率に関してはどの村も同じような値(5〜15%程度)になっています。これらが村請制を支えた層だと思われます。
 
 こうした中で導入された学校制度ですが、これは明治政府の他の政策とともに身分制社会を否定するものでした。
 江戸時代において子どもが職業的な能力を獲得していく過程は徒弟制的なものでしたが、学校では子どもたちを家庭や職場から切り離して教育するところに特徴があります。
 1872年に発布された学制はアメリカのカリキュラムを手本としており、「小学教則」には究理(物理)、幾何、博学、化学、生理など、自然科学関係科目を含む28科目を配したものでした。

 この従来の寺子屋教育を一掃するような野心的なやり方は人々のニーズと合っておらず、うまくいきませんでした。
 学校で勉強させたのに手紙も書けないといった声もあがり、1881年の小学校教則綱領で、科目は修身、読書、習字、算術、唱歌、体操に再編されます。習字では、干支や地名、実用書類などについても教えられるようになり、寺子屋的な教育内容が復活することになります。
 また、歴史や地理や理科などの内容が国語の中で教えられるという「内容主義の国語教育」の傾向が強まります。ここにもさまざまな事柄を往来物で教える寺子屋教育の残滓があったと言えるかもしれません。

 明治なって言文一致も進みます。1900年頃から尋常小学校の教科書においても口語化が進み、1904年から国定教科書が導入されたことで口語化の流れは決定的になりました。
 新聞の口語体が進むのが1920年代、公用文・法令・詔書などが口語化するのは戦後になってからであり、口語化については教育が大きく先行しています。

 また、この時期には音読から黙読へという動きもありました。明治期には汽車の中や図書館で音読をしている人がいたことが知られていますが、次第にそうした場での音読は禁止されていきます。
 ただし、著者は江戸時代の川柳「まくらゑを高らかによみしかられる」などから(「まくらゑ」とはエロティックな読み物)、江戸時代にも黙読はあり、必ずしも近世/近代で断絶したものではなかっただろうと分析しています。

 最後に著者は、「生活綴方」を可能にしたのが鉛筆と安い西洋紙の普及だという指摘に触れ、ワープロ、そして音声入出力システムの普及が私たちの「読み書き」に大きな変化をもたらすのではないか? と述べています。

 このように本書は日本語の読み書きの歴史を追いながら、同時に日本の教育や日本語の書記システムの特徴といったものも教えてくれる本です。
 今のように活字に囲まれた世界では、字を一通り習えば、自然に読み書きができるようになると考えてしまいますが、話し言葉と書き言葉が分離した世界では、字だけではなくさまざまな約束事を同時に身につけることで、初めて「書く」ことができたのです。
 「言われてみればその通り」ということを鮮やかに示した本だと言えるでしょう。


読み書きの日本史 (岩波新書)
八鍬 友広
岩波書店
2023-07-27


保坂三四郎『諜報国家ロシア』(中公新書) 7点

 面白いけど、読んでいくとロシアに関係する人がすべて信じられなくなってしまいそうな厄介な本でもあります。
 
 プーチンがKGB(国家保安委員会)出身であり、ロシアの前身であるソ連がさまざまなスパイ活動を行っていたことはよく知られていることですが、本書を読むと、ロシアが単なるスパイ大国というだけではなく、巨大な情報期間が国家のあらゆる部分に浸透している「防諜国家」であることがわかります。

 本書はソ連の秘密警察の歴史から説き起こし、情報機関という枠には収まらないソ連・ロシアの諜報機関の姿とそのさまざまな手口、さらに情報機関が国の中心に存在するロシアに広がる世界観を明らかにしています。
 そして、こうした世界観と国家体質がウクライナへの侵攻をもたらしたことを明らかにするのです。

 目次は以下の通り。
第1章 歴史・組織・要員―KGBとはいったい何か
第2章 体制転換―なぜKGBは生き残ったか
第3章 戦術・手法―変わらない伝統
第4章 メディアと政治技術―絶え間ない改善
第5章 共産主義に代わるチェキストの世界観
第6章 ロシア・ウクライナ戦争―チェキストの戦争
終章 全面侵攻後のロシア

 KGBの前身は1917年12月20日に創設された反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会、いわゆる「チェーカー(Cheka)」です。
 レーニンはチェーカーの初代議長にジェルジンスキーを任命しました。チェーカーはロシア国内の反革命勢力の取締にあたり、富豪や革命に抵抗する白軍だけでなく、次第に一般市民までをさまざまな罪で処刑していきました。
 レーニンとジェルジンスキーの指揮下にあるチェーカーは、家宅捜索、逮捕、処刑の権限を持ち、法の制約を受けずに活動しました。
 チェーカーは全土に密告者のネットワークをつくり上げ、さらに海外にもエージェント網を広げていきました。

 1921年、内戦が収束に向かい始めると、レーニンは「ネップ」を打ち出し、市場、私企業を一部で復活させます。こうなると悪名高いチェーカーをどうするのかということが問題になりました。
 1922年2月にチェーカーの廃止が発表され、その機能は内務人民委員部(NKVD)の中に設置された「国家政治局(GPU)」に移管され、見かけ上は大幅に縮小されました。
 ジェルジンスキーはチェーカーを去り、運輸人民委員(運輸相)になりましたが、実際にはジェルジンスキーが運輸相とGPUのトップを兼任していました。チェーカーは看板を掛け替えただけで生き残ったのです。

 1923年、GPUは統合国家政治局(OGPU)に改組され、スターリンの私的テロ機関への変貌していきます。
 スターリン時代になると一般囚人と政治犯の区別は曖昧になり、OGPUは一般警察を吸収し、拡大します。

 スターリンが死に、ベリヤが失脚してフルシチョフの時代になると、1954年にOGPUの流れからできた国家保安委員会(KGB)には逆風が吹くことになります。
 フルシチョフはKGB議長について、生え抜きのチェキストではなく、外部の党員をあてるようにするなど統制を図りますが、組織自体は温存されました。

 KGBの特徴は政府に所属するのではなく、党の政治局の指示に従う政治機関であったことです。KGBが政府を監視するという形になっていました。
 その組織に関しては、本書22〜23pの図2を見てもらうとして、ソ連末期には50万に近い職員を抱える巨大組織だったといいます。
 KGBには「現役予備」の制度もあり、省庁、新聞社、通信社、大学、国営航空会社(アエロフロート)などに将校を送り込み、防諜・諜報活動を行っていました。さらにKGBの第3総局は軍の監視を行っており、核の管理など担っていたこともあるといいます。

 KGBの活動を支えたのがチェキストの分身とも言うべき「エージェント」の存在です。例えば、プーチンはウクライナの元大統領府長官のヴィクトル・メドヴェチュークを半公然のエージェントとして使い、ウクライナの政治に介入していました。
 KGBは思想的説得の他、時にはセックスや汚職絡みで弱みを握り、あるいは金や地位を保障することでエージェントをリクルートしました。
 ソ連崩壊後に明らかになった1968年のアンドロポフの発言から、ソ連全体で約17万人のエージェントがいたと推定されています。また、ソ連崩壊時にはウクライナに7万人、エストニアに最大3000人、ラトビアに4500人エージェントがいたことが明らかになっています。
 外国人のエージェントもおり、1970年代にハニートラップに引っかかってリクルートされた日本外務省の電信担当者「ナザル」(コードネーム)は、日米間の外交公電や暗号資料をKGBに渡していました。

 さらにエージェントよりも秘密度の低いKGBの協力者として「信頼できる者」というカテゴリーがあるといいます。彼らは駅員、あるいは郵便の窓口担当者などに配置され、怪しい動きをしている人を通報しました。 
 本書では、アエロフロートの女性乗務員が、流暢なロシア語で書類の書き方を尋ねてきたアメリカ人の旅行者に対して、「どこで勉強したのか?」と聞いたところ、言葉を濁したのでKGBに通報したケースが紹介されています。

 このKGBですが、ソ連が解体され、ソ連共産党も解体されたあともいくつかの機関に分割されて残りました。
 まず、1991年の八月クーデター失敗後、ソ連共産党の資金をKGBが密かに海外に移していたといいます。
 さらにソ連末期にはビジネスの分野にも進出し、ソ連時代末期に行われた各種の選挙で候補者を擁立して当選させるなど、各分野に浸透をはかりました。
 1988年にはチェキストについての大量の本や映画がつくられ、KGBのイメージアップが図られました。

