江戸時代にやってきた外国人、例えばゴローヴニン事件で捕らえられたゴローヴニンや、漂流民を装って日本にやってきて森山栄之助に英語を教えることになったラナルド・マクドナルド、あるいはイギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人の読み書きの能力に驚いています。
こうしたことから、当時の日本は世界一の識字率だったというような主張もあります。
ただし、ここでいう「識字率」とは一体どのようなものなのでしょうか?
活字に囲まれた現代に生きる私たちは、漢字を除き、一定の訓練を受ければ提示された文章をどんどん読めるし、自分の思ったことを書けるようになると考えがちです。
ところが、近世までの日本において、話し言葉と書き言葉は分離しており、ひらがなを覚えたからといって自分の思ったことが「書ける」ようになるわけではありませんし、行書や草書で書かれた字体を読み解くには、また訓練が必要です。
つまり、「字を知っている/書ける」ということに関して、さまざまなレベルが想定されるのです。
本書は、日本における書き言葉の特徴を指摘し、さらに読み書きの教材として使われた「往来物」に注目することで、庶民がいかなる読み書きの能力を欲し、それを学んだかということを検討しています。
さらに、先程あげた「識字率」のレベルの問題、そして、近代になって始まった学校教育の新しさと、その中にある寺子屋教育との連続性についても分析しています。
日本の歴史における読み書きと教育の問題について断片的には知っていましたが、本書は日本語の特殊性から説き起こして、これを1つの流れとして説明しています。
多くの論点を含んだ非常に刺激的な本だと思います。
目次は以下の通り。
第一章 日本における書き言葉の成立第二章 読み書きのための学び第三章 往来物の隆盛と終焉第四章 寺子屋と読み書き能力の広がり第五章 近代学校と読み書き
人間の言語を話しますが、文字を持たない人々もいます。日本にかつて住んでいた人々も文字を持っておらず、漢字を取り入れる形で文字を使うようになりました。
しかし、中国語と日本語ではまったく言語類型が違います。語順も違うわけですが、日本語の単語の中には営業、減速、就職のように中国語的な語順の言葉がたくさんあります。
本書では「券売機が発券する」という例があげられていますが、「券売」は日本語的、「発券」は中国語的な語順になっています。
当初の漢字で書かれた文書は、ほぼ外国語のようなものだったと思われますが、やがて漢文訓読という漢文にレ点などをつけて、日本語風に読む方法を生み出していきます。
これは考えてみれば不思議な方法で、”I play piano.”という文章を「アイ プレイ ピアノ」と発音せずに、レ点を打って「我、洋琴を奏す」などと読んでいると思えば、かなり特殊なやり方だということがわかると思います。
しかし、いくら漢文訓読という手法が編み出されても、元になっている中国語の文章は日本人にとっては読解が困難です。
そこで、より日本語に近接した文体が生み出されていくことになります。変体漢文と言われるものであったり、あるいは天皇の発する詔書に使われた宣命体です。
さらに万葉仮名という漢字を当て字に使う方法が生み出され、さらに片仮名、平仮名が発明されることでさらに日本語に近接した表現方法が生み出されていくことになります。
こうした日本の文章表記において主流になっていったのが候文というものです。特に近世期になると公文書から手紙にいたるまで、この候文で書かれていくことになります。