 東ドイツでは体制の崩壊後、秘密警察の文書が公開され、関係者の公職追放が行われました。
 ロシアでもKGBの復活を危惧した議員からKGB関係者の公職追放を行う法案が提出されましたが、それが採択されることはありませんでした。
 ロシア議会内にもKGBの関係者は浸透しており、さらにKGBの徹底した秘密主義もあって、国民の中でKGBを恐れる声は高まらなかったのです。

 ソ連崩壊後、情報機関と犯罪組織の癒着は日常的になり、KGB職員のコネや特殊技能は犯罪組織から重宝されました。
 こうした中で、マフィアの協力を得ながら、サンクトペテルブルクの経済犯罪を影で牛耳り、台頭したのがプーチンだといいます。
 プーチンはソ連解体後の混乱や犯罪の蔓延を引き合いに出しながら、安定や秩序を訴えましたが、自らも犯罪の片棒を担いでいた時期があったのです。

 KGBの国内部門は基本的にロシアFSBに移されましたが、プーチンはFSB=マフィア=行政の三位一体の「システマ」と呼ばれる体制をつくり上げ、経済的な利益を確保し、情報の統制を行いました。
 KGB時代と同じようにFSBからの出向職員は、大学やジャーナリズム、携帯会社などにも広がっており、ソ連時代と同じような防諜体制をとっているのです。

 KGBが行ってきたものにアクティブメジャーズ(積極工作)と呼ばれるものがあります。これは敵対者のイメージ失墜やソ連の影響力強化を目的に偽情報の流布や秘密の暴露などを行うものです。
 パブリック・ディプロマシー(広報文化外交)と重ねる目的もありますが、敵国の政府の信用低下や国民の不安や不満を助長することに重点が置かれている点が違います。

 例えば、1959年12月のクリスマスの朝、西ドイツのケルンのシナゴーグに鉤十字や「ユダヤ人は出ていけ」という落書きが見つかり、その後、そうした行動が西ドイツ各地に広がります。当初は右翼政党のメンバーの仕業と見られていましたが、実は共産党員で、東ドイツの基地でソ連の軍人と接触していたことも明らかになりました。
 西ドイツの社会を混乱させ、NATOの分断を狙った作戦でした。

 1999年にロシア国営テレビは、ユーリー・スクラトフ検事総長と似た人物が二人の売春婦と戯れる映像を流しました。スクラトフは否認しましたが、これが原因でクレムリンの高官を捜査していたスクラトフは解任されています。
 このときに会見で映像は本物だと言ったのがFSBの長官だったプーチンです。これもロシアの情報機関が使う手段の1つなのです。

 「ディスインフォメーション」(偽情報)もアクティブメジャーズの手段の1つですが、1999年にFSB支援計画局のトップに就任したズダノヴィチは効果的な偽情報作戦の情報のうち、95%は事実であり、捏造は5%だと述べています。正確な情報に少しの嘘を混ぜことがポイントなのです。
 また、信頼を得るためにソ連時代にはあえてソ連に批判的な情報も混ぜて発信していたといいます。
 陰謀論的な情報も拡散しますが、KGBの行ったもので成功したのが「米国エイズ製造説」です。エイズはアメリカが開発していた生物兵器が流出したものだとするこの主張は、未だに一部で信じられているといいます。
 
 アクティブメジャーズの手法として「特殊肯定感化」と呼ばれるものがあります。これは偽の肩書やエージェントを使って、対象となる政治家や官僚、記者、財界人などを感化させることです。
 例えば、かつてのソ連の記者(多くはKGBの将校)は西側にできるだけ多くの「友人」を作れと司令されていました。彼らは「友人」と酒を飲み、情報を握らせ、信頼を得てからソ連に有利な情報を発信させるのです。
 学者に対しては貴重な資料を見せる便宜を図ったり、政治家には花を持たせたりします。1970年代に東京に駐在したKGB将校のレフチェンコによると、石田博英自民党議員が訪ソした際に、ソ連国境警備隊が拘束していた漁船乗組員を解放し、石田に手柄を立てさせながら、石田を通じて工作を行ったといいます。

 他にも、例えば、ウクライナでは2014年に反戦NGOを名乗る団体が「兵士の母」を使って徴兵拒否を呼びかけたり、2004年の大統領選挙ではユーシチェンコ支持集会を開催し、そこで外国人排斥のスローガンやヒトラー式の敬礼を行ってユーシチェンコとナチスを結びつけるような工作を行いました。 

 1990年代なかばに「政治技術者」という職業が生まれたといいます。KGBで開発されたメディア・世論操作術を受け継ぎ、政治を動かす仕事です。
 90年代半ば、こうした政治技術者はボリス・ベレゾフスキー安全保障会議副書記の周囲に集まり、96年の大統領選で誰もが不可能と思っていたエリツィンの再選を成功させました。
 2000年の大統領選ではプーチンをエリツィンの後継に担ぎましたが、プーチンは大統領就任後まもなくベレゾフスキーを訴追する構えを見せ、イギリスに亡命を強いられたベレゾフスキーは2013年に遺体で発見されています(自殺として処理された)。

 プーチン政権のもとでは、野党に対してはさまざまな圧力がかけられ、あるいはリベラル政党の得票を減らすために傀儡野党がつくられるなど、選挙に対するコントロールが行われました。
 また、テレビ局も次々とクレムリンの支配下に組み込まれました。しかも、ベレゾフスキーから人質交換のような形で第一チャンネルの株式を取得するなど、かなり強引な手法もとられています。
 さらに一見すると「リベラル派」あるいは「反体制派」とみられる人物やグループに対してもFSBの影響力が浸透しているケースもあるといいます。

 2016年のアメリカ大統領選では、ロシアはインターネットを駆使してさまざまな工作を行いました。
 例えば、Facebookに「BlackMattersUS」というコミュニティがつくられ、黒人差別に反対する集会が開催されましたが、このコミュニティはロシアがつくったものでした。
 サンクトペテルブルクのIRA(インターネット・リサーチ・エージェンシー)には英語が堪能な人物が集められた「外国部」があり、彼らはアメリカ人になりすましてネット上の議論などに参加しましたが、ロシアやプーチンに言及してはならず、もっぱらアメリカ人に反政府的な気分をもたせることを目的にしていました。
 2021年のイギリスのカーディフ大学の研究チームによると、「Yahoo!ニュース」のコメント欄や『毎日新聞』のコメント欄でもロシアからの書き込みが行われていたといいます。

 このように世界中に陰謀論をばらまいているロシアの情報機関ですが、チェキストたちがそもそも陰謀論に染まっているという見方もできます。
 1997年に発表されたアレクサンドル・ドゥーギンの『地政学の基礎』で示された、ロシアを盟主とするユーラシア大陸勢力(ハートランド)が、米英、NATOを中心とする大西洋勢力に対抗し、伝統的な価値や思想を守るという考えは、軍や情報機関、そしてプーチンにも大きな影響を与えているといいます。

 こうした動きとともに、ナチスドイツを撃退した「大祖国戦争」の記憶を称揚し、さらに敵対勢力に「ファシスト」のレッテルと貼るレトリックもさかんに使われるようになっています。
 こうしたレトリックはソ連時代にも使われていましたが、2014年のウクライナでのユーロマイダン革命でヤヌコービッチに反対した人々が「ファシスト」と呼ばれるなど、お得意のレトリックとなっています。

 第6章では、ロシア・ウクライナ戦争がとり上げられてます。
 親ロ派に区分されるヤヌコーヴィチですが、自らの再選のために2012年にEUとの連合協定へ動きます。これに対して、ロシアは情報工作や貿易の締め付けなどによってこれを阻止しようとしますが(2012年の調査ではウクライナ人の53%がプーチンを肯定的に評価していた(239p)、うまくいかずに最終的にプーチンがヤヌコーヴィチと秘密裏に会談を行ってこれを阻止します(汚職ネタなどでヤヌコーヴィチを強請ったと考えられる)。
  
 EU連合協定署名延期への抗議は最初は小さなものでしたが、政権側が抗議に参加していた学生やジャーナリストを暴行したことで抗議運動は拡大し、いわゆるユーロマイダン革命へと発展していきます。
 ロシアの工作は失敗したわけですが、ここからロシアはクリミア占拠へと動き、東部では「内戦」の形を取りながら正規軍を投入し、東部に紛争の火種を残すことに成功します(ちなみにこのときにウクライナ東部で工作に関わった自称「政治学者」がアレクサンドル・カザコフで、佐藤優が「無二の親友」と呼ぶ人物でもある(245−247p))。

 そして、2022年2月からはウクライナへの全面的な侵攻が始まります。現在のところ作戦はうまくいっていませんが、戦場の劣勢を情報工作によって挽回しようとする可能性は十分にあり、今後もロシアの工作には警戒が必要になります。

 このように本書はロシアの情報機関の歴史と手口をえぐり出したものになっています。ここでは割愛した興味深いエピソードもあり、読み応えは十分だと思います。
 一方、ロシアの驚くべき情報工作がこれでもかと並べられているので、少しでもロシア寄りの言動がすべてロシアのアクティブメジャーズに見えてしまうという副作用もあるかもしれません。
 ないものねだりにはなってしまいますが、今回のウクライナ侵攻における「失敗」などにも触れてあると、そうした副作用への解毒剤になったのではないかと思いました。

 

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書) 9点

 もしも「日本の本質」というタイトルの新書があったら、「ずいぶん大げさなタイトルだな」とも思いますが、「言語の本質」というのもそれに匹敵する、あるいは上回るような大げさなタイトルだと思います。言語は人間のコミュニケーションだけではなく、認識にとっても鍵になるものだからです。

 ところが、本書はその大げさなタイトルに十分に応える内容になっています。
 本書はオノマトペと言語がいかに現実とつながっているかという「記号接地問題」を軸にして、まさに言語の本質に迫っていくのです。
 前半のオノマトペの役割や、世界のオノマトペとその共通点といった話題でも十分に1冊の新書として成り立つ面白さがありますが、さらにそこから子どもがいかにして言語を学ぶのかという問題、そして言語の本質へと肉薄していきます。
 言語哲学をかじった人にも面白い内容だと思いますし、AIに興味がある人にも、さらには子どもを育てたことのある人など、さまざまな人にとって興味深く、面白い内容になっていると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 オノマトペとは何か
第2章 アイコン性―形式と意味の類似性
第3章 オノマトペは言語か
第4章 子どもの言語習得1―オノマトペ篇
第5章 言語の進化
第6章 子どもの言語習得2―アブダクション推論篇
第7章 ヒトと動物を分かつもの―推論と思考バイアス
終章 言語の本質

 まずは「記号接地問題」から説明しますが、これは身体的な経験がなくても言葉の意味がわかるのか? という問題です。
 例えば、生成AIに「メロンの味を教えて」と訊けば、「甘いです」と答えてくれるかもしれませんが、AIはメロンを味わったことはありません。それで「メロン」という言葉の意味を本当に理解していると言えるのか? という問題です。

 これに対して、オノマトペ、特に子どもが使うオノマトペは身体的な経験と密接に結びついています。猫ではなく「ニャーニャー」と呼び、おもちゃのくるまを「ゴロゴロ」と言いながら押すのは、まさに身体的な経験と直接に言語が結びついている例と言えるでしょう。

 オノマトペはもともとギリシア語起源のフランス語で、「名前、ことば」+「つくる」といった意味のものからつくられており、フランス語や英語では基本的に擬音語を指しますが、日本語では擬態語が多くなっています。

 オノマトペの定義としては、オランダの言語学者マークディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」(6p)というものが有名です。
 まず、オノマトペは感覚イメージと結びついています。「ニャー」「パリーン」のように聴覚、「ザラザラ」のように触覚、「ウネウネ」のように視覚、あるいは「ドキドキ」のようにその他の身体感覚と結びつくものが多いです。一方、「正義」や「愛」などを表すオノマトペは日本語でも外国語でもめったにありません。

 この感覚イメージを写し取っているというのですが、外国人留学生が髪の毛が「サラサラ」と「ツルツル」の違いがわからないというように、この写し取り方は言語によって随分違います。例えば、韓国語の「オジルオジル」は「めまい」を表すそうですが、日本人にとってはわかりにくいでしょう。
 オノマトペにはアイコン性があるといいます。「☺」が、かなり抽象化されていても笑顔だとわかるように、「ピカピカ」は光が点滅している様子を想像させます。

 オノマトペのアイコン性ということでいうと、まずはオノマトペに特徴的な語形があります。
 オノマトペには「ドキドキ」「グングン」といった重複形が多いです。そして「ドキドキ」は心臓の鼓動が繰り返し打つさまを表しています。一方、「ドキッ」は驚きなどを表すので1回限りなわけです。
 また、日本語では清濁音の違いがその様子を表しています。「トントン」よりも「ドンドン」のほうが音が大きく、「サラサラ」よりも「ザラザラ」には荒くて不快な感じがあります。
 「ゴジラ」もそうですが、日本語の濁音には大きいイメージがあり、オノマトペにもそれが使われています。

 「パン」と「ピン」を比べると、「パン」のほうが大きい打撃音です。一般的に母音の「あ」と「い」を比べると「あ」のほうが大きいイメージがありますが、これは発音するときの口の形と結びついていると思われます。
 これは英語でもその傾向があり、「large」は大きいですし、「teeny」は細いです。
 世界的に見てもこうした音とイメージというものがあり、「マルマ」と「タケテ」という音を示して図形を選ばせると、「マルマ」のほうが丸っこい図形と結びつくといいます。

 単語の音や意味を左半球が処理することは知られていますが、「ずんずん」「ちょこちょこ」といった動作に関連するオノマトペの場合、右半球でも活動が認められたといいます。つまり、オノマトペは環境音としても処理されているのです。

 ただし、音の写し取っている場合でも、その写し取り方には言語による違いがあります。猫の鳴き声は日本語では「ニャー」、英語では「ミアウ」、韓国語は「ヤオン」となり、鼻音を含んでいるなど似ている点はあるものの、やはり違います。
 日本語には「ハ行」「バ行」「パ行」という特徴的な音韻体系があり、何かが落ちる様子を表す「ハラハラ」「バラバラ」「パラパラ」などセットになっていることも多いです。「フラリ」「ブラリ」「プラリ」も音韻が微妙なニュアンスの違いを出していると言えます。
 こうした音韻体系の違いが、オノマトペの言語による違いを生み出していると考えられます。

 第3章では「オノマトペは言語か?」という問題がとり上げられています。
 ここでは、コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性という10個のキーワードから検討しています。
 
 例えば、咳払いは言語ではありませんが、うるさくしている人に注意を促す機能もあります。ですから、不完全ながらもコミュニケーション機能や意味性を持つかもしれません。また、継承性や習得可能性もあると言えます。
 しかし、言語にはその場にないものや過去や未来について話題にすることができる超越性があるのに対して、咳払いにはそれがありません。うるさい人に対して5分後に咳払いをしても何の機能も果たせません。

 一方、オノマトペは「夏になれば太陽がギラギラ照りつけるだろう」といった今ここに縛られない使い方が可能です。
 また、言語には次々と新しい文を生み出すことができます。この生産性は咳払いにはありません。咳払いによって言語のような無数のパターンを生み出すのは不可能です。一方、オノマトペについて言えば、例えば「モフモフ」などの新しいオノマトペが生み出されており、生産性があると言えます。

 言語では、1つの言葉にさまざまな意味を持つ場合があります。例えば、「さがる」は「危ないから下がってください」「物価が下がる」といった違う意味で使われますが、これを経済性といいます。
 オノマトペはどうかというと、例えば「カチカチ」は「カチカチと氷を叩く」といった硬いものを叩く音を写すだけでなく、「この氷はカチカチだ」、「受験生はカチカチに緊張している」というように硬くなっているさまを表します。オノマトペには経済性もあると言えるでしょう。

 次に離散性です。例えば、赤とオレンジは色として連続していますが、言語の世界では「赤」と「オレンジ」に分かれます。これが離散性です。
 オノマトペについては、例えば「ゴォー」という風の音について風の強さによって言い方を強くしたりすることがあり、その点ではオノマトペはアナログ的ですが、「コロコロ」と「ゴロゴロ」の使い分けを考えると離散性もあると言えます。

 恣意性はソシュールが指摘したことでも知られています。日本語で「イヌ」と呼ばれる動物は、英語では「dog」と呼ばれており、そこにつながりはありません。言語の形式と意味の関係に必然性はないのです。
 一方、犬の鳴き声は日本語で「ワンワン」、英語で「bowwow バウワウ」、中国語で「汪汪 ワンワン」といった具合に似ています。ここからオノマトペには恣意性がなく、「言語とは言えない」とも主張できます。ただし、「ワンワン」と「bowwow バウワウ」は同じ音ではありません。ここから一定の恣意性があると主張することも可能です。

 最後はパターンの二重性です。例えば、「ノライヌ」という言葉のn,o,r…といった発音には意味がありませんが、「ノラ」や「イヌ」には意味があります。
 オノマトペについては、「フワフワ」には軽い感じのh音、柔らかい感じを示すw音があり、この二重性には反する面があります。