候文は漢文性を極力排除しつつ、「有之」「難有」などの漢文的な表現を含んでおり、ぎりぎりのところで漢文的な性格を保ったものでした。
また、近世になると書体の統一も進みます。平安時代初期までは公文書は楷書体、私的性格が強まると行書体漢字・平仮名が使用されるという使い分けがありましたが、次第にすべての文書が行書体で書かれるようになります。
近世期になると、その崩し方まで一様になり、きわめて均質的な書記世界が成立していくことになります。
ただし、候文も話し言葉との乖離は大きく、言葉が話せることと読むこと・書けることの間には大きな壁がありました。
古代の日本では紙のかわりに木簡が用いられていましたが、この木簡に役人たちが字の練習をしたものが見つかっています。これが習書木簡です。
この習書木簡に多く書かれているものが、官司名や地名、物品名です。これらは役人たちが必ず書かなければならないものでそのための練習だったと考えられています。
では、上級貴族は自由に字が書けたのかというと、律令制が崩壊すると「一文不通」と呼ばれる貴族が出てきます。
例えば、藤原道綱は、藤原実資から名字しか書けず、「一二」という数字すら知らない者が大納言になるのはおかしいと書かれていますし、藤原経実も藤原宗忠から、一文不通であり、公事のたびに病気と偽って出仕しなかったことを責められています。
道綱も経実もまったく字が書けなかったわけではなさそうですが、平安時代後期になって官職の世襲化が進むと、文書(漢文)作成能力に疑問がつくような貴族も増えてきたのです。
こうした時代に登場したものが「往来物」です。「往来」とは手紙のことであり、「往来物」とは基本的には手紙の例文集になります。
最古の往来者とされているのが『明衡往来』で、平安中期の学者・藤原明衡によるものとされています。内容は貴族の間の各種の手紙文の文例集です。
これが読み書きの教科書となっていくわけですが、手紙で読み書きを学ぶものとして、中国には「書儀」と呼ばれるものがあり、こうしたものの影響を受けていると考えられます。
しかし、この「往来物」という呼び方は、手紙の書き方を示したものに限らず、さまざまなジャンルに広がっていることになります。
例えば、元禄時代に刊行された『商売往来』には、「雑穀は粳(うるち)・糯(もち)・早稲、晩稲・古米・新米・麦…」、「絹布の類は、金襴、繻子・段(緞)子・紗綾、縮緬、綸子、羽二重…」(55p)といった具合に商品名が列挙されており、さらに商人の心得といったものも書かれています。手紙はどこにも登場しませんが、「往来」と名乗っていのです。
この他にも江戸時代には周囲の村名を列挙したものや、よくある名字を列挙した往来者が刊行されています。
他にも『国性爺往来』は鄭成功の伝記ですし、『童子往来』はさまざまな教訓などを書き記したものでした。
こうした往来物は1万を超えるものがつくられたといいます。今までにも述べたようにその中身はさまざまですが、こられが読み書きの教材として使われました。
その中には借金証文のテンプレートもありましたし、江戸の地名が羅列されたものもありました。
さらに関ヶ原の戦いの前に上杉景勝の家臣の直江兼続が徳川家康に出した書状とされる『直江状』や、大阪の陣において家康と豊臣秀頼の間でかわされたとされる『大坂状』も往来者として使われていました。家康に対する不穏当な表現が含まれているにもかかわらずです。
不穏当といえば、往来物には一揆の訴状をとり上げているものもありました。百姓が領主の不法を訴えでたものが往来者となっているのです。
なぜ、このようなものが教材になったのでしょうか?