 結論として、オノマトペは恣意性と二重性を除けば、言語の条件を満たしていると著者たちは考えています。
 
 第4章では、オノマトペが子どもの言語獲得に重要な役割を担っていることが示されます。
 赤ちゃん向けの絵本などを読んでいても気づくことですが、大人は小さい子どもに話しかけるときにオノマトペを多用しています。
 犬を「ワンワン」、車を「ブーブー」と呼んだりしますし、「捨てて」ではなく「ポイして」と言ったりすることもあるでしょう。
 子どもは0歳時に母語の音や韻律の特徴をつかんで音韻の体系を作り上げ、1歳から本格的な単語の学習が始まり、2歳ごろから文の理解が進むといいます。音を楽しむ0歳児、言葉と対象の結びつきを覚える1歳児、動詞の意味を推論しなければならない2歳児、いずれにとってもオノマトペは課題をクリアーするための助けになるのです。

 対象に名前があるというのは当たり前のようでいて当たり前ではないものです。ヘレン・ケラーは掌に冷たい水を受けているときにサリバン先生が”water”と指文字で綴り、初めてすべてのものに名前があるのだという洞察を得たといいます。
 私たちは赤ちゃんのときにこの洞察を得ているためにその記憶はありませんが、これは非常に大きな一歩なのです。

 ただし、ここで難しいのがクワインが「ガヴァガーイ問題」として提起した問題です。これはまったく知らない言語を話す原住民が飛び跳ねていく白いウサギを指さして「ガヴァガーイ」と言ったときに、「ガヴァガーイ」を「ウサギ」という意味でとっていいのか? というものです。
 「ガヴァガーイ」は「野原を飛び跳ねるもの」かもしれませんし、「白いもの」かもしれません。1つの指示対象から一般化できる可能性はほぼ無限になるのです。

 ここで子どもがこの問題を乗り越えるための手助けになるのがオノマトペです。
 ウサギのきぐるみがのっそり歩いている様子に「ネケっている」という動詞を与え、3歳位の子どもに教えます。そして、ウサギが小刻みに歩いている様子とクマがのっそり歩いている様子を見せて「どちらがネケっているか?」と訊くと、子どもはうまく答えられないそうです。 
 ところが、「ノスノスする」というオノマトペで教えてると、クマがのっそり歩いている方を迷いなく選べるといいます。「ノスノス」という語感が動作への注目を促すのです。
 
 また、オノマトペは言い方の強弱やリズムなどによって感情や感覚的なものを込めやすく、子どもを言語の世界に引き付けます。
 オノマトペは母語の音や音の並び方の特徴などを掴むのにも役立ち、著者たちはオノマトペには「言語の大局観を与える」(120p)役割があるといいます。

 では、言語はオノマトペだけではないのでしょう? そして、子どもがオノマトペ中心の表現から徐々に離れていくのはなぜなのでしょう?
 ここで出てくるのが冒頭でも紹介した記号接地問題です。記号の意味を記号によってのみ説明するのは不可能だという問題です。

 この記号接地問題は、子どもが母語を学ぶ上でも起こります。例えば、「愛」という言葉が指し示す概念には物理的な実体はありません。
 ただし、子どもは自分に向けられた「愛」について、「愛」という語を知らなくても理解できると思われます。「愛」という言葉はうまく説明できなくても、その状態は空中楼閣のようなものではなく、何らかの形で経験とつながっていると言えるでしょう。

 一方、AIにはそういった経験が基本的にはないです。また、さまざまなセンサーをつけて経験をインプットしても感情の問題が残ります。
 これに対してオノマトペには「ワクワク」「イライラ」のように感情を表すものも多いです。

 このようにオノマトペは身体的感覚とつながっているのですが、実は一般語にもその傾向はあります。
 「スーダンのカッチャ語の「イティッリ」と「アダグボ」、「多い」はどっち?」、「ソロモン諸島のサヴォサヴォ語の「ボボラガ」と「セレ」、「黒い」はどっち?」と訊かれれば、なんとなく「アダグボ」が「多く」、「ボボラガ」が「黒く」感じるのではないでしょうか?(本書の131−133pにかけてこうした例が10個載っており、7〜8割は正解できるのではないかと思われる)。
 
 さらに日本語にはオノマトペ由来の一般語も数多くあります。「ふく」「すう」は「フー」「スー」という擬音語からつくられた言葉だといいますし、「カラス」「鶯」「ホトトギス」は鳴き声を写す擬音語の「カラ」「ウグヒ」「ホトトギ」に鳥であることを示す接辞「ス」がついたものだといいます。

 では、言語はなぜオノマトペから離れてしまったのでしょうか? これについて教えてくれるのがニカラグア手話です。
 ニカラグアには日本手話のような汎用的な手話がなく、ろうの子どもを教育するシステムもなく、家庭内で「ホームサイン」で家族とコミュニケーションを取っている状況でした。
 ところが、1970年代以降になると教育が始まり、耳が聞こえない子どもたちが学校へと集められます。そこで生まれたのはニカラグア手話です。まずは第1世代の子どもたちのい間で自然発生的に生まれ、それが新しく入った子どもに教えられていきました。

 このときに起こった変化を一言でいうと「アナログからデジタル」への変化だといいます。
 現象をそのまま写し取るではなく、記号の組み合わせによって意味を表すようになっていったのです。例えば、「転がり落ちる」は、第1世代では転がりながら落ちていくようすをそのまま再現していましたが、第2世代では「転がる」+「落ちる」で表現されるようになっています(142p図5−2参照)。
 表彰したいものを細かく分割し、それを組み合わせることで効率的な表現が可能になります。一方で言語は実際の事象から離れていくのです。

 オノマトペ中心の言語だと情報処理という面で問題があります。コガモ、カルガモ、マガモ、カイツブリといった水鳥の名前がみんなオノマトペ由来であれば、似たような名前がひしめいてしまうに違いありません。
 さらに、オノマトペは抽象的な概念を表すのが苦手であり、ここにも限界があります。

 第5章の後半では日本語にオノマトペが多く、英語に少ない理由についても分析されていて面白いのですが、ここでは割愛し、最後に出てくる言語におけるアイコン性と恣意性のバランスの話だけを紹介します。
 英語のlaugh(笑う)はもともとは「フラッハン」という音形を持っていたそうです。これは笑い声を連想させますが、laughになるとアイコン性は消えています。しかし、その代わりにchuckle(クックと笑う)やgiggle(クスクス笑う)といったアイコン性の高い言葉が生まれました。つまり言語全体で一定のアイコン性が保たれているのです。

 第6章では再び子どもの言語習得の話に戻ります。
 子どもはさまざまな単語を覚えていきますが、それを適切に使うというのは難しいことです。例えば、日本語の「持つ」という言葉には非常に多くの動作が含まれており、中国語では5つの言葉で表現を使い分けるところを「持つ」という言葉でまとめています(180p図6−1参照)。
 本書には、子どもの足元に転がっていったボールにを「ポイして」と言った所、子どもがゴミ箱に捨ててしまったという話が紹介されています。親は「ポイして」を「投げて」という意味で使ったのですが、子どもは「捨てる」という意味にとっていたのです。このあたりはオノマトペの限界と言えます。

 著者たちが子どもが言語を習得する過程として考えるのが「ブーストラッピング・サイクル」というものです。
 これは最初に経験に接地した知識から推論によって必ずしも実際に経験したことのない知識も獲得していくというもので、これによって子どもは語彙を獲得するとともに「学習の仕方」も洗練させていくのです。

 子どもは暗記だけではなく推論によって言葉と知識を増やしていきます。
 推論には演繹推論と帰納推論、そしてパースの提唱したアブダクション(仮説形成)推論があります。
 このうちアブダクション推論には馴染みがないかもしれませんが、これは①「この袋の豆はすべて白い」(規則)、②「これらの豆は白い」(結果)、③「それゆえに、これらの豆はこの袋から取り出した豆である」(結果の由来を導出)というものです。
 
 演繹推論、帰納推論、アブダクション推論のうち、常に正しい結論が得られるのは演繹推論のみです。帰納に関してはいわゆるブラックスワンが出現するかもしれませんし、アブダクション推論においても仮説は棄却されるかもしれません。
 それでも、このアブダクション推論が言語の習得にとって重要だといいます。子どもの知識が知識を生み、洞察を生むブーストラッピング・サイクルは、帰納推論とアブダクション推論が混ざったものなのです。
 例えば、ヘレン・ケラーの洞察も水の感触とwaterというより水がwaterであるとともに、「すべてのものには名前がある」という洞察を得ました。

 子どもはさまざまな間違いをしながら言語を習得できます。本書では、「ピッチャー」「キャッチャー」という言葉を知った子どもがバッターを「バッチャー」と言った例などが紹介されていますが、これは間違いではあるものの子どもが推論しながら言葉を使っていることを示しています。
 
 本書の第7章では、このアブダクション推論をキーにして人間と動物の違いに迫っています。
 京大で訓練されていたチンパンジーのアイは、黄色の積み木なら△、黒の積み木なら◯を選ぶことができます。ところが、△を見せたら黄色い積み木を選んでくるということができません。
 人間の子どもが見られる双方向性がチンパンジーにはないのです。

 ただし、「XならばA」と「AならばX」は同じではありません。「ペンギンならば鳥」であっても「鳥ならばペンギン」とは言えません。
 「外を見たら道路が濡れていた。雨が降ったに違いない」というのは推論としては間違っています。「後件肯定の誤謬」と言われるもので、道路が濡れた原因としては雨以外も考えられます。
 ところが、こうした推論が人類の知識を増やして生きたとも言えます。とりあえず仮説を立ててみて行動することが人間の特徴なのです。
 一方、ベルベットモンキーは蛇の通った跡から蛇の存在を予測できないといいます。動物はアブダクション推論ができないのです。
 
 このことから「対称性推論をごく自然にするバイアスがヒトにはあるが、動物にはそれがなく、このことが、生物的な種として言語を持つか持たないかを決定づけている」(234p)という仮説を著者たちは提示しています。
 そして、著者たちの実験によれば、ヒトは赤ちゃんの頃から対称性推論を行っていると思われる証拠があるのです(ただし、チンパンジーの中にもたまに対称性推論を行っていると思われる個体はあるとのこと)。
 過剰な一般化は人間の思考の問題点だと指摘されることが多いですが、これこそが人間と動物を分かつものかもしれないのです。

 このように本書はオノマトペをめぐる面白い話から、ついには人間と動物の違いにまで到達します。まさに「言語の本質」に迫った本と言えるでしょう。
 相当長いまとめになってしまいましたが、紹介しきれなかった面白いエピソードもまだまだたくさんあります。多くの人の知的な刺激を与える本と言えるでしょう。




加藤博章『自衛隊海外派遣』(ちくま新書) 6点

 Amazonの紹介ページには、「変容する国際情勢に対して日本は何ができ、何ができないのか? ペルシャ湾、イラク戦争からウクライナ戦争に至るまで。自衛隊海外活動の全貌に迫る画期的通史。」と書かれていますが、「自衛隊海外活動の全貌」を知りたい人にとってはやや肩透かしを食う本かもしれません。
 本書は、自衛隊の海外派遣への道が以下に切り拓かれていったかという政治に焦点を合わせた内容になります。

 本書はあとがきまでで233ページになりますが、PKO協力法の成立について書かれているには154ページ目になります。
 このページ数のバランスから言っても、本書がPKO協力法の成立までの過程の分析に力を入れていることは明らかです。
 逆に、自衛隊がカンボジアで実際にどんな活動をしたのかといったことについてはほぼ触れられていません。あくまでも派遣に至る政治過程を分析した本になります。

 このPKO協力法に至るまで部分は面白くて読み応えがあります。一方、その後のテロ対策特措法とかイラク特別措置法、南スーダンへのPKO派遣の決定過程はあっさりとしていて、後半はやや物足りい感じもあります。
 
 目次は以下の通り。
第1章 敗戦から国際貢献へ
第2章 前史―自衛隊以外の人的貢献
第3章 始まり―「汗を流さない大国」からの脱却をめざして
第4章 定着―地域紛争・テロとの戦いの時代
第5章 自衛隊海外派遣のゆくえ―米中対立の時代

 自衛隊の任務は1991年のペルシャ湾掃海艇派遣以降、飛躍的に増大しました。PKOやインド洋での給油活動、ソマリア沖での海賊対処、能力構築支援など、自衛隊や自衛官が海外に派遣されるケースが増えています。 
 しかし、逆に言うと1991年までは自衛隊が海外に派遣されることはありませんでした。もちろん、その理由として憲法の平和主義があるわけですが、1991年の掃海艇派遣にあたって憲法が改正されたわけではありません。
 どのような状況とロジックによって自衛隊が海外に派遣されるようになったかを明らかにするのが本書の前半部分になります。

 戦後、日本軍は解体されますが、日本近海に敷設された機雷を除去するために日本海軍の一部は残され、米軍の指揮のもとで機雷除去の作業に従事しました。
 このときの能力が評価され、朝鮮戦争時に掃海業務に従事することになるのですが、国内の反発を恐れたこともあり、この事実は公にはされませんでした。

 1954年に自衛隊が発足しますが、このときの国会論戦で社会党から自衛隊の海外派遣に対する危惧が表明され、内閣法制局から9条第2項によって交戦権が否定されているために、海外派兵は禁止されているという見解が示されます。
 なお、この「派兵」とは戦闘行為を含むものであり、戦闘行為を目的とした海外派遣は違憲だが、そうでなければ合憲という解釈が示されます。
 こうした議論を受けて、54年の6月に参議院で海外派兵禁止決議が採択されています。

 その後、鳩山内閣と岸内閣は憲法改正を模索しますが、うまくいきませんでした。
 また、岸内閣のときには国際連合レバノン監視団(UNOGIL)への参加が国連から要請され、非武装でもあったことから主要新聞もこれへの参加を支持しますが、岸首相と藤山愛一郎外相はこれに消極的でした。安保改定に悪影響を与えることを恐れたのです。

 池田内閣以降、憲法改正の動きは抑えられます。
 その代わりに打ち出されたのが青年海外協力隊構想です。池田はケネディ大統領との階段で東南アジアの経済開発を打ち出し、そのために日本の青年を海外に派遣することを考えます。これに農村の次男・三男の失業問題や青少年犯罪増加に体操しようとする動きや、竹下登、宇野宗佑、坂田道太、海部俊樹等によるケネディの平和部隊構想に触発された日本版平和部隊構想の動きが重なり、池田は1964年の施政方針演説で青年海外協力隊の創設を打ち出し、翌65年に佐藤内閣のもとで青年海外協力隊が発足します。
 
 1972年の沖縄返還のときに、返還とともに必要となる円紙幣の輸送のために自衛隊の輸送艦が使われましたが、当初は、沖縄の反発を恐れて巡視船や飛行機の利用が検討されていました。結局は輸送力の問題から自衛隊の輸送艦が使われましたが、自衛隊に対するアレルギーは無視できないものでした。

 70年代後半になると、大平首相が猪木正道や飯田経夫や高坂正堯らをメンバーとして「総合安全保障研究グループ」を発足させるなど、国際環境に対して積極的に働きかけようとする動きも起こります。
 また、アジアにおいてはインドシナ難民が大きな問題となっていました。
 南ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ諸国が社会主義に移行したことから多くの難民が発生し、合計して125万にも達したのです。

 インドシナ難民としては船で脱出したボート・ピープルの存在が有名ですが、近隣のタイやマレーシアに多くの難民が流入しました。
 日本の船舶に救助されるボート・ピープルもおり、日本でもインドシナ難民を受け入れる事になってきます。
 さらにマスメディアでもインドシナ難民救済のために行動すべきだという議論が起こってきます。
 特に1978年12月のベトナムによるカンボジア侵攻以降の内戦によってカンボジア難民が発生すると、日本政府に対し資金援助だけではなく人的援助を求める声が強まっていきます。ワイドショーがカンボジア難民をとり上げたこともあり、79年12月に日本政府は医療チームを派遣します。
 こうした経験もあり、1982年にはJMTDR(国際緊急医療チーム)が設立されることになります。

 さらに総合的な救助チームや専門家の派遣のきっかけとなったのが1985年のメキシコ地震とコロンビアのネバド・デル・ルイス山の大規模な噴火でした。
 派遣された日本の医療チームは現地政府からも評価されましたが、マスコミは医療支援だけではなく、人命救助も含めた総合的な対応を求めました。
 また、メキシコ地震において民間機を乗り継いで駆けつけたのは日本の医療チームだけでした。

 ここから国際緊急援助隊が構想されることになります。
 外務省は現行法の枠内での体制づくりを目指しましたが、地方公共団体の職員である消防士や警察官をどういう形で派遣するのか、消防庁と警察庁の権限争いなどにより、うまく進みませんでした。
 そこで特別法の制定へと動きますが、そうなると問題になるのが自衛隊員の参加問題です。外務省は自衛隊員の参加を当面認めないこととし、1987年に国際緊急援助隊法が成立しました。 