理由の1つは、近代以前の日本の公私文書が候文という口語体とは異なる書記言語によって作成されていた点です。近世以前の人々は文字そのものの読み書きを覚えるだけでは文書を作成することはできませんでした。また、文書ごとの約束事があり、それも身につける必要があったのです。
もう1つは、近世以前の日本には読んでその内容を深く理解すべきと位置づけられる共通のテクストが不在だったこともあげられます。西洋世界の教理問答書のような、多くの人が理解すべきものと考えられていたものはありませんでした。また、日本ではこうしたことを強制する統一的な権力も不在でした。
明治期になると「読ませる権力」が出現しますが、往来物については明治初期にそのピークを迎えます。
内容は手紙中心から、さまざまな公文書の書式集へと変化していきます。ただし、この書式集は実務家を対象とした一般書へと変質していき、読み書きを教わる場は学校に集約されていきます。
第4章では寺子屋について再検討しています。
近世の日本の「識字率」の高さを支えたのは寺子屋による教育だと言われていますが、実際にどのような教育が行われ、どの程度の効果があったのか? といったことが探られています。
ちなみに「寺子屋」という言い方は、「手習師」「手習塾」などのさまざまな呼び名があったものをまとめたもので、明治政府が調査のときにこれらの教育機関を「寺子屋」としてまとめたことから江戸時代の読み書きの教室がこう呼ばれるようになりました。
また、「寺子屋」といっても必ずしも寺で行われていたわけではなく、さまざまなスタイルのものがありました。
まず、近世初期の「識字率」です。これを推定するのは難しいのですが、本書では長崎出島と京都六角町の宗旨人別帳において、花押を書いた者、署名した者、印鑑を押した者、◯などの記号をつけた者の割合を分析した研究が紹介されています。
1634年の長崎平戸町において家持当主23人のうち21人が、借家層の当主17人のうち10人が花押を書いています。1635年の京都六角町では家持当主19人全員が、借家層7人のうち6人が花押を書いています。
これらの地域はかなり先進地域だと考えられますが、都市部では流暢に字を書く者の割合はかなり高かったと考えられます(ただし、女性で花押を書いた者は皆無)。
17世紀になると地方都市にも寺子屋が普及するようになります。寺子屋の総数を把握することは困難ですが、寺子屋の師匠が亡くなったときに建てられた筆子碑の数などから見ても、相当な数があったと考えられます。
また、寺子屋の門人帳を見ることで、住民のどのくらいが通っていたかもわかります。新潟県の村上のケースでは、寺子屋周辺の町で、世帯数とほぼ同じ数の世帯から入門者がいるなど、住民のかなりの割合が寺子屋に通っていたこともわかっています。
近江の北庄村にあった時習斎寺子屋は、4276人もの寺子が入門した寺子屋として有名で、常時200人前後が学んでいたのではないかと推測されています。
ちなみに北庄村の人口が900人ちょっとだった一方、明治6年までの60年間に時習斎寺子屋で学んだ北庄村の者が860人にのぼることから、村人のほとんどがこの寺子屋に通っていたのではないかとも推測されています(ただし、女子の割合は少なく全体を通して女子の割合は22.2%(121−123p))。
では、これだけ寺子屋に通っていたからには多くの人が自由に読み書きができていたのかというと、そうでもないようです。
志摩国の鳥羽町の寺子屋で使用された手本を分析した研究によると、入門者の半分以上は習った手本が5冊以下であり、候文を含めた文書の作成は難しかったと思われます。
陸奥国岩手郡篠木村の寺子屋師匠が残した『俗言集』には、百姓の子どもは半年から1年で辞めてしまう者も多く、農作業が忙しいとかその他の理由で来なくなってしまって、結果として読み書きを忘れてしまうという嘆きが書かれています。
宮本常一は、寺子屋に通った自分の祖父の話として「平生使いもしない字をならうのはつまらなかったという」(133p)と書いています。一方、外祖父は「大工になったので相当に読み書きができた」(134p)と書いており、文字を使う環境にいたかどうかが、その後の読み書きの能力に大きな影響を与えたようです。
農村の識字率についてはわからないことが多いですが、村請制が行われていたということは村には一定の読み書きできる層がいたと考えられます。
明治初期(明治7〜8年)に和歌山県が行った識字調査では、全住民を対象とした50ヶ村の調査で、男子の自署率は54.4%、その中で文通できる者は男子全体の10.2%ほどでした。