 また、1987年にはアメリカがイラン・イラク戦争において敷設された機雷の除去のために掃海艇の派遣を各国に要請しました。公海への自衛隊派遣は憲法上認められるとの政府見解が出たものの、日本は国内世論の反発を恐れてこれを断念しています。

 冷戦が集結し、国連の役割に再び注目が集まる中で起こったのが1990年8月のイラクによるクウェート侵攻です。
 これに対してアメリカは多国籍軍の結成へと動きます。イラクの行為は明白な侵略行為で、安全保障理事会で対処するのが当然と思われていましたし。議会からアメリカだけが費用を負担しているとの批判を避けたかったからです。

 アメリカは日本に対しても、資金協力だけではなく、輸送手段の提供は掃海艇、もしくは補給艦の派遣を求めます。
 米国からの掃海艇派遣の要請に対して、海上自衛隊では前向きな健闘がなされましたが、外務省は消極的でした。戦闘行為に巻き込まれるおそれを払拭できなかったからです。
 小沢一郎のように自衛隊の派遣に積極的だった政治家もいますが、当時の海部首相も消極的であり、掃海艇派遣は選択肢から外れました。
 輸送協力も、日本は民間企業を利用して行おうとしましたが、日本政府がチャーターした船の乗組員が危険だとしてペルシャ湾に入ることを拒否するなど、うまくいきませんでした。
 
 結局、日本の協力の中心は物資と資金になっていきます。 
 多国籍軍を指揮したノーマン・シュワルツコフ大将が「日本のおかげがなかったら〈砂漠の盾〉は八月中に破産していたはずだ」(107p)と回想するように、日本の資金援助は大きな役割を果たしましたが、貿易摩擦を抱えていた中で、アメリカ国内からは批判も起こりました。

 日本は人的貢献も模索し、「国連平和協力法」の制定に動きます。
 これに対して内閣法制局は多国籍軍との協力は他国との武力行使の一体化につながり、集団的自衛権の行使に当たると反対し、外務省は国連の決議の枠内で行うので集団安全保障であり、集団安全保障の行使には当たらないと反論しました。
 また、「国連平和協力隊」に自衛官をどのような身分で参加させるかも問題になりました。外務省はシビリアンとしての派遣を考えますが、防衛庁からは部隊ごとの派遣が望ましいとの主張が出て対立します。結局は小沢幹事長の考えもあり、自衛官の身分は併任とし、部隊のまま参加させるという形になります。

 しかし、当時の自民党は参院で過半数割れしており、法案の成立には野党の協力が必要不可欠でした。
 自民党は公明党の協力を得ようとしますが、公明党は自衛官の併任に強く反対し、国連平和協力法案は審議未了で廃案になります。
 しかし、その後の与野党協議で自民・公明・民社の「三党合意」が結ばれ、自衛隊とは別個の組織で国連平和維持活動への傘下が模索されていくことになります。
 
 湾岸戦争停戦後、掃海艇派遣問題が再燃します。
 これは戦闘が終わったことと、ドイツが掃海艇の派遣に踏み切ったことが影響にしていました。ドイツも憲法でNATO域外での軍事行動が禁止されていたために多国籍軍には参加しませんでしたが、批判の高まりを受けて掃海艇派遣に踏み切ります。
 さらに、1991年3月10日に駐米クウェート大使館がワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズに出した感謝広告に日本の名前がなかったことが日本政府に衝撃を与えます。

 こうして掃海艇派遣への動きは加速しますが、当時の海部内閣は参院での審議の関係もあって公明党や民社党の協力を得ることが不可欠で、公明党に配慮する形で掃海艇の派遣決定は4月21日の統一地方選挙後半戦後に先送りされました。
 派遣の決定が遅れた結果、日本の掃海艇が現地についた頃には、機雷が残っているのは処理の難しいクウェート沿岸の地域になっていましたが、日本はイランとの関係も利用して、イランの領海にかかる部分の機雷の除去も進めていきます。
 この掃海艇派遣の成功によって、国内世論の自衛隊の海外派遣を認める声も大いに高まり、政策決定者の意識を変えていくことになります。

 国連の平和維持活動への参加について、「三党合意」では自衛隊と別組織でということになっていましたが、国連が軍人の参加を求めていること、別組織だと武器の携行に新法が必要になるなど難しい問題を抱えていました。
 このことは公明党も理解しており、自衛隊によるPKOへの参加という形で法整備が行われることになります(この過程は本書ではややわかりにくい)。
 そして、1992年にPKO協力法が成立するのです。
 また、同時並行で国際緊急援助隊への自衛隊員の参加を盛り込んだ国際緊急援助隊法の改正も行われます。
 
 PKO協力法成立後、自衛隊が初めて派遣されたのがカンボジアでした。
 カンボジアは長年の内戦が1991年のパリ和平協定でようやく終結し、1992年に設立されたカンボジア暫定統治機構(UNTAC)の特別代表には日本人の明石康が就任していました。
 派遣部隊は施設部隊と停戦監視要員からなっており、施設部隊は道路や橋の修理といった県政つ業務のほか、輸送業務や医療業務などに従事しました。
 自衛隊は1992年の9月から93年の9月にかけて1年間活動し、自衛隊からは1人の犠牲者も出ませんでした。
 日本のPKO活動については、この後、東ティモールでも行われ、2002年から04年にかけて自衛隊の施設部隊などが派遣されました。
 
 2001年9月11日に同時多発テロ事件が起こると、自衛隊はPKOとは違った形での海外派遣を求められることになります。
 このときにアメリカ側から言われたとされる「ショー・ザ・フラッグ」という言葉に応えるべく自衛隊の派遣が模索されることになります(アーミテージが言ったとされることが多いですが、本書によると言ったのは国防総省のジョン・ヒル日本部長とのこと)。
 当時の柳井俊二駐米大使は湾岸戦争の経験から「顔の見える支援」の必要性を痛感しており、これがテロ特措法とそれに基づいたインド洋への補給艦と護衛艦の派遣へとつながっていきます。

 また、横須賀を出向する米空母キティホークを日本の護衛艦が護衛すると言ったことも行われましたが、法的根拠については曖昧で、当時海上幕僚監部防衛部長だった河野克俊は「正確に言えば、キティホークを護衛するふりをしていただけだ」(174p)と振り返ってます。

 2003年3月にイラク戦争が始まると、アメリカからはイラクの復興支援を求められます。
 イラク特措法では「非戦闘地域」の定義をめぐって国会論戦が行われ、小泉首相の「自衛隊のいるところが非戦闘地域」(178p)といった答弁も飛び出しますが、確かに明確な線引は不可能であり、だからこそ自衛隊の派遣が求められたとも言えます。
 イラクでの活動でも犠牲者は出ませんでしたが、当初はオランダ軍、のちにイギリス軍とオーストラリア軍に治安の維持を頼りながら協力体制を築いており、集団的自衛権の行使とも受け取られかねない行動もありました。

 その後、自衛隊はソマリア沖の海賊への対処任務にも従事します。ここでも従来の法律では対処の難しい局面が予想されたために新法がつくられることになります。
 
 2009年9月に民主党政権が成立します。鳩山首相は新テロ対策特措法の延長はしないことを宣言し、インド洋への自衛艦の派遣は終了しました。
 一方、ソマリアへの派遣は継続され、さらに南スーダンのPKO活動が決まります。さらに他国への能力構築支援のために自衛官衙派遣されていくことになります。

 安倍政権では集団的自衛権の一部行使を容認する憲法解釈の変更が行われました。
 これに合わせて平和安全法制が成立しました。ただし、自衛隊の海外での活動に関しては、駆けつけ警護や掃海などの個々の事例が列挙されただけで、グランドデザインを提示するものにはなっていません。
 テロ対策特措法、イラク特措法と、目の前の出来事に対応するために新法がつくられてきましたが、平和安全法制によってそういった立法措置がなくても自衛隊が海外で十分な活動ができる状況になっていないのが現状です。
 2021年のアフガニスタンにおけるカブール陥落の局面でも、自衛隊は外国人のみの輸送を想定しておらず、外国人の輸送を他国から頼まれれば難しい判断を迫られるところでした。これを承けて2022年に法改正が行われています。

 このように本書は自衛隊の海外派遣の前史と派遣されるようになってからを追っています。
 最初にも述べたように本書の中心は前史であり、実際に自衛隊が海外でどんな活動をしたのかに興味がある人にとっては少しズレた本になるでしょう。
 また、自衛隊の実際の活動ではなく、それまでの議論を追った本ではあるのですが、それならばもう少し後半の「議論」も知りたかった気がします(例えば南スーダンPKOの経験と「駆けつけ警護」の問題とか)。
 PKO協力法に至るまでの議論を知りたい人にお薦めできる本です。
 