他の地域に関しても、この10%程度の層が村請制を支えていたと考えられます。
さらに江戸時代の後期になると、徘徊をはじめとして書、詩文、画などの文化活動を行う人々が増え、在村文化を形成していきます。
こうした趣味のネットワークが広がるに連れ、一定以上の層にとっては読み書きや教養が必須のものになり、大庄屋などになれば漢文の素養なども求められることになりました。
こうしたことから、近世日本のリテラシーは、「読めるか/読めないか」ではなく、一種のスペクトル状に展開していたと考えられます。
漢学や国学などを学ぶ層から、徘徊や和歌を楽しむ層、寺子屋で往来物を学んだ程度の層といった具合に、「識字」の中にもさまざまなレベルがあったのです。
明治になると学校において読み書きの教育が始まるわけですが、そうした中でいくつかの県において住民を対象にした自署率の調査が行われています。
本書では滋賀県、岡山県、鹿児島県の調査が紹介されていますが(159p図5−1)、まず目を引くのは滋賀県男子の自署率の高さです。1877年から一貫して90%近い自署率です。滋賀県の女子は1877年で4割程度、これが1893年には7割弱程度まで上がってきています。
一方、鹿児島県は1884年の時点で3割ちょっと、女子に至っては4%しかありません。岡山は滋賀と鹿児島の中間といった具合ですが、明治初期において地域の格差が相当に大きかったことがうかがえます。そして学校教育の普及とともに自署率は上がっていっています。
自署を超えるレベルはどうかというと、和歌山県の調査では、自署と文通についてそれぞれ可能かどうかを調べています(166p図5−2)。これによると、自署率に関しては村によってバラバラですが、文通率に関してはどの村も同じような値(5〜15%程度)になっています。これらが村請制を支えた層だと思われます。
こうした中で導入された学校制度ですが、これは明治政府の他の政策とともに身分制社会を否定するものでした。
江戸時代において子どもが職業的な能力を獲得していく過程は徒弟制的なものでしたが、学校では子どもたちを家庭や職場から切り離して教育するところに特徴があります。
1872年に発布された学制はアメリカのカリキュラムを手本としており、「小学教則」には究理(物理)、幾何、博学、化学、生理など、自然科学関係科目を含む28科目を配したものでした。
この従来の寺子屋教育を一掃するような野心的なやり方は人々のニーズと合っておらず、うまくいきませんでした。
学校で勉強させたのに手紙も書けないといった声もあがり、1881年の小学校教則綱領で、科目は修身、読書、習字、算術、唱歌、体操に再編されます。習字では、干支や地名、実用書類などについても教えられるようになり、寺子屋的な教育内容が復活することになります。
また、歴史や地理や理科などの内容が国語の中で教えられるという「内容主義の国語教育」の傾向が強まります。ここにもさまざまな事柄を往来物で教える寺子屋教育の残滓があったと言えるかもしれません。
明治なって言文一致も進みます。1900年頃から尋常小学校の教科書においても口語化が進み、1904年から国定教科書が導入されたことで口語化の流れは決定的になりました。
新聞の口語体が進むのが1920年代、公用文・法令・詔書などが口語化するのは戦後になってからであり、口語化については教育が大きく先行しています。
また、この時期には音読から黙読へという動きもありました。明治期には汽車の中や図書館で音読をしている人がいたことが知られていますが、次第にそうした場での音読は禁止されていきます。
ただし、著者は江戸時代の川柳「まくらゑを高らかによみしかられる」などから(「まくらゑ」とはエロティックな読み物)、江戸時代にも黙読はあり、必ずしも近世/近代で断絶したものではなかっただろうと分析しています。
最後に著者は、「生活綴方」を可能にしたのが鉛筆と安い西洋紙の普及だという指摘に触れ、ワープロ、そして音声入出力システムの普及が私たちの「読み書き」に大きな変化をもたらすのではないか? と述べています。
このように本書は日本語の読み書きの歴史を追いながら、同時に日本の教育や日本語の書記システムの特徴といったものも教えてくれる本です。
今のように活字に囲まれた世界では、字を一通り習えば、自然に読み書きができるようになると考えてしまいますが、話し言葉と書き言葉が分離した世界では、字だけではなくさまざまな約束事を同時に身につけることで、初めて「書く」ことができたのです。
「言われてみればその通り」ということを鮮やかに示した本だと言えるでしょう。