及川琢英『関東軍』(中公新書) 7点

 満州事変での行動もあって「暴走」「独走」といったイメージがついている関東軍ですが、その関東軍とはいかなる軍隊で、なぜ暴走していったか明らかにしようとした本になります。
 関東軍の誕生からソ連の対日参戦による壊滅までを、あとがきまで含めて290pほどでまとめていますが、張作霖爆殺事件が起こるのが105p、柳条湖事件が起こるのが132p、一方で関特演の話が始まるのが251pからであり、張作霖爆殺事件までと、満州事変から日米開戦までの記述が厚いことがわかるかと思います。逆に壊滅の過程はあっさりしています。

 記述としてはやや細かい事項が続いて大きな見取り図がわかりにくい部分もあるのですが、関東軍の作戦に重要な役割を果たした参謀などの個人名が逐一書いてあることで、同じ人物なのに中央にいるときは関東軍にブレーキをかけようとし、関東軍にいるときはそれを無視してアクセルを踏もうとする参謀たちの行動が見えてきます。
 細かい部分を見ていくことによって、関東軍、そして日本陸軍の行動原理や構造的な問題点が見えてくる構成になっています。

 目次は以下の通り。
序章 前史―一九〇四~一九年
第1章 関東軍の誕生―一九一九~二三年
第2章 張作霖爆殺事件―一九二三~二八年
第3章 満洲事変と満洲国―一九二八~三二年
第4章 在満機関統一と満洲国統治―一九三二~三五年
第5章 華北・内モンゴル工作の推進―一九三五~三八年
第6章 日ソ戦争と軍の崩壊―一九三九~四五年
終章 帝国日本と関東軍

 日露戦争後、日本は南満州鉄道の経営権をはじめとする満州の利権を手に入れました。
 1905年9月に日露戦争は集結したものの、日露両軍の撤兵期限は1907年4月に設定されていたため、しばらくは満州軍総司令部による軍政が継続され、その後、遼陽に関東総督府が設置され、第3師団長だった大島義昌が関東総督になりました。
 しかし、総督府による軍政は清国からの抗議を受けることになり、1906年9月に外務大臣が監督する関東都督府が設置されています。ただし、この関東都督には部隊統率権が認められていたため、都督は陸軍大中将をもってあてられることになり、大島義昌が横滑りで就任しました。

 関東州では、この関東都督府と領事館と満鉄という3つの機関があり、関東州と満鉄附属地とその他の居留地では管轄が微妙に異なるという状況で、「三頭政治」とも呼ばれました。
 特に陸軍と外務省がこの地域の権限をめぐって争いましたが、これは武官と文官の争いでもありました。
 時代が下るに連れ、都督を武官にすることへの批判が強まり、都督に文官をあてることが模索されますが、そのときに問題になったのが文官に兵権を持たせることです。

 そこで文官が長官にできる関東庁を設置し、別に関東軍司令部を設置することが考えられるようになりました。
 原内閣期に田中義一陸相の主導で都督府改革が進み、1919年に関東庁の設置が決まります。関東庁には都督府民政部を移行させ、関東州の管轄、満鉄の監督、鉄道沿線の警察権を掌る事となりました。兵権はなく、必要な場合は関東軍司令官に兵力使用を要請することができ、初代の林権助以降、文官の就任が続きます。
 一方、都督府陸軍部が軍司令部に移行し、軍司令官には陸軍大将、あるいは中将があてられることになりました。

 ただし、関東軍については中央からの統制を困難にしかねない規定もありました。それが「区処」というあり方です。
 「軍司令官は軍政及人事に関しては陸軍大臣、作戦及動員計画に対しては参謀総長、教育に関しては教育総監の区処を承く」(38p)とあります。「区処」とは隷属関係によらない指示で、軍司令官は天皇に隷属し、天皇からの「命令」を受けるため、陸軍三長官からの指示は「区処」という形で表現されていたのです。
 この「区処」というあり方と、陸軍の独断専行を奨励する空気が、のちに関東軍の暴走を生むことになります。

 関東庁が支配するのはあくまでも満州のごく一部であり、関東軍はこの地域で軍閥として自立していた張作霖を支持し、この地域を安定して支配しようとします。
 第一次世界大戦後になると、露骨に権益を求めるようなやり方は国際社会では通用しなくなり、日本は中国側に「治安維持」を求め、それによって満蒙に対する日本の影響力を強めようとするものでした。

 1920年の安直戦争によって段祺瑞の安徽派が没落し、張作霖の立場が強まります。
 段祺瑞に肩入れしていた日本は中国政策の見直しを迫られ、当時の原内閣で張作霖への支援方針が固まります。張作霖を援助しつつ、張作霖が中央政界に進出することについては援助を与えないというものでした。
 
 しかし、張作霖は中央への野心を捨てず、直隷派と対立し、1922年に第一次奉直戦争が始まります。
 日本の方針としては援助を与えないはずですが、関東軍は密かに奉天軍に弾薬を供給し、作戦に関与しました。張作霖のもとには軍事顧問として町野武馬や本庄繁が入っており、彼らが奉天軍の作戦に関与したのです。
 奉直戦争の停戦後も、ウラジオストクに保管してあった武器が張作霖のもとに横流しされる事件が起き、議会でも追求され、上原参謀総長や立花ウラジオ派遣軍司令官らが更迭されましたが、関東軍や張作霖の軍事顧問が処罰されることはありませでんでした。

 1922年からの山梨軍縮で、満鉄を守る独立守備隊の廃止が内定しますが、その後の匪賊の跋扈や宇垣軍縮による再検討によって二個大隊の削減のみですみました。
 1924年には第二次奉直戦争が、1925年には郭松齢が張作霖に反旗を翻す郭松齢事件がおこります。郭松齢事件のとき、日本政府は張作霖を積極的に援助しないとしながらも、関東軍は軍事的圧力によって郭松齢軍の行動を足止めし、奉天軍の勝利をアシストしています。

 しかし、蔣介石による北伐は中国と満州の情勢を大きく変えていきます。
 当時の田中義一首相は北伐に対して確固たる指導力を示せず、関東軍の中からは落ち目の張作霖を見捨てて、満州に日本の確固たる勢力圏を築こうとする考えも出てきます。 
 このとき、関東軍は満鉄から離れた山海関または錦州付近に出兵して奉天軍の武装解除を狙う計画も立てましたが、田中首相はまだ張作霖と奉天軍を温存したいと考えていました。
 関東軍は独断での出兵も考えますが、結局はそれを断念します。そして、その代わりに行われたのが河本大作大佐による張作霖の爆殺です。

 河本には、これを機に満州を占領するようなプランはなかったようで、この爆殺はあくまでも張作霖の排除を目的としたものでした。
 しかし、あとを継いだ張学良は国民政府への易幟(帰属)へと向かいはじめます。参謀本部は張学良に対するクーデターも構想しますが、田中首相は張学良の対日接近に期待していました。
 
 張学良の易幟後、田中内閣も国民政府との関係正常化に舵を切りますが、関東軍の中には張学良と最古参の重臣の間には付け入る隙があると考える者もいました。
 そうした中で田中首相は張作霖爆殺事件の処理をめぐって昭和天皇の不興を買って退陣します。
 一方、陸軍内部では中堅将校の同士的結合が進んでおり、満蒙問題の解決や陸軍内の長州閥の排除などを掲げて結束していきます。

 こうした中堅将校の集まりにも所属していた石原莞爾は、最終的な目標である「世界最終戦争」のために満蒙の領有は不可欠だと考え、1928年に関東軍作戦主任参謀に就任すると、高級参謀の板垣征四郎とともに満蒙領有計画を練りはじめます。

 1931年8月、関東軍司令官に本庄繁が就任します。この人事は満蒙問題の平和的な解決を望んだ宇垣一成が真崎甚三郎の就任を阻止するために、南次郎陸相へと引き継いだ人事でしたが、張作霖の軍事顧問も務めていた本庄は、石原らにとっては「話の分かる」上官でもありました。

 1931年9月18日、柳条湖事件が起きます。石原らによる謀略事件でしたが、関東軍はそのまま軍事行動に移ります。
 朝鮮軍の独断越境もあって関東軍は占領地を広げていき、謀略を知らなかった新聞もこれを好意的に報じました。

 陸軍中央の反応などから、石原らは満蒙領有は不可能と考え、独立国家樹立へと方針を転換していきます。
 そして、錦州爆撃などを行い、不拡大方針を表明している若槻内閣の顔を潰し、陸軍首脳に覚悟を決めさせようとしました。
 これに対して金谷範三参謀総長は「参謀総長が天皇から統帥権を一部委任されて軍司令官を指揮命令する」、推参命令を用いて関東軍の行動を止めようとしました。
 これによって関東軍の行動にストップがかかりますが、土肥原賢二奉天特務機関長の工作によって天津で日中両軍が衝突する第二次天津事件が起こります。さらに、アメリカのスティムソン国務長官の手違いによって、幣原喜重郎外相が金谷に錦州攻撃の意志はないと話したことが漏れてしまい、金谷と参謀本部の権威が崩壊します。
 12月には若槻内閣が退陣し、年明けには関東軍が錦州占領を果たすのです。

 若槻に代わって首相となった犬養毅は、満州の政権を地方政権のレベルにとどめて国民政府と交渉しようとしますが、板垣の依頼を受けた田中隆吉による謀略によって起こった第一次上海事変によって国民政府との交渉の余地をなくします。
 陸軍中央では陸相になった荒木貞夫や参謀次長になった真崎甚三郎によって、穏健派の建川美次第一部長、今村均作戦課長、河辺虎四郎作戦班長らが立て続けに更迭され、関東軍を止める者はいなくなりました。
 1932年の3月1日に満州国の建国が宣言されることになります。

 関東軍において占領地行政を担当したのは参謀本部第3課でしたが、占領地業務は文官に任せたほうがいいという石原莞爾の考えもあり、駒井徳三を部長とする統治部が設置されます。しかし、これには陸軍中央の反対もあり、統治部は特務部となり、特務部長職は参謀長の兼任となりました。
 犬養内閣につづく斎藤実内閣では、満州国正式承認の基礎作業として駐満特派総監の設置を検討しますが、関東軍の反対もあり、関東軍司令官が駐満全権大使、関東長官を併任させる形に落ち着きます。この任についたのは陸軍の武藤信義大将でした。
 
 1932年9月に日満議定書が結ばれ、日本は満州国を正式に承認します。
 一方で、荒木陸相は石原らの「建国派」を関東軍から転出させる人事を進めていきます。また、満州国への大蔵官僚などの派遣も進みます。
 満州国軍には日本人の顧問や日系軍官が入りましたが、日本軍にいるときよりも階級が上になるケースが多く、満州国軍は関東軍から一段下に見られていました。

 その後、関東軍は熱河作戦を行い、長城を超えて進出しようとしますが、これは昭和天皇の意思もあって止められました。
 1933年5月に塘沽停戦協定が結ばれ、柳条湖事件から始まる軍事行動に区切りがつけられました。

 停戦後、関東軍の任務は反満抗日軍の封じ込めになります。独立守備隊を増強するとともに分散配置を行って効果を上げました。
 さらに官制改革によって関東庁が解体され、満州における権限はさらに陸軍に集中していき、武官が現役のまま文官職に就任・兼任する道も開かれていきます。
 
 1934年に関東軍の司令官に南次郎が就任します。これは永田鉄山や東條英機らと荒木・真崎・小畑敏四郎らの皇道派の間に疎隔が見られるようになり、永田らが陸軍本流の南らと連携しようとしたからです。また、「建国派」の復帰も進みます。
 1935年には特務部が廃止されますが、関東軍司令官は日系官吏などの任免権を握っており、満州国が独立国であるという建前を損なわないように、「内面指導」という形で行われました。

 同じ頃、石原莞爾は参謀本部第2課長(作戦課長)に就任しますが、極東ソ連軍と日本軍の兵力差に愕然とします。35年末には、14個師団(24万人)と5個師団(8万人)とその差は三倍まで開いていました。
 石原は対ソ戦を優先する国防計画の策定を急ぎ、対中政治工作については英米との親善を維持できる程度に抑制するとともに、満州産業開発5カ年計画をつくるなど満州の工業化を進めようとしました。

 しかし、石原の栄転をみた関東軍の参謀らは華北や内モンゴルで工作を進めていきます。
 このあたりの細かい部分については本書に譲りますが、綏遠事件の前に関東軍を止めるためにやってきた石原に対して、武藤章が「あなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行している」(210p)と言われたエピソードは象徴的です。
 終章でも書かれていますが、陸軍の参謀たちは関東軍に来ると強硬的になるが、陸軍中央に戻れば関東軍を抑えようとする傾向があり(例えば、片倉衷)、所属した組織のセクショナリズムに沿って動いていました。

 1937年3月に石原はキャリアのピークとなる参謀本部第一部長に就任し、中国統一の機運が高まってることを考えて、統一を援助する方針へと転換していきます。
 しかし、この方針は7月の盧溝橋事件で崩壊し、関東軍も内モンゴル方面のチャハル作戦、山西省での太原作戦に動きます。
 チャハル作戦において、関東軍の今村均参謀副長は陸軍中央に武力行使を具申し、不拡大派の河辺虎四郎戦争指導課長からは満州事変のときは立場が逆だったとなじられたといいますが、それでも意見を変えようとはしませんでした。

 1937年9月28日に石原は関東軍参謀副長への異動を命じられます。これは同じく不拡大派の多田駿参謀次長が関東軍の統制を期待したものとみられています。
 当時の関東軍の参謀長は東條で、満州国への関与などをめぐって石原は東條と対立します。石原は満州国の自立化を望んでいましたが、これは東條が容れるところではなく、性格的な問題もあって二人の対立はエスカレートしました。
 石原は東條の後任となった礒谷廉介とも対立し、病気療養を理由に帰国してしまいます。その後も東條を批判し続けた石原は1941年3月に予備役に編入されました。

 満州を支配するようになったことで関東軍と満州国軍はソ連と国境を接することになりました。
 1938年の張鼓峰事件では、朝鮮軍の第19師団は猛攻にさらされながらも白兵戦ではソ連軍を圧倒し、これがソ連軍は恐るに足りずという間違った認識を生み、1939年のノモンハン事件での大きな損害につながります。
 このときも現地の辻政信らが前のめりになり、陸軍中央はストップをかけようとするものの、最終的には現地軍の動きを追認する形になっています。
 また、このときに石井四郎による部隊がソ連軍の給水源の川に細菌(チフス菌とみられる)を流したとされています。

 1939年9月にノモンハン作戦敗北の責任を取る形で関東軍司令官の植田謙吉と参謀長の礒谷廉介が更迭され、軍司令官は梅津美治郎、参謀長には飯村穣が就任します。
 梅津が司令官になったことで関東軍の暴走は止まることになります。終章に書かれていますが、それまでは本庄にしろ武藤にしろ植田にしろ、参謀に任せて最後の決済だけを行うタイプの司令官が多かったですが、陸大首席の梅津はまったく違うタイプで参謀にも言い負かされることはありませんでした。

 1941年6月に独ソ戦が始まると、田中新一第一部長らの参謀本部は対ソ開戦論に傾斜していきます。一方、関東軍はうってかわって開戦には慎重でした。
 田中らはソ連の極東軍がヨーロッパに送られて半減すれば開戦に踏み切るという構想のもと、「関東軍特種演習(関特演)」という名目で満州に兵力を集中させていきますが、ソ連軍は田中の読みどおりには動かず、対ソ開戦は断念されます。以前だったら独断で開戦の口実をつくりかねなかった関東軍も動きませんでした。
 
 対米開戦後も、関東軍は1943年に至るまで関特演で動員された大兵力を抱え続けました。しかし、対ソ戦の機会は完全に失われ、兵力が抽出されていくことになります。
 工兵・通信・兵站などから始まった抽出は、独立守備隊や後詰め師団へと移り、1944年になると国境方面の精鋭師団の抽出も行われます。
 44年末には北と東の守りは半減し、西の守りは崩壊状態でした。航空兵力も抽出によって実質無力化されています。

 45年の5月末時点で、関東軍は16個師団で、ソ連に対する劣勢は明らかでした。その後、「根こそぎ動員」によって8個師団を新設しますが、装備も練度も貧弱で従来の精鋭師団に比べて3割半程度の実力でした。
 こうした中、1945年8月9日にソ連軍が侵攻してきます。ソ連の攻勢の前に関東軍はなすすべがありませんでした。なお、関東軍が軍人の家族を列車の第一便でのがしたことは批判を受けていますが、その家族は平壌で抑留され、まったく無事というわけではなかったそうです。

 このように本書は関東軍の誕生から崩壊までを描いた本になります。後半はかなり急ぎ足ではありますが、関東軍が何をしたかとともに、制度や人事の面からその特徴が分析されています。
 文章としては少しわかりにくいところもあって、序章の部分や、大きな事件の全体的な見取り図のようなものが見えにくい部分もあるのですが、興味深い分析も含んだ本だと思います。


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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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